こんな好かれ方はイヤだっ!
コノコネコノコ
1
特別じゃなくていい。
普通の女の子と、普通に恋がしたい。いつもそう願っていた。
だからこそ、今、目の前の状況が信じられなかった。
自分の胸に、ありえないくらいに可愛い女の子がしがみついて、顔を埋めている。
ドクドクと脈打つ鼓動を耳の奥に聞きながら、きっとこれは悪い夢だと思った。
それを否定するかのように、しがみついてくる手に力が入る。柔らかな体と心地よい体温が、否応無しに思考を引き戻した。
「あの、離れて」
顔を埋めたままで、彼女はまるで嫌がるように、何度も首を横に振った。どれだけ言ったところで、離れる気配はない。それどころか、より一層、強くすがりついてくる。
しかたなく、覚悟を決めた。
おずおずと彼女の細い両肩に手を延ばしたところで、しかし、異変に気づいた。胸に顔を寄せたまま、彼女がしきりに鼻をひくつかせている。
最初は体臭が気になるのかと思った。でも、どうやらそうではないらしい。さらに顔を寄せて、ひっきりなしに匂いを嗅いでいる。
「ええと、何を」
言う間にも、彼女は一心不乱に鼻をくんくん言わせている。嫌な予感がして、引き離しにかかるが、彼女の身体はまるで岩場にへばりついたフジツボの如く、離れない。
「スイマセン」
くんくん。
「あの」
くんくん、くんくん。
「ちょっと」
くんかくんかくんかくんか。
「離れろーーー!!」
――目覚ましが、鳴っている。
起き抜けの、最初の思考がそれだった。
無意識のうちに手を伸ばすが、なぜかいつもの場所に手応えが無い。虚しく空を切るばかりだ。
しかたなく、薄目を開けた。
見覚えのない部屋だった。視線を巡らすと、見慣れた目覚まし時計が、全く見当違いの位置に転がっていた。逆の手を伸ばして、ようやくスイッチを止めた。
それから、ぼんやりと部屋の中を再確認した。
まず目に入るのは、ところどころに積まれたダンボールの箱。いくつかは開け放たれて、中身が外に散乱していた。壁に並んだ収納棚には、本やら小物やらが中途半端に収められている。昨夜、作業の途中で力尽きて寝てしまったのをふと思い出した。
ああ、そうだ。引っ越してきたんだった。
ようやく思考が現実に追い付きかけた頃、締め切られたドアの向こうから、声がした。
「実穂、早く起きなさい。学校遅れるよ」
「もう起きてるよ。今行く」
リビングから呼びかけているであろう母の声に対して、寝起きの不機嫌さそのままで答えてから、御供実穂は身体を起こした。
六月も半ばを過ぎて、気温は徐々に上がり始めていた。先月までいた土地から、だいぶ南に下ってきたせいもあるだろう。
寝汗をかいていた。肌がベタついて気持ち悪い。髪の中も汗で蒸れて痒かった。わしわしと頭をかきつつ、まずは先にシャワーを浴びようと、ベッドから下りた。
新品同様のフローリングに、ペタリと足をつけたところで、ミノルはふと思った。
何か、夢を見ていた気がする。
途中までは良い夢だったのに、最後はひどく不愉快な想いをさせられたような覚えがある。寝汗も半ば、そのせいかもしれない。
――夢の中でくらい、普通に良い思いをさせてくれよ。
誰に向けるべきかも分からない恨み事を抱きつつ、ベッドから立ち上がった。
開け放したダンボールから下着だけを取り出すと、ビニールに包まれたまま机の上に放り出されていた制服を手に取って、部屋を出た。
「おはよう」
食卓の空いている椅子をひきながら、ミノルが朝の挨拶を告げた。台所の母と食卓の父から、異口同音に挨拶が返ってくる。
すでに置かれていた朝食の皿から、冷めきったトーストを手に取ったところで、今さらながらに気が付いて、ミノルは父へと視線を向けた。
「あれ、父さん、いたんだ。久しぶり」
単に思うところを述べただけで、全く他意はなかったのだが、真向かいの父は苦笑いを浮かべながら、まだ少し寝ぐせの残った髪をかいた。
「昨日、ようやく帰ってこれたんだ。まだ時差ボケだよ」
ははは、と苦労をにじませる声で笑いつつ、手元のコーヒーをすすった。
「毎度ながら『出張』も大変だね。じゃあ、しばらくは仕事もお休みか」
ミノルが確認するように言うと、父は軽く首を横に振った。
「今日も午前だけ休んだら、会社に出るよ。仕事がたまってるだろうし、お得意さんのところにも、長らく顔を出してないからね」
しっかり働いてくるよ、と力強く頷く父に、ミノルは頼もしさよりも一抹の不安を感じた。
「そんなこと言って、また早々に『出張』なんてならないでよね」
同じことを思っていたのか、湯気の立つフライパンを手に、台所からやってきた母が言うと、フライ返しでミノルの皿にベーコンエッグを載せた。
「えー、もう遅いよ。パン食べちゃったって」
「あんたが時間通り起きないからよ」
「パンなしだと黄身がこぼれる」
「下手なんでしょ。上手く食べなさい」
にべもなく言われ、不承不承、箸をつけた。
「っていうか、アンタも人ごとじゃないでしょ」
台所にもどる途中、フライパンを手にしたままで、母がくるりと振り返った。
「今日から新しい学校なんだから。編入早々、問題起こさないでよね」
「俺が問題起こしてるわけじゃねえよ」
むっとして、ミノルが言い返す。これまでに起きた『問題』の数々を思い起こしてみるが、どれも自分に非があったとは全く思えない。
「どっちでもいいわよ。とにかく、気をつけなさい。アンタまで『出張』しても、迎えに行かないからね」
「分かってるよ」
憮然と答えながら、皿の上のベーコンエッグを乱雑に持ち上げる。あっと思った時には、箸の先が薄皮を破って、ドロリとした黄身が皿にぶちまけられた。
思わず顔をしかめると、食卓の向こうで、母が小さくため息をついた。
2
授業の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。
どの学校に行っても、この音色だけは大差ないなと思いつつ、ミノルは机に広げた教科書とノートを畳んで中にしまった。
もはや自分の人生で通算何度目かも分からない、自己紹介という退屈な通過儀礼を経て、ようやく午前の授業も残すところ、あとひとつとなった。さて、次の授業はなんだったかなと、未だ覚えきらない授業表を広げて確認をしていたところで、誰かが机の前に立った。
「あの、御供くん」
女子の声に思わずギクリとしてから、平静を装って顔を上げる。目の前には何の変哲もない、クラスメイトらしき女子が数人立っていた。声をかけてきたのは真ん中にいるメガネの子らしい。視線が合うと、また遠慮がちに口を開く。
「もしかして、昔この辺りに住んでなかった」
「中学上がるまでは住んでたよ」
「あ、やっぱり。変わった苗字だから、もしかしたらそうかなって」
かつての同級生らしき少女は、はにかんだ顔で笑った。回りにいたお供の女子たちが、やんやと囃し立てる。転校早々、満更でない女子達の反応に喜ぶべきなのだろうが、ミノルの内心は不思議なほど緊張感に満ちていた。
「何、見てるの」
手に持ったままだったプリントに、彼女が視線を落とす。
「え、ああ、授業表だよ。次は何だったかと思って」
と、そこまで言いかけて、ミノルは気づいた。彼女の視線が目の前のプリントではなく、やや脇に外れて、ミノルの手をじっと見つめていることに。
「ねえ」
浮かされたような声色に、ギクリとする。
「御供くんの手って、すごく大きいね」
今にも触れそうな勢いで、彼女が言う。
「ちょっと、何言ってんの」
傍らの子が、慌てて彼女を止めた。
「やっぱ喉仏でしょ。くっきりして、男子って感じする」
「腕の血管、はっきり浮き出てて、すごいよ」
危機感を覚えて、席から腰を浮かしかけたところで、新たな声が間に入った。
「次の授業は体育だ。早く着替えないと遅れるよ」
振り返ると、クラスメイトの男子が立っていた。浅黒い引き締まった体つきに、真面目そうな顔をした精悍な少年だった。
暗に教室を出るように促された女子たちは、やや未練の残る視線をミノルに向けつつ、「あとでね」と言って、体操着を手に教室を出て行った。この学校では、男子は教室、女子は更衣室で着替えるのが決まりになっているようだ。
あやういところを救ってくれた傍らの少年を、ミノルは恐る恐る見上げた。あまりあることではないが、まれにそういう男もいるのだ。
視線に気づくなり、彼は真面目な相貌を崩して、ニヤリと笑った。
「よっ、久しぶり」
突然の発言にミノルが訝しんでいると、彼は慌てて付け足す。
「虎落だよ、虎落太郎。御供実穂、ミークンだろ」
そこまで言われて、ミノルの中ですり切れかけていた脳細胞がようやくつながった。
「おお、モゲ太か。懐かしいなあ」
「そのアダ名はヤメロ! マジメなキャラで通ってんだから」
悲鳴を上げる彼は、さきほど女子と話していたよりもだいぶ砕けた、もとい、とぼけた顔になっている。どこか昔の面影があった。
「モゲ太にマジメキャラとか、全然似合ってねえな」
まさしく数年来の旧友を得て、ミノルは楽しげに笑った。昔の恥ずかしいアダ名を持ちだされた彼もまた、がっくりと肩を落としつつも、どこか楽しげに笑った。
雨の多いこの時期、体育の授業はもっぱら屋内競技になるらしい。
天井から垂れ下がる長いネットで体育館のコートを二分して、片面を男子が、もう一方を女子が使用している。競技はバスケだ。
男女毎に複数のチームに分かれて、総当りのリーグ戦を進めていく。転入生のミノルはめでたくモゲ太のチームに編入された。今は試合の順番待ちで、二人はコートの端によけて座り、壁に寄りかかりながら雑談に興じていた。
「で、どうなの。あちこち行って、彼女とかできた? 大人の階段登っちゃった?」
いきなりの問いかけに、ミノルは苦笑いを浮かべる。
「変わってないな、そういうとこ」
小学生も高学年になった頃、彼は誰よりも真っ先に性に目覚めた。第二次性徴期に特有の、エロ本回収やエロビデオ蒐集に邁進し、語る言葉の八割は下ネタになった。以来、彼は仲間内ですっかりエロキャラとして定着した。
「残念ながら、彼女とかは一度もいない。そんな暇もなかったし」
「え、マジか。意外だ」
軽く目を見張る旧友に、あきれて問い返す。
「俺がそんなリアル充実しまくりのイケメンに見えるのか」
「いいや、全然」
即答されて、ミノルはやや憮然となる。分かってはいても、ハッキリ言われると腹が立つ。それを分かってか、モゲ太が肩をすくめた。
「でもさ、昔から一部のヤツには熱烈にモテたじゃねえか。ジッサイ、さっきだって、ほら」
隣の女子コートに視線を移すと、先ほど教室で話会話た女子三人がチラチラとこちらを見ていた。ニヤニヤと楽しげにする友人に対して、ミノルはげんなりする。
「俺はあくまで、普通の恋愛がしたいんだ」
「そりゃまた難しい」
幼少期からの彼を知っている旧友は、事情を察して苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、例えばこのクラスなら誰がいいんだよ」
「転入してまだ半日も経ってないっての。ハッキリ顔を見てないヤツのが多いくらいだし、いわんや性格をや、だ」
興味津々の様子で尋ねる友人に肩をすくめてから、「でも」とミノルは付け足す。
「ひとりだけ、ずば抜けて目を引くのがいるよな」
「ほほう」
ニヤリ、と顔を見合わせて笑うと、二人の視線は同時に動いた。
向かう先は女子コートの奥の壁際、そこにひとりきりでポツンと立つ、女子の姿があった。
愁いを帯びた横顔は、磨き上げた彫刻のように滑らかで、手を触れてみたいと思わせるほどに官能的な質感を秘めていた。背中にかかるつややかな黒髪は、体育のためにか首の後ろでひとつに結わえられ、露わになった白い首すじがしっとりと汗に濡れてなまめかしい。眦の鋭い黒目がちの瞳はきらめき、歴史の授業で昔習った、黒曜石のナイフを思い起こさせた。
館内は季節柄の気温と湿度、それと生徒たちの熱気でかなり蒸す。
視線の先で、彼女は鬱陶しそうに手を上げ、汗で額に張り付く前髪をかき上げた。黒髪の尻尾が左右に揺れ、ついでに二つのたわわな果実も、ふるりと控えめに揺れた。
「さすがミノル先生、お目が高い」
ミノルの隣で、モゲ太がニヤリと笑った。
「彼女は夏梅寧子、誰もが認めるクラスでぶっちぎり一番の美少女だ。他クラスでもかなり噂になってるらしい」
「だろうな」
贔屓目なしに言って、そうならなければむしろ不自然だろうと思えた。それほど、彼女の容姿は人目を引くし、今でも、ミノルたち以外にチラチラと彼女を目で追う男子が少なからずいる。テレビのアイドルも裸足で逃げ出す、抜群の美少女だ。ただし、いささか剣呑でもある。
壁に寄りかかりながら、胸の前で腕を組み、足を組み、俯けた瞳は、地中にひそむ親の敵を射殺すかの如く床を睨めつけていた。また時折、双眸から放たれる絶対零度のビームは男子コートに対しても照射され、彼女に焦がれる男子諸君の恋心を根こそぎなぎ払っていく。どうやら注目を浴びているのがお気に召さないらしい。
当然ながら、ビームの矛先はミノルにも向けられた。
二人の視線が交わった瞬間、なぜか、彼女は微かに驚いた顔を見せた。しかし、そのわけを確かめる間もなく、すぐさま視線にさらなる殺気を込めて睨んできたので、そそくさと目を逸らした。
「性格はかなり悪そうだ」
ミノルがうんざりしたように言うと、モゲ太は隣で苦笑いを浮かべた。
「まあ、見ての通り、控えめに言っても、かなりキッツイ。男子じゃ会話もままならないし、女子と教師と全部ひっくるめて、彼女と親しげに話している人間を見たことがない」
「もはや人間ギライのレベルだな」
「もしかしたら、本当にそうかもよ。初対面の取っ掛かりからして警戒心むき出し、というか、もはや喧嘩腰で、みんなすぐに挫けちゃうんだ」
「モゲ太はもう試したのか」
とんでもない、と首を横に振る。
「傍目に見ててもキツいのに、話しかけるとかムリムリ。再起不能になるよ。二重の意味で」
サラリと下ネタを混ぜた友人を無視して、なるほど、とミノルは頷いた。自分にも何となく覚えがあるだけに、彼女の心境も少しは分かる気がした。
彼女のあの容姿であれば、ずいぶんと幼少期から人目を引いたはずだ。今でも、他の女子生徒に比べて、歳不相応なほどに女性らしさが滲み出ている。昔から早熟だったとすれば、きっとイヤな思いも沢山したことだろう。
ふと、ミノルは思い出した。
昔、このあたりに住んでいた頃、やはりそういう女の子の友達がいた覚えがある。誰の目から見ても類まれなる美少女で、今にして思えば発育もずいぶん早かった。度々、アブナイ目にあう彼女を、ミノルは必死の思いで庇っていた。初恋だったのだ。
「で、どうすんのミークン。イッちゃう、コクっちゃう?」
ワクワクと実に楽しげな表情をする旧友に、ミノルは呆れ顔を浮かべた。
「気が早すぎるだろ。まだ会話すらしていないし、それに、」
チラリと、女子コートの彼女を盗み見た。
艶やかな黒髪と大きな瞳は、どこか面影がある気がした。でも、夏梅という彼女の苗字には聞き覚えがない。それに、記憶にある少女はもっとほんわかして優しげだった。どんなに性格が捻くれたとしても、あんな剣山のような女には育たないはずだ。
別人だ、ミノルはそう結論付けた。
「俺がしたいのは普通の恋愛だよ。美人でも、あんな地雷女はゴメンだな」
ホイッスルの音が鳴り響く。
ゼッケンを頭からかぶると、ミノルは中のチームと交代でコートに入った。
3
「へい、ミークン。パス」
モゲ太が投げてよこしたボールを受け取ると、ミノルは傍らに置かれたキャスター付きのボール籠に放り込んだ。バウン、と中のボール同士で弾けて、籠がギシギシと揺れる。頑丈そうな見た目に反して、どこか心もとない。学校の備品などそんなものだろうか。
体育の授業も無事終わり、午前の授業はつつがなく終了した。
例の女子三人のことなど若干の不安は残るが、この調子であと半日を過ごせれば、どうにか転校初日から問題を起こさずにすみそうだった。
内心で密かに安堵していたところ、キュッキュと高らかに踏みしめる、体育館シューズの音が耳に入った。足音は、まっすぐこちらに向かってくる。どうにもイヤな予感がした。
足音はすぐ隣で止まった。
「ちょっと」
やけに挑発的な声がかかる。
おそるおそる首を振り向けると、案の定、そこには件の美少女、夏梅寧子の姿があった。
首の後ろで結わえられた黒い尻尾を揺らし、腰に手をあてた仁王立ちで、黒曜石のような鋭い瞳を射抜くようにミノルへと向けている。
「何か用? ええと」
「夏梅、寧子」
やたらと強調付きで名前を教えてくれた。もしかしたら、尋ね方がわざとらしかっただろうか。内心ではドキマギしつつ、平静を装って言葉を返す。
「それで、夏梅さん。何か用」
「用があるのはアンタでしょ。さっきからチラチラとこっち見て、なんか文句でもあんの」
かぶせるようにして飛び出した彼女の言葉は、聞きしに勝る挑発的なものだった。ほとんど喧嘩を売っているようなものだ。厄介なことになったと、漏れそうになるため息を押しとどめる。
「単に、クラスメイトの様子を見てただけだよ。アイツに、色々と教えてもらってね」
視線をチラリと向けると、こっちに振るなとばかりに、モゲ太が顔をひきつらせる。
「……ふうん、あっそ」
納得したのか、していないのか。モゲ太を一瞥した彼女は、不機嫌そうに答えた。当然のごとく、つけた言いがかりへの謝罪など、ひと言も無い。
「アンタ、名前なんだっけ」
オマエの名前なんかこれっぽっちも覚えてないぞとばかりに、『名前』の部分を強勢付きで尋ねてくる。ほとんど尋問だなと、ミノルは胸の内でため息をつく。
「御供実穂」
「ミトモミノル」と目の前の美少女は口の中で繰り返す。
「もしかして、昔、この辺に住んでなかった」
「住んでたよ。小学生まで」
本日二回目の質問に頷いて答えると、彼女はジロジロと人の足先から頭まで、視線を往復させる。ここまで不躾だと、さすがに腹に据えかねるものがある。
「で、それが何か」
つっけんどんな返答は思った以上に効果があったようで、彼女は一瞬気色ばんだが、ぐっと奥歯を噛んでこらえたようだ。
「べつに! 何でもない」
話はこれで終わりだとばかりに、ふいと視線を逸らす。
詰問から解放される安堵感に思わず嘆息をもらすと、それを見とがめて、ジロリと睨まれた。
「言っとくけど、またジロジロと見てくるようなら、セクハラで訴えるから。まったく、鬱陶しい」
確かに、彼女のことを好奇な目で見ていたのは事実だし、目の前でため息をついたのも悪かったろう。しかし、ここまで言われなければいけないことだろうかと、ミノルはいささかムッとした。思わず言い返してしまう。
「なんだそりゃあ。もっと見てってフリかよ」
わざとらしく肩をすくめて言うと、目の前の少女は意外なほど顔を真っ赤にした。
「ふざけんな! 誰がアンタに見てもらいたいとか思うか!!」
ちょっとした意趣返しのつもりが、なにやら逆鱗に触れてしまったようだ。ビビッて後じさりをすると、彼女はひと睨みしてから、さも不機嫌そうに鼻を鳴らして、踵を返した。
まさに、その時だった。
「御供くん、パス……って、あ」
空気を読まず、クラスメイトのひとりが放ったボールは、そもそも軌道を外れて、ボール籠の淵を引っ掛けた。ガシャン、と激しい音を立てて籠が倒れ、中のボールがあたりにぶちまけられる。コロコロと転がる玉は、不運にも、今まさに踏み出そうとしていた少女の足下に滑りこんだ。
「え、ちょ、きゃっ」
「夏梅、って、うわっ」
倒れかかった彼女に手を差し伸べたミノルまでも、狙ったように滑りこんだボールに足をとられた。ふたりしてボールの海で、もつれあい、バランスを崩す。
反射的に彼女の身体をひきよせて、片腕で頭を庇った。反対の手も突き出して、地面との衝撃を和らげる。
ドサリと、二人の身体が体育館のフロアに倒れこんだ。
「いって、膝打った」
咄嗟にしては良く出来たと自分を褒めたいが、思いの外勢いがあって、地についた片膝が痛んだ。彼女はと言えば、さっきまでの不遜な態度とは裏腹に、ミノルの腕の中で、借りられた猫みたいに身体を小さくしていた。ただでさえ大きな瞳を、真ん丸にして、パチクリと瞬きをしている。
「大丈夫か、夏梅」
縮こまったままで、コクコクと頷いている。どうやら怪我はないらしい。どこかを打ったような様子もない。
ほっと安堵の息をつきつつ、今更ながら、自分が彼女を押し倒すような格好であることに気がついた。慌てて起き上がろうとしたが、左腕は彼女の背中と床の間に押さえつけられたままだ。多少は身体を浮かせてもらわないと、身動きがとれない。
「わるい、背中を少し上げてくれ」
それで彼女も、ミノルの腕を下敷きにしていると気づいたらしい。慌てて上半身を持ち上げた。自然、彼女の顔はミノルの胸元に近づく。体育の後とあって、Tシャツは汗でだいぶ濡れている。あんま臭わなきゃいいけど、とミノルは内心でさらに汗をかいた。
「まだ、もうちょい身体上げてくれ。……夏梅?」
唐突に、彼女の動きが止まった。
微かに背中を浮かせた状態で硬直している。呼びかけても返事がない。顔を見ようにも、頭で隠れてしまってうかがい知れない。
「なあ、夏梅、もう少し身体を浮かして」
「何、これ。どういうこと」
ミノルの言葉を遮って、寧子が呆然とした声を上げた。倒れた時から掴みっぱなしだった、ミノルのTシャツの脇あたりを、さらにぐっと握りしめる。
「あり得ない。なんなの」
うわ言のように呟き、彼女の顔は花の蜜に吸い寄せられる蜂のように、ふらふらとミノルの胸元に吸い寄せられていく。そろそろ鼻の先がくっつきそうだ。
つい最近、どこかで見た光景だった。激しく嫌な予感がする。
「おい、夏梅」
「こんなの、イヤなのに。……こんなヤツ、全然好きじゃないのにっ!」
ガバっ、と彼女は唐突に、ミノルの胸に顔を埋めた。クンカクンカと、犬だか猫だかみたいな音が聞こえてくる。もはやミノルの予感は確信に変わっていた。
「バカ、待て、しっかりしろ! マジで色々とヤバいって!」
一向に立ち上がらない二人を見て、心配したクラスメイトたちが周りに集まり始めていた。焦ってなんとか立ち上がろうとするミノルに対して、寧子はしっかと抱きついたまま、一向に離れようとしない。「くやしい、ありえない」とうわ言のように繰り返しながら、胸に顔をグリグリと擦り付けてくる。
彼女の言葉をどう受け止めたのか、取り囲むクラスメイト達から、ざわめきとともに、冷ややかな視線がミノルに注がれ始めた。
とにかく、一刻も早く彼女を引き離すべきだ。もう無理にでも手を引き抜いて、起き上がろう。残った右手で彼女の背を支えて、一気に引き抜こうとしたところで、彼女が一際大きな声で叫んだ。
「最低、最悪! こんなのもうレイプじゃない!」
野次馬をしていた生徒たちの合間から、ひときわ大きなざわめきが漏れる。
「え、ウソ」「マジかよ」「こんなとこで」「サイッテー」
侮蔑の言葉と冷ややかな視線を一身に向けられて、ミノルは言葉にならない声を上げた。必死に首を振って、己の無実を主張しようとする。
しまいには、騒ぎを聞きつけた体育教師までもが、わざわざ教員室から戻ってきた。
「お前ら、一体何をやってるんだ!」
コートのまっただ中で、くんずほぐれつする二人を見るなり、教師は青筋を立てて駆け込んできた。ミノルはひたすらに首を横に振って弁解する。
「待ってくれ、何もしてない。俺はなにも」
「もうやめて! これ以上、私をメチャクチャにしないでっ!」
耐えかねるように、彼女が悲鳴をあげた。同時に、くんかくんかという吸引音も狂ったように加速したが、あいにくこれは誰にも聞こえなかった。
「おい、早く離れろ! ここをどこだと思ってるんだ!?」
教師は顔を青ざめさせて、ミノルの身体を無理矢理、引き剥がしにかかった。体育教官室からは、ひとり、またひとりと屈強な体育教師が駆けつけてくる。まわりの野次馬たちも、ことさらに白い視線をミノルの全身に注ぎ始めた。
「ご、誤解だーっ!!」
ミノルは魂からの悲鳴を上げた。
4
なだらかに下っていく長い坂道を、ミノルはとぼとぼと歩いていた。
時刻はすでに夕方と言って差し支えないが、日はまだ十分に高い。夏も間近に控えて、日中の日は随分と長くなっていた。
同じく学校帰りと思しき他校生らが、ミノルの脇を自転車でかっ飛ばしていく。「俺も、あの子が好きなんだ」「ちくしょう、応援するぜ」などと、青臭い言葉を叫び交わしながら、あっという間に彼らは坂を下っていった。自分との格差を感じて、ミノルは割に合わぬと、重たいため息をついた。
嬉し恥ずかしい貴重な青春の放課後に、ミノルは職場でいびられた中年サラリーマンのように、たよりない足取りでまっすぐ家へと帰っていく。頭を占める思考もまたそれらしく、早く帰ってゆっくり休みたい、ただそれだけだった。
――まったくもって、ひどい一日だった。
これまでにも、何度か転校は経験してきた。しかし、どれだけ記憶をひっくり返しても、今日より酷かった日は無いだろう。甲子園野球の決勝戦で、スクイズバントのサインから見事にゲッツーを取られて負けたとしたら、きっとこんな気分だろう、いや、さすがにそれは言いすぎか、などと、ミノルは疲れた頭でしようもない事を考えた。
とにかく、あの夏梅寧子というクラスメイトには、金輪際、近づくまい。どれだけの美少女だからって、もう二度と関わりたくない、半径5メートル以内だって御免こうむると、本日昼過ぎの一幕を思い出して、ミノルは固く心に誓った。
授業後の昼休み、ミノルと夏梅寧子は生徒指導室に呼び出された。理由はもちろん、体育授業のあとの一件についてだ。
まるで痴漢の冤罪で連行された駅員室のような雰囲気に抗い、ミノルは必死で自らの無実を主張し続けた。一方で、夏梅寧子はと言えば、何を言うでもなく、不機嫌そうな表情を浮かべたまま、終始そっぽを向いていた。
沈黙を貫く彼女の姿勢が、かえってそれらしく見えたのか、色つきメガネがよく似合う坊主頭の強面教員は、いよいよもって嫌疑の眼差しをミノルに差し向けた。あわや社会的生命も一巻の終わりかと思われた刹那、おもむろに口を開いた不機嫌そうな被害者(仮)が、ようやくミノルの話に同意を――あくまで不承不承といった様子だが――したことで、ひとまず冤罪は免れたらしかった。
転校初日から停学あるいは退学などという、世にもアクロバティックな憂き目を逃れて、ミノルはほっと安堵した。が、指導室を退出する間も、教員からは疑いの眼差しがミノルに注がれ続けた。彼の名はまず間違いなく、要注意生徒のブラックリストに太字で記載されたことだろう。しばらくは、気の休まらない学校生活になりそうだ。
教室へと戻った頃には、もう昼休みも終わりかけていた。
唯一の友人であるところのモゲ太は、教室に戻るなり気遣わしげな視線を向けてくれたが、ミノルはそれに応じる気力もなかった。適当に身振りで平気だと応じた後は、かきこむように弁当を平らげて、午後の授業に臨んだ。幸い、その後は大した事件もなく、無事に帰りのHRを迎えて、帰路へとつくことができた。
もちろん、全てが太平というわけにはいかない。
知り合ってまだ半日も経たないクラスメイトたちからは、有罪犯を見るような胡乱な視線を注がれ、名も知らぬ女子三人は熱のこもった眼差しで見つめてくる。くだんの夏梅寧子に限っては、殺気のこもった、撃ち殺さんばかりの恐ろしい眼光を爛々と放っていた。
明日からの殺伐とした学校生活を思い、ミノルは青色一号も真っ青のブルーだった。一生に一度しかない輝かしい青春時代に、青いばかりで春など微塵も気配がない。
――このままズルズルと、まともな恋のひとつもせず、寂しいオトナになるのだろうか。
切なすぎる未来予想図が思い浮かばれて、ミノルはガックリとうなだれた。
それもこれも、全ては厄介な体質のせいだった。
御供実穂は、一見するとごく普通の少年だ。
体つきは中肉中背、顔は可も無く不可も無く、学校の成績だって中の上程度で、目立った特徴は皆無と言って良い。道行く十人に聞けば、うち九人は彼を見て「普通」と答えるだろう。問題なのは、残る「一人」だ。
その一人はおそらく、彼を見ても何も言わない。ただ黙って、花の蜜に誘われる蝶の如く、彼に近づいて行く。その先の行動は、人によって様々だ。
ある人は、彼の声にうっとりと聴き惚れるだろう。またある人は、引き締まった殿筋を鷲掴みにして揉みしだくかもしれない。首筋に浮かぶ珠のような汗を、思わず舐めまわす人もいるだろうし、あるいは彼の胸に顔を埋めて、その匂いに酔いしれることも……。
とにかく、ミノルはそういった人たちに、熱烈に好かれるのだ。偏った性愛――つまり、強烈なフェチズムを持った人間に。
そしてまた、その好かれ方が半端ではない。
道を往けば後をつけられ、電車に乗れば尻やら股間やらを揉みしだかれるなど、もはや日常茶飯事だ。うっかり夜の公園脇や路地裏を歩いて、暗がりに連れ込まれそうになったことさえ、数知れない。冗談のようで、もはや冗談ではすまされない。
ミノルが外を歩くということは、さながらサバンナにジューシーな骨付き肉を投げ込むようなものだ。平穏な社会に潜むセクシャルな猛獣どもを、次々と惹き寄せてしまう。おかげで、ひとところに長くはいられず、全国を点々とするハメになっていた。
――なんでこうなってしまったんだ。
詮無いこととはいえ、ぼやかずにはいられなかった。
ひっきりなしに漏れ出るため息をなんとか押し殺しつつ、未だ見慣れないマンションのドアノブに手をかけて、押し開いた。
「ただいまー」
玄関に入って投げやりに呼びかけるが、返事はなかった。
代わりに、リビングとは反対方向の寝室からドタバタと騒がしい音がする。ミノルは嫌な予感がして、静かに靴をぬぐと、そろりそろりと廊下を進み、両親の寝室の扉をそうっと開いた。
彼の目に飛び込んできたのは、空け散らかされたダンボールの山々と、その只中で大きめのトランクと格闘する母の姿だった。
「なにしてんの、母さん」
呆然と尋ねるミノルの姿にようやく気づいたのか、母は振り向いて「ああ、お帰り」と答えると、またトランクにぎゅうぎゅうと服を詰め始めた。
「見て分かるでしょ。荷造りしてんの」
嫌な予感がドンピシャで当たったようだ。ミノルは思わずこめかみを押さえた。
「ちょっと待ってくれ。ってことは、親父は」
「だから、また『出張』でしょ」
トランクの上に馬乗りになって、ぎゅうぎゅうと締め付ける。中身が落ち着いたところでパチンパチンとロックを締めた。一息つきながら、母は立ち上がると顔をあげた。
「しかも、前回と同じ人だってんだから、何やってんだか、もう。自分で逃げるとか断るとかしてくれないと、私だっていい加減愛想尽かすわよ」
ここに居ない良人に向けてプリプリと怒りつつ、母は手早く身の回りの支度を整えていく。
部屋の入口に立ちつくしたまま、ミノルは小さく溜息を漏らした。どうやら引っ越し早々、問題を起こしていたのは、自分だけでは無かったらしい。もしかすると、引っ越しの最短記録が更新されるかもしれないな、とミノルはぼんやり考えた。
厄介な体質の持ち主がミノル一人であれば、あるいは御供家も、これほど頻繁に引っ越しを繰り返さずに済んだかもしれない。しかし、残念ながら、そうはならなかった。なぜなら、御供家の骨付き肉は二本あった。
ミノルの父、御供実人は大手化粧品会社の営業マンだ。
およそ一般人には手の出しにくい、超がつくほどの高級化粧品を取り扱っている。相手は大企業の女経営者やら、暇を持て余したセレブなマダムやらが中心で、彼はそういった客の元をまめまめしく訪れ、自社製品をアピールする。決して押し付けがましくなく、あくまでクリーンな営業姿勢が彼のモットーだ。
しかし、会社が彼に期待しているのはそんなことではない。
ところで、性愛における偏向性は年齢とともに増大するという。経営の手綱を握ってストレスを貯める女経営者や、あるいは日中は旦那もおらず仕事もない、暇を持て余すマダムらの中に、稀に、というには少々多すぎる頻度で、そういった人たちがいる。彼女らにとって彼は、まさにネギを背負ってきたカモに等しい。その先はもう、言わずもがなだ。いわゆる『出張』の出来上がりだった。
元はオフィス勤務だった父が、なぜ営業に回されたのか、詳しい経緯をミノルは知らない。出張のたびに多額の報奨金が支給されることは、以前、母から聞いたことがあった。はてさて、そのお金はどこからやってきたものなのか、イヤラシイ大人の世界の話など、今はまだ聞きたくもなかった。まるで、ひとごとではないだけに。
「それで、今回はどこまで? 前と同じっていうと、ロシアか」
「まずはね。ただ、会社からの連絡だと、どうも近々バカンスに行くとか何とかで、もし屋敷にいなかったら、使用人を締めあげてでも行き先聞いてやるわ」
物騒なことをぼやきつつ、ハンドバックを肩にかけ、トランクの持ち手を掴んで引き上げた。準備完了のようだ。
「ま、気をつけて。家のことは任せてくれよ。いつも通り何とかしとく」
「大丈夫、今回はその必要ないから」
母は事も無げに言うと、ベッドの上に放り出されていた紙のプリントを手にとって、ミノルに渡した。受け取った紙面は、どこかへの道筋を記した地図のようだった。
「なにこれ」
「あんたの居候先。いつもいつも、家に一人にしておくわけにもいかないでしょ」
ミノルは思わず顔をしかめた。
確かに、ファミリーマンションにひとりで暮らすというのは、やや物悲しいものがある。だからと言って、いきなり赤の他人の家で暮らせというのも、多感な思春期の少年にとっては、それ以上にハードルが高かった。
「いいよべつに、ひとりでも何とかなる」
「何とかなってないから、言ってるの。毎日外食ばっかりで、家のことなんてほとんどしてないでしょ。前のマンション、ホコリまみれだったじゃない」
言われてみると、最低限のゴミ捨てばかりで、掃除らしい掃除をした覚えがまるでなかった。引っ越しのために両親の寝室に踏み入った時、うず高く降り積もったホコリが、まるで綿雪のようにふわりふわりと宙を舞ったのは記憶に新しい。
「とにかく、もう先方には連絡してあるから。アンタの荷物も全部運んじゃったわよ」
「え、うそ!」
ほとんど荷解きしていなかったことが、どうにも裏目にでたようだ。
「なんにも残ってないからね。ちゃんと、今日のうちに行きなさいよ」
そう言うなり、荷物を持ってさっさと玄関に向かう。その後ろ姿に何とか言おうとするも、良い反論が思い浮かばない。そうこうするうちに、母は歩きやすいスニーカーを履いて立ち上がると、さっさと扉を開けて出て行ってしまう。
途中、一度だけ振り返った。
「そうそう、アンタの居候先だけど、藤無さんの道場だから。覚えてるでしょ? 随分お世話になったんだし、今回もまたお世話になるんだから、挨拶くらいはキッチリしときなさいよ。あと、迷惑はかけないこと、いいわね。じゃあ、あとはよろしく」
ひらひらと手を振って、足早に出て行く母の姿を、ミノルは呆然と見送った。やがてひとりきりの室内に静寂が訪れた頃、手元の地図に目を落とす。
「マジかよ」
ミノルの長い一日は、まだ終わらないらしかった。
5
燃えるような赤橙色に染まった路地の合間を、ひとつの影が走っていた。
額から流れ落ちる汗をTシャツの裾で乱雑に拭いながら、未だ育ちきらぬ細い足を懸命に動かして、黒々とした影の中を駆け抜けていく。
やがて、彼はとある公園の入口で立ち止まった。
視線の先には、滑り台のついた小さな丘があり、その上にぽつんと腰掛けるひとりの少女の姿が見えた。
少年は息を整えながら、公園の中に足を踏み入れた。
滑り台の出口に立って、少女を見上げる。俯けた顔は影になっていて、表情を知ることは出来ない。泣いているのかな、と少年は不安になったが、意外にしっかりした声で、少女は言った。
「どうして、オトコの人ってみんな、ああなのかな」
少女の言わんとすることを察して、少年はその幼い顔立ちをくしゃりと歪めた。自分の中の足りない語彙をかき集めて、彼女の疑問に答えようとするが、結局、いい言葉は浮かばなかった。
「わからないよ。でも、ツキアウとかケッコンするって、ああいうことなのかも」
「だったらワタシ、誰ともツキアワない。ケッコンもしたくない」
自分の身体を、得体のしれない何かから守るように、少女はぎゅっと膝を抱えた。
もとよりスラリと長かった白い手足は、最近になって急速に丸みを帯びてきた。目の前の少年は、まだその事に気づいていないようだが、身の回りのオトコたちは、明らかに自分を見る目が変わってきた。視線が肌の上を這いまわる度に、気持ち悪くて吐き気がした。
目の前にいる少年を、少女は見た。
物心つくより前から一緒にいて、いまや自分の半身のような幼馴染。危ない目に会う自分を、祖父母や両親たちと一緒になって、守り続けてくれるヒーロー。
彼もまた、いつか他のオトコたちのように、イヤラシイ目で自分を見るのだろうか。あるいは、私ではないオンナに、自分の知らないオトコの顔を向けるのだろうか。それはたまらなく寂しくて、たまらなく辛かった。
「ねえ」
少女の問いかけに、少年は「なあに」と答える。
「ミノルは、ずっとワタシと一緒にいてくれる?」
間髪入れずに、少年は「もちろん」と力強く頷いた。
「ずっと、変わらないでいてくれる? 大事なトモダチのままでいてくれる?」
今度は、少し躊躇うのがわかった。でも、すぐさま顔を上げて、少年は笑顔を見せた。
「ヤクソクするよ。ボクらはずっと、トモダチだ」
赤燈色の陽射しが、少年の横顔を染めていた。
温かくも、どこか少しだけ、寂しげに……
夕暮れに染まった街路に、一台のバスが停まった。
タラップを下って、ミノルはバスから降り立った。手元の地図と停留所の名前を見比べて、ひとつ頷く。場所はこのあたりで間違いなさそうだった。
空を見上げると、やや厚ぼったい雲が、紅から紫へと移り変わるグラデーションの中に浸っていた。屋根の向こうで空の端は暗青色に染まりかけている。もうじきすっかり日も落ちる。どうやら思ったよりも、遅くなってしまったらしい。
母の謀略によって退路を経たれたミノルは、しぶしぶ居候先の藤無道場に向かうことを決めた。しかし、母が置いていった地図をよく見ると、マンションから目的地まではゆうに4キロもあった。歩いて歩けないこともないが、ただでさえ疲れ果てた身体に鞭打つ気にはなれなかった。やむなくバスの路線を調べて、近場の駅を経由しながら、夕餉の香りが漂うこんな時間になって、ようやく辿り着いたのだった。
幸い、バス停から目的地まではさほど遠くないようだった。地図で道のりを確認しながら、ミノルはおもむろに歩き始めた。が、しばらくして、地図は畳んでポケットに仕舞った。
そこはすでに、見覚えのある場所だった。
あの頃より、だいぶ背丈が伸びたせいだろう。あるいは、何度も反芻するうちに、ところどころ記憶が脱落してしまったのかもしれない。道の様相は、ミノルの思い出の中の姿と、少し異なっていた。広い広いと思っていた道幅は実は思ったよりずっと狭かったり、一方で、近道と信じていた道のりが、明らかな遠回りだったりする。なんとも奇妙な感覚だった。
ミノルの意識は、急速にノスタルジーの中に引き込まれていった。道の先々で戯れる自分、いや、自分たちの影を追うようにして、道を進んでいく。
見覚えのある古い煤けた塀をなぞり、見慣れない真新しい家の壁を傍らに見る。すっかり変わったものもあれば、まったく当時のままで変わらないものもあった。
――あそこの家は見覚えがあるな。向かいの更地は昔、マンションが立っていたはずだ。突き当りの駄菓子屋……も潰れたか、残念だ。久々にくじアメでも買おうと思ったのに。
胸の奥を締め付けられるような郷愁に身を委ねながら、ミノルは確かめるように、ひとつひとつの建物を眺めていった。
視界の端を小さな影が駆け抜けた。
そのうちのひとつを、ミノルは無意識に目で追う。肩より上で切りそろえた、艶やかな黒髪が揺れる。振り返った少女の、大きな黒い瞳が、無邪気に煌めいた。
――あの子は、今、どうしているかな。
幼いころ、家族のように親しく、半身のように互いに寄り添って過ごした、ひとりの少女を想った。
ミノルが生まれた頃、御供家はこの近辺に住んでいた。父の通勤に便利だったのが主な理由だが、もう一つ、両親の親友夫婦が近くに住んでいたことも、重要な理由だった。
親友夫婦には、ミノルと同い年の娘がいた。
彼らは共働きだったため、日中は家からほど近い奥さんの実家、つまり藤無の家に預けていた。そして一方、『出張』により頻繁にアチコチ飛び回っていた御供夫婦も、親友夫婦の申し出で、有事の際にはミノルを藤無の道場に預けることになっていた。むろん、蓋を開けてみれば、有事ばかりで、ミノルはほとんど藤無家に入り浸りとなった。
乳飲み子の頃から、二人はまるで双子のように育った。食う、寝る、起きる、そして遊ぶ。二人はいつも一緒だった。物心ついた時には、隣に相手の姿があるのが当たり前になっていた。
彼女の呼び名はすこし変わっていた。ミノルはいつも、彼女を「ネコ」と呼んだ。
まさか本名ではないだろうが、十年近く一緒にいて、結局、ミノルはそれを一度も確かめなかった。彼らにとって、呼び名はさして重要ではなかった。
学区の関係で、二人は別々の小学校に進学したが、関係は変わらなかった。
少女は相変わらず、夜過ぎまで藤無の家で過ごしていたし、ミノルもまた、学校が終わるとたいていはまっすぐ道場に向かった。一番は少女と遊ぶためだったが、その頃になると、ミノルは道場の方で武道の稽古も受けていた。
親友からの申し出とはいえ、度重なり子供の世話を押し付けていることに、御供夫妻も気が引けたらしい。色々と考えた末、稽古の月謝として謝礼を収めることになった。
もっとも、ミノルの母には別の思惑もあったようだ。
度重なる『出張』とお迎えの日々を過ごす内に、ふと彼女は危惧を抱いた。ミノルが成長した時に、父親のおかしな性質を受け継がないとは限らない。自分の身はきちんと自分で守れるように、護身術を身につけさせたかった。後に、ミノルは母の慧眼に泣くほど感謝する日がくるのだが――それはまた別の話だ。
歳の頃も7つになると、ネコは黒髪黒目の可憐な少女に育っていた。柔和で分け隔てなく、ぽかぽかとお日様のような性格は、自然、男女を問わず人を集めた。むしろ集めすぎて、少々厄介なことになった。
人一倍発育の早かったネコは、すでにして、思春期に入った年上の子らや、時には危ない大人たちに、目をつけられるようになった。両親や祖父母など、親しい大人たちが彼女を守ったが、ミノルもまた勇敢に戦った。超能力的もかくやという超感覚でネコの危機を察知すると、彼は風のように駆けつけて、颯爽と……まではいかないが、泥臭くも懸命に彼女を守った。そんな彼を、彼女は誰よりも信頼していた。
しかし、別れの時は唐突にやってきた。
母の悪い予感は見事に的中し、彼の骨付き肉体質は開花した。怪しげなオネエサンやオバサン、時にオニイサンに次々と絡まれはじめた。
そしてある時、父の骨付き肉が重大な問題を引き起こし、御供家は転勤を余儀なくされた。時を同じくして、息子の骨付き肉も問題を起こし、慌ただしい中で御供家はこの町を立ち去った。
ともに育った少女にろくな別れの挨拶もできなかったことが、ミノルはずっと心残りだった。
家族のように過ごし、親友のように固く結ばれた――初恋の、少女だった。
ミノルの足は、とある門の前で止まった。
懐かしい、記憶の中ちっとも変わらない立派な門構えを見上げる。
藤無は江戸時代より続く、由緒正しい武術道場だった。近隣の藩に召し抱えられ、剣術指南役を勤めたこともあるという。建物は古く、敷地はそこそこに広かった。
わずかな躊躇いの後、ミノルは意を決して呼び鈴を鳴らした。電子的な音色が、インターホンと家の中との両方から木霊する。
記憶の中にあるよりも、藤無の家は静かだった。
昔は跡継ぎの息子夫婦や、内弟子の家族やらで、家の中も随分と賑わっていた覚えがある。もしかしたら、今は一緒に住んでいないのかもしれないな、とミノルは思った。
――そうだ、彼女もまた、今もこのあたりに住んでいるとは限らない。
頭の冷静な部分が、そう言い聞かせる一方で、湧き上がる期待感をミノルは抑えきれなかった。一体、彼女はどんなふうに成長しているだろうか。三年ぶりの再会だ、胸が高鳴らないわけがなかった。
――出てこないな。留守かな。
母屋の方を見る限りでは、室内灯が点いているし、美味しそうな夕餉の香りも漂ってくる。誰もいないということはないだろう。
もう一度、呼び鈴を鳴らすかどうか迷っていると、ふと、インターホンの上に掲げられた表札が目に入った。
懐かしい『藤無』の表札に自然と顔がほころぶが、隣にもうひとつ、別の表札がかかっていることに気がついた。つい最近、どこかで聞いたような苗字だ。
音のイメージと、目から入った漢字のイメージが結びつくより早く、玄関の向こうから、誰かの不機嫌そうな返事が聞こえてきた。おや、これもつい最近、どこかで聞いたような声だな、などと思う間もなく、ガラリと引き戸が開け放たれた。
二人はお互いの顔を見るなり、ピタリと固まってしまった。
「え、ウソ。なんで」
玄関から顔を出した、同い年の美少女が呆然とつぶやくと同時に、その後ろからまた別の女性が姿を表した。
「あらあら、着いたのね、ミノル君。いらっしゃい。お久しぶりねえ、大きくなって」
記憶の中と寸分違わぬ、若々しいままの母の親友に、まくし立てるように話しかけられて、「あの、どうも」とミノルはペコリと機械的に頭を下げた。頭の中は以前真っ白だ。
「そんなとこに立ってないで。ほらほら、上がって。もうじき夕飯もできるから」
「ちょ、ちょっと、お母さん!」
硬直を解かれた少女が、聞き捨てならないとばかりに声をあげた。
「夕食ってなに! コレどういうこと! 私、何も聞いてないんだけど!」
コレ、とミノルの方を指さして少女ががなり立てるが、母親と思しき女性はウフフと笑って事もなげに応じる。
「それはそうでしょ。驚くかなーと思って、秘密にしてたんだから。ミノル君はね、今日から一緒に住むの。嬉しいでしょ」
いたずらが成功した少女のように微笑む母に、娘と思しき女の子は、顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。怒りと驚愕のあまり、二の句が告げずにいるらしい。
そして、ミノルもまた、信じたくない事実をつきつけられ、呆然と立ち尽くしていた。
「オバサンがお母さん、コイツが娘。ってことは、まさか、オマエが……」
唖然と指差すミノルを、黒髪黒目の少女は、射殺さんばかりの目で睨みつけた。ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「……誰か、ウソだと言ってくれ」
そこには、かつての面影など、微塵もなかった。
記憶の中で朗らかに笑っていた可憐な少女は、剣山のような恐るべき地雷女、『夏梅寧子』へとクラスチェンジを果たしていたのだった。
(以下、執筆中)
こんな好かれ方はイヤだっ!