すべての希望をどうしてくれよう

不倶戴天の仇と、二人っきりで閉鎖空間。

1.そもそも相手が悪かった

 そもそも相手が悪かった。
 確かに私は、炎系の魔法が得意だ。
 が。
 それはあくまで『得意』なだけであって、『同胞(はらから)』ではないのだ、断じて。なのに相手は、水の同胞。相性は最悪、力量は段違い。そもそも勝てる要素がない。
 しかしまあ、そんな相性の悪すぎる相手を、臨界不測爆鳴気(りんかいふそくばくめいき)の発生にまで引きずり込むことが出来たのだから、勝ち目がないはないなりに、なかなか健闘したものだ――と、誇りか何かに思ってもいいのかもしれないが、今の所、とてもじゃないがそんな気にはなれない。
 ――その相性の悪すぎる相手から、かいがいしく看護を受けている身の上とあっては。

「――言っても仕方のないことですが」
「はい?」
「こんなことをしても、意味はないと思いますが」
「え?」
「――敵兵一人救っても、焼け石に水にすらならないと思うんですが」
「――というと?」
「――つりあわないでしょう、天秤が。一体何人殺したと思っているんですか、お互い」
「――」
 目の前の男は、じっと私を見つめ。
 そして。
「あなたは、私より――ずっと誠実なんですね」
 いつものように――わけのわからないことを言う。

 臨界不測爆鳴気。
 人の世にあってはならぬほどの魔力がぶつかり合った時に生じる、問答無用の殲滅力場。
『人の世にあってはならぬ』というわりには、あちこちでしょっちゅう発生しているようだが。
 その効果。
 術式遂行者以外すべての抹消。
 ああ――わかりやすく言おう。
 私とこの男とは、戦場で相対した。
 戦いの過程において、臨界不測爆鳴気を発生させ、そして――その効果を発動させた。
 つまり。
 お互い。
 敵はすべて斃(たお)した。
 けど。
 味方も――みんな、殺した。

「熱、は――もう、大分ひきましたね」
「――」
 どう答えろというんだろう、こいつは。
 そもそもこいつが何を考えているのか、いまだにもってわからない。
 戦いの途中から、ずっと。
 ああ死ぬな――と、思っていた。
 すべてが炸裂する瞬間。
 ああ死んだ――と、思った。
 しかし、今。
 私は多分――まだ生きているのだろう。
「ごはん、食べますか?」
「――いただきます」
『穴』まで吹き飛ばされなかったのが、よかったんだか悪かったんだか。
 とりあえずは、食べ、そして生きていける。
「――すみません」
「え?」
 こいつは、また――わけのわからないことを言う。
「私の勝手に、つき合わせて」
「――勝手?」
 なんだかよくわからない。慈悲をかけたと恩に着せられるならまだわかるが、まるきり逆のことを言う。ひょっとすると、ものすごく高度な皮肉かあてこすりだったりするのだろうか。
「あんまり、そばに――いてほしく、ないですよね」
 悲しそうな、情けない笑い顔。
「あなたと近しい人達を――殺してしまって、ごめんなさい」
「――お互い様でしょう、それは。――私にも謝れ、とでも言うんですか?」
「いいえ」
 小さくかぶりをふる。油っ気のない髪が揺れる。
「――いつ、霧が晴れますかね」
「それよりも、どちらの味方が先に到着するか、を心配したほうがいいんじゃないですか?」
 臨界不測爆鳴気の炸裂から生きて帰ることが出来るのは、そもそものその原因だけ。
 ただ。
 爆心地は、なんというか――しばらくのあいだ、一種の亜空間とでもいうものになり、出ることも入ることも出来なくなる。
 さらに。
 術式遂行者にとって、爆心地というのは一種のアリ地獄のようなものとなり、自力での脱出は極めて困難だ。
 だから『霧が晴れたら』、つまり、亜空間の力が弱まったら。
 遅かれ早かれ、どちらかの国がどちらかを引きずり出しに来るだろう。いつも待望されている、呪われし偉大な魔術師を回収しに。
 もしくは。
 そこに生き残っていたのが敵の魔術師ならば。
 言うまでもない――それを、抹殺しに。
 ――ここから出られるのは、片方だけ。もしかしたら、どちらも出られないかもしれない。
 別に、そんな決まりがあるわけじゃない。二人とも生きて出たところで理屈の上では別に構いはしないわけだが、私はあいつらに生きてつかまる気はないし、こいつも多分そうだろう。誰が好き好んで生きたまま敵につかまりたいなんて思うもんか。しかも、敵の軍勢を見事に全滅させておいて。だから――どちらの国が先に着くにしろ、ここから出られるのは一人だけ、ということになるだろう。
 ――それまで二人とも生き残っている、という保証もまた、まるきりありはしないわけだが。
「――」
 お。
 ちょっとはこたえたかな、こいつも。
 ああ――そうとも。
 どうせ遅かれ早かれだ。
 今は仲良く話していても。
 どうせ最後は――どっちか、死ぬんだ。

 ――ひんやりとした手が、額に当てられていた。
 驚いた。
 私のほうが生き残ったのか――と、思った。
 生きて爆心地から出られたのか――と。
 目を開けて、また驚いた。
 そこは、まだ、爆心地の中で、と、いうことは。
「――あ」
 ここにいるのは。
「おはようございます。大丈夫ですか? 何か飲みます?」
 敵――の、はず、なんだが。
「あ――の」
「はい?」
「あなた――は?」
「――アレン、です」
「――そうで、なしに」
「――」
 顔が曇る――が、いくら暗い顔色になった所で、こいつはどう見たって私よりは健康で、余力を残していて、それはつまり、彼我の実力差からきているわけで、これでこいつが魔術師でなければ、こんなちっぽけでやせっぽちでくたびれた中年なんてどうということはないのだが、あいにくとこいつは魔術師なわけで――。
 つまり。
 私の命はこいつに握られているのだ、ということを、いやいやながら、認めざるを得なかった。
「――あなたと対立する陣営に所属する者です」
「つまりは敵、ということですか」
「――今は」
「今は?」
「私はあなたの――敵になる気はありません」
「――そうですか」
 それを信じろ、というのか、こいつは。
「私にも、その気になれ――あなたを敵とは思うな――と?」
「――いいえ」
 小さくかぶりをふる。
 それきり何も言わない。
 しかたがないから。
「――私に、どうしろと?」
 声を、かけてみる。
「え?」
 きょとんとされて、こっちが困る。
「――何か目的があって私を助けたんじゃないんですか?」
「え――と――」
 そんなに困られたって、困る。
「目的、は、別にないです、はい」
「……」
 こいつもしかして、少し頭が足りないんじゃないだろうか。
「――え、と、その、お茶、いれましょうか?」
「……」
 頭が痛い。
 なんなんだ、この、わけのわからんしろものは。
「えーと――あの――」
「……いただきます」
「え?」
「その、お茶とやらをいただきますよ」
「あ、は、はい!」
 ……あれからずっと、いまだにもって。
 こいつの意図が、わからない。

「――」
 ゆっくりと、小さな冷たい手が、私の身体をなでさすっていく。
 こいつは、水の同胞。
 すべての水を、自在に操る。
 そう。
 人の体を、流れる水も。
 ゆるゆると、ゆるゆると。
 同胞の呼び声に応え、私の身体を水がめぐる。
 温泉にゆったりつかっているようなもの――といえば、一番わかりやすいだろうか。のぼせも湯あたりもないあたり、こちらのほうが上等なくらいだ。過労と知恵熱をあわせてひどくしたような、全身の消耗が解きほぐされていく。
「――」
 こいつはずっと、詞のない歌を歌っている。ルールールー、とも、ムームームー、ともつかぬ、不思議と身体に響く声が、私の身体をゆらゆら揺らす。
 いつものように、眠くなる。
 ――いつものように?
 急に大声で笑い出したくなる。
 もうなじんだのか、こんな異常事態に。
 よく考えろ。
 私はひどく消耗している。それは当然だ。臨界不測爆鳴気を発生させておいて、無傷でいるほうがおかしいのだ。
 では。
 では――こいつは?
 無傷、どころか、私の看護をし、その上魔術を使って体力までをも回復させていってしまう、この男は?
 ――ゾッとする。
 もしもこいつが、その気になれば。
 高圧水流の一閃で、私の命はたやすく消える。
 それなのに。
 なぜ、それをしない?
 できるのに。
 なぜ、しない?
「――」
 そっと薄目を開ける。
 半眼になって、詞のない歌を歌いながら。
 その手は私をなでさする。
 その目はきっと――何も、見ていない。
「――」
 いつものように、眠くなる。
 けど。
 いつものように、瞳を閉じず。
「――なぜですか?」
「――え?」
「なぜあなたは――こんなことをするんですか?」
「――」
 問うてみた。
 答えは期待せずに。
「――ずっと、こうしたかったんです」
「え?」
「ずっと――こうしたかった」
「え――ずっと、って、あの――」
「本当は、ずっと、こういうふうにしたかったんです」
 悲しそうな、情けない笑い顔。
「傷つけるより、殺すより――私はずっと、こう、したかった――」
「――」
 静かにゆるゆる、手がすべる。
 癒される。
 ――などということを、口に出して言ったりなどしないが。
「――すればよかったじゃないですか」
「――そうですね」
 やはり悲しそうな、ひっそりとした笑い。
 なぜだかわからず、ひどくいらいらする。
「――なぜ、しなかったんですか?」
「――なぜ、でしょうね」
 はぐらかされたからといって、何がどうということもないのに。
 なぜだか無性に、腹が立つ。
「――あなたはいったい、何がしたいんですか?」
「――」
 ゆっくりと。
 静かな両目が、私を見つめる。
「――私は、ただ」
「ただ?」
「――あなたに元気になってほしくて」
「それは、どうして?」
 手負いの相手とは戦えない――とかいう理由でこんなことをしているのだとしたら、いやはいやだがまだわからないでもない。しかし、どうもそういうわけでもない――らしい。
「――ええと」
「はい」
「元気がないよりは、元気があるほうが、いいんじゃないかなあ、と――思いまして、はい」
「……」
 まるきりわけがわからない。まさかこいつは、非常におとなしいたちの、狂人だったりするのだろうか。
「えーと、あの――もう少し続けてもいいですか?」
「ああ、はあ――まあ、どうぞ」
 本来なら、どうか続けて下さいとお願いするのは私のほうではないだろうか。やはりこれは、ひどく壮大で気の長い、わなの一環だったりするのではないだろうか。それとも私を懐柔しようとしているとか。そうとでも考えないと、どうにもわけがわからない。
「――疲れませんか?」
「え? ――あ、だ、大丈夫です! 大丈夫!」
 赤くなってあせりながら、顔をクシャクシャにして。
 ひどくうれしそうに笑っている。やっぱりこいつ、どこかおかしいんじゃないだろうか?
「どうかおかまいなく。疲れてません。大丈夫です」
「――そうですか」
 どうにも意図の読めない奴だ。
「あの――あなたは?」
「は?」
「その――体、少しは、その――よくなりました、か?」
「――自分でやっててわからないんですか?」
「あ、その――いや、わからなくもないんですが、やっぱり直接おうかがいしたい、というか――」
「――」
 私は黙って目を閉じる。
 理由を聞かれたところで困るが、なぜだか素直に答えてやる気がしない。
「――」
 しばらくの、沈黙のあと。
 また歌が始まり、水の同胞の、手がすべる。

 ……なんというか。
 いまだに納得できないのだが。
 どうしてこんな、ぽけらーっとした、ひよひよとした、ポカンと一発殴っただけで、そのままパタンとぶっ倒れてしまいそうな相手に、あっさりと負けてしまったのだろうか。
 いまさら、ひきわけだった、などと自分をごまかすつもりはない。勝てる相手かどうか、くらいは、さすがに判別がつく。ただ、まあ――いまだに納得できないが。魔力と体格に相関関係がないことくらいわかってはいるが、それにしたって、これはあまりにあんまりだ。
「――大丈夫ですか?」
「え?」
「あの――どこか、つらいですか?」
「え――いえ、別に。――どうして?」
「え?」
「どうしてそんなことを聞くんです?」
「あ、いえ――」
 ため息が聞こえて、と言われ、私はまた、ため息をつく。
 ああ――やれやれ。
 ほんとに――まったく。
「……ええと……」
 目の前のひよひよが、なにやら困ったようにもじもじしている。だからまったく、困られたって、こっちも困る。
「あ……お茶でも、飲みます?」
「……あなたお茶好きですね」
「あ、はあ。好きです、はい」
 と、にっこり笑う。
 いとも無邪気に。
 中年の男がこんなにも無邪気に、しかも敵である私に笑いかけるというのは、これはもう、ほとんど犯罪以外のなにものでもないのではなかろうか?
「――あなたは何を考えているんですか?」
「え?」
「そんなに私を、生かしたまま自陣に連れ帰りたいんですか?」
「……」
 きょとんと小首をかしげ、大きくもない目をパチクリさせ。
「……あなたの味方のほうが、先に来るかもしれませんよ?」
 などということを平気で言う。
「――そうしたら」
 そうしたら。
「そんなことになったら――あなたはいったい、どう、するんです?」
 そんなときには私が人質に――なるわけがない。もし万一そんな思惑があるのだとしたら、まったくもってお気の毒様、だ。
「はあ――どう、しましょうねえ?」
「……」
 ガクン、と、意に反してずっこける。やはりこいつ、頭のネジが半分がたどこかへブッとんでいるんじゃないだろうか。
「――あなたは怖くないんですか?」
 私は。
「え? 何が――ですか?」
「生きて敵の手に落ちるのが」
 私は――怖い。
「――そうですねえ――」
 なにやらぼんやりと、いとも真面目に考え込んでいる。なんだか矛盾する表現のような気もするが、そう見えるんだからしかたがない。
「――でも、それは、先の話ですからねえ――」
「――は?」
 意味がわからない。
「ええと……すみません、先の話、とは?」
「はあ――生きてつかまる、もなにも、今、私の目の前に、敵、いないわけですし」
「……私は?」
「はあ」
 実に見事に、とことん情けない『はあ』だ。
「あの、私は、その――敵、とは、思ってないんですが、その――」
「……」
 深々と、ため息をついてやる。敵とみなすのもばかばかしいほどの実力差があるという余裕ですか、と、いやみのひとつも言ってやりたくなる。しかもそれが半分かそれ以上は正しいのだから、なんだかちょっと泣きたくなってもこようというものだ。
「て――敵に、見えますか、私、やっぱり、その――」
「……」
 敵に見えないから困ってるんじゃないか、このぼけなす。
「あ、その――あー……えー……あー……」
 くしゅくしゅと音をたてそうに、顔が歪む。
「あー……」
 がっくりと、肩が落ちる。
 しかたないですよね――と、小さな小さな、つぶやきが聞こえる。
 ああ――いらいらする。
「――別に」
「え?」
「別に私は――あなたに個人的な恨みがあるわけじゃありません」
 公人的な恨み、なら、相当にあるような気もするが。
「ですから別に――個人的には、敵ともなんとも思っていません」
「――ありがとうございます」
「礼には及びません」
 だいたい、これだけ何から何まで世話になっておいて、今更敵もへったくれもない。ここまで徹底的に、一応は敵陣営に籍を置く者の手の平の上で転がされ、本当ならもっと屈辱だか何だかを感じていてもおかしくないのかもしれないが――。
 おかしくないのかもしれないが。
 にこにこと茶を入れるこの小男を見ていると、どうも屈辱とか何とかいうことより先に、このわけのわからん事態と、それ以上にわけのわからんこの男に、困惑することのほうが先になってしまうのである。

2.爆心地の陽だまり

 体力が回復してきてみると、実にばかばかしい問題が生じた。
 ――退屈なのだ。
 今までは有り余る時間をうつらうつらしてやり過ごしてきたのだが、さすがにどうやら、眠気も品切れになってきたらしい。
 しかたがないので、まあ、その――ひよひよをかまってみたりもする。というかほかにすることがない。
「――強いですね」
「え?」
「強いですね、あなたは。水の同胞――でしょう?」
「ああ、はい。それはまあ、そうなんですが――」
「そうなんですが?」
「私は、その――別に、強くなんてありませんよ?」
「――失礼ながら、いやみにしか聞こえないんですが、それ」
 おまえが強くないなら、私はなんだ? ゴミ虫か?
「い、いえ、その、そ、そんなつもりは――」
「ないのはわかっていますが」
 むしろ、いやみであってくれたほうが気が楽だ。
「あ――はあ――」
 困ったように首を傾げ、目をパチクリさせる。
 ――妙な奴だ、ほんとに。
 私より随分と歳がいっているであろうはずなのに、そんなふうにはどうしても見えない。外見は私より相当に老けてはいるが、その中身は――その中身は――。
 その中身は――なんだというのだ?
「あ、あの――すみません、お気を悪くなされましたか?」
「――別に」
「そうですか――よかった」
 にっこりと、笑う。
 その笑顔を見るたび――妙な気分になる。
 どうしても手の届かない所が、かゆくてたまらないような。
「――あなたのほうが、強いですよ」
「何が? ――どこが?」
 それはまあ、体格だけならこいつよりいいし、歳だってきっと、私のほうが若いのだろうが。
「――あなたは、覚えているから」
「――は?」
 なんだかわけのわからないことを言われた。私の聞き間違いだろうか。
「ええと――すみません、意味がわからないんですが」
「え、と――あなたは、自分のしたことを覚えていて――私のしたことも覚えていて――だからあなたにとって、私は敵、なんですよ、ね――」
「――すみません、なんだか私が、ものすごく心の狭い人間だと言われているような気がしてきたんですが」
「え!? す、すみません、そんなつもりじゃ――」
「ないのはわかっていますが」
「あ――はあ――」
 よく考えてみれば、というか、よく考えなくても、こいつの機嫌を損ねていいことなんか何一つない――というか下手をしたら命の危険がある――のだが、どうもこいつの情けない顔を見ていると――どうもその――なんというか――。
「――別に、そんな顔なさらなくても、私言うほど気にしてるわけじゃありませんから」
「あ、ど、どうも、ありがとうございます」
「ありがとうございます」――か。
 それは本当は――私のほうが言わなければならないセリフなんじゃないだろうか。
「――それはこちらのセリフですね」
「え?」
「いろいろとお世話になりました。――ありがとうございます」
「あ――え、と――」
 顔が真っ赤になる。――妙な奴だ、まったく。
「ど――ど――どういたしまして」
「お礼が遅れてすみません」
「あ、いえ――別に、そんな――」
 わからん奴だな、なんでそんなにうろたえるんだ?
「お――お役に立てたのなら幸いです」
「それはもう、十二分に」
「ど、ど――どう、どうも――」
「……」
 変な奴。
 つくづく思うのだが、一体なんだってこいつはこんなにも腰が低いのだろうか。5秒で私を殺せる力があるくせに、なんだってこう、おどおどおたおたしているんだか。
 ……考えてみると、そんな相手にずっととことん高飛車な態度をとり続けている私のほうも、頭の線がどこかで切れてしまっているのだろう。もとからだか、あの時ブチ切れたんだかは知らないが。
 ――多分私は、ものすごく薄情な人間なのだろう。
 味方を皆殺しにしておいて――苦しみもせず、平気で生きている。
 実感がわかないのだ――と言ったら、いいわけになってしまうのだろうか、やはり。
 その瞬間のことは――なにもかもが消え去ってしまった――と、いうような言葉でしか、思い出すことが出来ない。
 思い出そうとするとつらい――とかではなく、そもそもたいして覚えていない。誰かが死ぬ瞬間を、この目で見たというわけでもない。
 ――でも、殺したのだ、やはり。
 敵、ならともかく――。
 味方を、たくさん。
「――たか?」
「え?」
「その――どうか、しましたか?」
「――」
 少し放心していたらしい。
「――別に、なんでも」
「――そうですか」
「――あなたは、おぼえ――」
「はい?」
 ――聞いて、どうする。
「――別に、なんでも」
 どうにも、ならない。
 こいつがあのときのことを覚えていようといまいと、それが一体なんだというのだ。それを聞いて、どうなるというのだ。
 ともに語りあい、慰めあい、傷をなめあう?
 ――馬鹿馬鹿しい。
「――」
 小首を傾げてこちらを見つめてくるのを、そっぽを向いて無視してやる。
 何か言われたら、返事くらいしてやろう。
 でも。
 別に私のほうから、これ以上話を続ける努力をする義理もないだろう。
 勝手だろうか、私は。
 勝手なのかもしれないが、とにかく私は、口をつぐむ。
「――疲れちゃいました?」
「は?」
 あまりにも意外なことを言われ、思わず相手の顔を見つめる。
「病み上がり、ですものね」
 ひよひよは、にこにこと言う。
「疲れちゃいましたか?」
「……」
 あきれてものも言えないとはまさにこれだ。よくもまあ、そんな考えにたどりつくもんだ。こいつは、おかしい。絶対、おかしい。
「ちょっと失礼」
 ふわっ――と、頬を両手で挟まれる。
 そっと、手がすべる。
 いつのまにか――私は目を閉じている。
 また――歌が聞こえる。
 気持ちがいいから、始末に悪い。
「――あの」
「――」
「あの――ええ――その――いまさらうかがうのもなんなんですが、その――あなたの、お名前は――」
「――」
 私は、答えない。
 それでも。
 また――歌が、始まる。

 なしくずしに――というのだろう、こういう状況のことを。
 別に望んだわけでもないのに、敵陣営の人間と同じ天幕の中にいる。このひよひよしたのがよく一人で天幕なんぞはれたもんだ。さらに、その中に私をどうやってひきずってきたんだか。水流でも利用したんだろうか、やはり。
 別に、ここから出ていったっていいんだが。
 あまり意味がない――ような、気もするので。
 あいもかわらず、二人で顔をつき合わせている。
 別にこいつは嫌いじゃない。憎いわけでもありゃしない。
 ただ、敵方の人間であるというだけだ。
 ――普通は憎む、ものなのだろうか。
 味方を全員殺されておいて。
 でも、その責任の半分は私にある。
 さらに。
 いろいろと面倒を見てもらった恩、も、あるだろう、一応。
 どういう感情を持つのが、一番正しいのだろうか。
 どうにもそれが、わからない。
「はい、どうぞ」
「――どうも」
 なみなみと盛られた、シチュー入りの深皿を受け取る。こいつはにこにこと機嫌よく、まるで私が無二の親友か何かのようにふるまっているが、当然そんなはずはない。
 だから。
「――次からは、私が作りますよ、食事」
「え? あ、あの――おくちにあいませんでしたか?」
「いえ、おいしいです。ただ――」
 そう、ただ。
「あなたばかり働かせるのは、いかにも不公平というものですから」
 私は借りなどつくりたくないだけだ。
「そうですか? それじゃあお願いしますけど――無理なさらないで下さいね?」
「大丈夫ですよ」
 私より十倍はひ弱そうな見た目のくせに、無理するなとはよく言った。
 ――こういう場合、私は食事に毒でも仕込むべきなんだろうか。幸か不幸か、私は毒を持っている。人一人殺すぐらいできるだろう。
 ただ。
 ――やりたくない。
 ――自分でも意外だし、馬鹿馬鹿しい感傷だとも思うのだが。
 やりたくない――のだ、それを。
 やれと言われればやるだろう。
 だが。
 今のところ――誰も私に、そんなことをやれなどと、命令したりしないので。
 というか、ここにはそもそも、私達二人しかいないので。
 やらずにすむことは、やらずにおく。
 これで幾分かの借りは返した――ということにしておこう。身勝手な理屈だが。
 これでこいつが、私が回復するのを待ってもてあそんで殺すつもりだったりしたらなかなかに凄まじいものがあるが、まあまずそれはないだろう。あったら逆に感心する。
 こいつは私を殺せたのに、いや、今でも簡単に殺せるのに、どういうわけだかそれをしない。
 だから。
 私も、しない。
 甘っちょろいことをやっているな――とは思う。ただ、どうしてだか、どうしてもそういう気分にならないのだ。
 やはり私は、あの時どこかをおかしくしてしまったのかもしれない。
 すべてを消した、あの時に。
「――たりてます?」
 空になった皿を持ってボーッとしていたせいで、ひよひよが首を傾げて私の顔をのぞきこむ。
「え? ああ――まだあるのなら、いただきます」
「はい、どうぞ」
 なんでこんなのが戦場に出てくるんだ。
 ――水の同胞、だからだ。
 同胞。
 ひとつの系統の魔法に超絶特化した魔術師。ひとつの系統の術しか扱えないが、その術の威力と高度さは他の追随を許さない。これは、修行や努力ではどうにもならない。目の色や髪の色、肌の色と同じ、生まれつきによるものだ。
 なんでこんなのがそんなふうに生まれついてしまったんだ。その才能、私によこせ。そのほうがお互い、もっと自分にあった人生を送ることが出来る。
 ――傷つけるのも殺すのも好きじゃないっていう奴が、軍隊なんぞにいるなってんだ。
 ――ふん。
 なんて、頼まれもしないのにいらんことをつらつら考えること自体、余計なお世話、か。
「――ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
 汚れた皿をクルクルと、水が自分で動いて清める。いやもちろん、水が自分で動いてるわけじゃなく、こいつが操ってるんだが。汚れた水はスルスルと、音もなく地面の中に消える。便利なおっさんだ、まったく。
「――手伝おうか、と、思ったんですが」
「え?」
「手伝うすきが、ありませんでした」
「――ええと」
 と、困ったように眉をひそめ。
「――すみません、次からお願いします」
 と、頭を下げる。
 気が抜ける――というか。
 そういうふうに出られると、そこにどう返せばいいのかどうもよくわからなくなる。
「――失礼ながら」
「はい?」
「あなた、ひとから、変わってるって言われたりしませんか?」
「え? はあ――どうでしょう? 言われてるのかもしれませんが、私、鈍いんで、そういうの、あんまりよくわからないんですよね」
「――はあ」
 今度はこっちが、はあ、と言うしかない。
「――思うんですけどね」
「はい、なんでしょう?」
「あなた軍には向いてませんよ」
 軍に、と言うか、戦いに、か。
 ――じゃあ、その戦いに向いてない男に勝てない私は、なんだ?
「――そうですね」
 そして、また。
 こいつは、否定しない。
「そうなのかなあ――とも、思います、正直」
「――でしょうね」
 まるきりそんなこと思いもしなかった、とかいうのでも、それはそれですごいが。
 それなのに、なんでこんな――。
 だから、それは。
 こいつが、水の同胞だからだ。
 一種の天才――だからだ。
「――あなたはやさしいですね」
「はあ!?」
 こいつ、おかしい! やっぱり絶対確実にッ、お、か、し、いッ!!
「なにが!? どこが!? なんで、どうして!?」
「いや、だって」
 のほほんとした顔で、ひよひよと笑う。
「ちゃんと私と、いろいろお話してくれますし」
「――はあ」
 逆に勘繰れば、私の第一印象ってそんなに悪かったのか? 話しかけられれば、返事くらいするぞ、私。
「それは、まあ――世間話くらいでしたら――ねえ?」
「そうですねえ」
 それは、どう見ても、にこにことうれしそうな笑い顔で。
 そんなことをされたって――私は、困る。
 だって。
 私達は、敵どうし――だろう?
仲良くなっても、意味ないじゃないか。
 ――と。
 たびたび思い出して確認しないと。
 困ったことに、ついつい忘れそうになる。
 目の前にいる、こいつは敵だ、と。
 私はとことん甘ちゃんなのか。
 それともこいつが、ねっからおかしいのか。
 それともどっちもどっちなのか。
 ああ――まったく。
することなんてありゃしないのに、どうにもこうにも、なんだか疲れる。
 幸か不幸か、おかげでやっと。
 まどろみの中に、逃げ込める。

 ――目が覚めたとき、目の前一面に中年男の顔が広がっていたら、一応健全なる成人男子たる私は、一体どう反応してやればいいのだろうか?
 ――とりあえず、何を考える間もなく、思い切り突き飛ばしてしまったんだが。
「だ――大丈夫! 大丈夫! 大丈夫ですよ! 大丈夫ですから!」
「――何が、ですか?」
「大丈夫――え?」
 きょとんとした目を、パチクリパチクリ。
「あ――目、覚めました?」
「覚めました。おかげさまで」
「あ――よかった」
「――何がよかったんですか?」
「え?」
 わずかにひそめられる、眉。
「え、と――あの――覚えてませんか?」
「――何を?」
「え、と――うなされて、ましたよ?」
「――」
 ――何も記憶にない。
「あ――覚えて、ませんか?」
「――残念ながら」
「――そう残念でも、ないと思いますよ」
「――」
 なぜとはなしに、息を飲む。
 穏やかな両目が――一瞬ガラス玉になる。
「あ――す、すみません、突き飛ばしてしまって」
「え? いえ、別に構いませんよ。いきなり目の前に私の顔があったら、驚きますよね、そりゃ」
 にこにこと、いつものように穏やかに、人のいい顔でこいつは笑う。
 私は、今。
 一瞬――何を、恐れたんだろう。
 いったい、何、を――。

 ――私が眠っている、と思っているのだろう。
 つぶやくような、歌が聞こえる。
 ――あれ?
 これは――この、歌は――。
「ひとつ 一人で 眠れぬ夜は
 ふたつ 二人で 手を取り合って
 みっつ 三日月 小道を照らす
 よっつ 夜風に 背中を押され
 いつつ いつしか 夜のただなか
 むっつ 群れなす 星影追って
 ななつ 名無しの 街に踏み込む
 やっつ やすらぎ なぜだかあふれ
 ここのつ こここそ われらがやどり
 とおで とうとう 夢の中――」
「――なぜ知っているんです?」
「え?」
「それは私の国の歌だ」
「ああ――やっぱり、そうでしたか」
「え?」
「昔、覚えた歌です。――でも」
 なぜだか悲しそうな、その笑い顔。
「誰が教えてくれたのか――どうしても思い出せなくて――」
「――」
 なぜ、それが悲しいのか。
 私にはまるで、わからない。

 ひよひよは、退屈しないのだろうか?
 などというどうでもいい疑問を感じてしばらく観察していたのだが、どうやらこいつ、ほうっておいても退屈などまるっきりしやしないらしい。ポーッと何かを考え込んでいたり、地面にへたくそな図を描いていたり、一人で機嫌よく鼻歌を歌っていたり。それをずーっと観察していた私もまあ、ずいぶんなひま人だとわれながら思う。
 ひよひよは、一人でほうっておいてもひよひよと幸せそうだ。
 あれだけ殺しておいて、幸せそう。
 ああ――そういう点においては、こいつは実に、実に実に、軍人に向いている――の、かも、しれない。
 ひよひよが、地面になにやら描いているのを後からのぞきこむ。
「――何を描いているんですか?」
「え? ああ――臨界不測爆鳴気について、ちょっといろいろ考えていました」
「――どんなことを?」
「いえ――これは別に、私が独自に考え出したことではなく、先人達がすでに見出していたことなんですが――」
「はあ」
「まずは、臨爆(りんばく)の発生条件についての考察です」
「は? はあ、どうぞ」
 こいつまさか、学者かなにかか?
「臨界不測爆鳴気が発生する時、そこには必ず二人以上の魔術師間における、強力な魔力の衝突が必要です」
「そんなの誰でも知ってますよ」
「ではなぜ、一人では臨界不測爆鳴気を作り出すことが出来ないんでしょう?」
「それは、一人じゃ力が足りないからじゃないですか?」
「そうでしょうか?」
「――」
 忘れてた。こいつは化け物なんだった。
「――と、おっしゃるからには、力の、えー、量、の問題ではなく――質? 2属性以上必要だとか――」
 あ、ちがう、そうじゃない。
「――じゃない、ですね。同属性同士でも、臨爆は発生する。と、すると――」
 力の大きさの問題でも、属性の問題でもない。と、すると――。
「ふむ――力の――力――力の――」
 力の――。
「力の――方向?」
「あ、すごい」
 ひよひよが、目を丸くする。
「そうなんですよ。問題となるのは、力の方向。これにつきると思うんです」
「それはご自身のご考察ですか?」
「え」
 ひよひよが、パッと頬を染める。
「え、いえ――そういうわけでも――たまたま先人の説と、私の考えとが一致したというだけで――」
「ははあ、なるほど」
 正直別に、そこらへんは割とどうでもいいんだが。
「で、あのですね」
 ひよひよがガリガリと地面に図を描く。
「ええと――空気鉄砲って、やったことあります?」
「は? はあ、まあ――」
 いきなり何の話だ?
「あれって、弾をひとつ込めただけじゃ、全然飛びませんよね?」
「それはそうでしょうねえ。筒の中から、ただ押し出されてくるだけですよ」
「でも、こう――筒の両端に弾を込めて、こう――圧縮すると――圧縮された空気の圧力により――」
「弾が飛び出す。――ははあ。要するに」
 わかった気がするぞ。
「私達――魔術師が、弾で、魔法が空気。すると、筒は――」
「世界――でしょうか?」
「――」
 ふん、ゾッとしないな。
「まあ――あなたのおっしゃりたいことは、なんとなくわかったような気もしますが」
 だがしかし。
「失礼ながら、いまさらそんなことを考えてどうするんです? もう――終わってしまったことじゃないですか」
「いえ、その――なんとかここから、出る方法はないかなあ――と」
「――」
 驚いた。
 案外あきらめが悪いんだな、こいつ。
「――なにか考え付きましたか?」
「ええまあ一応は」
「……」
 考え付いてたのか。
「で――それは、どんな?」
「はあ」
 ひよひよが、目をパチクリさせる。
「もう一度、同じことをすればいいんじゃないかな、と」
「……同じこと?」
 なんだかいやな予感がする。
「ええと――それは、つまり――」
「はあ」
 にこにこと笑いかけられても、困る。
「もう一度、臨界不測――」
「却下です」
 やはりそうきたか。
「え? ――ええと、あのですね、詳しくご説明いたしますと――」
「いえ、理屈は多分、なんとなくわかります。筒の中で詰まってしまった弾――つまり私達――に、なんとかもう一度圧力をかけて外に押し出そう――そんなところでしょう?」
「あ――は、はい。そう――です。あ、あの――」
 ――真顔になれば、それほどひよひよしているようにも見えないんだが。
「誰かが連れ戻しに来る前にここを出たほうが――その――都合、よくありませんか、お互い――」
「――おかしなことをおっしゃる」
「――え?」
「確かに、あなたの国の人達が先に来てしまったら、私は、まあ――たいへん、困る。というか、考えたくもないですね。死んだほうがましです」
「ですから――」
「あなた困るんですか?」
「え?」
「あなたなら、どちらが先にここに来ても――なんとかできるんじゃないですか? ――ねえ?」
「――」
 否定――しない。
 ――ちょっと、むかつく、な。
「――それに」
「――それに?」
「さすがにまずいでしょう、それは」
「――え?」
「まあ、そんな偶然の一致が起こるかどうかはわかりませんがね」
 が、しかし。
「私達が再び臨爆を発生させた時、万一救助隊――まあどちらか一方にとっては救助隊でも、残りの一方にとっては死神になるわけですが――彼らがすぐそこまで来ていたら――どうします? どうなります? 私達はすでに両手を根元まで血に染めた。とはいえ、仮にも自分を救出しにきた相手――まあ、とどめをさしにきた相手という可能性もありますが――を、根こそぎ地獄に叩き込んだりしたら――さすがにまずいんじゃないですか? 少なくとも私は、自分の味方にそんなことをしてのけた後で、のこのこ国に帰る気には、なれませんねえ、あまり」
「あ……」
 ――う。
 まずい。
 怒ったかな、さすがに。
「あ――あなた、は――」
「――」
 ここで謝ればいいのかもしれないが。
 謝らないんだから、私もまあ、馬鹿は馬鹿だ。
「ど、して――そんな――」
 ああ――普段おとなしい奴ほど、一度キレると歯止めがきかないっていうな。
 ま――どうせ、とっくに死んでたって、おかしくなかったんだ、別に。
「あなた――あなたは――」
 どうせやるならさっさとしてくれたほうがありがたいんだが。
「あなたは――すばらしい人だ!!」
「は? ……はあッ!? な、なんですって!?」
「何度でも言います。あなたは、すばらしい人だ! ど――どうしてそこまで他人を思いやることが出来るんです? 敵の手に落ちるくらいなら死を選ぼうという人が――そんな――味方に危害を加える可能性が少しでもあるのなら、自分が犠牲になったほうがましだと――」
「……いや、その……」
 誰もそこまで言ってない。というか、私は単に、こいつの考えにいちゃもんをつけてやりたかっただけ、なんだが――。
「あなたは――あなたは、すごい――」
「え――あ、いや――あの、ちょっと――」
 ――あの、なあ。
 べそをかきながら、だか、感涙にむせびながら、だか知らんが――。
 泣きながら抱きついてこられたって――私としても、非常に、困る。

3.流れゆくものに従いて

「……?」
 はじめは、その違和感がどこから来るのかわからなかった。
 目、耳、触覚、どれも別段――。
 ――あ。
 ――香り。
 におい――だ。
 そうだ――おかしい。
 男が――もういい歳をした中年の男が――。
 こんなに、いいにおいがするはずがない。
「――あの」
「――はい?」
「あなた――何か、つけてます?」
「え? 何か、って?」
「その――香水、とか」
 言いながら、どうもちがう――と、思う。
 いいにおい、といっても、花のようなにおい、とは少しちがう。女のにおい――でもない。といって男の体臭でももちろんない。なんというか――。
 晴れた日によく干したふとんのような、ちょっと香ばしいような、ほっとするような、あったかくなってくるような――。
「い、え――そ、そん、な――」
 ひっくりかえったすっとんきょうな声をあげられて、はっとわれにかえる。
 うわ――まずい。
 首筋に顔をうずめるようにして、長々とにおいをかぎつづけてしまった。
 うわ。
 そりゃ声だって裏返る。
「あ――すみません。その――なんだか、いいにおいがして――」
「え……」
 ――う。
 ま――まずい。
 この体勢でそんなことを言ったら、その――。
「そ――です、か――」
「――」
 うわ。
 冗談だろ、おい。
 赤くなるくらいじゃいまさら驚きもしないが、さわってるだけでわかるくらい体が熱くなるっておまえ、どれだけ単純な身体のつくりをしてるんだ。
「いや――その――」
 うろたえかけて、不意に気付く。
 こいつのほうが、もっとうろたえている。
 私がこいつをうろたえさせている。
 ――ふうん。
 ちょっと――面白くなってきたぞ。
 いつだってひよひよポケポケとマイペースなこいつが、私のせいでこんなにもうろたえている。
「――どうか、しましたか?」
「え――え?」
「顔、真っ赤ですけど、どうかなさいましたか?」
「え――いえ――その――あの――」
 身体を離そうとするのを、腕に力を込めて止める。あ――と、妙にか細い声があがる。
「す――すみません、いきなり抱きついたりして――」
「別に私は構いませんよ」
「え――」
 うわ。
 首まで真っ赤だ。
 へえ、なるほど。
 なんだ。
 こいつ、そっちの趣味があったのか。
「あの――」
「はい」
「ど――どうして、その――」
「どうして――なんですか? 私、何かしました?」
「ど――どうしてはなしてくれないんです?」
「はなれたいんですか?」
「え――」
 あっは。
 こりゃあ面白い。
 なんだ、こんな手でこんなに簡単にうろたえるんなら、もっと早くからこの手でからかってやりゃよかった。
「私は、別に――このままでも、構わないんですけど?」
「――」
 あーあ、泣きそうな顔しちゃって。
 ふふ――楽しくなってきたなあ。
 ようやっと、あんたをきりきりまいさせてやれる。
「いや、じゃ――ない、です――か?」
「あなたはいやなんですか?」
「――」
 目が、濡れている。
 だからどう――ということもないが。
 少しだけ力を込めて、頼りない体の細さを確かめてみる。
「やっぱりいいにおいがする」
 これは、ほんとだ。体は細くて硬いのに、においはやけにやわらかい。
「え、と――わ、私には、わかりませんけど――」
「自分のにおいは、自分じゃわからないものですからね」
「そう――ですか――」
「――」
 ――と。
 おいおい。
 冗談だろ、震えてるぞ、こいつ。
 私が怖い――わけがない。その気になれば私なんて瞬殺だ。
 だったら、なんで――。
 ――。
「――あなたはおかしな人ですね」
「え?」
「震えるほどいやなら、はなれたらどうです? とめませんよ。はい、どうぞ」
「え!? ち――ちが、ちが――」
 うん、わかってる。
 くくっ、うろたえてる、うろたえてる。
 ざまあみろ。おまえだって、少しはわけのわからん目にあってふりまわされてみろってんだ。
「それともくっついていたいんですか?」
「え――そ、その――」
「どうしたいんです、いったい?」
「――」
 これでこいつがいきなり私を押し倒しにかかってきたりすれば、それはそれで面白いんだが。
「――」
 ――息が、止まった。
 見上げてきたのは――真剣すぎる、まなざしだった。
「――怖く、ないんですか?」
「――え?」
「あなたは」
 私は。
「私が」
 ひよひよが。
「怖く――ないんです、か――」
 怖く、ないか――だと?
「あ――」
 そうして、やっと。
 私は、悟る。
 こいつはちゃんと――わかってたんだ。
 自分に何が出来るのか。
 自分が何を――してしまうかも、しれないか。
 ああ――そうか。
 わかってたの――か。
 そりゃ――そうだよ、な――。
「――」
「――」
 見上げてくるのは、泣き出しそうな濡れた目で。
 もう泣いているのかもしれなくて。
 奇妙に――腹が立った。
 おまえが泣くことはないだろう。
 どうして泣くんだ、おまえが。おまえみたいな――。
 ――え?
 おまえみたいな――なんだというんだ?
 天才が? ――ちがう。
 私の敵が? ――ちがう。
 人殺しが? ――全然、ちがう。
 なぜ――どうして――腹が立つん――だ?
「――」
 手加減抜きで、力を込めて。
 細い体を、抱きしめた。
 どうしてなのかは、わからない。
 なぜだかそんな、ことをしていた。
「――」
 グッ――と。
 細い腕が、私の体にまわされた。
 こいつ、ほんとに――魔法以外は、てんでだめだな。
 ――ああ、そうだ。
 別に――怖くはない。いや――本当は怖いのかもしれないが、今のところは、大丈夫だ。
「怖くは、ない――ですよ」
「そ――そう――ですか」
「――あなたはいったい、どうしたいんです?」
「――」
 こいつが困っているのを見ると、なんだか妙に楽しくなる。悪い趣味だと、自分で思う。
「――て――たい――」
「え?」
「こ――こうして、い――いたい、です――」
「――」
 なぜだか私は、笑ってしまう。
 どうやらそれは、嘲笑――では、ないらしい。
「――そうですか」
 クシャクシャと、頭をなでてやる。当然こいつは、馬鹿にするなと怒ったりするはずもなく、ただ首筋を赤くしている。
「――それではこうしていましょうか」
「――」
 コクッ――と、手の下で、頭が動く。
 なんだか妙な気分だが。
 別にそんなに、悪くもないので。
 しばらくのあいだ、こうしていよう。

「あなたがいやだと言えば、そこでやめます」
 というか、そこまで明確な意思表示をされておいて続行した日には、こちらの命が確実に危ない。
「一応うかがっておきますが――これ以上は、いや、ですか?」
「――」
 流れるように。
 体が、よりそう感触。
「い――いや、じゃ――ない、です――」
「――そうですか」
 あーあ。
 私もまた、物好きな。いったい何をやっているんだか、まったく。
「――あなたは」
「は、はい」
「――おかしな人ですね、ほんとにまったく」
 それをいうなら、私も、だが。
「す――すみませ――」
「妙なものですね」
「え?」
「あなたはおかしな人で、私はそれに、あきれたり、当惑したり、困惑したりしているんですよ。しかし、ね――」
「――」
「しかし、どういうわけだか――私、あなたのことが、その――嫌い、というわけでも、ないんですよ、ね、どうやら。あなたは私の――敵の国の人間、なのに、な――」
「――よ」
「え?」
「私は――」
 赤く染まって、伏せられた目元。
「私は、あなたが、好きですよ――」
「――別にあなたに好かれるようなことをしたおぼえはありませんが、ね」
 嫌われるようなこと、なら、多々した覚えがあるが。
「で、でも――す、好き、です――」
「――それはどうも」
 そんなことを言われたって、私は――困るんだ、まったく。ほんとにまったく。
「好きだというなら――怒りませんか?」
「え?」
「私が、あなたに――」
 あれ――おい。
 私はいったい――何をしようとしてるんだ?
「口づけ、しても――」
「え――!?」
 ――あーあ。
 どうせ返事を待たないんなら、いきなりしたっておんなじことだったか。
 あーあ。
 なにをやってるんた、私は。
 なにをいったい、さかってるんだ。
「――?」
 ――え?
 あま――い?
 い、いや、心理的にどうこうとかいう、そんなわけのわからんレベルの話じゃなくて、だいたい別に私はこいつにそんな甘ったるい感情なんぞまるっきりもちあわせてはいないわけで、いやそれはこの際別にどうでもいいわけなんだが、いやそれにしても、これは、こんな、なんで――。
 口づけが、甘い。
 気の迷いとかそういうのを抜きにして、物理的に、甘い。
 どうなってるんだ、いったい――?
「あま――い?」
「え――え?」
「あなた――何か口の中に入れてます?」
「え――い、いえ、別に、何も――」
「――」
 わけがわからん。
 特異体質、とかいうやつか、もしかして?
 まあ――不思議ではあるが、別に困るようなことでもない、が――。
「――あれですね」
「え?」
「こんなことをしている最中に、救助隊が来てしまったりしたら――」
 う、自分で言ってて、背筋が寒くなったぞ、一瞬。
「困りますよ、ねえ、お互い――」
「――」
 おいおい、真剣になるなよ。冗談なんだぞ、一応。
「や――やめ――やめ、ます、か――?」
「やめたいんですか?」
「――」
 フルフルッ――と、かぶりがふられる。妙にガキくさい仕草だ。私よりきっと、年上なんだろうに。
「――したこと、あります?」
「え?」
「男と」
「――誰とも――」
「――」
『男とは』誰ともしたことがないのか、それともまったく純粋な意味で、『誰とも』したことがないのか。こいつの場合、どちらもありうる。
 私はといえば――別に、初めてじゃない。
「――いいんですか?」
「え?」
「初めての相手が、私で」
「――もちろん」
「――」
 おい――そんなにきっぱり言ってくれるなよ。返答に困るだろ。どう答えりゃいいんだ。
 ――ならはじめっから聞くなってことか。ふん。
「そう――ですか」
 ずっと――いいにおいがしている。
 逆よりましだが――妙な気分だ。
 いや、そもそも、私はなんでこんなことをしてるんだ?
 こいつは――敵――だぞ。
 敵――だろ?
 敵、だよ、な――?
 ああ――そうだ。
 こいつに自覚がないのがいけない。こいつときたら、私の『敵』なんだという自覚がまるっきりない。薬にしたくったって、ない。
 だから。
 そのせいで。
 私の調子が、狂うんだ。
「――」
 あ。
 ――困る。
 私を見て――笑うなよ、まったく。
 そんなに――うれしそうに。
 私は、な、おまえの――。
 ――敵もくそも、ない、か。
 お互い相手を殺せたはずなのに――まあ私の場合はかなり微妙だが、こいつは絶対確実だろう――お互いそうはしなかった。
 だから、まあ――いまさら、もう――。
 別に――いいか。
「――アレン」
「え――え!?」
「それがあなたの名前でしょう?」
「え、あ、ああ、は、は、はい――そ、そう、です、けど――」
「私は、ユミル」
「え?」
「私の名前は――ユミル、です」
「あ――」
 ああもう、わかった。いまさらだ、いまさら。だけど。
 こいつは、まったく。ほんとに――まったく。
 私の名前を聞いただけで、いちいち泣くなってんだ、まったく――。
「ユ――ユミル、さん?」
「そうですよ」
「ユミル――さん」
「――私も、アレンさん、と呼んだほうがよかったですかね?」
「え? い。いえ、それはもう、ご自由に、お好きなように――」
「――」
 はいはい。そうだよ、こいつは、そういうやつだ。
「――アレン」
「はい」
「――しますよ」
「――はい」
 ここはやっぱり、ほめておいてやってもいいかもな。
「何をするんですか?」なんて、まぬけなことを言わなかっただけでもこいつとしては上等だ。
 別に――こんなことをする必要なんて、まるきりありはしないのだが。
 ここまできたら、してしまおう。

「――怖い、ですか?」
 あまり身を硬くしているものだから、つい馬鹿なことを聞いてしまう。
「――何をすればいいですか?」
 そう問い返され、少し、笑う。
「何か、したいんですか?」
「――かみ――」
「え?」
「か――髪――さわりたいな、って、その――ずっと――」
「いいですよ。はい、どうぞ」
「あ――」
 おずおずとのばしてくる手をいきなりひっつかまえてやったら――やめておこう。後が怖い。
「う、わ――」
 細い指が、おずおずと私の髪をさぐる。
「別に、普通の髪でしょう?」
「あの――きれい――」
「――」
 返答に困る。特に、私はこいつのことを、きれいともなんとも思っていやしないのでよけいに困る。
「――今度は私がしてもいいですか?」
「え――あ、ど、どうぞ――」
「――」
 じっと。
 顔を、見つめる。
 真っ赤だ。――真っ赤。
「――顔、赤いですね」
「す、すみませ――」
「かわいいですよ」
「――」
 グチャグチャと。
 水音のする、キスをしてやる。
 ビクビクと。
 腕の中の体が、震えて、静まる。
 いまさらながら、天幕の床は、案外とやわらかく、こういうことをするのに都合がいいことに気付く。
 しかし――あらためて見ると、男っぽいところがまるっきりないな、こいつ。といって、女っぽいところなど、さらに輪をかけてありはしないが。
「――」
 うわ。
 いつのまにか――こっちが、見られてた。
「――いいですよね?」
「え?」
「続きをして」
「――」
 コクッと頷く、動きが伝わる。
 ……えーと。
 どうして私は、こんなことをしているんだろう。
 えーと、さらに。
 どうしてやめずに続けているんだろう。
「――服、どうします?」
「え?」
「自分で脱ぎます? それとも――」
「え、あ、え、その――じ、自分で――」
「そうですか」
 手をはなす。
 じっと――見つめる。
「――あの」
「はい?」
「み――見られていると、その――」
「いやですか?」
「その――やりにくい、というか――」
「どうして?」
「え――それは、その――」
「私が目を開けていてはいけないというのなら、私、これからずっと、目隠しでもしてなきゃいけないんですか?」
「あ――いえ――それは、その――ええと――」
「私がやってあげましょうか?」
「え――」
 服に、手をかける。
「え!? あ、あの――」
「はい?」
「あの――あ――!?」
 だぶついた長衣(ローブ)。すそをまくるのは非常に楽だ。
「あ、ちょ、あ、あ――や、やります、じ、自分でちゃんとやりますから――」
「そうですか」
 ああ――わかってる。自分でよぉく、わかってる。
 私は、性格が悪い。
 実に――楽しい。
「では、どうぞ」
「う――」
 少しだけ、恨めしげな目。
 う――こいつが本気で私に敵意を抱いてしまったらどうしよう。
 ――なんて、いまさら、か。これくらいでそんな気をおこすというなら、とっくに私は死んでただろう。
 しかしまあ――色気のない体だな。まあもともとそんなもの、かけらも期待してはいないが。
「どうして隠すんです?」
「か――隠すでしょう、普通――?」
「しかしそれでは、続きが出来ませんが」
「え――」
 別に、特に大きくもない、普通の茶色い目だが。
 どういうわけだか――妙に、目立つ。
「――あの」
「はい?」
「――あなたは?」
「――ああ」
 そうか、なるほど。
「私も脱いだほうがいいですか?」
「あ――ええ――はあ――まあ――」
 あ、チラチラこっち見てる。
 それじゃあ、まあ――ご希望通りに。
「……」
「――どうかしましたか?」
「あ、いえ、あの、その」
 別にそこまで照れることはないと――。
「ほ、他の人の見たのって、初めてで、その」
「あなたどれだけ浮世離れした人生送ってきたんですか今まで!?」
「あ、いや、あの、その――どうもすみません」
「いや――別に、謝ってくれなくてもいいですけど――」
「――」
「あの――私別に、怒ったわけじゃないんで――」
「――あの」
「はい?」
「ええと――やっぱりこれは、言っておかないとまずいというか、公正ではないと思うんで言っておきますが――」
「は? はあ――なんでしょう?」
 いきなりなんだ? まさか、国に妻子がいるとか言い出すんじゃないだろうな?
「こうして拝見するにつけ、あなたはなんというか、実に見事に、立派に人間でいらして――」
「は――はあ?」
 まさか、私いままで人外とでも思われて――。
 ――ん?
 人外――。
「本当にあの――なんといいますか――すばらしい人で――でもあの――」
 人外――。
 まさか――。
「あの――正直に言います。実は私――」
 げ。
 これはひょっとするとひょっとして――。
「その――は、半分――人外の血が入っていまして――」
「……」
 うわあ。
 どうしよう。
 やっぱりそうか。
 言っちゃなんだが。
 ――あんまり意外じゃない。さもありなんだ。
「ああ、はい――そういうこともまあ――ありますよね、ええ――」
 うん――ああ、どうしよう。こういう場合、どういう反応をしてやりゃいいっていうんだ? 半分人外だろうと純血の人間だろうと、こいつがすっとんきょうですっとぼけててピントがずれてて間が抜けていて、どうにもこうにもこっちの調子を狂わせることしかしない奴だってことは、何にも変わりゃあしないんだ。
 だから。
「で――それがどうかしましたか?」
 私としては、こう言うしかない。
「別に今さら、気にしませんよ、そんなこと。敵で、男で、ついでに年上のあなたと、この上なく親密になろうとしているんですよ、私は。それで――なんですって? 半分、人外? 言っちゃなんですが、今さらそれがどうしたっていうんです? ああもうあなたは本当にじれったくて見てるとイライラする人だな。もうここまできたからには、あなたにたとえ精気もしくは寿命吸収系の血が入っていたところで、最後までしなきゃ中途半端すぎて気がおさまりませんよ私は!」
 ――別に、ここまで喧嘩腰になることもなかったんだが。どうもこいつの情けないひよひよ顔を見ていると、思いっきりどやしつけてやりたくてしようがなくなってしまうのだ。
「――」
 ――う。
 まずい。
 また――泣くかな、こいつ?
「――」
 うう。
 そんなにじっと見るな。そりゃ私も、ちょっとは悪かったが――。
「――ありがとう」
「――え?」
「ありがとう――ございます」
「――」
 ほんとにこいつは――いったいどこまで馬鹿なんだ。
「――別に、礼を言われるようなことはしていませんよ」
「――えと――」
「――いいからしましょう。あなたのペースにあわせていたんじゃ、いつまでたっても話が前に進まない」
「す――すみま――わ!?」
 押し倒した。
 うわ――細いな、こいつ。
「あ――」
「――いやですか?」
「――いえ」
 少しだけためらって、恥ずかしそうに。
「いやじゃ――ない――あ、あの――つ、つづけ、て――」
「――そうですか」
 少しくらい、その――やさしくしてやったほうが、いいのかな?
 ――悪いことはない、な、まちがいなく。
 ――とはいえ。
 どうすればいいのか――よく、わからない。
 いや、その、最後までやる方法は、わかっている。
 ただ。
 こんな妙ちきりんな奴に、やさしくする方法なんて、私は、知らない――。
「――」
 これでいいのかどうかはわからない。
 ただ、じっと、抱きしめていた。
 ややあって――ふわっとした、少しだけ濡れた感触が。
 ああ――キス、されたのか、私。
 グウ――ッと、細い腕に、力がこもって。
「――くない」
「え?」
「――すれ――忘れたく、ない――」
「――」
 問い返す、よりも先に。
 ただ、抱きしめていた。
 なにを言っているのだろう。
 いったいどういう意味なのだろう。
 忘れたく、ない?
 そんなことを言う、ということは――。
 忘れたのか?
 忘れる――のか?
 忘れる?
 何を?
 忘れる?
 私を?
 私の、こと、を――?
「――るな」
「え――?」
「――れるな。私を――私のことを、忘れるな!!」
 忘れるな。
 忘れるな。
 許さない。
 忘れさせない。
 忘れさせてたまるか――!
「アレン――私を――忘れるな――!」
 ――なぜ、私は、そんなことを望むのか。
 なぜ「忘れるな」と叫ぶのか。
 これは敵、これは敵、こいつは、敵――。
 でも。
 でも――。
「――ユミル――」
 ――ああ。
 その透明な瞳の奥に。
 この頼りない身体の上に。
 刻んでしまおう。
 そう――思った。
 だって、不公平じゃないか。
 こいつだけ、忘れ去ってしまうだなんて。
 私はとっくに――刻まれてるのに。
「――」
 私は忘れないだろう。
 いつまで生きるか、知らないが。
 きっと、ずっと、いつまでも。
 私は忘れないだろう。
 こんなにおかしな奴はいない。
 私は忘れないだろう。
 だからおまえも、忘れるな。
「――ええ」
 その瞳から――やわらかな色が、消える。
「私はもう――忘れない。これ以上――これ以上は、もう――」
「――」
 私は、頷いた――の、だと思う。
 相手の舌と舌を絡めながら、頭を動かすのを、頷いた、と言えるものならば。

 ――甘かった。
 が。
 甘さが――変わっていた。
 ふんわりとした、砂糖菓子のような甘さが。
 濃厚な――少し、頭痛を誘うような甘さに。
「――」
 他のところは――どうだろう?
 やっぱり、甘いの、かな――?
 ――あ。
 においも――少し、変わってきている。
 やわらかな、あたたかなにおいだったのが。
 ねっとりとこもるような――熱をはらんだ香りに。
 ――タイ。
 ――え?
 ――ベタ――。
 ――タベタ――。
 タベ――。
 タベタイ――。
「――」
 ゴクリ――と、どちらのものだかわからなくなった唾液を飲み下す。
 ――ああ。
 ソウデキタナラドンナニカ――。
 そっと――熱っぽい頭を胸に抱く。
 馬鹿言うな、そんなことをしたら、こっちの命が――。
 コイツハテイコウシナインジャナイカ?
 ――でも、だめだ。馬鹿いうな、まったく。
 だって。
 食べたらなくなっちゃうじゃないか。
「は――はは――あ、は――」
 ああ――そうか。なんとなく、わかった。
 だから。
 ダからこうイウこトヲスるのカ――。
「あ――あ、なに――」
「――食べたいんですよ」
「え――?」
「食べたいんですよ、私は、あなたを。あなたを食べてしまいたい。でも――食べたらなくなってしまいますからね。――だから」
 ダカラ。
「だから、かわりに――この程度のことで、我慢をしているんですよ――」
 なめて、しゃぶって、口に含んで。
 噛み千切って、飲み下してしまったら、どんなにか――。
 でも、そんなことをしたら、なくなってしまうから。
 だから――我慢をして――。
 ふ――ふふ――はは――あっは――。
 私って、変態だったんだ。
 ヤりたい、ならともかく、食べたいって、なんだよ、まったく――。
「た――食べたい――ですか――?」
「食べませんよ。あなたがいなくなるよりも、私が我慢するほうがいい」
 本当は――私のほうこそ、半分人外なんじゃないか?
 はは――。
 別に、いいか。もう、いまさら。
「う――!?」
「ああ――あと、ついちゃいましたね。でも――いいですよね、別に――」
 ソウスレバ、ワスレマセンヨネ?
 アトガキエルマデクライハ、キットオボエテイマスヨネ?
「――ええ」
 ――え?
「いいです。――いいですよ。好きにして――好きなように、してくれて――」
「――」
 ――なんで。
 なんで、そんな――そんなことを言っているのに――。
 その目の光は、そんなにも強いんだ?
「――」
 胸が苦しい。
 息が苦しい。
 何でこんな奴のために、こんな思いをしてるんだ、私は。
 甘い。
 甘い。
 ひどく、甘い。
 食べたい。
 食べたい。
 ああ――食べたい。
 でも、しない。
 こいつがいなくなるよりは。
 アナタガイナクナルヨリハ。
 私が我慢をしたほうがいい。
 ダケド、イイヨネ。
 コレクライハ――イイヨネ――。
 私は何をしているのか。
 いやがる、かな、こいつ――こんなことしたら――。
「――」
 ――笑うなよ、まったく。
 いやがってはいないのは、わかったから、さ――。
「――好きです」
「――」
「好きです――好き。私は、好き――あなたが、好き――」
「――」
 うるさい。
 うるさい。
 私は、答えない。
 答えて、たまるか。
 答えたら、きっと。
 すべてが、崩れる。
 だから、ただ。
 食べるまねだけ、くりかえす。
 なんだか、つるつるとして、さらさらとして、なめらかな――私の下を、水がすべっていくような、何かが流れていくような――。
 水の同胞。
 本当に――水みたいな奴だ――。
「――」
 だけど、甘い。
 だけど、熱い。
 だけど――だけど――。
「あ――」
 するのか――私?
 ほんとに、こいつと。
 ――するよな、やっぱり。
 ここまで、きたら。
「――痛い?」
「だい――じょぶ――」
 大丈夫、なのかもしれないけど。
 痛い、よな、やっぱり。したことないっていうし――。
 ――ああ。
 なめてやりゃ、いいか――。
「あ、え、なに――」
「痛くはないでしょう、これなら」
「あ、でも、そこ――」
「いいから」
「え――」
「私の好きなようにさせてくれるんでしょう?」
「――」
 ――どうしてだろう。
 どうしてこいつの目が、こんなに気になるんだろう。
「――泣かないで」
「――はい」
 泣かしてやってても――よかったかな。
 次に泣いたら――泣かせておいてやろう。
「あ――う――」
「この姿勢、苦しいですか?」
「大丈夫――」
 ――って言われても、やっぱり少しは苦しそうで。
 ああ、でも、これからきっと、もっと苦しくするわけで。
 いまさらながら、こいつ、私がこっちでよかったんだろうか? その――私が上になるほうで。
「ここ――苦しいですか?」
 一応ちゃんと、それなりのものが、それなりになっている。
「さ――さわらないで――」
「どうして?」
「で――でちゃう、から――」
「――へえ」
 自分でも、人が悪いとわかっている笑みを浮かべる。
「だしたくないんですか?」
「え――う――あの――」
「私は――ちょっと、苦しいし――どうにかしたいんですけどね、もうそろそろ」
「あ、う――」
「どうしましょうか? どう――すればいいでしょうねえ、これから?」
「あ――あの――もう、大丈夫――」
「なにが、ですか?」
「あ、の――」
 泣き顔が、かわいい。
 ああ――気持ちがいい。
 いったいなんなんだろう、この気持ちは。
「い――も、だいじょぶ、ですから――」
「なにが?」
「い――いれて――」
「ああ――指を、もっと?」
「え、あ、あ、あ――!」
「ああ――入っちゃいましたね」
「ちが――」
「え?」
「ちが、う――」
「なにが?」
「ゆ、び――ゆび、じゃ、なくて――」
 もともと涙ぐんでいた目に、さらにジワッと涙が盛り上がる。
 ああ――これ以上は、さすがにな。
 したことないっていうし。
「――少し、つらいと思いますけど」
「このまま、の、ほうが、いや――」
「――」
 ――気がついたときには、もう抱いていた。
 痛かっただろう、と思う。何も考えずに突っ込んでしまったから。
 でも。
 その細い腕は、私を押しのけるのではなく――抱き寄せようと、しがみつこうと、していた。
 その、なか、は――。
「ああ――いい――」
 ――冷静になってから考えると、いったいなにを言っていたんだ、と、そのときの自分の首をちょっとしめてやりたくなってくるのだが。
「いい――いい――きもちい――なか――すごい――うごいて――うごいて、いい――?」
 ――首をしめるついでに、脳天の一つもカチ割っておこうか。いったいなにを口走っていたんだ、まったく。
 ――でも。
 その。
 気持ち――よかったのは、まあ確かだ。
 腕に抱いているのは、中年男の貧相な体だと実によくわかってはいるのだが、においも、肌ざわりも、別にそんなに悪くなかったし、その体の中はその――まあ、その――。
「――いたい? いたい? だいじょうぶ――?」
「いい――だいじょぶ、だから、して――も――もっと――」
「あ――でる――でちゃう――い――いい? な――なか、だして――」
「――だして――」
 そして。
 我に返るまもなく。
 私は一気に、達してしまった。

4.すべての希望をどうしてくれよう

「――」
 いささか釈然としない思いで目覚めた。
 私は、これで一応、青年といっていい年だ、と思う。
 体もいたって健康だ。
 それで、なんで。
 一回放出しただけで、意識が飛んでしまうんだ?
「――」
 そんなにたまってたっけ、私?
「――ったく――」
 ああ――そういえば。
 アレンは、どうしたかな――。
 何の気なしに、かたわらを見て。
 一瞬後には、自分の正気を疑っていた。
「……は?」
 絶叫してみる気さえ起きない。まったくわけがわからない。
「あ……え? は? え、あの……」
 とりあえず、頬をつねるとかひっぱたくとか、大きく息を吸ってゆっくり三十まで数えるとか、いろんなことをやってはみたが、そのかいもなく目の前には、とことん狂った現実がある。
「あ……え……あの、ま、まさか……」
 私がおかしいのか、目の前のこの現実がおかしいのか。
 それともこいつがおかしいのか。
「あ――ア――アレ――アレン――?」
 ああ――そうだ。
 とっくにわかっていたことじゃないか。
 こいつはとことん、おかしな奴だって。
 でも。
 それでも。
「あ――は、はい――」
「……」
 いったいなにがどうなっているんだ。
 緑の黒髪。白く透けるようななめらかな肌。優しげな茶色の瞳。ばら色の頬。赤い唇。ほっそりと華奢な、けれどもやさしい曲線を描く、やわらかくあたたかな体。
 いったいなんで、何がどうしてどうなって、何の因果で何の呪いで。
「あ――あれ? 私――わた、私――?」
「ア――アレン、なんですね――うわあ――」
 中年男の処女を奪ってみたら、相手が可憐な少女に変わってしまう、だなんて、そんなわけのわからん奇跡が起こってしまうんだ――ッ!?
「……うわあ」
 目の前の少女のすっとぼけた声を聞き、ようやっと疑いが消える。
 この、思わずはりたおしてやりたくなるようなすっとぼけかた。こいつは、まちがいなく、アレン――だ。
 ――どうなってるんだ、いった――。
 ――あ。
(半分――人外の血が入っていまして)
「……」
「うわ――私、まだ、安定しきってなかったんだ――知らなかった――」
「あの――アレン?」
「はい?」
「いまさらながら――あなた、どの系統の種族との混血なんです?」
「あ、はあ――」
 ふにゃりとしたなさけない笑顔は、中年男だった時とまるで変わっていない。
「ええと、なんていうか――母がその、女淫魔(サキュバス)でして――」
「……うそでしょ?」
 このひよひよ(可憐な少女になったところで、ひよひよはやっぱりひよひよだ)が、こともあろうにその半分は淫魔の血だと!?
「は、はあ、その――私は、その、父方の血を色濃くひいたみたいで――」
「……」
 ――あ。
 ああ。
 不思議な香り。
 甘い体液。
 そう、そして――。
「女淫魔(サキュバス)と男淫魔(インキュバス)は、本来同体――そうか、なるほど――」
「その――ここ二十年ほどは男で安定していたんで、もうとっくに安定期に入ったものだと思っていたんですが――」
 ふにゃりと笑った、次の瞬間。
「あ! だ――大丈夫ですか!?」
「え?」
「わ、私――せ、精気、す、吸っちゃったかも――!?」
「……大丈夫ですよ。ちゃんとこうして、普通にあなたと話してるでしょ」
 まあ、気が遠くなりはしたが。
「あ、よ――よかった――」
「……」
 もともと小柄だったのが、さらに一回り小さくなって。
 澄んだ、高い声。
 なめらかな、白い肌。
 水のように流れ落ちる黒い髪。
 ふっくらとした、ばら色の頬。
 小さな赤い唇。
 細いのに、やわらかな曲線を描く体。
 黒々と濡れて私を見つめる瞳。
 ――反則だ、こんなの。あらゆる意味で。
「――一つだけうかがいたいんですが」
「はい、なんでしょう?」
「どうやって若返ったんですか?」
「……わかりません」
 その答えは、ある程度予想していた。
「推測なら――できますけど」
 そう言われるとは、予想していなかった。
「え――と、いうと?」
「断言はできませんが――おそらく」
 アレンの瞳に、深い影が落ちる。
「私の――記憶の量と外見の年齢とが、どういうわけだか一致したんだと――たぶんそうだと、思います。確証は――ありませんけど――」
「え、それは――それは、どういう――?」
「――」
 アレンの瞳に浮かんだ苦痛は、私の胸を、確かに抉った。
「――私は忘れてしまうんです」
「――え?」
「私は忘れてしまうんです」
 ひどくすりきれた、うるおいを失った声だった。
「あんまりいやなことがあると、あんまりつらいことがあると――私は忘れてしまうんです。いやなことや、つらいこと、だけではなく――その前後にあったことまで、何もかも、全部まとめて巻き込んで、ひっくるめて――私は忘れてしまうんです。たとえそれが、どんなに大切な、どんなに覚えておきたいことであっても――。何かを忘れてしまっているということだけはわかるのに――」
「――」
「――だから」
 それは少女。
 それは――老女。
「私は――きっと、あなたより長く生きているんだと思いますけど――記憶の量は、きっと――あなたより、ずっと――ずっと、少ない――」
「――あなたは」
 そっと――そっと、抱き寄せる、細く小さな体。
「そんなに――そんなに、ずっと――ずっとずっと――つらかったんですか、アレン――」
 ああ――当然じゃないか。
 傷つけるのも殺すのも、嫌いな奴が軍にいて。きっといつだって、前線で激戦に投入されつづけて。
 それでつらくないというのなら、そっちのほうがおかしい――。
 ――え!?
「ア――アレン!?」
「――はい?」
「あ、あなた――こ、このあいだの、臨界不測――」
「――」
 懸命にすがりついてくる細い腕。
「忘れたくない――忘れたくない!」
「――アレン――」
 あれが、つらくないわけがない。
 重荷にならない、わけがない。
「――大丈夫ですよ」
「え――?」
「アレン――あなたが忘れてもね――忘れてしまってもね――私が――私がずっと、覚えているから――私がずっと覚えていて――あなたが忘れてしまっても、私が教えてあげるから――あなたに教えてあげるから――」
「ユ――ユミル――で、でも――」
「――」
 ああ。
 そうか。
 敵どうし、だったっけな、私達は――。
 ――ふん。
 さすがは、半淫魔。
「――アレン」
「――はい?」
「あなた――今さら国に、未練なんてあるんですか? あなたにずっと――つらいことばかりさせてきた、連中に――」
「え――」
 まんまと私を――たらしこみやがって――。

「初めて臨界不測爆鳴気を発生させたのは――十になるか、ならないか、だったでしょうか――」
 私の腕の中で、少女は――アレンは、語り続ける。
「あなた――そんな、子供のころから――」
「――水の同胞、ですから、私は――」
「――」
「その時――あなたの国の人といっしょに閉じ込められて――私――覚えてないんです、その人のこと。顔も、名前も、性別さえも――でも――でもね、きっと――きっとその人、私にやさしくしてくれたんですよ――」
「え――どうしてそんなことがわかるんです? だって覚えてないのに――」
「だって、覚えていましたから」
「え?」
「覚えていたんです。どうにかそれだけは、覚えていられたんです。あなたの国の――歌をいくつか。きっと――きっとね、その人が、子供だった私に、教えてくれたんですよ、いっしょに閉じ込められてる時に。――ね? 敵の国の子供に、そんなことをしてくれる人が、やさしくないわけ、ないでしょう――?」
「――そうですね」
 そっと、口づける。
 胸が、つまる。
「その人、いったい――どうなってしまったんでしょう――わからない――教えてくれませんでした、誰も――」
「――」
 生きてはいないだろう。
 アレンがここにこうしている、ということは、その人はまずまちがいなく、敵国の手に落ちたのだ。
 ――ああ。
 それでもその人は、アレンを道連れにしようとはしなかったのか。
 ――しなかった、のではなく、できなかった、だけなのかもしれないが。
 私だって、少しぐらい――アレンのような考えかたをしてみたっていいだろう。
「――もう、いやなんです」
 アレンの言葉とともに、細い腕に、指に、力がこもる。
「私は、もう、忘れたくない。忘れません――あなたのことは――」
「――だったらいっしょに逃げますか」
「――」
「――いや――ですか?」
「――あなたは――」
「え?」
「あなたは――私とは、ちがいます――」
「――そうですね。――だから?」
「え――」
「私一人くらいいなくなったって、軍も、国も、ビクともしやあしませんよ。それに――」
「――それに?」
「あなたのような天才を、敵の国から奪う、というのは――なかなかに華々しい、立派な戦果だと思いますが、ね」
「――ユミル――」
「もう一度、聞きますよ。――だったらいっしょに逃げますか?」
「――はい」
 ――どこへ、かなんて、知るもんか。
 ああわかってる。わかっているさ。
 私は見事に――淫魔の毒にあてられたのさ。
 誰よりもかよわくて、誰よりも強い。誰よりも年老いて、誰よりも若い。おそろしく愚かで、何もかもを悟った。清純にして淫乱。全能にして無力。
 私の腕の中には――少女の形の、矛盾が巣食う。
「――と、いうことは」
 やれやれ、背に腹は変えられないか。
「やはり――臨界ふそ――」
「いいえ」
 アレンがきっぱりとかぶりをふる。
「あなたにそんなことをさせるわけにはいきません。あなたが自分を許せなくなるようなことをさせるだなんで、そんなこと、けっして――」
「しかし――」
「――大丈夫です」
「え?」
「きっと、私」
 初めて見る。
 いたずらっぽい、その笑顔。
「自分で思っていた以上に、母の血を色濃くひいていたんです。だから――だから、もう一つ――方法が、あります」
「え――それは、どういう――?」
「いっしょにね」
 赤く染まった、やわらかな頬。
「『飛ぶ』んです」
「――」
 なんとかなるかもしれないな。
 なんの根拠もなく、そう、思った。
 なんとかなるかもしれないな。
 このおかしなのといっしょなら。
 アレンとずっと――いっしょなら――。

 ――とりあえず、一息入れることにした。
 それなりに体力使ったし、腹もへったし。
 アレン――少女の姿になったからって今さら他の名で呼ぶ気にもなれない。本人も別に、アレンで構わないようだ――は、いつものように、にこにこと茶をいれる。
 それを飲んでから、私が料理を作る。と、いっても、粉とありあわせのものをざっくり混ぜて焼く、特に芸もない一品だが。ただ、ソースだけは、それなりに年季の入った、割といいやつを持ってきてある。
「ふわ――おいひーれふね、こえ」
 口をもぐもぐさせながら、のどかな顔と声でアレンが言う。
「はいはい、ちゃんと食べてからしゃべりなさい。別に急いでるわけじゃないんだから」
 ――本気にしてもらえるかどうかはわからないが。
 正直――あんまり変わらないな、と思っていた。
 女の子でも、おっさんでも、どちらでも。
 いや――わかっている。確かに、外見はまるっきりちがう。私だって、はじめは相当混乱した。
 だが、しかし。
 その中身とその仕草とは、ほんとにまったくまるっきり、何一つ変わってやしないのだ。
「――? なんれふか? ろうかひまひたか、フミウ?」
「だから、ちゃんと食べてしまいなさいって。――なんでもありませんよ。お気になさらず」
「――そうですか?」
 ようやっと口の中の物を飲みこみ、アレンがきょとんと小首を傾げる。
「そうですよ」
「はあ――そうですか」
 しかし、あれだ。
 体が一回り小さくなった、その小さくなった分は、いったいどこへ行ってしまったんだ?
「――楽しいですね」
 にこにこと、アレンが言う。
「え?」
「誰かといっしょに食事するのって、楽しいですね、すごく」
「――そうですね」
 ああ、もうやめろ、私の中の、もう一人。
 このひよひよに、いちいち同情するな。
「――よっと」
 体が小さくなったせいで、もとからだぶついていたのがすっかりだぶだぶになってしまった長衣(ローブ)のそでを、ひっきりなしにアレンはまくりあげる。まくってもまくってもおっこってくる。新しい服がいるな、ありゃ。
「ユミル――あ、えと、ユミル、さんは――」
「ユミルでいいです、別に。いまさらそんな、あらたまらなくても」
「あ――えと――」
 うわ、そ、その顔で赤くなるな。凶悪な破壊力だぞ、おい。
「あの――ユミルは、その――ほんとに、私と――」
「私って、そんなに信用ないんですか?」
「え!? ち、ちがいます! わ、私は、その――」
「だったらそういう馬鹿馬鹿しいことを言わないで下さい」
「す、すみません」
 ……人前でこの調子でアレンをどやしつけてたら、私、ものっすっごく、非難されてしまうんじゃないだろうか? いたいけな少女をいじめてる、とかなんとか。私はただ、アレンがおっさんだった時と、まったく同じ対応をしているだけなんだが。
 まあ、これだけ見た目が変わっているのに、まるっきり同じ対応をするほうがおかしい、という説もあるだろう。それくらいはわかるぞ、私にだって。
 だけど。だって。だって――なあ?
 アレンは、アレンなんだ。
 ――私は何を言ってるんだか。
 私は、馬鹿か?
 ああ――そうだ、な。
 私は――馬鹿だ。
 ほんとに、馬鹿だ。
「――あの」
 きょとっ、とした目で、アレンが私を見る。
「えと――も、もう一杯、お茶、いれましょうか?」
「そうですね、お願いします」
「あ、はい、今すぐ」
「あわてなくていいですから」
「――はい」
「――」
 今は別に――不自然でもなんでもないな。
「かわいい」って――思っても――。
「――はい、どうぞ」
「どうも」
「――」
 目――というか、まなざしは、全然変わってないな。
 いれてくれるお茶の味も、当然ながらおんなじだ。
 でも――やれやれ、まったく。
 この、いかにもかよわげな乙女を連れて逃げるのは――。
 ――あ。
 馬鹿か、私は。
 おそらく最強レベルの水の同胞だぞ、こいつは。
 いざとなったらきっと、守られるのは私のほうだ。
 ああ――やれやれ、まったく。ほんとに、まったく。
「――アレン」
「はい?」
「よかったら――これ、食べます?」
「え? ――わ、金平糖?」
「うちの上のほうの誰かに、妙に茶目っ気のある人がいるらしくて、硬パンの袋の中にいっしょに入ってるんですよね、それ。ま、甘いものは疲れがとれるって言いますし、よかったらどうぞ」
「わあ――ありがとうございます」
 うん、やっぱり、金平糖はおっさんよりも女の子ににあう。いや別に、そういう理由で今まで隠し持ってたってわけじゃあないんだが。
「あは――おいしい」
 にっこりと笑う、その顔は。
 どうもやっぱり、かわいいので、困る。

 ……なんというか。
 いまだひとことの説明も、なされてはいないのではあるが。
 しかし。
 顔を真っ赤にし、恥ずかしげに目を伏せ、ずっと困ったようにもじもじしている様子と、こいつの体に流れる半分人外の血はどこから来たのか、を、つらつらとかんがみてみるに。
『飛ぶ』というのがいったいどういう行為なのか、おのずからなんとなくわかってこようというものだ。
「あの――アレン?」
「は、はい」
「その――まちがってたら言って下さいね。さっき言ってた、その――『飛ぶ』って――」
「――」
「えーっと、その、私とあなたが、もう一度、その、さっきみたいなことをして、その――その絶頂時の、えー、エネルギーを、その――」
「さ――さっきは、その――ぜ、全部、拡散させちゃったんで、その、だ、だめでしたけど、で、でも、その、ち、ちゃんと方向性を与えてやれば、その――な、なんとか――わ、私、同胞ですけど、その、半分人外ですし――その血の力でなんとか――」
「――なるほど」
 なるほど。
「それじゃあやってみましょうか」
「え、い、いいんですか? わ、私、その――もしかしたら、その――精気、吸っちゃうかも――」
「今さらその程度のこと誰が気にするって言うんですか。可能性があるなら――やってみましょうよ、いっしょに」
「――はい」
 ――笑うとかわいいな。
 べそかいてても、かわいいな。
 怒ったところは、見たことないけど。
 ちょっと、見てみたい――ような、気もする。
「あの――でも、その、アレン?」
「はい?」
「さっきしたばっかりで、その――大丈夫ですか、あなた?」
「――」
「――無理しなくて、いいんですよ。多分、もう少しくらいは時間あるでしょうし、それに――万全とは言いがたい状態で挑戦して失敗したりしたら、馬鹿みたいじゃないですか、ほんとに」
「あ、の――じ、じゃあ――一晩だけ――休ませて、いただきます――」
「そうしたほうがいいでしょう」
「――やさしいですね、ユミルは、ほんとに――」
「――別にそうでもありませんよ」
「やさしいですよ、あなたは――」
「――」
 考えてみれば――そんなに躍起になって否定するような評価というわけでも、ない。
 まあ、ここはひとまずおとなしく――誤解をさせた、ままでいよう。

「ユミル――起きてます?」
「はい。――どうか、しましたか?」
「あ、あの――あの――ど、どうなるか、わからないんですけど――本当に、どうなっちゃうか、わからないんですけど――」
「――怖い、ですか?」
「い、いえ、そういうわけじゃなくて、その――」
「――何か、気になることでも?」
「今――今、私――割と完全に『女』みたいで――」
「ええ――そう、見えますけど――?」
「あの――だから、その――あ、赤ちゃん――できちゃったら――」
「――」
「わ、私――生みます。生みたいです。は、反対されても、きっと、う、生んじゃいます、きっと――」
「――ありがとう」
「え――」
「泣くことはないでしょう、アレン」
「え、い――いいん、ですか――?」
「幸い私、いまだに独り身ですし。あなたがそうしたところで、誰も不幸にしたりしません」
「あ――ありがと――」
「そういうことを言うのは、ほんとにはらんでからにしなさい。――しかしあなたも、物好きな」
「え――」
「そんなことをしたら――二度と私と、縁が切れなくなりますよ? わかってるんですか、あなた――?」
「――それはあなたも同じですよ、ユミル」
「――ふん。ま、どうせ、そんなにいきなり子供ができたりはしないでしょうがね。――でも」
「――でも?」
「ほんとに子供ができたりしたら――いっしょに名前を、考えましょうか――?」
「ええ――ええ――そうですね、ええ――」
 こいつに少しでも似たところのある子供なら。
 きっと、私より、はるかに善良で、才能だってあるだろう。
 でも、だからって、傷ついたりしない、わけがないから。
 だから、まあ――そんなことが、起こりでもしたら。
 ――守ってやるよりほかないんだろう、きっと。
 ――なんて。
 どうしても勝てやしない相手と、いまだ影も形もない子供とを。
 守ってやろう――なんて。
 とんでもなく、ばかばかしい決意を固めながら。
 とろとろと――私は眠りに落ちていった。

「……」
 いまさら気づくのも、あれでなにだが。
 こいつ――こいつ――こいつってば――。
 正真正銘の、れっきとした、まごうかたなき――。
 処女、じゃ、ないか、ああ――。
「――どうか、しましたか?」
 と、アレンがいとも無邪気に小首を傾げる。
「いえあのちょっと、ちょっとだけまってくださいね。……いいのか、しちゃって……」
「え?」
「い、いえ、別に……」
 ある意味とっくに『初めて』は奪ったわけなのだが――。
 意味あいがちがうだろう意味あいが!! それともあれか、おなじなのか!?
 ……って、おい。
 ゆうべ、子供が出来たらどうするか、まで、話しあったじゃないか私達……。
「え、えーと――ふ、普通にしちゃって、えーと、い、いいんですよ、ね――?」
「……普通じゃない方法って、知りません……」
「……」
 なんだか自分がものすごく汚れた人間のような気がしてきた。あれ、なんだ、涙がにじんできそうじゃないか、おい。
「――あの」
 アレンが不安げに眉をひそめる。
「や、やっぱり、い、いや、ですか――?」
「――そんなわけないでしょう。馬鹿なこと言わないで下さい」
「――はい」
「――」
 腕の中にすっぽりとおさまる、小さくてやわらかな体。
 ああ――いいにおいがする。
 甘い香りに、花のような香りが少し混じる。
 香水――なんて、つけてるわけじゃないんだろうな。
「――」
 やわらかな頬が、すりすりと私の頬や髪や肩口にすりつけられる。まぶたを閉ざしたアレンの顔は、うっとりと、何かに酔っているかのようだ。
「――ずいぶん積極的ですね、今回は」
「え、あ、あの、あの――」
 赤くなりながら逃げようとするのをつかまえる。
「やめろ、なんて言ってませんよ、私は」
「あ、の――」
 アレンは恥ずかしげに、私の胸に顔をうずめる。
「い、今なら――この格好なら――こういうことをしても、その――あんまりおかしくないかなあ、と、その――思いまして――」
「――気にしていたんですか、そんなこと?」
「そ――それは、まあ――私の見場が、あんまりよくないことくらいは知ってましたし――お、おかしいでしょう、中年男がそんな――甘えたりしちゃ――」
 と、そういうことを、少女の声と少女の顔で言うもんだから、なんだか頭がグラグラしてくる。
「――別に、かまわないと思いますよ」
「え?」
「中年男が甘えたって。だって中身はおんなじでしょう? 私は別に――そういうことをされたって、いやがったりは、しませんよ」
 実際、あのひよひよしたおっさんがすりすり甘えてきたりしたら、それをネタにどれだけからかってやれるかと思うと、実に実に、楽しい気分になってくる。
「――」
 ギュウッ、と。
 力いっぱいしがみついてきているのだろうが、その感触は、やわらかく軽やかだ。
「好き――好き――大好き――ユミル、好き――大好き――」
「――」
 ポンポン――と、背中をたたいてなだめてやる。こうしていると、あのひよひよしたおっさんも、一応あれで、男は男で、貧相だ貧相だと思っていたが、それでも女よりは骨太だったんだなあ、とよくわかる。
「アレン――顔をあげて」
「――あ――」
 ああ――やっぱり、甘い。
 その口の中は、本物の果物のようだ。
「――あなたを食べたらおいしいでしょうね」
「いいですよ、食べて――」
「食べたらなくなっちゃうでしょう?」
「――ふふ――」
 スルリ――と、皮がむけるように服がはがれる。
 うん――小さいけど、ちゃんと胸もある。わかってはいたことだが、あらためて確認するとなかなかに感慨深いものがある。
「胸――さわって平気ですか? 痛かったり、しません――?」
「大丈夫――です。どこ――さわってくれても――」
「――」
 それほどふくらんでいるようにも見えないのに。
 指が、うずまる。
「あ、わ――」
「痛い、ですか?」
「あ、あの――ちょっと、びっくりして――」
 それはそうだろう。昨日できたばかりのものに、初めてさわられているわけだからな。
 うん――。
 やっぱり、ゆっくりやってやるか。
 そっと、つつくようなキスをくりかえす。そのあいまに、しげしげとながめる。
 ものすごい美人、というわけではない。肉感的な女、でも、絶対にない。貧相な小娘、なんて言われてしまったら、反論するのは難しいかもしれない。
 ただ。
 水の精だと言われたら――何の苦もなく、私は信じる。
 肌と肌とをあわせたくて、私も服を脱ぐ。
 ああ――今のうちに、確認しておかないとな。
「その――私は、どうしていればいいんです? その――『飛ぶ』時――?」
「――いっしょに、願って下さい」
穏やかな、アレンの微笑み。
「外へ――私たちが、幸せになれる場所へ、と――」
「――」
 それがどこだか知らないが。
 たどりつこうと、私は誓った。
「――飛びましょう、いっしょに」
「――ええ」
 ゆっくりと、指をすべらす。
「――濡れてる」
「お、女の人の体って、やっぱり男より水っぽいんですね」
 私は思わずふきだした。ひよひよはやっぱり、ひよひよのまんまだ。
「せめて、みずみずしいとか言ったらどうです?」
「あ、そ、そうですね。そのほうが――ッ!」
 指を奥にすべらせると、体がはねる。
「痛い――ですか?」
「わ、わから――な、なんだか、あの――」
 泣き出しそうな、顔と声。
「で、でちゃ――でちゃいそ――な、なんだかわからないけど、な、なにか――なにかが――」
「ああ――だしちゃってかまわないんですよ」
「だ、だめ、だめですよ、だ、だて、だって、よ、よごれ――あ――」
「痛くはない――でしょう?」
「うごかさないで――おねがい――」
 少し――急ぎすぎたかな。
 考えてみれば、昨日女になったばっかりなんだ。
「少し――急ぎすぎましたか? ――ごめんなさい。いやな思いをさせるつもりは、なかったんですが」
 言いながら、引き抜いた指をなめる。アレンの顔が、真っ赤になる。
「や、やめ、やめてください、そ、そんな――」
「どうして? ――おいしいですよ、なかなか」
 実際においしいんだから笑える。果物の汁だとでも言われたらあっさりと信じるだろう。甘酸っぱい香りが口の中に広がる。
「恥ずかしいこと――しないで下さい――」
「――」
 あんまりいじめても気の毒かな。
 あれ――妙なもんだな。
 あんまりいじめちゃ、こっちが危ない――じゃなくて、気の毒――ってか。
 ――ふん。
 まあいいか、いまさら。
「――ごめんなさい」
 そう言って、そっと抱きしめてやる。しばらくして体を少し離すと、アレンの視線がおずおずと、私のそれに向けられる。
「も、あの――したい、ですよ、ね――?」
「――もう少し慣らしてからにしましょうか」
 再び指をすべらす。実際、まあそりゃ――非常に、したい、が――指に伝わってくるそこの、まさに誰にも一度も触れられたことがないのであろう、狭くてきつい感触が、先を急ぐのをためらわせた。
「ユミル――がまん――しないで? したい――でしょう?」
「――泣かれてしまっては困りますからね」
「――泣かせて」
「――え?」
「私」
 あどけない、その笑みは。
 何よりもたくみに、私の心を絡めとった。
「あなたに、泣かされるの――いやだと思ったこと、ないか、ら――」
「――」
 そこまで言われてせずにおけるほど、私はできた人間じゃない。
 でも、さすがに――昨日よりは、多少気を使って。
 ゆっくり――と。
「あ――」
 細い足が、おずおずと胴に絡む。
 ああ。
 もう――『飛べる』かどうか、なんてどうでもいい。
「――」
 なにか言ってやればよかったのかもしれないが。
 ただ、じっと――抱きしめていた。
 ためらうように押し当ててくる唇を、思いきり奪う。
 動かなくても、中が動いているのがわかる。
「――いっしょ――」
「――ええ」
「いっしょ、に――ね?」
「――ええ」
 なにか気のきいたことでも言ってやれればよかったんだが。
 ただひたすらに、頷いていた。
「い、あ、あ、あ――!!」
「――ッ!!」
 ――なにか覚えていればよかったんだが。
 あいにく何も覚えていない。
 せっかくの――一世一代の、大魔法、だったのに。

「――」
 ここがどこだかわからない。
 二人で、裸で、泉のほとりで。
 まったく――冗談みたいな話だが。
『飛んで』しまったのだ、私達は。
 ほんとにまったく――アレンってのは、とんでもない天才だ。
 そっと――アレンの中から、自身を引き抜く。
 とたん――。
 ひどい、めまい。
「あ――?」
 ――ありゃ。
 こりゃまた――お帰りなさいだな、おい。
 私の腕の中には。
 ひよひよとした、調子はずれな、実に貧相な中年男が、一人。
「――やれやれ」
 なんとなく、笑ってしまう。その声に、アレンが目を覚ます。
「あ――おはよ――!?」
「おはようございます――アレン?」
 アレンの顔が、真っ青になる。
 ビクビクと、体がすくむ。
「ア、アレン――? ど、どこか、痛くしまし――」
「ごめんなさい!」
「――え?」
「ご、ごめ――ごめんなさい! こ、こ、ここまでふ、不安定だったなんて――ごめ――ごめんなさい――で、でもあの、あの、き、きっと、ま、また、あの――」
「――アレン?」
 なんだかわけがわからない。
「ええと――あなたは何を謝っているんです?」
「え、だ、だ、だって――」
 おどおどと、伏せられるまなざし。
「さ、さっきのほうが――お、女の子でいたほうが――い、いくら見場のよくない私だって――す、少しはましだったでしょうに――」
「――」
 やれやれ。
 いったい何を言っているんだか、このひよひよは。
「――あなたはほんとに、馬鹿ですね、アレン」
「す――すみま――」
「あのですね、私が最初にどちらのあなたを抱いたのか、もう忘れたって言うんじゃないでしょうね? ――私はね」
 そう――私は。
「どちらのあなたも好きですよ、アレン」
「!?」
 はじかれたように私を見つめ、ガクガクとアレンは震え出す。え――い、今、私、なにかそんなにまずいこと言ったか?
「――アレン? 私、何か気にさわるようなことでも言いましたか?」
「い――いま――今――」
 アレンの両目から――静かに、涙が。
「アレ――」
「す――好き、って――」
「――」
 ――しまった。
 ――まいった。
 ああ――言ってしまったか、とうとう。
 ――とうとう?
 ――ふん。
 ああ――わかったわかった、わかったよ。
 そうだな。
「――ええ」
 一度くらいは――な。
「私は、あなたが――好きですよ、アレン」
「ユミル――」
 一度くらいは――素直になってやるよ。
 ああ、やれやれ――まったく正気の沙汰じゃない。
 敵国の人間で、半分人外で、とことん抜けてて、派手にズレてて、中年のおっさんのくせにいきなり可憐な少女になったりして、天才なのは確かでも、それ以上に厄介者ってことのほうがでかいだろう、こいつの場合。いまどこにいるのかもわからなくて、ろくに何にも持ってやしなくて、おまけに二人とも脱走兵で。
 ああまったく――絶望のあまり十回は首をくくってやったっておかしくないような状況だよな、こりゃ。
 ああ。
 ああそれなのに――それなのに。
 この胸のうちにあふれくる。
 すべての希望を、どうしてくれよう。



『すべての希望をどうしてくれよう』・完

すべての希望をどうしてくれよう

すべての希望をどうしてくれよう

一応ファンタジー系の腐向け。 おっさん受けで女体化も入った獣道。 私以外に需要があるんだろうかと思いつつ書いてしまいました。 シリアスといえばシリアスなところも。 天然のひよひよしたおっさんが好きならどうぞ。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2013-08-16

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY
  1. 1.そもそも相手が悪かった
  2. 2.爆心地の陽だまり
  3. 3.流れゆくものに従いて
  4. 4.すべての希望をどうしてくれよう