Angel falling

Angel falling

「ごめんなさい」


 小さな声。
 降り続く雪の積もる音に消えてしまいそうな、かすれた声。


 彼女の小さな体は、微かに震えているように見えた。
 微かに震える彼女のベージュ色のコートの肩、白い雪が降っていた。
 ストレートの黒い髪を覆うように、大粒の雪がわずかに積もっていた。


 白く雪をわずかに被り、うつむいた彼女の顔は僕には見えなかった。
 震えていたように見えた彼女は、泣いていたのだろうか。
 笑っていたのだろうか。
 それとも、あの白い雪の中、寒さに震えていただけだったのだろうか。 


 分からない。
 ぼくには分からない。
 彼女はうつむいたまま顔を上げることもなく
 ぼくはただ彼女を見ていただけで


 どうして彼女は急にそんな言葉を言ったのだろう。
 ぼくが何かを言ったからなのだろうか。
 ぼくには分からない。
 全然思い出せない。
 でも


 彼女はそのまま、走り去っていった。
 ぼくはただ、黙ってその後ろ姿を見つめていた。


 白い雪が灰色の空から降り続いていた。
 駆けていく彼女のベージュ色のコートが、白い街並みの中を小さく、小さくなって
 白い雪の中に小さなその背中が消えていくのを


 ぼくはだんだんと重みを増す傘を持ったまま
 白い雪の中に消えていく彼女の姿を見送っていた。


『また、明日』


 ぼくが言った言葉。
 雪の中、小さく消えていく彼女を見つめてぼくが言った言葉。


 いや、違う。
 言おうとしただけのはずだ。
 多分、ぼくは言おうとしただけで。


 それとも、ぼくは彼女にその言葉を言ったのかもしれない。
 ぼくには分からない。
 全然思い出せない。
 でも


 その言葉は彼女には届かなかった。
 その晩、彼女は自宅のあるマンションの屋上から飛び降りた。


 ぼくがそれを知ったのは、次の日の朝のことだった。
 白い雪に埋もれた、冷たい朝だった。
 息も言葉も凍ってしまう冷たい朝だった。


 17才の、クリスマスの朝だった。


-----  -----  -----



 夕方から降り出した雨は、オレがマンションにたどり着いてもまだ降り続いていた。
 エントランスで傘を閉じ、2,3度振って露を払う。
 濡れたコートは冷たく、そして重かった。

「……はあ」

 オレは息をついて、ガラス越しに空を見上げた。
 冷たい、黒い空から落ちてくる雨。
 絶え間なく降る雨の音が、カーテンのようにあたりを包んでいた。
 いつもは聞こえる街のざわめきも雨のカーテンにかき消され、聞こえるのは雨の音。そして、通り過ぎる車が轍の水を弾く音。かすかに聞こえる、遠ざかっているクリスマスソング……

 クリスマス
 重いコート
 凍る朝の光
 雪……

 オレは首を振った。
 クリスマスは嫌いだ。
 クリスマス…は……

 疲れた重い足を引きずって、エントランスを歩く。
 年末に向けて続く残業は、もう何日目だ?
 紺屋はもう、ファミレスに夕食を食べに行く気力もない。コンビニまで行く気力も。
 いや、ものを食べる気力も……今は。

 溜息をついて、郵便受けに手を伸ばす。
 意味がないことと分かってはいるが、帰宅時の日課。
 郵便など、来るはずがない。誰もオレがここにいることなど知らない。誰も……

カサッ

 指先に、小さな紙の感触。
 多分、チラシだろう。そう思って引っ張り出したオレの手の中にあったのは、白く四角い紙……ハガキ。
 確認してみると、宛先は確かに間違いない。
 そのまま、裏に返したオレの目に大きな文字が映った。

『同窓会』

 何も感じない。
 いや、違う。感じる……軋み。

 いつの間にか、オレはハガキを握りしめていた。
 青白い蛍光灯の下、幹事の名前が見えた。

 知らない名前。
 いや、元からクラスの誰であれ、名前など覚えていない。
 覚えられているはずもない……

 いや、覚えている。
 かすかに、記憶にある名前。
 これは……委員長?

 銀縁の細いメガネに、ショートの髪。
 いつも自信のある態度で、クラスを仕切っていた女生徒。

 確か……いや、間違いなくオレはほとんど話したこともない。
 誰がオレのことを、この街にいることを教えた?
 誰も知るはずがないのに。

 きっと、親父に聞いたのだろう。それしかあり得ない。
 オレがこの街にいることを知っているのは
 オレがあの街を出たことは

 白い雪に覆われた街
 言葉も凍った朝
 消えていく
 駆けていくベージュのコート
 白いカーテンのような雪
 白い雪……

 目の前に青白い蛍光灯が揺れていた。
 青白い光が
 白い
 言葉も凍る白い雪が


『ごめんなさい』


 白い……



----  ----  ----

 目の前に丸い蛍光灯が、青白く光を放っていた。
 寝起きのような気怠さに、オレは体をうんと伸ばした。
 振り向くと、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
 部屋は暖房を付け忘れたのか、吐いた息が白い。

 ……待て。
 部屋の……中?

 オレは体を起こして周りを見回した。

 確か……いや、間違いなくオレはマンションのエントランスにいたはずだ。
 冷たい雨の中、残業から帰ったところだったはず。
 なのに……

 今は部屋の真ん中、畳の上に座り込んでいる。
 部屋の中には、スチール製の机と木製の本棚、タンス。
 今の自分の部屋ではない……でも、見覚えのある。

 机の上、置かれているのは高校の教科書。
 本棚に並んでいるのはマンガたち。
 そして、タンスの上には、小さな鏡が一つ。
 鏡に映っていたのは、10年前の自分だった。
 身長も、雰囲気も差ほど変わるわけでもない。服装も、ジーンズにシャツというラフな格好だがそれも大して変わったわけでもない。
 でも、今、鏡に映っているのは、間違いなく10年前のオレだ。
 今……今?
 今が10年前……10年前の部屋。オレ。

 きっとこれは、夢だ。
 今が10年前で、10年前が今。
 だとすれば……

 オレは立ち上がって、部屋の窓を開けた。
 凍てつくような風と共に、真っ白な景色が目に飛び込んできた。
 雪に覆われた、家並み、道路。電線の雪が、風に揺れて落ちた。
 見慣れた……忘れたい、忘れた……覚えている景色。
 間違いなく、あの街の、オレの家。

 冷たい窓に手を掛けて、振り返った部屋の壁。
 いつもの場所に掛けられたカレンダーのページは、10年前の12月。

 どう考えても夢だ。
 オレはあの時……立ったまま、夢を眠り込んでしまったのか?
 最近、残業が続いていたから、きっと疲れていたのだろう。
 きっとそうだ。
 だとしたら……

 いつも腕にしているスポーツウオッチを見る。
 液晶の文字が示す時間は、9時半。
 日付は……24日。

 間違いなく、これは夢だ。
 オレはまだ、こんな夢を見ているのか。
 オレは、今も……
 今

ガサッ

 握りしめた手に、紙が折れ曲がる感触。
 手から落ちた白いものを、オレは拾い上げた。
 その白く四角い紙は、窓から吹き込む冷たい風にカサッと音をたてた。

 やっぱり、今は夢だ。
 10年前の景色に、同窓会の通知。
 10年後のハガキと、10年前の今。
 今。

 また冷たい風が、開け放した窓から吹き過ぎた。
 白い雪が風に舞い、頬で解けるのを感じた。


『ごめんなさい』


 白い雪に埋もれる街。
 凍り付いた朝。
『飛び降りたのは午後10時から10時半の間』
 新聞の片隅の、小さな記事。
 担任の声は淡々と、クラスメートの死を告げた。
 オレはただ、黙って窓の外を見ていた。
 白い窓の外……

 あれは……あれはいつのことだった?
 10年前?
 いや、明日の朝?
 今は……

 今、窓の外には、静かに雪が降っていた。
 蛍光灯の光に、ゆっくり雪が落ちていた。

 これは夢に違いない。
 何もかも、辻褄が合わない。
 今はただの夢の中で
 夢が今

 夢に何が出来るというのだろう。
 今のオレに何が出来る?
 10年後のオレにさえ、何が出来るというんだ?
 全ては終わったことで
 全ては今のこと

 何が出来るかなんて、考えるまでもなかった。
 オレは彼女の家を知らない。電話番号も知らない。
 オレは彼女の友達を知らない。名前も知らない。
 クラスメートの電話番号も、オレは覚えていない。クラスの緊急連絡網は、春のうちに酔っ払った親父が間違って捨てていた。酔いが覚めた親父はオレに謝ったが、電話を掛ける必要も理由もないオレは頷いただけだった。
 近所に友達はいない。いや、友達なんて……

 友達は、彼女にはいたのだろうか。
 クラスメートの死を聞いた教室は静かだった。
 目を机に落としていた女の子たちは、彼女の友達だったのだろうか。
 黙って黒板を見ていた男たちは、彼女の友達だったのだろうか。
 窓の外を見つめていた、銀縁のメガネは……

 今は夢だから。
 きっと意味なんてありはしないのだから。
 今は夢。
 夢だから

 オレは青白い蛍光灯の光の下、折れ曲がった白いハガキをそっと延ばして広げた。



----  ----  ----



 クリスマスのルミネーションが眩しい大通りから、タクシーは住宅街へと入った。
 車中に流れるラジオは、さっきからクリスマスソングが流していた。
 運転手は無口なのか、それが仕事と心がけているのか、ただ黙ってハンドルを動かしていた。
 オレは窓ガラスに頭を付けたまま、次々と過ぎていく街灯をぼんやりと眺めていた。

『……どなたですか』

 ハガキに印刷された10桁の番号、呼び出し音の後から聞こえたのはかすれたような、疑り深い声だった。
 もう一度、名前を告げると、小さな溜息のような音の他、なにも聞こえなくなった。

 電話は、しかし、切れてはいなかった。
 俺は彼女の名前を、彼女のことを口にした。彼女が今夜、どこで、何をするのかを。
 電話の向こう、委員長はその時、小さく息を吐いた。

『それで?』
『え?』
『それで、それを信じろというの?』

 委員長の声は、しかし口調とは違って感情がこもっていないように聞こえた。いや、委員長はそういう口調で話す子だったような気がする。

『信じろ、なんて言ってない』

 オレは話を続けた。

『ただ、彼女は今夜、10時半頃にマンションから飛び降りた……飛び降りて、死ぬ。だから、電話とか、何かで彼女を引き留めて欲しい』
『……』
『せめて、彼女か…彼女の友達の電話番号だけでも教えて欲しい』
『……』

 受話器の向こう、小さな溜息が聞こえた。
 それから委員長は、バス停の名を口にした。

『来て。すぐに』
『え?』

そのまま、電話は切れた……

「着きましたよ」

 気がつくと、運転手が振り向いてオレの顔を見ていた。
 タクシーはもう停車して、バス停の標識を照らしていた。

「……ちょっと待っててくれますか」

 言うと運転手が曖昧に頷いてドアが開いた。
 オレは小さく頭を下げると、道路に足を踏み出した。

ガサッ

 半分凍った道路は、足下で音をたてた。
 バス停はベンチもなく、ただ標識だけがライトに照らされていた。

「……」

 と、その標識の影から、真っ赤なコートが姿を見せた。
 白い息を吐きながら、コートの女はオレの前まで来て立ち止まった。
 ライトに照らされたその顔は、銀縁のメガネがライトを反射して目はよく見えなかった。

「……話して」
「え?」
「……彼女がどうしたって言いたいの?」

 委員長の言葉は、白い息となって流れた。
 言葉を切った委員長は、オレを見上げて待った。

「彼女は……マンションの屋上から飛び降りた。今日の……10時から10時半の間」
「……」

 委員長は右掌を返すと、手首の小さな腕時計を見た。

「……15分、先ね」
「……ああ」

 オレは自分が過去形で話したことに気がついた。
 今のオレにはそれは未来で、でも確かに過去だった。

「彼女は飛び降りる……飛び降りた」
「……」
「それを見つけたのは、通行人だった。それが、10時30分だったそうだ」
「……なぜ」

 委員長は白い息を吐いた。
 凍る寒さの中、身じろぎもせず委員長はオレを見上げていた。

「なぜ、過去形なの。あなたの話は?」
「……」
「どうしてあたしにこんな話をしてるの?わけが分からない。あんた、中二病か何か?」
「……」

 オレは苦笑した。
 そう、確かにわけが分からない。自分でも分からない。そんなことを他人に説明しても、分かるはずはない。

「「明日の朝、それは新聞に載った。朝の会で、先生がみんなに話した。委員長も、それを聞いた。」

 だけど、オレは委員長に話していた。あの朝のこと。オレは式場には行かなかった葬儀のこと。黒い霊柩車が雪の降る街角を走っていったこと。
 そして、10年後の今。10年前の今。

 オレは口を閉じた。
 委員長は黙っていた。真っ赤なそのコートは、ヘッドライトの光りの中、身じろぎもしなかった。

「……証拠は、あるの?」
「え?」

 オレは委員長の顔を見た。
 証拠?
 証拠などないし……あるわけもない。
 仮にたとえ証拠があったとしても、オレだって、今が10年前で、オレが10年後から来た、今のオレだなんて信じられない。
 なのに……証拠?
 証拠……

 オレは右手をコートのポケットに突っ込んだ。
 入れた気はなかったが、それは入っていた。

「……」

 黙って出したハガキを、委員長は右手でつまみ上げた。
 メガネの位置を直すと、目を細めて眺めた。

「……こんなもの、パソコンとプリンターがあれば、何通でも作れるわ」

 溜息と共に、白い息を吐いた委員長。
 それからもう一度、大きく息を吐くと

「……10年経っても、あたしは……こんなことをしてるんだ」
「……?」

 小さな声に、もう一度聞こうとしたオレの手に、委員長はハガキを押しつけた。
 それからオレを押しのけてて、タクシーに乗り込んだ。

「委員長?」

 オレは慌てて振り返り、委員長に続いてタクシーに乗り込んだ。
 と、ポケットにきちんと入ってなかったのか、ハガキがタクシーの車のそば、雪の上に落ちるのが見えた。
 オレが手を伸ばして取ろうとした瞬間、しかし委員長が運転手に一つのマンションの名前を言った。

「分かりました」

 運転手が頷いて前を向くと、ドアが閉じた。

「あ……」

 オレは運転手に声を掛けようとしたが、口を閉じて深くシートに座り直した。
 もう……必要ないもの。それに……

「……?」
 委員長はオレの顔を見ていたようだったか、すぐに赤いコートのポケットから取り出した真新しい白い携帯電話を開くと

「……あの子の家、電話しても誰も出なかったわ」
「え?」
「あとは、あたしの知ってる知り合いが、知ってるかどうか」
「……」

 ボタンを押しながら、委員長はつぶやくように言った。
 それから広げた電話を耳に付け、発信音を聞きながら

「……あの子、あたしと小学校からずっと同じ学校だった。もう、中学校の頃から、まともに話したこと、ないけど」

 電話の向こう、誰かの声が聞こえた。委員長は窓の方を向くと、小声で話しを始めた。
 オレは反対側の窓、冷たいガラスに頭を付けた。
 窓の外は街灯が、次々と過ぎていった。


-----  -----  -----



「お客さん、着きましたよ」

 タクシーの運転手が振り返るのと、委員長が舌打ちをしたのはほとんど同時だった。

「どうした?」

 オレが聞くと委員長は、携帯を畳んで首を振った。

「電池切れ。まあ、掛けるとこには掛けたけど」

 そしてもう一度首を振ると、ドアを開けてタクシーから飛び出した。
 オレもポケットから財布を取り出すと、料金を払ってタクシーから委員長の後を追った。

「……あそこよ」

 走り出したタクシーを避けるように駆け寄ると、委員長は歩道の上、マンションを見上げて指さした。

「6Fのあの部屋。あそこが、あの子の家」
「……」

 委員長が指さした部屋には、明かりが付いていなかった。
 時計を見ると、時間は……10時。
 立ち止まっている俺たちの後ろ、フードを被った男性が、オレたちを避けながら走り去った。
 その後ろ姿を目で追いながら、オレは辺りを見回していた。
 小さな雪が絶え間なく降り続き、街灯に白く光っていた。
 オレはその街灯の明かりに、道路を見やって……

「……行きましょう」
「ああ」

 委員長は振り向くと、マンションの入り口に駆けて行った。
 オレは……多分、委員長も、自分が何を見つけようとしたかに気がついていた。
 だから、委員長の後を追って、入り口からエレベータに駆け込んだ。

「あたし……」
「6階で。オレは、屋上に行く」

 エレベータのドアが閉まるのと、委員長が頷くのは同時だった。


-----  -----  -----

キィー

 新聞に載っていたように、閉めきっていたはずのドアの鍵は壊れていた。
 小さな音と共に、屋上のドアは開いた。

 誰もない屋上は、雪が薄く積もっていた。
 出口の明かりに目をこらしても、少なくとも雪の上に足跡はない。
 見回すと、ぐるりと屋上を囲っているフェンスは、長い間の雪の重みか、ところどころ壊れて折れ曲がっていた。
 オレは雪を踏みしめて、正面の端のフェンスまで近寄ってみた。

 フェンス越し、遠く道路が下に見えた。
 街路の明かりが淡く屋上まで照らし、雪を白く照らしていた。
 向かいのコンビニの駐車場、車がちょうど一台、ライトを照らして出て行った。
 オレは振り向くと、フェンスに寄りかかって出口を眺めた。

 6Fで降りていった委員長。
 なにも言わずに出て行った委員長の手が携帯電話を握りしめているのが、閉じるドアからちらりと見えた。
 電池が切れていると自分で言った割に、エレベータで広げて舌打ちをした委員長。
 それが彼女らしいのかどうか、オレは分からない。
 ただ、あの様子では、部屋のドアを

キィー

 屋上のドアが開く音。
 ハッとして目をこらすと、赤いコートがドアの明かりにわずかに照らされて、消えた。
 そのまま委員長は隣まで雪を踏んでくると、さっきのオレと同じようにフェンスから下を覗いた。
 オレもまた、コンビニの駐車場に目をやった。

「……ドアのベル、何回押した?」

 オレが聞くと、委員長はオレを見たようだった。

「……3回」

 だが、すぐに目を道路に落とすと、小さく息をついた。

「いなかった……わ」
「……」

 本当は、何回押したのか?
 だが、そんなことは今、どうでもいい。
 どのみち……彼女は部屋から飛び降りたわけじゃない。
 ここから、もうすぐ飛び降りる。

「……なんで」

 つぶやくように言うと、委員長は振り返った。
 階下のぼんやりした明かりに、彼女の銀縁のメガネが、かすかに、だけど鋭く光った。
「なんであの子……死ななきゃならないの?」
「……」
「なんで、どうしてあの子、飛び降りるの?あなた、知ってるんでしょ?知ってるはずよね?」
「……」

 委員長のメガネのガラスの奥、おぼろげに瞳が見えた。
 鋭い視線でオレを見上げていた。

「……分からない」

 オレは首を振った。
 あの後、しばらくの間だがいろいろな噂は流れた。
 失恋した……捨てられた。妊娠した。流産した。いじめを苦にした。本当は男に突き落とされた。本当は……

「いろいろ、噂はあったけど、だけど……誰も知らない」

 だけど、噂はすぐに消えた。確証なんて、誰も持っていなかった。ただ噂が流れて、そしてただ消えた。
 まるで名にももなかったように。
 噂も……彼女がいた、記憶も。
 オレは……

「だけど」

 委員長は首を振った。
 その真っ赤なコートの肩の上、白い雪が積もっていた。

「だけど、あなたは覚えていた。10年経っても。でしょう?」

 委員長は言いながら、オレの顔を見つめていた。
 暗くてその表情は、よく見えなかった。

「誰もが知らなくて……分からない自殺。あなたはそこまで覚えていて……そして、この街から出て行った。10年間、戻りもしなかった」

 車の音と共に、委員長の顔がおぼろげにライトに照らされた。
 委員長は見たことがない……いや、そもそも委員長の顔を、オレは知って……覚えていたんだろうか?……真剣な顔でオレを見上げていた。
 オレの昔の……今の記憶より、思ったより委員長は小さかった。その顔が……瞳が、オレを……

「本当は、あの子が……死ななきゃならなかったのは、あなたのせいなんじゃないの?」
 オレは……

「あなた、あの子に何をしたの?いったい、何があったのよ?」

 オレが……

「あの子に、あんた、何したのよ?あんたが……」

『ごめんなさい』

 微かに震えていた、ベージュ色のコートの肩。
 白い街並みの中を小さく、小さくなっていく、後ろ姿。
 オレが…

「あんたが殺したんじゃないの?あんたが、あの子を!」

 殺した。
 オレが、殺した。
 オレが言った言葉で、オレが殺した。
 オレが
 オレが

「いったい……」
「……うるさいよ」

 オレは空を見上げた。黒い、真っ黒い空。かすかに白い雪が、光って……

「うるさい、うるさいんだよ!」

 オレは叫んでいた。
 フェンスの金網を掴んで、叫んだ。
 オレは

「オレが……オレに殺せるわけ、ないだろうがっ」

 オレは殺したかった。
 オレが殺したかったんだ。
 オレの言葉で彼女を殺したって
 そう信じたかったんだ。
 そうあって欲しかったんだ。

 オレの言った言葉が、彼女を傷つけた。
 彼女はマンションの屋上から飛び降りた。
 オレが殺した。
 オレが殺した。

 フェンスの金網が手に食い込んで、痛かった。
 痛かった。
 痛くて

「彼女を殺せるわけ、ないだろ!傷つけるわけ、ないだろ!傷つけることが、出来るわけがないだろ!」

 思い出せない言葉。
 オレが言った言葉で、彼女を
 彼女を

「できるわけ、ないじゃないかっ!」

『また明日』

 ぼくが言わなかった言葉。
 ぼくには言えなかったんだ。
 ぼくに言えたのは

 ぼくは覚えていた。
 最初から覚えていたんだ。
 ぼくがあの時言ったのは、ただ
 ただ

 ぼくは彼女のことなんて、同じクラスの子だとしか知らなかった。
 話したことも、顔をしっかり見たことさえなかった。
 ただ、あの日は雪が降っていて
 彼女のコートに雪が積もっていて
 寒そうに震えていたから
 だから

『傘、貸そうか』

 鞄に折りたたみの傘を持っていたから
 ぼくは言ってみただけなんだ。
 言っただけなんだ。

「ぼくが何かするもんか。ぼくが何をするっていうんだ?何もしない……ぼくに何が出来るっていうんだよ!」

 ズルズルと背中がフェンスの金網を滑り落ちた。
 気がつくとぼくはしゃがみ込んでいた。
 冷たい雪を両手で掴んでいた。
 凍るように冷たい雪を

「誰も聞かないじゃないか。ぼくの言うことなんて、誰も聞いてくれないじゃないか。聞いてくれなかったじゃないか!」

 凍るような夜だった。
 そうだ、あの日もこんな夜だった。
 親父は酔っ払って眠っていて。
 お母さんは黙って家を出て行った。
 ぼくが泣いて、行かないでって、嫌だって、連れてってって言ったのに。
 何度も言ったのに。
 お母さんの腕にすがって、足にしがみついて、何度も泣いて、言ったのに。

 なのに、目を伏せたまま、ぼくの目も見ないでお母さんは出て行った。
 表には知らない車が止まってお母さんを待っていた。
 お母さんは振り返りもせず、車に乗り込んだ。
 車が走っていくのを、ぼくは見ているしかなかったじゃないか。
 泣いても、叫んでも
 ぼくは
 ぼくは

「ぼくの言うこと……なんて、誰も……」

「……ごめん、なさい」

 目の前、声がした。
 左肩に何か、暖かくて重い感触がした。
 
 目を開けると、委員長がオレの前、目を伏せていた。
 オレの肩を掴んだ、その腕が震えていた。
 雪を被った真っ赤なコート、その肩が震えていた。

「ごめんなさい……」

 もう一度、委員長が言った。
 銀縁のメガネの奥、おぼろげな屋上の明かりに、でも確かに涙が落ちるのが見えた。

 どうして委員長が泣いているのか、分からなかった。
 ぼくが……何かを言ったんだろう。
 ぐちゃぐちゃの今の頭では、何を言ったか思い出せない。
 でも、多分……きっと何かを言って。
 それを委員長が聞いた。

 ぼくは……
 オレは何を言ったんだろう?

 オレは振り返ってフェンスから街を見下ろした。
 マンションの向かい、コンビニのガラス、サンタのイルミネーションが光っていた。吹き上げる風に、かすかにクリスマスソングが聞こえた。

「……こっちこそ、ごめん」

 オレは振り返り、委員長に頭を下げた。

 オレはいつも夢を見ていた。
 オレはきっと夢を見ていた。

 彼女を傷つけた、そんな夢。
 オレが言った言葉で、人が傷つく。そんなひどい……夢。
 だけど、それは欲しかった夢だったんだ。
 誰もオレの言うことなんて聞いてはくれない、本当の現実よりも。どんなにひどい夢でも、オレは欲しかったんだ。

 だけど

 きっとこの夢も
 10年前の今と、今の10年後
 10年前のオレが10年後のオレ
 辻褄の合わない今もオレも

「無駄足、させちゃったな。オレの、夢で。妄想で」
「……」

 夢の委員長は、顔を上げてオレを見ていた。

 そう、そうだった。
 全部、夢だったんだ。
 最初から、分かっていたじゃないか。
 彼女に声を掛けたこと。駆けていったベージュのコート。凍った朝。噂。それから……
 全部、夢だった。雪の積もった、震える肩も。あの言葉も。駆けてゆく、町の中に消えていったベージュのコートも。白いスクリーンのような、降り続いていた雪も。

「オレ、夢を見てるだけなんだ。今。」
「……」
「全部、夢なんだ。だって、そうだろ?オレが10年後から来た、でも今のオレだって、もともと、委員長も信じてなかっただろ?いまも、信じられない話だろ?委員長も。オレも……オレだって」
「……」
「10年後とか……」

 きっとオレも、委員長も夢。彼女も、夢。
 目が覚めたら……覚めるかどうか知らないけど、今は夢で……現実は……

「……あたしがあんたの夢だ、ってこと?」

 黙ってオレを見ていた委員長が、言ってオレの横、フェンスに背に空を見上げた。

「あたしがあんたの夢、ってことは、あんたの思い通りのキャラクターってこと?」
「……そうさ」

 もちろん、それしかあり得ない。
 俺の夢だから。

「……そうかもね」

委員長は言うと、足下の雪を蹴った。。

「そういえば、あたし、あんたの顔をまじまじと見たのは初めてだし。委員長なのに、あんたがこんな話し方で話をするってこと、今日初めて知ったし」
「……ああ」
「それでも……いいわ。あたしは。」

 と、言うと委員長は大きく白い息を吐いて

「あたしは、あんたの言うことを聞いた。そして、信じられた。それがあんたの夢でも……それでも、少なくとも、嘘じゃなかったら。それで、あたしは、いい」
「……委員長?」

 オレは委員長の顔を見た。
 委員長は大きく息を吐くと、オレの顔を見上げた。

「あなたが全部夢だって、自分の夢だって信じるなら、それでもいい。あたしは、あなたの言ったことを聞いた。そして、信じた」
「……」
「少なくとも……」

 委員長は屋上をぐるっと見回した。
 雪に埋もれた屋上に、冷たい風が吹いた。
 風に乗って雪が舞い、顔に吹き付けた。

「あの子が今夜……ここに来る。それは、信じたから。」

 委員長の白い息が、風にながれて消えた。
 委員長はコートのポケットに手を突っ込むと、屋上の出口を見つめた。

「こんな夜だから。こんな……寂しい場所だから。来るわよ、あの子。こんなに、寂しい……」
「……」
「来るわよ……」

 その時、風の音の中に、かすかにキイッと音がした。
 ほの暗い屋上のドアの隙間の灯りに、ベージュ色のコートが照らされ、すぐに消えた。
 10年前のオレと、今の10年後のオレ。
 10年前の今と、10年後の今。
 辻褄が合わない。
 全部が夢のような

 オレにも分からなかった。
 全てはオレの夢で現実で
 だけど

 オレはオレは小さく息をついて、委員長の肩に手をやった。
 委員長はビクッと肩を震わせると、オレの方を見た。

「……行って。委員長」
「え?」

声というよりも、溜息のように委員長の言葉。

「今がオレの夢でも、オレには彼女に……やめさせることなんて出来ないと思う」

 俺の夢でも、彼女を傷つけることなど出来やしなかったから。
 助けることだって、最初から出来るはずがないから。
 だから……でも

「でも、委員長、あんたなら、できるかもしれない。出来るって……したいって、思ったんだろ?だから、信じた……そうだろ?」
「……うん」

 階下からのわずかな光りに、ぼんやりと白く見える委員長の顔が、小さく頷いた。
 そしてゆっくりと雪を踏んで立ち止まっていたベージュのコートに近づくと、そのままその肩に手を回した。
「だ、誰?」
 振り向いたベージュのコート、彼女の声が響いた。

「……あなたの、小学校時代のクラスメート」

 ちいさな、かすれた声が、囁いていた。

「あなたの……クラスメート」

 かすれた、小さな声がかすかに響いていた。

「だから、ごめんね、聞いてくれないかな。あたしの話。聞いてくれる?」

 冷たい風が屋上を吹き渡った。
 次の瞬間、降りしきる雪の中、二つのコートがその場でしゃがみ込むのが見えた。

 オレは息をついて、空を見上げた。

 この辻褄の合わない今は、誰の夢なんだろう?
 少なくとも、俺だけの夢じゃない……
 ……夢……

 見上げた真っ黒な空から、白い……真っ白な雪が落ちてくるのが見えた。
 白い雪が、幾つも、幾つも……


----  ----  ----


 ……青白い蛍光灯の光が揺れていた。
 ほの暗いエントランスの真ん中、オレは天井を見上げて立っていた。
 重く濡れたコートの冷たさが、今を……現実を知らせていた。
 そう、あれは……夢だ。

 オレは小さく息をついた。
 息は白く凍って、ほの暗いエントランスに消えた。
 オレはふと、窓を見ようと足を踏み出した。

「きゃっ」
「あ、すいません」

 その瞬間、派手な音と共に誰かがオレにぶつかった。
 白い紙袋とハンドバックが、エントランスの床に派手に転がっていた。
 そしてその持ち主は赤いコートの裾を片手で、もう片手で四角い箱の包みを抱え、床に座り込んでオレを見上げていた。

「ちょっと、気をつけてよね」
「ごめん」

 オレが頷くと、彼女は立ち上がってコートの裾をパンパンと手で払った。

「今、帰ってきたところ?」
「ああ」
「良かった。遅くなったと思って慌てて帰ってきたんだけど」

 彼女は笑顔を浮かべてオレを見上げた。

「あ、そうそう」

 と、彼女は拾い上げたハンドバッグに手を突っ込むと、白い紙を取り出してオレの前に差し出した。

「はい、これ」
「?」
「あの子、今年は幹事だからって張り切っちゃって。近いからってあたしに手渡しに来たわ。しかも、あなたの分はいらないよね?だって」

 彼女が差し出した紙は、同窓会のお知らせであることはオレは知っていた。オレはハガキをひっくり返してそこにある幹事の名前を見た。
 それから、目の前でちょっと首を傾げている彼女を見つめた。
 赤いコート、茶色に染めたショートヘアー、コンタクトに変えたその瞳が、ほの暗い照明にオレを見上げて微笑んでいた。

「……委員長」
「……何よ。どうしたの、急にそんな懐かしい呼び方」

 委員長はますます怪訝な顔をした。
 オレはそんな委員長の肩を掴むと額を寄せて聞いた。

「オレ……ちゃんと委員長の話、聞いてあげられてるかな?」
「……」

 一瞬、戸惑うように委員長の瞳が揺れた。
 ガラス越しにしか見えなかったその大きな瞳を、不意に細くして委員長がオレに額を付けると

「……バカ。ちゃんと聞いてもらってます」
「……うん」
「あたしこそ、ちゃんとあなたのこと、聞いてあげてる?」
「……もちろん」
「そか」

 オレが頷くと、委員長は顔を離して

「でも、変なお願いや命令は、聞いてあげないけどね」
「おいおい」

 委員長はクスクス笑うと、床に広がった荷物の残りを拾い上げた。
 そしてエレベータのボタンを押しいながら

「じゃあ、早く帰って支度しましょ。毎年恒例の、二人寂しいクリスマスパーティー」
「おう」

 オレはガラスの向こう、街の灯りを見た。
 街は降り続く雪に埋もれ、白く染め上がっていた。
 通り過ぎる車のステレオから、かすかにクリスマスソングが流れていた。


<END>

Angel falling

15年前に最初の章にあたるものを書いて、そのまま放置されていた物語です。
時折、思い出しては続きを考えていたのですが、やさしい物語が出来なくて。

でも、5年ぶりに出して書いてみたら、こんな話になりました。
つたない物語ですが、読んでくださる方がいれば……

Angel falling

女生徒が一人、マンションの屋上から飛び降りた。 ぼくがそれを知ったのは、クリスマスの朝だった。 そこから始まり、そこに還り、そして終わる、終わらない物語。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-01

Copyrighted
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  1. Angel falling
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5