本日快晴にして気温高し

本日快晴にして気温高し

みち代の葬儀が終わって5日目の朝だった。
中学の夏休みの真ん中の日、朝からオレは川に鮎採りに出かけていた。父も大学生の長兄も戦争に取られていなかった。今日は夕方までにどれだけの鮎がとれるだろう。父が遺していった投網で朝から漁に出る。午後2時半には京都の料亭の使いが採った鮎の品定めにやってくる。大きい順に何匹かを買ってもらったら残りは持って帰って夕餉に供す。それが隣町の軍需工場への動員が無い日のオレの日課だった。小学生の弟と年端の行かない幼い妹。あいつらは不平ばかり云う。「今日もまたアユ?」贅沢云うなとまた彼らの頭をたたかなければならない。それも日課になっていた。

そうだ、隣家のみち代のところにもお裾分けしてやらなければ。みち代が死んでまだ初七日にもならない。おばさんは憔悴しきって何も食べないと聞いた。
みち代は幼なじみだった。物心ついた頃からいつも一緒にいたと思う。そして将来も多分一緒にいるんだろうなと漠然と考えていた。
「うち、しょうらいコウちゃんのおヨメさんになっちゃるほん」
そう云っていたのは小学校に上がるか上がらないかの頃だった。ずいぶんとませたことを言うと、今となってはおかしいが、それももう帰ってはこない日常の一つになってしまった。

川に出てそんなに時間が経たない頃だった。中学の班長のコジマが猛烈に自転車を漕いで近づいてきた。
「お〜い、お〜い、タッカセー」と100米も手前から大声で呼びかけていた。
そして自転車を降りると息を切らせて一気にしゃべった。
「今日昼前に学校に集まるよう通達があった。タカセは班内の3人に至急伝えてくれ」
「わかった」とオレは云った。鮎採りどころではなかった。これから昼までにいったい何キロ走らなければならないのだろう・・・・

正午直前に中学の校庭にゆくと既に大勢の生徒が集まっていた。朝礼台の上には既に一抱えもありそうな放送室の大きなラジオが備え付けられていた。馴染みのあるラジオだった。放送部員だったオレは、他の部員と交代で毎日定時の大本営発表をこのラジオで聞いては教員室に伝える役目だった。教員室のドアを開け「伝令!」と云うかけ声の後、教頭先生にその時々の軍部発表を伝える。それだけの役目だった。しかしオレにとってはこの簡単な作業が大の苦手だった。どういった訳か、敬礼が苦手でちゃんとできないのだ。教頭は意地の悪い目をして、何度も、「やり直し!」と云った。その度にオレは教員室のドアを開けるところからやり直さなければならなかった。

今日正午に、天皇陛下からなんらかの詔(みことのり)があるということは朝出かける前に家のラジオで知った。昨夜は政府の重大発表と云っていたものが、今朝になって天皇陛下からの直々の言葉であるという話だった。母は陛下のお声を聞くなんて畏れ多いと云っていた。「アユ採りの段取り次第では正午に帰ってくるよ」とオレは母に云ったが、本当は帰ってくる気はなかった。正直天皇陛下の声なんて聞きたくもないと思った。しかし当然口に出して云うべきことでもなかった。(興味ない!)とオレは心の中で云った。それが学校に呼び出されて全校生徒とともに聞くこととなった。

放送が始まる前に校長先生から訓示があった。
「本日畏(かしこ)くも天皇陛下から我々国民に対して直々のお言葉がある。昨今、戦況は著しくわが方に有利であり、我々国民は陛下の臣民として自らの命を奉じたてまつり、なおいっそうの尽力によりその畏(かしこ)きご恩に報いなければならないのである。」
斜め前に立っていた親友のヨシキがオレの方を振り向いて、無声で口だけをぱくぱく動かしてみせた。それは、「す・ぴ・い・か・あ」と云っていた。それはオレらが付けた校長のあだ名だった。大本営発表を繰り返すしか能のないスピーカーだという謂いである。オレはヨシキには答えずそっぽを向いた。

しばらくして、そのラジオ放送は始まった。
正午の時報のあと、ラジオ局のアナウンサーより、これから天皇陛下より重大な詔あり(それは録音である)との通知があって君が代が奏せられた。そしてその後、初めて天皇陛下の肉声を聞いた。その声はすこしばかり甲高く、想像していたのとは正反対のものだった。そしてその声の違和感よりも、冒頭で述べられた内容、すなわち日本が連合国の共同宣言を受け入れるという言葉に対する違和感の方が大きかった。ところどころ言葉遣いが難しく耳で聞いていて漢字を当てはめることができないところも多々あったが意味は明確だった。我が国に侵略の意図はなくそれは東亜の解放であったこと。戦争は4年に及び、我が国に利は無く、敗戦であること。敵の非人道的な新型爆弾の使用が人類文明の滅亡を招くという非難。それらの現状を総合的に考慮し、共同宣言を受け入れるのだと天皇陛下は云った。そして、国のために戦い死んでいった者を慈しみ、これから我が国が受けるであろう苦難の道に想いをはせ、それでもなお、時局を鑑み、堪え難きを耐え、忍びがたきを忍んで、国の将来、国の平和のためにこの状況を打開したいのだと訴える。これから国民皆が力を合わせてのこの国の再興を願う、どうかよろしく、という内容のものであった。
その天皇陛下の録音の放送が終わった後、再び君が代が演奏された。先生の何人かは目に涙を溜めていた。

オレは納得できない気持ちでいっぱいだった。一億玉砕を天皇陛下自ら鼓舞するべき放送ではなかった。それは降伏を受け入れるという宣言であった。昨日、いや、今日もまだどこかで日本人は戦いそして死んでいるのではないか?死んでいった者の魂に報いるため、オレらは最後の一人まで戦うべきではないのか?
そして、おれは5日前に死んだみち代のことを思った。みち代は動員されて落下傘の縫製工場で働いていた。オレは違う工場に動員されたのでみち代の死に直接はあっていない。その状況を聞いたのは後からだった。
あの日は隣町で大規模な爆撃があった。隣町にある陸軍の飛行場が狙われた。爆弾が落とされるたびに防空壕の天井の砂が落ちて埋まってしまうのではないかと思うほど激しいものだった。オレたち同様縫製工場で働いていた女学生たちも防空壕を目指したが、その地域ではなぜか空襲警報が聞こえず、避難はかなり遅れたらしい。皆が工場から出たときには激しい爆撃に加え、グラマンの隊列が逃げ惑う者たちを空から狙い撃ちしていたという。みち代はその弾にあたった。何発か喰らったようであるが、そのうちの一つが心臓を貫いた。即死だったとその場に居合わせた者たちが語った。
死床のみち代は穏やかな顔をしていた。笑っているようにも見えた。オレは、幼いあの日、「コウちゃんのヨメさんになってあげる」と云っていたみち代の笑顔を思い描いた。覚えてもいないその表情がありありとまぶたの裏に浮かんだ。でもオレは泣かなかった。人間なんてあっけないと思ったが、どうした訳か悲しくはなかった。どうしてだかわからない。何かが麻痺していたようであった。

天皇陛下の玉音放送が終わると、しばらく皆が沈黙した。放心していたと云っても良い。しばらくして校長先生が朝礼台に立った。校長は静かに話し始めた。
「畏くも天皇陛下におかれては、一時休戦のご英断を下された。今般、戦局はなおも我が国に有利である。学生諸君は陛下が仰せられたように、今後の戦局に向け英気を養い、陛下のご恩に報いるためなお一層の努力をしなければならない・・・」
ヨシキがまたオレの方を振り向いた。今度は引きつったように笑うそぶりを見せた。そして、声を発せずまた大きく口を開けて何事かをオレに伝えた。
「こ・く・ご・りょ・く・な・し」とそう云っているようであった。
オレはまたそっぽを向いた。そうして、ここにも一人、自分のアイデンティティと戦っている者がいると漠然と思った。

学校での集会が解散になって、一人家路に向かっていた時、近所の爺さんが家の前で竹槍を磨いていた。オレと目が合うと老人は静かにオレに聞いた。
「坊、中学校ではなんと云っていた?」
「一時休戦だと校長先生は云ってたよ」
とオレは答えた。老人はオレの目を見て静かに云った。
「そうか、そういってたか。じゃあ坊も早く帰ってしたくしな。」
オレは、ジイさん、いったい何のしたくだよ、と思ったが、
「ああ、そうするよ」と答えた。

家に帰ると、幼い妹が玄関にいるオレに駆け寄ってきた。
「にいちゃん、今日天皇陛下はなんて云ってたの?」
オレが
「そうだな、日本が戦争に勝ったからみんなに紅白の餅をくれるといってたよ」
というと、素直に喜んだ。

その無邪気な笑顔を見ているうちに、なんだか涙がにじんできた。我慢していたものが一気に噴出しそうだった。そしてみち代が死んだ時泣かなかったオレが、どうして今は泣くのだろうといぶかしく思った。


本日快晴にして気温高し

本日快晴にして気温高し

1945年8月15日は天気予報どおりうだるような暑さだった。中学生のオレは正午に校庭に集まるようにと云われた・・・

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-16

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