宇宙眼がやってきた。やあ、やあ、やあ。(4)
四 宇宙耳がやってきた。やあ、やあ、やあ。
色づいた木々の葉が落ち、通りの木々は裸にさらされた。そう、季節は、秋から冬になったのだ。あれほど街にうごめいていた宇宙口は、街の人々にとって、うっとおしく、眼障りな存在であったが、いなくなると案外寂しい気持ちになるものだ。人は、勝手な感情の生き物である。寂しさをまぎらわす訳ではないけれど、街の人々は、寒さのため服を重ね着した。ビジネスマンはコートのえりを立て、高校生たちはマフラーを首に巻いた。マフラーを巻いている人の内、喉が弱い人は、顔半分をマフラーで隠して、歩きながら、半冬眠状態になった。
猫がこたつで丸くなるように、人々も背を丸め、猫背となり、体から熱をのがさないようにした。そのため、眼は細め、鼻の穴はすぼめ、口は閉じた。だが、顔の感覚器官で、耳だけはどうにもならない。以前、テレビ番組のびっくりショ―で、耳を動かす人が出演したのを観たことがあるが、耳の穴まではすぼめることはできない。ピューピューとした北風が耳の洞窟に吹き込み、より一層がなり音を立てる。可哀そうな耳。さて、今回は、この耳が主役である。
「ほんまに、寒いわ」
高校生の川口豊は、体を震わせた。学生服の下には、セーターを着込み、手には手袋を、首にはマフラーをしている。だが、自転車のため、風がまともに当たり、寒さが学生服を簡単にすり抜け、セーターの防護壁も突破し、長袖のシャツも、Tシャツもものともせず、豊の皮膚を突き刺す。
体中をしばかれた豊は、鳥肌を立てて防戦するのが精いっぱいである。こうした体の中での戦いを、豊の脳が認識しないわけはない。「ほんまに、寒いわ」、と喉から言葉を発させ、少しでも、体を温めようとするものの、所詮、口だけである。いや、空元気の源にならないこともないことはない。一体、どっちだ。はっきりしろ。
彼はブレーキを握りしめた。キキキキキ。ギギギギギ。前輪と後輪からタイヤを締める音が聞こえた。だが、自転車はストップラインをタイヤひとつ分通り過ぎて、止まった。あやうく道路に飛び出そうになった。スピードを出し過ぎていたのとブレーキの効きが甘いせいだ。だいぶガタがきているな。豊は、サドルに座ったまま、前輪と後輪のブレーキのゴムパッドを見た。自転車の全体も見回した。学校信号が終わったら、近くの自転車に寄って、修繕してもらおう。豊は、視線を顔の前面の位置に戻し、更に、上にあげ、信号機を見た。
中央通りの真ん中の分離帯にはクスノキが植えられており、冬だが葉を茂らせている。しかし、歩道に植えられた木は、すでに葉を落とし、丸裸状態だ。思わず、寒いだろう、と声を掛けたくなる。この寒さにも耐えられる樹木の表皮なのか。俺も寒い。豊は身を引き締めた。
「まだかよ」思わずタメ口を吐く。学校まで自転車を飛ばせば五分で行ける。それに、息が上がるくらいペダルを漕げば、体が温まる。だが、このまま、後、三十秒じっと待っていたら、歩道の並木と一緒に、固まったまま動けなくなりそうだ。次に動き出せるのは、春の到来だ。それも、面白いかも。つまらない学校に行くよりは、並木と一緒に、自転車ごと、街の風景になるのもいいかも。そう、眼の前の信号機のように。
豊は、さっさと変われと呟く。信号機を睨みつける。その睨みつけた眼に、何かが映った。信号機じゃない物。信号機のおまけか。まさか。そのおまけがゆっくりと宙に舞いながら自分に近づいてくる。「なんだ、ありゃあ」
ちょうちょうか?羽根がふたつある。その羽根をゆっくりとゆらしている。スピードはゆっくりだ。時折吹く北風に煽られて、まっすぐは飛べずにふらついている。宙に絵を描くように漂っている。だが、着実に、豊に近づいてくる。現代美術作品のように、固まってしまった豊。そんな豊を尻眼に、人々は、青信号の横断歩道を渡っていく。
彼の頭の中は、今は、眼の前の浮遊する物体と同様に浮遊している。学校の始業時間のことは頭の隅にない。全感覚器官が、今は、ちょうちょうもどきに対峙している。敵は一体、何者なのだ。
風変りなちょうちょうは、ひらひらと豊の前を飛ぶ。こんなちょうちょうは見たことがない。
豊は子どもの頃を思い出した。保育所の年長や小学生の低学年の頃だ。近所に住む父親の父親、つまり、じいちゃんに虫取り網と虫のかごを買ってもらった。豊にとって、手や足など、自分の体以外の道具をもつことは、新鮮であった。自分が成長したような気がした。届かない物が届く。捕まえられない物が捕まえられる。つまり、獲得できる範囲が広がったのだ。捕まえた物が保管できる。つまり、貯金できることを知ったのだ。この網とかごを持つことで、豊は、世界を征服できるんじゃないか、とまで思えた。
彼は、この世界征服道具を身に付けると、家の庭に出た。庭には、黄色の花が咲いている。花の名前は知らない。その花の蜜を求めて、虫がやってくる。みつばちに、ちょうちょうだ。豊は、世界征服の手初めに、ちょうちょうを捕まえることにした。網を手に持った。自分の手が伸びた網だが、手が伸びた分、すぐには動かない。反応が遅れる。ちょうちょうは、捕まえられるとも露とも知れず、花の露のような蜜を吸っている。
今だ。豊は、地面に着いている網を持ち上げた。だが、手が伸びた分、自分の意思が、網の先端まで届くのに時間差が生じる。心では既に、ちょうちょうを捕まえたはずだが、現実の網は、花をすっぽり覆うだけであった。ちょうちょうは、網をひらりとかわすと、隣の花の蜜を吸っている。再度、自分の出来る限りの力を使い、すばやく網を持ち上げ、ちょうちょうを花と一緒に捕獲しようとする。
だが、ちょうちょうは、再び、網から逃れ、今度は、隣の家の庭に咲いている花に飛んで行った。
網を持ったまま、茫然と立ち尽くす豊。網の中では、豊の力が強すぎて、花びらは全部散り、茎が真ん中当たりから折れてしまった。うなだれた花。うなだれる豊。
彼は、結局、ちょうちょうの捕獲はできず、花の破壊だけが行われた結果となった。初めての豊の世界征服の夢は破れた。この日以来、豊は、ちょうちょうを捕まえることをやめた。世界は征服するものではなく、共存するもであること、制服という野心が世界を破壊してしまうことを、身を持って知ったからだ。
今、豊の眼の前でひらひらと飛んでいるちょうちょうは、あの時のちょうちょうではない。だけど、あの時、ちょうちょうを捕まえていたら、今の自分ではない、自分であったかも知れない、と豊は思う。ちょうちょうを掴まえてみたい。ちょうちょうを捕まえれば、今からの未来が、大きく変わる、変えられるような気がした。だが、捕まえた後、どうするのだ、カバンの中にでも入れるのか、カバンに入れたら死んでしまわないか。躊躇する豊。
彼は、もう一度、ちょうちょうを見た。浮遊物体を凝視すると、ちょうちょうであって、ちょうちょうじゃない。べんべん。それは何かと確かめれば、耳だ。耳だ。耳が、両耳がくっついて、お金がたまる下ぶくれの耳たぶを震わせながら、宙に浮かんでいる。いや、飛んでいる。
豊は自分の右の耳たぶを掴んだ。ちゃんとある。左の耳たぶも掴む。ちゃんとある。寒風に吹きさらされ、尖端が冷えて感触がなくなりそうな指先に、ほんわかとした温もりが伝わる。生きている。俺は、生きている。豊は自分の命を確認した。普段、耳なんて、存在の意識には上がって来ない。音が聞えているか、声が聞えているかどうか、いや、もっと原初的に、音が大きいとか、小さいとか、聞こえやすいとか、聞こえにくいとかは意識するものの、耳があるかどうかなんては意識しない。
朝、眼覚めて、顔を洗い、鏡を見ても、眼やにがついていないとか、鼻毛がのびていないとか、口に涎がついていないかだとか、髪の毛が鉄腕アトムのようになっていないかとか、皮膚の毛穴が開いて汗が噴き出ていないかどうか、気を配るものの、耳から毛が生え出ていないとか、耳くそが転がり落ちていないとか、今日は耳たぶが真っ赤で健康的だとかは確認しない。そう言う意味で言えば、耳は顔の感覚器官でありながら、無視された存在なのだ。
豊は、浮遊する耳もどきの、いや、ちょうちょうもどきの存在を眼にしてから、一瞬で、様々なことを思い浮かんだ。この思い浮かびが、今後、役立つかどうかはわからない。
彼が、一瞬、押し黙ったので、豊の声に魅かれてやってきた、耳もどきも、ゆっくりと耳たぶを羽ばたかせながら、豊の眼の前でホバリングしている。
「何あれ、変なの、ちょうちょうかしら」
「ええっ。今は冬よ」「耳みたい」
「耳チョウチョウかしら」
「そんな、ちょうちょういるの?」
「そんなの知らないわ。でも、眼の前にいるわ」
少年と浮遊物体の様子を見て、通りすがりの人々が、小声でささやいている。浮遊物体は、その囁きを耳にすると、声のする方向に近づいていこうとする。
「宇宙耳だ」
豊が思わず叫んだ。この街には、これまで、宇宙眼や、宇宙鼻、宇宙口がやってきた。宇宙耳がいても可笑しくない。それに順番から言えば(何の順番かは分からないけれど)宇宙耳が来ても不思議じゃない。
彼の声を聞き、宇宙耳が空中停止した。そして、再び、豊の顔の前に戻って来て、ホバリングした。
「お前、宇宙耳か」
豊が尋ねた。その時だ。宇宙耳が二つに分かれた。一つは、元の宇宙耳。もう一つは、豊の耳にそっくりの耳。豊は思わず自分の耳を触った。大丈夫。ちゃんとある。切り取られていない。じゃあ、眼の前のもう一つの耳は誰の耳?犬の耳でも、猫の耳でも、ロバの耳でも、王様の耳でもない。じゃあ、誰の耳?俺の耳か?
彼は、ポケットから携帯電話を取り出し、撮影モードに切り替えると、自分の顔を撮影した。急いで、撮影した写真を確かめる。
「まさか」
自分の眼の前で分裂した宇宙耳と写真の自分の耳とを比べようとしたけれど、既に、宇宙耳は豊の前から消えていた。
「まあ、いいか」
自分の耳がコピーされたからと言って、命を削られたわけでも、金を盗られたわけでもない。著作権上の問題はあるけれど、写真を撮影されたと思えば、納得がいく。
「しまった。授業が始まっているぞ」
豊は、携帯電話のデジタル数字が8:30を示しているのに気づくと、携帯電話をポケットに滑り込ませ、チャリンコを全速力で漕ぎだした。
その間にも、宇宙耳は、通りゆく人や信号で止まっている車に近づいたり、コンビニ、オフィスの中に入って行き、「きゃあ、何」「気持ちわるー」の声を聞き付け、耳をコピーし、分裂し始めた。
某国営放送の六時十分からの夕潮どき高松の番組で、宇宙耳が来襲し、人々の耳がコピーされているとのニュースが放映されていた。宇宙眼がやって来て、宇宙鼻がやってきて、宇宙口がやってきて、宇宙耳がやってきた。
宇宙に詳しい学者や軍事評論家、生物に詳しい学者たちが、テレビ討論をしていた。次は、宇宙髪がやってくるのではないか、いや、宇宙手だ。ひょっとしたら、宇宙足じゃないか、様々な憶測が乱れ飛んだ。コピーするのは何故か、という議論もあった。
宇宙○○の目的は何か。宇宙手に手を握られたら、コピーされるのではないか。宇宙足に足跡を踏まれたら、コピーされるのではないか。でも、コピーされても、オリジナルには全く影響がないことは、これまでの経験から明らかだった。
テレビのスタジオでは、終わりのない、また、答えのない、また、答えがないことを目的とするような、激論が交わされており、家庭では、全員が居間に集まり、みかんを食べながら家、その番組を興味深そうに視聴していた。
家族は久しぶりの団欒を迎えることが出来た。そう、危機に面すれば、人々は絆を求めて、集い集まるのだ。あちらこちらの家では、家族会議が開かれた。会議と言っても、この番組を見ながら、宇宙耳に何もしない行政や警察に対する不満を口にしたり、何の根拠もなく、大丈夫だ、大丈夫だ、とお経のように念じたり、宇宙耳がアイドルや俳優のコピーした耳を自分の耳と交換したいと願う人や、そのコピー機能を活用し、ひと儲けを企む者もいた。その家族会議に、宇宙耳はノックもせずにおじゃまして、だべり続ける人々の声をコピーし続けた。
番組が放送されると、人々は、テレビに夢中になった。この番組を企画したディレクターは、思わず、やったあ、と手をたたいた。視聴率が、うなぎ登りを通り過ぎ、屋根より高い鯉のぼりのレベルにまで達したからだ。統計上で言えば、この街の全ての世帯が、宇宙耳特集を視聴していることが推測される、視聴率はほぼ百パーセントを示した。
ガッツポーズのディレクターを始め、カメラマンも、上司のプロデューサーも、脚本家も、みんな、にこにこしている。まさに快挙だ。その現場中継にも、宇宙耳がやってきて、ディレクターを始め、激論を交わしている出演者たちの声を聞き、コピーして、分裂した。
テレビ番組が終わる頃には、宇宙耳は街の全ての人の耳をコピーし、街中をふわりふわりとどこかに落ち着き場所がないかと、夢心地で浮かんでいた。いくら元気な宇宙耳(宇宙耳が元気かどうかはわからないけれど)でも、一日中、コピーする人々を求めて、街中を彷徨っていたのだから、休息は必要である。それに、今は夜である。冬の寒さは厳しい。耳だけに凍傷のおそれもある。
宇宙耳たちは、ねぐらを求めて、中央通りのクスノキの並木の枝で羽根(?)を休めようとした。だが、そこは、ムクドリたちのねぐらである。突然の訪問者に、ムクドリたちは過激に反応した。自慢の嘴で、宇宙耳たちをつついた。宇宙耳たちに抵抗する術はない。
話し合おうにも、お互いの意思は通じなかった。共存は無理だった。これまで、街の人々の耳をコピーしても、人間からは何の攻撃も受けなかったし、どちらかと言えば、人間の方が逃げてくれた。それなのに、ムクドリたちは有無を言わさず、攻撃してきた。勝手が違う。宇宙耳の辞書には掲載されていない事柄であった。あわてふためく宇宙耳たち。
宇宙耳の中には、耳の穴から血を流し、地上に落下する者が多数でた。これではいけない、全滅させられると思ったのか、一番最初にこの街を訪れた宇宙耳がクスノキから飛び去ると、他の宇宙耳たちも、一斉に木から逃げ出した。
だが、宇宙耳たちは、誰も行き先は知らなかった。誰かに着いていけば何とかなると思っていた。いや、そこまでは考えていない。ムクドリからの嘴攻撃に恐れをなして、ただ、単にその場から逃げ出したかっただけなのである。先の見通しなんて、先に飛び立ったリーダー以外、他の誰も考えてはいない。いや、リーダーも、今ある目の前の耳たちの危機から逃れただけであった。将来を見通した行動ではなかった。
宇宙耳たちは、この街の夜空一面に浮かぶと、宇宙の彼方から聞える音を求めて、一斉に、飛んで行った。
宇宙眼がやってきた。やあ、やあ、やあ。(4)