アクアリウム
「ねぇ、シンジ。どこよ?ここ」
「だからやめようって言ったんだよ、やみくもに歩き回るのは」
ミサトさん達を探しに発令所を出てどのくらい経ったんだろう。
アスカの歩みは意外と早く、着いていくのが精一杯だった。今まで辿ってきたルートは覚えていない。
「司令室に戻ろうよ。また使徒が来たりしたら大変だし、ねっ?」
「……戻れるんならとっくに戻ってるわよ」
『とっくに』の言葉で、発令所に帰れる希望は既に途絶えていた事を理解した。今の僕らは完全に迷子。アスカはそれでも構わず前に進む。僕はそれにすがるように着いて行く。通路にはカツーンカツーンと僕らの足音しか聞こえない。使徒戦が起きて停電が起きたこの状況、ネルフの皆は緊急対応で現場につきっきり。何処に繋がっているか分からないこの通路で誰かとすれ違う可能性は0に等しい気がする。
「ねぇ、シンジ」
「なに?」
「あんたファーストとはキスしたの?」
バランス感覚を失い、僕は通路の横脇に聳え立つパイプに頭をぶつけた。鈍い音が通路に響く。ぶつけたところが痛くて手で撫でながら質問の意味について質問返しをする。
「なに言い出すんだよ急にっ!」
「あら、だってあんた達つき合ってんでしょ?あんな人形みたいな子のどこがいいのか知んないけど」
「ばっ!勝手に誤解すんなよ!僕と綾波はそんなんじゃないよ!」
「あらな~んだ、そうなの?へぇ~」
アスカは意外そうな顔で答えた。僕は額を押さえながらアスカの答えを否定しながら頭の片隅で綾波を思い出していた。
「そうなんだよ……違うんだ、綾波は」
そんな簡単な言葉じゃ言い表せない。
なんて言ったらいいんだろう。
どこか遠い昔に引き裂かれたような自分の一部のような。
「そうよね、このあたしがまだなのにあんたにキスの経験があるワケないわよね~」
甲高い声で笑うアスカを見て、少しムッとした。女の子との経験なんかまだまだ早いお子ちゃまですからね、とバカにされているようで。だけど、アスカの次の言葉でその不機嫌は一気に吹き飛んだ。
「じゃ、あたしとしてみる?」
「えっ!?」
道の先を照らしていたライトが振り向き僕を照らした。眩しくて目をしかめる。アスカは僕の反応を見てライトを少し下げた。眩しさから開放された僕は改めてアスカに反論する。
だってさっきまで使徒と戦ってたんだよ?今は停電中で、ミサトさん達を探して迷子なこんな緊急時に冗談半分のようなキスするなんて…………バカげてる。絶対バカげてる。
「な、なにバカなこと言ってんだよっ!」
「へぇー、怖いんだ。ただの遊びなのに。やっぱあんたって臆病者ね。ま、最初から分かっていたけど」
そんな訳ないだろっ!と言おうとした時、僕は気づいた。振り向いて前を向いたアスカ、その背中が強張ってる事に。
…………震えてる?
怖い?
遊び?
臆病者?
僕が?
違う、そうじゃないと言い聞かせたいんだ、アスカ自身が。
「……臆病なのはアスカだろ?」
「はぁ?!何言ってんのよォ!」
「強がらなくてもいいんだよ。人はみんな恐怖や憎しみを抱えて生きてるんだから」
僕は父さんの気持ちが分からない。実の親子なのにどこまで踏み入れていいのか迷う。
ミサトさんも父親の呪縛から逃れる為に使徒と戦ってる。
そう、誰もが、使徒という目に見える敵から目に見えない人の気持ち、様々な不安と戦ってる。
同じものを見て僕は心から笑っても、隣の人は作り笑いで違う何かを思ってるかもしれない。
『人と人とが完全に理解することはできない』
父さんは言った。この暗闇のように、人の気持ちは見えないもの。
近づくと遠ざかる、人の距離
だから届かないものだと諦めるべき?
悲しい生き物だと自分を認めるべき?
そんなの嫌だ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメなんだ。
呪文のように繰り返す僕の言葉は人と生きる為の暗示なのかもしれない。
自分が抱えた不安と恐怖を乗り越える為に、もがいて生きていく。
時間が止まったかのように僕らは動かず、言葉が出てこなかった静けさがこの空間を支配する。
アスカは自分の気持ちを当てられて返す言葉が見つからないようだった。動揺しているように見えた。
「……天下無敵のアスカ様がこんなしょぼい男をファーストキスの相手にしていいの?」
「んなわけ、ないでしょっ!私の始めては加持さんに捧げるって決めてるんだからっ!」
ちょっと小バカにした笑い方で挑発したらすぐに乗ってきた。
震えが止まってる。よかった、いつものアスカに戻った。僕は自然に右手をアスカに差し伸べた。
「なら行こう、加持さんを探しに」
加持さんが見つかれば僕なんか必要じゃなくなる。
でも、ここにいるアスカは加持さんがいなくて、不安で怖がっている。
そんなアスカの傍にいる僕が与えれる右手の掌分だけ。ぬくもりは小さい。だけど、そのほんのちょっとのぬくもりでアスカは何倍にも強くなるって知ってる。
「あんたに言われなくても分かってるわよっ!」
僕の右手を握る、と言うより手首を掴んで「とっとと行くわよ、バカシンジ!」と強引に前に進んで行く。いきなり引っ張られて僕は体制が崩れそうになった。
何とか足に力を入れて踏ん張り、先を行くアスカに追いつく。隣り合って手を繋ぎ直して歩きながら僕は願った。
恐怖や不安を取り除く希望という星がアスカの元に訪れますように、と。
アクアリウム