ポチの実力

小さな萌が散歩で通り掛かった道端に、白い猫が現れた。

 その日は風が強かった。
 庭先の木々が斜めに撓り、千切れた緑の葉が道路に散って、路上にとめられたバイクのカバーは空気を抱いて、さながら風船のように右へ左へ煽られている。
 まだ少し頼りない足取りの萌が釘付けになったのは、変幻自在に形を変えるカバーの動きがまるで生きているように見えたから。
 興味津々という感じで瞳を輝かせながら、萌は自分へ向かって膨らむそれを小さな手でばんばんと叩いては笑い声を上げ、ヘコむのに合わせてえいやっと足を蹴り出した。
 カバーの下からひょいと何かが顔を出したのは、そんな遊びを二度三度繰り返した後だった。
 驚いて一歩後ろへ下がった萌を追うように現れたのは猫、それも全身を真っ白な毛に覆われた綺麗な猫だった。
 触りたい! 萌の関心はすぐに足元の生き物に移っていた。
 誘惑に負けた彼女がそっと手を伸ばすと、よく見れば凛々しい顔立ちの二つの目が、指先の動きをじっと見詰めて警戒している。
 死角を探してそろそろと場所を移したはずなのに、結局真正面に座り込んだ萌は、その目を覗き込みながら横から迂回させた腕をそろそろと伸ばしていった。
 そうっと、そうっと。
 やがて背中に触れた掌。萌は勇気を振り絞って、その手を毛並みに沿って撫で下ろした。
「触るんじゃねぇよ」
 大きな目をさらに大きくして、萌は尻餅を着いた。歓喜の声もどこかへ飛んでいた。
 身体をシュッとひと振りした猫は、怒ったように鼻を鳴らしている。
「ママー、猫がしゃべったー!」
 少し後ろをのんびりと歩いていた母親に駆け寄った萌は、「しゃべった! 猫がしゃべったんだよ」と大騒ぎだ。
「ホントに?」よく似た大きな瞳が娘の指先に向けられる。
 でも路面には枯葉が滑るだけで、姿は見えなくなっていた。
「あれぇ?」
「寒いから、行きましょ」
 忙しなく動き回る娘を捕まえて抱っこした母親は、掻き乱された髪を手櫛で直してやりながら、吹き荒(すさ)ぶ風から逃げるように足を速めた。

 翌日、萌は同じ場所へとやって来た。
 今日は風もなく穏やかで、カバーは生命を失ったように萎んでいる。
 その端を持ち上げては中に頭を突っ込んで、萌は必死に目を凝らした。
 しかしグレー掛かった覆いの中は真っ赤な大型バイクの車体だけ、猫の姿は見当たらない。
「いないなぁ」
 小さく息を吐いた彼女はそれでも道路をなぞり、家々の庭先を覗き込んで回る。
 カバーの隙間から出て来たのは、その直後。猫は周囲を窺うように上体を下げていた。
 笑いを堪えながら萌はポケットから取り出したお菓子を、目に入るように、でも少し高い位置に指で摘まんでぶら下げた。
「ニャー、ニャー。食べ物を持ってきたよ」
 猫は引き寄せられるように目の前に鎮座して、伸ばした前足で何度かタッチを繰り返すと、くんくんと鼻を近付けた。
 ゆらゆらと揺れるお菓子が引っ張られたのは突然だった。縁を銜えて獲物を奪取した猫は、アスファルトに押し付けたそれを音を立てて噛み砕いた。
 食べてる、食べてる。萌は声を出さずに手を合わせる。
「うまいんだなー」ちらりとこちらを見た時に、猫は確かにそう言った。
 ……やっぱり口をきいた。
 母親を振り返った萌は、慌てて早く早くと手招きをする。
 でも僅かに目を離したその隙に、やっぱり猫はいなくなっていた。

 そして又翌日。三たび萌の前に現れた猫は、「なんかくれよ」とエサを催促したのだった。

 ***

 制服姿の警察官が若い男に職質を掛けていた。彼が路上駐車のバイクの影に隠れるようにしゃがみ込んでいたからだ。
「名前は? 職業は?」
「林です。大学生です。怪しい者じゃありませんよ。僕はこのアパートの住人ですから……」
 背後の建物を指さしながら、それでも高圧的な警察官の態度に語尾が小さくなっていた。
「ふうん。で? そこで何してたの?」
 肩を落として困り顔になった林は、上目遣いにちらりと目をやった。
 黙っていても印象が悪くなるばかりで、解放して貰えそうにない。しかも……。
 林は携帯で時間を確認すると、諦めて口を開くことにした。
「実は……」
 数日前。小さな女の子が散歩で通り掛かった時、ふざけて、飼い猫のポチがしゃべったように装ったらとても喜んでくれた。
 もちろん一度きりのイタズラのつもりだったが、次の日、その子が必死でポチを捜すのを見てかわいそうになり、もう一度同じことをしてしまう。
 すると止めるきっかけを失って、毎日やる羽目になっていた、と。
 呆れたように顔を覗き込んでくる警察官に、赤面した林は返す言葉もない。しかも訝しげな表情は、自分の”供述”を信用しているようには見えなかった。
 説明を加えようと林が顔を上げた時、当の女の子が姿を現した。そろそろ来ると分かっていたからこそ隠れていたわけで、そこを見咎められてしまったのはタイミングが悪かったと言わざるを得ない。
「あの子です。お巡りさんは目立つんで、ちょっと奥へ行っててくれませんか?」
 抵抗する警察官を説得し、慌てて指を鳴らすと、どこからともなく現れた白猫が林の足下に寄り添ってごろごろと喉を鳴らした。
 小さなビニール袋を手にした萌は、いつものように辺りを見回しながら、猫が現れるのをじっと待っている。今日こそは正体を確かめようと母親も一緒だった。
 林がじゃれつくポチを宥めて喉の辺りを擦ってやると、か細い声でニャーとひと鳴きしたポチはのろのろと所定の場所まで移動し、お待たせという感じで萌の前に顔を出した。
「来た、来た! こっちにおいで」
 二人並んで手招きすると、近付いて来る猫の前に袋の中身を空けた。
 粉を撒き散らしながら、その小さな口がビスケット食べ始めると、萌は止めようとする母親を押し退けて、背中を優しく撫で始める。
 この間はあんなにイヤがったのに、今は餌に夢中なのかされるがままで気にした風もない。
 林はそんな二人の様子を眺めながら、セリフを考え、タイミングを見計らっていた。
 ふいに肩を叩かれ振り向くと、小さくなって後ろに並んだ警察官が、もう止めておけという風に首を横に振っている。
 ……そうだな。確かに潮時かもしれない。いずれ止めなければならないのだ。無言のまま頷いた林は、多分最後になるであろう彼らの成り行きを見守ることに決めた。
 
 二枚のビスケットをお腹に入れたポチは、前足に付いた粉を丁寧に嘗め終えると、お座りの姿勢になって二人の顔を見上げる。
「サンキュー」
「ほらね、しゃべったでしょう?」
 得意気な萌に母親は口もきけないでいる。
 礼は尽くしたと言わんばかりに尻を向けたポチは、立てた長いしっぽを振りながら悠然とその場を後にした。

 ***

 バイクの陰では、大の男が大きく口を開けたまま顔を突き合わせていた。
「何かしたのか?」互いに指し合った指先を見て、二人同時に首を振る。
 そんなバカな……。
 しゃがみ込んだままの親子に視線をやった二人が再び顔を見合わせても、まだ顎は下がったままになっていた。

ポチの実力

ポチの実力

小さな萌が散歩で通り掛かった道端に、白い猫が現れた。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-02

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