才能
一瞬の才能を切り取って、もし自分のものにするとしたらその才能はどこまで自らの後ろをついてまわるだろうか。
反語でいうならば、どこまで人はその才能と付き合っていけるだろうか。一対一の孤独な戦いだ。誰もが自らの鏡にうつる姿を恐れて、俯いたままに悲観しては他人の才能を自分にはない一攫千金の宝山のように見上げて、羨んでいる。だから
「才能に苦慮している」
そういっても誰も立ち止まりはしない。
同種のものも才能を賛美する凡人のフリした誰かも歩みつづけ、時折に言葉を残していくのは才能と結婚した人物だ。
その才能の前に自分を刻んで、これは自分のものだと臆面なく主張するその姿に如何にして、恋人にさえなれず友人かも怪しいままに知人を続ける彼らに響くのだろうか。
才能は生まれたときに自分が自分に与える運命の相手だ。
運命が陳腐というなら、生前からの血縁者でも、もう一つの心臓だとか、やけに冗長じみたものでも構いやしない。とにかく、才能がないという限りは運命だろうが血縁者だろうがダイヤンモドの石ころでも、それは才能の片鱗を一つとしてさえ見せないだろう。だが、生命は時として泥で濁りきった流れだけをつくる。生命の水さえ氾濫しているというのに、どうやって底の屑をかき分けて石を見つけようというのか。
潜って、泥を肺に流し込んで屑と同じく沈殿するのか。
もはや才能を見つけることさえ才能だと、どこかの傍観者がごちる。
そもそも才能を見つけて付き合ったとして、幸福な結婚に辿り着けるかとどこかの制服に身を包んだ理想家が口にする。
誰もなにもいえないだけで、見えないだけで、もう知ってるだろう。
自分の濁流は時として生命だというなら、その水量がどこから来ているのか。
いつ、その清らかな、もしくは初めから泥のそれは自らの丈を超えてこの身の首に届いて、憧れさえした銀色の研いだナイフを薙ぐように、しかし至って醜く干上がるのだろうと。屑といいはなったそれが、一生分の宝石かもしれないと、自殺行為と指さされながら、身丈をわざわざ低くして枝やら亡者やら腐敗したそれに触れ合いすぎた傷だらけの手が、それを掴んだとき、自らの鏡の前に立って笑えるほど、その宝石は見事か?
いつかの恋人が地球どころか何億光年先の理解の及ばない場所で宇宙の屑と同じようにゴミとして漂っている。
流れを沈めて、濡れ鼠の体をようやく伸ばした先で視界を埋めきる星を見つめたとき、自らの瞳から流れるそれは見上げた星たちと同じ輝きを持っているか。自らが身を沈めても、腰元まで浸かるその嵩に容易く飲み込まれる小人が指さし眺める星と同等の輝きをいまの姿は持ち得るか。
その小人の腰元まである水を、自らからすれば膝に届くかも危うい水を覗き込んだときに他人は容易く、地上の星を見つける。
俯けば、波打つ鏡がそこにある。自分の姿を映す鏡だ。
自分の腰元までは容易に届く水でもあるので、溺れない覚悟が必要だ。
才能
夜中にろくすっぽも推敲しないで感情のままに書きなぐった結果がこうなりました。おかげで気の利いた題一つ浮かびません。
あ、ちなみに鏡の前に立ち自分を見るとき人間はいつもより、いい顔つきに自然となるそうです。
一種の自己陶酔もしくは自分の目であっても、見られているという感覚がそうさせるのでしょうかね?