しあわせの代償
「どうしてみんな幸せにはなれないんだろうね」
まるで中途半端に閉じられた蛇口から水がぽたぽたしたたるように、私の口はそう吐き出した。
「私と先輩がお付き合いし始めたから」
ぬくもりは穏やかに全身を巡る。黙って聞いてくれるのをいいことに、蛇口を捻る。
「先輩のことが好きだった女の子から、私は先輩を取っちゃうことになるでしょう」
今まで感じていたことを改めて言葉にすれば、罪悪感が形を持ったように私の首を締めた。
抱きしめてくれる彼の腕に力がこもる。制汗剤だろう、柑橘類の匂いが鼻腔をくすぐった。
軽いため息とともに呆れたような声色が降ってくる。
「ならおれだって」
あやすような調子で背中を叩く手に愛しさが募る。
「お前のことが好きだった男から、お前を奪った悪いやつだな」
「そんなひといないよ」
「…………ばかかお前は」
今度こそ本当に呆れたと言わんばかりの吐息が髪を撫ぜた。それに対して、とうとう嫌われてしまったのではないかと、心を不安で揺らす私はなんていやな女だろう、偽善者だろう。
中身の伴わない口先だけの善の言葉ほどうすら寒いものはない。
「お前はおれの幸せより、いるんだかいないんだか分かんねえやつの幸せの方が大事だって言うんだな?」
心臓が全身に血液を巡らせる速さで、優しく背中を叩いてくれる。その一定のリズムが心地よくて、離れがたくて。
「ちがう……そうじゃないよ。ただ、……申し訳なくなっただけで」
彼は私を選んでくれたけれど、こんな私でも良いのかと思ってしまう。もっと可愛くて、細くて、女の子らしい女の子ならたくさんいるのだ。
そんな子が、もしも彼を想っていたのだとしたら。そんな彼女の方が、彼にはふさわしい。
先輩が好きで好きでたまらないからこそ、そう思ってしまうのだ。
満たされすぎていて、不安になる。
なみなみと注がれたしあわせは、いったいいつこぼれてしまうのだろう。その日を考えるだけで、胸の中を渦巻く濁流のような苦しさを覚えて。
決してこぼれぬようにと、私が両手に抱えるこれはきっと、彼を想う女の子たちの涙。
私の幸福は、私以外の誰かの不幸を犠牲に成り立っている。
そうして私が愛しく、大事に思うしあわせは、私以外の誰かのふしあわせなのだ。
いつか私も誰かのしあわせの犠牲になる日が来るのだろう。いつだって世界はうまく回らない。世界じゅうのしあわせを享受する私は、たったひとり、今日も泣く。
しあわせの代償