Never Say Never
第一章
4月にしては少し暖かい昼下がり。高校までの道のりは、通いなれた通学路ではないけど、特に目新しいものもない。一人で行くのはいやだから、わざわざ黒田ん家まで行って一緒に行こうと誘った。遠回りしたけど入学説明会には余裕で間に合いそうだ。
合格発表からはや3日がたった。受験番号を探す時の緊張となかった時の焦燥感は耐えがたいものだったが、
それに、俺にはこの二流の高校が合ってると思う。別に将来の夢なんてないし。(親は俺に病院を継いでほしいみたいだけど。まぁ、それは小三の弟にまかせる。わるいな、武人)受かってもついていけなくなって落ちこぼれるくらいなら、二流のトップにいた方がいい。せっかくだから、高校生活を楽しまなきゃ損だ。やっと、受験勉強からも解放されたんだし。……そう、それに鬼頭先生からも。
はっくしゅん!
隣で歩いている黒田が大きなくしゃみをした。「花粉症」と、呟いて鼻をすする。
「なぁお前は高校で何が一番したい?」
普通に話しかけただけだったけど
「別になにも」
そっけない返事が返ってきた。
「じゃあ、部活は? 部活には入るだろ?」
気を取り直して聞く、
「いや。俺が入ると思うか?」
「は? それまじで言ってんの? もうサッカーしないのか?」
「だから、しないって」
なんだこいつ? どうしちまったんだ? まだ落ちたショックから立ち直ってないのか。黒田も同じ高校を受けて落ちた。確かにあの時の落ち込みようはすごかった。マジで泣きそうになってたもんな。でも、だからって……。
「部活やらないで、なにするんだよ?」
ちょっと責めるような口調で聞いてみる。
「……とにかく部活はしない。お前はするのか?」
「当たり前だろ」
「俺たちができると思うのか? ただわいわいするだけの普通の部活を?」
「どういう意味だ?」
「まぁ、三か月もすりゃ、辞めたくなるよ」
おいおい、ちょっと待て。
「何言ってんだ? 俺たちはあの練習を耐え抜いてきたんだぞ?」
「だから、だよ」
まじで意味が分からない。
「だから?」
「うん」
「でも、部活やってない奴はモテないぞ」
「……」
黒田が立ち止まってこっちを見た。おっと、食らいついたか?
「…サッカー部は一番モテやすいらしいぜ。……なんかの雑誌で読んだ」
「モテたいのか」
黒田はつぶやくと、また歩き始めた。
「当たり前だろ」
「へぇ、そうなんだ」
黒田の口癖は「へぇ、そうなんだ」だ。見下すような、からかうような、とにかくマイナスイメージの要素をかき集めたこの言葉はいつも俺をイラつかせる。こいつの性格は問題ありすぎだ。すげぇ頑固だし、負けず嫌いだし。
「…なんだよ? お前は普通のことしてみたくないのか?」
「普通って?」
「だから、普通に彼女作って、普通に部活して、勉強して。中学の時はできなかったじゃん。俺たち部活漬けの中学時代を送ったんだぜ? 『普通』にあこがれないか?」
「『普通』の何が面白いんだ?」
呟くように黒田が言った。
ああ、もうだめだ。せっかく共感してくれると思ったのに。
しばらく、無言で歩いた。高校までの道のりが遠く感じる。遠くの方で学校の校舎が見えた時、
「お前さぁ」
黒田がぽつりと言った。
「お前は鬼頭先生が俺たちの最後の大会で負けた後言ったこと覚えてる?」
「うーん。おぼろげに、かな」
正直あの時のことは思い出さないようにしている。
「そうか。…俺ははっきり覚えてるんだ。たぶん、先生が言った時にはすぐ理解できなかったんだけど、その後、『ああ、そういうことか』って、すげぇ感動したからだと思う」
「それで?」
「……それだけ」
了解。それだけにしといてくれ。今日はお前ともう話さない。学校に着くまで二人とも何もしゃべらなかった。
中学から高校ってそんな大きなステップじゃないのかもしれないな。
高校生になった実感がわかないまま入学してからもう一か月が過ぎた。俺はサッカー部に入部しクラスにもなじんだ。まったくもって平穏な日々だった。まだクラスになじんでいないのは黒田ぐらいだ。ちょっとクラスで浮いている存在だ。どんな風に浮いているかっていうと、まぁ休み時間に勉強しているのはあいつぐらいで、授業を全く聞いていないのもあいつと、松田くらいだ。
もう一つ、黒田に関して上げることがあるとすれば、休み時間に同じクラスの石田が黒田を殴ったことだ。石田は調子に乗った奴で髪をばれない程度に茶色に染めている。俺はこういう風に変に不良ぶった奴が嫌いだ。染めんなら見つかることビビんなよって言いたくなる。
俺はその時トイレに行っていたから実際どんな風だったかは見ていないし、見てたやつもよく分からないらしい。
あの時連が二人のけんかを止めたらしいけど何があったのかは教えてくれない。
黒田は人に頼るのを嫌がるから、俺たちも声をかけたりしない。あいつはもう完全に自分の殻に閉じこもっちまった。どうしちまったんだろうなあいつは。
一か月も過ぎると、ちらほらカップルができてくるもんだ。俺も一度は女の子とデートしたり、肩を並べて下校したりしてみたいんだけど恋愛というものに関しての知識も経験もまるでない。○○と○○が付き合ってると、言ううわさを聞くたびにうらやましさと、なぜか焦りのようなものを感じる高校生は俺だけではないかもしれない。クラスにはそれなりに可愛い子がいるんだけど、なかなか自分からは話しかけられない。こういうときに自然に話しかけられる奴って羨ましい。
「このままだと、一生童貞卒業できねぇなぁ」
トイレに向かって廊下を歩きながら遠藤にぼやいた。
「ああ、君童貞なの?」
「えっ? お前は?」
もしかしたら、遠藤は違うのかも。なんか焦るな。だって、まだ俺たち十五だぜ?
でも、遠藤の人気は絶大だ。なんたって白鷺校のジャスティン・ビーバー的存在だから女に不足はないし中学の時にしたとしても……。
「……ノーコメント」
うざっ!
「お前なんだよそれ! 教えろよ!」
遠藤に問い詰めようとした時、一人の女の子とすれ違った。
心臓が一瞬止まった。
なんだこの子は!
きりっとした眉、パッチリ開いた大きな目、透き通るようなきれいな肌。顔の全てが完璧だった。彼女の姿が目に焼き付く。
彼女が通り過ぎた。一瞬だった。でも、やばい。
ばれないように鼻から深呼吸をして匂いを嗅いだ。
いやいや、何やってんだ俺は。
やばい、やばい。頭がオーバーヒートしている。
まだ心臓がバクバクしてる。
なんだあの子?
天使かぁ??
「…ちょ遠藤! さっきの子誰?」
隣を向いて遠藤に聞く。
「ああ、あの子? 七組の藤井佐紀さんだよ。可愛いね」
全てを察したように遠藤が言った。
「あんな可愛い子見たことない」
「かなり人気だよ。男子の間で」
「まだ、彼氏はいないのかな」
「いたらすぐに広まるし。まだいないんじゃないかな」
そうかよかった。安心する。
「どうした? 一日惚れか?」
「ああ」
そうです。僕は恋に落ちてしまいました。
くすくすっと笑う遠藤に俺は宣言せずにはいられなかった。
「俺、あの子狙うわ」
そうだ、俺は真剣だ。マジで一目惚れしちまった。今すぐにでも追いかけたいぐらいだ。あの子をお嫁にできるなら何でもする。それぐらい惹かれるものがあった。
俺のクソ真面目な顔を見てまた遠藤はおかしそうに笑うと言った。
「そうか、がんばれよ岸田」
「がんばれよ、遠藤」
「はい。がんばります」
後半の十分を過ぎたところで、監督の小島は二年のFWの風間先輩と僕を交代した。二年対三年の紅白戦、一年生なのは僕だけだけど、プレッシャーは感じない。受験勉強からやっと解放され、久しぶりの試合に胸が高鳴る。心地よい興奮をと緊張を全身で感じる。0対0の均衡した試合。残り十分でどれだけFWとして活躍できるか。実力の見せ所だ。さっきからこの試合を見ていたけど、お世辞にもうまいとは言えない人ばかりだった。とにかく、判断が遅い。トラップしてから周りを見てパス。トラップする前に判断しとけよと、言いたくなる。ミスで均衡が成り立ってる感じだ。
入ってからしばらく、味方のプレーに苛立った。パスを要求しても出す前に取られたり、ミスしたりで全然ボールが回ってこない。サッカーの悪いところは、人数が多すぎることだ。ただでさえ、ボールに触るチャンスは少ないのに。外で見ているときよりはっきりしたのは、味方にスルーパスができる選手がいないことだ。しばらくしてから、やっと僕に出たパスは追いつく前にハイドラインを割ってしまった。転がっていくボールを見ながら、ふぅとため息をつく、怒りを抑える時の癖だ。「すまん、遠藤」と言う声に手を上げてこたる。さすがに笑顔を見せるほどの余裕はない。
前に蹴ってもらってスピード勝負しよう思っていたけどちょっと無理だな。
個人技で勝負しようと決めた。
センターラインを少し超えたところから、やっと味方のMFからまともパスがきた。相手のCBを両手で押さえつけトラップする。僕からのパスをもらおうと走ってきたLMFを目の端で捉えた。せっかくのチャンスだけどパスしてもすぐにとられそうな気がした。パス。ごめん、フェイク。ボールをまたぐ。騙された相手のCBのパスカットしようとして出した脚が見事なトンネルをつくった。そのまま跨いだ足のアウトでちょんとボールをつついて、トンネルを通し、ドリブルでゴールに向かう。横からすぐにもう一人のCBがボールを取に来た。左手で必死にハンドオフ。相手のCBはかなりフィジカルが強い。押しつぶされる。逃げ場は前にしかない。こいつを抜けばGKと一対一だ。僕は大きく前にボールを出した。
よーいドン。
全力で前に出したボールに向かう。体を相手のCBの前に入れられれば、僕の勝ちだ。全力疾走。風の通り過ぎる音と相手の荒い息使いが聞こえる。思ったよりボールを蹴りすぎたみたいで、ゴールエリアにどんどん近づいていく。相手のGKが前に出てくるのが分かった。このままだとクリアされてしまう。
やっと相手のCBを振り切って体を入れた。GKがボールをクリアする前に…。
ほぼ同時にボールに追いつきそうだと思ったがGKの方が少しだけ早かった。GKが大きく足を振り振り上げるのが見えた瞬間、僕は反射的にジャンプして背を向けた。
バシッ。
お尻にボールが当たる。よしっ、防いだ。衝撃だけで痛みは感じない。ジャンプしたまま今度は正面を向く。着地。僕は忍者みたいに一回転したわけだ。体を張って防いだボールはGKとゴールの前で一度バウンドした。浮いたボールがスローモーションに見える。僕はすかさずゴールに向かってボールを頭突きした。カシャッと、シャッターを切ったみたいに目の前の光景が止まった。ボールがネットに突き刺さった光景だった。
ゴール。1対0。
「ナイス」
「よくやった」
「サンキュー」
先輩が次々に声を掛けてくれた。勝利の雄たけびを上げたいところだが、生意気に思われるのは嫌なのでやめた。どうだ? 見たか? これが格の違いってやつだ。と、言いたいところだけど代わりにクールに微笑んでみせる。
「遠藤」
自分のポジションに戻る途中、小島が声を掛けてきた。
「はい」
「ボール前に出し過ぎだ。うまいキーパーならサイドにクリアされてたぞ」
威張りやがって。点決めたんだから素直に褒めろ。
「はい」
一応返事はしておく。
僕はどうもこの監督が嫌いだ。小島一樹。二十五歳。まだ講師の身分。気取ってるところがまじうざい。
「しかし、ヘディングはよかったぞ」
なにが「しかし」だ。
「…はい」
小島は大きく頷くと、パス練習をしている一年の方を向いて吠えた。
「大島! 松田! 岸田! 入れ」
白鷺東中学校の出身の連中だ。一年の部員は十五人いるけど、あいつらは三人飛びぬけてうまい。受験のブランクを全く感じさせない。スタミナがある。
小島は二年の方を向いて交代するメンバーを告げた。名前を呼ばれた先輩が少し悔しそうに外にでていく。一年生にポジションを奪われる可能性を感じているんだろう。大島連、松田将太、岸田祐樹が入ってきた。後、残り時間は十分くらい。このまま三人の力を借りれば逃げ切るのは難しくない。
ホイッスが鳴った。相手のキックオフ。
しばらく、相手の攻撃が続いた。DFとして入った岸田は堅実なプレーで攻撃を防いでいる。おっすごい、と思ったのは、岸田が相手のFWに抜かれた後、大胆なスライディングで相手を止めたことだ。ゲームのように鮮やかなスライディングだった。その後、僕をもっと感心させたのはスライディングをしてこかした相手のFWをそのまま無視してプレーを続けたことだった。もちろんファールではない。でも、相手は三年生だし普通の子ならびびって謝るところを、相手は相手と割り切る強い姿勢にDFとしての素質を感じた。 かなりの時間がすぎてもうすぐ試合終了だと、思った時、相手が決定的なチャンスを作った。相手のFWはワン・ツーでMFを抜くとミドルシュートを放った。が、岸田がまたしてもスライディングでFWのシュートを防いだ。跳ね返ったボールに相手のFWとGKが反応する。軌道が変わったボールは真上に上がり、それをGKの杉本先輩が難なくキャッチした。均衡した試合は、この相手の攻撃で幕を閉じるかと思った。
「GK! パス!」
はっとして声のした方を見るとサイドラインぎりぎりを走りながら、連が自分の前にできたスペースを指さし叫んでいる。
カウンターのチャンス。
キャッチした後、倒れこんだ杉本先輩はすぐさま起き上がると、そのスペースに思いっきりボールを投げ込んだ。いける。反射的に体が動いた。ゴールに向かってダッシュをすると、相手のCBが僕に気付いて後を追ってきた。
ラストチャンス。
見えているのはゴールだけ。間に合うか?
苦しさは感じない。ただわくわくする。抑えきれない楽しみが僕の足を動かす。得点できるという直感がした。
ハーフウェイラインを超えた。
左の後方に松田も走っているのを感じた。相手のDFを振り切ろうと連はドリブルで縦に勝負している。
センターサークルを超えた。
連がDFを抜きさった。僕もマークについてきたCBを引き離す。こっちは松田と連と俺。相手のディフェンスはもう二人しかいなかった。数的優位だ。DFが僕をマークしに来た。
ペナルティーアークに踏み込んだとき、連がクライフターンで相手をかわし、中に切り込んで来るのが見えた。
こい! パスだ!
連が僕に向かってインサイドでボールを蹴る。
ゴールを見た。
うわ、やばっ……。
どうやら僕は連に近づきすぎたらしい。シュートを打つには角度がなさすぎるポジションにいた。しかしすでに、グラウンダーのパスは地面を滑って、俺のところに向かってきている。
もう間に合わない。とにかくシュートだ、と思った時。
「スルー!」
と、後ろで声がした。
キックフェイントからのスルー。即席でつくったトンネルにボールが抜けていった。DFを完全に騙せた。振り向くと同時に走りこんできた松本がシュートを打つのが見えた。松本をノーマークにしていたGKは慌ててダイヴをしたが間に合わなかった。
ネットが大きく揺れる。
2対0。
勝った。
ゴールした瞬間、あふれだす感情、達成感。今までのミスや苦しさも全て忘れ勝ったという事実だけが頭の中に残る。
勝った!
「よっしゃあ!」
後ろで大きな歓声が聞こえた。
「はい。ここで大島連選手にインタビューです。大島選手、試合を終えての感想をお願いします」
「そうですねぇ。まあ、いい試合ができたと思います」
「初めての実戦と言うことで、ディフェンスのコミュニケーションの面での不安というのありましたか?」
「いいえ。全体的にいい関係でできたと思います」
「そうですか。七組の…長谷川さんともいい関係と言ううわさがあいますが、実際どうなんですか?」
「……今度の日曜日デートです。て、関係ないだろ!」
あちこちから爆笑がおこった。荒れたグラウンドをトンボを引きずって整備しながら、さっきから一年のムードメーカーの岡本がインタビューをして周りを楽しませている。なぜかこの部活は1年だけがグランド整備しなければいけない規則らしい。でも、岡本はそんなこと全く不満に思ってないらしく普段の冗舌を使って暴走インタビュアーと化していた。
「続いて、高橋選手。今日の活躍をご自身、振り返って見てどうですか?」
「そうですねぇ。……まぁ僕はボール拾いだったので……」
「たくさん拾えましたか?」
「……まぁ、それなりに……」
「これからは試合にでるチャンスも拾っていきたい! と、言った意気込みですね!」
なぜかどや顔の岡本に
「全然うまくねぇよ」
と、高橋がすかさずツッコミまた笑いが起きた。
「えー、続きまして、我が白鷺高校の誇る天才。松田選手。前回は相対性理論について分かりやすく講義していただきました。今日は得点した時の心境を相対性理論を用いてお願いします」
「そうですねぇ……」
かなりの難題をどう対処するか、みんな興味深そうに松田を見た。
「……ボールがゴールのネットを揺らしたとき、まさに、物質が周囲の時空をゆがめることのヴィジュアル化に成功したと思いましたね。慣性質量と重力質量の関係が比例しているのはネットのゆがみ具合、そして、ボールの速さから……」
「続いては、今日のMVP。遠藤選手」
話続ける松田を無視して岡本がくるりとこっちを向いた。松田を使って笑いを取る時のお決まりのパターンだ。待っていたかのようにみんながどっと沸いた。
「Jリーグの某チームからこの白鷺高校サッカー部に移籍してきた動機はいったいなんですか」
「このチームに将来性を感じたからですかね」
「特に一年生には優秀な選手がいますよね。ところで、遠藤選手は先日小島監督のうざさに限界を感じクーデターを起こそうとしたと聞いていますが? 世界の情勢からしてもそれは自然なことでしょうか?」
「ノーコメント」
「しばらく、我慢はできると?」
「まぁ、そうですね」
「遠藤選手は現在学年三位の成績。イケメン。女子からもモテモテ。すばらしい高校デビューを果たした、と言っても過言ではないのでしょうか?」
うざい、うざい。
「はぁ、まぁ」
「羨ましいですねぇ。また、最近飛び交っている噂では遠藤選手は中学で童貞を捨てたとありますが」
ったく高校に安全な情報の金庫はないもんだな。
「ええ、まぁ」
ひゅうひゅうと、はやし立てる声が聞こえた。ここでは童貞を捨てた人間と成績が上位十位以内の人間はバラモンとしてあがめられる。キスしたことのある人、成績が二十位以内その他、イケメンなどのアドバンテージのある人はクシャトリアと言った具合で続いている。そう高校にはカースト制が根づいているんだ。それが表面化しているのはこのサッカー部のなかだけだけど。
「ええっ! ホントだったのかよ遠藤!」
と、岸田がびっくりしたように言うと
「シュードラは黙ってろ!」
と、クシャトリアの連が突っ込んでまた笑いがおこった。
あった言う間にグランド整備が終わってみんな部室塔に向かった。
一年はまだ部室に入ることができないから部室塔の脇で服を着替える。きれいな西日が視界に入る光景をオレンジ色に染めている。心地よい疲労を感じた。一年はとてもいい雰囲気だ。いつも笑いが絶えない。特に練習後に漂う平和というか幸福と言うのか、和やかな雰囲気には癒される。時々風に運ばれて漂う汗やソックスの匂いを除けばだが。
「連、ちょっと相談があるんだけど……」
岸田が連に話しかけている。
「何だ? 何の相談?」
「恋」
「おお!」
恋と聞いて連のテンションが一気に上がった。なんでも、連は十四歳で童貞を捨てたという。自称恋愛のエキスパートの肩書を持っている。(童貞を捨てたという事実は証言者から確認済み)
「それで?」
「いや、ちょっと気になる人がいるんだけど」
「誰だ?」
「七組の萩原さん」
「ほう。あの子か。なかなかのチャレンジャーだな。鬼頭先生の教えか?」
鬼頭先生というのは、A中学校のサッカー部の監督。この人は一日に十六キロ走らせたり、一階から屋上までの階段を五十往復させたり、試合のコートの周りを手押し車させた挙句、手のひらの皮が剥がれた人を出すという鬼監督ぶりを発揮していたらしい。でも、鍛えられたA中学出身の三人を見ると、その話は嘘ではなさそうだ。
「お前、あの子と接点あるのか?」
「ない」
「じゃ、なんで?」
「一目ぼれ」
連はふーっと息を吐き出した。
「君、恋愛経験ないからねぇ。恋愛経験ない奴は一目ぼれした恋はなかなか実らないんだ。とにかく……忍耐だ。忍耐強くいけよ。いきなり話しかける奴もいるけど、お前のルックスじゃ無理だ。……いや悪い、お前のフェイスはよくて普通、悪くて……も普通だ。うん……そうだな、まず彼女のメルアドを手に入れろ。七組の仲がいい男子と話す。その男子と仲がいい女子と話す。その女子と仲がいい女子と話す。それを繰り返す。そしたら、なんとなく近づくだろ?」
「うん。まぁ、そうだけど」
「そうだけど、なんだ? 不満なのか? これが一番オーソドックスな方法だぞ」
「いや、もっと画期的な方法があるのかと……」
「画期的な……」
考え込むように連はわざとらしく腕を組んだ。
「ないわけではない。しかし、この方法は……」
「なんだよ。教えろよ」
岸田がじれったそうに聞いた。いつの間にかみんなも連に耳を傾けていた。
「そこまで言うなら……。鍵となるのはな……フェロモンだよ」
「は?」
は? 何だそれ?
連は咳払いをすると続けた。
「いいか? 性フェロモンはメスをひきつけるんだ。人間も他の動物もフェロモンを出してるんだけど、それには個人差があるわけ。より多くのフェロモンを出せば女の子の気を引きやすくなるんだ」
「それって匂い?」
「いや、匂いとはちょっと違うらしい。でも、動物はみんな感じ取るセンサーみたいなのがあるんだと。んで、そのフェロモンのだしかたなんだけど」
なんだか、よく分からないが……。
「……禁欲するんだ」
「どういうこと?」
「マスターベーションをしないってことだ」
まじかよっと、言う声が周りから次々に聞こえた。
「つまり、オナニーしなけりゃそのフェロモンって言うのがでて、女子が寄ってきて彼女ができるって話か?」
僕言うと連が大きく頷いた。でも、どうしてそうなるんだ?
「動物の生存目的は子孫を残すことだ。だから、セックスするっていうことが人生最大の目標なんだ。しかし、人間はセックスする相手がいないと自慰という行為にでる。そこで、だ」
ここでみんなの注目を一段と上げるため連はすこし間を取った。
「もし、自慰行為にでないでいると、体はそれに反応するんだ。『このままじゃやばい。セックスできないと子孫のこせねぇ』と。だから、『よーし。メスをひきつけるぞぉ』と、体がフェロモンを出してメスを誘惑するわけだ」
ほぉーとか、なるほど、という感心の声が上がった。
「だって考えてみろ」
連が続けた。
「射精した時の精子の速さは秒速十二キロもあるんだぜ。しかも、一回の射精でだいたい二億五千万個の精子がでるんだ。これは日本の人口の約二倍だ。そんな、破壊力持ったもんを俺たちは持っているんだ。その力もってしてなぜ女子の一人や二人ひきつけられん!」
連の講演が終わると観客から熱い拍手が送られた。僕にはかなり胡散臭そうに思えてしかたないのだが……。それにしても、連の知識はすごい。
岸田もなんだか納得いかないというか信用できないと言う目で連を見ていた。
「なんか不安だなぁ」
岸田が呟いた。
「どうして、そんなに悩むんだよ?」
僕は浮いた顔の岸田に聞いた。
「だってこいつ恋愛経験ないもん」
連が笑いながら代わりに答える。
「あの部活漬けの中学時代でできるかよ。なんで、お前だけあるんだ?」
岸田がちょっと怒ったように言った。
「俺、部活終わった後、ちょっと荒れた時期があっただろ。あん時にいろいろしまくった」
「どんなこと?」
連に聞いた。
「セックスに煙草に酒に…アルコール全般、バイク乗ったり、アルバイトしたり。万引きとか、まぁ馬鹿なこともいっぱいしたな。」
どうしてそんなことしたんだ? と聞くと、連の表情が少し険しくなった。
「あの時はいろいろあったんだよ」
松田が静かに言った。
この三人にしか分からないことがあるらしい。
いつのまにか部室塔の影が長くなっていた。渇いた風が鼻をくすぐった。思わずくしゃみが出そうになった。反射的に太陽を探したが、もう地平線に隠れようとしていた。
第一章(続)
はっくしゅん。
「花粉症」
と、呟いてから鼻をすする。
この道をこれから三年間毎日通うのかと思うと、気分が悪くなる。
くそっ、こんなはずじゃなかったのに。
合格発表から三日がたった。受験番号を探す時の緊張感。そして、見つからなかった時の押し寄せる焦燥感。
今でも鮮明に思い出せる。
自分が落ちたことを知った後、重い足取りでSゼミナールに向かった。どんなに気が向かなくても、塾の先生には報告しないといけない。
塾に入ってすぐに出会った塾長の山本先生に前置きなしにつげた。
「落ちました」
山本先生の顔が少しく曇った。
「……そうか」
山本先生は俺の肩に手を伸ばすとそっと叩いた。
「大丈夫。そんなに気にすることじゃない」
「……はい」
「これからどうするんだね? 高校からも塾はつづけるのかい?」
「はい。そのつもりです」
「そうか。……高校は新たなステージだ。新たな目標を持ったらいい。大学受験は平等だ。内申点などくだらないものは関係ないからね。君の実力次第でどこへでもいける。高校受験に失敗した人でもがんばって一流大学に言った人もいるからね。君はどこに行きたいとか、目標はあるのかい?」
「東大です」
ここに来る途中に考えていたことだった。
もう決めた。どれだけむずかしかろうが今度は絶対に受かってみせる。
「ほう。東大か」
山本先生は品定めするように俺を見た。俺も力強く見つめ返した。
「はい」
「なぜだね?」
「何にでもなれる気がするんです。もし、日本一の大学に受かれば……」
「確かに自信にはなるね……うん」
まだなにか言いたそうに山本先生は口を閉じた。
「君は白鷺高校にいくことになったんだね」
「はい」
「『一流高校のビリにいるよりは、二流高校のトップにいる方がいい』と、聞いたことはあると思うけど、私はそうは思はないんだ。まぁ君も白鷺高にいけば分かると思うが、高校によって授業のレベルも進む速さも違うんだ。一流高校のビリはがんばったら、一流大学にいけるが、二流高校のトップがいくら頑張っても二流のままなんだよ」
「覚悟はできてます」
「それは分かってる。でも、どれだけ難しいか知っておいてほしいんだ。私も高校の時君と同じような状況にいたからね。まぁ、私の場合落ちたけど。……だからこそ二流の高校から東大に行くことがどれだけ難しいのか知っておいてほしいんだ。たとえば、一流の私立高校はほとんど全ての教科を三年生の夏までには教えきってしまう。それに受験重視の授業ばっかりだ。それも難関大学にむけての。公立の馬鹿教師なんて一人もいないしね。君はそんな学校の子たちと勝負するんだよ?」
「……どうすればいいですか?」
「彼らに追いつこうと思えば……、まぁ、それなりのことはしないといけないだろうね」
それなりのこと?
「なぁお前は高校で何が一番したい?」
はっとして隣を歩いている岸田を見た。もう高校生活に思いをはせている岸田に無性に腹が立つ。
なんだお前は悔しくないのか?
「別に何も」
高校で何がしたい?
行きたくねぇよ。あんな二流高校。
「部活は? 部活には入るだろ?」
再び岸田が問う。
入るわけないだろう。あんな思い二度といやだ。
話しかけてくる岸田が鬱陶しい。
なぜこんなにも考え方が違うのだろう? 三年間一緒に部活をしてきたのに。
普通になんかなりたくない。
お前もそう思はないか?
自分の可能性を青春につぎ込むなんて凡人がすればいいことだ。
俺は違う。二流の人生なんか送りたくない。でも、お前は……。
この日以来、岸田とは会話をしていない。
白鷺高校は思ったよりひどかった。まず初めに俺が苦悶の呻き声を漏らしたのは、数学の黄色チャートが配られたときだった。黄色チャートは二流の象徴だ。
そして、授業。
遅すぎる。
やっと、山本先生の言っていたことが分かった。
「それなりのことはしないといけない」
授業はすべて放棄した。
もう二流に構ってられない。俺の邪魔をしないでくれ。こんな授業に付き合ってられない。
授業はすべて内職をすることにした。副教科以外は授業と同じ教科を自分で勉強する。今のところ特に支障はない。自分でやる方が早く理解できた。このままなら、まだ我慢できたかもしれない。だが、二週間を過ぎたあたりから数人の先生が授業中に内職する俺に注意し始めた。
二時間目 古文。
古文の小田はうざい教師だ。毎回俺に注意をして来る。もう我慢の限界だった。どうせ今日も……。予感は的中した。授業が始まって五分もたたずに小田が俺の机に来て言った。
「黒田君。なにやってるの?」
小学生を諭すよう口調に余計に腹が立つ。クラスにクスクス笑いが広がる。体が熱くなる。
「勉強です」
机の前で俺を見下ろす古文の小田先生に俯いたまま答える。
お決まりのセリフだ。
「今何する時間?」
なんで教師はこんなにも馬鹿なんだ?
高校受験を失敗すればもう取り返しはつかないのか? 一流の大学を受かりたいと思ってはいけないのか?
もうほっといてくれ!
「…………ほっとけよ……」
こころの叫びが声になって出た。
「はい? なんて言いましたぁ?」
挑発する小田にとうとう俺はぶちぎれた。
顔を上げる。厚化粧の小田の顔が近くにあった。かすかに甘ったるい香水の匂いがした。
「ほっとけよ!」
教師に向かって怒鳴ったのは初めてだ。小田も教師になって怒鳴られたのは初めてなのだろう。びくっとして机から離れた。
こいつ殺してやろうか。
「は……はい?」
「だからほっとけって。お前何様のつもりなんだよボケっ。毎回毎回注意しやがって。お前の授業遅すぎんだよ! お前の授業が本当によかったら授業聞いてなくて困るのは俺だろ? 別に良くないけど。なんで、いちいち注意するんだよ? お前が変なプライドあるからだろうが? 俺が何してようとお前には関係ないだろうが? こんな二流の授業に合わせてる暇ないんだよ!」
ここまで言って後は小田を睨み付けた。以外にも小田は黙って教卓に戻った。
なぜか心臓が強く脈打っている。自分で言ったこととは信じられない。
罪悪感に似た感情が心にしみをつくった。
「えっえー、はい、そ、それではぁ、はい。えー授業は何ページからかな……?」
何事もなかったかのように、授業が再開された。クラスのみんなも何もなかったかのように黙って教科書を開き始めた。
本当に何もなかったんじゃないかと思えるくらい小田はいつも通りに授業を進めた。少しほっとする。
言い過ぎたような気がした。
でも、悪いのは俺じゃない。
俺は正論を言ったはずだ。
一クラス、普通に考えて四十人が四十人同じ授業を受けられるわけがない。どうして、頭のいい奴が、馬鹿な奴に合わせないといけない? どうして、自分に合った授業が受けられない? 間違ってんのは教育のシステムだ。だから、俺は自分で勉強している。教師が本当に良い授業をしているなら俺も聞く気になる。だけど、なぜカスみたいな授業を聞かなきゃならないんだ?
塾の存在が日本の教育が腐っているのを示している。
教師がちゃんと授業をしていたら塾なんてない。
みんな学校の授業が分からないから、もしくは、レベルが低いから塾に行って勉強する。塾の先生の方がよっぽど熱心に教えてくれる。
まったく、……俺はここでなにをしてるんだろう?
小田の授業が終わった。結局ぜんぜん勉強に集中できなかった。小田に呼び出されるのかと思ったけど何もなかった。いつもより騒がしい休み時間がはじまった。数人の女子が近くで俺のことを言っているのが聞こえた。
「ねぇ、さっきのヤバくなかった?」
「うん。びっくりした」
黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。黙れ。
聞こえないように言ってくれ。頼むから。
「ってか、あの人の名前なに?」
「えー! クラスの人の名前も知らないの?」
「あっ黒田だ。思い出した」
「そうそう。なんかさぁ、聞いた話だけど、あの子東大目指してるんだってぇ」
どっからの情報だよ。ったく、高校ほど噂がすぐ広まるコミュニティはねぇな。
「えっそうなの?」
男の声が混じった。この声は石田だ。こいつも同じ高校を受けて落ちた。
「ええっ石田も知らなかったの?」
机に広げた問題集に全然集中できない。
「知らない、知らない。聞いてこよっかな」
来るな。頼むから。
シャーペンを握りしめる。汗で滑るのを感じた。
「よーっ黒田」
肩を叩かれるのを感じた。触んなよ。
顔を上げると、石田の顔があった。高校に入ってすぐ染めた茶髪に目がいく。この下等生物が。こんなバカと同じ空気を吸っていると思うと虫唾が走る。
「……何?」
「なぁ、さっき聞いたんだけど東大目指してるんだって?」
「だったらなんだよ」
「いや、すげぇーっと思って」
こいつ絶対俺のこと挑発してるな。
「でも、この高校最高でも神大だぜ」
「……知ってるよ」
「がんばるんだなぁ」
「お前はいいのか?」
「何が?」
何がって? こいつも……
「このまま、負け犬のまま三年間過ごすのか?」
「はっ? 負け犬」
石田の顔色が変わるのを見た。不気味な快感だった。
「そうだ。負け犬だよ。茶髪に染めてちゃらちゃらして威張ってもお前は負け犬だ」
「お前、なにがんばってちゃってんの? そういうの気持ち悪いんですけどぉ」
「……がんばれない自分が情けなくないか?」
「お前うざいんだけど」
「勉強できない奴がわめくな」
「お前も高校落ちただろうが!」
「……お前は今も落ち続けてるけどな? せいぜい底辺まで落ちればいいさ」
結構うまい返しだと思って、ここで話を切ろうした。瞬間、隣の机が見えた。
「お前ふざけんなよっ」
自分が殴られたのが一瞬分からなかった。不思議と痛みはない。
「なんだよ? お前」
石田を睨む。殴られた頬が痛くなってきた。激しい動機がした。
良いとこ見せたいのか知らないけど、 殴ったのはきっと女子が見てるからだろう。
石田は中学の時けんかするような奴じゃなかった。むしろ、いじられてたやつだ。ましてや、自分からけんかを仕掛けるなんて……高校デビューか?
デビューするのはいいけど、俺を踏み台にするのは許さねぇ。
立ち上がって鼻がぶつかるくらい顔を近づける。
「やれよ。もっと殴れよ」
「は?」
石田が慌る。
「いいから、殴れよ? 殴りたいんだろ? 高校デビューしろよ」
「何言ってんだよ。気持ち悪いんだよ」
くそっ、なんで俺が殴られないといけないんだよ。
気付くと、喉がちぎれるくらい叫んでいた。
「おい! こらぁ! 殴れっていってんだろうがぁ! もう一発殴ってみろよ!」
教室全体が水を打ったように静まった。
みんながこっちを見ているのを感じる。
いつの間にかつかんでいた石田の襟首をゆする。
「やってみろよ! おい!」
石田の表情は凍り付いていた。
俺を殴るまで離さない。
もう一度殴れるもんなら殴ってみろ。
高校デビューしろよ?
突然、誰かが俺の手を石田から引き離そうとした。
誰だ? 邪魔すんな!
振り向くと、連がいた。
「おい。黒田辞めとけ」
できるだけ静かな声で言う。殴られた黒田をここで止めるのは酷な気もした。
黒田はちょっと驚いた顔で俺を見る。
「やめとけ」
俺がもう一度言うと、渋々といった感じで石田から手を放した。
石田が引きつった顔のまま、引き下がった。
これで、一件落着。
正直あのまま見てた方がよかったけど、黒田の性格上一度始めると納得するまでやめないから早く辞めさせたほうがいいと思った。
数秒ののち、がやがやと、クラスにざわめきが戻った。
黒田は俺を見つめていた。
「……何で?」
黒田が言った。
「何が何で?」
「どうして、止めたんだよ? 俺が石田を殴ると思ったのか?」
黒田は椅子を直して、机に向かい合った。俺も黒田の机の前に移動する。
「いや。殴るとは思はなかったけど。どうして、お前が『殴れ』って言ったんだ」
「殴れないだろ? あいつ。本当は弱いくせに強がってるから、試してみたかったんだ」
「ふーん。もし、あいつがまた、殴ってたらやり返してたか?」
ははっと、黒田は冷ややかに軽く笑うと、
「あんな低能な奴相手にしない」
と、言った。
低能か……。
「……勉強しない奴は低能か?」
たぶんそう思っているんだろうなこいつは。そう思っていても腹は立たないけど。
「……別に」
「思ってんだろ? この高校自体…」
「思ってない」
黒田がはっきり言い切った。
「……低能っていうのは馬鹿な奴のことだ」
「やっぱり……」
「俺の言ってる『馬鹿』って言うのはさ、『可能性』が見えてない奴だよ」
「カノウセイ?」
「そう。今から三年間あればなんだってできるんだ。お前もそう思うだろ? それなのにそれが分かってない奴が多すぎる。ここにいる高校生はさ、可能性に充ち溢れすぎてそれ自体見えてないんだよ。そこにあるのが普通だと思ってんだ。でも、それもだんだんなくなってく。で、気づいた時には時すでに遅しって感じだな。そういう奴らを馬鹿だと思ってるんだ。」
殴られたところが痛いのか黒田は顔をしかめた。
「じゃあお前は高校三年間勉強だけして過ごすのか? その『可能性』を無駄にしないために?」
「そういうことだ」
「部活にも入らずに?」
「……大学受験は一発勝負なんだ。落ちればそれでおしまい。そのリスク知りながら、部活入っている余裕はない。よく文武両道っていうけどさ、そんなのする必要あるか? 普通に考えて部活してない方が合格率上がる。連もそう思うだろう?」
確かにそうかもしれない。でも……。
「そこまでする必要ないと思うけどな」
「……いや、まぁこれは落ちた罰だな。高校受験は取り返しのつかない制度だから。高校間での学力の差が激しすぎるからしかたない。ほんと、負け犬の遠吠えだけど、中高一貫にすればいいのにって思うよ。どうしてやり直しがきかないのかわかんねぇ」
黒田は舌打ちをして、また顔をしかめた。
「でも、連はこのまま普通に部活して満足いくのか?」
「どういう意味だ?」
「……分かるだろ?」
俺には黒田の言うことが分かる気がする。でも……、
焦る必要なんてないんじゃないか? と黒田に伝えたい。
「……なぁ、『夜のピクニック』って本知ってる?」
「知らない。なにその本?」
黒田が読めば俺の言いたいことが伝わるだろうか?
「つまりさ、その作者が言いたいのは『青春は大切にしろ。二度と戻ってこないものなんだから』っていうことだ」
黒田は馬鹿にしたように冷ややかに笑った。
「はっ、その作者にあったら言ってやるよ『青春は将来への妥協だ』ってな」
ったくこいつは……。
「……お前はな」
俺が言う前に黒田が口を開いた。
「連はさぁ、最後の大会で鬼頭先生の言ったこと覚えてる?」
先生の言ったこと?
「『常にチャレンジャーでおれ。挫折しても、いままでの地獄にくらべたらましやって思えるはずや。全力出し切れへん人生なんておもろないやろ?』か?」
俺が言うと黒田が初めて少し微笑んで頷いた。
「そう。『地獄』って練習のことだろ? 『あの練習のしんどさに比べたら、たいていのことは大したことないと思えるだろう』って先生は言いたかったんだ」
「それで?」
「……いまのところその通りだね。あの頃のことを思い出したら今なんでも耐えられる。だから、俺は苦しい道を選んだんだ。それに、部活にはいったらあの頃から変われない気がするんだ。チャレンジャーでいられなくなるだろう?」
そうなのか?
違うとは言い切れない。
心の奥では黒田が正しいと思っているのかもしれない。
苦しい道を選んだ?
俺はこのままでいいのか?
このまま「普通」に三年間を過ごすのか?
心の中がざわめき始めた時、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。
キーンコーンカーンコーン。
「下校時間10分前になりました。学校にいる生徒はすぐに下校しなさい。繰り返します……」
最近市内の小学校の近くで不審者が出たということで、六時二十分なるといつもこの放送が流れる。いつもは、サッカー部のみんなは無視するんだけど、今日はみんな帰る準備をするのが早い。グラウンドに残っているのは、俊と連と岸田と僕だけだ。
「やっぱそれはちょっと……」
岸田が嘆くように言っているのが聞こえた。
岸田の恋の悩みは深刻みたいだな。僕はよくわからないんだけど。俊と連がどんなにアドバイスしても、効果がないみたいなんだ。そんなに悩むものなのかな?
岸田に言わせると、一目ぼれした相手、藤井佐紀さんに、もしアプローチの仕方を間違えて嫌われたら自殺するくらい落ち込むから、そんな危険を冒すぐらいなら遠くから眺めていた方がましなのだけど、彼女に近づかざるを得ないくらい激しい恋をしてしまっているから、なんとか頑張りたい、ということで、かなり安全かつ効果のあるアプローチのしかたはないものかと、二人に聞いているんだけれど、そんな都合のいい方法はないんじゃないかな。
「松田も頭良いんだから何か言ってやれよ」
連が言った。
連は何かにつけて「頭良いんだから」と言って僕に何かを要求する。それを聞くたびになんだかむず痒い思いになる。
「僕には分からないよ」
「ほう、天才にも分からないことがあるんだなぁ」
連が大げさに驚く。僕は「いじられキャラ」なんだ。一応言っておくけど。
「天才じゃないし」
「でも、学年一位じゃん」
俊が口をはさんだ。
「えっ、黒田じゃないの」
岸田が言った。
「黒田は二位」
僕が言った。
「へぇ、東大君より頭いいんだ」
「俊は黒田が東大目指してること知っているの?」
「うわさで聞いた。本当なのか?」
うわさっていうのは、高校生が唯一関心を示す情報源だ。
「うん」
「お前すげぇな、東大目指してる奴に部活やりながら勝つなんて」
遠藤が言った。
「だってこいつ天才だもん」
連が口をはさんだ。一瞬デジャヴを感じた。あっこのパターン知っている気がする。まぁ連とは長い付き合いだからね。
「自分のこと天才だと思う?」
遠藤が聞いてきた。さすがに面と向かって聞かれたことはないな。
「思わないよ」
「いや、こいつは天才なんだ」
連が強い口調で言った。
またかい?
予想してたけどね。もう、勝手にしてくれよ。
連は遠藤の方を向くと話し始めた。
「あれは忘れもしない。中学二年生の五月の……いつだっけ? 忘れた。いや、そんなことは重要でない。つまりだ、数学の授業あれは起こった。先生が授業で教科書の問題を解きましょうって言ったから俺たち普通の生徒はノートに問題を解いてたんだ。すると、松田は一人……あれなんだっけ?」
連がこっちを見た。
「アダム・スミスの『国富論』」
僕が答える。
「そうそう、そんな本を読んでるたわけ。しばらくして先生がそれに気づいて、『黒田君はもう終わったの?』て、聞いたんだ。そしたら、松田が『まだ、終わってないけど、もうだいたい分かります』と。俺たちはもちろん失笑だよ。すると先生がちょっと怒って松田を立たせたんだ。『それじゃあ、松田君。一番から答えを言ってください』て、言ったら、松田は『式も言うんですか?』って……」
俊と岸田が声を立てて笑うのにつられて僕も笑った。
「『じゃあ、式も言ってください』って先生が言うと、松田が教科書見ただけですらすら全部答えていくんだ。あれには先生もビビってたね」
「まじかよ? ちなみに全問正解?」
遠藤が聞いた。
「いや、一問だけ、単位を間違えてた」
連が代わりに答えた。遠藤が再び驚いた表情になった。一問間違えたということで現実味がでたのかな? でも、事実だし。
「すげぇな。どうして、もっと上の高校いかなかったんだ?」
「いく理由が見つからなかったんだ。強制的に勉強させられて大学のことしか頭にないようにはなりたくなかったし、ゆっくり考える時間がほしかったんだよ」
「……もったいないな。お前みたいな奴が東大いけばいいのに」
連が言った。
「なぁ松田、黒田は全然授業聞いてないけどさ、あれでも東大なんか行けると思う?」
岸田が僕に聞いた
「うん。行けるかどうかは分からないけど、やっていることは間違いじゃないんじゃないかな」
なぜそう思うのかと、尋ねる岸田に説明した。
「まず、第一にこの白鷺高校は自称『進学校』だよね。授業だって真ん中くらいの成績かそれより下の人に合わせてる。そんな授業聞いてて東大はいけないよ。公立高校は学校間での差が大きいから、高校受験を失敗したらほぼ一流大学は狙えないよ。もし、狙うなら授業放棄って形にならざるをえないね。やり直しのきかないシステムだから」
「なるほど。じゃあ、あれは嘘か『学校の授業を完璧に理解すれば東大でもどこでもいけます』って先生がよく言うやつ」
遠藤がため息交じりに言った。
「うん。『教科書を完璧に理解できたらセンターで百点取れます』っていうのも嘘だろうね」
僕が付け足した。
「『模試で点がとれても、定期テストで点を取れない人は大学受験で失敗する!』ってのは?」
むしろ逆だと思うな。そのまま音声にした。
「……思っていたより大したことないんだな、俺たちの高校」
遠藤が呟いた。
「大した高校じゃないけど、よくも悪くも普通だと思うな」
みんなしばらく話をしなかった。すっかりあたりは暗くなっている。もう下校時間はとっくに過ぎているだろうな。
そういえば岸田の恋の話からかなり脱線したな……と思った時、
「そろそろ帰ろうか」
と、遠藤が鞄をもって立ち上がった。僕らもそれに続いて駐輪所に向かった。幸い先生には見つかず怒られずに済んだ。
帰り道がちがうから岸田と遠藤とは校門でわかれた。連とはかなり家が近い。僕らは黙って自転車をこいだ。
沈黙が気にならないのは僕らの仲がいいからだろうなと、ふと思った。
「おい天才君」
少し前を行く連が振り向かずに言った。
「いや……真剣な話。黒田はどうしちまったんだろうな?」
黒田か……。彼が東大を目指す理由はなんとなく僕には理解できる気がするけどな。
「……中学の時はサッカー一筋だったのにさ」
「黒田は極度の負けず嫌いなんだよ」
連が少しだけ振り向いた。
「……確かに中学の時はそうだったな。初心者から始めたのもあったのかもしれないけど。でも、今は? 何に対して『負けず嫌い』なんだ?」
「高校受験に失敗した自分に対してじゃないかな」
「ふうん」
また、僕らは黙って自転車をこいだ。いつもの別れ道で僕らは自転車を止めた。
「なぁ、やっぱりお前は恋してみたい、とか思わないんだろうな」
連がおかしそうに言った。
「時が来れば、いずれするさ」
「……そういう冷静な意見言うと思ったよ。岸田があんなに悩んでるの理解できないだろう?」
「うん。はっきりいうとね」
「……俺はさ、お前にはああいう人間臭さってぇのがかけてる気がすんだよ」
人間臭さ?
「別にそれが悪いとはいってるわけじゃないんだけどな。お前は精神年齢が高いのか、なんか変に大人って言うか……」
連が言葉をきって難しい顔になった。連の言う言葉はナイフのように鋭く容赦なく僕に突き刺さる。それでも、聞き入ってしまうのは、たぶん連は嘘を言わないからだ。悪いこと良いこと、連は飾らずにはっきりと言う。だから僕は連の前では自分に素直になれる。
「難しいな言葉にするのは……」
「僕はさ、ただ単に焦る必要はないと思うだけなんだ。君たちはピアープレッシャーを感じすぎなんだよ。クールでいることに取りつかれてるんだと思うな」
「……そういうところだよ。そういう高校生っぽくないことをさらりと言うところがさ、ああ、俺はまだ高校生なんだって思わせるんだなぁ。いや、お前はすごいよ」
「……ありがとう」
「じゃあ、そろそろ帰るか。ばいばい」
「うん、ばいばい」
連の背中を見送っていると、少し行ったところで止まって振り向いた。
「どうしたの?」
と、声を掛けるとしばらく迷って戻ってきた。
「さっきの話だけどさ、黒田と話した時、あいつ言ってたんだ。『青春は将来への妥協だ』って。どういう意味だと思う?」
黒田がそんなことを言っていることに少し驚いた。
「『将来の充実か、高校時代の充実か、どちらかを選ぶなら俺は将来の方を選ぶ』って僕なら訳すね」
「要は『将来のために青春を犠牲にする』と?」
「そうとも言えるんじゃないかな? どうしたの急に?」
「あいつ変わったなよな」
「僕はあまりそう思わないよ。負けず嫌いの対象が変わっただけ」
「いや、そうじゃない気がするんだ。なんか鬼頭先生が言ったことがどうのこうのと……」
鬼頭先生?
「お前は、先生が最後に言ったこと覚えてる?」
「うん」
「そうか、いや、やっぱりなんでもない。うん、いいや。んじゃ、ばい」
連が背を向けて自転車をこぎ始めてた。
何が言いたかったんだろう?
鬼頭先生が最後に言った言葉?
連の自転車をこぐ背中を見送りながら、あの時のことを思い出した。
人工芝特有の匂い。
コートの向こうのかげろう。
太陽の容赦ない日差し。
今でもはっきりと覚えてる。
忘れるわけがない。
中学最後の大会。二回戦で敗退した僕らは、重い足取りで球技場を後にした。
負けたという事実が受け入れられない。
ただ、チームメイトの嗚咽や鼻をすする音がこれが事実であることを告げていた。
どうして、僕たちが?
こんなことありえない。僕は泣かなかった。
鬼頭先生は球技場を出てすぐの日陰に僕らを座らせると、初めて口を開いた。
「確かに悔しいなぁ…。でも、負けは負けや。厳しい世界やで。結果しか残らんもんなぁ。それまでの過程なんか関係ない。負けたらそれまでや。2回戦敗退。悪いけど、慰めることはできへんわ」
鬼頭先生は額の汗をぬぐった。そして、静かな口調で言った。
「でも、俺は満足してんねん。お前ら心の底から悔しい思えたやろ? 悲しいおもたやろ? それが大切なんや。テレビゲームで負けて誰が泣く? テストの結果悪かって泣く奴おるか?
何かに負けて悔しくて、悲しくて泣けることなんかほとんどないねん。
わしも三十九年間生きてきて、そんな風に泣けたことはあんまりないで。今、お前らが泣けるんは、サッカーほんまに一生懸命やってきたからなんやで……。
…その涙は恥じんでええねん。気が済むまで泣け。それが、ほんまの悔し涙や。人は簡単に悔しい、ていいようけど、ほんまもんの悔しさゆうんはこういうことや。ちゃんと覚えとくんやぞ。泣けることを誇りにおもたらええ。俺も泣けるお前らを育てることができて幸せじゃ」
僕はずっと先生を見ていた。少しずつ視界が曇り始めた。
「俺がいつも言ってたように、好きなスポーツですら死ぬ気でできん奴になんにもできん。お前らは今日サッカーを死ぬ気でできることを証明した。でも、お前らこれからどうする? サッカーなんてしょせんスポーツや。お前らは今からなにか、サッカーと同じくらい情熱をもってやることができるもん見つけてほしいねん。それは、なんであってもかまわん。いろんなもんにチャレンジしたらええ。きっと何か見つかるはずや。ほんで、それをやり遂げた時うれし泣きか悔し泣きか、どっちかができるくらい頑張れるもん見つけぇ」
もう僕の視界はぐちゃぐちゃで何も見えなかった。ただ声で先生も泣いているのが分かった。
「…お…俺もなぁ……今泣けるんは…一生懸命お前らを教えてこれたからなんやで……。お前らを……教えてこれてよかったわ……」
鬼頭先生は大きく咳払いをした。そして、力強い声で言った。
「常にチャレンジャーでおれ。挫折しても、いままでの地獄にくらべたらましやって思えるはずや。全力出し切れへん人生なんておもろないやろ?」
ああ、黒田。
そういうことか。
確かに今、チャレンジャーでいるのは君だけだね。
暗闇に目を凝らしたけど、連はもう見えなくなっていた。
Never Say Never