白は「はじまり」の色
プロローグ
制服のシャツの白がだんだんくすんでいく。
僕は延々と続く霧の中を歩いている。立ちこめる霧の白に対比する程でもないが、己の存在はこの空間に於いては黒にあたるのだ。そんな『黒』の自分の中でも白の要素をはらんでいたシャツさえもが、少しずつくたびれて、黒くくすんでいく。
なぜ自分が、こんな空間を歩んでいるのかはわからなかった。記憶をたぐれば、何の変哲もない日常が顔を覗かせる。僕の記憶の中でそんな日常と、この非日常の真っ白な風景が段差なく繋がっているのだ。
気が付いたら、霧の中を歩いていた。
茫洋たる前途に滅入ることもなく、ただ歩いていた。
確かにちょっと前までは学校にいて、友達と他愛のない会話をして、大嫌いなあの教科の授業を受けていた。なのに、一体何が原因で、何の因果で、こんな場所にいるのだろう?
思えば、その『ちょっと前』という感覚もだいぶ怪しい。もしかしたら、ほんの数分前かもしれない。はたまた、数日前、あるいは何年も前、想像もつかないほど遠い昔かもしれない――
僕が知りえるのは、恐らくもうすぐこの霧の世界から抜け出すことができるということ。肌にじかに、霧の粒子のひとつひとつが語りかけてきたことだった。
嬉しいかと問われれば、否定できない。ただ、純粋な喜びだけが存在している訳ではなかった。これから何が起きるのか、底抜けな不安を感じていた。
白は何もかものはじまりの色だ。
ならば、僕の身には何がはじまるというのだろうか?
#故郷
白は万物のはじまりを表す色だ。
たとえばそれはキャンバスであり、白無垢であり、すべての命である。いつからか私は、その色を見ると時折そんなことを考えるようになった。どこかに遠い記憶を忘れてきてしまったように、懐かしさともどかしさで胸がいっぱいになる。
意味もなく滲むこの涙は郷愁からだろうか。もっとも古い記憶の中でも自分の故郷は紛れもなくこの地である。私はこの国で生まれ育った。今は生まれ育った町を離れてひとり暮らしをしているが、本当の生家をここまで恋しく思ったことはない。
そういえば、まだ私が少年だった頃、友人の少女が「わたしの故郷は本当はここじゃないの」と嘆いていた。そのときはありがちな幻想だと思いつつも、好意を寄せていたその少女を嘘で慰めた。今、その少女がどうしているかは知らない。
私は、大人になったのにありもしない故郷を想って部屋でひとり震えているのだ。
ふらふらと立ち上がり、新しい空気を招き入れるために窓を少しばかり開けた。十一月なかば、すっかり冷え切った冬の空気がその僅かな隙間から流れ込んできて、澱んだ心が寒さに洗われる。
また明日には、何事もなかったかのように日常に戻るのだ。
そう思って、軽く溜め息をついた。
私の休日の過ごし方はある時から――たしか、ひとり暮らしを始めて一ヶ月ほどした頃から、布団の中でうずくまり架空の故郷を思い続ける、そんなものになった。はじめは情けなくてしかたがなかった。労働に勤しんでいるときは思いもしないのに、休みの日になると逆らえぬほどに脳の奥深くで見たこともない無数のイメージが憂いとなって襲いかかってくるのだ。それらは私が記憶として認識する前に浮かんでは消える。
故郷について知りたい。なにか手がかりがほしい。
いつしか私はそればかりを望んでいた。
見たことのない故郷の幻影を見るようになって、早いものでもう一年が経とうとしている。私はまだなにひとつとして思い出せそうにない。
布団に戻ると、自分の体温に限りなく近いあたたかさに包まれた。眠たい訳ではない。動くことが怠惰なのだ。もはや私の体は布団に根を張っている。
そうして無為な時間ばかりが過ぎていくのだ。
ひらひらとした声で小鳥が窓の外で鳴いている。どうでもいいことなのに、また心が疼きはじめた。そのうち、あのとき見た鳥はどんな色をしていた、などと根拠のない疑問が頭をもたげる。やがて、そればかりが気になってしかたがなくなった。
#馨の道
藤色の空はいつも晴れ渡って、彼の心を満たした。
彼――その男はニンゲンが大好きだった。
※
六歳の頃、わたしは母に手を引かれて村を出た。まだ空が白み始めたばかりの、早朝のことだった。その朝は、足が浮き立つような独特のにおいがしていた。生きものが誕生・成長、そして――するときのにおいだ。まだ幼かったわたしがにおいに気をとられてよそ見をしていると、母にぶたれた。そして、急ぎなさい、というようなことを言われたのを覚えている。母は年中、つららのような人物だったから別段気にしなかった。むしろ、母に手を引かれていることのほうが不思議でならなかった。
村を出て、母と行くその道がどこへ向かうものなのか、わたしは知らなかった。まっすぐと一直線に果てしなく続くその道には、赤茶色の石が大人が三人くらい並んで通れるくらいの幅で敷き詰められていた。そんなふうに舗装された道は村にはなかったし、生まれて初めて見るものだった。道の脇には裸の砂地が寒々しく広がっている。そして一歩一歩進むたびに独特なにおいがそっと薫った。
そして、蒼ざめた母の唇から言葉が発せられたのは、すっかり陽が空の真上に来た頃だった。今までせかせかと歩いていた母が、突然に立ち止まったのだった。
「ここにしゃがんで、目を閉じて百数えなさい」
母に逆らう権利などないわたしは、言われたとおり、その場にしゃがみこんだ。手で目隠しをして、ひい、ふう、と数えた。
なんとなく、数え終わったときどうなっているかはわかっていた。百を数えると、母はどこにもいなかった。
たったひとりでわたしは歩きはじめた。母に捨てられたことを悲しむ気持ちはなかった。いずれ捨てられるだろう、とは感じていたからだ。ひたすら歩いて、どこか人のいる場所に着いたらそこでうまいこと生きのびてやる。決心を胸に、幼いわたしは歩を進めた。立ち止まればもう動けなくなるような気がして、暑い真夏の日差しにも耐えた。
不思議なにおいがすっかり鼻に染み付いて、体中がにおいに満たされた感覚がした。日が落ちてからもわたしは歩き続けた。においは次第に強くなっていった。
星の見えない真っ暗闇の中、急に道が曲がったりしないようにと祈りながら、おっかない気持ちを押さえつけて歩く。しかし、何も見えない中でまっすぐに歩くのは至難の業だった。やがてとうとう、わたしは足を止めた。あたりまえのように硬い石の道にねそべり、目を閉じて眠りについた。
その晩は、ひどく謎めいた夢をみた。
夢で、真っ白なトントン鳥が大きな卵を産んだ。わたしは空からそれを見ている。卵の殻は漆黒で目を向けると嫌な感じがした。しばらくして卵が孵る。卵からは、象牙色の大蛇が這い出てきた。そして、そばにいたトントン鳥を丸呑みにしてしまった。大蛇は体をくねらせて空の上にいるわたしの方まで頭をのばして、「お前らの治世は終わった」
そこで、その夢は終わる。
その頃のわたしはトントン鳥など見たことがないはずだった。トントン鳥は聖なる鳥で、どんな鳥よりも大きく、神々しい光を放っている。
彼がこの世で愛しているもののひとつでもあった。
夢から覚めたわたしは、肺いっぱいにあのにおいを吸いこんでいた。生きものが誕生・成長、そして死するときのにおいだ。幼心に悟った。夢の中に現れた名も知らぬ鳥の死を心から悼んでいた。まるで、自分の中の大事な部分を失った心地だった。
それから、おかしなことに気が付く。
今が朝なのか昼なのかわからなった。見上げた空が、淡い紫色だったからだ。朝焼けのようだが、太陽は空のてっぺん近くにあった。そして、あれだけ広漠としていた砂地は緑の大地に変わっていた。あの暗闇の中で、そんな変化があったなんて全く気が付かなかった。
あたりを見回すと、実の生った木をすぐそばに見つけた。なぜ昨日、あんなに歩くことができたのか理解できないほど空腹だった。あとわずかでも空腹でいたら死ぬんじゃないかとさえ思った。わたしは迷わずその木に駆け寄り、一番低いところに生っていた白い実をもいだ。
その実の皮からは産毛のようなものが生えていて、それでいて柔らかいようだった。甘い匂いがすでに漂っていて生唾が出た。爪を立てると、簡単に剥けた。薄桃色のその果実は、今まで見てきた何よりも瑞々しかった。
もう我慢ができない。かぶりついた。
「ああ、食べてしまったようだね」
すべてを食したわたしは、生まれて初めて口にした未知の甘味に畏れのようなものを感じていた。どこかからやってきた"誰か"にそう声をかけられたとき、やっぱりいけないものを食べてしまったんだなぁ、とボンヤリ思った。
これが、わたしと彼の出会いだった。
「怖がらなくて結構だ。君のように、このカミの地に足を踏み入れることができる人物はそうそういない。歓迎するよ」
そのときの彼は、空と同じ藤色の衣装を着ていた。布を巻きつけたように見えるその様式は、ノマデスという。もっとも、そんなことを知ったのはずっと後だったが。
小さいわたしは、絹のノマデス姿の青年――彼を見て神さまかその類の者だと思った。もうだめだ、と急いで平伏すると、彼ははじけたように笑った。
「僕が神さまにでも見えたのかな? おもしろい子だ。僕はいわゆる仙人だけど、君も同じだろう」
言っていることの意味がわからなかった。それを察したのか、彼はさっきわたしが食べた白い実を木からもいで示した。
「これは仙人の実だ。これを食えば不老不死の、ヒトでないものになる。ただし、馨の道を通ってここに辿り着いた者にしかその効果はない。君が歩いてきた道は、とても崇高な香りがしただろう」
かおりのみち、わたしが言うと彼が軽くうなずいた。
「馨の道は長く険しい。選ばれた者しか通ることができない。僕もずっと昔に馨の道を通ってここにやって来たひとりさ」
「ここには、他のひともいるんですか?」
彼は首を横に振った。
「何百年、いや、もっとかもしれない。それくらいの間、僕はここにひとりきりだった。……ああ、でも寂しくはないよ。ここには神さまもいるし、湖に浮かぶ世界中の運命を見るのは飽きがこない。それに、この地は他のどこよりも不思議で満ちているから」
※
藤色の空が翳ったのは、わたしのせいだった。
崩落のはじまりは、わたしが馨の道を通ってやってきたことだった。なぜ、どうして、わたしが選ばれたのだろう。
彼が愛した不思議なカミの地を壊したのも、彼をめちゃくちゃにしてしまったのも、わたしのせいだった。
かつての彼――その男は、誰よりもニンゲンを憎んでいる。
#かえりみち
「あくまで例えばの話だけど、人間じゃない女の子がいて、その女の子はここじゃないどこか別の世界を滅ぼしたの。それで、その女の子は今、この街のどこかで普通の人間のふりをして暮らしている。ねえ、それって許せる?」
この店はいわゆるピンクサロンというやつだ。半年ほど前、男はこの風俗店で小林と知り合った。つまり、男は小林の客だ。はじめ、エリカです、と名乗った彼女はさして他の風俗嬢と変わらないようなことを話した。うちの店は本番できませんから、と冷めたように言って黙々と浅ましい一連の作業をした。特に上手くはなかったし、口数も少なかったが、上目遣いに彼女に凝視されただけで興奮したことを覚えている。帰り際に、男は彼女の銀に光る瞳を褒めた。なぜか彼女は目を見開き、驚いたような素振りを見せた。次に店に来たとき、男はまた彼女を指名した。ブースに入ると、彼女はその前と変わらない銀色の瞳で男を見つめて、よかったらわたしのことはエリカじゃなくて小林と呼び捨てにしてほしい、と告げられた。それ以来、男は彼女を小林と呼んでいる。エリカという源氏名よりも、小林のほうが彼女の雰囲気に合っていた。
「――ねえ、それって許せる?」
店内に流れる胸糞悪いユーロビートに不釣合いなほど、小林の問いは静かだった。一方、その瞳は爛々と輝いていた。
男は、彼女の胸のあたりまで伸ばした黒い髪と、おそらくカラーコンタクトであろう銀色の瞳と、なにより人間離れした美しさに惚れ込んでいた。長い睫毛に縁取られた切れ長の目に見据えられると、まるで人智を超えた者に心臓を握られたかのような冴え冴えとした恐怖さえ感じる。どうして彼女が三流の風俗嬢をやっているのか、甚だ謎だった。
どんな答えが最もふさわしいか逡巡していると、また小林が口を開いた。
「突然変なこと訊いてごめんね。わたし、今日でお店やめるんだ。それでどうしても、お客さんに訊きたかったの」
小林は男をお客さんと呼ぶ。名を訊ねられたことはなかったし、それに気が付いたのはだいぶ先のことだったので名乗ろうとも思わなかった。
「ああ、小林……」
良い回答が見つからずに男は言葉を詰まらせた。あまりに問いが現実離れし過ぎている。それから逡巡して、男はぽつりと言った。
「もしそれが小林だったら、俺は許せる」
「ありがとう」
彼女は微笑んだ。しかし男は、そこには今まで見たことのないほど哀しげな小林がいるように感じた。別れを惜しんでいるのか、それともなにか違うことを――。
それから幾許か経って、小林が切り出した。
「お客さんは、紫色の空を見たことがある?」
「それなら、朝早くに目が覚めたときの空が紫かな。あと、夕焼けも」
「わたしが見た紫色の空は、命が生まれたり、死んだりする気配でいっぱいだった」
「それはさぞかし不思議な眺めだろうね」
小林は遠い目をしてうなずいた。
「その空の下で、わたしは『あの人』を殺そうとしたの。ねえ、それでも許せる?」
「それは俺なんかの善悪のものさしじゃ測れないよ」
今日の彼女はうぶな少女のようなことを言う、男はぼんやりと思った。最初の問いも今の問いも、現実にはありえないことだ。それなのに、彼女はさも意味ありげに訊ねてくる。所詮は小林も風俗嬢で、客を誘うための戯言なのだろうか。男は考えあぐねた。それから、ひとつの問いを投げかける。
「なあ、小林。きみの瞳の色は、ほんものなのか?」
もしそれがほんものだったら、と男はわずかに身震いした。なんとなく、今までの小林の問いがすべて実際に起きたことである証拠のような気がしたからだ。それが起きたのは男の知らないどこか別の場所で、小林はその世界の住人だった――。
一方で小林は、はっとしたような顔をしたのちに、くっくと笑った。それは初めて見る、小林の嘲りの表情だった。彼女は男を嘲笑っていた。
「お客さんって、やさしい人なのね。こんな汚い人間の言うことを信じようとしてくれるなんて」
……なんだ、結局この女もただの商売女だったのか。
今までのやりとりも、半年かけて造り上げた彼女のイメージも、男の中でガラガラと音を立てて崩れる。手酷い裏切りを受けた気分だった。もしかしたら、と期待した自分が愚かだった――男は無力感に苛まれる。
男に追い討ちをかけるように、彼女が言った。
「あなたもどうせ、ありもしない『ここじゃないどこか』を夢見てるんでしょ。わたしが夢見る少女だとでも思った? そうやって他人も巻き込んで妄想しないと、あなたに帰る場所はないものね」
ふふふ、と笑う小林は楽しくて堪らない様子だった。
「さ、早くしないと時間になりますよ」
業務を早く済ませたいらしく彼女が男を急かした。男はもう既にそんな気分ではなかったが、半ば自棄になって彼女に身を委ねた。
行為が終わって、彼女が口の中に含んでいたものを吐き出してから、男は一切口を利かなかった。彼女もまた、一言も話さなかった。無言のままブースを出て、男は彼女の見送りを受けた。そこでようやく、小林が口を開いた。
「今までありがとう」
「……ああ。こっちこそ」
白々しい、形ばかりの言葉だった。男はこの先もう小林に会うことがないと思うと、ひどくそっけない別れに感じた。
「ねえ、お客さん。わたし、魔法が使えるんだ」
「もうそのネタにはかからないよ」
「信じないならそれでもいいよ。信じるほうがおかしいから」
彼女は男の帰る方向の通りを指差した。
「この道を行くと、お客さんが本当に帰りたいところに帰れるよ」
「それは、あっちに駅があるからだ」
「なら、今は信じなくてもいいよ」
呆れ果てた男は彼女の指差した方を見るが、特に変わった様子はない。二度とこの女の言うことは信じない、男は愛想笑いを浮かべながら思った。
「あと、さっきの質問、わたしの目の色だけど――」
「カラコンだろ」
「そう言うと思った。でも本当に、ほんものの星の光が埋まってるんだ」
女という生きものはつくづく理解できない、どうしてこうも次から次へと虚言を吐くことができるのか、男は軽い眩暈を感じた。
それじゃあ、と改めて小林に別れを告げる。最後に見た彼女の瞳は確かに、月の光に似た色合いをしていた。
※
もうそろそろ、終電が来る頃だろう。
駅までのその道は過去に何度も通っているから今更迷うはずがないのに、男は未だに駅へとたどり着いていなかった。
不安と期待と、男はある予感を感じ始めていた。
『あなたに帰る場所はないものね』
……まったくその通りだよ、小林。
男は目を閉じる。
きっと帰り道は、自分だけが知っているのだ。なにも迷うことはないはずだ。
白は「はじまり」の色