宇宙口がやってきた。やあ、やあ、やあ。(3)
三 宇宙口がやってきた。やあ、やあ、やあ。
白い入道雲とその雲を吹き飛ばす青い風が交互に現れるたびに、季節は夏から秋へと変わった。
一人の若者がビルから出てきた。背広を着こなし、髪は短い。「それじゃあ、よろしくお願いします」と笑顔であいさつし、頭を下げた後、踵を返し、ビルに背中を向けた。その途端、顔は見る見るうちに、笑顔からしかめっ面に変わった。眼は吊り上がり、鼻の穴は開き、口は尖り、耳は真っ赤に変わった。まるで大魔神だ。尖った口先から怒りが飛び出した。
「くそっ。何だ、あの態度は。人を人として見ていないのか。上から目線で見やがって」
若者は、無職だった。失業中だった。ハローワークにて、仕事先を紹介してもらい、会社の面接を受けた。だが、面接会場では、面接官からは適当にあしらわれ、とてもじゃないけれど、採用の見込みは期待できなかった。人を馬鹿にしたような質問に対しても、就職したかったので、何とか我慢したものの、怒りは頂点に達していた。それが、今、爆発している。
若者の口からは、機関銃のように罵声が発射されている。横を通り過ぎた人々は、眼を丸くして若者の後ろ姿を見つめるが、若者は意に介さない。反対側から来る者は、口撃を恐れてか、道を避ける。若者の前に未知だけが広がる。就職は決まらないものの、見えない我が道だけは切り開かれていく。何かを失えば、何かを得る。人生とは得てして、こういうものだ。
向こう側から来る人を気にせずに突き進む若者だったが、さすがに横断歩道の前では立ち止った。信号は赤。左右には車が行き交う。人生に自暴自棄になっても命は失いたくはない。このまま飛び込むつもりはない。足が止まっているうちに、次第に激高した感情も収まってきた。
だが、信号は変わらない。いつまで待たせる気だ。世界の中心で、怒りを飛ばす若者にとって、他人から命令や指示を受けることは耐えられないことなのだ。隙があれば、横断歩道を渡ってやろうと思いながらも、この前面道路は、この街で一番交通量の多い中央道路。六車線あり、車は切れ目なく常に行き交っている。一瞬でも空白の時間帯はない。若者が渡る決定的瞬間はないのだ。 若者は、いらつきながらも、信号の色が変わるのを待っている。
若者はじっとしていられず、視線をあちらこちらに飛ばしながら、もうそろそろ信号が変わるだろうと、再び、眼を信号機に戻した。
まだ、赤だ。「ちぇ」舌打ちする音。そのとき、若者の視野に信号機以外の物体が乱入した。「何だ、あれは」思わず声が大きくなった。若者の隣に並んで、信号が変わるのを待っていたOLが、その声に驚き、若者の側から離れた。ここでもまた、若者は半径一メートルの空間を保つことができた。
若者は、他人から敬遠されているという状況を気にせず、信号機の上の物体に視線が釘付けになった。その物体が、若者の声に引き寄せられたのか、空中を浮遊しながら、近づいてくる。若者は、へびににらまれたカエルじゃないが、じっとしたまま動かない。若者には、興味、関心があるのか。それとも、怒りの対象をみつけたのか、相変わらず、横断歩道の前で、根っこが生えたように、立ち尽くしたままだ。
行くあてのない若者にとって、ここが自分の居場所だと勘違いしたのだろうか。信号が青になった。信号で釘つけになっていた人々は、川の流れをせき止める石のように動かない若者を避け、次々と横断歩道を渡っていく。だが、若者は渡らない。若者の前には、物体が、距離にして、手の幅二つ分、つまり五十センチ、いや四十五センチ、いや、四十二センチ、浮遊している。
今、はっきりとわかった。眼の前の物体は、口だった。上唇と下唇が仲良くひっついているいや、仲が良いかどうかはわからない。兎に角、閉ざされた唇。口だけが存在するなんてありえるのか。だが、待てよ。以前、この街には宇宙眼と宇宙鼻が来襲したことがあった。ひょっとしたら、眼の前の口も、同じ仲間か。それなら、宇宙口だ。
「お前は誰だ」若者は思わず叫んだ。宙に浮かぶ口が、ゆっくりと唇を動かした。
「お・ま・え・は・だ・れ・だ」
宇宙口が若者の言葉を繰り返した。
「真似をするな」
若者が叫ぶ、
「ま・ね・を・す・る・な」
宇宙口が真似をする。
「いいかげんにしろ」
若者は怒って、宇宙口から顔を背けた。信号は青だ。今の間だ。若者はさっさと横断歩道を渡ってしまった。後に残された宇宙口。「い・い・か・げ・ん・に・し・ろ」と呟いた後、形が変形すると、二つに分離した。二つになった宇宙口は、眼にはさやかに見えない風に乗って、声のする方向へ、口をパクパクさせながら、それぞれ別方向に飛んでいった。
ここは、ラジオのスタジオ。スタジオといっても、防音室の中に、机があり、その上にマイクがひとつ置いてあるだけだ。スタジオの外で、山崎さん、通称山ちゃんから本番五分前と書いた紙が提示された。山ちゃんとはこれまでこの番組が始まって以来の仕事仲間だ。しゃべらなくても、眼で合図すれば、仕事の段取りはつく。
「ふう」美紀は大きく息を吐いた。いつも、本番前には、深呼吸をするのが習慣だった。眼を閉じる。スタジオ内で、耳を集中させる。今は、全国放送のキー局の番組が終わり、つなぎの音楽が流れている。何も見えない。いや、空調から流れる空気の美妙な風が美紀の頬をかすめる。眼を見開いた。準備万端だ。窓の外で、山ちゃんの右手の指が一本ずつ折れて行く。五、四、三、二、一。レバーを上げた。これで、ラジオに音が流れる。街中に美紀の声が電波となって届くのだ。
「はい、みなさん。こんにちは。羽音美紀です。街の情報番組ハートフル高松が始まりました。季節は、今、まさに、スポーツに、読書に、芸術に、そして、わたしの大好きな食欲の秋で真っ盛りです。これから三十分間、どうぞ、番組をお楽しみください」
ここで、山ちゃんからキューが入る。レバーを戻す。バックで音楽が流れる。山ちゃんが右手でOKの合図をしてくれた。これで落ち着いた。この仕事は何年間もやっているが、最初の一言の入りで番組が上手くいくかどうかが決まる。最初の、「は」の音をはっきりといえているのかどうか、声のトーンはいいのか、声の大きさはいいのか。自分の声なのに、自分で常に上手く調整が出来ないのは不思議だ。
しかし、自分の声だからこそ自分の体と話し合う必要があるのだろう。毎朝、起床時には、うがいはかかさない。外から帰ってもうがいはする。食事は、あまり刺激のある物は摂らない。アルコールの飲み過ぎには気をつける。カラオケに行っても、喉で歌うのではなく、腹から声をだす。お風呂に入れば、体を滑らせ、喉まで湯に浸かり、温める。寝る前には、うがいをする。何の根拠もないようだけど、自分にとっては、喉と対話のひとつだ。喉をいたわる気持ちがあれば、喉も美紀の期待に応えてくれる。
山ちゃんからOKが出た。自分も今日の出だしはよかったと思う。後は、リスナーが眼の前に座っているように、どう会話するかだ。そう、あくまでも、眼の前に座っているかのようである。何回か、公開生中継でラジオ番組をやったことがあるが、この商売をしているけれど、いざ、眼の前に人がいると、上がってしまう。喉が上がるんじゃない。眼が上がる。視線が上を向くと、声も上ずり、頬が真っ赤になる。
そして、頭の中が真っ白になり、番組は黄信号が点滅しだす。様々な色が楽しめていいじゃないかと思うけれど、美紀はマイクの前に立ち尽くすカメレオンじゃない。ラジオのパーソナリティだ。プロのアナウンサーだ。
意識しなければいいじゃないかと、山ちゃんに言われるけれど、人間は、意識するなと言われれば、意識するなということに意識してしまい、結果的に、頭の中がパニックになってしまうものなのだ。
今日は大丈夫。上手くいく。そう、思い込む。さあ、この音楽が終わったら、本番開始だ。打ち合わせどおり、最初は、リスナーからのメールの紹介だ。打ちだされた紙を見る。ペンネームは、おや、メールネームは、わちにんこ、さん。この番組の常連さんだ。ガラスの外で山ちゃんがキューを出した。さあ、声を出すぞ。その時、山ちゃんの肩越しに何かが見えた。気にせず、わちにんこ さんのメールを読む。
「いつも、会社でこの番組を聞いています」
だが。やはり気になって、文章を読みながら、眼を上げる。ガラスには口がいた。見間違いだろう。まばたきをした。やはり口だ。口が動いている。冗談か。山ちゃんのいたずらか。天狗の蓑笠を被れば、透明になれる昔話を読んだことがある。それの現代版か。だが、それはあくまでもお伽話だ。それとも、山ちゃんが体中に透明になるお経か何かを書き、口だけを書き忘れたのか。それも、作り話しだ。
美紀は、なんて馬鹿な事をと考えながらも、とりあえずは、プロのアナウンサーだ。意識の八割、いや九割以上は、窓の外の浮かぶ口に心を奪われながらも、残りの一割の意識で、視聴者からのメールを一枚読み切った。外にいる、山ちゃんに大きく手を振って、「ここでもう一曲音楽を聞いてください」と言って、自分の声がラジオに流れないように、スイッチを切った。
山ちゃんは、美紀の急な行動に対しても、慌てることなく、前倒しで、音楽を流してくれた。そして、「美紀どうした?トイレか?」と外から声を掛けてきた。美紀は外に通じるマイクから答えた。
「口が、口が浮いているの」
美紀の眼の前のガラスの外には、今も、口が漂っている。
「えっ、なんだって」
山ちゃんは、美紀の声がよく耳に聞えなかったのか、それとも美紀の言っていることが頭で理解できなかったのか、聞き直してきた。美紀はひと差し指で、浮遊する口を指し示した。山ちゃんは、美紀の指先から出ている赤い糸、いや、そんな物は出ない、指先からの見えない点線を辿って、視線を動かした。
ちょうど、山ちゃんの左耳の横に、浮遊する口がいた。山ちゃんはその口を自分の眼を大きくして確認した。山ちゃんの開いた口は塞がらなかった。その塞がらない口から言葉が発せれた。
「お前は誰だ」
ある一定の時間の間を置いて、山ちゃんが叫んだ。その間が、一秒なのか、三秒なのか、五秒なのか、わからない。この業界で、間ほど恐ろしいものはない。例えば、インタビューで、相手からの返事が直ぐにない場合、どうしようかと思うことがある。
テレビでは、考えている相手の顔の表情も写しているので、情報が伝えられ、間がもつけれど、ラジオでは、空白の時間しかない。視聴者からは、ラジオが流れていないのかと錯覚し、苦情の電話がかかることさえある。そんなことがないように、こちらが助け船を出し、相手の答えを引き出したり、全く、別の話題に変えたりしなければならない。
だから、美紀は、間には非常に敏感だ。もし、万が一、三十秒でも間が空けば、つまり、音が聞えない時間があれば、そのアナウンサーは失格であり、クビである。たかが、三十秒でもだ。三十秒ぐらいならば、日常生活でしゃべらないことなんてよくある。仕事が終わり、家に帰っても、夫としゃべらないことはよくある。いや、これは、別の問題か。兎に角、この業界では、三十秒の空白の時間が命取りになるのだ。
美紀は思う。人間の一生のうち、人がしゃべる量、時間は決まっているんじゃないか。また、そんなにしゃべってどうするんだ、という思いもある。事実、自宅に帰れば、用が無ければ、家族と会話することはない。でも、今はそんなことはいい。問題は、眼の前の浮遊する口だ。
山ちゃんが叫んだ「お前は誰だ」という発言は、よく考えれば、馬鹿な質問だ。口である。口に向かって、誰だと聞くのだから。口は口であって、口以上のものではない。
その口が、一秒の間を置いて、答えた。
「お・ま・え・は・だ・れ・だ」
これも馬鹿な返答だ。お互い初対面なのだから、誰だか知らないのは当たり前だ。他に言いようがないのか。こうしたオウム返しの答は、この業界では、芸がない、洒落っ気がない、知性のかけらも見られないと悪態をつかれ、業界追放の憂き眼に合う。もちろん、この浮遊する口は、美紀たちの業界の人間?ではない。突然の来訪者である。招いてはいない、招かねざる客なのだ。お断りの客なのだ。
「お前こそ誰だ」
山ちゃんが怒声を発する。この質問も、美紀から言えば、芸がない。誰だ、誰だでは、話が前に進まない。例えば、高松放送局のラジオディレクターの山崎健吾です。あなたのお名前はわかりませんが、例えば、浮遊する口さんとお呼びしますが、何の用で、この放送局にお越しいただいたのでしょうか。もし、羽音美紀にお会いに来られたのだとしても、あいにく、今は生放送中で、対応できません。公開放送の際に、是非、お越しください、とでも言えばいいのに。
多分、百戦錬磨の山ちゃんといえども、今は、業界人であることを忘れ、普通のおじさん、一般人に戻っているのであろう。美紀も同情する。自分も、口が浮いているのを見て、慌ててラジオの放送をやめ、山ちゃんに助け船を出したのだから。
慌てふためいている、普段見慣れない山ちゃんの動揺ぶりが妙に可笑しい。笑うことは、冷静になれる特効薬なのかもしれない。
美紀は笑うことで客観的に、山ちゃんと浮遊する口の対峙を見ていた。その時、思い出した。以前、この街に宇宙眼と宇宙鼻がやってきたことを。今、眼の前にいる口は、あの宇宙眼と宇宙鼻の仲間じゃないのか。笑うことで、以前経験した情報に結びついた。
自分の代わりに宇宙鼻に対応している山ちゃんを助けないと。美紀はマイクを掴んだ。そして大声で叫んだ。
「山ちゃん、そいつは宇宙口よ。気を付けて」
まだ、ラジオでは音楽が流れている。美紀の声は山ちゃんに届いた。もちろん、宇宙口にも。一秒後には、
「や・ま・ち・ゃ・ん、そ・い・つ・は・う・ち・ゅ・う・く・ち・よ」と、お返しの言葉があった。
しまった。美紀はしゃべるんじゃなかったと後悔した。山ちゃんが、口にひとさし指を当て、しーとしている。つまり、しゃべるなということだ。
後悔とは後から悔むこと。悔やんでも仕方がない。宇宙口は、山ちゃんの「お前誰だ」の声を聞いて、二つに分裂した。分裂した先は、山ちゃんの口にそっくりの口だった。出産おめでとう。出産祝いに何がいい。まだ赤ちゃんの口だから、よだれ掛けがいいかな、なんて思わずジョークを言いたくなる。だけど、元の宇宙口が、今、先ほど、出産?分裂したばかりなのに、美紀の「山ちゃん、そいつは宇宙口よ。気を付けて」の声を聞くと、再び、出産?分裂した。
そのコピーされた口は、美紀の口そっくりだった。美紀はそのコピーされた宇宙口を見て、先ほどは、山ちゃんそっくりの宇宙口だと断言できたが、いざ、自分の口のコピーを見ると、少し、違うんじゃないか、いや、全く、似ていない。自分の口の方がもっと可愛いはずだ、と断言した。人間とは、勝手なものである。
さて、ラジオ放送局に現れた宇宙口は、ディレクターやアナウンサーを始め、ラジオ局全員の口をコピーすると、建物から出て行った。
残された美紀と山ちゃんとラジオ局職員。美紀の声が流れなかったとしても、視聴者および自分たちのリクエスト曲を数曲つなぎ、一秒たりとも空白の時間を作ることなく、ラジオ放送を継続した。さすが、プロ集団である。いかなる支障、障壁、災害、困難があろうとも、自らの仕事を完遂するのであった。
こうして、街中に宇宙口が徘徊し、街中の人々の口をコピーし終えた。最初は、むやみに恐れた街の人々だが、宇宙口が、ただ単に、自分の口をコピーするだけで、危害を加える恐れがないと確信すると、宇宙口の眼の前で、平気でしゃべった。
逆に、自分の存在感がない人は、自己を認めてもらえる最大のチャンスだと思い込み、あちこちの宇宙口の前でしゃべり続けたものの、宇宙口には総背番号制があり、登録されているのか、決して、同じ人間の口はコピーされなかった。まさに、一期一会であり、これから冬にかけては、いちごの季節である。いちごの美味しさを味わうように、人生を楽しみたいものだ。
宇宙口がやってきた。やあ、やあ、やあ。(3)