王平伝⑤

王平伝⑤

時は西暦230年。蜀と魏の戦は続いていた。武都、陰平の敗戦で危機感を覚えた魏は大軍を募って蜀に侵攻を開始した。王平は蜀の最前線である漢中にあり、劉敏が築いた楽城に軍を構えてこれを迎え撃つこととなる。敵は長安軍司令官、曹真。その武将である夏候覇との因縁の対決再び。

・王平(おうへい)・・・漢中軍司令官。蜀の一武将として魏と戦う。
・句扶(こうふ)・・・蜀の隠密部隊、蚩尤軍の指揮官。
・劉敏(りゅうびん)・・・王平の副官。軍学に明るい。
・趙広(ちょうこう)・・・諸葛亮の護衛として天禄隊を率いる。
・曹真(そうしん)・・・長安軍司令官。子午道から蜀に攻め入る。
・夏候覇(かこうは)・・・曹真の部下。前の戦で王平に討ち取られそうになる。
・諸葛亮(しょかつりょう)・・・蜀軍総帥。劉備の意思を継ぎ、漢朝の復興を目指す。
・蔣琬(しょうえん)・・・蜀の文官。成都にて諸葛亮の代理を務める。

1.財政
 成都では、物の値が上がり始めていた。蜀で生産された大部分の富が、北で行われている戦で費やされているためだ。
 蔣琬は、成都の中央通りを、五人の供を連れて歩いていた。供の五人は、いずれも体術の手練れである。成都を離れている諸葛亮に代わって国事を任されているのだ。今やもう、一人でどこかにぶらりと出かけるようなことなどできない身分になっていた。
 街の中は、北伐が始まる前と比べると、道行く人の数が明らかに減っていた。大きな店が並ぶ中央通りにも、以前のような活気はない。民の活気とは、国の活気と言っていい。また商いの活気とも言っていい。国の活気が、北へと注がれているのだ。
 蔣琬は執務室に戻ると、卓について大きなため息をついた。卓の上には、北へと送らなければならない物資と人員についての書類が山積みにされている。
 戦によって大きな影響を受けるものの一つに、市場がある。兵の腹を満たすために多くの糧食が北へと送られ、国内の穀物が少なくなった。そこで商人による買い占めが横行し始めた。それによって輪をかけて、民の口に入るものがかなり減っている。
 法により穀物の買い占めを禁止し、それでもやめない者は摘発したが、それでは根本的な解決にはならなかった。
 足りていない糧食は、呉から米を買うことで補った。この大陸の南東では、米が豊富に採れるのだ。しかし同盟国とはいえ、呉はいつ敵に回るか分からない国である。陳倉城攻めの時に東で呼応した呉は、利が薄いと見るやあっさりと軍を退いたのだ。戦によって疲弊した今の蜀の窮乏を知った呉の廷臣達は、手を叩いて喜んでいることだろう。
 そんな中で、呉の王だった孫権が帝を提唱した。この大陸に、三人の帝がいることになった。漢王朝の復興を掲げる蜀としてはこれを無視することができなかったが、今の国力では抗議すらできない。抗議どころか、祝賀の使者を送るのが、それに対する精一杯の外交であった。
 やはり、戦は一度中断するべきである。成都の廷臣の中には、そんな空気が濃厚に漂い始めていた。
「苦労をしているようだな、蔣琬」
 董允が、まだ若い従者と共に務室に入ってきて言った。諸葛亮がまだ北伐を続けることができるのは、この男が帝の周りにいる北伐反対派を抑えているからだと言っていい。
「暢気なものだな。陛下の話し相手をしていればいいお前に、この苦労はわからんだろう」
「愚痴るな。俺は俺で、苦労しているのだ。宦官を始めとして、陛下の耳元で良からぬことを囁く者は少なくない。そいつらを抑えつけることで、俺があいつらからどんな陰湿な嫌がらせを受けているか知らんだろう」
 言われて、自分もずいぶんと憎まれているのだろうな、と蔣琬は思った。いっそ戦を止めてほしい。そうは思うが、口には出せないことだった。諸葛亮の代理として、自分はここにいるのである。
郤正(げきせい)、茶を入れてこい」
 従者に向かって董允は言った。郤正と呼ばれた従者は静かに頷き、茶の用意をしに行った。
「何なのだあいつは」
蔣琬が顔を近づけて小声で言った。
「気付いたか。先日、丞相の命で俺の従者となったのだ」
「足音が、全く聞こえなかった」
「丞相の目となるために送り込まれてきたのだろう。何、まだ十六の小僧だ。恐れることなどない」
「恐れなど」
 郤正が茶の乗った盆を持ってきたので、二人は座り直した。
 やはり、足音は一つとしてない。
「物価の値上がりだけは、どうしようもないか」
 蔣琬が、何事もなかったように出された茶を啜りながら言った。
「呉から米を買い入れるために、かなりの銭を鋳造した。その上、蜀で生産に携わるべき若い者は北の戦地へと持っていかれているのだから、どうしようもないさ」
 蜀の通貨は太平百銭といい、かつて漢中を治めていた張魯が使っていたものだ。
「南方では徴税と徴兵に対する反発が、段々と強いものになってきている。大きな反乱が起きる前に何か手を打っておかなければならん。これも頭の痛いことだ」
「今度、永安から李厳殿が来るようだ。覚悟しておいた方がいいぞ」
 呉と国境を接する永安を任されているのが、李厳だった。任されている主な任務は、呉との交易の調整である。戦に比べれば華はないが、戦によって衰退する国力を交易で補うことは、今の蜀にとって重要なものであった。その李厳が、成都のやり方に不満を持っていることは知っていた。
 その李厳がここに来れば、何を言われるか分かったものではない。
「また頭痛の種が一つ増えるのか」
 戦を続ける諸葛亮は、まるで何かに憑かれたようであった。目的を果たすために何事も顧みないそのやり方は、時に恐しさすら覚えることがある。
 そして北伐反対派からの批判の矢面に立たされるのは、自分だった。そういう時の蔣琬は、強硬的な姿勢で臨むのではなく、時に相手の言い分に理解を示し、時に宥めながら事に当たっていた。心の中では戦をやめてほしいと思っているのだ。北伐反対派と同調する姿勢を見せることは、抵抗のあることではない。しかしあまりやり過ぎると、自分の首が飛びかねない。難しいところであった。
 半月ほどして、李厳が成都にやってきた。帝への拝謁を済ませ、董允に連れられ蔣琬の執務室を訪ってきた。部屋の中には、郤正も入れて四人のみである。
「李厳殿、永安でのお勤め、大義でございます」
 蔣琬は恭しく頭を下げた。
「なんの。蔣琬殿の苦労も人並みではなかろう。それと比べれば、なんということもない」
 蔣琬や董允に比べ一回りも年上の李厳であったが、その物言いは厳しいものではなかった。蔣琬の目には、それが何とも不気味なものに映った。能の無い年長者ほど、無駄に偉そうにしたがるものだ。
「そう構えなさるな、蔣琬殿。わしは何も、喧嘩をしに来たわけではないんぞ」
 言われて、蔣琬ははっとして無意識の内に組んでいた腕を解き、居住まいを正した。。同時にほっともした。李厳が来ることで喜んでいる北伐反対派は、少なくない。それに対するための抗弁をずっと考えていたのだ。
「永安では物資が少なくなり、銭の価値が下がり続けておる。何か良い策はないかのう」
 李厳は郤正から出された茶を啜りながら、呟くようにして言った。
「耐えて頂くしかありません。戦が終わる気配はまだないのです。漢王朝の復興は、今は亡き劉備様の悲願でありました」
「丞相がその意思を継いで北で戦をしているということは、よく分かっている。しかし、先ずは国の基盤をしっかり整えねばと、儂は思うんだがのう」
 李厳が試すように言った。蔣琬の頭が、目まぐるしく回った。
「李厳殿の思われている国の基盤とは何か、お聞かせ願えませんか」
 蔣琬が口を開く前に、董允が試し返すように言った。
「国の基盤とは、健全な物の流れと安んじられた人心のこと、だと儂は思う。今のこの国では、どちらも蔑ろにされてはおらぬか」
 蔣琬はまた腕を組みそうになったが、椅子に座り直す仕草でそれを誤魔化した。
 傍らでは、無表情の郤正が静かに立っている。それも何とも不気味であった。
「御明察でございます。しかしその健全なる国を実現させるために、丞相は北で戦っておられるのです。昨年奪った漢中から西にかけての地では大規模な屯田が行われ、なかなかの成果を出しているようです。今は苦しい時ではありますが、この国があるべき姿に戻りつつあるのも確かなことなのです」
 董允が言った。李厳がつまらなさそうに茶を啜った。
「では、董允殿の思う国のあるべき姿とは、いかなるものなのですかな」
 蔣琬は横目でちらりと郤正を見た。目だけが微かに動き、会話を追っている。
 董允は一呼吸置き、口を開いた。
「国の中心には、帝が必要です。帝という、国の頂点におわす御方がいるからこそ、人と人との間で大きな争いは起こらなくなるのです。帝には、歴史が必要です。長い歴史は帝の存在意義を高貴なものに、そして尊いものにするのです。魏がした帝位の簒奪は、この国を乱すものに他なりません。四百年と続いた歴史を蔑ろにし、易々と帝位を奪うようなことがあれば、次は自分がと思う者がこの国に乱立し続けるでしょう。それを阻止するためにも、小事には目を瞑り、大事のために蜀は戦い続けなければならないのです」
 蔣琬は隣で、目を閉じながら聞いていた。もう、腕を組むことを隠そうともしなかった。
 戦には反対だったが、帝の歴史を途絶えさせるべきではないという点では、蔣琬は同じ意見を持っていた。問題は、その方法なのである。
「流石は董允殿。そなたのような者が帝室に仕えているということで、私は安心できる。しかし、小事の積み重ねの上に、大事はあるのではなかろうか。目の前の矛盾を無視していながら、どうしてその背後にある大きな矛盾を解消することができようか」
 言っていることの道理は分かる。間違っているとは思えない。だが今の自分は、諸葛亮の意を汲む者としてここにいるのだ。
「蔣琬殿はどうお考えですかな。是非聞いてみたい」
 蔣琬ははっとした。
「私は」
 そして何故か、目が郤正の顔を確認していた。
「丞相の代理でここにいるということは、よく分かっている。それは抜きにして言ってもらいたい。そなたにとっての帝室とは、いかなるものですかな」
 蔣琬は口籠った。帝のことについて質されるとは、思ってもいなかったのだ。
「陛下は、恐れながら、決して暗愚ではありません。臣の言葉にはよく耳を傾けられ、我欲を抑える術も心得ておられます。それはこの国にとって、大事なことだと思います。漢の四百年という長い歴史を引き継ぐに値する御方です。引き継ぐことで、この蜀という国はもっと強い国になれることでしょう。その歴史を守るためにも、我々臣は陛下の元で粉骨砕身の思いで働くべきだと思っております」
「では、四百年の歴史を守ることが、この度の北伐であると思っているのじゃな」
「それは」
「何も魏まで攻めていかなくてもいい、と儂は思う。この大陸の南西の地で、漢の歴史を絶やさぬこと。そしてこの地から魏と呉の二国に漢の存在意義を発し続けること。我々がすべきことは、そういったところにあるのではないかのう」
「戦は続いております、李厳殿」
「こちらから攻めるからじゃろう。東は呉と手を結び合い、北は要害によって外敵を防ぐ。今は力を内に溜め、蜀は漢の四百年の歴史を継承した国なのだと天下に示し続けることこそ、我らのすべき戦であろう」
「それは、わかりますが」
 蔣琬は俯いた。帝のことを出されると、何も言い返せなくなる。
「蔣琬殿の立場はわかっておるよ。わしはそなたのことを非難するために、成都に来たわけではない。丞相の代理であるそなたがどのような考えを持っておるか、それは確かめておきたかった」
「李厳殿」
 董允が何か言おうとしたが、李厳がそれを目で制した。
「そなたは、いや我々は、帝の臣であって、丞相の臣ではない。それが確認できて一安心じゃ」
「不遜ですぞ。その言い草だとまるで」
「だから、そうではないと言っている」
 不意に、李厳の目が鋭くなった。それで董允は黙った。この辺りは流石に、生前の劉備から信任されていたというだけのことはある。
「これからの北についての話をしようか」
 李厳が穏やかな声で言った。
郤正が、空になった李厳の器に静かに茶を入れ直した。
 それからしばらく、三人は今後のことについて話し合った。帝のことではなく、戦と物流のことについてである。呉との関係は今のところ良好なので、永安から北へ二万の兵力を回すことを李厳に承知させた。魏が漢中へ侵攻してきそうな気配を見せているのである。
 李厳は戦に反対だったが、とりあえず現状には協力してくれるようだ。しかし物資が足りないのだけはどうしようもない。銭を鋳造することでなんとか凌いではいるものの、これでは銭の価値が安定しない。どこまでこれを誤魔化し続けることができるか、お前の手腕にかかっている、と李厳に言われた。
 具体的にどうしろとは言わないのは、流石なところだと蔣琬は思った。言ってしまえば、そこに責任が生じてしまう。全てお前の手腕でやれ。李厳から、言外にそう言われていた。
 話は、それまでだった。
 李厳と董允が退出し、蔣琬も細かな仕事を終わらせてから自宅の屋敷に帰った。昔はここで仲間と酒でも飲みに出かけたところだが、そのような軽々としたことはもうできない。魏からの刺客がどこにいるかもわからないのだ。
屋敷には妻と、もう背の伸びきった二人の息子がいる。妻との関係は、あまり良くない。仕事の疲れをそのまま持ち帰るのを好ましく思われていないのだ。こうして屋敷に帰っても、家人が世話に出てくるだけで、妻は奥から出てこない。家でくらいは疲れを露わにさせてくれと思うが、他の所帯持ちの話を聞いていると、自分のやりたいことに干渉してこないだけましだとも思えた。
 二人の息子は、どこか自分によそよそしかった。昔から仕事詰めで、その成長を見てやることができなかったのだ。息子達の態度がそうなるのは、仕方のないことなのだと割り切っていた。妻の教育熱心のせいで、書見は人一倍やっているようである。それは悪いことではない。
 蔣琬は着替えをすませて寝台に横たわり、その日のことを振り返った。
 李厳は、戦を止めて国内を固めるべきだと考えている。それはただ殻に籠ってじっとしているという意味ではなく、漢の歴史を保持するために戦はあるべきだと考えているのがよくわかった。
 そのために今の北伐は必要なのか。魏に攻め込もうとも、もうそこには漢の帝はいないのだ。しかし諸葛亮は、外征の必要はあると考えている。そして自分は、その意を成都で示すためにここにいる。自分は何なのだ。そういう思いに襲われたことは、一度や二度ではない。
 自分がそう感じていることは、妻には見抜かれているという気配がある。男のこういう姿は、女の目からは小さなものに映るのかもしれない。そのことを考えると、溜め息しか出てこなかった。
そろそろ、二人の息子を外に出してやらなければならない。燭台の炎を消しながら、ぼんやりと思った。それは自分のためでなく、将来のこの国のためだ。しかし、二人を生き甲斐のように思っている妻は何と言うだろうか。それも、考えたくないことだった。


2.羊肉
 相変わらず、漢中には人が増え続けていた。
 十二年前、蜀が漢中を奪り、秦嶺山脈以南を版図に組み入れたばかりの頃は、ここにいた住民の大半が曹操によって北へと連れ去られたため、主を失った家だけが寂しく立ち並ぶ寒村になり果てていた。
 そこに蜀の兵が大量に入り、その兵を相手にしようという商人が方々からやってきた。諸葛亮の、漢中での税は安くするという政策が効いたのか、漢中の人口は定軍山の戦い以前のそれより増えてきているようだった。
 特に、飯屋と妓楼が増えていた。休日の兵は旨いものを食いたがり、女を抱きたがる。自然なことだった。しかしあまりに商人が増え過ぎたのか、今では漢中で店を持とうとしても、国からの許可が下り難くなっている。国とはつまり、諸葛亮のことだ。
 また、税も昔の値に戻された。店を出し難くなり税の値も上がったということで、闇の飯屋や妓楼が増えるのではないかと思っていたが、そうでもなかった。わざわざ隠れてやっている小さな店に行かずとも、良い店はたくさんある。そして闇の妓楼はすぐに摘発された。闇の妓楼は他国の忍びの格好の隠れ家になるからすぐに潰さなければならないと、その役目にある句扶が言っていた。
 黄襲の飯屋は繁盛していた。男を五人雇い、厨房で働かせた。五人はいずれも軍人であった頃からの知り人で、戦に耐えられない体になった者達だ。女も五人雇い、そちらは妻の指示で注文を取ってきたり卓を片付けたりしている。
 他に立ち並ぶ飯屋に客を取られないよう、他店が何をやっているかを常に調査し、店で働く者が仕事に倦まずに力を出させるにはどうすれば良いかを考えた。忙しい時に働けば銭をはずんだ。それで働き手は目まぐるしい程に客がやってきても喜々として働くのだ。
 形は違えど、戦のようなものだ、と黄襲は思っていた。
 厨房の中は客が座る卓からよく見え、黄襲はそこで調理をした。野戦の中でやるような、豪快な料理である。一両日かけて丸焼きにした子豚か子羊を、常に厨房内の天井から吊るしている。吊るしたままの肉を切り分け、様々な香草をまぶして調理する。店の常連客の中には、どの香草をどれだけ使ってくれと言ってくる者もいる。客とのそういったやり取りも、黄襲にとって楽しいものであった。
 しかし、問題もあった。
 王平の子である王訓を、句扶の頼みで預かっていた。父である王平とは生まれた時から離れて暮らし、育ての親であった叔父が目の前で首を落とされたのだという。心に大きな傷を負った少年であった。
 一度だけ挨拶に来た王平の額には、大きな傷跡ができていた。父が来たぞと王訓を呼んだが、王訓は部屋の奥に籠り出てこようとはしなかった。籠城中だと冗談を言ってみたが、王平は愛想混じりに一つ苦笑を漏らしただけだった。
 血の繋がりがあるだけに、難しいものがあるのだろう。軍人と軍人なら、張り飛ばせばいいだけのことなのだ。それ以上、王平は自分の息子に会おうとはしなかった。
 厨房内で皿洗いをさせた王訓は、ただ従順に働いていた。皿を洗い終わって手持ち無沙汰になると、何か他にやることはないかとよく聞きにきた。飯屋の店主としてそれは有難いことだったが、妻はそんな王訓を見て、これからずっと一人で生きていくつもりなのではないかと言って心配していた。
 ある日、王訓が休みの日に川に釣りへと出かけて行った。魚の棲家がどこにあるのか見分けるのは簡単だと、得意気に言っていた。自分にしかできない仕事がしたいのだろう。そう思った黄襲は、魚の餌となる穀物の玉を何個か作ってやった。
 しかし、帰ってきた王訓は、顔を腫らしていた。魚籠の中には、一匹の魚も入っていなかった。どうしたのかと聞いても、王訓は何も答えず自分の部屋に戻ったまま出てこようともしない。後で妻が話を聞きに行くと、その川を遊び場としていた子供達に殴られ、釣った魚も全て取られてしまったのだという。よく考えてみれば、まだ王訓には友と呼べる者がいない。
 何かしてやらなければいけないと思った。王平から預かっている、大切な子なのだ。しかし店の仕込みや接客に忙しく、してやれることはどうしても限られてしまう。
 王訓はそれ以来、店の手伝いはするが、ほとんど外に出なくなった。
「どうするべきかな」
 黄襲は閉店後の厨房で、明日の仕込みをしながら呟いた。働き手は、もう全員帰してある。
 一人になると、黄襲は王訓のことを考えた。自分には、子がいない。それだけに王訓には親のような感情が湧くことがあるが、子がいないだけにどうすればいいのか分からないということも多々あった。それは、妻も同じく感じていることであろう。
 不意に店の戸が開かれた。もう五十になろうかという風体の男が入ってきた。この店の常連の一人であった。
「あら、もう終わってしまいましたかな」
 半開きにした扉から体を半分出しながら、その男は言った。
「構いませんよ。どうぞお入りください」
 いつもなら追い返すところだが、常連ということもありその男を中に招き入れた。一人で鬱々と思い悩んでいるより、同年代のこの男に世間話の相手でもしてもらうのがいいかもしれない。
「よかった、腹が減っていたのだ。今日は商談が長引いてしまってな」
 黄襲は肉を切り取り終えた子豚の骨を煮込んだ汁に穀物の玉を三つ浮かべたものと、余ったかす肉と野菜を煮たものを少し皿に盛って出してやった。自分と同じくらいの年なら、これくらいのものが喜ばれるだろう。
「うまい。私は、ここで出すこの汁が好きなのだ」
 初老の男は、汁を旨そうに啜りながら言った。そう言われて、悪い気はしない。
「よくここに来て下さっていますよね」
「おお、わしのことを憶えてくれているのか。嬉しいな」
 喜んだ男は、酒もくれと言った。一緒にどうだと誘ってきたので、黄襲も酒とともに卓についた。身なりは派手ではないが、金には頓着していないようなので、漢中でそこそこの商いをしているのだろう。
「先程、商談が長引いたと仰ってましたね。商いは、何をしておいでなのですか」
 黄襲は酒の入った椀に口を付けながら言った。
「北から、色々なものを。今は肉が多いな。北で育つ羊の肉は脂が乗って旨いということで、南に行けば良い値で売れる」
 北の羊の肉は、黄襲も欲しいと思っていたところだった。今年の初めに蜀軍が武都と陰平を攻略したことで、北の物産が漢中によく入るようになってきていた。
「成都では物が不足していると聞きます。あそこまで行けば、かなりの利を上げることができるのではないですか」
「そこまで行きたいところなんだが、わしももう若くなくてな。商いは漢中までということにしているのだ。しかし、やはり競争相手は多い。今日の商談も、他の商人との値の張り合いで長引いてしまった」
 漢中から利を求めて南へ下る商人も少なくない。それは蜀にとって決して小さなことではない、と黄襲は思っていた。
「良ければ、ここにも少し肉を売ってもらえませんでしょうか。そこまで多く買うことはできないのですが」
「わしから肉を買ってくれるのか。それは有難い。実はそんな話がないかと思ってこの店には通っていたのだ。おっと、わしの下心を悪く思わないでくれ。わしはここの料理が好きなのだ。この兵糧に模した穀物の玉は、実に面白い。こんな店と取引をしたいと思っていたのだ。しかしもう、しっかりとした取引先があるのではないかと思って言い出せなかった」
「私はついこの間まで軍人をしていまして、兵糧の担当をしていたのです。今の取引先は、その時の伝手です。北からの仕入れもしたいと思っていたところなのです」
「なるほど、私は運がいい。この汁に入っている香草は南で採れるものでしょう。何でこういうものが漢中にと思っていたんだが、これで合点がいった。安くしておきますぞ。ここでわしの仕入れた肉が料理されると思うと、商人冥利に尽きる」
 黄襲は褒めちぎられて苦笑した。
 その時、階上から誰かが下りてきた。不意に、初老の男が鋭い視線をそちらにやった。思わず黄襲は、後ろを振り返った。
「何か、手伝いましょうか」
 王訓だった。
「いや、わし一人で大丈夫だ」
 そう言うと王訓は頷き、自分の部屋へと戻っていった。体を正面に向けると、さっきと変わらぬ初老の男が旨そうに酒を舐めていた。
 気のせいか。そう思い直し、黄襲も酒を口に運んだ。
 酒を飲み終わった初老の男は、卓に銭を置いて帰って行った。
 黄襲は厨房に戻った。火にかけていた骨の入った鍋が、いい感じに煮立っている。その味見をして、幾つかの香草を掴んでその中に入れた。
 良い肉を仕入れることができる。そうすれば、この汁は格段に旨くなるはずだ。
 昔から料理に熱中していると、嫌なことを忘れることができた。黄襲の頭の中は、羊の肉のことだけで一杯だった。


3.晩餐
 武都、陰平を攻略してから一年が経っていた。漢中の兵力は日を増す毎に増え、永安からは李厳の率いる二万も漢中に入った。呉との国境は、今のところ問題ないようだ。
 増えた二万は武都へと回され、諸葛亮が直々に屯田の指示をしている。蔣琬からの書簡によると、三度続けた戦によって、蜀の財政はかなり困窮しているようだ。それを補うための屯田である。
 漢中の王平は、調練の毎日だった。二年の間に、三度も大軍を動かしていた。その内、二回は負けた。三度目の戦には勝ちはしたが、しばらく蜀軍は動けそうもない。成都では、反戦の声がかなり大きくなっているらしい。しばらく動けない分、調練だった。
 魏軍が攻め込んでくることを想定しての城は、完成していた。漢中の街から東方に築かれたその城は、楽城と名付けられた。子午道からの敵を迎え撃つための城だ。街の西には漢城という城も築かれ、これは大規模な兵糧集積場となっていた。
 漢中の北には秦嶺山脈があり、西には武都、陰平がある。蜀の防御は盤石であると思えた。
 井戸の前で、調練を終えた兵が列をなしていた。冬が終わり、調練が辛い時期になろうとしている。漢中の夏は、湿気が多くて蒸し暑い。その列を横目に、王平は軍営を後にした。
 黄襲の飯屋だった。ここに、自分の息子がいる。できだけここには来ないようにしていたが、句扶に呼び出されたのだった。
 王訓とは、漢中に連れて帰って以来、会っていなかった。一度、会おうとしたが、拒絶された。仕方のないことだと思った。妻を死なせ、王双を死なせたのは、自分なのだ。
「兄者」
 飯屋の前で二の足を踏んでいると、後ろから声をかけられた。
「句扶、驚かせるな」
「王訓は今、厨房で働いていますよ。こっそり入りましょう」
 王平は鼻を一つふんと鳴らし、歩き始めた。
 戸を開けると、やはり気後れしてしまう。こちらに気付いた黄襲の妻が、こちらに笑顔を投げかけてくれている。店は繁盛していた。
「さあ、こちらへ」
 王平の脇をすり抜けた句扶が先導した。王平は足音を立てぬように歩いていた。店は調練を終えた兵や町民の喧騒さで溢れているが、山中の戦場を進むようにゆっくりと歩を進めた。
 奥の個室である。ここだけは、普通の客だと入ることができない。
 中では趙広が待っていた。王平を認めると、静かに頭を下げた。王平は、それに頷いて答えた。
「この壁の向こうで、王訓は皿を洗っております」
 隣に座った句扶が囁いた。
「いらぬことを」
 言いながらも、気になった。壁の向こう側から、厨房で働く者の声と音が微かに伝わってくる。
「私が率いる丞相の護衛部隊は、天禄隊と名乗ることとなりました」
 趙広に言われ、はっとして顔を上げた。
 天禄とは、辟邪と対をなす神獣の名である。洛陽を守るため、王平はかつて率いていた自分の隊に辟邪の名を冠していた。大事なものを守れなかった隊の名だ。そう思ったが、口には出さなかった。
「王平様がかつて率いておられた隊の名にあやかってみました。句扶様の忍びの軍は、蚩尤軍です。どちらも私が考えました」
 趙広が得意気に言った。
「名など、どうでもいいのだ。そういうところは、お前はまだまだ子供だな」
 句扶がつまらなさそうに言った。
「しかし、丞相は良い名だと言っておられました」
「丞相の傍に羌族の男がいたな。名は何といったか」
「姜維殿のことですか」
「そいつだ。あれは、どういう男なのだ」
「形としては私の上官ということになりますが、何かを言ってくるということはありません。多分、羌族を懐柔するために近くに置いているのだと思います」
「おい、お前はいつから多分でものを言うようになったのだ」
 句扶が叱るような口調で言った。見ていると、兄の弟のような関係である。同じ世界で生きる者同士、分かり合えるものが多くあるのだろう。
 しばらく雑談していると、雑務を終えた劉敏が入ってきた。そして、酒と料理が運ばれてきた。
 赤い香草で焼かれた羊の肉と、野草がたっぷり入った汁が卓に並べられた。王平は料理よりも、運んでくる者の方へ目をやっていた。運んでくる者は、幸いというべきか、王訓ではなくいずれも下働きの女だ。
王訓のことを聞いてみようか。ふとそう思ったが、やめておいた。
「王平様、これは旨いですよ」
「うむ、じゃあ食うか」
 王平が箸を付けると、趙広もそれに続いた。
「やはりお前は子供だ。食い意地を張るなど、忍び失格だな」
 句扶に言われ、趙広は首を竦めた。戦場では一人前でも、こういうところではまだ若い。
 口の中に入れた羊の肉は下で触っただけでほぐれ、油が広がった。そしてじわりと赤い香草の辛みが舌を突く。その辛みが、さらなる食欲をそそり立てた。
「軍議の日程は決まったか、劉敏」
「はい、五日後です。漢中の政庁にて行われます」
 初めて会ったときは青瓢箪のように見えた劉敏だったが、前回の戦からすっかり軍人の顔をするようになっていた。自分の指揮で兵を死なせてしまったことが、かなり堪えたようだ。
 武芸は空きしだったが、軍学はあった。今では調練を任せてもそつなくこなし、独自の工夫を凝らしたりもしている。築き上げた楽城の縄張りも、悪いものではなかった。
「戦はいつになりそうなのだ」
「夏だろうというのが、丞相の予測です。長安と上庸の東に兵糧が集められています」
「おい、それは俺が調べあげたことではないか。自分の手柄のように言うな」
 句扶に言われ、劉敏はしゅんとなった。
 句扶はどうやら、劉敏のことがあまり好きではないらしい。文官あがりが、という思いがあるのかもしれない。
「それよりも句扶殿、おめでとうございます」
 俯いていた劉敏が、口元に笑みを浮かべて言った。句扶がぎくりという顔をした。
「何のことだ、劉敏」
 王平が言った。
「子ができたと、丞相から聞きました」
「なんだと。何故俺にだまっていた。相手は誰なのだ」
「囲っていた遊妓です」
 句扶が嫌そうな顔で言った。
「そうか。俺らが北で戦をしていた時、お前もここで戦をしていたのだな」
 肉に食らいついていた趙広が吹き出した。そこに句扶の拳が飛んだ。
「丞相は何故そんなことまで知っているのだ」
「漢中の妓楼は、全て国で管理されています。それで、どこかで知ったのでしょう」
「悪趣味なことだ」
 句扶が吐き捨てるように言った。
「そう言うな、句扶。男か、女か」
「男です。名は、安と名付けました」
「そうかそうか。まあ飲め、句扶」
 言いながら王平は、嫌そうな顔をする句扶の杯に酒を注いだ。仕方なさそうに、句扶はその杯を呷った。
「そんなことより趙広、あの話をしろ。大事な話だ」
「それよりも大事な話などあるのか」
 珍しく取り乱す句扶を見て、王平は笑いながら言った。
「かなりの数の黒蜘蛛が、漢中に入り込んでいます」
 趙広が言い、その場の空気が少し張りつめたものになった。
「そなたらで対処できない程か」
 劉敏が言った。
「なんとか対処はしている。戦が近付いているのだ。魏も本腰を入れてきたということだな」
 句扶はもう、平静を取り戻していた。
「黒蜘蛛の頭領、郭奕も直々に来ているという気配があります。これからは、暗殺に注意しなければなりません」
「そうか」
 王平が、何でもないことのように言った。そんなことで心を乱す程、若くはない。腕っぷしもまだまだ落ちてはいない。命を狙われたとしても、返り討ちにしてやればいいのだ。しかし隣では、劉敏が緊張の色を露わにしていた。
「俺や趙広や兄者はいい。劉敏。お前は少し鍛え直した方が良いのではないか。何なら、俺が付き合うが」
「いや、私はそういうことは不向きでして。それよりも、私には軍学の方で」
「軍学では、暗殺から身を守ることはできんぞ」
 劉敏が青ざめている。王平は、ただそれをにやにやとして見ていた。
「兄者、いかがでしょう。劉敏殿は今や漢中軍に欠かせぬ御方。少し御貸し願えませんか」
 句扶が皮肉っぽく言った。
「いいだろう。劉敏、行ってこい。自分の身くらいは自分で守れるようになっておいた方がいい。これは本気で言っていることだ」
「・・・わかりました」
 劉敏が観念したように言った。
「心配するな、劉敏。無茶はせんよ」
 句扶がにやりとしながら言った。
 趙広は腹が満ちたのか、酒を舐めるようにして飲んでいる。
「では早速行くか。忍びがどういうものか、先ずは知っておくことだ。これから夜の警備だから、それに付いて来い」
「今からですか」
「そうだ。つべこべ言わずに付いて来い」
 句扶が劉敏を引き摺るようにして出て行った。趙広も王平に一礼し、それに付いて行った。
 個室に残された王平は、一人で酒を啜った。意地悪そうに言っていた句扶だが、教えるべきことはきちんと教えるのだろう。それに心配はなかった。
 壁の向こうでは、喧騒さが薄れてきていた。しかしそこに、王訓はいる。王平はそれを背中で感じながら、酒を啜った。
 人が来る気配がした。黄襲が、静かに戸を開けて入ってきた。
「句扶殿が、心配されておりますぞ」
 黄襲が、厳かに座りながら言った。
 王訓の話をしろということなのだろう。句扶はああ見えて、こんな気の遣い方ができる男だった。
「今日の肉は、格別だった」
 そんな話をしたいのではない。分かってはいるが、そんなことを言っていた。
「北から羊の肉を仕入れるようになりました。寒さの中で育った羊は、脂が乗って旨いのです」
 黄襲がにこやかに、話を合わせた。王平は黄襲に酒を注いでやった。
「俺がここにいるということは、訓は知っているのか」
 少し間を置いてそう言った。
「いいえ、知りません。その方がいいと思いましたので。句扶殿とは、帰り際に少し言葉を交わしていたようですが」
「そうか。句扶はよく喋るようになった。昔のあいつは、ほとんどものを喋らなかったものだ」
「そうですか」
 言いたいことはそんなことではない。
 黄襲はただにこやかにしていた。そしてたまに、酒を啜った。
「訓は、元気にしているか」
 また間を置き、そう言った。
「元気にしております。よく働きもします。最近は、妻が買ってきた書物を読んだりもしています」
「そうか」
 聞きたいことは、山ほどあるはずだった。しかし、言葉が出てこない。元気だと聞けたことで、山ほどあった他のものはどうでもよくなったという気がする。
「また来るよ」
 そう言って、王平は銀の入った袋を卓に置いた。
「王平殿、これは無用のものです」
 黄襲が慌てるようにして言った。
「いや、いいんだ。取っておいてくれ」
 王平はそう言い残し、逃げるようにしてそこから出た。
 店を出る前に、厨房の方を少し覗いてみた。皿を洗う王訓の横顔があった。王平はそれをしばらく見つめていた。
 ふと、王訓がこちらに目を向けた。咄嗟に王平は身を隠した。まだ、会えない。ならいつ会えるのか、それは分からない。それは自分から知ろうとすべきことではないという気がする。
 十数人の団体が、支払いを済ませて店から出ようとしていた。王平は、それに紛れて店を後にした。


4.魏延と楊儀
 雲間から覗く太陽が、走る魏延の背中を焼いていた。
 魏延は兵の中に混じり走っていた。二十歳そこそこの兵が多い中でもう四十を幾つか越えた魏延の体力は厳しいものがあったが、険しい漢中の山中を、若い兵たちの先頭で走った。それは諸葛亮から命じられたことではない。文官達からも認められるような仕事ではなかった。それでも、魏延は全身を汗まみれにさせながら走った。
 自分にできることは、戦だけなのだ。しかし諸葛亮は、戦で自分のことを進んで使おうとはしなかった。前回の戦でも、漢中軍を率いたのは自分ではなく、王平だった。
 戦で重要されないことに、強い不満を感じていた。そして不満である以上に、不安だった。戦で自分の存在意義を示すことができなくなってから、時が経つにつれ自分の発言力が減っているという気がする。昔はよく王平が酒を飲みに訪れてきたが、今ではその機会はほとんどなく、王平は自分の部下らとよく飲んでいた。互いに忙しいのだということは分かっていたが、どうしても軽視されていると感じてしまうことがしばしばあるのだ。
 戦に出られない分、調練に打ち込んだ。体力を付けるための駆け足では、常に先頭を走っている。走ることで、少しでも不安を打ち払おうとした。
 魏が、蜀に攻め込む構えを見せていた。今度こそ、自分も先頭に立って戦いたい。このところ体に老いを感じることがあるが、まだ戦える。十万の軍勢を動かす自信はないが、三万までなら誰よりも上手く動かせる自信はあった。戦場で死ぬことが恐いとは思わない。自分が老いぼれてしまう前に、思い切り戦いたかった。魏延ここにありと、兵の中で高らかに叫びたかった。
 戦が近づいていた。
 兵を休ませておけという命令が魏延の元に届いた。いかにも現場を知らぬ文官らしい馬鹿げた命令だと思った。魏延は、その命令を無視した。ここで兵を休ませれば、兵の気持ちは萎えてしまう。気持ちが萎えれば、いくら体力があっても戦で力を出すことはできないのだ。大事なことは、兵を徹底的に疲れさせることだった。そしてその先頭には、常に指揮官である自分が立たなければならない。
 調練が終わり自室に戻ると、魏延は従者に夕餉を運ばせ一人で食事を摂った。さすがにこの年になってからの激しい調練は体に応え、食ったものを戻してしまうこともあるほどだった。それは決して部下には見せることのできない姿である。
 次の作戦のため、魏延は諸葛亮に呼び出された。その日は全軍に休暇を与えたが、兵の顔に喜びの色はない。休暇は楽しむためにあるのではなく、次の調練に備えるためだという気に満ちている。それを見て、魏延は内心満足していた。強い軍に仕上げることができた。これなら、いつでも戦で力を出しきることができるだろう。
「顔色が悪いではないか、魏延」
 通された一室で、諸葛亮が顔をしかめさせて言った。
「兵を休ませろと伝えたはずだ。何故、言うことを聞かん」
「お言葉ですが、丞相。今は兵を休ませるわけにはいきません。魏との戦は、まだ終わってはいないのですから」
「そうは言っても、次の戦に備えて力を付けねばなるまい」
「その力とは、気持ちから湧いてくるものです。兵を休ませるのは、魏を討ってからです。それまでは、兵の気持ちを緩ませてはならんのです。緩ませれば、それは負けにつながります」
 諸葛亮の目が、じっと魏延を見つめてきた。魏延はふと気づいた。この男の顔も、やつれているではないか。なるほどこの文官の親玉も、自分とは違う所で戦っているのかもしれない。そう思うと、無性におかしくなってきた。
「丞相殿も、大分お疲れのようで」
 親しみを込めて言ったつもりだったがそれは無視され、魏延は閉口した。諸葛亮は卓に地図を広げ始めた。この男の、悪いところであった。
「昨年奪った西方の地で、大規模な屯田が行われていることは知っているな」
「はい」
 知っているもなにも、その屯田に回されているのは自分の部下の一部だった。
「魏軍の侵攻に備え、お前はそこに入れ。永安の李厳も、二万と共にそこだ」
「戦になれば、全軍の指揮はどちらに」
 魏延にとっては、それが一番大事なことだった。
 しばらく間を開け、諸葛亮が口を開いた。
「お前だ」
 魏延は心の中で、よし、と呟いた。
「軍師は、李厳。道案内にはその一帯に詳しい馬岱を付けよう。お前が率いる三万の内、二万を連れて行け。一万は、漢中で後詰だ」
 永安の二万を含め、四万であたれということである。できれば全ての部下を連れて行きたかったが、文句は言うまいと思った。
 ようやく戦ができるのだ。
「何か、異論はあるか」
 諸葛亮のその言葉には皮肉がこめられているようにも聞こえたが、魏延は気にしないことにした。
「ありません」
 その瞬間、諸葛亮は一瞬ほっとしたような顔を見せた。この男も、疲れているのだ。それからしばらく細かいところの話を詰め、魏延は部屋を後にした。
 帰り際の廊下で、楊儀と出会った。前の戦で自分ではなく王平を使おうと言ったのはこの男であると、小耳に挟んだことがある。自分の姿を認めた楊儀が、気持ちの中で構えるのが見てとれた。
「楊儀殿」
 魏延は手を上げ、顔に笑みを作って話しかけた。今は、我々が不仲になるべきではない。
「お前のことは、信頼しているぞ。今回の戦での兵站線は、実に見事なものだ」
 そこでようやく、楊儀の心がほぐれたように見えた。難儀なことであった。しかし自分の命令に従い死んでいってくれる兵達のためにも、蔑ろにはできないことであった。
「私は、与えられた仕事をこなしただけです。褒められるべきでは私ではなく、丞相であるはずです」
 自分と丞相が不仲だと知っているこの男は、婉曲にそのことを非難しているのかもしれない。そう思ったが、聞き流した。
「兵の調練は上手くいっている。次の戦で、あいつらは大いに力を発揮してくれることだろう。俺が保証するぜ」
「しかし魏延殿。丞相からは兵を休ませろと言われているはずです。それを無視するのは、いかがなものかと思いますが」
「そのことも、さっき丞相と話してきた。今は兵を休ませるのではなく、気持ちを切らさないことが大事なのだ。兵の扱いは、俺に任せてくれ」
 そう言ったが、楊儀の顔は納得しているようではなかった。
「それは結構なことです。兵の扱いにかけては私なんかよりも魏延殿の方がよほど長けているのですから」
 鼻につく言い方だった。知りもしないことを、あたかも全て知っているかのような言いぐさだ。魏延は、文官のこういうところが嫌いであった。
「私は戦については武官であるあなたにおよぶはずもありません。しかし戦では兵の心は一つであるべきだということくらいは、理解しているつもりです」
 こいつ、本当にわかっているのか。そう思ったが、顔には出さないよう努めた。
「後方を任された者の身としては、前線で兵の心がばらばらにならないかということが心配です。くれぐれも、兵を虐め過ぎぬよう」
「おい」
 言い終わらぬ内に、魏延は遮った。
「俺が、兵を虐めているだと」
 聞き捨てならないことだった。いけないことだと分かっていたが、かっと頭に血が上った。魏延は、楊儀の胸ぐらを掴んだ。
「お前は、兵達が調練に励んでいるのをその目で見たことがあるのか。厳しい調練を課しても、あいつらは俺のことを信頼して従ってくれるのだ。お前の頭の中では、俺達の姿はどうなっているのだ」
 胸ぐらを掴む左手に力を入れると、楊儀は顔を歪めた。歪んだ顔は、怯えに満ちている。こんな奴に兵達の命運が握られているのか。そう思うと、魏延の心の底からは怒りがふつふつと湧いてきた。
「魏延殿」
 通りがかった費禕が二人の間に割って入ってきた。魏延は、楊儀を掴んでいたその手を放した。
「何があったのか知りませんが、ここは私が話を聞きましょう。どうか、ここは落ち着いて」
 焦る費禕が、早口で言った。その後ろでは、楊儀が咳き込みながらこちらを睨んでいる。
「違うのだ、費禕。この男が俺のことを侮辱するから」
「わかりました。さあ、楊儀殿も早く行かれよ。魏延殿、お茶でも飲みましょう。不満は私が聞きますので」
 魏延はうんざりした。それでも少しやり過ぎたかと思い、費禕に促されるままにその場を離れ、出された茶を一息で飲んだ。飲むと、いくらか落ちついた。目の前では費禕が何かを言っている。それに対して、魏延は適当に相槌を打った。
恐らく自分は、今のことでまた文官達から嫌われてしまうだろう。もしかしたら、この一件で次の戦がまたやりにくくなってしまうかもしれない。頭にあるのは、そればかりであった。
 自分は、自分の名誉のために、そして部下たちのために怒ったのだ。そこに、何の落ち度があるのか。魏延は自分にそう言い聞かせた。
 目の前では、一人の文官がまだ何かを喋っている。


5.襲撃
 魏軍から攻められる、漢中防衛戦である。
 句扶が調べ上げた兵站線の動きから、魏軍は三つの道から攻め込んでくると考えられた。
 長安から子午道を通ってくる軍。昨年奪った武都と陰平を攻める軍。そして一番精強な軍は、荊州から漢川を遡上してやってくる。
 王平は、子午道からやって来る軍を受け持つこととなった。
 王平が一軍を率いることとなってからの、初の防衛戦である。それに対していささかの緊張感はある。どこか一つの防衛戦でも破られることがあれば、他の二つの戦線も危ういこととなるのだ。
 子午道からの入り口には、王平が劉敏と共に築いた楽城が完成していた。川の流れと切り立った崖を利用した城である。陳倉城のそれとは様相が異なるが、それに負けない堅固な城に仕上がった。
 兵站の準備は遺漏なく整えられており、そこは流石に諸葛亮の手配りだと思えた。漢中の入り組んだ河川を利用した輸送方法で、そのための小舟が大量に造られていた。喫水が浅くて幅の狭い船である。この辺りの河川は深いとこもあれば浅いところもあり、大きな船だと浅いところで座礁してしまうのだ。船内は多くの物が入るように造られているが、その形は方舟でなく、流線形だ。水を掻き分けるようにして水上を走るその船の舳先には馬の頭を模ったものが付けられており、流馬と呼ばれていた。
 その船の形は王平に、昔よく作っていた葉の船のことを思い出させた。葉の先を指先で細く整えるのが、川の上を速く走らせるコツだった。そしてそれは、今では思い出すことが少なくなった妻のことを思い出させた。洛陽で孤独を感じていた時、一緒に葉の船を作ってくれたのが、王歓だった。それはその時の、大きな慰めになった。
 今となっては、遠いものになってしまったものである。
 諸葛亮は三万を率いて上庸から遡上してくる敵を迎え撃つ。句扶は王平と共に楽城だ。そして昨年奪った武都、陰平の一帯には、魏延が四万を率いて敵の進攻に備えた。
 出立は、明日である。
 戦である限り、またこの漢中の街に戻れるという確証はない。
 王平は句扶に誘われ、黄襲の飯屋に劉敏を伴って行った。趙広は、既に諸葛亮の下で護衛をしているため来ていない。かなりの数の黒蜘蛛が、漢中の街に紛れているのだ。一番気を付けなければならないのが、暗殺だった。
 王平は前回と同じように、こっそりと奥の個室へと入って行った。壁の向こう側では、やはり王訓が働いている気配があった。
「良い顔付きになったではないか、劉敏」
 出された料理を前にして、王平が言った。
「全く感謝しております。句扶殿にしごかれた後の飯は、いつもより旨く感じますし」
 肉を食いながら言う劉敏の顔は、ちっとも感謝しているようではなかった。体中に、無数の痣と擦り傷を作っている。
「少しはできるようにしておきました。一対一なら、そうそうやられることはないと思いますよ」
 句扶も肉に噛り付きながら言った。
 王平は、懐の短剣を素早く取り出し劉敏の顔に突き付けた。肉を食う劉敏は、さっと身を引いてそれをかわした。
「危ないじゃないですか」
 劉敏が口の中のものを飛ばしながら言った。
「なるほど、ただしごかれていたというわけではないようだな。句扶、感謝するぞ」
「それでも、人並み程度です。私や兄者のように、何人も打ち倒すというようなことはできないでしょう」
「何もできずに殺されるというよりはいい」
 王平が笑いながら言った。劉敏はただ、迷惑そうな顔をしている。
「次は、子の作り方でも教えてもらえ」
 今度は、句扶が迷惑そうな顔をした。劉敏は、痣の下で笑いを噛み殺している。
「子には会ってやっているのか、句扶」
「今はそれどころではありません。女にいくらかの銭は届けてやっていますが」
「たまには会いに行ってやれ。俺のようにはなるなよ」
「心配は無用です。女は、選んだつもりですから。馬鹿な女ではありません。俺は、俺の仕事をするだけです」
 素っ気なく言う句扶だったが、やるべきことはきちんとやっているのだろう。王平には、そんな句扶が少し羨ましく思えた。
「昔のお前からは考えられんな。戦が終わったら、俺にも一度抱かせろ」
「えっ」
 句扶が意外そうな顔をした。
「女ではない。お前の子を抱かせろと言っているのだ。俺がそんなことを言うわけないだろう」
 耐えていた劉敏の口から笑いが漏れた。句扶は一つ舌打ちをした。
「そんなことよりも、黄襲殿が心配しておりますぞ」
「ああ」
 戦なのだ。また生きて王訓に会えるという保証は、どこにもない。会うべきかとも思うが、このまま会わずに死んでいくのも悪くないという気がする。
「王訓には、やはり会わないのですか、兄者」
「向こうが会いたがらないだろう。いらぬ気を遣うのはよせ」
「俺が連れてきてやりましょう」
「いいと言っている」
 立ち上がろうとした句扶の手を、王平が掴んだ。句扶はつまらなそうな顔をして座り直した。
「そんなことより、食おう。この旨い肉も、また食えるかどうかも分からんことだしな」
「また会えるかどうかの方が大事だと思いますが」
「くどいぞ、句扶」
 言うと、句扶は黙った。
 黙ったまま、王平と句扶は箸を止めた。何かが近付いてきている。劉敏だけが、嬉々として料理を口に運んでいた。
「やめてください、お二人とも。そんな険悪にならずともよいではないですか。戦の前ですぞ」
「黙っていろ、劉敏」
 王平が静かに言った。そして、懐の短剣に手をやった。
 戸。句扶と同時にそちらへ目をやった。開けられた戸から、静かに女中が入ってきた。
「お酒をお持ちしました」
「どうしました。少し気を張りつめ過ぎでは」
 劉敏が言い終わる前に、女中の手が懐に入った。その瞬間、女の額に短剣が突き立った。句扶が投げていた。
 倒れた女の手には、忍びが使う短い剣が握られていた。
 王平と句扶は立ち上がり、身構えた。
「さっそく来たぞ、劉敏。腹を括れ」
 言われて、劉敏も立ち上がった。
 句扶の指笛が鳴った。頭の中に響く程の大きなものだった。外で、同じ音がした。
「すぐに手の者が来る。それまでは、三人だ」
 個室の外では、いつもと変わらぬ賑わいが続いている。
 王訓のことが気になったが、それはすぐに振り払った。先ずはここを切り抜けてからだ。王平は、周りの全てに気を集中させた。
 上。大きな音とともに天井の板が破られ、三人が降ってきた。床に降り立つ前に、王平と句扶が二人を斃した。もう一人。劉敏に襲いかかった。その背中に句扶の投げたものが突き立った。腰を抜かした劉敏の頬から血が流れていた。なんとか、一撃はかわしたようだ。
 句扶が卓をかかえ、劉敏の上に覆い被さった。卓の上に、吹き矢が刺さった。王平は吹き矢がきた天井の破れに短剣を放った。一つ呻き、倒れる音がした。王平も戸をはずし、壁を背にしてそれに隠れた。もう、吹き矢はこなかった。
 天井裏から、争闘の気配が伝わってきた。句扶の部下がやってきたようだ。
 王平は戸を放り投げ、厨房へ走った。王訓はどうしている。客は皆、騒然として店から逃げようとしていた。その中の一人が、いきなり方向を変え向かってきた。
「どけ」
 王平は口の中で呟き、突き出された剣をかわし、相手の首を掴んで地に叩きつけた。頭蓋が割れる感触が、はっきりと伝わった。
 逃げようとする客を押しのけ厨房へ行くと、黄襲が血を流して倒れていた。王平はそこへ駆け寄った。傷は胸から左腕にかけてで、深いものではなかった。
 王平は王訓を探した。しかし、いない。死体となっていたわけではないので、とりあえずは安堵できた。どこかに逃げて隠れたのだろうか。
 争闘の気配は薄れていった。見えないところで、蚩尤軍が敵を追い散らしているのだろう。もう、大丈夫なはずだ。しかしどこを探しても、王訓の姿がない。
 奥から、句扶と血を流した劉敏が出てきた。句扶は王平に目で合図をし、消えるようにして出て行った。
「王訓は」
 倒れていた黄襲が苦しそうに言った。傷は深くないが、すぐに血止めをしないといけない。どこからか隠れていた黄襲の妻が出てきて、持ってきた針と糸ですぐに傷を縫い始めた。元軍人の妻だから、多少の心得があるのだろう。
「王訓は、連れ去られました」
 傷を縫われながら黄襲が言った。
「羊肉の商人が、敵の忍びでした。私は、その男に斬りつけられたのです。そしてその男に王訓は連れ去られました。私はそれを見ていることしかできませんでした」
 黄襲は身を起こそうとしたが、妻に止められた。黄襲が止められなかったのは、仕方のないことだった。命があるだけでも良しとすべきだろう。しかし王平は、何と言っていいのかわからなかった。
「劉敏、お前はここで傷の手当をしておけ」
 言って、駆け出していた。どこへ駆ければいいのかは、わからない。しかし、ただ駆けていた。
 暗い夜道を、建物の陰に目を配りながら走った。まだ敵がどこにいるかわからないという危険はあるが、構わない。むしろ襲ってくればいい。誰でもいいから捕え上げ、知っていることを全て吐かせてやればいいのだ。
「兄者」
 建物の上から、句扶が降ってきた。
「一人では危険です。お戻りください」
「訓が連れ去られた。じっとなどしておけるか」
「もう、敵は撤収しました。かなり周到に計画されていたことだったようです」
「なら追えばいいだけだ。お前が来ないなら、一人でも行く」
「兄者」
「句扶。女中に黒蜘蛛が紛れていた。お前は何をしていたんだ」
 叫んでいた。言われた句扶は、ただ俯いていた。
 言ってはいけないことを言ったという気がした。句扶は、手を抜いていたというわけではないのだ。しかし、すまん、という言葉は出てこなかった。
 句扶を押しのけて行こうとしたが、やはり止められた。
「王訓は、私の命に代えても取り戻します」
「くどい」
「兄者」
 言って、句扶は短剣で自分の左目を突いた。思わず王平は息を飲んだ。
「これは、自分への戒めであり、兄者への贖いです。これでどうか、気をお鎮めください」
 手にある短剣には、目玉が刺さったままだった。句扶の顔は、血の涙を流したようになっている。
 それでようやく、王平は気を取り戻した。左手で自分の頭を掴んだ。額の傷跡が、ずきりと痛んだ気がした。
「悪かった。俺が悪かった」
 言うと、目の奥がかっと熱くなった。
王平は自分の拳を、目の前にあった壁に叩きつけた。


6.楽城
 馬の肌が目の前にあった。手を当てると、厚い皮が温もりを持って微かに動いている。戦場では、生死を共にする馬である。
 夏侯覇は、自分は二度死んだのだと思っていた。一度目は街亭で、斬られる寸前で張郃に助けられた。二度目は天水の東で、辛くも伏兵の包囲から脱した。
 父は夏侯淵といい、魏の将兵なら誰もが知っている将軍で、兄の夏候栄と共に定軍山で戦死した。
 昔から父のようになりたかった。戦場で剣を振り、矢を放ち、蝗の大群のような敵兵を打ち砕いてみたかった。しかし本当の戦場とは、そんな華々しいものではなかった。
 父と兄を殺した蜀軍を憎んでいた。初陣の前に人一倍調練に打ち込むことができたのは、その憎しみがあったからだ。剣を持っても、馬に乗っても、同じ世代の人間に負けることはなくなった。戦など、簡単なものだとどこかで思っていた。
 しかし、二度死んだ。
 自分の持っていた自信など、つまらないものだったのだ。また同時に、自分の持っていた憎しみも、戦場では何の役にも立たないものなのだと知った。憎むことで、自分の戦いを彩りたかっただけなのかもしれない。今となってはただそう思う。
 張郃は長安を離れたが、書簡のやり取りはあった。定軍山の戦いでは、父の副官を務めていた。
 自分の持っていた憎しみなどつまらないものだったと、張郃への書簡に認めたことがある。返ってきたものには、今更気付いたか馬鹿者が、と書かれてあった。その通りだと思った。
 その張郃は、今回の戦では、漢中の東にある上庸から攻め上がることになっていた。夏侯覇は、曹真の下で、子午道を通って攻めることになっている。郭淮の下でなく良かったと、密かに思っていた。あの人の下では、いささかやり難いのだ。郭淮は長安から西へと進み、昨年の戦で奪われた武都と陰平を攻めることになっていた。
 郭淮は復讐の炎に燃えていた。夏侯覇はそんな郭淮を見て、それもつまらないものだと思った。戦場では、敵の兵がいて、味方の兵がいる。それだけのことなのだ。
 そのことは、口に出して言ったことはない。曹真には、郭淮と自分の不仲を見通されているという気配があった。
 進発前夜である。
 二年前と違い、目の前の戦を怖いと感じるようになっていた。怯懦があるというわけではなく、それは心の中にしまっておくことはできる。その怖さに打ち克つことが、戦なのだと思えるようになっていた。
 子午道は、険しかった。初めて蜀が攻めてきた時は、この道から来られると長安は危うかった。こちらには何の備えもなかったのだ。その時も夏侯覇は、何故、と思ったものだった。
 実際に通ってみると、この道を取らなかった理由がよく分かった。山の岩肌を穿って造った桟橋を通り、胸の深さまである河を渉ることもある。そして、よく雨が降る。この道に兵站を通すのは、大変なことだろう。しかしやはり、ここから来られたら危うかったと思う。曹真は、兵站の準備にかなり苦心したようだ。
 黒蜘蛛の情報によると、蜀の入り口に、大規模な城が築かれているらしい。郭奕が束ねる黒蜘蛛は、曹真軍に付随してきていた。先ずは、この城を抜かなければならない。
 曹真軍は、楽城と呼ばれるその城から五十里東北に離れた山頂に陣を構えた。どこに水源があるかも、事前に黒蜘蛛が調べ上げている。
 夏侯覇が兵を指揮して山麓に柵を組み立てていると、曹真に呼ばれた。
 それぞれに作業をしている兵達を横目に幕舎の前まで行くと、そこから出てきた郭奕とはち会った。
「おう、夏侯覇」
 郭奕は気軽に声をかけてきた。男色だという話を聞き、はじめは気持ちの中で構えることがあったが、今ではもう慣れた。郭淮なんかは、それを露骨に嫌がったりしている。
 夏侯覇は立ち止まり、郭奕に一礼した。
「やはり、二度死んだ男は違うな。良い目をしている」
 近づいてきて、郭奕は夏侯覇の肩をぐいっと引き寄せた。夏候覇は眉をしかめた。嫌だとは思わないが、迷惑なことだとは少し思う。
「敵があの城から出てきたら、先鋒はお前だ」
 郭奕が囁くように言った。
「敵が、あの城から出てくるのですか」
 夏侯覇は怪訝に思った。普通に考えれば、蜀軍は籠城を選ぶはずである。
「お前、俺のことを舐めているのか」
「言っている意味が分かりません」
「まあいい」
 郭奕は夏侯覇の肩を放した。
「次は、もう死ぬな」
 そう言い残し、郭奕は歩いて行った。おかしな男だと思った。
 幕舎に入る前にちらりと振り返ってみたが、もうそこに郭奕の姿はなかった。
「夏侯覇です。入ります」
 曹真に促され、夏侯覇は従者に出された床几に座った。最低限のものだけある、粗末な幕舎の中である。
「城から敵が出てきたら、お前が先鋒だ」
 あばた顔の曹真が、夏侯覇の顔をじっと見つめながら郭奕と同じことを言った。
「先程、ここから出てこられた郭奕殿から伺いました」
「そうか。敵の指揮官の名は聞いたか」
「聞いておりません」
「王平」
 言われた瞬間、夏侯覇の体の中の何かがかっと熱くなった。自分を二度殺した男の名だ。
「気負うな、夏侯覇。過去のことがあるから、お前に先鋒を任せるわけではない」
「はい」
「あの城から、王平を釣り出す。その首を、お前は奪ってくるのだ」
「はい」
 王平があの城から出てくるのか。そう思ったが、口には出さなかった。街亭での初陣では、敵の一挙手一挙動に疑問を持ったものだ。その疑問を張郃にぶつけると、郭淮に叱られた。いちいち疑問を持っていればきりがないのだということは、戦を通じて学んだことだった。
 そんな夏侯覇の心情を見透かしてか、曹真のあばた顔がにやりと笑った。
「お前は、強くなった。自分ではどう思っているのか知らんがな」
 外で、山鳥が思い出したように一つ鳴いた。
「私は、二度負けました。軍法により首を落とされても仕方がなかったと思っています」
「だから、次も負けるのか」
「それは」
「負けを恥だと思うことは、悪いことではない。負けは、男を強くもするし、腐らせもする。負けて腐らなかったのは、お前の強さだ」
「恐れながら、負けは負けです。負けるのは、自分が弱いからです」
「それでいい。お前がまだ弱いかどうかは、この戦で確かめればいい」
「はい」
 望むところである。いつまでも、負け犬のままではいたくないのだ。
 戦に対する怖れはあったが、死に対する恐怖はない。二度死んでいるのだ。本当に死んでしまえば、恥も糞もない。
「では任せたぞ。それまでは、ここの陣を強固なものにしておけ」
「御意」
 行け、と言われ、夏侯覇は幕舎を後にした。
 何故、とはもう思わない。思うだけ、無駄なことなのだ。自分は、全力で命令を遂行するだけの軍人であればいい。将軍であった父の子であるということは、戦場では何も生みはしない。
 王平。その名を思い出すと、夏侯覇の腹の底はどうしようもなく熱くなった。怨みや憎しみがそうさせているのではない。言葉では言い表せないものがあった。自分が男である限り、それはどうしようもないことなのだと思えた。
 自分を二度殺した男が、目と鼻の先にいる。夏侯覇は柵を作る兵の指揮に戻っても、そのことだけを考え続けた。

 劉敏は王平の副官として、三万の軍勢と共に、漢中の街から東へ二百里の楽城へ入った。
 楽城はコの字形に折れた河川にすっぽりと入る位置にあり、川の流れがそのまま外堀の様相を呈している。周りには草木が青々と茂っており、兵を伏せておける場所は少なくない。我ながら良い場所に城を築いた、と劉敏は思っていた。
 諸葛亮も三万を率い、楽城から南東五十里の成固(せいこ)に陣取った。楽城と成固を結ぶ線が、蜀軍の防衛線である。魏軍は東の上庸と、東北の長安から進軍してきていた。
 王平軍が受け持つ曹真軍は、楽城から東北五十里の興勢に本陣を置き、少しずつ陣を前に張り出してきていた。
 楽城の兵達の士気は、悪くない。北への遠征時はやる気のない兵が多々いるようだったが、今回は自分の故郷を守る戦だった。こういう時は何かをしなくても、兵の士気は自然と上がる。
 長安に蜀軍を近付かせまいと陳倉に入った魏軍の兵達は、寡少ながらも驚くべき粘りを見せた。そして、多勢であった蜀軍は負けた。
 今度は、こちらが守る番である。兵に士気はある。そんな中での将は、どっしりと構えておくべきだった。そんな将の姿を見て、兵士は不安を抱くことなく戦場で力を出し切ることができるのだ。
 しかし楽城の守将である王平の心は、乱れていた。漢中を発つ直前、黄襲の飯屋で息子である王訓が攫われたのだ。王訓の行方は、それ以来分かっていない。
 それに責任を感じた句扶は、自らの左目を抉り出していた。黄襲の飯屋の女中に、黒蜘蛛が紛れ込んでいたのだ。そして黄襲に羊の肉を売っていた商人は、黒蜘蛛を束ねる郭奕という男だったという。
 それを、見抜けなかった。左目を潰した句扶は憤怒を顔に露わにさせて、静かにそう呟いていた。それは今までに見たことのない恐ろしい顔で、劉敏は何も言ってやることができなかった。
 劉敏は、句扶に良い感情を持っていなかった。自分が句扶のことを気に入らないのではなく、句扶が自分のことを嫌っていた。何故かということは、しばらく考えた。漢中を守る同僚として、上手くやっていくべきだと思ったからだ。
 句扶が自分のことを嫌っているのは、諸葛亮の意を汲む者として、王平に色々と言うからだと思っていた。口うるさいと思われていたのだろう。それは自分の役目であるので、仕方のないことだと割り切った。しかしそう割り切っても、句扶のことを好きになることはできなかった。
 付き合いを持つ内に、自分の考えは間違いだったと思え始めた。句扶は多分、王平と親しくする自分に嫉妬を感じているのだ。王平と句扶は、軍営の同僚という以前に、若い頃からの竹馬の友だった。昔は魏軍に属していた王平が蜀の将として取り立てられたのも、句扶が丞相に進言したからなのだという。それができる程の仕事を、句扶はしていた。
 それに気付いてからは、王平と句扶が同席している前では、一歩下がるようにしていた。それで幾らか、句扶からの風当たりは弱いものになった。
 嫉妬しているのか、とは本人の前では口が裂けても言えない。言えば、首を飛ばされかねない。あの句扶なら、多分やるだろう。
 その句扶に武術を仕込まれると決まった時は、心底嫌だった。武術はできるようになるべきだとは思っていた。昔から、体を動かすことより、書物を読むことに力を入れていたのだ。
 どのようにして虐められるのかと思ったが、句扶は意外と親切に、剣の持ち方から教えてくれた。しかし親切だったのは初めだけで、すぐに厳しくなった。剣に見立てた木の棒で何度も打たれ、突き倒された。打たれる時に目を閉じるな。倒されたらすぐに立ち上がれ。耳にたこができるくらい、そう言われた。とりあえずはそれだけでもできるようになれ、とも言われた。
 打たれる度に痣ができ、傷ができた。一日が終わり、寝台に横たわれる時間が毎日待ち遠しかった。
 その間の兵の調練は、王平が全て受け持ってくれた。
 句扶のしごきが無駄ではなかったということは、黄襲の飯屋で証明された。黒蜘蛛が襲撃してきたのだ。
目の前で女中の額に剣が突き立ち、天井から三人が降ってきた。王平と句扶が二人を瞬時に斃したが、一人が自分に向かってきた。剣を突き出されたが、目は閉じなかった。敵が自分の喉を狙っているということが、瞬時にはっきりと分かった。頬を斬られはしたが、それでなんとか一撃をかわすことはできた。しかし、腰が抜けてしまった。上を見ると、敵がこちらを吹き矢で狙っていた。やられる。そう思った瞬間、卓を盾にした句扶が間に入ってきた。そしてすぐに、句扶の手の者が助けに来た。
腰を抜かしてしまった自分を、劉敏は恥じた。次に同じようなことがあれば、必ず立っていようと思った。
それから、劉敏は句扶に親しみを感じるようになっていた。漢中の職人に命じ、鉄を丸くした眼帯を作らせた。その表面には、両手に武器を持った蚩尤の姿が模られている。それを持っていくと、句扶は鼻をふんと一つ鳴らすだけだったが、一応受け取ってもらえはした。
劉敏は左耳からあごにかけて走る傷にしばしば手をやった。喋るとまだ痛くはあるが、すぐに縫ったので傷はもうほとんど塞がっている。その傷の様子を確認するのが、劉敏は嫌いではなかった。なんとなく、男になれたという気がするのだ。今までは軍内にいても、文官あがりだということで微かな気後れがあった。この傷ができてから、それは心の中からきれいに消え去っていた。
「劉敏、句扶はまだ戻らないのか」
 城外での調練を終えて帰ってきた王平が言った。
「句扶殿の手の者が、三日に一度報告にあがっております。心配されることはないでしょう」
 楽城を出る直前、句扶は劉敏のことを呼んだ。王訓のことを取り返すまで帰らない、と言われた。王平には、敵情視察とだけ言っておけ、とも言われた。劉敏は、ただそれに頷いて答えた。自分にだけそう語ってくれたということが、何となく嬉しかった。
「王訓が攫われた時、俺は句扶に酷いことを言ってしまった」
「王平殿、戦です。そんな愚痴めいたことは、終わってからになさいませ」
「お前は厳しいな。いや、お前の言う通りか」
 そう言う王平の目は、どこか泳いでいた。戦を前にした城の中である。自分がしっかりしなければ。将の気持ちが緩んでいると、それは兵にも伝播する。
「しっかりなさいませ、王平殿。あなたはここの大将なのですぞ」
「わかっていると言っている。戦が始まれば、俺が率いる騎馬隊の騎射を見せてやろう。街亭では、それで何人もの味方を助けた」
「今回は、籠城です。騎射などする機会などありません」
「言ってみただけだ。冗談が通じないのは、お前の悪いところだ」
 王平は手を振り、つまらなさそうに自分の居室へと戻って行った。
 やはり、自分がしっかりしなければ。劉敏は自分に言い聞かせた。
 劉敏は城壁に登った。壁上では、歩哨が四方に目を配っている。馬はどこまで駆けさせられるか、どこに兵を伏せることができるか、ここら一帯の地形は頭に入れていた。この城は、自分が築いた城なのだ。
 今のところ、楽城は静寂に包まれている。いつ戦が始まるのかは、蚩尤軍が掴んでくる情報で分かるだろう。それまでは兵の士気を持続させることが、自分の戦だった。
 ぱらぱらと、雨が降ってきた。雨の多い地域である。こういう時は、劉敏は進んで櫓に上って見張りをした。将が雨に打たれることで、歩哨もしっかりと見張りの任を果たすのだ。
 ふと、左頬の傷に手を当ててみた。このところ、それが癖になりつつある。それを確認することで、自分は戦う男達の上に立つ者なのだという気持ちになれた。
 劉敏は、敵が攻め寄せてくるであろう山間を、じっと見つめた。漢中を守る山麓の木々が、静かに雨に濡れている。


7.騎馬戦
 襤褸に身を包んでいた。王平らがいる楽城から東北三十里の敵陣内である。
 句扶は木の板が先に付いた棒を手繰って人糞の始末をしていた。そういう仕事をする人夫として、魏軍内に紛れ込んだのだ。
 左目が潰れていた。王訓が攫われてしまったということに対し、責任を取る形で自ら抉ったのだった。
 それは、蜀軍の徴発を拒んだことで粛清されたということにしていた。魏軍の兵卒を騙すには、十分な嘘だった。糞の始末は、誰もが嫌がる仕事である。その兵卒はわずかな銭で、自分の仕事である人糞の始末を命じてきた。自分は運がいい、とその兵卒は笑っていた。
 軍内でそういったことを勝手にすることは禁じられているらしく、内密にやれとも言われた。正に願ったり叶ったりだった。
 句扶は変相を施し、そこで起居した。寝るのは外の木の下である。この陣営内には、郭奕がいる。顔が割れてはいたが、目を潰しておいたことが良かった。目のない新しい顔で変相をすると、全くの別人になれた。これなら恐らく、王平でも見分けられないだろう。劉敏からもらった蚩尤が模られた眼帯は、懐に忍ばせておいた。
 兵力は五万。人糞の始末をしながら、そういうことも調べて手の者を楽城に走らせた。兵糧の動きもできる限り調べた。雇い主である兵卒にさりげなく聞くと、ある程度のことを知ることはできた。そしてその情報を裏付けるため、夜間に動いた。漢中の山中は、自分の庭のようなものである。失くなった左目も、右目があるから問題ない。音と、匂いと、空気の流れがあればいい。むしろ五感は、左目があった時より研ぎ澄まされている。漢中の山中を知らない黒蜘蛛などに、捕らえられるはずもない。
 王訓が捕らえられている場所は、ある程度見当を付けた。軍営の後方に立ち並ぶ、将校級の者が使っている小屋の一つである。その小屋だけは黒蜘蛛の警固が厚く、近づくことができなかった。これだけ警固が厚いのは、敵大将の曹真が使っている幕舎以外にない。一つの小屋に施しているその不自然な程の警固の厚さは、そこに王訓がいることを示していた。しかしそれは句扶がそう思うだけで、確証はない。自分が郭奕ならそうすると思うだけだ。もしかしたらそれはそう思わされているだけで、罠かもしれない。
 確証を得るまでには、まだ時がかかる。しかしそこまで時をかけても良いものか。王訓を人質に、どのような取引をされるかわからない。王平は、そのことで思いの外悩んでいるのだ。それに、郭奕は男色だった。そのことは、できるだけ考えたくはなかった。一刻でも早く助けだすべきだ、と思うだけだ。機を得るまで耐えて待つことが、自分の戦だ。
 句扶は糞を埋めるための穴を掘っていた。毎朝の日課である。本当は下っ端の兵卒がやる仕事だったが、それを句扶がわずかな銭で請け負っていた。穴はただ掘るのではなく、いささか工夫した。この時期のこの地域は、雨がよく降るのである。この陣内に大雨が降れば、その水はこの工夫された穴の糞を攫い、兵卒が起居している場所にどっと流れ込むだろう。それはただ汚いだけでなく、疫病の元になるはずだ。
 戦が始まろうとしている。それは兵の動きと、軍営の空気でわかった。軍が動けば、軍営には隙ができる。その隙こそ、王訓奪回の好機となるはずだ。その機は逃すべきではない。
 軍営の方々から、騎馬が移動を始めていた。その騎馬達は、夏候の旗の下に集結していた。街亭で見たことのある旗だ、と句扶は思った。
 句扶が密かにその騎馬隊を見ていると、五十騎程に守られた、綱で曳かれた檻が姿を現した。
 句扶は目を見開いた。王訓。その中にいた。句扶は逸る気持ちを抑え、それを見ていた。助け出そうにも、五十騎の周りには数千の騎馬が集まっている。まだ、我慢だ。恐らくこれが、楽城攻めの先鋒なのだろう。ならばやはり、王訓は何らかの取引に使われようとしているのか。
 句扶は糞の入った桶を運びながら、一人の人夫になりきることに努めた。

 防備は遺漏なく整えられていた。自分の代わりに劉敏が、かなりのところで働いてくれていたのだ。
 蜀と魏の大戦である。王平は、蜀の防備一角を任されていた。よく考えると、何故自分が、という思いが込み上げてくる。
 句扶の口利きで蜀軍の一員となり、それからは命令を忠実に守って軍人として勤めた。そのお蔭で、人が羨むような出世を果たすこともできた。
 しかしそうしてきたのは、いつか王歓のいる洛陽へと帰れることを信じていたからだ。
 その王歓は、死んでいた。それも、定軍山での敗戦後、子を産みすぐに死んでいたのだという。自分がしてきたことは何だったのか。それを考えると、空しさしかない。
 王歓の兄である王双を自らの手で斬り、その汚れた手の元に息子の王訓がやってきた。王訓は、自分のことを父だと認めてくれていない。当然のことだと思った。その王訓は、開戦前に攫われていた。
 心が乱れていた。将がこのようなことで兵の指揮ができるのか。劉敏はそのことを強く心配しているようだった。そして、自分がすべきことまでやっていた。
 そんな劉敏の姿を見ても、乱れた心は乱れたままだった。
 何のために、自分は戦っているのか。
 蜀で過ごしたこの十年間を思い返してみても、少なくともそれは蜀のためではなかったという気がする。漢王室の復興など、自分にとってはどうでもいいことだった。ただそれは、口に出して言ったことはない。
 戦っていたのは、家族に会うためだった。そう思っていたはずだったが、それはただ自分が生き長らえるための口実だったのではないかという気がしてくる。
 現に、王歓と王双は死に、王訓には嫌われている。にも関わらず、自分は蜀の将として生きていた。
 蜀の将軍として楽城は死守しなければならない。しかしそのために、王訓は敵の手の中でどのような目にあっているのか。そのことを考えると、王平の心は割れそうなほどに乱れるのだった。
 深夜、劉敏が王平の居室を訪ってきた。
「王平殿、敵が動きました」
 王平は、自分を乗せている椅子を劉敏の方に向けた。
「そうか。俺はてっきりまた小言を言われるのかと思った」
 劉敏が、強い視線でじっとこちらを見つめていた。その口は、ぐっと引き締められている。以前なら、生意気な態度だと張り飛ばしているところだった。しかし今は、そんな気力すら湧いてこない。
「籠城だ、劉敏。息子が捕らわれているからといって、馬鹿なことをするつもりはない」
 心とは、逆のことを言っていた。
「はい、しかし」
 劉敏が目線を逸らしながら、言い難そうに言っていた。劉敏の手に、何かが握られている。
「なんなのだ。何を隠している」
 王平は、劉敏の手にあったそれを奪うようにして取った。
「矢文です、王平殿。先程、場内に射こまれてきました。非常に申しあげにくいことなのですが」
 王平はその文を開いた。そして、自分は字が読めないことに気付いた。
「何と書いてあるのか、正直に言え。嘘をつけば、その首を飛ばす」
 読めなくとも、王訓のことが書かれてあるのだろうということは分かった。
「城を出て戦え。さもなくば、王訓の命はないと」
 そんなところであろうと思った。
「つまらんことだ」
 王平は一笑に付した。心の中は、笑ってはいなかった。
「このような手を使ってくるだろうことは、十分に予想していたことだ。こんなものに乗る程、俺は若くはない」
「籠城でよろしいですか」
 王平は一瞬、言葉に詰まった。
「つまらんことは言うなと言っている」
 劉敏の目が、じっとことらを見つめている。今、言い澱んだな。そう言われている気がした。
「野戦に出れば、訓が戻ってくるのか。その野戦の結果がどうなろうが、また違う取引に使われるのは、見え透いていることだ」
「恐れながら、その言葉を聞きたかったのです。徹底して籠城すれば、この城はまず陥ちません」
 王平の目から見ても、それは疑いのないところであった。
「句扶が帰ってこないな。敵情視察などと言って、訓の居所を探っているのだろう」
「御見逸れをいたしました。本人からは、黙っておけと言われていたのですが」
「心配はしていない。あいつは殺しても死なない、そういう男だ」
 句扶なら、自らの命を懸けて王訓の奪回を試みるだろう。攫われた責任を感じて、自分の目玉を抉り出すような男なのだ。
「卑怯なのかな、俺は。自分がすべきことを、句扶に丸投げしてしまっている」
「ここは、句扶殿を信じましょう。句扶殿なら、きっと王訓を取り戻してくれるはずです」
「直接しごかれたお前がそう言うのだ。間違いはないだろう」
 言って、二人は軽く笑った。やはり、心から笑うことはできなかった。
 朝になり城外に出てみると、目の前に魏軍の騎馬隊が展開していた。楽城の前を流れる河を挟んだ、左手に秦嶺山脈の山麓がそびえる原野である。
 敵の軍中に、夏候の旗が見えた。夏候栄の兄である夏候覇が率いる一軍だ。またこいつか、と王平は思った。野戦に出れば、軽く捻ってやれる自信はある。
 しかし、籠城である。夏候覇という敗将を前に出し、自分を侮らせようとしているのかもしれない
 敵軍の後方に、檻が一つあった。何だと思い、王平は目を凝らした。王訓。この距離からだと米粒程にしか見えないが、それは確かに王訓だった。
 王平は、自分の血が逆流するのを感じた。
「見てはなりません」
 隣で同じく見ていた劉敏が、王平の手を引きながら言った。王平は、その手を振り払った。
「ここは私に任せて、王平殿は中へ」
「・・・わかった」
 劉敏の言うことに素直に従った。王訓のことで平静を保てなくなるのは、どうしようもないことだった。
 王平は城内の軍営にある自室に入った。ここで報告だけを受け、それに対する指示を出す。それも、一つの戦の形だ。外のことは、劉敏に任せておけばいい。
 王平はそこでしばらくじっとしていた。目を閉じ、乱れた心を整えることだけに努めた。
 外で戦いが始まる気配は、いつまで経っても伝わってこなかった。この城の防備を見て、二の足を踏んでいるのだろう。陳倉城に到着したばかりの丞相がそうだった、と王平は思った。
 伝令が入ってきた。王平は、静かに目を開いてそちらを見た。
「敵軍から、このようなものが城内に届けられました」
 始まったかと思ったが、そうではないらしい。伝令の手には、小さな木箱があった。
 王平は伝令からそれを受け取り、開いた。
 血塗られた手。まだ若い男の左手だった。
全身の毛という毛が逆立った。王平は自室から飛び出すようにして出た。
「俺の馬を曳け。全騎馬隊は、出動準備。浮き橋をすぐに出せ」
 大声で命じていた。城内が、俄かに慌ただしくなった。劉敏が何か言いながら走ってきたが、それは押しのけた。もう、他に何も考えることなどできなかった。

 雨がぽつりと降ってきた。
 夏候覇は馬上にありながら、鼻の頭を指先で少し拭った。
 敵が籠る楽城が目の前にあり、その手前に原野が広がっている。
 騎馬隊の展開が終わったと部下が伝えてきた。予想していたよりも、早く終わったと思った。指揮がきちんと行き届いているという証拠である。もう、初陣を迎えたばかりの青二才ではないのだ。
 この戦の指揮官である曹真からの命令は、敵が出てくるまで待機ということだった。
 本当に出てくるのか、ということは考えなかった。出てくるというのだから、出てくるのだろう。自分がすべきことは、故を考えることではなく、敵を討ち果たすことなのだ。
 騎馬隊の後方に、檻が曳かれてきた。中にはまだ容貌に幼さを残した男が入れられていた。敵が出てくることとその檻は、何か関係があるのかもしれないと思った。詳しいことは、何も聞かされてはいなかった。
 何か汚いことをやっている、という気がした。しかし、それは気にしないことにした。命を懸けた戦なのだ。無駄な思いに捕らわれてしまえば、その分だけ死が近づく。
 降ってきた雨は、気にすべきことだった。晴れた日と同じように馬を駆けさせると、馬が濡れた草で足を滑らせることがあるのだ。それは、張郃から教わったことであった。秦嶺山脈から南のこの地域では、雨がよく降るのだ。
 濡れた草地での調練は積んできた。しかし、実戦では初めてである。想定していなかったことが起こるというのは、常に心に置いておかなければならない。それも、張郃から学んだことだ。街亭では、蜀軍が城から出てきてこようとは思いもしなかったのだ。
 城が、動き始めた。城の前を流れる河に、浮き橋が架けられ始めた。やはりそれは、自分の中で想定していなかったことだ。戦における想定などは、そもそも意味のないことなのかもしれない。
 王の旗。三里程離れた城の門から姿を現した。俺を二回殺した男。その思いは、拭っても拭いきれないものだった。それは悪いものではない、と曹真は言っていた。
 夏候覇は逸る気持ちを抑えた。本当は、今すぐにでもあの男の首を奪りに行きたいのだ。
 時をかけ、王平の騎馬隊が城から出て展開を始めた。数は、四千。自分が率いる先鋒騎馬隊と、ほぼ同数だ。
「前進」
 夏候覇は手を上げ、強かに言った。その言葉が、小隊長の口を伝って全軍に伝わっていく。
 自分は落ち着いている。そう言い聞かせた。敵の全容は見えているし、その周囲の地形も見えている。街亭の時は、そうはいかなかった。
 少しずつ、馬足を上げた。周りには、二千の騎馬が自分を囲んでいる。そして左右のやや後方に、二つの千騎が続いてきている。
 右手に山麓、左に原野。夏候覇は左の千騎を少し押し出し、右の千騎をやや下げた。こちらに向かってきている王平の四千騎が二つに割れた。右に三千。左に千。王平は、どっちだ。
敵は全体的に左へ走っている。思った通り、右の狭い空間を嫌った動きだ。殴り合おう。そう言われているようでもあった。
自軍の左翼に向かってきた敵の千騎が、不意に曲がって大きく横腹を見せた。騎射が左翼を襲った。街亭ではこれで、指揮していた騎馬隊が大いに乱れた。
厚く備えておいた馬甲がそれを弾いていたが、それでも射抜かれた兵がぱらぱらと落馬している。夏候覇は、左に馬首を向けた。後ろからは、右翼にいた千騎が追従してきている。
乱れかけた左翼に突っ込もうとしていた敵の千騎が反転し、夏候覇の突撃をいなした。馬足は、馬甲が厚い分だけこちらが遅い。
右の敵三千騎が、こちらに横腹を見せていた。矢。飛んできたそれを、剣で叩き落とした。
「怯むな」
 馬上を容赦なく吹き付けてくる風の中で、夏候覇は叫んだ。矢は時を与えなければ、連続して飛んでくることはないのだ。夏候覇は馬腹を蹴った。強くなり始めた雨が、夏候覇の顔を激しく打ち始めた。
 夏候覇を先頭とする二千騎が、勢いよく敵の三千にぶつかった。敵と味方が入り乱れる。乱戦になる前に、敵から離れた。離れたところに追従していた千が突っ込み、敵を断ち割った。三百騎は倒したか。こちらも、百五十程の被害が出ている。夏候覇は敵との距離を取り、二つの騎馬隊を一つにまとめた。
 敵の二千七百が追ってきていた。速い。夏候覇はすかさず反転を命じた。こちらに勢いがつく前に、敵の騎馬が突っ込んできた。夏候覇はその先頭に目を見開いた。王平。その目はこちらに向けられていた。また会ったな。目が、そう言っていた。
夏候覇の体の底が、かっと熱くなった。望むところだ。俺は、お前を殺しにこの戦場に来たのだ。剣と剣が交差し、火花が散った。
王平の騎馬二千七百は本気でぶつかってこず、こちらの騎馬隊の皮膚を掠め取るようにして離れていった。馬甲の防御力が、敵の突撃を跳ね返したとも見えた。
味方は、二千五百に減っていた。敵も、同じくらいだろう。
騎射で乱されていた左翼が態勢を整え、こちらに合流しようとしていた。その孤立した左翼に、一つにまとまった王平の騎馬隊が向かっていた。夏候覇もそちらに馬を走らせた。後ろを取れる。その代わり、孤立した左翼にはかなりの被害が出るだろうと思えた。
「突っ込め」
 夏候覇は叫んだ。
 王平の首。目は、それだけを追っていた。降ってくる雨が、熱い。いや、熱いのは、俺の体か。
 孤立した味方に向かった敵が、ぶつかる直前で不意に二つに割れ、反転した。そしてその二つの騎馬隊は、夏候覇の両側から騎射を放ってきた。味方がばたばたと倒れていく。
 夏候覇は歯噛みした。後ろを取れると思ったが、そこをするりと抜けられた。
 夏候覇は孤立していた騎馬と合流し、二つに分かれた片方の、山麓側に走った敵の半数を追った。敵のもう半数は、後ろから迫ってきている。目の前の敵は、ぐんぐんと離れていった。
 ある程度離れたところで、追われていた方の敵騎馬が反転を始めた。後ろからも、敵。挟撃を受ける格好となった。
「そこだ」
 思わず口に出していた。
 山麓の茂みから、喚声と共に、魏軍の歩兵が湧くようにして現れた。山麓側に走った敵が、にわかに浮き足立つのが分かった。ここが勝負所だ。夏候覇は馬腹を蹴りに蹴った。
 逆に挟撃を受ける形となった敵騎馬隊が、歩兵の矢を受けばたばたと倒れていった。そこに、一丸となった夏候覇の騎馬が突っ込んだ。
 敵が算を乱し始めた。
 王平はどこだ。夏候覇は二百だけを小さくまとめ、そこから離れた。潰走を始めた敵の追撃は、他の者達に任せておけばいい。夏候覇は目を左右に走らせた。百程にまとまった塊が、乱戦を抜け出ようとしていた。
 あそこだ。夏候覇はそちらに馬首を向けた。
 俺を二度殺した男がそこにいた。お前の首を奪るまでは、俺は死んでも死にきれないのだ。
 強くなってきた雨が、夏候覇の目を打った。しかしその目は、かっと見開いたままだった。周りを百弱に減らした王平が、死地を抜け出た。
 逃がすか。夏候覇は馬の尻に剣を突き刺した。
 馬足が上がる。左には、割れた片方の敵騎馬隊が迫ってきていた。あそこに逃げ込まれるわけにはいかない。王平。その背中が近づいてきた。届く。夏候覇は馬上で剣を掲げた。
 目の前に迫った王平が、不意に左に折れた。振り返った王平と、目が合った。その顔は、にやりと笑っていた。
 体の中の熱いものが火を噴いた。殺す。夏候覇も馬首を左へ向けた。
 ふっと、体が軽くなった。そして強い衝撃が体を打った。口に泥が入り、馬から落ちたのだと分かった。滑ったのだ。目の前でもがく馬を見て、それに気が付いた。馬は立ち上がろうとしていたが、無様にもがいているだけだった。力を使い果たしたのだ。
王平は既に馬群に紛れ、城の方へと駆け去っていた。夏候覇は膝立ちになり、地を叩いた。
雄叫びを上げた。もう一歩で、届いたのだ。しかし、届かなかった。
全身を打つ雨が、この上なく煩わしかった。

戸が勢いよく開けられた。
「俺の装束を持て」
入ってくるなり、王平は鋭く怒鳴るようにして小者に言った。小者が、それに気圧されるようにして走り出した。
「王平殿」
 劉敏を無視して行こうとする王平の後ろから声をかけた。
「小言は後にしろ」
 楽城に属する騎兵の半数が壊滅していた。魏軍の挑発に乗り、伏兵に遭って散々に打ち崩されたのだ。これが諸葛亮の耳に入れば、どんな叱りを受けるかわからない。
「少し落ち着きなされ」
 興奮しながら行こうとする王平の体からは既に具足が解かれていた。雨と泥で汚れた軍袍が、王平の行く廊下を濡らしている。
 小者が黒装束を持ってやってきた。王平は兵の目を気にすることもなく、軍袍を脱いで素早くそれに着替えた。
「雨だ、劉敏」
「そんな話はしておりません」
「この雨は、いつまで続くと思う」
「いつまでって、それは」
 城内に入る前、空は黒く澱んでいた。かなり強い雨が降ってきたのだ。この時期の漢中では、珍しくない天候だった。
「雨はしばらく続きましょう。これは、我らに有利をもたらしてくれるはずです」
「そうだ。俺もそう思う。俺は冷静だ。違うか」
 矢継ぎ早に言う王平は、とても冷静だとは思えなかった。
「雨に紛れて敵陣に乗り込もうというおつもりですか」
「その通りだ。おい何をしている。とっとと俺の武器も持って来い」
 王平が叫ぶとまた小者が走り出した。
「お待ち下さい。作戦も立てぬまま乗り込むなど、正気の沙汰とは思えません。それに、この城をどうするおつもりですか」
「この城は、お前に任す。作戦は、向こうで句扶と合流してから考える」
 王平の全身から、怒気が発されていた。それに圧倒されそうになりながらも、劉敏は腹に力を籠めて耐えた。
「帰ってくる馬上で、俺は自らを罵倒した。こんなことで訓を助けられるはずもなかったとな。初戦を制した敵の気持ちは今、緩んでいる。雨に紛れる好機ではないか」
「それは、そうかもしれませんが」
「お前は、俺が冷静さを欠いていると思っているのだろう。逆だ。一戦交えてきて、頭はすっきりした。ここが勝負所なのだ」
 蜀軍にとっての勝ちとは、魏軍をこれ以上前に進ませないということだった。しかし王平のそれとは、別なところにあるのだ。
「この城の指揮は、お前で十分だ」
 小者が箱を持って走ってきた。王平はその中に入ってある短い剣を奪うようにして掴み取った。
「あ、王平殿」
 次の言葉を探している内に、王平は消えるようにして行ってしまった。
 劉敏は大きな溜め息をついた。この城の防備は、王平が言うように問題はない。雨が降り続けば、城の前を流れる河の水量は増し、防御力は高まるのだ。そこまで考えて、この城は築かれていた。
 恐いのは、黒蜘蛛による城内の攪乱である。敵から城内に届けられた手が入った箱は、自分を通すことなく王平のもとに届いたのだという。この中に、少なからず黒蜘蛛が紛れ込んでいるということだ。自分はそれだけに注意を払っておけばいい。
 劉敏は、兵の気に緩みはないか見ながら城内を歩いた。兵は皆、漢中軍の兵で、どの顔も一度は目にしたことがあった。その中に、以前から黒蜘蛛が紛れていたということなのだろう。それは、仕方のないことだった。詳しくは知らされていないが、句扶の蚩尤軍の幾らかも、敵兵の中に紛れ込んでいるのだ。
 王平の言っていたことは、或いは正しいのかもしれない、と劉敏は歩きながら思った。こう雨が降ってしまえば、戦どころではなくなってしまう。蜀軍は周囲の天険を利用して、粛々とこの城を守ればいいだけなのだ。敵も恐らく、蜀から仕掛けてくることはないと思っていることだろう。そこに隙を見出そうというのは、悪い考えではない。
 それに敵陣に乗り込んでいるのは、蚩尤の名を冠するに相応しい句扶だ。劉敏は句扶の強さを、その体を以て知っていた。それに王平も、句扶に負けない程に強い。王訓という青年を助け出すだけでなく、敵将の首の一つや二つもついでに持って帰ってくるのではないかと思わされるところもある。
 城壁の上では、兵らが盛んに声を上げている。今のところに異常はないし、兵の士気に衰えはない。しかし兵の体を濡らす雨が続き、敵が攻めてこないとなれば、兵の士気に緩みが出てくるであろうことは十分に予想できた。黒蜘蛛が仕掛けてくるのは、そういう緩みを見せた時だろう。
 兵の士気を保ち、城内の異常を見逃さないこと。この二つが、今の自分がすべきことだ。
「この城は、俺の城だ」
 城頭に立ち、劉敏は呟いた。雨の向こうで、魏軍がわらわらと蠢いている。劉敏は、左頬の傷跡に手をやりながら、それをじっと見ていた。


8.思惑
 麦が青々と実り始めていた。
 昨年の戦で奪った武都の北には、大きな盆地が秦嶺山脈の西方を抉り取っている。李厳は魏延軍の軍師格として、この盆地の南に位置する建威という城郭に四万を伴い魏軍の侵攻に備えていた。
 兵はこの盆地に屯田兵として入り、地を耕し麦を育てていた。この盆地を屯田地にした諸葛亮は流石と思わざるをえず、その実りは自分が予想していた以上のものだった。
 李厳が一人で茶を啜っていると、着衣の上からでも分かる隆々とした肉体を張り出しながら魏延が入ってきた。
「待たせたな、李厳殿」
 言った魏延の頭髪は、井戸の水でも浴びてきたのか、てかてかと濡れていた。その中には、幾らか白いものが混じっている。この齢でよくやるものだ、と李厳は思った。
「大義でございます。お疲れならば、話は後でも構いませんが」
「心配はいらん。俺は戦の話をすれば、逆に元気が出てくるのだ」
 言って、魏延は従者に出された茶を一息で飲み干した。従者は慌てて次の一杯を注いだ。
「李厳殿の二万とは、かなり動きを合わせられるようになってきた。永安で平穏に過ごしていた兵たちは、悲鳴を上げているようだがな」
「恐れ入ります。調練に関しては、私には魏延殿のような才はございませんもので」
「なんの、俺にはこれしかできないのだからな」
 李厳が恭しく答えると、魏延は大笑して答えた。
 なるほど戦になればこの男ほど心強い男はいないのかもしれないが、諸葛亮からはあまり好かれる男ではないだろうと思えた。
「さて、戦の話をしましょう」
 言って、李厳は卓の上に地図を広げた。その上には、馬を走らせて探った敵情が点々として記されてある。敵情視察は、ここら一帯の地形に明るい馬岱という将に任せていた。諸葛亮から付けられた将である。魏延の副官という立場ではあったが、言うまでもなく諸葛亮の目となるべく付けられた軍監である。それを分かってか分からずか、魏延はそれを意に介していないようであった。
「この盆地は、いい盆地だ。騎馬は自在に走れる、戦をしてくれと言わんばかりという地形だな」
 地図を前にした魏延が上機嫌に言った。戦ができるということが、相当嬉しいようだ。
「敵将は、郭淮か。曹真か張郃なら少しは楽しめると思ったが、前の戦で丞相にこてんぱんにされた奴ではないか」
「その郭淮ですが、斥候の情報によると、どうも天水から南下して来そうにないのです。兵力は、同数の四万」
 敵情を話し始めると、魏延は口を噤んでじっと地図を見つめ始めた。南下して来ない魏軍は蜀軍の威容に怯えているのだろう、とは言わない。敵は何を狙っているのか、この男なりに考えているようである。
「南下しそうではありませんが、しきりに斥候を飛ばしてはいるようです。それも南だけではなく、天水から西へも」
「狙いは俺らではなく、羌か」
「左様」
 魏延は地図の西方へと目を移し、郭淮が斥候を飛ばしているであろう箇所を指でなぞっていた。
「魏軍の攻略目標は、あくまで漢中であり、ここではないということか。四万の兵力で、俺ら四万はこちらに引き付けられたという見方もできるな」
 李厳ははっとした。さすがに戦の経験を積んでいるだけあり、戦の全体を見渡す目は持っている。ただの蛮勇の将ではないと思えた。
「なあ、李厳殿」
 地図を指でなぞっていた魏延が顔を上げ、その目をこちらに向けてきた。
「なんでしょう」
「あんた今、よく分かっているじゃないかと思ったろう」
 意外なことを言われ、李厳は狼狽した。それを見た魏延は、不敵に笑った。
「気にするな。俺は文官どもから陰で何を言われているのか、よく分かっているつもりよ。心配せずとも、俺はただ敵に突っ込むだけの将ではない。もっとも、昔はそうであったかもしれんがな」
 李厳はひたすら恐縮し、頭を下げた。魏延は一つ笑い声を上げた。
「漢中が陥落すれば、俺らは孤立してしまうな。兵を少し向こうに戻すかどうか、丞相に伺いを立ててみるか?」
 李厳は気を取り直した。この男、思っていたより食えそうもない。
「いや、攻めましょう。敵の出方が分かれば、それに乗じて敵に痛打を与えられるはずです。東部の戦線は盤石であると、丞相は言っていることですし」
「確かに、劉敏は良い城を造った。あの城を陥とすには、十万の軍勢が必要だろうな」
「盆地の西から谷間を抜けて、天水の西へと出るのがよろしかろうと思います。これで、羌中へと出る敵の退路を断てるはずです」
 李厳は地図上の要衝を指しながら言った。魏延はそれを、頷きながら聞いている。
「了解した。物見に出ている馬岱と合流し、天水の西方へ向かう。くれぐれも連絡は途切れないようにしておいてくれ」
「心得ました」
「では明日の早朝に、二万の騎馬を率いてここを発つ。羌中から仕入れた馬も喜ぶことであろう」
「一万の歩兵を、谷間に後詰として配しましょう。それで後方に憂いはなく戦ができるはずです。建威の防備は、残りの一万で十分なはずです」
「おう、李厳殿。良い軍師っぷりだ」
 言って大きな魏延の掌が、李厳の肩を叩いた。そして、早速出陣の準備に取り掛かり始めた。
 魏延が部屋から出ていくと、李厳は大きく息をついて茶を啜った。魏延は、思っていた以上の将であった。同時に、惜しいと思った。諸葛亮は、こういう男を飼い殺しにしていたのか。
 兵を漢中に戻すかと言われた時、李厳は内心焦った。そんなことをされては、密かに企図していたことが頓挫してしまうのだ。
 企図していたこととはつまり、麦秋を迎える前に、盆地に広がる麦畑を魏軍に踏み荒らしてもらうということである。
 敵がこの地を取り返しにくる気がないのならば、必ず他の何かを戦果として狙ってくるであろうことは容易に想像できた。羌族の懐柔がそれである。そしてもう一つ考え得ることが、この地の麦畑の破壊である。自分が魏軍の将ならば、必ずそれを狙うだろう。
 魏延は確かに優秀な将であるが、そこまでは気が回らなかったようだ。
 西方の最前線を軍師として任された李厳であったが、北伐に反対であるという考えは微塵も崩してはいない。この麦畑の収穫を阻害できれば、丞相は北伐の継続を考え直すはずだ。今の蜀に必要なのは、外征ではなく、内政なのだ。
 この盆地は外征のための麦を育てるものではなく、蜀軍の精強な騎馬隊を入れ、馬に草を食ませる地とすればいい。そうしてできあがった馬の防壁は、魏軍南下の大きな抑止力となるだろう。
 この戦で漢中を守りきれば、魏はしばらく蜀に攻めてはこないだろう。東には呉という敵も抱え、財政が厳しいのは蜀だけではないのである。
 戦を止めて民を安んじればいい。国とは民のためにあるべきであり、戦のためにあってはならないのだ。亡き主君の遺言があったとは言え、魏も呉も含め、この大陸に棲む人々は、一人の男のために振り回されすぎた。
 この実りに実った麦畑を敵に蹂躙させることに、後ろめたさはある。しかし、どこかで誰かがこの愚かしい戦乱に歯止めをかけなければならないのだ。

 雨が降り続いていた。
 目前には諸葛亮を将とした蜀軍が成固に堅陣を構え、迎撃態勢を取っている。なかなか見事なものだ、と司馬懿は他人事のようにそれを見ていた。
 司馬懿は、この南伐は失敗に終わるだろうと読んでいた。漢中の地は天険に囲まれ兵の士気は高く、魏から攻められることを想定しての防備もしっかりとされていた。蜀軍の総帥である諸葛亮は思慮深く、しかしそうであるがために攻めの戦では果断さに欠けていたが、こういう男は守りの戦では滅法強い。
 こういう要衝を攻めるには、奇襲か謀略の他ない。三方からの大軍をもって攻めてはいるが、蜀にはそれに備える十分な時間があったはずだ。
 この備えを崩すには、じっくりと腰を据えなければならない。そこまでの財政の余裕が、今の魏にあるとは思えない。東では、呉を相手としたもう一つの戦線があるのだ。苦しいのは、蜀だけではなかった。
 魏軍は、負ける。しかし司馬懿は、それでいいと思っていた。魏と蜀の抗争が終わってしまえば困るのである。これからも続くであろうこの戦いは、魏における自分の地位を飛躍させる絶好の好機なのだ。
 昔から、人があまり好きではなかった。若い頃から文官として漢朝に仕えていたが、いくら世のため人のために尽力しようと、常に誰かの欲望に阻害され続けてきた。人とはつまり、醜い我欲の塊でしかないのだ。いくら大義や仁徳だという美辞を並べようとも、それは我欲を粉飾するための道具に過ぎない。
 曹操という男は、我欲の強い男であったが、帝という秩序を守り続けていたという点では評価のできる人物であった。しかしその息子の曹丕は、彼の父が守ってきたものを我欲によってあっさりと壊した。そして帝となった六年後、あっけなく死んだ。病でということであったが、その死にも誰かの我欲が絡んでいたのであろうと想像することは難しくない。
 魏国の中で文官としての仕事はしっかりとこなしてきたつもりだった。人からは、清廉だと言われたこともある。しかし清廉であるが故に、人の我欲に埋もれ続けてきたという思いも強くある。魏国のために働いたために、夏侯楙という愚物に左遷されるという屈辱を受けたのは、つい二年前のことだった。
 この世の人々の我欲を抑え込むのは、大きな権力である。賞と罰を行う力だとも言っていい。その力が愚物の手に渡った時、心ある人々は迫害され、世は乱れるのだ。ならば、その力は自分の手に収めてしまえばいい。我欲を満たすためではなく、愚物の手に渡さないため、己のものにするのだ。
 さて、戦である。
 負け戦になろうとも、自分は果敢に戦ったのだという実績は残しておかなければならない。
「参ったな、司馬懿殿。この雨はしばらく続くぞ」
 軍議の中で、お手上げだというように、張郃が言った。諸葛亮が陣取る成固から東方二百里の安陽に構えた魏軍本陣の幕舎内である。上庸から河を遡上してくる兵糧も、この地に集められていた。
 張郃は、魏軍の精鋭二万を率いて魏国内を東へ西へと走り回っていた。遊撃軍と言えば聞こえがいいが、その扱われ方は使いっ走りのようであった。それでもこの男は、黙々として軍務をこなしていた。こういう有能な男がこのような扱いをされているということも、司馬懿には解せないことであった。
「曹真殿が、子午道より楽城を攻めております。ここは無理を押してでも、成固を攻めねばなりますまい」
 雨が降り続き、河が増水し始めていた。諸葛亮が構えた守りは、この河を上手く使っていた。無理に進軍すれば河により行軍は阻まれ、泥濘に兵の足は取られるだろう。蜀軍の思う壺に、自ら入って行くようなものである。
「水嵩が上がる前に攻めるべきでしょう。ここで二の足を踏んでいては、河を上ってくる兵站にも差支えがでてきます」
「それは分かるが、そう簡単に成固を抜くことができるだろうか」
 正論であった。本気で勝とうと思えば、ここは待つべきである。しかしここで張郃を出し抜かねば、今後の自分の地位が上がることはないのだ。
「長い時をかければ無駄に兵糧を消費し、それだけこちら側の不利となります。この蜀攻めに困難が伴うことは、戦を始める前からわかりきっていたことではありませんか」
 張郃は難しい顔をして腕を組んでいた。ここで無理を押せば、無駄に兵を死なせてしまうと考えているのだろう。そう考えるのは、軍を束ねる将としての当然の思考である。
「せめて、雨が止むまで待てんものか。この雨では、地がぬかるんで馬も使い物にならん」
「雨が止もうとも、しばらく地はぬかるんだままです。ならば騎馬は馬から降ろし、全軍が徒歩となって成固を攻めるべきです」
 張郃は組んだ腕をそのままに低く唸った。この名将は、勝てぬ戦と分かっていれば、決して兵を進めようとはしないだろう。それは、それでよかった。
「ならば私が半数を率いて前進し、成固から手前百里の場所に陣を布くというのはどうでしょう」
 司馬懿は、自分が折れたという風に、さりげなく提案した。
「とりあえずは、それが上策とすべきか。いつまでもここに留まってもいても、埒があかんしな」
 そう言う張郃であったが、その顔はまだ不満のままだった。
 先ずは自分が前に出て、後方に張郃が陣取る。それは自分が考えていた理想の形であった。あとは張郃の反対を押し切り、蜀に勝つための戦でなく、魏の宮中に見せるための戦をやればいい。
 翌日、司馬懿は五万の内の三万を率い、安陽を発った。雨は未だ飽くことなくしとしとと降り続き、周囲では木々の葉の下に隠れた蝉たちが喧しく鳴いていた。
この時期のこの地はよく雨が降るということを、司馬懿は知っていた。長安で治政を勤めていた時から、この地のことはよく調べておいたのだ。魏の首脳部はその程度のことも調査せず、雪を避けるという理由でこの時期を選んでいた。冬ならば河の水が凍り、その上を移動することで兵站を通すということもできるのだが、それは知られてはいないようだった。やはり人の世には、愚物ばかりであるとしか思えない。そう思うと同時に、俺ならもっと上手くやれるという思いも強くある。
 雨中に蝉の鳴く声と、荷駄を運ぶ馬の嘶きが響いている。この行軍に愚痴を漏らしている兵は少なくないだろう。張郃ならばこの不満を和らげるために何らかの手当てをするのだろうが、司馬懿は構わなかった。兵などというものは、勝てば街を略奪し女を犯す、下劣な欲望の集まりに過ぎないのだ。ならば世のため人のため、俺の志のために死ね。
 司馬懿の行く先の天は黒々として盛り上がり、陽の光が地に注ぐのを遮っていた。


9.蚩尤
 雨の匂いが濃くなってきた。句扶はそれを、全身で感じていた。
 魏軍兵士は、わずかな数を残して陣から離れていた。戦が始まったのである。今頃楽城では、王平率いる蜀軍が、魏軍を迎え撃っているはずだ。
 句扶は襤褸姿のまま木に登り、枝から枝へと移って前線へと身を運んだ。前線には、王訓が連れて行かれているはずである。ならば奪還する機を見つけ出し、漢中へと連れて帰らなければならない。
 楽城手前の山麓に、魏軍は布陣していた。楽城の防備を目の当たりにし、攻めるのを躊躇っているのか。それにしては、陣内の兵らが賑々しい。
 雨が強くなり始めていた。これはこの蜀軍と魏軍陣内に忍び込んだ蚩尤軍に味方してくれるはずだ、と句扶は思った。
 雨に紛れ、王訓の位置を探った。呼吸を整え気配を消せば、そうそう見つかることはない。諸葛亮の下で暗殺をしていた頃から、その技は積んでいるのだ。雨が降り、兵らが賑々しい分、容易に近づくことができた。
 王訓のことを探っている内に、賑々しさの正体が分かってきた。この陣と楽城の間にある原野で、騎馬戦が行われているのだという。
 句扶は歯噛みした。恐らく、王訓が何らかの形で使われ、王平が城から釣り出されたのだろう。普通に考えれば、ここは籠城の他なかった。
 句扶は高所に身を移し、木に登って眼下の原野を見下ろした。ほぼ同数の騎馬隊が、火花を散らしながらぶつかりあっていた。夏侯の旗が、懸命に王の旗を追っていた。戦況は、ほぼ互角か。
 見入っている場合ではないと句扶は思い直し、辺りを見渡した。見つけた。少し小高くなった場所に、檻に入れられた王訓の姿があった。王平はこれを見て、城から出ることを決意したのだろう。
 句扶はするすると木を下り、王訓の方へと走った。檻の周囲には護衛があるため、斬り込んでいくわけにはいかない。先ずは、魏軍に紛れ込ませている手の者に、自分の意思を伝えることだった。
 句扶は茂みから茂みへと獣の様に移動しながら、手の者を見つけ次第、懐にあった小さな鉄の棒を打った。蚩尤軍だけが分かる、秘密の合図である。打つ回数と間隔で、集合場所と刻限を伝えることができた。伝わったのは、その者が示す指の形で分かるようになっていた。そうやって、十人に伝えた。まだ紛れ込んでいる手の者はいたが、それ以上は目立ち過ぎるため、控えておくべきであった。
 そうしていると、陣内から一際大きな喚声が上がった。魏軍騎馬隊が勝利したという声が、句扶の耳に入ってきた。句扶はさすがに息を飲んだ。王平は、無事なのか。
 しばらくして敵将は逃したと残念がる兵の声が聞こえ、句扶は胸を撫で下ろした。句扶は王訓奪回に集中すべく、頭を切り替えた。
 王訓が入れられた檻が、後方へと運ばれ始めた。近くに黒蜘蛛が潜んでいる可能性が高いため、できるだけ距離を取りながら句扶はその檻を追った。
 檻はやはり、句扶が目を付けていた小屋に曳かれていった。どうやら、思っていたような罠はなさそうだ。
 鉄の音がした。さっきの合図で、一人をここへ呼び出していたのだ。句扶は目でその者に合図をし、小屋の監視を任せてその場を後にした。
 兵が陣営に帰ってこないところを見ると、これから勝ちに乗じた魏軍は楽城へ攻め込むのだろう。雨が降り続いている。この雨が大地を水浸しにしてしまう前に攻めきってしまおうという判断は、指揮官として当然のことだ。
 しかし、それに対する心配はない。あの城と王平がいれば、あそこは十分に守りきれるはずである。
 それよりも、気になることがあった。魏軍陣営内の、糞溜めである。雨が降れば溢れるはずのそれは、魏の兵士として紛れている蚩尤軍によって幾つも作られてあった。
 蚩尤軍が作った糞溜めは、山の斜面を伝って集まる雨水を飲み込み、既に溢れようとしていた。溢れた先には、魏の兵士が起居する宿営地がある。楽城を攻めきれず戻ってきた兵は、汚物に塗れた自分の寝所を見て愕然とすることだろう。これが、蚩尤軍の戦であった。
 句扶は茂みに身を隠し、雨に打たれて時が来るのを待った。日が落ち、辺りが暗闇に包まれた。句扶の体を洗っていた雨が止んだ。止んだところで、句扶の皮膚からじわりと汗がにじんできた。暑い夏の盛りである。滲んだ汗は脂となり、句扶の小さな体を包んだ。この感じが、句扶は嫌いではなかった。自分が人でなく、獣になる瞬間だ。いや、それは、人という獣だった。この時に句扶は、生きていると強く実感できるのだった。
 闇が濃くなると、句扶の足元の地が小さくもぞもぞと動き、小さな手で土をかきわけて蝉の子が姿を見せた。それはゆっくりと地を這い出、木に登って背中を開き、まだ白くて美しい羽を広げ始めた。句扶はそれをじっと見つめながら、時を過ぎていくのを待っていた。
 約束の刻限が近づくにつれ、手の者が一人二人と集まってきた。その内の一人から、飛刀を連ねたものを受け取り、肩からかけた。見張りに残した一人を除いた全員が集まると、句扶を始めとする一団は王訓のいる小屋へと向かった。
 暑さが、雨を霧へと変え始めていた。好都合であった。闇の組織である蚩尤軍は、視界がなくとも移動に支障はない。ましてや、ここは蚩尤軍の庭のようなものなのだ。
 四刻かけ、句扶らは見張りを立てていた場所に達した。黒かった霧は、徐々に乳白色を得始め、それを喜ぶかのように蝉が鳴き始めた。
 句扶は見張りに向かって鉄の棒を打った。しかし、返事がない。句扶がその見張りの肩に手をかけると、既に物となっていた見張りはそのままの格好で横に倒れた。
「散会」
 句扶が低く命じると、手の者は四方に散った。句扶は目まぐるしく頭を働かせた。目論見は露見していたのか。ばれていたとしたら、王訓は既に他の場所に移されている可能性がある。しかし、退くべきなのか。
 霧に包まれた周囲から、一つ、二つと気配が現れた。踏み込むべきだ。考えるより、体がそう言っていた。
 一つの気配に飛刀を放ち、もう一つに肉薄した。霧の中に現れた顔が、句扶の姿に驚愕していた。句扶はそれを、素早く斬り払った。
 敵は、霧の中の蚩尤軍を捕らえきれていない。句扶はそう確信した。周囲に散った手の者も、霧の中で敵と戦い始めた。
 句扶は王訓のいる小屋の方へと走った。殺気。句扶は地を蹴り後転し、同時にその方へ飛刀を放った。霧の中で、一つ呻きが上がった。蹴った地には、敵の放った飛刀が突き立っていた。
 左目を抉ってから、自分でも不思議な程に五感が研ぎ澄まされていた。それは今までになかった程であり、不思議という他なかった。霧の中でも、敵と味方の動きが手に取るように分かるのだ。
 走るままの勢いで、小屋に飛び込んだ。中は、まだ霧に侵されてはいなかった。寝台の上で王訓が、眠そうな眼を左手で擦っていた。
「王訓」
 句扶は叫んでいた。王訓は移されてはいなかった。
 状況を飲み込めていないという顔をする王訓に駆け寄り、目を擦っていた左手を引いた。
 引いたまま小屋から飛び出そうとした瞬間、外の乳白色が盛り上がり、鋭いものが胸にきていた。
 油断した。そう思った時は、全てがゆっくりしたものに見えていた。体を捻ったが、もう間に合わない。左胸に、重いものがきた。痛いのではなく、重い。話には聞いていたが、これが斬られるということか。乳白色の中から、笑った郭奕の顔が現れた。同時に、句扶も郭奕の足に刃を突き立てていた。
 胸を突かれたが、体はまだ動く。突かれて崩れる郭奕を尻目に、句扶は王訓を担いで走った。こうなれば、体が動く限り走るまでだ。走れなくなれば、あとは蚩尤軍の誰かに任せればいい。
 句扶は、走りながらにやけていた。胸を突かれたというのに、意外と走れるものではないか。ある程度走ったところで、句扶は異変に気が付いた。突かれたはずの左胸から、さほど血が流れていないのだ。
 五感が研ぎ澄まされているだけでなく、体まで鋼になったというのか。そんなことが、あり得るのか。
 句扶は蝉の鳴く霧の中をひた走り、山肌にひっそりと口を開けた洞穴に身を隠した。山中に幾つか備えてある、蚩尤軍の拠点の一つである。追手の気配は、もうない。
 句扶はそこで初めて王訓を降ろした。胸には、かすり傷が一つあるだけだった。そこからの出血も、もうほとんど止まりかけている。
 郭奕の一撃が捉えたのは、懐にしまっておいた劉敏の眼帯であった。それを取り出すと、そこに模られた蚩尤が大きく傷ついていた。その傷ついた蚩尤の顔は、なんとなく笑っているように見えた。
「句扶さん」
 言われて、句扶ははっとしてその眼帯を懐に捻じ込んだ。
「苦労をかけおって。この洞穴には食料も湧水もある。しばらくここで身を隠すから、そのつもりでいろ」
 言われた王訓は、俯いていた。
 句扶は気にせず、岩肌にごろりと身を横たえ、王訓に背を向けた。
「眼を、どうされたのですか」
「腹が減ったから、食った」
 背を向けたまま答えた。
 目の前の岩肌から、湧水がちょろちょろと流れている。句扶はそれを少し手ですくい、口に含んだ。
「どうして、俺のことを助けにきたのですか。あの人は、俺のことを嫌っているはずです」
 背中の向こうで、王訓が言っていた。王訓は王平のことを、父とは呼ばず、あの人と呼んでいた。それは、いつものことだった。
「何故そう思うのだ」
 句扶は、王訓の方へ首だけを回しながら言った。
「俺が、あの人のことを嫌っているからです。俺の父は、叔父上でもある、王双という人です」
「痴れたことを」
 句扶は振り向けた首を戻し、目を閉じた。さすがに体が疲れていた。しかし眠りに落ちようかという時、背中から啜り泣きが聞こえてきた。
 句扶は眉をしかめながらも、仕方なくまたそちらに首を向けた。
「男がそのようにして泣くな。そんなに漢中に帰るのが嫌なのか」
「漢中に帰っても、俺は自分がどうしたらよいのか分かりません」
 王訓は自分の膝の中に顔をうずめながら言った。
「なら、黒蜘蛛に捕らえられたままで良かったとでも言うのか」
「郭奕という人は、俺に親切にしてくれました。檻に入れられた時はどうされるのかと思いましたが、その時も、大丈夫だからと何度も言ってくれました」
「酷いことはされなかったのか」
 顔には出さなかったが、その言葉を聞いて句扶の胸は安堵した。
「俺にはいつも、叔父であり、父であった、王双という人のことを話してくれました。戦場では、いかに勇敢であったかということを」
「漢中に帰るのが嫌なのではなく、王平殿のところに行くのが嫌なのだな」
「あの人は、俺たちのことを捨てました。そんな人を前にしても、俺はどうしていいのかわかりません」
 しばらく、沈黙が続いた。その間も、王訓はずっと啜り泣いていた。
 句扶は寝ていた身を起こし、纏っていた上衣をはだけて見せた。
「王訓、この傷が何だか分かるか」
 王訓は泣くのを止め、怪訝そうな目を向けてきた。
「戦で負った傷ですか」
「これと、これは、そうだ。この左胸の傷は、さっき受けたものだ」
 句扶の体には、無数の傷跡があった。
「俺が言っているのは、こういう小さな傷跡のことだ」
 言いながら、句扶はその一つ一つを指差した。王訓は、分からないという顔をしていた。
「これらの古い傷は、俺の父親にやられたものだ」
 王訓が、ごくりと唾を飲むのが分かった。もうその眼は泣き止み、次の言葉を待っている。
「お前が思っているように、子を生すということは、或いは残酷なことなのかもしれん。俺は幼い頃から、実の父に虐げられ続けていたのだ。その傷は、いつまでも消えることはない」
「そんな」
「俺は、言葉を失った。言葉を発することで、父から蹴られ、殴られ続けたからだ」
 王訓が、悲しそうな眼でこちらを見ていた。
「その父とは、どうなったのですか。仲直りはできたのですか」
「殺したよ」
 王訓がはっと息を飲んだ。
「俺のことを犯し疲れ、寝入ったところで、首をかき切った」
 王訓は言葉を失っていた。犯し疲れ、というところは、正確には理解していないようだった。
 王訓が、また目に涙を溜め始めた。その涙は、さっきのものとは違うもののように見えた。
「俺は飯を食うために、蜀軍の兵糧庫で働くこととなった。そこに行けば、飯がたくさんあると思ったからだ。そして、そこでお前の父と出会った。王平殿が十五の時で、俺は多分、十一か十二くらいだったと思う。多分というのは、俺は自分がいつ生まれたか知らんのだ」
「その時のあの人は、どんな感じだったのですか」
「優しい人だったよ。無愛想な俺にも、本当に良くしてくれた。川魚の捕り方や、葉の船の作り方を教えてもらった。ささやかなことだったが、楽しいことだった」
「俺の母とは、どのようにして出会ったのですか」
 王訓が、矢継ぎ早に聞いてきた。
「それは、知らん。王平殿は魏軍に連れ去られ、俺は成都にいたからな。その時に、お前は生まれたのだ」
 そこまで言うと、句扶は洞穴の奥から干し肉を二つ持ってきた。一つを王訓に渡し、二人並んで壁に背を預け、ちびちびとそれを食った。
「俺はお前が羨ましいよ。俺の親父は、あんな人が良かった。お前は、贅沢者だ」
 薄暗く静かな洞穴に、句扶の声が響いていた。言うと、また句扶はごろりと横になり、目を閉じた。
 つまらないことを話したという気がする。と同時に、心の中が少し軽くなったという気もする。
 王訓は何も答えず、黙って干し肉を口に運んでいた。
 まだ何か聞きたいという風であったが、それは無視した。あとのことは、王平から直接聞けばいいのだ。
 なんとか王訓の奪回に成功した。句扶はその安堵と疲れから、すぐに眠りに落ちていった。


10.戦果
 久しく袖を通していなかった黒装束が、葉の露に濡れていた。
 句扶らを捜索していた蚩尤軍の手の者が、山中の拠点に彼らが潜んでいるのを見つけ出してきたのだ。
 魏軍が陣取る山中は、黒蜘蛛によって厳重な警戒が布かれていた。しかし、この山中は蚩尤軍の庭のようなものである。王平は蚩尤軍の先導の下、黒蜘蛛の警戒網をかい潜りながら山中を進んだ。雨と蝉の声が、道行く王平らの気配を眩ませていた。
 先導していた者が、ある場所を指差した。一見するとなんでもない場所だが、その茂みを押しのけると、そこには小さな洞穴がぽっかりと口を開けていた。
 王平は大きく呼吸を整え、そこに足を踏み入れた。
 入ると、眼帯を付けた句扶がそこに小さく座っていた。
「兄者」
 王平は、無言でそれに頷いた。その後ろに、句扶と同じくらいの小さな体が座っている。
 句扶が、静かにその身を横に動かした。
 王平は奥へと踏み入れ、無造作に王訓の手を取った。斬り落とされたと思っていたその左手は、確かにそこにあった。この左手のために、王平は楽城から騎馬隊を出したのだ。よく見てみると、左小指の付け根に大きな胼胝(たこ)がある。暇な時間があると木剣を振っているのだと黄襲が言っていたことを、王平は思い出した。
 軍営に届けられた左手は、王訓のものではなかったのだ。王平はその手を取りながら目を閉じた。この左手は、あの左手とは全く違うものではないか。それを思うと、王双に斬られた額の傷跡が、ずきりと痛んだ気がした。
「なんなのですか」
 王訓に手を振りほどかれ、王平ははっと目を開けた。こちらを睨みながら言う王訓は、人に触られるのを嫌がる猫のようであった。
「帰るぞ」
 それ以上の言葉は出てこず、王平は立ち上がりながら王訓に背を向けた。
 句扶の手が、俺に任せておけと言うように、王平の肩を叩いた。
「王訓。俺らと一緒に帰るか、それともここに一人で残るか」
 句扶がそう言うと、王訓はしぶしぶ立ち上がった。
 山中の帰り道は、蚩尤軍がつけてくれていた。道中、王平は自分の息子にかけてやるべき言葉をずっと探していた。だが、良い言葉など何も思い浮かばない。そんなことを考えている自分が幾らか滑稽でもあるように思え、同時に不甲斐なくも思えた。雨は、未だ止むことなく降り続いている。
 楽城に着くまで、句扶は王訓にしきりに何かを話しかけているようであったが、王平はついに一言も発することはなかった。
「よくぞ御無事で」
 城に入ると、喜び勇んだ劉敏が出迎えてきた。
「あれから一戦あったようだな。よくここを守り切ってくれた、劉敏」
 労いの言葉をかけると、劉敏はその顔に安堵の色を浮かべていた。この男は物事の補佐をさせると十分に力を発揮するが、事の中心人物には向かないのだろう。
 王平は、句扶の後ろに隠れるようにしている王訓の方へ体を向けた。
「父は、これから軍務をこなさなければならん。句扶の言うことをよく聞き、大人しくしておけ」
 言うと、王訓は句扶の体に隠れながらも、こちらに向けた目をしっかりと頷かせた。それだけで不思議と、王平の心は幾らか軽くなった。
「仲直りはされたのですか」
 その場を離れると、劉敏が言ってきた。
「余計な詮索はいい。戦の話をしろ、劉敏」
 劉敏はただ苦笑をしていた。
 城頭に上ると、コの字形をした河の向こうに矢が突き立った魏兵の死体がたくさん転がっていた。どこからか集まってきた山鳥達が、その死体を旨そうに啄んでいる。
「かなり激しかったようだな。しかしお前の築いた楽城は、やはり堅かったか」
「魏軍は力押しに攻めてきました。なんとか河を渡ろうとしてきましたが、我々はそこに矢の雨を降らせるだけで十分でした。上流の方では魏軍の小部隊が夜陰に紛れて渡渉してきたようですが、それは予め配置してあった伏兵が排除しました」
「よい指揮っぷりではないか。俺がいなくても、お前だけで十分のようだな」
「いやあ、今回は上手くいきましたが、私は自分の胆の小ささを嫌というほど思い知らされました。私は王平殿の様に、戦の最中にどっしりと構えておくことができない男です」
 黄襲の飯屋で襲撃にあってから、劉敏は何かが変わった、と王平は思っていた。こうして己の弱さを認めることができるのも、男が持つべき強さの一つである。
「丞相のいる成固の戦線でも、司馬懿が率いる魏軍を撃破したという報告が入っています」
「この戦は凌げそうだということか。とりあえずは一安心だな」
 眼下に流れる河は、王平が騎馬を出した時に比べて激しくなっている。漢中に降り注ぐ雨が、そうしていた。ここを抜くには、十万の軍勢が必要だろう。
 魏延が受け持つ西部戦線からの戦況はまだ入ってこないが、あの人なら問題ないだろう。共に漢中の守りを担ってきた魏延の実力は、王平が誰よりも知っていた。魏軍の主力は、こちらに集まっているのだ。
 それからしばらくすると、魏軍は粛々と兵を退き始めた。句扶の仕掛けた糞溜めの溢れが効果を出し始めたらしく、曹真軍の陣営では疫病が広がりだしたのだ。夏の蒸し暑さが、その効果を助長させていた。
 王平は日夜、蚩尤軍がもたらしてくる報告を居室に籠って劉敏から聞いた。
 戦の常道から考えれば追撃すべきであったが、それはしなくていいという諸葛亮からの達しがあった。やはり蜀の財政も相当厳しいものがあるようだ。或いは、諸葛亮は次の戦に向けての物資を温存しているのかもしれない。
 魏軍の撤退が終わり次第、王平軍も帰還の支度である。
 前回の戦で漢中へ凱旋する時は、王訓のことを考えただけで憂鬱な気持ちになった。しかし今回の戦で、その憂鬱は消えたという気がする。
 王平は密かにそれを戦果だと思い定め、手勢と共に楽城を後にした。
 黄襲の飯屋で酒を飲みたい、と王平は道行く馬上で思った。


11.連弩
 漢中北方に連なる山々が、白く染まり始めていた。山々からその白さを孕んだ風が吹き下ってくると、漢中の街は衣を着重ねるようにその様を一変させた。
 魏軍が攻め込んでくると聞いて逃げ出していた住民は徐々に戻り始め、商人達も依然と変わりなく漢中で商いに精を出している。戦の臭いに敏感な商人達が、蜀軍は強いのだと認めた証だ。
 軍人にとって、この季節の寒さは有難いものだった。調練で体を動かしても汗がさほど出ないので、体に疲労が溜まりにくいのだ。その代わり、調練後に体を冷やして風邪をひいてしまうことには注意しなくてはならない。
 漢中で冬を迎えるのはもう五度目のことであり、慣れたものだった。時が経つのは、驚くほどに早い。陳倉に攻め入り王双を斬ったのは、もう二年も前のことである。
 王訓は、十二歳になっていた。その王訓を成都に見送ったのは、つい先日のことだ。今も続いている蔣琬との書簡のやり取りの中で、自分の二人の息子を漢中で学ばせたいと言ってきたのだ。面白そうなことだと思い、王平はそれを承諾した。蔣琬の縁者である劉敏も、それを喜んでいた。
 その代わりに、王平は王訓を蔣琬に預けることにした。前回の戦では魏軍に攫われたのだ。そういうことに対する心配も多分にあったので、そう決めた。それに、若い内に成都で色々なことを見せておくのも、悪いことではない。
 見送りの時、王訓とは少しだけ言葉を交わした。お前を捨てるわけではないと言った時、わかっているという風に頷き返してきたのは、王平にとって救いだった。
 漢中に送られてきた蔣琬の息子は、予定とは違い、兄の蔣斌だけがやってきた。弟の蔣顕まで手放すのは嫌だと、蔣琬の妻が強く反対したのだという。あの男も、違うところで色々と苦労しているのかもしれない。
 軍営にやってきた諸葛亮の使いに呼び出され、王平は漢中の政庁へと足を運んだ。
 漢中防衛線が終わった後の呼び出しでは、城から騎馬隊を出したことについて諸葛亮から厳しく叱責を受けた。将軍の任を解かれることも覚悟したが、それはなかった。蜀には、人材が少ないのだ。
 今回の呼び出しは、恐らく次の戦の話だろう。
 執務室に案内され、王平は一礼して諸葛亮と対面した。その隣には、面のような顔をした楊儀が侍っている。昔はここに馬謖がいた、と王平はふと思った。
「漢中軍の調練はどうだ、王平」
「次の戦に向け、遺漏なくしております」
 向かい合った諸葛亮の目の下は、深く黒ずんでいた。まるで、何か月も戦陣の緊張下に晒され続けた軍人のそれのようである。病かもしれないと思ったが、余計なことは口にしなかった。
 卓の上には、不思議な形をした竹細工や、小さな鉄の棒を組み合わせたものが幾つか転がっている。それが何なのかは、見ただけではよくわからなかった。
「お前は、騎射をよくやるようだな」
 王平は卓に落としていた目を諸葛亮に向けた。
「はい。矢で敵の足を止め、そこに騎馬が突っ込む。そういうやり方を得意としております」
「それが弓でなく、弩であるならどうだ」
「弓に比べれば操作は楽ですが、弩なら二の矢を構えるのにいささか時間がかかり過ぎます」
「弓と弩を、予め備えておくとしたら」
「弩なら、鞍に吊り下げておけばよいので、それはできます。しかし弓だけで事足りますので、それはあまり意味のあることだとは思いません」
「ならば、こういうものだとしたらどうだ」
 冷たいもの言いだ、と王平は思った。聞いていると、まるで詰問される罪人のような気分になってくる。
 楊儀が、普通の弩よりいくらか大きいものを王平に手渡してきた。矢を備えるところが、重なって二つある弩だった。
「これは」
 諸葛亮の黒ずんだ顔が、少しにやりと笑った。
「詳しくは、楊儀から聞け。私はこれから、他の者とも会わねばならん」
 短い時間の対面だった。
 王平は一礼して退室し、楊儀の後を追って隣室に入った。
「これは丞相が自ら考案し、試作したものだ。もし使えるようなら、量産され、お前の騎馬隊に配られることになる」
「矢が二本ですか。いささか重いですな」
「重さはいい。使えるかどうかだけを言え」
 王平はその弩を構える仕草をし、目を閉じた。目蓋の裏に、馬甲を備えた魏軍騎馬隊が迫ってくる。そこに、放つ。二千騎を率いているとしたら、その騎射は四千のものとなるのだ。
 そこまで思案し、王平は目を開けた。
「これは、使えると思います」
「思いますでは駄目だ。使えるものだと断定できなければ、量産はできん」
 嫌な言い方だと思ったが、顔には出さないようにした。
「敵の不意を突けるという意味で、これは効果のある武器です」
「よろしい。その言葉を、前線を張るお前の口から聞きたかったのだ」
 楊儀が無表情のまま言った。その態度は、諸葛亮そのままのようである。馬謖とは違う嫌なものがある、と王平は思った。
「丞相は、これを連弩だと言っていた。次の戦でも、活躍を期待しているぞ」
「御意」
 実際に使ってみないと分からないところはあるが、なるほどこれは良い武器かもしれない。難しい操作は必要なく、兵も難なく扱うことができるだろう。弩から放たれる矢が一本でなく二本であるということは、間違いなく相手の不意を突ける。戦場では、一つの不意を突くことで、一気に戦況が傾くこともあるのだ。
「すまんな、王平」
「えっ」
 唐突に言われ、王平は連弩を見ていた目を上げて楊儀の方を見た。珍しく、その口元がふっと笑っている。
「お前も知っている通り、蜀の国力には余裕がない。これからもお前らには無理をさせることがあると思うが、堪えてくれ」
 この笑みは、本心からの笑みではない。文官が、政を為す時の笑みだ。この男も媚びることがあるのかと思うと幾らかおかしかったが、やはり顔には出さなかった。
「無理などと。どんな命令であろうと忠実に遂行し、戦果を上げることが軍人の務めであります」
 王平はその笑みに笑みを返すことなく、軍人らしい無表情のままで答えた。
 楊儀はそんな王平をどう見たのか、それ以上何も言うことなく退出して行った。手には、連弩と呼ばれたものが渡されたままである。
 王平が軍営に戻った時は、もうその日の調練は終わっていた。
「妙なものをもらったぞ、劉敏」
 営舎内にいた劉敏は、裸にした上半身から湯気を立たせていた。線は細くはあるが、その体はもう文官のものではなく、軍人のものだった。
「また丞相の発明癖ですか。私も見ていいですか」
「連弩というものらしい。今度、俺の騎馬隊に支給されるようだ」
 諸葛亮は、戦のために様々なものを発明していた。戦の度に、兵が身に着ける具足にも何かしらの工夫がされているのだ。趙広が使った磁鉄鉱のように効果を上げるものもあるが、あまり効果のないものも多々あるらしい。その辺りのことは、一軍人である王平はよく知らなかったし、知る必要もなかった。
 しばらく連弩を見ていた劉敏だったが、興味を失ったのかそれを置き、部屋の片隅に目をやった。
 まだ若い男が、床に横たわっている。
「蔣斌、大分こたえているようだな」
 王平が言うと、蔣斌は寝たまま顔を向けてきた。
「いつまで寝ているのだ。将軍の前で、そのような態度を取るものではない」
 叔父である劉敏に叱られ、蔣斌が気だるそうに直立した。
「いいではないか。初めての調練なら、こんなものだ。ここでの生活が堪えられないなら、いつでも成都に残った弟と交代させよう」
「そういうわけには参りません」
 蔣斌が慌てて首を振った。一応、やる気はあるようだ。
 まだ十五歳だった。趙統と趙広の兄弟も、はじめはこんな感じだった。
「今日は駆け足だけだったが、通常の調練ではこれに武術と集団行動の調練も加わってくる。覚悟しておけ」
 劉敏も、そんな蔣斌を面白がるようにして言った。蔣斌は、青冷めたような顔をした。
「心配するな。お前はまだ若いから、すぐに慣れるさ。調練が終わったら、たくさん食い、たくさん寝ろ」
「はい」
 言った蔣斌が一つ嘔吐き、二人は笑った。この前まで成都で書見ばかりしていたのだから、仕方のないことだ。しかしそれも、はじめの十日程でおさまるはずだ。
 王訓はどうしているのだろう、と王平は蔣斌を見ながら考えていた。自分の息子は、軍人にはさせたくなかった。それは、蔣琬にも伝えてあることだ。その点は、蔣琬に任せておけば間違いないだろう。
 今は次の戦に向け、自分の軍とこの若い男を鍛えるだけだ。
 窓の外には寒空の上に丸い月が煌々としていた。王訓もこの月を見ているのだろうか、と王平はふと思った。


12.郤正
 漢中からの旅を終え、王訓は蜀の首都である成都に到着していた。
 初めて見る成都の街は、洛陽の街と違い、静々としたものだった。
 南の暑い地域なので、そこに住む人達も暑苦しいのだろうと何となく思っていたが、そうでもないらしい。
 王訓が起居することになったのは、蔣琬という人の屋敷で、その敷地は他と比べて大きなものだった。
 その屋敷には自分と齢の近い蔣顕という少年がいて、少し話しただけですぐに仲良くなった。聞くと十三歳だというので、自分より一つ上だということになる。新しい土地での生活に不安はあったが、齢が近い友ができたということが嬉しかった。
 成都に来てからしばらくは、蔣顕に成都の街並みを案内してもらっていた。洛陽とは違う人々の暮らしが、王訓の目には新鮮だった。街に建ち並ぶ家々も、人々が喋る言葉も、王訓が知っているものとは微妙に違っていた。
「明日から蔣顕の父御に従って宮中に行けと言われたんだけど、俺は何をやらされるのかな」
 数日かけて成都の街を全て見回り終えた帰り道に、王訓は蔣顕に聞いた。
「何だろうな。私は行ったことがないから分からないけど、雑用みたいなことだろうと思う」
 蔣顕は、自分のことを俺とは言わず、私と言っていた。はじめはその言い方に微妙なものを感じたが、聞いている内に慣れた。
「蔣顕の父御は、宮中で何をしているんだい」
「それが、よく知らないんだ。ミカドっていう人の近くで仕事をしているとは聞いたことがあるけど、それ以上のことは母上もよくわからないって言ってた」
「父上には、直接聞いたりしないのかい」
「ほとんど家にいないからね。家には私が寝た後に帰ってくるし、起きた時にはもう家を出ているんだ」
「ふうん」
 あまり父のことは話したくないのか、蔣琬の話になると蔣顕の言葉数は減った。それ以上、王訓は蔣琬のことを聞くのをやめた。
 屋敷に帰ると、夕餉の支度がされていた。卓には、蔣顕が食うものとは違うものが出されていた。ここで出されるものは、王訓の口には辛過ぎるのだ。全てが全てそうというわけではないが、それに気を遣った蔣顕の母が、王訓のために違うものを作ってくれていた。
 蔣顕は、その辛いものを何でもないように食べている。よくこんなものが食べられるなと思ったが、それは食べ続けることで慣れるのだと蔣顕は言った。それで少し食べてみようかという気になったが、やはり口には馴染まなかった。
 翌朝は早くに起床した。何人かの使用人と蔣琬は既に起きていたが、蔣顕と母御はまだ寝ていた。静かな屋敷内で蔣琬と二人で朝飯を食い、屋敷を出て宮廷へと向かった。その道中、五人の強そうな男達が二人の周りを囲んでいた。この人達は何なのだろうと思ったが、口には出さなかった。後で蔣顕に聞いてみよう、と思った。
 門の前に直立する兵士の間を通り、宮中へと入った。大きな建物だった。ここで何をさせられるのだろう、と王訓は不安になった。
 蔣琬の執務室に入ると、蔣琬は椅子にどっかりと座り、大きく息を吐いていた。これから仕事だというのに、既に疲れているように見えた。
「成都の生活には慣れたか、王訓」
「はい」
「蔣顕とは仲良くやっているようだな。良いことだ」
 蔣琬の手が、王訓の頭をぽんぽんと撫でた。叔父である王双の手はもっと堅かった、と何となく思った。
 戸が開き、盆に二つの茶を乗せた若い男が入ってきた。蔣琬が、その男に軽い挨拶をした。
「こいつは、郤正という。ここでのお前の先輩のようなものだ。仲良くやってくれ」
 無表情の郤正が、静かに二つの茶を机の上に置いた。齢は、自分より少し上といったところか。
「王訓といいます」
 言うと、郤正の顔が少し微笑んだ。微笑むだけで何も言わず、音もなく部屋から出て行った。自分も、あのように振る舞わなければならないのだろうか。
「あの、私はここで何をすればいいのでしょうか」
 自然と、自分のことを私と言っていた。
「今のところは、これといったものはない。北で戦が始まれば忙しくなるんだが、今はのんびりとここの空気に慣れてくれ」
 そう言われて、ほっとした。自分は、何かができるような人間ではないのだ。
 蔣琬が茶を啜ったので、王訓も一口啜った。ほどよく熱いその茶は、美味いものでも、不味いものでもないと思った。
「あの」
「なんだ」
「これから仕事だというのに、もうお疲れのように見えます」
 言われた蔣琬が、一つ苦笑した。失礼なことを聞いてしまったのだろうか。
「私はな、家にいると息が詰まってしまうのだ。そんなところに気が付くとは、なかなか良い目を持っているではないか」
 褒められて、王訓は少しはにかんだ。しかし自分の家だというのに、息が詰まることなどあるのか。
「お前の父はいいな。こんな小さな部屋に押し込められることなく、外で兵と共に駆け回っているのだからな」
「普段の父のことは、あまり知りません」
「漢中では、黄襲殿の飯屋にいたらしいな。父のいる軍営には遊びに行ったりしなかったのか」
「特に、行く理由もなかったので」
 言って、王訓は俯いた。その顔を、蔣琬が覗き込むようにして見てきた。
「父のことが、嫌いか」
 王訓は答えに詰まった。昔は嫌いであったが、今は少し違うという気がする。しかし好きかと聞かれれば、そうでもないという気もする。
「王平殿のところに、私の上の息子が行っている。蔣斌というんだがな、蔣斌は、王平殿のことを嫌っているかな」
「そんなことはないと思います」
 即答していた。父のことは好きにはなれないが、部下には慕われているのだ。
 そんな王訓を見て、蔣琬は低く笑っていた。
「少し、お前の父の話でもするか」
 蔣琬が自ら小さな腰かけを持ってきたので、王訓は黙ってそこに腰かけた。

 魏軍を撃退したことで静謐を得ていた成都の宮中が、また慌ただしくなり始めていた。
 予期していたことではあったが、また諸葛亮が北に兵を向けると言い始めたのだ。第一回の北伐が始まる前夜、まだ成都にいた諸葛亮は魏を討ち果たすまで帰らないと、帝に上奏していた。それはもう、四年も前のことである。はじめは諸葛亮の気概に心を打たれて涙を流していた廷臣達も、もう倦み始めているのだ。
 仕方のないことだ、と董允は思った。これだけの時と財力を注ぎ込んでも、蜀軍は長安を奪るどころか、漢中からほとんど前進できずにいるのだ。もうこの辺りにしておこうという意見が出るのは、当然のことである。戦を続けることで、蜀国内はかなり疲弊しているのだ。南方の異民族達の間でも、相当の不満が出ているようである。
「お前は昔、戦場で功を立てたいと勇んで言っていたな、蔣琬」
 もう一通りの仕事を終えた夕刻の、蔣琬の執務室である。この男も、体裁としては諸葛亮からの任務を着々とこなしているが、心の中で戦を止めてもらいたいと思っているだろうことは明白であった。
「言ったさ。だからと言って、この戦で俺が戦場に立てるわけではないだろう」
「いや、行けばいい。俺が今度、丞相に言上してみるさ。ここの仕事は、もう俺に任せておけ」
「ふん。そんなことをしても、大人しく成都で補給をやっていろと言われるだけさ。そんなことは、お前も分かっているはずだ。それにお前が兵站をやれば、誰が戦に反対する廷臣達を抑えておくのだ」
 蔣琬がぶっきらぼうに言った。着実に仕事をこなすといっても、この男も倦んでいた。最近は新しい従者を得たらしく、仕事の合間にはその従者と他愛もない話をしていることが多かった。
「あの新しい従者はどうした。名を何と言ったか」
「王訓のことか。あいつはもう屋敷に帰したよ。もう、子供は寝る時間だ」
 そう言う蔣琬はほとんど家に帰らず、ここに寝泊まりすることが多かった。家族と上手くいっていないのだという噂を耳にしたことがあるが、蔣琬の口から直接そういう話を聞いたことはない。
「漢中に、王平将軍がいるだろう。あの子はな、王平殿の息子なのだよ」
「ほう、それは初耳だ。ここで色々と学ばせろということか」
「そうだ、董允。俺は兵站の仕事もやり、未来の蜀を背負う若者を育てるという仕事もしているのだ。働き者だろう」
「お前のことを、働き者じゃないとは言っていないさ」
 蔣琬が、皮肉っぽく笑っていた。
 傍らの机には、戦に関する書類が山積みされてある。一日の仕事は終わったといっても、まだまだやらなければならないことはたくさんあるのだ。
「そういえば、お前の従者はどうした。俺はあいつが近くにいると、息が詰まる思いがする」
「郤正のことか。あいつは今、ちょっと仕事に出かけさせている」
 諸葛亮から付けられた従者だった。まだ年若く十六で、その若さに伴う純真さが、諸葛亮の言いつけをよく守る忠実さとなっていた。
「そのことなんだがな、蔣琬」
 真剣な顔をして見せたので、それを汲み取った蔣琬も姿勢を正して真剣な顔をしてきた。
「句扶という男を知っているか」
「知っている。闇の軍である、蚩尤軍を束ねている者だな」
「郤正は、その句扶が丞相の命により選んだのだ」
「ほう」
 顔を怪訝なものにさせた蔣琬が、身を乗り出してきた。
「あれも、蚩尤軍の一員だったということか。そう言われれば、音を立てないあいつの歩き方にも合点がいく」
「黙っていたことは、謝る。お前にこれを言ったのは、あいつにそろそろ仕事をさせろと丞相から命じられたからだ」
「仕事だと。物騒な臭いしかしないな」
 そう言う蔣琬の顔に、驚きの色は無かった。もしかしたら、蔣琬は郤正の正体に薄々気付いていたのかもしれない。
「お前が今、一番大変だと感じている仕事を挙げてみろ」
「そんなもの、たくさんあるさ。例えば、これから始まる戦のために送る、半年分の兵糧のこととか」
「それだ」
 漢中防衛戦で、武都の屯田地が荒らされていた。麦秋を迎える前のまだ青い麦が、魏軍の騎馬隊にことごとく踏み潰されたのだった。その穴埋めをするために、南方の地域で大規模な徴発が行われたのは、つい先日のことだった。
 それに声を上げて反対しているのは、黄皓という宦官だった。帝の近くに侍り、諸葛亮の意に反することを色々と吹き込んでいるという気配があった。そして密かに、漢中にいる誰かと書簡のやり取りをしているということを、郤正が調べ上げていた。その誰かとは恐らく、李厳であろうと、董允は見ていた。
「あいつの仕事とは、暗殺か」
 董允が静かに頷いた。
 これまでも自分達の知らないところで、暗殺が行われていたという気配はあった。蜀建国の当初、その新体制に反対する者の何人かが、不審な死を遂げていた。
「黄皓殿を殺すか。気が重いな。俺の仕事に反対されるのは困るが、徴発に反対するということ自体は間違っているとは思えない」
「標的は、黄皓ではない。黄皓に近い者を一人殺すことで、恫喝する。いくらなんでもあいつを殺せば、丞相のことを信頼している陛下ですらそれに反発の意を示されるかもしれない」
 蔣琬は知らないようだが、黄皓は日々増大する反戦派の声に乗り、自分の地位を上げようとしていた。少なくとも、董允の目からはそう見えた。北伐を続けるためには先ず、黄皓の首根っこを押さえておくことだった。
「恐い男になったな、董允。俺は臆病者だから、そんな仕事は到底できそうもない」
「そう言うな、蔣琬。俺も好んでそんなことをするわけではないんだ。所詮、俺達は、自分の意思を持ってはいけない人間なんだからな」
「俺達だと。俺のことを、勝手にその中に入れるなよ」
 言われて、この暗殺に蔣琬のことも巻き込もうとしていた自分に気付き、董允は苦笑した。確かにこのような暗い仕事は、自分ひとりの責任でやればいい。
「自分の意思を持ってはいけないという点では、その通りだとは思うがな。お前は分かっているかもしれんが、俺は戦を止めてもらいたいと思っているよ」
 自分が考えていることに気付いたのか、蔣琬が取り繕うようにして言った。
 不意に戸が叩かれる音がして、二人はそちらに目をやった。
 戸を開けた郤正が、静かにこちらに頭を下げていた。
「終わったようだな」
 董允が言うと、郤正は頷いた。
「じゃあ俺は行くぞ、蔣琬」
 姿勢を正した蔣琬も、同じように頷いた。蔣琬は、必要以上に郤正のことを畏れていた。それはまだ年若な郤正に対する畏れではなく、諸葛亮に対する畏れである。
 董允は郤正を伴い退室した。斜め後方から付いてくる郤正の歩調に音は無く、本当に付いて来ているのかどうか疑わしくなる程だった。
 董允は少し振り返り、郤正の顔をちらりと見てみた。一仕事を終えたというのに、いつもと同じ顔をした郤正の顔がそこにはあった。
 蔣琬は、自分のことを臆病者と言っていた。郤正を預けられた時、何故、と思ったものだ。蔣琬は諸葛亮の第一の弟子のようなものであり、郤正を預けるのなら蔣琬であろうと思ったのだ。しかしこうして暗殺を終えてきた郤正と何でもないように歩いていると、その理由が分かるような気がした。
 諸葛亮は自分の中にある、自分でも気付かなかった冷酷さに気付いていたのかもしれない、と董允は歩きながら思った。


13.二人の将帥
 成都から運ばれてきた兵糧が、漢中に到着し始めていた。その量は膨大なものであり、兵糧を運ぶ人夫の列が漢中城郭外に延々と続いていた。この兵糧は、蜀の中を流れる血のようなものである。その血の大部分は北へと集められ、戦のために費やされるのだ。蜀という体の他の部分では段々と血の不足が顕著なものとなり、それが表面化し始めてきたが、諸葛亮に戦を止めるという選択はなかった。
 劉備を担ぎ、蜀を奪ったのは、その中で安寧を貪るためではないのだ。この国を基盤として魏を打倒し、漢朝に今一度権威を復したかったのだ。
 十一年前、魏の実質的な主であった曹操が死んだ。そしてその息子の曹丕がその地位を継ぎ、時の帝であった劉協から禅譲を受けた。禅譲といえば聞こえは良いが、その実態は帝位の簒奪であった。
 国の秩序の頂点を変えるということが、どういうことであるのか、理解している者は決して多いとはいえない。秩序とはつまり、国そのもののことである。
 劉備の生涯の宿敵であった曹操は、少なくともそのことを理解していただろうと思えた。いくら領土を広げようとも、自ら帝位に就こうとしたことは一度もないのだ。成都に残してきた蔣琬や董允らも、そのことは分かっているはずだ。
 帝を代えるとは、単にその地位にいる者が代わるというだけのことではない。国という大きな秩序の頂点が蔑ろにされてしまえば、その秩序は音を立てるようにして崩れ、国というものはなくなってしまうのだ。そこには確かに前からあった土地と人間は残るが、国という大きな囲いは無くなってしまう。それは例えて言えば、暖を取った家の中から、いきなり極寒の外に放り出されるようなものである。
 魏では劉氏から曹氏に帝が代わったが、まだ劉氏を受け継ぐ帝はこの蜀という国に残っていた。この劉氏をもう一度、この大陸の帝に据えるのだという使命を思えば、今の蜀の窮乏という刹那的なものには、歯噛みをしてでも目を瞑っておくべきことなのだ。
 死の直前に劉備は、自分は実は帝の血筋ではないと言っていた。今の蜀の帝である劉禅は漢朝の正統な血を受け継いだ帝ではない。だから正確に言えば、劉禅を頂点とする帝室で漢朝を復興させることは不可能だともいえる。それでも、曹氏を頂点とする新しい国よりは幾分もましだった。
 大事なことは、この国の歴史と国の体を受け継ぐことである。血の連綿が必要ならば、それは魏を打倒した後に考えればいい。
 こういうことは、劉備と出会う前から考えていた。口に出してこの考えを述べたことはあるが、理解を示してくれた者はほとんどいなかった。そこにこのことを理解できる劉備という男が目の前に現れたのは、諸葛亮にとって衝撃的なことであった。誰も彼もが、自分の目の前のことで精一杯なのだ。いや、目の前のことに余裕があっても、そういったことに頭を巡らせる者はほとんどいないといっていい。
「出陣の準備ができました」
 諸葛亮の執務室に入ってきた費禕が言った。諸葛亮の思想を理解する、数少ない者の一人である。
 諸葛亮は一つ頷き、腰を上げた。
 諸葛亮は兵糧の管理を楊儀に一任し、自身は次の戦のため、輿の中で策戦を練ることに没頭した。姜維には五百を与えて周囲を守らせ、魏の忍びである黒蜘蛛への備えは趙広の率いる天禄隊に任せてある。
 今回の出陣は、前回と同じく、漢中を西へ出て武都へと出る道を選んだ。
 諸葛亮は八万の軍勢の中にいながら、武都の盆地に広げた麦畑を眺めてみた。蜀軍の兵士が時をかけて耕した畑が、見事なまでに踏み荒らされていた。踏み荒らされた分だけ、漢朝の復興が一つも二つも遠のいたのだと思えた。
 諸葛亮はその責任を魏延に質したが、李厳がそれは自分の立てた策戦に不備があったのだと申し出てきた。確かに魏延は李厳の策に従い軍勢を率い、羌へと進攻していた郭淮を撃破していた。
 そのため李厳は今回の幕僚からはずし、漢中に留めて兵糧の輸送を指揮させることにした。そこから遠征軍に届けられる兵糧の差配をするのは、楊儀の仕事である。
 諸葛亮は、盆地のほぼ中央にある岐山に駐屯していた魏軍を蹴散らし、そこに本陣を置いた。司馬懿の率いる十万の軍勢が長安を出たという報告は、既に蚩尤軍から知らされている。周囲の諸城は魏延や王平らに命じてことごとく陥とし、魏軍を迎える態勢を整えた。
 踏み荒らされた麦の代わりに大々的な徴発を行ったことで、かなりの不満が上がっているという報告が成都からきていたが、それにはやはり目を瞑った。ここで魏軍を討ち破り、長安を奪ることができれば、そこに蓄えられたものにより一気に不満は解消されるはずなのだ。
 魏では、前回の戦が終わった直後に曹真が死んでいた。魏軍陣内に広まった疫病が伝染り、洛陽に帰還できたもののそこで没したのだという。そしてその後任は、司馬懿が受け継いでいた。
 諸葛亮は、この男を危険視していた。今や左遷された元長安太守の夏侯楙の下で働いていた時はいまいち力を出し切れていないようだったが、彼が施策していた軍市は、軍人の士気と徴募の効率を高めるという点で優れていた。
 初めて北伐を行った時、漢中の東で蜀軍と呼応しようとしていた孟達を速やかに殺したのも、この男であった。
 新任の司令官が張郃であればまだ楽であった、と諸葛亮は思っていた。張郃には軍略の才は多分にあるが、軍政面では司馬懿に遠く及ばないからだ。
 一度は句扶の働きによって地位を落とされていた司馬懿だったが、またこうして魏で力を付け、対蜀軍の総司令官にまで這い登ってきたのも、司馬懿という男の力量を示していると言えるだろう。
 その司馬懿が十万の軍勢を率い、岐山から北へ百里の天水城に到着したという報告が入った。さらなる戦いが始まろうとしている。

 八万を率いていた。行軍させてみるとその先頭は十里も先にいて、最後部も同じく十里後方にいる。輜重等を扱う人夫も含めると、十万程の軍勢である。
 司馬懿は、その十万の頂点に立っていた。前回の戦で曹真が死に、その地位を受け継いだのだった。
 魏の宮廷内で次の対蜀司令官は司馬懿か張郃かという議論が行われ、蜀進攻戦での攻めの姿勢が評価され、司馬懿が選ばれたのだ。その時の張郃は、司馬懿の後方にあって、一度も干戈を交えることなく撤退の時を迎えたのだった。
 宮廷内など、戦を知らない者しかいないのだ。あの局面では、攻めることが下策であり、待つことこそが上策だった。それは張郃も心得ていたことだ。それでも攻めたのは、宮廷内での権力争いのことを考えれば、下策を選ぶことが上策だと判断したからだ。廷臣の一人である、曹真の子の曹爽に賄賂を贈っておいたことも、決して小さくない効果を生んでいた。
 清廉だと言われていた頃もあるが、いつしか賄賂を使うことに抵抗が無くなっていた。清廉であることで国の礎であり続けるより、賄賂を使うことで国の礎を作ることの方がよほど現実的であると、年を重ねる毎に分かってきたからだ。自分が腐ってきているという思いは、ないわけではない。しかしこの国の腐りは、帝が代わってから急速なものになってきているのだ。司馬懿が賄賂を贈った曹爽などは、典型的な腐りの一部であると思えた。
 一人の兵士が、司馬懿の乗る馬にさりげなく近づいてきた。
「蜀軍八万が岐山に本隊を置き、魏軍を迎え撃つ態勢を整えております」
 郭奕だった。その姿は、他の兵士となんら変わることがない。黒蜘蛛の頭領であり、今は前線の視察を受け持っていた。それは軍が正式に出す斥候とは違う、司馬懿の個人的な物見である。
 司馬懿は、郭奕が手渡してきたものに目を通した。これから入る天水城から岐山にかけての克明な地形と、そこに陣取る蜀軍の布陣が書かれてある。
 司馬懿が落としていた目をふと上げると、もうそこに郭奕の姿はなかった。
 郭奕は、司馬懿自身の手で育て上げていた。曹操の創業の頃の謀臣で、郭嘉という男がいた。魏の北方地帯の平定に功があったが、三十八という若さで病に倒れた。その郭嘉が残した子が、郭奕であった。
 郭奕は曹操に手厚く保護され、幼い頃から許昌の太学で学んでいたが、変わり者だということで周りからのけ者にされていた。
 許昌を訪れた司馬懿はふとしたきっかけで郭奕を目にした。一目見ただけで、何かを感じさせられた。その何かとは、普通とは違うといったものだ。
 気になった司馬懿は、郭奕を屋敷に呼んで話をしてみたいと思った。屋敷に呼ばれた郭奕は、おどおどとしていた。自分は周りより劣った者なのだ、と郭奕は考えているようだった。そのおどおどとした態度は、自らの劣等感からきているのだということも分かった。
 司馬懿は郭奕を気に入った。劣等感はそのままその者を潰してしまうこともあるが、意外な力を発揮させることもあるのだ。その意外な力とは、常人では決して出すことのできない力である。
 司馬懿は郭奕を近くに置くことに決めた。その内、郭奕は自分が男色であるのだということを明らかにしてきた。それが原因で、太学では周りから異質な者としてのけ者にされていたのだという。郭奕の持つ劣等感は、そこから来ているのだろうと思った。
 司馬懿は、それは否定するものではなく、受け入れるべきものなのだ、と郭奕に言ってやった。少なくとも自分は否定しないと言った時、郭奕は俯き、まだ若い顔を涙に濡らし始めたのだった。
 司馬懿は自ら色白の若い男を選び、郭奕の寝所に与えてやった。その夜、郭奕の寝所で大きな物音がして、翌朝になると、与えた男がそこで首を絞められて死んでいた。
 家人はそれを気味悪がり、司馬懿も驚きはしたが、それは心の中で留めた。驚く一方で、この凶暴さを上手く扱うことができるようになれば、良い暗殺者になるのではないかと思った。
 郭奕は殺人を犯したことを泣きながら司馬懿に詫び、自裁を申し出てきた。その時の感情は、自分ではどうすることもできなかったのだと言っていた。
 司馬懿は自裁を許した。しかしそれは世間的なものであり、本当に命を絶つことは許さなかった。これからお前は、闇の中で生きていくのだ。そして、私の手足となるのだ。そう言うと、泣き顔の郭奕の顔が、一瞬だけ喜悦の色を見せた。それを見た司馬懿は全身が粟立ったが、それは押し殺した。こういう男こそ、上手く扱うべきなのだ、と自分に言い聞かせた。
 長安への赴任が決まった時、当然郭奕も同行させた。既に郭奕は十分に忍びの技を身に付けていた。長安で普通にしていては知れない情報を得ることができたのは、郭奕の仕事のお蔭である。長安で蜀の忍びを捕らえることができたのも、郭奕がいたからだ。
 今では郭奕は、司馬懿のことを父のように慕っていると言っていい。
 長安で夏侯楙と諍いを起こし、長安を離れることになった時には、郭奕をあえて長安に残した。それで司馬懿は遠くにいても、長安と漢中の情報を得ることができたのだった。
 天水城に入った。ここから南に百里のところに、蜀軍が待ち構えている。
 司馬懿には、この道中、ずっと考えていることがあった。この戦での勝ちとは何であるか、ということである。建前で言えばもちろん、魏軍を率いて蜀軍を討ち破ることであろう。しかしそれは魏が勝つというだけのことであり、自分が勝つということではない。前の蜀攻めでは、魏軍が漢中を攻め奪るということが、自分にとっての勝ちでなかった。攻めの姿勢を魏の宮中に見せつけることで、司馬懿は今の地位を勝ち得たのだった。
 まだ戦は終わらせるべきではない、というのが司馬懿の考えであった。しかし自分が軍司令官となっての、初めての戦である。ただ前のように負けるとあっては、任を解かれてしまうだろう。難しいところであった。
 司馬懿のいる居室の外では、戦に逸った阿呆どもが、何かを叫び続けている。


14.陰謀
 蜀軍が前線を二里上げてきた、と報告が入った。
 既に司馬懿の率いる魏軍は天水を中心に二十里に渡り八万の兵に布陣させており、迎撃の態勢を万全なものにさせていた。
 敵が前線を上げてきたのは、こちらが全く動かないことに対する焦りであろう。陣地に籠ったまま出てこない魏軍を前にして、戦の発端を掴めずにいるのだ。こちらから、軍を動かす気はなかった。ここは固く守っておくだけでいいのだ。下手に動けば隙が生じ、どんな不測の事態が起こるかわからない。それさえ気を付け、敵より多い兵数で堅く守っていれば、この戦は勝てるのだ。
 司馬懿は斥候の報告を地図に書き込んだ。大きな動きはない。敵が攻めあぐねている様が、地図の上にありありと見て取れるようであった。
 鈴の音が一つ、頭上で鳴った。黒蜘蛛の頭領である郭奕が帰ってきた合図である。正規の斥候とは別に、蜀軍内に数多くの黒蜘蛛を入り込ませ、情報を持ち帰らせているのだ。これは、司馬懿が独占している情報だと言っていい。
 司馬懿の目の前に、ゆらりと影が持ち上がるようにして郭奕が姿を現した。
「敵の様子はどうであった、郭奕」
「寒さに震えているかと思いましたが、意外とそうでもありませんでした。それぞれの兵が地を穿って毛皮を着こみ、寒さへの備えは万全としているようです」
 二月である。外は寒風が吹き荒び、枯れた木と雪の大地が死の色を見せていた。
 寒さに倦めば、敵は無理押ししてくるかもしれないと踏んだが、それに期待はできないようだ。そしてそれは、こちらも同様に気を付けなければならないことである。
「黒蜘蛛でできそうな工作は、何かないか」
「敵陣には蚩尤軍の目が光り、諸葛亮の周囲は幕僚も含めて天禄隊が護衛しています。暗殺を含め、なかなか難しいかと」
「焦らず、じっくりとやれ。この状態を維持しておけば、敵はいずれ退く。無理をして黒蜘蛛の頭数を減らすことはない」
 優しさで言っているつもりはない。黒蜘蛛は司馬懿にとっての、この戦場における大切な目なのだ。その目で得た情報によっては、敵はおろか味方すらも欺くことができるかもしれない。そのことは郭奕も、重々わかっていることだろう。
「一つ、気になることがあります」
「言ってみろ」
「敵後方の兵站基地のことなのですが、そこに潜り込ませた部下が面白いことを言っていました。二人で担がなければ持てない穀物の袋を、一人で軽々と運んでいたのを何度も見たと言うのです」
「ほう」
「兵站基地の、偽装の可能性があります。これからはそちらを重点的に調べてみるべきかと」
 蜀軍の兵站基地は、本陣のある祁山から後方五十里の木門にあることは掴んでいた。魏軍がこのままここに籠るのなら、そこに誘き寄せようというのはあり得そうな話である。
「思うままにやってみよ」
「御意」
 司馬懿が頷くと、郭奕は消えるようにしてそこから出て行った。そして幕舎には、外から漏れ入る寒風の音だけが残った。
 司馬懿は地図に目をやった。蜀軍兵站基地の木門は後方にあるが、全く手が届かないという程ではなく、馬を駆けさせれば一息という位置にある。なるほどこれは誘いかもしれない。司馬懿は漏れ風に向かって一人呟いた。
 邪魔な人物が一人いた。この陣内で第二の地位にいる、張郃である。これから先、自分の地位を脅かす者がいるとすれば、この男であろう。張郃自身はもう高齢で、野心も欲望もおよそない男だと見ていたが、周りがその無欲を許さないということがこの先に無いとは言い切れない。人の集団とは、そういうものである。
 その可能性は、表面化してくる前に、早めに潰しておきたかった。張郃がいなくなれば、ここに自分の地位を脅かす者はいなくなるのだ。敵の兵站基地が偽装だという確証が得られたら、そこに張郃を向かわせるのは良い一手かもしれない。郭奕が持ち帰る情報は、自分しか知り得ないのだ。戦上手の将を失うのはいささか惜しいという気はするが、普通に戦をしていれば、大国の魏が小国の蜀に負けることなどあり得ない。もし蜀に負けることがあるとするならば、それは張郃のせいではなく、自分の非力のせいだろう。
 張郃のことに手を打つ一方で、魏軍内での自分の人気の確保にも手を回しておくべきであった。軍市のことである。
「辛毗を呼べ」
 司馬懿は従者に命じた。
 魏軍陣内の後方には、兵を慰労するための軍市ができつつあった。第一次蜀軍迎撃戦で、曹真軍の後方に試験的に設けたものと同じものである。司馬懿はこの軍市の差配を、辛毗という文官に一任していた。
 辛毗はすぐにやってきた。
「軍市のできはどうだ、辛毗」
「簡易的なものではありますが、家屋は予定しているものの三割が完成しております。できあがったものから、長安からやってきた商人に食堂や妓楼を開かせます」
「そろそろ、兵に銭を支払ってやれ。交代で軍市で遊ばせるのだ。このまま滞陣が続けば、敵に攻め込めと言い出し始める者が出かねん。兵に息抜きをさせてやるのだ」
「軍市が大きくなると、敵の忍びによる後方攪乱に対する備えが必要になってきます。いかがいたしましょう」
「暇な兵はいくらでもいる。軍市の警備は、軍市を利用する兵にやらせろ」
「かしこまりました」
 言って、辛毗は退室して行った。
 司馬懿の戦略をよく理解している文官だった。この戦の軍政と、主戦派の首根っこを抑える役目は、この男に任せておけばいいだろう。
 この戦は、ただ守っていれば勝てるのだ。しかしずっと陣内に籠っていれば、軍内の主戦派がいつ暴発しだすかわからない。軍市を設けたのは、それに対する備えという意味がある。
 ここにいる兵は、何もしなくても銭がもらえる。その銭で旨いものが食えるし、女を抱くこともできる。この陣地に籠りながら守り続けるのも悪くないと、兵はそう考えることだろう。
 今頃、長安では兵に支払われる貨幣が大量に鋳造されているはずだ。長安を発つ前、司馬懿が指示したことである。その銭を兵に支払い、軍市にやってきた商人がその銭を長安に持ち帰り、そうして長安が富めば軍司令官としての司馬懿の名声は上がるはずだ。
 ただ銭の価値は下がり、物の値が上がることが考えられたが、そんなことは知ったことではない。この国が乱れるということは、司馬懿にとって悪いことではないのだ。銭の価値が不安定になろうと、それが司馬懿のせいだと、愚民共にわかるはずなどないのだ。そうして生まれた民の不満は、軍司令官の司馬懿にではなく、魏という国に向けられるだろう。
 司馬懿は心地良い思惑の中にいた。目の前には蜀という敵がいて、内には魏という敵がいる。そしてその二国は、自分の掌の上で踊っているのだ。
 司馬懿の描いている絵は、着々とできつつあるのであった。

 魏軍八万が天水に入り、蜀軍六万が祁山を中心に布陣した。
 天水は魏の西端にある。蜀との国境を接する魏の正面玄関のような城郭だ。ここを抜かれてしまえば、一気に長安まで攻め込まれてしまうことになるだろう。魏軍はこの八万で、なんとしてもここを守りきらなければならない。
 夏候覇は天水の軍営で、自分の率いる騎馬隊の調練をしていた。戦場で自分の手となり足となる、三千の精鋭騎馬隊である。蜀軍とのぶつかり合いはまだないが、馬は走らせておかないとすぐに走れなくなってしまうので、調練を怠ることはできなかった。
 調練中は、常に王平の騎馬隊を思い描きながら馬を駆けさせていた。前回の戦で、あと一歩で首に届きそうだった。次こそは、という思いは、強くある。その蟠りのような強い思いが、夏候覇をこの戦場に臨ませていた。
 幸いにも、今回の上官は郭淮ではなく、張郃だった。諸葛亮率いる蜀軍を天水で迎え撃った三度目の防衛戦では、郭淮の下で肩身の狭い思いをしたのだった。自分があれこれと口を出すことで、煙たがられているのだろうということは、なんとなくわかっていた。しかしこれは魏国の戦であり、自分も魏国の将ならば、言うべきことは遠慮することなく言うべきであろう。ただ黙って上官である郭淮の言うことを聞いているだけの将にはなりたくなかった。
 自分は魏建国の元勲を父に持つ将なのだ。夏候覇はそのことを誇りにしていた。その誇りは口には出さずとも、あらゆる言動となって周囲に漏れているということはあるのかもしれない。それが人から煙たがられる原因となるのだろうという自覚はある。自覚はあるだけで、それをどうにかしようという気はない。誰かに煙たがられようと、それは自分の中で大切にしておくべきものなのだ。
 張郃は、そんな夏候覇の良い理解者であった。自分の持つ気概を煙たがることなく、むしろそれを戦場で有効に使ってくれる指揮官だった。街亭で初陣だったにも関わらず、敵将の首を奪れたのは、他でもない張郃のおかげであった。
 初めて張郃に会ったのは、蜀が魏に攻め込んでこようとしていた三年前のことだった。当時の夏候覇は、まだ長安軍内で将校見習いのようなことをしていた。蜀とは定軍山の戦いを最後に十年間も大きな戦はなく、したがってその時の夏候覇には賊討伐という戦歴とも言えないような経験しかなかった。ただ蜀に対する憎悪の念は、多分にあった。
 蜀との間に不穏な空気が流れ始め、中央から精鋭騎馬隊が長安に派遣されてきた。それを率いていたのが、張郃だった。夏候覇はその名を知っていた。あの忌まわしき定軍山の戦いで、父の副官をしていた男である。
 父の側で何をしていたのだ。この将軍の名を聞いた時、会えばそう面罵してやろうと思った。
 張郃が赴任してくると最初に、張郃軍と長安軍で模擬戦をすることになった。
 夏候覇は意気込んだ。面罵するより馬から突き落としてやる方が、よほど気が晴れるだろうと思った。面罵するのは、その後からでも遅くはない。
 模擬戦で夏候覇は、陣の最右翼にあって百の騎馬を指揮していた。敵が隙を見せれば一番に突っ込んでいける位置であり、自ら望んでその位置に陣取った。
 長安軍は歩兵を中心に置き、左右に騎馬隊を置いた陣形を布いていた。騎馬の援護と共に、歩兵でじりじりと攻める陣形である。それに対し張郃軍は、中央突破に有効な楔形の陣形を布いていた。
 馬鹿な、と夏候覇は思った。騎馬隊は攻撃力に長けるが、防御力においては脆い。中央の歩兵に騎馬を突っ込ませるなど、無謀そのものではないか。そんなことも分からない副官だから、父は討ち取られたのではないか。やはりあの将軍の首は、俺が奪ってやる。
 開始の銅鑼が鳴らされると、模擬戦場である平原に兵の声が地鳴りの様に響き渡った。馬上から見る張郃軍は、五里の距離から楔形のまま中央の歩兵に突っ込んできた。味方が前線で戟を模した木製の武器を一斉に突き出していた。しかし張郃軍は歩兵にぶつかる直前で、一糸乱れぬ動きで二つに割れ、左右の騎馬隊に向かってきたのだった。張郃軍を包み込もうと右翼を回り込んでいた夏候覇は狼狽した。
 勢いのついた張郃騎馬隊は、次々と長安軍の騎馬を突き落とし始めた。歩兵がそれを防ごうとしているが、馬の脚には追いつけない。長安軍の片翼は千五百の騎馬であり、こちらに向かってきた相手は二千騎を超えていた。数でも負けていたが、質でも負けているといことは、周りを見渡してすぐに分かった。
 このままでは、敵を包囲するも糞もない。そう思った夏候覇は、自らの百を率いて乱戦になりかけていた戦域を脱し、小高い丘に駆け上がった。張郃が後方で指揮をしていることを確認した夏候覇は、一気にそちらに馬を走らせた。後ろを見ても、追手はない。張郃の周りには五百がいて距離もあるが、勢いをつければ首を奪れるかもしれない。
そう思ったのも束の間だった。右手の丘の稜線から、五百の騎馬がぬるりと姿を現したのだった。こちらに気付いた張郃が、指揮する五百をこちらに駆けさせ始めた。夏候覇の百に対する、五百と五百の挟撃。それに抗う術はなかった。
 気付けば模擬戦は終わっていた。夏候覇は、平原の真ん中で水をかけられて目を覚ました。
結果は、張郃軍の圧勝だった。しかしそれ自体に悔しさはない。悔しいのは、どうやって自分が気絶させられたのか、全く思い出せないことだった。ただ、突かれたのだろう腫れた左の頬が痛かった。
 他の兵卒らと長安城内に撤収していると、一人の兵が夏候覇を呼びに来た。意外なことに、張郃が自分のことを呼んでいるのだという。模擬戦が始まる前なら父のことで何か言ってやろうと思っていただろうが、散々に打ち負かされた後でそんな気には微塵もなれなかった。
「失礼します」
 もしかしたら、果敢な突っ込みを見せたことを褒められるかもしれない。そんなことを考えながら、夏候覇は入室した。
「お前が夏候覇か」
 幕僚と何かを話していた男が、こちらをじろりと睨むようにして言った。張郃を見るのは、これが初めてである。
 夏候覇は、反射的に拱手していた。
「つまらん男だ」
「えっ」
「顔に書いてあるぞ。負けはしたが果敢な突撃は良かったと、そう褒められると思っていたな。夏侯淵殿の御子息だから少しは骨があるかと思ったが、もう帰っていいぞ」
 言った張郃が、興味を失ったかのようにまた幕僚と話し始めた。
 夏候覇の頭に、かっと熱いものが昇った。
「呼び出しておいて、それはないでしょう。上官といえど、それは武人に対する不敬ですぞ」
「なに」
 張郃と話していた幕僚が睨みつけてきた。張郃はそれを手で制し、つかつかとこちらに歩み寄ってきた。そして、張り手打ちを喰らわされた。
「殺された者が、殺した者に言えることではないな。お前は武人ではない。ただの死人だ。死人が勝手に武人を気取るな」
 頬を張られ、夏候覇は張郃を睨み返した。ただ間違ったことを言われているとは思えなかったので、張り返そうという気は湧いてこなかった。
「確かに、あの戦場が本物であれば、俺は死んでいました。しかし戦なら、死ぬことがあるのは当然のことです。私は死を恐れず、軍人として、全力で戦ったのです」
 それを聞いた張郃が、挑発的ににやりと笑った。
「軍人の仕事は、死ぬことではなく、敵を倒すことだ。負けはしたが、死を恐れなかっただと。お前のような馬鹿者が、実戦では他の指揮官を困らせるのだ」
「私は軍人です。勝とうが負けようが、誰に何と言われようが、死ぬ時がくればそれまでだったというまでのことです。私の父は」
「お前の父の話などはしていない。俺は、お前と話をしているのだ。時がくれば、死ねばいいだと。それがお前の思う軍人ならば、ここでとっとと死ね。軍人は、いや、男は、勝たなければならないのだ。勝って、生き延びて、周りの全てにこいつは強いと思わさなければならないのだ。今日、お前は死んだ。それも百の部下を道連れにしてだ。そんなことは、軍人の仕事ではない」
「ならば」
 夏候覇は、一つ大きく息をついた。
「私の父は、定軍山で犬死したとでも言うのか。戦場で死んだ父は、軍人として失格だったとでも言いたいのか」
 父のことが出て、頭に血が昇りきっていた。言葉遣いも上官に対するそれではなくなっていたが、気にしなかった。
「お前の父はな」
 言った張郃の雰囲気が、ふっと穏やかなものになった。
「立派に討ち死にされた。蜀軍の奇襲に一人で抗い、前線を立て直そうとしていたところを討たれたのだ」
 夏候覇は張郃を睨んでいた。その時、あんたは何をしていたのだ。そう口から出かけたがぐっと飲み込み、次の言葉を待った。
「前線に行かず、奥の方でふんぞり返っているだけの将軍は少なくない。そして兵の見えない奥の方から、愚にも付かぬような指示を出すのだ。そんな奴らに比べれば、お前の父はずっと勇敢で、立派であった。定軍山以外での戦でも、お前の父は常に前線で馬を駆けさせていた。それは軍の指揮官としてあるべき姿であった」
 睨みながらも、じっと聞いていた。この人は、自分の知らない父の姿も知っているのだ。
「だからと言って、死ぬことを肯じてはならん。今日のお前は、判断を誤り、一つしかない命を失ったのだ。これを少しでも褒められると思ったお前は、軍人失格だ。今日のお前の死と、お前の父の死を、同格だと思うな」
 言い返せることなど何もなかった。口から言葉が出てこない分、目の奥が熱くなっていた。いつかこの男を超えてやる。目の奥で熱くなったものは、そういう思いに変質し、夏候覇の心に強く思い定めさせた。
 これが、張郃との出会いであった。こういったやりとりがあった後、夏候覇は自ら望んで張郃の指揮下に入った。一人の将校というより、従者のような扱われ方をされた。そこで学んだものは、決して少なくない。
 それからすぐ、蜀軍が魏に侵攻してきた。
 蜀軍を街亭で破った張郃はしばらく長安を離れていたが、またこうして共に蜀軍と相対することとなったのだった。
 軍の総司令官は、司馬懿という男だった。軍人というより、文官だといっていい男に軍の指揮ができるのかと思ったが、張郃は心配することはないと言っていた。
 今回の軍の総指揮は、張郃が執るものだと思っていたのだ。そう思っていた者は、夏候覇以外にも少なくない。しかし実際は、魏軍騎馬隊の総隊長の位置に留まった。これだけの大戦となると、政治内の人事でも、色々と難しいことがあるのかもしれない。強い軍人が、その力を発揮すればいいという単純な話ではないのだということは、何となく感じていることだった。
 ただ自分自身は、命令によって戦うだけである。
「今回の戦は、持久戦だ。ここ天水を守りきり、蜀の兵をここで止めれば魏軍の勝ちだ。俺たち騎馬隊は、隙を突いて敵の後方に回り込んでの攪乱、あるいは敵の兵站線を切るということをやる」
 日没後の、暖を取った幕舎内である。張郃の従者から、熱い湯が入った椀が差し出された。
 冬の戦である。日が落ちれば空気は凍てつき、河の水が氷った。口を湯につけると、体の芯から温まり、それが心地よかった。
「既に敵後方に斥候は放っております。明朝には、第一陣が帰還する予定です。斥候は、敵の兵站基地の所在を明確にすることを第一目標としています」
「見つけたと思っても、疑ってかかれ。はじめの戦で、我々は敵の兵糧を焼いている。それに対する備えはしてあるだろう」
 言って、張郃は湯を啜った。頭髪に白いものが混じっているこの老将軍は、既に五十を越えている。決して顔には出さないが、この寒さは老体に堪えているのかもしれない。
 その分、自分が頑張らなければという思いはあるが、口には出せない。出せば、蹴り倒されてしまうだろう。まだそれだけの元気はあるし、頭脳も衰えてはいない。仮に司馬懿の代わりに総指揮官となっても、十分に務まるだろう。むしろ過去の戦歴から言って、張郃の方が適任かもしれない。
「寒いであろうが、馬は毎日駆けさせておけ。まだ戦いが始まらないからといって手を抜くな」
 張郃率いる精鋭騎馬の中に手を抜こうという者はいないだろうが、長安軍の騎馬隊の中には、まだ戦を知らない若い兵が少なくない。そういった兵を統べておくことの重要さを、夏候覇は身をもって知っていた。張郃と出会う前は、自分も戦を知らない若い兵の一人だったのだ。その時の戦は、想像という囲いの中を出ないものに過ぎなかった。
「一つ、質問してもよろしいでしょうか」
 言うと、湯を啜る張郃が目を向けてきた。
「前の蜀攻めで、司馬懿殿は大敗して多くの兵を失ったと聞きました。それなのに何故、今回の総指揮官に司馬懿殿が選ばれたのでしょうか」
 椀を置いた張郃の顔が、不意に険しいものになった。
「つまらぬことを聞くな、夏候覇。戦が始まれば、軍人は戦うだけなのだ」
「軍人が、自分の上官について疑問を持つべきではないということは、重々承知しています。それでも、一度だけ聞かせてください。前回の戦の推移については、私も自分なりに調べました。それを見ても私には、司馬懿殿より張郃殿の方が総指揮官にふさわしいと思うのです」
 言うと、椀が飛んできた。椀に残ったぬるま湯が、夏候覇の顔を濡らした。
「くどい。つまらぬことを聞くなと言っている」
「前線で、部下に直接死ねと命じるのは、私です。失敗をした者が、どうして私たちの上にいるのか、一度だけお聞かせください」
 張郃が睨みつけてきたが、夏候覇は目を逸らさなかった。いつまでも、自分は半人前ではないのだ。腕を組ませた張郃が、仏頂面のまま目を閉じた。
「これだけの大戦となると、色々なものが絡んでくる。その色々なものとは、戦とは関係ないものだ。ただ強い者が頂点に立ち、その強い者が兵を率いて敵を討てばいいという単純な話ではなくなってくるのだ」
 言っていることは、なんとなくわかる。しかしわかるというだけで、納得しているということではない。夏候覇は、じっと張郃の顔を見つめた。見つめていると、何故こんなことを聞いているのかという後悔のようなものが湧いてくる気がした。
「色々なものに対し、司馬懿殿は働きかけ、俺は何もしなかった。それだけの話だ。しかしそんなつまらぬものに拘るつもりは、俺にはない。軍人は、ただ目の前の敵を討ち果たせばいいだけだ。それだけを考えていればいい」
「はい」
「もういい。行け」
「失礼いたしました」
 一礼し、夏候覇は幕舎を出た。
 見上げた外の夜空には、たくさんの星が散りばめられていた。朝廷内では、星を見て占いを行い、人の配置を決めることもあるのだという。このことを考えると、第一線で身を削らせている軍人とはなんなのだという空しさが、心の底に湧いてくるのだった。
 夏候覇は頭を振り、その思いを振り払った。今は、戦場の真っただ中にいるのだ。余計なことは、考えるべきではない。
 部下の一人が、斥候が戻ってきたと伝えてきた。
「俺の幕舎内で、地図を広げて待っておけ」
 言われた部下は駆けだしていった。
 思ったより早く斥候は帰ってきた。馬がよく駆けている証だ。とりあえず今は、そのことを良しとしよう、と夏候覇は思った。


15.木門
 雪がうっすらと積もる木門に、木枯らしが吹いている。毛皮で身を包んだ兵卒たちが、寒さの中で作業を続けていた。
 王平は諸葛亮の命により、蜀軍本陣がある祁山から南東五十里の木門に陣取っていた。
 蜀軍の大兵站基地である。漢中にいる李厳の差配により運ばれた兵糧等の物資は全てここに集められており、兵達は物資の袋を運んだり、その物資を保管する簡易な倉などを作ったりしていた。この基地の防衛が、王平に与えられた任務であった。
 王平軍のいる場所は前線ではないが、主力からはずされたという意識はない。度重なる北伐で、兵站確保の重要さは嫌になるほど身に染みているのだ。一度目の北伐では、囮となった張郃に気を捕らわれている内に、後方に回った魏軍別働隊に兵糧を焼かれた。二度目の北伐では、陳倉城の堀を埋めるのに兵糧を遣ったため兵を退かざるをえなくなった。
 戦とは、単に兵をぶつからせればいいというわけではないのだ。兵站線は例えて言えば、人の体でいう血の管のようなものである。この血の管を切られてしまえば、人と同じように、軍は死んでしまう。目の前にある兵站基地は、軍の命そのものといっていい。いや、蜀国全体から集められたこの兵糧は、蜀の命そのものだと言っていい。
「前線の様子はどうだ、劉敏」
 兵站基地軍営内の、王平が起居する幕舎内である。諸葛亮から呼び出しを受けていた劉敏が、ついさっき帰陣してきたのだった。
「まだしばらく睨み合いが続きそうです。司馬懿が、とにかく動かないのです。これを無理に攻めれば、こちらに大損害が出てしまうほどの陣構えです。前線では、丞相と楊儀殿がこれを崩そうと知恵を絞りあっています」
「司馬懿という男は、よくわからん男だな。切れ者だという噂だが、前回の戦では丞相の戦線に無謀と思える攻め方をして、かなりの兵を失っていると聞いた」
「今の陣構えを見る限り、あの男は優秀です。今の魏軍にとっての勝利が何であるか、しっかりと分かっているのだと思えます。前回の戦で見せた無謀さは、確かに不可解なところがありますが」
「その時は、魏軍内で何かあったのかもしれんな。それでもこうして魏軍総指揮官になれたということは、やはりそれだけのものを持っているということなのだろう」
「夏侯楙のような凡愚が司令官になってくれればいいんですがね」
 北伐が始まる前、長安の太守は夏侯楙という、名ばかりが尊い愚人が任じられていた。その夏侯楙は、既に長安から遠ざけられている。
「一度は句扶の働きで、司馬懿は左遷させられたんだがな。もし左遷させられたままなら、今の魏軍司令官は張郃であっただろうな」
 蜀軍にとってどちらが良かったかということまでは、王平にはわからなかった。ただ、どちらも優秀だということはわかる。
「その張郃ですが、今は魏軍騎馬隊の総指揮をしているようです」
 張郃とは、つくづく縁があった。洛陽近郊を行軍中の張郃軍に、辟邪隊として襲いかかったのが初めての出会いだった。それから定軍山では張郃の指揮下で蜀軍と戦い、街亭では互いに軍を率いる将として相まみえた。
「魏軍は、当然ここの兵站基地を狙っているのだろうな。兵站を切りにくるとすれば、張郃の率いる騎馬隊か」
「その可能性は大です。しかし、そうそう簡単にこの罠にはまってくれるものですかね」
 一大兵站基地と称しているが、実はそれは見せかけだけで、ここには見た目の半分の兵糧もなかった。これだけの大軍同士の戦いになると、互いに敵の糧道を断とうというのは戦の常道である。ならば兵站基地を丸々罠にしてしまおうというのが、諸葛亮の考えた策であった。
「斥候はいつもより多く出しておけ。あの騎馬隊の速さなら、気付けば目の前にいたということにもなりかねん」
「心得ております。もし何か兆候があれば、魏軍内に入り込んだ句扶殿が何か報せてくる手筈にもなっています」
 敵陣に潜入している句扶も、兵站を乱そうとしているのだろう。
 魏軍にも黒蜘蛛という忍びがいて、蜀軍内に幾らか紛れ込んでいると考えた方がいい。情報の漏れと、暗殺には、いくら注意してもし過ぎることはない。
 不意に幕舎の外から、子供がはしゃぐ声が聞こえてきた。蔣斌の声だ。それを聞いた劉敏が、眉間に皺を寄せた。
「ちょっとうるさいですな。注意してきます」
「いや構わんよ。気を張り詰め過ぎても良くないだろう。ああいったのが軍の中にいるのは、兵達にとっていいことなのかもしれん」
「しかし」
 劉敏は、蔣斌に対して厳しかった。自分の甥だからしっかりと成長してもらいたいというのがあるのだろう。調練をしていても、劉敏はまだ若い蔣斌のことを特別扱いすることなどなく、むしろ厳しく接していた。
蔣斌を戦場に連れてくることにためらいはあった。劉敏も、それ以上に心配していた。しかし成都からの蔣琬の書簡で連れて行ってくれ、という希望があったため、劉敏も承知せざるをえなかった。
 また一度、外で声がした。声からして、蔣斌の相手をしているのは、王平軍の歩兵を指揮している杜祺であろう。王平軍の中では、その杜祺が蔣斌と仲が良かった。
「やはり、注意しておきます」
 劉敏が幕舎から出ると、蔣斌の声がぴたりと止んだ。それから微かに、劉敏が説教をする声が聞こえてきた。
 そしてしばらくして、劉敏と杜祺が幕舎に入ってきた。
「蔣斌は、罰として夕飯まで駆け足にいかせました。困るな、杜祺。お前はあいつのことを甘やかし過ぎる」
「申し訳ありません」
 しょんぼりとした杜祺が頭を下げながら言った。
「丁度良かった、杜祺。お前に、今回の作戦の話をしておきたかったのだ」
 王平が言った。
「我々に、前線に行けという命令がきたのですか」
「いや、ここを動かん。我々は、ここへやってくる敵を迎え撃つのだ」
「こんな後方まで、敵はやってくるのですか」
 ここは前線ではないから敵は来ないと、杜祺は漠然と思っているようだった。ここ木門は前線から五十里離れているが、この距離が軍を動かす者にとってどのような意味を持っているか、理解している兵は少ない。王平はこんな時、兵がきちんと作戦を理解できるまで、じっくりと話を聞かせるのだった。
「敵陣から半日程も馬を駆けさせれば、ここに着く。この場所は、そういう位置にあるのだ」
 王平は地図を指しながら、丁寧に説明した。杜祺はそれに頭をふんふんと頷かせながら聞いている。
「ここからは機密だ。誰にも言うなよ、杜祺」
「わかりました。誰にも言いません」
 王平は声を潜めさせた。
「ここの兵站基地は、偽装だ。つまり、ここにあるほとんどの倉は、実は空だ。丞相がここに敵軍を誘き寄せ、それを我々が殲滅する」
 それを聞いた杜祺が、顔をはっとさせていた。
「今回は後方で兵站基地を守るのだと聞いた時は、正直がっかりしました。ここで戦ができるのなら、漢中から出てきた甲斐があるというものです。蔣琬に本物の戦を見せてやりましょう」
「そんな余計なことは考えなくていい」
 劉敏が言った。
「いつまでそう笑っていられるかな。ここを襲うとなれば、魏軍の精鋭騎馬が来るぞ。それを誰が指揮しているか、お前も知っているな」
「そうだろうな。来るとするなら、張郃だろう」
「まさか、張郃」
 杜祺がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。それくらい、張郃の名は蜀軍の間に知れ渡っていた。
「恐いか、杜祺」
 劉敏が口元をにやつかせながら、からかうようにして言った。
「恐かろうが何だろうが、来たら全力で戦うだけです」
 杜祺が首を振り、少しむきになりながら答えた。
「心配するな。うちの王平殿は、張郃なんかよりもずっと強い。大船に乗った気分でいろ。そして、手柄を立てればいい」
「そういうことだ。俺は、張郃よりも強い。しかし油断はならん。ここは後方だが、常に前線だという意識を持っておけ。ここが襲われるのなら、ここ数日の間だという気がする」
「わかりました。柵を作って溝を掘り、敵の騎馬隊に備えておきます」
「それはいいが、あまりやり過ぎるな。あくまで相手を誘い出さなければならないからな。兵卒たちには、兵糧の偽装のことは絶対に言うな。ここが張郃に狙われているかもしれないという程度のことなら、言ってもいい」
「御意」
 言って、杜祺は急ぐようにして幕舎を出て行った。今すぐにでも、騎馬に対する備えをしておくつもりなのだろう。
 杜祺には非凡さこそないが、言われたことは忠実にこなす良い将校だった。隊長程度なら、中途半端な非凡さがあるより、上の者に対する従順さがあった方が軍全体が強くなるのだ。中途半端な非凡さを持つ者は、戦場で命を落とすのも早い。
「失礼ですが、笑いそうになりました。俺の方が強いだなんて、普段なら絶対に言わないじゃないですか」
「それくらい言っておかないと、やってられん。張郃を一番怖れているのは、この俺かもしれないというのにな」
 張郃のことは、辟邪隊の頃から知っている。その強さも、嫌というほど知っているのだ。
「あえて張郃の名を出すこともなかったかな。兵が縮み上がらなければいいが」
「前線でないということで、兵の気持ちは緩んでいたと思います。張郃が来るかもしれないと聞けば、兵達は気持ちを引き締め直すでしょう」
「そうだといいが」
「王平殿、弱気は大敵ですぞ。その弱気を吹き飛ばすためにも、これから戦の想定でもしておきましょう」
 劉敏に言われ、王平は苦笑した。確かに弱気になっている。それくらい、張郃の名は王平の心に深く刻み込まれているのだ。
 地図を前にして、劉敏と共に、敵の侵攻進路はどこになるか、こちらの兵はどこに配置しておくかを話しあった。
 話しあっているとすぐに夕餉の時間になり、全身を汗にまみれさせた蔣斌が呼びに来た。どうやら劉敏の言い付けを守り、真面目に走っていたらしい。
 王平は幕舎を出ると、手勢の一万に兵糧が行き届いているのを確認し、いつも使っている焚火の場所に行った。そこには既に劉敏と蔣斌と杜祺が座っていて、蔣斌が劉敏に何かくどくどと言われていた。
「王平殿がまだ来ないというのに、こいつは腹が減ったとぼやくのです。軍にいながら食欲も我慢することができんとは、恥を知れ、蔣斌」
 言われて、蔣斌は首を竦めていた。
「待たせて悪かったな。もう、食っていいぞ」
 そう言うと蔣斌は、弾かれたように周りの三人の飯の世話を始めた。さすがに自分ひとりの分だけ準備するということはないようだ。そんな蔣斌を見ていると、同じくらいの年の王訓のことがどうしても頭をよぎってしまう。
「なあ、蔣斌」
「はい」
 蔣斌は手を止め、まだ力の余るその目を王平に向けてきた。
「この飯は、どこから来ているか、知っているか」
「成都からですか」
「そうだ。そしてその差配は、お前の親父である蔣琬がやっている」
「はい。叔父上からも、そのことは聞かされています」
「立派なものだなぁ。ここの兵らが腹を空かさずにいられるのも、お前の親父のおかげだ」
「はあ」
 なんと答えてよいのか分からないのか、蔣斌は気のない返事をしていた。
「こいつは自分の父親がどんな働きをしているのか、本当のところ分かっていないのです。情けないことだ」
 劉敏が厳しい口調で言い、蔣斌はまた首をすくめた。
 王平に、それを笑うことはできなかった。王訓はついこの間まで、自分に会ったことすらなかったのだ。
「父のことは嫌いか、蔣斌」
 王平にそう言われ、蔣斌は困ったような顔をした。
「わかりません。しかし私の母は、父のことをあまり好きではないかもしれません」
「母が好きでないから、お前も好きではないのか」
「わかりません」
「男ならはっきりと答えんか」
 劉敏がそう言ったが、蔣斌は顔を俯かせたままだった。その隣では、杜祺が苦笑しながらその様子を眺めている。
「まあいい、食おう。たくさん走って、たくさん食え。食って食って、体を強くするのだ」
「はい」
 蔣斌が勢いよく麦の玉に齧りついた。成都の飯に比べればまずいものだろうが、そんなことは気にしていないようだった。それは、蔣斌のよいところの一つである。
 王平も麦の玉を口に入れ、時折蔣斌の顔をちらりと見た。
 成都でも今頃、王訓も蔣琬と飯を食っているのだろうか、となんとなく思った。

 司馬懿への報告が終わると、すぐに南に走った。蜀軍本隊が陣取る祁山と兵站基地の木門を結ぶ線を大きく東へ迂回し山中を進み、丸一日かけて木門まで達した。
 郭奕は森の中で日が落ちるのを待ち、暗くなると兵糧が運び込まれている倉に忍び寄った。
 この兵站基地は偽装であるかもしれないと、部下が報告してきたのだった。その真偽を確かめるため、郭奕は自ら木門まで来ていた。
「多いな」
 郭奕は連れてきていた部下に、唇を動かすだけでそう言った。多いとは、見張りの数のことだ。前戦から離れたここ木門にこれだけの見張りを立てているのは、やはりどこか不自然である。
「倉に忍び込み、袋の中を調べろ。俺は北側の倉、お前は南。集合は、今から二刻後」
 唇を凝視している部下が頷いた。そして散会した。
 暗闇の繁みの中を、獣のように移動した。見張りの数は多いが、ここは前線ではないからか、気の抜けた顔をしている歩哨ばかりだ。
 郭奕は地を這うようにして進み、見張りの薄い所を見極めた。呑気に欠伸をしている歩哨の後ろに音も無く回り込み、首筋を打った。気絶した歩哨を物陰に隠し、倉の中に忍び込んだ。
 大きな屋敷の広間くらいの倉の中に、兵糧の袋がぎっしりと積まれていた。しかし本当に、中身は兵糧なのか。
 郭奕は胸から小刀を出し、袋の一つに突き立てた。抜くと、穴から麦がぼろぼろと零れ落ちた。その穴の中に手を突っ込んだ。中に、もう一つの袋。麦の中に小刀を入れ、中の袋を切り裂き、中身を掴みだした。出てきたものは、藁であった。
「やはり、偽装だったか」
 郭奕はもう二つ、同じようにして確かめた。やはり二重の袋の中には、藁が詰められていた。
 それを確認すると、郭奕はそこを離れた。集合場所は、日没を待っていた場所である。郭奕がそこに到着すると、すぐに部下もそこにやってきた。
「言え」
「偽装でした。中身は藁です」
 唇の動きでそれだけを確認し、二人は速やかにそこを離脱した。人目に付きにくい山中とはいえ、ここはまだ蜀軍の勢力圏内である。今のところ気配はないが、いつ蚩尤軍が襲撃に遭うかわからない。
 かなり進み、夜が白み始めた辺りで、郭奕は足を止めた。
「何人殺した、郭循」
 ここまでくれば、もう声を出しても問題ない。
「一人を眠らせただけです」
 郭奕は無言でそれに答えながら、雪が積もっていない大木の根の下に入った。
「ここで四刻の休息。干し肉を腹に入れておけ」
 郭奕は手持ちの干し肉を口に入れると、郭循も同じように口に入れた。
 四刻の休息ということは、二刻ずつ眠るということだ。先に郭循が眠り、郭奕は見張りをする。付けられていれば、休息を始めて間もない時が危ないのだ。
 すぐに郭循は寝息を立て始めた。いつでも眠れる訓練はしてあるのだ。周りに気配が無いところから、尾行の心配はなさそうだった。蚩尤軍のほとんどは、前線に配置されているのだと思えた。
 今回の敵陣調査は二人で行った。こういう任務は少人数でさっさと済ませるのがいい。自分一人でもよかったが、経験を積ませるためにも、この若い郭循を随伴させていた。まだ若くはあるが、郭奕が手塩にかけて育てた忍びである。十三年ほど前に孤児で路頭に迷っているところを、郭奕が拾ったのだった。
 拾った時が恐らく三才くらいだったので、まだ二十歳には届いていないくらいの年だろう。拾ったのは、自分の好みだったからだ。自分の名から一字取り、郭循と名付けた。そして、自分の屋敷に住ませた。身体能力には目を見張るものがあり、郭奕は慰み物としてのそれよりも、その身体能力を愛した。これは良い忍びになると思った郭奕は、郭循に忍びの技を教え込んできたのだった。
 幼い頃から、自分の言うことを聞かない時は、激しく折檻をした。折檻とはつまり、性的な罰である。そうすることで、郭循には忍びの修行をさせたのだ。昔は声を荒げて嫌がっていた折檻だったが、時が経つにつれ、その傾向は薄まっていった。技を身に付ければお前の嫌がることはやらないと理解させたからだ。嫌なことをやられるのは、言われたことができない自分が悪いからだと、郭循はそう思っていた。
 時には無理難題を押し付け、それをこなせなかった時は激しく犯した。そうすることで、郭循は郭奕の無茶な要求をこなせるようになり、強くなり、従順になっていった。そうして郭循の中にある何かが壊れていった。その何かとは、郭奕にとって余計でしかないものだ。折檻をするだけでなく、言われたことができるようになれば、それを褒めた上で旨いものを食わせてやった。
 言われたことができなければ犯され、できれば褒められ旨いものを食える。それを理解した郭循は、成長していくと共にめきめきと力を付けていった。そして今では、自分のことを父と崇めている。周りには、本当の父子だと思っている者もいる。
「父上、交代です」
 起きていた郭循に一つ頷き、郭奕はその場に横たわった。
 少しまどろんだだけで、二刻が経つ前にそこを発った。そこから半日進み、魏軍本陣近くの拠点である小屋に入り、待っていた部下に木門で見てきたものを伝え、司馬懿の下に走らせた。
「まだぶつかり合いは始まっていないようだな」
「そのようで」
 狭い小屋の中で、隣に佇む郭循が静かに答えた。昔ならここで、郭循の体を弄んでいたところだが、それは二年前にやめていた。やめたのと同時に、黒蜘蛛の一員にしたのだ。郭循は黒蜘蛛の一員になったことで、自分が一人前として認められたのだと思い、それに喜びを感じていることだろう。その喜びは、郭奕にとっての喜びでもある。
「木門で一人眠らせたと言っていたな。殺さなかったのは何故か、言ってみろ」
 郭循は一瞬、戸惑ったような顔をした。こんな顔を見せるのは、自分の前だけだ。それは郭奕にとっての密かな愉悦であった。
「怒って言っているのではない。思ったことを、正直に言ってみろ」
「殺せば死体が残り、敵に警戒感を抱かせてしまうと思いました。だから、居眠りをしてしまったかのような眠らせ方をしました」
 郭奕は深く頷いて見せた。
「よろしい。良い答えだ」
 言って頭を撫でると、郭循はほっとした顔を見せた。
 身体能力だけでなく、頭も働かせられるようになってきている。いくら武術や忍びの技が長けていようと、頭が悪ければ良い忍びにはなれない。自分で的確に判断し、現場に死体を残してこなかった。それは郭奕にとって喜ばしいことだった。
 作戦前に殺すなと命じなかったのは、郭循を試すためだ。ここで一人でも見張りを殺していれば、郭奕は悩んでいるところであった。忍びを続けさせるか、処断するか、という悩みだ。
 そう思うも、問題なくやってくれるだろうという、確信めいたものはあった。郭循は、俺が育てた子なのだ。
 日の光から閉ざされた小屋の中で、はにかむ郭循の歯が白く映えていた。
 今まで郭循には手酷いことをしてきたが、それに対する報復の心配はない。郭循はこの世の何より自分のことを怖れているのだ。そして郭循の生きる上での喜びは、完全に自分の掌の上にある。郭循は、十五年もあげて作り上げた、郭奕の最高傑作だと言っていい。こうして忍びに仕立て上げようとした童は他にも何人かいたが、思うようにいかず、飽きると捨てるようにして殺してきたのだった。
「ここからは別行動だ。お前は蜀本陣に潜入し、既に潜り込んでいる黒蜘蛛と合流し、陣内の様子を伝えてこい。何を伝えるべきかは、自分で考えろ」
 郭循が一つ頷いた。
「敵の高官の首を奪れそうな時は、してもよろしいでしょうか」
「小賢しいことを言うな」
 郭奕が睨むと、また郭循が不安そうな顔を見せた。
「俺は、敵陣の様子を見てこいと言ったのだ。それがわからなかったか」
「申し訳ございません」
「わかったら、行け」
 郭循が、弾かれるようにしてそこから出て行った。
 功に逸る若さは、郭循にも人並にあるようだった。恐らく、良い仕事をすることで、自分に褒められたいのだろう。それは悪いことではなかったが、まだ早かった。蜀軍陣内には、蚩尤軍による警戒網が網の目の様に張られているのだ。蚩尤軍率いる句扶の力は、郭奕が誰よりもよく分かっている。ここで早々に郭循を失うような真似はしたくなかった。
 それに暗殺は、自分のやるべき仕事である。郭循には、その時が来れば、何か手伝いをやらせればいい。
 そこで六刻ほど眠り、外からの合図で目を覚ました。外に出ると、農夫や兵など、それぞれの格好をした十人の部下が、手筈通り集合していた。
 郭奕が歩き出すと、部下らは気配もなくそれに続いた。
 ここからは、忍び同士の暗闘である。
 滞陣が長くなると蚩尤軍による後方攪乱が考えられたが、魏軍陣内は拍子抜けするほどに静かなのだという。何か企みがあっての静けさなのかもしれないが、それが何であるかまでは読み切れないでいた。もしかすると、蚩尤軍は大きな動きを見せないことで、黒蜘蛛を自陣に誘い出そうとしているのかもしれない。やはり郭循を突出させるのは危険だと思えた。
 蜀軍本陣の手前まで来ると、やはり何か肌に刺すようなものがぴりぴりと伝わってきた。どこかで、何かがこちらを見ている。それは梟が息を潜めて獲物を狙っているのに似ているかもしれない。
 郭奕は部下を散開させ、本当に危険になる一線の手前で身を伏せた。ここからは、根気の勝負だ。場合によっては同じ場所で何日も息を殺しておく必要があるかもしれない。
 郭循は大丈夫だろうかとふと頭をよぎったが、それはすぐに振り払った。人の心配をしていられるほど、この戦場は甘くはない。郭奕は息を殺し、その場の風景と自分の体を同化させた。


16.軍市
 五百の部隊が帰ってきた。郭淮は見廻りの最中、馬上にあってその五百を眺めていた。皆が、穏やかな顔で談笑しながら歩いている。
 これと入れ替わりで出した人数は、七百である。人数が増えているのは、後方にある軍市の規模が大きくなっているからだ。
 妙な戦になってきた、と郭淮は思っていた。何日もかけ、長安から西へ八百里の天水まで来たというのに、まだ蜀軍とは一度も干戈を交えていない。互いに陣地に籠り、睨み合っているというだけなのだ。
 いたずらにこちらから攻めかけるのは不利だということは分かる。しかし、軍の姿がこれでいいのか。調練としての駆け足は毎日しているものの、兵はほとんど何もしなくても銭がもらえ、軍市で遊ぶことができるのだ。こんなことで、いざ蜀軍が攻めてきたら、戦になるのか。
 郭淮はこの軍での歩兵総指揮官を任じられていたが、その仕事に華やかさなどなく、ただ嫌な役目を押し付けられただけだと思っていた。この軍市のせいで、軍紀が目に見えて乱れつつあり、郭淮はそれを正すことだけに奔走していた。陣内には、具足姿のまま地べたに座って賭博をしている者もいれば、見張り中に立ち小便をしている者もいる。
 近くで怒声が聞こえた。ふと見ると、歩兵隊長の一人である魏平が、すごい剣幕で座談をしていた兵らを追い散らしていた。
「御苦労、魏平」
 気付いた魏平が気を取り直し、こちらに拱手してきた。
「これは郭淮殿。お恥ずかしいところをお見せしました」
「なんの。今の軍内は、どこも同じようなものよ。お互い骨の折れることだな」
「全くです。遊ぶばかりで戦もせず、これでは兵の士気が落ちるばかりです。総指揮官の司馬懿殿は、何を考えているのか」
 魏平はかなり苛ついているようだった。無理もない。戦をするのが軍人の仕事だというのに、実際は兵らの風紀を正すための見廻りばかりをさせられているのだ。蜀の大軍がすぐ目前に陣取っているという緊張感も、その苛つきを助長させているのかもしれない。
「いつまでも見廻りばかり。全く我らは、何をしにここに来ているのか分かりません」
「愚痴ったところで仕方あるまい。魏平も、気晴らしに軍市に行ってみたらどうだ。見廻りくらいなら、部下に任せていてもいいだろう」
「郭淮殿までそう言われるのですか。俺は、あんな所には行きません。俺は戦をするためにここにいるのですから」
 軍市に行かないのは、戦をしようとしない司馬懿への反感もあるのだろう。文官である司馬懿から施しを受けるようで、軍市を使うのに抵抗があるという、魏平のような武官は少なくない。戦を知らない文官が、という侮蔑のような思いが、どの武官にも少なからずあるのだ。
 軍市から帰ってきた兵の一団が、またやってきた。端々に女の話をする声が聞こえたが、二人の姿を認めるとさすがに静かになって通り過ぎて行った。その間ずっと、魏平は腕を組んだままじっと兵らの方を睨みつけていた。
「これはもう、軍ではない。大所帯で道楽の旅に来ているようなものだ」
 魏平が吐き捨てるようにして言った。
「郭淮殿は、あの軍市には行かれましたか」
「まさか。あれに反感を持っている部下がいるというのに、俺が率先して行くはずがないだろう」
「それはそうだ。愚問でありました」
 軍規が緩むのはいただけないが、何かのきっかけがあれば行ってみてもいいかと思ったりはする。それは歩兵の総隊長として口に出しては言えないことだ。
これだけの大軍同士が対峙し膠着してしまうと、そうそう簡単にぶつかり合いが起こるということはない。こうして対峙が続けば、兵のぶつかり合いというよりも、互いの指揮官の謀略による知恵比べになってくるはずだった。司馬懿は兵の先頭に立って野戦をするような指揮官ではないが、知恵比べの勝負となると、張郃も含めた全ての武官よりも優秀だという気がする。そういう形の戦になれば、自分はここで昼寝でもしていればいいのだ。
「蜀軍の本陣がある祁山は、俺がいた場所なんです。俺があそこを守っていたというのに、蜀軍が来るなり退がってこいと言ったのは、あの新司令官なんですよ」
「その言い方は不敬だぞ。口を慎め」
 言われて魏平は嫌な顔をしながらも、頭を下げた。
 この戦が始まる前まで、魏平は祁山にあって武都に駐屯する蜀軍の監視をしていたのだ。それが蜀軍の侵攻が確定的になると、すぐにそこから立ち退くように命じられたのだった。命じたのは、司馬懿である。
 八万の軍勢が展開するには、天水の周辺が守り易く、補給のことを考えても適当だった。祁山にまで兵を置くとなると、そこだけが突出し過ぎる形になってしまうのだ。戦を前にして兵を後退させるのは決して縁起の良いことではないが、司馬懿がそれを躊躇した気配はない。なかなかの英断だ、と郭淮は密かに思っていた。魏平はそれを理解しているのかいないのか、ただ自分が後退させられたということに対して感情的になっているようだった。
 そうして話していると、伝令がやってきた。司馬懿からの使者で、本営に来いという。
 魏平と二人して本営の幕舎に行くと、他の所で歩兵を指揮している費瑶もそこに呼ばれていた。
 三人で幕舎の中に入ると、司馬懿の補佐をしている辛毗が現れ、目の前に座った。
「各々方、陣内の様子はいかがでしょうか」
 座った三人を前にして、辛毗が下手に出ながら言った。文官のこういう態度は、魏平のような男が一番嫌うところであろう。
「どうもこうも、戦がなければ士気が落ちるばかりです。蜀軍が陣取るあの祁山には、いつ攻め込むのですか」
 魏平が意気盛んに言った。
「あそこを守っていた魏平殿のお気持ちは分かりますが、祁山に攻め込む予定は今のところありません」
 下手に出ながらも、辛毗はきっぱりとした口調で言った。魏平は、あからさまに不満な顔をして見せている。
まだ何か言いたそうにする魏平を抑えるようにして、郭淮は口を開いた。
「守ることが上策なのはわかりますが、このままでは兵の士気は緩んだままです。このことについて、司令官はどうお考えなのですか」
「戦に逸ってもらわれては困るのです。八万の軍勢でここを守っていれば、蜀軍は動けません。これは、こちらの諜報による情報からも確かです。多少兵の士気が緩んでも、この形成を維持することが、総指揮官の今のところの方針です」
「戦に逸る者を上手くたしなめ、その上で士気をある程度維持させておくというのが、当面の我らの仕事だということですな」
 費瑶が言った。費瑶は、魏平ほどに今の状態に不満を持っていないようだ。辛毗はその言葉に深く頷いた。
「今はまだ動きません。しかし、司令官はこちらから攻める作戦を考案中です。まだ詳しくは明かせませんが、その時は張郃殿の騎馬隊に働いてもらうことになるだろう、ということだけ言っておきます。その作戦の如何により、歩兵を率いるあなた方にも働いてもらうということになるでしょう」
 俯いて話を聞いていた魏平が、ちらりと辛毗に目を向けた。
「軍人が戦をできないということに不満を持つのは、当然のことです。しかしそれも、今だけのこと。今しばらく、お堪えください」
「わかりました」
 魏平が呟くようにして言った。攻めの作戦を考えていると聞いて、一応納得したのだろう。
「それまでの間、これを暇潰しの慰めにでもお使いください」
 三人の前に、銀の袋が置かれた。魏平がそれを見て、身を乗り出した。
「これは受け取れません。我々はまだ、軍人として働いてもいないのですぞ」
「この陣地を守っておいでです。蜀軍がこれ以上進めずにいるのは、あなた方の働きのおかげなのです」
「しかし」
 辛毗がさらに銀の袋を押し出し、費瑶が恭しく銀の袋を懐に入れたので、郭淮も同じようにした。それを見て、魏平も渋々という感じでそれを受け取った。
「私からの話はこれまでです。歩兵の総指揮をしておられる郭淮殿はお残りください。司令官から話があるそうです」
 二人が出ていき、郭淮だけがそこに残った。そして辛毗に導かれ、奥に連なる大きな幕舎に入った。
「おう、郭淮。まあ座れ」
 言い草に少し不快なものを感じたが、促されるまま郭淮は腰をおろした。本当なら、ここには張郃が座っていることになっていたのだろう。それをどういう術を使ったのか、この男がここに座っていた。この言い草が張郃なら、不快なものなど全くなかったはずだ。
「お前には、やってもらいたい任務がある。ここから西に向かい、羌族どもを懐柔してもらいたい」
 郭淮は長らく長安に勤め、羌との関わりがあった。西へ行けば、自分の顔を知っている主立った者は少なくない。
「羌と蜀の結び付きは、まだ続いているのですか」
「同盟と言えるような強いものはない。戦ばかりして散財している蜀には、羌に払ってやれるだけのものがないのだ。しかし不測の事態は避けねばならん。こちらから多少の財物をくれてやれば、羌が我らに敵対する理由はなくなるだろう」
 不測の事態と言われたことが、少し引っ掛かった。二年前の戦で、郭淮は蜀軍に散々蹴散らされたのだった。その時の敗因は、羌の動きをきちんと把握しておかなかったからだと言っていい。引っ掛かりはしたが、皮肉を言っているような響きはなかったので、郭淮はそれを自分の中で押し殺した。
「では、明朝に発とうと思います」
「そうしてくれ。援軍を乞うようなことはしなくていい。羌中で静謐を保っておくだけで、それなりの物が手に入ると思わせてくれれば、それで十分だ」
「武都に蜀軍の大々的な拠点を築かせてしまったのは、私の責任ですからね。使者として行きますが、戦に臨むつもりで行きます」
 司馬懿はそれに何も答えず、ただ虚無的な笑みを見せただけだった。
 郭淮は自分の陣地に戻ると、張郃に護衛の騎馬小隊を出してもらうよう、使者を出した。快諾の旨は、すぐに返ってきた。
 そうしている内に、日が暮れた。
 魏平からの申し合わせがあり、夕餉は郭淮の幕舎で、費瑶と三人でとることにした。
「司令官には何を言われたのですか、郭淮殿」
 饅頭と羊肉を焼いたものが並べられた卓を前にして、魏平が言った。軍市が近くにあるので、多少良いものが食えるのだ。
「西に行ってくることになった。羌族がこの戦に介入してきたらややこしいことになるこらな。それに手を打っておこうということだ」
「郭淮殿は、羌に顔が広いですからね」
 少し塩を付けた肉片を口に放り込みながら、魏平が言った。まだわだかまりのような不満はあるようだ。
「お前ら、貰った銀は何に使うんだ。司馬懿殿が期待しているように、軍市に行くのか」
「私らは、軍市で羊を一頭買うことにしました。それを陣内で丸焼きにして、兵に食わせ力を付けさせようかと」
 費瑶が言った。
「それはいいいな。俺もそうするか」
「こんな良いものを食えるのは、平時だけでいいんですよ。戦時は質素なものを食うから、敵に打ち勝って良いものを奪おうとする。兵ってのは、そうやって力を出すもんでしょう。それを、あの司令官は全くわかっちゃいない」
「そういうお前も、兵に肉を食わせてやるのだろう」
「他の隊が良い思いをして、俺の隊だけそうじゃないっていうんじゃ、兵が不満を持ってしまいますからね。俺ら将校にそういう気を遣わせるってのは、やはりあの文官が戦を知らないっていう証だ」
「口が過ぎるぞ、魏平。どこで誰が聞いているのかわからんというのに」
 費瑶がたしなめるようにして言った。
「前の蜀攻めで、あの文官は蜀軍に散々負けたっていう話じゃないか。張郃殿が司令官の方がよかったって、俺は本気で思うよ」
「そのへんにしておけ、魏平」
 郭淮が強めに言うと、魏平はさすがに悪びれた様子で黙った。
 費瑶が言うように、どこで誰が聞いているかわからないのだ。その誰かとは、魏軍の忍びである黒蜘蛛のことである。その黒蜘蛛は、司馬懿の直属として、この戦場で働いている。ここにいる自分らも、黒蜘蛛の監視の対象に入っていると思った方がいい。
 その黒蜘蛛を統べているのは、郭淮の親類の郭奕であった。郭奕は男色であるため、郭淮はそのことを人に言ったことがほとんどない。
「張郃殿の騎馬隊を使った作戦を考えていると言っていましたが、それはどういうものなんでしょうかね」
 費瑶が肉に手を付けながら、話題を変えた。
「普通に考えれば、敵陣の奥深くに送り込み、糧道を断つといったところか」
「郭淮殿が前にそれをやってのけた作戦ですよね」
「やったが、あれは張郃殿の働きあってのことだ。張郃殿は自ら蜀軍の前に立ち、囮となったことで成功した。俺がやった仕事だとは、なかなか言い難い」
「張郃殿の騎馬隊を後方に放ち、蜀軍の目を逸らすために我らが動く。そんなところでしょうか」
「そんなところだろうな。街亭では張郃殿が囮となったが、今度は俺らがその役目をやるのだ。作戦の直前になれば、兵たちに性根を入れ直させるために、軍市利用を一時的にでも禁じておくべきかもしれんな」
「一時的にではなく、永久に禁じてしまえばいいんですよ、そんなものは」
「それでも軍市のおかげで長安は潤い、民は喜んでいるようだぞ。商人は洛陽とか、もっと遠くから出稼ぎに来ている者もいると聞いた。軍市は悪いことばかりではないようだぞ」
「お前は武官のくせに、文官のようなことを言いやがるな、費瑶。俺らは民を喜ばせるために戦をしているんじゃねえ。蜀軍を倒すためにやってるんだ」
「その蜀軍を倒すのも、民のためだと思えばいい。戦をやることで長安が富み、民の協力が得られるようになれば、魏軍はもっと強くなるだろうさ」
「馬鹿なことを言う。前線で血を流すのは俺らであって、商人じゃねえ。その前線に立つ俺らが浮かれて惰弱になったんじゃ、元も子もないだろう」
「それはそうだが」
「張郃殿が総指揮官なら、軍市を設けるなんてことはなかったろう。そんなものに頼ることなく、力で蜀軍を捻じ伏せていただろうな」
 郭淮は魏平の言葉を聞きながら、ふと張郃の心情を思い浮かべた。軍の指揮能力でいえば、魏軍第一。いや、この大陸で第一と言っても過言ではないかもしれない。その指揮卓抜とした将軍が、司馬懿という文官の下に甘んじている。それを張郃は、今の今まで不満だと感じたことは、一度でも無かったのだろうか。
「張郃殿は今のままでいいのだ。あの方は、現場で騎馬隊を自由に指揮してこそ力を出せるのだと、自身でも言っておられる。軍の頂点など煩わしいことばかりで御免だと、笑っておられたよ」
 自分の感情とは真逆のことを言っていた。軍の主立つ者の一人として、軍の秩序を乱すようなことは、間違っても言ってはならない。
「ふうん。そんなものですかね」
 郭淮も魏平のように、張郃が総司令官であることを望んでいたが、それは口に出すべきことではない。軍内にいらぬ噂が流れれば、それは蜀軍の利することとなるのだ。蜀軍にも黒蜘蛛のような忍びの部隊がいて、どのような離間をかけてくるかわからない。
「もうすぐ戦ができる。それがわかっただけでもいいではないか。作戦の開始は恐らく、俺が羌から帰ってきてからだろう」
「そうであれば、それまで兵がだれないようにしておかなければな、魏平」
 費瑶が魏平を励ますように言った。魏平が仕方なしという風に笑みを向けて、それに答えた。
 早朝、外が白み始めた頃に郭淮は起きだし、騎馬隊の待つ営舎に向かった。張郃に出してもらった百騎は、既に騎乗で整列して待っていた。この統率の高さは、さすがは張郃麾下と言ったところである。
 この足の速い騎馬隊で行けば、帰ってこられるのは早くて六日といったところか。そして帰ってくれば、戦だ。
 郭淮は朝日を背にして、西へと向かって馬を駆けさせた。

 簡易な造りの家屋が立ち並んだ軍市が、多くの商人と兵卒で賑わっていた。
 そこの商いは食堂と妓楼がほとんどで、他には賭博場や、大道芸の一座も何組かいる。どれもぼったくりのような値であったが、兵たちはそれを気にしている様子もない。八万の兵に銭が支払われ、それがここで費やされているのだ。利に聡い商人たちは、こぞってここに集まってきていた。
 夏候覇は不思議な気持ちで軍市を馬上から眺めていた。まるでここは戦場ではないかのようだ。それでもここから少し行けば、両軍合わせて十五万の兵が、殺し合いの時を待って対峙していた。
「若旦那、寄って行きませんか。いい娘がいますよ」
 眉をへの字に曲げた男が近寄ってきた。騎乗ということで、銭を持っていると目を付けられたのかもしれない。
 夏候覇はそれを無視し、馬を歩ませた。ここには滞陣の暇つぶしに様子見しに来ただけで、遊びに来たわけではない。男はすぐに諦めたようで、別の兵に声をかけに行った。
 夏候覇はしばらくそこを散策して軍営に戻り、張郃のいる幕舎に入った。
「夏候覇です。入ります」
「おう、軍市はどうだった」
「妙なものを見たという気がします。ここが戦場であることが信じられないような賑わい方でした」
「司馬懿殿も色々と考えておられる。この戦は、この場を守って動かなければ勝ちだが、それを理解せずに攻めたがる者も出てくるだろう。あの軍市は、そんな血の気の多い者たちの気を削ぐ」
「しかし、あれはいささか違うという気がします」
 卓につくと湯を出されたので、夏候覇はそれに口を付けた。軍市では今頃、兵らは酒を口にしているのだろう。
「お前は、銭を使ってきたのか」
 張郃が口元をにやつかせながら言った。
「使ってません。騎馬隊はいつでも出動できるよう自重しているというのに、俺だけというわけにはいかないでしょう」
「女の一人や二人、抱いてくればいいものを。お前ほどの若さなら、体が求めるだろう」
「遊ぶのは、戦が終わり、長安に帰ってからです」
「なかなか真面目ではないか」
 張郃は冗談めかしてそう言うが、試されているのだということはすぐに分かった。その証に、その答えを聞いた張郃は満足げな顔をしている。
「まだ滞陣は続きそうですか、将軍」
「続くであろうな。これだけの大軍同士となれば、ほんの些細な一手が、大きな局面を生む。どちらも、軽々に動けんのだよ」
「俺は長安を出てからここに来るまで、頭の中で様々な戦の想定をしていました。それがこんな形になるなんて、拍子抜けもいいところです」
 幕舎の外からは、兵が交わす声が度々聞こえてくる。軍市とは違い、ここだけは軍の空気が保たれていた。
「戦の形は、変わりつつある。この数十年間、この大陸ではたくさんの戦があったが、そのほとんどは国と国との戦ではなく、国を建てるための戦であった。それが今は、しっかりした国と国同士の戦となった。こうなれば、一握りの武勇が戦況を決めるのではなく、謀略がものを言ってくる。俺のような騎馬戦が得意な男は、もう古いのかもしれんな」
「そんな。三年前の街亭で、将軍は見事に蜀軍を追い返したではありませんか」
「あの時の戦の決め手は、魏軍の騎馬隊が蜀軍を蹴散らしたということではなく、兵糧を焼いたということだったろう」
「それは、そうですが」
「三年前の蜀は、まだ若かったのだ。度重なる戦を経て、蜀は成長した。もう同じように勝とうと思っても、上手くはいかないだろう」
 言われて、返す言葉が見つからなかった。張郃のことは、一人の将として純粋に尊敬している。古くなったなどと考えたこともないし、考えたくもない。
「俺は昔、袁紹という方に仕えていた。それが曹操軍に敗れ、俺は降ったのだ。その時の戦も、兵同士による決戦ではなく、兵糧を焼かれたことで勝負が決した」
 その話は、夏候覇も知っていた。魏国の中では、語り草のように伝えられているのだ。
「降将になったが、長い年月を戦塵にまみれ、外様であった俺がここまで出世できた。息子のような部下もできた」
 自分のことを言われているのかと思い、夏候覇は顔を俯けた。張郃はもう五十になるが、常に戦場の先頭に立っていたため、妻子はいない。夏候覇はそんな張郃を尊敬し、その生き様に羨ましさを感じもする。しかし張郃の中には、ある種の空しさがあるのかもしれない。
「俺はもう老いた。お前は俺が総司令官になればいいと思ってるようだが、これからの戦は司馬懿殿のような男がやればいいのだ」
 そんな話は聞きたくなかった。自分は張郃のような将軍になりたいと、常日頃から思っているのだ。しかし張郃は、自分のような将よりも、司馬懿のような将になれと言っているような気がする。
 幕舎の入り口で物音がし、伝令が入ってきた。
「司令官がお呼びです」
 言われて張郃が腰を上げたので、夏候覇もそれに従った。
 嫌な予感がした。兵卒の間では、張郃と司馬懿の不仲が囁かれていた。それは兵達が勝手に言い募っていることで、実際にそんなことはない。張郃が司馬懿を悪く言ったことなど、一度もない。司馬懿より張郃の方が司令官にふさわしいと耳にしただけで、機嫌が悪くなるくらいなのだ。
 ただ司馬懿の方は、その噂をどう思っているのかわからない。
「入ります」
 言って、二人して本営の幕舎に入った。
 出迎えた辛毗が、夏候覇の顔を見て嫌な顔をした。ここに呼ばれたのは、張郃だけなのだ。張郃からも外で待っているように促されたが、夏候覇はそれを拒否した。
「私は張郃殿の副官であり、歴とした魏軍騎馬隊長の一人であります。戦に関する話であれば、私も同席して差支えないかと」
 辛毗はしぶしぶ頷き、奥にいる司馬懿の了解を得に行った。
嫌な予感は続いていた。不敬ではあるかもしれないが、自分はここにいた方がいいという気がする。
 奥から、構わん、という司馬懿の声が聞こえた。
 戻ってきた辛毗が、二人を奥に招き入れた。司馬懿の執務室にはたくさんの竹簡があり、それらが幾つかの棚に整然と収められている。中央の高官が好みそうな華美さは一切なく、それが夏候覇には意外で、同時に好ましくも思えた。妙なことをするこの文官は、自分が思っているよりも、ずっと優秀なのかもしれない。
 ここら一帯の地図が置かれた卓に並んで座り、向かいには司馬懿と辛毗が座った。
 地図の上にはたくさんの木彫りの駒が置かれてあり、自軍の駒は藍、蜀軍のは朱で染められている。
「張郃殿の斥候隊のおかげで、蜀軍の兵站基地が木門にあることが判明した。ここを、我らは攻めようと思う」
 黒い軍袍に身を包ませた司馬懿が、いきなり本題に入った。
「そろそろ戦に逸る者が出始めてきた。全く、困ったものだ」
 それは自分の責任だとでも言うように、司馬懿が自嘲気味に笑った。本当にそう思っているかどうかは、わからない。
「お気持ちは察します、司令官。この戦はこの有利な位置を堅持し続ければ、それだけでいいというのに」
 張郃が地図上の魏軍陣地を指でなぞりながら、現状を確認するようにして言った。
「左様。兵卒らには気晴らしを与えているからまだいいが、隊長格の者たちが不満を持ち始めている」
 気晴らしとは、軍市のことを言っているのだろう。
「我ら騎馬隊は、いつ何が起こってもいいよう、兵にも馬にも厳しい調練を課しています。それはもう、不満など並べる余裕などないほどに」
「流石は歴戦の将軍ですな。兵の扱い方をよく心得ておられる。私のような文弱な者が兵を扱おうとすれば、どうしても浅知恵に頼ることになってしまう。張郃殿の騎馬隊には、軍市など必要ないようだ」
 褒められているようで、皮肉も混じっているように聞こえた。皮肉に聞こえるのは、自分の見方が穿ち過ぎているからなのか。
「木門を攻めるとのお話ですが」
「このままでは将校らの不満が、下々の兵達にまで伝播しかねない。ここらで一つ戦果を上げ、それを打破しておこうと思う」
 ようやく戦える時がきたかと思い、夏候覇は内心ほっとしていた。軍市で遊ぶ歩兵たちの楽観的な雰囲気が、自分の部下らの間にも、徐々に広がり始めていたところなのだ。
「私は、反対いたします」
 張郃が毅然とした口調で言ったため、夏候覇は思わず張郃の顔を見た。
「ここは、先に動いた方の負けです。司馬懿殿がここに布いた陣形は、正鵠を得ており、見事であると思います。私が蜀の司令官なら、絶対にこれを攻めたいとは思いません。この陣形を保っておけば、蜀軍はいたずらに兵糧を消費するだけで、やがて自壊するでしょう」
 幕舎内に、冷たい静けさが走った。まさか張郃が反対するとは思っていなかった。いつも、軍人は命令に対しては従順であるべきだと、常日頃から言っているのだ。
「それは、命令する私が文官だから、そう言っているのですか」
「そんなつまらないものにはこだわっていません。一つ、不自然なところがあるのです。軍を運用する上で生命線となる兵站が、こうも簡単に暴けるものでしょうか。何か裏があるのではないかというのが、私の考えです」
いつも冷静沈着な司馬懿の顔が、一瞬動いたように見えた。確かに、張郃の言うことには一理ある。
「初めて蜀が攻めてきた時、蜀軍の兵糧を焼いて追い返したのは張郃殿ではありませんか。それを、またやればいいのです」
 横から、慌てたようにして辛毗が口を挟んだ。
「あの時の戦は、諸葛亮が蜀の丞相としてやった初めての戦だったのだ。しかし同じ轍を踏むような甘い指揮官だとは、私は思わん」
「将軍、それは怯懦にも聞こえますぞ」
 張郃が、一つ大きく息をついた。
「怯懦ではない。私がこれまで戦場で怯懦に駆られたことがあるのか。あるというのなら、言ってみろ」
 張郃に凄まれて、辛毗は小さくなっていた。
「張郃殿の言っていることはわかります。しかしそんなことを一々言っていては、戦になりませんぞ」
 また嫌な静けさが走った。表情は穏やかだが、確実に二人の間に嫌なものが生まれ始めている。夏候覇の目には、そう見えた。
「夏候覇、お前はどう思う」
 唐突に言われ、はっと顔を上げた。
「私は」
 命令に従うべき軍人なら、直接の上官である張郃の意思に沿うべきだろう。しかしこの司馬懿も上官であり、張郃の上に位置している。
 戦はしたい。馬を駆り、戦場を駆け回りたい。そして、王平を討ち取りたい。
「別にお前の意見で、全てが決まるわけではない。どう思うか、言うだけ言ってみろ」
 司馬懿の顔がふっと緩み、夏候覇はそれに引き込まれそうになった。
 隣では、顔を俯けた張郃が、地図の卓上の一点をただ静かに見つめ続けていた。
「攻めたいです」
 張郃に対する後ろめたさを感じながらも、夏候覇は呟くようにして答えた。
「流石は夏侯淵将軍の残された子よ」
 辛毗が嬉しそうに言った。
 司馬懿が地図上の、馬の頭の形をした藍色の駒を静かに取り、木門に指した。かつんという乾いた音が、静かな幕舎内に響いた。
「やりましょう、将軍。我が軍の緒戦を飾るのに、張郃殿の騎馬隊はふさわしい。偉大な魏国のため、蜀軍の愚か者に鉄槌を下してくだされ」
 一点を見つめていた張郃が顔を上げた。反抗の色など微塵もない。ただあるのは、軍人らしい勇ましさだけであった。
「お任せあれ」
 司馬懿は厳格な面持ちで一つ頷き、辛毗がほっとしたように息をついていた。
 それから細かい話を詰め、それが終わると幕舎を後にした。
 出陣が決まると、さっきまであった嫌な予感はもう消えていた。今はただ早く、戦いに身を投じてしまいたい。しかし、張郃の意に反したことを言ってしまったことに、後ろめたさはある。
「いらぬことを言ってしまったと思っているな、夏候覇」
 考えていたことを見抜かれ、夏候覇は気恥ずかしくなって顔を俯かせた。
「別に気にすることはない。戦はやはり、敵陣に攻め込まなければな。あのようなことを言ってしまう俺は、やはり老いたのかもしれん」
「そのようなことは」
 歩兵の一団と行き交った。その集団は、やはり浮かれた顔をしていた。
「辛毗が言っていたように、街亭でやったことをまたやればいい。それだけのことだ」
「そうなれば、我らが街亭で蜀本陣の目を引き付けたように、司馬懿殿がそれをやってくれるのですよね」
「それはどうかな」
「えっ」
 騎馬隊の軍営が近付いてきた。ここまで来ると、歩兵陣地の浮かれた空気が、大分なくなってくる。
「歩兵総隊長の郭淮が、羌への工作のため、西に行っている。その護衛を出してくれと、昨日言ってきたのだ」
「この作戦に、歩兵の援護はないということですか」
「さっきの一団を見たろう。軍市で遊び耽る者の力など、俺は当てにせん。あれらはここにいるだけでいいと、司馬懿殿もそう思っているはずだ」
「そんな。これだけの兵力があるというのに、これではまるで我らが孤軍のようではありませんか。そんな馬鹿げた話があってもいいのですか」
「軍なのだ、夏候覇。軍人は、上官の命に従うだけだ」
 軍営に着くと、騎兵が思い思いに体を休めていた。この中にも軍市に行きたがっている者がいるのかもしれないが、それを口に出すことは禁じていた。
「出撃が決まった。目標は、木門。我らは魏軍の魁となり、その勝利を彩ることになるだろう」
 騎兵の主だった者を集めて張郃が言うと、待ちわびた出陣に兵らは歓声を上げた。この滞陣に倦んでいる者は少なくないのだ。
 夏候覇はその歓声の中にありながら、この隊の前途に一人不安を感じていた。


17.伏兵
 前線で膠着が続いていた。
 王平は後方の木門にあって、時を待ち続けていた。木門周辺の森や山には、二万の手勢を潜ませている。隠れる場所には不自由のない地形なのだ。この大所帯が、ただひたすら獲物が罠にかかるのを待っていた。王平軍二万の歩兵は四十に分けられ、五百の部隊がここらの方々に埋伏している。
 息を殺して身を潜めることは、苦ではなかった。若い頃の王平は、山岳部隊の一隊長として、指一本動かさずひたすらに待つという調練を延々とこなしてきたのだ。時には蚊にたかられ、蛭に吸い付かれても、体を動かすことは禁じられていた。それに比べれば、ここでの埋伏は楽なものである。簡素ながらも幕舎があり、温かいものを口にすることもできる。ただあの頃やっていた、小部隊で一地点に留まっておく埋伏とは違い、二万によるそれであるため、また違った苦労があった。
 埋伏での一番の敵は、時である。いつ来るかも知れない、ともすれば来ないかもしれない敵を、ひたすらに待つ。その間の時は、普段より長く流れるのだ。その長い時の流れの中で己を保ち、霞がかりそうになる目標をしっかりと見据えて耐える。若い頃に自分の手で育てた辟邪隊なら、それができた。それを可能にするだけの調練は散々積んだし、あれくらいの小規模な部隊だと、隅々にまで目を届かせることができた。
 しかし今は、二万という兵力を抱えての埋伏である。魏軍の斥候隊に発見される可能性は、常にあった。まして、魏軍の騎馬斥候を統べているのは、あの張郃なのだ。
「前線から、五百が二刻後に戻ってきます」
 劉敏が報告に来た。ここの兵糧庫は偽装だが、全く兵糧が無いということではない。漢中から李厳の差配によって送られてくる兵糧は、この木門を中継して、前線の祁山に届けられている。木門から祁山までの道程は、王平軍の一部隊が担っていた。
「次は、杜祺の隊だったな。伝令を出せ」
 劉敏は黙って頷き、部下に指示を出し始めた。
 言葉数は、日に日に少なくなってきている。王平の、忍びであった頃の勘が、そうさせていた。戦局を考えれば、もういつ敵がここを襲ってきてもおかしくないのだ。
 王平と劉敏がそうだからか、下々の兵たちも言葉少なになり、王平軍全体が一種の緊張状態に包まれていた。張郃が来ると言って聞かせたことも、そうさせているのだろう。この王平軍を包む緊張感は、悪いものではない。
「今回の伝令は、蔣斌に行かせることにしました」
 戻ってきた劉敏が言った。
「心配性のお前が、珍しいではないか」
 劉敏は蔣斌に辛く当たっていたが、それは全て劉敏の心配からきていた。頭は回るが、そういうことは器用にできない男なのだ。
「伝令の仕事くらいは、あれにもできるでしょう。そういうことも、覚えておくべきことだと思いますし」
「俺も蔣斌を見習って、そろそろ巡回に行くとするか。留守は頼んだぞ」
「御意」
 王平は周囲の木々と同じ色をした幕舎を出て、樹木と山壁によって隠された厩に行った。そこには千の馬が繋がれていて、王平軍の騎兵が起居している。同じ規模の厩はもう一つあって、少し離れた所で同じようにして隠されていた。
 王平の姿を認めた兵が馬を曳いてきたので、それに飛び乗った。護衛の十騎も、すぐに集まってきた。
 巡回である。
 方々に潜ませた五百に何の報せもなく訪れ、兵糧庫に召集をかける。半刻でそれができなかった者は、その日の飯は抜きだ。兵をだらけさせないために、王平はこの巡回を毎日欠かさずやっていた。
 勝負は、敵襲からどれだけ早く戦闘配置につけるか、ということになるだろう。俊足の張郃騎馬隊の退路を断ち、包囲殲滅する。敵にこの埋伏を察知され、軽傷を与えただけで逃げられてしまえば、何の意味もないのだ。張郃の首を奪り、魏軍の力を削ぐ。それが蜀軍総帥である諸葛亮の狙いであり、王平に与えられた厳命であった。
 目標の埋伏陣地が見えてきた。そこの兵が王平を見つけ、すぐに合図の鐘が鳴らされた。五百はすぐに集まり整列し、兵糧庫に向かって進み始めた。半刻後、五百は一人も欠けることなく兵糧庫に到着していた。上々の首尾である。
 できれば全軍による一斉集合の調練をしたかったが、敵の斥候に補足される恐れがあるため、それはできない。四十の隊を根気よく回り、こうして全ての隊の練度を上げる他ないのだ。
「大義であった。皆、帰って存分に飯を食え」
 兵の中から、微かに笑いが起こった。ここしばらくは、どこの隊でも飯を食えない者はでていない。敵を迎え撃つ準備は整っていた。しかし敵は、あの張郃なのだ。いくら調練を重ねても、拭いきれない不安は常にあった。
「隊長、あれを」
 解散を命じようとしたその時、兵の一人が何かに気付いて叫んだ。王平は、指差された方に目をやった。
 一筋の黒い線が、空に向かって昇っている。狼煙だ。北東の丘一つを隔てた向こう側から上がっていた。王平軍が決めていた、敵襲を報せる合図である。
 ついに来た。王平は体中の血が熱くなるのを感じた。あの方角なら、狼煙を上げているのは杜祺の隊か。
「全軍、戦闘配備。東の十隊と北の十隊は、敵の退路を遮断。南の五隊は、ここに集結。残りは全て狼煙の方へ向かえ」
 体は熱くなっていたが、頭は冴えている。王平の言葉を復唱した伝令が、方々に駆け出して行った。
 兵糧庫内は、にわかに慌ただしくなった。王平は逸る心を抑えてその場で待った。あの狼煙を劉敏も見ているのなら、すぐに麾下の二千をここに寄越すはずだ。調練を終えた五百の隊は、全員が緊張の色を浮かべながら、戦闘配置についている。
 馬蹄の音はすぐに聞こえてきた。王平は狼煙の方に馬首を向け、円を組んだ護衛の十騎と進み始めた。
 並足。すぐに千の騎馬隊が後ろからやってきた。もう一隊の千騎も、そのさらに後ろから続いて来ている。
 駆け足。二千騎の先頭に合流し、馬を疾駆させた。冬の寒風が、王平の頬を通り過ぎていく。それでも体の中には、熱さが滾っていた。
 敵の将は誰か。張郃が、直々に出てきているのか。思ったが、すぐに頭から払った。一番強い奴だと思い定めればいい。張郃。狙うのは、張郃の首一つ。
 二千の馬蹄の中、鞍に括り付けた連弩が、音を立てて揺れていた。

 気付いたら、目の前にいた。王平の言っていたことが、現実となって起こっていた。
 敵襲の報を受け、杜祺はすばやく櫓に駆け登った。陣の前衛では、草葉で迷彩を施した柵に早くも縄がかけられ始めている。
「第一陣、弓を射かけろ。第二陣は、戟を持ってその後ろで備えろ」
 杜祺は櫓の上で指示を飛ばしながら、柵の向こう側に目を凝らした。
 張の旗が風に靡いている。杜祺は足の先から震えが上ってくるのを感じ、膝頭を掴んでぐっと力を籠めた。
「隊長、狼煙が上がりました」
 櫓の下から、部下が叫ぶ声が聞こえた。それで幾らか、足の震えは治まったものになった。ここでしばらく耐えれば、すぐに味方が救援に駆けつけてきてくれるはずだ。
 第一陣から、矢が放たれ始めた。しかし矢のほとんどは敵に届かず、届いても剣で打ち払われている。ここにいる全員が、あの張郃を前にして、腰が引けているのだ。
 すぐに柵は倒され始めた。焦ることはない。杜祺は自分に言い聞かせた。柵の後ろには、馬を遮る溝が掘られてあるのだ。
「第二陣、戟を構えて前へ」
 弓を持った百五十の第一陣が退がり、戟を持った同数の第二陣が前に出た。柵を倒し終えた張郃軍は、どんどん押し寄せてきている。
 落ちろ。杜祺は拳を握り締め、呟くようにして叫んだ。だが溝に落ちたのはほんの数騎で、後続は溝の手前で馬首を返し始めていた。
 落ちた数騎に、味方の戟が集中した。しかしすぐに、溝の向こうから、馬上からの弩による反撃がきた。矢に射かけられた兵の悲鳴が、辺りに響き渡った。
「戟兵、退がれ。弓兵はもう一度前へ。溝を渡らせるな」
 戟を持った兵が退がり、弓兵が前に出ると、張郃軍は速やかに退いていった。軍の動きも、将の決断も、早い。張郃は一旦ここを避け、迂回路を探すつもりなのだろう。
 とりあえず、敵を退けることはできた。
 杜祺は櫓を下り、損害の報告を受けた。五百の隊が、四百五十にまで減っている。
 あの溝を嫌って迂回するとなれば、またここに来るまでに一刻は要するはずだ。敵の狙いが兵糧庫であるならば、あえてまたここに来るということはないだろう。一先ずは、安心だろうと思えた。
 ふと見ると、櫓の柱にしがみついた蔣斌が、どうしていいか分からないといった顔でこちらを見ていた。こんな日にここへ伝令に寄こされるとは、運の無い奴である。
「お前は運がいいな、蔣斌。これが戦なのだ。調練とは違い、血が流れ、人が死ぬ。これをよく見ておけ」
 肩に手を当てて言うと、それで幾らか安心したのか、強張った顔を緩ませて頷いた。
「狼煙を見た王平殿が、もうすぐここに駆けつけてくれるはずだ。俺はこれから、敵を失わないよう追尾する。お前はここで大人しく待っておけ」
「わかりました」
 言った蔣斌の声は、微かに震えていた。
「伝令。敵兵力は二千。ここの陣を避け、東方へ駆け去った。杜祺はこれから、敵の追尾を始める」
 伝令の兵が復唱し、駆け出して行った。
「杜祺殿、御武運を」
 言った蔣斌に、杜祺は頷いて答えた。そしてすぐに、馬蹄の音が聞こえてきた。
「もう来たか」
 こうなれば直接王平に報告しようと思い、杜祺は馬群が近付いてくる方へ馬首を向けた。さすがに蜀の精鋭騎馬だけあって速い。北から馬を仕入れた王平軍の騎馬隊も、魏軍の騎馬隊に決して劣らないだけの力を持っているのだ。
 周りでは、怪我を負った者の護送準備が始められている。
 馬蹄の音が近付いてくる。砂煙を上げる馬群。それを目にして、杜祺は両目を見開いた。馬群には、魏の旗が立てられていた。
「敵襲。速やかに陣を組め」
 杜祺は振り返り、怒声を張り上げた。
 陣内は騒然となった。戦える者は武器を取り、戦えない者はその場に捨て置かれた。
「陣を組み、戟を構えろ。急げ」
 馬群は見る見る内に近づいてくる。味方の四百五十は集まってきているが、間に合わない。そう判断すると同時に、杜祺は馬を下りた。馬上だと、狙い撃ちにされかねない。
 陣ができかけていたところに、魏軍の騎馬隊が雪崩れ込んだ。敵はそのまま駆け抜け、駆け抜けたところには味方の死体が転がった。
 杜祺は歯噛みした。何故、敵に別働隊がいると考えなかったのか。急襲部隊とはいえ、二千では少ないと、何故思わなかったのか。
 杜祺は蔣斌の姿を探した。騒然とする隊の中で、腰を抜かした蔣斌の姿があった。
 魏軍騎馬隊が、反転を始めた。もう一度、来る。
「戟を敵に向けろ。逃げようとすれば、敵に背を貫かれるぞ」
 潰走はまだ始まっていない。しかし、いつ始まってもおかしくない状況だった。
「蔣斌」
 杜祺は蔣斌の首根っこを掴み、血に塗れた二つの死体を上に被せた。
「ここから動くな。いいな」
 杜祺は言い捨て、迫りくる馬群に向かって剣を構えた。俺は、ここで死ぬのだ。そう思い定めれば、楽なものだった。夏侯の旗が見えた。それが、お前の名か。死ぬ前に、俺の隊を滅茶苦茶にしたお前を斬ってやる。
 杜祺は雄叫びを上げた。速いはずの騎馬が、ゆっくりしたものに見えた。魏軍の騎馬隊など、その程度か。これなら、俺がここでやられても、王平殿が楽に捻ってくれるはずだ。
 馬上から戟がきた。寸前で身を捩ったが、右肩に受けた。倒れそうになるのを踏ん張り、左で剣を振った。何かに当たったが、敵を倒した手応えではない。片腕だけでは、骨まで断てない。
 後続の馬体が、杜祺の体を吹っ飛ばした。息ができない。見えるのは、どんよりと曇った雲だけだ。倒れた顔のすぐ横を、蹄が唸りを上げて通り過ぎて行った。
 呼吸は、すぐにできるようになった。杜祺は剣を地に立てて身を起こした。味方の潰走が始まっている。
 蔣斌はどうなった。そちらに目をやったが、被せた死体が邪魔で、よく見えない。今の一撃で、馬に踏み潰されてしまったかもしれない。
 敵がまた反転を始めた。俺の隊を、殲滅させようというのか。この体では、もう戦えない。
 地が響く。別の馬蹄の音が聞こえてきた。もう張郃がやってきたのか。やはり、張郃の騎馬隊は、速くて強い。俺のような男が、勝てるはずもないのだ。
 新手が姿を現した。その馬群は、こちらにではなく、反転をし終えた敵騎馬隊に突っ込んでいった。
王平が来たのだ。
杜祺は安堵した。安堵すると同時に、気が遠のいていった。

狼煙が近付いてきた。もう半里も行けば、杜祺の陣地に到着する。
戦闘の気配が伝わってきた。もう、始まっている。魏の精鋭相手に五百の歩兵では、かなり厳しいことになっているだろう。蔣斌は、どうなっているのか。
見えた。蒼い旗を翻す騎馬隊。数は、およそ三千か。
王平はその三千に、駆けつけた勢いのまま突っ込んだ。不意を突いたはずだったが、ぶつかる直前、敵は四方に分散して衝撃の力を削いできた。流石は魏の精鋭部隊。そう簡単にはやらせてくれない。
王平は頭を切り替えた。初撃で敵将の首を飛ばして一気に勝負をつけたかったが、またまともにぶつかれば、数で劣るこちらの不利になる。ここは、時間稼ぎだ。
十隊ほどに分かれて散った敵は、また一つにまとまり、こちらに狙いをつけてきた。
周囲からは、伏せていた味方部隊がこちらに集まってきているはずだ。ここは無理をせず、集まってくるまで敵を引き回してやる。
見ると、一番近くにいた五百がここに到着していた。杜祺の隊と合流している。あそこはもう、大丈夫だろう。
敵がきた。王平はぶつかりふりをして、直前で二千を二つに分けてそれをかわした。敵は、自分がいる千を追ってきている。
敵将が気になり、王平は激しく揺れる馬上で振り返って敵三千の馬群に目を凝らした。夏侯の旗。なるほど、またお前か。そんなに俺の首が欲しいなら、地の果てまででもついてこい。
王平は駆けながら、前の一点を見続けていた。そろそろ、あそこに姿を現すはずである。歩兵。王平軍の一隊が、喚声を上げて地から湧くようにして現れた。
戟を並べたその隊の後ろに逃げ込むと、夏候覇は向きを変えてそれを避けた。夏候覇の後ろを追っていたもう一方の千と合流し、夏候覇の後を追った。新たな伏兵を怖れたのか、ここから離脱しようとしている。しかし遅い。お前は、既に罠にかかっているのだ。
 夏侯の旗を追いながらも、王平は周囲への目配りを怠らなかった。敵は、この三千だけではないはずだ。どこかこの近くに、張郃もいる。
 王平は、鞍で揺れる連弩に手をやった。何度も通用する手段ではない。勝負は、一度きり。その一度で、この騎馬隊を壊滅させてやる。
 杜祺の陣から大分離れると、歩兵はもういないと踏んだのか、夏候覇の三千が反転してきた。王平は二千を横に逸らせた。夏候覇が追ってくる。今度は王平が追われる形になった。それ以上の行き場がない、岩壁。そこに目を付け、走った。追ってくる三千。かなりの勢いで迫ってきている。
「横列。弩、構え」
 足を止めた王平軍が、弩を構えた。先頭で駆けてくる夏候覇の顔が見える。俺を、追い詰めたとでも思っているのか。追い詰められたのは、お前の方だ。
「矢、放て」
 迫る三千は身を屈め、馬甲と具足を頼んで突っ込んできている。放たれた二千の矢が、悉く弾かれていた。屈んでいた三千の騎兵が、一斉に身を起こした。夏候覇。自身に満ち溢れた顔が笑っている。いいぞ。もっと近づいてこい。
 夏候覇の顔が、さっと青冷めるのがわかった。しかし、もう遅い。
「第二矢、放て」
 二千の矢が、吸い込まれるようにして敵の体を貫いていった。

 首を奪れたと思ったが、自軍が壊滅していた。騎射を馬甲と具足で防ぎ、隙のできた相手に突撃する調練は、嫌になるくらい積んできたのだ。
 矢が放たれた後、敵は弩の構えを解いていなかった。そして、また矢がきた。咄嗟に身を捩って避けたが、馬から落ちた。頬からは、熱いものが流れ始めている。
 馬上で身を起こしたところにまともに矢を受けた部下たちは次々と倒れ、後続は勢いを止められるはずもなく、倒れた騎兵に足を取られて転倒を重ねていた。
 馬上の王平が、余裕の笑みでこちらを見下ろしていた。また、こいつに負けたのか。思うと、腹の底から悔しさと憤怒が湧き上がってきた。
 何かに気付いた王平が、騎兵をまとめて離脱していった。王平が見ていた方を見ると、砂煙を上げた一隊がかなりの速さで近付いてきていた。張郃だ。
「派手にやられたな、夏候覇」
「将軍。私に、あの二千を追撃させてください」
 夏候覇は頬から流れる血も構わず、張郃に迫った。
「だめだ。ここは既に囲まれている。やはり、木門は罠だったのだ」
 夏候覇は歯噛みした。伸ばせば手の届く距離に、あの首はまだあるのだ。
「撤退だ、夏候覇。お前の身勝手で、俺の部下を死なせることは許さん。とっとと馬に乗れ」
 張郃に一喝され、夏候覇はしぶしぶ主を失った馬を見つけ、それに乗った。このままで、どんな顔をして自陣に戻ればいいのだ。
「ここからは地獄だぞ。敵はかなりの数の兵を伏せ、ここで待っていたのだ。恐らく、退路も塞がれているだろう」
 近くの繁みが揺らぎ、蜀の兵が飛び出してきた。一人や二人ではない。かなりの兵が、戟をこちらに向けて襲いかかってきた。
「行くぞ」
 言われて、馬腹を蹴った。わらわらと姿を見せ始めた敵兵を見て、ようやく現状がわかった。これは、追撃どころではない。
 敵兵の一団が前を遮った。馬に勢いをつけ、それに突っ込んだ。味方が戟で馬から引き落とされる。自分にも向けられてくる戟を剣で払い、敵を突き倒した。五百程の一団を突破した。討たれた味方は少なくないが、敵の二段目はない。
 自陣を出た時は五千いた騎馬隊が、三千までに減っている。その被害のほとんどは、王平の矢にやられていた。
「どのようなやられ方をしたか言え、夏候覇」
 並走する馬上で、張郃が聞いてきた。
「矢です。一本ではなく、二本仕込める弩を持っていました」
「なるほど。敵も考えるものだな。帰ったら、一から調練をし直さなければならん」
 そうだ。帰るのだ。負け続けて、こんなところで死にたくはない。
「あの旗は」
 張郃が指差した夏侯の旗は、横に切り裂かれていた。
「始めの五百に突っ込んだ時に、斬られたようです」
「いかんな。旗は、大事に扱え」
 張郃が馬足を速め始めた。行く手を遮ってくる者はいない。被害を受けたとはいえ、魏軍随一の騎馬隊なのだ。この馬足に追いつける者は、誰もいない。
 かなりの距離を駆け、山道が大分なだらかなものになってきた。二つの丘が迫ってきた。あの隘路を抜ければ、木門から脱することになる。そこで、張郃は三千の騎馬を止めた。
「あの隘路に、伏兵がいないか調べてこい。ここまで来ればもう焦ることはない」
 隘路に向かい、五十騎が駆け出して行った。
「私も、この目で確かめてきます」
 夏候覇が言うと、張郃は頷いた。
 郭淮指揮下での天水では、隘路でやられた。隘路が危険だということはわかっていたが、慎重さより、急ぐことを選んだのだった。
 五十の斥候に混じり、夏候覇も樹木が生い茂る丘を駆け登って辺りを確かめた。異常がないことがわかると、張郃の方へ合図を出した。
 三千騎が、隘路に進入していく。何もないはずだ。夏候覇は祈るような気持ちで馬を進ませた。
 隘路の出口が見えてきた。ここを抜ければ、ほぼ一直線で自陣に戻れる。王平に復讐する機会も、いずれまた巡ってくるはずだ。
 抜けた。冬の色をした草原。遮るものは何もない。あとは北へ向かい、駆けるだけだ。
 慎重に進んでいた三千騎が、張郃の合図で疾駆を始めた。木門が遠のいていく。やられはしたが、死んではいない。死ななければ、負けではない。そう思い定めた。王平の首は、いずれこの手で飛ばしてやる。
 やや背の高い草をかき分けながら少し行くと、突然周りの騎兵が倒れ始めた。何が起こった。見渡していると、自分の馬も足を折るようにして崩れた。
「敵はどこだ」
 叫んだ。矢は飛んできてはいない。一体、何が起こったというのか。
「してやられたものだ」
 張郃の馬も足を折っていた。その張郃の手には黒っぽいものが乗っていて、よく見ると、それは棘が四方に突き出した鉄の塊だった。
「馬がこれを踏んだようだ。敵が来るぞ。気合いを入れ直せ」
 足元を見ると、そこには同じものが落ちてあった。
「くそっ、こんなもので」
 夏候覇はそれを拾い上げ、地に叩きつけた。
 周りから、敵の殺気が近付いてきた。数千、いや、万はいる。
「馬を曳け。馬の前を歩き、鉄菱は蹴飛ばせ。この草原を抜けるまでが勝負ぞ」
 張郃が叫んだ。夏候覇は馬の轡を掴んだ。蹄が割れている。草原を抜けたとしても、どこまでこの足で駆けることができるのか。
 不意にどこかで銅鑼が一つ鳴り、かなりの数の矢が飛んできた。夏候覇は剣を抜き、自分に飛んできた矢を打ち払った。
「将軍、私が前を行きます」
 張郃が頷いた。進むと、鉄菱は至るところに落ちており、その一つ一つを足で払って進んだ。
 銅鑼の音。また矢が飛んできた。兵の悲鳴と馬の嘶きがその場を包んだ。五千つれてきた精鋭騎馬が、どこまで減らされるというのか。
 矢雨の中を必死に進んだ。もう何本払い落としたかもわからない。馬を失うわけにはいかないので、馬に向かってくる矢も打ち払った。
 すぐ後ろで、張郃が倒れた。
「将軍」
 見ると鏃が張郃の膝を貫いていて、そこから血がぽたぽたと滴り落ちていた。馬を下りた兵たちも、次々に矢の餌食となっている。
「どうやら俺は、ここまでのようだ。先に行け」
 尻を地につけた張郃が、諦めたようにして言った。
「なりません、将軍。私にはまだまだ、あなたに教わることがたくさんあるのです」
 銅鑼の音。夏候覇は張郃の前で仁王立ちになり、飛んでくる矢の全てを叩き落とした。曳いていた馬に矢が当たった。馬は倒れ、苦しそうに鳴き声を上げている。
「この草原だ。身を低くすれば、敵からは見えまい。身を隠しながら進み、山に入れ。馬は諦めて、自分の足で帰るのだ」
「将軍も」
 言ったが、張郃は微笑を浮かべているだけだった。
「俺の旗と、こいつの旗を持ってこい」
 矢を免れていた兵の二人が、旗を持ってきた。張郃は夏侯の旗を慣れた手つきで竿からはずし、夏候覇に手渡した。
「冬の山は冷える。夜は、これで身を包め。軍人が凍え死んでは笑い話にもならんからな。軍人は、戦で雄々しく死ぬものだ」
「私もお供させてください、将軍」
 目から熱いものが溢れてきた。この男が、この強い男がここで死ぬのか。
「男が、女々しい姿を見せるな。生きて、戦うのだ、夏候覇」
 言って、張郃が指差した。指された先では、さっきの丘の片方に、王の旗が冬風に靡いていた。
「王平か。あの小僧も強くなったものだ。定軍山で生き延びたあいつのように、お前も生きて戦うのだ」
 張郃が腰を上げた。膝から滴っていた血が、一気に噴き出した。
「俺の旗を上げろ。このまま易々と首を奪れるほど甘くないと、王平に思い知らせてやるぞ」
「将軍、私も」
「くどい奴だ。おい、お前ら」
 呼ばれて、旗を持ってきた二人の兵が直立した。
「この馬鹿をつれて帰れ。上官命令だ。いいな」
 少し間を置き、一人が返事をし、もう一人も返事をした。
「よし、行け」
 夏候覇は二人に脇を抱えられた。
「待ってくれ。将軍、私はまた、父を失わなければならないのですか」
 張郃は何も答えず、顔を背けた。背けた頬に、何かが一粒零れたように見えた。そしてすぐに、その姿は草むらの向こうに消えた。
「蜀の弱兵ども。お前らの欲しい首は、ここにあるぞ。矢なんぞ使わず、正々堂々と戦え」
 張郃の声が、どんどん遠いものになっていく。己の旗を胸に、二人に抱えられるまま夏候覇は運ばれていった。
 銅鑼の音。矢が張郃の旗に集まってくる。遠くなった張郃の声が、まだ何か叫んでいる。
 身を低くして草原を進んだ。銅鑼の音。涙の向こうで、張郃の旗が倒れた。もう矢は、自分のところに飛んでこない。張郃の声も、もう聞こえてこない。

王平伝⑤

最終更新日2014.3.28
twitter@nisemacsangoku

王平伝⑤

時は西暦230年。蜀と魏の戦は続いていた。武都、陰平の敗戦で危機感を覚えた魏は大軍を募って蜀に侵攻を開始した。王平は蜀の最前線である漢中にあり、劉敏が築いた楽城に軍を構えてこれを迎え撃つこととなる。敵は長安軍司令官、曹真。その武将である夏候覇との因縁の対決再び。

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted