それから
とにかくしっかり書くのは初めてなので
どうなるか判りませんが、頑張ります。
彼女は僕に勇気をくれた。
彼女と言っても恋人だったわけではない。
僕は彼女の声を知らない。
僕は彼女の顔すらも知らない。
ただ、彼女の好きなものを少し知っていて、
それが僕も好きだったと言うだけだ。
僕たちはペンフレンドだった。
彼女は僕に幸せをくれた。
それから、少しだけ苦しみをくれた。
15年前、僕たちは中学生だった。
15年前の夏は所謂冷夏で、その秋には現代の米騒動だ、
なんて頻繁にテレビのワイドショーが煽っていた。
僕はその出来事に全く興味がなかった。
家に帰れば食事は用意されていてたし、
そのうえ、食べたくなければ食べなくても
父も母も何も言わなかった。
父と母が口を出すことは学校での成績のことだけだった。
しかし、裏を返せば成績が悪ければすべてのことに口を出してきた。
僕がファーストフードを食べて帰れば、
「そんなものを食べているから、成績が…」と言われるし、
僕が部屋で音楽を聴いていると、
「そんなものを聴いているから、成績が…」と言われる。
僕は成績をある程度保つことと、親の前では優等生を演じることだけに
気を使って、それなりに毎日を過ごしていた。
部活も幽霊部員、クラスでも地味な男子グループの外野。
家でもおとなしくていい子な優等生。
なにかが欲しかった、そして僕はパンクに出会った。
彼女と文通を始めたのは、ある音楽誌がきっかけだった。
文通相手募集の欄に当時僕が大好きだったバンドの名前があった。
そもそも僕は手紙なんてマメに書くタイプじゃないので
そのバンド名が書いてなければ目を留めることは無かっただろう。
そして文通相手を募集していたのが、同じ中1の女の子じゃなければ、
文通をすることも無かっただろう。
そして彼女との文通が始まったのだ。
初めは好きなバンドのことばかりをお互い書いていたのだけど、
半年ほど経った頃から彼女は少しずつ
彼女の心の中のことを書いてくるようになった。
僕の勤める大学病院の循環器内科部長はカテーテル術の分野では
世界的な権威であり今でも新技術の開発に携わっている。
その、部長からこのたびアメリカで設立される
循環器内科の研究機関に僕を推薦したいと言う話しをもらって
もうすぐ3週間経つ。
僕は今でも岐路に立たされたとき、決まって彼女のことを思い出す。
そして、あのころの自分のことを思い出す。
それまでは、好きなバンドの曲についてや、
なんとかと言う雑誌でメンバーがインタビューを受けてたのを
読んだ感想についてだとか、そういう内容の手紙だったのだけど、
僕らが中2になってすぐくらいから彼女はいろいろな気持ちを
手紙に書いてくるようになった。
彼女は夜が来るのが怖いと言った。
そのまま朝が来なかったらと考えてしまうことが
よくあるのだと言った。
彼女は自分のことが嫌いだと言った。
僕は、太陽は君の事が好きだから必ず明日も会いに来るし、
夜が暗く長いほど美しい太陽が君に会いに来るはずだと元気付けた。
直接だと、こんなキザなことは言えるもんじゃない。
ただ、お互い顔も知らない同士だから言えてしまうものなんだ。
きっと彼女は随分と僕のことを美男子だと思っていただろう。
二人の住んでいるところは少し遠かったので、
中学生の僕には彼女に会うことはできないものだと思っていたし、
会うこともないだろうと思っていた。
だから僕は彼女の中でだけは美男子でいるつもりでいた。
もし彼女が会いたいと言ってきたらどうしようかと思っていたが、
文通を始めて1年が経っても、
彼女が会いたいと言ってくることは無かった。
ただ、その頃から彼女はたったひとつだけ、
願いがあるのだと書いてくるようになった。
僕の祖父も父も医者で、当然のように将来は
自分も医者になるものだと小学生の頃から漠然と思っていた。
引かれたレールの上を進まされる自分が実は嫌でしかたなかった。
でも、それに反抗する勇気も動機も持っていなかった。
だから、僕はパンクロックを聴いても
本当に響いてくることはなかった。
ただ、反抗に憧れていただけだった。
憧れに近づこうと、行動することはなかった。
彼女への手紙の中にだけ憧れの僕がいた。
部活では中心選手で仲間から期待されていて、
クラスではいつも楽しいことを企画する明るい人気者。
父も母も理解があって、自由と信頼を得ている。
憧れと言えば聞こえはいいが、平たく言えばデタラメだ。
僕は彼女にいい格好をしたかった。
それは、彼女によく思われたいというよりも、
本当の自分を知られたくないという気持ちが大きかった。
彼女はデタラメの僕に、尊敬の言葉をくれた。
僕は彼女からの手紙を読むたび胸が痛くなった。
彼女が彼女自身を嫌いだと言ったのが、僕には衝撃だった。
僕も僕自身のことが嫌いでしかたなかった。
でも僕は、それを口にする勇気すら持っていなかった。
しかも、彼女にさえ格好をつけて、キザなことを言って
自分の本音を言うこともできなかった。
ある日、彼女が僕らの大好きなバンドの曲の一節を訳詞した。
♪あなたなら何でも出来る、だからその手を開いてごらん♪
彼女はそれを自分自身に言い聞かせているのだと言った。
彼女との文通のきっかけになったバンドの曲を聴く時でさえ、
親の顔色を窺って音量を抑えて聴く始末だ。
僕はパンクロックが好きだと言いながら、
パンクロックの心をこれっぽっちも持っていなかった。
僕はアイデンティティを持っていない自分を
見ないフリをして、日々を過ごしていた。
中2の七夕を前にして、短冊に願い事を書くという課題を
ホームルームの時間に行った。
どれだけ考えても僕には願い事がなかった。
それまでの僕なら、
『みんなが幸せになりますように』とか
『いい大学に行って、医者になりたい』とか
適当に書いただろう。
ただ、そのときの僕は少し違っていた。
ホームルームが終わっても書くことが出来なかった僕は、
翌日に提出するように言われ、短冊を持ち帰ることにした。
自室でも願い事は思いつかなかった。
僕は、オレンジ色の短冊にオレンジ色のペンで
大好きなバンドの曲の歌詞の一節を書いた。
♪The voice I hear in your mind.
Tell me a ride in the wind.
Light passing through the trees.
The scent of you stay behind.♪
僕には願い事がなかった。
それを悲しいとも思っていなかった。
彼女と文通を始めて1年ほどした頃、
夕日を綺麗だと思えるようになったと書いてきたことがあった。
しかも、それは僕のお陰だというのだ。
その上、僕のように考えられる自分になりたいとまでいうのだ。
しかし、彼女に手紙を書いているのは、
本音の僕ではなく会うことのないのをいいことに、
格好をつけているだけの作り物の僕なのだ。
彼女は自分の部屋の窓から夕日が沈むのがよくみえるのだが、
以前は夜を連れてくる夕日が嫌いでしかたなかったという。
しかし、僕の手紙を読んでからは、
夕日に「ありがとう、わたしもあなたが好きだから
明日も会えるのが楽しみだわ」と言えるようになったという。
そして彼女は夕日に願いをかけるのだという。
彼女の願いは、一度でいいから、
あのバンドのライブに行ってみたいということだった。
彼女がいつか僕のようになれたら、
あのバンドのライブで一緒に盛り上がりたいと
書いた手紙を読んだとき、
僕は変わるべきなのは自分だと思った。
僕は変わりたいと思った。
僕は怖かった。
自分さえ見ようとしていなかった僕が、
変わろうとすることはとても怖いことだった。
僕はそのころ新しくリリースされた、
あのバンドのアルバムを何度も何度も聴きながら、
変わるためには、一体何をすればいいのか、
今の僕はどんな自分に変わりたいのか、
そんなことを、ずっと考えていた。
簡単に答えなど出るわけもなく、
学校でも家でも相変わらずな自分に嫌気がさした。
僕の周りには、僕が変わろうと変わるまいと
どうでもいい人達しかいない。
僕は一週間ほどそればかり考えた。
部活で活躍したいとか、クラスの人気者になりたいとか、
親の顔色を窺って生活しないで済むようになりたいとか、
そういう自分に変わることが重要なのではなく、
彼女に嘘をついていた自分を、彼女に本当の自分を曝け出せない自分を
変えることが、僕にとって最も大切なことだと気が付いた。
それでも、何をすれば変われるのかはわからないままだった。
僕は彼女に手紙を書いた。
本当の自分を正直に書こうと決めた。
僕は本当は彼女の思っているような考えじゃなく、
格好をつけていただけだったこと。
僕は本当のことを、口にする勇気もないということ。
僕にはパンクロックの心がないということ。
僕は自分のことが嫌いだということ。
今まで彼女の手紙にデタラメばかり書いていたこと。
そして、変わらなくちゃいけないのは僕だということ。
とにかく、彼女に謝りたかった。
彼女からの手紙を読むたび胸が痛かったことは書かなかった。
僕はいつもより長い手紙を書いた。
僕は覚悟していた。
本当の自分を知った彼女に嫌われてしまうかもしれないことを。
しかし、彼女からの返事はすぐに届いた。
彼女は、僕が本当のことを手紙に書いたとき、
僕はもう以前の僕とは違うんじゃないかと書いてくれた。
変わらなくちゃいけないことに気がついた僕は、
もう変わり始めたんだと書いてくれた。
そして、彼女は僕のためにと、新しいアルバムの曲の訳詞を添えてくれた。
♪僕が世界を変えてやる
それは僕が変わること
僕が僕を変えること
それは世界を変えること♪
この曲が彼女のお気に入りだと。
僕はあのバンドの曲を大音量でかけながら、
何度も彼女からの手紙を読み返した。
彼女に本当の自分を打ち明けてから、
まるで世界が変わったようだった。
中2の冬、中3の春はただただ楽しい毎日だった。
部活にも出席してないし、クラスの人気者にもなってない、
家でも相変わらず親の顔色を気にしている。
それでも、言いたいことは言うようになったし
なんだか周りの人たちも変わったような気がした。
そんな僕の状況を彼女への手紙に書くのが楽しみだった。
彼女は自分のことのように喜んでくれた。
彼女への手紙を書くとき、彼女からの手紙を読むときは
決まってあのバンドの曲をかけた。
僕は彼女の望みを叶えてあげたいと思った。
いや、本当は僕が彼女に会いたかったのだけど、
折角ならあのバンドのライブに一緒に行きたいと思った。
そのころの僕は特にお金を使うこともなかったので
毎年お年玉を貯金箱にためていた。
祖父は特に僕に甘く、お年玉をたくさんくれたものだった。
僕は彼女の願いを叶えようと決めた。
夏休みの野外ライブのチケットを僕は彼女に内緒で手に入れていた。
僕は有名私立高校の進学コースを受験することにしていた。
僕は親の敷いたレールを進む中に僕なりの能動性を持って
医者になることを目標にした。
そのことを彼女への手紙に書いたとき、
彼女は心から応援してくれると言ってくれた。
彼女は僕の受験を心配して、邪魔をしてはいけないんじゃないかと、
受験が終わるまでしばらく文通を控えたほうがいいのかと、
書いた手紙を送ってきた。
そして1学期の終業式の日にライブのチケットを手紙に一緒に入れて送った。
彼女とあのバンドのライブを見て、
受験頑張るから必ず来て欲しいと手紙に書いた。
うれしくて声を出した。
うれしくて思わず声が出てしまったなんてことは、
このときの彼女からの返事を読んだほかに、
僕の人生の中にあっただろうか?
目標にしていた、丘の上の私立高校に合格したときも、
推薦枠の極めて少ない医学部に進めたときも、
先月、循環器内科の部長からアメリカ行きの話しをもらったときも、
うれしくないはずはなかったし、素直に喜んだけど、
あの日の彼女からの返事に目を通したときの喜びにはかなわなかった。
その理由を考えたことはなかったけど、
なんとなくわかっていることがあった。
それは、彼女が一緒に喜んでくれたということだ。
彼女は突然送ったチケットをすてきなプレゼントだと喜んでくれた。
ライブの日には必ず来てくれるという返事だった。
いつもと違い短くて、
とても文学的なまるで詩のような手紙だった。
僕は俄然受験勉強にやる気が沸いて、
必死に勉強をしながらライブの日を楽しみにした。
BGMはもちろん、僕と彼女の大好きなあのバンドの曲だった。
♪僕が世界を変えてやる
それは僕が変わること
僕が僕を変えること
それは世界を変えること♪
彼女のお気に入りの曲が、僕のお気に入りにもなった。
夏休みに入ってからは、模擬テストやら、
夏期講習の準備やらで忙しかったので、
彼女への手紙が書けずにいた。
受験勉強に励む僕に気を遣ってか、彼女からも手紙は来なかった。
7月30日にやっと、
8月4日のライブの日は17時に正門の前で待ち合わせること、
12日から5日間夏期講習で茨城県に行くこと、
先日模擬テストで志望校判定Bを取ったこと、
そして気を遣わずに手紙を書いて欲しいということを書いた手紙を出した。
それでも彼女からの手紙は来ないまま4日を向かえた。
僕はチケットと彼女からの詩のような手紙をポケットに入れて、
ライブ会場に向かった。
約束の17時よりずいぶん早く付いてしまって、
彼女が現れたとき待たせてしまったと思わせたら
申し訳ないと思い心の中で
「僕も今、着いたところです」と反復していた。
僕は、ポケットから彼女の手紙を取り出し、
『すてきなプレゼントをありがとう。』という書き出しから
『らいぶの日、必ず会場へ行くわ。』という最後の一行まで
さっと目を通した。
今日までの間、そのわずか15行の短い手紙を
丸々覚えてしまうほど何度も読み返していた。
緑が鬱蒼とした公園の一角にある野外ステージには
騒々しく蝉の声が響いていた。
でも、僕の頭の中には、彼女からの
『必ず会場へ行くわ。』というフレーズがずっとループしていた。
どれくらい待ったのだろうか。
ついに約束の時間を過ぎても彼女は現れず、
開演の時間も過ぎてしまった。
会場からは大音量で僕の好きな曲や
彼らの数少ないヒット曲が聞こえていた。
僕は何度か入り口の人にチケットを見せ、
僕の席の隣りに女性がいないか尋ねていた。
でも、ただ2つの席が並んで空いているだけで
誰もいないという答えしか返って来なかった。
すっかり辺りは暗くなってライブも佳境に入った時、
そっと風がふいた。頬が風を受けて僕は気がついた。
泣いていた。
僕の涙をまるで風が拭ってくれたような気がした。
会場がアンコールの声に包まれた時、
アンコールでもし彼女と僕のお気に入りのあの曲を演奏したら、
彼女にもう一度手紙を出そう、
もし、演奏しなかったら彼女のことは諦めようと思った。
僕は唇を噛んだ。
僕はもう一度、ポケットから彼女の返事を取り出し
ゆっくりと読み返してみた。
やはり彼女は書いている、
『らいぶの日、必ず会場へ行くわ。』
僕は何度も何度もその最後の一行を読み返した。
気がつくと会場から駅へ向かう人たちが
次々と僕の横を通り抜けて行った。
どれくらい経ったのかわからないが、
辺りに人気が無くなって
さっきまでの大きな音も騒々しく鳴いていた蝉の声も
ピタッと無くなった静寂の中で、
僕は終わったんだと思った。
ライブも彼女のことも。
それから僕は有名私立高校へ進学し、
その私立大学の医学部へ推薦してもらった。
今はその大学病院に勤務している。
循環器内科の権威の先生に師事し
最先端の心臓カテーテル術を学んだ。
そして3週間前の先月末に、
循環器内科部長から来年設立される
循環器内科研究所の研究員として推薦してもらった。
来月の終わりには準備に向けてアメリカに行く。
大学時代からの友人や同僚、
もちろん父も母も喜んでくれた。
亡くなった祖父も喜んでいることだろう。
僕は自ら、まだまだ進展の激しい循環器内科の
専門医の道を選んだのだから、当然喜んだ。
ただ、何かをやり残しているような気持ちでいた。
それが、彼女のことだとわかってはいた。
中学生だったあの頃の、
彼女からの手紙を待つ数日よりも、
あっという間に過ぎていった何年間の間にも、
もしあのライブのあと彼女に手紙を出していたら
どうなっていたんだろうとか、
思い切って彼女の家に行ったみたらどうなるんだろうとか、
考えることは良くあった。
それでも僕は行動には移さなかった。
なぜなら、彼女はあの日ライブに来なかった。
なにか理由があって急に来られなくなったのなら
彼女はきっと手紙を書いてきたはずで、
彼女からその後手紙が届くことはなかった。
それが彼女の答えだったのだから、
受け止めるべきだと思っていた。
十年以上も経った今となっては、
好きだとかいう気持ちでは無いけれど、
僕がこうして僕自身を取り戻せたのは、
彼女のお陰なんだということは確かなのだ。
そして今の僕があるのも、彼女のお陰であるといってもいい。
長く離れることになる自分の部屋を片付けているとき、
彼女からの手紙をしまったお菓子の空き缶を見つけた。
蓋を開けるのはどれくらいぶりだっただろうか。
その中に彼女から最後にもらった
とても美しい詩のような手紙を見つけた。
『たいせつな気持ちを伝えたいの。』
という一行に目を留めた。
「彼女に会いに行こう」
僕は次の休みに思い切って
彼女の住む街に行くことにした。
彼女からの最後の手紙を胸ポケットに入れ、
僕は車を走らせた。
高速を使えば2時間あまりで行ける。
途中、サービスエリアで休憩をとった時、
あまりにも行動的な自分に驚いた。
普段の僕は何事にも慎重でよく考えてから行動する。
それはよく言った場合で、実のところは臆病で後ろ向きなだけだ。
今までも、彼女の街に行ってみようと考えたことはあった。
でも、会いに行って傷つく自分を想像して行動に移せなかった。
アメリカ行きを前にして、僕は後悔を残したくなかった。
僕はただ、彼女に一言感謝の言葉を言いたかった。
彼女のおかげでがんばれた自分を見て欲しかった。
きっと彼女はにこやかに笑ってくれるだろうと思った。
そして彼女は僕の選んだ道を「間違っていない」と言ってくれるだろう。
あのライブの日に伝えられなかった
気持ちを伝えたかった。
答えはわかってる。
それでも僕はちゃんと彼女への思いを
伝えなくちゃいけないと思っていた。
中学生の僕にとってあんなにも遠かった彼女の街が、
今の僕には簡単に行ける距離なのがとても悔しい。
もうしばらくで彼女の街に入る頃、
僕はこのごろあまり聴かなくなっていた
あのバンドのCDをかけた。
15年経った。
彼らのバンドもいろいろあったみたいだが、
今も地道に活動しているらしい。
懐かしい曲があの頃のことを思い出させる。
彼女はこのあたりを歩いていたのかな。
カーナビが「案内を終了します」と言って気がついた。
ここまで来て、いつもの僕が顔を出す。
急に会いに来たりして迷惑じゃないだろうか?
それこそ、もう僕のことなんて覚えていないんじゃないか?
彼女も28歳の女性だし、結婚している場合もあるだろう。
そうしたら、この街にすでに住んでいないこともあり得るだろう。
そんなことを考えていると、カーステレオから
いつか、彼女が訳詞した曲が流れてきた。
♪あなたなら何でも出来る、だからその手を開いてごらん♪
僕は胸ポケットにそっと手をあて、
覚悟を決め車を降りた。
僕は彼女の自宅の前でしばらく佇んで、
そっとインターホンを押した。
玄関のドアが開き、女性が現れた。
女性は彼女の母親だった。
昼下がりの庭には小さな花がたくさん咲いていて、
そのどれもが生き生きと輝いている。
そういったことに無関心な僕の目にも
とても手入れの行き届いた庭だと判った。
その庭に目をやっているとき、玄関のドアが開き
落ち着きのある中年女性が現れた。
軽く会釈をした僕は、思い出したように名前を言った。
僕の名前を聞くと少し驚いた様子だったが、
快く招き入れてくれた。
部屋の中はとても静かで、
空気が止まっているようだった。
庭と同様室内も掃除が行き届いていて、
なんとなく生活のにおいがしない感じがした。
時間も止まっているようだった。
彼女の母親は、なにも言わずにお茶を淹れていた。
沈黙のなかに茶器のたてる音だけがしていた。
「あなたには、謝らなければならないのよ」
お茶の入った湯飲みを僕の前に置きながら、
彼女の母親は突然言った。
僕はお茶に伸ばしかけた手を止めた。
「あら、やだ。お礼を言うのが先ですね。
あの子に会いにきてくださったのでしょう?」
そういいながら湯のみを僕のほうへすっと差し出した。
「いえ、突然すみません」と僕は答えたが
少しのどが詰まってしまい小さな声しか出せなかった。
僕は咳払いをした。
僕が湯飲みを手に取り、口をつけると、
「ごめんなさいね、あの子はいないんです」
と、彼女の母親も静かな声で言った。
「そうですか、そういうことも考えていました」
と僕が言いかけたところに、
「あの子は、亡くなったんです」と、
さらに小さな声で言った。
「えっ?」と聞き返すと、
「あなたと文通をしてたのは入院中で、
私が病室に行くと『手紙は来てなかったか?』
って毎日聞くんですよ。
自分の手紙が書けたときには、
病室に行った途端に『今すぐ手紙を出して来て』って、
本当に楽しみにしてたんですよ」
彼女は亡くなっていた。
僕は失礼を承知で、
「いつ、いつ彼女は…」
と訊いた。
「もう、13年前になるんですよ。
あの子が中学校3年年生の夏でした。
7月に入った頃から病状が悪化していたんですが、
8月4日の夕方に眠るように逝きました」
そのあと彼女の母親と一体どんな会話をしたのだろうか、
僕は彼女が見ていた夕日を見たくて、
彼女の入院していた病院の場所を聞いた。
どれくらい時間が経ったのかもわからなかった。
僕は病院の駐車場で彼女から届いた
最後の手紙を胸ポケットから取り出した。
『すてきなプレゼントをありがとう。
きょうの午後に届いたので、すぐ返事を書いています。
でも、ポストに入れるのは明日になってしまうわ。
しかたないのだけど、少しでも早く伝えたいの。
たいせつな気持ちを伝えたいの。
あさ、目を覚ますのが楽しみなの。
りんかくのはっきりした太陽が、
がんばれって言ってくれるわ。
とてもやさしいあなたのようで、
うれしくて涙が出ちゃうわ。
さいごの光がもうすぐ沈むわ。
よるを怖がるのはもう止めたの。
うまれてくる光が美しいのは、
ながい夜があるからなんだもの。
らいぶの日、必ず会場へ行くわ。』
僕は今まで何度もこの手紙を読み返していたけど、
初めて涙が出た。
そのとき、僕の頬を風が撫でた。
あの日、彼女は来てたんだと思った、
あのライブ会場に来ていたんだ。
あの日も僕の涙を彼女は拭ってくれたんだと思った。
彼女が好きになった夕日が沈んでゆく。
とてもきれいだ。
そして、僕の車のステレオからは、
あの日アンコールでも演奏されなかった
彼女と僕のお気に入りの曲が流れていた。
♪僕が世界を変えてやる
それは僕が変わること
僕が僕を変えること
それは世界を変えること♪
〈了〉
それから
最後の彼女の手紙から着想しました。
主人公(僕)が最後の手紙の暗号に
気が付いているか著者は決めていません。
取材がいい加減なので
多少のふわふわ感はご容赦願いたい。