古希のわるさ
佐部一輝の第三弾です。今回はペンキ屋のオヤジの話である。
台風シーズンがやっと終わりかけた十月上旬。
台風シーズンがやっと終わりかけた十月上旬。
オレこと伊坂良太はゼネコンの現場にいた。
オレが詰め所に行くと、川吉は監督たちと朝の打ち合わせをしていた。
オレの親方である霧川雲伝から川吉の特徴は聞いていたので、あいさつに出向き声をかけた。
「霧川塗装の伊坂です。今日からよろしくお願いします」
「おぉ、お前さんか、新規の職人は。ああ、よろしく、吉川川吉だ」
川吉はそう言うと、監督たちから距離を置き、オレと正対してくれた。
ざっと、霧川親方からは川吉について聞いていた。
吉川川吉、姓がよしかわ、名がかわきち、漢字では上から読んでも下から読んでも吉川川吉、人呼んで刷毛の川吉。
刷毛を持たせたら天下一品とか。北関東のペンキ屋仲間ではちょっとした有名人だ。
年の頃は古希ぐらいだ。肌黒、白髪白ひげで上背はさほどないが、現場では目立つ存在だ。後光を照らしながら現場を闊歩しているとか、聞いた。
オレが見た感じでは、川吉は姿勢がよく、ぱっと見、やはり並のオヤジたちとはどこか違う、凄みがある。顔にシワはあるが緩みがない。
態度もでかいが、声もダミ声で、でかい。とても古希を迎えたオヤジには見えない。
「霧はどうした。まだ面を見てないゾ……」
「親方は、あっぽたしゃです」
「なになに、あっぽ、なに……」
「便所です、福島の方言で……すいません」
「バカやろう!標準語で話せ」
川吉は目を吊り上げてオレを睨んだ。
「伊坂とやら、お前さん幾つだ。あぁ」
「三十一才です」
「初対面の親方に、いきなり国訛りか。アホたれが……気をつけろ」
詰め所の入口に霧川親方を見かけると、川吉は大声を発した。
「おぉい。霧。今日の出面は何人だぁ、ああ」
霧川親方は右手の指を全部伸ばして、返答した。
「おはようございます。親方、五人です」
「霧、オイラをだます気かよ、おい。その指じゃ四人半だぞ」
「親方、勘弁してくだいよ。もう~、分ってるくせに」
オレの親方、霧川雲伝は元任侠あがりで左右の小指は第一関節がなく、第二関節の少し先までしかない。
一目で、元何者か、すぐ想像がつく。しかし、川吉は屁とも思わない風である。
「おい、霧よ。この若造、オイラに意味の分らない訛り使いやがったぞ。初対
面のオイラにだぞ、どう思う霧よ……」
「そうですか。それはそれは、いい根性しているわ。さすが素人」
「素人だろうが、玄人だろうが、よ。七十才になる、この大親方によ。意味不
明な訛りが許されると思うか、霧よ」
「そうですね。オトシマエを付けてもらいましょうか、身体で……」
「そうこなくちゃ、おもしろくない。指詰めだな。現場には匕首(あいくち)
はないから、お~い、誰か、ナタ持って来い」」
オレは豪(えら)いところに来てしまったのか。やくざ映画みたいだ。お国訛りで指詰めていたんでは、指が百本あったって足らない。
やがて、川吉の弟子らしい職人がナタを持って、現れた。
「親方、運良く倉庫にありました。これで、どうですか」
川吉はナタを見るなり、弟子に告げた。
「これはサビているから、サビ止め塗るから、持って来い」
オレは何も言えず、この会話を呆然と聞いていたが、やがて霧川親方が後ろからオレの肩を二、三度叩いた。
「冗談、シャレだ。お芝居だ。安心しろ、伊坂」
霧川親方は満面の笑みを浮かべてる。職種が違う周りの職人もうすら笑いをしている。
そんな中、川吉は顔色ひとつ変えない。眼光鋭くオレを見つめている。
「おい若造。ことばには気を付けろ、いいな」
「はい、すませんでした。今後。気をつけます」
「分ればいい。ところで、伊坂とやら。いつからペンキ屋になった」
「は、はい……二年前からです」
「そうか、がんばれよ!霧はオイラの所にいた、いい親方だ。しっかり励めよ。
困ったことがあったら、オイラに電話しろ、いいな」
そう言うと、川吉はオレに名刺を渡してくれた。
名刺を見て、オレは驚いた。吉川川吉と自分の名前しか書いていないのだ。しかも、達筆な毛筆で書かれていた。
明らかに印刷ではない。かろうじて裏面に鉛筆で携帯電話の番号が小さく書かれていた。
仕事に絶対の自信があるのだろうか。名前だけで十分だと、言われているみたいで、オレは首すじが冬でもないのに少し寒くなった。
その日、午前中は霧川塗装グループは、新築工場の事務所の廊下を担当した。
やがて昼食が終わり、午後二時半ごろ、川吉がオレらの現場まで視察にやって来た。
川吉はやけにデカイ職人と一緒だった。
三メートルほど離れて、川吉の弟子が三人と霧川親方がいた。
「おい、伊坂。このデカイ奴と勝負しろ」
「現場では、マズイでしょう」
「バカ。喧嘩ではないぞ……」
オレは咄嗟に喧嘩と勘違いした。悪い癖だ。
少々、喧嘩には自信がある。オレは十九才までボクサーに成りたくて、ジムに通っていた。
プロには成れなかったが、ずぶの素人なら負けないだろう、と思っている。ただし、あくまで、だろうの世界だ。
川吉が霧川親方に言った。
「霧よ、いいな。了解だな……」
霧川親方は首を縦に振るだけで、黙っている。
川吉がオレの面を横目で睨みながら言った。
「伊坂、このデカイ奴とローラで勝負しろ。デカイの名前は……」
「とがわのぼる……」
「登川がよく聞け。お前さん、俺はローラーのプロだ、と廊下で叫んだそうじ
ゃねぇか。監督から苦情が来た。養生作業じゃ、不満か」
「俺は、十年ペンキ屋やっている。忙しいからきた。それが養生では……」
「よし、分った。登川がそこまで言うなら、合点がいかないだろうが、伊坂と
勝負して、勝ったらローラーを転がしてもらう!いいね」
「わかりました……」
登川はかぼそい声でそう言うと、熱い視線をオレにおくった。
〈オレはちょい、ちょい待った。なんでオレなの今日、現場に入った人間がなんで、ローラー塗りで勝負。
バカ言ってはいけないよ、川吉さん。オレはまだローラー塗りは三ヶ月しか親方に教わっていない。負けるに決まっている〉
「おい、伊坂。黙ってないで、やるのか!やらないのか!どっちだ。あぁ」
オレが俯いていると、痺(しび)れをきらしたのか霧川親方が声を掛けてくれた。
「伊坂、やれ。責任は俺が取る。心配するな」
「はい……」
オレと登川は川吉の説明を聞いた。
「いいか、まず勝敗は早い遅いではない。これは遊びではない。仮にも仕事だ。
ゲームではない。それだけは肝に銘じてくれ。塗る所は壁だ。塗料は五分ツヤ
水性塗料。ダメ込みはオイラがやる。天井は昨日、一応仕上がっている。床面
は汚さぬようにしてくれ、巾木がいずれは入る。フクビはマスキングテープで養生してから塗ってくれ、いいな。
塗りは幅は一人四間ぐらい、オイラがテープを貼って置く、以上だ。何か質問あるか」
登川がすぐに口火を切った。
「誰が、審査するのですか。親方、それとも監督」
川吉はうっすら笑って登川を凝視した。
「そんなに心配か。オイラではない。塗装担当の監督が見る。もうすぐ来るは
ずだ。えこしいきはしない。それから大事ことを言いわすれた。壁は、ご覧の
通りパテが終わり、ペーパーがけも終わっている状態だ。ピン仕上げのつもり
で塗ってくれ、いいね」
オレは一つだけ疑問に思った。」
「天井が仕上がっているとのことですが、養生はどうしましょう」
「それは、自分の判断でやればいい」
〈オレは川吉の真意が測りかねていた。負けることが分っているオレに川吉は何を望んでいるのだ。
オレに何を期待しているのだ。ゼネコンの現場で、こんなことがあっていいのか。ここは冷静になって、
霧川親方に教わった通りにやるしかないと、決意した。策を弄するにも、何の策もないのが現状だ。ここはゆっくりいこう〉
やがて、塗装担当の監督がやって来た。
川吉が最後の話をした。
「二人ともよく聞け、養生が終わったら、オイラにダメこみを頼め、いい
な。では、廊下の左右に別れろ、オイラの掛け声で、始めろ。あ、それから、
どちらかが四間塗った時点で、仕事を終えろ、それはこちとらで声掛ける」
川吉がダミ声で言った。
「はじめろ……」
すぐに、登川がフクビの養生を終えると川吉にダメこみの刷毛を頼んだ。
ダメこみとはローラー塗りでは塗れないところを最初に塗るこという。
オレは霧川親方がいつも口を酸っぱくして言っていることから実行した。
養生をひっかりして、下地の確認とペーパーの掛け具合を徹底した。天井にマスカーを貼り、仕上がっている天井に軽く止めた。
仕上り面にはテープは強く付けない、なおかつすぐに剥がしやすいように切ってあるテープの先を折り返した。
次に、サンドペーパーの掛け斑(むら)を素手で確認しながらゆっくり掛けた。そして、ラスターでパテカスをはいた。
床にはブルーシートを置いた時点で、川吉に刷毛を頼んだ。
登川は既に塗りはじめている。
横目でちたりと見るが、オレが見た感じでは下手ではないようだ。勝ち目はない。
十年選手と二年前まで、ただのサラリーマンでは勝負すること自体が間違いだ。
遅れながら、オレは馬(脚立)を使い塗りはじめてた。
オレが一間(九十センチ)ほど塗ると、オレの背後で川吉のダミ声がした。
「はい、終わり。どっちも止めろ、止めろ」
塗装担当の監督は、まず登川が塗った壁を隅々まで見て終わると、その監督はうすら笑いを浮かべた。
次に、オレが塗った壁を十秒ほど見て、川吉の声を掛けた。
「吉川親方、わかりました」
「もう、分ったのかい……」
「言ってもいいですか……」
川吉が監督に声を掛けた。
「えこしいきなしですよ」
「分ってますよ。一間しか塗っていない職人の方がいいと思います」
川吉がオレと登川を大きなジェスチャーで黙っていろと合図してから言った。
「監督、何が違うのですか」
「正直に言うと分らないのが本音です。しかし、一つだけはっきり言えること
があります。一間しか塗ってない方は天井に養生してあるし、ダレもない。一
方、四間塗ってある方は一見、きれいですけど、よく見るとダレがあり、天井
にもわずかだが塗料が飛んでいる。養生もないことですかね」
監督はそう言うと、足早に事務所に戻っていった。
川吉が切り出す。
「登川、分ったか、お前さんの負けだ。この現場ではローラーはやらせない。
分ったら、さっさと片付けて帰れ、いいな。お前さんは一人親方だろう」
登川が顔面蒼白なり、今にも川吉に殴り掛からんの勢いで捲くし立てた。
「何が、オレの負けだ。一間しか塗っていない職人に何で負けなのだ。伊坂と
とやらの四倍は仕事したことになる。ふざけるな。何がえこしいきなしだ。あ
りありじゃん。こんな現場、こっちから願い下げだ」
川吉はあくまで冷静だ。
「言うことはそれだけか、登川さん、よ」
登川がオレを睨んだ。負けじとオレも睨み返した。
〈おお、この感覚、久しぶりだぁ。なんだか燃えてきたぞ〉
「まだ、お前は勝ったと思っているのか。同じペンキ屋で、お前の倍以上の
仕事したのだぞ、俺は……どうなんだ伊坂さん、何とか言ってくれ」
霧川親方が登川の正面に立ち塞がった。
「登川さん、帰れ。怪我しない内に……」
オレは黙って静観しているしか、できなかった。喧嘩するわけにはいかない。情けないが言葉が出ない。
自分が勝った、なんて思ってもみなかった。ただ、親方に教わった通り、ゆっくりやっただけだ。仕事も自分は負けているのではないかとさえ思えた。
登川ほど素早くできない。
オレが茫然としていると、登川は何を思ったか。霧川親方の横を素早く通り抜け、川吉に向かっていき、川吉の上半身を思い切り突き飛ばした。
「くそオヤジ。ふざけるな。何が刷毛の川吉だ。笑わせるな、外で遭ったらた
だ置かないぞ。覚悟しておけ……」
川吉は転んで後ろに一回転したが、身体が柔らかいのか、すぐ立ち上がった。
川吉がダミ声で叫んだ。
「霧よ。この野郎を摘みだせ!」
そこからが怖かった。
霧川親方が親方から任侠に戻ってしました。
「おい、こら。それ以上親方に手を出したら、五体満足でこの現場出られると
思うなよ。お、こら……」
登川も負けていない。
「何が、元やぁさんだぁ。やぁさんが怖くて社場歩けるか。やるのか、おお」
オレは我慢できなくなった。頭にきた。理性が一瞬、切れた。
登川の正面に回り、一言告げた。
「かかって、来い。登川!」
「なにおぁ、この野郎……」
登川の仕事ぶりを横目で見て、右利きは分っていた。案の定、登川は右手でオレの顔を目がけてクロスパンチを放ってきた。
オレは素早く右に回り、左拳で登川のみぞおち辺りに、思い切りパンチを見舞ってやった。
わずかに怯んだ登川の顔に素早く右拳を繰り出すつもりが、すぐに理性が働いて、平手で登川の左頬に張り手をかました。
並の素人には出来ない技だ、と自画自賛している間もなく。
「おりゃ~あ……」
登川が奇声を上げた。しかし、登川の身体はじりじり後退りした。
霧川親方が登川を後ろから羽交い締めして後方に引きずったのだ。2メートルほど引くと親方は登川を床に寝かせ、背中から柔道の押さえ込みの体勢に入った。
そこで一連の騒ぎは終わった。
登川は川吉の弟子たちによって詰め所まで連れていかれ、一件落着となった。
オレは川吉に訊いた。
「吉川親方、最初からオレが勝つことが分っていたのですか」
「あぁ、分っていたよ」
「え、どうしてですか」
「実はな、午前中に、お前さんの仕事ぶりを隠れて見ていた。勝負することは
想定していないが、見るのもオイラの仕事だから」
「で、何で勝てると思ったのですか」
川吉は少し微笑んでから答えた。
「お前さんが、塗る前にカンデンシャの上にあるペーパー掛けの斑を左手で掛
け直しているのを見たことからだ。お前さんは右利きなのにだ。コイツはでき
ると思ったのよ。それとオイラは嬉しかったのよ。霧が新人をここまで教育で
きるようになったことが涙が出るほどうれしかったのよ」
「わかりました。ありがとうございました」
「それにお前も含めて、オイラたちはペンキ屋のプロだ。オレはローラーのプ
ロだなど言わない。もう、それはオレは素人です、と宣伝しているようなもの
だ。養生が出来ない奴に仕事できると思うか、伊坂さん、とやら」
「そうですね。親方の言う通りです」
〈語尾にどうも違和感がある時代劇じゃあるまい、なんか変だ〉
「わかったら、壁の続きやれ。それから、お前さん。ローラーの繋ぎ目をもう
少しカッパゲよ。まだ足らない若干多めに流せ、いいな。じゃ、頼む」
川吉が最後に言った、カッパゲはちょっと分りづらいが、けして北関東の海に隣接している県人が使っている言葉ではない。
どいうことかと言えば、フェェリー港があるその町では、川で河童らしき生き物を見たら間違いなく、「あれ、河童げ!」と言う。だが、その言葉ではないという意味である。
ペンキ屋の単なる隠語である。ローラーを止めるないで流して終われよ、ということである。そうしないと繋ぎ目に塗料が一杯付いてネタの盛りできて、
繋ぎ斑ができてしまう。だから多めのカッパゲが必要となるのである。
川吉はやはりプロだ。刷毛の川吉ではないプロのペンキ屋ということをオレは
知らされた。伊達に半世紀以上ペンキ屋をやってはいない。ちょっとするとペンキ界の人間国宝かも。そうだ、とは断定できない。
オレにはそんな権限もないし、そんなものいらない。人生をやり直すにはいい師匠を見つけた気がする。
オレは現場を片付け、ネタ場のある倉庫の戻った。
ネタ場で刷毛、ローラーなどを洗い一日の仕事が終わった。
同僚の職人が、オレに声を掛けてきた。
「伊坂、帰るから親方を呼んでこい、詰め所にいるから」
オレが詰め所に行くと、三人が何やら笑顔で会話していた。
三人とは、川吉、霧川親方、そして塗装の監督である。
「親方、片付け終わりました。みんな車で待っています」
霧川親方が笑顔でオレに視線を向けた。
「今日はお疲れさん。みんなは少し待たせておけ、まぁ、座ってコーヒーでも
呑め、吉川親方からだ」
川吉が図面みたいな用紙に何やら書いている。
「監督、今日の演技はちょっといただけないなぁ、六点だな」
「吉川親方、それはないでしょう。ぼくはビリ爆走中じゃないですか」
「まあ、そう言わず。年末の温泉旅行、無料招待は今は霧がトップだ。今日は
楽しかった。また、やろぜ!みんな……」
川吉に、オレは問い質した。
「何の点数を付けているのですか」
「あぁ、これか演技力だ。温泉旅行を賭けている。お前もやるか」
「え、え。まさか、今日の……」
「その、まさか、だ」
川吉が満面の笑みを見せた。
それを見た霧川親方が続けた。
「ごめん、吉川親方は大衆演劇が趣味でなあ、困る」
だれかが詰め所に入ってきた。
登川だ。デカイ身体を屈め、オレに握手を求めてきた。
〈豪い所に来てしまった〉と、オレは声にならい声で、そう言うのやっとだった。
〈了〉
古希のわるさ
毎回、勉強のつもりで書いている。最後の(了)を入れると、わずかだが達成感がある。
ペンキの専門用語から出てくるので、ちょっと分りずらいと思うが、読んでもらえれば、幸いです。
ご意見、感想、はたまた文句がございましたら、下記PCアドレスまでメールください。
rablove@hotmail.co.jp