パンドラの箱、解体作業
「何ですか、それ。」
わたしは、上司が手にしていた摩訶不思議な箱を見つめて、首を傾げた。
綺麗な箱ではあったけれど、何だか妙な雰囲気の箱だった。
「ああ、これかい?友人から、たまたま譲り受けたものなんだが、どうしても箱が開かないのだよ。」
上司も、これまた首を捻っている。うーん、と考え込みながら箱を眺めているのだが、なかなか良い案も出そうにない。
「鍵とか、仕掛けとか、そういう工作がしてあるのでは…?」
途轍もなくありきたりだけれど、わたしは上司に尋ねてみた。
しかし、上司の平岡は静かに首を横に振るだけだった。
「とにかく眺め回したのだが、鍵穴も仕掛けも、全く見当たらないのだよ。」
まあそうだろうな、と思いながら、またその不思議な箱へと視線を移す。その平岡さんの友人とやらは、一体何の目的で、この箱を譲ったのだろうか。
「野口、お前、少しこの箱を預かっててくれないか。」
ぼうっと箱を見つめていると、平岡さんは突然、わたしに箱を押し付けてきた。そしてそのまま、何事もなかったかのように、いつもと変わらず仕事は終わっていった。
──
帰宅して、早速例の箱を取り出してみる。昼間見たときと、特に変わったところはない。一体、何が入っていると言うのか。
そもそも何故、平岡さんが譲り受けたものを、わたしが預からないといけないのか。預かったからには、箱を開けてみろ、と言うことなのだろうか。
わたしは一瞬、パンドラの箱、という単語を思い出して戦慄したが、この箱がパンドラの箱だとはどうしても思えなかった。
見た目は小綺麗で、変わったところはない。
わたしは、箱のことを考えながらシャワーを浴び、甘ったるい缶チューハイを開けた。
少し酔いが回ったところで、再度箱を見回す。中身の検討はとんとつかない。
それならば、と、わたしは哲学的な思考へと、思いを巡らすことにした。わたしは昔から、哲学的な思想の持ち主であると言われ続けて来た。たいして気にもしていないのだが、理屈っぽいわたしを嫌う上司や同僚も少なくはない。
例えば、書類ひとつ提出するにしても、わたしは言葉の意味を考えずにはいられない。それから、表現ひとつとっても、受け取った側の文字の印象を細かく気にする。
そんなこんなで、わたしの仕事は決して迅速だとは言えない。
その事に不満を持っている人が多数いる事も知っている。
しかし、哲学的な思想はわたしのポリシーであり、わたしがそれを放棄することは、わたしの人格を自ら否定していることに等しい。
この箱にしてもそうだ。開かないのは、何か理由があるはずだ。
見られたくない何かが入っているとか、重要なメッセージが隠されているとか。
それはそれで、わたしの好奇心を多いに擽る。
もしかしたら、グレーゾーンの何かが隠されているかも知れないじゃないか。所謂、灰色の事実ってやつだ。それこそ知られたらまずい代物である。
開かずの箱の妄想は、とどまることを知らない。
舐め回すように箱を上下左右に見回していると、何だか噛み合わせがよろしくないことに気付いた。
もしかすると、上と下の部分は、元々別の箱で、無理矢理くっつけられたのではないか。そんな印象だった。
そこでわたしは思い切って、噛み合わせの悪い隙間からマイナスドライバーを突っ込んでみた。とてもありきたりな表現だけれど、驚くほかなかった。
予想だにしていなかった箱の開き方をしたのだ。
箱の上の部分がスライドの様に真横へと、するりと移動したのである。
何だか、いろいろ勘違いをしていた様だ。
箱の中には、紙切れが一枚、ぽつんと入っているだけだった。そこには、数字の羅列が記されているだけで、哲学くらいしか取り柄のないわたしにはさっぱりだった。
──
翌日、上司の平岡に例の箱と紙を渡したところ、非常に驚かれた。そして、謎の数字の羅列が一体何を示しているのか、判明することとなった。
実は、とある大口銀行口座の暗証番号だったのだ。
わたしには詳しいことはよくわからないけれど、とにかくあの長い数字の羅列は、現金となる様だ。まさに、灰色の現金である。というより、限りなくブラックに近いグレーなお金だ。世の中恐ろしい。
こんな灰色の現実が、こんなに身近なところで起こっているなんて。
わたしは、平岡さんにそうっと質問してみた。
「そのお金、一体何のためのものですか?」
すると、平岡はにんまりと笑ってこう言い放った。
「手切れ金、ってやつかな。まあ野口は哲学的な思想の持ち主だから、哲学の観点からこの事実を考えてみると良いかもな。」
言い終わると、わたしの頭をぐしゃりと撫でて(撫でて、というには失礼過ぎる扱いであったけれど)、満足そうに、大量の現金が収められている大きな扉を閉めた。
世の中には、たぶん、わたしが知らないだけで、こんな事実がごろごろ転がっているのかも知れない。それはきっと、世の中が上手く回っていくために必要なことで、そういう世界にわたしたちは生きているのだな、と思いを巡らせた。
あのお金で、世界のどれくらいの人の命が救えるだろう。
そう考えると、居ても立ってもいられなくなるが、世の中というのは本当に残酷なもので、あの大金が、飢餓に苦しむ子供たちの元へ届く確立はほぼ皆無だと言える。
そんな虚しさを抱きつつ、わたしはまたいつもの仕事に戻る。
あの事実を誰かに口外しようものなら、わたしは即リストラだ。転落人生まっしぐらに違いない。
世の中は理不尽だけれど、その世の中を生き抜くためには、自分もその理不尽を受け入れ、他人に理不尽を強いらなければならないと悟るわたしであった。
ああ、今もきっと何処かで飢えに苦しみながら生きている人がいる。
反対に、お金なんて紙切れ同然だと、豪遊している人がいる。
そうやって、世界はぐるぐる廻っている。
たくさんの理不尽を乗せて、今日も明日もぐるぐる廻る。
パンドラの箱は、開いたまま、閉じることを忘れてしまったようだ。
パンドラの箱、解体作業