たった五年、このレストランにいただけで、たくさんの人たちに会うことができた。夫との離婚を機に、2人の子供を育てるために選んだ飲食業は、40歳を超えて初の挑戦だった。最初は戸惑うことも多かったが、今では、この職場に感謝している。ここは私を大きくしてくれた。そして心落ち着く人に会うこともできた。人生すべてが自分の内容になっていくのだと確信することができた。
 今回はたくさんの出会いの中から、まずは一つ紹介しようとおもう。

 毎年何回か食べに来てくださる、一組のご夫婦がいる。年は70代後半くらいだろうか。お二人とても仲のよさそうに微笑みあい、隣同士に座りお食事をし帰っていく。一回目の結婚に失敗している私には、とてもうらやましいお二人だった。お二人はだいたい、晴れた日のお昼にやってくる。ご主人が運転する車でやってくると、庭の花や木、空を見ながらゆっくりとお店に入ってくる。お二人の間で交わされている会話は本当に少しだ。どんなことを言い合っておられるのか、私にはわからない。しかし、二人の周りには、お二人にしか作れない空気が流れていて、たぶんその空気は、ほかならぬその二人がつくるからこそ、かもし出されている空気なのだろう。
  その日、奥さんは紺色のワンピースに白いストールをまいていて、その裾は気持ちよさそうに風に揺れていた。ご主人は黒地に薄いストライプの入ったズボンに、白いポロシャツを着てやってきた。季節は春。温かい日差しが見え、そこに桜の雨が降っていた。いつものようにゆっくりとお店に入ってこられたお二人を、窓際の席にご案内すると、奥様が私に微笑み、小さく会釈をした。並んですわったお二人は、一冊のメニューを仲良く覗き込み、奥様は魚、ご主人はステーキをオーダーし、お互い同じ方向を眺めながら、一言も言葉を交わさずに座っていた。時折顔を見合わせて笑いあう姿は、この世界にテレパシーという力があることを証明しているようだった。
  先に出来上がったお魚を運びつつ、私は思わず話しかけていた。
「仲のいいご夫婦で羨ましいです。何年一緒におられるのですか?」
私の質問に、少し照れたように目くばせした後、ご主人のほうが口を開いた。
「私たち、ただの友人なのですよ。」
そう話す男性の隣で、女性も静かにうなずいていた。
「こちらが佐藤みちこさん、私は田中洋治といいます。」
今までお二人のことをご夫婦だと思っていた私は、驚きを隠せずにお二人を見つめてしまった。するとみちこさんが口を開いた。
「私たち20年ほど前まではそれぞれ違う家庭にいたのですが、二人とも連れ合いを亡くしましてね。もうおおきかったですがお互い子供もいて、大変な思いをして育てたんです。そんなとき、ふらっと入った喫茶店の主人をしていたのがこの人だったんです。」
そう話すみちこさんの目は、まるで出会った日を眺めているようだった。外はまだ気持ち良い風が吹いているようで、桜がひらひらと舞うのが、窓から見える。なんだかその桜は、落ちるのではなく、昇っていくようだった。
「おかしな客だったんですよ。毎週金曜日、閉店間際の4時50分ころに店にやってきましてね、カウンターの一番奥の席に座ると、コーヒーを一杯だけ頼んで、鏡を見ながら何度も笑うんですよ。なんだか痛々しかったのですが、そんなことをしているその人の気持ちがわかるような気がして、何も言えませんでした。しかも絶対閉店までには店を出てしまうので、話しかけるタイミングつかめなくてね。」
そんなある日、いつもどおり閉店間際に店にやってきていつもの席に座ると、机に突っ伏しておいおい泣きだしたんです。私はどうしていいのかわからず、いつもより少し多めに砂糖を入れたコーヒーを出したんです。そしたら彼女、泣きはらした目で私を見上げて、どうしたら笑えますか?って聞くんですよ。そんな質問に対する答えを持っていなかった私は、黙りこんでしまったんです。そしたら彼女、あの人は私の笑顔を持って行ってしまったのかもしれない。そう呟いて、店を出て行ってしまったんです。それから2,3週間、彼女は店に来ませんでした。もしあの時、何か気の利いた言葉を返せていたらと思うと、悔しくてたまりませんでした。毎週金曜日は、閉店時間を過ぎてもしばらく店を開けていたのですが、彼女は表れなくてね。もう来ないのだろうとあきらめかけていたころに、彼女は店に来ました。いつもより早い時間に来ていつもの席に座った彼女は、コーヒーを飲みながらゆっくりと話し始めました。その話があまりにも自分と重なって驚きました。話し終わると、ふーっと長い息をついた後に、少し微笑んで、そっか、話しちゃえばよかったのかとつぶやいた彼女は、なんだか輝いていました。それから私たちは友人なんですよ。」

話し終わった洋治さんは、なんだか幸せそうだった。お二人が出会い、友人になってから約20年、お二人の間にはどんな歴史が刻まれてきたのだろうか。どんな経験が二人のこの空気をつくっているのだろうか。なんだか、途方もなく温かいその時間に、私は飲み込まれていく感じがした。
  ゆくっりと食事を済まされたお二人は、いつものように寄り添ってかえっていかれた。
  その話をしてくださった次の年、お二人は一度もレストランを訪れなかった。年に数回は来てくださっていたお客さんが来ないというのは寂しく、不安だった。その翌年、レストランにはみちこさんだけが訪れていた。
  春も終わりに近いころ、一人でやってきた彼女は、少し寂しそうだった。お二人で来ていた時と同じ席にご案内すると
「二人でこれなくてごめんなさい。あの人もきたがったのですが。」
そうみちこさんは言った。
「洋治さんはどうされたのですか?」
彼女は少し間を置き、彼は去年から胃を患っていること、今は、普通に食事をすることもままならないと教えてくれた。
「でもあの人は絶対治すんだ。今年は絶対カントリーキッチンに食べに行くんだって治療をやめようとしないんです。」
しょうがない人でしょ、そう話す彼女の顔は、言葉とは反対に誇らしそうだった。彼女はメニューを見ることなく、いつも洋治さんが食べていたお肉を頼んだ。あの人の分まで食べてくるって約束したのよ。そういって彼女は、食べきった。食後にコーヒーを頼んだ彼女は、時折静かに微笑みながら、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。外は強く吹く風で寒そうだったが、なぜか彼女の周りだけ温かそうだった。あの時みちこさんが飲んでいたコーヒーは、誰が淹れたコーヒーだったのだろうか。あの時彼女は、ちゃんと私の目の前に存在していただろうか。なんとなく彼女はあの時、洋治さんと出会った喫茶店に行っていた気がするのだ。
  コーヒーを飲み終わった彼女は、立ち上がり、お会計をしにやってきた。いつもより安いわね、と一人分の食事代を払う彼女に私は、次は洋治さんとご一緒にいらしてくださいねとしか声をかけられなかった。それからわずか一週間、お二人はレストランにやってきた。本当に最近は食が細くなっているのだろう。2年ぶりにお目にかかった洋治さんは、とても小さかった。しかし、お二人が作る空気は、何も変わっていなかった。
  いつもの席に並んで座ったお二人は、2年前と変わらず、お魚とお肉を頼んだ。洋治さんは、胃が悪いことなど感じさせないほど、お肉をおいしそうに食べていた。おいしいね、おいしいね。二人は何度もそういって見つめあっていた。そしてお二人で食後にコーヒーを頼むと、今度は一言もしゃべらずに飲まれた。この時二人はお互い何を考えていたのだろうか。帰り際洋治さんは、
「小池さん、今日もおいしかった。ありがとう。また来るね。」
そういって去って行った。しかしこれが洋治さんがお店に来る最後の日になってしまった。

それからしばらくして、みちこさんが一人でいらして洋治さんが亡くなったことを知った。みちこさんはいつもと同じ場所に座ると、お肉を頼んだ。出来上がったお料理を運んでいくと、みちこさんは
「おいしそうね。」
とつぶやいて、微笑んだ。私はみちこさんの隣に洋治さんを見た気がした。二人は同じ顔で微笑んでいた。
 会計をしにやってきたみちこさんは、私の目を見てこうおっしゃった。
「きっとあの人、天国で悔しがってると思うわ。お前だけおいしいもの食べてって。だから私もあっちに逝く日が来て、また逢えたら、私言ってやるの。先に行くから悪いのよって。」
 彼女の笑顔は透き通っていた。

 この素敵なお二人に関するお話はまだある。それも少しずつ、みなさんにお話ししていきます。

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更新日
登録日
2013-08-24

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