ゆめのまたゆめ

「あの時までは、俺は正常だった。平凡と言ってもいい、つまらない人間だった。
「そんな俺だが、ある日、夢を見たんだ。詳細は曖昧な部分もあるが、まるで現実に起きた出来事の様に、内容ははっきり覚えている。夢の中で、俺は完全なる傍観者だった。
「真っ白い背景がある。そこには美しい少年が二人、並んで立っている。それを五メートルくらい手前で、俺は立ったまま眺めている。
「その二人は鏡写しの様に全く同じ顔だ。青白い顔をしていた。ただ、綺麗な顔立ちだった事は確かだが、どんな顔だったかについては、はっきりとは思い出せない。恐らく上下黒っぽい服を着ていたと思う。
「よく見ると二人に挟まれた中央には何かがうずくまっていて、それを二人の少年が交互にめいっぱい蹴り始めた。少年はどちらも無表情のままだ。
「なんだろう、と思って、その中央にあるものを見ようとすると、視界が勝手にそれらに近づく。二メートル先位、手を伸ばせば届きそうな位置から、彼らの様子が見える。しかし視点が近づいた事は、彼らの行動には何らの影響も与えない。飽くまで俺はその場所で、完全なる傍観者なんだ。
「そこで、二人の間にあるものが何であるかが、ようやくわかった。そこにいるのは妊婦で、彼らはその妊婦の膨らみきったお腹をかわるがわる蹴り上げていた。
「妊婦はずっとうずくまっていたから、その表情は確認出来なかった。服装すらも思い出せない。声も全く思い出せない。どんな声で、悲鳴を上げていたのか、はたまた上げていなかったのかさえ曖昧だ。
「不思議なのは、この時の自分の心持ちだ。繰り返すが、その時点では俺は"正常"だった筈だから、一般の道徳によって物事の善悪を判断していたはずだ。本来なら、少年らの非道な行為に激昂するか、少なくとも不快感でいっぱいになっただろう。しかし、その時の俺は、何故だかわからないが、少年たちに正義を感じた。既存の道徳では説明がつかないがね、確かに彼らに潔白の、圧倒的な正義を感じた。かといって妊婦に悪意を感じていたかと言うと、そういう訳ではない。その景色において、妊婦は人間ではなく、モノの様な印象だった。いや、確かに人間ではあったのだが。
「その場面をただ眺め続けているだけの夢は、突然途切れた。けたたましい目覚ましの音に俺は起こされた。それは、何の変哲もない水曜日の朝だった。
「最初に言った通り、俺はこの夢を見るまでは正常だった。ところがどうしたことか、この夢から覚めて、その不思議な夢を訝しく思うより先に、自分の中に起きたある大きな変化に気が付いた。
「俺はそれなりに有名な大学を出て、有名な会社に就職して、趣味を持ち、優しい恋人や親友もいて、充実した環境にあった。ところがその瞬間から、急にそれらのものがどうでも良くなった。それよりもただ、俺はたった今発見した新しい類の欲望にのみ従うべきだと確信した。それは迷いの無い、とても清々しい気分だった。面倒な荷物を全てなげうって、ただ一つの目標に向かって走ればいい、そんな感じだった。
「その時点から、自分が正気でなくなった事は自覚していた。ただそれ以上に、あまりにその時の気分が良くて、自らの発狂に感謝していた位だった。
「それでいて、一方では不思議に冷静だった。今まで生きてきた中で一番、頭がすっきりしていた。つまり、その欲望を満たすためには何をすべきか…。
「まず、目的を果たす為の計画を立てた。但しこの場合、肝心なのは計画に捉われない事だ。飽くまで優先されるべきは純然な欲望であるべきで、計画と言うのはその障害を出来る限り回避するための事前策としての役割しか果たさない。つまり、出来るだけ他者の咎めを受けない様に、かつ出来るだけ自分の欲望をあるがままに満たす事だけを考えた。
「俺はその発狂が、幻である可能性を恐れた。もしも幻であったとしたら、この先一生かかっても、二度とこんな興奮は味わえないだろう。その万が一を恐れ、幻が消えてしまう前に、すぐに最初の行動に移る必要があった。一度行動を起こしてしまいさえすれば、この衝動は幻で終わる事は無いのだから。俺は、早く戻れないところまで行きたかった。
「まず、会社に欠勤の連絡を入れた。普段の真面目な勤務態度からこの突発的な病欠、実のところの仮病について全く疑われなかった。スーツに着替えると、財布と替えのワイシャツ、そして包丁が入った鞄を持って、目覚めてから三十分もしない内に家を出た。季節は秋に差し掛かっていたが、その日はやけに湿気があったてジメジメしていたのを覚えている。
「都心から電車で二時間ほどかけて、銚子へと向かった。どうして目的地が銚子なのかと言えば、最初は合理的な理由を付けられなかった。体が勝手に動いたというのが本音だ。今思えば…だが、この銚子と言うのは、幼い頃に一度訪れた際の記憶の中にある風景が、何故だか俺にとっては真っ白な印象で、例の夢と重なったと言うのが原因としてあったかも知れない。
「銚子駅に着くと、俺は標的の選定も兼ねて、足の赴くがままに放浪した。焦りはなかった。何故だか、必ず好機が巡ってくるという自信があった。やがて夕刻になり、空がやや暗くなって来た頃、思った通り、またとない条件下で、俺は最初の犠牲者と出会った。
「小さな港の船着場からから家々が立ち並ぶ路地の方へ入り、その細い道の先にある小さな階段をのぼっていくと、少し高台になっている場所に、さびれた小さな神社があった。その社殿の前の石段にその少年はうつむいて座っていた。何をするでもなく、ただ地面をじっと見つめて、ぼんやり座っていた。
「そこで逢った少年は夢の中にいた少年達とは異なる顔ではあったが、何処となく似ている様にも感じた。とにかく、この少年を最初の標的と定めた瞬間から、俺はもう興奮を抑えきれなくなっていた。
「少年がうつむいたままで、こちらに気が付かない様子であったのを良い事に、俺はずんずんと近付いていった。俺の生命に対する一方的な凌辱は、既にその時点で始まっていた。
「そして少年のつま先の前まで近付くと、ようやく少年が顔を上げようとするよりも早く、俺は鞄から素早く取り出した包丁で、少年の胸あたりを一突きした。石段の上に無防備に押し倒された少年が悲鳴を上げる間もなく、続いて何度か差し込まれた刃の、一体なん突き目で少年が息絶えたのかは分からない。いずれにせよ、その突き刺された刃は、まるでケーキでもカットするかのようにすんなりと彼の身体を切り裂いていった。彼の顔はあまり注視しなかったが、すぐに蒼褪めていき、夢の少年達の肌色に近づいていった事は覚えている。
「何度繰り返しただろうか、ようやくその動作に飽き足りたころ、少年の胸の当たりから腹部にかけては、皮膚が裏返ったかのように内臓がむき出しになっていた。着ていた白いポロシャツはビリビリに破けており、何処までがシャツで、何処からが皮膚かも一見判別がつかない程になった。
「俺の興奮は冷静な一面を残しつつも、絶頂を味わった。凶行に及んでいる自分を客観する冷静な目と、ただ目の前の獲物を貪るだけの獣の目が、同時に混在していた。しかし冷静さは、その危険性を十分認識しながらも、飢えた獣を止めるほどの抑止力を持っていなかった。どちらかと言えば、寧ろその様子を冷静に観察し、記憶する事で、後々の回想における楽しみの材料にしようとすら考えていたのかもしれない。
「当然、飛散した血液は俺の顔や、社殿の石段にこびり付いた。夕刻過ぎ、人気は殆ど無いとは言え、神社の境内での大胆過ぎる行為は、誰かに目撃、通報され、すぐに捕縛されることだって十分あり得たはずだった。しかし、俺はそのボロボロに壊された少年をそのまま放置した後、平然と帰り支度を始めた。血まみれになったワイシャツと包丁をかばんに押し込み、水場で顔や靴の血をさっと洗い流した。スーツは真っ黒だったし、スーツについた血は濡らしたハンカチで軽く拭っただけで、殆ど目立たなくなった。鮮血に染まったワイシャツだけは、用意していたものに着替た。
「その後、仕事終わりのサラリーマンを装い、何事も無かったように自宅へ戻った。帰路、さすがに周囲の目を少しは気にしてみたのだが、特別な視線を感じる事は一切なかった。
「帰宅するまでの間、幸いな事に、俺の興奮は全く冷めないまま体内で持続されていた。自宅に入った瞬間は、あまりのあっけなさに思わず笑いが込み上げてきたし、笑いが収まらないままで、すぐにソファの上で堂々と自慰に耽った。
「最高の気分だった。身体に受ける重力がすっと軽くなっていくのを感じた。俺は最高の幸せ者なのだろうと信じた。」

「それからというもの、週に二度位の頻度で同じ夢を見た。厳密には登場人物の服装だとか、視点だとかが多少違っていた様な気もするが、真っ白い背景と、加虐者の少年二人、被害者の妊婦、という構図は変わらなかった。
「その夢に導かれるかのように、俺は少年たちの生を蹂躙し続けた。初めての時と同じように、何気なく赴いた行き先で、いつでも俺はおあつらえ向きの状況と標的に恵まれた。
「九度、同じ犯罪を重ねた。どれも似たような内容だからここで全てを辿る必要は無いだろう。そう、それらの状況は、不思議な程に似通っていた。
「そうして、九度目の無事な帰宅を遂げた後、いつも通りに俺はソファに座ったが、その日はよほど疲労がたまっていたらしく、自慰の最中で眠りに落ちてしまった。そんなことは、正常だった時を含めても初めてだった。
「そうしてそこでまた、例の夢を見た。いつもの真っ白な背景、二人の少年、それは最早見慣れた画面だった。俺にとって、そこにいる被害者は興味の対象外だった。それよりも少年たちの美しい横顔に、ただ見とれていたかった。しかし、その時はほんの気まぐれで、被害者に注意を向けてみた。
「相変わらず顔は見えなかったが、ちらりと見えた妊婦の首筋に、大きなほくろがある事に気が付いた。そうして、漸くそこにいたのが自分の母親であると気が付き、夢とは言え、さすがに驚いた。
「その瞬間、急にその他の様々な事実が、俺の中で明白になった。俺が初めに殺したあの少年は、かつて銚子でひと時を過ごした自分自身だった。だから、銚子で過ごしたはずのあの数日間が、真っ白な記憶になってしまっていたのかもしれない。それだけじゃない、何故それまで全く気付かなかったのか今でも不思議だが、俺が殺した九人は、みんな、それぞれの過去の中にいる"かつての俺自身"だった。
「夢の中で今更にその事実に気が付いた俺は、急に息を吹き返した常識によって、母親の腹を蹴る二人の少年を慌てて制止しようとした。それまで第三者として画面の外から眺めていた筈の夢において、突如として自分の身体の操作権を得て、気付くと俺は画面の中に入っていた。そして咄嗟に手を伸ばし、片方の少年の肩を掴んで、後ろに引き倒した。
「するともう一人の同じ顔の少年が蹴るのを止めて俺を見つめた。倒された少年も、ゆっくりと身体を半分起こすと、こちらを見た。二人とも無表情を崩さなかった。その様な状況にあっても、初めて彼らの美しい顔を、正面から見る事が出来た嬉しさが頭の片隅に浮かんだのを、否定は出来ない。
「美しい顔に見とれる間もなく、二人の少年は同時に口を開き、低いようで高いような、細い様で太いような、ユニゾンの声色で俺に問いかけるのだ。」

『いいの?僕らを止めて。僕らがコレを蹴るのを止めたら、あなたがまた産まれてしまうよ。あなたが産まれてしまったら、結局は少年のあなたが九度も殺されてしまうだけだよ。それに、僕らは、きっと…』

「二人は同時に、何かを言いさして口をつぐんだ。俺の頭はすっかり混乱していた。しかし、少年たちに不思議と確固たる正義を感じていたのと同様に、彼らの言葉は正論かつ最も合理的な解釈であると感じられた。混乱したまま、俺が黙ったままでいると、やがてその夢の中で俺はまた第三者、完全なる傍観者となって、画面の外へ締め出された。
「引き倒された少年が立ち上がると、先程と同様にまた虐待が再開された。その対象が母親であると判明してもなお、母親への同情は感じていながら、それでも少年たちに対する正義の印象は揺るがなかった。」

「そして、目が覚めると、最も恐れていた変化が起きた。正確に言えば、その変化に確信を持ったのはその数日後ではあったが、その時点でも十分に明らかな不安があった。
「それ以降、初めてあの夢を見て以来、虜になっていたあの甘美な欲望がもう湧かなくなっていた。何故自分があんな凶行に及んだのか、その時に至ってはもう分からなくなってしまった。
「俺は絶望に震えながら、それでもまたあの夢と、あの感覚の再来を待ったが、浮かんでくるのは後悔と罪悪感ばかりだった。
「遂に俺は耐え切れなくなって、ここへ来た。自首するしかないと思った。皮肉な事だが、この説明し難い狂った感覚から自分が解放されるには、まっとうな法の裁きを受けて、第三者から断罪されるほかないだろうという結論に至ったんだ。
「詳しい殺害方法や場所については、これからゆっくり取り調べられるんだろうが、これが俺の犯した罪の大筋だ。あんた方に理解を求める気などないよ。俺自身ですら、今となってはもう、その動機の本質は分からなくなってしまったのだから。
「そう、あの夢の状況と同じ様に、今となってはもう俺は、第三者の感覚でしか事の顛末を語れないのだ。ここに主体は無い。…精神鑑定は不要だとは思うが、自分が正常だとも言えない。そもそも、狂人が自分の正常性を主張する事ほど、馬鹿げた話は無いだろうから。」

取調室の質素な机の上に両手を組み揃えたまま、小ぎれいな身なりをした男は長い口上を終えると、椅子の背もたれに身体をなげた。
ずっと話を聞いていた初老の刑事は、真剣なまなざしで男の話を聞きながら、要点をさらさらとノートに記録していた。
しかしながら、それは目の前にいる狂人を納得させる為の演技が主たる目的であって、刑事は彼の話を殆ど真剣に取りあって等いなかった。
何故なら、もし男が供述した様な衝撃的な連続殺人が行われいたとしたら、当然警察内に留まらず、社会的な報道が行われる筈だが、そういった話題はここ最近聞いた事がなかった。
それでも、この供述を無視するわけにはいかず、男を保護室に拘留した。念のため聞きだした各犯行の時間や場所の情報を直ぐに警察各所に確認したものの、やはり全くそういった事件は起きていなかった。
やはり狂言だったか、と、猟奇的な犯罪が狂人の描いた作り話で終わった事に安堵しつつ、精神病医へ連絡をした。そして、刑事は拘留されている男にその事実をありのまま告げた。
すると男は特に動揺するでもなく、淡々とまた話を始めた。

「…あぁ、そうか…やっと分かった…。いや、なに、あなたが今言った事もそうだが、それよりもっと肝心な事が分かったんだ。
「あの二人の少年、あれは俺の弟達だったんだ。そう言えば、父親から聞いたことがある。父親の話では、俺がまだ幼かった頃、母親は双子の弟を妊娠したんだが、流産したらしい。だが、流産と言うのは父親の嘘じゃないかと、当時から疑ってはいたんだ。当時、俺の家庭は子供を三人も養えるほど裕福ではなかったし、母親も病弱だったから、恐らく意図的に堕胎したのではないかと思う。
「これで、あの少年たち、いや、俺の弟達の言葉の意味が分かった。もし俺が産まれていなければ、彼らは産まれる事が出来たかもしれない。だから、彼らは俺の夢に現れた。俺に不思議な衝動を植え付ける事で、俺に過去の自分を殺させた上で、自分たちが代わってその記憶に生きようとしたのかもしれない。…いや、そもそも、もし俺が死産だったとしたら、そんな面倒も必要ない、一番簡単だったんだ。だから彼らは、あんな虐待を…。」

我慢強い老刑事も、訳の分からない不快な話をいつまでも聞いている気にはなれず、話を遮り、まだ話を続けようとする男をなだめて、そのまま署内の保護室へ拘留した。基本的に男は従順だった。

しかし、翌日になると、保護室に男の姿は無かった。刑事は慌てて保護室の当直であった若い警察官を呼びつけたが、その警察官は不思議そうな顔をして、こう答えた。

「おかしいな、昨日は夕方以降、ずっと私はここにおりましたが、その様な男の保護は受付けていませんし、記録簿にも記録はありません。もしよかったら、そこにある監視カメラも確認しますか?」

ベテラン刑事はさすがに厭な予感を覚え、背中には冷たい汗が流れた。
警察官の問いかけに答えないまま、刑事は保護室を後にして、自席に戻り、昨日男の供述を記録していたはずのノートを開いた。しかし、記録がある筈のページは真っ白で、何も書かれていなかった。

その時、眩暈を覚えた刑事の頭の中に、不思議な光景が、異様な程にはっきりと浮かんだ。
真っ白い空間の中に、美しい顔をした双子の兄弟が佇んでおり、こちらを見て微笑んでいる。
その背後では"奇妙な形の何か"を抱えたやつれた女が、うずくまって肩を震わせている。
刑事はその映像を振り切る様に首を振りながら、『私は正常だ』と心の中で呟いた。しかし、それにかぶせる様に、"奇妙な形の何か"が、あの男と同じ声色で刑事に語りかける。

『狂人が自分の正常性を主張する事ほど、馬鹿げた事はない。』

ゆめのまたゆめ

僕が作曲する際の常套手段を、小説に対して試みたものです。つまり、頭に浮かべた一枚の風景から、そのイメージを拡げていくというもの。
今回の場合で言うと、すごく悪趣味な、『無機質な背景の中で、統一的な顔をした複数の少年が、妊婦の腹を蹴っている』というふと思い浮かべた場面から、何とか話を展開できないかなぁ、というもの。
とってつけたオチですが、ありきたりのホラー的な話に、自分が普段から持っている現実的なホラー体感を、無理なく盛り込めた点は良かったと思います。それは、『もしかしたら自分は狂っているかもしれない、そしてもしそうなら、自分で自分の正常性・異常性、どちらの主張も自分や周囲に認めさせることは出来ない』という恐怖です。ちゃんとホラー出来ているかどうか微妙な感触ですが、一種の気持ち悪い感じは出せたかな。

ゆめのまたゆめ

奇妙な夢語り

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-08-26

Copyrighted
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