イエスタデイ ワンス モア

1 反応

彼女が亡くなったのは、雨上がりの夜空が顎を広げ、街の雑踏を飛び交う全ての音が飲み込まれてしまいそうな時間帯だった。
葬儀はひっそりと穏やかに、まるでカップルが行う一つの線香花火が落ちた後、両者の間に生まれる無言の共鳴のように行われた。
その共鳴は、葬儀場に香る線香の煙と交わり、どこか見知らぬ土地で発散されるのかもしれない、とクロキは思った。
しかし、彼はその場所へのヒントに辿り着くことは出来ず、ただ静かに彼女の遺影を見つめていた。

彼は葬儀場のロビーを出た後、目の前に構えているガソリンスタンドで退屈そうに客を待っているスタッフを眺めていた。スタッフは真夏の太陽の光を少しでも避けようと、道路面の反対側になっているガソリン給油機の影で涼んでいる。
クロキはタバコに火をつけると、以前そのガソリンスタンドで一服しようとしたとき、そのスタッフに注意を受けたことを思い出した。

「タバコはご遠慮願いますか、引火の可能性がありますので」
当時、自動車免許を取り立てで浮かれていたクロキは、ガソリンスタンドに中古のスイフトを止めてドアを開けると、すぐにタバコを吸おうとした。
ガソリンスタンドでタバコを吸ってはいけないということを、クロキは誰にも教わったことがなかった。
だから、クロキは「俺に注意をするのは間違っている」と言い返した。
「はあ?」と、スタッフが目をまん丸にして聞き返した。その目には、怒りや欺瞞のような空気が纏っている。
「そんなこと、誰にも聞いたことがないし、教わったこともない」とクロキは言うと、助手席に座っている友人のケニーが口に手を当てながら鼻で笑っているのが聞こえた。
スタッフがその笑い声に気がつくと、怒りを押さえつける冷静さを意図的に作り出しながら「いや、危ないですから。とりあえず、すぐお入れしますんで」と、車のガソリン給油口に手を伸ばした。
「あの、給油口を開けてもらえますか?」とスタッフが言うと、クロキは「それも誰にも教わったことがない」と、また言い返した。
「すみません、今開けます」と、ケニーが笑いを耐えながら、車内にある給油口を開けるレバーを引く。
ガソリンの給油が始まると、クロキは座席に戻り、スタッフの作業をサイドミラーで凝視していた。
「そんなに疑っても、何もしやしないって」とケニーが言った。
「作業を眺めるのが好きなだけだよ」とクロキが眉間に皺を寄せながら言うと、ケニーは「女の子を眺めるのより楽しいのか?」と聞いた。
「それも作業だ」とクロキが言うと、「作業?下半身の反応を得るためのじゃなくて?」とケニーがニヤニヤしながら言った。
「作業と反応は違う。でも、ガソリンと女の子は同じだ」とクロキが言う。
ケニーは溜息をつきながら「お前の言っていることはよくわからん」と言うと「俺もよくわからない」とクロキは眉間を指で撫でながら言った。

あのやり取りをしたガソリンスタンドが、湿気を浴びた夜風を受けながら、今も目の前にある。それは、いつまでも変わらず(ガソリンの価格は変わったが)、何年もの間、毎日違う風を受け、雨にさらされ、様々な人間を受け入れては排出していく。
この自然な流れが、クロキにとって羨ましかった。
しかし、彼はこの作業が苦手だった。
人が出会い、そして間に何かしらの反応が生まれ、それらが実を結ばれては、捥いだり、食べたり、捨てたり、更には燃やされたりもする。
そういう自然の作法のような人間関係が、クロキにとっては難しいものであり、その中でも特に「排出」の方法がわからなかった。
俗に言う「ストレス解消法」みたいなものを彼は持ち合わせていない。いや、未だ探し出せていない。

高校生だった頃、成長するに伴って垢抜けてきた同級生たちを見て、クロキは焦りを感じていた。彼らは自分の知らない未知の領域に足を踏み入れていてるのではないか、と日に日に感じるようになっていった。もしかしたら、彼らは自分が夜寝ている間に、とんでもない冒険譚を繰り広げているんじゃないか、と。
自分も変わりたい、成長したい。そう思いながらも漠然とした自身の欲求に答えられることが出来ずにいたのだった。

そのことを相談していた同じクラスの友人だったイシダが、ある日突然こんなことを言い出した。
「俺、ギターやってるんだ。お前はやったことある?」
イシダはクラスの中ではあまり目立つこともなく、控えめで静かな性格だったが、なぜか髪型だけはリーゼントだった。
クロキは彼と知り合ってから、そのリーゼントが気になってはいたが、最終的には「癖毛の一種だろう」と自分を無理やり納得させていた。縮毛矯正やパーマ、リラクゼーションなどがある最近のヘアサロンに、癖毛を生かしたリーゼントスタイルが生み出せないわけがない、と思い込むことにしたのだ。しかし、今はその髪型よりも、普段おっとりしているイシダがギターをやっていることに、クロキは内心驚いていた。
「いや、やったことないけど。面白いの?」オリコンチャートでランクインする音楽しか知らない程度の知識だが、クロキは音楽が好きだった。
「やってみればわかる」とイシダは言うと、両手を動かしてギターを弾く真似をした。エアギターと呼ばれているアクションだ。
「エレキギターな」
「エレキ?あれはヤンキーとか不良がするものだろう」とクロキが言った。
「時代は変わったんだよ」とイシダが言う。
「へえ、そうなんだ。ギターね…」クロキはそう言いながら、イシダのエアギターをじっと眺めていた。リーゼントはいつまでも形を崩さなかった。

クロキはその日の授業が終わると、横浜駅から横須賀線で鎌倉駅に向かった。
彼の地元である鎌倉市には、TSUTAYAだとか、ショッピングモールだとか、街頭に張り出たテーブルでパフェを食べる店だとか、そういう近代的な建築物がほとんど無い。地元の若者にとっては退屈な街であり、大概の若者は横浜や東京まで足を運ぶ。しかし、クロキは若者という部類には含まれてはいるものの、都会の空気が苦手だった。
彼の通っているK高校は横浜にあり、そこはお世辞にも空気が綺麗とは言えるものではなく、鎌倉の空気の味は、より彼を落ち着かせるものになった。

クロキは鎌倉駅のバスターミナルのちょうど向かいにある本屋に入ると、音楽雑誌を手に取り、ページをめくった。友人が「ポルノは聴いたほうがいい」と言っていたが、クロキには「ポルノ」は聴くものなのか、見るものなのか、よくわかっていなかった。その雑誌には運良く「ポルノ」の特集が組まれていた。正式名称は「ポルノグラフィティ」というらしく、どうやら三人組のバンドらしい。それだけ確認すると、クロキは雑誌を戻し、本屋の隣にあるCDショップに向かい、ポルノグラフィティのシングルCDを購入した後、階段で二階に上がった。
このCDショップは二階建てで、一階がCDやDVDなどを取り扱っており、二階は楽器屋になっている。
店内には洋楽のロックらしき音楽が流れていて、クロキは自分が場違いだということをすぐに感じた。
すると、楽器屋のスタッフだと思われる小太りの男が近づいてきた。茶色いエプロンを身につけていて、銀縁の眼鏡とくしゃくしゃの短髪が妙に似合っていた。
「いらっしゃい、何か探してるの?」と店員が笑顔で言った。
「いや、あの、ギターのようなものを」とクロキはしどろもどろに答えた。
「アコギ?エレキ?ガット?」店員はリズムよく言った。
アコギ?ガット?何だそれは。クロキは完全に困惑した中で、とりあえず「エレキ」と答えた。
「うん、エレキね。どんなのを探してるの?」と、店員がまた挑戦状を叩きつけてきた。いや、だからエレキを探してるんだけれど。
「あの、とりあえずエレキって面白いのかなって。どんな感じのものなのかなって」と、クロキは眉間を指で擦りながら言った。これは彼の癖だ。
「ああ、なるほど。じゃあ、ここで座って待っててね」と店員が何かを悟ったかのように言うと、クロキを残して店の奥に消えた。店内には相変わらずロックが流れている。日本のバンドの奏でるロックよりずっと激しい。歌詞はわずかに聴き取れるが「ファック」だとか「ビッチ」だとかの言葉が聴こえた。おいおい、これはひょっとして足を踏み入れてはいけない世界に来てしまったんじゃないのか。彼は未知の世界へ踏み出す勇気と恐怖に興奮していた。
店内を見回すと、様々な種類の楽器が並んでいた。真っ黒でトゲトゲしいものや、真っ白で瓢箪みたいな形のもの。黒くて大きなアンプ、銀色の小さなアンプなどが所狭しと置かれている。吹奏楽で使われる金管楽器もいくつかあった。並ばれた楽器達を眺めていると、「はい、おまたせ」という店員の声が背後から聞こえたので、クロキは振り返った。店員は、黒いボディに紫色のラインが入ったギターを手にしていた。
店員は、クロキの目の前に置かれている黒いアンプに電源を入れ、ギターをチューニングし始める。ビーン、ビイーンと弦が小さい音を鳴らす。これから何が始まるのか。俺は何も弾けないぞ。買わないぞ、金ないぞ。そんなことをクロキは考えながら、店員の行う作業を見ていると、突如「ギャーン!」という激しい音がアンプから聴こえた。クロキは座っていた椅子からお尻を一瞬浮かせた。
「はい、どうぞ。弾ける?」と店員が言った。
「あっ、えっと、Cとかいうのなら」とクロキは答える。中学生の頃、音楽の授業でギターを持ってきていた友人がいた。そのときに一つだけ教わったコードを、クロキは覚えていた。クロキは慎重にギターの弦を指で押さえ始める。指が言うことを聞かないし、手も震えている。店員は微笑みながら「これ、ピックね。ガーンと弾いてみな」と言った。
激しい音が店内に鳴り響いた。
クロキは、今までギターと出会わなかった人生を後悔した。

2 普遍的であり変動的なもの

葬儀場の外でタバコを吸い終えると、クロキは近くの有料駐車場に停めてある黒いキューブで大船市に向かった。
彼は高校を卒業後、音楽の専門学校に入学し、卒業後はギター教室の講師として働いている。教室の規模は小さいが、それなりに生徒の数もあり、初心者同士が組むバンドの指導や、個人レッスンなど、仕事はやりがいのあるものだった。
キューブは大船駅を少し通り過ぎた後、街中を流れる小規模な河川沿いに建っているビルの駐車場に停車した。駐車場は3台しか駐車スペースがなく、講師が停められる枠が1台と、教室の生徒が停める枠が2台、計3台分となっている。
この講師1枠分を誰が使うのか、講師たちは毎週土曜日の夜にじゃんけん大会を行い、次週の駐車枠使用者を決定している。仕事に使用するギターやアンプなどは重い物で総重量が10kgを超えることもあるため、講師たちはじゃんけんを必死に行う。いかにして肩を痛めないようにするか。いかにして腰を守るか。ミュージシャンだって人間なのだ。苦しいことはしたくない。それはクロキも同じである。今日はちょうど土曜日で、レッスン終了後にはじゃんけん大会が開かれる予定だった。
クロキは車のドアを開けると、むわっとした熱気に歓迎されながら、トランクに入れていたギターと、エフェクターボックスを取り出し、教室に向かった。
教室まで向かう階段は、人が2人ギリギリ通れるほどの横幅しかなく、人とすれ違うのは中々に難しい。教室は5階にあり、しかもエレベーターがない。クロキは仕事自体にはそれほど不満はないが、この階段の行き来だけは本当に不満だった。世間ではスマートフォンだの、デジタル移行だのが行われている中で、なぜもっと人類(主にクロキ個人のことだが)の移動手段が改善されないのか、なぜスティーブ・ジョブズはこのビルにエレベーターをつけないまま死んでしまったのか。それがクロキには全く理解ができなかった。
打ち出しのコンクリート壁に囲まれた階段を登り終えると、クロキは「ささき ミュージックレッスン♪」と白い文字で描かれている教室のドアを開け、中に入った。ちりんちりん、と鈴の音が鳴る。
室内は約26畳ほどで、床には全面に赤い絨毯がひかれている。5階に個人レッスン用の小さなスタジオが2部屋、そしてバンドスタジオが6階に1部屋という構成になっている。
「おはようございます」と、入ってすぐ左側の受付に座っている女性がクロキに挨拶した。受付嬢のヒナタだ。肩まで伸びた黒い髪が艶やかで、キューティクルという言葉は、まるで彼女の髪のために存在するかのようだった。鼻筋は顔の中心を見事に分断させ、眼は薄っすらと茶色を帯びながら、鋭く、滑らかなラインを描いた眉の麓で佇んでいる。化粧には凝っていないようだが、街を歩けば、何人かの人間は振り返るであろう容姿をしていた。
「今日も暑いですね」とヒナタは言った。
「そうだね、この部屋は外と230度くらい差がありそうだ」とクロキは言いながら、出勤確認盤に貼られている自分の名前を裏返しにする。これは、赤い表示で名前が表示されているものが未出勤者で、白い表示のものが勤務中であるということが一目で確認できる案内板のようなものである。現在、クロキ、ヒナタ、ササキの三人が白い表示になっている。ウエダ、シントメ、ヒキチと表記されている三枚は赤い表示のままだ。
ギター教室は、生徒の人数と、生徒に指定されている時間帯が主な業務時間となっているため、講師陣の出勤時間はほぼ決まっていないようなものである。しかし、教室が設定しているレッスン可能時間が朝9時から夜10時までなので、朝9時に1コマだけレッスンを終え、どこかで暇を潰して、夜9時にまた1コマだけレッスンという日も講師によってはあったりする。要するに、講師の人気度合によって、業務時間が激変するというのが、このギター教室の仕事なのだ。給料は歩合制ではあるが、基本給から下がることはないため、マイペースな講師が多い。クロキは教室では比較的人気で、空き時間より業務時間のほうが長い日が多かった。しかし、今日は葬式に出席していたため、急遽ササキ主任に代替えレッスンを行ってもらっていたのだった。
「クロキさん、ガンズ、聴きましたよ」と、受付嬢であるヒナタが言った。
「おお、聴いたんだ。どうだった?」と、クロキは荷物を部屋の隅に置きながら言った。
「えっと、何というか、凄くよかったです」とヒナタが言った。
「へえ、どんなところが?」クロキは喪服の上着をギターケースの上部に放り投げ、シャツの袖を捲った。
「ハートに響く感じですかね、英語はさっぱりわからないですけど」とヒナタがいうと、クロキは「それでいい」と言った。
「音楽は耳で聴くものじゃない。心で聴くものだ」
どこかで聞いたことのあるフレーズだな、とヒナタは思ったが、ヒナタは聞き返した。
「心?」
「人の言葉と同じだよ。相手の言葉を聴くのではなくて、心を聴く」とクロキは言った。
「クロキさん、ロマンチストですよね。昔からですか?」とヒナタが尋ねた。
「ロマンスは誰にも教わったことがないよ」とクロキは言った。
「それは、教わるものではないんじゃないですか?」
「そうかなあ。でも、そう言えるのは、ロマンチストの証なんじゃないかな」
「え?それは私のことを言ってるんですか?」と、ヒナタは微笑みながら言った。
「僕はそんなこと言ってないよ」とクロキは言った。ヒナタは頬を膨らませて、ぶうーっと鳴らした。この人は話をはぐらかすのが上手い。いや、上手いというより、人と言葉のキャッチボールをする気がないのだ、と不満に思っていた。出会った当初は「きっと会話が苦手なんだな」程度に思っていたが、クロキと付き合って行く毎に、どうやらそうではないということに気が付き始めていたのだった。
クロキは受付の脇に置かれているコーヒーメーカーから、備え付けてある紙コップにコーヒーを入れた。
「あのさ、僕は思うんだけど」と、クロキは教室中央にある丸テーブルに腰掛けて言った。
「自動販売機って、何で「ぬるい」というものが存在しないのかな。コーヒーメーカーも温目に設定できない。「あたたか〜い」も「つめた〜い」もあるのに、「ぬる〜い」だけ存在しない」とクロキは言うと、紙コップをテーブルに置いた。
「機械と業者の都合なんじゃないですかね。大人の事情ですよ、たぶん」と、ヒナタは適当に答えた。クロキは、普段から彼女に質問をすることが多い。そして、それはヒナタにとって、どれもくだらないと感じる質問ばかりだった。質問を質問で返されることなど日常茶飯事である。
「大人の事情か。じゃあ、僕は大人じゃないってことなのかな。僕は「ぬるめ」を強く要望しているんだけど」とクロキは言った。
「世界の事情ですよ。きっと、神様は「ぬる〜い」というものを不必要だとお思いになって、お創りにならなかったのだと思いますでございます」とヒナタは両手を組んで、お祈りのポーズをした。これで納得してほしい、とヒナタは心から願った。
「そうか。まあ様々な事情があるんだろうね。人の数だけ、事情があるのかもしれないね」とクロキは言うと、コーヒーを飲んだ。
「事情」ヒナタはその言葉を心の中で繰り返した。

クロキは紙コップのコーヒーを飲み終えると、教室の壁際に設置されている楽器スタンドに自分のギターを立て掛けた。彼のもの以外にも、いくつかのギターが立て掛けられている。クロキの茶色いギブソンのギターは、それらに混ざってしまうと、途端に存在感をなくしてしまう。どこの楽器屋にも売っていて、誰もが使っている、ごく一般的なものである。
所有物というものは、本人にとっては特別なものであったとしても、他人にとっては、単なる物体でしかない。例えそれを共有できたとしても、所有物に対する積み上げられた歴史は、他者と共有することはできない。だが、意識的なものならば、それらは可能なのかもしれない。例えば、恋愛だとか。お互いの歴史を知り、それらが積み上げられた結果が、現在の相手との関係性に繋がる。人は、自身の歴史を変えることは出来ない。だが、他者の事実や経験はいくつかは知ることができる。それらを続けていくと、相手との共感が芽生え、また1つ新たな歴史が生まれる。生まれたてほやほやな赤ん坊の歴史は、始まった瞬間から相手との共有体となる。
しかし、自分自身のみが抱える歴史は、一体どこに刻み込めばいいのだろうか?どう消化すればいいのだろうか?クロキは、物心がついたときから、これらのことを考えていた。それは、始めてギターを手にした高校生だった頃から10年経っても、未だ変わらない。
彼にとって「ギターを弾く」という行為は、一種の消化作業でもあった。生徒を受け持っていない空き時間が出来ると、個室スタジオに篭り、彼は一心不乱に音をかき鳴らす。僕は弦を弾くことで、自分の中にうごめいている嫌悪や憤怒、悲哀や喪失などを浄化しているんだ、とクロキはその行為を信じようとしている。
クロキがギターを弾く準備をし始めるときには、ヒナタはいつも決まって口を紡いだ。彼が、今から誰も踏みいることが出来ない領域に行こうとしている気がして、それを邪魔する行為は不当だと思っているからだ。しかし、今日に限って、ヒナタには彼にどうしても聞いておかなければならないことがあった。
「お葬式、どうでした?」と、ヒナタは聞いた。クロキは個人スタジオのドアを開け、アンプに電源を入れている。彼はしばらく無言だった。それは、頭の中で言葉を慎重に選んでいるようにも見え、あるいは何も考えていないようにも見えた。
「うーん、ハートに響いたんじゃないかな」とクロキは言った。
さっき私が言ったことと同じじゃないか、とヒナタは思ったが、彼に戯けている様子はない。
「君の好物は何?」とクロキは言った。
「えっ?」と、ヒナタは少し身体を緊張させた。脈の鼓動が段々と早くなっていく自分がいたが、冷静さでそれを封じ込めようと努める。
「プリンです、プリン。白いプリン、ミルクプリン」ヒナタは、今この場の空気感の中で、なぜ自分が「プリン」という言葉を連呼しているのか、よくわからなかった。でも、プリンが好きなことには違いない。
「僕はプリンが好きでもないし、嫌いでもない。でも、デザートとして出されれば食べる。式場はそんな空気だった」とクロキが言った。
「焼香だけ済ませて、すぐ帰ってきたんだ。彼女の顔も見ずにね」と、クロキはギターにシールドを差し込み、アンプのジャックに片方のシールドジャックを差し込んだ。バチッ、という音が部屋に響いた。
「それだけで、よかったんですか?」と、ヒナタは慎重に言葉を発する。
「それを決めるのは、彼女自身だよ」とクロキは言うと、個人スタジオのドアを閉めた。

4 ヒナタ

ヒナタは、生まれつき脚が不自由だった。本人が気付いたときには、既に脚は脚としての機能を完全に失っていた。幼い頃から活発な性格をしていた彼女は、自分の脚が動かないことに対してストレスを抱えていた。人間は乳児で歩くことを覚え、幼稚園児で走ることを覚える。そして、小学校からは歩いたり、止まったり、全力で走ったりすることも覚える。そうして、人格は肉体と共々に成長をしていく。
しかし、彼女は常に停止していなければならなかった。小学校の運動会でも、中学校の文化祭でも、高校の修学旅行でも。車椅子を動かすことはできても、彼女の心はずっと停止していた。自分はなぜ歩けないのか。なぜ生まれる必要があったのか。
なんで?なんで?なんで?
そんな疑問と葛藤が常に頭を駆け巡り、ヒナタは次第に人とのコミュニケーションを取らなくなっていき、引きこもっていった。
そんな彼女を心配していた2歳離れの妹が、ある日、ヒナタの部屋に1枚のCDを持ってきた。
「これ聴いてみてよ」それだけ言うと、妹は部屋から出ていった。
ヒナタは音楽が嫌いだった。テレビの音楽番組を見ても、ネットの動画を見ても、誰もがニコニコしていたり、薄ら笑いを浮かべていたり、怒り狂った表情が画面に浮かび上がると、奇声をあげたくなるほどだった。
それを知っている妹が、なぜ今頃になってCDなどを渡しに来たのか、ヒナタには理解できなかった。CDには歌詞カードのようなものは付属していなく、アーティスト名もわからなかった。ヒナタは妹の心意を確かめるべく、CDをパソコンで読み込んだ。
ディスプレイに真っ黒な画面が映し出された。しばらくすると、アコースティックギターのアルペジオがパソコンから流れ始めた。続いて、その音に交わるように、女性ボーカルの声が聴こえ始める。歌詞は英語のようで、ヒナタには歌の意味がわからなかった。だが、人を勇気づけるような印象を彼女は感覚的に感じ取った。
そのギターの音色とボーカルの声は、ヒナタの内部に潜んでいる険悪なカーテンを捲り始め、彼女の精神の中心部へと向かっていく。音は、まるで「ヒナタ」という名の国を旅するかのように、各国に様々な形の足跡を残していった。白、黄色、風、そして橋。その橋は微かに光を帯びている。橋の両端は存在しない。抽象的感覚をヒナタは受け取り続ける。
しばらくすると、橋から光が消え、ヒナタの意識はそこで途切れてしまいそうになった。が、ふと気がつくと、目の前に少女が立っていた。金髪で、白いワンピースを着ている。二人は見つめ合った。長い間、再会することができなかった恋人同士のように。その時間はヒナタにとって、かけがえのないものであるように感じられた。そして、その時間を惜しむかのように、少女は口を開いた。
「タック フィリール」
そう言うと、少女は闇に消えた。その闇は、それ以降変化することはなく、ヒナタの目の前にひっそりと置かれていた。ヒナタは真っ黒なディスプレイをじっと見つめている。そこには、ボサボサに伸びた黒い髪の毛で、血色を感じられない真っ白な肌をした女が映っていた。ヒナタは、心の中で女に語りかけた。
「あなたはいつだってそこにいた。そのことに、私は気が付かなかった」
女性ボーカルの声が彼女に問いかける。美しく伸びる声が、ヒナタの部屋を満たす。
「yesterday once more」
ディスプレイの世界にいる女は、涙を流していた。

それから数日後、ヒナタは車椅子で地元の本屋に向かった。ネットでは販売していない週刊誌を、彼女は毎週買いにくる。車椅子という存在が、彼女をまるで舞台のトップスター並みの存在感に仕立て上げてしまう。ヒナタにとって、そのピンスポット的視線は苦痛だった。店先に積まれている週刊誌を手に取り、レジを終えて早々に帰る。何も考えないようにして、ただひたすら腕で車輪を回す。これらを、彼女は毎週行っていた。
しかし、今日は駅前付近で何か催し物が開催されているらしく、人混みがそちらに集中していた。
しばらくして、そこから音楽が流れ始めた。ヒナタはその曲に聴き覚えがあり、妹から渡されたCDに収録されていた曲と同じものだった。ヒナタの心は弾んだ。恐る恐る音のする方に近付くと、どうやら小規模な街角ライブを行っているようだった。彼女は目線が低いため、誰が演奏しているのかは全く見えなかった。彼女はしばらく、女性ボーカルの声を聴いていた。数日前に聴いたCDから受けた片鱗を、ヒナタは探し求めた。しかし、今聴こえている声からは、何も感じることはできなかった。ただ、「音」という単体のみが空気に散っている。そこにはメッセージ性のようなものは含まれていない、とヒナタはしばらく歌を聴いていた。そんな中、彼女はなぜか自身の体調に変化が起き始めていることに気が付いた。何か、この世のものではない物体が、自分の頭を侵し始めている。頭痛がし始め、眼球が圧迫される感覚に陥る。吐き気を催したヒナタは、周囲を見渡す。が、このような状態になっている者は、ヒナタ以外には居ないようだった。
「ありがとうございました」と、女性ボーカルがいうと、観客の歓声が聴こえた。
ギャラリーは各方向に散って行く。どうやらライブは終了したらしく、スタッフによる撤収作業が始まった。いつのまにか、ヒナタの体調不良は収まっていた。ヒナタは自分の身体に起きた現象に疑問を感じながら、帰宅しようとした。しかし、ゴンッと何かに当たり、車椅子は動かなくなった。誰かの荷物にぶつかってしまったようだった。ヒナタのちょうど真後ろには、ギターを背負った男が立っていた。
「ごめんなさい、ちょっと、すみません」とヒナタはその男に言った。しかし、彼には聞こえていないようだった。私の声が小さかったのかな、と思い、ヒナタは手で無理やり荷物を退け、行動で自分の意志を男に伝えようとした。男はそこでやっとヒナタの存在に気がついたらしく、荷物を移動した。
「ごめん、気がつかなかった」と、男は言った。ヒナタは返事をせず、男の脇を通り過ぎようとした。
「もう帰るの?」と男が言った。ヒナタは返事をしない。帰るもなにも、ライブは終わっているじゃないか。ヒナタはそう思いながら男を訝しげに見た。すると、男は不思議な表情をしていた。彼の意識はここにはなく、どこか遠い場所で何かを探しているかのように見える。目は一点に集中されているが、焦点がどこにも定まっていない。時折、今この場所に意識が戻ってきたかと思うと、またどこかに行ってしまう。それを繰り返しているようだった。ヒナタは男の視線の先を確かめてみたが、そこには機材を撤収しているスタッフが見えるだけだった。
「ねえ」と男が急に言った。
ヒナタはビクッとした。もしかしたら、彼の顔を睨みつけながら凝視していたことを悟られたのではないか、と思ったからだ。
「なんですか」と、ヒナタは冷静を装って返事をした。自分の声が震えているのがわかった。考えてみれば、家族以外の人間と話したことは、本屋の店員を除けば数ヶ月振りだった。
「彼女の歌、どうだった?」と男が言った。
「えっ」
「どう思った?」男は質問する。
「今日は、別に何も」と、ヒナタは返事をした。すると、男の目が少し変化したことに、ヒナタは気が付いた。
「それは、何もないってこと?」と、男はまた質問する。
「いや、そういうわけじゃ…。よくわかりません」ヒナタは言った。
「へえ、そう」と男は言うと、しばらくヒナタの顔を見ていた。そして、着ていたジャケットのポケットから小さい紙のようなものを取り出した。
「音楽が好きなら、いつでもおいで」と男が言いながら、その紙をヒナタに渡した。音楽教室のチラシのようだった。ヒナタはガッカリした。見知らぬ他人の男に少しでも興味を持ってしまった自分に。
「勧誘…。音楽とか興味ないんで」とヒナタは紙を突っ返すと、男は受け取る様子を見せなかった。
「ギターは?」と男が言った。そして、ヒナタの脚を、更にヒナタの目を見て続けて言った。
「ギターなら、声を出せなくても、立てなくても、歌わなくても、それが全て音になるる」
男はそう言うと、また何かを探しに行った。

ヒナタは帰宅すると、自室のパソコンのネット検索で「ギター 初心者 難しい」というワードを入力した。ディスプレイに検索結果が大量に映し出される。「初心者でも簡単!ギター講座」のような、初心者にもわかりやすく解説されたサイトや、「ギター初心者です。簡単な曲ありませんか?」のような、質問者が回答を求める掲示板などのサイトが多数存在した。
彼女は続けて「ギター 車椅子」と検索する。すると、検索結果にはヒナタの予想とは違うものが出てきた。「車椅子ギタリストのブログ」や、「車椅子でレッスンにいらした生徒さん〜」など、自分と同じ状況にいながらも、楽器を楽しんでいる人間が存在するということを、彼女は初めて知った。
なぜ、自分は人生を楽しめていないのか?彼らとは何が違うのか?何が彼らを動かしているのか?そして、CDで感じた感覚が、なぜ街角ライブの女からは感じ取ることができなかったのか?いくつもの疑問が、ヒナタに迫っていた。
思考が脳みそを沸騰させている気分に陥り、彼女は額に手を当てて、ふう、と一息ついた。ごちゃごちゃの感情や思考を一旦整理するため、ヒナタは自分の中で起きている様々な現象を解決しようとした。今日は多くのものを経験しすぎた気がする。
まず、「CDと、街角ライブで歌っていた女のこと」考えてみた。自分が今一番気になっている問題から手をつけなさい。これは、父がよく言っていた言葉だった。

ヒナタは、街角ライブで聴いた女性ボーカルの声を思い出した。しかし、ここで彼女の脳内がまた騒ぎ始めた。気分が悪くなった彼女は、机においてある細長い水筒に入っている麦茶を一口飲み、気を落ち着かせようとした。なぜかわからないが、あの聴いた声を思い出すと調子が悪くなる。だが、妹から受け取ったCDを聴いた際には、このような症状に陥ることはなかった。この矛盾した現象は、ヒナタにとって初めての経験だった。
「気持ち悪い」と、ヒナタは口に出して言った。
なぜ、妹はCDを渡しに来たのか。妹はあの女のことを知っているのか。すぐにでも確かめたい衝動に駆られたが、彼女は今は友人の家族と旅行に行っていることを思い出した。妹は携帯を所持していないため、今すぐCDの真実を確かめることは困難だった。
そこで彼女は、街角ライブで出会った「勧誘の男」のことを思い出した。あの人なら、CDの女性ボーカルについて何か知っているかもしれない。ヒナタはそう勘ぐると、ギター教室のチラシを、上着のポケットから取り出した。渡されたチラシを、街のゴミ箱まで捨てに行くのは億劫だと思った彼女は、自宅に持ち帰っていたのだった。紙にはギター教室の名称と、連絡先、そして次回の街角ライブの予定が記載されていた。ヒナタは電話番号を確認すると、机にある携帯電話に番号を入力した。しかしそこで、彼女の手の動きは止まった。家族以外の人間と、日常会話をすることができるのか、ヒナタは不安になった。ここで、また父の言葉を思い出す。「1つずつ解決していく」これも、父から教わった言葉だった。かつてここまで、自分は何かを求め、探ろうとしたことはあっただろうか。奮闘している自分を客観的にみると、何だかヒナタは自身を可笑しく感じた。たまには自分を応援してみるのも悪くないかもしれない、とヒナタは思った。頑張れ私、負けるな私に。
携帯電話の通話ボタンを押す指が震えているのが、自分でもわかる。しかし、ここで諦めることは、今後の自分の人生を無駄にしてしまうような気がした。ここで踏ん張れば、何かを得ることができるかもしれない。得られなくたっていい。自分が何かを求めた、という結果が自分の中に生き続けさえすれば、彼女はそれで満足だった。そして、ヒナタは携帯電話の通話ボタンを押した。
「はい、ささき ミュージックレッスンです」という男の声がした。

5 セッション

「ささき ミュージックレッスン♪」の五階教室から、ギターの音が響き始めた。個人スタジオは防音設備が施されているが、完全に音をシャットアウトすることはなかった。漏れる音は教室をすり抜け、外界に飛び出す。そして、その音は街の騒音とセッションを終えると、ライブの打ち上げ後に酔っ払って街を彷徨うミュージシャンのように、埋れ消えていった。
スタジオのドアは透けていて、誰が何をしているのかは一目瞭然である。ヒナタが居座っている受付の左奥からは、椅子に座ってクロキがギターを掻き鳴らしているのが見えた。彼はギターを抱え、俯いている。左手を見ることも、ピックを握る右手を見ることもなく、ただ俯いて弦を弾いている。目線が動いているのかどうかは彼女のいる場所からは確かめることはできない。ヒナタは、受付から眺めるクロキの姿が好きだった。彼がただ闇雲に音を垂れ流しているのではないことが、ヒナタには感じ取れる。楽器は、プレイヤーの抱えている感情をダイレクトに作り出し、その音がリスナーに届けられる。リスナーは、プレイヤーの魂が込められた感情や感覚を感じ取れる人間と、そうでない人間に分かれることが多いが、彼女は紛れもなく前者であった。
ゆっくりとしたブルース的フレーズが、教室内を埋めて行く。ヒナタは海に身を投げ出すかのように、そのサウンドに身を委ねた。水が全身を包んでゆく。そこには生命感は感じられず、ただ「青」というものが存在しているだけのようだった。光は射し込まれてはいなく、天と地が把握できないが、自身が沈んでいくのは理解できた。その速度が段々と加速していく。身体から湧き出た気泡が天へ向かって進んで行く。その泡は、どこまでも、誰にも潰されることもなく、手の届かない場所まで飛んで行った。
これは間違いなくクロキの音だ、とヒナタは思った。だが、彼女は「何かが欠けている」と感じた。いつもはこのような印象は受けない。が、何か人間にとって必要不可欠である要素が欠落し始めているのかもしれない、と彼女は思った。そう思うと、彼女は寂しさと恐怖感に襲われた。
クロキのいるスタジオを見ると、彼は真っ正面を向いたまま、何もしていなかった。音も鳴り止んでいる。ヒナタの額から、じんわりと湿った汗が吹き出してくる。あのようなクロキの姿は見たことがなかった彼女は、こんなとき、どんな行動をするのが正解なのかわからなかった。しかし、直感的に「この感覚は、父親が病死したときに感じたものと同じ類のものだ」と、ヒナタは気がついた。
ヒナタの父親は、彼女が小学生だった頃に肺がんで病死していた。父の最期を見届けることは出来たものの、幼心に「もう二度と会えない」と感じ取った。その感覚が、今この瞬間に生まれている。ヒナタの心臓が強く脈打ち、両手から鳥肌が立った。
クロキが遠くに行ってしまう。離れてしまう。ヒナタは堪えられずに叫んだ。
「クロキさん!」
彼は、真っ正面を向いたまま動かなかった。

教室のドアが、ちりんちりん、と鈴の音を鳴らした。
「こんにちわ、ヒナちゃん」と、男は言った。男の背は高く、顔の彫りは深い。真っ白い肌からは貧弱な印象を受けるが、腰まで伸びた金色のロングヘアが、彼の身体から発する繊細さをバランスよく支えていた。純粋な日本人ではないようで、もしかしたらハーフなのかもしれない。彼は、ベルボトムと白いタンクトップ、頭には黒いカウボーイハットという出で立ちだった。
「こんにちわ」とヒナタは言った。昂ぶっている気持ちを悟られないように努める。
「どうしたのよヒナちゃん、目が真っ赤だけど」と男は言った。
「あ、いえ、何でもないです」とヒナタは言うと、目を擦った。
「そっかあ。心配だなあ、わしは。君に何かあったと思うと夜も眠れやしない。あ、これよろしくね」と男は言うと、持っていた黒革のハンドバッグから、チラシの束を取り出して受付に置いた。1センチほどの分厚さがある。
「あっ、この前の分のチラシ、全部無くなってるじゃん。そうか、だからあのライブは客が多かったんだなあ。いやあ、人気出てきたのかな。いいね、いいねえ」と男は言うと、口笛を吹き始めた。どうやら機嫌がいいらしい。教室を入ってすぐ右側には、ライブ告知や、レッスン概要のお知らせなどのチラシを置くスペースがある。彼は自分のバンドのライブを行う度に、この教室に宣伝をしに来ているのだ。
「ああ、あのチラシ、ライブ期間が過ぎてたので処分しちゃったんですよ」とヒナタは言った。
「そっか」と男は言うと、急に静かになった。「前回は、ちょっと、渡した枚数が多かったのかな」
「んー、普段と変わらない量だったと思いますけど」とヒナタは言う。
「そうだよね、いつも同じ枚数だもん」と男は言った。口笛はもう鳴っていない。
その時、個人レッスン室のドアから「やあ」という声と共にクロキが出てきた。ヒナタは慌てて振り返った。しかし、そこには普段と変わった様子はないクロキが立っている。あれ、おかしいな。とヒナタは思った。先程感じた違和感が、今の彼からは消えていた。いつものゆっくりとした口調と、穏やかな印象が、今のクロキから感じられる。彼の様子をまじまじと伺うヒナタの視線に気が付いたのか、彼は口元を緩め、ヒナタに微笑んだ。ヒナタは視線を彼から外した。
「今回は来れそうか?たまにはいいじゃんか」と男は言った。
「行けたら行く」とクロキはそっけなく言った。
「O型が言うその言葉は、アテにならないんだよなあ」と男は言った。
「ケニーもO型じゃないか」と、クロキが言った。
ケニーは、クロキの音楽学校時代の友人である。二人が初めて出会ったのは、音楽学校の入学式だった。式は大船市の公民館内にある大ホール行われた。新入生達がホール内の席で開式が始まるのを待っている際に、ケニーが口笛を吹いていて、それに反応したクロキが「オレ、ソレ知ッテル」と声をかけたのである。ケニーには、まるで原始人が初めて覚えた言葉かのように聞こえたが、クロキの姿を見て「コイツ、クールだ」と考えを改めた。
当時、クロキは肩まで伸びた黒いパーマネントヘアに、ストローハットを被っていた。ケニーは当時から金髪のロングヘアだったが、自分自身が「時代遅れなミュージシャン」であることを自覚していて、それはクロキのスタイルにも当てはまることだった。しかし、クロキ自身からはソレを感じられなかった。不思議な奴だ、とケニーは思い、二人はそれ以降、一緒に行動することが多くなった。
「とりあえずチラシに目を通しておいてくれよ。最近いい感じなんだよね」とケニーは言った。
「いい感じ?BBCラジオにでも出演することになったの?」とクロキは言った。
「お前は話が飛躍しすぎだ」とケニーは笑った。
「あの、BBCラジオって何ですか?」とヒナタは聞いた。
「凄いラジオ局。そこに出演できるというのは、世界の全ミュージシャンにとって光栄なことなんだよ」とクロキは説明したが、ヒナタにはあまりピンときていないようだ。
「1つだけ冷蔵庫に入れておいたミルクプリンが、一晩経つと180個に分裂していた。そんな感じかな」とクロキは言うと、「凄い!」とヒナタは声をあげた。「そんな量、食べ切れない」と、ヒナタは目を輝かせて言った。
「そう、食べ切ることは難しいんだよ。今まで何人も挑戦したけど、全部を消化できたミュージシャンは一握りだ」とクロキは言った。
「わしなら冷凍しておくかな。誰かに配ってもいいんだし」とケニーが言う。
「配る、分け与える、という行動を取れた人間だけが、今もまだ生々と活躍できているんじゃないかな」とクロキは言った。
「まあ、欲に溺れるなってことだな。今のわしの手にはミルクプリンが3つほどあるだけかもしれんけど」とケニーは言うと、掌を握ったり開いたりした。
すると、教室の出入り口のドアが開き、中年の男性が入ってきた。この教室の主任であるササキだ。彼は紺のスラックスに、白いワイシャツという格好で、髭とスキンヘッドがよく似合っていた。彼の後ろには、バンド練習を終えた高校生達が楽器を背負って立っている。
「主任、おはようございます。今日はありがとうございました」とクロキが言うと、ササキは微笑んだ。
「今日の分の振り出はいつでもいいから。そろそろ夏休みでも取ったら?」とササキは言った。
「夏休みですか…」とクロキは言う。
「たまには息を抜かんと、そのうち爆発しちまうぞ」と、ササキは握った拳でクロキの胸を小突く。うぐっ、という声でクロキが唸る。すると、クロキの傍にいたケニーが鞄からチラシを取り出して言った。
「あの、ササキさん。今月もライブやるんですけど、生徒達にちょっと、いいですか?」ササキは頷くと、後ろに居た高校生達に「金髪の兄ちゃんが話があるって。お前らツラかせや、って言ってる」と言った。生徒達は身体を緊張させた。
「ちょっとササキさん!いやいや、ライブのお誘いをするだけだからねえ、怖くないからねえ」と、ケニーは腰を落として生徒達に近付く。その姿は、まるで野ウサギを狩る虎のようだった。ケニーが怖がる生徒達にライブの詳細を聞かせていると、ササキはクロキに小声で言った。
「君は、本当に休みをとったほうがいい」
「考えておきます」とクロキは答えた。
ヒナタにはこの会話が聞こえていたが、口を出さなかった。先ほどクロキから感じた違和感の正体を、ササキさんはわかっているのだろうか。私の知らないクロキを、ササキは知っている。そう思うと、彼女は自分を惨めに感じた。
ケニーは生徒達にライブの宣伝を終え、生徒達は階段を降りていった。彼はササキに「ありがとうございました」と言い、傍にいるクロキを食事に誘った。
「まだレッスンが残ってるんだ。また今度にしよう」とクロキは誘いを断った。本日のクロキのレッスンはササキが全て受け持っていたが、ササキはそのことについて何も言わなかった。
「そうか。じゃあ俺は帰るよ。ライブの件は、また電話するからさ」とケニーは言うと、ササキに礼をし、受付にいるヒナタに手を振りながら帰っていった。

「あ、じゃんけん大会」と、ヒナタが思い出したかのように言った。この教室にある駐車場には、講師が停められる車の枠が1台しかない。そのため、次週の駐車場使用者を決めるための「じゃんけん大会」が毎週末の夜に行われる。未出勤の講師の手はヒナタにメールが送られてきて、出勤中の講師達の手と合わされる。メールには「1→パー、2→チョキ、3→パー」のように何パターンの候補を組み合わせる者もいたり、「チョキ一択で」という者もいる。
「やりましょう、じゃんけん大会」とヒナタが言うと、クロキとササキは受付の周りに寄る。ヒナタは携帯を取り出し、それからおもちゃのようなものを取り出した。それには、棒の先にじゃんけんのマークが描かれた紙が貼り付けてある。未出勤者のじゃんけんの手を、ヒナタが代わりに出すためのものである。
「いきますよ。一発勝負です。まずはクロキさんとササキがじゃんけんしてください」とヒナタが言うと、彼女の「じゃんけんー」という合いの手と共に、二人は手を出した始めた。クロキはグー、ササキはチョキ。そして、ヒナタが未出勤の手を「えいっ」という声と共に出す。
「シントメさんはグーです。ヒキチさんはチョキ」と、ヒナタは手のおもちゃを持ちながら言った。「ササキさんはこの時点で負けです。残りのクロキさんとシントメさんが戦います。いきますよー、じゃんけん…」とヒナタが言うと、クロキはパーを出す。ヒナタのおもちゃを手が出される。グー。クロキの勝利である。
「来週の駐車場使用者は、クロキさんです」とヒナタは拍手しながら言った。クロキは微笑みながら少し頷いた。
「またクロキ君か。強いなあ」とササキがスキンヘッドの後頭部を撫でながら言った。
「ちょっとしたコツがあるんです」とクロキが言った。
「コツ?なんですか、それ」とヒナタは聞く。
「世界の事情かな」と、クロキは言った。

ササキ主任はその日のレッスンを終えると、クロキに教室の鍵を渡し、帰宅していった。クロキは個人レッスンスタジオに置いてある自分の機材を片付け、部屋の戸締りを始めた。ヒナタは、クロキが戸締りを終えるのを静かに待っていた。
この教室があるビルにはエレベーターがないため、車椅子での昇り降りが困難である。そのため、ヒナタが出勤する日は、その出迎えを彼女の両親が車で行っている。しかし、クロキとヒナタの出勤日が同じときは、彼がヒナタを自身の車に乗せ、自宅まで送って行く。少し遠回りになるが、ヒナタの家はクロキの帰宅ルートに近いため、彼が善意で行っているのだった。
クロキは教室の戸締りを終え、ヒナタを車椅子から降ろし、彼女を背負った。
「ありがとうございます」とヒナタが言った。クロキは「うん」と一言だけ発し、ゆっくりとビルの階段を降りて行った。暗闇に続く階段を一歩、また一歩と降りる。二人は何も喋らない。この闇が存在するときのみ、二人の距離は一番近くなる。ヒナタにとって、この暗闇は感謝するべきものであった。彼の背中は、まるでどこまでも続く草原のように、何もかもを受け入れてしまう、そのような感覚を彼女は感じていた。その草原が彼女を取り込み、それは一本の木となって聳え立つ。その木はいつまでも枯れることはなく、ただ悠然とそこに存在する。そんな理想を彼女は想い描く。この背中を知っているのは私だけなのだ、と彼女は思いたかった。しかし、実際はそうではなかった。そのことにヒナタは気づいている。彼の意識は、あの人を追っている。きっと私ではなく、あの人と過ごした日々を思い返し、そこに私は含まれていないのだ。ヒナタはそんなことを感じ始めると、彼女の頬に涙が伝った。その涙は自分自身のためのものなのか、クロキのためのものなのか、彼の想う人の死のためのものなのか、ヒナタには区別することができなかった。
「泣いてるの?」とクロキは言った。
「はい」とヒナタは言う。
「そうか」
「クロキさんのせいです」とヒナタは言った。クロキが間をあける。それに意味が含まれているのかどうか、彼女にはわからなかった。
「僕はどうしたらいいのかな」とクロキは言った。
「それは、私に対して?それとも自分自身に対して?」とヒナタは聞いた。
「全部」とクロキは言った。ヒナタはどう返事すればいいのか迷った。
そうしているうちに、クロキは階段を降り終えた。そして、車の助手席のドアを開け、キーを差した後に冷房をかけた。ヒナタを降ろすと、クロキは車椅子と機材を取りに向かった。この間、いつもヒナタは車内BGMを決めるべく、クロキのCDポーチを開いて選曲する。いくつかCDを眺め、彼女はクイーンのベストアルバムを手に取り、それを車内コンポに挿入しようとした。しかし、既に何かのCDが入れてあることに気がつく。音は流れていない。ヒナタは再生ボタンを押すか迷った。ボタンを押すと、私の知らないクロキの欠片に触れてしまいそうな気がする、と彼女は思うと怖くなった。ヒナタは車内コンポの再生ボタンを押した。爽やかなイントロが流れ始めた。それはヒナタには聴いたことがない曲だった。優しい女性ボーカルが歌を始める。ヒナタはビルの前にある、小さい橋の架かる小川を眺めながら、しばらくその歌を聴いていた。
クロキが戻ってくると、彼は車椅子と機材を車のトランクに入れ、運転席に座った。クロキは車内に流れている曲のことには触れず、アクセルを踏んだ。

黒いキューブは、大船駅を通り過ぎ、鎌倉に向かった。
「これ、誰の曲ですか?」とヒナタは聞いた。
「カーペンターズ」とクロキは言った。
「イエスタデイ•ワンス•モア。生前、ユノが好きだった曲だよ」
「昨日よ、もう一度」ヒナタはそう言って、歌を聴き続けた。
「彼女は後悔していたのかもしれない」とクロキが言った。
「後悔?」とヒナタは聞き返した。
「そう。ユノは自分自身を決して許そうとはしなかった。それはユノの音楽性にも現れていた。彼女が死ぬ直前の歌声は、聴くに耐えないものだった」とクロキは赤い信号機を見つめながら言った。
「ユノさんは、どこで亡くなったんですか?」と、ヒナタはクロキの横顔を見つめて言った。
「彼女の自室だよ。首を吊って死んだらしい」とクロキは言った。
「芸術家は、自分が死ぬことによって、1つの作品を創り終えるって聞いたことがあります。ユノさんも、そうしたかったのでしょうか?」
「ユノは芸術家ではなかったと思うよ。彼女にとって歌というものは、芸術に含まれる音楽としての歌ではなく、自身の存在の証明だったんじゃないかな」とクロキは言った。
「芸術ではなく、音楽でもない…」ヒナタにはよくわからなかった。ユノという女の自己の世界では、それは当たり前のことであって、ヒナタにとってはそうではない。ただそれだけなのかもしれない。
「彼女の歌は、彼女自身だった。それだけだよ」とクロキは信号が青に変わったのを確認し、アクセルを踏んで北鎌倉の細道を進んだ。

ヒナタを家に送り届けると、クロキは自宅に向かった。先ほどまで流れていたカーペンターズは、既に停止している。その無音の空間は、鎌倉の八幡宮を過ぎた辺りで小道に入った。彼は駐車場に車を停めると、自宅がある二階建てのアパートに入って行った。アパートの左脇にある階段から、自宅のある202号室に向かう。階段は錆び付いていて、軋む音が夜の住宅街に響いた。202号室のドアの鍵を開け、部屋に入る。シャワールームとキッチンが左右にある細い廊下を抜け、リビングに進む。中央には黒いソファーとテーブルがあり、壁際に小さい本棚がある。リビングの隣にある部屋は、彼の音楽機材置き場となっている。かつてはそこでレコーディングなどを行っていたが、今は物置き場と化している。
クロキは車から運んできた機材を物置き場に置くと、ソファーに腰掛け、ポケットから金のジッポライターを取り出してタバコに火を付けた。クロキは、ユノからプレゼントされたジッポライターをしばらく眺めた。貰った当時は金ぴかに輝いていたものが、汚れてくすんでいるのがわかる。まるで人間関係みたいだ、とクロキは思った。初対面の人間同士が、親睦を深めていくにつれて、相手の粗を見つけ出してしまう。その粗から目を背けたり、一生懸命に噛み砕いて自分の中で消化しようともする。だが、クロキにはこれが出来なかった。そして、この行為から目を背け始めてから、クロキは他人の心には深く足を踏み込まないようになった。
「僕はどうしたらいい」と、ヒナタに言った言葉を思い出す。クロキは頭を働かせた。

僕は、かつてユノという人間が存在していたことを知っている。しかし、僕はそれを噛み締め、飲み込み、自身に消化する作業を行わなければならない。しかし、その手段を知らない。僕は、何も知らない。僕という人間が誰なのか、ということすらも。
もし、この現実から逃れられる方法があるとすれば、それはユノという人間の意味を、そして自分自身を知ることなのではないか。
クロキは考えを巡らせた。まるでそれは、全く他人同士のミュージシャンが初めてセッションをしたかのように、ぎこちなく始まったのだった。

6 クロキ

僕はその日、ユノの事、仕事のこと、これまで送ってきた人生のこと、そしてヒナタのことについて一通り思い返していた。ユノが死ぬ直前、僕はこれまでの人生をそれとなく送ってきた気がするが、彼女にとって僕という人間は「何もない」という空っぽの容器のような存在だったのかもしれない。
ユノと出会ったのは、地元の駅前で行われていた街角ライブに僕が客として見物していたのがきっかけだった。当時、僕はギター講師の仕事をしながら、特に目標もなく、まるで漠然と砂漠を這いずり回るサソリみたいに、動物的な生活を送っていた。朝起きて食事をとり、そして仕事場に向かう。生徒にギターを教え、昼食をとり、またギターレッスンを行う。そして仕事が終わると帰宅し、夕食を終えてからシャワーを浴びて寝る。特にこれといった変化もなく、音楽学校を卒業してから、この生活を繰り返していた。この事をユノに話すと、彼女は僕のこの生活を全面的に否定し、嫌悪感を抱いていたようだった。といっても、僕が自ら話す前に彼女は僕の生活をある程度見抜いていたようだった。
街角ライブで聴いた彼女の歌声は、僕の脳髄に新たな液体を瞬間的に注入するかのごとく、僕自身を侵食していった。これは僕にとって初めての経験ではなく、学生時代にギターと出会ったときに感じたものと近い感覚だった。僕はギターと出会った時、それに触れることと無縁だった人生を後悔した。そしてまた、彼女の歌声を聴いたときも後悔した。ユノという人間がこの世に存在しているということに気がつかなかったことに。
今まで様々な音楽を聴いてきたつもりだったが、ユノという人間が作り出す歌声はどの音楽にも属さない、人間にとって普遍的な何かを感じさせるような不思議なものだった。手招きして聴者を誘っているようでもなく、同情を漂わせるようなものでもなく、流行に便乗して個人を押し殺すようなものでもない。彼女が居る空間は彼女だけのものであり、他者を寄せ付けるようとしない、極めて個人的な歌声だった。それは万人受けするものではなかったし、彼女もそれは望んでいるように見えた。僕はそれらを感じ取りながら、なぜ彼女が音楽をしているのか疑問に思った。その疑問は、もしかしたら自分自身に対する問いかけだったのかもしれない。「なぜそれをするのか」という問いかけに、自分に正直に答えられる人間はいるのだろうか。少なくとも、僕はそれに答えられる人間ではなかった。
あの声は一体どこから生まれているのか、歌声からヒントを探そうとしているとき、足元に「ゴンッ」という衝撃が走った。足元には、車椅子の少女がこちらを睨んで佇んでいた。どうやら、僕の楽器機材がその少女の進行の妨げになっているようだった。僕は機材をどけた。しかし、少女の意識は僕ではなく、ユノの歌声に向いていた。ライブはいつのまにか終わったようだったが、ユノの残響は僕だけではなく、車椅子の少女をも侵食したようだった。僕はポケットにしまっていた仕事先のギター教室のチラシを少女に渡した。渡した理由は今でもわからない。だが、無意識的にその少女と自分を似た者同士だと感じたからかもしれない。
車椅子の少女がどこかへ行った後、僕はライブの片付けをしているユノに話しかけた。先ほど感じた疑問を解決するために。ユノという人間を知るために。
スタッフらしき人物が複数人いる中、誰がユノであるかはすぐにわかった。腰まで伸びた髪の毛と白いワンピース、細い足のラインを強調させるジーパン。見た目は美人の類ではあったが、彼女を象徴する一番の部分は声だった。ボーカリストは地声と歌声は一致しないことが多いが、ユノの声は歌声とほぼ同じだった。これは珍しいと思い、僕は更に彼女を知りたくなった。
「こんにちは」と僕が声をかけるとユノは一瞬表情を止めたが、僕が背負っているギターを見ると、僕が音楽人であると理解したのか、軽く微笑んだ。しかし、目は微笑みに含まれていなかった。
「こんにちは。何かご用?」とユノは言った。それは、まるで友人同士が電話で話す最初の会話のように感じた。
「歌の理由が知りたい。なぜ君は歌うのか」と僕が言うと、ユノは想定外の言葉を言われて驚いた様子を見せた。おそらく、「歌、よかったよ」のような、言われ慣れた褒め言葉を聞く予定だったのだろう。ライブ後に話しかけてくる人間で否定的な事を言う人間は少ない。
「ちょっと待ってて」とユノは言うと、片付けをしているスタッフらしい人物と少し話をし、またこちらに戻ってきた。
「少し話をしない?あっちに喫茶店があるから、そこに行きましょう」とユノが言った。
「まだ作業が残ってるんじゃないのかな?」
「大丈夫。これも作業の内だから」とユノが言った。ユノにとっての「作業」とは何を指すものなのかわからなかったが、心地よい響きではなかった。
僕とユノは、すぐ近くにある喫茶店に入った。僕はアイスコーヒーを注文し、ユノはカフェオレを注文してから席についた。ユノはストローでカフェオレを一口飲んだ後、僕の目を見つめて、静かに話し始めた。
「さっきの話の続きをしましょう。あなたは私の声から何かを感じ取ったんでしょ?それは誰にでもよくある話。でも、あなたは私に疑問を投げかけた。あんなこと聞かれたの初めてだからビックリしちゃった」
「僕も驚いたよ。あんな歌声は聴いたことがないし、衝撃だった」
「でも、あなたが感じたのは、感動とか共感とかではないんでしょ?」
「そうだね。なぜ君が音楽をしているのかが理解できない」
「その台詞、相手が私じゃなかったら怒られるよ」とユノが笑いながら言うと、カフェオレを一口飲んだ。
「多分、ある意味ではあなたも私と同じなんじゃないのかな。あなたの言っていることは私に投げかけてるようでもあって、自問自答をしてる」とユノが言った。
「それはわからない。でも、君の歌声からはミュージシャンとしての信念のようなものが感じられなかった。主張してるわけでもなく、共感を求めているわけでもない。かといって何もないわけでもない。歌声としての君自身は確かにあの場には存在していたけど、実体が無かったように思う。でも、君の声は僕に影響を与えた。この理由が知りたい」と僕は言った。
「何を言ってるのかあんまり理解できないけど、私はただ自分自身として生きていたいだけなの。受動的ではなく、能動的に」
「それは、本能で音楽をやっているってことかな?」
「そうかもね。あなたと同じように、自分を探しているのかもしれない。私は何かを作ることによって、そこから自分を見出そうとしているんだと思う。今まで色々作ってきたの。イラスト、陶芸、電気回路、照明…結構な数になるけど、今は音楽。ただそれだけ」
「本能」
「そう、本能」とユノは言うと、空になったカフェオレの容器をストローで掻き回しながら、続けて言った。
「ねえ、一緒に音楽やらない?あなたが探しているものは、私と一緒なら見つかるかもよ」とユノはあどけない笑顔を浮かべながら言った。
僕は「やろう」と言うと、ユノと連絡先を交換してから別れた。彼女は長い髪を揺らしながら、小走りでライブ会場に向かっていった。

僕は彼女と出会うことによって、何かわかったのだろうか。変わったのだろうか。

7 ユノ

「ユノ、起きて。そろそろ出番よ」という声が、何処かで聴こえた。ユノは今、目を閉じている。薄暗いオレンジ色の照明がステージ脇にあるドアの隙間から漏れ、それがチカチカと明滅している。オレンジは赤に。赤が青へ。ユノは瞼越しに、この風景を味わっていた。その味は、遠い昔話の中に住む眠り姫が、王子様のキスで起こされる瞬間のように、甘く、愛おしい時間だった。どうやらそれを妨害しようとする者がいる。そう思い、ユノは怪訝な顔を浮かべながら瞼を上げた。
「ほら、ユノ。次だよ、次」と、目の前に立っている女性が言った。ユノと同じバンドメンバーのチアキである。彼女は茶色のショートカットをポニーテールにしていて、低い身長が彼女の活発さを感じさせる。
「うん」とユノは返事をすると腰を上げ、ステージ脇のドアを開けようとした。
「まだよ、まだまだ!次よ、次!」とチアキは言った。今じゃなければ一体いつなんだ、とユノは思った。
「寝ぼけてるんだよ。いつものことだ」と、立ってギターを構えている男が言った。クロキである。
「あたし、もう本当に毎回ドキドキしちゃう。ライブを寝過ごしました、ごめんなさい、なんて言い訳はお客さんに通用しないんだからね!」と、チアキはユノに厳しく注意した。
「ごめんね、うん、ごめん」と、ユノはそれを適当に受け流しながらクロキに近付いていく。ユノとクロキの顔の距離が20センチほどまでに近付いて、ユノの動きはそこで停止した。まるでカップルがキスする間近のように見えるが、そうではなかった。
「なに?」とクロキは動揺せずにユノの目を見つめている。
「ねえ、何を見てるの?」
「今は君を見てる、強制的に」
「違うの、そうじゃない」
「そうじゃない?」
「うん」
「何が言いたいの?」
「わからない。でも、なんとなく思ったから」とユノは言った。クロキにはユノの言っている意味がわからなかった。ユノは感覚をそのまま口にするときもあれば、日常会話をごく普通にこなすときもある。その両者は、クロキにとって全く違う人物が「ユノ」という物体を行き来しているように感じるものだった。まるで多重人格のように。クロキには、ユノが一体どんな人間なのか、未だ掴みきれていなかった。
「ほらほら、甘いアバンチュールの時間はもうおしまい。さあ、あたしらの出番よ」とチアキが二人の背中をバシっと叩く。先ほどまでステージでライブを行っていたバンドメンバー達が、ドアを開けて入ってきた。彼らは汗だくになりながら「お疲れ様でした」と、ステージ袖で待機している他のバンドメンバー達に声を掛け、この場を出て行った。少し間を置いて、ユノ達がステージに上がる。ユノ達のバンドはアコースティック編成である。クロキがアコースティックギターを弾き、チアキはアコースティックベースを弾く。そして、ユノが歌う。このシンプルな編成は、ユノの「気持ちいいから」という言葉で決まったものであった。このライブハウスはキャパが200人ほどの小さな箱で、本日は参加するバンドが少ないのもあり、客員数はほどほどだった。ステージには、ユノが選曲したシガーロスの曲が流れている。音は静かに流れ、そこには歌はなく、ただ延々とストリングスが鳴っているだけだった。三人はライブスタッフと共に、演奏の準備を始める。クロキはライブ慣れしているためか、緊張した様子を見せていない。チアキは緊張しているようで、準備に手間取っているようだ。ユノがステージの前に4本の電球蝋燭を並べる。まるで新興宗教の儀式でも始めるかのように、それはゆっくりと行われた。ユノはその儀式を終えると、待機時間の暇を持て余したのか、クロキと小声で会話を始めた。
「ねえ、緊張してる?」とユノが言った。
「してないよ。よくないとは思うんだけど。君は?」とクロキは言った。
「もう限界」と、ユノは微笑みながら言うと、腰まで伸びている髪の毛をかきあげた。何に限界を感じているのか、クロキにはなんとなくわかった。彼女はステージ上に立っている際に感じる緊張感に限界を感じているのではない。ユノ自身の表現者的欲求が暴れ、まるでユノという牢獄から脱出でもしようとしているように、彼女の内面性が掻き乱れているのではないか。檻の強度が限界に達している。クロキは、先ほど見つめたユノの目から、そう感じていたのだった。僕が緊張を感じなくなったのはいつ頃からだろうか、彼はそれを思い出しながら、彼は蝋燭の光を眺める。ユノはステージ中央に戻り、彼女もまた蝋燭の光を眺めた。
チアキの準備が終わると、三人は目で確認し合い、クロキがギターを弾き始めた。蝋燭の火は乱れることなく、ステージにわずかな光を灯し続けている。

ライブが終わり、客が全て退出すると、ライブハウスは出演者の打ち上げ会場として使用された。これに参加するチアキに引き止められたが、ユノとクロキは打ち上げには参加せずに帰宅した。クロキは飲み会のような雰囲気が嫌いだった。酒が入ると、普段溜まっている人間の本能が吐き乱れる空気に、彼は耐えることが出来なかった。無礼講、この言葉も好きではなかった。普段言えないことを飲みの場でなら言える。しかし、酒が入らないと言うことが出来ない。だとしたら、普段言えない事というものは、それは無意識的に相手に投げかけるまでもないレベルのものでもあるんじゃないか。クロキには、この矛盾しているような感覚を認めることは出来なかった。
ユノも毎回の飲み会には参加せず、クロキの車に乗って帰る。そのため、二人で話す時間は次第に増えて行った。
ライブハウスのある地下から階段を登り、二人は外に出て駐車場に向かった。雨が降っている。それは、クロキが持つ機材ケースが揺れる音も、ユノの靴音も全て吸い込んでいった。クロキはユノの後ろを着いて歩く。二人は駐車場に着くまで何も喋らなかった。
駐車場に着くと、クロキはトランクを開けて機材を積み込んだ。ユノは助手席に座り、クロキの姿を見ていた。クロキはその視線に気が付いたが、何も喋らなかった。クロキは車でユノの住む北鎌倉に向かった。車内にはワイパーの動く音のみが鳴っている。たまにウインカーのカチカチという音が車内に響く。前方左側の地面に、ウインカーのオレンジ色が照らし出される。二人はその音と明かりを見ながら、先ほど行ったライブについて思い出していた。
「今日はどうだった?」とクロキはユノに聞いた。ユノは視線を前に向けたまま首を動かさなかった。
「あなたはどう思うの?」
「いつも通り。特に変わった出来事もなかったんじゃないかな。演奏自体もまずまずだったと思う」
「本当に?」と、ユノはクロキの方を向いた。
「うん、本当。何か問題でもあったのかい?」とクロキはその視線を感じながら運転を続ける。
「いいえ。でも、あなたは本当は納得していないんじゃないの?私の歌にも、チアキの演奏にも。それにあなた自身についても」
「そんなことはないよ。そりゃ、100%の演奏なんて誰にも出来ないさ。小さなミスだって生まれる。自分で100%だと感じられても、それはお客さん全員にとって100%と成り得るわけではないだろう?個人差もある」
「妥協」とユノは言った。クロキはその言葉に動揺した。ハンドルを握っている手に力が入る。
「妥協?僕が手を抜いてるって言いたいの?」
「いいえ、そんなことはない。あなたの演奏は素敵だと思う。でも、あなたはお客さんのためではなく、あたしやチアキのためでもなく、そして自分のために弾いてるわけでもないように感じる」
「何が言いたい?」
「あなたは、何のために演奏しているの?誰に向かって演奏しているの?わたしはあなたの演奏がたまに怖く感じるときがある」とユノが言った。クロキは返事をしない。ユノは続けてクロキに質問する。
「あなたは何を求めているの?」とユノが言うと、クロキは信号機が赤になったのを見てブレーキを踏み、大きく深呼吸をした。
「君はなぜ自分が音楽をやっているのか説明できる?」と今度はクロキが質問する。
「証拠としての形作り」
「証拠?」
「うん。よくあるじゃない、自分の生きた証拠を残すために芸術作品を後世に残すっていうの。それかな」とユノは言うと、あなたは?と問いかけるような視線でクロキを見つめた。信号機が青に変わり、クロキはアクセを踏んだ。
「僕にはそれが理解できない。ギターを初めて弾いたときは身体が震えるまでの衝撃を感じた。それから随分と時間も経ったけど、自分がなぜ今までギターを弾き続けてきたのかもわからないんだ」
「多分、あなたはギターと出会わなくても今と同じだった」とユノは彼から話を引き摺り出すように言った。
「かもしれない。僕はなぜ今も生きているのかわからない。でも、今まで何も目標が無かったわけでもないし、今だってやりたいことはいくつかある。生きる目標なんて人生全て使って探し出せればいいと頭では理解しているんだよ」
「それなのに」とユノは続きを促した。
「自分がわからない」とクロキは言った。ユノは「そう」とだけ言って、暫く黙っていた。少し間を置いて、ユノが言った。
「あなたが今言ったことは、私の歌のことでもあるのね?」とユノは言ったが、クロキは何も言わなかった。
「あなたは私の歌を聴いていない。あなただけじゃなく、誰も聴いていない。みんな、目の前に提示された音という食品を飲み込んでいるだけ。野生動物のように目に前にあれば食べる。無ければ求める。求め続けて、もしそれが自分の欲求を満たすものでなければ失望する。失望して、救いを求める。全員、悲劇役者にでもなった気分でいる。他人のために言葉を発したりする人間なんか誰一人としていない。必ず自分のために言葉を放つ。放った言葉に影響を受けた相手の存在があれば、人は自身の存在価値をやっと認めることができる。自分の存在価値を他者に求めているのよ」
「君の歌からは、そういうものは感じられない」とクロキは言った。
「私は自分のために歌ってるもの。音楽で他人に共感してもらおうとは思わない。私は、私であるということが証明できるものがあれば手段は問わない。何でもいいの。でもね、最近わかったことがある」とユノが言った。クロキはユノを横目で見ると、彼女は微笑んでいた。
「元々、自分が何もなかったんじゃないかって。今はそう思う」とユノが言った。
「それは、あなたも同じ」クロキは何も言わなかった。
クロキがユノの自宅近くで車を停車させると、彼女は降りてしばらくクロキを見つめていた。そして、確かめるように言った。
「自分は今まで何も持っていなかった。そう思うの」それだけ言うと、ユノは車のドアを閉めて帰っていった。長い後ろ髪はなびくことなく、雨音と暗闇が作り出す空間に溶け込もうとしている。クロキはユノの後姿を見ていた。ユノは一度も振り返ることはなかった。クロキは車を出し自宅に向かった。少ししてから、クロキはユノのCDが車内コンポに入ったままになっていることに気が付いた。クロキはCDの再生ボタンを押すと、スピーカーからカーペンターズの曲が流れ始める。悪くない、とクロキは思いながら、暗くなった雨道を車で進んだ。

ユノが死んだのは、その夜のことだった。

7-2 黄金の魚

ヒナタは夢を見ていた。彼女は、穏やかな波間を漂う白いゴムボートに乗っていた。雲一つない青い空が広がっていて、周囲に島は見られず、太陽は強い日差しを作り出している。
どこからか、鳴き声が聴こえた。海鳥が2匹、ヒナタの頭上を飛び回っている。内の1匹が海に飛び込み、しばらくすると口に魚を咥えて再び空に飛び上がった。その鳥は魚をヒナタの乗っているゴムボートに落とすと、一回鳴いて、遠くに飛んで行った。その後を追うように、もう一匹も飛んで行った。ヒナタは、海鳥から受け取った魚を手に取る。魚は黄金色をしていて、まるでツタンカーメンのように一定の表情を変えることなく固まっている。魚は金板のようなもので出来ていて、日光はそれに反射するとヒナタの目を刺した。光はヒナタの脳内を直接刺激して頭痛を催させると、ヒナタは吐き気がし、海に嘔吐した。黒い塊が海に浮かぶ。すると、またどこかで鳴き声がした。数え切れないほどの海鳥が黒い塊に群がり、それを嘴で突いて食べ始めた。塊を全て食べ終えると、海鳥はヒナタを鋭い嘴で突く。左目が抉られ、それに鳥が群がる。そして左目も抉られる。腹は爪で引き裂かれ、臓物を引き摺り出す。ヒナタは抵抗しない。自身を誰かへの捧げ物と確信でもしているかのように、この現象を受け入れようとしている。両手に持った黄金の魚の光は霞むことなく太陽光を蓄え、ヒナタと共に存在している。ヒナタは意識が遠のく中、手から伝わる温もりを感じ続けていた。

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以下、更新予定

イエスタデイ ワンス モア

イエスタデイ ワンス モア

真夏の夜に、インディーズバンドの女性ボーカリストが死体で発見された。音楽教室のギター講師であるクロキは、彼女の死んだ理由を探しながら、自身の抱えている問題と向き合っていく。クロキの同僚である受付嬢のヒナタは、そんな彼を想い、どう動くのか。※未完成作品です。加筆•修正しながら書いています※

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-15

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  1. 1 反応
  2. 2 普遍的であり変動的なもの
  3. 4 ヒナタ
  4. 5 セッション
  5. 6 クロキ
  6. 7 ユノ
  7. 7-2 黄金の魚
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