THE KNAPSACK TO THE COURTHOUSE
恋人の家からの帰り道、鳴海は置き引きに遭いリュックを盗まれてしまう。 しかし辿り着いた駅前で見付けたリュックには思いも寄らない物が詰め込まれていた。
なんとか駅前まで辿り着いたものの、歩き疲れた鳴海は完全にへばっていた。まだここから電車の駅三つ分の距離を歩かなければならないのかと思うと、気持ちはどうしてもヘコんでしまう。
喉もカラカラに渇いていたが、自販機を前にしてジュース一本買う事が出来ない自分が情けない。
重くなった自分の足を引き摺るように前へと運びながら、視線はすぐ脇に並んでいる放置自転車に向けられていた。
これだけあるんだ。中には本当に放置されたままの自転車が一台くらいあるに違いない。そんな風に考えながら、それらしい物を探し始めた。
「あれ?」
ちょうど目を付けた未施錠の自転車の籠に、見たようなバッグが収まっていた。手を伸ばして取ろうとしたが、あと少しという所でどうしても届かなかない。
鳴海は仕方なくその自転車を歩道に引き出すと、恐る恐るという感じでバッグを取り上げた。
やはり自分の物に間違いなかった。
こんな偶然あるもんなんだな……。鳴海は感慨に浸りながら、汚れを叩き、中を掻き回して財布がないか確かめ始めた。
「ちょっとキミ、これ本当に君の自転車?」
「え?」声を掛けられたのが自分だと気付いた鳴海が後ろを振り向くと、そこには制服に身を固めた警察官が立っていた。
答えは、「もちろんそうですよ」でも「僕のじゃありません」でも、よかったのだ。それなのに、まだ、悪い事をした訳でもないのに鳴海は慌てふためいていた。
本当はそんなつもりなどなかったのに、勝手に身体が動き、とっさに自転車に跨った鳴海は、そのまま走り去ろうとして転んでいた。チェーンが外れてバランスを崩した為だった。
肩に痛みが走った。転んで打ち付けたに違いなかったが、まさにそこを警察官の手が掴んでいたのだ。その手は自分を自転車泥棒と決め付け、逃がさないよう強い力で押さえ付けていた。
結局近くの交番に連れて行かれ、事情を聞かれる事になってしまった。なんという間抜け。美紅にも会わせる顔がない。こんな状況で、今さら置き引きに遭ったとも言えなかった。
鳴海は初めから何を聞かれてもだんまりを決め込んだ。そんな事をしても何にもならないのは分かっていたが、チラつく美紅の顔が口を重くさせていた。
あんなに嬉しかった出来事の後のこんな惨めな失態に、鳴海は深く落ち込んでいたのだ。
それに目の前の警察官も、たかが自転車泥棒ひとりに時間を掛けたくないのが、ありありと見て取れた。
そんな態度に鳴海は一層腹が立った。お前が声なんか掛けなければ、今頃とっくに家に着いてのんびり出来たはずなのに……。
「開けるぞ、いいなっ!」
その手にはせっかく戻ってきたリュックがあった。何を訊いても口を開かない鳴海に、ついに彼らの忍耐も限界に達したらしい。
もう、どうにでもしてくれ。鳴海が不貞腐れたように横を向くと、もう一人の警察官も加わってリュックの口を開き、その中身を机の上にぶちまけ始めた。
なんだ、こりゃ?
その作業を横目で見ていた鳴海の前で、まったく見覚えのない物が大量に吐き出されては、机に大きな山を築いていく。
その中のひとつを手にした警察官が、何か閃いたように奥へ走って行った。鳴海がその山に手を出そうとすると、一喝されて手を引っ込めた。
チェッ……。
誰が詰め込んだのか知らないが、やはり自分の財布はなさそうだった。
結構入ってたのにな……。そう思いながら鳴海は大きな溜息を吐いていた。
***
鳴海は、駅の改札を出た所で小さく手を振る美紅の姿を見付け、手を上げて応えた。バスを降りた所でいいと言ったのに、わざわざ駅まで迎えに来てくれたらしい。
「サンキュ、来てくれたんだ」
「迷子になると困るでしょ?」そう笑う彼女に、「子供じゃないんだから……」と言い返しながら、ふたりは路線バスに乗る為に駅前のロータリーへ向かった。
彼女によれば駅前だけは栄えているように見えるが、少し離れただけで大分寂しくなるのだという。バスから車窓を眺めていると、なるほど彼女の言う通りだった。
駅から四つ目のバス停に降り立ったふたりは、ぶらぶらと散策するように歩き始めた。途中で腕を絡めると、彼女も鳴海の手を握り返してきた。ふたりの距離は自然と近付き、彼女のいい香りが鳴海の鼻をくすぐってくる。
でもそんなふたりが歩く道の両側には、背の高い草に覆われた朽ち果てた倉庫、建てられて時間の経ったアパートなどが建ち並び、空き地になっている区画も多かった。
「結構、寂しい感じだね」鳴海がそう言うと、彼女は頷きながら、空き地に捨てられたバイクの残骸を見詰めていた。
「一時期何かがこの辺に出来るっていう噂があって、それから急にこんな風になっちゃったの。お蔭で暗くなるとちょっと怖いのよね。もう少し行くと大丈夫なんだけど……」
言った傍から一戸建ての住宅が増え始め、じきにいかにも住宅街という町並みに足を踏み入れていた。
確かに大学に通うのに不便な所ではないが、帰りが遅くなる彼女の事を考えると、そんな不安も分かる道のりだった。
そんな事を考えていると、じきに美紅の住むアパートが見えてきた。角地にある洒落た感じの二階建てのアパートは、出来て日が浅いらしく日射しを浴びてきらきらと輝いて見えた。
初めて招待された美紅の家はワンルームで、中は若い女の子らしくなく、シックな装いで纏められていた。
「ひとり暮らしなんだから、もっと自由に飾り付ければいいのに……」少しイメージが違った鳴海はそう言って、部屋を見渡した。
「私はこういうのが好きなの」
ふたりは付き合い始めてまだ日は浅かったが、お互いに何かしっくりくる物を感じていた。ウマが合うというか、一緒にいて疲れる事がないのだ。
このまま彼女と結婚するかもしれないな……。鳴海にはなんとなくそんな予感があった。
そう思うと、彼女と並んで食べる夕食はまるで将来の自分達の姿を見ているようで、自然と顔の筋肉が緩み、デレデレと締まらない表情になってしまう。
一品だけが彼女の手作りで、後は出来合いの物だったが、ふたりで食べる食事が楽しくないはずがない。
大学の友達の話しやバイト先で起こった出来事で盛り上がりながら、ご飯のお代わりをよそってくれる彼女の姿を、鳴海は眩しそうに見詰めていた。
洗い物は鳴海も手伝い、お腹が膨れたふたりはしばらくコーヒーを飲みながら雑談に花を咲かせた。
「そんなにじろじろ見られたら恥ずかしいよ」部屋を見回す鳴海に彼女が釘を刺した。本当は美紅を見詰めたかったのに、どうにも照れて視線が彷徨ってしまう。
目に入った時計はまだ八時前を指していた。
鳴海は明日は用事があって、朝早くに家を出なければならない。準備があるので、今日は終電に間に合うように家に帰らなければならなかった。
時間はあまりなかったが、それでも美紅を抱きたくて仕方がない。自分がここに来た時から、彼女もそういう展開になると思っているに違いない。
美紅がトイレに立った隙に部屋の隅に置いてあった自分のリュックを開き、彼女の欲しがっていた小物を取り出した。
「何してるの?」気が付けば彼女が戻っていた。
「座って」鳴海はそう促すと、向かい合った美紅の目を見詰めながらプレゼントを手渡した。
包みを開いた彼女はちょっと驚き、そして嬉しそうに笑った。
「ありがとう。覚えててくれたんだ」
やがてふたりの唇がそっと触れた。彼女は時計をちら見すると、まだ早いんじゃないかなぁ、という表情をみせた。
そんな彼女ともう一度キスを交わした鳴海は、その身体をきつく抱き締めた。すると彼女の手も鳴海の背中に回ってくる。
やがてふたりはそのままベッドに雪崩れ込んでいく事になった。
行為を終えたふたりは、しばらく抱き合いながら余韻を楽しんだ後、先にベッドを出た美紅がシャワーを浴びにバスルームに消えて行った。
幸せいっぱいの気分に浸りながら、鳴海はコンドームの口を縛ってゴミ箱があった辺り目掛けてそれを投げ込むと、急に廊下から聞こえてくる水音が気になり始めた。
彼女の後を追って、そのシルエットが浮かぶバスルームの扉に手を掛けると、返ってきた言葉はひと言、「バカ!」。
シャワーを片手に股間を洗っていた彼女の表情は、驚きからすぐに怒ったそれに変った。鳴海は彼女に怖い目で睨まれながら、バスルームから追い出されるハメになった。
「もう、ホントにエッチなんだから!」
彼女の怒った声がさらに鳴海を追い掛けてきた。
小さく手を振る美紅の姿に後ろ髪を引かれながら、部屋を後にした鳴海はバス停までのんびりと歩いた。
最後は彼女の機嫌も直ったし、本当はスキップでもしたい所だったが、さすがにそれは恥ずかしいので止めた。
着いたバス停には誰もおらず、時刻表を見ると次が駅へ向かう最終だった。
ベンチに腰掛けた鳴海は、夜になっても寒くなくなった季節のほの暖かいそよ風に吹かれ、ついうとうとしてしまった。張り切り過ぎて疲れが出たのかもしれない。
眠っていたのはほんの十分足らずだったが、短く深い眠りは、彼の後ろを怪しい通行人が通った事など気付かせるはずもなかった。
「あれ?」
遠くにバスが見えた所で、財布を取り出そうとした鳴海は初めてその異変に気が付いた。
普段財布は尻のポケットに押し込んでいたが、彼女とエッチする時に落としたらヤバイと思い、リュックの中へ移したのを思い出したのが引き金だった。
その脇に置いてあったはずのリュックが消えていた。
「あれ? どこにいったんだよ」
目の前を最後のバスが無情にも通り過ぎて行く。
帰宅する為の金がなくなった鳴海は、ただただ途方に暮れるしかなかった。
***
倒産した工場の敷地には、背の高い草が伸び放題に茂って倉庫のような建物を包み、人目から遠避けていた。建物の壁は風化で所々が崩れ落ち、人気がなくなってから長い時間が経っている事を感じさせる。
人家の少ないこの辺りの道は夜になると真っ暗になり、周辺に住む女性にとって怖い場所のひとつになっていた。
その建物の中に引き擦り込まれ、ひとりの女性が襲われていた。
男は彼女の振り回す手をなんとか掴むと、持参したガムテープで後ろ手にぐるぐると巻き付けて、すぐに地面に押し倒した。
悲鳴を上げようとするその口を塞ぎ、剥き出しになった女の胸を男の手がまさぐり始める。
必死に逃げようとする女を押さえ付けながら、男の腰の動きが早く、激しくなると、女は再び声を上げ始めた。
そんな頭を振る女を無視して腰を振り続けた男は、やがて呻き声と共に果てていた。
……その時だった。
突然ドサッという物音が響いた。
男は行為を止め、じっと辺りを窺った。足音はしない。人が動くような気配もなかった。
どうやら離れた場所に何かが放り込まれただけのようだ。
男は女の身体から身を起こすと、彼女を一緒に引き擦りながら、音のした方へ歩いて行った。
屈み込んで薄暗い物影に目を凝らすと、崩れた壁の隙間から放り込まれたらしいリュックが見て取れた。
脅かしやがって……。
男がそのリュックを拾い上げた瞬間、突然その手を振り切って彼女が走り出した。
引き摺られたせいで手のガムテープが外れ、彼女はその好機を逃さず行動に出たのだ。
慌てた男は落ちていた角材に脚を取られ、頭から地面に倒れ込んでいだ。その拍子に持っていたリュックの口が開き、中身が飛び出して辺りに散乱した。
「クソっ……」
男が起き上がった時、すでに女の姿は見えなくなっていた。
彼女はこの辺の人間に違いなかった。すぐにここを離れた方がいい。
男は逃げられてしまった女を諦め、散らばったリュックの中身を律儀に戻すと、ついでに彼女が残して行ったブラとパンツ、そして落ちていたガムテープの残骸もその中に詰め込んだ。
ちょうどいい入れ物だったので、このまま持ち帰る事にした。
リュックを手に取って建物を後にしようとした男は、覆面をしたままなのに気付いて、慌ててポケットに仕舞い込んだ。
辺りを見回し、誰もいない事を何度も確認してから、小走りで建物を抜け出して行く。男は建物が見えなくなるまで走り続けると息が上がっていた。
車の止めてある川べりまでは少し距離があるが、もう足が言う事を聞かなかった。
逃がした女を惜しみながら、男は指に引っ掻けたリュックを前後に揺らし、街灯もまばらな薄暗い道を歩いていた。
音に気付いてちらりと後ろを振り返ると、近付いて来る自転車に道を譲ろうと道の端へ寄った。
自分がひったくりに遭ったのだと気付いたのは、勢いによろけて尻餅を着いた後だった。
さっきの自転車が脇に差し掛かった瞬間、手にあったリュックが奪い取られていた。
畜生。狙われてたって事か……。
後を追い掛けようと慌てて起き上がった物の、男はさらにスピードを上げて逃走する自転車を見送る事しか出来なかった。
「コンチクショウ……」もう一度同じ言葉を口にした男は、打ち付けた尻をさすりながら、近くに転がっていた石を蹴飛ばした。
大事な下着が盗られてしまった事に、心底がっかりしていたのだ。だからといって警察に届ける訳にもいかない。
すでに犯人の姿は見えなくなっていた。
角を曲がった時にちらりと見えたその姿から分かったのは、犯人が若い男だという事だけだった。
***
右手で奪ったリュックを肩に掛け、男は適当に道を走り抜けながら、後ろから誰も追い掛けて来ない事を確認していた。
大丈夫そうだと思えた所で、乗っていた自転車を止めて、川沿いの茂った草むらの中に押し込んで乗り捨てる事にする。自転車は盗んだ物で、いつも使い捨てだった。
家まではまだ少し距離があるが、ひったくりと言えば原付か自転車だ。歩いている人間は疑われない。そう思って、家の近所では徒歩で通す事に決めていた。
いつものようにボロいアパートに帰り着いた男は、部屋の電気を点け、早速今日の戦利品の確認を始めた。
ハンドバッグと買物袋がひとつずつ。どちらも綺麗な身なりのおばちゃんだったので期待していたのに、財布の中身はどちらも数千円といった所で、しょぼい成果だった。
男はカードなどには興味がなかった。使えばすぐに足がつくし、捌くようなルートも持っていなかったからだ。
最後に奪ったリュックは土埃で汚れていた。しかも中身を出してみれば、女物の下着や砂の付いた小物類が入っているだけで、金目の物は何一つ見当たらない。
「まったくこんな物持ち歩いてるなんて、どういうヤツなんだよ……」擦れ違った際にちらっと見ただけの、これと言って特徴のない男の姿を思い浮かべた。
まったく、どいつもこいつも……。
がっかりした男はさっきの財布から現金だけを取り出すと、後でまとめて捨てる為にリュックに要らない物すべてを詰め込んでから、ベッドにひっくり返った。
一万にも満たないような成果では、とても生活費の穴埋めにならなかった。最近は警察の警戒も厳しいし、今までやった事のない場所へ足を延ばそうか……。
そんな事を考えていた時だった。
「火事だ!」
どこかで甲高い男の声が叫んだ。
次いで、「階段はもう無理だぞ」と声が上がり、右往左往する足音が玄関の前を駆け巡った。
「どこが火事なんだ?」様子を見ようと玄関の扉を細く開くと、白い煙が部屋の中に入り込んで来た。
マジか? ここが火事なのかよ……。
慌てて扉を閉じた男はひとつしかない窓に向かって走っていた。
建付けの悪いサッシを開けると、ちょうど隣の住人が飛び降りた所だった。
ここは二階だ。なんとかなるだろう。身を乗り出すとあちらこちらから炎がちらちらと顔を見せている。誰かが叫んだように、確かに火元は階段に近い部屋のようだった。
振り返ると、玄関の方から白い靄が広がって来るのが見えた。もう色々持ち出す時間はなさそうだ。
急いで携帯と財布をズボンに押し込み、お気に入りの帽子だけを頭に乗せて、手摺りに手を掛けた。
また誰かが飛び降りたのが見えた。
「早くしろっ! 受け止めてやるからっ!」階下に集まった人達から声が掛かる。
意を決して飛び出した男の脚に引っ掛かったリュックが、自分より遠くへ飛んで行くのが見えたかと思うと、身体は無事に地面に着地していた。
勢いで転がった自分を複数の手が立ち上がらせてくれる。
「危なかったな……」そう言って背中の汚れをはたいてくれる誰かに礼を返しながら、彼が指差すその先に目をやった。
すでに窓の内側が赤く染まり、たった今まで過ごしていた部屋から勢いよく煙が吹き出し始めていた。
***
女が近くに自転車を置いてアパートに戻ってみると、二階建ての建物のほとんどの全ての窓から炎が吹き出し、到着の遅れていた消防車がまさに活動を始めようとする所だった。
周辺はごった返し、その様子を携帯のカメラに収めようと、多くの人がそのレンズを建物に向けていた。
二階の部屋のひとつから住人が飛び降り、周囲から悲鳴が上った。着地した男性をすぐに周りの人々が取り囲み、怪我がないか声を掛けながら抱き起こしている。
彼と一緒に何か飛んで行ったように見えたが、途中で見失っていた。
ようやく放水が始まった。古い木造のアパートは完全に火に包まれ、とても焼け残りそうもなかった。
しかしそんな事はどうでもいい。炎によって明るく照らし出される自分の顔。大勢の野次馬。そして喧噪感。女は久しぶりのこの雰囲気に心躍らせていた。
ポケットの中に手を入れ、火元になったライターを弄びながら、女は崩れ落ちる建物を見詰めて続けた。
すごいわ……。赤い炎に見惚れた女は、無意識に手にしたライターが地面に落ちた事にも気が付かない。
しかし方々から放射される水の威力はすさまじく、焼き尽くされて燃える物も減った建物は、じきに火の勢いが弱まり始めた。
赤い炎の代わりに、風に流された煙が充満し、灰が降り注ぐようになると、少しずつ人々が散り始める。
徐々に醒めていく熱気の、終わってしまった、と彼女は思った。燻るような火事になど興味はなかった。
急につまらなくなった女は、人の流れに乗って自転車を置いた場所へと引き返す事にした。
あれ? ライターがない。
どうも手持ち無沙汰だと思って足元を見ると、地面に転がっているのが見えた。
こんな物がここにあったらマズいじゃないの……。女はすかさずそれを拾い上げると、急いで人波に紛れ込んだ。
ざわめく彼らの会話は、火事の話し一色だった。自分が火をつけたと言ったら、皆どうするだろうか? 彼らの反応を想像しながら、のろのろと歩いた。
「あら?」
自転車に近付いてみると、前籠の中に何かが入っていた。取り出してみるとそれは青いリュックだったが、あまりに汚れているそれは、とても誰かが使っているようには見えなかった。
すぐに捨てようとしたが、何かいい物が入っているかもしれないと思い直し、一応中身を確かめてみる気になった。
でもそれも丸められた女性物の下着が見えた時点で止めた。どう考えても不潔だったし、誰かがゴミを捨てていったとしか思えなかったからだ。
思い付いてポケットの中のライターを取り出して、それだけを押し込んで元に戻した。
どこかにゴミ箱くらいあるだろう。
鍵を外して自転車に跨った女は、そのまま勢いをつけてペダルを漕ぎ始めた。
住宅街を抜け、駅前に辿り着いた時、パトカーやバイクが自分の方へ向かって走って来るのが見えた。
まさか自分が火を点けた犯人だと分かるはずがないと思いつつ、女は内心焦っていた。
証拠になりそうな物はライターだけだ。女は籠のリュックに手を伸ばすと、路肩に止められていた大量の自転車の列へ放り投げた。
それが不審な行動だったと気付いたのは、パトカーの車列が自分の脇を通り過ぎ、何事もなく後方へ走り去った後だった。
女は自分が意外に小心者だった事に苦笑いしていた。大それた事をしている癖に、と思ったからだ。それでも女にとって放火は、止められない、突き動かされる何かがあるのだった。
リュックはどこへ行ったしまったんだろうか?
街路樹が影になって、自転車のある辺りは暗くてよく見えない。これでは捜し出すのも大変そうだった。今さらそんな事に時間を費やしたくもない。きっと誰か捨ててくれるだろう。
そんな時、駅前にある大きな時計が目に入った。
もうすぐダメ亭主が帰ってきてしまう。自分が家にいないとなれば、また延々と説教されるのは目に見えていた。
女は時間に遅れまいと、急いでペダルに足を乗せると、そのまま闇の中へ消えて行った。
***
傍聴席には美紅の顔があった。こんな形での再会など一体誰が想像出来ただろうか?
裁判官が入廷し、起立、礼の掛け声に合わせて、法廷の全員がそれに従った。そしてもう一度着席した後、鳴海だけが再び起立を求められた。
目の前に裁判官席。横に弁護士、検察官席。そして背中に傍聴席が並んでいる。
鳴海を見詰めながら、そして諭すように、中央の裁判官が口を開いた。
「主文の前に判決を読みます」
その声は少しの間を作り、そして続けた。
「判決。被告、鳴海吉和を懲役十三年に処す」
裁判官の声が厳かに法廷に響いた。傍聴席からの微かなざわめき。被告人席に立たされれていた鳴海は、呆然とその言葉を聞いていた。
結局何ひとつ覆らなかったというだった。
本当にここは日本なのか? なんで俺が懲役刑になんかになるんだ。悪意があるとしか思えない判決に、鳴海の身体の中で怒りが渦を巻いていた。
着席の声を聞き逃して立ち尽くす鳴海を、戒護員が無理矢理席に着かせようと肩を掴んだ。
「では、判決の理由を述べます。一。平成二十三年八月二十日。被告、鳴海吉和は…………」
もう何も耳に入らなかった。俺が何をしたっていうんだ。なんでこんな所に座らされなければならないんだ……。
今までの取り調べや拘留で鳴海の不満は鬱積していた。抑え切れない怒りが爆発し、鳴海は再び立ち上がっていた。
「俺は何もやってない! どうして分からないんだっ! ちゃんと調べたのかよ!!」
驚いた裁判官が途中で沈黙し、怒鳴り散らす鳴海は再び取り押さえられていた。
「俺は置き引きに遭ったんだ! 被害者なんだぞっ! それなのになんでこうなるんだ…………」
口を閉じない鳴海に退廷が命じられる。駆け寄った二人の戒護員に抱えられて、鳴海は法廷から連れ出される事になった。
扉の外に姿が消えても尚、鳴海の大きな叫び声が響き渡る。
やがてそれも聞こえなくなり、再び静かになった法廷で、裁判官が粛々と判決理由を読み上げ始めた。
罪状は、強姦、強盗、建造物放火、そして窃盗未遂。
襲われた女性が示した場所から、鳴海の体液や破れたコンドームなどが発見され、彼のリュックからその女性の下着が発見されていた。下着に付着していた物と現場の土も照合済みだった。
又、別の場所でひったくりの被害に遭った女性の財布が、やはり鳴海のリュックから出ており、いずれも決定的な証拠として採用されていた。
さらに火災現場で撮影された野次馬の写真にも鳴海の姿が認められ、煙草を吸わない彼のリュックからライターが発見されていた。しかもそのライターには、現場で付着したと思われる灰の成分が検出されていた。
そして全ての物証の品から彼の指紋が検出されたのだ。
あまりに物証が揃い過ぎ、警察も検察も初めから鳴海の話しに耳を傾ける気などなかった。
「置き引きに遭った? それが戻って来た? しかも物証が詰め込まれてた、だと? バカも休み休み言えっ!!」
そう言って刑事の手が机を叩き付けた。
その取調室でのひとコマが、鳴海の境遇のすべてを物語っていた。
美紅の家にも刑事が来て、鳴海が自分の家を出た時間などを確認して行った。いずれの事件も彼が家を出た後に起きており、そして駅までの道のりで発生していた。
被告席が空席のまま進行していく法廷に、いたたまれなくなった美紅はハンカチで涙を押さえながらを立った。
今でも彼のした事が信じられない。
自分とセックスした直後に別の人を襲ったのか? お金に困っていた訳でもないのにひったくりをしたのか? なぜ見知らぬ土地で放火などする必要があるのか?
しかし事情聴取で反論した彼女の意見は全く採用されなかった。
大好きだった彼。無実を訴え続ける彼に、これから自分はどう接したらいいんだろう?
美紅は裁判所を出た所で、止まらぬ涙を拭い続けていた。
***
鳴海は別室に拘束されても、喚き散らすのを止めなかった。
しかしその言葉は誰に受け止められる事もなく、ただコンクリートの小部屋に反響しただけで、やがて何事もなかったように消えていった。
THE KNAPSACK TO THE COURTHOUSE