脳・内・庭・園  < 第 一 章 >

脳・内・庭・園  < 第 一 章 >

 ■ プロローグ  prologue


 今より少しだけ昔の時代、どこか遠い異国の地での物語。
 とある街外れにある、大きなお屋敷の中で、ひとりの庭師が暮らしていました。

 と言っても、庭師が住んでいるのは、お屋敷の中ではなく、お屋敷の庭の片隅にぽつんとたたずむ
小さな物置小屋の中でした。幼い頃に両親を病気で亡くした庭師は、このお屋敷に住む、変わり者で
有名な男爵に引き取られて以来、ずっとこの物置小屋で暮らしてきました。

 男爵はうわさに違わぬ変わり者で、庭の手入れに余念がない男でした。そして同時に、とてもケチ
な男でした。男爵は引き取ったばかりの幼い庭師に、古ぼけた物置小屋と、ほんの少しの食事を与え
る代わりに、男爵ご自慢の大庭園の庭仕事を、たったひとりでするよう命じました。
 
 男爵は、庭の草木が少しでも伸びているのを見付けると、庭師を呼び付けて、すべてきれいに刈り
そろえさせました。はじめ、庭師はそれが嫌で仕方ありませんでした。せっかく伸びた草花にハサミ
を入れるたび、心がチクチクと痛みました。もっと自由にのびのびと茂らせてやってほしい、と男爵
に頼んだこともありました。
 
 しかし、男爵はそれを許しませんでした。庭師がただ楽をしたがっているのだと勘違いして、毎日
草木の長さがすべて同じになるよう、わざと庭師に言い付けました。可哀想な庭師は、おかげで来る
日も来る日も、ヘトヘトになるまで働かなくてはなりませんでした。

 朝から晩まで膨大な量の庭仕事に追われているため、庭師はお屋敷の外に出ることもできず、友達
はひとりもいませんでした。そのまま何年も月日が流れ、いつしか庭師は、黙々と庭仕事をするだけ
の、無口な青年になっていました。お屋敷の中で働く他の召使い達もそんな庭師のことを「あいつは
ただの芝刈り機だ」と言って馬鹿にしていました。

 けれど、お屋敷の中でたったひとりだけ、庭師に優しい言葉をかけてくれる人がいました。それは
男爵のひとり娘でした。娘は重い病気を患っており、毎日お屋敷の中で過ごしていました。それでも
時々は、外の空気を吸うために、部屋を出て広い庭園の敷地内を散歩することもありました。娘は散
歩中に庭師と会えば、必ずほほ笑みながら話しかけてくれました。そんな時、決まって庭師は恐縮し
てしまい、あまり上手に話せませんでした。庭師は娘のことが好きでした。娘の病気が早く良くなる
ように、毎晩祈りました。


 そんなある日のこと。
 庭師がいつものように庭仕事をしていると、娘が外の空気を吸いに庭へやって来ました。


「こんにちは」娘が優しく庭師にあいさつしました。
「こ、こんにちは」庭師があわてながら返事をすると、娘は笑って言いました。

「いつもご苦労様。ひとりで大変でしょう? 今それは何をしているところなの?」
「こ、これですか? 薔薇(ばら)剪定(せんてい)をしているんです」庭師は答えました。

「せんてい?」娘がまた庭師に聞きました。
「はい。剪定した方が、風通しも、養分の吸収も良くなって、元気な薔薇が育つんです」
 庭師が緊張しながら説明するのを、娘は真面目な顔で聞いてくれました。

「そう。でもせっかく元気に育っても、すぐに刈り取られてしまうのでしょう?」
 娘は少し悲しそうな表情で言いました。

「ええ。でもせめて、それまでの間だけでも、のびのび育たせてあげたいですから……」
 庭師は力無く言いました。すると、娘は『すてきね』と言ってほほ笑みました。
 その笑顔を見て、庭師は自分の顔がみるみる赤くなってゆくのを感じました。

「あ、有難うございます、お嬢様」庭師は真っ赤になりながら言いました。
「あら、あなたまでお嬢様なんて言うの、やめてくれる? せっかく息苦しい世界から、抜け出して
来てるのだから。どこへ行ってもお姫様扱いされるのは、ごめんだわ」娘は口をとがらせて、わざと
意地悪っぽく言いました。娘が見せた、じゃじゃ馬のような意外な一面に、庭師は少し驚きました。

「す、すみませんお嬢様」
「ほら、また言ってる」
「あ、すすすすみませんっ!」

 庭師が真っ赤になりながら謝るのを見て、娘はくすくすと笑いながら言いました。
「この屋敷で働く人達が、みんなあなたのような人ばかりだったら、良かったのに……」

 それを聞いた庭師は、とても嬉しく思いました。でもすぐに、娘のまなざしの奥に、深い悲しみが
潜んでいることに気付いて、勇気を振り絞って娘に尋ねました。

「……あの、お屋敷の中で過ごす日々は、あまり楽しくないのですか?」
 すると娘は庭師の目をじっと見つめて「なぜ?」と聞き返しました。

「いやその、なんとなく、そんな風に思えたもので……」庭師はぼそぼそと答えました。
「私って、そんな風に見える?」娘は真面目な顔で聞きました。
「いえ。あ、いや。……ええまあ」庭師は小さな声で答えました。

 娘はしどろもどろになる庭師を見つめたまま「そう」と小さく呟きました。
 そして次に、目の前の薔薇へと視線を落としながら、虚ろな声で言いました。

「……私もこの庭と同じ。病気のせいで、自由に生きることが許されていないの。野原を駆け回ること
も、街に出て、いろいろなものを見て回ることも、禁じられているの。病気が重くならないよう、毎日
お部屋の中で、一日のほとんどを過ごし、決められた量の運動をして、決められた量の食事をとり、決
められた量の薬を飲んで、決められた量だけ眠る。勉強だって、長くはさせてもらえない。本を読んで
良い時間まで、制限されているのよ。こんなの生きてるって言えないわ。そう、生かされているだけ。
この庭と同じで、枯れないように、伸び過ぎないように……」

 しばらく沈黙が続きました。娘は薔薇をじっと見つめたままでした。
 それから、ようやく「……ごめんなさい、こんな話をして」と、口を開きました。
「あなたのお仕事はすてきよ、だってこの薔薇は、今はとても幸せそうだもの」
 娘はいつもの優しい笑顔に戻って、庭師を見つめて言いました。

 庭師は少し考えてから「……ちょっとお見せしたいものがあるのですが」と言いました。
 そして、娘を自分が住んでいる物置小屋の裏へと案内しました。


 物置小屋の裏には、小さいけれど美しい花園がありました。表の大庭園にあるすべての花が、所狭
しと重なり合って、自由に咲いていました。それは、すぐに刈り込まれてしまう可哀想な草花を、庭
師が少しずつこっそり植え換えて作った、秘密の花園でした。お屋敷の敷地の隅っこで、古ぼけた物
置小屋の陰になり、誰にも見付かることなく好きなだけ伸びることができるので、すべての植物が生
き生きと茂っていました。それはまるで、カラフルな色であふれた小さなジャングルのようでした。
娘はそれを見て驚き、心から喜びました。娘が喜ぶ姿を見て、庭師もとても嬉しくなりました。


 しかし、ふたりとも久しぶりの楽しいひと時に、つい、時間を忘れていました。その頃、お屋敷で
は、娘が散歩に出かけたきり、なかなか帰って来ないので、大騒ぎになっていました。結局、ふたり
が戻った時には、お屋敷の入口で、男爵が怖い顔をして待ち構えていました。娘は、自分がわがまま
を言って、庭師に庭園の中を案内させていた、と言い張りましたが、男爵は有無を言わさず娘の腕を
つかんで、大急ぎで屋敷の中へ戻らせるよう、召使い達に命じました。それから庭師をさんざん怒鳴
りつけて、自分も屋敷の中へ入って行きました。ひとり取り残された庭師は、お屋敷の中から微かに
漏れ聞こえてくる男爵の怒鳴り声と、娘の泣き声に、ただ耳を澄ますしかできませんでした。



 その日を堺に、娘が庭に出てくることはありませんでした。

 庭師は、来る日も来る日も、娘が元気でいるか心配しながら庭仕事に励みました。男爵に娘の様子
を尋ねてみても、何も答えてくれないどころか、ただでさえ少ない食事をよりいっそう減らされるば
かりでした。それでも庭師は、文句のひとつも言わずに耐えました。それが庭師にとって、悪いのは
自分なのだから娘を許してやってほしい、と訴える唯一の手段だったのです。

 そんな日が何日も続いたある日、庭師は他の召使い達が屋敷の外でひそひそ話しているのを耳にし
ました。聞くところによると、娘の病状が悪化して、もう長くは持ちそうにないということでした。
その晩、庭師は物置小屋の中から裏庭の花園に向かって、いつもより長く娘の回復を祈りました。

「どうか、娘さんの病気が早く良くなりますように。また元気に庭を散歩できますように。野原を自
由に駆け回れますように。街に出て、いろいろなものを見て回れますように。私の魂と引き換えにそ
れらが叶うなら、喜んでこの命を捧げます。だからお願いします。あの人を助けてあげてください」


 そして、ベットに倒れ込むようにして深い眠りにつきました。
 壁に掛けられた時計の針が、ちょうど十二時を指し、ぼーんと鐘を鳴らし始めた頃でした。


 ■ 1-1 脳内庭園  Welcome to the Brain Garden


 第 一 章  「 春 の 庭 園 」


 ぼーんと鳴り響く鐘の音で、庭師がハッと目を覚ますと、見慣れた物置小屋の中の風景が、目に飛
び込んできました。……いつもと同じ部屋、いつもと同じ朝。庭師はため息をつきながら起き上がり
ました。またいつもと同じ一日が始まり、いつもと同じ庭仕事をする、それだけだ。……ああ、何を
望んでも結局、何も変わりはしない。寝ぼけた頭でそんなことを思いながら、いつもと同じように、
小屋の窓を開けて外を見渡しました。

 しかしそこには、いつもと同じ男爵ご自慢の庭園はありませんでした。
 窓の外は、見渡す限り花と木で埋め尽くされていました。

 それは庭師が物置小屋の裏で密かにこしらえていた小さな花園を、そのまま大きくしたような世界
でした。あちらこちらで、花々が自由気ままに咲き乱れ、植物が好き放題に蔓を伸ばし、キラキラと
輝く花粉や綿毛が、そこら中をふわふわと漂っていました。

 庭師はまだ夢を見ているのかと思って、ほっぺを思いきっりつねってみました。でも痛いだけで、
一向に目が覚めるような気配はありません。庭師は仕方なく、小屋の外へ出てみることにしました。
小屋の外は足の踏み場もないくらい、辺り一面が草と花で覆われていました。

 不思議なことに、庭師が一歩踏み出すたびに、触れた草が内側から光ったかと思うと、蔓を伝って
するすると光が先端へと移動してゆき、その先にある花から、キラキラ輝く花粉をふわっと吹き出し
ました。そして、その光る花粉を浴びた植物が、それに反応してまた輝き出しました。するとまた、
同じように光が(つた)の中をリレーして、どこか離れた所で花が花粉を吹き出すといった流れを、延々と
繰り返してゆきました。

 なんてきれいなんだろう。庭師は、その幻想的で美しい光景にうっとりしながら思いました。
 もしかしてここは天国なのだろうか? 自分はいつの間にか死んでしまったのか? だとすると、
庭の手入れが滞って男爵がまた怒り狂うだろうな。まあでも死んでしまったのなら僕にはもう関係の
ないことか…。そんなことをぼんやりと考えていた時、空の彼方からまた、ぼーんという鐘の音が響
き渡ってきました。どうして時計の鐘の音が空から聞こえてくるのか不思議に思っていると、突然、
背後から誰かの声がしました。


「よお兄弟、目が覚めたかい?」

 ドキッとして振り返ると、物置小屋の入口付近に、ひとりの男が立っていました。驚いたことに、
その男は頭のてっぺんから足の先まで、何もかも庭師と瓜ふたつでした。庭師は最初、鏡を見ている
のかとさえ思いました。あまりに予想外の出来事に、庭師が何も反応できずに、ただ立ち尽くしてい
ると、自分とそっくりなその男が、自分とそっくりな顔に、不敵な笑みを浮かべながら、ゆっくりと
歩み寄って来て言いました。


「ようこそ、脳内庭園へ。どうだいすてきだろう? この辺りの庭は全部俺が造ったんだ。お前が物
置小屋の裏に造ってた庭を真似してな。ニューロンの花をここまで活性化させるのは、なかなか難し
いんだぜ。この辺りはノルアドレナリンが不足してるから、良いグリアが育ちにくくて苦労したよ。
でもそこそこ雰囲気は良く再現できてるだろう? 俺なりのアレンジもだいぶ入ってるけどな。まあ
とにかく、お前がここを気に入ってくれたようで安心したよ。何せお前には、俺の代わりにずうっと
ここで暮らしてもらうことになるんだからな。

 ふっ、言ってる意味がわからないって顔だな。それもまあ当然か。じゃあ説明してやるよ。まず、
薄々気付いてはいるだろうが、これは夢なんかじゃない。かと言って、現実でもない。これは、お前
が無意識のうちに頭の中に創り上げた仮想世界なんだ。もっと簡単に言えば、ここはお前の脳味噌の
中ってこと。現実世界のお前の身体は今、ベッドの上で眠りこけてる。お前の意識だけが、この世界
に迷い込んじまったってわけさ。

 言っとくけど、これは全部、お前自信が自分で引き起こしたことなんだからな? お前が自分を殺
して生きるから、俺が生まれた。俺は、いわゆるお前の別人格ってやつだ。俺は、お前の抑圧された
欲動が生み出した、もうひとりのお前なのさ。お前が表の世界で出来ないことをやるために、俺は生
まれた。だから俺はお前の代わりにこっちで好き勝手に生きてやったよ。お前がそう望んだからだ。
ところが、自己防衛プログラムがそれを許さなかった。俺は、脳内の秩序を乱す危険分子と見なされ
て、結界で囲まれたこの場所に幽閉された。……実に七年間もだ!

 だけど、別に俺はお前を恨んじゃいないぜ、兄弟みたいなもんだからな。お前がいるから俺も存在
できる。まさに、表裏一体の関係だ。おかげさんで今回、俺は晴れて無罪放免、お前は反対にここに
監禁ってわけだ。なぜかって? お前が自分の命を放棄したからさ。あの娘のために、そう祈ったろ
う? そのせいで、お前のタナトスは、リビドーを上回っちまったんだよ。自己防衛プログラムがそ
んなこと許すわけがない。それで、選手交代さ。生きる気力の弱い主人格より、危険分子の別人格の
方がまだマシだって判断したみたいだな。

 あと数時間もすればお前の身体は朝が来て自然に目覚める。でも、目覚める意識はお前じゃない、
この俺だ。コントロール権は俺がもらう。悪く思うなよ、どのみち俺達どちらかがやらなきゃいけな
いことなんだから。まあ、ここで暮らすのも、そんなに悪くはないぜ。ここなら、毎日つらい労働を
する必要もないし、食い物だってたっぷりある。長い休暇だと思って、のんびり過ごせば良いさ。

 さてと、話はこんなところだ。さっきの鐘で十二回目だから、外は今ちょうど真夜中だ。朝五時の
鐘が鳴って、身体がいつものように目覚める前に、俺は行かなきゃならない所があるもんでね。それ
じゃあ、これでお別れだ。会えて嬉しかったよ、後のことは全部俺に任せときな。そんなに悪いよう
にはしないからよ、……ふふっ」


 庭師が呆気に取られて何も言えないでいると、男は庭師にくるっと背を向けてスタスタと歩き出し
ました。庭師はあわてて男の背中に「あああ、あのー!」と呼びかけました。しかし男は足を止める
ことなく、そのまま茂みの向こうへと消えて行ってしまいました。男が茂みを通過した時に発生した
光の連鎖が、キラキラと波紋のように広がり、後には静けさだけが残りました。

 庭師は呆然とその場に立ち尽くしたまま、しばらく考え込みました。

 今の男は一体何を言っていたのだろう? ここが僕の脳の中だって? 確かに痛みは感じるから、
ただの夢ではないようだけれど、自分の脳の中に、自分が迷い込むなんてことがあるのだろうか? 
しかも、自分がもうひとりいるなんて。誰かの悪い冗談にしては、大掛かり過ぎるしなあ………。

 どんなに考えても考えても、意味のわからないことだらけでした。しかし、ずっとここで悩んでい
ても、状況が何も好転しないことだけは間違いないようなので、庭師はとりあえず、男が消えた方向
へ進んでみることにしました。



 ■ 1-2 白兎(しろうさぎ)  Mr. White Rabbit


 庭師が恐る恐る、男が消えていった茂みの向こう側へ顔を出してみると、こちら側と同じく、花と
緑がごちゃごちゃに入り混じった庭園が、迷路のように広がっているばかりでした。近くに人の気配
はなく、それどころか、虫一匹すら見当たりませんでした。

 庭師は首をかしげました。これだけ様々な花が咲き乱れているというのに、(ちょう)(はち)が飛び交ってい
ないなんて不自然だな、と思いました。試しに足元の石を引っくり返してみましたが、昆虫が隠れて
いる様子は少しもありませんでした。不思議なことに、どんなに耳を澄ませてみても、小鳥のさえず
りひとつ聞こえません。庭師は途方に暮れ、思い切って「誰かいませんかー!」と、大きな声で叫び
ました。

 すると突然、前方の菜園の中から、大きな影がヌッと飛び出しました。
 それは、庭師の二倍ほどある白兎でした。

 庭師は驚きのあまり声も出ませんでした。おかしなことに、その白兎は人間の服を着ており、人間
のように二本の足で立っていました。口の中いっぱいに何かをもぐもぐと頬張りながら、長い耳をぴ
んと立てて、声のした方向を探しているようでした。そして庭師の存在に気付き、ゆっくりと振り向
いてから吐き捨てるように言いました。

「…今日は何を企んでるのか知らないケド、無駄な努力はやめとくこったナ」

 庭師はポカンとして、その喋る白兎を見つめました。
 白兎は、白い毛皮の上に、上下が繋がった作業服のような服を着ており、背中に背負ったリュック
の中に、菜園から掘り起したと見られる、ニンジンのような野菜をぎゅうぎゅうと詰め込んでいまし
た。時折、その野菜を鼻に当て、ヒクヒクと匂いを嗅いで、気に入らないものは土の中に戻している
ようでした。「…あの、僕のこと知っているのですか?」庭師は恐る恐る、その白兎に尋ねました。

 すると、白兎は怪訝な顔をして「なんだ? またオイラをおちょくる気か? もうアッチへ行けっ
てんダ。また尻を蹴り上げられたいのカ?」と言って、ぷいっと庭師に背を向けました。

「…ええっと、どこかで会ったこと、ありましたっけ?」庭師はさらに尋ねました。
「でもごめんなさい、僕はぜんぜんあなたのこと覚えてないんです。それどころか、ここがどこなの
かも分からないんです。気付いたらここにいて、僕にそっくりな男に、訳の分からないことを一方的
に言われたまま、置き去りにされて困ってるんです。もし、何か知っていることがあるなら、教えて
もらえません?」

 それを聞いた白兎は、ケラケラと笑いながら言いました。
「こりは傑作ダ。そりゃ、新しい作戦か何かかい? なかなか面白いケド、その手にゃ乗らないヨ」

「本当なんです! 僕にそっくりな男がいたんです! あなた、その男と僕を間違えてませんか?」
 庭師は食い下がりました。けれど白兎は「ハイハイ分かった分かった」と言って、全然相手にして
くれません。「どうしたら信じてもらえるんですか!?」庭師は痺れを切らして、大きな声で聞きま
した。

 すると、白兎はしばらく考え込んでから、ニヤリと笑って「あそこの木になってる実を、大急ぎで
一個取ってきてくれたら、信じてやるヨ。」と言って、遠くの木を指差しました。「あれだ、アレ。
ホレ、走って取ってコイ!」庭師は言われるがまま、その木に向かって急いで走り出しました。

 ところが、あと少しでその木に辿り着くという所で、突然、何か目に見えない透明な幕に、ぼよん
と激突しました。その瞬間、バチバチッという物凄い音が、鼓膜に鳴り響き、全身に強烈な電流が駆
け抜け、目の前が真っ白になって、庭師は気を失ってしまいました。


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「オーい、生きてるかー? 死んでるかー?」
 庭師が意識を取り戻すと、目の前に白兎の顔がありました。

「……あいたたた。一体何がどうなってるの……」庭師は頭を抱えて、うめきました。
「おー、生きてたか。ったくムチャなやつダ、下手したら死んでるトコだゾ?」白兎が言いました。

「……あなたがやれって言ったんでしょう」庭師は全身が痛んで、体を起こすのがやっとでした。
「オマエさんが、オイラを騙そうと芝居してるんだと思って、試してみたんダヨ。でも、自分から結
界に突っ込むところを見ると、どうやらあながち嘘ついてる訳でもないらしいナ」
「良く分からないけど、最初っから僕は嘘なんてついてませんよ……」
「まあまあ、そう怒りなさんナ。とりあえずホレ、これ食ってみな。楽になるゾ」

 そう言って、白兎はさっき集めたニンジンらしきものを、庭師の口に押し込みました。変な匂いと
味がしましたが、我慢して飲み込むと、体中の痛みが、嘘のようにすうっと消えてゆくのが分かりま
した。それと同時に、頭がふわふわして、庭師は軽いめまいに襲われました。

「多少クラクラくるかもしれんが、毒じゃないから心配すんナ。麻薬成分たっぷりだから病みつきに
なるゾ、キヒヒッ」白兎は悪戯っぽく笑いながら、ゆっくりと話始めました。


「さて、こりは困ったことになったゾ。オマエさんはオイラの知ってるオマエさんじゃないらしい。
つまり別人ダ。となると、オマエさんは一体だりダ?って話になるが、困ったのは、そこじゃない。
問題は「オイラの知ってるオマエさんがここにいない」ってことダ。アイツがここにいないとなると
大騒ぎになる。こりは間違いない。そりゃもう街中が大騒ぎ間違いナシ。分かりル?」

「街中?」庭師は聞きました。

「そう街中。何だオマエさん街を知らんのか? 街ってのは、家とか店がたくさんある所でナ……」
「いやそうじゃなくて。ここに、街があるんですか?」庭師はもう一度、聞き直しました。

「ああ、モチロンあるとも。オイラそこに住んでるダ。そんな大都市って程じゃないケド、なかなか
良い街だゼ。ここからは、少しばかり離れてるケドな。でも、オイラ達が掘った『兎トンネル』を通
って行けば、あっと言う間サ」白兎が得意げな顔で言いました。

「……あの、じゃあ、そのトンネルで、僕を街まで連れて行ってくれませんか?」

「ダメダメ! オマエさんは囚人なんダ、そんなことしたらオイラが捕まっちまうヨ」
「いやだから、僕はその囚人じゃないんですってば。だから一緒に連れて行ってくれません?」

 庭師がそう頼むと、白兎は少し不安そうな顔になり「……オマエさん、本当にオイラを騙す気じゃな
いんだろネ?」と聞きました。庭師が「もちろん」と答えると、しばらく考え込んでから、腹を決めた
らしく「オーケーオーケー、連れてってやるヨ。どのみち、オイラはこのことを親分に報告しなきゃな
らんしナ。話だけじゃ信じてもらえそうにないし、本人がいた方がてっとり早い」と答えました。

「本当ですか! ありがとうございます!」庭師が深々と頭を下げると、白兎は照れくさそうにして
「ただし、その堅苦しい話し方はやめてくれヨ。オイラ肩が凝っちまうワ」と笑って言いました。



 ■ 1-3 兎トンネル  Rabbit Tunnel


 それから庭師は白兎に連れられ、不思議な庭の中を、右へ左へと蛇行しながら歩いてゆきました。
同じ場所を何度も通ったり、一度来た道を引き返したりするので、庭師は、もしかして白兎が迷って
いるのではないかと疑いましたが、白兎は鼻歌交じりで、自信満々といった様子でした。しばらくそ
んな調子で歩き続け、ある花壇の手前に来て、ようやく白兎が立ち止まって言いました。

「さあ着いたゾ。ここがオイラの知ってるオマエさんが、血眼になって探し続けてた『兎トンネル』
の入口だ。このビニールハウスから外に出る、唯一の抜け穴サ。兎しか知らない秘密の地下通路って
ワケ。分かりル?」

 そして、おもむろに地面からはみ出ている木の根っこを掴んで、レバーのように引き上げました。
すると、ガチャリという音とともに、地面の一部がせり上がって、足元にぽっかりと開いた穴が顔を
のぞかせました。庭師は、想像していたよりもずいぶん機械的なんだな、と思いましたが、白兎がと
ても得意げな顔をしていたので「すごい!」と、素直に驚くと、白兎は満足したようでした。

「やっぱりさっきの回り道も、このトンネルにたどり着くために必要な儀式か何かなのない?」と、
庭師が尋ねると「ん? 別にそんな儀式なんて必要ないケド?」と、白兎がそっけなく答えました。

「え? ……じゃあ何のために、あんなにぐるぐる歩いてきたわけ?」
「ん? ……ああ、アレ? あれは足跡をごまかすためダヨ」
「え? ……でも、ここには僕達以外に誰もいないんでしょ?」

「……そう言われりゃそうだったナ。まあ、ただの兎の習慣ってヤツだわ、細かいこと気にすんナ。
そんなことより、ほらサッサと中に入りな。開けたらすぐ閉める。こり、兎トンネルの鉄則ヨ」

 
 白兎に押されてトンネルに入ると、中は真っ暗でした。地底に潜ったせいか、庭師は急に嫌な寒気
を覚えました。まるで、何か得体の知らない何かが、背筋に張り付いているような感覚でした。足元
で、何か小さなものがササッと動いたような気がして、庭師がひとり、暗闇の中で硬直していると、
白兎が穴のフタを閉めながら降りてきました。そして「ウヒー、es(エス)が濃いなこりゃ」と言いながら、
壁面から突き出た木の根っこを、またレバーのようにガチャリと引き上げました。すると、ビーンと
いう機械音が響き、トンネル中に張り巡らされた電球に光が灯りました。トンネル内が明るくなると
同時に、嫌な寒気もすっと消えてゆきました。

「さあ、街はこっちだ、着いてきナ。はぐれたら迷子になって、esの奴隷になっちまうゾ。キヒヒ」

 白兎はそう言って、足早に歩き始めました。オレンジ色に光る電球で照らされたトンネルの内部は
いくつもの別れ道があり、とても案内無しでは進めないような、地下迷宮になっていました。庭師は
迷子にならないよう、白兎の後にぴったりと続きながら、いろいろ分からないことを質問しました。

「……その、さっきから言ってる『es』って何のことなの?」

「ん? ああ、esが何かって? そうね、esってのはだな。簡単に言えばつまり欲望のエネルギーの
ことヨ。食べたいとか、眠りたいとか、遊びたいとか、そうゆう欲求は全部、esが原動力。だから、
誰しも持ってるモンってこった。でも、esに支配されすぎると、欲望に忠実なただのケモノになっち
まうダロ? だから、反対の力として、理性ってモンがあるワケよ。そんで常に、esと理性が綱の引
っ張り合いで、勢力争いしてるんだケド、どっちも同じくらいの力関係だから、ちょうど良い具合に
バランス取れてるってワケさ。ここじゃ、明るいところが理性のある領域で、暗いところがesの領域
って決まってんダワ。だから、あんまり長いこと暗い場所にいると、esに取り込まれちまうのヨ」

「……取り込まれる? esに取り込まれると、どうなるの?」

「うーん、そうだな。欲望に逆らえなくなるって言ったら良いかナ? 理性の力が及ばなくなって、
暴力的になったり、怠け者になったり、とにかくesに操られちまうんダ。そうなるともう、esの奴隷
みたいなモンよ。esの支配を強める勢力争いの道具にされちまうんダ。自分では、操られてるなんて
感覚ないみたいだけどネ。ところが、ある時突然、そのesを逆に操る力を持ったヤツが現れたんダ。
それがオイラの知ってるオマエさんってワケ」

「僕にそっくりな、あの男? 彼は一体何者なの?」

「さあな。オイラも正直、アイツが何者なんだか、良く分からんワ。esを自在に操る不思議な能力を
使って、あんまり好き放題するもんだからヨ、街という街でお尋ね者になってたんだけど、アイツ、
いろんな姿かたちに変身できるから、誰も本当の姿を知らなくって、なかなか捕まえられなかったの
ヨ。でも最後には、どっかの街で、自己防衛プログラムにとっ捕まって、あのビニールハウスの中に
隔離されてたんダワ。本来なら、すぐ処分されるハズなのに、どうゆうわけか、プログラムはアイツ
を生かしときたかったみたいでサ。ご丁寧に、食料まで定期的に与えてたんだワ。そんで、オイラ達
兎が、その食料を運ぶ役ってワケ。アイツ性格は破綻してたけど、植物を育てる技はピカイチだった
から、オイラあの庭のニンジンが大好物でサ。ほれ、今日もこんなに仕入れてきちったヨ。でも内緒
だゼ? ばりたらクビになっちまう。あ、でもアイツがいなくなったとなりゃ、もう食料運ぶ必要も
ないから、オイラ失業か? まいったナ〜」

「……あと、その、プログラムって言うのも、何のことか良く分からないんだけど」

「プログラムってのは言わば、この世界の秩序を保つ「理性の番人」ヨ。世の中にはルールってモン
が必要ダロ? ルールがなければ世界は無秩序になっちまう。無秩序はesの領域ダ。だから、プログ
ラムはルール違反をする者を許さない。ルールを破ろうもんなら、アイツらがどこからともなく突然
現れて、有無を言わさず連行されちまうのヨ。プログラムに捕まったら、十中八九戻って来れない。
プログラムに捕まった連中がその後どうなったか、知りたいカ? それこそ知らぬがホトケってやつ
サ。知らない方が幸せなこともあるのヨ。それより、ホレ、着いたゾ着いた。今(ふた)を開けるからちょ
っとソコどいてナ」

 白兎はそう言って、また壁から突き出ている木の根っこをガチャリと引きました。
 すると、頭上で出口が開いて、外の光がトンネルの中に差し込みました。


 白兎の後に続いて、庭師が穴の中から地上に顔を出すと、そこは小高い岡の上でした。さっきまで
のジャングルのような場所と違い、視界を遮るものが少ないので、丘を囲む山々や、森や小川などが
よく見渡せました。庭師がふと後ろを振り返ってみると、岡の頂上には、透明なビニールの幕と鉄の
骨組みで出来た、大きな温室のような建物がそびえ建っていました。その中には、例の摩訶不思議な
庭園の植物達が、窮屈そうに収まっている様子がうっすら透けて見えていました。

 さっきまで、この中にいたってことか。庭師は、別人格の男が言っていたことを思い出しました。
これが夢じゃないのなら、あの男は、本当にこの中に閉じ込められたまま、七年間もたったひとりで
過ごしていたのか……。庭師は別人格のことを、少し気の毒に思いました。庭師自身も、男爵の大庭
園に囚われの身になっているようなものなので、ひとりぼっちの寂しさは、痛いほど分かりました。

「ホレほれ、いつまでもそんな所にいたら蓋が閉められないダロ? サッサとどいた、どいた」
 白兎が、ぼんやりしている庭師に向かって言いました。「オマエはプレリードッグか、っての」

 庭師が地上に上がると、さっきまでは見かけなかった蝶や蜂が、そこら中に飛び交っていました。
足元にも、たくさんの(あり)や昆虫がいるのが見えます。そして耳には遠くで鳴いている小鳥のさえずり
が聞こえてきました。いつも見慣れたものや、聞き慣れたものに出会えて、庭師が何だかホッとして
いると、白兎がトンネルの蓋を閉じながら、遠くを指差して言いました。

「ホレ、あそこに見えてるのが、春の庭園「クォーター・スプリングス」だヨ。オイラの街サ」

 白兎が指差す方角に目をやると、そこにはパステル色の花が咲く木々に囲まれた、可愛らしい街並
みが広がっていました。



 ■ 1-4 黒猫  Black Cat Lady


 街を目指して丘を下っていると、心地良い風が、庭師と白兎の間を吹き抜けました。
 あちらこちらで小鳥がさえずり、花の甘い香りがふんわりと漂ってきて、庭師は久しぶりに野原を
歩く気分を楽しみました。これが自分の脳味噌の中だなんて、とても信じられませんでしたが、隣に
ぺちゃくちゃとよく喋り、二足歩行する巨大な兎がいる以上、どうやら受け入れる他ないようでした
。しばらくして、白兎が急にお喋りを止め、大きな鼻をヒクヒクさせながら、立ち止まりました。

「……誰かに付けられてるナ」

 そうつぶやくと、白兎は後ろを振り返って「ダリだそこにいるのは!」と大きな声で叫びました。
庭師もあわてて振り返り、辺りを確認しましたが、特に何もそれらしき影は見当たりませんでした。
「そこにいるのは分かってンだ! 姿を見せろイ!」白兎がまた怒鳴りました。

「……分かった、今出て行くわ」と、どこからか声がしました。
 そして、木の上から黒い人影が、するすると幹を伝って降りて来ました。

 それは全身黒い服に身を包んだ若い女でした。服と言っても、足元から頭にかぶったフードまで、
全部繋がっているタイツのような、何とも奇妙な服でした。おまけに、フードには三角に尖った耳が
ふたつ付いており、お尻からは、黒くて長い尻尾のようなものが、ぶらりと垂れ下がっていました。
そして肩の上には、小さな二十日鼠(はつかねずみ)が一匹、ちょこんと乗っていました。

「黒猫か……」兎がぼそりと言いました。庭師は「いや、人間でしょ」と言いかけましたが、この世
界では動物か人間かの区別なんて特にないのかな? と思い直して口にするのは止めておきました。

「別に、尾行してたわけじゃないんだけど」その人間のような黒猫が言いました。

「ヘッ、嬢ちゃんジプシーだろ? 残念ながら金目のモンはないゼ」白兎が言いました。
「たまたま、同じ方角に向かってただけよ」黒猫は少しムッとした様子で言いました。

「だったら先に行っとくレ。オイラ尻は見るのは好きでも、見られるのは苦手でネ」
「下品な兎ね。私だって、後ろからお尻をじろじろ眺められるのは、ごめんだわ」

 よく見ると、その黒猫の顔があの男爵の娘にそっくりなことに庭師は気が付きました。

「……あ、あの。それなら、みんなで横に並んで歩いたらどうかな?」庭師は言いました。
「おいおい、ジプシーなんかと一緒に行動したら、何を盗まれるか分かんないゾ」
 白兎がいかにも嫌そうな顔をしながら言いました。

「失礼ね。ジプシーは貧しい人達から奪ったりなんかしないわ。特にあなた達みたいな、みすぼらし
い人達からはね!」黒猫はそう言って、庭師と白兎から少し離れた所を横に並んで歩き始めました。
 
「よお嬢ちゃん。並んで歩くのは良いケド、俺の大事な荷物に触れたら、承知しないからナ」
 白兎はそう言って、ニンジンがぎっしり詰まったリュックを胸の前に抱えて歩き出しました。
「そんなものばかり食べてるから、ろれつが回らないのよ」黒猫はつんとして言い返しました。
「まあまあ、ふたりとも……」庭師はいがみ合う兎と猫に挟まれながら、歩き出しました。


「……ええっと、そう言えば、まだちゃんと自己紹介してなかったね」
 気まずい空気を払拭するため、庭師は白兎に話かけました。
「僕の名前はブレーン。『ブレーン・ガーデン』って言うんだ。君は?」

「ブレーン? 変テコりんな名前だナ」白兎は笑って言いました。
「オイラは『ベニート・ビアンコニーリィオ』って言うんだけど、ベニーで良いヨ」

「君の名前は何て言うの?」庭師は黒猫にも聞きました。
「あなた達に名乗る必要あるかしら?」黒猫は真っすぐ前を向いたまま、答えました。
「チッ、可愛くねえ子猫ちゃんだナ」白兎が吐き捨てるように言いました。
「まあまあ、お互いそう、いがみ合わずにさ……」庭師はなだめるように言いました。

 黒猫は名乗るべきかどうか少し悩んでいたようでしたが、しばらくして「……私はミア。『ミア・
ルイス・ガートネグロ』よ」と答えました。「ふたりとも、良い名前だね」庭師がそう言うと、黒猫
の肩に乗った二十日鼠が、チチチッと鳴きました。

「その鼠は? 名前はあるの?」
 庭師が、肩の上の二十日鼠を指差して尋ねると、黒猫は首を振り、手でそっと二十日鼠の背中を撫
でながら「この子は、まだ拾ったばかりだから、名前はまだ付けてないの」と言いました。

「嬢ちゃん、もしかして、ソイツを食べるのかイ?」白兎が意地悪っぽく聞きました。
「食べないわよ。ペットにするの。名前はそうね『ウィスパー』って呼ぶことにするわ。耳元でいろ
いろささやいてくれるから。……それよりあなたの名前『ブーレン・ガーデン』って、どこかで聞い
たことがあるわね。……ええっと、そう。確か、ホストと同じ名前じゃなかったかしら?」

「ホスト? ホストって?」庭師は聞き返しました。

「ホストはホストよ。この世界の持ち主。その名前が『ブレーン・ガーデン』なのよ」
「キヒヒッ、嬢ちゃんやめてくれよ。コイツがホストだって言うのかイ? 冗談キツいゼ」 
「別に冗談は言ってないわ、確認したいだけ。あなたどこから来たの?」黒猫が庭師に聞きました。

「えっと、目が覚めたら変な庭の中にいて、それから僕にそっくりな男がいて……」
 庭師はこれまでの経緯と、別人格と名乗る男に言われたことなど、すべてをふたりに話しました。

「オ、オマエさん、そんなこと言ってなかったじゃないか!」白兎があたふたしながら言いました。
「だって聞かれなかったし、ベニーが自分の話ばっかしてたし」庭師もあたふたして言いました。

「あなた、そんなことも確認しないで、彼をここまで連れ出して来てるの? 信じられない!」
「う、うるさいな、一応アイツじゃないか確認はしたゾ! でもまさか、ホストだとは思わなんダ」
「よく考えれば分かることでしょ? まったく何やってるのよ!」

「……あの、僕がホストだと、何か不味いの?」ふたりの口論に、庭師は恐る恐る口を挟みました。

「あのね、あなたのお友達のジャンキーさんは、あなたが何者なのか良く分かってないまま、あなた
をこんな所まで連れ出して来てるみたいだけど、本来あなたは、こんな所にいてはいけない人なの。
なぜなら、ホストだから。ホストの人格が、もしも、うっかり足を滑らせて、丘を転げ落ちて死んで
しまったら、この世界は終わっちゃうのよ? つまり、みんな死んじゃうの! 街に住む人々も、空
を舞う小鳥も、花も、木も、全部!」黒猫は、まくしたてるように言いました。

「ええっと、じゃあ、うっかり死なないように気を付ければ、良いかな?」庭師は聞きました。

「……たぶんそれだけじゃ済まないわ。この世界にはね、esの支配が強まることを望む悪い奴らが、
たくさんいるの。今のあなたの話が本当だとすると、別人格がホストの座を狙ってることが、奴らに
知れた途端、きっとあなたを襲ってくるわ。奴らは、あなたよりも、別人格の方にホスト役を務めて
もらった方が、esの支配が強まることを知っているから。別人格が新しいホストになれば、理性の力
が弱まって、この世界はesに支配された、欲望の世界に変わってしまうでしょうね……」

「つ、つまり僕の正体がバレたら、大変なことになっちゃうんだね?」
「そうよ。もう誰にもその名前を言わない方が良いわ」
「特にジプシー連中に知られるのは、マズいよナ!」白兎が憎まれ口を挟みました。
「……ええ、そうよ。ジプシー達の中には、esの支持者が多いわ」


「おいおい、さっきから聞いてりゃ、何がジプシーに知れるとマズいって?」
 唐突に、誰かの声が前方から響きました。

 三人が驚いて顔を上げると、前方の木陰から、複数の人影がぞろぞろと姿を現し始めました。



 ■ 1-5 ジプシーの馬車  Gypsy's Caravan


 話に熱中していて気付かなかったのか、辺りを見回すと、いつの間にか四方八方を、たくさんの怪
しげな人影に囲まれてしまっているようでした。その人影の後ろからは、家のような奇妙な形をした
馬車が、ガタガタと車輪をきしませながら、ゆっくりと近づいて来ていました。あっと言う間に周囲
を包囲されてしまった三人が、逃げ場をなくして、ただ身構えることしかできないでいると、人影の
ひとりが馬車から降りて来て、黒猫に向かって言いました。

「よおミア。今日のカモは、珍しくずいぶん不格好な出で立ちだな」

 それは、小綺麗でクラシカルな服を身にまとった、野狐(のぎつね)でした。
 その野狐は、服装や体形こそ、まさに人間そのものでしたが、頭だけを狐の首とそっくり交換した
ような風貌で、いかにも意地の悪そうな狐の目玉が、品定めでもするように三人をじっとり見つめて
いました。その他の人影も、同じように小綺麗な服装をしていましたが、頭はイタチだったり、狸だ
ったり、と実に様々でした。たち振る舞い方からして、この集団のリーダーと思われるその野狐が、
手袋をはめた手でステッキを突きながら、鼻歌混じりで三人に近づいて来て言いました。

「それで、そこの兎さん。何か俺達に知れたらマズいことが、あるのかい?」

「ああ、あるともサ。ジプシーに教えたくないことなら、たんまりとナ。それこそ、オイラが白兎だ
ってことも、ジプシーだけにゃ、知られたかないネ」白兎は挑戦的な態度で、言い返しました。
「くっくっく。言ってくれるじゃねえか」野狐が裂けた真っ赤な口を広げながら笑いました。

「それに、そこのお兄ちゃん。この辺りじゃ見かけない面だな。どっから来たんだい?」
「だからー、ジプシーなんかに何ひとつ教えたくないって言ってるダロ? 言ってる意味分かりル?」
 白兎が庭師をかばうように、一歩前に出て言いました。

「くっくっく。兎のくせに、ずいぶんと肝が座ってるじゃねえか。でも、状況が分かってないのは、
お前らの方じゃないか? 質問に答えないなら、お前の皮をひっくり返して、丸焼きにしてやっても
良いんだぜ? そろそろ小腹も空いてきた頃だしな。おーい、てめえら! ちょっとここらでバーベ
キューでもしていくかー?」野狐が後ろの手下達に向かってそう言うと、ジプシー達が一斉に野蛮な
声でそれに答えました。その声の恐ろしさに、庭師は思わず身震いしました。


「もうそのへんにしときなさいよ、クリストフ」黒猫がふたりの間に割って入りました。
「この人達はカモじゃないわ。客人よ。セニョーラ・アグスティナのね」黒猫が言いました。

「アグスティナの客だあ?」野狐はいぶかしげな顔になって、黒猫をにらみつけました。
「そうよ、今からセニョーラに会わせに行くところなの。あなたその馬車で送ってもらえる?」
 黒猫は毅然とした態度でそう言って、馬車を指差しました。

「冗談じゃねえ。俺達、今そっちから出てきたばっかなんだ」野狐は吐き捨てるように言いました。
「あらそう? じゃあセニョーラに、あなたがそう言って客人を粗末に扱ったって伝えておくわね」
 黒猫はそう言ってから「さ、歩きましょ」と庭師と白兎を連れてその場を立ち去ろうとしました。

「待てよミア。本当にアグスティなの客人なのか? 証拠は?」狐が言いました。
「証拠? 何であなたに証拠を見せなきゃいけないのよ? あなた、セニョーラの客人を疑うの? 
それこそ、セニョーラに報告しなくちゃならないわね」黒猫が振り返って言いました。

「……チッ、分かった。乗せてってやるよ。おい、てめえら! 客人を馬車に案内しろ!」
 野狐は黒猫との駆け引きに折れたらしく、部下達に三人を馬車に乗せるよう、命じました。

「おいおい、その薄汚い鼠も乗せる気か? 少しでも中を汚しやがったら、承知しねえぞ!」
 野狐が悔し紛れに罵声を浴びせてきましたが、黒猫はそれを無視して、馬車に乗り込みました。
 その肩の上で二十日鼠のウィスパーが、野狐をバカにしたように、チチチッと鳴きました。

「ありがとう、狐クン。ついでに喉が渇いたから、お茶もよろしく頼むヨ」
 白兎が野狐とすれ違いざまに気取った声で言いましたが、野狐は聞こえなかったふりをしました。


 馬車は近くで見れば見るほど奇妙な構造をしていました。小さな木材の塊を、適当にたくさん寄せ
集め、大きなひと塊にしているらしく、それぞれ別々の方向に動こうとする木材を、無理やりロープ
でぐるぐるに縛り上げてありました。それでも、要所要所で歯車が噛み合い、うまい具合に連動する
仕組みになっているようで、庭師達が近づくと、ギリギリギリと音を立てながら、入口の扉が自動的
に開きました。

 馬車の中は、民族的な模様のじゅうたんや、毛布が敷かれており、まるで居間のような落ち着いた
雰囲気の空間になっていました。乗り込むと、部屋中に染み付いた葉巻の匂いが、鼻をつーんと刺激
しましたが、中央に置かれた大きなソファに、三人でどっかり座り込んでいるうち、匂いもだんだん
気にならなくなりました。ウィスパーだけが、いつまでもそわそわしながら、ロッキングチェアーの
上で落ち着かない様子でした。

「デ、どうするんだよ嬢ちゃん? オイラ達は街に行くつもりだったんだゼ?」白兎が言いました。
「行けるわよ。でも、アグスティナに会ってからね」黒猫は淡々と答えました。
「……そのアグ、スティナ? って一体誰なの? 会う理由は?」庭師は聞きました。

「セニョーラ・アグスティナは、この近くの森に住んでる魔女よ。私達ジプシーは彼女と契約して、
この地域の縄張りを確保させてもらっているの。彼女には、未来を見通せる不思議な力があるから、
会いに行けば、あなたがこれからどうすれば良いか、きっと何か助言してくれるわ。何も分からない
まま街に行って、質問攻めにされるより、その方が良いでしょう?」黒猫が落ち着かない二十日鼠の
背中を優しくなでながら答えました。 

「……確かにその方が、良いかもしれないね」庭師はうなずきました。
「でもよオ、嬢ちゃん。魔女なんて、本当に信用できんのカ? ジプシーの元締めしてるようなやつ
なんだろ? オイラいきなり切り刻まれて、シチューにされるのだけは絶対に嫌だゼ?」白兎が疑り
深く言いました。

「大丈夫よ。アグスティナはesに毒されてないから、悪いことはしないわ。だからと言って、確かに
良い魔女ってわけでもないけどね。彼女は中立なの。光の味方でもないし、影の側でもない。だから
こそ、一番信用できるのよ。光と影の勢力争いとは、無縁な立場だから。」黒猫はふたりを諭すよう
に言いました。

「オッケーオッケー。じゃ、とりあえず大人しく付いて行くヨ。今更ごちゃごちゃ言っても、どうし
ようもなさそうだしナ。……ところでよオ、さっきから何か臭わねえか?」
 白兎が鼻をヒクヒクさせて言いました。

「あ! もうウィスパーったら!」
 黒猫がそう叫んで二十日鼠を持ち上げると、ロッキングチェアーの肘掛けの部分にべっとりと糞尿
が付いていました。粗相がバレた二十日鼠は、恥ずかしそうに小さくチチチッと鳴きました。



 ■ 1-6 木漏れ日(こもれび)の森  Dark Forest of Shining Spots


 馬車が薄暗い森の入口に差し掛かったところで、ガタンと音を立てて停車しました。
「着いたぞ! さっさと降りてくれ! こっちも暇じゃないんでね!」
 馬車の外で野狐が不機嫌そうに怒鳴りました。

 馬車を降りると、そこは頭上がすべて木で覆われた、森の入口でした。木漏れ日が地面全体に、た
くさんの水玉模様を写し出しており、奥へ行けば行くほど、その数が減って暗くなっているようでし
た。庭師はふいに、さっきトンネルの中に降りた時と同じ寒気を、背中にうっすら感じました。これ
がesというものなのかな? そう考えながら白兎の顔を見上げると、それを察したのか、白兎は庭師
に向かって黙って頷きました。

 すると、狸の顔をしたジプシーのひとりが、ひょこひょこと三人の横に歩み寄ってきて、ぴんと背
筋を正してから、いきなり大きな声で喋り始めました。

「おっほん! 我らの友、セニョーラ・アグスティナは、ここから真っすぐ258歩、左に92歩、
また真っすぐ118歩、それから右に77歩行った所に、いらっしゃるっ! 一歩でも間違えれば、
命の保証はできないが、それでも構わぬと誓うならば、汝に通行の許可を与えんっ! 汝ここにその
誓いを立てるか?」そこまで言い終えると、今度は急に黙って、三人の顔を覗き込みました。

「いちいち、それ言わなくても、私は分かるんだけど」黒猫が呆れた表情で狸に言いました。
「そうはいかねえ。今週は俺が当番だから、俺の責任になっちまう」狸男(たぬきおとこ)が言いました。
「はいはい、誓います誓います。これで良い?」黒猫は面倒くさそうに誓いました。

「して、汝らは?」狸男が庭師と白兎を睨みながら尋ねました。
「あ、はい。じゃあ誓います」庭師も黒猫にならって誓いました。
「オイラのお袋さんに懸けて、誓いまース」白兎はふざけ半分で誓いました。

「それでは! この誓いをもって、通行を許可する!」
 狸男が役割を終えて横に引っ込むと、今度は野狐が三人に歩み寄って言いました。
「おいミア、何を企んでるのか知らんが、俺の鼻を誤摩化そうったって、そうはいかねえからな」

「そうかしら?」黒猫は真っすぐ前を見つめたままそう答えてから、森へ向かって歩き始めました。
 庭師と白兎もそれに続いて、木漏れ日が照らす薄暗い地面を一歩一歩踏みしめながら進んでゆきま
した。森の中は全体的に空気がひんやりとしており、木漏れ日に照らされた肌の部分だけが、じんわ
りと暖かく感じられました。場所によって木漏れ日が少なくなっている所を歩くと、不安と恐怖心が
強くなり、木漏れ日をたくさん浴びる所を通過すると、なぜだかとても安心しました。


 野狐はその三人の後ろ姿をしばらくじっと睨んだまま、その場を動こうとしませんでした。
「……なあ、そろそろ行こうぜクリストフ」狸男がしびれを切らして野狐にそう言いましたが、野狐は
無反応でした。「なあ、ずっとここにいても一銭にもならないぜ」狸男がもう一度声を掛けました。

「……どうもおかしいぞ」野狐がようやく口を開きました。

「ミアと一緒にいたあの坊や、どっかで嗅いだことのある匂いだった。つまり、俺と少なくとも一回
は会ってるはずだ。なのに、あの野郎の顔を見るのは、初めてだった。……どうも辻褄が合わねえ」
 野狐はそんなことをぶつぶつ言いながら、馬車に乗り込みました。

「……するってぇと、結局のところ、何がどうだってんだい?」狸男が野狐に聞きました。
「あいつらが、何か重大なことを隠してるってことだ!」野狐はイライラして狸男に怒鳴りました。

「今日アグスティナに客が来るなんて聞いてたか? 俺は聞いてねえぞ! 聞いてねえってことは、
つまりアイツらは客なんかじゃねえってことだ! 客人でもないやつをいきなりアグスティナに会わ
せに行ったら、普通は大目玉だ。いくらミアがバカな小娘だとしても、それくらいのこたぁ分かって
るはずだ。それでも、あの坊やをアグスティナに会わせるってことは、それだけ重大な何かがあるっ
てことだ。こいつは臭え! 絶対に何か臭えっ!」

 野狐はそう言って、自分の名前の彫られたロッキングチェアーに腰掛けながら、肘掛けをドンッと
拳で叩きました。


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 森の中を真っすぐ進んで、ちょうど200歩目くらいの辺りに辿り着いた時、黒猫が後ろを振り返
って、庭師と白兎に向かって言いました。「さてと、そろそろ左に行くわよ」
「え? まだあと50歩くらい真っすぐ行かないといけないんじゃない?」庭師は聞きました。
「あの数は歩数じゃなくて、木漏れ日の数を示してるのよ」黒猫は答えました。

「木漏れ日の上を一歩ずつ踏んで進むのが、ルールなの。そしてこの辺が、木漏れ日の数で数えて、
ちょうど258歩目よ。だから、ここから左に向かって木漏れ日の上を踏みながら92歩進むのよ。
でも気をつけて、そろそろ木漏れ日の数も減ってきて、esもだいぶ濃くなっているから、ここからは
なるべく踏み外さないようにね!」黒猫はそう言って、木漏れ日の上をぴょんぴょんと跳ねるように
して進み始めました。

「まったく、何でオイラまで、こんなことしなきゃならないんだヨ」白兎がやれやれといった表情で
庭師の顔を見ながら言いました。「ごめん、僕のせいで付き合わせちゃって」庭師は謝りました。
「まっ、何だかっ、面白そうだからっ、別にっ、良いけどヨっ」白兎も木漏れ日の上をぴょんぴょん
跳ねながら進み始めました。庭師も二人と同じように、木漏れ日を跳ねながら後を追いました。


 そんな調子で、左に92歩進み終え、また真っすぐに向きを変える場所に来ました。
 しかし、だいぶ森の奥に来たせいで、木漏れ日の数も減り、その間隔も大きくなっていました。

「ねえっ、もし木漏れ日をっ、踏み外しちゃったらっ、どうなるの?」
 庭師は木漏れ日から木漏れ日まで、一歩一歩、慎重に跳びながら、二人に尋ねました。
「esにっ、取り込まれっ、ちまうんダロッ、なあ嬢ちゃん?」白兎が答えました。
「そうよっ、だから、気をつけてねっ」黒猫も飛び跳ねながら答えました。

「それにしてモッ、何だって、嬢ちゃんはっ、ここまで、ブレーンのっ、世話をっ、焼くんダイ?」

「私は、esが嫌いなのっ、母親をesに、殺されているからっ、だからesの力が増すような事態はっ、
絶対に阻止したいの、だから協力してるのよ、あなた達だけじゃっ、ぜんぜんっ、頼りないしねっ、
それにウィスパーがっ、あなた達の力になってやれって、言ったのよっ、ウィスパーの言葉にはっ、
不思議な力があって、何だか私もっ、そうするべきだって、思ったのよっ」

「ヘッ、そりゃ大したっ、鼠だナッ、おもらし、したけどヨッ」
「みんなっ、なんかっ、僕のっ、せいでっ、ごめんね!」

 次の瞬間、庭師は着地に失敗し、木漏れ日を踏み外して地面にごろごろと転がってしまいました。
その途端、闇の中からうぞうぞとひしめく虫の群れのようなものが、庭師めがけて飛び掛かって来ま
した。その黒い群れに体を覆われるまで、あとほんの数センチというところを、間一髪で白兎が庭師
の腕を掴んで、木漏れ日の中に引き戻しました。微生物が集合したようなその黒い群れは、木漏れ日
に触れると無数の小さい悲鳴のような音を立て、蜘蛛(くも)の子を散らすように一気に分散して、また闇の
中に消えてゆきました。

 あまりの一瞬の出来事に、庭師は自分の目を疑いましたが、白兎と黒猫の表情を見て、それが見間
違いではなかったことを認識しました。「今のがesなのかい?」庭師はカラカラに乾いた声で言いま
した。「そうダ」白兎は答えました。「esがあんなに団結して襲ってくるなんて、オイラも初めて見
たヨ。普通もっとバラバラな動きしてるのに。やっぱりオマエさん、特別なんだナ。」白兎が珍しく
深刻な顔をして、ぼそりと言いました。それから三人は、より慎重に数少ない木漏れ日と木漏れ日の
間をジャンプしながら進んでゆき、ようやく最後の一歩となる場所まで辿り着きました。

「デ、その偉大なる魔女さんとやらは、どこにいるんだイ?」白兎が黒猫に尋ねました。

「あそこよ」黒猫がそう言いながら、頭上の木の枝を指差しました。
 木漏れ日の逆光がキラキラ目に飛び込んできて、初めはよく見えませんでしたが、そこには木の上
に建てられた大きな小屋がありました。小屋の上半分は、木の葉の上に飛び出ており、三人の位置か
ら見えるのは、下半分だけでした。それでも小屋の中から、何か料理をしている美味しそうな匂いが
、地上までかすかに漂っていました。

「さあ登りましょう。魔女に会うわよ」黒猫が言いました。



 ■ 1-7 森の魔女  The Witch lives in the Forest


 木の幹を伝って小屋の入り口まで登り、扉をノックしようとすると、中から「おはいり!」という
女の声がしました。三人がそっと扉を開いて小屋の中へ入ると、煮込んだ豆の良い香りが、ふわっと
全身を包み込みました。部屋の中は全体的に薄暗い感じでしたが、複数ある天窓から、光がスポット
ライトのように差し込んでおり、テーブルや、椅子だけを明るく照らしていました。

「適当に座って待ってておくれ! 今、料理を持っていくから!」
 部屋の奥の方から、また女の声が飛んできました。
 
 三人はそれぞれ、光の当たっている椅子を選んで座りました。小屋の天井部分は、完全に木の上に
突き出ているようで、天窓から外の光を遮るものが何もなく、椅子に座っていると眩しすぎるくらい
でした。降り注ぐ光があまりにもまばゆいせいで、逆に暗い部分の様子が、まったくと言って良いほ
ど見えなくなってしまいました。やがて、ゴツゴツと奥から誰かが近づいて来る足音が聞こえてきま
した。

「さあ、お待ちどうさま。アグスティナ特製のファバーダだよ」

 予想よりすぐ近くの耳元で声がしたかと思うと、光の中にぬっと料理を持った手が現れて、料理を
テーブルに置き、またすっと闇の中に消えてゆきました。見えたのはほんの一瞬でしたが、その手は
紛れもなく、獣の手でした。その獣の手の主は、白兎と黒猫の席にも同じように料理を配ってから、
自分は光の当たっていない椅子に座りました。

「冷めないうちに召し上がれ。遠慮は要らないよ、腹ぺこなんだろう? ああん?」

 庭師は声の方に目を凝らすのを諦めて、テーブルに差し出された料理に目を落としました。煮込ん
だ豆の中にソーセージや肉が入っており、実に美味しそうな匂いが立ちこめていました。皿の横に添
えられたスプーンで、ひとさじすくって口に運ぶと、何とも懐かしく、暖かい味がしました。庭師は
自分の中にかすかに残っている母親の記憶が蘇ったような気がしました。

 顔を上げると、白兎も黒猫も空腹だったらしく、一心不乱に料理を食べています。二十日鼠のウィ
スパーも黒猫の皿に、一生懸命小さな口を突っ込んでいました。庭師も思わず一気に料理を胃袋の中
にかき込みました。そして、あっと言う間に三人とも皿の中身をすべて平らげました。こんなに満腹
になるまで食べたのは何年ぶりだろう、と庭師は思いました。

「ごちそうさまでした」庭師は言いました。「とっても美味しかったです」

「そうかいそうかい、腹はちゃんと膨れたかい? ああん? それは何より何より。腹が減ってちゃ
、戦は出来ないからねえ。さてさて、それじゃあ本題に入るとしようか。おっとそうそう、その前に
ミアや。次にまた突然客を連れてくる時は、もっと早めに決断しとくれ。アタシだってそう毎日毎日
その日に起こることを占ってばかりもいられないんだからね。ああん?」声が黒猫に言いました。

「ごめんなさいセニョーラ。クリストフ達に囲まれて、とっさにそう言ってしまったの」
「まあ良い、その判断は正しかったようだね。でもそのせいで、お前はもう巻き込まれちまったよ。
今ここでこのふたりに別れを告げて、元いたところへ帰れば、まだ間に合うかもしれないけれど、
どうするんだい? それとも、この二人と運命を共にする覚悟はあるのかい? ああん?」

「……えっと、もしかしてそのふたりってのに、オイラ入ってるワケ?」白兎が口を挟みました。

「もちろんだともさ。お前がその坊やを連れ出した時から、お前の運命は決まっちまってるんだよ。
それはもう、変えられないね。でもミア、お前の分かれ道は今なんだ。さあどうする? ああん?」
 黒猫はしばらく考えていました。肩の上で二十日鼠だけが、チチチッと声に反応していました。
そして意を決したように「覚悟はあるわ。どうせ帰る場所なんて、ないのだから」と答えました。

「よかろう。では話を進めるとしよう。さて、じゃあお前の手を見せてもらおうか。さあ、両手をこ
っちに差し出しておくれ」声が庭師に向かって言いました。「大丈夫、穫って食いやしないから」庭
師は椅子に腰掛けたまま、言われた通りに両手を前に差し出しました。闇の中から、またさっきの獣
の手がぬっと光の中に現れ、庭師の両手首をぐっと掴みました。

「どれどれ、ふんふん、ほーそうかいそうかい。」声が近づき、暗がりの中にうっすら顔が見えまし
た。垂れ下がった金色の長い髪の隙間から、ギラギラと緑色に光る獣の目が、庭師の手をじっと見つ
めていました。


 しばらくそのままの状態で、沈黙が続きました。

「それで、あたしに何か聞きたいことがあるのだろう? ああん?」声が言いました。
「あ、はい。……ええっと、僕はどうすれば元の世界に戻れますか?」庭師は聞きました。

「そうだねえ『お前がお前らしいことをすれば良い』と出ているね」声は答えました。
「ぼ、僕らしいことですか……」自分らしいことって何だろう、と庭師は悩みました。
「それより問題は『それをいつまでにするか』の方が重要みたいだね」声は言いました。

「……ひょっとして、五時までに、ですか?」庭師は別人格の言葉を思い出して尋ねました。
「そうだ。『それを過ぎちまうと永遠に帰れない』と出ているよ」声は答えました。

「そうですか。でもそうしたら、既に何時間か経っているような気がするし、もうあと数時間も残っ
てないんじゃないんでしょうか?」庭師は失望に包まれた声で尋ねました。

「いいや、そうでもないよ」声が答えました。
「お前の世界と、こっちの世界じゃ、流れる時間の速度が違うんだ。お前の世界よりも、こっちの世
界の時の方が、ずっとゆっくり流れてるからね。だから実際、お前が思っているほど、時間は経っち
ゃいないのさ。だけどまあ、空から聞こえる鐘の音が五つ鳴ったら、時間切れってことには変わりな
いね。それまでにコトを成さなきゃ、もうひとりのお前の勝ちだ。つまりはesの勝ちだ」

「それは絶対に止めなくちゃ!」黒猫が立ち上がって言いました。
「それより、逃げたアイツをもう一回捕まえれば良いんじゃないノ?」白兎が口を挟みました。

「それだけじゃ、お前の体は魂が戻らずに腑抜けとなって、やがて死ぬだろう。そしたらこの世界も
消滅だ。そんなこと誰も望んじゃいないだろう? ああん? とにかく、時間内にどちらか一方が、
体をコントロールする権限を持つ必要があるようだね。時間制限付きの椅子取りゲームみたいなもん
だよ。お前がその椅子を先に取れば、すべては元通り。逃げた男が椅子を取れば、この世界はesのも
の。どっちも椅子を取れずに時間が来たら、すべてお終い。分かり易いだろう? ああん?」


「……こりゃー、トンデモない話じゃないか」白兎が、白い顔をますます白くしながら言いました。
「えっと、あの、その椅子は一体、どこにあるんですか?」庭師は力なく尋ねました。

「そうだねえ『意識の宿る場所』とだけ出ている。具体的には、アタシにも分からないね。その答え
が知りたければ、もっと専門的な知識のあるやつを探して、尋ねるといい。脳科学に精通した奴だ。
この広い脳内で、意識を司る場所がどこなのか、それが分かれば、それがお前が行くべき場所ってこ
とだよ」声はそう言って、庭師の手を離しました。

「占えたのはそこまでだ、さあそろそろもうお帰り。次の客が来る時間だ。街に行くなら、バルコニ
ーに簡易式の気球があるから、それをお使い。下の道を戻るより、ずっと早く街へ辿り着けるよ。使
い方くらい、自分達で分かるだろう? ああん? それじゃ、アタシは片付けがあるからね、これで
失礼させてもらうよ」

 そう言って、声の主は空になった皿を持って、部屋の奥へと消えてゆきました。三人は立ち上がる
と、奥の部屋に向かって礼を言ってから、バルコニーへ向かいました。空腹が満たされたせいか、や
るべきことが多少は明確になったせいか、庭師は少し元気が出てきた気がしました。



 ■ 1-8 気球に乗って  Ride in a Balloon


 バルコニーに出ると、どこまでも広がる白い空が、三人を出迎えてくれました。眼下には、森の木
々が大海原のように、ざわざわと風に揺られてひしめいています。そして、その森のすぐ向こうに、
岡の上から見た可愛らしい街が顔を覗かせていました。ふう、柄の悪い連中に囲まれて、一時はどう
なるかと思ったけど、これで何とかまた街へと向かうことが出来そうだ、ああ良かった。薄暗い森の
中から、明るい日差しの元に戻れた安心感で、庭師は胸をなで下ろしました。

「ところで、その簡易式の気球っていうのは、一体どこにあるのかしら?」黒猫が言いました。
「こりが、そうじゃねえか?」白兎がバルコニーの一角に『緊急脱出用・簡易式気球』と書かれた、
大きな箱が設置されているを発見し、スイッチらしきボタンを指で押しました。

 すると突然、箱がガタガタと揺れ出したかと思うと、フタが開いて中から布が勢い良く飛び出し、
ゴウッという発火音とともに、一気にそれが丸く広がって、みるみるうちに気球の形になってゆきま
した。三人が驚いてポカンとそれを眺めていると、最後には、人が乗り込むカゴの部分まで、箱から
飛び出し、上空へと舞い上がってゆきました。

「アララらっ? 飛んでっちまうゾ!」白兎がそう叫んで、あわててカゴに掴まりました。
「早く乗るのよ! 急いで!」黒猫がカゴに掴まる白兎を踏み台にして、気球に飛び乗りました。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」庭師も急いで駆け寄りましたが、気球は既に白兎をぶら下げたまま、
バルコニーから空高く離陸し始めたところでした。「あなたが乗らなくてどうするの!」黒猫がそう
叫びながら、カゴの中からロープをバルコニーに向かって投げつけました。「早く掴んで!」

 庭師は何とかギリギリそのロープを掴み取り、宙ぶらりんになりながら必死で食らい付きました。
気球は庭師をぶら下げたまま、バルコニーを離れ、ざわざわと風に揺られてざわめく森の上を飛んで
ゆきました。

「絶対に離しちゃダメよ! 落ちたら、esに取り込まれるわよ!」黒猫が叫びました。
「落ちたらesに取り込まれる前に、首の骨折って死ぬだろうから、その心配はないと思うよっ!」
 庭師はヤケになって叫びました。その後、カゴにしがみ付いていた白兎がようやくカゴの中に転が
り込んで、黒猫と一緒にロープを力一杯たぐり寄せ、何とか無事に庭師をカゴの中まで、引き入れる
ことができました。

 それから三人で息を切らせながら、お互い顔を見合わせ、思わずみんな一斉に笑いました。
「ったく、良い食後の運動だったナ」白兎が丸いお腹をポンポンと叩きながら言いました。


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 窓の外で、気球が無事に空へ飛び立ってゆくのを確認した魔女は、洗い物を済ますと、また部屋の
中央に戻り、陽の当たらない自分の席に、ゆっくりと腰掛けました。そしてテーブルの上に置かれた
キャンドルに火を付け、ワインをグラスに注ぎ、ひと口飲んでから、扉の向こう側に向かって大きな
声で叫びました。

「いつまでも盗み聞きしていないで、さっさと入ってきたらどうなんだい! ああん?」

 しばらくして扉がゆっくりと開き、片方だけ手袋をはめた手で、ステッキをこつこつと付きなが
ら野狐が部屋の中に入ってきました。「……さすが、魔女は何でもお見通しってわけか」

「お前の考えることなんて、占うまでもなく、全部お見通しさクリストフ、ああん?」テーブルの上
のキャンドルの火に照らされ、金色の長い髪の隙間から、爛々と光る大きな緑色の目をした、山猫の
顔が浮かび上がりました。

「へっ、そうかい。じゃあ、これから自分の身に起こることも、分かった上なんだな?」
 野狐は、耳元まで裂けた真っ赤な口でニタリと笑いながら、魔女に言いました。

「そんなことは、お前に初めて出会った時から気付いていたさ、予想より遅かったくらいだよ」
「くっくっく、そいつは恐れ入ったぜ」野狐はそう言って、椅子にどっかりと腰掛けました。

「しかし、ホストの主人格がここにいるとは、驚きだな。別人格の企てか何か知らねえが、こいつは
大事件じゃねえか。どおりで何か臭せえと思ったわけだ。このことが世間に知れたら、大騒ぎになる
だろうな。それこそ、es側にとっちゃ、忌々しい理性の支配を崩して、光と闇のバランスを覆す、大
チャンスの到来ってわけだ。世界中のes側の生き物が、別人格を支持するだろうな。あの坊やが無事
に復権する確率はゼロだ。くっくっく。それを分かってて行かせるアンタもアンタだよな」
 野狐が上機嫌で言いました。魔女はただ黙って聞いていました。

「で、それでもアンタ、頑固に中立を守る気かい? 今からでもこちら側に付けば、命だけは許して
やっても良いんだぜ? アンタの能力は、なかなか役に立つからな。どうせ中立を決め込んでたって
esの力が強まれば、もうアンタに頼る必要はなくなるし、結局どのみち俺達に吊るし上げられて処刑
されちまうのがオチさ。だったら中立なんて守ってたって、何の得もないだろう? まあ、どっちが
得か、せいぜいよく占ってから選ぶんだな」

 野狐はそう言って、テーブルの上に土足の足を投げ出しながら、葉巻に火を付けました。
 そして、背広からピカピカと光る拳銃を取り出し、指でクルクルと回し始めました。


「いいや、選ぶのはお前の方だよ。クリストフ」魔女は言いました。
「……俺の方だと?」野狐は葉巻の煙を吐き出しながら、聞き返しました。

「そう。今、分かれ道に立っているのは、お前の方なのさ。クリストフ。その銃の引き金を引けば、
お前はもう二度と後戻りできないよ。これから起こる争いや、災いは、すべてお前が発端になっちま
うんだ。もし、本当にesがこの世界を支配したら、罪もない多くの命が失われるんだよ? ああん?
お前、その重みに耐えられるのかい? とてもアタシにはそうは思えないけどね。お前は今まで通り
の小悪党でいるのが、お前の器に合ってると思うがね。自分でも、そう思わないかい? ああん?
それでもどうしても、その引き金を引きたいのなら、好きにするがいいさ。お前こそ、せいぜいよく
考えてから選ぶんだね」

 魔女はそう言って、緑色に光る目で野狐を見据えたまま、ワインをすべて飲み干しました。



 ■ 1-9 墜落  Fall Down


 空の上は、頬を撫でる風が心地良く、見渡す眺めも最高で、とても快適でした。

「この世界の空は、青じゃなくて白なんだね」庭師はぽつりと言いました。
「空が青? なんだそりゃ? 気持ちワル!」白兎が言いました。「空は、白って決まってらア」
「じゃあ、夜になったらどうなるの? やっぱり黒?」庭師は尋ねました。
「夜ってナンダ?」白兎が逆に質問しました。黒猫も「何それ?」といった表情でした。
「……いや、なんでもない」庭師は諦めました。

「それより、これ、どうやって降りるのかしら?」黒猫が言いました。
「そんなの知るかヨ。乗客置いて、飛び立っちゃうような乗り物なんだゼ? 勝手に飛び降りれば?
って感じなんじゃねえノ」白兎が冗談混じりで言いました。が、すぐに顔色が変わりました。

「本当にそうだったりして……」庭師が不安そうに言いました。三人ともあわててカゴの中や、燃焼
装置に何かのスイッチや、説明書きなどがないか探しましたが、特に何も見つかりませんでした。

「このままだと街を通り超して、どこまでも飛んでいってしまうわ!」黒猫が怒って言いました。
「オイラに言ったって、しょうがないダロ! あの魔女がこんなモン使えって言うかラ!」
「と、とにかく、どうにかしてこの火を止めた方が、良いんじゃないかな?」庭師が言いました。

 それからしばらく三人は燃焼装置と格闘して、何とか火を止めようと悪戦苦闘しましたが、装置が
単純すぎて、火力を調節する機能さえなく、高度だけがぐんぐんと上がってゆくばかりでした。

「デーい! じれったいっ! こうなったら最後の手段ダ!」
 白兎がそう言って、ガスボンベのコードを、歯でガリガリとかじり出しました。
「ちょっと! 漏れたガスに引火したら全員死ぬわよ!」黒猫がヒステリックに怒鳴りました。

 その直後、ブシュッという音がして、コードからガスが漏れ出し、それと同時に、燃焼装置の火が
ぶすぶすと黒い煙を上げながら、一気に鎮火しました。どうやら漏れたガスに引火する危険は、なく
なったようでした。

「どんなもんだい。これで徐々に降下するだろヨ」白兎が黒猫に向かって、自慢げに言いました。
「下手したら、大爆発するところよ」黒猫は不機嫌そうに、白兎を睨みつけながら答えました。
「そ、そんなことより、あ、あ、あれ見てよ!」突如、庭師が前方を指差しながら叫びました。

 鎮火したことで、勢い良く高度の下がり始めた気球は、いつしか、目的の街の上空に差し掛かって
いましたが、運悪くその軌道の先には、大きな展望台がそびえ建っていました。このまま風に流され
てゆけば、確実に衝突することは、誰の目にも明らかでした。

「やれやれ、一難去ってまた一難かヨ」白兎がのんきに言いました。
「風向きが変わらないかぎり、間違いなくぶつかるわね」黒猫も冷静な口調で言いました。
「ど、どうしよう? 何か手立てはある?」庭師はおろおろしながら、ふたりに問いかけました。
「そうは言っても、どうしようもないダロ。風まかせなんだかラ。いっそ、飛び降りてみっカ?」
「ぶつかる瞬間に、建物の外壁に飛び移ってしがみ付くしかないわね……」
「そんな! もうちょっと現実的な案はないの!」庭師は叫びました。

「……現実的。……現実的。……そうだわ!」黒猫が突然、大きな声で言いました。

「オッ! 嬢ちゃん、何か名案が浮かんだかイ?」白兎が黒猫に聞きました。
「いえ、一か八かよ。ブレーン、あなた風を起こしてちょうだい」黒猫は言いました。
「はい? 僕が風を起こす? そんなこと出来るわけないじゃない!」庭師は言いました。

「いいえ出来るはずよ! だって、ここはあなたの頭の中なのよ。あなたが勝手に、出来ないと思っ
ているだけ。常識に捕われてね。でもそれは違う。ここはあなたの世界なの! あなたが好きなよう
に変えられるのよ。花をもっと美しく咲かせたいと思えば、そうなるように。別人格のあいつが実際
そうやってesの力を操っていたように。何だって、あなたの想い次第で、自由自在に動かせるはず!
あなたがその気になれば、山だって動かせるはずなのよ!」
 黒猫は庭師の肩を揺さぶって言いました。

「そそそ、そんなこと急に言われても……。どうやってやれば良いのか分からないよ」
 庭師は黒猫に揺さぶられながら弱々しく答えました。展望台はすぐ目の前まで迫っていました。

「私だって分からないわよ、そんなこと! 頭で念じてみたらどう? 風よ吹けーって!」
「バカバカしい! それより衝突しても振り落とされないように、体をカゴに縛り付けてダナ」
「ドニーはちょっと黙っててよ!」
「ドニーって誰だヨ! オイラはベニーだ! 間違えんなヨ!」
「ちょ、ちょっと、ふたりとも喧嘩しないでよ!」
「いいから念じてみてよっ!」
「ヒャーッ、もうダメだぶつかるゾーッ!」
「わーーっ! 風吹けかぜぇーーっ!」

 その瞬間、もの凄い突風が真横から吹き付けて、気球が斜めに傾いたかと思うと、三人を乗せたカ
ゴがぐるんと回転し、展望台との衝突を見事にかわして、壁面すれすれを通り過ぎました。反動で、
気球は振り子のように、左右にぶんぶんとカゴを揺らしながら下降してゆき、最終的に、街の真ん中
にある広場の噴水の上に、バーンッと派手な音を立てて着水しました。衝撃音に驚いて、木の枝の上
で羽を休めていた鳥達が、ばさばさと一斉に空に飛び立ちました。


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「なめやがって、老いぼれた山猫が……」

 野狐はそうつぶやきながら、熱くなった拳銃を、布にくるんで、背広のポケットにしまいました。
それから、テーブルの上に投げ出していた足を床に降ろし、消えそうになった葉巻を口にくわえて、
もう一度、火を付け直しました。煙を何度か吐き出し、再び火がちゃんと付いたことを確認してから
立ち上がって、ゆっくりとテーブルの向かい側へ移動しました。そこには、頭を打ち抜かれた魔女の
亡骸が、椅子ごと床に横たわっていました。

 まだら模様の顔の上に、金色の長い髪がばっさりと覆い被さっていましたが、その隙間から緑色の
目だけが、浮き上がっていました。野狐が覗き込むと、その目玉は今でも、野狐の心の内を見透かす
かのように、ギラギラと光っていました。野狐はしゃがんで、その目玉に向かって言いました。

「後戻りできないだと? 望むところさ。あいにく、俺は小悪党なんかで終わるつもりはなくてね。
もっとデカいことをするために、生まれてきたんだ。今日がその転機になるなら、嬉しい限りだよ。
前々から、きっかけを探してたんだ。くっくっく、アンタには感謝してるぜ。ただの悪ガキだった俺
を、害獣駆除(がいじゅうくじょ)プログラムから匿ってくれた上に、縄張りまで与えてくれたおかげで、ジプシーのボス
になれたわけだしな。でも、アンタの中立が俺は前から気に入らなかったんだ。何もかも、ほどほど
に制限させられて、欲求不満が溜まってるんだよ。俺はな……もっと欲しいんだ! 現状維持なんて
クソ食らえだ! 縄張りは、広げるためにあるもんだろうが! あの坊やより先に、別人格がホスト
の座に付けば、それが叶う。だったら、俺はそっちを応援するぜ。まあ見てな、俺がこの世界を引っ
くり返すのに、ひと役買ってやるからよ。俺はできる、できるんだ! 見てやがれっ!」
 
 そう言い終えると、持っていた葉巻を、魔女の亡骸の上に投げ捨てました。
 葉巻の火が、魔女の衣服に引火して、またたく間に全身を炎で包み込んでゆきました。



 ■ 1-10 春の庭園  Quarter Springs


 三人が呻きながらカゴの外へ顔を出すと、噴水の周りは、人だかりでいっぱいになっていました。
もっとも「人だかり」と言っても、実際そこに集まっていたのは、犬の顔を持ったタキシード姿の紳
士や、顔は人間なのに体が豚の姿をした婦人など、動物と人間がごちゃ混ぜに組み合わさったような
人々ばかりでした。それを見て、庭師は改めて、ここが現実ではないことを思い知らされました。

「痛テテ。オイラもう二度と気球なんか乗らねえゾ」白兎が悪態をつきながら起き上がりました。
「でも、やったじゃないブレーン。本当に風を吹かせたのね」黒猫が庭師に向かって言いました。
「うーん。でも、ただの偶然かも知れないよ?」庭師は自身なく言いました。

 すると、二十日鼠が庭師の肩に駆け上がり、耳元でチチチッと囁くように鳴きました。
「ウィスパーは何て言ってくれた?」それを見た黒猫が、庭師に聞きました。庭師は少し考えてから
「よく分からないけど、何となく『やればできる』って言ったような気がするよ」と答えました。

「ホントにそう言ったのか? 俺にはチチチッとしか聞こえなかったゼ?」
「ウィスパーの言葉は、耳ではなくて、心で聴くものなのよ」
「そうかい、しかし随分とまた上から目線なんだナ、この鼠様はよォ」

 白兎がそう言いながら、二十日鼠の顔をまじまじと覗き込むと、ウィスパーは嫌がって、庭師の肩
からカゴの中にぴょんと飛び降り、隅っこの方に隠れてしまいました。

 それから三人は、広場に集まった野次馬の視線と、噴水のしぶきを全身に浴びながら、壊れたカゴ
から這い出して、噴水の中へじゃぶんと降り立ちました。すると、どこからか数羽の小鳥達が飛んで
きて、三人を取り囲むように、ピーピーと鳴き始めました。よく見ると、どの小鳥もそれぞれ、小さ
な制服のようなものを身に纏っており、頭に帽子まで被っていました。そして、噴水の水を足で掻き
分けながら、外に出ようとしている三人に向かって、甲高い声で言いました。

「警告ッ! 警告ッ! 全員ッ、その場に伏せテッ、両手を頭の後ろに当てロッ! 今すグッ!」
「お前達ハッ、包囲されていルッ! そこから動くナッ! おとなしく指示に従エッ!」
「無駄な抵抗はやめロッ! その場に伏せテッ、噴水から出るんじゃなイッ!」

「ソー言われても、ここで伏せたら水に潜っちまうじゃないカ」白兎がぶつくさ言いました。
「せめて噴水から出させてくれない? 風邪ひいちゃうわよ」黒猫も小鳥に抗議しました。

 しかし、小鳥達はその声を聞こうともせず、同じような命令を口々に叫びながら、飛び回るばかり
でした。白兎と黒猫はその小鳥達を無視し、噴水の外へ向かって、バシャバシャと進み始めました。
庭師もふたりの後に続いて歩きながら「この小鳥達は警察か何かなの?」と尋ねました。

「いいやコイツらは、ただの警備隊だから、無視して良いヨ」白兎はそう言って、噴水の外にびしょ
濡れの足を踏み出しました。続いて、黒猫と庭師も噴水の外へ出ました。滴り落ちる水滴で、三人の
足下に大きな水溜りができました。警告を無視された小鳥達は、ますます甲高い声でピーピーと鳴き
ながら、周囲を飛び回りました。

「緊キュー事態発セーッ! 繰り返スッ! 緊キュー事態発セーッ!」
「中央広場に不審者あリッ! 至急、応援を求ムッ!」

「うっさいナ!」白兎がうっとしそうに、小鳥を手で追い払うと、小鳥達は悲鳴を上げて、どこかへ
逃げて行ってしまいました。うるさい小鳥達がいなくなって、多少静かになりましたが、依然、三人
を取り囲む野次馬達は、こちらを指差しながら一歩離れた所から、隣同士で何やらひそひそと話し合
っていました。近くの家の窓にも、何事かと広場の様子を伺っている人々が、たくさんガラス越しに
見受けられました。

 それにしても綺麗な街だな、と庭師は辺りを見回しながら思いました。広場の周囲には、まるで、
おとぎ話の絵本に出てくるような、可愛らしい家々が立ち並び、美しく咲いたパステルカラーの花々
が、その街並みに素敵な色を添えていました。街中が花の甘い香りに包まれていて、蝶や蜜蜂が花か
ら花へ、忙しそうに飛び交っていました。気候もぽかぽかと朗らかで暖かく、まさに「クォーター・
スプリングス(春の地域)」と言う名に相応しい街だと庭師は思いました。


「さてと、これからどうするヨ?」白兎が長い耳を絞りながら言いました。
「……ええっと。確か、脳科学に精通した人を探さなきゃいけないんだよね?」庭師が言いました。

「それより、まずは身の安全を確保した方が、良いんじゃない? 誰か信頼できる人の所へ行って、
ひとまず匿ってもらうのよ。街の中をうろついて、またタチの悪い連中に出くわすのはごめんだわ」
黒猫が手で顔を洗いながら、言いました。

「だったら、オイラの親分のトコへ行こうヤ。親分の店の中なら、兎しか出入りしないから安全ダ。
それにオイラ、今回のことを親分に報告せにゃ、クビになっちまうからよ。なあ、良いダロ?」
「……その雇い主、口は堅いんでしょうね? 別人格が逃げたことを世間に広められたら大変よ?」
「大丈夫ダヨ。親分は金勘定にしか興味ないから、一文にもならないこと、しないからサ」

「僕のせいで、ベニーがクビになったら申し訳ないし、そこへ行ってみようよ」
「……わかったわ。でも雲行きが怪しくなったらすぐにその場を逃げるのよ、いいわね」


 三人の意見がまとまった、ちょうどその時でした。
 どこからともなくヒューンという何かの飛来音が耳に響いてきました。

 そして突然、バシャーンッという大きな衝撃音とともに、三人はいきなり背中から大量の水を被り
ました。

 全身ずぶ濡れになったまま、三人がゆっくり後ろを振り返ると、噴水の中に大きな人影が立ってい
ました。でも、それは人間ではありませんでした。動物でもありませんでした。それは機械でした。
その機械は、人間のように二本の足で立ち、二本の腕で機関銃のような物体を持っていました。腰に
は、オイルまみれの布が巻かれており、隙間から、歯車や様々な配線が剥き出しになっていました。
そして、不気味なことに、肩から上には何もありませんでした。どこかに首をそっくり落として来て
しまったかのように、本来頭があるべき所には、綺麗さっぱり何もありませんでした。それはまるで
、首を切り落とされた戦士の亡霊のようでした。

 広場にいた野次馬達も、全員が突然の出来事に硬直して、まるで、時間が止まったように、辺りは
不思議な静寂に包まれていました。着水の衝撃で跳ね上がった水しぶきが、機械の体からぼたぼたと
滴り、波打つ噴水の中に落ちて、ぴちゃぴちゃという音だけが響いていました。

 そして次の瞬間、広場にいた人々は、一斉に悲鳴を上げて、我先にと逃げ出し始めました。
 白兎も、庭師と黒猫の腕を掴んで、走り出しながら、声の限りに叫びました。

「ににに逃げろっ! プログラムだーっ!!」



 ■ 1-11 プログラム襲来  Attack of a Program


 突然のプログラムの襲来により、広場はまさにパニック状態でした。

 逃げ惑う群衆の波に紛れ、三人も必死で走りました。人とぶつかり何度も転びそうになりながら、
何とか路地裏の陰に身を隠し、乱れた呼吸を整えてから、そっと顔を出して広場の様子を伺ってみる
と、その巨大な機械の人形は、まだ噴水の中に立ったままでした。逃げた人々を追いかけるような動
きはなく、どうやら噴水に墜落した気球を調べているようでした。機械仕掛けの手で、壊れた気球を
持ち上げながら、何やらガーガーと低い機械音を上げていました。

「大変! ウィスパーが!」突然、黒猫が大きな声で叫び、プログラムの方を指差しました。
 プログラムが持ち上げているカゴの裏に、小さな二十日鼠がしがみついているのが見えました。

「あの子、濡れるのが嫌で、ずっとカゴから降りられずにいたんだわ!」黒猫が叫びました。
「どうしようっ、早く助けてあげないと!」庭師も、思わず大きな声で叫びました。
「シィィッ! 声が大きいっ、見つかっちまうゾッ!」白兎があわてて注意しました。

 その時、プログラムが急にこちらに振り向きました。
 そして、首のない体から赤い光を発射し、路地裏から顔を覗かせていた三人を照らしました。
「やばいっ隠れろっ!」三人はあわてて路地裏の陰に顔を引っ込めました。が、手遅れでした。

 プログラムは持っていた気球を、広場の地面に放り捨て、機関銃のような物体を構え直しながら、
ガシャンガシャンと大きな音を立てて動き始めました。三人はその場にじっと固まって、息を潜めま
した。しかし、地面から伝わってくる振動は、ますます大きく、近付いてくるばかりでした。

 ついにその足音が、三人が隠れている路地のすぐ手前まで来て、止まりました。そして一泊置いて
から、バッと身を翻して、銃器を胸元に構えた臨戦態勢のプログラムが路地裏に突入してきました。
しかし、そこには誰もいませんでした。プログラムはその体勢のまま、路地裏を隅から隅まで、赤い
ライトで照らし始めました。すると、路地に面した一軒の家の窓が、一カ所半開きになっているのが
浮き上がりました。

 その時、ふいに表通りの方から、誰かの悲鳴が響き渡りました。

 プログラムが表通りにきびすを返すと、窓が空いていた家の表面のガレージから、ピンク色の自転
車が勢いよく飛び出し、一目散に駆け出してゆくところでした。ガレージの中では、怒り狂った少女
が「あたしの自転車返してよ! ドロボー!」と、わめいていました。

「ごめんナー、世界を救うためだかラー!」白兎が、少女に向かって叫びました。
「いいから、前見て漕ぎなさいっ!」黒猫が、白兎の背中にしがみつきながら怒鳴りました。
「あわわっ、僕、落ちそうっ!」庭師が、黒猫の尻尾を握りしめながら言いました。

 三人乗りで走り去ろうとする、補助輪付きの自転車に向かって、プログラムは瞬時に引き金を引き
ました。鋭い発射音が鳴り響き、黒い弾丸が空高く打ち上げられました。そして、空中で派手に破裂
し、大きなネットとなって、自転車の頭上いっぱいに広がりました。

「やばいヤバイッ、つかまるツカマルゥ!」白兎が、頭上のネットを見上げながら叫びました。
「左よひだり、左に逃げてっ!」黒猫が、白兎の左耳を引っ張って、怒鳴りました。
「わわっ、急ハンドルはやめてーっ」庭師が、振り落とされそうになりながら言いました。

 左に舵を切ったことで、ネットの追撃をギリギリのところで交わし、噴水を目指して自転車は走り
続けました。重量オーバーと、無茶な方向転換のせいで、補助輪が片方バキッと音を立てて外れ落ち
ました。庭師が後ろを振り返ると、すぐ真後ろに迫るプログラムの姿が、目に飛び込んできました。
プログラムは、既に最初の発砲直後から走り出しており、ちょうど、落ちた補助輪を足でグシャッと
踏みつぶすところでした。

 見るからに重量感のある、鉄製の巨体のわりに、プログラムは驚くほど俊敏な動きで、ぐんぐんと
その距離を縮めてきました。ガシンガシンと足音が鳴り響くたびに、広場の石畳が粉砕され、小さな
石の粒が宙に舞いました。

 前方では、プログラムによって、広場に放り出された気球が、風に煽られ、地面にカゴを引きずり
ながら、浮き上がりかけているところでした。空中に浮いた布から、無数のロープが地上へと垂れ下
がり、ロープと布のトンネルが出来上がっていました。風の具合で開いたり閉じたりする、そのトン
ネルの中央に横たわるカゴの上に、二十日鼠の姿がありました。

「ウィスパーはあそこよ! このまま突っ切って!」黒猫が白兎に怒鳴りました。
「エエッ!? 下手したら布に絡まるゾッ!?」白兎が驚いて叫びました。
「プログラムが、もうすぐ後ろまで来てるよっ!」庭師が言いました。

 子供用の自転車が、ガタガタと悲鳴を上げながら、もう片方の補助輪を落としました。三人のすぐ
後ろで、プログラムがそれをまた踏みつぶしました。プログラムは走りながら、両手に抱えていた銃
を片手に持ち替え、空いた手を前方に伸ばし始めました。機械で出来たその手が、庭師の背中にあと
少しで届きそうな距離まで、詰まってきました。庭師は悲鳴を上げました。

「いいから、このまま突っ走りなさいってば!」黒猫が、白兎の耳を引っ張りました。
「痛テテッ、手綱じゃねえんだぞオイラの耳は! チクショウ!」白兎が涙目で叫びました。

 三人を乗せた自転車が、くにゃくにゃと垂れ下がったロープの林に突入しました。少しでもロープ
に引っかかれば、その瞬間に横転してしまうところを、白兎の見事なハンドルさばきで、接触せずに
走り抜けました。そして、黒猫がカゴの上の二十日鼠を、すれ違いざまに抱き抱えました。しかし、
プログラムも布のトンネル内に侵入してきたせいで、その風に煽られ、トンネル状になっていた布が
崩れ、目の前の出口が、みるみる閉じ始めました。

 あわや布に絡め取られる寸前、というタイミングで、庭師が垂れ下がっているロープに手を伸ばし
強く掴んで思いっきり引っぱりました。ロープが引かれた反動で、閉まりかけていた出口が、ほんの
一瞬、ぼわんっと大きく広がりました。その瞬間、三人を乗せた自転車が、出口をすり抜けるように
して、通過しました。その直後、トンネルの出口は完全に塞がり、背後に迫っていたプログラムを、
ぐるんと包み込みました。

 布に突進する形になったプログラムは、布を巻き込みながら派手に転がり、ガチャガチャと大きな
音を立てながら、その場に停止しました。すぐに起き上がって追跡を再開しようにも、もがけばもが
くほど、被さった布と、無数のロープが絡まり、身動きが取れなくなっていました。そして、怒りの
こもった「ブオオオオーンッ」という機械的な雄叫びが、布の中から響き渡りました。

「ひゃっほーいっ!」
 三人は逆に、歓喜の雄叫びを上げながら、その場を走り去ってゆきました。



 ■ 1-12 老兎(ろううさぎ)の店  Rabbit Tunnel Transport


 プログラムから逃げ切った三人と一匹は、広場からだいぶ離れた街角で、ボロボロになった自転車
を乗り捨て、なるべく人目を避けるようにしながら、東へと進みました。時折、街の住人がびしょ濡
れの三人を見て、怪訝そうな顔をしていましたが、とりわけ不審がられることもなく、無事に目的地
のすぐ近くまで辿り着くことができました。

 人気のない細い路地裏からそっと表通りに顔を出すと、そこには様々な商店が建ち並び、たくさん
の買物客で賑わうマーケットがありました。

 穫れたての野菜を山のように積んでいる店や、新鮮な魚を売っている店など、現実世界で見たこと
のある店もあれば、店頭にずらりと電球だけを並べている店や、瓶詰めにされた液体を売っている店
など、見たことも、聞いたこともないような、変わった店もたくさんありました。どの店も活気に満
ち溢れており、いつも庭仕事に追われて、街に出ることのなかった庭師は、その雰囲気に圧倒されて
しまいました。

 庭師がその光景に目を奪われていると、白兎が肩を叩き「あそこに入るゾ」と、前方を指しながら
言いました。白兎の指の先には『兎トンネル運輸』と書かれた看板がぶらさがった店がありました。

 三人は目立ち過ぎないよう、自然に振る舞いつつ、その店の前へと早歩きで近付きました。窓から
中を覗いてみると、ちょうどひとりの客が用を済ませて、店を出てゆくところでした。入口のドアが
開き、その客が出てゆくと同時に、入れ替わるようにして、三人は店の中に入りました。店の扉を閉
める時、白兎は念のため、ドアに掛けられた『営業中』の看板をくるっと引っくり返して『準備中』
にしておきました。


「いらっしゃいませ! まいど兎トンネル運輸をご利用いただき、有難うございます!」
 店に足を踏み入れた瞬間、カウンターの奥から、愛想の良い元気な挨拶が飛んできました。

「今日はどんな御用で……、なんだオマエか。一体、今までどこ、ほっつき歩いてやがったんだ!」
 店に入ってきたのが白兎だと分かるなり、愛想の良い声は、怒鳴り声に変わりました。

 庭師が白兎の背中越しに、こっそり様子を伺ってみると、カウンターの向こう側には、背の低い、
年老いた茶色の兎が腰掛けていました。「……ったく、オマエときたらいつもこうだ。何をやらせても
ダメときたもんだ!」その老兎は、ぶつぶつと白兎に文句を言い続けながら、机の上の帳面に、ペンで
せっせと文字を書いています。「こんな簡単な仕事も、ろくにこなせないようじゃ、お手上げだよ!」
鼻の上にちょこんと乗った老眼鏡を、小さな丸い手で何度も掛け直しながら、帳面に顔が付くほどに机
にかじりついているので、どうやら庭師と黒猫の存在には、まだ気付いていない様子でした。

 店の中は雑然としており、壁のあちらこちらに、料金表や覚書きのような紙が、無数に貼り付けて
ありました。老兎が座っているカウンターの手前には、様々な大きさの秤が置いてあり、おそらく客
が持ってきた荷物の重さを、ここで量り、料金を計算するシステムになっているようです。店の中に
ある備品は、どれも年期が入っていて、この老兎が、長く商売をしてきたことを伺わせました。

「あ、あの、親分。ちょっと話があるんだケド」白兎が、老兎の小言を遮って言いました。
「話があるのはこっちだ! オマエ、またあそこでニンジンを盗んできただろう? ええ?」
「エ? なんで分かるの?」白兎は、あたふたしながら言いました。

「やっぱりか! あそこのニンジンは毒だと、何度言ったら分かるんだ! このバカ! あんなモン
ばっかり食べてると、脳がダメになっちまうぞ! 脳味噌をうまく使えるか使えないかで、人の価値
は決まるんだって、いつも言っとるだろう? 脳はしっかり活用しなきゃ、ただの宝の持ち腐れだ!
だいたい、食料を置いて帰るだけの簡単な作業に、どれだけ時間がかかるんだオマエは! 他の兎達
はとっくに次の現場に出かけてるぞ! なのにオマエはいつもチンタラしおって! それから、ん?
……誰だ? そこにいるのは?」そう言って、老兎はようやく庭師と黒猫に気が付きました。

「あ、あのネ、親分。落ち着いて聞いてほしいんだケド……」白兎がおそるおそる言いました。

 そして、これまで起きた出来事を、かいつまんで簡単に説明しました。ビニールハウスの中で庭師
と出会ったこと。別人格が逃げ出したらしいこと。黒猫と一緒に魔女に会ってきたこと。気球で広場
に不時着したこと。プログラムに追いかけられたこと。それから、庭師がesから命を狙われていて、
別人格より先に、身体をコントロールする権利を取り戻さなくてはならないことなど、白兎はひとつ
ずつ丁寧に説明したつもりでしたが、老兎の顔は、話せば話すほど、怒りに満ち溢れてゆきました。

「何が落ち着いて聞けだ、バカもんが! 黙って聞いてりゃ、ダラダラとくだらない話をしおって!
オマエの与太話に付き合ってるほど、ワシは暇じゃないわ! 何が世界を救うためだ、笑わせるな!
救世主にでもなったつもりか? バカも休み休み言わんかい。それにそこの黒猫、ジプシーじゃと?
オマエよりにもよって、ジプシーの子娘をワシの店に連れてきたのか! 冗談じゃない! とっとと
出てってくれ、この泥棒猫め! それからそこの坊主! 主人格だか別人格だか知らんが、オマエら
がビニールハウスから抜け出して来てくれたおかげで、ワシの商売が、ひとつ台無しじゃないか! 
どう責任とるつもりだ! ええ?」老兎は、茶色い顔を真っ赤にしながら、怒鳴り続けました。

「まあまあ、親分。そう怒らずにサ……」白兎がなだめるように言いました。

「これが怒らずにいられるか! いつも時間どおりに帰って来ないわ、ワシの忠告には従わないわ、
おまけに、ワシの商売の邪魔までするわ、もうオマエには愛想が尽きた! どれだけワシがオマエの
世話をしてきてやったと思ってるんだ! 毎日フラフラしてるだけのオマエを拾ってやって、ここで
まっとうな仕事を与えて、プログラムに高い賄賂まで払って、害獣駆除の候補者リストから外してや
ったワシの恩を忘れたのか、この恩知らずめが! もうオマエもそいつらと一緒に出てけ! もう二
度と帰って来なくていいわ! クビだクビ! どこへでも行っちまえっ! このバカチンがっ!」

 老兎は、そうわめき散らして、持っていたペンを白兎に投げつけました。

 ペンは白兎には当たらず、店の扉にぶつかり、カツンと音を立てて床に転がりました。庭師がその
ペンの行方を目で追って、後ろを振り返ると、窓の向こうに、たくさんの人だかりが出来ているのが
目に留まりました。買物をしていたはずの人々が、なぜか店を取り囲むようにして群がっています。

 どうしたのだろう?と思って、庭師が窓に顔を近づけると、窓のすぐ向こう側に、さっき噴水広場
で出会った小鳥達が現れ、パタパタと羽ばたきながら、店の中に向かってピーピー鳴き出しました。

「警告ッ! 警告ッ! お前達張は完全に、包囲されていルッ! 無駄な抵抗はやめロッ!」
「森の魔女、殺害、並びに、放火の容疑デッ、お前達を逮捕すルッ! 両手を上げて出て来イッ!」



 ■ 1-14 包囲  Encirclement by the Sheriff Bulldog


 店の外では、小鳥の警備隊が、保安官の到着を今か今かと待ちわびていました。やがて、買物客を
掻き分けるようにして、ひとりの男が店の前に現れました。その男は、保安官のバッジを胸に付け、
綺麗な制服に身を包んだ、ブルドッグでした。だるだるに余った顔の皮のせいで、常にしかめっ面を
しており、とても機嫌が悪そうでした。続いて、その保安官の後ろから、同じく綺麗な制服を来たコ
ーギーが、締まりのない半笑い顔で、ちょこちょこと付いて来ました。小鳥の警備隊は、保安官を見
つけると、すぐに飛んで来て、小さな羽で敬礼してから「包囲、完了しましタッ! 容疑者は、あの
店の中でスッ!」と鳴きました。

「ご苦労」ブルドックの保安官が、小鳥達に言いました。「で、補佐官、状況は?」
「はい。それでは、ご説明します」補佐官と呼ばれたコーギーが答えました。

「本日未明、木漏れ日の森にて、森の魔女アグスティナ・リンクスの住むロッジが燃えている、との
匿名の通報があり、消防隊が現場へ急行、現在は完全に鎮火しました。焼け跡から、アグスティナと
見られる遺体を発見しましたが、頭を拳銃で打ち抜かれていた形跡があったため、他殺と断定。火事
も放火の可能性大であります。現場近くにいたジプシーの目撃談では、火事の直前にアグスティナに
面会していた三人組がいたとのこと。ちなみに、この三人組は、つい先程、噴水広場の気球墜落現場
でも目撃されており、少女の自転車を奪って逃走しております」

「広場に現れたプログラムは、どうなった?」
「はい。現在、絡まった気球の除去作業中ですが、暴れるので、作業が難航しているとのことです」
「その気球は、魔女の家にあったものと、一致したのか?」
「照合はまだですが、バルコニーに設置されていた、簡易式気球の中身で間違いないでしょう」
「じゃあ、もう決まりだな。本部に射殺許可を取れ」
「それが、保安官。残念ながら本部より、発砲はするなとの通達なんです」
「なんだと? 射殺しちゃいかんのか?」
「はい。何でも、男の身柄確保が最優先で、兎と猫は放っておいて良いそうです」
「相変わらず、本部のやつらは何を考えてんだか、訳が分からんな」
「どうせ、プログラムからの命令を、そにまま伝えてきてるんでしょうね」
「けっ。プログラムの犬どもめ……」
「犬なのは私達ですけどね……」


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 その一方、店の中では、全員が全員、状況を把握できずに、わめき合っていました。
「オマエというやつは! ついに殺しまでしちまったのか? さっさと自首しろ、このバカ!」
「いやいや、ダカラ! オイラ何も悪いことしてないって、言ってるじゃねえかよオ!」
「アグスティナが殺されたなんて嘘よ! ねえ、絶対嘘よね? 嘘って言いなさい!」
「あわわわ、そんなこと僕に言われても! 痛い痛いミア、ちょっと離してよ!」

 すると、店の外から、ピーガガガッという大きな機械音が鳴り響き、続いて、誰かの大きな声が、
店の中に向けて話しかけてきました。

「あー、あー、あー? ……これ入ってるか? ……入ってる? そうか。あー、中の者達に告ぐ! 
お前達は完全に包囲された。抵抗しても無駄だ。武器を捨てて出て来なさい。誰も傷付けはしない。
これは取引だ。その男だけ大人しく投降すれば、他の者は見逃してやる。もし暴れたり、逃げたり、
たて篭ったりすれば、中にいる全員の安全は保証できない! 銃撃戦なんて誰も望んでないだろう?
分かったら、男だけひとりで両手を上げて、ゆっくり出て来い!」


 それを聞いて、庭師は「ちょっと、みんな落ち着いて!」と大きな声で言いました。
「ねえ、僕、出てゆくよ。これ以上、みんなを危険な目に合わせられないし」庭師は言いました。
「何言ってるのよ! アンタが捕まっちゃったら、本末転倒でしょ?」黒猫が止めに入りました。
「親分どうにかしてくれよ、親分を頼りにして来たんだゼ?」白兎が老兎に頼み込みました。
 しかし老兎は、ぷいっと横を向いたまま「もう知らん!」と、ヘソを曲げていました。

「じゃあもうイイヨ! 親分にはもう頼まねえっ! 頼りにしたオイラがバカだったワ!」
 とうとう、業を煮やした白兎が、怒って言いました。

「そうよ! 私達だけでブレーンを守りましょ! きっと、またうまく逃げられるわよ」
 黒猫も、愛想を尽かして、老兎に背を向けて言いました。

「ふたりとも、ありがとう。でも、やっぱり僕がひとりで出てゆくよ。もう決めたんだ」
 庭師は、優しく笑いながら言いました。庭師はもう、強く決心していました。

「何言ってるのよ、それだけは許さないわ! それより早く、脱出方法を考えなくちゃ」
「そうダナ、例えばダナ。屋根に登って、屋根から屋根に飛び移って、逃げるってのはドウ?」
「いや、もう本当に良いってば。下手したら、今度こそ本当に殺されちゃうよ?」
「あなたが逃げ切らなきゃ、私達は殺されたも同然なのよ! 何回も説明したでしょう?」
「う〜ん。それか、いっそ親分を人質にしてダナ、交渉してみるってのはドウかな?」
「だからもう僕が出てくってば! ふたりとも、たまには僕の意見も聞いてよっ!」


 三人のそんなやりとりを、老兎はしばらくムスッとした表情のまま、傍観していましたが、やがて
痺れを切らしたように、我慢できなくなって自ら口を開き、三人の会話に割って入りました。

「ええいっもうっ! オマエら本当に頭が悪いのう! 聞いててイライラするわっ! そんなんじゃ
ダメだ、ダメだ。いいか? 作戦を立てるなら、もっと物事の先を読まないといかん! 脳味噌を使
って、よーく考えるんだ! ここから逃げ出すばかりがすべてじゃないぞ。逃げ出した後も、コトが
うまく運ぶように。更なる窮地に立たされないように。……それが作戦ってもんだ!」

 老兎はそう言って、カウンターの席に戻り、引き出しの中から、数枚の大きな図面を取り出して、
机の上に広げました。そして、定規やコンパスを駆使しながら、ペンで何かを書き込み始めました。
それまで言い争いをしていた三人は、ぽかんとしながら、老兎の様子を静かに見守りました。黒猫の
肩の上で、二十日鼠がチチチッと、嬉しそうな声で鳴きました。


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 店の外では、保安官と補佐官を先頭に、マーケット中の人々が、固唾を飲んで、店の扉を見つめて
いました。辺りはしんと静まり返り、小鳥の警備隊の羽音だけが、パタパタ聞こえるばかりでした。

「……出て来ないな」ブルドックの保安官が言いました。
「……出て来ませんね」コーギーの補佐官が言いました。

「威嚇射撃くらいしちゃダメなのか?」
「はい。命令は命令ですから、ダメでしょうね」
「じゃあ本当に、銃を使わず、生け捕りにしなきゃいかんのか」
「はい。そうゆうことに、なりますね」
「うーん、困ったな」
「困りましたね」

 保安官と補佐官が、ふたりして首を傾げて悩んでいた時、店の扉がカランカランとベルの音を鳴ら
しながら、ゆっくりと開きました。保安官と補佐官は、とっさに腰から拳銃を取り出し、扉の方へと
銃口を向けて身構えました。しばらくして、店の中から両手を上げた男が、ひとりで出て来ました。

「武器はどうした? こちらから見えるようにしろ!」保安官が怒鳴りました。
「ぶ、武器は持ってない! にに、逃げる途中、森の中に落とした!」男が答えました。
「他のふたりはどうした? 中にいるのか?」今度は補佐官が怒鳴りました。
「ひ、人質の兎と猫は、中に縄で縛ってある! こ、この店の店主もだ!」男が答えました。

 補佐官が、制服のポケットから双眼鏡を取り出し、開いた扉から、店の中を覗いてみると、確かに
ロープでぐるぐる巻きにされた白兎と、黒猫と、店主の姿がありました。縛られて身動きの取れない
三人のすぐ傍らには、ご丁寧に、小さな二十日鼠まで、細い糸で縛り上げられて転がっていました。

「よし、手を頭の上に組んで、その場に伏せろ!」保安官が、男に銃口を向けながら怒鳴りました。
 男は言われた通り、手を頭にして、地面に伏せました。補佐官がすぐに男の元へ走り寄り、馬乗り
になって、素早く手錠をかけると、周りの野次馬達から、一斉に賞賛の歓声が湧き起りました。保安
官は、その歓声に応えるようにして、ゆっくりと男の元へ近づき、男を足で踏んづけました。

「やりましたね、保安官!」コーギーの補佐官が、半笑い顔で言いました。
「よくやった、補佐官」ブルドックの保安官が、笑顔に見えない笑顔で言いました。



 ■ 1-14 有罪判決  Found Guilty


 野狐のクリストフ・ルナールは、裁判所前の公園のベンチに座り、上機嫌で空を眺めていました。
くっくっく。この美しい白い空も、もうじき薄暗い灰色の空に変わる。花は色を失い、木は枯れ果て
て、至る所にesが蔓延した世界になる。そうすれば、理性の支配力は急速に衰え、何もかも、俺達の
やりたい放題だ。今まで虐げられてきた闇の住人達が開放され、光の住人達は、ただ逃げ惑うだけ。
この世の中のルールが一気にひっくり返る。そして、人々はやがて考える。これは一体誰がやった?
こんな大それた計画を実行した首謀者は誰だ? と。そうして、俺の名前は、歴史に刻まれるんだ。
永遠に。たった一本の電話で、世界を一変させた男、クリストフ。くっくっく悪くないな。 

 野狐がベンチでひとり鼻歌を歌いながら空を眺めていると、裁判所の裏から、部下の狸男が全速力
で走ってきて、野狐の座っているベンチの前で止まり、膝に手を付いて、ぜえぜえ深呼吸しました。

「……その臭い息が整うまで、俺を待たせるつもりなのか?」野狐が、狸男を睨んで言いました。
「はあ、はあ、ええっと? 何から報告すれば良いんだっけ?」狸男が息切れしながら聞きました。
「まずは、判決だよ! 当たり前だろうが!」野狐が怒鳴りました。

「はあ、判決ね。はあ、ええっと。判決は有罪だよ、有罪。森の魔女殺害の罪と、放火と、誘拐と、
気球の危険運転と、自転車窃盗と、その他もろもろの罪で、とにかく有罪って判決さ。はあ、はあ、
まあ、本人がすべて自白してるから当然さ」狸男が息も絶え絶えに、判決結果を野狐に伝えました。

「本人の自白だあ? 自白って、一体何を自白したってんだよ?」野狐が狸男に聞きました。
「そりゃ、魔女殺しの自白に決まってらぁ。その他にも、放火とか誘拐とかの自白だよ」
「本人が魔女を殺したって、そう言ってるってのか?」

「そうよ。おそらく逮捕されて、観念したんだろ。魔女を殺した後、あの白兎とミアも人質にして、
逃げ回ってたって、自分でそう言ってるんだよ。それは白兎とミアの証言とも、一致してるからな。
おかげで、白兎とミアは無罪放免さ。ミアのやつも大変な目に合ったもんだよな。そう言えば、ミア
が何か隠してる、って言ってたのは、このことだったわけか。さすがだな、クリストフ」

「うるさい! このノータリンがっ!」野狐は、イライラしながら狸男を一喝しました。

「……それで、死刑執行はいつなんだ?」
「それが死刑じゃねえんだよ。何でも、プログラムが身柄を引き取るんだってさ。そんで例のアイツ
が幽閉されてるビニールハウスに、これから投獄するらしいぜ。久しぶりに、縛り首見物ができると
思ってたのに、残念だよな。でも、例のアイツと同じ牢屋にぶち込まれるのもキツいよな」

 狸男はへらへらと笑いながら話し続けていましたが、野狐はもうほとんど聞いていませんでした。
くそっ! そうか、そうだった。ホストはプログラムが殺させないんだったか。うっかりしてたぜ。
でもまあ、あの中に監禁されてしまえば、何もできないから、同じことか。主人格がずっとあそこに
閉じ込められてる間に、時間が経てば、別人格が乗っ取りを完了するだろう。だったら良いか……。

 野狐がベンチに座ったまま、じっと考え込んでいると、裁判所からたくさんの人々が、ぞろぞろと
外に出てきました。野狐はその中に、白兎と黒猫の姿を見つけました。周囲の人々から、無事に人質
から解放されたことを喜ばれ、ふたりともそれに笑顔で対応していました。その笑顔を見て、野狐は
長く尖った鼻を高く上げて、クンクンと匂いを嗅ぎました。

 やはり、何か臭うぞ。嘘の匂いだ。白兎と黒猫を無実にするために、あの男が罪を全部かぶろうと
した、ってのは理解できる。だが、あのふたりがそれで喜ぶはずがない。ということは、自白は三人
で共謀して行ったことになる。しかし、それで得をするのは、あのふたりだけだ。男がプログラムに
よって監禁される結果は変わらないじゃないか。それでも、笑っていられるということは、この展開
は予想通りってことだ。つまり、この先に何か策があるわけだ。プログラムから男を取り返す策が。
一体どんな方法だ? くそっ、分からねえ! しかしあの三人に、そんな功名な作戦を考えるような
頭脳があったか? いや、そこまで頭が回るタイプじゃないはずだ。どうもおかしいぞ……。

 その時、野狐が座っているベンチの前を、背の低い老兎が、たくさんの人に囲まれながら通り過ぎ
ました。有罪判決を喜んで、ワイワイと騒ぐ声の中に、その老兎が上機嫌で話す声が、野狐の耳に届
きました。「いや〜、まったく恐ろしい想いをしたわ! しかし、おかげさんでプログラムから兎ト
ンネル使用の新しい契約も取れたし、街に平和も戻ったことだし、良かった良かった!」

 野狐は、それを聞いてパッと顔を上げました。そして、裁判所帰りの人々から、スリを働こうと、
カモの品定めをしている狸男の尻尾を、思いっきり引っ張って言いました。

「おい! あいつが最後に、たて篭ってた場所は、どこだったんだ?」
「痛ててっ! 何だよ急に。最後にいた場所? ええっと、あれだよ。兎トンネルを管理してる爺様(じいさま)
の店さ。あの爺様も人質にされてたらしいが、なかなか商売上手な爺様でよ、プログラムがあの男を
ビニールハウスに連行するって話に乗っかって、べらぼうに高いトンネル使用料をふんだくってたぜ
。大した爺様だよ、ほんと」狸男が、心底関心したような口調で答えました。

 野狐の中で、複数の疑惑がひとつに繋がりました。どうやら、この展開はすべて、あの老兎の入れ
知恵のようだな。男が全部ひとりでやったということにして、他の者達は被害者となり、こっそり後
で男を救出するつもりだ。しかも、ちゃんとそのルートも、自分達で確保してやがる。ちゃっかり金
まで手に入れてだ。確かに大した爺様だよ、ほんと。だが、俺の鼻は誤摩化せねえぞ。どうゆう策で
男をプログラムから奪還するつもりか知らんが、まんまと逃げおおせられると思ったら、大間違いだ
からな……。

 野狐はベンチから立ち上がり、狸男に「付いて来い」と言って、その場を離れました。



 ■ 1-15 奪還計画  Rescue Operation


 裁判が終了すると、庭師は護衛官に引きずられ、裁判所の裏口へと連れ出されました。そこには、
噴水広場で遭遇した大きなプログラムと、その他に、少し小さめのプログラムが二体、庭師のことを
待ち構えていました。庭師の姿を確認すると、大きなプログラムが顔のない顔で、庭師を睨みつけ、
グルルルッと低い唸り声のような音を鳴らしました。どうやら、広場でのことを根に持っているよう
でした。その大きなプログラムを制するように、小さい他の二体のプログラムが前に出てきて、庭師
の顔をジロジロと眺めました。

 二体のプログラムは、大きい方と違って、頭も顔もありました。ブリキ人形のような無機質なその
顔の、真ん中にある赤い目で、庭師の顔をピカピカと照らしながら、しばらく覗きこんでいました。
そして、護衛官の方に向き直り、軽く頷きながら「照合、完了」と、機械的な声で言いました。

 それを受けて、護衛官が掴んでいた庭師の腕を離して、庭師の体をプログラムに引き渡しました。
一体が、庭師の横にピタリと張り付き、もう一体が、口からジジジッと受領書のような紙を吐き出し
「ココカラは、我々が彼を連行スル。下ガッテ良い」と言って、護衛官にその紙を渡しました。

 紙を受け取った護衛官は、それを胸ポケットにしまってから「あばよ、魔女殺しの坊や。せいぜい
ビニールハウスの中で、先輩と仲良くするんだな」と言って、裁判所の中へと消えてゆきました。

「コレカラ、安全な場所へ移動シ、お前をシバラクの間、隔離スル。オトナしく付イテ来イ」
一体のプログラムが、庭師の腕をしっかりと掴みながら、機械的な声で言いました。
「……しばらくの間って、どれくらいですか?」庭師はプログラムに尋ねました。

「勝手ナ質問は、受け付けナイ。コイツにデリート処分されないダケ、有リ難ク思エ」
もう一体のプログラムがそう言って、後ろの大きな首無しプログラムを指差しました。
「……あの。ちなみに僕は、別人格じゃなくて、主人格の方なんですけど?」

「そんなコトはモチロン分かっテイル。今のお前は別人格以下ダ。我々はもうお前に任せてオケナイ
と判断シタ。モハヤ、お前はタダの保険に過ギナイ。保険は保険ラシク、出番が来ルまでジッと待機
シテいれば良イ。分かっタラ無駄口を叩かズ、黙ッテ付イテ来イ」


 それから、庭師は二体のプログラムに連れられ、裁判所の裏口から外へ出ました。裁判所の外には
大勢の報道陣が詰めかけていました。庭師が姿を現すと、一斉にカメラのフラッシュが焚かれ、記者
達が次々にコメントを求めてきました。その記者の群れを、警官達が近付き過ぎないように、押さえ
付けるのに、忙しそうでした。その場所には、記者も他にもたくさんの野次馬が集まっており、すぐ
先にある麒麟(きりん)の銅像を囲んで、庭師が到着するのを、待ちわびているようでした。

 二体のプログラムが群衆を掻き分けながら、庭師を引きずって、麒麟の銅像の所まで辿り着くと、
そこには、いかにも偉そうな顔をした警官や、市長のような者と共に、老兎の姿もありました。庭師
が到着すると、市長のような者が大きな声でスピーチを始め、記者達がそれをまたパシャパシャと撮
影しました。周りに集まった市民達は、市長が何か言うたびに「そうだそうだ!」とか「早くそいつ
を追放しろ!」などと、口々に叫び、大盛り上がりでした。

 演説が終わると、今度は偉そうな警官が、判決文のような紙を読み上げ、老兎に兎トンネルの蓋を
開けるよう、指示しました。老兎が指示を受けて、銅像のお尻に鍵を差し込み、麒麟の首を掴んで、
ガチャリと折り曲げると、銅像の土台部分がパカッと開き、地下へと続く階段がそこに現れました。

 次に、白兎が老兎の後ろから前に出てきて、偉そうな警官に一例すると、階段の入口に立ってプロ
グラム向かって、道案内の準備はオーケーだという視線を送りました。そして、庭師のことをキッと
睨みつけました。おそらく、自分をひどい目に合わせた復讐のために、この役を買って出たのだ、と
いう白兎なりの演出なのでしょうが、あまりにわざとらしくて、庭師は内心ヒヤヒヤしました。

 群衆から沸き起こる「追放コール」を一身に受けながら、庭師はプログラムに連れられて、階段を
降りてゆきました。庭師の姿が見えなくなると、わっと歓喜の声が辺りを包み込みました。最後に、
白兎がまるで英雄気取りで、その声援に手を降りながら階段を降りてゆくと、呆れ顔した老兎がまた
麒麟の首をガチャリと元に戻して、兎トンネルの蓋を閉め、追放セレモニーは無事に終了しました。


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 トンネル内をビニールハウスに向かう道中、白兎はずっと喋りっぱなしでした。あまりにも白兎が
自分の話に熱中しているので、庭師は白兎が計画を忘れているのではないかと思って、かなり心配に
なりました。老兎の計画では、そろそろ予定の地点に到着していても良いはずでした。しかし、白兎
は一向に動き出す気配がありません。このままでは、計画の場所を通り超して、ビニールハウスまで
到着してしまいそうでした。

「あの、僕すごくオシッコしたいんだけど」庭師が、たまらず口を開きました。
「ん? ああ、もうすぐ着くから我慢しな」白兎が、素っ気なく言いました。
「……でさあ、こっからがこの話の面白いトコなのヨ」白兎はまた話を続けようとしました。

「漏れて、水浸しになったら大変でしょ?」庭師は、白兎に気付いてほしくて、そう言いました。
「水浸し? オマエさん、そんな大量にオシッコ出るのか?」白兎が怪訝な顔をして言いました。
「だからさあ! もしそうなったら大変でしょ?」庭師は、白兎に顔で合図しながら言いました。 

 二体のプログラムは、お互い顔を見合わせながら、ふたりの不自然な会話を聞いていました。


 その数メートル先の曲がり角では、黒猫が心臓をバクバクさせながら、じっと待機していました。
老兎の計画通りに、庭師達よりも先にトンネル内に潜入し、渡された図面に書かれた合流地点まで、
何とか自力で辿り着いて、庭師達が来るのを、長い間待っていました。老兎の話では、この辺りは、
すぐ近くに小川が流れており、小川の増水によって今は使用禁止になっている出口のレバーを引くと
小川の水が一気に流れ込んでくる、ということでした。黒猫は今まさにそのレバーに手をかけ、白兎
から合図が来るのを、待っていました。その黒猫の肩の上では、ビニールを体に巻き付けた二十日鼠
が緊張した様子で、同じくその時を待っていました。


「あ、そうか!」白兎がようやく何かを思い出したように言いました。

「あっれ〜〜? おかしいゾ! あの出口、今はもう使われてないハズなのに、電気が付いてる! 
こりは怪しいな! アンタ達、ちょっと覗いてきてくれよ、誰か待ち伏せしてるかも知れない!」
 白兎が、実に下手糞な演技で言いました。

 二体のプログラムは無言でお互いの顔を見合わせていましたが、しぶしぶ了解してくれたようで、
白兎が指差す出口の方へ向かいました。そして、銃を構えながら、地上へと続く縦穴を下から覗き込
みました。二体のプログラムが、赤く光る目で上を照らし、不審者がいないか確認していたその時、
ふいに白兎が「はーっくしょんっ!」大きなくしゃみをしました。その声はこだまとなってトンネル
内に響き渡りました。「ゴメン、風邪引いちゃって。ズルルッ」白兎がわざとらしく言いました。

 次の瞬間、頭上からゴボゴボッという大きな音がしたかと思うと、突然、地響きと共に、大量の水
が勢い良く二体のプログラムの上に降り注ぎました。衝撃で、プログラムは壁まではじき飛ばされ、
構えていた銃が宙を舞いました。水はあっという間に、トンネル内の空間を半分以上埋め尽くし、庭
師と白兎もその水流に飲み込まれて、トンネルの奥へと一気に流されました。

 庭師と白兎が、もみくちゃにされながら曲がり角の所まで流されてゆくと、待機していた黒猫が、
用意していたゴムボートに乗ってふたりを待ち構えていました。「こっちよ!」黒猫がそう叫んで、
手を伸ばして、ふたりをボートの中に引き込みました。しかし、その時、水中から二体のプログラム
が現れ、庭師の足にしがみ付きました。「うわあ! 助けて!」庭師が悲鳴を上げました。黒猫はそ
れを見て「掴まって!」と叫び、ボートと気の根っこを結んでいたロープを、ナイフで切りました。

 支えを失ったボートは、水流に乗ってすごいスピードで走り出してゆきました。時々、ひっくり返
りそうになるくらい、左右に波打ちながら進むので、庭師は今にも振り落とされそうになりながら、
それでも必死にボートに食らい付きました。そのうち、二体のうち一体のプログラムが、激しく壁に
激突し「ギャッ」という声を上げて、庭師の足から手を離して濁流の中に消えてゆきました。残った
もう一体がそれを見て、赤く光るを目をさらに赤く光らせて、庭師の足を強く握りしめました。

「こんにゃろめ! サッサと落ちろイッ!」白兎がプログラムの頭をオールでぼかぼかと叩きました
が、プログラムは振り落とされるどころか、庭師の足から腰の辺りまで、じりじりとよじ登って来て
いました。そして、とうとう庭師を乗り越え、ボートの中に転がり込んでしまいました。足場を確保
したプログラムは、怒りに満ちた表情で立ち上がり、震え上がる庭師と白兎を見下ろしました。

「出口よ! 伏せてっ!」黒猫がそう叫んだ瞬間、ボートがトンネルを抜け、大量の水と共に、勢い
良く空中に飛び出しました。そこは切り立った崖の中腹でした。崖の壁面に空いた穴から、水が噴き
出し、今まさにボートもその穴から、外へと飛び出したところでした。立ち上がっていたプログラム
は、その穴を通過する瞬間、トンネルの天井からせり出した岩に頭をぶつけ、首から上がなくなって
いました。ちぎれた首元から火花が飛び、ビリビリと故障音を響かせながら、そのまま後ろにひっく
り返るようにして、すっと空中に消えてゆきました。

 そして、三人と二十日鼠一匹だけを乗せたボートが、崖の下を流れる小川に、ざぶんと着水しまし
た。くらくらする頭を抱えながら庭師が崖の上を見上げると、壁の穴から吹き出す水が弱まり、最後
にポンッと、もう一体のプログラムが吐き出されるところでした。飛び出したプログラムは、綺麗な
弧を描いて宙を舞ってから、そのまま川沿いの岩の上に墜落して、ボンッと火を吹きました。


「フーッ、スリル満点だったナ!」白兎が興奮気味に言いました。
 庭師と黒猫は、黙って白兎を睨みつけ、力尽きたようにボートの上にひっくり返りました。
 ビニールを身に纏った二十日鼠も、今回は疲れ果てて、チッとすら鳴きませんでした。



 ■ 1-16 船出  Departure


「で、補佐官、状況は?」

 水浸しになった兎トンネルの中で、大きな長靴を履いたブルドックの保安官が、足元の泥水を掻き
分けながら、いつにも増して不機嫌そうなしわくちゃの顔で言いました。

「はい。それでは、ご説明します」
 コーギーの補佐官がいつものように締まりのない反笑いの顔で、制服の内ポケットから手帳を取り
出し、ペラペラとページをめくりながら答えました。

「先程、兎トンネル内に、小川の水が流入する事故が発生したと、兎トンネル運輸から通報があり、
救助隊が現場に急行。事故当時は、ちょうどプログラム二体と、案内役の兎が、例の魔女殺害犯を、
ビニールハウスへと護送中でして、全員が事故に巻き込まれた模様です。目下、消えた一行の行方を
捜索中ですが、現場には今もこのように、大量の水が溜まっている状態であるため、捜査は難航して
おります。通報してきた兎トンネル運輸の店主の証言では、案内役を買って出た白兎は、麻薬野菜の
常習者であり、おそらく、出口と間違えて、使用禁止になっていた出口のレバーを引いてしまったの
ではないか、とのことであります」

「……それで、プログラムまで一緒に流されてちまったって言うのか?」
「はい。結構な勢いの水流だったらしいですからね。おそらくそうでしょう」
「しかしまあ、トンネルがこうも入り組んでちゃ、遺体を見つけるのも、ひと苦労だな」
「ええ。この調子では、きっと遺体が全部上がるまで、何週間もかかるでしょうね」
「そのトンネル会社も、しばらく営業できなくなって、いい迷惑だろうな」
「いえ、それが、保健を掛けてあるから、逆に大儲けらしいですよ」
「へっ、たいした爺様だな…… あ痛て!」
「どうしました? 保安官」
「いや、何かロープの切れ端が付いた棒切れにぶつかっただけだ」
「そうですか。危ないから、折ってそのへんに捨てちゃってください」
「そうだな…… これで良し。まったく、犬も歩けば何とやらだな」
「その調子で、何か有力な証拠に当たれば良いんですけどね……」

 泥水を地上へ掻き出す作業員達の様子を見守りつつ、保安官と補佐官は深いため息をつきました。
そのふたりの足下で、ロープの切れ端が付いた棒切れが、ゆっくりと沈んで、泥に埋もれて見えなく
なってゆきました。


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 たくさんの警察が出入りする、兎トンネルの出口から、少し離れた林の陰で、野狐がその様子を、
じっと伺っていました。そこへ、狸男が、息を切らしながら走り寄って言いました。

「はあ、はあ、どうやら、遺体はまだ上がってないらしい、はあ、どっかに流されちまったんだろ」
「……やっぱりか」野狐は、予想通りといった顔で言いました。「遺体なんか見つかりゃしねえよ」

 野狐はそう言って、腕組みをして考え込みながら林の中を歩き出しました。……ヤツラは生きてる。
これは、死んだと見せかけるための演出に違いない。死んだように見せかけることで、追っ手が後を
付いて来ないようにしたんだろう。つまり、この街にもう用はないってわけだ。となると、もう既に
どこか違う場所へ向けて、出発している頃だろう。問題は、ヤツラが次にどこへ向かったかだ……。

 野狐がぶつぶつと独り言を言いながら、林の中を行ったり来たりしていると、狸男が突然「ああ、
もう、我慢できねえ」と言って、おもむろにズボンをずらして立ち小便を始めました。そして、その
直後に「うわっ、全部足元に向かって流れてきやがる!」と叫んで、小便をしながらぴょこぴょこと
後ずさりしました。野狐はそれを見て、顔をしかめながら「少しは傾斜を考えろよノータリンがっ」
と言った後、急に何かに気が付いたように、ハッとした表情に変わりました。

「……そう、水は必ず上から下に流れるもんだ」野狐はそうつぶやき、林の先にある崖の方へと歩き
出しました。崖の淵まで来ると、下を覗き込んで、眼下を流れるもうひとつの小川を見付けました。
そして、耳元まで裂けた口でにんまり笑って言いました。

「小川から流れ込んだ大量の水には、必ず逃げ場が必要だ。だが、トンネル内には人が出入り出来る
程度の水しか残ってない。じゃあ、その大量の水は一体どこに消えたんだ? その答えは、これだ。
崖の下を流れるあの小川へ排出されたとしか考えられねえ。つまり、ヤツラは水流に乗って、あの崖
の下の小川まで出たんだ。間違いねえ。あの小川を下って行ったのなら、おそらくヤツラ、夏の庭園
『ヘブンズ・ゲート』へ行くつもりなんだろう。くっくっくっ。これでみんなを上手く騙したつもり
だろうが、この俺だけは騙されないぜっ。俺は何でもお見通しなんだよっ! そう、アグスティナの
ようになっ!」

 野狐はそうつぶやいてから、崖の淵から林へと戻り、スッキリ顔の狸男に向かって言いました。
「さあ、ぼやぼやしてないで、俺達も出かけるぞ。さっさと準備しろ! ほら走れっ!」


 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 そのころ、三人と二十日鼠一匹を乗せたボートは、小川の上をプカプカと浮きながら、流れに任せ
下流へ向かって、のんびりと進んでいるところでした。濁流の中でのプログラムとの攻防から無事に
逃れることができた安心感で、三人とも、ただぼんやり春の穏やかな気候に身を委ねていました。

「これでしばらく、この麗らかな陽気ともオサラバってわけカ」白兎が、ぼそっとつぶやきました。
「ごめんね、僕のせいで住み慣れた街を離れることになって」庭師が申し訳なさそうに言いました。
「ベニーはどのみちクビになってたから一緒じゃない?」黒猫が白兎をからかうように言いました。

「……チェッ、そういう自分だって、魔女の使い走りができなくなって、失業状態のクセによ」
 白兎が、黒猫に聞こえないよう、庭師の耳元でこっそり囁きました。

「ところで、その『ヘブンズ・ゲート』って街までは、どのくらいかかるのかな?」
 庭師が体を起こし、小川の前方を見渡しながら、ふたりに尋ねました。

 庭師に続いて、白兎も体を起こして、黒猫の顔を見つめました。黒猫も白兎の顔を見つめました。
そのまま一瞬、変な沈黙があり、次に黒猫が「え? 何、私に聞いてるの?」と驚いて言いました。

「私、知らないわよ? あなたが知ってるんじゃないの?」黒猫が白兎に向かって言いました。
「オイラだって知らねえヨ! この街から出たことねえモン!」白兎も驚いた顔で言いました。
「え! じゃあ、誰もその街への行き方を知らないわけ?」庭師が焦りながらふたりに言いました。

「そもそも、あなたの親分の案なんだから、当然あなたが行き方知ってるかと思うじゃない!」
「オイラ、そっちがトンネルで待機する前に、当然きちんと調べてるモンだと思ってたヨ!」
「じゃあ何? 私のせいだって言うの? あなた、作戦ほとんど忘れかけてたくせに!」
「オイラはプログラム相手に演技する大役をやってたんダ! そっちは裏方ダロ?」
「もー、ここまで来たのに、また喧嘩?」

 三人がまた例の如く、言い争いをしながら、ただ騒いでいる間も、ボートはゆったりとした小川の
流れに乗って、下流へと進んでゆきました。時々、そのボートのすぐ横で、パステル色の魚が跳ね上
がり、キラキラと水しぶきを輝かせながら、またポチャンと水の中へと消えてゆきました。

 しばらくそんな調子で、何も解決しないまま、ただ時間だけが過ぎて、庭師が困り果てていると、
小川の上流の方から、かすかに誰かの歌声が聞こえてきました。庭師が言い争うふたりを無視して、
その歌声のする方に目をやると、派手な柄のシャツを着た家鴨(あひる)と、黒いサングラスをかけた鵞鳥(がちょう)が、
小さなイカダの上に寝そべって、小さなギターを演奏しながら、こちらの方へ流れてきました。

「君が喜ぶのなら ダイヤの指輪も買ってあげよう〜♪
 君が喜ぶのなら どんなものでも買ってあげよう〜♪
 金だったらいくらでもあるぜ だけど 愛だけは買えないのさ〜♪」

「あのー、すいません。ちょっと良いですかー?」庭師が、そのイカダに声を掛けました。

「何だいっ兄ちゃん。俺達に何か用かいっ?」家鴨が、歌うのを止めて庭師に答えました。
「兄ちゃん良いボートに乗ってるなっ。こっちと交換しねえっ?」鵞鳥が笑いながら言いました。

「……いや、あの、ちょっと道を探してるんですけど、教えてもらえます?」

「ああ、良いともさっ! まずはこの小川から陸に上がってだな、向こうへ歩けば道に出るよっ」
「そうそう、道ってのは、陸の上にあるもんだっ。水の中に道が落ちてるとでも思ってんのかい?」
 そう言って、家鴨と鵞鳥はお互いの顔を見ながら、ガアガアとしゃがれた声で笑いました。

「……あの、そうじゃなくて。『ヘブンズ・ゲート』という街までの道を知りたいんです」

「ふんふん、なるほど。だからとにかく、まずはこの小川から陸に上がることが先決だなっ」
「せっかく良いボートがあるのに、陸路であの街を目指すなんて、兄ちゃん変わってんなあっ!」

「いや、道って言うのは陸路のことじゃなくて! 行き方を聞いてるんです、行き方を!」
「何だい、いきなり何怒ってるんだいっ? 人が親切に教えてあげてるのに、失礼な奴だなっ」
「兄ちゃんの質問の仕方が悪りぃんだよっ、もう一回ちゃんと聞いてみたらどうなんだっ?」

 庭師はイライラする気持ちをぐっと堪えながら、深呼吸してから、質問し直しました。

「……ええっと。僕達『ヘブンズ・ゲート』に行きたいんですけど、行き方、知ってませんか?」
「おうっ、知ってるとも、知ってるとも! なんせ俺達も、今からそこへ行くところだからなっ!」
「俺達、兎の爺さんから、兄ちゃん達をそこまで案内するように、頼まれて来たんだっての!」

「え? 兎の爺さんて、あの兎トンネル運輸の?」庭師は驚いて聞き返しました。
「そうそう、その爺さんよっ。他に誰がいるってんだい、あんなガメツイ爺さんがよっ?」
「ってことで、こっからは俺達がしっかり水先案内してやっからよ、安心しな兄ちゃんっ!」

「あ、ありがとう。……助かったよ」庭師は、ホッと胸を撫で下ろしました。

「なーに、お安い御用よっ! 高い謝礼はいただいたけどなっ!」家鴨はそう言って、自分たちが乗
って来たイカダと、三人が乗っているボートを縄で縛り付けました。途中まで喧嘩をしていた白兎と
黒猫も、ようやく事態に気付き、言い争いを止めて、家鴨と鵞鳥の様子を覗き込んでいました。

「これで良しっ。後は小川の流れに任せながら、分かれ道だけ間違えなければ『ヘブンズ・ゲート』
まで辿り着けるぜっ。兎の穴は兎が一番詳しいように、小川のことは水鳥に任せときなっ。ところで
俺の名前はカーキー・キャンベル。こっちの鵞鳥はスコッチ・ウォッチだ。よろしくなっ!」


 三人がそれぞれ家鴨と鵞鳥に自己紹介をしながら握手をしていた、ちょうどその時、空の彼方から
ぼーんという鐘の音が、一回だけ響き渡りました。「一時の鐘だ……」庭師はつぶやきました。あの
不思議な庭で、自分とそっくりな男に出会ってから、今まで色々あったのに、外の世界はまだ一時間
しか経っていないようでした。この世界では時間がゆっくり流れていると言っていた、魔女の言葉は
本当でした。

 ゆっくりとは言え、自分がこの不思議な世界に取り残されたまま、外の世界で確実に時間が過ぎて
いることに庭師は不安を覚えました。このまま五時の鐘が鳴ってしまったら僕はどうなるのだろう?
別人格に身体を乗っ取られて、本当に一生ここから出られなくなるのだろうか? そもそも、五時に
なるまで無事に生きていられるかどうかも定かじゃない。僕が無事に元の世界に戻るためには、あの
別人格よりも先に『意識の宿る場所』を探し当て、そこで『僕らしいことをすれば良い』らしいけど
そう簡単に行きそうにもない。むしろ、ここまで生き延びたことの方が奇跡みたいなものだ……。

 ……でも、せっかくみんなが力を貸してくれているのに、僕が弱気になってちゃダメじゃないか。
もうこうなったら、やるしかないんだ。おどおどしてたって何も始まらない。こんな性格してるから
ホスト失格にされてしまうんだ。これは、自分で蒔いた種なんだ。今までずっと、いろいろなことを
諦めて、立ち向かわずに逃げてきたから、いけないんだ。さあ、勇気を出すんだ!

 庭師は不安でいっぱいの胸を手で抑えながら、それでもしっかりと前を向きました。
 家鴨と鵞鳥が小さなイカダに寝転がりながら、小さなギターをかき鳴らし、また歌い始めました。

「ひとりぼっちのあいつよ、聞いておくれ〜♪
 君は大事なことを忘れてる、世界は君の思うがまま〜♪
 生きてる意味も分からない、これから行く先も分からない〜♪
 それはまるで僕と君のよう〜♪」


( 第二章へと続く )

脳・内・庭・園  < 第 一 章 >

脳・内・庭・園  < 第 一 章 >

主人公の「庭師」が、ある日、ひょんなことから自分の頭の中に創り上げた不思議な世界「脳内庭園」にトリップしてしまい、そこに住む、もうひとりの自分(別人格)と、身体をコントロールする権利をめぐって争う物語。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-23

Copyrighted
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