呪文

「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し」

今日、理科の授業でならった可視光線。
紫色から赤色まで七色に分けられ、波長の短い方から「紫、藍、青、緑、黄、橙、赤」と、ご丁寧にも藍には「アイ」と、橙には「ダイダイ」とルビを振り黒板に書きながら 先生が説明した。
なんとも覚えにくい。波長の長い方から「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」で読み方も変えて「せき、とう、おう、りょく、せい、らん、し」としてしまおう。
なるほど、こうすればリズム感も良く覚え易い。
家に帰った後で復習として、二、三度つぶやいたときに傍らにいる弟に気付いた。
隣で四歳の弟が聞いていた。
「にいたん、魔法の呪文?セイにも教えて!」
かなり気に入ったのだろう、さっきから舌足らずな口調でずっと復唱している。
「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し」

(勉強に集中できないな…)
弟は魔法の呪文を何度も何度も繰り返す。よくも飽きないものだ。
気分転換として散歩に行こうとしても外は雨天である。良い方向には気分は転換してくれまい。爆竹のような雨音だ。
仕方ないな、と思いながら、弟に早々に呪文の詠唱に飽きてもらおうと考えた。

「セイ、兄ちゃんと一緒に言おう」
弟の名は「静」と書き「しず」と読むが周りの人は皆で愛称として「セイ」と呼んでいる。
「にいたんよりセイのほーが、じょーずにゆえるもん」と弟。俺が作ったんだけどなぁと思いつつ「じゃあ、兄ちゃんが上手に言えるように教えてよ」と言う。
我ながら大人だと思う。小学生のころから子供らしさが無いと言われ続けていたが「我ながら大人だと思う」あたりに子供らしさがある事を大人は気付かない。
真面目で勤勉な姿勢のどこが悪いのだ。だから天真爛漫な弟を羨ましく思う。
弟は満足したように声を出し始めた。

「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し」
「せき、とう、おう、りょく、せい、らん、し」と弟に続いて言う。
「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し」
「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」
「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し、このなかにセイのなまえ、あるからスキ」と弟が言う。
「呪文」を気に入った理由の一端を知り、自分の名前を「しず」ではなく「セイ」だと思っている所が微笑ましく感じた。
「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」

「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し、おそらがはくしゅしてるね」
雨音が続く。(あぁ、拍手って雨音のことか…)と思いつつ。
「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」
弟が「呪文」以外の事にも気を向け始めたようだ。(もう一息で終わるかな…)とは思ったが兄弟の「呪文」のキャッチボールは何度も続いた。
「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し」何度も何度も。

「せき、とー、おー、りょく、せー…あっ!」
何かに弾かれたように弟が声を大きくあげた。
「セイ、どうした?」
「にいたん、おそらのはくしゅ、おわってる…」
そういえば雨音が聞こえない。カーテンの向こうは陽が射しているようで明るい。
「雨、止んだみたいだな」と言いながらカーテンと窓を開けた。
夕立ちの涼しい風が部屋に流れる。雨のにおいがはっきりと分かる。しかし、それよりも景色に息をのんだ。
「虹だ」
そう、虹。それもくっきりとメリハリの利いた色分けをされた虹。珍しいくらいに美しい……七色の虹だ。
外側から赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色に分かれている。

「セイ、雨も止んでるから散歩に行こう」
「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し、は?」まだ続けたいらしく、口を尖らせながら弟が言う。
「じゃあ、一緒に言いながら散歩に行こうか」
弟はにっこりと表情を変えて頷いた。

気分転換の散歩も、より良い方向に気分を転換してくれるに違いない。清々しく、晴れ晴れしい気分に。『魔法」のおかげだろう。
弟と手をつなぎながら外に出る。あの「呪文」も一緒に連れて。
虹を見つけた弟は目を輝かせながら歩く。あの「呪文」を唱えながら。

「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し」
なるほど、リズム感も良く覚え易い。
けれど何より、心を晴らしてくれる。
(この呪文を作ったのは、セイ、お前だよ、俺より上手に唱えてる)
「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し」

おそらのはくしゅと入れ替わって、「呪文」が兄弟の世界に響いている。
「せき、とー、おー、りょく、せー、らん、し」

呪文

呪文

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-25

CC BY-NC-ND
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