稜線の鬼
本文(完結・短編)
このロッジに備蓄されている食料だけでは、冬を越すのは難しそうだった。
といっても、周囲の建物にはありあまるほどの量が眠っている。だが、それを手に入れるのは、今となっては少々の危険が伴う。
幸典は、食糧をさっさと取りに行かなかったことを後悔したが、それはまだ小さなものだった。
幸典が、犬以外に話しかける相手がいなくなって二年。スキー場のゲレンデに面した小さなロッジに備えられていた保存食は、残り少ない。彼は、ロッジのリビングに置かれた古いソファに身体を埋め、窓からわずか数十メートルしか離れていない小さなホテルを見た。ひとりになってから、たったそれだけの距離を移動するのも億劫になっていた。
「お前たちだってここの方がいいよな」
そう言いながら、目の前に座ってゆったりと尾を振る大型犬の頭を撫でる。種類など知らない。
手入れする者が消えて二シーズン目を迎えたゲレンデはでこぼこで、リフトもゴンドラも油ひとつ差されていないので錆び付いている。いずれ並んだ支柱のどれかから倒れるのだろうが、今さら手入れする気もなかった。
麓へ車で二十分も走れば、一万人ほどが暮らしていた町がある。彼も、初めのうちは麓の町どころか、生まれ故郷の山中から、危険を冒して東京まで遠征していた。
幸典は東京を数ヶ月にわたって走り回った。だが、いるのは凶暴化した野犬と野良猫とカラス、それにネズミばかりだった。そして夏が終わり秋が過ぎ、初雪が降った日「ここで余生を送るのはご免だ」二十六歳の幸典は、踵を返した。
行きはスムーズに通れた道が、戻るときには、倒木や飛ばされた看板などで塞がれているところが多く、それらを避け、迂回して、行きの倍以上の時間がかかった。
「なるほど。手入れをする人間がいなくなれば、あっという間にこうなるわけだ」
二度目の冬が到来した。その間、幸典は実家であるロッジに籠もり、何故、人間が彼だけを残して消えたのか、それだけを考えて過ごした。だが、結論など出ない。
やがて、近寄ってくる野犬の中から、凶暴化していない犬を選び、手元に置いて話し相手代わりにするようになった。
食料や水や犬の餌は一生分がゲレンデに面した数軒の宿で事足りる。ただ、十年一日の如く過ごしてきたせいで、すっかり怠惰になった彼は、周囲の建物から食糧や生活必需品を移動するのを怠り、このロッジの備蓄は心許なくなってきていたのだ。
「まあ、明日でいいよな」
幸典はもう、日にちを数えたりしていなかった。
——翌日。数ヶ月ぶりに外出着を着込んだ幸典は、ロッジの前に真新しい足跡が踏み散らかされているのを見た。前日に外へ出した犬たちの無数の足跡の上から、人間離れした、だが間違いなく二足歩行しているものの足跡が残されている。そしてそれはまるで、雪の底の地面にまで届いているのではないかと思えるほど、深い。
「熊か? 熊だとしたら、あっちのホテルに移らなきゃならないか」
踏み荒らされたロッジ前の広場を渡った先に建つホテルは、彼の住むロッジと違い鉄筋鉄骨造で築数年だった。二階へ上がり防火シャッターを下ろせば、熊くらい防げそうに思えた。
彼は二階へ上がり、猟友会会員だった父の書斎から猟銃を一丁、持ち出した。彼も、二十歳を過ぎると父から強引に猟へ連れ出され猟銃の所持許可証と狩猟免許を取っているので、扱いは承知していた。
「親父が熊撃ちでよかったよ」
彼が手にしたのは、大口径ライフルだった。犬を出し、あたりを窺う。猟犬ではないので期待はしていない。案の定、犬たちは外へ出た嬉しさで雪の上を疾走し、じゃれあっている。幸典も表へ出た。耳をすまし、あたりを注意深く見回す。
「よし」
一頭の中型犬が足元にまとわりつくのを追いやり、幸典もゲレンデへ降り立った。目指すホテルへ向けて歩き出す。
人を撃つ恐れはほぼないので、安全装置は最初から外してあった。
数日前に纏まった雪が降ったせいで、一歩ごとに足が埋まる。幸典は、普段の年なら父親が喜んだろうなと思いながら、苦労してホテルの前まで来た。そこまでに、不審な気配や動きは感じなかったので、ようやく構えていた銃を下へ向けた。
次の瞬間、ホテルの正面玄関の分厚いガラスが砕け散って、真っ黒な塊が躍り出てきた。まったく気配など感じていなかった幸典は、咄嗟に何も出来ずに後ろへ引っ繰りかえった。その上に塊がのしかかる。「熊だ」と、幸典は思った。
顔を棍棒か何かで殴られたような衝撃が走って、気が遠くなる。肩に鋭い爪なのか牙なのか分からないが、とにかく何かが深々と突き刺さった。それも一本や二本ではない。視界は完全に、目の前の塊によって塞がれていた。
訓練など受けていない犬たちは遠巻きになって吠え立てている。が、逃げ出したものの方が多かった。黒い塊は、三メートルを優に超える大きさがあった。すでに彼の顔面も肩口も血まみれで、飛び散った血が、雪を点々と赤く染めている。
黒い塊が、背を反らせて咆吼した。幸典の頭がすぽり入りそうな大きな口をいっぱいに開けている。その中には、幸典から食いちぎった肉片が、鋭い牙に引っかかっていた。顔面も、全身に生えた長くごわついた体毛も漆黒である。衣服は纏っていない。そして額の上から一本の長い角が突き出ていた。
仰向けに倒れている幸典は顔面を食い千切られ、右の眼球も失っていた。意識も無くなりかけている。それでも無意識に、手にしたライフルの銃口を空に向けた。
黒い塊が両腕を振り上げた。幸典の喉笛目がけて一気に振り下ろす。
「熊じゃない。鬼……」
それが幸典の最後の思考だった。鬼の拳が幸典の喉を押しつぶすと同時に、一発の銃声が響いた。
ライフルから、うっすらと煙が立ち上る。弾は、きんとした空気を切り裂いて、抜けるような青空へと消えた。
——だが鬼はゆっくりと横倒しに、幸典の傍らに倒れると数回痙攣して動かなくなった。
ゲレンデを見下ろす稜線に、一本の長い角が突き出ていた。それはだが、角ではなく銃身の長いアメリカ製のライフル銃だった。銃の持ち主は、鬼の隣に倒れている幸典が、内臓をぶちまけて動かなくなっているのを見てとると、稜線の向こうへと消えた。
しばらくすると、遠巻きにしていた犬たちが怖々と集まりはじめた。幸典も鬼も完全に絶命して、ぴくりともしない。ふたつの亡骸が放つ血の臭いに、犬たちが興奮しだす。徐々に幸典と鬼の死体に近づいた一頭が、鼻先を幸典の臓物に持っていった。
犬は、顔面ごと巨大な手に掴まれて、あっという間に頭を潰された。潰したのは、たった今まで倒れていた幸典だった。その腕は漆黒に染まり、顔も、何もかもが、どす黒くくすんでいた。
幸典は起き上がると、しゃがんだまま、潰した犬を頭から囓りはじめた。骨や皮も構わずに咀嚼し、嚥下していく。
やがて一頭丸ごと食い尽くした幸典が立ち上がった。その身の丈は三メートル近い。右の目には眼球が無いが、彼自身は全く気にする様子はなかった。額の上あたりの皮膚が硬く突き出しはじめている。
幸典は足元を見た。その目はすでに理性的な光を失っている。彼はもう一度しゃがみ込むと、倒れている鬼を引きちぎり、食い始めた。残りの犬が逃げ散るが気にかける様子はない。このゲレンデだけでも、かなりの食料が残っている。
だがそれを食い尽くしても、あの稜線の向こうへ行けばいい。幸典だったものは、ぼんやりそんなふうに感じていた。稜線の向こうにはきっと、まだ少しは人間が残っている。
——食糧は、まだ周囲にたっぷりある。それを取りに行けばいい。今度は怠けずに、さっさと調達に行くのだ。
(完)
稜線の鬼