蝉時雨

目が覚めた
雨の音がした
時間は朝の5時を過ぎたばかり
まだ目覚めには早かった
窓から朝日が差し込んでいる
すりガラスの窓を静かに開ける
水色の空と白い雲が見えた
雨は降っていない

でも、確かに聞こえる雨音

耳を澄ませ、外の音を意識して聴く

あぁ、これは蝉

蝉の鳴き声




日が高く登った昼下がり、綾波レイが辿りついた場所は新箱根湯本駅だった。人気はまったくなかった。
レイはホームで電車を待っていた。時刻通りならあと3分後に下りから電車がやってくる。それには乗らない。
それから8分後に上りから電車がやってくる。レイが乗るのはその電車であった。
駅のホームは屋根で太陽の光を遮断されており涼しかった。ホームの片隅にある錆付いたベンチに座り時間つぶしに本を読む。彼女が読んでいる本は後ろ姿の猫と扉が描かれた文庫本だった。

ホームにアナウンスが流れ、下りから電車がやってきた。まばらに人が降りてきた。レイは人の流れに興味を示さず本を読んでいる。再びアナウンスが流れ、ドアが閉まる音。そして電車は去っていく。
静けさがホームに戻った時、レイはふと顔を上げた。

――視線を感じる。

ホームを見渡すと綺麗な赤い髪に蒼い瞳の少女が仁王立ちでレイを睨んでいた。

レイは彼女を知っている。彼女はかつての戦友、弐番目の子 式波・アスカ・ラングレー

アスカはため息をついた。ようやく気づいたのねと呆れた顔でレイに声をかけた。その口調は棘のある言い方だった。

「バカシンジはまだ起きてないわよ」
「……そう」

彼女はさっきの下りの電車に乗ってきた。私がこれから向かう場所へ一足先に訪れていたのね、とレイは理解した。



ネルフは全ての使徒を殲滅し、ゼーレと決別。彼らの陰謀を打ち砕き、今の世界を手に入れた。
LCLの赤い世界ではない。しかし、全てが終わった世界。
全ての人が望んだ、平和が訪れた世界。

だが、

三番目の少年、碇シンジ

彼だけが、あの戦いの日に意識を失ったまま、一度も目覚めない。



「もう起きないわよ。世界の平穏と引き換えに一人の少年は犠牲になった。至極上のヒーローよね、カッコいいわ!……バカがつく、英雄。ムカつく、ムカつく、ムカつくわっ!」

アスカは言葉を吐き出す。自分の中のどす黒い部分をさらけ出す。

「エコヒイキ、この世界は碇シンジを捉えて離さない。離したら、世界は滅びるかもしれない。それでも、」

「それでも」と二度言い、声を詰まらせた。

「アンタはシンジを求めるの?」

そして少しの沈黙後、震えた声で問うた。


世界の人々は使徒を退治したエヴァの存在を崇めながら英雄である操縦者を讃える者はいない。世界の人々の中ではヒーローはエヴァであり、操縦者ではない。
本当の英雄の存在を知るものは極僅か。それは英雄である碇シンジと直接対峙し触れ合った者。レイもその一人である。アスカもシンジを対峙し触れ合った一人。

シンジを知る誰もが、彼の目覚めを待ち望んでいた。
が、しかし、ただ一人、アスカのだけが英雄の目覚めに事に対して葛藤があった。

彼女は心から碇シンジの目覚めを待ち望んでいない。

自分の存在意義を他人、そして自分に認めさせる為に彼女はエリートの道を歩んできた。しかし、救ったのは自分より学力も体力も劣る普通の少年。

怖かった。

アスカは怖かったのだ。
シンジと向き合う事で、自分の役立たずさが浮き彫りになるのではないだろうかと。
実際、そう言い咎める者はいない。これは彼女の心の問題。自己暗示に近いマイナス思考。誰に相談せず、負の感情を自分の中に押し込める。それが彼女の強さであり、弱さであった。


アスカの震える声を聞いてレイはアスカと初めて向き合えた感覚を掴んだ。
アスカを見た。ストレートが自慢の彼女の毛先にくるりと跳ねた寝癖がついていた。化粧で誤魔化していたがうっすらと目にクマができていた。
そして、思う。
彼女はこんなに小さかっただろうか、と。
思った事を口にできる彼女を羨ましいとか凄いとか思った事は今まで一度もなかった。彼女は彼女、私は私。そう思っていた。
でも、今のアスカに思うレイの感情は「救いたい」だった。

私に彼女を救えるだろうか。と考え、すぐに悩むのはやめた。
救えるかは分からないが自分の中にある言葉を彼女に伝える事にする。
自分の思いと言葉と、そして――――

「この世界が本当に碇君が望んだ世界なら決して滅びない」

願い。

自分が傷つくことは嫌い
でも他人が傷つくことはもっと嫌い
他人が傷つくくらいなら自分が傷つく
とてもとても優しい人
それが碇シンジという少年

「私の代わりはいない、碇君の代わりもいない」

そしてアスカの代わりもいない
これは私の言葉ではなく彼の言葉
彼がここにいれば、必ず起こす行動

「碇君は私に手を差し伸べてくれた」

あの日の事を思い出した
生きる事を諦めた自分
代わりはいないと叫び私に手を差し伸べてくれた
右手にあの日の熱が再び宿る
彼の手の感触を思い出した

「だから、次は私の番」

彼がこの世界に帰りたくないなら、私が救う
この手を差し伸べる

彼が望む世界に私が存在する
その私が彼の存在を望む



『――――3番線に電車が参ります、ご乗車ご注意下さい』

電車が来るアナウンス。時待たずして電車は到着した。降りるものはいない。レイは手に持っていた文庫本をカバンにしまいベンチから立つと一番近いドアから電車に乗った。背にしたドアへ振り向くとアスカが自分と対面するようにドアの前に立っていた。
先程までレイを睨んでいたきつい目ではなかった。眉間の皺が消えていた。肩の力が抜けているようにも見えた。

「…………レイ」
「なに?」

アスカが何かを言いたそうに、しかし躊躇っていた。意を決して思いを言葉にしようと顔を上げたとき、電車のドアが閉まった。
アスカが何か喋っている。しかし、電車の分厚いドアで聞こえない。ドアの窓に手を当て、アスカの口の動きを凝視する。アスカの言葉を読み取る。アスカの口の動きに自分の口の動きを重ねる。

アスカの言葉を読み取ったレイに胸から何かが湧き上がった。
それはとても暖かで、くすぐったい新しい感情。
その言葉に、レイは優しい眼差しでアスカを見つめ、頷いた。

2人を違いさせながら電車は動き出す。
しかし、彼女達の心は違えていない。
その感情は2人の心に確かに残っていた。




新箱根湯本駅から30分、レイは無人の駅に降り立った。電車の切符を指定のボックスに入れ駅を出たレイは北へと続く一本道を歩き出した。
周りを見渡せば青々と生えてる稲が一面に広がっている。稲が生える田畑には水は張っていなかった。稲が根を張る為に必要な事でこれを田干しと言う。田んぼに水が張っている時はどんなに暑くてもひんやりとした風を感じることができた。しかし、今はない。
靴の底が熱い。夏の日差しが突き刺さったアスファルトの熱が伝わってくる。周りの風景が陽炎でゆらゆら揺れている。
レイは立ち止まりカバンから少し大きめのタオルを取り出し頭を覆うように被った。次に赤い水筒を取り出し水分補給をする。

タオルで軽く外部の音を遮断しても、耳に聞こえる蝉の声。
空高く鳴り響く。鳴り響く。

コップ一杯の水を飲みきり水筒をカバンにしまうとレイは迷いなくある場所へとまっすぐに歩いた。
数十分後、レイが辿りついた場所は病院だった。自動ドアを開けると冷房の風が彼女を出迎える。レイは病院独特の匂いに心の安らぎを感じた。
最初は心地よかった風もエレベーターを使い3階に登った時には体に寒気を及ぼしていた。寒さがレイを支配する。彼女は先程まで頭に被せていたタオルを首元へと下ろした。
少し広いロビーへたどり着くと女性が2人話していた。レイは彼女らが誰なのかすぐ分かった。自分の上司である赤木リツコと葛城ミサト。

「レイ」
「赤木博士、葛城二佐」

挨拶をするか迷った時、レイの存在に気づいたリツコから先に声をかけられた。レイは2人の名を呼びぺこりと挨拶する。

「毎日ご苦労様」
「今日は熱中症対策してきたの?」
「……タオルを」

レイは先程まで自分の首にかかっているタオルを2人に見せた。

「結局それにしたんだ」
「日傘の方がいいんじゃないかしら」

レイは首を振り、これでいいと表現した。
数日前、レイはぎらぎら照りつける真夏日に病院まで歩いてきて、倒れた。
医者から熱中症と診断され、点滴を打ちながら1日の入院を余儀なくされる。
見舞いに来て患者になるなんて本末転倒、レイは同じ事を繰り返さないよう熱中症対策を考え、見舞いに来る際はタオルと冷たい水が入った水筒を用意することに決めた。帽子や日傘も考えた。でも、病院に入った後の、この冷房の寒さを凌ぐにはタオルが一番ちょうど良かった。
レイが2人にシンジの容態を聞こうと思った時、気づいた。葛城ミサトの目が赤く充血し、目元にクマがある事に。そういえばアスカの目の下にもクマがあったと思い出す。

「じゃ、リツコ。あと宜しく」
「えぇ、貴女も無理しないでね」

「またね、レイ」と声をかけレイが来た道を辿っていくミサト。彼女の後姿を見つめるレイとリツコ。
蝉の声が聞こえた。外で聞いた時より、大きく聞こえる。まるでミサトの去り際を見送っているかのように。
エレベータに乗る前にミサトはこちらを見て手を振った。レイはその姿を黙って見つめ、リツコは合わせるように手を振った。
ミサトの姿が見えなくなった。レイはすぐにリツコと向かい合わず、窓の外へと視線を移した。大きな木からの枝葉が見えた。葉の緑が綺麗に生い茂っている。

「どうしたの?」
「今日は蝉の声がよく聞こえるんです」
「もしかしたら秋が近いのかもしれないわ」
「秋?」
「夏の次の季節」

碇シンジが起こしたサードインパクトで地球の軸はセカンドインパクト前に戻った
暦どおりではないがもうすぐ夏が終わる
涼しくなって周りの色が変わる
緑色が赤や黄色に染まり、葉が散る

春と夏の間には雨が降り次の季節へと空の青さが色濃くなる
秋と冬の間には木々の葉が落ち逝き次第に雪へと変わる
冬と夏の間には溶けた雪から新しい生命が顔を出す

そして

夏と秋の間には夏の終わりと共に寿命を向かえる蝉達が一斉に鳴り響く
自分達の命と引き換えに訪れる季節を招くかのように
夏が終わりを告げる声、蝉時雨
季節の変わり目を伝える、音


リツコの説明を聞いたレイは、黙って何かを考え、その気持ちを言葉にした。

「訪れる季節を招く音なんですね」
「そうよ。自分達の命と引き換えに」
「寂しくて、切ない」
「………………」
「その先にある知らない季節が尊く感じます」

そのレイの言葉にリツコは目を大きく開き驚いた。そして静かに微笑んだ。彼女の成長を心から喜び、微笑んだ。彼女は生きている、生きることに希望を満ちている。今までの彼女には決してなかった感情だった。それもこれも、眠っている彼のおかげだろう。

「赤木さん」

奥の通路から白衣を着た医師がやってきた。リツコは医師の呼びかけに振り向く。

「303号室の子の脳波の変化が見られました」
「変化?」
「はい」

医師が歩いてきた通路の奥、303号室に碇シンジは眠っている。あの戦いが終わった後からずっと。
医師の説明によると今までのシンジの脳波は深い眠り、ノンレム状態であった。が、今確認した所浅いレム状態に変化したとの事だった。

「もうすぐ目が覚めるかもしれません」

その言葉にいち早く反応したのはレイだった。

「赤木博士」

リツコは医師に聞いた。病室に入ってもよいかと。医師は外部からの声に反応するかもしれませんと病室に入る事を許可してくれた。くれぐれも過激な行動は控えて優しくお願いしますと注意含めて。

「レイ、シンジ君をお願い」

レイは小さく頷くと医師を横切りシンジが眠る病室へと歩いていった。その足取りは今までの中で一番早かった。



レイが病室に入るとまず聞こえたのが心拍数や血圧を表示する機械の音だった。
次に蝉の声。気づけばカーテンが開いていた。空気の入れ替えで看護士が開けていったのだろう。
レイはシンジが眠るベットに近づく。久々に見るシンジは酷くやせ細って白かった。
生きているのか死んでいるのか分からない。
点滴を繋ぐシンジの右手が布団の上から出ていた。レイは恐る恐るその手を握る。
暖かなぬくもり、シンジが生きていることに安堵した。そして涙した。

「碇君」

自分の右手とシンジの右手を繋いだまま、彼女は語りかける。

「もうすぐ、夏が終わるの」

シンジは動かない。レイはゆっくりと語る。

「新しい季節がやってきて、紅葉が見られるの。とっても綺麗な景色だって赤木博士が教えてくれた」

伝わる、シンジのぬくもり。右手をぎゅっと握る。自分の今の気持ちを言葉にする。

――貴方と一緒に歩きたい、そして

「その景色、碇君と一緒に見たい」





その問いかけに答えるかのように微かにだがシンジの右手がレイの右手を優しく握り返した。

蝉時雨

蝉時雨

■ NEON GENESIS EVANGELION 綾波レイの御話

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-29

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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