3枚の猫の絵を残して逝った社会不安障害22歳の青年
3枚の猫の絵を残して逝った社会不安障害22歳の青年
3枚の猫の絵を残して逝った社会不安障害22歳の青年
*
【はじめに】
社会不安障害で苦しむ22歳の青年がマンションの8階より飛び降り自殺した。症例(以下、Y君とする)の社会不安障害は12歳時、発症と推定される。Y君は絵を描くことが唯一の趣味であり、またY君にとって自宅の猫は唯一の友達であった。そして残された猫の絵が3枚存在する。
Y君は鶴見済の著作に心酔し、その一つである『完全人格改造マニュアル』7)の中に書かれてある「アルコールを外出中、少しずつ飲むこと。すると対人緊張は感じなくなり、明るい人間に変わることができる」という内容を社会不安障害に非常に悩んでいた故、隠れて実行していた。アルコール摂取量は次第に増加してゆき、ある日、Y君は軽症化傾向を見せない社会不安障害を苦にアルコール泥酔状態の中、飛び降り自殺した。
【症例】22歳、男性
主訴:対人緊張
診断:社会不安障害(全般型)
家族歴:2人兄弟の第2子、精神科的遺伝負因なし
既往歴:特記すべきことなし
血液生化学的:特記すべき所見なし
神経学的:特記すべき所見なし
SPECT:特記すべき所見なし
頭部CT:特記すべき所見なし
脳波:特記すべき所見なし
WAIS-R:言語性(78)、動作性(80)
現病歴:Y君は中学1年頃までは腕白坊主を絵に描いたような少年だった。それが中学1年頃から急に物静かになり、人を避け、1人で遊ぶことを好むようになった。勉学の成績は良くなかったが、美少年で腕白坊主でクラスの人気者もののY君がそのようになったのは「その頃から何故か人と居ると緊張してしまうようになったため」であった。
中学卒業後、高校へは進学せず、日雇いの肉体労働などを行って過ごす。1歳年上の兄との2人兄弟であった。兄は大学へ進学する。
人との関わり合いを避けるようになりクラスでも居るのか居ないのか解らないような存在になっても、影でY君を慕う少女がいた。同じ学年の以前同じクラスだった少女である。しかしY君はその少女を避け続けていた。人と一緒にいると緊張するため勉強もせず、1人で家の周りの猫たちと遊んでいるのが常であった。しかし登校拒否は親が厳しく、ほとんどなかった。高校には行かないと親などに主張していた。そして強制的に受験させられた高校には故意か、全て不合格となり、中卒として社会に出なければなかった。就職先を担任の教師が探し出して来ても、全て「自分にはできない」と断り「アルバイトをしてやっていく」と言い、それに父親も母親も祖母もやむなく同意し、アルバイトニュースなどでアルバイトを見つけては働いた。
社会人となって半年余りした頃、1年間のうち忙しいのは春と秋だけという工場に非常勤で働き出した。その工場は1年のうち3ヶ月間が2回、仕事としてあるだけのところであり、冬と夏は他のアルバイトを見つけねばならなかった。春と秋、それぞれ3ヶ月間の仕事は、人気のほとんど無い工場の中に於いてベルトコンベアに乗った部品が流れてゆくものの中から、これはここ、これはここ、と部品を抜き出す仕事であり、対人緊張の強いY君には気楽な仕事だった。
冬と夏の仕事の無いとき、コンビニエンスストアで働くことは対人緊張の強いY君にはできないことだった。外見は良く、コンビニエンスストアに最適に見えるため、勇気を出してコンビニエンスストアで働くことを強く勧めたが、以前、コンビニエンスストアで働いたことがあり「駄目だったんです」と口惜しそうに答える。アメリカ系列の軽食店で働くことを強く勧めても「それも駄目です。やったことがあるんです」とこれも口惜しそうに答える。
初診の2年前からY君の飲酒は始まっていた。初診時すでに『完全自殺マニュアル』4)、『完全人格改造マニュアル』7)など鶴見済の著作を本屋で立ち読み、または購入し熟読していた。金銭的余裕が無いため購入したのは『完全人格改造マニュアル』のみだった。初診時、自殺願望は極めて強かった。
本院初診は1999年6月。処方は fluvoxamineを漸増し150mg/日に固定。その他、ベンゾジアゼピン系薬物を同時処方。しかしY君はベンゾジアゼピン系薬物が「あまり効かない」と主張する。そのためベンゾジアゼピン系薬物は2週毎に変えるほどであった。そして多種類のベンゾジアゼピン系薬物を試験処方した。bromazepam 20mg/日、cloxazolam 12mg/日、 etizolam 3mg/日、clonazepam 6mg/日、alprazolam 2.4mg/日 など幾種類も処方した。しかしY君のこれらベンゾジアゼピン系薬物が「あまり効かない」との主張は不変。
Y君は社会不安障害を根本的に寛解させる可能性のある薬物と説明していた fluvoxamine に期待をかけ、毎日夜150mg 服用していた。昼間に服用すると眠気に襲われるため夜のみの服用となっていた。「夜、一度に150mg 服用しても却って睡眠薬代わりになり好都合」と言い150mg/日(夕食後のみ)の服用を3ヶ月続ける。倦怠感や肝機能障害など fluvoxamine の副作用は全く出現せず。しかし社会不安障害は少しも軽症化傾向を見せず。
統合失調症が基底に存在する可能性を考慮し、抗精神病薬も試験処方したが無効であった。2000年5月、Y君は来院を中止する。
筆者は「命の電話」として筆者の携帯電話を解放しており、寂しい為か来院中止後もY君は頻繁にその携帯電話に掛けてきていた。
2000年7月、工場でのアルバイトが無いとき、Y君は自宅で自閉的な生活を送っていた。筆者は「クスリを飲んでその場凌ぎをしてゆくんだ。そうして働くんだ。以前出さなかった良く効くクスリがある」と説得し、来院再開。 flunitrazepam(1日量4mg)を処方。量を調整しやすいように全て1mg 錠にする。flunitrazepam は催眠鎮静剤に分類されているが、これを睡眠薬としては服用せず、アルバイトなどのときのみ頓服的に服用するよう説明する。そしてこれが劇的に効くことを知り、Y君はアルバイトや就職の面接に行くとき服用するようになる。肉体労働は行わないこと、洋服屋の店員のような人と接する仕事をすることを指示した。Y君は外見は非常に良く、洋服屋の店員が最も似合っていると筆者は判断した。
Y君の家には、Y君を非常に可愛がっていたY君が小学6年の頃に亡くなった祖父が熱心に信仰していたS会の仏壇が残されていた。Y君の家は祖父が亡くなった後、S会の信仰をほとんど止めていた。ただ、仏壇だけが祖父の思い出とともに残されていた。Y君は自殺の決行を決意する度に1階に降りてゆき、祖父の面影の残る古い仏壇の前に座り、自殺を思い留まっていた。
2001年1月頃よりY君は、祖父の面影を慕うように古い仏壇の前に座り、お経を唱えるようになる。Y君はS会の信仰を始めた。
S会の信仰により社会不安障害を治す、S会の活動という行動療法により社会不安障害を治す、これが最後の手段であるという悲愴感を帯びた思いがそこにはあった。
そして5月に行われる博多どんたくのS会の実行委員にY君は選ばれる。Y君は以前とは見違えるほど明るく元気になっていった。
2001年3月1日、筆者の勤務する病院にY君の祖母の妹から電話が掛かる。「酒をたくさん飲んでいるが良いのか?」ということであった。Y君は電車で20分ほど掛かる祖母の妹のマンションで祖母の妹の留守中にアルコールを多量に飲用し泥酔していた。それを帰ってきた祖母の妹が見つけ、驚いて電話してきたのだった。次の診察が明日になっていたため、筆者は祖母の妹を心配させないように「成人になっているから良い」と答える。翌日の診察のとき「何故、アルコールを飲むのか?」と問う。すると「アルコールが対人緊張に最も効くと本に書いてありました。だからこの頃はいつもアルコールを飲んで外出します。そしてアルコールと抗不安薬、抗うつ薬、抗精神病薬を混ぜて飲むと更に良く効くと本に書いてありました」と言う。筆者はその『完全人格改造マニュアル』を持って来させ没収する。しかしすでにその頃、Y君はその本を非常に熟読しており、本の何処に何が書いてあることまで記憶していた。
2001年3月中旬、祖母の妹のマンションでアルコールを飲み、それを帰ってきた祖母の妹が見つけ「若い男が仕事をしないで何をしている」などと強く叱られ「死んでやる」と言ってマンションを飛び出す。そして近くのハンバーガーショップで小型の金属製の容器に入れられたアルコール(アルコール度35%のホワイトリカー)・抗うつ薬(milnacipran)・ベンゾジアゼピン系薬物を大量に服用し倒れる。救急車が呼ばれ、救急当番の病院へ運ばれる。そして点滴を1本受けて帰される。これは後に筆者に語ったが完全な狂言自殺であった。Y君は「自分は全く死ぬ気はなく、ただ祖母の妹などをびっくりさせてやろうと思っただけだったし、精神科のクスリで死ねないことは本で読んで知っていた」と言う。
自殺する1週間前、筆者の診察室に元気に立ち寄った。このときは病院のすぐ近くにあるカラオケハウスの従業員の面接に行く直前であった。
「今から行くカラオケハウス、1回、バンドの仲間と行ったことがあるんです。そして電話したら僕を憶えてくれてました。たぶん、今度は大丈夫だと思います。そして、あの2mg 錠(flutoprazepam)は効きます。これで効くクスリが2つになった」と嬉しそうに言う。最後に、ネクタイを締めて立ち去った。
自殺する3日前、突然来院し、「抗うつ薬が良く効くと本屋で読みました。でも自分には以前あれだけ飲んだのに効きませんでした。先生が今、処方している抗うつ薬(paroxetine)は全く効いていません。以前の抗うつ薬(fluvoxamine、milnacipran)と同じように自分には効かないようです。それからあの2mg 錠(flutoprazepam)は一日何錠まで飲んで良いのでしょう」と言う。カラオケハウスの従業員の面接の結果については未だ採用不採用の通知が来ていないのか言及しようとしなかった。筆者もその結果については問わなかった。
Y君はこの日、呂律がよく回らなかった。Y君はこの日、アルコールを飲んで来院していた。今までに無いことだった。しかしY君はアルコールのことを隠し続けた。筆者も深くは問わなかった。そして退室するときY君はとても悲しげな表情で言った。
「僕は人が好きなんです。でも、それを阻んでいるものがあるんです」。
2001年4月14日午後3時41分、Y君は祖母の妹のマンションの8階から飛び降り自殺する。外出より祖母の妹が帰ってきていた、その目の前にY君は落下した。祖母の妹が帰ってきているのを見て、急いで飛び降りたらしかった。
ズボンのポケットに遺書が入っているのを祖母の妹が発見した。表に「高見先生へ」と書かれてあった。
「お父さん、お母さん、お祖母ちゃん、先に旅立つこと、お許し下さい。苦しいです。死ぬしかありません。
アルコールを飲んだとき僕も始めてみんなの輪の中に入ってゆけます。
12の頃からですから10年間でした。寂しかったです。辛かったです。でも、最後の1ヶ月間は楽しかったです。
かねがえさん、キムさん、山本さん、お世話になりました。最後のバンド、盛り上がって、とても大成功でした。
そして五船先生、いや、高見先生、結婚、頑張ってください。
五船先生、兄のパソコンを借りて五船先生の花嫁さん募集の絵を描きました。五船先生にそっくりに描きました。字の入力の仕方が解らなくて字が汚いですけれど。五船先生に形見として残します。結婚、頑張ってください。
五船先生と出会って『死んではいけない。自殺だけはしてはいけない。』と毎回のように言われ続けました。でも、自分は、死ぬことしか考えていませんでした。
僕は辛かったのです。すみません。五船先生もとても辛い思いをしながら生きていらっしゃいましたが、僕は五船先生のように強くなかったです。
………………
明るく未来に希望を持て! と毎回、五船先生は言われてましたが、そうしていろんな処に連れて行ってくださいましたが、やっぱり希望は持てなかったです。山や海、そしていつもの福ちゃんラーメン、いろんな処に連れて行ってくださいましたが、僕の病気は治りませんでしたし、軽くもなりませんでした。
おじいちゃん、僕は病気になりました。おじいちゃんが死んで1年後に病気になりました。僕もやっと、おじいちゃんに会いに行けるのですね。猫のトラも居るでしょう。会いたいです。
僕は、白い鳩となって空の上に飛んでゆきます。僕は白い鳩となって、これから悩んでいる人、苦しんでいる人を助けてゆきます。悩んでいる人、苦しんでいる人の窓辺に下り立って、歌を歌って慰めてゆきます。
………………
………………」
遺書はアルコールを飲用して書かれたものと思われ最後の部分は泥酔状態となったのか、判読困難であった。
飛び降りた8階のベランダにY君のバックがあった。その中にアルコール度35%のホワイトリカーが移し入れられていた小型の金属製の容器がほぼ飲み尽くされて入っていた。家人によるとY君の飲酒は筆者が厳しく中止を言い渡した1ヶ月半前からも依然として続いていた。
S会で活動を始め、バンドを組み、Y君はボーカリストとなり、ギターのキムさんなどと音楽活動を行い、S会で友人と呼べるものが出来かけ始めていた矢先のことだった。以前とは別人のように明るく活発になっていた矢先のことだった。Y君は稀に見る美男子であり、熱狂的な女性ファンも現れ始めていた。それほど明るく活発になっていただけにバンドのメンバーなどはY君の死を信じ切れないでいた。
Y君の自殺を聞き駆けつけたとき、Y君の祖母が語った。「小さい頃は活発だったのですけど」。
Y君が初診のとき述べたように小さい頃は活発だったという。発症はやはり中学1年時、そして少なくとも筆者の下に初めて来たときには友人と呼べる者は居なかった。
【考察】
社会不安障害、それは孤独との闘いである。孤独との、いつ果てるとも知れぬ闘いである。
社会不安障害は大部分、10代から20代前半で発症すると言われている。以前は対人恐怖という疾患名が用いられていたが、最近はその疾患名はあまり用いられず、社会不安障害、社会恐怖という疾患名が用いられている2)。
対人恐怖と社会不安障害の概念に不一致がある。対人恐怖は、社会不安障害とほぼ等しい緊張型対人恐怖と、関係妄想、前分裂症症状を伴う確信型対人恐怖に分けられる8〜10)。
fluvoxamine(当時は fluvoxamine が発売された直後の頃であった)は社会不安障害を根本的に寛解させる可能性のあるものと説明し、初診時より投与したが、効果はほとんど認められなかった。milnacipran、paroxetine が発売される毎に順次、投与したが同じく効果はほとんど認められなかった。同時に処方していたベンゾジアゼピン系薬物がほとんど効かないとも言及していた。
ベンゾジアゼピン系薬物の効果が芳しくないことを考慮し、統合失調症が基底に存在する可能性を考え、抗精神病薬(bromperidol、haloperidol)の投与も行ったが無効であった。Y君はこれらの治療に非常に協力的であった。病気を治したいという強い願望がY君にはあった。
Y君に対しベンゾジアゼピン系薬物の効果が芳しくなかった理由の一つは、Sellman らの実験による、慢性アルコール症者ではdiazepam の経口および静脈内投与に於いてdiazepam の血中濃度が健常者に比較して有意に低いことを示した実験、すなわち慢性アルコール中毒症者に於けるNEOS系の誘導によるCYP2E1活性の増大により酸化的代謝を受けるベンゾジアゼピン系薬物の代謝過程を促進する事実についての研究から考えられる3)。
「抗不安薬は一時凌ぎに過ぎないが、一時凌ぎしながら、いつの日か社会不安障害が治癒する例が存在すること。抗不安薬を服用し、騙し騙しながらも立派に社会生活を送っている例が多数存在すること」。このように説明し、 fluvoxamine、milnacipran、paroxetine、そして比較的大量の抗不安薬を主体とした治療を行った。
海外では、MAO阻害薬であるphenelzine の有効性が盛んに言及されている1)。しかし本邦ではphenelzine の致死的な強い副作用故にphenelzine は認可されていない。
Y君は傾倒していた鶴見済の著作の一つである『完全人格改造マニュアル』7)に記されてある次のような内容(注・筆者要約)に傾倒していた。
「明るい人間に変わるには濃度の濃いアルコールを小瓶に入れて持ち歩き、少しずつ飲むこと。アルコールは性格を明るくする薬だ。そしてアルコールは朝から一日中飲むこと。朝9時、昼12時、午後3時、6時の4回飲むこと。そして1回に飲む量は、ウイスキーならダブル1杯分、ビールなら大瓶1本、日本酒なら1合、ワインならグラス2杯ほど。アルコールは朝から飲むこと。一日中飲むこと。それが明るい人間に生まれ変わる方法だ!
アルコールは合法的なドラッグだ。職場や教室でも緊張感ゼロになる。毎日毎日、朝から晩まで、微量のアルコールによって働き過ぎている抑制機能を通常の状態に戻して緊張を無くすこと。
3時間か4時間に一度くらい、会社や学校のトイレなど人目に付かないところでコソコソと飲み、飲んだ直後は必ずうがいをし、30分〜1時間はガムでも噛んでおくのが無難だろう。
念を入れるなら、薬局で多数販売されている口臭消しの薬を飲んだりすること」。
Y君は22歳と若く、その本に書かれている内容を批判する能力がなかったと考えられ、同時にY君が強く社会不安障害に苦しんでいたことが大きく影響していたと考えられる。
Y君のアルコールへの耽溺は初診時は比較的軽度であったが次第にエスカレートして行き、自殺する数ヶ月前には祖母などに気付かれ厳しく注意されていた。しかしY君はアルコールを止めず、逆にアルコール耽溺は自殺の日まで急加速度的にエスカレートしていった。金銭的に乏しいためアルコール度35%のホワイトリカーを購入し、それを小型の金属製の容器に移し、バックの中に入れ、持ち歩いていた。バンドで人前で歌うときもY君はアルコールを飲むようになっていた。
Y君は中学1年以来の仲間ができ長年の孤独から解放されたその時期にアルコール中毒患者と成り果て、アルコール酩酊状態の中でマンションの8階のベランダから飛び降りた。
【終わりに】
救急車が総合病院へY君を運び込んだときには既にY君の呼吸も心拍も停止していた。Y君は筆者初診より1年ほど前『完全人格改造マニュアル』を一般の書店より購入した。そのときからのアルコール耽溺であった。
『完全自殺マニュアル』『完全人格改造マニュアル』など4〜7)が出版され、過去、それらがベストセラーになり、現在も重刷を続けている。
Y君は初診時から精神科の薬剤では自殺できないことを知っており、筆者に「精神科のクスリではない他の楽に死ねるクスリを下さい。医者には、そういうクスリが手に入ることを知っているのです」と来院毎、執拗に言っていた。その薬剤を手に入れるまでは帰らないというほどの執拗さであった。不思議に、その要求を言及しなくなってから1ヶ月後の自殺であった。おそらく、飛び降り自殺を決意しての変化であったと思われる。
『完全自殺マニュアル』は題名から危険な出版物であることが推測できるが、『完全人格改造マニュアル』は題名からは危険な出版物であることが推測できない。これら鶴見済の著作は禁書にするべきと固く信じる。この鶴見済の著作により自殺を成功させた若者は今までに多人数に達すると推測され、今後もその数は増え続けると思われる。
【付記】
Y君は3枚の猫の画を残している。これらは死の半年ほど前に描かれたものである。それを「絵1」「絵2」「絵3」とする。
「絵1」のライオンのように立った猫はY君の病気に立ち向かう怒りと決意を表わしている。しかしY君のその決意にも拘わらずY君の社会不安障害は重症であった。
http://homepage2.nifty.com/mmm23232/2882a.jpg
「絵2」の横たわる猫はY君の幼さの残った極めて純粋な心を表わしている。
http://homepage2.nifty.com/mmm23232/2882b.jpg
「絵3」の前方の猫はY君の元来の腕白坊主な明るい性格を表し、後ろを向いている猫は人と交わりたくても交われないY君の寂しさを表わしている。
http://homepage2.nifty.com/mmm23232/2882c.jpg
-----Y君、追悼の辞として、これを記す-----
【文献】
1) Aarre TF:Phenelzine efficacy in refractory social anxiety disorder: A case series.Nord. J. Psychiatry. 57(4);313-315、2003.
2) 貝谷久宣:対人恐怖(社会不安障害).講談社、東京、2002.
3) Sellman R, Kanto J, Raijola E et al:Human and animal study on elimination from plasma and metabolism of diazepam after chronic withdrawal.Br. J. Clin. Pharmacol. 15;125-127、1983.
4) 鶴見済:完全自殺マニュアル.太田出版、東京、1994.
5) 鶴見済:ぼくたちの「完全自殺マニュアル」.太田出版、東京、1995.
6) 鶴見済:無気力製造工場.太田出版、東京、1996.
7) 鶴見済:完全人格改造マニュアル.太田出版、東京、1996.
8) 山下格、笠原敏彦:対人恐怖症の概念と臨床像.精神科Mook No.15、金原出版、東京、1985.
9) 山下格:対人恐怖の病理と治療.精神科治療学.12(1);9-13、1997.
10) 山下格:対人恐怖.金原出版、東京、1997.
これを3枚の猫の絵の比較的大きなカラー写真とともに自費出版したいと思います。3枚の猫の絵の比較的大きなカラー写真は別刷りでも結構です。猫の絵だけでも人は買ってゆくでしょう。版権は貴社にあるため他の小さな出版社に依頼すること不可能と考えました。Y君、追悼の辞として、これを出版します。
福岡のどんぐり脳神経外科に勤務していたときの症例であり、ここの病院にこのことなどで多大な迷惑を掛けたこともあり、ここ勤務で出版すべきと思います。
フロッピーにタイプしたものを入れています。
Y君への悔悟の念(自分の力の無さ)のために今もときどき眠っているときに唸されます。今は外来を行ってなく、山の上のサナトリウムのような病院にて退院先のない比較的良好な状態の入院患者の病棟を担当しています。
精神科の病とは本当に治り難いものだと苦闘する毎日です。実は僕もY君と全く同じ病気である社会不安障害で25年苦しんでいます。苦しい苦しい25年間でした。孤独な25年間でした。
http://homepage2.nifty.com/mmm23232/2975.html
3枚の猫の絵を残して逝った社会不安障害22歳の青年
3枚の猫の絵を残して逝った社会不安障害22歳の青年