我が罪に名をつけるなら

それは、罪の物語。

罪と罰と、それ以外と

 そこは、まだ花の少ない花畑のように見えた。
 だが、本当は。
 薬草園なのだ、ここは。
「――」
 アルバートは、ふと薬草園への門戸を押そうとした手を止めた。
 今日はこの修道院に、若き新領主が訪れている。
 かすかに聞こえる歓迎の喧騒を聞きながら、アルバートは静かな笑みを浮かべた。
 新領主、ユリウス・エラルトリア。この修道院は、次男であったユリウスが、その兄リディウスの流行病による急逝によって次期頭首とされるまで、彼の終の棲家であるはずだった場所だ。
 幼いユリウスは、ことのほかこの薬草園を愛していた。薬草園と、その園の穏やかな番人、アルバート・レントの事を。
 アルバートはそっと門戸を押した。もともとおとなしく引込み思案なたちだ。痩せた体にすでに若さはなく、まっすぐな髪はすでに黒髪とは言えないほどに白髪が混じっている。晴れがましい式典に、見学ならともかく主要人物――幼き日の新領主の教育者にして保護者――として出席するなど、喜びよりもむしろ苦痛のほうが大きいくらいだ。
 だから、ここに来た。
 門戸を開け、アルバートは驚いて目を見開いた。
 新領主、ユリウス・エラルトリアが薬草園にたたずんでいた。
「――領主様」
「『領主様』はやめて下さい。昔のように呼んで下さい。――ユーリ、と」
「そういうわけにはまいりませんよ、ユリウス様」
 アルバートは、まだ驚きで目をしばたたいていた。
「あの――あちらのほうは、いいんですか?」
「愚にもつかない式典のことですか? ――どうでもいいですよ、あんなこと」
 ユリウスは肩をすくめた。
「――私がユーリでないのなら」
 ユリウスの瞳に、暗い影が落ちた。
「もうあなたの事を、アルと呼んではいけないのでしょうか?」
「――いいえ」
 アルバートはふわりと微笑んだ。
「どうぞアルと呼んで下さい。皆、そう呼びます」
 いつも静かな微笑みを浮かべている、おとなしい初老の修道士アルバートは、修道院のもの全てから――地位も年齢も関係なく――ただ、アルとだけ呼ばれていた。
「――アル」
 ユリウスの唇にも、かすかに笑みが浮かんだ。
「ああ――ここにくるとほっとします」
「あなたはここが大好きでしたものね」
「ええ、大好きでした。今も――今でも大好きですよ。ここと――そして、あなたが」
「――」
 アルバートは、きょとんと小首を傾げた。
「あの、いいんですか本当に、式典のほうは?」
「いいんです、どうでも――と、言いたいところですが、もう少ししたら戻らなければいけないでしょうね。やれやれ」
「もう少し――」
 アルバートは、ユリウスを見上げている自分に気づいて少し驚いた。
 自分の知っているユリウスは、見下ろし、手を引き、教え導き、自分の細い腕の庇護の下に置いた、小さな幼子だったのに。
「それなら――お茶を飲んでいって下さいますか? それとも、少し時間が足りないでしょうか?」
「ぜひ飲ませて下さい。ああ――なつかしいなあ」
 ユリウスは、あたたかな笑みを浮かべた。
「あなたが入れてくれるお茶が大好きでした。あなたはいつも私のお茶だけ、蜂蜜で甘くしてくれたでしょう? あれが本当にうれしかった」
「ここにいた時、あなたはまだお小さかったですからね」
「本当は――ずっとここにいるはずだったのに」
 ユリウスの瞳に、再び影が落ちた。
「兄様があんな流行病なんかでお亡くなりにならなければ、私はずっとここで、あなたといっしょに薬草を育てて一生を送る事が出来たのに」
「リディウス様は――本当に、残念でしたね。死は誰にでも平等とは言うものの――あのかたの死は早すぎた」
「ええ、本当に」
 ユリウスの手が、ふと胸のロケットに伸びた。
「見て下さい――なかなかよく描けているでしょう?」
 ロケットの中には、黒い巻き毛の優しげな青年の細密画が収められていた。ユリウスの兄、リディウスの生前の姿である。黒髪に黒い瞳、穏やかな微笑みを浮かべたリディウスの細密画は、金茶の巻き毛に琥珀色の瞳を持ち、一にらみで自分の親どころか祖父母にあたるような年齢の者達をも黙らせてしまう眼光の持ち主、ユリウスとは、あまり似てはいなかった。領内のもの皆がいうには、兄リディウスはその父、自分と同じ名を持つ大リディウスに、弟ユリウスはその母エレノアに生きうつしだった。
 もっともその四人の中で今生きているのは、ただユリウス一人のみである。
「ああ――本当によく描けていますね。リディウス様は、よくこちらにもお見えになられましたね」
「ええ、よく、おもちゃやお菓子や、本を持って来てくれましたっけ。――考えてみれば、私がここにいた時に会いに来てくれたのは、兄様一人だけでしたね」
「――」
 アルバートは、ふと当惑に眉をひそめた。
 先ほどからしばしば、ユリウスの瞳に影が落ちる。
 その原因がどうもわからず、アルバートは当惑に眉をひそめた。
「――ここにくると、本当にほっとします」
 ユリウスは、吐息と共にささやいた。
「ここであなたとすごしたあの日々が、私の人生の中では一番幸せな時だったのかもしれない」
「――ユリウス様は、あまりにもお若くしてあまりにも大きな責任をその背に負われましたからね」
 アルバートは、静かにユリウスを見上げた。
「なにか私にお手伝いできることがあったら、なんなりとおっしゃって下さい」
「――」
 ユリウスの瞳の影が、その色を濃くした。
「――お願いしてもいいのなら」
「ええ、どうぞ。私に出来る事なら」
「――」
 ユリウスは、すこしく長く逡巡した。
「――そうですね」
 なにかを決断したその瞳には。
「それでは、お願いできますか?」
 すでに闇といってもいいほどの影が宿っていた。
「ええ、どうぞ」
「――懺悔を聞いて欲しいんです」
「え――わ、私でいいんですか? だ、だって私は、ただの、修道士ですよ?」
「あなたに聞いて欲しいんです」
「え――」
 アルバートは、わずかにためらった。
 だが、自分を見上げる幼子の記憶がその背を押した。
「――私がお役にたてるのなら、喜んで」
「――あなたでなければだめなんです」
 ユリウスの唇が、ひきつるような笑みに歪んだ。
「では――式典が終わってから礼拝堂で」
「ええ、お待ちしています」
 アルバートは、静かにうなずいた。
「――さて、では」
 アルバートが目を上げた時には、ユリウスはすでに、領主の笑みを顔に刻んでいた。
「お茶をごちそうになるといたしましょうか」
「また蜂蜜を入れますか? それとももう、蜂蜜はないほうがお口にあうでしょうか?」
「蜂蜜を入れていただきましょう。昔のように――あの日のころと、同じように」
 領主の笑みの、その中に。
 幼子の笑みと、闇とがあった。



「――アル」
「ここにいるのを私と思わないで下さい。私はただの、神の代理人です」
「――無理ですよ、それは」
 ユリウスの唇に、暗い笑みが浮かんだ。
「おかしなものですね。こんなに近くにいるのに、顔を見る事も出来ない」
「――え、ええと、あの――準備が出来たら、いつでもどうぞ」
 ユリウスは思わず、といったふうに吹きだした。
「――失礼。ああ――まったくあなたらしいですね」
「す、すみません。不慣れなもので」
「――そうですね」
 ユリウスは、大きく、深く、吐息をついた。
「――罪。そう――私の罪の話ですね」
「――神は許して下さいます」
「あなたは?」
「え?」
「あなたは許してくれないんですか?」
「え――私が、許す?」
「そう。――私の事を。存在することそのものが罪でしかない、この、私の事を」
「――そんな――なぜそんな、存在することそのものが罪だなどと?」
「――私は誰に似ていますか?」
「え?」
 帰ってきた答えは、アルバートにとってはあまりに意外なものだった。
「え――なんですって?」
「聞こえませんでしたか? ――私は誰に似ていますか?」
「え、それは――あの、エレノア様、です。あなたのお母様の」
「そうですか。――では」
 ユリウスは軽く唇を噛んだ。
「エレノアは――母は一体、誰に似ていますか? 一体誰に似ていましたか?」
「――え?」
 ユリウスがいったい何を言いたいのか、アルバートにはわからなかった。
「エレノア様――エレノア様は――あなたのおじいさま――大ユリウス様に――よく似ていらっしゃいましたが――」
 ただ、名づけようのない不安だけがつのっていった。
「――では」
 ユリウスはかすれた声で言った。
「もう一度聞きます。――私は誰に似ていますか?」
「え――エレノア様――」
「エレノアは誰に似ていますか?」
「そ、それは――大ユリウス様――」
「では」
 ユリウスは悲鳴のように言った。
「私はいったい、誰に似ていますか? 誰に生きうつしなんですか? 私があそこで、あの館で、一体誰の代わりとして扱われていたか、あなたにはわからないんですか!?」
「え――」
 アルバートには何が起こっているのかわからなかった。
 ただ、恐怖によく似たものが、胸の奥で目を覚ましつつあった。
「――あなたにわかるはずがないですね」
 ユリウスは、小さく笑ったようだった。
「当の私でさえ、しばらくまるでわからなかった。流行病で、兄様と、おじいさまとがほとんど同時に亡くなって――私がここを出て――次期当主になって――」
「――」
「――ええ、はじめはまるでわかりませんでしたよ。どうして父が私の事を疎むのか。どうして母は、ぞっとするほど熱っぽい目で私の事を見つめるのか。そう――わからないうちは、まだ幸せだった。わかったのは――わかりはじめてしまったのは、私の寝室に忍びこんできた母が、熱に浮かされているとしか、なにかに狂っているとしかいえないような目で私を見つめてこう言った時ですよ。『お父様――』――と」
「――!?」
 ごく幼い子供のころに修道院に入り、院の外の世界をまるで知る事なく暮らしてきたアルバートにすら、ユリウスの話に、ユリウスの過去に秘められた、禁忌のにおいは感じ取ることが出来た。
「私は父に――大リディウスにまるで似ていなかった。私は疑わなかった。兄様もきっと疑わなかったことでしょう。だって私は母に――エレノアに生きうつしだった。男の子は母親に似るとよくいいます。だから私は疑わなかった。きっと兄様も疑わなかった。――そうであって欲しい。兄様にだけは知られたくない。知らないまま兄様が死んでくれたのなら――それが私の人生における最大の恩恵なのかもしれない」
「――」
 アルバートは恐怖に震えた。
 その恐怖の正体を、まだ定かには知らぬままに。
「――でも、あの日、あの夜、あの瞬間、私は気づいてしまった」
 ユリウスの声から血が滴った。
「私は母に似ている。それ以上に――祖父に生きうつしなんです、私は」
「――まさか」
 こらえきれず、アルバートはうめいた。
 最大の禁忌が、目の前で具現化しつつあった。
「そして私は、それ以上の事にも気がついてしまった」
 ユリウスもまた、血を吐くようにうめいた。
「いどんだのは、誘惑したのは、そそのかしたのは、惚れていたのは――母のほうだと。祖父じゃない。母のほうだ。――わからざるを得ませんよ。私を見る母の目は、愛人を見る女の目だった。母にとって私は、祖父の代用品――いや、祖父の生まれ変わりだったのかもしれない。――馬鹿馬鹿しい話です。だって私が生まれた時には、祖父はまだ、生きていたのに」
 けたたましい笑いが、ユリウスの唇からもれた。
「ユリウス、ユリウスと母が呼ぶたび、本当は誰の事を呼んでいたのか。――私はユリウス。祖父もユリウス。祖父――祖父、ね。確かに祖父は祖父でしょう。けれども同時に、父でもある――!」
「――ユリウス様」
 アルバートの声は、はっきりと震えていた。
「真実は神だけがご存じです。それはあなたの――あなたの誤解ではないですか? それは――それは、そんな――」
「――誤解?」
 ユリウスは冷笑した。
「誤解――ね。ええ――そうならよかったですね。でも――これは誤解じゃない。私の身に降りかかった真実です。私の母はね――実の息子を愛人にするような女だったんですよ!! 地獄だった――地獄だった!!」
「ユ――ユーリ――」
「――やっとユーリと呼んでくれましたね」
 ユリウスの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「どうです? 私は――罪そのものでしょう?」
「――いいえ」
 きっぱりと、アルバートは言った。
「あなたのお母様は罪を犯されました。あなたのおじいさまも罪を犯されました。けれどもあなたが罪そのものだなんて、そんなことはありません。あるはずがありません。そこにたどりつくまでにいかなる罪が犯されようと、生まれてきた子供になんの罪科があろうはずがありません」
「――私は母を抱きましたよ」
「――神は許して下さいます」
「――あなたは?」
「――許します」
 アルバートは、震えることのない声で言った。
「――!!」
 ユリウスの口から、のどを破るような悲鳴がもれた。
「ユ、ユリウス様!?」
「――それでも私は罪なんですよ。――罪を犯す事ばかり考えてしまうんですよ」
 ユリウスの声は、ひどく静かで平らだった。
「――それでも、まだ罪を犯したわけではないんでしょう?」
 アルバートもまた、静かに問いかけた。
「ええ、まだ、ね。けれどもきっと――私は罪を犯してしまう」
「――どうして?」
「…………あなたらしい問いですね。『どうして』――とは」
 ユリウスは小さな笑い声をもらした。
「どうして――どうして――どうして、か!!」
 やわらかな、大きなものがくずおれる音がした。
 そして、床に体のどこかをたたきつける音と、押し殺された悲鳴が。
「ユ――ユリウス様? ユリウス――ユーリ? ユーリ!?」
 告解室から聞こえてくるのは、獣じみたうめきとなにかに肉をたたきつける音。
「ユーリ、だ、大丈夫――!?」
 扉を開け。
 うずくまる若者の肩を抱き。
 そして――。
「――どうして来てしまったんです?」
「――え?」
「ここに来てはいけないはずでしょう? 規則では、あなたはあちらの小部屋から、こちらに来てはいけないはずでしょう?」
「え――ユーリ――ユリウス様――だ、大丈夫ですか? その――お、おけがは――」
「――つかまえた」
 ユリウスは笑った。
 幼子と闇の笑いを笑った。
「どうしてあなたはこちらに来てしまうんです? どうしてあなたは私に手をさしのべてしまうんです? あなたがそんなだから――そんなあなただから――」
 若き領主の腕が、初老の修道士を床に引きずり倒した。
「――私は罪を犯してしまう」
 ――その悲鳴は、どちらの口からもれたものか、もう、わからなかった。



 泣く時に、声を出さない子供だった。
 ユリウスは泣く時に、声を出さない子供だった。
 遊びに来た兄が帰ってしまう時――自分一人を残して家族のもとに帰ってしまう時には、ユリウスはいつも、天井いっぱいに薬草が干してある薬草園の薬草保存小屋の片隅で、黙って涙を流していた。
 それを探しに行くのが――どこにいるのか知っていて、それでも探しに行くのが、若き日の――比較的若かりし日の、アルバートの役目だった。
 捜しに来たアルバートに抱きついて、ひとしきりしゃくりあげて、それから二人でお茶を――アルバートはユリウスにはいつも蜂蜜を入れて甘くしたお茶を入れてやった――飲むのが、その当時のおきまりのようなものだった。
 泣く時に、声を出さない子供だった。
「――何を考えているんですか」
 言葉とともに頬をはられた。
 アルバートの心が、過去から今に戻る。
「い――いけません!」
 アルバートはあわてて、ユリウスの手を押し返した。
「何がいけないんです?」
「こ、こんな――こんな事――!」
「こんな事とは、どんな事です?」
「え――」
 うろたえたそのすきに、ユリウスの手がアルバートの服をはぎ取る。
「ああッ、いけませんッ!!」
「どうして」
「え――あ――」
「――愛しています」
「え――」
「――これも、罪なんでしょうね」
 ユリウスは苦く、限りなく苦く笑った。
「私があなたを愛することも、きっと罪でしかないんでしょうね」
「そ、それは――そんな――」
「――おぞましいですか?」
「え?」
「私の事が」
「そんな――」
「無理しなくていいです」
 そういって笑うユリウスこそが、既に自分を壊してしまうほど無理をしているようにしか、アルバートには見えなかった。
「おぞましいに決まっています。父と娘がつるんで生まれた子で、母に懸想されて母を抱き、そして神に身を捧げたあなたを犯そうとしているこの私です。――おぞましいに決まっている。自分でも吐き気がします。だからあなたは、私をいくらおぞましいと思ってもかまいませんよ」
「――ユーリ」
 幼かりし日のユリウスの愛称を、アルバートはささやいた。
「私があなたをおぞましく思うはずがないでしょう? 誰よりも木や、花や、草や動物や――もの言えぬ弱きもの、小さき者に優しかった小さな子供を、どうしておぞましいなどと思えますか」
「――それはもう、私じゃないですよ」
 言うなりユリウスは、アルバートの肌に歯を立てた。
「――ッ――!!」
「――それはもう、私じゃない。昔はね――そんな子供も、いたかもしれない。けれども私はそうじゃない。――私はずっとここにいたかった。何も知らずにあなたのそばで、無邪気に笑っていたかった――!」
「――」
 アルバートの、腕が、そっとユリウスを抱く形に動いた。
「――ッ!!」
 その行為は、ひどくユリウスを激昂させたようだった。
「――どうして――あなたはッ!!」
 再び頬を、先ほどより強くはられ、アルバートの意識が一瞬飛ぶ。
 飛んだ先には、またユリウスがいた。
 小さな子供のユリウスが。
(ごめ、なさ――ごめな、さい――ごめん――アルさん、ごめんなさい――)
(泣かなくていいんですよ)
 叱られたから、叱られるからといって泣くような子供ではなかった。
 遊びに夢中になって踏み潰してしまった小さな芽が、もう大きくなることも花を咲かせることも実を結ぶこともなく枯れてしまうのだという事を知って泣く、そんな子供だった。
(ほら、よく見て下さい。全部が駄目になったわけじゃありませんよ。これからしっかりお世話をしてあげれば、ちゃんと大きくなれる芽もたくさんあります。踏んでしまった芽にはごめんなさいをして、無事だった芽をユーリがきちんとお世話してあげればいいんですよ)
(――うん)
 あどけなくうなずいた幼子は今。
 自分をねじ伏せ、犯そうとしている。
「ユーリ――ユーリ、やめて――!」
「ようやっと私にも理解できる事を言ってくれましたね」
 ユリウスは冷たく笑った。
「でも――ここまできて、やめるわけないでしょう? ――いいですよ、私を呪ってくれて。ねえ、アル――」
 ユリウスの口から、狂った哄笑がもれた。
「それでも許してくれるんですか? それでも許して――」
 哄笑は、甲高い悲鳴になった。
「――許して――許して下さい――!」
「――ユーリ――」
「うるさい!!」
 ゴッ――と、後頭部を床に打ちつけられ、アルバートの意識はまた飛んだ。
 意識を引き戻したのは、体内にねじ込まれたユリウスの陰茎だった。
「ユ――リ――」
「ああ――アル――アル――」
「――」
 ふと。
 アルバートの体から力が抜けた。
 犯されているのは確かで、苦痛があるのも確かだが。
 泣きじゃくる幼子を拒む気には、どうしてもなれなかった。
「ずっとここにいたかった――ずっとあなたといたかった――あなたがそばにいてくれれば――!」
 そうなのかもしれない。
 アルバートはぼんやりと思った。
 ずっとそばにいれば。
 何が出来たかはわからない。何もすることなど出来なかったのかもしれない。
 それでもずっとそばにいれば、なにかに気づく事だけは、きっとできたはずなのだ。
 疑いもしなかった。家族のもとにかえって幸せにしていると、ユーリと呼んでいつくしんだ幼子は、家族と共に幸せにしていると、それを疑ってみる事さえしなかった。
 愛なきことが罪ならば、それは確かに罪だろう。
 知ろうとしなかった。疑う事をしなかった。それこそがアルバート・レントの罪。
「ああ――あなたももう――汚れてしまいましたね――」
「あ――ッ!」
 肉体の苦痛に、思わず体がはねる。
「私なんかに会わなければ――あなたはきっと一生、何の穢れも知らぬまま神の御許に赴いたでしょうにね――」
「――」
 それは違うと言いたかった。
 それは違う、と。
 だが。
 女ではない体に男のものをねじ込まれ、やわらかな内臓を掻きまわされる苦痛で、どうしても言葉にならなかった。
「アル――アル――!」
 悲鳴のような甲高い声は、幼いころの声と似ていた。
「――許して――」
「――あ――」
 アルバートは、生まれてから一度も、誰とも交わった事がなかった。
 それなのに、それが終わりであることがはっきりとわかった。
「――さあ、どうです?」
 冷笑は痛々しく、自分を床に押さえつける手は、小さく震え続けていた。
「これでも許してくれるんですか? ねえ――これでも許してくれるんですよね? だって私は今、あなたに懺悔しているんですから。私はあなたを犯しました。私より小さくて、私より年老いて、私に力でかなうはずもないあなたを、力ずくで犯しました。神に身を捧げ、禁欲を誓ったあなたを穢しました。私は罪を犯しました。そして――これからも罪を犯すでしょう。ねえ――それでも許してくれるんですか? それでも――それでも許してくれるんでしょう――?」
「――」
 アルバートは、まっすぐにユリウスの目を見つめた。
「――許します」
 声はかすれていた。
 けど、震えてはいなかった。
「――そんな――」
 ユリウスは、怯えたようにアルバートを見つめた。
 泣きじゃくる幼子の瞳が、疑う事をしなかった罪人の瞳を見つめていた。



 それで凌辱が終わったのだと思うほど、アルバートは無邪気だった。
「――ユリウス様?」
 自分を見つめる若き領主に、アルバートはそっと声をかけた。
「――それは私の名前ですね」
 ユリウスは静かにこたえた。
 床に横たわるアルバートをそっと抱き寄せ。
 そのまま愛撫をはじめた。
「ユ、ユリウス様!?」
「大声をあげて人を呼んでもいいですよ。まあ、人払いはしてありますがね。ええ――別に秘密にする必要はありません。私に力ずくで犯されたと、誰に訴えてくれたっていい。訴えた相手があなたの言う事を信じようと信じまいと、私は別にどうでもいい。そう――あなたといっしょに、それともあなたによって破滅するのなら、それは私にとっては過ぎた結末と言うものです」
「ユ――ユリウス、様――」
「――つらかったのはわかっています」
 その声は穏やかで、どこか優しくさえあった。
「だから今度は、楽しませてあげますね」
「え――あ!?」
 つぅっ、と唇が首筋をはう。
「ユ――ユリウス様――いけません――」
「どうして?」
「あ――あなたの、罪になります――」
「私はここに、罪を犯しに来たんですよ」
 ユリウスは、小さく含み笑った。
「それに、私が犯すどんな罪より、私という存在のほうが罪深い」
「ちが――ユリウス様――あなたの存在は、罪、などで――ああッ!?」
「こんなところをいじったことなんてないですよねえ、あなたは」
 胸の尖りを転がされ、アルバートはただひたすらに当惑する。
「あ、なに――なにを――」
「――あなたも感じて欲しいんですよ」
「あ、いや――っ!」
 男のそれを握りこまれ、アルバートは大きくあえいだ。
「だめ――だめです――ユーリ、だめ――!」
「私を拒む時ばかり、私をユーリと呼ぶんですね」
 ユリウスはアルバートを、きつくきつく抱きしめた。
「――いいですよ、それでも。それでも私は――ユーリでいたい――私はユーリで、いたかった――」
「――ユーリ――」
 おずおずと抱き返してこようとする両腕を、ユリウスは捩じ曲げ、押さえつけた。
「ああ――なんでこんなにかよわいんですかあなたは。私の腕一本でもうどうすることもできなくなってしまう。ほら、そんなだから――私にこんな事をされてしまうんですよ――」
「あ、だめ――あ、いや――いやあ――」
「――初めてですね」
「え?」
「あなたのそんな顔を見るのは」
「――ユーリ」
 アルバートは、そっとユリウスを見上げた。
「私を――放して下さい。ユーリ――ユーリ――あなたが本当に私にして欲しいのは、こんなことじゃ――ああッ!?」
「――私はあなたに、私の手で欲望を吐き出して、絶望にすすり泣いて欲しいんですよ。私はあなたを、二度と私から離れることのできない存在に変えたいんですよ」
 ユリウスが執拗にアルバートの局部に加える愛撫は、苦痛とほぼ変わらないものになっていた。
「ええ――もう決めました。私はここを、あなたと一緒でなければ出ません」
「え――え――?」
「あなたを私のものにする」
 言うなりユリウスは、アルバートの唇を奪った。
「そう――今のわたしならそれが出来る。アル――どんな手を使ってでも、あなたを私の館に連れて帰る。そう――きっと簡単ですよ。より信仰を深めるため、領民を、家臣をより教化するため、かつての恩師にいっしょに来て欲しいのだと言えばいい。いやですか? 私のものになるのはいやですか? だったらそれをどう断るつもりです? 私に犯されたから、これからもきっと犯され続けるだろうから、だから一緒に行きたくないとでもいいますか? それとももっと何かほかに、うまい言い訳を見つけてみますか? ええ――あがいてみるがいい。どんなにあがこうとも、私はあなたを手に入れる――!」
「――ユーリ――」
 アルバートの目から、一筋の涙がこぼれた。
「こんなことをしなくとも――私はあなたと一緒に行ったのに――」
「そう――ですね。そう――でしょうね。ただお願いをするだけで、あなたは私の望みをかなえてくれたでしょうね。でも――もう私には、そんな事は出来ないんです。もう私には、光あふれる道を歩むことが出来ない。その道のほうが安全で、正しくて、なんの苦労もない事はわかっているんです。でも――私にその道は歩けない。光――光のもとでは――私は自分の罪を忘れられない――光あふれる場所にいると、生まれてくることそのものが罪だった、自分という怪物の影が、どこまでもどこまでもついてくる――!!」
「――ユーリ」
 アルバートは、涙を流しながら微笑んだ。
「一緒に――行くよ。だから、もう――そんなに、苦しまないで――」
「――」
 ユリウスの顔が、一瞬、怯えた子供の顔になった。
「――そういえば、やめてもらえるとでも思いましたか?」
 怯えた子供の顔を、歪んだ笑みが塗り潰した。
「いいえ、私はやめません。ええ、もちろん、あなたには一緒に来てもらいますよ。けれどもそれとこれとは、全く別の話です――!」
「ヒ――」
 繰り返される愛撫は、すでに拷問と化していた。
「ああ――ごめんなさい。楽しませてあげると言ったのに、また苦しめてしまいましたね。ごめんなさいね――あなたはこんなにかよわいんだから――優しくしないといけないですよね――」
「ああ――だ、め――」
 やわらかで巧みな愛撫は、アルバートにとっては別の種類の拷問に他ならなかった。
「ふふ――やっぱりあなたも男なんですねえ――こんなこと、誰にもされた事ないでしょう? あは――私が初めてだ――ははは――ざまあみろ――」
「――」
 アルバートの体から、最後の抵抗が失せた。
「――いいよ」
「――え?」
「いいよ、ユーリ――好きに、して――」
「――言われなくても」
 ユリウスは、裂けた傷口のような笑いを笑った。
「とっくの昔にそうしていますよ。そう、ほら――あなたも、イッて――」
「――」
 アルバートは、必死で声をこらえた。
 こらえた声のかわりに、精がほとばしった。
「――くくくくくっ――」
 狂った笑いのような、悲痛な泣き声のような。
 ユリウスはしばらく、そんな声をあげていた。
「――ワタシノモノヨ」
「!?」
 アルバートは息をのんだ。
 ユリウスの唇から、ユリウスではない声がもれていた。
「ワタシノモノヨ――ワタシノモノ――アナタハワタシノ――ワタシノ、モノヨ――」
「ユ――ユーリ!?」
「…………アル?」
 ユリウスは、一瞬、自分がどこで何をしているのか全くわからないという顔をした。
「アル――え――あ――ああ――」
 状況が飲み込めるのと同時に、ユリウスの瞳に再び闇が宿った。
「ああ――そう――そうですね――これが私の――私の、やったことだ――私の、罪――私が、罪――」
「――許します。ユーリ、罪は許されるんですよ――」
「ああそうですか」
 ユリウスは冷笑した。
「それはよかった。それではあなたはこれから私があなたを犯すたびに、ご親切にもお許し下さると言うわけですね」
「あなたはもう、私を犯す事は出来ません」
「――え?」
 ユリウスの顔から血の気が引いた。
「ま、まさか――死ぬつもりですか、あなた!?」
「いいえ」
 アルバートは静かに微笑んだ。
「私はもう、あなたに抱かれる事を拒まない。そう――禁欲の誓いを、私は破ります。私が拒まないのだから、あなたが犯せるはずがない。だからね、ユーリ、あなたの罪は半分だけです。もう半分は、あなたを受け入れた、私の罪です」
「――そんな馬鹿な」
 ユリウスは茫然とつぶやいた。
「そんな、まさか――まさかそんな――あなたはなにを――あなたはなにを言っているんです!?」
「一人では背負うのがつらいんでしょう?」
 アルバートは、そっとユリウスの髪をなでた。
「ならば私も、ともに背負いましょう」
「…………あなたは、馬鹿だ」
「――」
 アルバートは、黙って微笑んだ。
「――逃がしませんよ」
 最後の抵抗のように、ユリウスはうめいた。
「逃がさない――逃がさない――どんなにうまいことを言われたって、絶対に逃がしてなんかやるもんか――!」
「逃げませんよ」
 アルバートは静かにこたえた。
「あなたがそれを望むなら、あなたと共に行きましょう」
「――そんな――馬鹿な――」
 犯したのは、ユリウスであるはずだった。
 だが、今。
 怯えているのは、確かにユリウスのほうだった。



「――くくくくくっ」
 ユリウスは楽しげに含み笑った。
「簡単だ。――簡単すぎる。ああ――きっと私は、ひどい破滅をするんだろうなあ」
「そんなことはありませんよ、ユリウス様」
 アルバートはおっとりと否定した。
「あなたは破滅なんてしません」
「どうして?」
「え? ええと――とにかくしません。大丈夫です」
「説得力がないですね」
 そういいながらユリウスは、やはり楽しげに笑った。
「すみませんね、窓を閉めたままで。開けたままだと、外の連中になにを見せてしまうかわかりませんからね」
「それは――別にかまいませんが」
 揺れる馬車の中、アルバートは少し眉をひそめた。
「あの、いいんでしょうか、私なんかとあの、一緒に――」
「懐かしい恩師と馬車で昔話をすることの、どこにどんな問題が?」
「え、あの――ああ、そうですね、はい」
「もちろん」
 ユリウスは、ぐいとアルバートを抱き寄せた。
「そんなのは、ひどい欺瞞に他ならないんですけど」
「い、いけません、ユリウス様」
「おや」
 ユリウスの目が、鋭く光った。
「あなたは私を拒まないはずじゃなかったんですか?」
「今は――だって、あの、御者さんが――」
「御者?」
 ユリウスは、ひどく楽しげに笑った。
「ああ――大丈夫ですよ、彼は。彼はヤトク。私の従弟です」
「い――従弟?」
「私の叔母は、我が母の妹、我が祖父の娘とは思えないほどまっとうなおかたでしてね。ごくごくまともな騎士と結婚し、ごくごくまともで幸せな生活を送っておりますよ。ヤトクは――騎士になるにはいささか問題がありましてね」
「え、あの――体がお弱いとか?」
「いいえ。ある意味逆です。ヤトクは生まれつき、痛みというものを感じる事が出来ないんですよ」
「――え?」
 一瞬の当惑の後、アルバートははっきりとその危険を悟った。
「それは――ああ、それでは――騎士には少し、向かないかもしれませんね――」
「そうなんですよ。ヤトクは痛みを知らない。だから限度や限界というものを知ることが出来ない。自分にとってのそれも、相手にとってのそれも、ね。子供の頃のヤトクは、ごくごく無邪気に3階の窓から無防備に飛び降りようとする子供でしたよ。叔母や叔父や私が、ヤトクにけがをさせないようにどんなに苦労したことか。彼は――ヤトクは大丈夫。彼は私の味方です」
「そうですか――よかった」
「そんなにうれしいですか?」
 ユリウスは冷笑を浮かべた。
「自分の体面を守る事が出来るのは」
「え?」
 アルバートはきょとんと目をしばたたいた。
「え、あの、別にそれはどうでもいいです。あなたのお立場は気にかかりますが、私の体面なんかは別にどうでもいいです。私はただ、あなたに味方がいるという事がうれしかったんです」
「――あなたという人ときたら、ほんとにまったく」
 ユリウスは、ひきつるように唇を曲げた。
「まあ――ね。そうおっしゃっていただけて、ありがたいと申し上げておきますよ。――ヤトク」
 不意にユリウスは、御者席に座る、青年になりかかっている少年に声をかけた。
「なんだ、ユリウス?」
「これから私達は、少し不道徳なことをするからね。君は中から何が聞こえて来ても、無視して馬車を走らせていてくれ」
「わかった」
「――少し、変わっているでしょう、ヤトクは」
 ユリウスはクスクスと笑った。
「ヤトクはものに動じない。もっと小さい頃は、それなりに騒ぎもする腕白な子供でしたがね。今が一番難しい年ごろ、ということなんでしょうかねえ?」
「ユ、ユリウス様、あんなお若いかたに、その――あの――」
「不道徳な行為を見せつけるのはよくない? 正確には、聞かせるのはよくない、ですか? ねえ――ヤトクだって、我が一族の血に連なるものですよ。確かに叔母の一家は私が憎んで余りあるほどに平和でまともでまっとうですが、それでもね――自分の父や、姉や、甥でもあり弟でもある化け物どもの事を、まるきり知らないというわけにもいかないんですよ」
「――ユーリ」
「月並みな言葉ですが――そんな目で私を見ないで下さい」
 ユリウスはアルバートから目をそらした。
「正直――私自身、ヤトクを理解しきれていないところがあります。叔母が沈黙を続けるのは恐怖からです。叔父が沈黙を続けるのは無知と怠惰からです。――もしかしたら、いささかの同情くらいはあるのかもしれませんがね。ただ――私には、ヤトクの動機がわからない。ヤトクはどうして――私みたいな化け物の味方でいてくれるんでしょうねえ――」
「――好きだからですよ」
「え?」
「ヤトクさんがあなたの味方でいるのは、ヤトクさんがあなたの事が好きだからですよ」
「――あなたはほんとに楽観的な人だな」
 ユリウスは小さく苦笑した。
「まあ、あなたにとってはそういうふうに思うのが一番気分がいいんでしょうね。だったらそう思っていればいいですよ。別に実害もありませんし」
「あなたはそうは思わないんですか?」
「――そう思えれば、思っています」
 ユリウスはため息をついた。
「さて、私の親族についての話はもういいでしょう。せっかく二人きりなんですから――」
 ユリウスの腕が、アルバートの細い体を引き寄せた。
「もう少し楽しい事をしましょうよ、ねえ?」
「――ユリウス様――」
「だめですよ、そんな顔をしてみせたって」
 ユリウスは、ひどく静かに笑った。
「ねえ、もう――あなたは私のものでしょう?」
「――」
 アルバートは、じっとユリウスを見つめた。
「――不思議だな」
 ユリウスはわずかに肩を落とした。
「ずっと、ずっと――あなたがいてくれれば、あなたがそばにいてくれれば、あなたがそばで私を見守っていてくれさえしたら、と、そう思っていたのに――どうしてだろう――あなたに見つめられるのが――とても、つらい――」
「――目を閉じていましょうか?」
「え?」
「私が見つめるとつらいのなら」
 皮肉でも、あてつけでもなく。
「目を閉じていますから」
 アルバートは、瞳を閉ざして微笑んだ。
「――」
 ユリウスの顔に、一瞬怯えが走った。
「そう――そうですよ」
 ユリウスはかすれた声で言った。
「あなたは目を閉じていればいい。今まで――今までずっと、何も知らずにいたんだから、これからも目を閉じていればいい。でも――私は――知らざるを得なかった――!」
「――ユーリ――」
「そうですね、目を閉じていればいいですよ」
 ユリウスの唇に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「でも――口もつぐんでいられますかね?」
「え――あ!?」
 修道服をはだけ、若き領主は老いた修道士の胸に歯を立てた。
 走る馬車の中で、容赦のない凌辱が始まり、そして馬車が止まるまで終わらなかった。



 アルバートは、幼いころ修道院に入り、既に初老と言われるようになったこの年ごろまで、ずっと院の中だけで生活してきた。
「――あなたは、華美なものはあまり好きではないと思ったんです」
 ユリウスは、幾分おどおどと言った。
「でも、あの、他の部屋がいいならすぐに取り換えますから」
「いえ――いいお部屋だと思います」
 中庭に面した小さな角部屋が、ユリウスがアルバートに与えた部屋だった。全体の色調はあたたかな大地の色。簡素な家具は磨き込まれて飴色に光っている。
「――別に、それで償いになるなどとは思ってはいませんが」
 ユリウスは少しうつむいていった。
「欲しいものがあったら調達します。今の私なら、たいていのものは手に入れる事が出来ますから」
「欲しいもの――」
 アルバートは小首を傾げた。
「もし、よろしければ」
「なんでしょう」
「小さくていいから、畑を作りたいんですが」
「畑――」
 ユリウスの目が、ふとうるんだ。
「ああ――手配させましょう。どこでもあなたのお好きな所に」
「え、あの、いただけるなら場所はどこでもいいんですけど。どんな場所でも、それなりに育つものがありますから」
「――それはなにかの比喩ですか?」
「え?」
「――違いますね。あなたはそんなふうにあてこすりを言う人じゃない」
「――」
 アルバートは、ユリウスの腕にそっと触れた。
 本当は抱きしめたくて、でも出来なくて、せめて少しでも触れあいたかったのだと、ユリウスにはなぜかわかった。
「――あなたのほうから抱きしめてはくれないんですか?」
 ユリウスはアルバートを抱きしめた。
「ユリウス様――お立場が――」
「私の立場? そんなものがそんなに気になりますか?」
「ユリウス様――」
「別にどうでもいいんです。他人にどう思われようと。他人が私をどれだけひどく思っても、本当の私よりもひどいものだと思うことなど絶対に出来ませんから」
「ユーリ」
 アルバートは、まっすぐにユリウスを見上げた。
「あなたは怪物でも、化け物でもありませんよ」
「けれども私は罪でしょう?」
「あなたは罪を犯すでしょう。でも、あなた自身が罪であるわけじゃない」
「――やめて下さい、気休めを言うのは」
 ユリウスはアルバートを突き放した。
「あなたに言われると、信じてしまいそうになる」
「信じて下さい」
「――そうですね」
 ユリウスはため息をついた。
「あなたの事なら信じられます。でも私は――私自身を信じることなど絶対に出来ない」
「神ならぬ人間の身に『絶対』など存在はしませんよ」
「それなら無理だとでも言いましょうか」
 ユリウスはアルバートを見ずに言った。
「もう、やめて下さい。しつこく私を救おうとするのは。あなたに言われると、つい信じてしまいそうになるからたちが悪い。――私はあなたが好きですよ。だからお願いです。私に忘れさせないで下さい」
「え――何を、ですか?」
「私は化け物だということを」
「あなたは化け物なんかじゃない」
「だったら私はなんなんです?」
 その声は、そばにいたアルバートにやっと届くか届かないかというくらいの声だった。
 だがそれは、まぎれもなく絶叫だった。
「あなたは――」
 アルバートは、一瞬ためらった。
「――私の大切なユーリですよ」
「――アルバート」
 ユリウスの瞳が、暗い炎を宿した。
「自分が何を言っているのかわかっていますか?」
「え――?」
「あなたの言葉はね」
 ユリウスは獰猛な笑みを浮かべた。
「愛人への睦言のように聞こえますよ」
「え――」
「本当にたちが悪いな、あなたって人は」
 ユリウスは熱に浮かされたように笑った。
「本当に、たちが悪い。ああ、まったく――どうしてあの頃、あなたはいてくれなかったんですか。そして、どうして今、あなたはこんなところにいるんですか――!」
「――私があなたのそばにいたいからです」
「――え?」
「私がここにいるのは」
 アルバートは、ほんの少しだけ辛そうに微笑んだ。
「あなたのそばに、いたいからです」
「――だから」
 ユリウスの熱が、わずかに冷めた。
「あなたのそれは、まるで愛人への言葉ですよ。そんなに――そんなに私の事が怖いですか?」
「え?」
「私はあなたにひどい事をしましたからね。これからもきっと、ひどい事をするんでしょうからね。だから気持ちはわかります。私の機嫌がいいほうがいいですよね、あなたにとっては」
「――ユーリ」
 アルバートは再び、ユリウスの腕に触れた。
「あなたが幸せなら、私はうれしいですよ」
「私は幸せになっちゃいけないんです」
「どうして?」
「――あんまり不公平でしょう、私が幸せになったりしたら」
「どうして?」
「――あなたは疑問に思わないんですか?」
「え?」
「私の母と父――それとも母の夫と言ったほうがいいんでしょうか――が、どうして二人そろって都合よく早死にしてくれたのか」
「え――」
 アルバートは当惑し。
 数瞬後に、凄まじい恐怖と共に理解がやってきた。
「ま――さか、そ――そんな――」
「あなたは知らずにいればいい」
 ユリウスは調子の外れた笑い声をあげた。
「あなたは知らない。知らないんです。だからあなたに罪はない。知らずにいれば、罪はない。知らないんだからしかたがない。知らないんだからなんにもできなくたって、なんにもしなくたってしかたがない――!」
「――ユーリ――」
「――もう、行かなくては」
 ユリウスは顔をそむけた。
「別にそんなことに興味があるわけではありませんが――私も一応、貴族のはしくれです。青い血の義務くらい理解している。ええ――誰にも文句のつけようのないほど濃いですからね、私の中の青い血は! ――我が栄えある一族に、どんなに罪があるからと言って、それは領民達には関係のない事です。私は領主となった。だから義務は果たします。いくら私が化け物だって、せめてそれくらいの事はしないとね」
「ユリウス様」
「なんですか」
「――神のご加護を」
「――くくくくくっ」
 ユリウスは、ひどくおかしげに笑った。
「私を守ってくれるならね」
 ユリウスはアルバートの髪をわしづかみにし、思い切り捩じ曲げた。
「それは神ではありませんよ」
「ユリ――」
「黙れ」
 噛みつくように口づけて。
 ユリウスはアルバートを突き飛ばした。
「――また来ますよ。また――夜にでも」
「――」
 アルバートがこたえる事が出来ないままに。
 アルバートのこたえを待たず。
 ユリウスは部屋を後にした。



 コトコトと、戸をたたく音がした。
「はい?」
「ヤトクだ」
「え?」
「ヤトク・ジュリキア。ユリウスの従弟だ」
「あ――ヤトクさんですか」
 いささかの驚きとともに、アルバートは戸を開けた。
「よお」
 嘲りも気負いもなく、ヤトクは飄々と片手をあげてみせた。
「あ、どうも、こんにちは。ええと、まだ正式には名のっておりませんでしたね。アルバート・レントです。これからこちらでお世話になります。どうぞ以後、よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそよろしく」
 やはり淡々と、ヤトクは言った。アルバートは改めてヤトクを観察した。先ほどの、出会いとも言えぬ出会いでは、観察するもなにも、それどころではなかったのだ。
 ヤトクは、非常に体格のいい、青年になりかけている少年だった。すでにその身長は、従兄であるユリウスよりも確実に高い。ユリウスとて、決して体格が悪いわけではない。ユリウスを長身と呼ぶことに、誰も何のためらいも持たないだろう。ヤトクの髪も瞳も、ユリウスのそれをもっと色濃くしたかのような焦げ茶色。顔立ちは、よく見ればどこかユリウスと似通ったところもあるが、全体にほっそりと、繊細と言っていい作りのユリウスの顔と比べれば、明らかにごつごつと武骨に出来上がっている。
「――あんた、ユリウスの事が好きか?」
 なんの気負いもなく、ヤトクに問いかけられたので。
「はい、好きです」
 アルバートもまた、なんの気負いもなくこたえる。
「そうか」
 ヤトクは目をしばたたいた。
「じゃああんたには話しておこうか」
「え、何を、ですか?」
 ヤトクは小首を傾げた。
「なあ、中入っていいか?」
「あ、すみません、気がつきませんで。どうぞどうぞ」
「ユリウスは、俺には何でも話す」
 なんの前置きもなく、ヤトクは言った。
「でも、あんたには、きっと何でもは話さないだろう」
「――」
「だから俺が話しておく」
 ヤトクは高ぶることも沈むこともない声で言った。
「ユリウスは、自分より年上の連中がみんな嫌いだ」
「え?」
「誰も助けてくれなかったからな」
 ヤトクは淡々と、だが、ひどく真摯な顔で言った。
「だからユリウスは、自分より年上の連中がみんな嫌いなんだ」
「――」
 アルバートの顔が曇った。
「ああ、でも、あいつ、あんたの事は好きだと思うぞ。嫌いは嫌いだろうけどな。あいつは――ユリウスは、誰かを好きになるのと嫌いになるの、両方同時に出来るんだ。器用なやつだと思う」
 アルバートはいささか驚いてヤトクの顔を見たが、ヤトクに皮肉を言っている様子は全くなく、本当に、器用なことをしていると思っているようだった。
「あいつは、自分より年下のやつなら許せるんだ。だって自分より小さいやつは、ユリウスの事を『助けなかった』んじゃなくて、『助けられなかった』んだからな。俺が言ってる事、意味わかるか?」
「はい。――とてもよくわかります」
 アルバートもまた、全身全霊を込めて、ヤトクの話を聞いていた。
「だからあいつは、俺の事は別に嫌いじゃないようだ。俺の母さんや父さんの事は、嫌いで好き、みたいだけどな」
「――」
 アルバートは、深くうなずいた。
「だから、そうだな、あんたは嫌かもしれないけど」
 ヤトクは肩をすくめた。
「あんたが自分やユリウスの事を見られたくない、一番見られたくない時に、俺や、俺よりもっと小さい連中が入って来る事があるかもな。というか、きっとそうなるだろうな」
「え――!? そ、それは――」
「ああ、大丈夫だ」
 ヤトクはわずかに唇を曲げた。
「俺は違うけどな。あいつらみんな体験済みだから」
「え――?」
「わからないか?」
 ヤトクはまた、肩をすくめた。
「ユリウスみたいな目にあったやつは、ユリウス一人ってわけじゃないんだ」
「――!?」
「別に俺達の親戚じゃないぞ」
 ヤトクはちょっと口をとがらせた。
「俺達の親戚以外にも、けっこういるんだ、そういう連中は」
「それは――」
 息をのんだアルバートは。
「その人達は――もう――自分の望んでいないことをさせられることはないんですか?」
 わずかに震える声で問いかけた。
「そのためにユリウスはあいつらをここに連れて来たんだ」
 ヤトクはまっすぐにアルバートを見つめた。
「もちろん、全員ここに連れてこられるわけじゃない。そういう目にあってる連中全員をここに連れてくることなんてできやしない。でも、ユリウスは、連れてこられるやつらはみんなここに連れて来てる。まあ、ここなら、まっとうな働き口がいくらでもあるからな」
「――神よ――」
「あんたはなにを言いたいんだ?」
 別に怒るというわけでもなく、ヤトクはただ問いかけた。
「今のそれは、ユリウスの事をほめてるのか? それともけなしてるのか?」
「――立派なことだと思います」
「つまりはほめてるんだな」
 ヤトクはあっさりと言った。
「それならいいんだ」
「――ヤトクさん」
 アルバートは、わずかに微笑んだ。
「あなたは、ユリウス様の事がとても好きなんですね」
「ああ、もちろん」
 ヤトクはためらうことなくうなずいた。
「ユリウスはいいやつだ。ただ、あんたにはひどいことをしたみたいだけどな」
「え――」
「見ればわかる。あんた、病み上がりみたいな顔してる」
 ヤトクは小首を傾げた。
「でもあんたは、ユリウスの事が好きなんだろう?」
「――はい」
「だったら」
 ヤトクはわずかに身を乗り出した。
「これからも好きでいてやってくれ。あいつはきっと、いろんなとんでもないことをするだろうけど、それでも好きでいてやってくれ」
「ヤトクさん――」
 アルバートは、驚きに目を丸くしていた。
「その――あなたは本当に、ユリウス様より年下なんですか?」
「ああ、よく言われる」
 ヤトクは小さくため息をついた。
「どうやら俺は、変人らしい」
「いえ――立派なかたですよ、あなたは」
「立派な変人っていうのはいないのか?」
「――」
 アルバートは息をのんだが、ヤトクは別に皮肉を言っているわけではなく、ただ疑問に思っただけのようだった。
「あのな」
「はい?」
「あんたは嫌かもしれないけどな」
「え?」
「ユリウスは、あんたならさわる気になれるみたいだ。あいつは今まで俺にだって、体をさわらせたりはしなかったのに」
「――」
 アルバートの目がうるんだ。
「だから、あんた」
 ヤトクはひどく真剣な顔で言った。
「いなく、ならないでくれ」
「――はい」
 アルバートは静かにうなずいた。
「私は、ずっと――ここに、おります」
「そうか」
 ヤトクは軽くうなずいた。
「それならいいんだ」
「はい」
「じゃあ、俺は」
 ヤトクはあっさりと。
「あんたが死なないように気をつけるから」
 ひどく不穏なことを言ったのだが。
「ありがとうございます」
 アルバートの決意が揺らぐことはなかった。



 戸をたたくこともせず、ユリウスは静かに部屋にすべりこんだ。
「――いらっしゃい」
 アルバートもまた、静かに微笑んだ。
「――あなたは笑うんですね」
 ユリウスは、とまどったように言った。
「あんなことがあった後でも、私があなたにあんなことをした後でも、あなたは私の事を見て、そんなふうに笑うんですね」
「ええ」
 アルバートはにっこりと笑った。
「私はあなたが好きですから」
「――こんなことになるとは思わなかった」
 ユリウスは、当惑したように言った。
「あなたにどれほど嫌われるか、どれほど憎まれるか、そんなことばかり考えていたのに――あなたがにっこり笑って私を出迎えてくれるなんて、そんなことは考えたこともなかった」
「――それは本当は、私のほうが考えなければいけない事ですね」
「――え?」
「私はあなたに何もしてあげる事が出来なかった」
「――」
 なんのいいわけの影もなくそう言われ、ユリウスは少し言葉につまった。
「――しかたのないことです。あなたは修道院にいた。私はこの館にいた。離れ離れだったんだから、あなたが何も出来なくてもしかたがない」
「優しいですね、ユーリは」
「――馬鹿馬鹿しい」
 ユリウスは力なく吐き捨てた。
「『優しい』人間が、あんなことをしますか」
「あれをしたときは、優しくなかったかもしれませんけどね」
 アルバートは穏やかに言った。
「いまのあなたは、優しいユーリですよ」
「ちがいます」
 ユリウスは固い声で言った。
「私は、また――あのときと同じことをしに来たんですから」
「――」
 ただ、静かに。
 アルバートは、ユリウスを見つめていた。
「――だめですよ、そんな目で見たって」
 ユリウスは唇を歪めた。
「――我慢できないんです」
「え?」
「我慢できないんです」
 ユリウスは唇を噛んだ。
「確かめないと――我慢、できないんです」
「え――何を、ですか?」
「――私だけじゃない」
「――え?」
「私だけじゃない」
 ユリウスの瞳が、傷口のような光を帯びた。
「何も出来ないのは、出来なかったのは――私だけじゃない」
「――ユーリ――」
「私だけじゃない――私だけじゃない!」
 押し殺した声で絶叫し。
 ユリウスはアルバートを、突き飛ばすように押し倒した。



「う――」
 アルバートの顔が、わずかにこわばった。
「ああ――やっぱりちょっと、裂けちゃってるみたいですね」
 アルバートの後ろに指をさしいれながら、ユリウスは薄く笑った。
「でも、思ったほどひどくはないかな。あまり抵抗しないでいてくれましたもんね、アルバートさん?」
「――あなたを拒みはしませんよ」
「けれども喜んでいるわけでもないでしょう? ――別にかまいませんよ。いくら私だって、人に喜びを強制することなんてできやしない。私が強制できるのは――」
 ユリウスの指が、潤滑剤をすくいあげた。
「――せいぜい快楽が限度です」
「ひゃっ!?」
 ぬるぬるとした感触に、アルバートはとまどった声をあげた。
「どうせ最後は、また痛くしてしまうんですけどね」
 ユリウスは皮肉っぽく言った。
「ほんの少しだけでも、楽しませてあげますよ」
「あ――ユ、リ――あっ!?」
 ぬるつく指を体内でうごめかされ、ぬるつく手で陰茎を握りこまれて、アルバートの呼吸はしばらく止まった。
「――少しは気持ちいいでしょう?」
 奇妙に生真面目に、ユリウスはたずねた。
「――」
 どうこたえようもなく、アルバートは泣き出しそうな顔をした。
「――そんな顔、するんだ」
 ユリウスは、無防備に目を丸くした。
「――かわいいですね」
「――んふ――」
 からみつくような口づけに、アルバートの顔が赤らむ。
「――ほんとに抵抗しないんだ」
 どこか子供っぽく、ユリウスはつぶやいた。
「そうか――そうですね。そうですよね。あなたは昔から、子供との約束でも、きちんと守る人でしたものね」
「ん――」
 ユリウスを拒まないという決断は出来ても、こんなときにいったい何をどういえばいいのかさっぱりわからないアルバートは、ひたすらに当惑し、薄れゆく一方の意識と理性になんとかしがみつこうとした。
 だが。
「――イカせてあげる」
「ふあッ!?」
 急に熱心さと巧みさを増したユリウスの手に、アルバートは悲鳴と変わらない嬌声をあげた。
「あなたがイッたら――今度は私の番ですよ」
「――」
 破瓜の記憶に、アルバートの身がすくむ。
「きっと、まだ痛いでしょうけどね。それともあなたにとっては、痛いほうがましなのかな? 神に身を捧げた人が男に抱かれてよがっていては、あなたもなかなか、外聞が悪いでしょうからね」
「――ユーリ――」
「――なんですか」
「私の、ことは、考えなくていいから」
「――え?」
「あ――あなたの、したい、ように、して――いいから」
「――献身も度を超すと嫌味ですよ」
 ユリウスはいらだったように吐き捨て、アルバートの両足を裂くように広げた。
「さて――なにかご感想は?」
「――」
 黙って微笑み。
 アルバートはユリウスに向かって両手をさしのべた。
「――ばか」
 泣きだしそうな顔でつぶやいて。
 ユリウスはアルバートの体に自分を埋めた。
「――あ――」
「――痛い?」
「――ユーリ」
「――」
「――だっこ」
「――え?」
「だっこ――させて」
「え――」
「昔――みたいに――」
「――」
 ユリウスの唇が震え。
 言葉もなく、アルバートの腕の中にくずおれた。



「――あなたは、馬鹿だ」
 ユリウスは、ゆっくりと言った。
「ようやっとわかりました。あなたは馬鹿だ」
「そうですか」
「そうですよ」
「そうかもしれませんね」
「それをこれから思い知るでしょうね」
「――え?」
「別に」
 ユリウスはそっけなく言った。
「あなたに無用の苦痛を与えたいわけではないんです。――ちゃんと呼んでありますよ、医者を」
「――え!?」
「さあ――あなたは思い知るでしょうね」
 ユリウスは、熱に浮かされたように笑った。
「自分の愚かさと――私の罪深さを」
 ユリウスが部屋に招じ入れたのは。
 ヤトクの話を聞いていたアルバートにとっても、やはり驚くべき人物だった。



 ユリウスの招きに応じて部屋に入ってきたのは、燃えるような赤毛と、海のように、湖のように深い青の瞳を持つ、小さな少女だった。
「ユ――ユーリ!? い、いけない――!!」
 アルバートは必死で、情事のあとであることが一目瞭然の、自分の体を隠そうとした。
「――あなたはアウラがどこにいたか知っているんですか?」
 ユリウスは乾いた声で言った。
「え――」
「娼館で客を取らされていたんですよ」
「え――!?」
「頭のいい子でしてね」
 ユリウスは、世間話のように平然と言った。
「ほんの少しの助力だけで、もう医学の基礎を身につけつつある。もちろん、まだまだ修行は必要ですがね。今のあなたを診察するくらいなら楽に出来ます」
「そ――それは――」
「――」
 不意に。
 少女が――アウラが奇妙な音を口から出し、ひらひらと両手をひらめかせた。
「ああ、ごめんごめん。昔なじみなもので、つい甘えて、無茶をさせちゃってね」
 ユリウスはアウラに向かって、ついでアルバートに向かって苦笑した。
「叱られてしまいました。ご年配のかたに、あんまり無茶なことはするなと」
「え――?」
「アウラはうまくしゃべれないんです」
 ユリウスは肩をすくめた。
「こちらの言うことは聞こえるし、きちんと理解もしていますが、うまくしゃべることができない。これはね、非常に損なことだと思いますよ。人間どうしても、うまくしゃべれない人は、頭の中身もお粗末なんだと、根拠もなく思ってしまいがちでね」
「――」
 アルバートが驚いているのにかまわず、アウラはユリウスに向かってアウラなりに語りかけた。
「さて、アルバートさん」
 ユリウスは歪んだ笑みを浮かべた。
「どうぞアウラの診察を受けて下さい」
「え――そ、それは――」
「一度アウラにきちんと診察してもらって下さい。私としても、あなたの怪我があまりひどいようなら、今後の対応を少し考えないといけませんので」
「う――その――」
 アルバートは真っ赤になった。
「こ――こんな若い女のかたに、その――そんな――」
「慣れて下さい」
 ユリウスはあっさりと言った。
「あなたはこれからも同じようなめに、何度も何度も、何度もあうんですから」
「――」
 アウラはそっと、アルバートに手をさしのべた。
「え――」
「――」
 アウラの指が文字らしきものを書いているのを見て取り、アルバートはアウラに向かって手のひらを差し出した。
『ひどく傷みますか?』
「え――あ、いえ、その、そんなにひどく痛むわけじゃありません」
 ユリウスの言ったことを思い出し、アルバートは声に出してこたえる。
「私に遠慮なんかしないで下さいよ、アルバートさん」
 ユリウスはチラリと唇を曲げた。
「『医者と弁護士と告解師に、隠し事しちゃなんにもならぬ』なんてことわざがありましたっけ。――くくくくくっ、確かにその通りですね」
 ユリウスは皮肉に笑い転げた。
「その――別に遠慮しているわけじゃありません」
「それなら結構」
『どこか筋を違えたような感じは?』
「あ――ないです。大丈夫です」
『少し触診してもいいですか?』
「う――」
 さすがにアルバートは絶句した。
『心配しないで』
 アウラはそっと微笑んだ。
『これでも医者の卵です』
「――すみません」
 アルバートは顔を赤らめたまま言った。
「その――女の人に、慣れていないんです」
「それはそうでしょうね」
 ユリウスは、クスッと笑った。
「アウラ、どうしても触診しなくちゃだめかな?」
「――」
 ユリウスはどうやら、アウラの口から出る不明瞭な音を聞き取り、両手の動きに意味を見出す事が出来るようで、アウラに向かって何度かうなずきかけてから、アルバートのほうへ向きなおった。
「見たところ、そんなにひどく傷ついたようにも思えないので、どうしても嫌ならとりあえず薬だけ出しておく、と、アウラは言っていますが?」
「あ――その、それでお願いします」
「――」
「これからも時々顔を出すから、つらいようなら遠慮せずに言って欲しい、と言っていますよ、アウラは」
「あ――ありがとうございます」
「――」
 アウラはアルバートに向かって微笑みかけ。
「――」
 ユリウスに向かって小さなこぶしをふりあげ、二、三度ぶつ真似をした。
「――いつも言っているだろう」
 ユリウスは皮肉っぽく言った。
「私は聖人君子じゃない。君達をここに連れてきたのだって別に慈善じゃない。私はただ――仲間が欲しかっただけだ」
「――」
「君が怒るのもわかるけどね」
 ユリウスはため息をついた。
「私は、やめない。――やめられないよ」
「――」
「いいんですよ、アウラさん」
 ユリウスに小さなこぶしをふりあげるアウラに、アルバートは微笑みかけた。
「私は、自ら望んで、自ら選んで、ここにこうしているのですから」
「――」
 アルバートの言葉に動揺したのは、アウラではなく、ユリウスだった。
「――もういいよ。ありがとう、アウラ」
「――」
「――そうだね」
 ユリウスは寂しげに笑った。
「私がここにいないほうが、アルバートさんはきっとゆっくり休めるね」
「そんなことは――」
「いいから」
 ユリウスは顔をそむけた。
「それが出来るうちに、私をここから立ち去らせて下さい」
「――ユーリ」
「なん――!?」
 ユリウスが驚くほど素早くアルバートは動き。
 ユリウスの唇に口づけた。
「――またいらっしゃい」
「――」
 アルバートも、アウラも見ようとせず。
 ユリウスは部屋からすべり出た。
「――」
「え? あの、なんでしょうかアウラさん?」
『お願い』
 アウラは懸命に、アルバートの手のひらに文字をつづった。
『ユリウスを許してあげて。ユリウスは――ユリウスも、ひどい目にあったの』
「――許してもらう必要があるのは、むしろ私のほうでしょう」
『お願い』
 アウラは、必死な顔でアルバートを見つめた。
『ユリウスをたすけてあげて。ユリウスがいないと、わたし――わたし達、また――』
「――たすける、などとはおこがましいですが」
 アルバートは静かにうなずいた。
「ずっとおそばで、お力になりますよ」
『――ありがとう』
 アウラは瞳をうるませて。
 ユリウスを追って部屋を出た。



 すでに日が高く昇っていることに気づき、アルバートは驚いた。
 次の瞬間、枕元でアウラが静かに読書をしているのに気づいて再び驚いた。
「ア、アウラさん?」
「――」
 アウラはにっこりと笑い、首から紐にかけてぶら下げている、紙束の中から一枚を選びだした。
『おはようございます』
「あ、おはようございます。え、それは――?」
「――」
 アウラはにこにこと、アルバートに紙束をさしだした。
「これは――なるほど――」
 その紙束には、『おはようございます』『こんにちは』『こんばんは』『ありがとうございます』『すみません』『どういたしまして』『はい』『いいえ』『お願いします』など、日常生活でよく使う単語が一枚ごとに書かれていた。
「そうか、これを使えば、アウラさんの言いたいことがすぐにわかるんですね」
「――」
 うれしそうにうなずいたアウラは、寝台横の机に置かれた石板に石筆を走らせた。
『ユリウスが考えてくれたの』
「ああ――そうなんですか」
『アルバートさん、お加減はいかがですか?』
「ああ、はい、たっぷり休ませていただきましたからね。もう大丈夫です」
『よかった』
「ありがとうございます」
『おなかすいてますか?』
「ああ、すいてますねえ、はい」
『じゃあ、ご飯を持ってきます』
「ありがとうございます」
 軽やかに部屋を出たアウラはややあって、パンとチーズと果物、それに茶のポットとカップをのせた盆を重たげに持って戻ってきた。
『足りなかったら言って下さいね』
「これで十分ですよ。ありがとうございます。いただきます」
『どうぞ』
 アウラはにこにこと、アルバートの食事を見守った。
「アウラさんは、もうお食事はおすみですか?」
『はい。もういただきました』
「そうですか。私ずいぶん、寝坊してしまったようですねえ」
『疲れていたんでしょう』
「そうですねえ」
 穏やかにアルバートはうなずいた。
「そうかもしれません」
「――」
 アウラはアルバートが遅い朝食を終えるまで、おとなしく本を読みながら待っていた。
「――ごちそうさまでした」
『アルバートさん』
「はい、なんでしょうかアウラさん?」
『アルバートさんは昔、ユリウスの先生をしていたんでしょう?』
「――そうですね」
 アルバートは小首を傾げた。
「もちろん、私だけがユリウス様の教育を担当していたわけではありませんよ。でも、そうですねえ、確かに私が一番長く、ユリウス様のおそばにいたでしょうか」
『――あの』
「はい?」
『あの――』
 アウラはしばらくもじもじとしてから、意を決したように、
『アルバートさん、もしよろしければ、わたしにも教えてくれませんか?』
「え――何を、ですか?」
『ユリウスに教えたようなことを。他にもあるならそれも。今のわたしじゃ』
 アウラは唇を噛んだ。
『自分が何を知らないのか、それさえもよくわからないんです』
「――それは賢者の言葉ですよ、アウラさん」
 アルバートは、アウラに微笑みかけた。
「私でお役に立てる事ならば喜んで」
『ほんとですか? あの――あの――』
「なんでしょう?」
『あの――わたしの他にも、あの、教えてもらいたいって子が、きっといると思うんですけど――』
「みなさん向学心がおありなんですね」
 アルバートは、素直な称賛を満面にたたえて言った。
「もちろん喜んでお教えします。その、私に出来る範囲で、ですが」
『ありがとうございます』
 アウラは、ほっとしたように笑った。
『ユリウスも教えてくれるんだけど、ユリウスは忙しいから。あ、ごめんなさい。アルバートさんが忙しくないっていうつもりじゃないんです』
「お気になさらず。そうですね――確かにユリウス様は、とても多忙なかたですからね」
『――アルバートさん』
「はい?」
『アルバートさんは』
 アウラは、顔をこわばらせながら石板に石筆を走らせた。
『わたし達は――地獄に落ちると思いますか?』
「え!? ど、どうしてですか!?」
『――罪を、犯したから』
「――」
 アルバートは息をのんでアウラを見つめた。
『わたし達、きれいじゃないから』
 アウラはうつむいて石筆を走らせた。
『もう、天国には行けないんですか?』
「――アウラさん」
 アルバートは、アウラの瞳をのぞきこんだ。
「例え罪を犯しても、それを悔いれば神は許して下さいます。それに、あなたがたは、罪を犯したのではなく、罪を犯す人間達の、犠牲になったにすぎません。それなのに天国に行けなくなるなんて、そんなことあるはずがありません」
『でも、わたしも』
 アウラの手が震えた。
『悪いこと、いっぱいしたから』
「でも、もうしてはいないんでしょう?」
『ここにいれば、そんなことしなくていいから』
「大丈夫」
 アルバートはきっぱりと言った。
「あなたは許されています」
『――ほんと?』
「はい」
 アルバートはにっこりと笑った。
「あなたは優しい人です。他人の痛みを知る人です。神に愛される人です。あなたが地獄に落ちるなんて、そんなことあるはずがありません。あなたはきっと、天国に行きます」
『――アルバートさんは、わたし達の事を罪の子って言わないのね』
「誰があなたにそんな事を言ったんですか?」
『――いろんな人』
「そんな事を言う人たちこそが、神に対して罪を犯していますよ」
「――」
 アウラは驚いたように目を丸くした。
『アルバートさんも、怒ったりするんだ』
「え? あ、す、すみません、年甲斐もなく」
『ありがとう』
「え?」
『うれしかった、わたし。天国に行けるって言ってもらえて』
「だってほんとのことですから」
『ありがとう』
 アウラは花のように、小鳥のように微笑んだ。
『アルバートさん、ユリウスから、ここを案内するように言われているんですけど、どうします? もう少し休んでからにしますか?』
「あ、いえ、もう十分休ませていただきました。ご一緒しますよ、アウラさん」
『じゃあ』
 アウラは、石板をひもで首からつりさげた。
『いきましょうか』
「はい」
 日は中天高く昇り。
 二人の足取りは軽かった。



 名前だったらちゃんとある。
 でも。
 わたしを知っていて、でも親しくはない人は、わたしの事をこう呼んでいる。
『月光嬢』――と。
 わたしを嫌う人はこう呼んでいる。
『紅と白の魔女』――と。
 貴族に生まれていなかったら、わたしはどうしていただろう。
 見世物小屋にでもいただろうか。それとも、生きていることすらかなわなかっただろうか。
 わたしの体は生まれつき、全ての色を奪われている。
 ただ一つ、いえ二つ、この紅き瞳以外の全ての色を。
 私は日の光を浴びる事が出来ない。おとぎ話の怪物のように、私は日の光で焼き焦がされ、焼けただれる。
 わたしの世界は塀の中。わたしの世界は宵闇の中。
 昼の世界は私を拒む。わたしを拒んで輝き続ける。
 それなのに。
 わたしに嫁に行けという。さる領主のもとへと嫁げという。
 いったいどこの物好きが、こんなわたしを娶ろうというのか。
 ――でも。
 その領主の名を聞いて、わたしの心は動いてしまった。
 もちろん彼に会ったことなどない。
 ただ。
 そう――ただ。
 噂は聞いていた。
 彼の、よからぬうわさを。
 あまりにも似すぎていた、祖父と、母と、息子。
 あまりにも母に愛されすぎた、その息子。
 あまりにも父から疎まれすぎた、その息子。
 あまりにも早く死んでいった、母と父。
 それなのに。
 その息子には、非の打ちどころもなく、立派に領主を務めているという。
 彼はひそやかにこう呼ばわれる。
『金色の闇』――と。
 ああ――全身の血がざわめく。全身の毛が逆立つ。
 ああ、なんて――。
 なんて面白い。
 ああ――見てみたい、ためしてみたい。
『紅と白の魔女』と、『金色の闇』が出会ったら、そこにはいったい、何が生まれるのか。
 だからわたしはうなずいた。嫁にいこうとそう言った。
 ただ。
 彼がわたしを受け入れるかどうかはわからなかったが。
 驚いたことに、彼は受け入れた。
 たった一つの条件をつけて。
 一年間、同じ館で暮らし、わたしが逃げ出さなかったら、結婚してもいいという。
 ああ――。
 なんて面白い。
 わたしの親は怯えたが、彼の言葉に怯えたが、わたしは面白くってしかたがない。
 そう、それでこそ『金色の闇』とまで呼ばれる男だ。
 面白い。
 見てやろう。わたしを逃げかえらせるほど恐ろしくておぞましくて面白いものがあるかどうかを。
 もしなかったら。
 つまらないから逃げかえってしまおう。
 もしもあったら。
 面白いから、逃げずにいよう。
 身の危険? そんな事はどうでもいい。どうせもともと、日の光にすらあたることのできない体だ。
 さあ。
 塀の中から、もうひとつの塀の中へ。
 どうせ一生塀の中。わたしは一生、塀の中。
 それならば。
 一番面白い塀の中にいたいと思って何が悪い。
 地獄だってきっと、この生ぬるい泥濘の中よりは面白いだろう。
 さあ――行くとしようか。
 彼の名前は、ユリウス・エラルトリア。
 わたしの名前は、レティシア・ローディニア。
 さあさあ、何が起こるだろう。
『紅と白の魔女』が、『金色の闇』に嫁いだら。



「これで全部準備できたと思うんですが。何か他にあちらへお持ちになられたい物はございますでしょうか?」
「あなたはなんにも言わないのね、サリナ」
「はい?」
 サリナはきょとんと首をかしげた。黒いまっすぐな髪をそのまま侍女のお仕着せの背に流し、異民族の血が混じっているのか、のっぺりと平らな顔はほとんど感情の起伏を見せない。いや、それは単なる容貌の問題ではなく、もともとサリナは、極端に感情の起伏の乏しい少女なのだ。飄然としている、ともいえる。
「何か申し上げるべきことがございましたでしょうか?」
「そうね、たとえば、生まれ育った家を離れることになって不安ではありませんか、とか、お婿さんになられる殿方は、いったいどのような御方でしょうね、とか」
「でも、お嬢様は、別に不安ではあられませんでしょう」
 口ごたえ、というわけでもなく、サリナはただ単に、事実のみを指摘する。
「それは、そうだけどお」
「それにお嬢様は、エラルトリア卿の事を、そんなに詳しくご存じなわけでもございませんでしょう」
「それも、そうだけどお」
「では、うかがう必要もございませんので」
「あなたはいつも正しいことしか言わないのね、サリナ」
 ツン、と口をとがらすレティシアは、髪も肌も何もかもが白い。ただ両の瞳だけが鮮やかな紅。一度も自分の足で外の土を踏んだことがなく、一度も日の光を浴びたことのないその体は、恐ろしいほどなめらかでやわらかい。白絹の糸で髪を、かぐわしい白蝋で体を形作り、両の瞳に紅玉をはめ込んだ生き人形のようだ。
「そうでしょうか? わたくしも、間違ったことを言うことは何度もあると思いますが」
「そういう意味じゃないのよ」
「そういう意味ではない――」
 目をしばたたいて考え込むサリナをよそに、レティシアは指にはめた銀の印章をくるくるともてあそんだ。
「でもやっぱり、一緒に来てもらうのはあなたが一番いいわ」
「それは光栄です」
「だって」
 レティシアはクスクス笑った。
「あなただったら、何があっても騒いだりはしないもの。キャアキャア騒がれるのも、面白いには面白いけど、ずっとそんなじゃやっぱりうっとうしいわ」
「さようでございますか」
「あなたはいやじゃないの?」
「何が、でございましょう?」
「だって、今までなじんだところを出て、まるっきり知らない所に行くのよ。不安じゃない?」
「わたくしは、レティシア様にお仕えする身ですので」
 ごく淡々と、サリナは言う。
「レティシア様のいらっしゃる所なら、どこでもお供いたします」
「あなたってほんと、からかいがいがないわね、サリナ」
「申し訳ありません」
「別にいいわ」
 クスクスと、レティシアは笑った。
「からかう相手なら、他にいくらでも見つけられるから」
「さようでございますか」
「あなたのそういうとこって好きよ、サリナ」
「どういうところが、でございましょう?」
「よけいなお説教をしないところ」
「さようでございますか」
「その分張り合いもないけどね」
 レティシアは肩をすくめた。
「まあいいわ。――ああ」
 レティシアの紅の瞳が、本物の渇仰を浮かべて燃え上がった。
「これから行くところは――わたしを退屈させないでくれるといいけど」
「――」
 サリナはただ、少しだけ首をかしげた。

魔女の到来、日常の揺らぎ

 信じない。
 信じない。
 信じられない。
 信じない。
 信じない。
 信じられない。
 何よりも。
 誰よりも。
 自分自身を。



 鏡を見るとゾッとする。
 母がいる。
 祖父がいる。
 私は母に生きうつし。
 母は、祖父に生きうつし。
 だから。
 私が祖父に生きうつしでも、別におかしなことなどない。
 そう信じることのできた幼き日が、私にもあった。
 もう二度と戻らない、戻ることのできない輝ける日々が。
 だが、もう。
 信じることなどできない。
 私は祖父に生きうつし。
 それは、なぜ?
 それは。
 それは。
 カアサマガ、罪ヲ犯シタカラ。
 吐き気がする。
 吐き気がする。
 鏡を見ると、母がいる。
 母で、そして。
 ――姉なのだ、腹違いの。
 吐き気がする。
 吐き気がする。
 私は――私は――。
 私は――誰だ?
 母は母ではなく、祖父は祖父ではない。
 姉は姉ではなく、父は父ではない。
 母の夫は父ではなく、私の兄は私の甥だ。
 吐き気がする。
 吐き気がする。
 私はいったい、何者なのだ?
 ああ――ああ、そうだ。
 簡単だ。
 簡単なことだ。
 私は――化け物なのだ。
 化け物。
 バケモノ。
 私にとって、愛ほどおぞましいものはない。
 私の母は、私を愛していた。
 私の母は、祖父を愛していた。
 私の姉は、腹違いの弟を愛していた。
 私を生んだ女は、自分の父親の子供を欲しがったのだ。
 愛ゆえに。
 おぞましく歪み、はてしなく狂い、それでもまぎれもなく、疑いようもなく。
 愛ゆえに。
 私の祖父は、私の父は、いったい何を考えていたのだろう。
 どうして母を受け入れたのか。
(――お父様は、区別の出来ないかただった)
 叔母の言葉を思い出す。
 従弟が欲しいと、ヤトクが欲しいと、脅すようにせがんだ時に、叔母は、エミリアは、私をじっと、じっと見つめてそう言った。
(区別が出来ない?)
(お父様は、とても公平なかただった。誰に対しても公正で、えこひいきなんてけっしてしなかった。でも、それは――高潔、というのとはたぶん違うの。お父様は――区別をすることが、まるでできないかただった)
(叔母上――いったい何の話です?)
(お父様はね)
 私の言葉を無視し、叔母は悲しげに――いや、悲しみを通り越し、すでに全てを受け入れ、あきらめきった顔で言葉を続けた。
(自分の家族と他人とをすら、区別することが出来ないかただったの。お父様にとって全ての人には等しく価値があり、同時に等しく無価値な存在だった。お父様はきっと、赤の他人を二人助けるためなら、自分の家族を喜んで一人犠牲にしたことでしょう。いいえ、きっと、自分自身だって平気で犠牲にした。――自分が生き延びるより、自分が死んだほうが今後のためになるだろうと、そう判断なさったらね)
(大変興味深いお話ですが)
 私はいらだっていた。そして何かを恐れていた。
(いったい何をおっしゃりたいのです?)
(みんなはあなたがお父様に生きうつしだと言うわ)
 はっきりと言われ、私はたじろいだ。
 祖父に似ていると、母に似ていると、そう言われるそのたびごとに、私の胸はえぐられる。我が身の罪が、母の罪が、祖父の罪が、姉の罪が、父の罪が、全て全てえぐりだされる。
(でも、わたしにはそうは思えない)
(――え?)
(顔は確かに似ているわ。姿かたちも、立ち居振る舞いも。でも――心の形が、まるで違う)
(え――)
(お父様に一番似ているのは)
 叔母は深いため息をついた。
(――ヤトクよ。ヤトクなのよ)
(――なんですって?)
(でもね、でも)
 驚いたことに。
 叔母は、すがるようにわたしを見つめた。
(ヤトクは、違うの。少しだけ、違うの)
(――何が、ですか?)
(ヤトクは区別が出来る。全部は出来なくても、これだけは区別できる)
(これだけは――とは?)
(ヤトクはわたし達と、それからあなたを、特別な存在だと思っている。――ねえ)
 叔母はかすかに微笑んだ。
(ヤトクはあなたの事が大好きなの)
 私は思わず震えた。
 叔母はまさか、私達が再び罪を犯すとでも言いたいのだろうか?
(ああ――違うの。誤解をさせてしまったのならごめんなさい)
 叔母は悲しげに――ひどく悲しげに言った。
(逆だと言いたかったの)
(――逆?)
(お父様が――姉様を拒まなかったのは)
 叔母は小さな、本当に小さな声で言った。
(姉様の事を、赤の他人と区別することが出来なかったからなの)



 ――つまり叔母は知っていたのだ。
 知っていて止めなかった。
 いや――止められなかったのか。
 叔母だけを責めるのは酷だろうと、さすがの私でさえ思う。叔母は優しくておとなしい、言っては何だがごく平凡なたち――。
 いや。
 それは嘘だな。
 ごく平凡な人間が、あれほどの洞察をするものか。
 なぜ止めてくれなかったんだ。
 なぜ。
 ――止めてくれていたら、私は生まれずにすんだ。
 ――本当は。
 生まれてきたことを呪っているのではない。
 兄様はいつだって、私にとても優しかった。私の誇りだった。私の憧れだった。
 アルさんは――アルバートだって、私にほんとによくしてくれた。あの修道院ですごした優しく穏やかな日々は、私の人生の中で一番幸せな時だった。
 生きているのが楽しかった。だから――生まれてきてよかったと、そう言う事が出来る思い出だってあるのだ。
 兄様。
 どうして死んでしまわれたのですか。
 兄様さえいれば、私という罪が解き放たれ、新たな罪を重ねる事も無かったのに。
 そう――私は今も罪を重ねている。
 神の御許から聖者を一人、地獄の中に引きずり込んでしまった。
 なのにあの人は笑っている。
 私に向かって笑ってくれる。
 甘い剣が、私の胸にえぐり込まれる。
 愛ほどおぞましいものはない。
 私はあの人を――愛しているのだ、としか言いようがない。
 愛している人を、地獄に引きずり込んだ。
 ――母と同じことをしている。
 お母様。
 おかあさま。
 私は。
 私は、ほんとは。
 私はほんとは、どうしてあなたを憎んでいるのだろう。
 お母様。
 おかあさま。
 かあさまはどうして、私を見てはくださらなかったのですか?
 かあさまはどうして、私の事をおじいさまの身代わりとしてしか見てはくださらなかったのですか?
 私は祖父ではないのに。
 私の名はユリウス。祖父の名もユリウス。
 でも。
 私はおじいさまではないのに。
 かあさま。
 かあさま。
 どうして私の事を見てくださらなかったのですか?
 私はあなたが好きだったのに。
 私はあなたが大好きだったのに。
 どうして、どうして、どうしてあなたは。
 私を、私を、この私を、おじいさまの身代わりとしてではなく、私自身として愛してはくださらなかったのですか――?



「え、ユリウス様の婚約者?」
「うん、そう」
「いついらっしゃるんですか?」
「さー、知らね。でも、もうすぐじゃねーの?」
「そうですか」
 アルバートは畑の雑草をむしる手を休め、たちあがって腰をたたいた。
「カダルさんは詳しいですね」
「おれが詳しいんじゃねーよ。おっさんがとろいんだよ。おっさんほんと、なーんも知らねえのな」
「あはは、そうですねえ。私って、ほんとにその、専門馬鹿で」
 穏やかに笑うアルバートは知っている。
 カダルもまた、ユリウスが館に連れてきた子供達の一人だ。
 つまり、過去。
 ひどい虐待を受けている。
 だが。
「だっめだなー。自分の身の回りのことには、ちゃーんと気を配っておかねーと」
 ケラケラと笑うカダルを見て、そんな事を想像できる者はいないだろう。
 過去の記憶を失っているのか、覚えていて、その上で明るくふるまっているのか、どちらなのかはわからない、と、ヤトクはアルバートに言った。
 この館には、そんな子供たちがたくさんいる。
 カダルの過去をほのめかすものがただ一つある。
 カダルはどんな暑い日でも、半袖のシャツを着ない。短いズボンもはかない。
 もしもカダルに過去の記憶がないのなら。
 アルバートは思う。
 もしもカダルに過去の記憶がないのなら。
 自分の体の傷跡と、いったいどう折り合いをつけて生きているのだろう、と。
「ではカダルさん、教えていただけますか?」
「教えてやるかわりに、おっさんもなんかくれよ」
「ええと、では、蜂蜜入りのお茶はいかがでしょう? ユリウス様もお小さい頃、それがとてもお好きでしたよ」
「お菓子も欲しいなー」
「では、バーシア様にうかがってみましょうね」
「うわあ、だめだよおっさん。バーシア様は女官頭じゃんか。お菓子なんかのことで呼びとめたりしたら、ぜってー怒られるって!」
「え、そ、そうですか? だめですねえ私は。ほんとになんにも知りませんねえ」
「ほんとー」
 カダルはまた、ケラケラと笑った。
「おっさん、大人なのにな」
「そうですねえ」
「で」
「はい?」
「おっさん何が聞きてーの?」
「ああ、はい」
 アルバートは小首を傾げた。
「婚約者様のお名前は、いったい何とおっしゃるのでしょう?」
「レティシア・ローディニア」
 カダルは即答した。
「白っ子だってさ。髪も真っ白で、肌も真っ白で、目だけ真っ赤なんだって。お日さま浴びるとやけどするから、夜しか外に出らんねーんだって」
「それはお気の毒ですねえ」
「そっかー?」
 カダルは口をとがらせた。
「気の毒か、そいつ?」
「だってそのかたは、こんなにいいお日和の日でも、外に出る事が出来ないんでしょう?」
「でもさ」
 カダルは少しうつむいた。
「そいつ、貴族だろ? なんにも苦労しなくても、毎日飯が食えるじゃん」
「…………」
 アルバートは絶句した。
 アルバートもまた、食べる苦労ということをしたことがない。修道院の生活の中で、断食をした経験はあるが、それは本当の餓えとは全く異なるものだ。
「おれも今は、苦労しなくても毎日飯が食えるけどさ」
 カダルはつま先で土を蹴った。
「なあおっさん」
「はい、なんでしょう?」
「おれ」
 カダルはひどく真剣な顔でアルバートを見つめた。
「大人になっても、ずっとここにいられるかな? 大人になっても、ずっとユリウスのそばにいられるかな?」
「それは――」
 館にいる子供達の多くは、館の主、領主ユリウスのことを、敬称も付けずに呼び捨てにする。
 まるで兄弟のように。
 まるで友達のように。
 そのことに眉をひそめる大人も多い。だがユリウスは、その権力と威厳とで、それを押さえつけ、子供達に自分のことを呼び捨てにさせていた。
 子供達と話す時だけ、ユリウスの口調が変わる。口の悪い者には慇懃無礼と言われる丁寧すぎるほどのそれが、友達相手のそれになる。
「――どうでしょう? でも、ユリウス様は、あなた達のことがとてもとてもお好きですからね。大人になってもきっと、そばにいて欲しいとお思いになられるんじゃないでしょうか?」
「――そっか」
 カダルはにっこりと笑った。
「よかったあ。だっておれ、ずっとここにいたいもん。ここにはいやなものも、いやなこともなんにもないもん」
「…………」
 アルバートは聞いた。
 血を吐くような叫びを聞いた。
 ユリウスの心を引き裂いてあふれ出た叫びを聞いた。
 地獄だったと、ユリウスは叫んだ。
 いやなものも、いやなこともなんにもない。
 そう、カダルは言った。そう言ってにっこり笑った。
 その、同じ場所で過ごした日々の事を。
 領主の館ですごした過去の日々を。
 地獄だったと、ユリウスは叫んだ。
「おっさん、どしたん? 立ちくらみ?」
「え――ああ、すみません。ちょっとボーっとしてしまって」
「しっかりしろよー。おっさんもう年かあ?」
「うーん、そうかもしれませんねえ」
「なあ」
「はい」
「おっさん、怒んねーのな」
「え、何を、ですか?」
「普通の大人は怒るよ」
 カダルは肩をすくめた。
「おれのこと、生意気だって」
「そうですか? 私は別に、そんなふうには思いませんけど」
「おっさん変わってんな」
「そうでしょうかねえ?」
「そーだよ」
 カダルは口をとがらせてアルバートを見上げた。
「さ、おっさん、おれは教えたぞ。今度はおっさんの番だ」
「え? ええと――」
「忘れんなよー。お茶と、お菓子!」
「ああ、はいはい、そうでした」
 アルバートはにっこりと笑った。
「それではお茶にしましょうか。あ、そうだ、他にもどなたかお誘いしましょうか?」
「だれ誘う?」
「今、誰がおひまでしょうねえ?」
「よし、おっさん、ちょっと待ってろよ。今おれが、だれか探して来てやるから」
「ああ、ありがとうございます。お願いします」
「んじゃな、おっさん、すぐ戻るから」
 身をひるがえし、かけだそうとして。
「――なあ、おっさん」
「はい、なんでしょう?」
「ユリウスの――ユリウスのところに来る、白っ子のお姫さんはさ」
「レティシア様、でしたっけ?」
「レティシアってやつ――おれ達のこと、邪魔にしたりしないかな?」
「え――」
「いってくる!」
 アルバートに、その表情を見せず。
 カダルは走り去った。
 だが、アルバートは。
 カダルの声が震えていたのを、はっきりと聞きとっていた。



「ご結婚なさるんですか?」
「ようやっとあなたの耳にも入りましたか」
 ユリウスはおかしそうに、クスクスと笑った。
「あなたは彼女がここにやってくるまで気づきもしないんじゃないかと思いましたよ」
「すみません、私その、そういうことにとんとうとくて」
「いいんです、あなたはそれで」
 ユリウスは、わずかに歪んだ笑みを浮かべた。
「ご結婚――なさるんですよね?」
「それはどうだかわかりません」
「え?」
「私と一緒に暮らしてみて、一年間逃げかえらずに持ちこたえる事が出来たら結婚してもいい、とはいいました」
 ユリウスの笑みがさらに歪んだ。
「だから、結婚するかどうかは一年たつまでわかりませんね」
「そう――ですか」
 アルバートは、わずかに眉をひそめた。
「どうしてそんな、試すような真似を?」
「実際に試しているんです」
 ユリウスは冷ややかにこたえた。
「一年もあればわかるでしょう。化け物と一緒に暮らすことに耐えられるかどうかくらい。もしも耐えられないのなら、早めに逃げだせたほうがいいでしょう?」
「――あなたは化け物じゃない」
「私は化け物で、彼女は魔女ですよ」
「え?」
「彼女はどうも――ひどく淫奔な女らしい」
 ユリウスは、ひきつけを起こしたように笑った。
「男も女もかまわずに、寝所に引き込んでいるとのもっぱらのうわさですよ」
「――ひどいですね」
「何が?」
「若い娘さんに、そんなうわさを立てるなんて」
「そのうわさが真実だとしたら?」
「それでもひどいと思います。魔女呼ばわりするなんて」
「まあ、化け物の妻には魔女くらいが適当でしょう」
「やめてください。失礼です」
「彼女に?」
「そして、あなた自身に」
「――そうですか」
 ユリウスは、ほのかに陰りをおびた目でアルバートを見つめた。
「あなたがそう言うなら、きっとそうなんでしょうね」
「ユリウス様」
「なんですか?」
「あの――子供達に、言ってあげてくれませんか?」
「え? ――何を、ですか?」
「あの子達、不安がっているんです。その、あの、あなたの未来の奥様が、自分達のことをその、邪魔に思うんじゃないかって」
「もしそんなことになったとしたら、出ていくべきは、その、私の未来の妻とやらのほうですよ」
 ユリウスは顔をしかめた。
「やれやれ、信用ないんですね、私って」
「ちがいます。そうじゃありませんよ。あの子達はあなたのことを信じていますよ。でも、それでも――言葉に出して言って欲しいんですよ。大切に思ってるって」
「――」
 ユリウスは、じっとアルバートを見つめた。
「――わかりました」
 ユリウスは小さな声で言った。
「あの子らを不安にさせたのは、確かに私の落ち度です。明日にでも、きちんと説明しておきましょう」
「ありがとうございます」
「――で」
「はい?」
「あなたは何とも思わないんですか?」
「え? ――何を、ですか?」
「私が結婚するかもしれないということについて」
「ああ――お二人とも、お幸せになっていただきたいと思います」
「――」
 ユリウスの顔が激しくひき歪み。
 アルバートをベッドの上へと押し倒した。
「――ユリウス様」
「やめて!」
 ユリウスは悲鳴を上げた。
「私――私は――私はおじいさまじゃない!」
「――!!」
 アルバートは、激しく息をのんだ。
「やめて――やめて――!」
 ユリウスはしゃくりあげた。
「――ユーリ」
 アルバートは、そっとささやいた。
「――」
 ユリウスは、怯えた子供の目でアルバートを見つめた。
「――アル? アルさん?」
「――そうですよ、ユーリ」
「――」
 ユリウスはアルバートを抱きしめた。
 いや――もしかしたら。
 ユリウスは、アルバートにしがみついたのかもしれない。
「ねえ――教えて」
 ユリウスのその声は、細い子供の声だった。
「私――私は――私は――誰? ねえ――ねえ――私は――誰なの? 私――私――私は、いったい――私はいったい――誰なんですか?」
「ユーリ」
 アルバートは、力いっぱいユリウスを抱きしめた。
「あなたは、ユーリですよ。お花が好きで、小鳥の歌が好きで、歌うことがとても好きで、絵を描くのがとても上手な、優しい優しい、私のユーリですよ――」
「――」
 ユリウスは、ひどく不安げな顔でアルバートを見つめた。
「ほんと――ほんとに? ほんとに、それが――それが、私?」
「ええ」
「――本当に?」
「本当に」
「――でも」
 ユリウスの瞳が流れる血の色に光り。
「――私は優しくないですよ」
「――!?」
 アルバートのみぞおちに、ユリウスの拳が叩きこまれた。
「――ッ――ヵハッ――!」
「優しく、ないですよねえ、私は」
 ユリウスはうつろにつぶやき、そのままアルバートの服を引き裂くようにはぎ取った。
「ちっとも優しくないですよ。あなたにこんな事をするんですから。ねえ――ねえ――それでも私は、あなたのユーリなんですか?」
「――そうですよ」
 苦痛に涙を浮かべながら、アルバートはユリウスに微笑みかけた。
「たとえ何をしようとも、たとえどんな罪を犯そうとも、あなたは私のユーリですよ――」
「――見せてあげましょうか、ねえ?」
「――え?」
「魔女なら喜ぶかもしれませんよ」
「え――え?」
「もしも彼女が、ほんとに魔女なら」
 ユリウスはクスクスと、熱に浮かされたような笑い声をもらした。
「私があなたを抱いているところを見て、楽しんでくれるかもしれませんよ――?」
「だ――だめです!!」
「どうして?」
「レ――レティシア様に、そんな仕打ちを受けるいわれはありません!」
「だったら私にはあったんですか」
「――え?」
「だったら私にはあったというんですか?」
 ユリウスの瞳の中に、消すことのできぬ業火が燃え盛った。
「私にはあったというんですか? あの子らにはあったというんですか? あんな目にあう、それだけのいわれが、私には、あの子らには、私達にはあったと、あなたはそう言いたいんですか――!?」
「――ユーリ――」
「――あなたがこんな目にあう理由はたった一つですよ」
 ユリウスは怒りを込めて、そして悲しみを込めて。
 笑顔としか言うことのできない表情をつくりだした。
「それはね」
「ユーリ――」
「私があなたを――愛しているから――!!」
 ――犯されているのは、アルバートだが。
 泣いているのは、ユリウスだった。



 明け方――朝日が昇ると、ユリウスはアルバートの部屋から出ていく。
 それと入れ替わりのように――いや、実際それと入れ替わりに。
 ヤトクとアウラが、アルバートの部屋に入ってくる。
「――大丈夫か?」
「え――ああ――大丈夫ですよ」
 アルバートは、かすかな笑みを浮かべた。
「大丈夫――です。ユリウス様はちゃんと――手加減なさってらっしゃいますから」
「そうか?」
「ええ。ユリウス様が本気になったら――私などひとたまりもありませんよ」
「――そうか」
 ヤトクは、ため息にとても近い吐息をもらした。
「――あいつ、俺を相手にすればいいのに」
「え?」
「ユリウスは、俺を相手にすればいいんだ」
 ヤトクは淡々と言った。
「俺だったら、痛みなんてまるで感じずにすむ。体だって、俺のほうが絶対に頑丈だ」
「それは――」
「――」
 アウラが激しくかぶりをふった。上手に喋ることが出来ないアウラが、自分のおもいをあらわすために、胸に下げた単語の札の束から、『だめ』という札をつかみだす。
「だめなのか? どうして?」
「――」
 アウラはもどかしげに石板に石筆を走らせた。
『だめ――だめ。ヤトクは痛いのを我慢できるんじゃなくて、本当に痛いのを感じる事が出来ない体だから』
「だからいいんだろう? 俺だったら痛くないから、何をされても平気だぞ」
『だめ! ヤトクは痛いのがわからないから、自分がどんなにひどく傷ついてもわからない。だから、他の人の何倍、何十倍も、自分の体を大切にしなきゃだめ!』
「――ユリウスとおんなじことを言うんだな」
 ヤトクはポツリとつぶやいた。
「ユリウス様が、おっしゃったんですか? 体を大切にしなければいけないと」
 アルバートはそっと問いかけた。
「ああ。ユリウスは、体を大切にしろといった。俺はけがをしても、自分の目で見るか他人に教えてもらうかするまでそれに気がつくことが出来ないから、うんと注意しなきゃいけないって――でも」
 ヤトクの口元に、やわらかな笑みが浮かんだ。
「あいつ、やめろって言わなかった」
「え?」
「おれの親父もおふくろも、俺がこういう――痛みを感じる事が出来ない体だから、俺がけがをするのを、けがをしそうになるのをすごく嫌がっていた。だからいつも言ってた。あれをやるな、これをやるな、あれは危ない、これは危ない、だめ、だめ、だめ――。俺だって一応わかってるぞ。親父もおふくろも、俺のことが心配でしょうがなかっただけだって。でも――息がつまった」
「――」
アルバートとアウラは、無言でうなずいた。
「でも、ユリウスはやめろって言わなかった。俺がやりたいって言ったことを、危ないからやめろとは言わなかったんだ。そのかわり、どうすれば危なくないか、どうすればけがせずにすむかを、いっしょに考えてくれた。――うれしかった。すっごく、うれしかった」
「――わかります」
 アルバートは、深くうなずいた。
「よく――わかりますよ」
『――そうね。ユリウスって、そういう人だもの』
 アウラがこくりとうなずいた。
『わたし、上手に声を出す事が出来ないから、それに、誰も、わたしに文字なんか教えてくれなかったから、ずっとずっと、すっごく馬鹿な子だって思われてた。ちゃんとしゃべれれば、上手にしゃべれれば、自分の口でそうじゃないって言えるのに、わたしは上手にしゃべれないから、ずっとずっと、馬鹿な子だって思われてた』
「それは――」
 ごく幼いころから修道院で暮らし、そこで教育を受けてきたアルバートは、物ごころつくのとほとんど同時に文字をおぼえた。だからアウラの絶望を、本当の意味で理解することは出来なかった。
『ユリウスは、わたしに文字を教えてくれた。もう誰も、わたしのことを馬鹿だって言わないわ』
「――」
 アルバートはうなずいた。
 それとも、うつむいたのかもしれない。
「ユリウスは言ってたぞ」
 ヤトクはアルバートに言った。
「あんたがいろいろ教えてくれたんだって。修道院には優しい先生がいて、たくさんたくさん、素敵なことを教えてくれたんだって」
『そう、だから』
 アウラはにっこり笑った。
『アルバートさんは、私の先生の先生ね』
「――そうですね」
 アルバートもまた、にっこりと笑った。
「アウラさんは私の、生徒の生徒、ですね」
「あんたは笑うんだな」
「え?」
「おれ、おぼえてる」
 ヤトクはぼそりと言った。
「ユリウスと伯母さん――エレノア伯母さんと、それにリディウス伯父さんが、どんどんどんどん、笑わなくなっていったこと」
「――」
 アルバートの鼓動が一瞬止まった。
 ヤトクはどこまで知っているのか。
 ユリウスがほのめかしたあの大罪の事を、いったいどこまで知っているのか。
「あんたは笑うんだな」
 ヤトクは再び言った。
「やっぱりおれは、あんたにここにいて欲しい」
「おりますよ」
 アルバートは、特に気負うこともなく即答した。
「私はずっと、ここにおります」
『お願い、アルバートさん』
 アウラが真剣な目でアルバートを見つめた。
『ユリウスのそばにいてあげて。わたしは――わたし達は、ユリウスの仲間だけど、ユリウスの友達だけど、ユリウスは私達といっしょにいると――わたし達を守ろうとするの。わたし達がユリウスを守ってあげようとしてもだめなの。ユリウスは何よりも先に、わたし達の事を守ろうとしちゃうの。でも』
 力を込めすぎたせいで、アウラの握る石筆が折れた。
『誰かがユリウスの事を守ってあげなくちゃだめなの。アルバートさん――ユリウスを、守ってあげて』
「――ええ、もちろん」
 アルバートの両目に、うっすらと涙が浮かんだ。
 あまりにも早く、大人びた知恵と洞察力とを身につけなければならなかった子供たちが目の前にいた。
 領主の館の中にいた。何人も、何人も、子供でいる事が出来なかった、許されなかった子供たちがいた。
「私がユーリを守ります」
「あんたをおれ達が守ってやれればいいんだけどな」
 ヤトクはため息をついた。
「ごめん。ほんとに――ごめん。おれ達は、どうやってユリウスをとめたらいいのかわからない」
「大丈夫ですよ」
 アルバートは笑った。
 陰りなく、迷いなく。
 アルバートは笑った。
「私は大人で、これは私が選んだ道です。だから私は大丈夫。心配してくれて、本当にありがとう」
『さあ、アルバートさん』
 アウラはてきぱきと、石板に石筆を走らせた。
『わたしに体を見せてください。ユリウスが手加減してたとしても、人の体って、案外もろいものだから』
「やっぱりその、照れますねえ」
 アルバートは、すっとぼけた顔で言った。
「あなたのようなお若いお嬢さんに、この老体をお見せするのは」
『わたし、お医者さんになるんだもの。練習台に、なって下さい。ね?』
「かしこまりました」
 アルバートはにっこりと笑った。
 窓から朝日が差しこみはじめた。



「ユーリ、ユーリ――」
「なんですか?」
「こんなことをしなくても――」
 衣服を全てひきはがされ、手首と足首をまとめて縄で戒められたまま、アルバートはユリウスを見あげた。
「私は、あなたの嫌がることをしたりはしませんよ」
「――それはそうだと思います」
 細い声で、ユリウスはこたえた。
「でも――こうしていると、安心できるんです」
「――安心?」
「こうやって、縛りつけておけば――」
 ユリウスは、どこかうつろな声でつぶやいた。
「あなたは逃げていかないでしょう?」
「私があなたから逃げようとしたことがありましたか?」
「――ないからよけい怖いんです」
「え?」
「――あなたは許してくれる」
 ユリウスは苦しげに言った。
「あなたは許してくれる。私がどんなひどいことをしても、どんな恥ずべきことをしても、あなたは許してくれる。――だから私は不安になる」
「なぜ――不安になるんです?」
「どうしてあなたは穢れないんです?」
 ユリウスは悲痛にうめいた。
「どうしてあなたは汚れないんです? どうしてあなたは穢れないんです? どうしてあなたは堕ちないんです? わ、私は――私は、あっというまに――私の心はあっというまにどぶ泥に染まったのに、あなたはどうして――!?」
「――ユーリ――」
 アルバートの瞳に悲しみが満ちた。
「ユーリ、それは――」
「あなたが特別なんですか? それとも私がおかしいんですか? 私が、私が、私がもともとどこかおかしいから、だから私はあんな目に会ったんですか? アルバート――あなたを愛しています。でも、でも、あなたといると、私はあなたといっしょにいる全ての瞬間、自分のことを薄汚れた化け物だと思いながらすごさなくちゃいけないんです――!!」
「――ユーリ」
 アルバートは、静かに笑った。
「あなたの目には、私がどんな存在に見えているんです?」
「――聖人、ですよ。このうえない、ね」
「それは誤解です」
「何が誤解なんですか」
「私はほんとは、今だって」
 アルバートは、ユリウスに微笑みかけた。
「あなたをこの腕に抱きしめて、口づけたいと思っています」
「――うそでしょう?」
「本当ですよ」
「――それは、私のことを憐れんでいるからでしょう?」
「いいえ」
 アルバートはきっぱりと言った。
「愛しているからです」
「――でも、アルバート」
 ユリウスは、すねたように言った。
「あなたには私のような、薄汚れた欲望はないでしょう? こんな薄汚れた――男の肉欲は」
「ユーリ」
 アルバートは苦笑した。
「私が今まであなたの腕の中で、何回自分の精を吐き出したと思っているんですか?」
「それは――私が無理やり、そうしただけでしょう?」
「――そんなふうに思っているんですか?」
「それ以外にはないでしょう」
「ユーリ」
 アルバートはきっぱりと言った。
「縄をほどいて下さい」
「――やだ」
 ユリウスは、怯えた子供の声で言った。
「そしたらあなた、どこかへいっちゃう」
「どこへも行きません」
 アルバートは穏やかな声で言った。
「私はただ、あなたをこの腕で抱きしめたいだけです」
「――」
 ユリウスは、しばらくじっとアルバートを見つめ。
 そっと、縄をほどいた。
「――いいよ、もう」
 ユリウスは、かすれた声で言った。
「いいよ、もう――もう、いい。あなたと私は違うんだから――あなたは行けばいい。どこへでも」
「――」
 アルバートは両腕を伸ばし。
 ユリウスを、抱きしめた。
「――やめて」
 ユリウスは固く両目をつぶった。
「やめて――やめて。そんなこと、しないで。そ、そんなことをされても――い、いくら、あ、愛してもらっても――私は化け物のままだから。い、今は我慢できてるけど、ま、また、きっと、あなたのことを傷つけるから。だから――」
「ユーリ」
 アルバートは、ユリウスの頭のてっぺんに口づけた。
「――あなたはお日さまのにおいがする」
「――うそでしょう?」
「どうして私がうそをつくんです?」
「だ、だって――わ、私がお日さまのにおいなんて、す、するはずがない」
「どうして? だって、ユーリ」
 アルバートは、ユリウスの顔じゅうに口づけを落とした。
「あなたは私のお日さまなのに。私の、ヤトクさんの、アウラさんの、カダルさんの、エステルさんの、イーダさんの、ジャンさんの、それから他にも、ほかのみんなも――みんなのみんなのお日さまなのに。ねえ、ユーリ、あなたはあの子供達を、あの傷ついた子供達を、あんなにも幸せな子供達に変えたのに、どうしてあなたは、自分のことを化け物だなんて思ったりするんです?」
「――それは、別に、慈善でもなんでもありません」
 ユリウスは固い声で言った。
「私は、ただ――自分よりみじめなものを見て、安心したかっただけです」
「ではなぜあなたは、あの子達をみじめなまんまにしておかなかったんです?」
「――え?」
「あなたには出来たはずでしょう? あの子達を自分の身近に置いて、しかもみじめなまんまにしておくことくらい、あなたにはいくらでも、出来たはずでしょう? なのになぜ、あなたはそうはしなかったんですか?」
「――それは――」
「あなたはそんなこと、したくなかったんでしょう?」
 アルバートの両腕は、ユリウスを抱きしめていた。
 アルバートの唇は、言葉を紡ぐその合間に、ユリウスに刻印を押し続けていた。
「あなたはそんなこと、したくはなかった。あなたはあの子達を、幸せにしたかった。そして本当に幸せにした」
「――あなたは不幸にしましたね」
「私は」
 アルバートは、きつくユリウスを抱きしめた。
「幸せですよ」
「…………うそだ」
「私はうそはつきません。あなたにうそをついたりしません」
「…………どうしてしあわせなんですか。こんなみじめな、ろくでもない状況で、どうして幸せなんですか」
「あなたのそばにいられるから」
「……………………」
 沈黙は、長く、長く、続いた。
「……………………魔女が」
「え?」
「魔女が、来ます。明日」
「ユーリ」
 アルバートは、わずかに声を荒げた。
「レティシア様のことを、そんなふうに言ってはいけませんよ」
「……どうして?」
「自分がされたくないことを、他の人にしてはいけません」
「……ああ、アルさん」
 ユリウスは、クスリと笑った。
「あなたはほんとに、変わらないですね」
「あなたも」
「――え?」
「あなたもね」
 アルバートは、にっこりと笑った。
「今でも変わらず、私のかわいいユーリのまんまですよ」
「――そんなわけ、ないでしょう」
「そんなわけ、ありますよ」
「――アルバート」
「はい」
「私はいったい――誰ですか?」
「あなたは」
 アルバートはまっすぐに、こわごわと見つめてくるユリウスの瞳を見つめた。
「私の最愛の人ですよ」
「――罪ですね」
 ユリウスは、せきこむように笑った。
「あなたは私を愛したりしちゃいけないんだ」
「それが罪でも」
 アルバートはまっすぐに言った。
「私はあなたを愛し続けますよ」
「――」
 ユリウスは、透明なまなざしをアルバートに向けた。
「それならあなたは、地獄行きだ」
「そうですか」
 アルバートは静かに笑った。
「別にかまいませんよ」
「――馬鹿だな、あなたは」
 と、ユリウスはつぶやき。
「明日――レティシアが、ここに到着します」
 と、静かに告げた。



 それは、あまりにもささやかな到着だった。
 いかに、後ろに日常雑貨を山と積みこまれた荷車を複数従えているとはいえ、それはあまりにもささやかにしてひそやかな到着だった。
「――こんばんは」
 馬車の中から降り立ったのは、レティシア・ローディニア。ローディニア家の三女である。
 白い髪、白い顔、白い肌、紅の瞳。日の光を浴びることのかなわぬその体は、ぽってりと豊満で、いかにも肉感的だった。巨大とすら言えるであろう胸に、大きく張り出した腰、まるい尻。その身をぴったりと覆うのは、毒々しくすら見える深紅のドレスで、大きく開けられた胸ぐりからは、白い大きな乳房が半分のぞいている。
「こんばんは」
 出迎えたのは、ユリウス・エラルトリア。エラルトリア領の若き領主だ。金褐色のくせっ毛に、琥珀色の瞳。白々と整ったほっそりとした顔。別段レティシアと申し合わせたわけでもなかろうが、髪の色と目の色とをよくひきたてる、えんじ色の礼服を身にまとっている。
 出迎えたのは、エラルトリア領の若き領主、ユリウス・エラルトリア。
いや――この表現は正しくない。間違ってはいないが、十分だとは到底言い難い。
「あら?」
 レティシアは首を傾げた。
「そちらのかたがたは?」
 レティシアの視線の先には。
 十数人の、まだ幼子と呼んでもよさそうな小さな子供から、レティシアが疑う気になれば、ユリウスの愛人ではないかと疑えるほど大人に近づいた子供達の群れと、その中でただ一人異彩を放つ初老の修道士。
「私の友人達と、恩師です。恩師が誰なのかは、説明しなくてもわかりますよね」
「ええ」
 レティシアはクスクス笑った。
「みなさん、初めまして。わたしはレティシア・ローディニア。ユリウスの婚約者よ」
「初めまして!」
「こんばんは!」
「……はじめまして」
「どうも初めまして、こんばんは」
「――」
 子供達とアルバートが、それぞれなりにレティシアに挨拶を返す。
「ねえ、みなさん」
 レティシアはにっこりと笑った。
「ユリウスとお友達なの?」
「――」
 無言で顔を見あわせた子供達が、これまた無言でうなずきを返す。
「そう」
 レティシアもまた、子供達にうなずき返した。
「それじゃあみんな――お願いがあるの」
「――」
「わたしとも、お友達になってくれない?」
 子供達の間に生まれかけた緊張が形になる前に、レティシアは満面の笑みを子供達に向けてそう問いかけた。
「――」
 ユリウスは、わずかに息をのみ、目を見開いた。
「――うん!」
 カダルが真っ先に返事を返した。
「ありがと!」
 レティシアは、本当にうれしそうにそう返した。
「…………おともだち?」
 一番幼いイーダが、ちょこちょこと前に出る。
「そうよ、お友達よ」
 レティシアがはしゃいだ声をあげた。
「わあ、うれしいわあ。わたしね、わたしね、あのね、昼間は表に出られないしね、あんまり人とも会った事ないしね、あのね、わたし、あんまりお友達がいないの」
「おともだち!」
 イーダがにっこりと笑う。
 それにつられるかのように、子供達がレティシアに近づく。
「みんなもお友達になってくれる?」
「うん!」
「は、はい」
「…………ん」
「――」
「――あら?」
 アウラがさしだした『はい』の札を見たレティシアが首を傾げた。
「あなた、しゃべれないの?」
『でも、耳は聞こえているんです』
「あら」
 アウラがいつも持ち歩いている小さな石板に石筆で書きこまれた文字を見て、レティシアはにっこり笑った。
「それに、文字もかけるのね。じゃあ、わたしとおしゃべりできるわね」
『そうですね』
 アウラもにっこりと笑った。
「ねえ、みんな、甘いもの好き?」
「好き!」
「すきー」
「じゃあ――サリナ」
 レティシアの後ろから、侍女のサリナが顔を出す。
「ね、ボンボンあったわよね?」
「はい」
「あ、ちょっと」
 ユリウスが、思わず、といったように口をはさんだ。
「お酒とか使ってないでしょうね?」
「え? うん、大丈夫よ。ほら、これ、いろんな果物の味でしょ、こっちはね、お花の香りがするのよ」
 レティシアは喜々として、サリナから受け取ったボンボンの箱を見せた。
「それは――どうもありがとうございます」
 ユリウスは丁寧に礼を述べた。
「どういたしまして」
 レティシアはクスクスと笑った。
「ユリウスって――」
「なれなれしいですね、あなた」
 ユリウスは顔をしかめた。
「あら、だって、わたし達結婚するんでしょ?」
 レティシアはまた、クスクスと笑った。
「それはどうだかわかりませんよ、まだ」
 ユリウスは口をとがらせた。
「ええー、するわよおー」
 レティシアはおかしそうに笑い転げた。
「ねえ」
「なんでしょうか」
「ユリウスって」
「まあ、どう呼ぼうとあなたの勝手ですけどね」
「優しいのね。びっくりしちゃった」
「――」
 ユリウスの瞳が燃え上がり、ついで凍りついた。
「――あなたに私の何がわかるというんです」
「なあんにも、わかるわけないじゃない」
 レティシアは肩をすくめた。
「だってわたし達、まともに顔をあわせたのは今夜がはじめてじゃない。それでわかるわけないじゃない。だって――」
 レティシアの瞳が、赤々と輝いた。
「わたしは『魔女』って呼ばれてるけど、ほんとに魔法が使えるわけじゃないんだから」
「――なるほど」
 ユリウスの唇に、歪んだ笑みが浮かんだ。
「それはそうでしょうね。――私は本物の化け物なんですけどね」
「あら、それは楽しみ」
「何が?」
「わたしが一番嫌いなものって、なんだかわかる?」
「わかるはずがないでしょう。理由は先ほど、あなたがおっしゃったとおりです」
「そおよねーえ」
 クスクス、クスクスと。
 レティシアは、笑った。
「あのね」
「なんでしょう」
「わたしが一番嫌いなものは」
「一応うかがっておきましょうか」
「それはね――」
 レティシアの瞳が、赤黒く光った。
「――退屈」
「――それはそれは」
 ユリウスは、裂けた傷口のように笑った。
「あなたは幸せな人ですね」
「あら――そうかしら」
「ええ、そうですよ」
 ユリウスは笑みを消した。
「まあ、何はともあれ、よくいらっしゃいました。歓迎するとはお約束出来かねますが、客人としての扱いだけはお約束いたしますよ」
「あら、ありがとう」
 レティシアの赤い唇は、ぬめりと笑みを形作った。
「ねえ」
「なんでしょうか?」
「約束は、守ってくれるのよね?」
「――ええ」
「それじゃあ」
 低い笑い声が響く。
「わたしとあなたは、本当に結婚するかもね」
「――それはどうでしょうね」
 琥珀の瞳と紅玉の瞳が、刃で切り結びあうように、見つめあっていた。



 アルバートはぐったりと、寝台に横たわっていた。
 静かに扉が開いた。
 アルバートは、扉に鍵をかけたことがない。一応、アルバートの部屋も、中から鍵がかけられるような作りになってはいるのだが、アルバートは一度もその鍵を使ったことがなかった。
「――もう眠ってしまったんですか?」
 低い声は、ユリウスのものだった。
「いえ――起きていますよ」
 アルバートはゆっくりと寝台の上に身を起こした。
「お疲れさまでした」
 ユリウスはクスクスと笑った。
「どうですか、レティシアの第一印象は?」
「優しそうなかたとお見受けいたしましたが」
 アルバートは生真面目にこたえた。
「優しい――ね」
 ユリウスは、フンと鼻をならした。
「あれはとんでもない曲者ですよ。お綺麗でご清潔なあなたにはわからないかもしれませんが、私にはわかります。あれは私と同じ。綺麗な顔をしていても、腹の中は汚泥でいっぱいですよ」
「ユリウス様――」
 アルバートは悲しげにユリウスを見つめた。
「どうしてわからないんですか、あなたは?」
 ユリウスは、小さくため息をついた。
「こんな事をされて、まだわからないというんですか?」
「あ――」
 ユリウスに抱き寄せられて、アルバートは狼狽した声をあげた。
「――動くと感じちゃいます?」
 ユリウスの瞳が、ぬめった光をおびた。
「え――あ――」
 アルバートは、真っ赤な顔でうつむいた。
「どんな気分でした? あんなものをおなかの中に入れたままにこやかにレティシアを出迎えなければいけないというのは、いったいどんな気分でした?」
「――あなただって、体調が悪くても公の場に出なければいけないことがあるでしょう?」
 アルバートは、ユリウスに微笑みかけた。
「だれだって、万全の体調でばかりはいられません。私の場合、たまたまそれが――」
「たまたまその原因が、私があなたに突っ込んだ淫具だったというだけのことにすぎない、ですか?」
 ユリウスは、苛立たしげに舌打ちをした。
「あなたはほんとに、馬鹿なんですか? どうして怒らないんです?」
「私は――本当に苦しんでいるわけではありませんから」
「――え?」
「確かに、その、あ、あんなものがその、体の中に入っている、というのは、あまり愉快な気分ではありません。でもそれは、頭痛とか二日酔いとかと同じ、単に体が不愉快な思いをしているだけです。私が本当に苦しんでいるわけではありません」
「――屈辱を感じたりはしないんですか?」
 ユリウスは、小さな声で聞いた。
「私のような若造にいいようにされて、あなたは屈辱を感じたりはしないんですか? それともあれですか、私が貴族だから、領主だから、そうされても当然だとでも思っているんですか?」
「いいえ」
 アルバートは、そっとユリウスの頭を抱き寄せた。
「あなたが貴族だからでも、あなたが領主だからでもありません」
「――では、なぜ?」
「――あなたが再び、機会をくれたからですよ」
「――え?」
「私はあなたに、何もしてあげることが出来なかった」
 アルバートは、後悔が色濃くにじむ声で言った。
「なのにあなたは、私をこうしてそばにおいてくれる。私は今、あなたのために何かをすることが出来る。それがほんとに、うれしいんですよ」
「――本物の馬鹿だな、あなたは」
 ユリウスは乱暴に、アルバートを突き飛ばした。
「それとも――」
 若々しい両腕が、引き裂くように服をむしり取る。
「これがそんなに――気にいったんですか――!?」
「あ――あ、あっ、そ、んなッ!?」
 さらけだされたアルバートの秘部に埋め込まれた奇妙な道具を、ユリウスは乱暴に揺さぶった。
「気にいったんですか?」
「――そんな――」
「どうなんです?」
「――も――もう、とってしまってもいいですか――?」
「これをいれたままでは、私のものが入れられませんしね」
 ユリウスは冷ややかに言った。
「まあ、思ったよりも楽しんで下さったようで、まことに結構なことです」
「そんな――」
「何かご不満でも?」
「――」
「――だんまり、ですか」
 ユリウスはゆっくりと、アルバートの体内に埋め込まれた淫具を引き出し――。
 半ばを過ぎたあたりで、再び一気に突き刺した。
「ああッ!?」
「ずいぶんやわらかくなってますね」
「あ――そんな――」
「――とって欲しいですか?」
 ユリウスはそっと、アルバートの耳朶を唇ではさみながらささやきかけた。
「は――はい――」
「じゃあ、自分の手で広げて、私によく見せて下さい」
「え――」
「出来ないんなら、ずっと入れたままでいてもらいますよ」
「――」
 アルバートは、一瞬泣き出しそうな顔をしたが、大きく息をついて表情を静かなものに戻した。
「それでは――お願いします」
「――くくくくくっ」
 大きく両足を開き、懇願するような目でユリウスを見つめるアルバートを見て、ユリウスはせきこむように笑った。
「ああ――いいながめだ。まったくもって、いい格好ですね。ああ、ほんとに、私一人で楽しむにはもったいないくらいのながめですよ――!」
「――」
「――レティシア」
「――え?」
 ユリウスの口から出た名前に、アルバートの頭は完全に空白になった。
「入ってきたらどうですか? まったくお行儀の悪い。よそ様の家の中を勝手に漁りまわるんじゃないと、ご両親は教えてくださらなかったんですか?」
「あら、だってここは、よそ様の家なんかじゃないもの」
 平然と入ってきた人物を目にして、アルバートの顔に絶望に非常によく似た表情が浮かんだ。
「あなたとわたしは、一年後には結婚するんでしょ? だったらここは、わたしのおうちじゃない、ね?」
「いまはまだ、そうではありませんよ」
「でも、半分くらいはそうでしょ?」
「さあどうだか」
 ユリウスはそっけなく言った。
「アルバート――これでもあなたは、私を愛することが出来ますか?」
「――」
 アルバートの両目から、静かに涙が流れた。
「――ア――」
 不意に、ユリウスの体が、焼き鏝を押し当てられたかのようにはねた。
「ナ――ナカ――」
「え?」
 アルバートは、ハッとユリウスを見つめた。
「ユ――ユーリ?」
「ナカナ――泣カナイデ――泣カナイデ――」
「ユリウス様――?」
「泣カナイデ――ドウシテ泣クノ――泣カナイデ――イイコダカラ――」
「ユーリ――」
「泣イチャダメヨ――泣カナイデ――ネ――」
 ユリウスの瞳はうつろで、どこも、何も、その瞳には映っていなかった。
 ユリウスの唇からもれるその声は、ユリウスのものではなかった。
「泣カナイデ――ソウヨ――イイコネ――イイコ――イイコ――」
「――誰?」
 レティシアが、呆然とつぶやいた。
「イイコネ――大好キヨ――大好キヨ、ゆりうす――」
「――何を言っているの、ユリウス?」
「ユーリ――」
 壊れた人形のようなユリウスを、レティシアとアルバートは、呆然と見つめていた。



「――」
 アルバートは、素早く顔をぬぐい、涙の痕跡を消した。
「――ユーリ」
 そしてアルバートは、そっとユリウスを抱きしめた。
「大丈夫ですよ――大丈夫。もう、大丈夫ですよ。ね、ほら――私はもう、泣いてないんかいないでしょ?」
「――」
 ユリウスのうつろな瞳が、わずかに揺らめく。
「大丈夫――大丈夫。ごめんなさいね。いきなり泣いたりして、びっくりさせちゃいましたね。驚かせてごめんなさいね。でも、ほら、もう大丈夫ですよ。ね?」
「――」
 ユリウスはぼんやりと、アルバートの笑顔を見つめた。
「――アル? ――アルさん?」
「そうですよ、ユーリ」
「――ああ」
 ユリウスは、深く、長い吐息をついた。
「アルさん――だ」
「はい。ここにおりますよ」
「アルバート――」
 ユリウスは、アルバートを抱きしめかけ。
 初めて目にするかのような顔で、レティシアを見つめた。
「――レティシア」
「なあに?」
「出ていってもらえませんか?」
「あら、わたしがいちゃお邪魔?」
「ここに残っていたって、あなたが面白がれる様なことは、もうなんにも起こりませんよ。少なくとも、今晩のうちは」
「ええー?」
「――疲れました」
 ユリウスは、かすれた声で言った。
「もう、眠りたいんです。――出ていって下さい、レティシア」
「寝ちゃうの?」
「私は眠らないとでも思っているんですか?」
「ほんとに寝ちゃうの?」
「こんな事でうそをついてどうなるんです?」
「そう。――いいわ、出ていってあげる。そのかわり――」
 レティシアの瞳が、赤々と輝いた。
「次はちゃんと、最後までやって見せてよね」
「――フン、悪趣味な」
「あなただって人のことは言えないでしょ?」
「ごもっとも。それを否定したりはしませんよ。けど、とにかく、今は出ていって下さい」
「はあい」
 クスクスと笑いながら、レティシアは寝台の上の二人に向かって手をふった。
「じゃあね、おじさん。また今度ね」
「え――」
 絶句するアルバートに流し目をくれ、レティシアは部屋からすべり出た。
「――やれやれ」
 ユリウスは、大きくため息をついた。
「いまさらながら、とんでもない女を選んでしまったものですね。――まあ、いいか。あの女が相手だったら、私だって――」
「――私だって?」
「――それほど引け目を感じずにすむかもしれない」
 ユリウスは小さな声で言った。
「あなたは誰に対してだって、引け目を感じたりしなくていいんですよ」
 アルバートはそっと、ユリウスの髪をなでた。
「――うそですね、それは」
 ユリウスは、弱々しくかぶりをふった。
「うそじゃありませんよ」
「いいえ、うそですね。――ああ、そうだ」
 ユリウスは小さく笑った。
「とってあげますよ、ほら」
「あッ――んんッ――」
「――やれやれ」
 ユリウスは無造作に、アルバートから引き抜いた淫具を部屋の隅に投げ捨てた。
「ちょっとおとなしくしていてくださいね。――きれいにするだけですから」
「あ――」
「――ばかばかしい」
 ユリウスは続けて、アルバートの秘所をぬぐった手拭を同じ場所に投げ捨てた。
「ああ――いまさらながら、私がやることというのは、どうしてこうも、やることなすこと何もかも、まるきり意味がないんだろう?」
「そんなことはありませんよ」
 アルバートは、ユリウスの胸に身を寄せた。
「あなたは、素晴らしいことをしたじゃありませんか」
「――例えば、どんな?」
「あの子達を、あんなにも幸せにしたじゃありませんか」
「――あれは単なる、私のお遊びです」
 ユリウスは乾いた声で言った。
「いつか言ったじゃないですか。私よりみじめな者達を見て、安心したかっただけだって」
「でも、あの子達は今、とても幸せですよ」
「――そうですか」
「――ユーリ」
 再びうつろな瞳に戻りかけたユリウスの髪を、アルバートはそっとなでた。
「もう、おねむなんでしょ?」
「ああ、アルさん」
 ユリウスは、クスンと苦笑した。
「おねむ、って、私はもう、子供じゃないんですから」
「え、あ、えっと、あの、す、すみません、つい、あの、その」
「別にかまいませんよ。気を悪くしたわけじゃありませんから」
 ユリウスはクスクスと笑った。
「そうですね――ええ。もう、眠ることにします」
「――」
 アルバートは、ただにっこりと微笑んだ。
「――明け方には、自分の部屋に戻るつもりですが」
 ユリウスの瞳が、不安げに揺らいだ。
「もし――もし、明け方になっても私が目覚めないか、それとも、様子が明らかにおかしかったりしたら、その――ヤトクとアウラを呼んで下さい。あの二人なら、なんとか出来るはずですから」
「私では――何も出来ませんか?」
「あなたでは、私の体を私の部屋まで引きずっていくことは出来ないでしょう?」
 ユリウスは、力なく笑った。
「自分の部屋に入れてもらえば――私はなんとか、領主のユリウスに戻ることが出来るんです。だから、ヤトクを呼んで下さい。ヤトクなら、私の体を担いでいくことが出来るから」
「――わかりました」
「――別に今夜は、あなたに何かをしたりはしません」
 服をいかにも邪魔くさそうに脱ぎ捨てながら、ユリウスは言った。
「ただ――ただ、肌と肌とをあわせていたいだけです。あなたにとっては――それもきっと、一種の苦痛に他ならないんでしょうけど」
「いいえ」
 アルバートはきっぱりと言った。
「それは喜びですよ、私にとって」
「――馬鹿だな、あなたは」
 ひどく疲れたように、ユリウスは言った。
「そんなことを言うから、私はあなたを逃がしてあげることがどんどん出来なくなっていくんですよ」
「ユーリ」
「――はい?」
「私があなたから逃げようとしたことがありますか?」
「――思いあたりませんね、今のところは」
「これからも、そんなことは起こりませんよ」
「――別に逃げてもいいですよ」
 ユリウスは、アルバートを見ずに言った。
「ただ――逃げるんだったら、完璧に逃げきって下さい。そうでないと――私はあなたを――」
「――逃げませんよ、私は」
「――アルさん」
 身にまとうものを全て脱ぎ捨てたユリウスは、子供のように細い声で言った。
「いいこいいこ、して。私はいいこじゃないけど――でも、だけど、いいこいいこ――して」
「あなたはいいこですよ」
 アルバートは、しっかりとユリウスを抱きしめた。
「あなたはいいこ、ほんとにいいこ。ほんとにほんとに、優しい子――」
「――それは私じゃないですよ」
「――大好きですよ、ユーリ」
「――ねえ」
「はい?」
「私は――誰?」
「――私の最愛の人ですよ」
「――よりも?」
「え?」
「――神よりも? 神様よりも――私のほうを、愛してくれる?」
「――ええ。神様よりも、あなたのほうが大切です」
「――あはは」
 低くかすれた声で、ユリウスは笑った。
「それじゃあなたも地獄行きだ」
「別にかまいません」
「――馬鹿だな、あなたは」
「馬鹿ですか?」
「ええ、馬鹿ですよ」
 クスクスと笑い。
「――ばーか」
 わずかに甘い声でそうつぶやき。
 アルバートの薄い胸に頬を寄せて。
 ユリウスは、コトリと眠りに落ちた。



 明け方。
 部屋に入ってきたのは。
 ヤトクと。
 アウラと。
 ――レティシア、だった。
「レ、レティシア様――」
 絶句するアルバートに、レティシアはにっこり微笑みかけた。
「あら、ユリウスはまだ寝ているの?」
「え――あ、ええ――は、はい――」
「わたしのせい――かしら?」
「え――」
「まあ、あんたのせいなんだろうな」
 再び絶句したアルバートに変わり、ヤトクがあっさりと言った。
 あっさりと。驚くほどに、平静な声で。
「ユリウスは昔っから、嫌なことがあると、長いこと眠るようになるんだ。このごろはずいぶん、眠りの量が少なくてすんでいたんだが」
「あら、そう」
 レティシアは、クスクスと笑った。
「悪いことしちゃったかしら?」
「ユリウスが本気で怒ってたら、あんた今頃、ここでこうして口きいてられないぞ」
 ヤトクはまた、あっさりと言った。
「あら、やだ」
 レティシアは、クスクス笑いを消さないまま、肩をすくめた。
「ユリウスって、そんなに我慢がきかない人なの?」
「ぎりぎりまで我慢する。そのかわり、いったん本気で怒ったら俺でも止められない」
 淡々と、ヤトクは言った。
「あら――そうなの」
『レティシア様が同情なんかしていたら、ユリウスは怒っていたかもしれないけど』
 アウラはさらさらと、石板に石筆を走らせた。
『レティシア様は、面白がったから。だからユリウスも、怒らないで、ただあきれただけなんだろうと思います』
「なるほど。――でも」
 レティシアは小首を傾げた。
「あれはいったい――誰、だったのかしら――?」
「――ユリウスは、あんたにあれを見せたのか」
 ヤトクの顔に、初めて驚きがあらわれた。
「あんたがみたのは、その――女の声で、っていうか、女の口調で喋るユリウスか?」
「え――ああ、たぶんそうだと思うけど――」
「――ユリウスは、あんたを好いちゃいないかもしれない」
 ヤトクの顔には、まだ驚きが残っていた。
「でも、ユリウスは――他人には、絶対に、ほんとに絶対に――あれを、見せない」
「――あら」
 レティシアの表情が、初めて揺れた。
「じゃあ、わたしは――ユリウスに、少しは気を許してもらったってことなのかしら?」
「どうだろうな。あんたがどうこう、じゃなくて、アルバートがいるからそこまで気を許したのかもしれないし。――でも」
 ヤトクの瞳に、不思議な光が浮かんでいた。
「あんた、なかなかたいしたもんだな」
「あら、ありがと。そんなふうにほめられたのって初めてよ」
 レティシアは、優雅に一礼した。
『ユリウスは――面白がられたことはないから』
 アウラが石筆を走らせる。
『わたし達は、ユリウスのことが大好きだけど、わたし達じゃ絶対に、ユリウスのことを、ユリウスの身に起こったことを、ユリウスが今やっていることを、面白がったりすることなんて出来ない。――痛いから。痛すぎるから。それがどんなに痛いか、それがどんなにつらいか、わたし達はよく――よく、わかっているから。おんなじ理由で、アルバートさんにもそんなことは出来ない。ユリウスを、愛することも、慰めることも、包み込むことも出来るけど、面白がるなんてこと、絶対に出来ない。ヤトクにも出来ない。ヤトクは、痛いのはわからないかもしれないけど、ヤトクは――ヤトクは、そういうたちじゃないから』
「あら」
 レティシアはおかしそうに笑った。
「なんだかわたしが、とんでもなく冷酷無情な人間だって言われてるみたい」
『――わたしには、まだ、あなたがどんな人なのか、きちんと判断することが出来ません』
 アウラの青い瞳が、レティシアの紅い瞳を見つめ。
 アウラの手は、石板に文字をつづり続ける。
『でも――あなたは、わたし達の誰もが出来なかったことをした。ユリウスのことを、今のこの状況を――面白がった』
「不謹慎よね、わたしって」
 レティシアはうそぶいた。
「でも、しょうがないじゃない。だって面白いんだから。わたしがわたしの屋敷で、いやになるくらい読んだ、文字に溺れて死んでしまうんじゃないかってくらい読み漁った、どんなつくりものの物語より、この屋敷で起こっていることのほうが、ずぅっと面白いんだから」
「――」
 アルバートは、ユリウスに向けるのと、ほんの少しだけ似たまなざしで、レティシアのことを見つめた。
「おじさん、怒ってる?」
 レティシアは、アルバートに向かって小首をかしげてみせた。
「――怒ってはいません」
 アルバートは静かにかぶりをふった。その唇に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「そう――ですね。私達では――私では、深刻になることしか出来ません。ヤトクさんやアウラさんも、みなさん、まだ、こういってはなんですが、みなさん、まだ、お小さいですからね。そんなことは荷が重いでしょう。でも――レティシア様なら、笑い飛ばす事が出来るんですね――」
 アルバートは、まっすぐにレティシアを見つめた。
「もしかしたらユリウス様には――そういうかたが、必要なのかもしれません――」
「あんまりわたしに期待しないで」
 不意に。
 レティシアは、どこかに憎しみさえをも感じさせるほど、恐ろしいほどに真面目な顔をした。
「だってわたしは、魔女だもの」
「期待しますよ、私は」
 アルバートはにっこりと笑った。
「ユリウス様に期待しているのとおんなじように」
「あら、じゃあ、わたしはおじさんを、もっととんでもない、もっとどろどろした、もっとおぞましい、もっと恥ずかしい運命の中に引きずり込んであげなくちゃ」
 レティシアはクスクスと、けいれんするように笑った。
「ユリウスったら、ほんとにぐっすり寝てるのね。ねえ、それって寝たふりじゃないの?」
「寝たふりではありませんね」
 アルバートは、かたわらのユリウスの頬を、そっとなでた。
「少し疲れてしまったんでしょう、きっと」
「わたしのせいかしら?」
「そうではないと思いますよ」
「あら、わたしは、わたしのせいだって言って欲しかったのに」
「え? ええと――」
「おじさんってば、ほんとに余裕ね」
 レティシアは、ツンと、赤い唇をとがらせた。
「わたしのことなんて眼中にないってわけ?」
「え――?」
「だって」
 レティシアは、口をとがらせたまま言った。
「わたし達って、恋敵じゃない」
「――」
 アルバートは。
 にっこりと笑った。
 本当に。
 本当に――にっこりと。
「お――おじさん? ど――どうしたの? 何笑ってるの――?」
「レティシア様」
 アルバートの瞳は輝いた。
「あなたは、ユリウス様に、恋をしてくださるんですね」
「――そういう意味じゃないのよ」
 レティシアは、どこか弱々しく言った。
「おじさん、誤解しないで。わたしは――わたしはただ――面白がりたい、だけなんだから」
「それでもかまいませんよ」
 アルバートは、ひそりと笑った。
「少なくともあなたは――ユリウス様のことを、おぞましい化け物だとは、思わないでしょうから」
「――あら、思うかもよ、わたし」
「そんなことは、ないと思いますよ」
「あら、どうしてそんなことが言えるのよ?」
「おぞましい化け物のことを」
 アルバートは、じっとレティシアを見つめた。
「笑い飛ばしたり、からかったりできる人なんていませんよ」
「――いるかもよ」
 レティシアはそっぽを向いた。
「わたしがそういう人、なのかもよ?」
「――」
 アルバートは、黙って笑った。
「――それじゃ、連れてくぞ」
 ヤトクがユリウスを担ぎあげた。
 明け方の薄暗がり、それとも薄明かりの中で起きた、出来事、だった。



「――女は嫌いです」
 レティシアの、紅の瞳をまっすぐに見つめて、ユリウスは吐き捨てた。
「あら」
 レティシアは、まったく動ぜず小首を傾げた。
「どうして?」
「――子供を生むからです」
「――あら」
 レティシアは。
 面白そうな顔をした。
「それじゃああなたは、この世から人間が消え去ったほうがいいとでも思っているの?」
「――それも、悪くはないかもしれません」
 ユリウスは、ぼそりと言った。
「――ねえ、ユリウス」
 レティシアが指で差し招くと、侍女のサリナがレティシアのカップに紅茶を注ぐ。
「あなたはどうして、わたしにはそんなに正直にお話してくれるの?」
「――どういう意味です?」
 ユリウスは目をすがめた。
「言った通りの意味だけど?」
 レティシアは、軽く肩をすくめた。
「あなた、他の人にはもっと、ええと――いい子ちゃんなお顔を見せてるじゃない?」
「――馬鹿馬鹿しい」
 ユリウスは、苛立たしげに吐き捨てた。
「私があなたに正直な顔を見せているように見えるならね、それは――結婚してから素顔がばれるよりも、結婚する前に素顔を見せて、とっとと逃げかえってもらったほうが、傷つかずにすむからですよ――お互い」
「あら、優しいのね」
「――なんですって?」
「だって」
 レティシアは、ふと真顔になった。
「お互い、ってことは、わたしのことも、傷つけないように気を使ってくれたってことでしょ?」
「――結婚するべきではなかったんです」
 ユリウスの、目は。
 レティシアを、見ていなかった。
「父と、母は――結婚するべきではなかったんです」
「ねえ、ユリウス」
 レティシアが、舌舐めずりせんばかりの顔で身を乗り出した。
「うわさは本当なの?」
「――どんな事を聞いているんです?」
「あなたのほうが詳しいんじゃないの?」
「――くくくくくっ」
 ユリウスも、また。
 ひどく、楽しげに笑った。
「ええ、そのとおり。それに関しては、私が一番詳しいでしょうね。――この世の誰よりも!」
「――ねえ、ユリウス」
 レティシアは、にんまりと笑いながらユリウスに流し目を送った。
「わたし、別に――あなたが化け物だってかまわないのよ」
「――一応理由をうかがっておきましょうか」
 ユリウスは、小さく舌をならした。
「あなたはなぜ、私が化け物でもかまわないなどとおっしゃるのです?」
「だって」
 レティシアは、艶然と微笑んだ。
「あなたが聖人だっていうより、あなたが化け物でいてくれたほうが、わたしは退屈せずにすみそうなんだもの」
「――退屈、ですか」
 ユリウスの目に、黒い炎が宿った。
「ああ――私もぜひ、味わってみたいものですよ。あなたが言う、その、退屈とやらを――!」
「――本気で言ってるの?」
 レティシアの目が、スッと細まった。
「ねえ、ユリウス――あなた、本当の退屈ってものを知っているの? わたしは――わたしね、わたしの家で、わたしの屋敷で、何も、何も、何一つ、やらせてもらったことがないのよ? 誰もわたしに、何も期待しない。誰もわたしが、何か出来るだなんて思ってみることすらしない。わたしは、毎日、大きなお人形みたいに、ただ、ただ、部屋の中でじっとして、出来ることといったらただ、窓から外を眺めることと、屋敷にある本を読む事だけ。本だって、わたし、十二の時にはもう全部読んでしまっていたわ――」
「それはそれは」
 ユリウスは冷たく笑った。
「あなたはずいぶんと、早熟なお嬢さんだったようだ」
「ええ、そうよ」
 レティシアの瞳が、赤く燃えた。
「わたしは本当に早熟だった。あっという間に、本当に、びっくりするほどあっという間に、わたしの体は女の体になった。――びっくりしたわ、最初の頃は」
 レティシアの唇に浮かんだ笑みも、限りなく冷たかった。
「いつも、いつも、いつだって、わたしの事を、薄気味悪いものを見る、冷たい目で見ていた男の人達が、いきなりわたしの事を、びっくりするほど熱っぽい目で見つめだすんだもの。ああ、もちろん、わたし、そんなにたくさんの男の人を知ってるわけじゃ、ないんだけどね?」
「――それが面白かったから」
 ユリウスは、まぎれもない、冷たい嘲笑を浮かべた。
「手当たり次第にベッドに引きずり込んだ、と、そういうことですか?」
「ええそうよ」
 レティシアはあっさりと肯定した。
「ねえ、ユリウス――男の人って、たとえ化け物でも、その化け物が色っぽい女の姿をしていれば、ちゃんと欲情出来るものなの? ――面白かったわあ、本当に。わたしのことをいつも、化け物を見るような目で見ていた人達が、わたしがちょっとからかってやっただけで、鼻息を荒くしてわたしにのしかかってくるんですもの!」
「さっきも言ったでしょう」
 ユリウスはため息をついた。
「私は女が嫌いです。たとえ聖女だろうと化け物だろうと、それが女であるというだけで、私にとっては忌むべき存在です」
「あの子達は?」
「――え?」
「あの子達の中にだって、女の子はいるわよ」
 レティシアは、再び真顔になった。
「あなたはその子達の事も、化け物だって思っているの?」
「――家族ですから」
 ユリウスは。
 ひどく素直に、そう答えた。
「あの子達は――家族、ですから」
「――ねえ、ユリウス」
 レティシアの声が、火花を飛ばしそうなほどきつく張りつめた響きを帯びた。
「あなたのお母さんは――」
「レティシア」
 ユリウスは、指一本動かしたわけではない。
 ただ。
 レティシアは、氷の彫刻と化した。
「その女の事を二度と口に出すな。――死にたくなかったらな」
「――わたしを、殺すの?」
「いや、殺さないさ」
 ユリウスの瞳は、二つの暗いうつろだった。
「だって私はおまえの事を――ちっとも愛していないんだからな」
「――あら、そう」
 レティシアの瞳も、また。
 紅い二つの、うつろだった。
「だったら――ねえ、ユリウス」
「――なんでしょうか?」
「わたしがあなたを愛したら」
 レティシアの唇に、赤々と、笑みが浮かぶ。
「あなたはわたしを――殺して、くれる?」
「――馬鹿馬鹿しい」
 ユリウスの唇に浮かんだ笑みは。
 世界全てを凍りつかせるほど、冷え冷えと凍えきっていた。

我が罪に名をつけるなら

我が罪に名をつけるなら

青年領主×初老の修道士。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日
2013-08-16

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY
  1. 罪と罰と、それ以外と
  2. 魔女の到来、日常の揺らぎ