さまよう書店

さまよう書店


時に舎人ありき。
うじは稗田、名は阿礼、年はこれ廿八。
人となり聡明にして、目にわたれば口によみ、耳にふるれば心にしるしき。

                               ――― 古事記・序第二段



一、 会陽の夜

佐藤明は生まれて初めて会陽をみた。
「はだか祭り」と呼ばれる西大寺会陽のことである。
後祭りには子供のころから何度もでかけてきたが、この土地に生まれ育ちながら、唯一の全国区ともいえる町の伝統行事の見物に、五十を過ぎて初めてのこのこやってきたのである。
そんな気になったのも、われながら不思議なことだった。
朝からわけのわからない吐き気と頭痛におそわれていた。
それが、月が輝き始めたころ、ピタリと静まった。
とたん、
「出かけてみるか」
という気になっていた。
どうせさびしい家だった。
週末には、明日はどこかに出かけてみようと思う。
ところがいざ日曜になってみると、その気はすっかり失せている。
行きたいところがないのだ。
一人の家でしばらく呆然とする。
「結局……」
牛窓あたりの海岸線をドライブするのが関の山だ。
フュアルメーターの変化も分からないほどの距離だ。
西大寺は真言宗の寺名であり、そのまま町名になっている。
「はだか祭り」の歴史は古く奈良時代までさかのぼるともいわれる。
午後十時。
投下される二本の宝木(しんぎ)。
福男をめざし数千の下帯姿の男たちが殺到する。
渦を巻き、もみ合い重なり合う裸たちの温気と躍動は不気味でもあり、全体、巨大なひとつの生きものの蠕動を見る思いだった。
(今夜ばかりは……)
町中への出入りも大変だろうと思い、佐藤は吉井川をへだてた浜の河川敷に車を投げ置いて、徒歩で永安橋をこちらに渡ってきていた。
十分ばかり歩いただけだったが、そんなことも久しぶりのような気がした。
川から吹き上げてくる風は頬を切るように冷たかった。
二月であれば当たり前のことにおののいていた。
十一時すぎ。
朝の吐き気と頭痛が突然ぶり返してきた。
すし詰めの見物をかき分け、やっと境内周辺の人いきれを抜け出し、いったんは永安橋に向かいかけた佐藤だったが、歩きながらすっと意識が遠のいてその場にしゃがみこみ、ふたたび正気がもどると妙に気分がさっぱりとしていて、ふと、
(ひさしぶりに……)
旧市街をぶらついてみようと思いついたのだった。
久しぶりといって、西大寺の町中を歩くなどおそらく、
(高校生のとき以来か……)
大学進学とともに岡山を離れ、卒業後そのまま東京で就職した。
妻とはそこで知り合ったのだった。
四十を過ぎてからUターンしてきた佐藤である。
活性のドーナツ化は全国の古い町ではありふれた現象だろうが、西大寺の旧商店街なども、佐藤にとってはごくたまに車で通過するだけの用のない場所になっていた。


二、 アレの店
   
佐藤の少年時代、西大寺中一丁目といえばきらきらした繁華街だったのに、今では往時の残影すらなく、ほとんどの店舗はあるいは廃業し、あるいはしもた屋になっていた。
さら地も目につく。
今夜は、さすがに会陽の夜だけあって日付が変わりかけている時刻だというのに、路地裏まで人が往来していたが、明日になればまた死んだように音のない街に戻るにちがいない。
その店は、つぶれたパチンコ屋とのっぺりとした倉庫らしい建物に囲まれたうなぎの寝床のような駐車場のさらに奥に隠れていた。
通りかかった佐藤の目を最初に驚かせたのは、けばけばしいネオンサインだった。
商店街としは廃墟といっていい闇の中に一箇所だけ。
それは葬儀場でピンクのカクテルドレスを見たような驚きだった。
佐藤は思わず足をとめ、しげしげとその電飾看板をながめた。
「アレの店……」
と読める。
「アレ」は赤。
白い小さな「の」。
「店」はグリーン。
巨大なおっぱいのお姉ちゃん。
ピンクのハートマークが三つ。
一見してそれと分かる店である。
それにしても、
(こんな場所でよく商売が成り立つものだ)
と感心した。
しかし、
「アレ」
とは何か?
二三、想像されるが、もしかするとそうでないかもしれない。
いくらなんでも、そんな即物的で悪趣味な店名はないだろう。
「やれやれ……」
佐藤はいったんは去りかけた。
が、すぐに足を止めた。
これが田町や中央町だったなら見向きもせずに通り過ぎたにちがいない。
しかし、
(こんなアンバランスを突きつけられては……)
それに「アレ」というへんてこな響きが脳細胞に粘着してしまい、どうにもはがれないのだった。
「やれやれ……」
佐藤はきびすを返し、財布の中身を確認しながら後戻りしていた。


三、 アレ

「いらっしゃい」
佐藤を迎えたのは、ゆったりと柔らかな声だった。
瞬間、「おじゃる丸」のトミーじいさんを思い出した。
(水商売らしくない……)
旧友の家を訪ね、その父親になつくしく迎えられたような感じがした。
カウンターの向こうに鶴のような老人が立っていた。
が、
妙な格好をしている。
黄色の袍に冠。
それにナマズひげ。
要するに、律令制下の下級貴族の装束である。
棒立ちの佐藤の顔色を察したのか、
「いやあ、すみませんなあ、こんな格好で。今戻ってきたばっかりでして……。まだ着替えとりません」
佐藤は眉根をよせ、相手の顔をしげしげと見た。
そんな格好でいったいどこに行っていたというのだろう。
映画撮影か、葵祭りか、それとも宮中祭祀ででもなければ……。
もしかして、
(新手のコスプレだろうか?)
危惧が走った。
しかし、変質的な店というわけでもないようだ。
第一、店内には女の子がいない。
どころか、他に従業員らしいものの姿も気配もない。
さらに驚いたことに、落ち着いて観察すると、カウンターの後ろの棚は空っぽである。
酒のボトルやグラス類、その他飲み屋の必需品がいっさい見当たらない。
空気中の湿度まで不足しているように感じられた。
妙なところに入ってしまった。
佐藤は後悔しはじめていた。
それでもすぐに店を出なかったのは、別の好奇心にとらわれていたからだ。
「あの、失礼ですが……。いったいここは何の店ですか?」
「あなたは何の店だと思ってお入りになりました?」
逆に質問を返されてしまった。
「いや、何ていうか、あんなネオンサインですし……」
たぶん、赤面しているのだ。
「ほっほっほっほっ」
と老人は笑った。
なんと檜扇で口元を隠しながら。
しかし、
(堂に入ったものだ)
「これは失礼しました。どうです、座りませんか」
老人は目顔でボックスシートを示した。
悪意害意はないようだ。
風姿全体、礼儀正しい。
当たり前の状況下なら、品性さえ感じられたかもしれない。
それでもためらいがなくもなかったが、結局佐藤は、カウンターと並行して三つあるボックス席のうち、一番出口に近い席で老人と向かい合った。
座るなり、
「冷えますなあ。一杯やりますか?」
気さくに老人は話しかけてくる。
「そりゃまあ……」
一つにはそのつもりで入ってきたのだ。
「じゃ、ちょっと待っとってもらえますかな」
老人は奥へ何往復かしたが、
「わたしはいつもこれです」
そういいながらまず四リットルの焼酎ボトルをドーンとテーブルの中央にすえ、グラスやらつまみやらを運んできた。
つまみといっても袋にはいったままのナッツや裂きイカである。
ご丁寧にスーパーの値段ラベルまでついている。
きわめつけは電気ポットだった。
延長コードまで持ち出して、
「ちょっと失礼しますよ」
そういって老人は、ソファの背面に鶴のような首を突っ込み、壁面の隅っこから電源をとった。
まもなく電気ポットはグツグツと湯気を吐き出し、カチッといって静かになった。
とともに、もともと明るくない店内が少し暗くなったような気がした。
(なんだよ、ここは……)
期待していたような店ではない。
と、このときすでに佐藤は悟っていた。
が、ネオンサインを点灯し、
「いらっしゃい」
と佐藤を迎えたのだから、何かの商売はしているのだろう。
「ま、どうぞ」
「どうも」
佐藤は老人が作ってくれたグラスをなめた。
濃いお湯割りだった。
「ま、どうぞ」
「どうも」
佐藤は老人が封を切った裂きイカをつまんだ。
くちゃくちゃイカを噛みながら老人を観察した。
老人も佐藤を見つめ、もぐもぐやっている。
ナマズひげももぐもぐ踊っている。 
目は「トミーじいさん」のようにぱっちりとはしていないが、顔の輪郭は似ている。
冠は奥において来たらしい。
今はみごとな白髪を肩の下までたらしている。
「冷徹斎星月」を連想させる。
微妙なウェーブを残しているのは、ごそごそやっている間に冠に納めていた髻の元結を解いたものらしい。
黄色の袍はそのままだ。
しかも、
(取って付けたような感じがまったくない)
ほどよく馴れて身に沿っている。
日常なのだろうか。
(いや……)
あり得ない。
どうも調子が狂ってしまう。
「背広のようなものですよ」
「は?」
「この着物」
老人はニヤニヤ笑っている。
佐藤は腹の中を見透かされたような気がした。
「商売柄ね、お客さんに合わせていろんな格好をせにゃならんのですよ」
「水商売……ではないですよね、ここ」
今はもう確信している。
「ははははは。あの看板にこの造りですからなあ。仕方ありません。あはははは……」
また赤面したかもしれない。
「ここはね、もとはフィリピンパブだったんですよ。
もう十年近くなりますかな。
ほら、米国務省から、日本政府は人身売買を容認してるって突き上げられたことがありましたでしょう。
ほんとうに恥ずべきことです。
海外でもね、日本の男性たちの評判はよくなかった。
セックスアニマルなんてね。
バブルのころは、普通のおじさんたちが、せっせと買春ツアーにでかけてましたよね。
近隣のアジアで、おもに未成年の少女をあさっていた。
自分の娘のようなね。
みんな、普段は良識のある人たちなんですがね、一歩国境を越えるとおかしくなる。
旅の恥はかき捨てなんていいますが、なんなんでしょうなあ、日本人のあれは。
いつも公意識に縛られて疲れているんですかね、職場でも町内会でも、もしかすると家庭でも。
ホテルの浴衣を着た瞬間、呪縛が解かれ、狂ってしまう? 
国務省レポートはいいがかりじゃなかった。
当時の実情を見れば当然でしょうかね。
パスポートを取り上げた娘たちをぼろアパートに軟禁状態にして、ほとんど休みなしで働かせて、月給はおそらく三万から五万程度。
考えられませんな。
週末だけマックでバイトしている女子高生だってそれくらい稼ぎますよ。
まさに人種差別、性的搾取です。
それでもね、女の子たちにしてみれば、夢のような大金だったわけです。
哀しいですな。
ホステスの子たちはね、興行ビザで入国していたんですよ。
名目、ミュージシャンです。
笑えますな。
でもそんな茶番がまかり通っていた。
あわてて日本政府がビザの発給をせばめますと、バタバタつぶれました、この手の店は。
入国管理局の職員も残念がったそうですよ、馴染みの店がなくなったって、ね。
日本というのはアジアには鈍感というか尊大横柄なくせに、欧米の声には過剰反応しましたなあ、当時。
ま、政治的な思惑もありましたから仕方なかったんでしょうが。
ここはつい最近まで営業してたんですよ。
ずいぶんねばったもんです。
ブローカーから女の子を調達したりしてね。
でも結局、経営者はお縄になりました。
ただこれも裏話がありましてね。
鼻薬を効かせていた所轄の警察官が定年退職した途端の摘発だったそうですよ。
店の女の子をホテルに派遣してね、その警官を接待していたらしいです。
いやはやです、まったく。
以来ずっと空き店舗だったのをね、私どもが借りたんです、短期ですけど。
内も外もそのまま手を入れていません」
それで表のネオンサインも納得できたが、それにしても、
「アレの店のいうのは妙な店名ですねえ」
グラマーなお姉ちゃんがウインクしているのもいただけない。
わざわざ、あんなものを点灯する必要がどこにあるのか。
「アルの店だっんです、もともとは」
「はあ?」
老人は少し恥ずかしそうに、
「ルの左っかわ、壊れていましてね、点灯しないんですよ。で、アレになってるわけです」
「はあ。でもどうして、そんな壊れたネオンサインを灯しているんですか?」
「アレというのがちょうど具合がよかったんですよ」
佐藤が首をかしげると、
「孫の名前がね、アレなんですよ。まっく偶然というか、ラッキーでした。で、あの看板、そのまま使わせていただいています。どのみち、限られた人の目に触れるだけのものですから」
変わった名前だと思った。
おまけに要領をえない。
「ここは飲み屋ではない……、ですよね?」
といってから佐藤はテーブルの上を眺めわたした。
「お茶がわりにお出ししているんですからご心配なく」
老人はニコニコ笑っている。
「いや……。どうも、ごちそうさまです」
「礼をいわれるほどのものじゃありません。
みんなハローズで仕入れてます。
あれができて便利になりました。
私、夜行性ですから、ははははは。
それにあそこはアルコールが安いでしょ。
のんべえの味方です。
さ、お代わり、作りましょう。
濃すぎましたかな」
(確かに……)
強かった。
一口目は。
が、すぐに慣れてしまう。
一時的なインプリンティングにすぎない。
が、二杯目以降も同じ濃度で作らないとまずく感じる。
佐藤も年相応の呑み助だ。
「いえ、じゃ遠慮なく」
佐藤は飲み干してから、グラスを老人に手渡した。
指が触れた。
温かい手だ。
もう警戒はしていない。
(トミーに似ているからだ)
と思った。 
話がはずんだ。
グラスもすすんだ。
登山の話をした。
勤めの話もした。
子供のころの話、はては女房に逃げられた話まで。
関心、夢、わだかまり、将来への漠然とした不安。
次から次へと口を衝いて出た。
「ほう、そうなんですか」
とトミーのような声で、さも興味ありげにうなずかれると、何もかも吸い出されていくようだった。
自分ばかり話して、訊くのを忘れていた。
「ここはなに屋さんなんですか?」
「書店ですよ」
「ショテン?」
「本屋ですよ」
本など一冊も見当たらない。
首をかしげた、また。
「紙の本はありません。ストーリーを売っています」
すぐ佐藤の頭に浮かんだのは電子書籍だが、
(個人が経営できるものではない)
わかりきっていたが、
「ネットを利用した?」
と継ぎ穂した。
老人は顔の前でひらひら手を振りながら、
「いえいえとんでもない。業界の大資本でなければ無理でしょう、それは。私どもはアナログ以前ですよ」
「アナログ以前……」
何をいっているのか分からなかった。
(ひょっとして……)
デジタル以前といいたかったのではないか。
だが、そこを問いただすのも失礼な気がして、黙っていると、
「文字以前ということです」
と老人は説明した。
ますます分からない。
説明にならなかったことは老人も分かっているようで、
「口承です。つまり口述伝承。文字以前の手法ですな。うちの場合、口秘といっていいかもしれません。伝承しているのはアレだけですから」
「あっ! 稗田阿礼」
二流だが一応大卒だ。
この程度の反応はできる。
「よくご存知で」
老人は嬉しそうだ。
「高校レベルの知識ですから」
「いやいや、このごろは中学の連立方程式を解けない大学生がいるそうですから、稗田阿礼をまず読めるかどうか。意味不明の四字熟語だと思う大学生も案外多いかもしれませんよ」
「まさか……」
実際、少子化により学生獲得に苦慮する大学は、ゆとり教育世代の下層志願者まで合格させ、近年信じられないほど低レベルの学生を生産している。
佐藤はメディアの見出しとしては見聞きしているが、実情は知らない。
「お孫さんは稗田阿礼にちなんで?」
「いえ、そういうことでもないんですが……」
トミーのように実直だった老人が今夜初めてお茶を濁した。
が、会話は流れ、佐藤の意識はそこに停頓することもなかった。
「じゃ、アレ君が伝承しているストーリーを売っているわけですか」
「そういうことです。もっとも寂しい業界です。
もはや業界とは呼べません。
司馬遼太郎氏の言葉を借りれば、漢字の輸入以来みんな失業ですよ。
優秀な人材が多かったんですがね、文字という記録媒体にはかなわない。
今やうちだけですよ、これを生業にしているのは」
 妙な商売だと思った。
第一、顧客獲得が難しいだろう。
店舗がこの様子では振りの客はまず見込めない。
広汎な宣伝活動が必要だろう。
(しかし……)
わざわざ金を払って得体の知れぬ昔話を聞きにくる者がいるだろうか。
「新聞の折込とかを利用なさってる?」
とてもウェブを利用しているようには見えない。
「私どもの方から宣伝とかはいたしません、いっさい」
「それじゃ……」
(どうやって客を呼ぶのだろう)
また疑念がわいてきた。
(からかわれているのだろうか)
しげしげと老人の顔を見つめた。 
(このトミーが?)
いや、ない。
もしかすると、書店というのはサイドワークで、他にちゃんとした本業があるのではないか。
あるいは、ひだりうちわで暮らせるほどの資産があるとか?
(でなきゃ、とても食ってけねーし、こんなんじゃ)
そんなところだろう、と佐藤は一人で納得した。
「……がね、お客さんを連れてきてくれるんです」
「えっ?」
ぼんやりしていて聞き逃してしまった。
「すみません。いま何て?」
「お月さんですよ。新月から七日目の夜、お客さんが来るんです。
その晩だけ、私どもは店をあけます。
どこに店を開いても、必ずお客さんの方で店を見つけ出してくれます。
私どもは何もいたしません。
ただ待っている。
このごろは、お客さんが望んでおられるストーリーを提供したりもする。
いわば新規事業です。
自分だけのオンリーワン。
これも時代のニーズですなあ」
「時代ですか」
ところどころ何をいってるのか分からない。
が、どっちみち本気で聞いているわけでもない。
「こんな生業でも流行には感性を持っていないとダメですね」
「はあ」
「このごろのキーワードは、最後の秘境とか魔境とか、『奇跡の――』とか『――の聖地』とか……。
『天空の――』ってのも流行りです。
単に過疎の山奥って意味ですけれど。
それでもやはり、ハイラム・ビンガム系というのははずせません。
ご年配の方は好きですねえ、そういうのが。
あ、それから、『やさしい――』ってゆうのは最も重要な要素ですね、とくに女性の方には。
『やさしい味』とか、『やさしいお湯』とか、私どもには意味不明ですけどね、あはははは」
また赤面していたかもしれない。
佐藤は世界遺産番組や芸能人の旅レポート番組が大好きだった。
「ところでね、二月十六日、今晩がその夜です」
「はあ?」
「今日は新月から七日目です。つまり、あなたがお客さんですよ」
「……」
「確かに注文を承りました」
「注文?」
などしていない。
「アレ」
老人はカウンターの方に呼びかけた。
佐藤が振り返ると、
(あっ!)
なんと少女が立っている。
カウンターの向こうに。
月光をうけたように白く。
ブレザー。ネクタイ。胸ポケットの上にエンブレム。
高校の制服にちがいない。
佐藤の視線に会釈し、
(笑った)
まぶしい。
「アレです」
(!)
「あの子が語り手です」
勝手に男だと思い込んでいた。
あんぐりと口を開けていたかもしれない。
「語りは、代々、女が担ってきました。今夜、あの子がすべて記憶しました」
やはり老人は、トミーのように微笑んでいた。


四、 どうしても見つからない  

狭い町の一角を、もう小一時間も歩き回っていた。
のに、どうしても見つからない。
朝一でツタヤの返却ボックスに黒いバッグを放り込み、まっすぐここに来てしまった。
あれから一週間である。
「あほくさ」
なんどつぶやいたことか。が、
(結局は……)
囚われていたのだ。ずっと。
つぶれたパチンコ屋はあった。
のっぺりとした倉庫もあった。
間に、ぎちぎちと圧迫された駐車場があり、その奥に……。
(……ない)
あの店だけがないのである。
そこは雑草の生えた更地だった。
尋ねようにも人影もない。
陽だまりでずんぐりとしたフジネコがあくびしていた。
仕方なく、佐藤ははすかいの薬局の古びた引き戸をあけて首を突っ込んだ。
「ごめんください」
何の応答もない。
薄暗がかすかに揺れただけだ。
古い木枠の陳列ケースや棚……。
どれも空っぽである。
とっくに廃業しているのだ。
この業界も幹線道路に面した大型量販店でなければ立ち行かないらしい。
閑散として色彩の乏しい店内だったが、懐かしい白黒画像を見ているような気がした。
湿った三和土(たたき)の匂いに朝食の残り香のようなものがまじっていて、思わず泣けてくるような何かを思い出しそうな気がした。
あきらめて立ち去りかけたとき、細い路地からスルメのような老婆が現れた。
杖にすがりヨロヨロしているが、背筋だけはピンと伸びている。
片手にブリキのジョウロを下げている。
ノズルの先端がやわらかくきらめいているのは、早春の朝の光だった。
「なんでしょうかな?」
別人がしゃべっているのかと驚くほどしゃんとした声だ。
コナンの蝶ネクタイ型変声機が思い浮かんだ。
見たところ傘寿はゆうに超えているだろうに。
コナンと乱太郎は同じ声優だと、昔、上の娘が教えてくれた。
一昨年、東京に嫁いだ。
「あ、おはようございます。水遣りですか?」
あらぬことを訊いてしまった。
こんな寒い朝、水をやらねばならない植物があるのだろうかと疑問がわいたのだ。
「こりゃあんた道に撒くんじゃが。風でほこりが舞うからなあ」   
なるほどジョウロはなみなみと水を満たしたままだ。                         
「ちょっとお訊ねしますが」
佐藤は空き家になったパチンコ屋の方を指差した。
「あの向こうに細長い駐車場がありますでしょ」
「ふん、ありゃうちの地所じゃ」
「そうなんですか。そりゃちょうどよかったです。あの奥の更地は、前は何があったんですか?」
「あそこかな。
あそこにゃあんた去年までぼろ屋があったんじゃが。
ずっと空き屋になっとったけどな。
パチンコ屋の娘夫婦がおったんじゃけどな。
店がつぶれてしもうて、家内じゅうで大阪のほうへ移ってしもうたがな。
安うしとくゆうから、うちが買(こ)うてなあ、ずっとほったらかしとったんじゃけど、ようよう去年更地にしたんじゃ。
東京に出とった孫がこっちへ戻ってこーかゆうとってなあ。
新家を建てるんじゃ」
「そうなんですか。あの、このへんに『アルの店』とゆうのはありませんでしたかねえ、今はもうつぶれていると思うんですけど……」
「はん、なにゆうたかな?」
「あ、る、の、み、せ。水商売の、外人の女の子がいるような……」
「さあ、聞いたことがねえなあ。
カラオケのスナックは何件かあるけどなあ。
それも近所の年寄りがちょろっと寄って、もげ歌うたいー行くだけじゃ。
エッチな店もこんなそばじゃあ商売になるまあ。
まあ益野すじまで出りゃあなあ。
昔の町なかは何をやってもいけん。
さびしゅうなるばあじゃ」
「そうですか」
礼をいって佐藤は歩き出した。
がっかりして体が重い。
公園まで戻ってきてベンチに腰をおろした。
路肩に車を停めている。
広々とした石畳に清潔な公衆トイレ。
木製のベンチが三つ。
わずかながらよく手入れされた植え込み。
雑然さというものがまったくない。
(ハイカラだな)
と思う。
一見くつろげそうに見えるが、きっと長時間はとどまれない。
(たぶん……)
少し離れて眺める公園なのだ。
妻のようだ。
昨秋、下の娘が神奈川に嫁した直後、離婚を切り出されてしまった。
佐藤には寝耳に水だったが、向こうはずっと考えていたらしい。
「何もいらないけど、自由にさせてもらいます」
そういって押し切られ、一人ぼっちになった。
(自由ってなんなんだよ……)
「男女の関係がなかったら人類は亡びてしまうもの」
と、『ボーンズ』のブレナンはいった。
それだけのものだろうか。
ならば、それだけの貢献はした。
「なぜ生きているのか知りたい」
と、『リ・ジェネシス』のミックはいった。
文脈は違うが、
(おれも知りたい)
自分の一生の功罪を秤にかけたとき、暗澹たる思いにとらわれる。
たいてい月曜だ。
だが、二日酔いのときはそんなことはついぞ考えない。
その程度のことなのだ。
佐藤が高校に通っているころは、こんな公園はなかった。
(何があったっけ、ここ?)
ぜんぜん思い出せない。
よく通った筋なのに。
「ふうー」
長い息を吐いた。
狐にばかされるとはこうゆうことだろか。
(ふん)
なんという修辞だろう。
苦笑いした。
狐や狸は、普通教育の普及や精神医学の発達とともに、とっくに神通力を失っているのだ。
近代の科学的合理主義は、デモーニッシュなものの存在を許さなかった。
日本でも密教的な闇は、隅々まで照らし明かされてきた。
かつて役小角ゆかりの霊山といわれた深山幽谷も、今ではあでやかな山ガールたちがピクニックシートを広げている。
下の娘が小さかったころ。
毎週、『ドラゴンボール』のオープニングを見ながら、
「お父さん、シェンロンに何お願いする?」
と訊いてきたものだ。
たびたびなので辟易し、適当に答えていた。
しかし、本当はあんなことが将来にとって大切な対話だったのかもしれない。
失敗し、少しだけ賢くなる。が、
(それでどうなるのだ) 
結婚とか親子関係とか、重要な教訓ほど、それを生かすには人生は短すぎる。
「父さん、もっぺんあの店に行きたいよ」
幼い娘の幻に話しかけた。
「あと二つは何?」
幻が問う。
不老長寿は孤独で絶望的だと小説や映画で学んだ。
名声や人気を維持するには持たざるエネルギーが要るだろう。
過大な富を手にすれば死期を早めるだけだと思われた。
(節制がきかないからな、おれは。何も変わっとらん、昔と)
適当な返事をしていたのは、億劫だとか気分だけの問題ではなく、そうするしかない限界がそこにあったのだ。
純真な娘に対し願いや夢が語れないということは、人間の貧困だと思われた。
実在しないという点では、毎年初詣に行く吉備津神社にます神さまもシェンロンも同じではないのか。
たぶん、せいいっぱいのビジョンを本気で託せるだけ子供のほうが勝っているのだ。
欠かさずジャンボを買っていることも笑われた。
「ばかばかしい。さてと」
立ち上がったとき、
「おじさん」
幼い声が佐藤を呼んだ。
クロガネモチのわきに赤いスカートの少女が立っていた。
小学校の二三年生か。
紙片をつまんだ手をこちらに突き出している。
「おれ?」
佐藤がいうと、少女はずいと手を差し出す。
立っていって紙を受け取ると、少女は一目散に走り去った。
跳ね上がるスカートの下から、フリルパンツの白い水玉がはじけるようだった。
娘たちもついこのあいだまであんなパンツをはいていたのに。
パチパチというその音だけが今の現実感であるように感じられた。
頭を振りながら紙を広げると、

 それもまた人生
                                アレの店・店主

 
と、ただ二行の印字。
「なんだよ、こりゃ」
しかも、美空ひばりの歌の文句ではないか。
カラオケでよく歌ったものだ。
佐藤の一番好きなフレーズだったが、このように人から突きつけられると、何か白けた感じがした。
しかし佐藤は、
(あのじいさん、パソコン打てるのか)
そっちに感心していた。
そして、
(夢ではなかった……)
のだ。
帰宅してから。
佐藤はネットで『アルの店』をググッてみた。
一件ヒットした。
なんと浦和だ。
しかも二年前につぶれている。
老人の話したとおりの履歴。
地域の掲示板を捜し、問い合わせてみた。
すぐに親切な回答があった。
閉店した建物はまだ残っており、添付された写真に写っていたのはまぎれもなく、佐藤が会陽の夜、西大寺中一丁目に訪れたあの『アルの店』だった。
(なんで埼玉の店が……。ったく、勘弁してくれよ)
シェンロンに訳を問いただしたかった。


五、 船   

その日の夜、佐藤は妙なものを発見した。
明日は休みなのでレンタルDVDを見ながら夜更かししていた。
長時間暖房の中にいたせいか、どうにもビールが飲みたくなった。
冬場は買い置きしていないので、神崎のローソンまで行くことにした。
独りの夜、人間が必要とするものなどささやかなものだ。
しかし、そんなことで人は生きていけるのだ。
帰り道、千町川を渡ってすぐ、ヘッドライトの中をよぎった看板にはっとした。
「アレ……」
という文字を見た気がしたのだ。
車をUターンさせてみると。
やはりそうだった。
小山の集落へつながる田んぼ道の角に二本足の角材で粗末な看板が立てらていた。
A2版ほどの白塗りの板に、手書きで、
「アレの店。やっぱり……」
その下に矢印がある。
昼間はこんなものはなかった。と思う。
だれのしわざかと考える前に、
(おれに……)
向けられたものだと確信した。
矢印の方向を遥かに見透かしてみた。
むろん何も見えない。
水田地帯には人口の灯火など皆無で、今夜は月明かりさえない。
とにかく、こうなったら行くしかない。
佐藤がその田んぼ道に車の頭を突っ込んだとき、ライトの視界の端に小さな人影が浮かびあがった。
こちらに歩いてくる。
ここいらでも中高年を中心にウォーキングが流行っているが……。
時計を見ると、〇時すぎである。
それに恐ろしく寒い。はずである。
(物好きもいるものだ)
が、狭い道のことなので、そろりそろりと車を前進させていたのだが、しだいに大きくなってきた人影を見て思わず佐藤は、
「あっ!」
と声を上げ、車を止めた。
人影のほうも立ち止まり、ライトの中で会釈してきた。
「アレ!」
しかも。短いスカートに半袖のブラウス。
今日も制服姿だが、夏の格好ではないか。
ありえないシチュエーションに思考は混乱したが、体はかってに動き、気づくと少女と向かい合って立っていた。
「こんばんは」
初めて聞いた少女の声は、容姿と同じくすずやかな声だった。
「こんばんは」
「蒸し暑いですね」
(この子は何をいっているのだろう?)
と、ひそめた眉間に汗がにじんできているのがわかった。
実際、暑い。
だけではない。
なんとカエルが鳴いていた。
車のライトが照らし出した田は水を張っていて、早苗がそよいでいる。
まるで六月である。
いったいどうなっているのか。
「なぜ……」
といいかけて、止めた。
突然、無意味な気がしたのだ。
(それに……)
こんな疑問こそ、心のどこかでずっと望んでいたことではなかったか。
不条理をもって対処するしかない何かを受胎してしまう。
ありもしない原因療法を求めてさ迷う。
人とはきっとそうしたものなのだ。
堕胎するか、それとも破滅するか。
そんな選択肢すら、本当はありはしないのだ。
どっちに追いやられるか、
(コスプレのじいさんも、この子も……)
たぶん、知っている。
(おれ自身でさえ……)
ただ知らないふりをしているだけだ。
「ついてきてください」
白く輝く顔で少女はいった。
いつの間にか中天に月がかかっていた。
もう従うしかないのだ。
なに、恐れることはない。
「間違うのが人間だ」
と、『リ・ジェネシス』のデビッドもいっていたではないか。
前を歩く少女の背は花の匂いがした。
いきなり畦道に折れた。
左右の田は月光を反射し、水上をすべっている錯覚にとらわれた。
「着きました。どうぞ」
足元ばかり見ていた視線を上げると……。
畦が尽きた先に金属のスロープがある。
深い手すり壁。
乗船タラップのようだが……。
さらに目を上げると、
「あっ!」
そこに佐藤が見たのは白く巨大なビルディングだった。
無数の照明に照らし出されて、
「これは!」
「船です」
こともなげにアレはいうが、この大きさはまるで、
(輝く山だ)


六、道長  

船の内部は、
(これは!)
もう一つの町だった。
「クルー、乗客合わせて一万人近い人が乗船しています」
ショッピングモールを抜けながらアレは説明してくれた。
広大な中央公園には本物の草木が植えられており、ミニゴルフ場やテニスコート、遊園地では様々な肌の色をした子供たちが様々な言語で狂喜していた。
あの夜、酔った佐藤は、
「いつかぼくも豪華客船の旅を楽しんでみたいですねえ」
と、『オアシス・オブ・ザ・シーズ』の話をした記憶がある。
しかし、
(まさか……)
人ごみを離れたニレの林の中にチャペルが立っていた。
クルーズ中には結婚式もとり行われるらしい。
裏に回ると、
「あっ」
例の悪趣味なネオンサイン。
白亜の建物の陰にひっそりとアレの店は隠れていた。
(シェンロンのおかげかもしれない)
佐藤は思わず涙ぐみそうになった。
アレの後ろから店に入ると、
「いらっしゃい」
あの柔らかな声。
カウンターの向こうに鶴のようなトミーが立っている。
あの日と同じだ。
だが、今日はもう一人、男の客がいた。
男はカウンター席から立ち上がり、佐藤に会釈した。
優雅な立ち居振る舞い。
日本人の顔立ちだが、
(儒仏的な匂いがしない)
つるりとゆで卵のような肌つや。
オールバックにナマズひげ。
「今晩は。藤原と申します」
と男は名乗り、アレに微笑みかけ、
「久しぶりですね」
アレもニコリとうなずき返した。
旧知の間柄らしい。
嫉妬心が湧いた。
妙なものだ。
「洋服屋さんです、藤原さんは。あなたが着るものを仕立ててもらいました」
と老人はいう。
佐藤はパジャマがわりのスウェットにサンダルばきである。
(そういえば……)
なんども怪訝な視線を浴びた。
「先日いらっしゃったときに寸法をとらせてもらいましたので。奥に用意しています」
「?」
メジャーを回された覚えなどない。
老人は床を指差した。
「この下にね、ヤスマロがあります」
「?」
「スパコンですよ。わたしどもはヤスマロと呼んでいます」
(歴史フェチかよ)
佐藤はあきれた。が……。
(そんなことより……)
今自分は超豪華客船に乗っており、しかもその船は、カエルの鳴きしきる水田に浮かんでいる。
「冷蔵庫ほどの大きさですが、『京』よりはるかに速いです。アレが見聞きしたものはすべて、瞬時に解析され、ヤスマロのデータベースにストックされます」
トミーはニコニコ顔でとんでもないことをいっている。
アレに目配せすると、
「今現在の佐藤さんの身長は一七五・三センチメートル。体重は七三・五キログラム。この間より少し痩せたようですね。足のサイズは二六・五」
流れるように少女はいった。
(なんだよ、こりゃ)
佐藤は自分の正確な身長・体重など知らないが、たぶんそんなものだろう。
まるで『攻殻機動隊』ではないか。
(まさか義体じゃねーよな)
佐藤は少女の体を眺め渡してから、
「あの……、これ、夢ですか」
と老人に訊いた。
老人は上品に微笑み、
「つまり、あなたの体は自宅の布団の中で眠っていて、朝、目覚めるとこれらすべてが終わると?」
「ええ、まあ」
「そういう結末をお望みでしたら、そうすることもできます」
「はあ?」
「ですが、ちょっと違いますな。
あなたは多分、夢という言葉に非現実的な意味合いを込めていらっしゃる。
しかし、量子レベルでは実体のない現象など存在しない。
ささいな現象です。
だが、この宇宙を発生させた最初の真空のゆらぎに比べればはかり知れないほど大きい。
この宇宙が誕生したこと自体、奇跡です。
人間が考えうるどんな夢想と比較してみても、そんな夢想をする知的生命体を誕生させたこの宇宙が発生する可能性は十の累乗分の一小さい。
すでにわれわれは究極の奇跡、いわば限りなく無に近い確立の中で暮らしている。
あなたの問いは無意味ですな」
「ではこれは夢ではないんですか?」
「弱りましたな。
いえることは、あなたはあなたの大脳から生じた事象の中にいる。
その世界を夢か現実かと類別しようとしてもむだです。
それ以外です。
でも無益なことに意味を見出そうとする。
それも人間です」
結局、佐藤には老人のいっていることが分からなかった。
が、別にそれでよかった。
藤原に導かれ、佐藤は店の奥で着替えた。
佐藤の身支度を手伝いながら藤原は、
「アレの店に入れたのは、一族では仲麻呂と私の二人だけです」
おかしなことをいった。
「はあ?」
「仲麻呂は人臣を極めるが、道鏡が現れて、結局破滅に追い込まれる。
しかし、それでよかったのかもしれない。
追っ手の刃を逃れ、琵琶湖に出たときなんですよ、仲麻呂がこの船に出会ったのは。
今、上のバーで飲んでます。
坂上石楯(さかのうえのいしたて)に斬殺されたことになってますがね、歴史は。
あれは従者です。
まさに人生万事塞翁が馬というやつですな」
「あなたはだれですか?」
「道長です」
藤原道長といえば、ちょうど西暦一〇〇〇年前後の人ではないか。仲麻呂や道鏡の舞台は平城京である。
(で、おれは二十一世紀かよ)
おもしろくなってきた。
「この船の時間はねじれているんですか?」
「時なんてものは、はなっから存在しない。あるのは事象の相対的な順序だけです。気になりますか」
今さら気にはならない。
「あなたはどうしてこの船に?」
「平安の都にあったのは女子供の娯楽だけでしてね。
古代、多少でも能力のある男子は政争にあけくれるしかない。
一門の繁栄などというのは、合理化というか、どこか方便めいてます。
根底には、やはりドロドロしたものがある。
そのうち権力や地位を得ることより、闘争の過程そのものを愛するようになる。
ときに闘う自分の姿にうっとりして。
しびれるような緊張感は麻薬ですよ。
すぐれた才覚を持ったライバルを消去していく。
たまらんゲームです。
しかし、すべてを手に入れたあとにやってくるのは、退屈と避けられない死への恐怖ですな。
たくさん敵を葬った。
直接手をくだしたわけじゃないが、たくさん殺しますとね、少しずつ何かが狂い始める。
それがだんだんおのれの最期のビジョンに投影されてくる。
自分に負けるようになるんです。
ありもしない魔におびえ、しだいに追い詰められていく。
非門閥の弱小貴族だった鎌足が、蘇我氏のようになりたいと夢をみた。
土地も金も兵もない。
これはもう日本を唐のようにして、律令官僚としてのしていくしかない。
中大兄皇子は中国の皇帝にあこがれた。
いいパートナーですよ。
しかし、結果は単なる独裁者です。
しかも、弟を殺せなかった。
入鹿は殺せたのにね。
さらに、大友を溺愛するあまり皇位継承のルールを無視した。
胆力はあるが情に流される。
ま、そこが限界というか。
独裁者としては非常に緩い。
むしろ資質は大海人のほうにありました。
中大兄の青写真を実現したのはかえって大海人の方ですからねえ。
皮肉ですなあ。
とにかく私は、鎌足が夢見た以上のことを実現した。
と思っていた」
「ちがっていたんですか?」
「ちがってはいないが、虚脱した。
生きる目的を失ったんですなあ。
それより先はない。
藤氏は永遠に臣下ですから。
廃人ですよ。
あとはもう酒を飲むか、阿弥陀堂を造るか、そんなことしかありませんよ」
「……」
「堂に横たわっておりますとね、コーヘレトが夢枕に立った」
「コーヘレト?」
「アレのじいさんですよ」
そういえば名前もきいていなかった。
何人なんだ、いったい。
「西方浄土につれていってやる、というんですよ。
私の指の糸を切りましてね。
十万億土の旅に金ピカのフィギュアは何の役にも立たない。
さあ、立ち上がりなさい、というわけですよ。
坊主どもの読経をかき分けて庭に出てみますとね。
屋敷の上にこの船が浮かんでました」
「この船は西方浄土行きですか?」
「どこへでも行きますよ。
好きなところで降りればいい。
ところで西方浄土というのは、距離的にみて、どうやらわれわれの宇宙の外にあるらしい。
須弥山を中心に四つの大陸、それを九山八海が囲んでいる。
これが私どもの暮らす一つの世界です。
それが十億個集まったものが大千世界、すなわち一つの仏国土です。
一〇の十三乗個の仏国土を隔てた先に極楽浄土はある。
たとえワープ航法を用いたとしても、遠いですなあ。
定期的なアクセス手段はないし、『どこでもドア』もない。
おまけに清らかすぎて泥鰌一匹すめない。
どうも楽しいところじゃなさそうだ。
たぶん、物理法則も異なるしね。
たまには若い娘にビールの一杯も注いでもらいたいじゃないですか。
もうフィギュア信仰はやめました。
私には穢土が合ってる。
濁りや煩悩あればこそです」
「ここは……、みんな死んでいるんですか?」
「私たちはどんな時代、どんな場所にでも下船できます。
例えば一〇二七年以降の日本に降り立てば、私は歴史になっている。
残っているのは、例の『この世をばわが世とぞおもふ』だけ。
まったく赤面のかぎり、あれは人生最大の痛恨です。
生死を問題にすれば、その瞬間、どちらかに定まるでしょうが、その観測をこの船で行うことはできません。
気になりますか?」
気にはならない。
意味不明の話もどうでもいい気がした。
『グリー』を観ながらフィンの生死を問題にする者などいはしないのだ。
たとえコリー・モンティスが死んでいても。
ぴったりだった。
ジャケットもシャツもパンツも靴も……。
「問題ないようですな。カジュアルなものは船室に用意していあります」
実際、申し分のない着心地だった。
姿見の前に二人で並んでいると、
「グッジョブ」
突然、女の声がいった。
ふり向くと、パープルのスーツを着た女がきりりと立っていた。
小柄で、色白、ショートカット。知的な目をした美形。
だが高慢で冷たい感じがした。
「おっ、カオルコか。どうした」
道長は佐藤の目を避けるように、
「私の…、あー、なんというか、ま、秘書です。こちら佐藤さん」
「はじめまして。私、御堂の秘書を務めておりますカオルコでございます」
ニコリと微笑んだが、すぐに道長に戻した目は氷のようだ。
「どうしたのかね、今日は?」
道長が急におどおどし始めた。
「どうなさったんでしょうか、このごろは?」
問いで返す。
磨ぎ上げた針のようだ。
「あ…、お…、ん…、なるほど……」
道長は叱られた子供のような顔になり、
「佐藤さん、それ、具合の悪いところはないようですな。私、ちょっと用事ができましたので、ここで失礼させていただきます。それでは」
道長はカオルコを引っ張り、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
「あなたがちゃんと協力してくれなきゃ筆が進まないじゃない。
ねえ、分かってる。
あのしたり顔のあけぼの女にだけは絶対負けたくないのよ。
をかし、をかしってバカのひとつ覚えみたいに。
あの女、ちょっといっちゃってるわよ。ねえってば……」
ドアの向こうに消えてからもカオルコの金切り声がしばらく聞こえた。



七、月夜

用意されていたキャビンは快適だった。
2階建てのロフトスタイルで、大きな窓の外にはデッキチェアと白いバルコニーがあった。
クロゼットには部屋着、パジャマ、肌着の類まで不足なく調えられている。
ここからはカエルの鳴き声は聞こえないが、今もこの巨大な船は水田の上に浮かんでいるのだろうか。
シャワーを浴び、ビールを飲みながら外の闇を眺めていたが、いつともなく甘やかな眠りに誘われ、佐藤は大きなベッドの中で溶けるように眠ってしまった。
目が覚めると、ブラインドの隙間から朝の光が差し込んでいた。
白い天井。
(おれの部屋じゃない)
夢ではなかったのだ。
バルコニーのガラス戸を開けると、さっと潮風が部屋を満たした。
船は青く光る海原を航行していた。
それにしても空腹だった。
朝食はどうしたものかとぐずぐずしているとドアのベルが鳴った。
見知らぬ男が立っている。
が、ゆで卵のような顔。ナマズひげ。
全体、道長に似ている。
もしやと思ったが、
「おはようございます。私、仲麻呂です。小僧はヒステリックな女につかまってましてね。代わりに私がまいりました」
道長のことをいっているらしいが、どうみてもこの男ほうが若い。
「朝飯、食いにいきしょうよ。カードキー、忘れないでください。レストランもシアターも、すべてそれ一枚でOKです」
ニコニコ気さくな男だ。
血みどろの政争を勝ち抜き、人臣として初めて大師に上り詰めながら、まったくノーマークだった道鏡という一介の坊主に孝謙の寵を占有され、おのれが得意とした陰謀と裏切りの中を一気に転がり落ちていった男。
だが……。
(このさらっとした感じはなんだろう)
敗北も転落も幸福の種になりうるのだろうか。
それとも、この得体のしれぬ世界の特異現象なのだろうか。
現実の歴史とは関係のない……。
しかし、夢も現実も、もとは宇宙の塵だったのだ。
「すべては無のゆらぎから始まったのです」
と、コーヘレトはいうかもしれない。
佐藤はまっすぐ、ビュッフェレストランに連れて行かれた。
パステルブルーを基調にした店内。
テーブルは白木で、和洋中をはじめとして、佐藤が目にしたことのないような料理がたくさん並んでいた。
席はすいており、客は主に東洋系だった。
欧米人は、とりわけバカンス中は、朝というものの感じ方、とらえ方が根本的に異なるらしい。
夜はもっと違うかもしれない。
海外の観光地で朝からせわしなく動き回っているのはたいてい日本人だ。
一方、日本人が寝静まった深夜まで、彼らは普通に飲んだり踊ったりしている。
縛りを解きリラックスすることとだらしなさが同質に見えてしまう。
アジア系の哀しい性(さが)だ。
二人は窓辺の席についた。
「今は海を航行しているんですねえ」
と佐藤がいうと、
「見たいものが見えるんです。
このレストランといっしょですよ。
ほら、あそこのコーカソイドの婦人はクロワッサンをつまみ、私どもは水炊きしたジャポニカ米を食している。今、彼女が持ち上げたカップはたぶんホットチョコレートでしょうが、お米のご飯といっしょじゃ、とてもあんなものは飲めませんよね。
緑茶か味噌汁でしょ、やっぱり。
この納豆、きっと彼女は鼻をつまむでしょうなあ。
しかし、向こうもこっちも、それぞれ満足している。
そういうことです」
凪いだ海を、船は二日日間航海した。
それはあてがわれた部屋で二回寝起きしたという意味だが。
タンパク質の負のフィードバック機構は、はたして正常に機能しているのだろうか。
その間、ほとんど佐藤は仲麻呂と行動を共にした。
何をするにも選択肢の多いこんな船の中では、仲麻呂のようなグイグイとした男は便利だった。
決めかねるということは意外に疲れるものだ。
自分の意見を持つというのはもっと骨が折れる。
「ほんと、優柔不断ね」
別れた妻はいったものだ。
(ものぐさなだけだ)
と佐藤は自分では思っていた。
 
巨大客船に乗って三日目。
朝食を終え、佐藤がバルコニーの椅子に寝そべり、遥かな島々を眺めているとベルが鳴った。
また仲麻呂がどこかに誘いにきたのだと思った。
が、ドアをあけると、
「おはようございます」
立っていたのはアレだった。
佐藤は、ああと叫んだ。胸の中で。
「アレさん……ですよね」
「はい」
「どうしたんですか、いったい」
確かにアレにちがいない。
それはひと目見てわかっていた。
が、目の前に立っているのは少女ではなく、一人前の女性だった。
十歳は成長したように見える。
からだ全体、心もちふっくらとし、匂いたつような艶やかさ。
今日のアレは、もしそんなものがあるとしたら、月夜の香りを漂わせていた。
それは、この妖しげな世界から離れ出ることを恐怖させる危険な香りであるような気がした。
「一昨日、私は十七歳でしたが……」
「今は?」
「二十八になりました」
「そんなこともありですか」
「そうですね」
アレは笑った。しっとりと。
つい一昨日の夜、短いスカートから棒っきれのような足をのぞかせていた少女は、佐藤の知らない世界で十一年の人生を過ごしてきた。らしい。
「まもなく到着します」
とアレはいった。
「どこに?」
「あなたが下船する場所です」
あとは微笑んでいるばかりだ。
地名などない、とその笑みは語っていた。
おそらく、この船が初めて寄港し、決して再び訪れぬ場所なのだろう。
「装備を用意してありますので、後で店に来てください」
それだけいうと、アレは去っていった。


八、下船   

佐藤は古い木製の桟橋に降り立った。
岸の広場はリヤカーでひしめいていた。
車やバイクの姿はまったく見えない。
リヤカーの積荷はさまざまな生活物資で、大きなブリキの桶に海水を満たし、活魚を運んでいるものもいた。長尺の建材を高々と積み上げているのもいた。
みんな業者らしい。
この町はトラックなどが入れない特別な規制があるのかもしれない。
客船は沖の浮き桟橋に停泊した。
佐藤はそこで地元の漁船に乗り移り、たった一人、ここまでやってきた。
上陸し、振り返ったとき、客船の影はもうかき消えていた。
取り残されたような寂しさは感じなかったが、またアレに会えるだろうかと、そればかり気になった。
鼻腔の奥に、月夜の香りがよみがえった気がした。
人々はほとんどアジア系の顔立ちだが、言葉は何語なのか、佐藤にはまったく分からなかった。
(さて……)
どっちに行こうかとキョロキョロしていると、横合いから、
「佐藤さんですね」
日本語で声をかけられた。
ふり向くと、袴を着けた青年がひょろりと立っていた。
どこか茫洋としている。
「そうですが……」
「これをどうぞ」
男は折りたたんだ紙切れを差し出した。
それから、何かいうかと佐藤は待っていたが、青年はくるりと背を向け、
「ストレイシープ、ストレイシープ……」
とつぶやきながら、広場の向こうの門の中に消えていった。
世界の苦悩を一身に背負ったようなあの後姿は、
(恋だろう。ふふふ)
苦しいか? でも、今が一番いいのさ。と、佐藤は声をかけてやりたかった。
そういえるだけの、
(失敗をしたんだ。おれは……)
と思う。
「なあ、君」
刻々、無数のカップルが神に永遠の誓いをたてるが、守りきれものは本当にわずかなんだよ。
人は、永遠にはなじまない。ただあこがれるだけさ。
「そう深刻な顔をするなよ」
「たかが恋愛……」
と、『Hero』の雨宮舞子もいったではないか。
(だが……)
「おれはいると思うけどね。そのたかが恋愛で人生棒にふっちゃった人が」
と久利生公平は答えた。
「女は化け物よ」
と、「鬼平」ならいうかもしれない。
(ふっ。おれの知恵は……)
ほとんどツタヤでできている。
「けっ、なさけねっ」
四つ折を広げると、それは地図だった。
手書きの略図である。
今いる広場が○印で示してあり、目的地らしい場所に×印があり、
「船着場」
と書いてある。
ばかばかしい気もしたが、佐藤はとにかく地図を見ながら歩き始めた。
二十分ほど歩くと町並みは尽きた。
小さな町だ。
車はおろか自転車もいない。
出会う人々は東洋系なのに、建物は白っぽい石やレンガでできており、風景は北アフリカあたりのイスラムの街の印象である。
地図によるとあとは×印までずっと一本道。
だが、距離を示してないのでどれほど歩けばいいのか見当もつかない。


九、みずうみ 
 
小一時間も歩いただろうか。
道は延々と牧草地の中を登っていく。
澄みわたった景色は木村弓の歌が聞こえてきそうだ。
遥か彼方を仰ぐと、群青の空に雪を頂いた岩峰がそびえている。
まるでアルプスだ。なのに、
(船着場とは……)
人家も人影もない。
(まいったな)
が、いくしかない。
来た道を戻ることはできない。
後悔や郷愁で見つめるだけだ。
担いでいる大型のザックには、水や食料はもちろん野営の装備も詰まっている。
それを持たされた。
(ということは……)
必要になるということだ。
「ふっ」
もともと山はきらいじゃない。
ただ最近は、娘たちがかたづき、妻が去り、あえて孤独を求める必要もなくっていただけのことだ。独りになってから、厳しい自然よりも荒涼とした家だった。
佐藤は歩きつづけた。
日が傾き始めたころ。
落葉松の林を抜けると左手に清流が現れた。
ゆっくり湾曲した上流は森の紅葉の中に隠れ、そのあでやかな色彩の上空には薄雪を頂いた岩峰が蒼く浮いていた。
せせらぎをたどりながらしばらく進むと、木々の間にいきなり湖水が現れた。
湖畔に立ち、残照のきらめきを眺めているうち、ふと佐藤は、遠い昔の、胸を衝かれる何かを思い出した気がした。
佐藤は岸辺の白樺の中にテントを張ることにした。
深夜。
騒がしい音がして、佐藤は暗闇の中で目を開けた。
シュラフの中でしばらく耳を澄ましていたが……。
もう音はしない。
存在は怖いほど深い静寂の底に沈みこんでいた。
(錯覚だったか……)
と、再び眠りに落ちかけたとき、背中が微かな振動を感知した。
初め、なんだか分からなかったが、やがて大地が凍る音だと気づいた。
日が落ちたときすでに身震いするほどだった。
緩やかな勾配だったが、ほとんど休まず、半日の間登り続けたのだから、
(かなりの標高を稼いだにちがいない)
頬に触れる刺すような冷気がその証拠だ。
朝、テントを這い出した佐藤は目をみはった。
(あっ、桟橋!)
が、出現している。
真ん前の湖面に、朽ちかけた桟橋が朝の光を浴びながら突き出しているのだ。
昨日、確かにそんなものはなかった。
驚いた。やはり。
一瞬、桟橋に笑われているような気もした。が、
(いまさらだよな)
この世界では、こんなことは当たり前ではないか。
(船着場? とすると、ここが……)
地図が示していた目的地ということになるが……。
それにしても船の影など見えない。
ここで旅は終わりということでもないだろうが、
(どうしたものか)
佐藤は思案顔に水面から立ち上る朝もやを眺めていたが、本当に思案にくれていたわけではない。
とっくにここでの流儀は心得ている。
ただ待っていればいいのだ。
(だっておれが主人公じゃないか)
いわば世界の中心である。
展開は向こうからやってくる。ような気がする。
その日は一日、森を散策し、湖を見つめて過ごした。
湖面を渡る風は冬の匂いがした。
一つの風景の中心に静止しているということは、自分自身を見つめるということにほかならない。
甘やかな記憶がよみがえることもあったが、美しい眺めと相殺しても、ほとんどは苦痛な時間だった。
日が落ち、テントの中でウイスキーをなめ始めると、苦痛は嘘のように消えていった。
すると、相殺されなかった美しい湖を思い浮かべることもできた。
胎内じみた小さな空間で生き返ってくる風景は現実以上の味わいだった。
しかし、そもそも、
(何が現実なのだろう)
佐藤には現在の立ち位置がわからなかった。
「現在」というきわめて生物時計的な時間認識さえ意味を持たないのかもしれない。
が、もう知りたいとも思わない。
次の日も、その翌日も同じようにして過ごした。
苦痛に対しては次第に鈍感になっていったが、無性に人恋しかった。
見知らぬ娘の肌におおいかぶさる夢を見た。
四日目の夜。
小用に立った佐藤は、
「あっ!」
対岸に、かすかな明かりがひとつ、見え隠れするのを発見した。
ほんの数秒間のできごとだったが、怪しむよりうれしかった。
初めての人の気配だ。
数日来、人に飢えていた。
佐藤はしばらく遠くの暗闇を凝視していたが、それっきり明かりは見えなかった。
昂奮したまま羽毛のシュラフにもぐりこんだが、ストンと眠りに落ちた。
翌朝。
佐藤は湖岸沿いに明かりの見えたあたりまで行ってみることにした。
途中、踏み跡のない危険な場所もあったが、潅木の枝にしがみつきながら二時間ほどでたどり着くことができた。
そこは佐藤の野営場所とは違い、水面まで十メートルほどもある切り岸の上だった。
むき出しの一枚岩が数坪のテラスをつくっている。
遥か対岸に自分の黄色いテントが見える。
直線で一キロメートルほどの距離だろう。
岩の上に人の痕跡はなかった。
ツグミに似た小鳥が岩の際に飛来し、二三度首を回し、すぐ飛び去って行った。
昨夜見たのはたしかに人工の明かりだった。
(なんだったんだろう……)
不審というより急に孤独を感じた。
(ふん、やっぱり……)
なにか期待していたのだ。
ために起こった誘導電流のようなものだ。
妻の存在は当たり前の風景にすぎなかった。のに……。
(あの喪失感は……)
大脳辺縁系の作用というより、胸板の下で大きな質量変化が生じたような気がしたものだ。
その夜は、日が落ちて間もなくシュラフにもぐりこんだ。
対岸までの探検で疲れていたのか、考え事に苦しむひまもなく深い眠りに落ちた。
早く寝たので早く目が覚めた。
小用をたすためテントを出た。
満天の星空だ。
しかし、
(なにかちがう……)
と感じる。
どこがどうとはいえない。
佐藤は星座を知らない。しかし、
(ここは地球なのだろうか……)
そんな不安が……。
しかし、そんな疑念も、
(いまさらじゃねーか、ふん)
ぶるっと身震いし、テントに戻ろうと身をひるがえしたとき、
「あっ!」
佐藤は思わず声をあげ、その場に立ちすくんでしまった。
明かりが点滅したのだ。小さく。だが、はっきりと。中空の暗闇に。
遠い。が、たぶん、
(昨夜と同じ……)
わずかな仰角は山の中腹ということか。
しかし、今夜は。
明かりは数分間、点滅を続けた。


十、岩峰①

翌朝、佐藤はテントをたたみ、ザックをかつぎあげた。
(きっとあそこは……)
歩きながら佐藤は考えた。
地図が示していた船着場にちがいない。しかし、
「あそこは……」
船に乗る場所なんかじゃなく、単にあの光の点滅を目撃させるために用意された場所だったのではないか。
今にも崩れ落ちそうな桟橋は、実用の設備ではなく舞台の書割のようなもので、「船着場」であることを知らせるための表示にすぎなかったのだ。
なぜなら、
(おれはこうして桟橋を置き去りにし、あの光源を求めて岩峰に向かって登り始めているではないか)
標高をかせぐにつれて冷気が容赦なく露出した頬に突き刺さる。
こんな感覚もひさしぶりだ。
足元は薄く積もった雪が凍っている。
そのうちアイゼンを出さなければならないだろう。
酷寒に挑むことに血がさわいだ、そんな時期もあったのに……。
(くっそ、マジかよ)
今は足腰に不安を覚える自分が情けない。
佐藤は大学で山岳部に所属していた。
が、三年生のとき退部した。
空気が肌に合わなくなった。
それは入部当初からそうだったのだが、部の中心メンバーとして下級生を指導する立場となり、ОBとの折衝を任されたりするようになると、生理的な苦痛は我慢できぬまでに膨れ上がったのだった。
遠征の前には必ず、部室の一隅に向かって全員が整列し黙祷した。
そこには神棚があり、かたわらに創部以来遭難死した部員・ОBの名札が掲げられていた。
合宿での規律は、
「相撲部屋だよ、こりゃ」
同期の一人がいったものだ。
自分が下級生のときはじっと我慢すること、つまり負けないこと、克己することがモチベーションになったが、三年生になってからというもの、関東軍の将校のような演技はとてもできないと身にしみて悟った。
以来、山に入るときは、たいてい一人だ。
一人前に稼ぐようになってからは渓流釣りも始めた。
そもそも山行中の食料調達が動機だった。
高じて海釣りも覚えた。
それもたいてい単独だ。
釣りにも登山にもフッションがあり、ブランドがあり、流儀がある。
多少の逸脱は許容される。とくに若者の場合には。
が、大きく外れると……、
「アウトドアもなかなかしんどい」
美しい自然は、無数のチーム・団体のはりめぐらした防空識別圏が交差している。
わずかな狭間をすり抜けようとしても、どこかで必ずセンサーに引っかかり、スクランブルに遭い、尋問され、属さなければ排斥される。
窮屈な世界だ。
永遠に歩き続けているような感じにとらわれて、歌のフレーズが口をつき、頭から離れなくなる。
(なんだっけ、タイトル……)
『Hero』のテーマ曲だ。
宇多田ヒカル。
彼女の声はどうしてあんなに切ないんだろう。
『』オートマチック』のときからそうだった。
浅川ますみの声を思い出す。
「ますみ……」
高校の同級生だった。
学生時代、彼女も東京に出ており美大生だったが、しばらく同棲した。
高校時代、近すぎてあまり異性として意識できなかった少女の裸体におおいかぶさり、ももを割り、白い乳房を吸ったとき、ますみの口から、
「あああ」
と見知らぬ女の喘ぎがもれた。
佐藤は思わず動きを止め、目を閉じたますみの顔を確かめたものだ。
あのときの驚きは、
「コペルニクス的転回だったよな、有森の、ははは……」
コペルニクス的転回は哲学概論の有森教授の口癖だった。
びっくりしたよ、程度の意味だ。
そんなますみとも一年も続かず別れた。
ある夜唐突に、
「もうやめよ」
といわれてしまった。
何をいってるのかすぐには分からなかった。
一瞬、つけっぱなしのテレビのことかと思った。
が……。
うつむいたままのますみ。
息苦しい沈黙。
やがて、
(!)
佐藤はそんなままごとのようなことがずっと続くものと思っていた。
ますみは違う。
卒業を控え、その後を見すえていたのだ。たぶん。
「卒業後はどうするん?」
ますみは何度か、
「おれに訊いたよなあ」
そのたびに、
シルクロードを旅してみたい、とか。
バイクでアメリカを放浪したい、とか……。
荒唐無稽な返答をしていた、と思う、たしか。
どれもこれもテレビや映画の影響だ。
佐藤は一浪しているのでますみとは時間感覚が違う。
社会に出ることに対して、
(この人には……)
緊迫感というものがない、とますみは感じたのではなかろうか。
(当時は……)
その差に思い至らなかった。
それにますみには、並行してつきあっている男がいたらしい。
あとから知ったことだが。
ますみは卒業後まもなくその男と結婚した。
そいつはステータスをもった社会人だった。
三十代だとか。
それも後で聞いたことだ。
当初は恨んだものだ。
酔ってからんでわめき散らし……。
卒業したら、とにかく稼げる職につこうと決心した。
女を後悔させるほどのものになりたいと思ったものだ。
しかし、結局、間貫一にもギャツビーにもなれなかった。
今思えば、
「ますみの判断は……」
生身の女の分別として当たり前のことではなかったか。
『俺たちの旅』にあこがれていた佐藤などまるで大海の浮遊物で、不安材料でしかなかったはずだ。
男は思い出に生き、女は過去をリセットする、と世間ではいう。
「そうとばかりはいえねーよ」
と佐藤は思う。
そんなのは、性の差ではなく、
(個人差じゃねーか)
だが、いまだに高校の同窓会に出席できないでいる女々しさは、
(ったく、なんなんだよ、情けねっ)
男としても人間としても、
(並以下だな、おれは。ははは……。やっぱり……)
「すき屋」に入るたびにしみじみそう思う。
ますみの判断は正しかったのだ。
もう七、八年になるか。
家庭も正常だったころ。
五月の連休。
野営の装備一式を担いで、倉敷駅から蒜山高原まで、二泊三日をかけて歩いたことがあった。
あのときは平原綾香の『ジュピター』をずっと口ずさんでいた。
疲れ果て、動物の我欲が希薄になると、きっとああいう濃密な声を欲するようになるにちがいない。
また疲労がピークに達すると心身が永遠仕様に変わり、前途の長大さを考えなくなり、突然反復の苦痛から解放され、気づけばちょっぴり幸福にさえなっている。
エンドルフィンの放出が維持されているのだ。
こうなればしめたものだ。
苦しさを客観的に眺められるようになり、景色を楽しむ余裕も出てくる。
どこかしら歩くマシンになっており、それを見つめる別な自分もいる。
まるでエヴァンのパイロットのように。
「ただ おまえがいい ……」
いつのまにか中村雅俊の歌を口ずさんでいた。
磁石も地形図もない。
が、なんとかなるだろう。
と、佐藤は思っていた。
初めてやって来た巨大な山塊の一点、しかも夜の闇の中で瞬いた光のありかを求めて、遥か彼方に蒼くそびえる岩峰を登ろうとしている。
しかも急激に変化する気候は今や厳冬といっていい。
普通なら自殺行為だ。
だが、
(おれのストーリーだ)
どこかでたかをくくっている自分がいた。
いつのまにか粉雪がまっていた。
ツボ足で半日ラッセルし、佐藤は気が遠くなるほど疲労していた。
岩陰で風を避け、薄暗い空を見上げた。
(今日は、このあたりが潮か……)
明るいうちにテントを張らねばならない。
山ではわずかな気の緩みが生死を分けることもある。
いやというほど知っている。
が、指一本動かすのも大儀だった。
「消耗したものは死亡するのみ」
といったのはレドだ、『翠星のガルガンティア』の……。


十一、 一心堂

寒さで目が覚めた。
といって眠っていたのではない。
意識が途切れていたのだ。
ずいぶん長い間、雪洞の中でそんなことを繰り返している。
長い間といっても何時間なのか、何日なのかまったく分からない。
(もしかするとここは……)
地球の公転・自転周期の適用されない世界かもしれない。
もしわれわれの宇宙が、六次元以上の空間を漂う十の五百乗個の宇宙の一つだとしたら。
もしあの船が超ひも理論方程式の解と解を結んで航行しているとしたら。
存在しえない世界などないのだ。
(ふん、なんでもありさ……)
登れるだけ登った。
(少しはあの光の場所に近づいたのだろうか)
今、自分が岩峰のどのあたりにいるのかまったく分からない。
しかし、分からないといえば、はなっから何も分かっていないのだ。
吹雪に吹き込められている間に食料は尽きてしまった。
今はときどき雪を融かした水を飲むだけだ。
(ここで死ぬのか)
とあきらめかける。
ついさっきは、『GIジョー』のロードブロックの幻がささやきかけてきた。
「どんな道に導かれようとも、どうか主よ、今夜は死なせるな。だが、もし死んだとしても運命を受け入れよう」
主人公が死ぬ。
間々あることだ。
また意識が遠のいていき……。
下の娘の声が聞こえた。
「ねえ、あと二つは何?」
「……」
「ねえ、シェンロンが待ってるよ、ねえ」
「たすけて……」
ふわり、と体が浮いた気がして……。
目を開けると……。
ほの明かり。
柔らかな毛皮にくるまれて……。
肩のところに少年の顔があった。
ぱっちりと黒い瞳が二つ。
こっちを見つめている。
(この顔は……)
どこか見覚えがある。
「君は誰だっけ?」
 夢見心地のまま訊いた。
「……」
「どっかで会ったっけ?」
「……」
まるで人形のようだ。
まばたきもしない。
だが温かい。
裸らしい。お互い。
柔らかくなめされた毛皮の下で、松葉のような足がぴたりと佐藤の太ももにからんでいる。
ともかく、まだ生きているらしい。
「どこ、ここ?」
「一心堂病院」
やっと答えが返ってきた。
そっけない。それにしても。
(一心堂……?)
地元西大寺の病院ではないか。
ハピータウンの向かいの……。
毎日朝夕、車でその脇を通勤している。
薄暗くて細部は分からないが、病室のようには見えない。
「ほんとに一心堂?」
少年はうなづき、
「阿弥陀堂の中」
といった。
やはり、そっけない。
ホテルにチャペルがあるように、今日日の病院は阿弥陀堂や斎場を備えているのだろうか。
きついジョークだ。
「集中治療室です、ここは」
まばたきもせず、少年はいった。
が、表情がない。
氷のようだ。
(この子は……)
感情というものをどこかに忘れてきたのだろうか。
「集中治療室……、なんだ、ここ」
まわりには医療機器など一つも見当たらない。
どころか家具調度類もない。
まるで大きな箱の中にいるようだ。
「重篤患者は阿弥陀堂に入ります」
もしかすると、明りの届かない部屋の隅に如来像が立っているのだろうか。
「死にかけていましたから……」
それは確かにそのとおりだったと思う。
「君が助けてくれたの?」
「呼ばれましたから」
「だれに?」
「あなたに」
何をいっているのか分からない。
が、どうでもよかった。
素っ裸で少年と抱き合っているこの異常な状況も。
「で、君は何してるの。つまり、こんな裸で……」
「治療です」
「治療って、君が?」
「私は医者です」
低体温の男を人肌で温める。
治療といえなくもない。
しかし、医師を名乗るものが集中治療室という施設の中で行う行為ではなかろう。
「医者って、君、いくつだよ」
からかわれているのだ。
こんな子供に。
「あなたの同級生よ。小学校の」
「同級生って、子供じゃないか、君は」
「忘れたの、明くん?」
冷たい声。
佐藤は少年の顔を穴があくほど見つめた。
「横田典子よ」
(!)
そうだ。
やっと思い出した。
まさしく横田典子だ。
「のりカス……」
そう呼んでいた。
好きだった。のに……、いじめた。
いや、みんないじめていたのだ。
訳があった。
横田典子は同じ六年生だが、齢は一つ上だった。
詳しいことは知らなかったが、なんでも健康上の理由で通学できず、もう一度六年生をやるはめになったらしい。
結果、友達もできず、浮いた存在になった。
国語がよくできて、作文がとてもうまかった。
ただ、体育はいつも校庭の隅で見学している。
それ以外は特に目立ったところのない普通の少女だった。
(いや……)
かわいかった。
少年を惹きつける可憐さのようなものがあった。
と、感じたのは佐藤だけではなかった思う。
ただ、その年頃の少年は素直になれない。
行動は屈折する。
それでも女子たちは何かを嗅ぎつけ、横田典子に反感をつのらせたにちがいない。
女子たちのいじめがきつかったのはそのためだ、きっと。
幼くとも、そういうところは女だ。
国語がよくできたのは、本以外に対話するものがなかったのだ、たぶん。
どうりで見覚えがあるはずだ。
(とすると……)
佐藤は膝頭で少年の股間をさぐった。
と同時に、少年は毛皮の下で佐藤の手のひらを自分の胸に導いた。
(!)
なんと迂闊なことか。
佐藤はにわかに緊張しはじめた。
「ほら、ね」
顔色ひとつ変えない。
あたふたしている自分がバカに見えてくる。
なんだか腹が立ってきた。
佐藤は少女の体をぐいと引き寄せた。
まるで抵抗しない。
怯えているふうもない。
(子供のくせに……)
さらに怒りが湧く。
(もし今、この少女を陵辱したら……)
どうなるのだろう?
理性がとろけ始めている。
佐藤は少女の顔をじっと見つめた。
密着した小さな胸は確かに呼吸し、体温を持っている。
のに、作り物ではないかと思われるほど感情のない顔。
佐藤は存在を無視されている気がして傷ついた。
「ちっ」
ついに佐藤は少女のももを割り、下半身をすべり込ませた。
少女はなすがままにされ、ついに最後まで呻き声一つ漏らさなかった。
身体を離したとき、
「ただの男ね、あなたも」
無機質な瞳はそう語っているように思われた。
やりきれない気分だった。
(おれは罪をおかしたのだろうか)
だがこの世界には法も警察もないのではないか。
何からも縛られず、罰せられないところに罪など存在しえない。
しかし食物連鎖の頂点に立つ始皇帝やルイ十四世でさえ何か怯え、何かにすがろうとしていた。
道長だってそうだ。彼らは超越者の目を信じていたからだ。
まだ神々が生きていたのだ。
(しかしおれは……)
今日日、神仏の存在を本気で信じている阿呆など一人もいない。
ふりをしているものはいる。
信じる努力をしているものもいる。
存在しているのだと自分をだましているものもいる。
しかし、もし本気で信じているものがいるとしたら、そいつはとても幼いか、もしくは、ちょっといかれているのだ。
みんな少数だ。
大多数はいないと知っててすがろうとする。
しかし、
(この胸の痛みは何だろう)
佐藤は苦しんだ。
横田典子が転校していったときもそうだった。
自分のせいだとは思わなかった。
いじめの加害者の意識などそんなものだ。
しかし、ぽっかり空いた典子の席を見るたび、針のようなものが胸を貫いた。
(同じだ)
「全員目をつむりなさい」
担任の国松がいった。
いつになく真剣な面持ちだった。
典子がいなくなった直後のことだ。
「いいというまでぜったい目を開けてはいけません。
横田さんをいじめたことのある人は手をあげてください。
だれにもいいません。
先生は約束します。
正直に手をあげてください。
しかったりしません。
これはあなたのためです」
自分に語りかけられている気がした。
が、佐藤は手をあげなかった。
闇と沈黙。
その重さに耐え切れず、佐藤はこっそり薄目を開けた。
飛び込んできた一本の手。
すぐ前の席。
高々と、真っ直ぐに手を差し上げていたのは、
「田原直樹!」
何事につけ鈍な少年。
少しバカにし、いつもいじり回していた。
が、そのときの後姿はとてもまぶく輝いて見えた。
あの日、杭のようものが胸に突き刺さり、今日まで抜けていない。
「目をあけなさい」
と国松がいったとき、佐藤はいいようのない恥辱にまみれていた。
(こんなのいやだ)
と佐藤は唇をかみしめた。
「私は逃げたりしない。そんな生き方はしない」
と、『フリンジ』のダナウはいった。
あのとき、子供ながらに佐藤も同様の決意を固めたはずだった。
しかし、その後の人生を振り返ってみても、あまり賢くなったとはいえないようだ。
過ちを生かせず、ときどき悔いと痛みを感じながら生きていく。
(結局そういう男なんだ)
典子の黒い瞳がこっちを見つめていた。
「あの日に帰りたいよ」
思わず佐藤はつぶやいていた。

「全員目をつむりなさい」
担任の国松がいった。
いつになく真剣な面持ちだった。
「いいというまでぜったい目を開けてはいけません。
横田さんをいじめたことのある人は手をあげてください。
だれにもいいません。
先生は約束します。
正直に手をあげてください。
しかったりしません。
これはあなたのためです」
自分に語りかけられている気がした。
佐藤はぐっと歯をかみしめ、こわごわと右手をあげた。
ふっと胸から何かが抜け落ちていった。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-27

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