絡む、夏の檻
ちらちらとやわらかな雪が舞っている。
玄関の戸を開けただけで、外の世界の冷気が凍みる。僕は両手を脇の下にはさんで身をちぢめた。
黒のコオトを着こんだ青白い頬の従兄は、中折れ帽を目深に直した。その肩には、早々と冷たい雪のかけらが親しみ深げに寄っている。
「それじゃ、よろしく頼んだよ。目が覚めたら、あたたかくて、やわらかいものを与えてくれ」
「お粥とか、野菜のスウプだね」
「そう。できれば起きている間にからだも拭いてやってほしい。入浴は体力がないから、せがまれても断ってくれ。あとは、絶対に外へ出さないことと」
これらは今日、繰り返し説明されたことだ。僕は従兄のくちから滑り落ちる言葉を奪った。僕の理解を心配性の従兄に知らせるために。
「きちんとあたたかい格好をさせること」
「そうだ」
従兄はふっと目元に安堵の笑みを浮かべた。そして、片手で軽々と間に合う小さな革の鞄を左へ持ち替えた。七日間の出張にしては、少ない荷物だ。先程、従兄にそう云ったら、仕事に大きな荷物は余分なのだと返された。学生の旅行とは違うのだよ、と。
「ああ、そうだ」
従兄はなにか思い出したらしく、コオトのポケツトを探って、正確に折り合わされた四角い紙を取り出し、僕へ渡した。広げてみると、どこかの住所が記されている。
「別れた妻の生家だ。なにかあったら、そこに連絡してほしい」
「それより、宿泊の連絡先を教えてもらったほうがいいんじゃないの」
僕は首を捻った。
従兄は途方に暮れた迷子がするように、肩を落として手をもんだ。
「残念ながら、電話も通じないところなんだ」
「そう。遠いんだ。どこに行くんだっけ」
大人に連絡の必要な事態が起こらないことを願いつつ、僕は従兄の顔を仰いだ。
青い顔を幾分か傾け、従兄は視線をわずかに玄関の中へと流してから腕時計を見た。
「海のある町だよ。ああ、そろそろ行かないと」
「ああ、じゃあ」
つまんだ紙片ごと、僕は手を振った。
数歩進み、玄関の灯りから外れたところで、従兄が肩越しに振り返った。中折れ帽のつばと夕暮れの灰色に隠れて、従兄の顔には影しか見えない。
「もし、なにも食べたくないと駄々をこねたら、蜂蜜をたっぷり使ったミルク粥をつくってやってくれ」
「了解。大丈夫、うまくやるよ」
尾を引く従兄の心配に僕は苦笑した。
従兄は片手を挙げて応え、門を越えて曲がった。すでに黄昏は夜に覆われ始めていた。透明度を失う青い闇に、従兄は消えていった。従兄の大きな靴跡に、新しく雪が落ちてゆく。僕は紙片をカデガンのポケツトに押しこんで玄関の戸を閉め、鍵をかけた。
*
小さな四角い部屋に、そうものは多くない。
角のまるい机と、年季の入った衣装箪笥、熱い煙を雲のごとく生みつづける薬缶をのせたストオブ。部屋の半分を占める、白いベツド。
そして、ベツドに埋もれて顔だけ覗かせる、少年。
頼りない白熱灯の色をした肌に、伏せられた黒くつややかな睫毛が目立つ。肉の存在を生まれてこの方知らずに過ごしてきたような細い頬に、もちろん血潮のほめきはない。ただ、ひびの割れるくち元がうすく笑んだ形をしている。部屋を構成するひとつとして、少年はほとんど静止している。窓の外に音なくつもってゆく雪と似た気配の寝息。綿のつまった布団は完全に呼吸にともなう胸郭の動きを隠している。ささやか過ぎるのだ。だから、一見しただけでは眠っている人間だとはわからない。大きな人形が横たわっているか、死体が安置されているか、どちらかだと間違う。
僕は冬季休暇の課題を持ちこみ、少年の机を借りた。沸騰する薬缶の湯で濃い粉コオヒをつくり、ちびちびとすすった。チヨコレイトを舌の温度で溶かしながら、数式を解いてゆく。単調なくせに、それでいて頭の内側がでたらめにこんがらがる作業だ。ゼロからキュウまでのひとつひとつは単純に見える数字が連なって、その意味を問う。数字は手をつなぐと、僕に対していじわるだ。
「きっと数字は僕を嫌いなんだな」
あきらめ半分の愚痴をこぼした。
その愚痴は四角い部屋の乳白色の壁に跳ね返るか、小さな窓のガラスをちょっと叩いて終わるはずだった。その後、また静かな部屋に戻る予定だった。けれど違った。
ふふふ、と笑い声が花の落ちる音のように響いた。
僕は驚きのあまりに椅子をゆらしてベツドを振り返った。
厚い綿布団は半分めくれ、寝ていた少年が上半身を起こしていた。
おそらく世話のしやすさから選択されたのだろうが、少年は寝巻きとして白地に青縞の長襦袢を着せられている。信じられないくらいに寝相のいい少年の、寝巻きは崩れてなどいなかったが、その胸のうすさや腕の危うい細さを隠すことはできなかった。
少年は覚醒しきらない目を僕に向け、笑みをくちにのせたまま、ゆっくりと頭を右肩へと傾けた。首が頭蓋骨の重さを支えきれない印象だ。
「久しぶりだね、おじさん」
「おじさんはよせって云ってるだろ。そう、歳も変らないくせに」
僕は一度跳ねた心臓をなでつけて、平静を装い憮然として見せた。
少年はまた歯の間から息をもらして笑う。
「あのね、数字がきらいなのじゃないよ。おじさんが数字をきらいだから、親しくできないんだよ。数字は恥ずかしがり屋だからね」
「そんなことあるもんか。寝た振りして、僕が唸るのを聞いていたのか。あいかわらず趣味が悪い」
僕は椅子を立ってベツドに近寄った。こぶしを軽く、ほんのいたずら程度に少年の頭に落とした。少年は骨と血管の浮いた両手で頭を覆った。
「痛いなあ。衝撃で舟に乗ってしまいそうだよ」
「舟ってなんの」
「彼岸に逝く舟だよ」
少年は目を細める。機嫌のいい冗談の口調だけれど、くぼんだ眼窩には冗談では済まない気配が漂っている。昔は、そんな不吉なことを云う子供ではなかった。陽だまりのあたたかさに、ただまるくなってあくびするような子供だった。
僕の胸に涙の匂いがたゆたう。
その匂いが外へもれないように注意して、少年の頬を両側からつまんだ。うすくなめらかな肌のすぐ下に、硬い頬骨があった。
「そんな舟きたら火をつけてやる」
「ふふ、犯罪者だ」
「さて、スウプをあたためてくるから待ってな」
僕はさっさと部屋を出てしまいたかった。
眠っているだけならただの人形にも思えたのに、目覚めた途端に少年の衰弱が露わになってしまって、僕の記憶に留まる少年との違いを認識させられた。それが不覚にも声帯を小刻みに痙攣させるのだ。
部屋のドアを閉める直前に、健やかな性質の声が僕の背中をなでた。
「ありがとう、おじさん」
*
従兄は若い頃に少年の母親と別れ、少年を連れて僕の住む町に引越してきた。少年の歳が僕に近かったために、少年が幼い頃はたびたび僕の家に預けられた。
五歳かそこらの少年は、不思議な子供だった。僕の家にくると、どこかに姿を隠してしまう。それは床下の小さな収納だったり、衣装箪笥の服の間だったり、僕の勉強机の下だったり。なにをしているかと云うと、おおよそは居眠りしている。隠れ鬼の要領で、僕は少年を探しては引っ張り出した。
「そんなとこで眠ってないで、外に行こう」
「眠ってなんかないよ。遊んでたんだ」
靄のかかった目をこすって、少年はあくびしながら反論していた。それでも僕の誘いには素直に応じた。隠れ鬼を繰り返すうちに、僕と少年は自然と遊び仲間になっていた。
僕は少年を気に入っていた。少年はからだの中心にしなやかで丈夫な芯を持っていた。親戚の家に預けられる自分をみじめにしたり、不幸を抱えこんだりしなかった。僕の母が同情に満ちた態度で、僕へ寄越すより多目のビスケツトを皿へ盛ると、その同情に反発するでも溺れるでもなく、邪気のない感謝をこぼして半分をハンケチに包んだ。
「ありがとう、おばさん。あとで、友達と一緒に食べてもいいかな」
その包みはいつも従兄が迎えに来る時まで開けられることはなく、小さな黄色い鞄のポケツトに収められていた。
最近疎遠になったのは、もう少年が親戚の家に預けられるような年齢ではなくなったためだ。最後に会ったのは、半年も前になる。けれど、たった半年だ。あの時、少年は成長を始めたしなやかな筋肉を確かに骨へ纏っていた。
*
「手伝うよ。父さんはどこに行ったのかな」
猫の気配で、少年が食堂へやってきた。するり、と隣に立たれてから、その存在に気づいた。
「出張だよ。七日くらいって云ってたかな」
湿った声は出せない。そう思ったらかなぐり捨てるような調子になってしまった。
少年は気にしたふうもない。
「そう。皿出すね」
「ああ、よろしく」
風のように、少年はふっとからだを翻す。その姿を横目で追って驚いた。少年は長襦袢の袖を肩口までまくりあげて、なおかつ胸元をはだけている。意外にも太い骨が見える。木琴のようなあばらを順に叩いたら、軽やかに音階を奏でられるのではないかと思わせる。
僕は鍋を放って少年の肩をつかんだ。リンゴに似た肩だった。僕の手で潰してしまいそうだった。
少年の透明な目がゆっくりと僕を見あげた。僕はうつむいて少年の肩口を直し、はだけた胸を整えた。
「いくらばかでも風邪ひくだろうが」
「ひかないよ。暑いじゃないか、こんなに」
少年は軽々と笑い飛ばした。
暑いなんて嘘だ。だって、少年の腕にはふつふつと鳥肌が立っている。僕は自分の着ていたカデガンを脱いで少年の背中にかぶせた。少年は迷惑そうに首をすくめて背中をまるめた。
「いやだよ、暑いなあ」
「暑いわけあるか。冬だぞ。そんな格好で出てくるな」
カデガンをかぶせてとりあえず気が済んだので、僕は鍋に戻った。
少年の言動に感じる違和感を、ぶつけてはいけない気がした。軌道を修正するに留めることが無難の手に思えた。それは直感でしかないけれど。
スウプは沸騰して、ニンジンもタマネギもイモもミイトボルもぐつぐつと踊っていた。
火を止めた瞬間に、少年のつぶやきが耳の穴に飛びこんできた。
「なに云ってんだろ。夏なのに」
確かにそう聞こえた。
食堂の窓の外はすでに暗闇だ。けれども、白い雪が降っているのは明らかに確認できた。
くれぐれも。
くれぐれも、と動いた従兄のくちの形が甦る。
くれぐれもあたたかい格好をさせてくれ。
長いこと臥せっていたから、夢と現実が溶けて混ざる。そういうこともあるのだよ。
そう従兄は云って自らの手首に爪を立てていた。痩せ細り、断たれた木の肌のように乾燥した手首には、神経質な爪痕が幾筋も重なっていた。
まったく食事してくれないのではないかと危惧していたのだが、予想に反して、少年はスウプのおかわりまでした。まるで何日か分の栄養を補給しようとするみたいに。
少年のくちに吸いこまれてゆく野菜の欠片や、養分の溶けたスウプや、やわらかく煮こまれた米のひと粒達が、少年の消化管から吸収され、からだの隅々まで行き届き、しぼみかけた細胞を潤して、ふくらませてくれることを願った。
*
「じゃあ、父さんの留守の間はおじさんがいてくれるわけだね」
僕に背中を向けて、少年は確認してきた。
肩甲骨が山のように盛りあがり、今にも翼が生えて飛び出してきそうな背中だった。
今、ベツドに座る少年の背中をタオルでぬぐっている。タオルの走った跡に、赤い模様がじんわりと浮いてくるのがはっきりわかるほどに白い。その白さを意識せずに背中をぬぐうのは、なかなか難しい作業だった。
「頼まれたからさ。母さんも、どうせ家でぐうたらしているなら、行ってこいって。子を理解しない親だよ」
「ああ、あいかわらず、おじさんはぐうたらなわけだね」
ふふ、と笑うと少年の肩甲骨がふるえた。わずかにふるえるだけの笑いなのに、一緒に背骨がでたらめに動いてゆがみ、崩れてしまいそうだ。笑うたびに骨格がずれてゆく。
僕はこれ以上少年を笑わせないように、なるべく突き放した声音で命令した。
「ほら、腕伸ばせ」
「うん」
少年は骨の重みすら持ちあげられずに、水平よりもずっと下へ腕を伸ばした。
からだをふき終えると、少年はそろそろと横になった。僕にとってみたらどうでもない動作や、会話が、少年をたやすく疲労させていた。枕に頭を落ち着けて、少年は僕に目で笑いかけた。
厚い綿布団が僕の見たくなかった少年のからだをすっかり隠してしまったので、やっと僕は少年に笑みを返すことができた。
すると、少年は天井を仰いでつぶやいた。
「眠ってしまうのが惜しいなあ」
「どうして」
「せっかくおじさんがいて、父さんがいないわけだよ。悪さをするには打ってつけじゃない」
従兄の困る悪事なんてひとつもしないような少年が、ふざけて云う。少年は気づいているのだ。僕の胸がひどく痛んで仕方ないことを。だから、わざと軽いくちを叩いて、なんでもないことにしようとしているのだ。
僕は少年の布団にカデガンをかぶせて云った。
「早く眠っちまえ。そしたらおまえの顔に落書きでもしてやる」
「ああ、油断できないな。おじさんばかりが悪さをする」
少年は明るく澄んだ目で僕に笑いかけ、ゆっくりと目蓋を閉じた。泉のように湧く眠気には逆らえない。ほどなく、雪の舞う気配に似た息を立て始めた。
カアテンの隙間に見える紺碧の夜空には、端のほうから黄金と炎の間の色が広がっていた。
*
僕は正午を過ぎてようやく起きた。
目覚めて最初に、屋根につもった雪が溶けて流れ落ちる音が聞こえた。ベツド代わりの長椅子を立ち、カアテンを端に寄せると、傾き加減の白い光が居間に満ちた。
従兄と少年の棲む家らしく、居間に余分なものはない。長椅子と対の、木目がうつくしいテエブルにはひとつの傷もない。階段状の棚はすべて扉の中にものが整理して収められ、表にあふれる本や置物はない。長椅子にまるまった毛布と、テエブルに置いた飲みかけのチヨコミルクが、だらしない僕と彼らの性質の違いを物語っている。ふたりなら、どんなに寝ぼけていても、無意識のうちにこれらを処理してからカアテンを開けるに違いない。
眠気を払うため僕は洗面所に行き、冷たい水を桶に張り、顔とくちをすすいだ。酔っ払いの足取りでそのまま食堂へ向かい、パンをひとくち齧った。それでも眠気が眼球と首筋を漂って離れない。しばらく無意味に頭を掻いて、ようやっと食堂の席を立つ。
暗く冷えた軋む廊下を歩いて少年の部屋のドアを開けた。
カアテンの隙間から午后の陽射しが細くそそいでいる。ストオブの火はちろちろと燃えて、ほこりの舞う乾いた熱気が部屋に満ちていた。
僕はカアテンをまとめて束ね、ガラス窓を開いた。あたたかな陽射しでも溶かしきれない冬の空気が流れこんだ。けれどもむしろ肌に心地いい。清涼になる。
午后の太陽が部屋に満ちても、冬の空気が流れても、少年は目覚めない。少年の呼吸は雪が溶けて雫となり屋根を伝い落ちる音に負ける。
几帳面に閉じられたくちと小さな鼻の近くに、ひとさし指を運んで数秒待ち、そして呼吸していることを確かめた。
*
眠りに就いて目覚めない、そういう病なのだよ。
従兄は目にかかる細い髪を横へ撫でつけて云った。
時折、ひとさし指をひらたく伸ばして、少年の鼻先へ近づけた。従兄の睫毛は半分伏せられて、化粧したように黒い目の下に、更に影を重ねていた。
目覚める時間は段々少なくなっている。昼間はおおむね眠っている。夜のほんのわずかに起きるから、その間にきちんと食事とからだの清潔を世話してやってほしい。それ以外は、好きに過ごしてくれ。書斎も使っていいし、入り用ならば引き出しにいくらか金を置いてある。
従兄は書斎の鍵を僕の手に落とした。
古びた銀の鍵だった。
実際僕が従兄の家に遊びにくることは少なかった。
たまに遊びにくると、僕は従兄の書斎が気になって仕方なかった。なぜなら従兄の家では書斎にだけ鍵がかかっていたからだ。なにか重大な秘密が隠されている。そう夢想するくらいに僕は子供だった。ドアに額を押しつけて細い鍵穴から中を覗こうとしたし、針金をくねらせて鍵を外そうとすることもあった。
少年はいつも僕の近くを蜂みたいに飛び回った。
「おじさんどう、今度こそ開くの」
そう僕をからかっては笑っていた。ゆがむことのない頑健な背骨をまっすぐに伸ばして。
闇の集まった穴に、銀色の鍵をさした。
右へ回すと軽い手ごたえがあり、ノブに手を添えると難なくドアは開いた。
すると、そこはただの書斎だった。
天窓を通して陽射しがまっすぐに降りそそぐ中央の机は従兄らしく整理されていて、小さく簡素な照明灯と会社宛の封書が端に置かれたほかには塵のひとつもない。整頓された机の後ろにはガラス張りの本棚がそびえている。本なんて嫌いな僕がこの部屋に閉じこめられたら頭痛を催しそうだ。開けてしまえば愉快な秘密はなさそうだった。単なる従兄の仕事場だ。鍵をかけたのは、きっと子供の奔放さで書斎を荒らされたくなかっただけだったのだろう。
ざっと見渡しただけで、僕は興味を失った。夜までひと眠りするために、居間の長椅子へと戻った。テエブルにはチヨコミルクが染みついたマグがあったが、そのまま毛布をかぶってしまった。
*
すっかり夜が落ちてから僕は長椅子を離れて少年の部屋へ入った。
ストオブの薬缶が沸騰したので、濃い粉コオヒを淹れる。熱く苦いコオヒを喉に流して、眠気を払う。昼間にいくら眠ったとは云え、太陽が沈めば睡魔が忍び寄る。皮膚の表面をくすぐるようにして、それは僕を眠りの世界へ誘いつづける。
昨晩同様、少年の机を借りて課題を広げていた。ただし、今夜はすでに数学を思考する余力がない。眠気を追い払うだけで精一杯だ。課題は形だけ広げられている。睡魔に糸を引かれて意識をぼやけさせては頭を起こし、背伸びしてはまるくなりを繰り返した。
しゅうしゅうと湯気立つ薬缶の音は耳に心地よく、じんわりからだの半面を焼くストオブの温度も適度に熱く、僕はやがて机にくっついた額を起こすことをやめた。
すると、
ふ、と。
花が開くような笑い声が聞こえた。
目を開けると、まるめた肩に骨の形の手が置かれていた。少年が僕の隣に立ち、笑んでいたのだ。
「眠るならベツドを使ったらよいのに」
少年は、鼻の裏から抜けるような高く細い声で云った。管弦楽の金属の笛に似た声音だった。くぼんだ目を細め、揶揄の色を灯している。片端だけ微妙な角度でななめにあがったくちびるは、僕の知らない皮肉の表情だった。
僕は時計を見た。昨日よりも早い時刻だった。やはり覚醒する時間にはばらつきがあるのだろう。明日も夜通し起きる必要がありそうだと判断した。
両方のこぶしを天井に突きあげて眠気を払い、椅子から立った。
昨晩は少年のからだのうすさにずいぶん戸惑い動揺したが、今夜はいくらか正面から少年を見ることができる気がした。
「さて。食事の準備をしてくるから、待ってな」
「食事はいい。それより汗をかいた。風呂に行く」
つい、と僕の前を過ぎて少年はドアを開けて廊下へ出た。氷の上を滑るような足の動きは驚くほどに速い。僕はすぐさま追いかけた。
少年はするすると暗い廊下を進む。
僕は少年の手首をつかんだ。
「汗をかいたならふくよ。風呂は疲れるからよそう」
「ふくってきみがか。気持ち悪い冗談だね」
少年は僕を軽蔑した目で睨んだ。
神経質な視線に、僕は思わず手を放した。
少年のくち振りが、なにかおかしい。
「色狂か、きみは。ついてこないで」
謂れのない批難をぶつけられて、僕は凍りついてしまった。
呆然とした間に、少年は風呂場の戸を開けて、中へ入った。
そこで、どうせ水を張っただけの湯船であることを思い出した。沸かしていないのだから、すぐに出てくるだろうと考えた。
けれども、水がタイルに叩きつけられる音が廊下まで響いてきたのでぎょっとした。
僕は風呂場の灯りを点けて、戸をくぐった。
少年は寝巻きを身につけたまま、桶で水を頭から浴びていた。
浴衣は肌に吸いついて、浮かびあがった少年のからだは標本の骸骨を連想させる。
浴槽の水は真冬の温度に冷えているはずだ。
僕は少年の手から桶を奪った。
少年は不満げにくちびるをとがらせ、僕を睨みあげた。
「汗をかいたって云ってるのに」
「ばかか、風邪をひくじゃ済まないぞ。ほら、部屋に戻ろう」
「命令されるのは不愉快だな」
少年は噛みつくように云い放って、冷水の浴槽に脚を入れた。
「おい、やめろ」
僕は反抗する少年を抱えて、浴槽から引きずり出した。水は雪と同じくらいの温度だった。少年と争って、僕まですっかり水浸しになった。
どうして急に少年がこんな自傷にも似た行動を始めたのか、思いあたる節がない。どうして僕に対して攻撃的な態度を選ぶのかも。
少年はタイルに両手を落として、肩で荒く呼吸している。
乱暴に扱い過ぎたことを、僕は反省した。
「おい、大丈夫か」
「これだから、男なんか、いやなんだ」
少年は切れ切れに、声を掠れさせた。
膝を折り両手を下ろしてうつむく少年の、憂いを漂わせる仕草も、金属的な感情も、僕に違和感を覚えさせた。その違和感は水面へインクを垂らしたように僕の中へと広がった。
澄んだ少年の目は本来明るい場所を見つめていた。けれど今、うつむく少年のくぼんだ目は、冷たい水を映して暗いばかりだった。
「おい、どうしたんだよ」
「あいつは、どこ」
少年はとぐろを巻く蛇の口調で唸った。
「また、逃げたの」
「あいつってだれだよ」
「逃げたんだ」
僕の質問には答えず、少年は繰り返した。
「逃げたんだな」
「だれのことだよ」
だれのことだ、と問うていながら、僕はその相手を知っている気がした。
きっと、黒いコオトを纏い、灰色に暮れる冬の黄昏に玄関を出て行ったひとのことだ。
「逃げたんじゃない。仕事だ。昨日、話しただろう」
僕は少年の言動に秩序を取り戻したくて、その肩に手をかけた。うつむいた少年の頬にかかる前髪がゆれて、雫が落ちる。
「出張だよ。ほら、海の見える町に」
「海の見える町」
少年は緩慢な動きで顔をあげた。
痩せた顎を突き出して、遠方を眺める目つきになっている。
異様だった。
骸骨に心ばかりの装飾を加えただけの少年が、落ちくぼんだ目に白いぎらついた光を燃やして、ひび割れたくちを開いて笑った。
指先の痺れる冷えたタイルの上で、寒さのためだけではない震えを感じた。
一体、少年はどうしてしまったのだろう。
まるで、ぐるりとねじれちぎれて別の性質が現れたようだ。
すべて病気のためなのか。
病気。
そうだ。
きっと、そうだ。
記憶が欠落したり、性格が変わったり、妙に暑がったり、きっとこれらは病気のせいなのだ。
だから、僕が怖がってはだめだ。
これらの一見ゆがんだ表面の内部には、僕のよく知った明るく朗らかな少年がいるはずだ。
僕は洗面所の棚からタオルを取り、少年の肩にかぶせた。
「とにかく、着替えて、部屋に戻ろう」
すると少年は浴槽のふちに手をかけて立ちあがり、僕を見ないままに浴場を出て行った。僕は少年の肩を滑り落ちたタオルを拾い、その後を追いかけた。
*
中折れ帽に隠れた従兄の頬は刃で削いだように痩せていた。
少年が眠りに就いた後も、僕の胸はざわついたままだった。居間の長椅子にからだを横たえたけれど、とげの突き出してゆくような興奮が治まらず、眠ることはできなかった。コオヒなんて飲むのではなかった。目を閉じると少年の意外にもすばやい後ろ姿が白く浮かんだ。
少年は濡れたからだのまま、玄関を飛び出し、はだしで雪を踏んだ。波打ち際で寄る海を踏む動作に似ていた。まるで砂浜にいるようにして。僕の声は届かなかった。少年の周りにうすい膜でもあって、すべてを遮断しているかのようだった。僕は少年を玄関の中に引きずり、戸を閉めた。
「離せ、行くんだ。行くんだ、離せ」
少年の金属的な声が、僕の鼓膜を裂かんばかりに響いた。
きっとあの声は、従兄の頬をも削いだのに違いない。
*
夜、覚めた少年の目が透明か、光を孕んでいるか。
太陽にぬくまった声か、太陽に灼かれて割れた声か。
その晩から、まず僕はそれを確かめるようになった。
しかし、僕の期待する少年は現れない。
目覚めた少年は、ベツドの傍に椅子を寄せる僕を認めて、白目を光らせ、糸に吊られるかのような動きで起きあがる。首をのけぞらせてみせたり、両腕がちぎれそうな勢いを持って体幹をよじってみせたり、奇態を演じる。目は、必ず視界のどこかで僕を捉えている。僕のあげる声や咄嗟に浮かべる表情を認識している。なぜか少年は僕の反応を測っている。
*
今夜、少年は寒い玄関の扉を見つめ、膝を抱えて動かない。
食事は一切摂らない。
細いかおがひと周り小さくなっても、白い目はぬるりと大きく光った。突き出た顎と喉から胸とをつなぐ線は張りつめて、皮膚を破って尖った骨が現れそうだった。
僕が背中にかぶせた厚い毛布も払って、少年は青白い素足を氷のような床にさらしている。
暑いのだ、と云う。
なぜだ、と問えば。
夏だから当然だ、と答える。
寝巻きすら脱ぎ捨てたいくらいだと。
僕はと云えば、シヤツに毛糸のセエタを重ね、膝下まである長い靴下をズボンの中に隠している。今晩はそれぐらいに冷える。
そんな僕の感覚を、少年は異常だと指摘する。
間違いなく、少年の見つめる玄関の向こうには、雪が舞っていると云うのに。
少年は、動く気配もない。
もれそうになるため息を殺すために両手でくちと鼻を覆い、僕は膝を折った。
どうしたら、少年はあたたかい格好をして、白く湯気たつ食事をくちにしてくれるのだろう。
「眠いなら、寝たら」
甲高い声で、少年が云った。
あくびと間違えられた。
「おまえが寝たら、眠るさ。それより、なんか食わないか」
「空腹なら、勝手に食事すればいい」
鞭を打つような少年の返答に、僕は勢いよく立ちあがった。
僕の心配を少年はひと握りも理解しない。
これ以上傍にいたら、普通の状態でない少年に対して、腹の中に混ぜかえった感情を、理性なくぶつけてしまいそうだった。
僕は少年を残して、食堂を目指した。
そして食堂へ入るなり、蛇口を全開にひねった。
僕の感情の代わりに、水がほとばしって落ちる。
少年の前では吐けなかった重たい息を、水の音にまぎれさせた。
コンロには、夕方に用意したシチユウの鍋がある。テエブルには、パンを入れた籠がある。睡眠を欲するからだを無理やり動かしてつくった食事だ。
連日、夜通し起きていて、すでに僕の頭は膿んでいる。膿んでいるとしか云いようがない。ふつふつと泡が立ったように、いつでも眠い。なのに、少年が目覚めると、細胞のひとつずつが緊張してふくらみ、髪の毛の先まで電気の走る思いがする。異様に覚醒する。そして、昼間はまどろむくらいにしか眠れない。繰り返しだ。
食事。
そんなもの、僕だってまともに摂っていない。
確かに少年の指摘通り空腹なのかもしれない。いらだちはそのためもあるのだろうか。だとしたらどうしようもなく動物的で情けない理由だ。
息を吐ききると、疲労が喉を伝った。
それは掠れた笑い声に似ていた。
その時、扉の閉まる音が空気と建物をふるわせて響いた。
少年が玄関を出たに違いない。
僕は水をとめて食堂を飛び出た。
案の定外に出ていた少年は、門の前にうずくまっていた。つもった雪に埋もれてしまいそうだった。歩けるのが不思議なくらいに衰弱しているのだ。
僕は少年の脇に腕をさして、立ちあがらせようとした。
少年に触れて、そのからだが異様に熱を帯びていることに気づいた。少年は小刻みに歯を鳴らしている。
ついに僕はいらだちを抑えられずに、少年を叱りつけた。
「ばかが。だから、風邪をひくって云っただろう」
少年は憎まれぐちを叩くことも目を開くこともできず、僕に抱えられて部屋へと戻った。
*
水銀計はみるみる赤く昇りつめ、少年の状態が芳しくないことを示した。それでもなお、少年は歯を鳴らして身をちぢませている。まだ、熱が高くなってゆくのだ。
母に連絡すると、薬を持ってきてくれると云う。ただ、雪道を歩いてくるので、しばらく時間を要するだろう。
それまでひとりで少年の傍に添う。
僕は何度も少年の額に手を当てて熱を確かめた。
無理にでも、少年を抑えればよかったのだ。ベツドに押しこんで布団を頭からかぶせて寝かしつけていればよかったのだ。
従兄に今すぐ詫びたい。
ベツドの端に、僕は頭を沈めた。
「おじさん、どうしたの」
掠れた少年の声が耳に触れた。
顔をあげると、目蓋を重くした少年が、心配をこめて僕を見ていた。熱に潤んでいるが、そのまなざしは僕がよく知る健やかさをたたえて
いた。
僕は自分の内臓がひと息に軽くなるのを感じた。
「ばかだって云うのに、無茶するからこうなるんだよ」
「僕がどうしたっていうの」
少年はまったく身に覚えなんてない、と云うくち振りだ。
それが僕を安堵させる。
「風邪ひいただろう」
「まさか」
「現に、熱が出ている」
「ああ、だから、火が出そうなのかな」
少年は厳重に重ねた布団を、弱々しい動きで引き下げた。
悪寒は治まっている。熱があがりきったのだろう。僕は綿布団を腰元まで折ってやった。少年は石が除かれたように、息を吐いた。
「なにか飲むか。食べたいものはあるか」
「今は、ない」
少年は再び目蓋を閉じ、意識を手放しかけながら、つぶやいた。
「ああ、でも、カタセはミルク粥が食べたいんじゃないかな」
そして、穴に吸われて落ちるようにして、眠ってしまった。
カタセ。
とは、誰のことだと。
それを質す隙間もなかった。
*
しばらくして母が到着した。
母は水銀計を見て仰天した。紙袋から坐薬を取り出し、少年のからだを横にして肛門にいれた。
「かわいそうに、こんなに痩せて」
僕が思ったのと同じことを大袈裟に声にして、母は少年の寝巻きを元に戻した。
朝まで母が少年につき添うことになり、僕は部屋を追い払われた。
居間の長椅子にうつ伏せても、時計の秒針が刻む音が耳に障って、少年のしたように見事には意識を手放せなかった。
意識は渦巻いて、数日の少年の奇態と、健康な少年の笑顔と、中折れ帽を直す従兄の仕草と、書斎の暗い鍵穴と、数学の課題と、あらゆるものが尾を引いて、混ざりながら脳裏を流れた。
黒いコオトの従兄が門の手前で振り返る。
陰に隠れた顔は、目も鼻もくちもないくらいに青い。
ひっそりと、声が僕に届いた。
もし、なにも食べたくないと駄々をこねたら、蜂蜜をたっぷり使ったミルク粥を食べさせてくれ。
ミルク粥だ。
ああ、でも、カタセはミルク粥が食べたいんじゃないかな。
ミルク粥をつくろう。
僕は両腕を伸ばして長椅子から身を起こした。胸も腹も長椅子にへばりついて、離れる時には糸を引きそうだった。
食堂のテエブルですっかり冷えて固くなったパンをちぎり、ミルクと一緒に片手鍋に入れ、コンロにかけた。砂糖を匙で適当にすくい、戸棚から蜂蜜の壜を見つけて鍋にたっぷりそそいだ。やがてミルクはくつくつとまるく沸騰を始めた。
甘く濃い匂いが漂い出す。
背後で、木の軋む音がした。
椅子が動いて、誰かが座ったらしい。
食堂の小さな窓は黒から青へと色を変え始めている。
もうすぐ朝がくる。
僕はコンロの火を消し、深皿に粥をよそった。パンは角がとれてミルクに溶け、噛む必要もないくらいだ。
皿を持って振り返ると、テエブルには少年がいた。顔に赤みを残したまま。
僕が皿を置くと、少年は小さな鼻で湯気を吸った。僕が渡す匙を素直に左手で取る。くちをわずかにほころばせ、すくった匙に息を数回吹きかけ、やがて赤い舌の上に、粥を乗せた。熱い粥をくちの中で少し転がしてから、飲みこむ。喉もとの骨がゆっくりと上下した。
僕は、少年が何日振りかに食事するのを見た。
ひとがなにかを食べるのを見て、泣きたくなるのは初めてだった。そんな自分がおかしく感じられて、涙ではなく笑いがもれた。
「どうして、笑うの」
気がつけば、少年が匙を下ろして僕を眺めていた。
白目は鋭く光り、疑いを向けているように感ぜられた。
いつもの少年なのか、病に侵された少年なのか、もうどうでもよかった。
僕は少年の向かいの席に座り、手を伸ばして、少年の頭をこづいた。
「いいから、食べろよ」
しばらく、少年は僕をきつく睨んでいた。野生の動物が相手の出方を計り、手のうちを読もうと試みているかのようだった。
そしてやがて、猫が水を舐めるように匙を動かし始め、僕を上目遣いに見ながら、粥をくちに運んだ。
そのひとくちが、少年の回復するための栄養になってくれることを、僕は祈った。
少年は皿の底が現れるところまでミルク粥を食べて匙を置いた。
僕は欲ばって尋ねた。
「おかわりは」
「充分だよ」
少年は左手の甲でくちをぬぐった。
ちらり、と僕を見た。
その目に猜疑は消えていた。
「まあまあ、おいしかった」
「当たり前だろ。僕がつくったんだ。ここ数日の食事を放棄したおまえは、とんでもないばかだったな」
「態度が大きいな、きみは」
少年は呆れた口調だ。けれど、五日月の形に目元が笑んでいた。
*
カタセ。
その名前を、実は聞いたことがある。
母におやつを過分に与えられた少年が、ハンケチに包んで、黄色い鞄のポケツトに封じる。いつでも少年は包む前に母へ尋ねた。
「あとで、友達と食べてもいいかな」
もちろんそれは咎められることはない。
一度だけ、母が尋ねた。
お友達ってなんて云う子なの。
すると少年はひとさし指を幼いくち元にあてて、幸福そうに笑った。まるで初恋を打ち明けるように、幸福そうに。
「ひみつだよ。カタセ」
*
太陽が東の空を明るくすると、母は食事と薬を置いて帰った。
少年の熱は幾分か下がっていた。母が帰る前に、ふたりで汗ばんだ少年のからだをふいた。人形のからだをふくみたいに、少年の反応はなかった。呼吸が止まっているのではないかと危惧するほどだった。
明日、従兄が帰ってくる。
それまでのことだから、母を帰した。
窓を飾る青空は潔癖なまでに清々しい。
少年は生きていないように眠っていて、白い部屋はまるで棺桶に似ている。
不吉な連想を払うために、僕はストオブの薬缶を取って立った。水を
入れかえるのだ。
起きるはずがないと知っていても、できるだけそっと扉を閉めた。
頭が痛い。目の裏側から、痛みが脈打って頭全体に広がってゆく。空っぽの胃なのに、妙に吐きたい気分だ。吐けるものなんてないはずなのに。
ああ、疲れている。
けれど、それも明日までだ。明日には従兄が帰ってくる。
従兄が痩せるはずだ。こんな毎日を送っていたのなら。僕よりもなお、少年の病に心を痛めているのだから。
薬缶を流しに置いて、少し眠ってみようかと考えた。
けれど居間の長椅子はだめだ。秒針が神経を刺し、よくない想像ばかりしてしまう。静かで、退屈で、感覚の麻痺する場所がいい。
たとえばそう、従兄の書斎だ。
本嫌いな僕を圧倒する活字の壁。
あそこなら、居眠りできるかもしれない。
ズボンのポケツトにある鍵を確認し、僕は書斎へ向かった。
*
書斎は変わらぬ冷静な沈黙を保っていた。
壁を覆う本棚は威圧的なまでに整理されていて、大きな机は封筒と小さな照明灯がある以外はまっさらだ。椅子は存外に座り心地がよかった。まるで肩を抱くような広い背もたれは上等な革張りで、尻を支えて跳ね返る感触も適度だ。脚を投げ出し、腕を組む。小さな四角い部屋に、雑音はない。天窓からさす白い光がやわらかく、その静かな空間に溶けていける気がした。
そして。
そして、気づくと部屋は薄暗くなっていた。
一瞬しか目を閉じていないつもりだったが、太陽は沈んでしまったらしい。
少年が目覚めたかもしれない。
覚醒の悪い僕は椅子から立ちあがりざま、大きな机に脚をぶつけた。そのはずみで封筒が机から落ちる。痛む脚を折って、床に落ちた封筒を拾った。すると、幾通かあった封筒の間に、簡素な手紙が挟まれているのに気づいた。なに気なく見ると、宛名として、僕の名前が書かれている。机の上の照明を灯して確認すると、やはり僕の名前だ。細く角ばった字は従兄の手に違いない。切手は貼られていない。住所も書かれていない。ただ、僕の名前が記されている。
読んでいいと云うことではあるだろう。けれど、なぜ、従兄はこんなところへ、見つけないかもしれないところへ置いていったのだろう。
少年の様子は気になったが、僕は再び椅子に腰かけた。
従兄の記す僕の名が、読むことを誘った。
読まなければいけない気がしたのだった。
*
一枚目に記してある。
*
きみには多大な迷惑をかけることになった。
多大な肉体と精神の疲労をかけることになったと思う。
随分と歳の離れた従弟であるきみに、頼らざるを得なかった。
私にはきみ以外、考えられなかった。
私と私の息子には。
まず、私の狡猾な計算を謝罪しなくてはならない。
年齢相応以上のきみの責任感と、きみのうつくしい誠実さと、そして未だ学生であるきみの社会的な未熟さに私は甘えた。
きみはこの手紙を読み終えたら、直ちに別れた妻に連絡をしていい。また、してほしいと私は望む。これ以上、きみに迷惑をかけることは不本意だ。この手紙を封書の間から見つけたきみは、きっとなにかしらの手がかりをつかもうと行動しているに違いないのだから。
きみが気に病む必要はない。
昔の彼を知っているきみには、つらい夜がつづいたはずだ。
私はきみに告白する義務がある。また、彼の世話を買って出てくれたきみには、それを聞く権利があるだろう。
彼の豹変を目の当たりにして、戸惑わない理由はない。
不可解な言動。
まるで、別人のような素振りで振舞う。
そんな彼に、きっときみは戸惑ったはずだ。
*
二枚目に、つづいている。
僕は文字を追った。
*
彼は幼い頃から、不思議な子供だった。
ひと懐こく物怖じしない性質に見受けられるのにも関わらず、近所の子供とは遊ぼうとしない彼を、妻はひどく心配した。
しかし彼はまったく気にしない様子で無邪気に笑って云った。
「友達ならいるよ」
「だって、いつも家にいるでしょう。いつ遊んでいるの」
「ひみつだよ」
「どうして」
「お母さんにはだめなんだよ」
「じゃあ、お父さんにはいいの」
「どうかな。今度聞いてみるね」
私が新聞を読むすぐ傍で、風呂あがりの妻と彼は話していた。
翌朝、彼は目をこすりながら、私の枕元へとやってきた。
「お父さんには教えてもいいって云ってた」
「なにをだい」
「名前」
妻はすでに床をたたんで、朝食の支度のために寝室を後にしていた。それでも彼は用心深く、周囲を見回してから、私の耳にくちを寄せた。
そして、信じられない名を告げたのだ。
「カタセ」
片瀬と。
確かに私に告げた。
邪気など微塵もふくまない、清らかな幼い声で。
それは私にとって禁忌の名だった。
息絶えるまで、否、息絶えたとしても、二度と声にせず、耳にしないはずの名だった。
無論妻は知らぬ名だ。
なぜに我が幼い息子が、禁忌の名を囁いたのか、理解できなかった。まさか過去を知った妻が息子を通じて、私の罪を指摘しようとしているのか。否、あり得ない。それはない。
胆の冷えを感じながら、私は息子の小さな肩を両手で包んで尋ねた。彼の目は、底が透けそうなほど清らかに、私を見ていた。
「それはお友達の名前かい。近所の子かい」
「ちがうよ、近所じゃない。カタセは海にいるんだよ」
ああ、その瞬間の、心臓を裂かれるような恐怖。
裂かれた心臓の間から、封印した冷たい血液が、全身に噴出するような恐怖の思い。
「カタセとは夜に遊ぶんだ」
彼は心底楽しいと云う笑顔で、私の手をすり抜けた。
*
三枚目へと、小さな正方形に似た字は規則正しくつづいてゆく。
*
私は少年時代を海辺の町で送った。
急勾配の細い坂道と、黄金色の果実のなる緑の山と、広い砂浜に打ち寄せる青い波。午后の太陽と潮風の匂い。焦げる影。網膜に白く焼きつく入道雲。陽炎。港の粗雑な言葉。芯を燃やす熱。
少年時代の記憶は、いつでも真夏の情景に回帰する。
私の肌がいくら青白く病的に痩せても、私の肉体の芯では、あの頃の夏が火を燃やしている。
私には幼馴染の少女がいた。
彼女は晴れた海原のように清々しい明朗さで、いつでも私の前を、颯爽と歩いていた。決して私の背後に回るような少女ではなかった。
風に揺れる少女の絹糸に似た短い髪や、しなやかに伸びた手足の迷いのない動きや、踊り子のように姿勢のいい背中を、私はいつでも見ていた気がする。
彼女と向き合うと、真実を求める目のかがやきに、私の狭く小さな世界さえ、解放される心地がした。
私が十四歳の夏、彼女は事故に遭った。
彼女は私の前から姿を隠した。
家を訪ねても家人に面会を断られるばかりだった。
私は彼女の身を案じた。いつでも彼女の気配が脳裏を漂った。彼女の不在が私自身に与えている影響の大きさに驚いていた。
皮膚に太陽のしみる午后だった。
幾度目の訪問だったか覚えていない。
熱せられた石垣の壁をたどり、堅牢な門扉を叩いた。
しばらく門は沈黙していた。
とうとう面会を断られる声さえ返らなくなったのか。私は落胆し、きた道を戻ろうとした。
しかしその日、永遠に閉じたままだとさえ思えた門が、ゆっくりと開かれたのだった。
彼女の母親が私を迷惑そうに迎えた。
彼女の希望で、特別に通してもかまわない。見舞いなら、部屋へ行ってよろしいと彼女の母親は束髪のほつれを直しながら云った。
ただ、彼女の機嫌を損ねることのないように。
そう釘を打たれた。
もちろん、私は彼女の機嫌を損ねるつもりも、害を与えるつもりもなかった。
私は随分と久方振りに、彼女の家の敷居をまたいだ。
古くから地主として根ざした家だった。古い家だが頑強で、客を頭からまる飲みしてしまいそうな雰囲気があった。
彼女の部屋は家のずっと奥、整えられた庭に面した渡り廊下の先の離れにあった。
普段ならば清々と開放されている離れの雨戸に、その日少しの隙間もなかった。まるで誰もいない部屋のように、沈黙していた。
私が恐る恐る戸を叩くと、内側からそっとそれは開かれた。
細い手が伸びて私の腕をつかみ、予想しなかった力強さでもって、私を中へと引き入れた。
一瞬、彼女の絹糸の髪が太陽の光に透けた。
そしてすぐさま、戸は閉じられた。
闇。
太陽の白さに彩られた外との対比に、私は目隠しをされた気分だった。
閉鎖された室内には湿気がこもり、鼻につく匂いが漂っていた。
皮膚にしみるような。
それは病院の廊下の匂いに似ているのだと気づいた。
*
四枚目へと、よどみなく文字はつづく。
*
方向感覚さえ狂う闇の中、冷たいものが私の頬に触れた。
肌へ接触する面はやわらかく、形や大きさは自由に変幻した。
手だ。
手が、私の顔を探っていた。
私の頬を面で包み、目蓋を押し、眉をなぞり、鼻筋を下り、くちびるを掠め、爪らしき固さが歯に音を立て、舌先に身のしまった貝のようなものが一瞬触れて離れた。潮の味が舌先に残り、私は唾液とともに、それを飲みこんだ。
手は、私の喉を伝って肋骨を確かめながら胸を下り、右の手首をつかんだ。
そしてやっと、待ち望んだ声が聞こえた。
「久しぶりだね」
その高い声は小さな鈴のゆれにも、光る横笛にも似ていた。
私の右手をつかんでいるの手が、紛れもなく彼女だと確信できた時、彼女の触れた肌のすべてが発火しそうなほどに熱を持ち、腹の内側からも熱がほとばしり、目の前の彼女を飲みこんでしまいたい衝動に駆られた。その衝動をどうしていいのか、まったくわからず、私は声すら出せなかった。
「なん度もきてくれたようなのに、家の者が悪いことをしたね」
手が、私の手首を離れた。すると、私はもう彼女を声でしか確認できない。 それは恐怖だった。私が彼女を探そうとすると、再び手が私の右腕に触れた。半袖のシヤツの中へとかすかに指先を忍ばせた。二の腕の内側に触れる冷たい指先に、私は思わず身を硬直させた。
「きみは、味方だよね。わたしを、好きだよね」
鈴の声がささやいた。
甘えると云うより、天の雲から命ずるような、抗えない強制力を有していた。
私は暗闇の中でうなずいた。彼女に見えているかもわからないのに。
「ずっと傍にいてくれるよね」
ささやく声が、すぐ目の前にあった。私の喉に、あたたかい息が触れていた。
私はうなずくかわりに、ぎこちなく、手探りに彼女の肩へ腕を回した。彼女は逆らわず、私の胸にさらさらとした頭を寄せた。私は回した腕をすぼめ、更に彼女を閉じこめようとした。
そして、違和感に気がついたのだ。
彼女のからだは左右の均衡に欠いていた。
絡めた左腕と右腕の内側に収まる、彼女のからだの、右側にくぼみがあった。
くぼみだ。
私は腕を解き、彼女の両肩を確かめた。そして、そのまま、腕を下方へとたどった。暗闇の中、視覚に頼らず確認するには、触れるしかなかった。あってしかるべきもの。彼女の右腕。それがなかった。上腕の途中で突然腕が終わり、その先に伸びるべき前腕も手首も手も指も爪もなかった。断端は指の食いこむ鳥の皮のような脂肪で、不自然なまるみを帯びていた。
*
僕は五枚目をめくる。
*
腕が断たれていた。
空気がかすかにさざめいたので、彼女が泣いたのだと思った。
しかし、彼女は笑っていたのだった。
でくのぼうとして、動くことのできない私を、彼女は小さく笑ったのだった。
「大きな車輪に轢かれてね。骨も筋肉も神経もちぎれてしまったのさ」
彼女の気配が声とともに遠ざかった。彼女は暗闇にすこぶる親しんでいたようで、なにかにからだをぶつけることもなく動いた。私は手に残った脂肪の感触を消そうと、爪を立ててこぶしをつくった。肉を断たれる壮絶な痛みが、触れた手のひらを通じて伝染してくる気がしたのだ。恥ずべきことだが、この
時、私は彼女の断たれた腕の感触に怯えた。まるでそこから、禍々しく不吉な影が広がり、私のことをも覆ってゆくのではないかと。彼女の身を案じることも忘れて、私は勝手な妄想を抱いて身を引いたのだ。聡明な彼女が、それを感知しないはずはなかった。彼女は試すように、嘲るように、卑しめるように、繰り返した。
「ねえ、きみはわたしを好きだよね。傍にいてくれるよね」
私はうつむいた。うなずく、と云うよりはうつむいた。
「ねえ、どうなのさ」
「もちろん、友人だからね。傍に、いる」
かろうじて、そう応えた。
つい先程まで、友人などと云うくだらない枠を外そうとしていたくせに。卑怯な、狡い返答だった。
しかし、急速に彼女を哀れに思う心の波が
押し寄せてきてもいた。彼女が私を部屋へ入れたと云う事実。それは、私の助力を少なからず欲していると云うことだった。気位の高いところのある彼女が、自分に振り返り、私の手を必要としている。それは、誇らしいことだった。片腕を失ってしまったかわいそうな少女。私の助けを必要としている少女。私は彼女をこの暗闇から助けるのだと思った。
「ずっと傍にいる。大丈夫だよ」
幾分か強い意志をこめ、私は彼女に繰り返した。卑小な誠実と表現されても仕方ない。
彼女は闇の中にも関わらず、うすっぺらな誠実の裏側にある狡さをたやすく見抜いていた。それは、その時の私にも充分わかっていた。その後ろめたさが、彼女の次に紡いだ求めを、断る道を失わせた。彼女は云った。
「今夜、海岸へきてくれないか。一緒に行ってもらいたいところがあるんだ」
逡巡は許されなかった。私は彼女の誘いに応じた。
すると、彼女の手が私の手を取り、出口まで案内した。彼女の手が私の背後に回った。背骨の突起のひとつずつに爪を立ててなぞり、彼女は云った。
「いいかい、誰にも云うのじゃないよ。きみひとりでくるんだ」
彼女が戸を開けた。白い光が視界を眩ませた。
私は、この時、してはならないことをした。
彼女の許可を求めずに、振り返ったのだ。
その瞬間の彼女の顔に浮かんだ驚愕と恐怖。
その瞬間の私に去来した驚愕と恐怖。
それはまったく別のものであったゆえに、私と彼女を完全に裂いたのだ。
*
字に、疲れはない。僕は六枚目を急いだ。
*
彼女の左側は、すべて以前のままだった。太陽に透けると麦の色に変化する絹糸の髪も、くっきりと開かれた意志の強い目も、花びらに似たくちびるも、少女の殻を脱ぎ始めた肢体も。私の憧れた彼女だった。
しかし、右側は。
腕が失われ、そして、鼻で分けられた右の顔は頬の骨が削げ、皮膚は血の赤に変色し、ひきつれた筋が幾重にも刻まれていた。眉も睫毛も失った目元は白い部分が強調されていた。あまりにも作りものじみた右半分の顔は、私を脅かすための化粧でも施したようだった。
彼女の反応は壮絶だった。
空気を裂く、刃を鐘に叩きつけるような絶叫をあげて、部屋の暗がりに逃げこんだ。
私は彼女の悲鳴に気壓されて、光の道筋の現れたその部屋に戻ることができなかった。
彼女は部屋の隅にからだを押しあてるようにして、背をまるめてうつ伏せ、叫んだ。
その叫びを聞きつけた母親が、渡り廊下を走ってきた。母親は私を疎ましく一瞥すると、雨戸を閉め合わせた。そして私を睨み、約束させた。
彼女の顔を見たことは忘れなさいと。
私はうなずくほかなかった。
しかし、母親はきちんと私のくちから復唱させるまで、安心しなかった。私は約束した。
「忘れます。絶対に忘れます」
愚かしい約束だった。
恥ずべき約束だった。
彼女の叫びを背中に聞きながら、母親に従い、逃げるようにして廊下を玄関へと戻った。
その途中、彼女の好むミルク粥の匂いが鼻孔を掠めた。
母親は、私のかすかな反応に気づき、怒りの表情を少しだけゆるめた。そこには悲哀が浮かんでいた。
彼女はほとんど食事をまともに摂ろうとしないと云う。私を通したのも、そうすればミルク粥ならば食べてもいいと、彼女が母親に訴えたからだと云う。
子を思う親の気持ちと云うものを充分に理解してはいなかったが、その母親の心の軋みは空気をふるわせて伝わった。
私はその時点で、彼女と交わした約束はすでに破綻したと勝手に判断していた。ゆえに、母親に告げた。親切のつもりだった。
「今夜、海へ行こうと誘われました。いつか、気分転換にでもいかがでしょうか」
彼女の約束が、気分転換などと云う軽やかな代物でないことは、確かだった。
私は完全な間違いを犯したのだ。
母親はかすかに笑んで、卑怯で愚かな私に礼を述べた。
その夜、無論私は海岸には行かなかった。
*
僕は七枚目をめくった。
*
きみならば、私のような過ちは犯さなかったのではないか。私はそう考える。もしきみならば、暗がりに逃げた彼女の肩を抱くことができたのではないだろうか。過大評価ではない。過大評価ではないのだよ。
幼い息子を連れてこの町に越した時、どれだけ私と彼がきみ達家族の温情に救われたことだろうか。特にきみは、現実の遊び相手を持とうとしなかった彼の、初めての友人となってくれた。きみの天性の明るさと誠実さと肉のあるあたたかさとが、彼の内側へ向かう心を、外へと広げてくれたのだ。感謝している。
話を昔に戻そう。
結果的に、彼女は自ら命を絶った。
そう、命を絶ったのだ。
彼女は一切の食事を摂らず、水も望まず、闇の部屋にこもり、衰弱することを選んだ。
これから花開こうとしてゆく少女が、右腕を失い、顔面の半分を焼かれ削がれたのだ。彼女は生来均整のとれた容貌を、あるべき自然な形と思っていただろう。それが突然失われたのだ。絶望を責めることはできない。彼女の絶望や嘆きは、それこそ当然だった。
彼女を追い詰めたのは、追い落としたのは、私だった。
もしも、きみならば、あの日背をまるめた彼女が叫び終えるまで、その肩を抱いてやれたかもしれない。彼女の母親には告げずに、夜の海岸へ行ったのかもしれない。
もしも、私がそうしていたなら、彼女は命を絶つほどの絶望に果たして陥っただろうか。
絶望の淵から、手をかけ足をかけ、這い登る手段を模索しなかっただろうか。
私は、絶望の淵のそれより深く底のない沼に、彼女を突き落としたのだ。
あの日彼女と絶望を彷徨う意気地があれば、もしかしたら、彼女は生きるための光を見出してゆけたのではないだろうか。
私は見捨てたのだ。
誰よりも憧れた彼女を。
*
八枚目へと、悔恨の文字がつづく。
*
彼女の名前、それが片瀬だ。
彼が幼い頃から夢の中で遊んでいると云う少女の名前も。
彼はずっと片瀬と真夏の海岸で会っているらしい。
また、きみが妻に連絡するに際して、離婚の事情を伝えておいたほうがいいだろう。妻と別れる道を選んだのには片瀬が絡んでいる。
彼は突然、別人のように振舞う。きみも目のあたりにしたに違いない。私にはやはりあの片瀬にしか思えなかった。
言葉の使い方、話す調子、声の高さ、笑い方、私を見る侮蔑の目。
妻の前でも、彼は突然片瀬になり、私を卑下して嘲った。
幼児の喋り方ではない。幼児の目つきでも笑い方でもない。
私は怯えた。妻に片瀬のことを、私の過ちを知られることが怖かった。
いつしか彼を通じて、片瀬は私の罪を責めるようになった。
私とふたりきりになると、片瀬に身を譲った彼が、静かにささやくのだ。
あの夜。
本来私が海へ行くはずだった夜。
片瀬は母親によって錠付の納戸に隠され、そして私が告げ口したことを聞かされた。
片瀬は戸を破る気力をなくし、一晩、星明りさえ入らぬ暗闇を睨みつづけたと云う。
繰り返しその情景をささやかれた。
あの日の裏切りを、片瀬は責めつづけた。
片瀬であると云う確信を持たざるを得なかった。
あの片瀬なのだ、私の息子の遊び相手は。
そして、妻に罪を暴露される前に私は彼を連れて逃げた。
妻に非は一点もない。
もしもきみが必要と考えるなら、このくだらない手紙を妻に差し出してもかまわない。
あのやさしい妻ならば、今更と云わずに、彼を愛し育ててくれるに違いないと私は思っている。身勝手で、済まない。妻と彼のために私の財産のすべてを譲る。そのための書類は用意してある。
きみから、妻に連絡してほしい。
きみには心から感謝している。
私は行かなくてはならない。
一度棄てた約束を果たしにゆかねばならない。
彼は彼女が事故に遭ったはずの日時を境に床につくようになった。そして衰弱をつづけている。私は彼女が関係していると確信している。彼女は私がくるのを待っている。呼んでいる。そうなのだ、行かなくてはならない。彼女と同じようにして衰弱してゆく彼を前に、私は今こそ約束を果たしに行かねばならないのだ。
真夏の片瀬が、私を待っている。
海岸で、片瀬が私を待っている。
*
そこで文章は終わり、従兄の署名がなされていた。
中折れ帽を深くかぶり、黒いコオトを着た従兄は、真冬の海岸へ行ったのだ。荷物が少なくて当然だ。従兄には帰りの着替えも仕事の書類も必要なかった。ただ、そのからだがあればよかった。ただ、だれもいない海岸へ辿り着ければよかったのだから。
カデガンのポケツトには、従兄に渡された小さな紙片が入っている。僕はそれを確かめ、従兄の手紙を置いて椅子を立った。
しんと静まった廊下を歩く。
音を立てないように注意して、ドアを開けた。
カアテンを開けたままの窓には、月を隠した大きな雲が流れている。海を漂う舟のように、白い月が雲の波を泳ぐ。雲のうすい切れ目が訪れるたびに、まばゆい月のきらめきが雪に覆われた世界を明るくした。
棺桶じみた青暗い部屋の中、陶器でつくられた人形のような少年は生きているのかいないのか。
ひとさし指を伸ばして少年の鼻に近づける。雪のささやく呼吸を感じる。規則正しく息が指に触れる。ひと息ひと息が、僕の心臓をなでてくれる。
僕には従兄を責めることも、彼女を責めることもできない。
ただ、少年のひっそりとした呼吸がこのままつづけばいいと願う。
今視界ににじんでいる塩辛い液体は必要ない。これがなにに対しての感情のあらわれなのか思考できない。海岸にたどり着いた従兄の迷いも決意も想像したくない。
想像すれば、更に液体があふれるだろう。
更に、喉が熱く締めつけられるだろう。
いつしか液体は僕の目からちぎれて、少年の枕元へと落ちた。
流してはいけない、落としてはいけない。
僕は腕で目をこすった。
見ると、少年の目尻からも、ひとすじの雫が流れていた。
少年はゆっくりと目蓋を開いた。
生まれたばかりのように澄んだ目だった。
少年は乾いたくちびるをかすかにふるわせた。
ガラス玉より透明な雫がまばたきのたびにこぼれる。
僕は尋ねた。
「どうした」
しばらく、少年は答えなかった。
静かに、雫をこぼしていた。
雲がとぎれて月の明かりが窓からさした。
雫が、静かに、静かにこぼれてゆく。
やがて、少年は雫と一緒に声をこぼした。
「今、いなくなったんだ」
こぼれる雫をぬぐうことも隠すこともせずに、少年は天井でゆれる光と闇の模様を見ている。けれど、その目が天井を見ているとは思えなかった。
きっと、白い波の打ち寄せるきび色の砂浜や、ずっと傍にいたのであろう少女の面影を見ているのだ。
態度が大きいな、きみは。
五日月の形にゆるんだ目元だけが、僕の触れた真実の彼女だった。少年にとっての彼女は、幼い頃からただひたすらに友達だったのだろう。病んだベツドにあっても本来の健やかさを失わなかった少年が、それを証明している。彼女の名前を打ち明けた時の、少年の幸福な笑みがそれを証明している。そこに、真実の彼女が存在していたことも。
少年は両手をふるわせながら、顔を覆った。
僕は少年の手を取って、握った。
隠れた両目に、暗い淵が映らないように。
真夏の海になど、少年までもがさらわれてしまわないように。
強く握ったのだった。
絡む、夏の檻