ショートユーキ

 小学二年生の女の子、有希(ゆき)が、親友のアキちゃんや家族と織りなす連作ショートストーリー。各章はそれぞれ独立したお話しになっています。

ママごと

「はい、お土産」
「あっ、パニクイッシュのケーキじゃん。高かったでしょ、これ?」
「そうでもないよ」
 ひとりパパを出迎えた有希は、受け取った箱の中身に気を取られながらも笑いを堪えるのに必死だった。
 平静を装いながら靴を脱いだパパが奥を気にしているのはバレバレだ。
「ママは?」
 そう、これが核心。
 有希は人差し指を立てた右手を頭の上に乗せた。もちろんケーキがなければツノは二本になる。
「ははぁ……」
 説得方法を考え中の困り顔。あまりに予想通りのリアクションを返すパパに有希は口元を押さえて俯いた。
 今日は結婚記念日。
 事前にあった電話に依ると、パパはどこかの会社の人を接待することになって帰るのが遅くなったらしい。
 受話器を置いたママの尖った口元は不機嫌な証拠。ママは記念日をとても大切にする人だった。
 だけどいい大人なんだからもう少し分別ってもんを持ってほしいと思う。
 これじゃパパがかわいそうだ。
 だって仕事なんだからしょうがないじゃない。
 そう言えば、いつだったかママはこんなことも言っていた。
「お酒を飲める”お仕事”なんていいわねぇ」
「相手を楽しませる酒が美味いわけないだろう?」反撃すると決まって喧嘩になるので、最近は言い訳するのも止めたらしいが、これまたひどい言われようだ。
 少し助け船を出してあげようか。
 しかしひと足先にリビングへ走った有希の顔はイマイチ親身に欠けていた。

「あら、お帰りなさい」
 スリッパの音を響かせながら重い腰を上げたママが玄関に向かう。
「遅くなって悪かったな」
「お仕事じゃ仕方ないわよ」
「本当は昨日の予定だったんだけどね……」
 胸を撫で下ろすパパの手前で、ママがちらりと後ろを振り返った。
 来るぞ来るぞ……。リビングから頭を突き出した有希の期待はいやが上にも膨らんだ。
 チュッ。
 きたぁ! 抱き合ったふたりの熱いキス。
 こうなると笑いは止まらない。
 声が聞こえたのか、頬を赤らめたふたりが振り向いた。
「まったく、あの子ったら……」
 お小言を食らうその前に有希は自分の部屋へと逃げ出した。

 ***

「……ふうん」
 ”ママ”から手を放したアキちゃんは、「こんなことするんだぁ」と感慨深げに呟いた。「ウチとは全然違うなぁ」
「喧嘩するとね、いっつもキスして仲直りするんだよ」
 ”パパ”が倒れるのも構わず、有希はお腹を抱えて笑い転げる。
「最近はそれがおかしくておかしくて……。どうしても吹き出しちゃうんだよね」
「ラブラブなんだね、有希ちゃんのパパとママ」
「でも普通、子供の前ではしないでしょ?」
「そうだね」
「こんな風にしっかり抱き合っちゃって…………」
 唐突に口を噤んだ有希を見て、振り返ったアキちゃんの顔から血の気が引いた。 

「おやつよ、二人とも……」
 お盆を差し出した黒い人影が見上げる二人を覆っていた。

占いごと

「今日のラッキーカラーは赤だから、こっちを履いて行きなさい」
 わざわざ抽斗から探し出した赤いスカートに肩を竦めると、「女の子のくせに、こういうの信じないの?」とまで言われてしまう。
 ママは占いが大好きで、しかもホントに信じてるから厄介なんだ。
「人にはそれぞれ得意なことや下手なことがあるの。だから世の中うまくいくんじゃない」いつだったか、友達の失敗を笑った有希に怒ったママの言葉。
 なのに、たくさんの人を生まれた月ごとに纏めちゃって、矛盾してると思わないのかな?
 そもそも同じ赤だって色々あるし、占いに頼って服を決める意味が分からない。
「チェック柄のミニがいいんだってば!」
「ダメダメ。今日だけはこっちにしなさい。絶対いいことあるんだから」
 二人の意見が対立すればどうなるか、有希にはよーく分かっていた。
「なんでそこまで拘るの?」
「……知りたい?」
 意味深な微笑みと梃子でも引かない強引さ。やっぱり有希は赤いスカートに足を通す羽目になっていた。

 ***

「あの、私、いつ頃結婚出来ますか?」
 勧められた椅子に腰を下ろした途端、口をついた言葉。
 唯一高価に見える一枚板の机を挟み、向かいにはスーツを着込んだ若い男性が微笑んでいる。
 成実が、このおどろおどろしい装飾が施された狭い個室に足を運ぶのはすでに四回目。
 ここには、水晶だの、星だの、姓名だの、いくつも並ぶ他の部屋とは違って”看板”がない。だから木目の美しい机にはこれといった小道具もなく、彼のまっすぐな眼差しが見通せた。
「それだけでよろしいですか?」
 一人の持ち時間は僅か十五分。
 占いも商売だから、お客を効率よく捌かないと成り立たないというわけだ。そんな裏事情を知りつつも足を向けてしまうのは、やはり性格的なものかもしれない。
 最初にここを選んだのは単なる偶然。だけど二度目以降は彼の”意見”を求めて訪れた。もちろん”当たる”ことが分かったから通っている。
「今日はそれだけで……」成実は俯きながら息を吐いた。
 今付き合っているカレとは随分会っていない。喧嘩したわけでもないのにデートの間隔があき、携帯でのやり取りもめっきり減った。
 確かに以前みたいなトキメキはなくなった。けど、それは付き合いが長いからであって、むしろ自然体で過ごせることが、この先同じ時間を共有するふたりには必要だと思っていた。
 そしてカレも同じように想ってくれた時こそ、ゴールの鐘が鳴り響くんだと……。
「分かりました。まずお顔をよく見せてくださいね。目を瞑って、自分が思う結婚までの流れを頭の中で想像してください」
 成実のおでこに右の掌を押し付けた占い師は、それから五分ほどひと言も口をきかず、質問さえしなかった。
「ちょっと立って頂けますか? そのままくるりとひと回りしてください」
 とても占いとは思えないやり取りは、自分を見定めるような奇妙な感覚。
 やがて着席した成実の前で天を仰いだ彼は、慎重に言葉を選んで話し掛けた。
「あなたは、今お付き合いしている男性と、遠くない時期に結ばれると信じていますよね?」
 瞳が見開かれたのは、もちろん驚いたから。
 でも御託宣の続きを聞いて、成実は言葉を失った。 
「カレとよく話し合って下さい」
「え?」
「カレには別に女の人がいます。つまり二股を掛けられているわけです。ご自分でも薄々察しておられるでしょう?」
「そんなこと……ないです」成実の語尾は掠れて消えた。
「まずは確かめましょう。もし間違っていたら、今日の代金はお返します。そしてあなたの未来を改めて占って差し上げます」
 
 ……一週間後。
 再び館を訪れた成実に、彼は開口一番こう言った。
「ご心痛、お察しします」と。
 沈痛な面持で扉を潜った成実を見れば、結果は誰であろうと想像出来たのかもしれない。でもそれすら彼の占い通りだった気がして、成実は少し怖くなった。
 占い師が言った通り、カレには別の女がいた。
 どっちを取るの? 私か、それとももう一人の女の方か? 結局、成実は沈黙したままのカレを切って捨てた。
「大丈夫ですよ。あなたには新しい未来が待っています」前回と同じように額に当てられた掌から、何か光を与えられた気がした。
 そして目元にハンカチを当て、鼻を啜る成実に、日時と有名な公園の名前が告げられる。
「そこで運命の人に出会うでしょう。大丈夫。あなたは必ず幸せになれますから」

 ***

「知らなかったなぁ」アキはあんぐりと口を開けた。
「……私も知らなかった」
「だって、いっつもスーツ姿だよね?」
「うん。”占いの館”っていう会社でね、今は”昇進”したから、普通のサラリーマンなんだって」答える有希にはイマイチいつもの元気がない。
「でもさ、最後のは占いじゃないよね? 単なるデートのお誘いだよね?」
「……だよねぇ」疑問符が付いて間延びした語尾。
 有希も、ママはいいように操られたんじゃないかと思っていた。
「パパはひと目惚れだったって言うんだけど……」
「でもさあ、結婚したんだから、”占い”は当たったんよだね」
「そう……なのかなぁ?」

 学校からの帰り道。有希は生まれて初めてラブレターを受け取った。
 待ち伏せしていたのは、クラスは違うけど顔だけは見覚えのある男の子。
「これ、読んで!」強引に押し付けられた手紙は、その時皺くちゃになった。
 呆然と立ち尽くす有希を残して、真っ赤な顔は元来た道を逆戻り。全力疾走する背中はあっという間に小さな点になっていた。 
 それはまだアキちゃんにも話していない、有希だけの秘密。
 私はどうしたらいいのかなぁ?
 淡い赤い封筒に詰め込まれた男の子の気持ち。綺麗に皺を伸ばしたその封を、有希はなかなか切れずにいた。

 ***

「ねぇ、あなた。有希の為に書いたラッキーカラーは当たったのかな?」
「どうだろうねぇ。でも多分いいことはあったと思うよ」

みごと

「ねぇ、ミラクルレディカード欲しくない? レアものを持ってるんだ」 
 見知らぬおじさんが声を掛けてきたのは、学校からの帰り道。その時有希はひとりだった。
「やだなぁ、おじさん。私、レディゴールド以外は持ってるもん。お店にだってないんだから」お店とはカードを売買する”ショップ”のことだ。
 しかしおじさんは怯むことなく、ポケットからカードの端だけをちらりと見せた。
「おおっ!」瞬間有希の目は釘付に。それはまさしくレディゴールド。おじさんの言葉は嘘じゃなかった。
 あまりに眩しすぎる後光に手を翳し、有希はごくりと唾を飲み込んだ。
「まさか、これをくれるっていうの?」
 しゃがみ込んで目線を合わせたおじさんは、取り出したカードを目の前に持ってくる。
 有希の視線はカードとおじさんを行ったり来たり。
 ああ、これさえあれば憧れのレディハウスが手に入る。
 ハウスが貰える。貰える。貰える……。ぐるぐると頭の中を巡る妄想が、意志に反して有希の右手を動かした。
「知らない人から物を貰ったり、一緒について行っちゃダメよ」幼稚園の頃から聞かされ続けたママの言葉が頭を過る。
 有希は誘惑を断ち切ろうと必死になった。でも堤防は決壊寸前、カードはそれほどまでに有希垂涎の代物だった。
「……おじさんの望みは何?」
 まずは相手の話しを聞いてみようじゃないか。断るのはそれからでも遅くない。
「一緒に子供のプレゼントを選んでほしいんだ。離婚して母親に引き取られた娘の誕生日が近いんだけど、何をあげたら喜んでくれるか分からなくてね」
 敢えて、「そのカードを贈ればいいじゃん」とは言わなかった。
「じゃあ、離ればなれなんだね」
「そうなんだ。今は別々に暮らしてる」
 ……かわいそう。有希はこの手のお話しに滅法弱い。
 人助けになって、しかもカードまで貰える夢のような申し出。
 だけど一人切りじゃ心細い。
「お友達も呼んでいいかな?」
「友達? 出来れば君に選んでほしんだ。どことなく娘に似ているんだよ」
「……私が?」
「そう」俯いたおじさんが鼻を啜る。
 瞬間、「任しといて」と胸を張った有希の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「ちょっと待ったぁ!」
 いきなり立ち上がったアキちゃんが有希の手を引いておじさんから引き離す。
「ああ、プレゼントが……。レディゴールドが……」有希の譫言を無視して、体育座りする生徒の並びまで逃げ果せたアキちゃんは、「ついてってどうするのよ?」とご立腹だ。
 おじさんも苦笑いしている。
「有希ちゃんには勇敢なお友達がいてよかったね」
 すると校庭が笑いに包まれた。
 小学校低学年を集めた、警察主催の不審者対策。
「いいですか? これは悪い例です。こんな風に誘われても絶対について行っちゃいけません」
「だって悪い人には見えなかったんだもん」それでも有希は言い張った。
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれないよね?」
「それは……そうだけど……」
 アキちゃんは項垂れた有希の手をようやく解放した。

 ***

「お、じ、さん」
 後片付けに追われる男の人は、実際にはおじさんと呼ばれるほどの年齢ではないのかもしれない。
「ああ、有希ちゃんとアキちゃんか。どうかしたの?」
 振り返った彼に、差し出された二つの手。でも彼にはその意味が分からなかったらしい。
「なかなかうまい演技だったでしょ? ”子供相手”に色々考えさせるように持っていくなんて、我ながらよく出来たと思ってるんだ」
 二つ並んだ掌は、そのままぴくりとも動かなかった。
 それでも彼は戸惑うばかり。やがて二人の顔から微笑みが消えた。
「……もしかして何にもないの?」
「え?」
「…………」
「…………」
 彼は二人の視線が自分のポケットに向けられていることにようやく気が付いた。

 ***

 ……数日後、有希の家に届けられた大きな荷物を、待ちわびた二人が見下ろしていた。
「開けちゃうよ」有希は段ボールに貼られたガムテープをベリベリと剥がし出す。
「早く早く!」
 そしてアキちゃんと一緒に取り出したキラキラの真新しいドールハウス。
 二人の瞳は、ついに憧れのレディハウスを捉えた。

隠しごと

「海斗ぉ、元気だったか?」
 よちよち歩きで玄関に現れたおチビちゃんは、最近歩き始めたばかりのアキちゃんの弟だ。
「ちょっと見ない間に大っきくなったな、お前」
 再会の抱擁を交わすと、いや一方的に抱き締めると、海斗は嬉しそうにキャッキャと笑った。
「ホントに有希ちゃんが好きなんだよなぁ。私より懐いてる気がする」
「まあまあ、アキはお姉ちゃんなんだから我慢しなさい」
「何よ、それ」
 実際海斗は有希にべったりだった。最初にしゃべった言葉も”ユキ”で、アキちゃんのパパが涙したという笑えないエピソードまであったりする。
 頬を膨らますアキちゃんを従えて、そのまま遠慮なしに上り込んだ有希の胸には、もちろん海斗が抱かれていた。
 リビングに入って行くと、事情を知るアキちゃんのママも苦笑い。
「有希ちゃんたら、お母さんみたいね」
「そう見える? なんか海斗を抱いてると、女の幸せを感じるんだよねぇ」
「まあ……」思わず口元を押さえるアキちゃんのママに、有希は首を傾げる。
「あたしも赤ちゃんが欲しいなぁ。だって、こんなにかわいいんだもん」
「有希ちゃんはそう言うけどさ、いつもいつも一緒にいるわけじゃないから、色々大変だってことが分からないんだよ」
「それは確かに……」生返事の傍らでこちょこちょと脇をくすぐり、ほっぺを突いてやると、その反応が面白くて堪らない。
 二人がリビングに居座り続けるのは、もちろん海斗から離れたくないからだった。
「はい、どうぞ」
 おやつに出されたのは、なんとショートケーキ。
 聞けば、もうすぐ海斗の誕生日だということで奮発したという。
 今度来る時はプレゼントを持ってこよう。
 何をあげたら喜ぶのかな? 候補の品を思い浮かべながら、まずはひと口。次いで手をばたつかせる海斗にもひと口あげる。
「おいしいねぇ」口の周りについたクリームを拭い、その指先をぺろりと舐めると、僕にもちょうだいってな感じで、有希の手を掴んでくる。
「子供の幸せもひしひしと感じるなぁ」
「有希ちゃんてば、なんかおばさんみたいな口調になってるよ」
「ほほほ。お紅茶にケーキなんて豪勢ざます」
 すると海斗が、「ぶぅー」とダメ出しをする。
「そんな風にしゃべる人ってホントにいるのかな?」
 顔を見合わせた二人は思わず吹き出した。
「いない、いない。絶対いないよ」
 笑い転げる二人の姿を、ひとり海斗だけがきょとんとした表情で眺めていた。

 ***

 ……時を遡ること一年前。
 二人が通うヨモギ小学校の教室では、算数の授業が行われていた。
 カツカツと音を立てながら、黒板に足し算の問題を書き終えた先生は、生徒に向き直って回答者を募った。
「誰かやってくれる人!」
「はいはいはいっ!」
 我先にと手を上げたのは有希とアキ。これはいつものお約束で、周りは完全に呆れ顔だ。
 勉強でも運動でも、とにかく先を争い、競争に明け暮れる二人は日々火花を散らす、クラス公認のライバル同士。当然あまり仲もよくない。
 それは先生も知れたもの。指さないと手を下げないので、二人は初めから当確だった。
「はーい、やり直しぃ」
 答えるのは早いが、揃って正解率の高くない困り者は、赤いチョークでペケが付けられると、頭を捻る姿までそっくりだった。
 そんな”戦い”は体育の授業で駆けっこしても、図工で絵を描いても変わらない。
 さして違わない優劣を競い合い、互いに負けまいとする気構えだけがカラ回りするような戦いの連続は、傍から見ればただの意地の張り合いにしか見えなかった。
 ちなみに二人のもっとも激しいぶつかり合いが見られたのは、共に通うスイミングスクールでのひと幕だ。
 隣り合うコースで、溺れているようにしか見えない手足の動きが飛沫を上げる。
 掻いても掻いてもなかなか前に進まない二人の、一ミリでも前に進もうとする心意気は立派だったが、やはりほとんど同じ場所で足をついてしまうのがお約束。
 それぞれの母親が困り顔で我が子を眺め、次に顔を見合わせてからスクールを後にするのが恒例だった。

 ***

「おーい、シロちゃーん」
「シーロー」
 何度呼んでもネコは姿を現わさない。
 一本だけの桜が枝を広げ、残りを草が覆い隠す空き地には、一匹のノラネコが住み着いていた。
 もちろんノラだから警戒心が強い。簡単には仲良くなれなかったけど、根気よくエサをあげ続ける内に、名前を呼べば目の前に出て来てくれるようになっていた。
 それがシロ。身体が真っ白だからそう名付けた。
「おかしいなぁ」どっか遊びに行ってるのかな?
 学校帰りに寄る時間は多少ブレがあるものの、太陽が傾く前と決まっている。
 有希は枯れ枝で草を突きながら、空地をぐるりとひと回りしてみた。
 どうやらいないみたいだ。諦めて帰ろうとした有希を待っていたのは、見知った赤いランドセル。
 それはアキだった。
 しかも彼女は両手にシロを抱えていた。
 赤い血がこびり付き、ぐったりと目を閉じたまま動かないシロ。
 アキの視線が、有希の手にあるお菓子の欠片を見詰めている。
 なるほどと有希は思った。エサをあげてたのは自分一人じゃなかったんだな、と。
 目が合っても、二人は黙って向かい合ってまま。
「……死んじゃったの?」
 ようやく口を開いた有希は、一歩前に出て小さな頭を撫でてみる。
「車に撥ねられちゃったみたい」
 身体はすでに冷たくなっていた。
 アキが涙を見せると、釣られたように有希も泣いた。
「お墓を作ってあげようよ」
「……そうだね」
 鼻を啜りながら、シャベルの代わりになりそうな板っ切れを拾い、有希は空き地の片隅に穴を掘り始める。
 しかし草の根が張った土はなかなか手強く、手が痛くなってギブアップ。アキにバトンタッチする。
「かわいそうにねぇ」
 受け取ったシロの亡骸を、有希はぎゅっと抱き締めた。
 懐くというほどではないにせよ、毎日のようにエサをあげていれば、かわいくないわけがない。
 その後もう一度交代し、穴を掘り終えた時には、二人共砂だらけになっていた。
 シロを横たえて土を盛り、木の小枝を墓標代わりに刺してから、辺りで摘んだ花を飾った。
 渡せなかったお菓子を置いて、手を合わせ、しばらくして二人は立ち上がる。
 でもこのまま背中を向けるのは、なんだか見捨てるようでなかなか足を踏み出せなかった。
「手が真っ黒になっちゃったね」
 頷く有希に、「ウチで洗っていきなよ」とアキが誘った。
 アキの家は空き地のすぐ傍にあるという。

 そうして、初めて”ライバル”の家に上がった有希を迎えたのが海斗だった。
「弟がいるんだね」
 廊下をはいはいする海斗を追うように現れた母親は、どうやら二人の”関係”を知っているらしく、ぺこりと頭を下げる有希を驚きの表情で迎えた。
「ダメだよ。手が汚れてるんだから」初対面なのに、なぜか海斗は自分に纏わり付いてくる。
 バンザイの形でおろおろする有希を見て、アキがぼそりと呟いた。
「海斗ったら、あなたのことが気に入ったみたいね」
 有希は妙に醒めた素っ気ない口調に驚き、母親は悲しそうな顔をする。
 母親に捕まった海斗がぐずり、洗面所へ案内するアキの後ろで泣き始めると、彼女はただただ重い溜息をついた。

 ***

「あんなに突っかかってた有希ちゃんと仲良しになるなんて、ホントに驚いちゃうわよね?」
 アキちゃんのママは時折海斗をあやしながら、成実に笑い掛けた。
「まったくねぇ。何が気に入らなかったんだか、この変わりようはどうなってんのかしらね?」
「でも、有希ちゃんには感謝してるのよ」
「そう? 生意気だから迷惑掛けてるでしょ?」
 首を横に振る彼女は少し俯き加減になる。
「アキはね、海斗が生まれてしばらくすると、弟を目の敵にするようになっちゃって。
 私を独占されたのが気に入らなかったのね。赤ちゃん返りとは違うのかもしれないけど、随分手を焼いたのよ」
「そんな風には見えなかったけどねぇ」
「有希ちゃんに当たったのも、それが原因だったのかもしれない。
 でも有希ちゃんが、海斗をかわいいかわいいって言って遊んでくれて、あの子の中で何かが変わったみたい。
 もしかしたら大事な弟を取られちゃうかもって、思ったのかもしれないけどね。
 とにかく、それから急に面倒みてくれるようになって、私にも普通に接してくれるようになったのよ」
 成実も、海斗と有希が”相思相愛”だという話しは聞いていた。
「でも、泳ぎは下手なままになっちゃったわね」
「ま、その内上達するでしょ」
 二人は顔を見合わせて笑い合う。
 ライバル同士でなくなった有希とアキ。仲よくなった二人からは競争がなくなり、今やすっかり馴れ合いの状態になっている。
「何にしても、お役に立っているなら嬉しいわ」
「ウチの子もそちらに入り浸ってるから、何かやらかしてない?」
「正直、色々とね」
「あらやだ。悪さしたら、じゃんじゃん叱ってくださいね」
 母親同士の立ち話しは、不穏な話題に移りつつあった。

 ***

 ……その頃、当の子供たちはあの空き地でお墓に手を合わせていた。
「シロは今頃どうしてるかなぁ?」
「天国で口紅塗って遊んでたりして」
 有希がアキちゃんの頭をペチと叩く。
「ねぇ、本当に大丈夫なの? 普段使ってるヤツじゃないから、すぐにはバレないと思うけどさぁ」アキちゃんは不安顔。
「宛てはあるから、それまでは何とかしてね」
「頑張るけど、自信ないなぁ」
 右を向くと、シロのお墓の隣りには同じ盛り上がりがいくつも並んでいる。
 有希が今日作ったばかりのお墓に花を手向けると、「それはいらないんじゃないかなぁ?」とアキちゃんが笑いを堪えた。
「ごめんなさい、口紅さん。そんなつもりはなかったのにポッキリ折れてしましました。
 悪気はなかったんです。どうかここで安らかにお眠りください」
「アーメン」
 ふたりは深々と頭を垂れた。

 有希が遊びに来ることは、決していいことばかりではないんだと、アキちゃんのママはまだ分かっていなかった。

寝ごと -天使で悪魔-


「ああ、そうなの? よかったわ」
 電話は、ただの過労だから明日にでも退院出来るという報告だった。
 入院したというおばあちゃんの様子を見る為にひと足先に出掛けたパパは、どうやら無事病院に着いて話しをしたらしい。
 すでに支度が済んで家を出ようとしていたママは、胸を撫で下ろすと同時に有希をどうしようかと迷い始めた。
 状況が分からないから家に残していくつもりだったけど、これから顔を出すか、それとも改めてお見舞いに行こうか悩んでいるのだ。
「本当にひとりでも大丈夫?」にこやかな有希とは対照的に、ママは明らかな心配顔。
「帰りは遅くなっちゃうかもしれない」
「大丈夫だって。もう二年生だよ。お留守番くらいひとりで出来るって」
 おばあちゃんが大丈夫となればひと安心。だったらママの背中をもうひと押ししなくっちゃ。

「いってらっしゃーい」
 結局出掛けること決め、急ぎ足で駅へ向かうママを見送ると、そこはパラダイス。家にパパもママもいない自由な時間が待っている。
 こんなに長い時間ひとりで過ごすのは、生まれて初めてかもしない。
 とにかくこれでお菓子は食べ放題。ちょっとくらい騒いでも怒る人は誰もいない。
 込み上げる嬉しさを抑え込み、早速アキちゃんを呼ぼうと受話器を上げた。
「ごめんね。熱が出て寝込んでるのよ」電話口に出たアキちゃんのママは特に慌てた風もなく、でも確実に有希のテンションを下げていた。
「お大事にぃ……」
 有希はがっかりし過ぎて棚からポテチを取り出した。
 せっかく気兼ねなしに遊べる千載一遇のチャンスなのに、何もこんな時に風邪をひかなくたっていいじゃない。
 リビングのソファに寝そべりながらのお行儀の悪い格好は、有希のせめてもの抗議の印。
 無心に手を伸ばし続けると、いつの間にか中身はカラになる。
 喉が渇いたので冷蔵庫にジュースを取りに行くと、テーブルには、夜ご飯用にと作り置きされたオムライスとサラダがラップに包まれていた。
 ひとりでもご飯くらいなんとかするのに……。
 とは思ったものの、果たして自分に何が作れるのかと考えてみると、カップ麺にお湯を注ぐくらいしか出来ないなと気が付いた。
 いや、冷凍庫にチンすれば食べられるものが何か入っているかもしれない。
 なんにしてもオムライスは大好物だ。ママが気を利かせてくれたんだなと思った。
 けど下を向けば、ジュースとポテチで膨れたお腹はポンポコリン。
 これはマズい。少し運動してカロリーを消費しなくっちゃ。
 今さら誰かを呼ぶのも億劫になり、有希は何か面白いものはないかと家の中を巡った。
 しかし住み慣れた家に、今更特別何があるわけもない。
 仕方なく夫婦の寝室を抜け、ベランダから下の道路を眺めていると、いつの間にか空は黒い雲に覆われていた。
 通りを行く人たちが、そろそろヤバいぞと帰宅を急いだのは正解で、見上げればぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
 有希が慌てて部屋に逃げ込んだ途端一気に激しくなった雨は、音を立てて窓ガラスを流れ落ちるほどの雨量になった。
 どっちにしろそろそろ暗くなる時間だ。有希は戸袋から重い雨戸を引き出して雨を防ぐことにする。
 サッシに鍵を掛ければ一丁上がり。他の部屋も閉めてしまおうかと振り返ると、そこには取り込れただけの洗濯物が山のようになっていた。
 これもやっといてあげるかな。
 こういう時に稼いだポイントは、きっと誕生日かクリスマスに還元される。いやらしい考えに基づいたお手伝いは、とてもやる気が出る。
 パパのトランクスの中を覗き、ママのブラジャーを胸に巻き、余計なことばかりしているのでちっとも捗らない。
 たかだか二日分の洗濯物を仕舞うだけも結構時間が掛かるもんだ。
 思うのは、ママのやってる家事は結構大変なんだな、ということだった。
 やっと全部が終わってベッドに引っ繰り返ると、そろそろお腹も減ってきた。 
「チャイムが鳴っても出なくていいから」ママはそう言ったが、結局誰も訪れることなく我が家にも夜が訪れた。
「ああ、なんか疲れちゃったなぁ」
 テレビを見ながら、ひとり切りの夕ご飯。
 向かいに誰もいない食卓は、結構寂しいもんだなと気が付いた。
 ママとのチャンネル争いも、お小言の応酬もない世界。
 ケチャップで文字を書いても、コメントはなし。零したら、自分でせっせと拭かないと誰もやってくれない。
 有希はなんだかいつもの調子が出なかった。
 強くなった風が雨戸を揺らすと、テレビの音しかない”静かな”家に一人ぼっちの自分が怖くなる。
 カタカタと鳴る雨戸。どこかで犬が鳴き、煽られて空き缶が転がる音が外に響いた。
 突然ガチャンと大きな音が響くと居ても立ってもいなれなくなり、有希は家中の電気を点けて回った。
「あははは。ヤダなぁ、もう……」
 壁の時計を見上げると、まだ八時。あれほど楽しく思えた”ひとり暮らし”なのに、すでに誰か帰ってこないかなと思う始末。
 いつもならこれから見たい番組が目白押しだというのに、テレビを見る気にもなれなかった。

 ***

 すっかり遅くなっちゃった。
 腕時計を見れば、すでに十一時を回っている。
 義母は点滴を受けるとすぐに元気を取り戻したが、夫は明日帰るというので、成実は先にお暇(いとま)することにした。
「ただいまぁ。有希、いないの?」
 玄関で靴を脱いだ成実は、静か過ぎる我が家に不安を覚えた。
 夜更かしが大好きな有希が寝ているとは思わなかったが、リビング、キッチン、トイレ、お風呂、そして有希の部屋、小さな身体はどこにもいない。
 慌てて残りの部屋を探した成実は、夫婦の寝室で毛布にくるまった娘を見付け、ほっと胸を撫で下ろした。
「意外に寂しがり屋なんだよね、この子」
 ぐっすりと眠る有紀は普段着のまま、お風呂にも入っていないようだ。
「ママァ」小さく呟いた寝言に、思わず頬ずりをしてしまう。
 このまま寝かせちゃおうか。そう思って抱き上げた有希の手から、ぽとりと何かが落ちた。
 屈もうとして無理だと悟った成実は、まず有紀を寝かし付け、次いでやり残した家事を片付けてしまおうとキッチンへ。そして家中をぐるりと回って、再び寝室に行き着いた。
 驚いたことにお皿が洗ってある。雨戸も閉まっている。さっきは気付かなかったが、ベランダから取り込んでそのままになっていた洗濯物まできちんと畳まれていた。
 畳み方はイマイチ雑だけど、それはご愛嬌。むしろここまで家のことをしてくれた娘に驚いていた。
 背の小さな有希が台に乗って流しに立ち、せっせと洗濯物を畳む姿を想像すると、その成長ぶりに涙が出そうになる。
 普段はいくら言っても手伝ってくれない子なのにね。
 あんまり上から目線でガミガミ言うより、黙ってやらせた方が、この子は伸びるのかもしれない。
 ベッドに腰掛けながら、成実はこれまでの接し方を反省していた。

 ***

 ふと目に入ったそれは、さっき床に落としてそのままになっていたものだ。
 拾い上げたのは白い封筒。しかも宛て名面には見覚えのある印刷があった。
「やっぱり……」中身を覗いて、成実はがっくりと頭を垂れる。
 なんであの子がこれを持ってるの?
 それは冷蔵庫の野菜室に隠してあったはずの成実ヘソクリ。
 さっきまで我が子の成長を喜んだ自分はどこへやら、健気だと思ったのはやっぱり錯覚だった。
 まったくひとりにすると碌なことをしない。
 僅か千円札十枚ほどのなけなしのお金。
 取り出してみると、中から一枚の紙切れがはらりと落ちた。
「口紅?」有希の”リクエスト”にはメーカーや色まで指定されている。「なんでこんなものを欲しがるんだろう?」
 疑惑は膨らむ。
 さては、また何かやらかしたな。

 せっかく稼いだポイントは帳消しに、隠していた悪事の数々が暴かれて、特大の雷が落とされることを、熟睡中の有希はまだ知らない。

頼みごと

「何、たそがれてんだよ」
 窓の縁に置いた腕に顎を乗せ、雅人はひとりぼうっと外を眺めている。
「なんか、空が綺麗だなぁとか思って」
「いつも通りの青い空じゃん。熱でもあるんじゃないの、お前」
 横から伸ばした掌を邪険に払い、お前にはこの美しさが分からないのかよ、とでもと言いたげな不満顔がこちらを向いた。
「なんだ、圭(けい)くんじゃない」
「あのな……」それじゃお前は、誰と話してるつもりだったんだ? 
 いつもはこんなとぼけたヤツじゃないのに、明らかに頭のネジが緩んでる気がする。
「ねぇ、ひとつ頼みごとがあるんだけどさ」
「やだよ」
「そんなこと言わないでさぁ」まだ内容も告げていないのに、断られる理不尽さ。
 でも縋るようにしなだれてくる雅人を見れば、イヤな予感がして一歩下がる気持ちも分からないではない。
「お願いだからさぁ」
「なんなんだよ、もう! ここんトコおかしいぞ、お前」
 やがて捕まった圭輔は、耳元でこそばゆいお願いごとを聞かされることになった。

 ***

「有希ちゃんて、どの人?」
 他の教室に入るのは勇気がいる。それでもわざわざやって来たのは、もちろん大事な用事があるからだ。
「あそこにいるよ。あの”シッポ”の子」指さす先は並ぶ机の最後部。そこで頭を寄せ合った数人が、何やらクスクスと肩を揺らしている。
「ちょっと呼んでもらえないかな?」
「いいよ」
 ドアの傍に座る男の子は、見知らぬ相手にも親切だった。
 つかつかと歩み寄った彼が、当のシッポの子とひと言二言やり取りすると、そこにいた全員の目がこちらを向いてびっくりする。
 明らかに冷やかされ、背中をバシバシ叩かれたシッポがムキになって言い返すと、「いいから、いいから」とニヤつく顔に背中を押し出された。
 雅人が熱を上げる”お相手”がどんな子なのか、その顔が見たいばかりに頼みを引き受けた圭輔は、実は単なる野次馬だった。でも野次馬はここにもいた。
「あなたって誰だっけ?」
 シッポさんはどこにでもいる普通の女の子という感じ。さっき見せた笑顔はちょっとかわいかったけど、到着した彼女は膨れっ面に変わっていた。
「悪いことしちゃったかな、僕」
「もう遅いわよ。で? なんの用なの?」
「雅人って知ってる?」
 それだけで有希の態度は変わった。どうやら何を目的でやって来たのか想像がついたらしい。
「もしかして返事を頼まれてきたの?」声は小さくなり、言葉遣いまで丁寧になっている。
「うん」
「……やっぱり」
 困り顔が赤く染まる。でも不思議と嬉しそうには見えなかった。
 だから今度は圭輔の方が顔を近付けて、声を潜めた。
「あいつはいいヤツだよ。でも、もしかしてあんまり乗り気じゃないとか?」
「手紙は嬉しかったけど、好きとか嫌いとかよく分からないし……。返事もなんて書いたらいいか悩んでる内にズルズルと、こう……」
「なるほろ」事情を察した圭輔は腕を組んで考え込んだ。
「ほんとはね、早く返事した方がいいのは分かってるんだけど……」
 歯切れの悪さと雅人の気持ち。天秤に掛けるのは忍びないけれど、こればっかりは仕方ない。
「来週遠足があるじゃない?」
「……うん」
 圭輔は耳元に顔を寄せると、有希にひとつの提案をした。

 ***

 日付は変わって、今日は遠足の日。
 バス二台に分かれて向かう先は、駅で言うと四つばかり先にある自然公園、ぐつぐつランドだ。
 花で飾られた日時計や咲き乱れる黄色が絨毯のように続く菜の花畑が有名で、大きな樹木に囲まれた運動場は芝生に覆われ、その脇にはウサギや子犬に触れられるコーナーも設けられている。
 遠足はいつでも実際に行くまでのワクワク感が堪らないもの。事前に”旅のしおり”を手渡たされれば、気分は一気に盛り上がる。
「三百円を超えたお菓子は没収ですか?」「バナナはおやつに入れてもいいんですか?」……なんて定番ギャグも今は昔。
「近くにコンビニはありますか?」今時の子供の感覚はちょっと違う。

「なぁに、あなたたち?」
 キス寸前だったカップルは、興味津々で見詰める八つの目に気付いて仰け反った。
 老若男女、たくさんの人たちが木陰にシートを広げ、お昼を食べたり、フリスビーやバドミントンをする賑やかな運動場。
 若い二人もシートに足を伸ばして寛いでいた。
「いやぁ、どんな感じなのかなぁって思って」有希は興味津々という感じで目を輝かせる。
「知りたい?」彼氏の方はお冠。でも女の人は怒るでもなく、気さくに話しをしてくれた。
「レモンの味がするって聞いたことない?」
「ホントにするの?」アキちゃんが身を乗り出すと、「もちろんよ」と彼女は頷いた。
「どうして、どうして? 酸っぱいから目を瞑ってるの?」
「違う違う」女の人は大笑い。
「女の子なら実際に体験してみなさいな」
 そこまで聞いた所で首根っこを捕まれた二人は振り返る。
「綾乃先生、いい所に。先生もキスはレモンの味がするの?」
「そんなことはどうでもいいの! もう集合時間過ぎてるんだから。みんな待ってるのよ」
 カップルに頭を下げさせて、先生に連行されて行く二人。そこに雅人と圭輔が付き添うように後をついて行く。
「まったく怖いものなしだな」圭輔が囁くと、「面白いだろ?」と雅人が肩を震わせた。

「実はさぁ、雅人は来月転校しちゃうんだ。だから手紙を書いたと思うんだよね」
「え?」顔を上げた有希に圭輔は続けた。「当たって砕けろ、みたいな感じ?」
「……そうなんだ」
「だからさ、最後に思い出を作ってあげてほしいんだ」
「圭輔くんて優しいんだね」
「そういうわけじゃないけど、笑ってバイバイする方がいいかなと思って……」
 圭輔は雅人の友達だけど、有希はまだそうじゃない。
「だからちょっとだけ協力してよ」
 圭輔の優しさに打たれた有希は、もちろん協力することにした。
 ただ協力といっても、じきに遠足だからそこで一緒に遊ぶだけ。
 顔を合わせるのは恥ずかしいけど、圭輔とアキちゃんが一緒なら、なんとかなりそうな気がした。

 ぐつぐつランドに到着すると、まずは一列に並んでお花畑に突入する。咲き乱れるイエロー一色の世界を行くと、しばらく見るものすべてが黄色く見える。
 ちょっとだけ摘んだ花を胸に、髪に。やがて行き着く広場で、太陽を浴びながらのお弁当。
 午後からは行きたい場所ごとにまとまって、動物に触ったり、広場で遊んだり、希望すれば牛の乳搾りだって出来た。
 有希たちが加わったのは”広場で遊ぶグループ”で、決められた範囲なら自由行動が許された。
 事前に決めた通り、有希とアキ、圭輔と雅人が顔合わせ。
 そして四人を含めて大勢で始まった鬼ごっこ。ジャンケンポンで鬼が決まると、芝生の上を賑やかな声が一斉に散った。
 キャーキャー言いながら鬼から逃げて、タッチされればキャーキャー言わせる側になる。
 やがて疲れて休憩タイム。お菓子もジュースも格別の味に変わっている。
「じゃーん」そこへ現れた雅人の手には緑色のバッタがいた。
「見て見て。捕まえちゃった」
 昆虫の苦手な有希は恐る恐るという感じで覗き込む。
「もしかして怖いの? 別に悪さしないよ」
 なるほど固い表面を撫でてみれば、足をバタバタするだけで大人しかった。
 その時雅人が指を放したのは、イタズラなのか事故なのか? いきなり飛び跳ねたバッタに驚いて尻餅をついた有希に、思わず全員が大爆笑。
「やったわね?」
「いや、あの。わざとじゃないってぇーー」声が間延びするのは逃げたから。
 背中を見せた雅人を追い掛け回せば、鬼ごっこの再開だ。
 追い掛けて、追い掛けて、息が切れると圭輔にバトンタッチ。
 そんなことを続けていると、わざとかどうかなんて、どうでもよくなった。

 有希は雅人のことが好きでも嫌いでもない。
 だから今はありのままを伝えるしかないけれど、今日一緒に遊べたことで雅人が喜んでくれたなら、それは有希にも嬉しいことだった。

 別れ際にそっと渡した手紙。
「返事が遅くなってごめんね」
 首を横に振る雅人には、圭輔が予め話しをしてくれたらしい。
「ばいばい」有希は遠ざかる背中に、声に出さずに手を振った。

 ……嬉し恥ずかしラブレターの事件簿は、こうしてひとまず終わりを告げたのだった。 

 ***

「ねぇ。有希の学年て、何組まであったっけ?」
「三組だよ」
 有希はおやつをパクつきながら答えた。
「やっぱり子供の数が減ってるのねぇ」
 ママに渡した”学校からのお便り”に、何が書いてあるのか有希は知らない。
「なんかあったの?」
「ミタラシ小学校って分かる?」
「ああ、団地の中にある学校でしょ?」
 それは雅人が転校する小学校。引越すといっても、実は隣の学区だった。
「そうそう。そこがね、来年廃校になって、ヨモギ小学校と合併するんだって」
「……へ?」言葉の意味を理解すると、有希の顔から血の気が引いた。
「それってミタラシの子供がヨモギに来るってこと?」
「そういうことね」
「…………」
「どうかしたの?」有希の大好きなチョコバイを持つ手が止まっている。
「ううん。何でもないよ」
 明らかに何でもなくない有希は、突然椅子を引くとダイニングを飛び出して行った。

「もしもし、圭輔くん?」
 電話口の相手が本人だと分かると、有希の声は大きくなった。
「あんた、知ってたでしょ?」
「何を?」
 突然掛かってきた電話。しかもいきなり怒鳴り散らす有希に圭輔は戸惑うばかりだった。
「ミタラシ小学校とヨモギ小学校がひとつになるってことよ!!」
「何言ってるの? そんなわけないじゃん」
 すると背後で誰かの声が圭輔を呼んだ。
「あんたの学年て、何組まであるんだっけ?」
「三組だよ」圭輔の声が遠ざかる。「今、電話してんだからさ」
「やっぱり子供の数が減ってるのねぇ」と続く光景はまさにデジャヴ。
「ごめんごめん。で? なんだっけ?」
「あんた、責任取りなさいよね!!」有希はそれだけ言うと電話を切った。

 返事の手紙には、圭輔に頼まれて”余計”な一文が追加されていた。
 隣の学区とはいえ、小学二年の有希にとっては別の県に越すのと変わらない。
 だから有希も納得して書いたのに。
 ”……もしかしたらいつか、I Love You” 願わくば、雅人がその意味に気付きませんように。

 ***

「どうしよう、ママ。有希ちゃんが責任取れって怒ってるんだ」
 それを聞いて、圭輔のウチが大混乱に陥った事実を有希は知らない。

帰り道の出来ごと -有希ちゃんミニストリー-

「蛙が帰るの。ゲーロゲロ♪」
 アキちゃんと声を揃えて歌うのは、昼休みに作った蛙の歌だ。途中で手に入れた青い猫じゃらしをタクト代わりに振りながら、二人はいつもと変わらぬ通学路を帰宅中。
「げ……」
 でも目に入るものは毎日違う。
 反対側からやって来るおばさんの連れに足は止まり、二人は固まって端に寄る。
 何事もなく目の前を通り過ぎたヤツが背中でワンとひと吠えすれば、一斉に「ギャッ」と叫んで走って逃げた。
「ああ、怖かった……」胸を撫で下ろす動作が揃うと、自然と笑いが込み上げる。
 犬は嫌いじゃないけれど、あんまり大きいのはかわいくない。どんなにいい子だと言われても、やっぱり有希は腰が引けた。
 すでに振り返っても姿は見えず、では歌の続きを、とタクトを上げたところで、今度は朋ちゃんのママに出会った。
「こんにちは」と挨拶すれば、すかさず「ちゃんと真っ直ぐ帰るのよ」と言われてしまう。
「寄り道なんて滅多にしないよ」
「”滅多に”でもしちゃダメなの」
 どうやらこれからスーパーにお買い物に行くらしい朋ちゃんのママは、そのまま「じゃあね」と手を振ってから、思い出したように手にぶら下げたビニール袋を有希たちに掲げて見せた。
「これ食べる?」
 中身はまだアツアツの鯛焼きだった。
 何でもちょっとしたお礼に渡そうと持参したものの、当人は不在。食べ物だけに置いてくるわけにもいかず、どうしようかと悩んでいたその矢先だという。
「ありがと!」
 手渡された袋から漂う香ばしい香り。とっくに過ぎたおやつの時間に、二人のお腹がググっと鳴った。
 そしてするなと言われれば寄り道をしたくなるのも人情というもの。食べながら帰るのでは、見咎められる恐れもある。
 二人は次の角を左へ曲がって、ちょっと遠回りすることにした。
 自転車でも擦れ違うのがやっとという細い小道は、両側の家からはみ出した枝が屋根のように覆って薄暗かった。
「こんなトコ初めて来た……」
「大っきい木だねぇ」
 左右の黒い板塀は高く、天井に蓋がされたここは、まさに自然のトンネルだった。
 見上げれば、茂った葉の隙間から差し込む光が路面に斑を描いている。そしてビームの中に塵が舞うチンダル現象が二人に不思議な世界を見せた。
 手を出せば掌に、互いの顔も斑になった小道を行けば、その先にはだだっ広い空地が待っていた。
「あらら、行き止まりだよ」
「でも、すっごい綺麗じゃん」
 地肌すべてが緑に覆われたそこは、青や黄色、ピンクの花が点々と咲いて、まだ見ぬ天国のようだった。
 アキちゃんは早速大好きな花を摘んでいる。
 有希は周囲をぐるりとひと回りしてから、どてっと叢に寝転っがった。
「いやぁ、たまには寄り道もいいもんだねぇ」
 遮るもののない青い空。そこにぷかぷかと浮かぶ白い雲が風に運ばれ行く様を眺めていると、突然にゅっとアキちゃんの頭が突き出した。
「これ、海斗にどうかな?」
「キレイキレイ」
 アキちゃんが握り締めた花束を、あいつが喜ぶかなと思いつつ、そう言えばまだ誕生日プレゼントを買っていなかったと思い出す。
「鯛焼き食べよ」
 勢いをつけて起き上がると、アキちゃんが髪についた葉っぱを落としてくれる。
 そして草の上にペタリと座り、二人はアンコの詰まった尾ひれに噛みついた。
「食べ終わったらさ、一緒に探してほしいものがあるんだけど」
 ”いいこと”を思い付いた有希は、アキちゃんに近付いてごにょごにょと耳打ちした。

 ***

「ただいまぁ」の声が同時に出ると、「なんで有希ちゃんまで”ただいま”なのよ」とアキちゃんに突っ込まれる。
「お邪魔しちゃいまーす」
 通い慣れた家の中、返事もないまま上り込んでリビングに顔を出すと、「あら、おかえりなさい」と顔を上げたのはアキちゃんのママ。
 残念ながら、海斗はその腕の中ですやすやと眠っていた。
「なんだ、寝てるのか。せっかくプレゼントを持ってきたのに」
 有希が手したビニール袋。中では小さなバッタがごそごそと動き回っている。
「捕まえたのも、袋に入れたのも私じゃない」アキちゃんは触るのが全然平気な人だった。
「……一応見付けたのは私ってことで、ね?」
 アキちゃんの主張はもっともだけど、今日のプレゼンターは譲ってもらいましょ。
 ただ声のトーンは下げたものの、これだけ賑やかになっても海斗は一向に目を覚まさない。
 有希はビニールをテーブルの上に置いてから、そっと顔を覗き込んだ。
 起きろぉ。起きろぉ。心の中で念じた有希のパワーは役立たず。結局、布団に寝かせることになった海斗を見送って、しょうがないかと肩を竦めた有希の目は点になった。
 縛り方が緩かったのか、開いた袋の縁に乗り、バッタは自由を得る寸前だった。
「こらっ! 出たらダメだって」
 両手で壁を作ったものの、有希は怖くて触れない。しかもこんな緊急事態にも関わらず、アキちゃんはランドセルを置きに行ったまま戻って来なかった。
「ああ、どうしよ、どうしよ」
 そして再び悪夢は訪れる。
 ピョンと飛び跳ねたバッタが描く放物線。その頂点の部分には、あろうことか有希の顔面が待ち受けていた。

「ぎゃーーーっ!」
 声に驚いたアキがリビングに駆け込むと、有希は床に大の字になってノビていた。
「どうしたの、ねぇ?」
 いくら身体を揺すってもぴくりとも動かない有希が怖くなり、アキはずるずると後ずさる。
「……有希ちゃんが死んじゃった」
 急にぽろぽろと溢れる涙。それはいつしか滝のように流れて落ちた。
「何泣いてるの、アキ?」
「有希ちゃんが……、有希ちゃんが死んじゃったよう」
 ひょいと顔を出した母親に、アキは譫言のように繰り返す。
 慌てて有希の脈を取り、傍らのビニール袋に目をやってから、「あんたはバッタを捕まえなさい」と言い付けたのは状況が理解出来たから。
 絨毯の上を跳ね回り、バッタは何度もガラスにアタックしているところだった。
「有希ちゃん、しっかりして」抱き起こした身体を思い切り揺すってみれば、瞬間ピンと背筋が伸びて、すぐに瞼が開かれた。
「気が付いた? どこか痛いところはない?」
 ソファに横たえられながら、「……バッタは?」と呟く有希の表情は蒼褪めていた。
「捕まえたから、もう大丈夫だよ」
 ビニール袋に閉じ込めたバッタをちらりと見せて、アキはそれを背中に隠して駆け寄った。
「死んじゃヤダよ」
「大袈裟だなぁ。ちょっとびっくりしただけだから心配ないって……」
 そんなにバッタが怖いのかなと思いつつ、有希がしゃべってくれてほっとする。と同時に遠足での光景がまざまざと蘇ってきた。
 あの時も相当驚いてたもんなぁ。
 それでも海斗の為なら頑張れた有希を、アキはちょっとだけ羨ましく感じてしまう。
 もし海斗がバッタを逃がしたら、結局同じような目に遭っただろうに、それでも喜ぶ顔が見たくて我慢したんだもの。

 ***

 ……もっとも有希の回復は早かった。
 怖い思いをした分を食べ物で取り返そうと言わんばかり。有希はたっぷりおやつをお腹に収めて、家に帰ることになった。

胃袋ごと

 遠足で乗ったバスの中、クラス全員から三百円を超えたお菓子を”没収”した先生は、明らかに機嫌が悪かった。
「わざとやったわね、あんたたち? こんなことして先生を太らせると後が怖いわよ」
 没収したお菓子の行き先が、先生のお腹と決まっている不思議はさて置いて、「なんで?」とバカな質問をした男の子が先生の下敷きになって悲鳴を上げる姿を目撃すれば、もはや説明など必要ない。
「ギブ、ギブ、ギブだってば!」
 床を叩いて負けを認める男の子が、トラウマにならなきゃいいなと思ったのは有希だけじゃないはずだ。
「分かった?」
 にやりと笑った先生の手にはしかし、しっかりとお菓子の袋が握られていた。

 ***

「先生、他のおウチでも色々出されて大変でしょ? だから無理しなくていいよ」
「無理?」
 リビングで向かい合う綾乃先生の前には、久々に登場したパニクイッシュのマロングラッセと紅茶が置かれていた。
 ……が、悲しいかな、有希の分は見当たらない。
 余計なことは言わないの! 先生から見えない位置でママの指が脇腹をギュッと抓った。
「痛いなぁ」有希が口を尖らせて振り返ると、「おほほほほ。遠慮なさらずにどうぞ」とママが愛想笑い。いないと思った”ざますオバサン”は、こんな身近にいた。
 ……しかも向かいにもうひとり。
 今日は家庭訪問の二日目。昨日回れなかった生徒、十五人が対象で、有希のウチはその五番目に当たっていた。
 実はアキちゃんと示し合せ、先生はマロンに目がないということにしてあった。
 濃厚なクリームが何とも言えないマロングラッセは、前回口にしてからずいぶんとご無沙汰。アキちゃんはまだ食べたことがないというので、ここぞとばかりにお勧めした。
 しかし三つ前のアキちゃんの家で、先生はものの十秒でマロンを飲み込んだという。
 残されたのは目の前にあるひとつだけ。ここは何としても踏み止まってもらわないと、せっかくの作戦も水の泡になってしまう。
 有希が固唾を飲んで成り行きを見守る、いやケーキを見守るその上で、澄まし顔のママと先生によるにこやかな会話が続いていた。
 もちろん話しは有希のコト。家での過ごし方、塾や習い事は忙しいか、勉強やお手伝いはしているか、エトセトラエトセトラ……。
 しかし時々相槌を求められる有希の視線は徐々に下向きに、いつしかケーキすら視界から外れて消えた。
 ママは容赦なく、有希の日常をありのままにしゃべってしまう。
 一人娘を大事に思うなら、少しくらい脚色するもんでしょ? 有希が俯いて大人しくしているのは、これ以上被害を広げない為だった。
 耳が痛い話しはしかし、そんなに長くは続かない。
 一軒一軒に時間を割いてしまっては、他の家を回り切れないのが、これ幸い。
 家の外では、この後訪れる予定の生徒たちが騒いで、先生の重い腰を持ち上げる役割を果たしてくれた。

 やがて無事に先生を送り出し、地獄から解放されてほっとするの束の間、お皿の上に残された銀紙を見て、有希は絶望する。
 先生の胃袋は強靭だった。憧れのマロンは跡形もなく、綺麗さっぱり消えていた。
 とほほ。有希の余計なひと言が先生の食欲に火をつけたのか。
 もしかして遠足の時に羽目を外した有希に対する仕返しか。……なんて穿(うが)った見方までする始末。 
 次回出会えるその日まで……。「さよなら」
 銀紙をクシャリと握り潰し、有希は肩を落として後片付けを始めた。

 ***

「綾乃先生は体調不良でお休みです」
 翌日の”朝の会”。代わりに教壇に立った教頭先生はなぜか多くを語らなかった。
 しかし噂は生徒の間を駆け巡る。
「昨日、食べ過ぎてうんうん唸ってるんだって……」
 どこから仕入れてきたんだか。でも言われてみれば納得出来る光景がいくつも浮かぶ。
 すらりと細い身体に美人顔。見た目は確かにおしとやかではあるものの、意外に砕けた性格で先生はとっても人気があった。
 でもその正体は?
 ……単なる食いしん坊だったというわけか。

駆けごと

「圭くん、カッコいい!」
 女の子の黄色い声援に振り向くと、圭輔が目の前を駆け抜けるところだった。
 二年生全員で行われた運動会の予行練習。”当日の進行はこんな感じ”を見せる、ただのデモンストレーションだったはずなのに、圭輔は一人圧倒的なスピードでゴールのテープを切っていた。
 足が速いんだなぁ。感心しながら眺める有希の思いは、遠足で一緒に遊んだ鬼ごっこへと舞い戻る。あの時も、息が切れた有希を何度か助けてくれたっけ。
 正直に言うと、有希はあんまり運動が得意じゃない。
 走るのも遅いし、鉄棒も未だに逆上がりが出来ないし、跳び箱も台の上に乗っかって飛び切れない。
 イジけるわけじゃないけれど、人よりちょっと鈍いのは自分でもよく分かっていた。

「ねぇ、パパ。運動会の日は忙しくないの?」
 何やら熱心に本を読み耽るパパは、顔も上げずに「任せなさい」と言い切った。「パパの撮影技術を駆使して、有希の華麗な姿を残してやるからな」
「そう……」
 見れば、手にしているのはカメラの取扱説明書。これじゃ期待は出来ないけれど、気合の入り方は半端じゃない。
 有希が幼稚園の時から買おう買おうとねだっては、ママに却下され続けたそれが、なんで今年に限って許されたのか?
 もしかしたらボーナスがたくさん出たのかもしれないけれど、とにかくこの間の日曜日、パパは念願のビデオカメラを手に入れた。
 運動会目前のこの時期に買ったんだから、初めから目的は決まっている。
 有希の気が重いのは、せっかくパパが張り切ってるのに、そこに映る自分がビリッケツじゃカッコ悪いなと思うから。
 けどいくら頑張っても他の子に抜かれちゃうんだから仕方がない。
 パパもそんな有希のことをよく分かっているはずなのに、「大丈夫、大丈夫」と自信満々なのはなぜなのか? それが慰めじゃないのはなんとなく分かったけれど、根拠のない期待は苦痛でしかなかった。
「苦手なものは誰にだってあるさ。パパだって足は速くないし。
 でも得意な人もいるだろう? そういう人は、どうして自分がうまく出来るのか、コツを知ってることもあるんだよ」
「ふうん」それはパパがくれたアドバイス。
 確かにおぎゃぁと生まれてすぐに跳び箱を飛べる人はいない。誰だって、こうすれば跳べるんだっていう何かを掴んだから、跳べるようになるんだろう。
 改めてそう言われると、有希が普段何気なくやっていることも同じなんだと気が付いた。
 パパの言葉には”含蓄”があったけれど、コト運動に関しては別問題。
 二年生が出場する種目は、五十メートル走と玉入れ、あとは選抜で借り物競争に出る人がいるけれど有希は選ばれていなかった。
 つまり有希がひとりで出場するのは、自ずと五十メートル走に限られた。

 オリンピックの表彰台でメダリストがするように、二位、三位の子と繋いだ手を掲げた圭輔が皆に向かって一礼すると、たくさんの拍手が乱れ飛ぶ。
「何やってんだ。順位別に旗の後ろに並ぶんだって教えただろ?」
 先生に怒られてもちっとも反省していない圭輔の姿を見る内に、有希はパパの言葉を思い出した。
 ポンと手を叩いた有希は、もちろん”貸し”があるのも忘れていない。
 これは返してもらう絶好の機会じゃない。
 そうして学校からの帰り道、有希はひとりで圭輔を待ち伏せすることにした。
 いつぞやの電話を思い出したのか、顔を見るなり逃げ出そうとしたその服をむんずと掴み、有希は引き摺るようにして公園に連れて行く。
 とても頼みごとをする態度には見えないけれど、アメ玉ひとつ渡して丸め込み、|さり気なく《。。。。。 》速く走れる秘訣を訊いてみた。
「なんでだろうなぁ? 昔から足だけは速いんだよね」
「すごいね」とは言われても、その秘密を探ろうとした人はいないらしく、圭輔はアメを転がしながら首を捻るばかり。
 あまりにがっかりな圭輔の答えに有希は肩を落として項垂れた。
 やっぱり素質のある人はいるんだよ。何も考えなくても、うまく出来る人は確かにいる。
 有希の深ぁい悩みごとなんか、圭輔には一生理解出来ないだろう。
 ははぁ……。いつもと違って妙に元気がない有希を、実は警戒しながら眺めていた圭輔は、ようやく質問の意味を悟ってしたり顔になる。
「ちょっと走って見せてよ」
「今、ここで?」
「そう。今ここで」
 仕方なくランドセルを下した有希は、言われた通りに圭輔の前を行ったり来たり。
「……こんな感じ」一応、有希は一生懸命走ったつもり。
 それに対して、「なるほろ」と呟いた圭輔は、天を仰いで何かを考え込んでいた。
「明日の放課後、ここに集合な」
「え?」
「じゃ、そういうことで……」
 呆気に取られる有希を残して、圭輔は家に帰ってしまった。

 ***

 最後の”五段ピラミッド”が潰れると、やんやの歓声と拍手が沸き起こる。
 トラックをぐるりと囲んだ生徒たち。その後ろにカメラを構えた父兄が犇(ひし)めき合って、今も盛んにシャッターを切っている。
 六年生による組体操が撤収すると、いよいよ有希の出番となった。
「次は二年生による五十メートル走です」
 軍艦マーチのリズムに合わせて団体のままスタート地点まで行進すると、途中でパパの姿がちらりと見えた。
 スケジュールは分刻み。早速鉄砲が鳴って、最初の八人が走り出す。
 軽く足踏み。有希はアキレス腱を伸ばしながら、前後に軽く腕を振る。
 やがて前に誰もいなくなると、トラック直線コースの端にあるゴールのテープがはっきり見えた。 
 さあ、行くぞ! 
「位置に付いてぇ!」とマイクの声。「用意!」パンッ!
 有希の身体は刷り込まれた動きを覚えていた。 
「少し前屈みな感じで、地面を思い切り蹴ってスタートするんだ。距離が短いから最初が肝心」
 圭輔は自分の走る姿と見比べて、その”違い”を教えてくれた。
 人に見られるのは恥ずかしい。公園から人気のない空き地に場所を移しての特訓は、姿勢、手足の動き、言われたことをひとつひとつ肝に銘じながらの反復練習。
 並んで走ってくれる圭輔はやっぱり余裕で速かったけど、走る姿が似てくると有希はとっても嬉しくなった。
 クラスの中でも華奢な身体。有希はとにかく足を動かした。前傾姿勢、歯を食いしばって腕を大きく振るのも忘れない。
 シッポ髪が左右に踊る。万年ビリの有希には全力疾走あるのみだ。
 周りを見る余裕なんかない。けれど少なくとも”前”には誰もいなかった。スタートダッシュがうまくいって、出だしは思いがけずトップの位置をキープした。
 でもすぐに二人が追い付いて、腕を振る姿が現れる。
 やっぱりダメか! 
「諦めんな!」放課後、何日も付き合ってくれた圭輔の声が飛んだ。
 ゴールの真ん前でパパがカメラを構えている。その横ではママが腕を上げている。
 テープを切ったのは三つの胸。
 同時にゴールを駆け抜けた三人は、判定で皆一等に認定された。
 圭輔と「やった、やった」のハイタッチ。
 怒られて、連れて行かれた一位の旗に並ぶのは、もちろん生まれて初めてだった。
 有希がVサインを掲げると、パパもママもVサイン。
 記念すべき有希の笑顔は、余すところなくカメラが記録していた。

 ***

 午前の部が終了すると、お昼休みが待っている。 
「どうしたの、これ?」
 敷かれたビニールシートでパパとママに合流すると、お弁当には|あの《。。 》マロングラッセが添えられていた。
「どう? 豪華でしょ。アキちゃんの分もあるから連れてらっしゃいな」
 どうやら家庭訪問での一件がバレたらしい。
 でもそんなことはどうでもいい。おにぎりを頬張って、ジュースを飲んで、締めのデザートはもちろんコレだ。
「おいしいなぁ。こんなにおいしいのは、なんでかなぁ?」
 勝敗に関係なく、”頑張ったで賞”ってことで買ってくれたはずのマロンには、最高のスパイスが掛けられていた。
「イェーイ!」 
 口についたクリームをぺろりと嘗める有希とアキちゃん、そして無理矢理引っぱって来た影の立役者、圭輔も加えて、三人揃った笑顔もパパのカメラに収まった。
 
 でも、なんでだろう?
 じゃれ合って、バカを言っては笑い転げる圭輔の顔を正面から見られなくなっていた。
 胸がどきどきする。でも一緒にいるとすっごく楽しい。
 有希はそんな不思議な気持ちに戸惑いながら、レンズの奥にちらりと目を走らせた。

 ***

「カメラのお金は、あなたのお小遣いからちょっとずつ引かせてもらうつもりだったけど、そんなコト言えなくなっちゃった」
「な? 買ってよかっただろう?」
「あなたってズルい人ねぇ」言葉とは裏腹に成実の表情は微妙に曇る。「どうりで意地でも引かないわけだ」
 でも成実の愚痴に対する返事は返ってこない。
「しまった……」
 画面に釘付けの夫から奪い取ったカメラには、圭輔くんと飛び上がって喜ぶ有希の姿が映っていた。

迷いごと

 梅雨の晴れ間の日曜日。強い日射しに気温が上がると、冷たいものに手が伸びる。
 駄菓子屋の店先でベンチに並ぶ三人は、ぶらぶらと足を揺して仲良くアイスを食べていた。
「ねぇ、これからあの噂を確かめに行ってみない?」言い出しっぺは朋ちゃんだった。
「うわはっへ、ううれいのこと?」
「そうそう、出るって噂の幽霊屋敷。この間テレビでもやってたよ」
 口に残ったアイスを飲み込むと、有希は”ハズレ”の棒をゴミ箱へと投げ入れた。
「でもさ、幽霊って昼間は寝てるでしょ?」
「だって、夜行ったら怖いじゃない」
「なんだそりゃ」
 朋ちゃんは臆病なくせにオカルトが好き。だから二人を誘うのは、ひとりじゃ心細いのだとすぐ分かる。
 もちろん有希もお化けが出るという廃墟のことは知っていた。
 なんでも昔、住んでた家族が首を吊って心中したという話し。地元のネタが出ると分かれば、番組を見逃すはずがない。
「今話題のスポットじゃんか。一緒に見に行こうよぉ」
 駄々っ子のような朋ちゃんの”熱弁”に絆(ほだ)されたわけじゃないけれど、有希の気持ちが傾いたのはやっぱり興味があったから。
 暗くなるまで遊んでいたら大目玉。だから自分たちだけで行くのなら、明るい今の内に行くしかない。もしかしたらサービス精神旺盛な幽霊が、ちらりと顔を出すかもしれない。
「どこにあるんだっけ?」そのひと言で朋ちゃんの表情は明るくなった。
「奥ミタラシのバス停から少し山の方に行くんだと思うよ」
「ふぅん」
 手を翳して空を見上げると、まだ太陽は真上にあった。
 アキちゃんの目が、「やめとこうよ」と言っている。「どうせ暇だしさ」と有希が返すと、その肩をひょいと竦めて諦めたらしかった。
 三人の自転車は道路の端に止めてある。
 行ってみますかね……。
 それがすべての始まりだった。

 ***

 よいしょよいしょと自転車を引いて歩く三人が、辿り着いたのは坂の上。
 キツい上り坂で一気に消耗した上に、そこで目にした光景に誰もががっかりと項垂れた。
 ……どこまで行っても何もない。  
「だからあれほど言ったじゃない。やっぱりこっちじゃないんだよ」口火を切ったのはアキちゃんだった。
「曲がればすぐだと思ったの!」
 言い訳は強がりだ。ホントは引き返せばよかったと後悔仕切り。アキちゃんの苛立ちがうつったように有希もイライラを隠せない。
 すでに陽は傾いて、空も青から赤味掛かった黒になり、地上は薄暗くなっていた。
 多分間違えたのは、枝分かれした細い道に入ってからだ。なんとなく寂しい雰囲気に引き寄せられて、こっちに行こうと決めたのは、誰でもない有希だった。
 幽霊屋敷はただの廃墟、当然道標なんかない。
 行けども行けどもテレビで見た建物は現れず、いつしか周りは背丈の高い草に覆われて、人っ子ひとり擦れ違わない見知らぬ異世界になっていた。
 風が吹くたびに擦れ合う葉の音が、ぞぞっと背筋を凍らせる。潜んだお化けがじっと見詰めているようで、三人は内心びくびくだった。
「どうしよう。このままじゃ真っ暗になちゃうよ」
「やっぱり引き返そう。そうすればバス通りに戻るでしょ?」
「せっかく上ったのに、また下りるの?」
 舗装が途切れた砂利道は、鬱蒼と茂る森へと続く。そこはすでに漆黒の闇。文句を言った当人でさえ、このまま先へ進む勇気はないはずだった。
 もし中で迷ってしまったら、家に帰れないかもしれない。
 意見が纏まらないのは、戻れる自信がないからだ。辿った道はうろ覚え。行くにも引くにも迷いが出ると、どうしったって足は動かない。
 何より三人はヘトヘトだった。
「少し休もうよ。私もう疲れちゃった」アキちゃんがまずギブアップ。
 残りの二人も賛同すると、大きな石を見付けた三人は、互いの背中を寄せ合うように座り込んだ。
 腰を下ろすと、どっと疲れが襲ってくる。とにかく喉がカラカラだった。
 自転車ならすぐに着くだろう。ちょっと覗いてすぐに帰るつもりだった三人は、アイスを食べてしまうと、すぐに自転車に跨った。
 元々遠出する気なんてなかったから、誰も携帯を持ってない。だから人に出会わなければ、道を尋ねることも、助けを求めることも出来なかった。
「喉が乾いたね」
「どっかに自販機がないかなぁ?」
「そんなのここにあるわけないじゃん」
 有希の何気ないひと言に、アキちゃんが引掛かった理由は分からない。でも突然話題を変えた口調はとんがって、明らかに攻撃的になっていた。
「有希ちゃんさ。運動会前の何日か、なんで先に帰ったの?」
「……用事があるって言ったじゃない」
 背中合わせの会話は、ちょっとした動揺まで伝わってしまう。
「ウソばっかり。圭輔くんのこと、信じらんないとか言ってたくせに、いつの間にかあんなに仲よくなっちゃって」
「それは……、たまたま……」
「顔が赤くなってるよ」
 見えるはずのない顔色を指摘された途端、有希の中で何かが破裂した。
 立ち上がった二人の口喧嘩は、すぐに掴み合いの揉み合いに。
「なんでそんなこと言うの?」
「私だけ除け者にしちゃってさ」アキちゃんの瞳が潤んで揺れる。
「そんなことしてないし……」
「だったらなんで先に帰るのよ?」
「だから、違うんだって!」
「何が違うのよ!」
 アキちゃんの言うことは支離滅裂。そう思い込む理由も、今になって話しを持ち出す理由も分からなかった。
「やめなって!」間に割って入った朋ちゃんの目元はもう赤い。
 引き離されてしゃがみ込んだアキちゃんが声を上げて泣き出すと、有希の頭は一気に冷えた。
 なんで泣くの? なんでだよ? 
 釣られるように蹲る朋ちゃんまで涙を拭いた。
 もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。でも今は知恵を絞って帰り道を探さなきゃ。じゃないと、いつまで経っても帰れない。
 そうでしょ? 誰かそうだって言って! 思う傍から溢れた涙は止まらなかった。
 もう、どうしたらいいか分からない。分からないよ。
 それは堪え切れずに噴き出した不安が形になったものだった。

 ***

 結局揃って大泣きしている三人を、たまたま通り掛かったおばさんが助けてくれた。
 その時辺りは真っ暗け。おばさんは自分で耕す小さな畑作業に夢中になって、慌てて家に帰るところだった。
 周囲に人家はまったくない。そこで見付けてもらえたのは、本当に運がよかったらしい。
 泣きじゃくるそれぞれをあやして宥め、落ち着いたところで連絡を入れたおばさんは、まずは旦那さんに迎えを頼む。
 次いでそれぞれの家族と連絡を取ると、飛び出たママの金切声は思わず耳を塞ぐほど。背後の喧騒から察するに、”向こう”は大騒ぎのようだった。
 助かってほっとしたのは僅かな時間、有希は特大の雷を覚悟する。
 やがて闇を照らすライトが近付くと、軽トラの荷台に自転車を、助手席に無理矢理三人を詰め込んで、乗り切れないおばさんはひとり荷台に腰掛ける。
「さあ、帰ろう」おじさんの陽気な声で出発すると、送ってくれるという駅前までは十分くらいで着くという。そんな近所で迷ったのかと恥ずかしくなるほどの距離だった。
 ただ夜の景色は昼とは違う。普段使っている道でさえ、違った顔で惑わせる。
 ラジオの音に包まれながら外を眺める三人は、ずっと黙ったままだった。
 ようやく家に帰れる喜びを素直に見せないその理由。それが疲れだけじゃないことは、誰もがよく分かっていた。

 ほどなく駅前に到着すると、見知ったたくさんの顔が出迎えた。それぞれの家族と近所の人に、綾乃先生の姿まで。
 車から三人が降り立つと、ざわめきと安堵の表情が広がった。
 汗と砂で汚れてはいたけれど、怪我をしたわけじゃない。血の滲んだ引掻き傷は喧嘩でついたものだった。
 ママに抱き締められた途端に気が抜けて、膝から力が抜け落ちる。
 髪を濡らすのは溢れた涙。ママに泣かれてしまうと、さすがの有希も落ち込んだ。 
「後日に改めてお礼に伺います。本当にありがとうございました」
 何度も頭を下げられたおじさんとおばさんは、騒ぎの大きさに驚きながら、照れ笑いするしかないようだった。
 引き上げた二人に続いて、近くを探してくれた人たちを巡って歩く。ママに、遅れて来たパパも加わって、有希の頭を下げさせた。
「よかった、よかった」誰もがそう言って笑うだけ。有希を責める人はいない。
 最後の綾乃先生も優しく頭を撫でてくれただけだった。
 誰にも怒られない不思議。有希が戸惑うのは当然だった。
 そぞろ歩いて家に向かうことになったのは、一通り挨拶が済んだから。
 みんな同じ方向なのに、アキちゃんとも朋ちゃんとも話せない。結局そのまま別れると、有希の心に刺さった棘が、再びチクリと痛み出す。
 道を間違えたのは有希なのに、ちゃんと謝っていなかった。 
 それに……。
 それにアキちゃんとの喧嘩もウヤムヤに。
 むしろ有希にはこちらの行方が心配だった。

 ***

 悪気なんかなかった。アキちゃんを嫌いになるはずもない。
 ただ、こっそり駆けっこの練習をするのが恥ずかしかった。まして圭輔と一緒だとは言えなかった。
 ラブレターの件はアキちゃんにだけ打ち明けてあった。
 圭輔が余計な入れ知恵をしたことも、それを有希が怒ったことも全部隠さず話してあった。
 だからなおさら言えなくなった。
 運動会前の十日ほど、アキちゃんを残して帰ったのはその為だ。
 嘘をついた。というか、詰まらない言い訳を繰り返す不自然を、アキちゃんが怪しんだのは当然だった。
 それは今考えるから分かること。
 それでもあんなに怒った理由は分からない。だって運動会が終わっても、アキちゃんは何も言わなかった。

 今もアキちゃんが特別一番の友達で、それは絶対に変わらない。
 明日、「ごめんね」って謝れば、許してくれるかな?
 このままアキちゃんが離れてしまったら、あまりにさみしいよ。
 あれだけ泣いたはずなのに、ベッドに潜っても滲んだ涙。それはアキちゃんがとっても大切だという証し。

 疲れているはずなのに、憂鬱な気持ちが有希を眠らせない。
 右へ左へと寝返りを打ちながら、ようやく眠りに就いた時には明け方近くになっていた。

散歩道の出来ごと

 行っては戻り、行っては戻る門の前。どうしてもチャイムを鳴らせない。
 あの日、帰ってすぐに熱を出し、外に出られるようになってまず足を向けたのが有希ちゃんの家。謝りに来たのにうろうろうしているだけなのは、拒絶される光景がチラつくからだ。
「何しに来たの?」とか言われたら、アキは一生立ち直れない。
 そんなアキがさらに三往復したところで、ガチャリと鳴った玄関扉。
 慌てて電柱の陰に隠れると、お腹をヘコませながら背伸びをして細くなる。
 コツコツと靴が移動しながら、門を開けて閉める音。でも足音は続かなかった。
「有希なら部屋にいるよ」
 ギクリとして、思わずよろけたアキの身体は丸見えに。
 バレてしまっては仕方ない。バツの悪さを必死に隠して、有希ちゃんのパパにご挨拶。
「こんにちは」やっぱり電柱は細過ぎた。
「お買い物の途中で、ちょっと通り掛かっただけだから……」
「アキちゃんは謹慎が解けたんだ」
「キンシン?」アキが首を傾げると、どこかでガタリと音が鳴る。
「いや、いいんだ。それより僕も買い物に行くんだけど、一緒に行っても構わないかな?」
 躊躇うアキを促したのは、「ちょっと付き合ってよ」という軽い言葉。
 奇妙な取り合わせに戸惑いながら、アキはほのかな憧れを抱くその人に駆け寄った。
「どこに行くの?」
「運動会の写真を受け取りにね」
「でもビデオカメラだったでしょ?」
「デジカメでも撮ったから、プリントしてもらったんだ」
「ふうん」
 運動会の話しは気が重い。だからアキの方から話題を変えた。
「昔、占いやってたってホントなの?」
「なんでそんなこと知ってるの?」と訊いた傍から「有希のヤツか……」と苦笑い。
「じゃ、ちょっとやってみせようか」
 そんなつもりはなかったのに、道端にしゃがみ込んで目と目を合わせ、おでこに掌が当てられる。
 もう熱は下がったよ。そう言い掛けて、こういうやり方なんだと思い出した。
「ふむふむ。何か大きな悩み事がありますね? それでとっても苦しんでる」
 聞いた途端にあとずさったのは、怖かったからに決まっている。
「驚かせたらゴメンね。でも大丈夫。アキちゃんが勇気を出せば、きっと何もかも解決するよ」
 それは少しだけ気持ちを楽にして、同時に背中を押す言葉。ぽんぽんと背中を叩く手は、エールを送るようだった。
 そしてテケテケと歩くこと十五分。駅前に到着すると、二人は揃って写真屋さんへ。
 用事は仕上がった物を受け取るだけだから、すぐに済む。
 本当ならここでお別れだけど、タイミングを失ったのはもう少し一緒にいたかったから。
 そんなアキを救ったのは、フルーツパーラーへのお誘いだった。
 照れながらこくりと頷くと、そこはレディファースト、扉を支える隙間からアキは店内へ滑り込む。
 しかし背中を追い続ける黒い影の存在に、二人は気付いていなかった。

 ***

「なんで私に買い物のこと訊かないの?」
「さあ、どうしてでしょう?」
 何でも頼んでいいよと言われれば、選ぶのはもちろんイチゴパフェ。
 頼んだものが届くまで、有希ちゃんのパパは仕上がったばかりの写真をテーブルの上に並べて見せた。
「よく撮れてるでしょ? アキちゃんが写ってるのは持って帰っていいからね」
「でも、これって有希ちゃんのでしょ?」
「ちゃんと多めに焼いてあるから大丈夫」そう言って笑う有希ちゃんのパパは、何でもお見通しのようだった。
「ところでさ……」急に声を潜めて指差す先は、有希ちゃんとハイタッチしている男の子。「圭輔くんどういう子?」
「どういうって?」
「優しいとか乱暴とか、女の子にもてるとか、そういうこと」
「そうだなぁ」アキはどう答えていいのか困ってしまう。
 喧嘩したのは、この圭輔が気に入らなかったから。でも有希ちゃんに知られたら、もっと話しがややこしくなる。
「誰にも言わないから、教えてよ」
 一瞬どきりとしたアキは、「有希ちゃんにも?」と確かめた。
「もちろんさ」
「じゃあ、話すけど……」
 アキはラブレターのことだけ伏せて、雅人の件を話してあげた。だから友達思いなんだろう。そして足が速いから、女の子にも結構もててるみたいと教えてあげる。
「敵は案外手強いなぁ。で? 彼氏は好きな人がいるのかな?」
「さあ? そこまでは知らないけどね」
 考えてみれば圭輔を嫌う理由はどこにもない。ただ有希ちゃんが自分から離れていきそうで、それがとっても怖かった。
 たかだか十日。しかもちゃんと戻って来てくれたのに、それでも心に残った蟠(わだかま)り。
 あの時、問い詰めちゃったのはなんでだろう?
 有希ちゃんが嘘をついて、隠れて何かしてるのは分かっていた。相手を知ると、一層やるせない気持ちが込み上げた。
 見捨てられた。そう感じてもだんまりを決め込んだのは、普通が普通でなくなるのを恐れたからだ。
 今は有希ちゃんが一緒にいて当たり前。
 それが我儘だと分かっていても、自分が有希ちゃんの一番でいたかった。
 だからこそ謝りたくて家の前まで行ったのに……。結局イヤな想像が渦巻いて、チャイムすら押せずにここにいる。
 待望のパフェが運ばれて、早速アイスをほじくるアキは、ちらりと向かいを窺った。
 ”圭輔に気がある有希ちゃんを、父親が心配するの図”って感じかな?
 同時に届いたコーヒーに時折口をつけながら、何やら物思いに耽る姿を見れば、アキと同志になれそうな気配が濃厚だ。
 でも同志になったところで、何をすればいいんだろう?  
 詰まらない考えに没頭していると、大きな音に釣られて目線は上に。見れば、有希ちゃんのパパが椅子ごと倒れそうになっている。
 そして道路に面したガラスには、有希ちゃんの顔と掌が三つべたりと張り付いていた。
「ずーるーいーなぁー」視線の先はアキのパフェ。
「ここで何してんだ。お前はまだ謹慎中だろ?」
 一応声が届いたらしく、有希ちゃんはあかんべぇをして走り去り、でもじきに戻って同じ姿勢で張り付いた。
 仕方なく有希ちゃんのパパが手招きすると、ドアを潜って神妙な顔がやって来る。
 隣に座ろうとすると有希ちゃんを、アキの横へ行くよう仕向ける理由は分からなかった。
 テーブルは四人掛け。席を譲れば、二人は並んで座ることになる。 
「二人っきりで何の話しをしてたのよ?」
「ひーみーつー」さっきの有希ちゃんの真似をして 対抗するのがとってもおかしい。
「何よ、私だけ仲間外れにしちゃってさ」
 有希ちゃんは言った傍からハッとする。一瞬手を止めたままのアキを見て、それでもすぐに顔は正面に向けられた。
「私もパフェが食べたいな。アキちゃんだけなんてズルいじゃない」
「食べると太るぞ」
「むむむ」
「太ると、もてなくなっちゃうぞ」
「もてたらすぐにお嫁にいっちゃうかもよ? ついでにかわいい女の子とイチャイチャしてたってママに言い付けちゃうからね」
 かわいい女の子ってアキのこと? 有希ちゃんのママに責められるのはちょっとつらい。 
「まったく口が達者だな」すでに口調は投げやりに。
「そりゃ、ママの子供だからね」
 こうして父親を打ちのめした有希ちゃんは、めでたくパフェをゲットした。

 ***

「先に向かいの本屋に行ってるから」
 写真を分けるよう言い付けて、支払いを済ませた有希ちゃんのパパは、「食べ終わったら一緒に帰ろうな」と付け加えてから店を出た。
 わざわざ二人を残していくのは、多分アキの為。
 改まって向かい合えば、素っ気なかった有希ちゃんもいつになくモジモジとらしくない。
「あの時はゴメンなさい」思い切って謝ると、「私もゴメンね」という返事。
「有希ちゃんは悪くないよ。だってさ……」
「いいよ、分かってるから……」
 有希ちゃんが笑ってくれると、あれほど悩んだすべてが消えた。
 うふふと笑い合えば、いつも通りの元通り。
 それでも、もう一度「ゴメンね」と謝ったのは、家を抜け出した有希ちゃんが叱られると思ったからだ。 
 不自然なやり取りが終わると、溶け始めたパフェに手が伸びる。
「有希ちゃんてば、パパに強気だね」話しはさっきの親子対決に。
「いいの、いいの。ママと喧嘩になったら助けてあげてるんだから」
「私ね、やっぱり有希ちゃんのパパってカッコいいなぁって思うんだよね」
「そうかな?」ちょっと照れる有希ちゃんを驚かせてあげようか?
「もしかしたら、好きになっちゃたかも……」
「へ?」アイスを頬張った有希ちゃんは青褪める。
「ダメダメダメ。いくらアキちゃんでもパパはあげないからね」
「ふぅん」
「ふぅんって何よ。絶対絶対ダメだからね」
「ま、しょうがないか」これでムキになる有希ちゃんへの”仕返し”は終わり。「それより写真をもらっていいの?」
「そうみたいだね」
 二人は再び写真を広げ出す。 

 知ってるよ、有希ちゃんがすごく嬉しかったって。写真にはすべてが映っている。
 私はそんな有希ちゃんにヤキモチ妬いたのかもしれないなぁ。

 ***

 二人が来るのを待っていた、有希ちゃんのパパが痺れを切らしたのはしょうがない。
 でもガラスに張り付く大人の人は、ちょっとカッコ悪かった。

森の中の出来ごと -冒険のオマケ話し-

 フルーツパーラーで| 偶然(。。 )アキちゃんに遭遇したのは水曜日。その日は”市民の日”で、学校はお休みだった。
 とにかく月、火と有希は頭を下げまくり。ママと一緒に学校へ行き、放課後は近所の家を巡ってのお詫び三昧。 
 クラスにも騒ぎは知れ渡っていて、どうにも居たたまれない時間を過ごす羽目になり、唯一朋ちゃんに謝れたことだけが救いという感じ。
 今考えるとアキちゃんは実にいいところで熱が出た。
 ともかく助けてもらったお礼をする為に、その家に出向いたのは週末、土曜日のことだった。

 ***

「先日は本当にありがとうございました」
「まあまあ、わざわざご丁寧に」
「ご迷惑をお掛けしまして……」
「大したことはしてませんから……」
 訪ねたおじさんの家は広かった。
 アキちゃんのパパが運転する大きなバンに乗せてもらったのは、ぞろぞろと車を連ねて行くのは迷惑だろうと相談し合った結果らしい。
 だけどこれならバラバラに来ても何の問題もなかったみたい。
 いくつもある太い幹が作る影、自宅の他に倉庫みたいな建物が二つあり、木登り、追い掛けっこ、かくれんぼ、そこには何をしようと自由に走り回れるだけの広いスペースが広がっていた。
 さっそく探検を始めようとした三人の首根っこは掴まれて、家に上げてもらって始まったのが挨拶の応酬だ。
「怪我もなかったことだし、よかったじゃないですか」
 そのひと言で締めようとしたおじさんの”企み”が呆気なく跳ね返されると、引き継いだおばさんがひとつの提案をした。
「じゃあ、お子さんたちにちょっと農作業を手伝ってもらいましょうか」
 どうやらそれでチャラにしましょうよ、ということらしい。
 
 ***

 一体何しに来たんだか……。
 三人を自慢の畑に連れ出したおばさんは、そこで野菜の収穫を手伝うよう言い付けた。
 真っ赤なトマトにキュウリやナス、ピーマンなどなど。自分の家で食べる為に作っているというそれは、どれも立派な実をたくさんつけていた。
「へぇ、こんな風になるんだね」
「このナス、超でっかい」
「キュウリがトゲトゲじゃんか」
 大騒ぎをしながら、鋏でヘタの部分をチョキンと切って、持参した籠の中へと入れていく。
「こんなに穫っても食べ切れないよ」
「いいからいいから。みんなのお家で食べなさい。おばさんの野菜はおいしいんだから」
「でもさ、お礼に来たのに、お土産もらうっていうのはいかがなものかい?」
「気にしなさんな。もう済んだことでしょう?」
 そうして籠に山となった野菜を抱えて戻る道。おばさんが運転する軽トラの荷台にしがみついて眺めるそこは、まさに迷子になった場所だった。
「あんたたち、お化け屋敷を見に来たんでしょ?」
 開けぱっなしの窓からおばさんが笑えば、「まぁねぇ。結局辿り着けなかったけど……」と返す言葉も風音に負けないように自然と大きな声になる。
「じゃ、ちょいとサービスしてあげようか」
 車は二又の道を家とは逆の方向に。
 そのまま走り続けると、遠くに見覚えのある建物が現れた。
 背後には森が迫って、近所にはまったく家がない。
 なんでこんなところに建てたんだろう? そこは本当に寂しい場所だった。
「はい、到着!」
 家の敷地に頭を突っ込んだ車は、自動販売機に当たる寸前、ギリギリセーフで停止した。
 三人が荷台から見上げると、確かにここのようだけど、幽霊屋敷の寂れた様子は微塵もない。しかも周囲にはロープが張られて、”警告”と書かれた看板まで立っていた。
「立ち入り禁止になったんだ」
「ずいぶん大勢来て騒いでいたからね。火事にでもなったら大変だって……」
「じゃあ、中には入れないんだね」
「入れるよ」
「なんで?」
「だって、ほら……」おばさんが取り出したのはジャラジャラと鳴る鍵の束。
「どういうこと?」
「実はこの家の管理を任されててね」
 ヒヒヒと笑うおばさんはとっても楽しそう。 
 ロープを潜って鍵を開けると、どこからか差し込んだ光で奥の方までぼんやり見える。
 靴を脱いで上がり込むと、家具がないせいかだだっ広い部屋はどこも綺麗で拍子抜け。
「幽霊は出そうもないね」
「これじゃただの建売住宅じゃん」
「家主さんが手を入れたばっかりだから。これならお化けが出るように見えないでしょ?」
「だからテレビと違うんだ……」
「ちょっとがっかり」
「でもさ、おばさんは幽霊見たことないの? 時々ここに来るんでしょ?」
「ああ、そうだねぇ……」
 イエスともノーとも答えないまま二階に上がったおばさんは、三人をひとつの部屋に導いた。
 そこは本当に真っ暗で、漆黒の闇に服の白がぼんやりと霞むだけ。
 そして少し掠れたその声がどうやら続きを聞かせてくれる。
「あれはいつ頃だったか、風を入れないと家が傷むから、雨戸を開けに来てたんだけど……」
「……だけど?」
「電気が止まってるから、暗くなると懐中電灯だけが頼りなの」
「…………」
「けど手が塞がっちゃうと不便でしょ? だからこうやって胸のポケットに入れるわけ」
 そこでカチリと音が鳴る。

 ***

「うぎゃーーー!!!」
 下から顔を照らす灯りは不安定でゆらゆら揺れる。それを外から見た人がいたわけだ。
 そう言えば、幽霊は滅多に顔を見せないってテレビでも言っていた。
 なんのことはない、騒動の元はおばさんを見間違えたのが噂になっただけだった。
 涙目になった三人の手を引いて車に戻ったおばさんは、ちょっとやり過ぎたことを反省中。
 みんなに一本ずつジュースを手渡しながら、コトの経緯を話してくれた。
 ちなみに自動販売機はおばさんの持ち物で、幽霊目当てにやって来る”お客”を当て込んで据え付けたものだという。
「もうちょっと長引くと思ったんだけど……」
 商売上手な”幽霊”の誤算。おばさんは人気の絶えた周囲をぐるりと見渡した。

秘めごと

「どうだった?」
 入るのは難しくても出るのは簡単。二人が隣りに寄り添えば、多分誰も怪しまない。
 作戦通りに校門を出て、駅へと向かう道すがら。
 有希は固唾を飲んで返事を待った。
「そうだなぁ……」スーツ姿の男の人は、見上げる熱い視線に困り顔。
 元々一方的なお誘いなのに、こうしてわざわざ来てくれたのは、気持ちが動いたからだと思いたかった。
 込めた願いが伝わるように瞬きすらしないのは、それだけ真剣だという証し。これはふたりだけの問題じゃないからだ。
「ああ、もう。分かったよ。そんな目で見ないでくれよ」
「ホントに?」降参、降参。そんなリアクションに念を押す。
「約束します」
「男に二言はないんだよね?」
 思わず噴き出した男の人は、それでもこくりと頷いた。
 本当ならこれで一件落着。手を取り合って喜べたはずなのに、そうならないのはアクデントがあったから。
「ねぇ、どうしてママと一緒じゃなかったの? だからあんなことになるんじゃない!」
「トイレに寄ってたら、ちょっとね……」と答える彼の歯切れもよろしくない。
「喧嘩になったりしないよね?」
 一番の心配は、先生がどう思ったかということ。
 自分たちはいくら叱られても構わない。けど、これで拗れてしまったらすべては台無し。明日から合わせる顔がない。
「意外に確信犯じゃないんだな。僕が行くって決めたんだから、気にしなくていいんだよ。
 彼女には悪いことしちゃったけど、”見学”出来てよかったと思ってるんだ」
 笑いを収めた彼の手が、塞ぎ込んだ二人の顔を上げさせる。
「でもさぁ……」
「心配するな」と被せた彼は、返信されたばかりのメールを見せた。
 ”あなたの驚かせることって、コレだったのね?”
 ”見付からないつもりで行ったのに、まさか入った途端にバッタリとはね”
 ”まったく。心臓が止まるかと思ったわよ。あとでじーっくり話しましょ”
「これって、やっぱり怒ってるんじゃ……」二人は顔を見合わせる。
「大丈夫だって。彼女が本当に怒った時は、そもそもメールが来ないんだ」
「へぇ」と声を揃えたら笑われた。
「あとでちゃんと報告してね」そうじゃないとご飯も喉を通らない。
 自宅の電話番号を伝えると、「ホントに大丈夫だから」と念を押した彼は立ち上がる。まだ仕事が残ってるので、ここでお別れするという。
「じゃあね。ありがと」
 手を振った彼の姿が見えなくなると、残された二人もトボトボと歩き出す。
 これからどんな展開になるんだろ? そう考えると、自然と口数は少なくなった。

 ***

「じゃあ、高橋くん、続きをお願いね」教科書を手にした先生は、生徒の間をゆっくり巡る。
 普段はパンツスタイルオンリーだけど、授業参観日の今日だけはホントに貴重なスカート姿。淡いブラウンのワンピースに白のかぎ網カーディガン。デザインはシンプルだけど、先生をとってもかわいく見せている。
 いつもは喧しい男の子たちがじっと大人しくしてるのは、後ろから目を光らせる怖い顔を恐れてるだけじゃないわけだ。
 先生が綺麗になったのは他にも理由があるけれど、それは絶対内緒。だからここでは言えません。
 さて、授業は国語。今は順番に教科書を読んでるところ。
 途中でつかえたら先生が助けてくれるけど、国語は大の得意科目、有希はスラスラとソツなく読んで、ママの小さな拍手を頂いた。
 このあとはグループでごとに纏まって”討論会”という流れ。みんなで感想を言い合って、最後に纏めたものを班長が発表することになっている。
 一度当たってしまえば、二度目はこない。有希は何度も後ろを振り返っては、ずらりと並ぶ顔ぶれを確かめた。
 そんな有希の頭にコツリときた拳骨はミステイク。気が付けば、向けた顔の反対側に先生が足を止めていた。
 訊きたいことには答えてくれず、ママの口は「バカ」と動くだけ。
 帰ったら怒られちゃうなぁ、とは思ったけれど、ママがいるのに、肝心の人が現れない理由を思えば、出るのはやっぱり溜息だけだ。
 そこへ静かに引かれる扉の音が。
 二列向こうのアキちゃんが、身振り手振りで緊急事態を知らせる顔は引き攣って、見上げれば、固まった綾乃先生のその手から今にも教科書が落ちそうになっている。
「高くん、読み終わったよ」小さな声で囁いて、さらにお尻を突いてやると、ようやく我に返った視線がこちらを向いた。
「次の人、次の人」教科書を指差す有希の小さなウィンクに、先生が気付いたのは間違いない。
 急いで続きを読むよう言い付けて、教壇に戻った先生はひとつ大きく深呼吸。
 そして意を決したように顔を上げ、授業は元の軌道に乗っかった。

「先生、とってもかわいい」
「いつもと全然違うじゃん」
「失礼ねぇ。いつも通りでしょ?」綾乃先生は男の子をひと睨み。
「いいなぁ、私もこういうスケスケなの着てみたい」
 羽織ったカーディガンを触る手は、たった今黒板を消したばかりで粉まみれ。ちょっとだけがっかり顔になった先生は、時計にチラリと目を走らせてタイムリミットがきたのを知った。
「みんなゴメンね。これからお母さんたちとお話しがあるのよ」
 教室に残った生徒を追い出すと、さっき後ろ扉を出て行った彼の背中が映って消えた。
 授業に続いて、帰りの会も終わったところで、父兄も別室へと移動する。
 まさか懇談会に顔を出すとも思えないから、当然”下校”したことだろう。

 教室を飛び出した先生が廊下の角を曲がる姿を見届けてから、デコボコトリオの”ボコちゃん”が「そろそろ帰ろう」と他の二人を促した。

 ***

「綾乃せーんせ」
 声を掛けようとして躊躇ったのは、どこかいつもと違う雰囲気を感じたから。有希の本能が、「今は止めときな」と囁いた。
 |わけあり《。。。。 》じゃなく、こんな風にばったり会うのはもちろん初めて。学校では見たことのないぐっとシックな”装い”は、一瞬別人かと思ったほどだ。
 びっくりさせてやろうとそっと後ろから近付いたのは、駅前にあるファッションビル五階の通路。有希は子供服のお店、キラキラミルキーに向かうところだった。
 ママはまだひとつ下の階で込み合ったレジに並んでいる。なかなか順番がこないので、ひと足に先に抜け出して来たというわけ。
 それはさて置き、有希の判断は間違っていなかった。
 なぜなら先生には連れがいた。
 トイレから戻ったらしい男の人は紺色のスーツ姿。先生より頭半分ほど背が高い。
 しかし並んで歩き始めた二人の会話は、いきなり喧嘩ごしだった。
「どう? 考えてくれたかな? 先生を辞めて家庭に入るっていう話し」
「こんな時にする話題じゃないでしょう?」
「だって、ちっとも返事をくれないからさ」
「したじゃない!」足を止めた先生の声は一段大きくなる。「答えはノーだって」
 やっぱり恋人だったんだ。
 思い掛けない場面に遭遇した有希の耳はダンボのようになっている。
「担任はシンドいんだろ?」
「いつそんなこと言ったのよ?」
「そりゃ、口に出しては言わないけどさ、疲れてるのが分かるから……」
「勝手に決め付けないでくれる? 大体今はそういう時代じゃないでしょう? 仕事を続ける女の人は幾らでもいるじゃない」
「平行線だな。僕は綾乃の為を思って言ってるつもりなんだけど……」
「いい加減にして。私は辞めるつもりはありません!」
「結婚するつもりは?」
「それは……」
 言葉に詰まった先生は、怒ってそのまま背中を向けた。

「お待たせ、有希」先生のスカートが翻った瞬間、隣に置かれた紙袋。ひと息ついたママの目もどうやら同じ人を見た。
 そして駆け寄る男の人も……。
「恋人かしら?」
「……そうみたい」
「先生もスミに置けないわねぇ」とか「何もこんな近くでデートしなくてもいいのに」とか、ハンカチで額の汗を押さえるママは明らかに興味津々のご様子。
 なのに有希に対してだけは、「知らんぷりしてあげなさい」とご忠告。
「なんで?」
「学校で噂が広まると色々と困るものなの。絶対に言っちゃダメよ」
 そりゃ先生を困らせるつもりはないけれど……。
 急に黙り込んだ有希を見て、ママは何か誤解をしたらしい。
「少しは見て回ったの?」
 促されて”キラミル”に足を向けた時、何気なく振り返った有希の目にその人影が映ったのは偶然だった。

 ***

「綾乃先生、学校辞めたりしないよね?」
 二人だけになれたのは、集めたテスト用紙を職員室に運ぶ為だった。
「なんでそんなこと訊くの?」首を傾げながらも、先生はきっぱり否定する。
「なら、いいんだけど……」
 先生が嘘をつかないのは分かってる。しかも直接本人の口から聞いたのに、それでも不安はなくならない。
 有希が引掛っているのは、”担任がシンドい”という部分。
 迷子になって、先生がお休みの日まで呼び出されたのは誰のせい? 自分たちが綾乃先生を疲れさせたのかもしれない。そう思うと責任を感じてしまう。
 あの日、駅前で解散した先生は、待っていた誰かの車に乗り込んだ。男の人はそんなすべてを見て、知って、あんなことを言うのかもしれない。
 結婚とお仕事。秤に掛けたらどちらに傾くものなのか、有希の頭は勝手な想像を繰り返す。
 先生は怒ると怖いけど、普段はとっても優しくて、なんでも話せる食いしん坊。
 遠足の時だって、先生にあげる分をプラスしたからお菓子代が膨らんだ。抜き打ち検査であんなことになったのは”想定外”というヤツで、イタズラでやったわけじゃない。
 みんな先生が大好きなんだ。
 だからこそ有希はじっとしていられなかった。

 朋ちゃんを誘わなかったのは、口が滑ることが多いから。万が一にも話しが漏れたら大変なことになる。だからアキちゃんにだけ事情を明かして、二人で”説得”しに行った。
 自分の気持ちをありのままに訴えたものの、男の人は簡単には頷かない。
「君たちには関係ないでしょう?」結局はそういうこと。
 元々立ち聞き、大きなお世話。機嫌が悪くなったのは仕方がない。
 そうして落胆したまま背中を向けた帰り際。アキちゃんが口走ったひと言が、有希の脳ミソにビビッと電気を走らせた。
「見てもらえば分かるのに!」
 それだ! そうすれば、きっと分かってくれる。
 一途な思いは、間近に迫った授業参観へと向けられた。
 ただ、今時の学校はセキュリティにとっても敏感。保護者でもない人を校内に入れるには、どうしても相棒が必要だった。
「ちょっとお願いがあるんだけどな……」
「有希が下手に出る時は、絶対いいことないからなぁ」声色からしてどどめ色。ママは実に鋭かった。
 逃げ回るママをしつこく追い回すこと一時間。なんとかウンと言わせれば、”仮面夫婦”の出来上がり。
 アキちゃんには意味が違うと笑われたけど、釣り合わない”歳の差”はなんとかお化粧で誤魔化して、並んで登校してもらうことにした。
 授業を見学に来る人は結構多い。去年も教室の後ろはギューギュー詰めになっていた。
 だから誰かの後ろに隠れていれば、先生には見付からない。そう思って、あんまり気にしていなかった。

 ***

 ”キラミル”に足を向けた有希が振り向くと、綾乃先生を追ったはずの男の人が通路を戻って来るのが見えた。
 もしも外してあった名札を胸ポケットに挟む一瞬を見逃してたら、有希も諦めるしかなかったはずだ。

 ……そして。
 授業参観日当日、午後九時三十分。ルルルとベルが鳴り響く。
 電話の前に移動した椅子に座って待っていた、有希はすかさず受話器を取った。
 うんうんと頷くだけの短い会話。”おやすみなさい”の挨拶は、熟睡を約束する言葉になった。
 早速アキちゃんにも連絡を入れて、気にしてたママにも伝えると、「よかったね」と喜んでくれた。

 それはちょっとした運命のいたずら。
 そこに有希もアキちゃんも、そしてママも、組み込まれていたに違いない。

祭りごと

「アキちゃんさぁ、観察の宿題だけど、”海斗”にしてもいいかなぁ?」
「ダメです」ツレない返事に加えて、おでこにペチときて驚いた。「毎日一緒に遊ぼうと思ってるでしょ?」
「そんなんじゃないよ。立派なイケメンに育っていく様子をこう……」
「ひと月でそんなに大きくなるわけないじゃん」
「やっぱりダメかぁ。いいアイデアだと思ったのに」
「朝顔とかが”定番”でしょ?」
「それじゃちっとも面白くないよ。やっぱり最後に食べられるヤツがいいなぁ。スイカとかメロンとかさ」
「それって夏休みが終わっちゃうんじゃない?」
 なんでこんな話しをしてるかというと、今日で学校がおしまいだから。二学期制なので通信簿がない代わり、てんこ盛りの宿題やら課題が渡された。
 さすがに夏も本番で、日影を選んで歩いていても汗はダラダラ流れっぱなし。いくら下敷きで扇いだところで、顔に当たるのが熱風じゃ全然涼しくなりゃしない。
 有希が肝心な話しを忘れてたのも、ギラギラと照りつけるお日様のせいに違いない。
「そうそう、今度のヨモギのお祭り一緒に行こうよ」
「行く行く!」
 何を着てこうか? 何が食べたい? なんて、こういう話しは尽きることがない。  
「またねぇ」
 いつもの交差点でバイバイすれば、次に会うのはお祭りだ。
 あ、そうか。明日からラジオ体操があるんだった……。

 ***

「こんばんは」
 衣装に合わせておしとやかに頭を下げ合ったのは一瞬で、堪(こら)えきれない嬉しさが、すぐにいつもの自分に戻してしまう。
「どうかな?」まずはアキちゃんがくるりとひと回り。
「いい、いい。かわいいよ」
 いつもはセミロングの髪の毛をお団子に纏めてるとこまでそっくり同じ。まるで鏡に映った自分を褒めてるみたいで照れくさい。
 なぜなら二人の浴衣はお揃いで、花びら舞い散る生地に合わせた帯の桜も鮮やかに、普段と違って、ちょっぴり可憐な少女に変身させた。

 実はコレ、綾乃先生の彼氏さんからもらったプレゼント。
 なんでも正式に婚約が成立したということで、「結婚への”障害”を取り除いてくれたお礼」として、夏休み初日に届いたサプラズの品だった。
 ただ、ふたりが幸せになるのはいいことだけど、有希は自分の為に、クラスの為にやっただけ。ここまで感謝される理由が今ひとつピンとこなかった。
「要するに、これは綾乃先生の気持ちなの。結婚もお仕事も出来て一番喜んでるのは先生だったってわけね。
 だけど有希の担任なのに、直接お礼は言えないでしょう?」 
 そんなママのお話しは、包装紙を破いた挙句、中身を広げて大はしゃぎしたあとだったけど、そういう”大人の事情”があったから、怒られなかったんだと思い付く。
 そう言えば浴衣を掴んだ時に頭に思い浮かんだのは、なぜか綾乃先生の顔だった。
 なんにしても夏休みに入ってすぐのお祭りは、待ち兼ねたイベントの一番手。きっと間に合うように届けてくれたに違いない。

「さぁ、行こう!」着るものが違うだけで、お出掛けがこんなにも楽しい。
 有希のは紫で、アキちゃんのは小豆色。色違いの巾着を左右に持って、手を繋いだ”双子”が駆け出す先は、お祭りの会場、ヨモギ小学校の校庭だ。
 近付けば、耳慣れた盆踊りの曲に合わせた太鼓の音がお腹に響くようになり、そこへ吸い寄せられるように大人も子供も集まって来る。
 いつもの校門には紅白の縞々ゲート。そこを潜れば、校庭のど真ん中に組まれた櫓から提灯の列が四方八方に伸びている。
 灯りに照らし出された会場は、踊る人、屋台を覗く人、おしゃべりを楽しむ人、とにかくどこも人でいっぱいだ。やっぱりお祭りはこうでなくっちゃいけない。
 当然周りをぐるりと囲む夜店はどこもかしこも大盛況。そんな中、二人がまず目指したのは綿あめのお店。
 円形の機械の中で割り箸を覆って太る白いふわふわは、お祭りでしかお目に掛かれない貴重品。お金を払って品物を受け取れば、さっそくビニールを外して舌を出す。
 甘い甘い白い綿。それを嘗め嘗め、他のお店を覗て行くと、夏休みに入って最初の土日は学校が終わって僅かに四日、なのに見知った顔に出会えば、どこか久しぶりという感じで声を交わす不思議な感じ。
「よっ! 二人とも久しぶり」
 そしてお約束を破らないのはやっぱり圭輔ならではというところ。
「何言ってんの? 昨日駅前で会ったじゃん」ママとスーパーに出掛けたら、ばったり会ったばっかりだ。
「そういうことは言わないの」
 相変わらずのおチャラ気キャラには、知らない二人の連れがいた。
 ひとりは同い年くらいの男の子。そして圭輔としっかと手を繋ぐ、ちょっとチビすけな女の子は、なかなかお似合いのカップルに見えなくもない。
「もしかして彼女?」アキちゃんが遠慮なしに冷やかしたのは、有希の為だったのかもしれない。
「ちゃう、ちゃう。麻衣ちゃんは昨日からウチに遊びに来てるんだ。パパの兄弟の子供だから、なんて言うの?」
「さあ?」と訊かれた男の子は素っ気ない。
「要するに親戚」
「親戚にしては仲いいじゃん」有希の殺気を感じるのか、麻衣ちゃんはべったりと圭輔の腕に縋り付く。
「女の子同士なんだから仲良くしようよ」人見知りなのか、怖いのか、いくら促されてもてんでダメ。結局、諦めた圭輔が、「ごめんな」と庇うのまでムカついた。
「いいよ、いいよ。ま、た、ね」
 足早に背中を向けた有希に追い付いたアキちゃんは、ニヤニヤしながらこちらを向いた。
「知ってる? 親戚とは結婚出来ないんだよ」
「むむむ」誰もそんなことは訊いてない。
 アキちゃんの頭をペチペチすると、「冗談だってば」と逃げ回るその顔は、やっぱり変わらず笑ったままだ。
 ああ、もう! なんでこんなにイライラするんだろ?
 麻衣ちゃんの顔が目の前にチラついて離れない。浴衣姿も見たはずなのに、ノーコメントなのにも腹が立つ。
「先に行かないでよ!」
 慣れない履物に後れを取ったアキちゃんの声には気付かない振りをした。

 ***

 両手が手ぶらだと気付いたのは、ヤキソバの香りに誘われて、順番待ちの列に並んだ時だった。
「アキちゃんが持ってるわけ、……ないよね?」見れば、手にしているのは小豆色だけ。「私、巾着どうしたっけ?」
「知らないよ。落としちゃったの?」
 圭輔と会った時には確かにあった。でもそのあとは? ……いくら思い出そうとしても記憶にない。
 中にはもらったお小遣いの他にも、携帯やら小物なんかが詰まっている。何より、せっかくの贈り物だった。
 もらってすぐに失くすなんて、なんてドジなんだ。
 慌てて列を抜け出すと、覗いたお店を思い出しながら、道筋を逆に辿って歩く。
 だけど”イモ洗い状態”の会場は、足元が暗くてよく見えない。アキちゃんに携帯を鳴らしてもらっても、盆踊りの音楽がドンドコ響き、同じような着信音が却って二人を惑わせた。
 誰かに持っていかれたか、どこか見えないところに隠れてるのか、念の為に綿あめのお店まで戻ったものの、結局巾着は見付からず、途方に暮れる有希の目にじわりと涙が込み上げる。
「もう一回探してみよう」アキちゃんの提案で、今度は二手に分かれることに。
 もしあるとすれば、屋台の隙間とか、ひと休みした木影とか……。さっきは見なかったところに頭を突っ込んで、有希は必死に目を凝らす。
 その間も出るのは溜息ばかり。楽しみにしてたお祭りなのに、こんなことになっちゃって、アキちゃんにも申し訳がない。
「あ、いたいた!」どっかで聞いた声だと思ったら、後ろに圭輔が立っていた。
「なぁに? 今忙しいの!」
「もしかしてコレ探してるの?」
 そっと両手で掲げたそれは、まさに紫の巾着袋。手渡されてじっくり見れば、やっぱり自分のものだった。
 しかしそこで有希の顔は青くなる。
「圭輔くんさ。もしかして中身見たりした?」
「うんにゃ」と恍けた返事の傍から、巾着がブルブルと震え出す。
「じゃあ、どうして私のだって分かったの?」
「さっき別れたところに落ちてたからさ」
「そっか……。なら、いいんだ」有希は心底ほっとする。「ありがと。もう、出てこないかと思ってた」
 圭輔の手をぎゅっと握り締めたのは、なんというか、感謝の気持ちがストレートに出ちゃったからだ。
「いいってコトよ」照れ隠しなのか、なぜか返事は江戸っ子調。そして解かれた手は、落ちそうになった巾着を支えてくれた。
「じゃあね、さっきの二人が待ってるからさ」そう言えば、圭輔はひとりきり。
 バイバイと手を上げた圭輔は、一瞬戻って髪についてた葉っぱを払い、最後の最後にもうひと言。「その浴衣、かわいいじゃん」圭輔は確かにそう言った。
 ”集合場所”に辿り着くまで有希の心はどこかに飛んで、息を切らして駆け付けたアキちゃんに肩を叩かれて、ようやくパチリと目が覚めた。
「なんだ、見付かったんなら電話してよ!」気が付けば、アキちゃんはいきなり不満顔。「しかも着信音鳴ってないし……」これを頼りに探してたのに、と今度はがっかり顔になる。
「ゴメンね。ホント見付かったばっかりで……」恥ずかし過ぎて、届けてくれた人の名前は明かせなかった。「ホントにゴメンね」
 アキちゃんを拝んだところで、ピヨと鳴く声がした。そしてしばらくすると、もう一度。
 彷徨った二人の視線が紫の巾着に集まると、途端にピヨピヨの大合唱が始まった。
「何なの、これ?」有希は恐る恐る紐を緩めて中を見た。
「……」
「……」
 そこにはなぜか黄色い羽毛のかわいいヤツがちょこんと座って、戸惑う二人を見上げていた。

 ***

「へぇ、今もお祭りにヒヨコがいるんだね」
 ウチに帰ってお披露目すると、パパもママもびっくり仰天。でも顔を見合わせる様子から、どうも歓迎されてはいないらしい。
「この子、すぐに大きくなるんでしょう?」
「三か月くらいで鳴き始めるかもしれないな」パパが薀蓄を披露する。
 もちろん鳴き声はコケコッコー。オスだから卵も産まないし、庭で飼ったらやっぱり近所迷惑かもしれない。
「学校で引き取ってくれないかしら?」確かに学校では鶏とウサギを飼っていた。
「登校日に先生に訊いてみるよ」

 そうして、しばらく”居候”することになったヒヨコ君。
 有希は飼育係に名乗りを上げて、まずは暖房付きの小さなお家をこさえて、餌を買う。
 囀りの音をそのまま名付けた”ピヨちゃん”は、毎日元気に餌を食べ、お祭りのヒヨコは長生きしないという”定説”を覆しそうなやんちゃぶり。
 今や、すっかり我が家のアイドルだ。

 ちなみにこのピヨちゃんが、観察の宿題の対象になったのはいうまでもない。
 さすがに食べようとは思わないけどね。

あとの祭りごと -お祭りのオマケ話し-

「あんた、最近電話ばっかり気にしてるけど、なんかあるの?」
 ママがテレビから目を離さずに話し掛けるのは珍しくないけれど、それは不意打ち。
 お昼ご飯のチャーハンを猛烈な勢いでかっこんでいた圭輔は、思わず咽てコップのジュースをがぶ飲みし、余計に咽せて、最後はママに背中を摩(さす)られた。
「そんなに慌てるところをみると、さては女の子だな?」
「違うよ。大体電話なんか気にしてないし」ようやくひと息ついたところで、再びスプーンでご飯を掬う。
「いつだったか、責任取れって怒ってた女の子じゃないわよね?」
 何も答えていないのに、ママはいきなり大笑い。笑い過ぎて涙まで流してる。「あんたって分かりやすいわねぇ」
 どこが? と思ったら、スプーンが空中で止まったままだった。
「なんだよ、もう!」頭にきたので何か言い返そうとしたけれど、なんにも言葉が浮かんでこない。
 だから口をきかずにさっさと食べて、とっととダイニングをあとにした。
 まったく、どうしてそういうコトになるんだろ?
 もちろん圭輔が気にしているのはヒヨコの方だ。
 お祭りから五日も経つのに、有希ちゃんはなんにも言ってこない。絶対怒って電話を掛けてくると思ったのに、”宛て”が外れて拍子抜け。……というより、気になって気になってしょうがない。
 昨日も友達と自転車で遊びに行った帰り道、ちょっと遠回りして家の前まで行ってみたけれど、結局誰とも行き会わず、もやもやした気持ちは晴れないままだ。
 もしかしたら死んじゃったのかもしれないな。
 でも、それならそれで何か言ってきそうなもんだけど……。

 普段、電話が鳴ればママが出る。だからその度に自分がしゃしゃり出るのは確かに怪しい。
 また何か言われる前にどうにかしよう。
 その日から圭輔はちょっぴり忙しくなった。

 ***

「あら、こんにちは。こんなところでどうしたの?」
 自転車での敵情視察も三回目。超のろのろ運転のまま家の二階を見上げていたら、箒を持って外に出て来た有希ちゃんのママに見付かった。
「有希に何かご用?」サドルから降りてペコリと挨拶した圭輔は、なぜか素直にイエスと言えずに口籠る。
「ちょっとママ、お鍋が噴いて、すごいことになってるよ!」そこへ玄関から頭を突き出したのは有希ちゃん本人。
 慌てて家の中へ駆け込んだ母親が何ごとか囁いてから姿を消すと、ひとりポツンと残された圭輔に大きな瞳が向けられた。
「よっ!」
「よっ、じゃないでしょ? 何か言いたいことがあるから来たんでしょ?」大人のサンダルを突っ掛けて表に出て来た有希ちゃんは、やっぱりすべてお見通し。
 咄嗟に謝ろうとした圭輔はしかし、そのまま引き摺られるように家の中へと連れ込まれ、廊下を進んで奥の和室に連行された。
 引き戸を開けた途端に声がして、目に入った黄色いヤツは今もとっても元気そう。段ボール製のおウチの中から、じっと”闖入者”を眺めてる。
 ……ただ、何かが違う。微妙に何かが違ってる。
「少しでっかくなった?」それは白状したのと同じこと。
「よく食べるからね、ピヨちゃんは」
「”ピヨちゃん”なんて、そのままじゃん」つい、いつもの調子でゲラゲラ笑い、自分の立場を思い出してハッとする。
 でも、気にせずさらりと流した有希ちゃんはヨチヨチ歩きを呼び寄せてから、”特等席”を譲ってくれた。
 斯くして、感動のご対面。圭輔のことを覚えているのか、いないのか。目の前に差し出した指先を無心に無邪気に追い回す。
 そっと背中を撫でてみれば、あの時と変わらずふわふわだった。
「これって、圭輔くんが買ったの?」
「ウン。つい目が合ったから買っちゃったけど、よくよく考えたらママは”毛”のある生き物がダメでさぁ。犬も猫も鳥も、とにかく傍にいるだけで蕁麻疹が出ちゃうっていうのを思い出したら、連れて帰るわけにもいかなくて……。
 団地でも小鳥だけは飼っていいんだけどね」
「ふぅん。でもさ、多分ヒヨコは”小鳥”じゃないよ」
「なんで? コイツも小さい鳥じゃない?」
 それでも「違うと思うなぁ」と笑った有希ちゃんは、巾着に閉じ込めたことをピヨちゃんに謝るよう言い付ける。
 圭輔が言われるままに頭を下げると、膨らんだ頬っぺは元通り。実はポーズだけだったんだと気が付いた。
「有希ちゃんは、その……怒ってないの?」 
「ああ……、まあね。今のところはかわいいし」そう言って横に並んだ有希ちゃんも、同じように指を出す。
「だけど大きくなったら学校に”寄付”する予定だから、そしたら圭輔くんも面倒みてね」
「そだね……」とは頷いたものの、実は”先”のことなんて考えてもいなかった。
 しかも学校にいるヤツがかなり凶暴なのを思い出し、途端に遠慮したい気持ちでいっぱいになる。
「それよりさ、圭輔くん嘘ついたでしょ?」有希ちゃんはなぜかこっちを見なかった。
「なんのこと?」
「巾着の中身は見てないって言ったよね?」
「見て……ないよ。そりゃヒヨコは入れたけど、それだけで……」
「見たでしょ?」急にとがった口が横を向くから、危うくチューしちゃうコトだった。
 ドキマギしながら互いにちょっと後ろへ引いても、じっと見詰める視線は動かない。
 ああ、もはやこれまでか。
「ゴメン。チラッと見ちゃった」
「やっぱり……」ほんのり赤く染まった顔は突然絶望色になる。
「プリクラの写真がいっぱいあったから、間違いないなって……」
「それだけ?」
「それ以外になんかあるの?」逆に訊き返したら、小さくなって俯いた。
「いいのいいの、それならいいんだ」
 ”いい”と言われれば、話しはおしまい。それ以上突っ込むわけにもいかず、結局何を気にしていたのか分からないままになる。
 女の子っていうのはホントによく分からない。怒ったかと思えば笑ってる。そして今はモジモジと|らしく《 。。。》ない有希ちゃんが、なんだかすごく不思議な生き物に見えてきた。
 まあ、いいか。
 ヒヨコは元気だし、”預けた”有希ちゃんも怒ってないなら万々歳。これでようやく安心出来る。
 横顔をちらりと見れば、明らかに上機嫌になった有希ちゃんが何やらごそごそとやっている。
「手を出して」再びこちらを向いた唇と、本日二度目のニアミス発生。
「顔が近いよ!」怖い目のまま圭輔の掌に餌を乗せ、ピヨちゃんの前に突き出した。
「うわ! やめて! くすぐったい。くすぐったいって!」
「大人しくしてないと、食べられないでしょ!」
 餌に向かってまっしぐら。食欲旺盛なピヨちゃんは圭輔のコトなんか目に入らない。
 嘴に突かれまくって悶える圭輔の横で、有希ちゃんはお腹を抱えて笑い転げていた。

 ***

 そろそろ夫も帰るだろうと夕飯の準備を始めたところ、有希が進んでお手伝い。珍しいこともあるもんだと思いつつ、ふと本当のトコロが知りたくなった。
「あんたって、あの子のことが好きなの?」
 テーブルにランチョンマットを敷いてから、お箸を並べた有希の顔。その驚いた顔だけがくるりとこちらに向けられた。
 びっくり眼(まなこ)は正直者だ。
「赤くなっちゃって、かぁわいい」思わずぎゅっと抱き締めちゃうと、抜け出した二本の腕がお尻をバンバン叩いて抗議する。
「何も怒ることないじゃない。人を好きになるのは悪いことじゃないよ」
「そういう問題じゃなぁい!」
「ゴメン、ゴメン。もう言わないから許してよ!」家の中を逃げ回る成実を見捨てて、有希はどこかに行ってしまう。
 悪いことしちゃったかな? 少々反省した成実が見付けたものは、まさにダメ押し。
 床に残されたそれを拾い上げようとした途端、出てったはずの有希が舞い戻り、成実を押し退けて回収すると、再び風のように去って行く。
 それはいつも肌身離さず持ってるピンクの手帳。ちょうど開いたページにあったのは、多分運動会で一緒に撮った切り抜き写真。
 やっぱり有希も女の子だなぁと思ったわけだ。
 まだまだ子供。圭輔くんも仲のいい友達のひとりだと思ってたけど、さっきバイバイする時に見せたなんとも切ない表情に、さすがの成実もビビっと感じるものがあった。
 恋する者の恋しい素顔。
 急にお手伝いする気になったのも、きっと関係があるんだろう。

「まったく、デリカシーってもんがないんだから!」
 機嫌を直してもらおうと部屋の前まで行った時、中から聞こえたひと言に、成実は思わず苦笑した。

夏の終わりの出来ごと

「ママ。プールに行ったのいつだっけ?」
 宿題をサボったツケがいつ来るか? それは当然、八月の末。
「いつだったかしら?」成実が恍ければ、有希は下手に出るしかない。
「ちゃんとお手伝いするからイジワルしないでよ」
「その日に書かないから忘れちゃうんでしょ?」
「分かったから、早く早く!」
 成実は家計簿兼ミニミニ日記帳をぱらりと捲って「五日ね」と答え、すぐ閉じる。
「映画に行った日のお天気は?」
「さあ、どうでしょ?」再びシラを切ると、途端に有希の頬が膨らんだ。
 ここまで勿体付けるのは、来年こそ計画的にやるように少しお灸を据える為。これじゃ去年とまったく同じ。まるで進歩というものがない。
 ちなみに今やっているのは絵日記で、十日以上描くのが”ノルマ”。それがまだ半分も終わっていなかった。
「ウソ書いちゃダメだからね」急に大人しくなった有希の考えることなどお見通し。
 ギクリと上目使いがこちらを向いて、消しゴムでゴシゴシやっている。
 まったく、ヘンな知恵ばっかりついちゃて。
 今は素直に直してるけど、早く終わらせることしか考えてないのは見え見えだ。
 本当はこんな風に手伝っちゃ、最後は助けてくれるという甘い考えから抜け出せないのは分かってるけど、そうもいかないのが悩ましい。
 ちゃんとやらせないと本人の為にならないし、”監督不行き届き”の烙印も押されてしまう二律背反の板挟み。
 しかし悩んだ結果はこの通り。朝から付き合ってるせいで朝食の食器もそのまま放置、床に掃除機すら掛けていない。
 成実は”ピヨちゃん”の観察記録を確認すると、「あとは何が残ってるんだっけ」と呟きながら課題一覧の紙を取り上げた。
 得意の読書感想文だけは済んでたし、ドリルはさっきようやく片付いた。
「工作って終わってるの?」
「まだ作ってる途中」有希は顔も上げずに、泳ぐ自分の姿に色を塗る。
 まあ、絵日記が終わればなんとかなるか。
 ようやく先に光が見えて、成実は心からほっとした。

 *** 

「ねぇ、有希。今夜何食べたい?」
「ハンバーグ!」いつも通りの即答に、成実は思わず苦笑する。訊いた私が間違ってたか。
「有希に訊くといっつもハンバーグになっちゃうからなぁ」
「いいじゃん。好きなんだもん」
「まあね。じゃ、ちょっと趣向を変えて豆腐ハンバーグといこうか」
「いいんじゃない」
 今夜のおかずはこれで決まった。答えてくれる相手がいると、夕飯を何にしようか悩んだ時は助かるものだ。
 本日のノルマを達成し、ささっと家事を済ませた二人は近所に買い物に出掛けることに。
 気温が高いせいなのか、自転車で並走する住宅街に人はなく、のんびりとペダルを漕いでも邪魔にはならない。
 スーパーに到着すると、まずは汗を拭き拭きクールダウン。
 カートは有希に任せて、店内を時計回りに一周するのが習慣だ。
 成実が必要なものを揃えつつ、|使えそうな《 。。。。。》特売品を吟味している間、有希が切れた牛乳なんかを調達するのが役割分担。
 しかしそこには常にリスクが付き纏う。 
 普段ならチェックを怠らないのに、今日に限ってついうっかり。|それ《 。。》に気が付いたのは、レジに並んだあとだった。
 買い忘れはないかとカゴの中身をひっくり返すと、見知らぬお菓子が現れた。
「返してらっしゃい」一番底に隠してあった緑の小箱を取り出すと、悪びれもせず有希はぺろりと舌を出す。
「やだよぉ。もうタイムアウトだもんね」
 振り返れば、売り場の中まで列が伸び、並び直したら時間が掛かるのは目に見えている。
「ママが全部食べちゃうからね」
「えぇ! せめて半分ずっこにしようよ」
 CMでやってたチョコレートの新製品。駄々っ子のように纏わり付く有希の狙いは初めから決まっていたらしい。
 そういえば、一昨日もこんなやり取りをしたような……。
 ここのところ有希は買い物に出る度くっついてきて、何かしらお菓子を買っている。
 以前はなんだかんだと理由を付けては留守番役を選んだくせに、まったく現金なものだと笑ってしまう。
 ようやく支払いが済んで、ビニール袋に品物を詰め始めると、有希はさっそく封を開け、綺麗に並んだチョコをひと摘まみ。
「ママもどうぞ」これで共犯と言わんばかり、デコボコの深緑を口に入れてもらうと、一気に抹茶の風味が広がった。
「むむむ。これはヒットかもしれない」
「確かになかなかいい感じ」
 間食はいけないと分かりつつ、ひとつ、もうひとつと手が伸びる。
 ついさっき「返してこい」と言った口はどこへやら、すっかり有希のペースに乗せられて、家に帰り着くまでに箱はカラになっていた。 

 ***

「あのさ……」
 帰宅して買ったものを整理していると、何を思ったか、有希が今夜のハンバーグを作ると言い出した。
「どうしたの、急に?」とは尋ねたものの、自ら進んで料理をしたいという気持ちに水を差すような真似はしない。
 時計を見れば、まだ夕食には早過ぎる。けど倍の時間は掛かると踏んで、さっそく台所に立つことにした。
 自分のエプロンを折り畳んで身に着けさせれば、そこはやっぱり女の子、なかなかかわいい姿になって、言われるままに材料を揃え出す。
 ざっと手順を教えてから、まずは玉ねぎを微塵切り。横について、目をしょぼつかせ、危なっかしい手付きの有希を指導しながら、包丁を動かしていく。
 ボールの中で豆腐を崩し、パン粉、挽肉、卵に調味料を加えて味付けしたら、次はこれを混ぜ合わせる作業に移る。
 台に乗ってボールを覗き込んだ有希は、奇妙な感触に悲鳴を上げながら塊を握り潰し、両手を使って捏ねくり回す。
「その手で他のもの触らないで!」思わず悲鳴。彷徨う有希の手首を掴んで止めると、「鼻が痒いのよ……」と忙しい。
「まったく世話が焼けるわね」苦笑しながら鼻をかいてやり、さっき刻んだ玉ねぎを加えてもうひと練り。ペースト状になったら成形だ。
「パパのはでっかくしてあげよう」トレイにひと掴み分を置いてから掌で潰し、目指すのは定番の楕円形。でも、どうもデコボコ、美しく仕上がらない。
「ちゃんと厚みを揃えないとうまく火が通らないよ」
「はいはい」素直な返事はいいけれど、手付きはどうみても粘土の工作。とても食べ物を扱ってる感じがしない。
「よし、出来上がり!」
 最後にちょっと真ん中をヘコませて並んだ完成品は、丸、丸、四角、三角と形はバラバラ。バラエティに富んでいるのはいいとしても、ひとつ余分に作り過ぎ。
「なんで四つ作ったの?」
「いいから、いいから」
 理由ははぐらかされてしまったが、成実の頭にはひとつの顔が。やる気満々の姿を見れば、思わず納得、それ以上の追及は控えることにした。
「うまく焼けるかなぁ?」形が不揃いだから少々不安。
 それでも熱したフライパンに油を回し、大きい順に少し時間差を付けて、四つの塊を移していく。
 ジュージューいいながら肉汁が広がって、焦げ目がついたらひっくり返す。
 フライ返しでペンペン叩く手を止めて、時々裏の様子を確かめながら、「オーケー」の合図を出せば、最後にお湯を加えて蒸し焼きに。
 一気に立ち上った水蒸気は蓋をして押さえ付け、あとは頃合いを見計らって火を止める。
 さて、出来はどうかな?

「じゃじゃーん」有希が効果音をつけてパパの前にお皿を置いた。「どう?」
「なかなかうまく出来てるじゃない」
 おろしポン酢に髭ネギをまぶした有希の”作品”は、レタスも添えて見た目も綺麗に仕上がっている。
「でしょ? でしょ?」有希は今にもスキップしそうな勢いだ。
「さあ、食べましょ」
 ご飯とお味噌汁にサラダを並べ終わったところで、「いただきます」
「有希の手料理が食べられるなんて幸せだなぁ」
 パパがさっそくお箸で四角いハンバーグを割って、まずはひと口。二度三度噛み締めてから、「うん、うまい」
 それを見届けた有希もパクリ。成実もパクリ。
「これは予想以上に美味しいじゃないですか」有希はもろ手を上げて自画自賛。
 その横でパパは涙を流さんばかりに感動してる。
 まったく親バカもここまでくると呆れちゃうけど、それは今に始まったことじゃなし。有希のやる気に繋がれば、それもまたよしというところ。

 でもそれがちょっぴりあとを引くことになる。

 ***

「いってらっしゃい」と送り出すのはひと月半ぶり。
 九月、最初の登校日。有希は意気揚々とアイスクリームなんかを入れる銀色の断熱バッグを手にして出掛けて行った。

 あの日、焼き上がった自分の分で”お試し”をした有希は、余分なひとつの表面を薄く削って目鼻を作り、パンダの顔を描き出す。
 横に僅かに飛び出た二つの突起が耳になり、これが意外にかわいく仕上がった。 
 さらに白いお皿の真ん中に”頭”を乗せて、海苔で作った”身体”と合体すると、笹を手にしたパンダの完成。
「うまいじゃない」と褒めたそれは、そのまま冷凍庫に保管されることになる。
 次回、日の目を見るのは、圭輔くんが遊びに来た時か。
 二人の微笑ましい場面を想像した成実が間違いに気付いたのは翌日だった。
「あんた、これを提出するつもりなの?」
「そうだよ。いけない?」
「だってコレ……、食べ物だよ?」
「どこにもダメって書いてないじゃない!」そう言って有希は課題一覧の紙を差し出した。
「それは……、そうだけどさぁ……」成実は一応”工作”の部分に目を通す。
「見てかわいいし、食べて美味しい。そんなのどこにもないでしょう?」
 残りの課題は工作だけ。進捗状況を確かめようとして見付けたのはお菓子の家になるはずの、牢屋の出来損ないだった。
 発泡スチロールの土台に十本ほどのポッキーが刺さっているだけの剣山みたいな代物は、本当はウエハースで壁と屋根をチョコレートで”糊付け”し、緑のごつごつしたチョコで庭に”植樹”するつもりだったという。
 しかし”材料”が揃う前に皆お腹の中へ消えてしまい、”柱”が立っただけで工事はストップ。その原因は他ならぬ成実にも思い当たる節がある。
 有希がハンバーグを作ると言い出したのは、これじゃダメだと考えた為らしい。

 まさか”工作”の提出物として学校に持って行くつもりだとは夢にも思わない。
 しかも最初に作った”料理”で思入れがある上に、パパに|これでもか《 。。。。。》と褒められまくった有希は、いくら説得しても聞き入れず、ついに成実も諦めた。
 ここまで頑固なら仕方がない。
 きっと綾乃先生に諭されて、さぞかし落ち込んで帰って来るに違いない。
 まあ、それもひとつの経験ということで、ここはペナルティ覚悟で目を瞑ることにした。
 工作がハンバーグ。
 それはちょっと大人にはない発想で、ほろ苦い夏休み明けになっちゃうかもしれないけれど、有希が一生懸命作ったものには違いない。
 その気持ちだけは忘れず汲んであげたいと思う。
 おっと、いけない。
 何か代わりの工作を考えないと……。成実はいくつか候補を思い浮かべる。
 初日の今日は金曜日。土日を使えばなんとか形になるだろう。
 ただ、お菓子の家だけは忘れてもらわないとなぁ。

ショートユーキ

ショートユーキ

小学二年生の女の子、有希(ゆき)が、親友のアキちゃんや家族と織りなす連作ショートストーリー。各章はそれぞれ独立した話しになっています。

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  • 中編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-16

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  2. 占いごと
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  12. 森の中の出来ごと -冒険のオマケ話し-
  13. 秘めごと
  14. 祭りごと
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  16. 夏の終わりの出来ごと