杜王町、そしてエジプト

1.知りたがる男

――― 1 ―――

「どこが正解なのかな、休暇旅行ってのは」

やたらに分厚いパンフレットを手に取って、【柴山ヨシジ】がこちらへ顔を向けた。

「正解も何も・・・・・・自分の行きたいところに行かなきゃ、意味が無いんじゃあないか」

【赤穂ナガノリ】は、又別のパンフレットに目を落としながら答えた。
――休暇旅行。それはナガノリ達の通う【S大学】に設けられた、一種のサービスである。
キャンパス内の旅行代理店にて事前予約を済ませておくことで、夏季休暇中の海外旅行費用を大学が半額負担してくれるのだ。
このサービスは学生達に大いに人気であり、また学校側もこれを広告塔として掲げている。

「そりゃあそうだけど。お前と違って、俺は“どうしても!”ってトコがないんだぜ」
「ふぅん」

大学に入って最初の夏。ヨシジを含め、大半の1年生が行き先を決めかねているようだった。
学年関わらず人気を誇るオーストラリア、無難な印象のあるアメリカ、そもそもの旅費を抑えられる中国――選択肢は豊富にある。
行き先に悩む1年生達は、皆同じようにカフェエリアでパンフレットとの睨めっこを繰り広げていた。
そんな中、ナガノリは1人エジプト旅行のパンフレットだけを眺めていた。

「・・・・・・ナガノリ。お前よォ、どうしてエジプトなんだ?入学して知り合った時から言ってるよなぁ」

ヨシジとは、入学当初からの友人である。
その頃からナガノリは彼に“エジプト渡航への意志”をこぼしていた。しかし、理由・目的について語ったことは一度としてなかった。

「それは・・・・・・」
「それは?」
「気分だよ。そう、気分」
「おいおい、なんだよそりゃあ」

拍子抜けした様子で目を丸くするヨシジを置いて、ナガノリは席を立つ。
そのままスタスタとカフェエリアから出て行ってしまった。

「おい、置いてくなよーッ」

パンフレットの束を振って、ヨシジの背中もまたカフェエリアを去った。


――― 2 ―――

赤穂ナガノリが自分の父親のことを知ったのは、高校1年生――そう、2000年のことだった。
一つ隣の杜王町で民家の爆発事故があった夜、今まで涙を見せたことのなかった母が、リビングルームで急に泣き出した。
何事かと駆け付けたナガノリに、母は新聞を差し出した。

『爆発事故現場から、稀類の石器見つかる』

母が指した見出しにはそうあった。
添えられた写真は“矢のような形”をした石器。

「これがどうしたんだい」

と問うナガノリに、母は嗚咽をまじえながらこう言った。

「これは・・・・・・これは父さんの・・・・・・父さんの矢よ」

父さんの矢。その言葉の意味が、はたしてナガノリにはわからなかった。
一旦母を落ち着かせるためソファーへ促し、ナガノリは優しくその背中を摩った。やがて、呼吸を整えた母は語りだす。

「貴方の父さんはね、立派な学者だったわ・・・・・・」

そしてナガノリは知った――

かつて、ナガノリの父【赤穂マサモト】は考古学者としてエジプトの大地に立っていた。
目的は当時発見されたばかりの石製矢。たった3センチ余りの鏃を調べるために、父は目を輝かせてエジプトへ旅立ったという。
しかしこの時、エジプト国内の治安は稀にみる荒れ具合だった。小さな地域でも反政府ゲリラたちの横行が市民の命を脅かしていた。マサモトはそれを承知で旅立った。
内戦の真っただ中でマサモトは研究を続けた。鏃だけでなく、それが発見された土壌、気候、風の様子をも知りたがったのだ。
研究仲間が止めるのも聞かず、いつ銃弾が飛んでくるかもわからぬ夜の遺跡へ旅立ったこともあるらしい。
そしてとうとうその無理が災いを運んでくる時がやって来た。
1日のノルマを達成し研究仲間がテントに引き返した後、1人残っていたマサモトの頭上へ黒い影が迫っていた。――弾頭だった。
轟音と激震に驚いた仲間たちが遺跡へ駆けつけた時には、辺り一帯火の海だったという。
上空を横切る戦闘機達が犯人であるのは確かだった。夕焼けに染まり始めた空を炎の赤が一層染め上げていく。
はるか向こうの方から、戦車のキャタピラの音が聞こえる。戦闘機にミサイルに戦車部隊――つまり、今日からここも戦場である。
考古学者赤穂マサモトは、不幸にも最初の被害者となったのだ。

――「父さんが、そんな・・・・・・」

話を聞き終えたナガノリは、知らずの内に涙を流していた。母もまた泣き出していた。
初めて知った父の過去。
同時に、ナガノリの中には強い意志が誕生した。

エジプトに行きたい。父の最期の地にわたり、“鏃”と“内戦”に近づいてみたい。

それは決して揺らぐことのない意志だった。
この瞬間から、赤穂ナガノリの“ルーツの旅”は始まったのだ。


――― 3 ―――

「じゃあな、ナガノリ!!」

ヨシジが軽く右手を上げてバイクに跨った。青いボディの【フォルツ】がエンジン音を響かせ、キャンパスから遠ざかっていく。
夏季休暇前の授業も今日で最後だ。1週間後には、学生たちの大半が旅行に出発する。
ナガノリとヨシジも例に漏れない。
ヨシジは土壇場になって行き先を台湾に決め、準備に張り切っていた。

「さて、と」

ふらつく足取りで、ナガノリは反対方向へ歩き出す。
2,3日前から微熱が続いていた。体は強い方だと思っていたが、妙な風邪を拾ったのだろうか。しかし、咳や鼻水などの症状もない。
ただ奇妙なことと言えば、鏡で映した自分の姿なんかがぶれて見えることだ。他のものを見つめてもそんな症状は見受けられないというのがまた奇妙である。
エジプトへ渡る前に、一度医者で診てもらおうか―――

「赤穂!」

ナガノリの思考を女性の声が遮った。

「アヤノか、脅かすな」

【須田峯アヤノ】。彼女もまたナガノリの友人であった。
しかし、ヨシジとはまた違う種の友人である。出身地域が同じで、中学生時代からの付き合いがある。旧友と呼んでもいい。

「赤穂はどこに行くんだっけ?休暇旅行」
「エジプト。ピラミッドとかの」
「エジプトくらいわかるってば。・・・・・・って、なんでエジプトなわけ?アメリカとかイギリスは?英語得意だったでしょう」
「別に俺がどこに行ったっていいだろう」

右手をひらひらさせてアヤノをあしらうと、ナガノリは駅の方向へ歩き出した。
負けじとアヤノはついてくる。

「具合悪いの、アンタ」
「ちょっとな。まぁ、ただの風邪だろうけど」
「ふぅん」

体調の変化を見抜くのは、中学時代からのアヤノの特技だった。それに助けられたこともあったような、なかったような。

「気を付けてよ。高校の体育祭みたいにぶっ倒れられちゃあたまんないから」
「わかってる」

相手がどんな人間にしろ、心配してくれる存在がいるのは嬉しいことだ。
ヨシジもアヤノも、それがわかっており尚且つ実行できる善い人間であるらしかった。

「一緒に帰ろうよ。久々に」

と、アヤノ。唐突な申し出にナガノリは目を丸くする。

「何だよ急に。暑い日が続いたんで、参っちまったのか?」
「アンタより頭に自信はあるわ」
「どの口が・・・・・・」

話しているうちに、駅の目の前まで来ていた。
M県でも屈指の大きさを誇るS駅。高校時代から2人はお世話になっている。
帰宅ラッシュにでくわしたらしく、ホームから無数のスーツ姿達が歩いてくる。うんざりするほどの人混みだ。

「あっ、帰宅ラッシュってやつーっ?」
「面倒だなあ」

今更ぼやいても仕方ない。人の群れに逆らって、2人は改札へ向かっていく。
そんな時だった。

「いつッ!」

アヤノが声を上げた。

「どうした」

とナガノリ。見れば、足を摩るアヤノと困り顔でそれを覗き込む男の姿があった。
なるほど、だいたいわかった。

「すみませんねぇ・・・・・・悪気はなかったんです、はい」
「大丈夫ですから」

人混みの中で、男がアヤノの足を踏んでしまったらしい。
痩せ型でギョロ目といったいかにも疲れ切った感じの男は、ひたすらアヤノに頭を下げている。

「ほんと、すみません、はい。お大事に、はい・・・・・・」

ぺこぺこと頭を下げながら、男は去って行った。

「・・・・・・大丈夫か」
「うん。ちょっとびっくりしただけ」

特に問題なく歩き出したところを見ると、骨に異常はないらしい。ひとまずは安心だ。

「ま、お前は怪我なんかするタマじゃあないよなァ」

中学生のころからそうだった。アヤノは女子とはもちろん、男子とのけんかでも負けたことなどなかった。ひたすらに強かった。
病気で学校を休んだ記憶もない。怪我で体育の授業を控えたりなんかもしなかった。
こういうタイプは両親から自立しても大した問題に出会わなくて済むらしいことは知っている。

「あ、電車来たよ」

6年前と彼女は変わらない。だが、それがいい。それだからこそ良い。

2.現れる幽波紋

――― 1 ―――

12:50、カイロ行き。
予定に狂いは無い。チケットの表記時刻通りに飛行機はM空港を離陸するようだ。
赤穂ナガノリはトランク1つを手に空港へやって来た。
亡き父を訪ねる旅は、すでに第2段階の範疇に移行しているのだ。

「いよいよってとこか」

エジプト。父の最期の地。血の内戦が繰り広げられた砂丘。謎の鏃が眠る大地。
いよいよ自分もその地へ踏み入ることができるのだ。
時刻は現在12:30。あと20分で、旅は始まる。
―――と、

「あれェ――ッ」

妙に甲高い声がすぐ後ろで響いてきた。ぎょっとして背後を振り返る。

「昨日のッ!えぇ、はい、昨日の!」
「・・・・・・あッ」

痩せた頬に印象的なギョロ目。間違いない。そこに立っていたのは、昨日アヤノの足を踏んだサラリーマンだった。
とくに嬉しくもない偶然である。はっきり言えば、どうでもいい。

「いやぁ~、偶然!はい、偶然ですねぇ!」
「どうも」

一応形式上の会釈くらいはするが、正直貴方に興味はありませんよ―――そんな意志を視線で訴えてみた。

「これからご旅行ですか?もしかして海外とかッ」

・・・・・・無駄だった。
大きな物事を目前に控えた時は、極力一人で考えに浸りたい――ナガノリのその性格を土足で踏みにじる男である(無自覚ではあるが)。

「すみません、俺、トイレに行きたいので」

やたら顔を近づけてくる男から目をそむけ、別方向へ歩き出す。これ以上鬱陶しくされては精神衛生上好ましくない。
我ながらテキトーな言い訳ではあったが、一番無難に男をかわすセリフでもある。

「そうですかァ、はい。それではまた・・・・・・」

また、だと?あんたみたいなタイプには2度と会いたくないな。
口には出さないが、少し気を抜けばポロリと本音が出てしまいそうだった。

「やれやれだ・・・・・・」

トイレに入るや否や、洗面台で顔を洗う。気分転換の時のクセだった。
昔からそうだ。ナガノリには、キライなタイプの人間が3種類存在する。
まず1つ。“笑顔で他人の陰口を言うヤツ”だ。この部類の人間にまずロクなのはいない。他人の行動の粗探しに余念がなく、いざそれを見つければ周りの知り合いへ触れ回る。単純に嫌な奴とも言える。
2つ目に“自分のテンションを他人に押し付けるヤツ”。さっきのギョロ目男がそうだ。他人の感情、性格、テンションなど気にする暇もないらしい。
そして3つ目。“悪びれることなく他人を利用するヤツ”である。こいつだけは吐き気を催す。これからの人生でも出会いたくはないタイプだ。

「・・・・・・」

顔を洗い終え、鏡に映った自分を見る。相変わらずの微熱のせいか、やはり自分の姿はブレて見えた。
本当に風邪か?やはりなにか厄介な病気なのか?
自分の頬に手を添えた時だった――

「あれェ―――ッ」
「!!」

耳障りなこの声。

「お前・・・・・・!」

いる。
背後に、確かに立っている。

「持ってるんですかァ、貴方も!」
「お前ェ――――ッッ!!!」

振り向きざま、全力で拳を突き出した。
ギョロ目の男――知らない間に背後を取られていた。普通じゃあない。精神異常者か?はたまた・・・・・・

「やめましょうよォ、乱暴は。はいィ・・・・・・」


――― 2 ―――

「お前ェ――――ッ!」

恐怖とも憤怒とも区別のつかない感情に任せて叫んだ。
しかし、振り返ってみればそこにギョロ目の男はいない。
M空港2階の男子トイレ。その中で、奇怪な現象が起こっているのは間違いない。
ストーカー紛いの変質者が、鏡の中だけに現れる――メルヘンやファンタジーじゃあないんだ。

「・・・・・・どういうことだ?」
「見えませんかねぇ、はい・・・・・・僕はここにいますよォォ・・・・・・」

困惑。ひたすらに困惑がナガノリを襲う。
神出鬼没の変質者、鏡の中の世界、どこからともなく降ってくる男の声。
キーワードが脳内にあふれかえる。

「ほらほら」

再び、男の声。
同時に後ろから肩を叩かれた。ゾクッと冷たいものが背中を伝う。

「うわぁぁッッ!」

闇雲に手を振り回した。
が、やはり例の男はいない。

「どうなってる!“何のトリック”だァ――ッ!!」
「トリック、ですか・・・・・・」

演技くさい唸り声の後、男の“声のみ”がナガノリの質問に答えた。

「トリックじゃあ・・・・・・ないですねェ・・・・・・ハイ」
「・・・・・・」
「“超能力”でしょうかねェ―――ッ」

超能力?超能力、と言ったのか?
洗面台にへたり込みながら、ナガノリは周りを見回した。突拍子もない話を鵜呑みにはしない。
何の目的があるのか知らないが、相手はただ単に自分を脅かそうとしているだけなのだ。きっと何かのトリックが隠されている。

「出てこい!警察に突き出してやる!」
「出てこいと言われましてもね・・・・・・貴方の目の前にいるんですよ、ハイ」
「えっ―――」

ナガノリの脳が状況を呑み込め切れなくなったその瞬間――

「ほらァーーーッ!!!」
「あっがぁ!」

ナガノリは確かに見た。
何もない空中から、細く骨ばった腕が伸びてくるのを。その腕が自分の頬に叩きつけられるのを。

「げぇっ・・・・・・」

口の中にうっすら血の味が広がる。殴られた。間違いなく。
しかし状況は依然謎だ。偶然2度顔を合わせた男は超能力者であり、鏡の中や空中に自在に身を隠し、何故かは知らないが赤穂ナガノリに敵意を持っている。
不可解なうえに芳しくない状況と言える。
まずはどうにかして身を守らねばならない。なにか盾になるようなものは?隠れられるようなスペースは?必死にそれらを探した。
しかし、

「無駄ですよォ。隠れる場所なんてありません、はい」

冷酷な声で男が言い放った。
男は確実にどこかでナガノリを見ている。・・・・・・まさか、本当に超能力を持っているのか、この男。

「可哀想な貴方に・・・・・・サービスをしてあげましょうか、ハイィ・・・・・・」

背後で形容しがたい音がした。
ブジュリ、とも、ヌルリ、とも言えぬ不快な音。

「ほらぁ・・・・・・。出てきてあげましたよォ」
「!!」

恐る恐る振り返る。
・・・・・・いた。いやらしい笑みを浮かべたギョロ目の男が、“空中に仁王立ち”をかましていた。


――― 3 ―――

「うおおああああああ!!!」

それは悲鳴だった。
生涯で一度としてあげたことのない、恐怖の悲鳴。赤穂ナガノリ初の体験であった。

「いけませんねェ・・・・・・他のお客さまもいるというのに」
「近づくなァァーーーーッ!!!」
「おやおやァ・・・・・・」

空中に浮かんだま、一歩一歩近づいてくる男。ナガノリは子供のように首を振って接近を拒んだ。
狭いトイレの中で、得体のしれない人外と対峙する恐怖。それは他に比較のしようがない恐怖。
もはや冷静に状況を考える努力は捨てた。

「これも仕事なんですよねぇ、ハイ・・・・・・。立派な仕事です、サラリーマンの」
「仕事、だとォォォッ!」

殺し屋?ヤクザ?いや、超能力者を雇う組織なんて実在するのだろうか。

「さ、首を出してください。掻き切って楽にしてあげます、ハイ」
「近付くなァァァ!!!」
「!」

ふと、男の表情が変わった。
何かに驚いているように見える。もともとのギョロ目を更に大きく見開いて、ナガノリの身体を舐めまわすように見つめる。
条件反射的に自分の身体を見た。
・・・・・・出ている。今まで鏡の中の錯覚だと思っていた“ブレ”が、確かに感じ取れる。

「・・・・・・貴方に、一つ質問をします・・・・・・ハイ・・・・・・」

男の足が床についた。音もなく風もなく、ただ男は直立している。
――その後ろから、異形の影が現れた。
人間のような形をしてはいるが、明らかに人間ではない。強いて言うなら、“体中に炎を纏った猿”といった様子だ。

「これが・・・・・・見えますかァ?」
「なんだそれは・・・・・・なんなんだそれはァーーーッ!!!!」
「やはり、見えている・・・・・・」

男の目が一瞬細められた。

「【ストレンジ・ネイバー】!奴の薄汚ェ面をひっぺがせェェェ!!!!」
「ストレンジ・・・・・・なんだと・・・・・・ッ!?」
「ストレンジ・ネイバー(怪しい隣人)・・・・・・。こいつがテメェの顔の皮を丸々削ぎ落とす!!!」

まるで幽霊のようなその影が、ふわりと揺れた。
男はコイツをストレンジ・ネイバーと呼んだ。それがコイツの名前なのか?

「コイツか?コイツが、“お前の超能力の正体”なのかッッ!?」
「呑み込みが速いようで・・・・・・助かります、ハイ」

静かな口調を取り戻した男が浮かべたのは、満面の笑み。それに準じて幽霊もニタリと笑う。

「しまえッ!その薄気味悪い幽霊を引込めろ!」
「幽霊・・・・・・フフ、あながち間違いでは・・・・・・ないですかねぇ、ハイ」
「聞こえないのかッッ!!引込めろと言ったんだぜ!」

威勢よく叫ぶのが、精一杯の抵抗である。
できることなら誰かに今すぐ助けてほしかった。手を差し伸べてほしかった。
しかし、今はそんなもの期待できない。
狭い空間で、得体のしれない超常現象と向き合う恐怖。心臓がどうにかなりそうだ。

―――しかし、赤穂ナガノリは知ることになる。“この状況がいい。この状況だからこそいいのだ”、と。

「さァ・・・・・・天に召される時間ですよォォ・・・・・・」
「おおおああああ!!!!」

それは唐突に現れた。
地響きのような音と共に、何かの衝撃が幽霊を襲った。顔面を歪めて幽霊ははるか後方へ吹き飛ぶ。

「・・・・・・何だ・・・・・・?」

男の口から、ツーと血が流れた。背後の幽霊は驚きの表情のまま、ピクリとも動かない。
これは一体どういうことだろうか。何らかの助けが来たとみるのが適当だが――

「出しやがったなァ・・・・・・ついにィィ・・・・・・“ソイツ”をッ!!!」

出した?ソイツ?
男が口の地を拭いながら言った言葉の意味はさっぱり分からない。
しかし男の表情から、相手にとって良くないことが起こっているのは確かだ。それが何かを考えるのは、今の窮地を抜け出してからでも遅くはないだろう。

「・・・・・・その様子・・・・・・気付いていないのかァァ?・・・・・・だとしたら“とんだマヌケ”だぜェェーーーッ!!」
「どういうこと・・・・・・だ!?」
「やっぱり!テメェェェは気付いちゃあいねぇんだなァァ!?!?」

男の言い振りで、ナガノリにはわかったことが一つある。
間違いなく――“ヒントは自分の近くにある”ッッ!!
地響き、気付かれぬ存在、俺が出せるモノ―――――

まさか。

「・・・・・・おい」

洗面台に腰かけたままだった姿勢を立て直し、ひとつ呼吸を整える。

「まさかとは・・・・・・思うが・・・・・・」

視線をゆっくりとギョロ目の男へ向ける。

「俺も、持っているんじゃあ・・・・・・」

男の口角が僅かに吊り上った。それを決して見逃さない。“焦り”のサインだ。

「俺も――その“ワケの分からない幽霊を持っている”んじゃあないだろうなッ!?!?」

その次の動作は一瞬だった。
心の中で『目の前の男をブッ飛ばす』と念じた瞬間。ナガノリは“自分から3本目の腕が伸びた”と思った。
視覚的イメージからすれば、それ以外に表しようのない現象だった。
3本目の腕から繰り出されたストレートパンチは正確に男の顔面をとらえていた。

「これは・・・・・・ッ!」
「出しやがったなァァ・・・・・・【スタンド】をォォッ!!!!」

驚愕とも憤怒ともとれる表情で、男の顔はさっきとは違う印象を纏っている。
動じず睨み返すナガノリ。

「スタンド、って言うのかい・・・・・・コレ。あんたのストレンジ・ネイバーも・・・・・・スタンド、なのか」
「俺の口がそれを言う必要はねぇぇぇ―――ッ!!!」

男の背後で構えていたストレンジ・ネイバーが、はじき出されたビリヤードボールのように向かってきた。

「俺のスタンドッ!!あの猿を叩き落とせーーーーッ!!!」

とうとうナガノリのスタンドが、その全容を現した。
マッシブな人間のような胴体に、西洋甲冑の如き頭部。腕や脚にはスプリングのような装飾が施されている。
言葉通り丸太のような腕は見た目に似つかぬスピードでパンチを繰り出した。しかも一発ではない。左右の腕を交互に突き出して、ストレンジ・ネイバーの全身へヘビィパンチの雨をくらわせる。

「オラオラオラオラオラオラオラオラオラァァーーーーーーーッッ!!!!」

スタンドが叫ぶ。
ストレンジ・ネイバーにつられるように、男の身体も吹き飛んでいた。

3.飛び回る影


――― 1 ―――

嫌な汗を全身に滴らせながら、ナガノリはロビーのベンチにもたれかかった。
正面に掛けられた時計に目をやる。12:58・・・・・・やはり飛行機には乗り遅れてしまったらしい。
しかし、今はそんなことよりも重要なことがいくつかあった。
ナガノリの【スタンド】が防衛を働いた後、ギョロ目の男は姿を消した。ただ単に“逃走した”という意味ではなく、“霧のように姿を消した”という意味だ。それを目にして分かったことは、“姿を消すのは奴のスタンドの能力らしい”ということだ。確かな証拠はないが、今この場で超常的な現象を説明するにはスタンドと結びつけるのが最も自然だ。
そして重要なことはもう一つ。自分自身の身体がこれからどうなってしまうのか、だ。
スタンドなどという奇妙な現象が起こってしまった以上、マトモでいられる筈はない。きっと何かの副作用があるに違いない。
何もかも、どうしたらいいかわからなかった。

と、やけに大きな掌がナガノリの肩へ圧し掛かってきた。否が応にも脂汗がにじみ出る。
恐怖に耐え、恐る恐る振り返る――

「おい、ナガノリ」

三角刀で掘ったような細い目に、色の薄い唇。――それらは柴山ヨシジの顔の特徴だった。

「なんだ、お前か。どいつもこいつも毎回毎回脅かすんじゃあない・・・・・・」
「なんだとはなんだ。――お前、チェックインし損ねたのか?」

あぁ、と答えた。テレビ番組の賑やかしの如くヨシジが笑う。

「トイレでうんこでもしてたんじゃあねーのか!」

ヨシジの冗談も今は笑えない。

「・・・・・・半分正解、だな」
「なんだよそりゃあ」

疲れ切った表情のナガノリをしばらく見つめ、ヨシジは黙ったまま首をかしげた。
きっとヨシジでも見たことのない表情をしていたのだろう。
しばらくの沈黙の後、ヨシジが話題の転換を図るように切り出した。

「そういやあ、アヤノちゃんももうすぐ着くはずだぜ。13:30までのチェックインだからな」
「そうだったっけな」

現在13時ちょうど。冷静に思考すれば、あの男に襲撃されてからまだ30分しかたっていないのか。人生でこんなに濃厚な30分間は今後もないだろう。否、あっては困る。

「ほら、噂をすればなんとやらだ」

ヨシジが前方を指差した。見れば、アヤノが手を振りながらこちらへ向かってくる。
スーツケースがやたら巨大なのは、女子の共通遺伝子がそうさせているのだろうか。

「あれ?赤穂、チェックインの時間過ぎてるんじゃない?」
「“大きい方”をしてて遅れたんだとよ」
「うそーっ?馬鹿じゃないの」
「鵜呑みにする馬鹿があるか」

友人が九死に一生を得たところだというのに、のんきな連中だ。

「あ、私とりあえずチェックインだけしてくるね」
「俺も俺も」

アヤノの一言にのって、ヨシジも席を立った。
――彼らの存在は、時折予想以上に心を支えてくれることがある。今だってそうだ。とんでもない非現実の中に引きずり込まれた状況下でも、彼らと顔を合わせたことで現実を垣間見ることができた。
友人は量よりも質であり、やはりそういった類の友人はなくしたくないと思える。


――「友達・・・・・・いいですよねぇ・・・・・・ハイ」


その声は、赤穂ナガノリを再び“非現実の世界”へ引きずりこんだ・・・・・・


――― 2 ―――

「お前・・・・・・は・・・・・・ッ!」
「お久しぶりですねぇ・・・・・・えぇ、30分ぶり・・・・・・」

その口からポタポタと赤い液体が滴り落ちる。どす黒く濁った血液だ。
“壁の中から半身を乗り出したソイツ”は、口どころか全身を赤い血で濡らしていた。
前歯が4本ほど抜け落ち、目の上は赤く腫れている――“スタンドの打撃ラッシュを受けた傷”、だ。
間違いなく、奴だ。“ギョロ目の男はやはり生きていた”ッ!

「もう一度殴られたいのかッ!今度は前歯じゃあすまないぞ」
「おやおや・・・・・・スタンドはまだ“赤ん坊”だというのに、大層な自信ですね」
「赤ん坊、だと?」

男はロビーにいる人々の死角になるような場所から、うまく身を乗り出していた。壁の中から生きた男が上半身を出しているとすればパニックに陥るのは必至なのだから、隠れるのは当然だ。

「この傷の“カリ”は、必ず今日中にかえさせてもらいますよ・・・・・・ハイ」
「・・・・・・今日中」

ナガノリは相手の言葉を反復した。そして、直感ではあるが相手の目的を理解した。

「お前の目的・・・・・・なぜ俺を狙うのか・・・・・・。わかった気がするぞ。お前はただ単に俺を殺したいんじゃあない。“俺をエジプトに向かわせたくない”・・・・・・ってところじゃあないのか?」

男は答えなかった。その沈黙が“答え”だ。
どうやら男とそのクライアントは、ナガノリのエジプト行きを阻止したいらしい。だとすれば、一体何が目的なのか・・・・・。それを考えるのは後からでもいいと思った。
まずは――

「目的は知らないが・・・・・・まずはお前を叩き潰す」

心の中で念じて、スタンドを呼び出した。
スタンドはナガノリの心の様相を反映して、ボクサーのようなファイティングポーズをとる。

「おやおや・・・・・・まさか、ここでおっぱじめる気じゃあ・・・・・・ありませんよねぇ?」
「始めるも何もない。一発でお前をダウンさせてやるよ。もっとも、お前みたいなガリガリ野郎が柱に埋もれたところで、空港の耐震補強にもなりゃしないだろうけどな」

「オラァッ」とスタンドが叫び、同時に拳が突き出された。
しかし、寸でのところで男は壁の中へ引っ込んでしまう。トイレの時と同じように、不気味な声だけが降り注ぐ・・・・・・。

「ほらァ、いいんですかァ?お友達が戻ってきましたよ?」

見れば、受付の方から2人が戻ってくるのが見えた。

「・・・・・・必ずお前は仕留める。今はお前のスタンドも俺のスタンドもよく理解していないが・・・・・・。必ずブッ飛ばしてやる」
「“仕留める”やら“ブッ飛ばす”やら・・・・・・口は大きいですねぇ。気づきませんか?その2言を口に出せる要素を持っているのは・・・・・・私なんですよ、ハイィ・・・・・・」

最初、その言葉の意味がナガノリには理解できなかった。
しかし、戻ってくる2人の姿を見て、男の考えを悟る――

「待てッッ!!!2人には手を出すんじゃあない!」

男からの返事はなかった。


――― 2 ―――

「どこだッ!」

非常階段を駆け上りながら、ナガノリは声の限りに叫んだ。
男を探さなければ。ヨシジとアヤノが出発するまで――つまり、日本を離れるまでの時間を稼がねばならない。
2人には野暮用だと(無論それで彼らが納得するとは思えないが・・・・・・)断ってきたものの、彼らから目を離さなければならないというデメリットがある。そこが“唯一の不安点”であり、“最大の不安点”であった。

「うおおおあああああ!!!」

友人を危険にさらす。憎い相手に友人の運命を握られている。
そんな事実から湧き出す“激しい怒り”と“どうしようもない焦燥”が無意識にナガノリを叫ばせた。

「さっさと出てこねーーーかァァァァァッッ!!!」

ボゴォッ、という破裂音と共に、コンクリート壁が大きくへこんだ。無意識のうちにスタンドが出現し、ナガノリの感情の高ぶりに応じて拳を叩きつけたのだった。
その直後――

「あらぁ・・・・・・乱暴はよくないですよぉ、赤穂くぅん・・・・・・」

ついに出てきやがった。今一番むかつく顔が、むかつく口調を携えて。

「いやがったか!!」
「三度、ごきげんよう」

屋上に到着したナガノリを出迎える男。
そのそばに浮かぶのは――やはりストレンジ・ネイバー。喜怒哀楽のわからない猿のような顔が、変わらずこちらを見据えている。
殴りかかりたいのを抑えながら、努めて冷静に言葉を放った。

「今一度・・・・・・言っておく。“無関係な人間に手を出すな”ッッ!」
「お断りします、ハイ」

男の目が弓状に曲げられ、薄気味悪く笑った。

「もういっぺん言ってみろ」
「私は君を殺さなくてはなりませんからねぇ・・・・・・。そう、どんな手段を使いましても」
「そのための“人質”ってわけだろう?」
「ご理解が速いようで、大変助かります。ハイ」

ナガノリの中で、決定的なものが完全に“キレた”
――今度は自分の意志でスタンドを呼び出す。

「これが・・・・・・“プッツンくる”ってやつかい」
「怒りましたかァ?プッツン来ましたかァ??“友人のために”ですかァァァ!?」
「・・・・・・」

ストレンジ・ネイバーとナガノリのスタンドが、ほぼ同時に格闘の構えをとる。

「“友情”やら、“お友達”やらのためですかァァァ!?」
「・・・・・・」
「そんな青くせぇ理由でこの俺に文句言うってのかァァァ!?!?」
「そんなもんじゃあねぇよ」

再度、努めて冷静にナガノリが口を開いた。

「“お前のそのやけに軟弱な話し方がムカついた”・・・・・・ってだけさ」
「軟弱ゥゥ!?そりゃあお前ェェのことじゃあないのかァァァ!?」

ストレンジ・ネイバーの半透明な体が、一層高く舞い上がった。
とうとう眠れる獅子が攻勢に移ったのだ。
しかし、仕掛けてくる攻撃はわかっていた。相手は必ず“消える手品”を使ってくる。

「ムゥン!」

男のちょっとした唸り声と共に、まずストレンジ・ネイバーが消えた。次いで男も姿を消す。
これを待っていた。
“消えたポイント”が見たかったのだ。相手がどこで消えるのか、そこに何かの目印があるのか・・・・・・それを知りたかった。
そして――

「わかったぜ」

その“ポイント”へ、自らのスタンドを叩き込む。
そこは――【鉄製の手すり】だった。

「オラァッ!」

スタンドの雄叫びと共に、手すりは真っ二つ。その断面から苦悶の表情を浮かべた男のヴィジョンが現れる。やがて、そのヴィジョンは実体化して本物の男となった。

「ゲホァァァッ!」
「わかったぜ。・・・・・・【指紋】、だ」


――― 4 ―――

相手のスタンドが繰り出す魔術の特徴は見抜いていた。
ヒントは今まで奴が魔術を使った場所だ。トイレに設置された鏡、ピカピカに磨かれた柱、鉄製の手すり・・・・・・それらすべてで目立つのは、人間の脂が生成する“指紋”だった。
男は指紋がつきやすいものにあらかじめ触れておき、それらに下準備をしていたのだ。

「お前のスタンドは、特殊能力として“指紋の中”――もしくは“指紋同士”を移動できるんじゃあないのか?」
「クケケケケェーーーッ」

男は既に狂ったような様子であったが、しばらくすると力なく立ち上がった。

「その観察眼ンン・・・・・・やはりよぉぉ・・・・・・エジプトには行かせられないよなァァァッ」
「やっぱりな。・・・・・・いや、こりゃあ2つの意味だ」

やはり奴は“赤穂ナガノリをエジプトに行かせない”ために、“指紋を移動するスタンド攻撃”を仕掛けてきたのだ。

「俺の能力を見抜いたところまでは大物っぽくてもよォ・・・・・・やっぱりテメェはここで“オシマイ”だぜーッッ!!!」

本体同様ボロボロになったストレンジ・ネイバーが、ゆらりと不気味な動きをした。
まだ動けるのは意外であり、なおかつ奴の自信ありげなセリフは動揺を誘った。

「妙な動きをするんじゃあないぜ・・・・・・」

言った瞬間、ストレンジ・ネイバーが男の手の中に吸い込まれた。いや、自らスピードをつけて突っ込んだようにも見える。

「何をするつもりだ?この期に及んで、“さっさとスタンドしまってズラかろう”なんて考えてるんじゃああるまいな?」
「誰が逃げるんだァァ?俺は・・・・・・テメェに弾丸をぶち込む瞬間が楽しみで膝震わしてんだぜェェェッ」
「弾丸・・・・・・だと・・・・・・!?」

奴の動向には注意を払っていたが、銃火器を持っているような様子は一切なかった。
否、第一そういった類を持っていれば、スタンドでなくてもナガノリを仕留められたはずだ。
奴の言う弾丸とは・・・・・・?一層の不安を募らせるには十分な単語である。

「お前、大学生だって聞いてるぜェェ・・・・・・??」
「・・・・・・」
「なら知ってるよなァ?小学生だって知ってる・・・・・・。凄いらしいぜェ・・・・・・【遠心力】ってのは」
「遠心力・・・・・・?」

たとえば、バケツに水を注いだとする。それを手に持ち頭上で逆さまにすれば、当然水は降り注いでくる。
しかし、頭上に上げるまでの力を殺さず、バケツを持ったままの腕を一回転させるとしたら?水はただの一粒も落ちてこない。
それこそが“遠心力”の働きだ。物体を回転させた際、それを外側に引っ張ろうとする力。
男の自信はその遠心力から来ているらしい。

「チャージは完了ォォォ!憎たらしい小僧、脳漿ぶちまけなァァァ!!!」
「チャージ・・・・・・?まさかッ」

指紋、遠心力、チャージ・・・・・・3つのキーワードがナガノリの頭の中でつながった。
指紋には、大きく分けて3つの種類が存在すると聞いたことがある。蹄状紋、弓状紋、そして渦状紋だ。それぞれ“ウマのヒヅメ”、“並べられた弓”、“渦巻き”から名前をとられているらしい。
この中で遠心力とつながるのは――渦状紋、ただ一つ。
男の指紋は渦状紋だったのだ。その中でスタンドがグルグルと回転し、遠心力そのものを“チャージしている”!

「その・・・・・・まさかだァァッ!!!もう遅いぜェェェッ!!!」

男がギョロギョロの目を更に見開き、親指を突き出した。
それが“引き金”だった。

「それがッ・・・・・・テメーの弾丸か!」
「遅いっつってんだよォォォ!」

弾丸と化したストレンジ・ネイバーが、溜めに溜めまくった遠心力を携えて突っ込んでくる。
しかし、赤穂ナガノリはいたって冷静だった。

「あたりもしない弾丸ってえのはよォ・・・・・・」

命中まで1秒もない――そう感じた瞬間、ナガノリのスタンドが足元の“ソレ”を拾い上げた。

「弾倉に納まってるのがお似合いだと思うぜェーーーッ!」

掲げたのは、ナガノリのスタンドがへし折った手すりの破片。
磨かれた表面に、くっきり男の指紋がこびりついている。これこそ“弾倉”だ。

「その特徴ゆえ・・・・・・“お前はご主人様の指紋へ入らねばならない”ッッ!!!」

――狙いはズバリ命中した。掲げた鉄片は、確かに弾丸状のストレンジ・ネイバーを閉じ込めてくれた。

「さぁ――懺悔の時間だぜ」
「バァァカなァァァァッ!?!?!」

ストレンジ・ネイバーが指紋から出てくる暇も与えない。ナガノリのスタンドは既に拳を振り下ろしていた。



「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァァーーーーーッ!!!!」



鉄片が塵に変わるのと、ギョロ目の男が全身から血を吹きだすのはほぼ同時だった。

4.動き出すもう一人

――― 1 ―――

生まれた時、人は幸せと不幸せを一つずつ持っているという。
“幸せ”は、家族に迎え入れられる幸せ。――“不幸せ”はそれを失うリスクを背負うこと。

【ナーデル・M(マフディ)・M(ムスタファー)】は、極めて幼い時分にそれらの存在を知った。

家はカイロ市内の所謂高級マンションだった。3食は母の作ってくれる温かい料理を食べ、汚れのないベッドで睡眠をとることができた。俗に言う富裕層であった。
父は当時斬新だったIT事業にいち早く着手し、地位上の成功を収めていた。努めていた会社の取締役となった年に母と結婚し、その翌年にナーデルは生まれたという。この父の人生は、ナーデル・M・Mが思い描く“成功”そのものだった。
ひたすらに憧れた。自分も父のようになりたいと思った。妻を幸せにし、子供に美味しい食事を食べさせてやりたいと思った。
――これが、ナーデルの“幸せ”だった。
そして“不幸せ”がやってくる。
小学生の時だった。家に帰ると、父が台所に座り込んでいた。

「どうしたの?父さん」
「ナーデル・・・・・・」

父がナーデルをこんなに弱々しく呼んだのは初めてのことだった。
状況を理解しようと努力するより先に、父のもとに歩み寄った。

「ナーデル。良い子だからね・・・・・・落ち着いて聞くんだよ」

うん、と頷いた。父は続けた。

「母さんは・・・・・・しばらく出かけることになった。当分帰ってこない。・・・・・・わかったね?」

ナーデルは首を横に振った。理由がはっきりとわからない事柄を無暗に肯定するのは、幼いナーデルが初めて手にしたポリシーだった。
父は意外そうな顔をしてから、やがて眉間にしわを寄せて泣き出した。
ナーデルは困り果てた。

「どうしたんだよ、父さん。今日はなんだかおかしいよ」

父は泣き続けた。強く強くナーデルを抱きしめ、泣き続けていた。

「母さんは・・・・・・」

嗚咽に混じって、単語が聞き取れるようになってきた。
父の口元へ耳を近づける――

「母さんは、天国へ行ったんだ」

心臓がドクンと脈打つのが分かった。比喩や過大表現ではなく、本当に心臓が飛び出すくらいに脈打ったのだ。
母さんは天国へ行った。母さんは死んだ。母さんは息をしていない。母さんは母さんは母さんは―――
理由が知りたいと思った。病気だろうか。事故だろうか。それとも・・・・・・

「・・・・・・どうして?どうして死んでしまったの」

父に抱きしめられながら、そう問いかけた。

「・・・・・・父さんのせいなんだ」
「えっ?」
「父さんが殺したんじゃあない。でも、母さんが死んだのは・・・・・・父さんが悪いんだ」

意味を理解することはできなかった。
父さんが殺したのではないのに、父さんが悪い?一体母の身に何が起こったのか。ますます知りたくなった。奇妙なことだが、悲しみや絶望より探究心の方が当時のナーデルを支配していた。

「お前がもう少しだけ大きくなったら、わかるだろう。・・・・・・父さんは、それまでできるだけお前と生きていく」


――2か月後、父も死んだ。
一緒に生きていくと言ってくれたのに。約束をしてくれたのに。
父さんは母さんのもとへいってしまったのだと理解した。ナーデル・M・M、小学4年生の時だった。
それから2年が経ち、ナーデルはある程度物事を社会的に見ることができる年頃になった。しかし、それは惨たらしい現実がナーデルの心の扉をこじ開けて顔をのぞかせるラインでもあった。

『反政府派組織の暴動は日に日に激しさを増し――』

テレビに映るニュースキャスターは、みな一様に同じセリフを喋っていた。
そしてナーデルは初めて世間の実情を知った。
父と母を葬ったもの。それは、暗く薄汚い時代の地層から顔をのぞかせた【内戦】であった。

「両親は、何人目だったんですか」

かつての父の同僚と出会った際、ナーデルはそう質問した。
同僚の男は困ったような顔をした。質問の意味を理解したからだ。“両親は一体何人目の犠牲者だったのか”という意味を悟ったからだ。

「君のご両親は――」
「どうか隠さず言ってください」

同僚はナーデルを喫茶店に呼び、すべてを話してくれた。
母が死ぬ1週間前。父はその財力に目をつけられ、政府の高官会議へ招集されていた。反政府派の活発化を予期していた政府は、資金源として国内の富裕層から“国為献上金”を徴収しようと考えていたのだ。
しかし、父は知っていた。国がその金で何を買おうとしているのかを。
【フィフティ・フィフティ】。国を半分にできる、という皮肉からその名前を付けられた兵器だった。それは政治的な意味の“半分”ではない。本当に土地を半減させることができる威力を持っているのだ。現代において最強の破壊力を誇る兵器――つまり核だった。
父は資金提供に抵抗した。それが総ての間違いだったという。
1週間後、母が死んだ。銃殺だった。

「政府の人間がやったのですか」

そうだ、と同僚は頷いた。そして周りに目を配ってから、一層声を小さくして、

「君の父上は、一番最初に会議に招集されたのです。それがさらなる不幸でした。言いにくいことですが、ご両親は・・・・・・その・・・・・・“見せしめにされた”のです」
「見せしめ・・・・・・!?」
「逆らえば殺される。国内の富裕層たちは震えあがりました」

そういうことか、と理解した。
資金の提供か、死か。政府は人々に残酷な選択を押し付けたのだ。
怒りが込み上げてきた。激しい怒りだった。
――その時。ナーデルは初めて“隣に立つ人”の存在に気付く。
その人は奇妙な仮面と服装をしており、何もせず何も言わずただそこに立っているだけだった。

「この人は?お知り合いですか?」

同僚に尋ねた。
同僚は不思議そうな顔をして、

「この人・・・・・・?」

と聞き返した。
驚いてナーデルが振り返ると、さっきの人物はすでに姿を消していた。
それが“ファーストコンタクト”だった。


――― 2 ―――

「見ろよ、こいつの面!」

しゃがれた声が、耳に障る。
30~40代と思われるその男性は、右手でジャックナイフを回転させながらこちらを見つめていた。
隣には拳銃をもった女がいる。
どちらもマトモではないのは確かだった。涎と涙を滴らせ、“薬物常用者”の特徴である開きかけた瞳孔を持っていた。

「いいとこの坊ちゃん、って感じだぜェ!」
「癪に障るねェェ!バラバラにしておやり!!」

状況はあまり芳しくなかった。
狭い裏路地で、2対1。しかもこっちは武器など持っていない。
ナーデル・M・Mは深くため息を吐いた。

「本当に向かってくるのか?」

ナニィ、と男が目を見開いた。
それは彼にとって意外な言葉だったのだろう。強盗に追い詰められた青年は、ふつう「お願い助けて」だとか「命だけは」だとかのセリフを口にするものだからだ。だがナーデルは違う。

「僕に向かってその“木の枝”を振り回してくるのか、と聞いたんだぜ。スカタン」
「スカ・・・・・・」

続けざまの挑発に、男は顔を真っ赤にした。ナイフを握る手が小刻みに震える。

「どうした?早くしろよ。ズボンに小便の染みができる前にさ」
「うがぁぁぁああああ!」

野獣のような下品な叫びだな、と思った。
こういう相手をK.O.する技術は既に体得している。

「おおおあああああ!」

まず、突っ込んでくる男の膝を折る。
つんのめった相手は必然的に前へ倒れるので――

「よし」

落下地点に拳をセットしておくだけでいい。重力がパンチに味方してくれる。
・・・・・・男が、血反吐をはいて気絶した。

「ひぃいいいッ!!!」

その直後に聞こえたのは、女の悲鳴である。
ナーデルを“いいとこの坊ちゃん”と甘く見ていた自分たちの過ちに、ようやく気付いたらしかった。
そして大抵の犯罪者は、追い詰められると暖めておいた最後の切り札を持ち出してくる。

「動くんじゃあないよッ!」

冷たい銃口がナーデルの額を狙っていた。
女は初めて銃を握ったのだろう。構えも狙い方も初心者のそれだった。

「仲間を置いてズラかろうってかい?屑だな、正真正銘の」
「うるさい小僧だねッ!死にたいのかい!!!」

はっきりとした焦りが見えた。
事実は一つ。“彼女にナーデル・M・Mは殺せない”。

「僕が動いたら本当に撃つのか?引き金を引けるのか?」

女の目がカッと見開かれた。
引き金にかかった人差し指が動く。
鉛の弾丸が銃口を飛び出した。

―――瞬間。

「無駄だ」
『無駄ァッ!』

ナーデルの声に、別の声が重なった。
同時に弾丸がその動きを止める。命中したからではない。ナーデルの額スレスレで、弾丸は静止しているのだ。

「ひぃぃいいい!」

女がより一層甲高い悲鳴を上げ、一目散に逃げ出した。

「忘れもんだぜ」

倒れていた男の身体が、ふわりと空中へ浮かび上がる。
それがナーデルの“弾丸”だった。

『無駄!』

50mほど先で、投げ飛ばされた男が女を弾き飛ばすのが見えた―――

5.コンフィデンス


――― 1 ―――

喫茶店で見かけたその時から、その人はずっとナーデルの傍にいた。
親ではない。友人でもない。ひょっとしたら、人間ですらないかもしれない。
それでもよかった。ナーデルは気にしなかった。
――14歳の時、町を取り仕切るギャングの下っ端とトラブルを起こしたことがあった。
と言っても、ゴロツキの方が一方的に因縁をつけてきたのだから、ナーデルにはどうしようもないことだった。

「なんです」

こういう時、カッとなって飛び掛かってはいけないのをすでに知っていたナーデルは、努めて冷静に対応した。
ゴロツキどもには逆にそれが癪だったらしい。
3人衆の内の一人がメリケンをちらつかせて、

「金置いてきな。そしたら“ミンチの刑”は免除にしてやるぜ」

金目当てか、どいつもこいつも。ほとほと呆れる。両親の命を奪ったのも、金目当てのクソッたれ政府だった。

「嫌だって言ったらどうなるんです?」
「“ミンチの刑”じゃあすまないな」
「なんだ、大したことないじゃあないか。面倒だな、マアサラーナ(さよなら)」

背中を向けた瞬間、荒い息を背後に感じた。
メリケン男がブチギレたらしい。

「やれやれ、だ」

ナーデルの力では到底大男をねじ伏せるなどできない。こういう時に、“彼”は来てくれる。

「無駄無駄!」

直後、男の身体ははるか後方に吹っ飛んでいた。見ずともわかる。“彼”の拳が男を弾き返したのだ。
いてほしいと思う時には常に傍に立っている。
“彼”がナーデル以外に見えないことは知っていた。“彼”は自分自身だった。
初めてみたその日から、ナーデルは“自分を信じていた”のだ。
“彼”に名前をやりたいと思った時、ナーデルはそれを採用した。
ナーデル・M・Mの守護霊、【Confidence(確固たる自信)】がその名を与えられた瞬間だった。


――― 2 ―――


高校2年生になったある日。それはそれは暑い日であった。
汗でひっついたシャツをはがしながら、ナーデルは家路を急いでいた。

「ナーデル君」

友人の少ないナーデルが下校途中に呼び止められるのは極めて珍しいことだった。
驚いて振り返ると、そこにあったのは父の同僚の姿。随分と白髪が増え、痩せこけたような印象を持った。

杜王町、そしてエジプト

杜王町、そしてエジプト

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-25

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 1.知りたがる男
  2. 2.現れる幽波紋
  3. 3.飛び回る影
  4. 4.動き出すもう一人
  5. 5.コンフィデンス