『シアワセ』方程式

 少女は夢を見ていた。
 父と母が笑っていて、自分も笑っている。そして、母の美味しい料理を三人で囲う。そんな温かい家庭。学校に行けば大好きな親友がいて、大好きな彼もいる。画に描いたような幸せがそこにはあった。まるで夢のような幸せ―……。


 ピリリリリ、とけたたましく鳴る携帯のアラーム音で目が覚める。アラームを止めて暫く目の前に見える自分の部屋の天井を見つめた。

 「夢、か……」

 誰に向けてでもなく小さくそう呟くと少女は上半身を起こして大きく伸びをする。カーテンの隙間から陽の光が射し込み朝だということをより実感させる。その光を見て少女は溜め息を一つついた。
 少女は朝が嫌いだ。同じ毎日が始まることを報せる朝が酷く不快に思えるのだ。だからといって朝がこないようにする、なんてことが出来ないのは百も千も承知だ。朝は必ずやってくる。つまり、溜め息は少女の毎朝の日課なのである。
 少女はベッドから出ると、着慣れた制服に腕を通す。いつもなら着替えている途中で母が起きているかを確認しに声を掛けてくるのだが今日はそれがない。それを不思議に思いながらもとくに気にせず着替えを済ませる。
いつも通りの起床、いつも通りの支度。何ら変わりない、いつも通りの一日が始まりだと、少女自身そう信じて疑わなかった。



 少女の名前は小野坂真子。公立の高校に通う二年生だ。家族はサラリーマンの父親と専業主婦の母親の三人暮らし。至って普通の家庭だが、真子はそれに不満を抱いたことはない。両親は優しく、一人っ子の真子にたくさんの愛情を注いでくれている。真子にとってはこれ以上にないくらい幸せな家庭だった。
家庭だけではない。真子には小学校からの仲である親友、高校から付き合い始めた恋人もいる。学校生活でも充実していた。画に描いたような幸せ、傍から見たらまさに真子はそんな毎日を送っていた。
しかし、真子にとってそんな毎日は何時しか本当に“画に描いたような幸せ”になっていた。それはまるで美術館で絵画を見るように、テレビでドラマを見るように、真子が観る世界には額縁があった。当たり前で変わり映えしない日々が退屈に思えてきた真子は毎日を客観的に観るようになってしまったのだ。見える日常はモノクロ、聴こえる会話は雑音。真子はそう捉えるようになっていた。


 「おはよう。……あれ?」

 支度を済ませていつも通り食卓に足を運ぶとそこには誰もいなかった。いつもならば真子より先にご飯を食べている父親と母親が居る筈なのだが、食卓どころかリビングにすらその姿は見当たらない。まだ寝ているのか、そう思ったがテーブルの上に朝食が作られていることから寝ているわけではないと真子は判断した。
 静まり返った家の中に、少し不安になりつつも朝食を摂ることにした。しかし、一人で食べる朝食は味気なく真子はすぐに箸を置いた。
 考えていても仕方ないと思った真子はいつもより少し早いが学校に行くことにした。

 「行ってきます」

 真子のその言葉に返事が返ってくることはなかった。


 地元の高校が良くて選んだのは、自転車で十五分の所にある普通の公立学校。それでも真子にとってある程度の受験勉強は必要だった。
 自転車で通学路を走る。
 空は雲ひとつない快晴だ。夏は過ぎたというのにまだ暑さが残っていて、なかなか衣替えができない。最近やっと風が涼しいと感じるようになったところだ。真子はそんな風を感じつつ、学校に向かう。
 学校まであと少しのところで真子は違和感を覚えた。
 たしかに自分は今日、いつもより早く家を出た。しかし、自分より早くに学校にいる生徒はたくさんいる。それなのに、学校までもうすぐのこの距離で生徒が誰一人いないのは可笑しい。
 さっきの家のことを思い出すが、思い違いと自分に言い聞かせる。しかし、ペダルを漕ぐ足は自然と速まった。
 今日は休日なんじゃないか、そう思える程学校は静かだった。真子は校門前に自転車を止め、校内へ走った。
 下駄箱、廊下、職員室、そして自分の教室。どこに行っても人はいなかった。

 「何で……?」

 走って乱れた呼吸はそのままに真子は小さく呟いた。
 教室の黒板に書かれた曜日は間違いなく学校があることを示していた。それでも学校には誰もいない。

 「そうだ。結衣は……?」

 少しだけ震える手で真子は鞄から携帯を取り出す。電話帳から親友の名前を探し出し、電話を掛ける。しかし、聞こえてきたのはツーツー、という無機質な音だけだった。真子は通話を切ると違う友人にも掛けてみるが、結果は同じだった。
 真子は膝から崩れる様にその場に座り込んだ。そして、今自分が措かれている状況に身震いをした。
 家にも学校にも誰もいない。こんなことがあるのだろうか。夢ではないのだろうか。そんなことが真子の頭の中をグルグルと回っている。試しに自分の頬を抓ってみると、痛みはあった。夢ではなく現実なのだ。
 真子は立ち上がって携帯を握りしめたまま走り出した。下駄箱で靴を履き替えて、先程校門前に止めた自転車に跨る。やはり、人はいない。携帯を鞄の中に放り込むと、自転車を走らせた。がむしゃらにペダルを漕ぐ。自転車はどんどんスピードを上げて見馴れた街を颯爽と通り抜けて行く。
 自分の家をも通り過ぎ、真子が向かったのは駅だった。確かめたかったのだ。本当に世界で自分一人だけになってしまったのかを。
 最寄の駅に辿り着くと自転車を止める。一番高いきっぷを買って改札を抜ける。
 駅は閑散としていた。この時間帯なら通勤、通学のサラリーマンや学生がいてもおかしくないのに、人一人いなかった。
 こんな状況で電車が動いているわけがないと思ったが、驚くことに一本の電車がホームに到着した。
電車が動いているということは誰かが操縦しているはずだ。そう思った真子は操縦席まで走る。しかし、そこは無人だった。
電車がひとりでに動くなんてことがあるのだろうか。その疑問は目の前の現実に打ち消された。
すると電車の扉が開く。真子は一瞬躊躇うも電車に乗り込んだ。

「貸切りみたい」

 自分以外は誰もいない車内に真子はそう思えた。座席に座ると、暫くして扉は閉まり、真子一人を乗せた電車はゆっくりと走り出した。


 小野坂真子は幼い頃から“独り”というものに無縁だった。真子の傍には必ず誰かがいて、真子もそれが当たり前だと思って育ってきたのだ。それ故に真子にとって現在のこの状況がなかなか受け入れられなかった。
電車に揺られながら真子はぼんやりと考えた。
どうしてこうなったのだろう、と。
 昨日だって普通に起床し、学校へ行き、帰ってきて晩ご飯を食べていつもと同じ時間に寝る。何ら変わりない一日だったはずなのだ。次の日に起きたら世界に自分しかいない、そんなことが起きる前兆なんかなかった。
悪い夢なら覚めて欲しい。そう願うが、これは現実であることを思い出す。さっき抓った頬に触れる。思いっきり抓った所為か、まだ微かに痛みが残っている。その小さな痛みだけでもこれが悪い夢でも何でもないことを思い知らされるには十分だった。
 真子はスカートの裾を握りしめる。皺になることを気にせずに強く、強く握りしめた。


 いつの間にか眠ってしまったらしい。気が付けば終点目前まで来ていた。どうせならば、と真子はそのまま終点まで乗ることにした。元々目的地は決めていなかった。とにかく人がいる所に行きたかったのだ。しかし、相変わらず真子以外誰もいない車内を見る限り人がいる所なんてないのではないかと思えてくる。
 すると、終点を報せるアナウンスが車内に流れた。車掌もいない電車で流れるアナウンスはあまりにも不自然だった。
終点である駅のホームに電車は止まり、扉が開くと、真子も鞄を持ち座席から立ち上がる。少し躊躇いながらもホームに降りると、そこには見覚えのある風景が広がっていた。
 真子はこの風景を知っていた。



「もうすぐ着くぞ!」

 その言葉にその場にいた全員が窓から外を眺めた。見渡す限りの青い海に全員の気分は高まる一方だった。
 それは真子が高校に入学して初めての夏休みの出来事だった。
クラスで仲の良い男女のグループ六人で海に行こうと夏休み前に話していた。真子と真子の親友もその中に含まれていた。そしてそれが実行された当日、いつもの六人の他に一人だけ見馴れない男子がいた。
 その男子の名前は高野翔太。仲の良いグループの一人でもなければ同じクラスですらない彼が何故いるのか、真子は不思議でならなかった。

「こいつ、高野翔太。隣のクラスなんだけど、仲良くしてやって」
「よろしくな」

 高野翔太、彼の噂は真子も聞いていた。入学して間もなくクラスの人気者で、中心人物であると。その噂は本当だったのか、翔太は人懐っこい笑顔で直ぐにグループに馴染んでいた。
 翔太を加えた一行は電車一本で行ける近場の海に遊びに来たのだ。
 


 今、真子が降りた駅こそ、その海の最寄り駅だった。

「何か、懐かしい」

 確かに一年以上は経っているが、真子にとってはずっと前のことのように感じられた。
 懐かしさに駆られた真子は改札口を抜けて歩きだした。うろ覚えながらも足は確実に海に近付いていた。潮の匂いが真子の鼻を掠める。浜辺へ下りる階段を見つけ、真子は走り出した。
まだ暑いとは言え、浜辺の風は冷たい。その冷たさが真子の頭を冷やしてくれる。朝から非現実な出来事に頭がずっと混乱していた所為か、冷たすぎる風が心地良く感じる。真子は鞄を枕にして浜辺に寝転がった。青い空が視界一面に広がる。陽の光が眩しくて、 真子は瞼を閉じた。


「俺と付き合って」

 いつの間にか他のみんなはいなくなっていて、荷物置き用に敷いたレジャーシートに座っていたのは真子と翔太だけになっていた。
 突然の翔太の言葉に真子は文字通り、固まった。そんな真子を気にする様子もなく、翔太は言葉を続けた。

「入学した時から気になってたんだ。それで今日無理言って仲間に入れてもらった」

翔太は少しだけ真子から視線を逸らす。真子は何が起きているのかわからなかった。
 人気者と言われている翔太。真子にとって高野翔太とは噂の対象だった。ただそれだけの認識で、それだけの存在だった。こんな機会がなければ話すこともなかったであろう人に突然告白されて戸惑わないわけがない。

「えっと……」
「いきなり、ごめん。その、友達からでもいいからさ」
「うん」

 真子のその返事に翔太は嬉しそうな笑顔を向けた。そして向けられた真子本人は混乱していた。
 真子は普通だ。特別可愛いわけでもないし、人を寄せ付ける何かを持っているわけでもない。至って平凡な女の子だ。それは真子自身が一番よくわかっている。だからこそ不思議でならないのだ。人気者である翔太が何故自分を好きになるのか理解できなかった。
 からかわれているのだろうか?何かの罰ゲームなのだろうか?そう思ったが翔太の目は真剣で本気であることがわかった。
 真子と翔太が付き合い始めたのはそれから一ヶ月後のことだった。


 懐かしいことを思い出し自然と口元が緩むのがわかる。結局は真子も翔太の人柄に惹かれ、付き合うに至ったのだ。真子が翔太に「好き」と告げた時の翔太の喜び様は今でもはっきりと覚えている。
 思い出に浸っていると、瞼の向こうの陽の光が遮られる気配がする。真子は不思議に思い目を開けると、さっきまでは視界一面青空だったのに、視界一面女の子になっていた。真子は驚いて目を見開くが、言葉が出てこない。そんな真子を気にも留めず目の前の女の子は笑顔で言った。

「おはよう。お姉ちゃん」

 真子は上半身をゆっくりと起こし、女の子を上から下までじっくり見る。
年は五、六歳だろうか。長い髪を高い位置で二つに結んで、水色のワンピースを着ている。どこにでも居そうな普通の女の子だ。
自分以外にも人が存在した。真子はただその事実に驚くばかりだった。家や学校、ここに来るまでの経路で人なんて全く存在しなかったのに。

「お姉ちゃん?どうしたの?」

 何も言わない真子に、少女は不思議そうに真子の顔を覗き込んだ。

「あなたは誰?どうしてここにいるの?」

 いきなり現れた少女に思わず警戒する。しかし、少女は笑顔で真子の問い掛けに答えた。

「マコはマコだよ?パパとママとあそびにきたの」
「マコ……?」

 自分と同じ名前の少女を不審に思うが、すぐにある違和感を覚える。真子はその少女に見覚えがあるのだ。

「ねぇ、マコちゃん」
「なぁに?」
「あなた、苗字は何?」
「オノサカ!オノサカマコだよ!」
「……」
 
 オノサカマコ。それは紛れもなく自分の名前だ。見覚えがあるこの少女は、過去の幼い自分だったのだ。自分は確かにここに居るのに、と思うがその考えをすぐに頭から振り払った。何故なら、ここは“そういう”世界じゃないか。“日常”では決してないのだ。
そこで真子はさっきマコが言っていたことを思い出す。

「マコちゃん。お父さんとお母さんは?」

 パパとママと遊びに来た、と言うならばどこかに自分の父親と母親が居る筈だ。しかし、辺りを見回してもそれらしき人影は見つからない。

「マコ、パパとママとはぐれちゃったの」
「迷子なの?」
「うん。だからパパとママさがしてるんだぁ」
 
 僅かな希望も消え、真子は小さく溜め息を吐いた。自分だけじゃなくなったとはいえ、もう一人は幼い自分だ。この状況をマコがどうにか出来るとは思えない。

「ねぇ、お姉ちゃんはおぼえてる?」
「何を?」

 マコの唐突な質問に真子は首を傾げた。すると、さっきまでニコニコと笑っていたのにその顔からは笑顔が消え、真っ直ぐ真子を見つめていた。

「マコがここでまいごになったこと、お姉ちゃんはおぼえてる?」
「どういう、意味……?」

 マコの言っている意味が分からなくて、真子はさらに首を傾げる。しかし、マコはそれ以上何も言う気はないのか、ただひたすらに真子を見つめてくる。もう一度マコに問おうとした時、真子はマコが言う意味を理解した。マコは真子自身なのだ。つまり、マコは真子が幼い時にこの海で迷子になったことを覚えているか?と訊いていたのだ。しかし、真子にはその記憶がなかった。

「覚えてないなぁ。迷子になったっけ?」
「やっぱり」
「え?」

 マコは小さく呟くと勢いよく真子の制服を掴んだ。

「お姉ちゃん、おもいだしてよ!」
「え、どうして?」

 マコの気迫に真子は一瞬たじろぐが、思い出せと言われて思い出せるものでもない。それに、そんなに言う程思い出さなくてはならない記憶だとは思えなかった。

「だめだよ。わすれちゃったら」
「マコ、ちゃん?」
「おもいだして」

 マコはじっと真子の目を見つめてくる。すると、真子の視界が歪み出す。

「え……」

 真子はそのまま意識を手離した。



 真子が五歳になる年の夏、真子は家族でこの海に遊びに来ていた。近場とは言え、家族揃っての外出に真子ははしゃいでいた。時季も重なり人が多く、真子はいつの間にか父親と母親と逸れてしまったのだ。

「パパ?ママ?」

 辺りを見回しても両親の姿は見つからず、真子は不安になっていた。子供ながらに、このまま両親と会えず一人ぼっちになってしまうのではないか、そんなことを考えていた。
 どうすることも出来ず自然と涙が溢れてくる。真子はその場で泣き崩れた。

「パパぁ!ママぁ!」

 泣き叫んでも両親が見つかるわけもなく、真子はより一層不安になっていた。人通りの少ない浜辺で真子は一人泣き続けた。すると、聞き慣れた声が真子の名前を呼ぶ。

「真子っ!真子っ!どこなの?」

 母親が自分を探す声が聞こえ、真子は泣くのを止めると、声のする方へ走り出した。

「ママっ!」
「真子!」

 母親の姿を見つけると思い切り母親の胸に飛び込んだ。母親も真子を受け止め、力一杯抱き締める。その瞬間、真子は安心に包まれた。一人ぼっちじゃなくなったこと、自分は独りじゃないということに、安心したのだ。
 この日初めて“孤独”を知った真子は、いつも側にいてくれる両親の存在の大きさを実感した。そして真子は成長するにつれてこの日のことを忘れ、いつしかこの海での思い出は高野翔太とのものになっていたのだ。


「おもいだしてくれた?」

 目が覚めた真子にマコは唐突に訊いてくる。さっきまでとは別人のような笑顔で。まだぼんやりする頭で真子はこくり、と頷いた。

「そっか!よかった!」

 そう言うとマコは立ち上がり、その小さな手を差し出して真子に言った。

「お姉ちゃん。おうちにかえろう?」


 いつの間にか陽が落ち始めていた。橙色の海を背後に真子とマコは車も自転車も走っていない道路を歩いていた。
 真子は嬉しそうに自分の手を繋ぎながら鼻歌を歌うマコを横目で見た。
 何故、あんな記憶を思い出させたのだろう?そんな疑問ばかりが真子の頭の中を巡る。思い出した今でもやっぱり、あの記憶がそれ程大事なものだったのか真子には理解できなかった。真子は思い出させた本人に訊いてみることにした。

「マコちゃん。何で私が迷子になった時のことを思い出して欲しかったの?」
「ねぇ、お姉ちゃんは今、しあわせ?」

 質問に質問で返された。
 しかし、ニコニコと笑うマコを見て仕方なく答えることにした。

「幸せ、なのかな?わからないんだよね」
「なんで?」
「別に嫌なことがあるわけじゃないの。でも、特別なこともない。毎日が同じように過ぎていくだけなの」

 幸せと言うには物足りなくて、不幸と言うには大袈裟過ぎる。そんな中途半端な毎日を「幸せ」と即答することは出来なかった。

「まいにち同じはいやなの?」
「うん。退屈で嫌かな」
「たいくつ?」
「そう。つまらないの」

 そこまで言って真子は止める。幼い時の自分とは言え、子ども相手に何を言っているのだろう、と心の中で溜め息をついた。すると、マコは真子と繋がれている手に小さく力を強めた。

「マコはね、まいにち楽しいよ」
「そっか。良かったね」

 確かに、マコくらいの時の自分は毎日笑って、泣いて、怒って、日々を過ごしていた記憶が真子にはあった。”楽しかった“毎日だった。そんなことを考えながら、真子はあることに気付いた。自分の問いには答えてもらっていないことを。こんな小さな子に誤魔化されたのか、と真子は再び心の中で溜め息をついた。

「お姉ちゃん、でんしゃ来てるよ!」
「あ、うん」

 真子は手ぶらで何も持っていないマコと自分の分の切符を買い、来た時と同じ様に誰もいない電車にふたりで乗り込んだ。電車に乗ると、マコは繋いでいた手を離し飛び乗る様にして座席に座った。

「うわぁ、海!見えるよ!」

 一人ではしゃいでいるマコを見ながら真子も座席に座った。二人を乗せた電車はゆっくりと走り出した。
 さっきまで目の前に広がっていた青かった海は今では橙に染まり、どんどん遠のいていく。そんな海を真子はぼんやりと眺めていた。
 隣に座るマコはいつの間にか真子の腕に寄りかかって寝てしまっている。手を繋いでいた時も、今この時も、マコから伝わる温もりでこの“マコ”という人物がちゃんと存在していることを実感する。

「幸せか……」

 真子にはわからなくなっていた。“幸せ”とは何なのかが。
 幸せかは分からないが満足はしていない、さっきマコに問われ真子はそう答えた。しかし、その答えすら自分でも納得していなかった。納得する答えが見つからないのだ。

 「数学の宿題より難しい」

 本来なら今日の授業で提出する筈だった数学の宿題を思い浮かべて真子は苦笑した。

「私は幸せなのかな?」

 例えば、お金持ちになったら。例えば、有名人に会えたら。例えば、願いを三つ叶えてくれたら。それは真子にとって幸せなのか、そう訊かれたところで真子は素直に「幸せ」と答えられるかわからなかった。確かに、お金持ちになったり、有名人に会ったりするのは今の自分では無理に等しく、憧れはする。しかし、そうでなくても今まで何とも思わなかったのだ。
 真子にとっての“幸せ”とはそういうものじゃない気がするのだ。

「幸せって思えないのは、やっぱり退屈だからなのかな」

 真子が幸せと言えない原因は毎日が同じで退屈だからである。毎日同じ時間に起きて、学校に行って、帰って寝るだけの生活が退屈で仕方ないのだ。
 真子はいつも望んでいた。“いつもと違う日”を。ワクワクするような非日常を。心のどこかで望んでいたのだ。
 そこまで考えて真子は気付いた。

「あぁ、そうか。この世界は私が望んだ世界だったんだ」



 地元に着いた時には空は既に薄暗くなっていた。
 まだ眠いのか、なかなか起きないマコを仕方なく真子はおぶって家への道のりをゆっくり歩いていた。駅に止めた自転車はまた明日にでも取りに来よう、と考えてふと思う。

「明日はどうなるんだろう」

 明日になったら元に戻っているのだろうか。それとも明日もまだこのままなのだろうか。すぐ先の未来に不安を覚えた。

「ん、ゆいちゃん…?」
「起きた?」

 背中のマコが呟く声が聞こえて真子は声を掛けた。

「……お姉ちゃん?」
「そうだよ。どうかした?」
「ううん。ゆいちゃんかと、おもったの」
「結衣?」

 その名前に一瞬真子は足を止めそうになる。
 マコの言う“ゆいちゃん”はきっと真子の親友である吉野結衣のことだろう。真子はいつも一緒にいる親友の顔を思い浮かべた。

「このまえ、ゆいちゃんがおんぶしてくれたんだ。マコ、ころんじゃって」
「ふふ、そんなこともあったね」

 はっきりとは思い出せなくても、そんなこともあったと、真子は小さく笑った。



 幼い頃からずっと一緒にいた真子と結衣。その日もいつもと同じように二人で公園で遊んでいた時だった。真子は段差に躓いて転んだ拍子に膝を擦り剥いてしまった。膝からは血が出て、ズキズキと痛むそれに真子は泣き出した。

「まこ、だいじょうぶ?」

 結衣の問い掛けに真子は泣きじゃくって首を横に振るだけだった。

「ちょっとまってて!」

 そう言って結衣はどこかに行ってしまった。膝の痛みと一人にされた不安で真子の目からは涙が溢れて止まらない。すると、結衣は何かを握りしめ戻ってきた。

「ほら、ふいてあげる」

 結衣が差し出したのは濡れた結衣のハンカチだった。結衣はそれを真子の傷口に当て、血を拭き取る。真子は泣きながらも結衣のその行動を眺めていた。

「きれいになったよ!だからもう泣かないで」
「う、ん……」
「はい」

短くそう言うと、結衣は真子に背中を向けてしゃがんだ。真子はその行動の意味がわからなくて首を傾げていたら、結衣が顔だけ真子に向けて言った。

「あたしがおぶってかえってあげる」
「え、だいじょうぶだよ?あるけるよ」
「いいから」

 結衣の押しに負け、真子は結衣の背中に身体を預けた。結衣は真子を落とさないように立ち上がると、ゆっくりと歩きだした。ゆらゆらと揺られながら真子は結衣の小さな肩に乗せた手にきゅっ、と力を込めた。



 段々と明確になってくる記憶に真子はまた小さく笑った。
 結衣は小さい頃から世話焼きな性分だった。物心付いた時から一緒だった結衣と真子は姉妹の様に育ってきた。結衣は本当に真子の姉の様な存在だ。何をするにも真子の傍には結衣が居て、姉妹というよりは双子に近かった。  
結衣は心配症でもある。時には本当の親よりも過保護なのではないかと、思ったこともあるくらいだ。しかし、真子はそれを嫌悪に思ったことはない。全ては結衣の好意からの厚意なのだ。結衣が自分に世話を焼いてくれているということは、結衣が自分を好いてくれている証拠だ。


 結衣が自分を好いてくれているのはよくわかっていた。小学校、中学校と一緒だった。結衣は頭が良い。さすがに高校は別々になるだろう、と真子は思っていた。しかし、結衣は真子と同じ高校を志望したのだ。担任に考え直すように言われても、結衣は志望校を変えなかった。そんな結衣に真子は訊いた。何故、もっと上の高校に行かないのか、と。結衣はさも当たり前のように返した。

「だって真子と一緒にいたいもん」

 自分の為に周囲の期待を振り切って同じ高校を志望した結衣に真子は驚いたのと同時に、嬉しかったのだ。自分が思っている以上に結衣が自分を想っていることが。
 小さい頃から結衣は真子を大切に思っていた。本当の妹の様に可愛がり、そして守ってきたのだ。それは誰かに強制されたことではなく、結衣が自ら決めたことだった。
 真子は自分が守る、と。
 高校一年生の夏休みが終わり、二学期を迎えて一ヶ月が経った頃、真子は翔太と付き合い始めたことを結衣に報告した。誰よりも先に、親友である結衣に報告したのだ。結衣ならきっと自分のことの様に喜んでくれる、真子はそう思っていた。しかし、結衣の反応はそれと間逆だった。

「高野翔太と付き合うことになった…?」
「うん」
「冗談、でしょ?」
「本当だよ」

 喜んでくれると思っていた真子は結衣の反応に戸惑った。俯いている結衣から表情は窺えず、声はどこか冷めていた。

「真子から告白したの?」
「ううん。高野くんから」

 真子がそう言った瞬間、結衣は顔を上げ真子の肩に掴みかかった。

「高野なんてやめなよ!絶対からかわれてるんだよ!」
「結衣…?」
「最近やたらと真子に話し掛けてくるなとは思ってたけど、そういうことだったんだ」
 
 真子は思わず苦笑してしまった。
 結衣は真子を心配してくれているのだ。今まで恋人などいたことのない真子は翔太が初めての彼氏だった。そして、その翔太は誰からにでも慕われるような人だ。殆ど接点のない、平々凡々な真子と付き合うなんて、結衣にとっては翔太にからかわれているとしか思えないのだ。
 全ては結衣が真子を思ってのことだと、真子自身もわかっている。そして、真子でさえ翔太に告白された時はからかわれているのではないかと思ったくらいだ。結衣にそう言われても仕方ない。しかし、翔太の気持ちが本気だということも、海で告白されてから付き合うまでの一ヶ月で真子は十分に理解していた。それ故に結衣の言葉を否定しようとしたら、後ろから声がした。

「俺、からかってなんかないから」
「高野くん……」

 真子の後ろから話しに入ってきたのは会話の中心人物だった。翔太の登場に結衣の眉間には皺が寄る。それを気にせず、翔太は真剣な顔をして結衣に言った。

「確かに、俺ら全く接点なかったし、ちゃんと喋ったのだって海の時が初めてだったけど俺は本当に小野坂が好きだよ」
「そう言うのは簡単よね」

 翔太の言葉なんか信じない、とでも言う様に結衣はそう吐き捨てた。二人の険悪な雰囲気に真子は口も挟めず、ただ戸惑うばかりだった。

「どうしたら納得してくれんの?」
「どうしたって納得しないわよ!」

 結衣の声が一際大きくなり、放課後とは言え、生徒の数人が教室に残っていた。そんなクラスメイトも三人に注目する。真子も驚いて結衣を見た。

「今まで大切に守ってきたっていうのに!何でいきなり現れた男に取られなくちゃならないのよ!」
「結衣……」
「ずっと、ずっと…私が、傍に居たのよ。守って、きたのよ……」

 がたん、と音を立てて後ろにあった椅子に座り込んだ結衣。俯いていて表情は見えないが、肩が震えているのが分かる。それを見て、真子も翔太も何も言えなくなった。長い沈黙の後、口を開いたのは翔太だった。

「ごめん……」
「何?何の謝罪?真子と別れてくれんの?」
「違っ…!」
「じゃあ謝らないでよ!」

 違う、と言いかけた翔太の言葉を遮るように結衣が言うが、その視線は未だに地面に向けられていた。そんな結衣を真子は目に涙を浮かべながら優しく抱き締めた。一瞬、肩が小さく震えただけで結衣はそれを受け入れた。そして真子は小さい子をあやす様に話し始めた。

「結衣、大丈夫だよ。私は結衣から離れたりなんかしない。これからも結衣の傍に居るよ。だから、泣かないで?」
「……」
「私の親友はこの世界で結衣だけだよ。この気持ちは絶対に変わったりなんかしない」
真子の言葉に結衣はゆっくり顔を上げた。その目には真子と同じ様に涙を浮かべており、頬にはそれが流れた痕があった。
「……私は絶対に認めないんだから」
「うん」
「いっぱい邪魔してやるんだから」
「うん」
「真子の一番は、私なんだから」
「うん!」

 真子が笑うと、結衣も笑った。翔太もほっとしたのか、安堵の息を吐いた。それに反応したように結衣が翔太を睨んで言った。

「真子は絶対にあんたなんかに渡さないんだから!」
「というか、もう付き合ってんだけど」
「絶対別れさせる!」
「じゃあ、俺は絶対認めさせるよ」

 結衣の宣言に対抗した翔太の宣言。それに結衣はまた怒り、真子と翔太が笑う。
 それからと言うものの、結衣は本当に事あるごとに二人の邪魔をしている。真子と翔太を話していても間に入ってきたり、二人のデートにも付いてくる。そしてその度に結衣と翔太は言い合い、真子を取りあう。それは真子と翔太が付き合って一年経つ今でも変わっていない。真子も最初は言い合う二人を止めたりしていたが、今は慣れてしまい呆れながら傍観している。しかし、真子はそれが嫌じゃない。二人の言い合いは面白いし、何より二人共自分を想ってのことだから。言い合いをしている二人には悪いと思いながらも、真子は内心三人で過ごす時間を楽しんでいたのだ。


 真子の頬に一筋の涙が流れる。

「そう、だよ……」

 誰に言うでもなく、ただ自分に向けて呟いた。しかし、その呟きは真子に背負われていたマコにはしっかりと聞こえていた。

「お姉ちゃん?どうしたの?」
「ねぇ、マコちゃん」
「なあに?」
「マコちゃんはどうして、この世界に来たの?」
 
 真子の問い掛けに、真子の両肩に置いている小さな手に少しだけ力が入った。

「マコはね、お姉ちゃんがわすれちゃった大切なことを思い出させにきたの」

 そう言ったマコは今までで一番、年相応に思えない程大人びた声をしていた。そして、それに対して真子も冷静だった。

「そっか」

 冷静に答えられたのは、マコの言っている意味が今なら分かる気がするからだろう。マコが言う、真子が忘れてしまった大切なこと、それはあまりに単純でとても近くにあったものだ。

「マコちゃん、ここはね私が望んだ世界なの。非日常を望んだ、私の世界。でも、違ったんだ」
「なにが?」
「何もかも、間違ってた」

 真子は自嘲気味にそう言った。真子の言葉にマコは首を傾げた。しかし、背負われている状態のマコのその行動は真子に見えなく、真子は言葉を続けた。

「私は毎日が退屈で、そんな毎日から脱却したくて非日常を望んだの。そしてこの世界に来ていた」
「…本当に、ここはお姉ちゃんが望んだ世界?」
「ううん、全然違う。私はこんな世界、望んでいなかった。そもそも、毎日が退屈って思っていたことすら、間違いだったの」

 どれだけ歩いたのだろうか。ずっと話していたから気付かなかったが、二人は既に真子の家の前まで来ていた。

「家、着いたね」
「うん」

 真子はゆっくりとマコを下ろすと、立膝を着いてマコと目線を合わせる。

「ありがとう、マコちゃん」
「え?」
「マコちゃんのお陰で、本当に大切なこと思い出したよ」
「ほんとに?」
「うん。マコちゃんが両親のことも結衣のこともいっぱい思い出させてくれた」

 真子の言葉にマコは笑顔で良かった、と言った。マコが思い出させてくれた記憶はどれも本当に些細なもので、忘れてしまってもおかしくないものだった。だからこそ、思い出した時に、その記憶を共有している相手の存在を改めて認識し、実感するのだ。

「マコちゃんの思い出に翔太が出てこないのは、まだ貴女が翔太を知らないからだよね?」
「しょうた…?だれ?」

 やっぱり、と真子は笑った。翔太と出会ったのは高校に入ってからだ。幼いマコが翔太のことを知らなくて当たり前だった。そして、知らないということは翔太との記憶もない。それ故に、マコが思い出させてくれた記憶は両親と結衣のものだけだった。

「翔太もね、私の大切な人なんだ」
「大切な人…?」
「そう。マコちゃんにもいつかわかるよ」

 マコはまだ納得してないような顔をしていたが、真子はそれ以上何も言わなかった。何れマコにも分かることだと思ったから。翔太が両親や結衣と同じくらい大切な存在になることを。

「でも、私もこれで分かった気がする。自分の“幸せ”が何なのか」

 真子は立ち上がって、ぐっと腕を伸ばした。

「私の“幸せ”って本当に些細なことだったんだなぁ」
「ささいな幸せはイヤ?」
「ううん、嫌じゃない」

 寧ろ、些細なことが“幸せ”と言える自分は本当に“幸せ”なんだと感じる。
 “幸せ”は人それぞれで、小さかったり大きかったりする。大きい“幸せ”は大変だ。掴むのに苦労するばかり。でも小さい“幸せ”なら掴んで、掌に納めてずっと大切に出来る。真子はそれで良いと思うのだ。どんなに小さくても幸せは幸せ。そう感じられることが嬉しいのだ。

「お姉ちゃんの“幸せ”ってなに?」

 その質問は、この短いようで長い一日の中で何度繰り返された自問自答とまるで同じだった。そして、自問自答と言いながらも答えが出ることはなかった。しかし、今の真子は胸を張って言える気がした。

「在り来たりな毎日が続くこと!」

 その答えに満足したのか、マコは笑顔で言った。

「もうぜったいに忘れちゃダメだよ?」

 そう言うと、マコの身体がどんどん薄れていく。真子は急いで手を伸ばすが、もう実体はなく、真子の手は空を掠めるだけだった。
 真子は行き場の無くなった手をもう一方の手で握りしめ、マコに言った。

「マコちゃん、ありがとう」

そう言うのと同時に、マコは消えた。


 世界に自分一人だけという世界を作り出したのは紛れもなく真子自身だった。非日常に憧れ、そして本当の幸せを忘れてしまった少女の過ちを咎めるかのようにその世界は現れた。そういった状況になって真子は初めて知ることになったのだ。自分が退屈だと、つまらないと思っていた毎日が如何に自分にとって大切な、“幸せ”な毎日だったかを。
 退屈が幸せなのかと訊かれたら、何とも言えないだろう。しかし、どんなに退屈でも同じ毎日でも両親がいて、結衣がいて、翔太もいる。在り来たりな毎日の中に大切な人達が真子の傍に居てくれて、笑っている。それが小野坂真子にとっての”幸せ”なのだ。




 ピリリリリ、とけたたましく鳴る携帯のアラーム音で目が覚める。アラームを止めて真子はゆっくりと起き上った。カーテンを開けると陽射しの眩しさに目を細める。

「真子?起きてる?」

 扉の向こうから母親の声が聞こえてきて、真子は勢いよくドアを開けた。

「お母さん、おはよう!」
「おはよう。あら、なあに?今日は随分元気ね」
「うん!」
「良いことだわ。じゃあ、早く着替えてリビングにいらっしゃい。朝ご飯、もう出来てるわよ」
「はーい!」

 母親の背中を見送って、真子は扉を閉める。そして制服に着替え、リビングへ行こうとドアノブに手を掛けて真子はそのまま止まった。
 また同じ毎日が始まる。しかし、不思議と溜め息は出てこなかった。それはきっと、真子から見えるこの世界が今までのモノクロームの世界とは違って、色付いて見えるからだろう。

「よし!」

真子は一度大きく深呼吸すると、ドアを開けた。

『シアワセ』方程式

取り敢えず初投稿です。

在り来たりなお話。
感想戴けたら幸いです。

『シアワセ』方程式

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-02

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