四百字の世界
道往く人
僕は道を往く。道なき道を往き、いろんな景色を見て、いろんな詩を書きたいと思った。すると、旅慣れた人たちが言った。あの高い山に登れば、沢山の景色を一度に見渡せる。確かにその通りだと思い、僕は威勢よく山道を駆けはじめた。
ほんの少し登って、僕はすぐに参ってしまった。道は険しくはてなく遠く思えた。往くうちは詩を唄う余力も無さそうだ。もう一度山を仰ぎ見れば、遠く高い山の峰は一度登ったらそう簡単には下りられそうになかった。
僕は山を上るのを諦めた。仲間たちに別れを告げると、彼らは意気地のない僕を窘めた。最初だけ勢い巻いて、辛くなったらすぐに諦める。それで一体何処に行けるんだと彼らは言った。言葉も無かった。
でも結局、僕は別の道を往くことに決めた。山道を諦めて、いつものように道を往く。この先の道で僕が何を見て、何を得るのか。僕にはまだ分からない。
ウタウタイ
「ストップ、ストーップ」
パンパン、と手を叩く音と共にピアノの伴奏が止まる。バラバラと各パートも歌うのをやめた。
「もっと弾むように楽しく、例えばこう」顧問の先生が唐突にオペラ歌手ばりの歌声で歌い始めた。その聴きなれない野太い美声を聞きつつ、なぜこうなったと何度目かの自問自答を繰り返した。突っ込みどころ満載なのに上手く突っ込めないこの空気を共有できる友を探すが、唯一、視線に気付いた同じバスパートの先輩はチュッと投げキッスを返してきた。ダメだ、この人も向こう側の人間だ。
「じゃ、ちょっとスキップしてみましょう」
何がどう「じゃ」なのか、戸惑う間もなく伴奏が始まり、周りの空気に押されてスキップをしながら歌い始める。最初は恥ずかしいがアドレナリンが出始めたのか徐々に楽しくなってきた。染まりつつある自意識にその時まだ僕は気付いていなかった。
アモル
「ゲーテの『そら死に』って詩を知ってる?」
そう言って、古い女友達は手にしたティーカップをテーブルの上に置いた。目の前に座っていた僕は――半年ほど前、婚約していた十年来の恋人に「他に好きな人が出来たの~」とあっさりフラれて、すっかり女性不信になった僕は――首を横に振ると、彼女が劇がかった口調で言う。「お泣きよ、おとめ、ここがアモルのお墓です――まあ要約すると、アモルは死んだけど、ふとしたことで蘇るんだって詩だよ」そう言って微笑む。「なるほど」僕は大仰に頷いた。「アモルは死なん、何度でも蘇るさ! ってわけだ」「キサマ、私をジブリ好きと知っての狼藉か!?」彼女はわざとらしく両手で目の端を釣り上げる。顔を見合わせて、二人して笑った。
「そろそろ行こっか」席を立ち上がる彼女に、僕は内心で礼を述べた。彼女のアモルは、きっとここにはいないけど、僕のアモルは、今日確かに蘇ったのだから。
キラキラ
名は体を現すという。殊に人間にとってそれは特別であり、名には必ず意味がある。例えば「子」という字は一から了まで生きられますようにという意味だし、太郎というのは正道を雄々しく生きよという意味が込められている。名はそのように育ってほしいという親の願いであり、大なり小なり子はそのように育つだろう。教室の斜め向かいに座る勝という名の男子は勝気で何事にも挑戦的だし、後ろの静子という女子は自己主張も強くなく穏やかだ。教室の反対側にいる弥生という幼馴染は益々生い茂るという意味にぴったりのやかましく苛烈な性格をしている。
名は本人にとっても重要だ。一種の自己暗示とも言える。自分の名の由来を知れば少なからず意識するし、そうでなくとも字面を見れば意味は自ずと知れるだろう。
「おい、トラ。次は移動教室だってよ」友人の呼び声に顔を上げた。俺こと星野得虎男の名には、さてどんな意味があるのか。
白い女
雨の降りしきる、蒸し暑い真夏の夜のことだった。私は交番のデスクにひとり待機していた。開かれた入り口の外は吸い込まれそうな夜闇が広がっている。普段は賑わしいほどの繁華街が、どうしたことか今日に限っては死んだように静かだった。しとしとと雨の降る音が響いている。
夜半を過ぎた頃、ひとりの女性が交番を訪れた。白いワンピース姿の青白くも美しい顔立ちをしている。長い髪から雨を滴らせつつ俯きがちにぼそりと呟いた。「財布、届いていませんか」私は今晩届いた財布を取り出して示した。女性は食い入るようにそれを見つめる。「中身の確認をお願いします」そう言って財布を開こうとした時、女性は突如奇声を上げて猛然とつかみかかってきた。私は驚きのあまり財布を放った。中身が床にばら撒かれる。するりと抜け落ちた免許証、その写真が顕になった時、私は絶叫を上げ、彼女もまた泣き叫びながら写真を両手で覆った。
パスタ
「だからよう、人間と人間ってのはこのパスタみたいなものなのさ」
出立の日、慣れ親しんだ木造の戸を開けて店内に入った私をいつものようにマリオが迎えた。厨房に立って私のためにパスタを茹でながら、唐突にそんなことを言った。
「こうやってぐるぐる茹でられて、出会っては別れ、再会もあればまた新しい出会いもある」
煮え立つパスタポットから顔を上げ、マリオはニカッと笑った。その太陽のような笑顔は五年前のあの日と寸分違わず、遥か東の地から単身訪れた私を照らしてくれた。
「どうだ、わかるか」マリオが尋ねる。私は腕を組み思案気な顔を見せてから答えた「さっぱりわかりません」厨房でマリオが盛大に脱力する。「だから」私は言葉を続けた。「分かるまでは料理人を続けようと思います」マリオはしばし眼をしばたたかせたあとで、また太陽のように笑った。
拳の意志
「本当は、人を殴りたくないんです」
稽古を終えた道場で僕は師匠に向かってそう口にした。怒られるかなと思ったが、師匠は「ふむ」と頷いた。しばらくして、「例えばある男が誰かを痛めつけているとしよう」と師匠は言った。「奴は常習犯だ。お前はそれを止めなくてはならない。さてどうする」僕は「説得します」と答えた。もし応じなかったら、と師匠は言う。僕は少し悩んで、捕縛しますと答えた。師匠はなぜと問う。そうするしかないから、と僕が答えると「そうか」とまた頷き、「俺なら叩きのめす」とこともなげに言った。「お前はなぜ人を殴りたくない」師匠がまた尋ねる。「殴られるのは痛いし怖いから」僕が答えると、師匠はそうだなと頷いた後で「だから俺は殴るんだ」と答えた。「拳に意思を持て」師匠は言った。「どうするかはお前の自由だ。拳でも言葉でもいい。意思を持て。意思のない力が暴力だ」師匠は僕の頭を小突いて頷いた。
四百字の世界