氷炎二重奏―刹那の紅に碧空は染まる―
元、小説大賞応募作です。
氷炎二重奏 ?刹那の紅に碧空は染まる?
序
人さえも近付かない、絶海の孤島。
海の上に浮かぶ島国からも離れ、誰もその存在を知らない。全てから忘れられた孤独な島に、自分達は息を潜めて暮らしてきた筈だ。
人と殆ど変わらない姿をしていても、彼らと相容れる事は絶対に出来ないと、自分達はよく解っていたから。だから、この島に移り住んだ。その際に、遥か昔から暮らしてきた土地を、人に譲り渡してまで。
そんな事をした理由は、唯一つ。
自分達が、人を愛していたから。
愚かで短命で、卑しい。けれど、時にこちらの考えを遥かに上回る事をやってのける彼らが、面白くて。醜くてちっぽけなのに、運命に抗う様が美しくもあって。
人の間ではこの感情を「愛」とは呼ばなくても、自分達は確かに人という生き物を愛おしく思っていた。
それなのに。
「朱里(しゆり)、千草(ちぐさ)…」
己の腕に倒れ込んだ同胞の身体に、一人の青年が喉を震わせた。正確には、青年の姿形をした異形のものである。
彼が島を離れた少しの間に、彼の里は燃えてしまった。それは彼が島へと帰るほんの少し前の話で、彼の目の前には島を舐め尽くし続ける劫火が映っていた。
真紅の色は、まるで血の色の如く地面を這い回っている。その中に数多と頽れる同胞達の身体。まさに、地獄絵図と言うに相応しい光景だった。
元は美しかった新しき故郷。最愛の里。地獄と化した、彼の帰るべき場所。
恐らくこの島に、彼以外の生き残りは居ないだろう。そして、島から出る仲間などいる筈もないのだから、つまり彼は孤独(ひとり)になったのだ。
彼の帰還を笑顔で迎える筈だった同胞達。その半数が、もう氷の既に様に冷たくなっている。その現実から目を背ける様に、彼の視線は腕の中のまだ僅かに温もりを残す身体に注がれていた。
「一体、何故…誰がこんな事を」
彼の一族は温和で仲間意識が強い。だから、同胞がこんな事態を引き起こしたとはとても考えられなかった。
ならば、やったのは部外者。しかしそれもまた、考えられぬ現実だった。何故ならここは、誰も知らぬ絶海の孤島だ。
「朱里…私は一体どうすれば良い。お前達が、お前がいなくなったここで、私はどうすれば?」
茫然とした呟き。応える者の存在しない問いかけは、ただ虚空に消えゆくのみだった。秋の空に、熱を帯びた風が、彼の言の葉をすくい舞い上げる。
「おい、まだ生きている奴がいるぞ!」
唐突に、彼の仲間のものではない声が響いた。それと同時に現れた姿は、人間のもの。その手に、人ならざる者の血を色が染み着くまで吸った刃を持った、人間のもの。
一目で判る。彼らが自分の仲間の仇。人よりずっと優れた五感が告げている。あの刃に纏わりつくのは同胞の血の香りだと。
そしてその刃を、人は彼に向けた。
「お前で最後だな」
「おい待て、見ろ、あの姿!」
一人の人間が、青年の装いに驚愕の表情を浮かべた。焼野原となった島に倒れ伏す他の者達とは異なる、良く言えば華やか、悪く言えば華美な装束。
「もしやお前は、この島の長か?」
「…だったらどうした」
否定でも肯定でもない言葉を、青年は返す。
家族を奪った、八つ裂きにしても足らない相手だ。その相手に答える声を、彼は出来うる限り押し殺していた。そうでもしなければ、すぐにでも彼らを殺してしまいそうだったから。
「長であるお前なら、角を持っているだろう。鬼の角は不死の妙薬となる」
「さぁ、お前の角をこちらへ寄越せ。我らが主はそれをご所望だ」
目の前が、真っ暗になったかと思った。否、真紅に染まったのだ。
鬼の角。そんなものの為に、この島は滅ぼされたのか。
不死の妙薬? 主の望み? そんな身勝手な理由で、同胞の命は儚く散ったのか。
怒りを抑えるなど、出来はしなかった。彼の頭の中は、一族を殺した者達に同等の苦しみを与える事で一杯になってしまった。
「愚かな…貴様ら全員、ここから生きて帰る事、叶うと思うなよ」
鎮まりかけていた炎が、瞬時に息を吹き返し島中を覆った。有り得ない現象に、青年を前にしていた人間達が驚愕の表情で辺りを見詰める。
「覚えておけ、人間共。卑しき穢れた存在よ…私は貴様らを許さない。貴様らは、未来永劫この私の呪いを受ける事になる…!」
怒りと哀しみの感情と共に、青年は持てる限りの力を仇共に投げつけた。それは見えない刃となり、彼の家族を殺した者達に裁きの鉄槌を下していく。
そして、暫くも経たない内。
平穏だった人ならざる者の楽園は、血の海と化した。人と鬼、両者の血が混ざり合う場所に佇むのは、紅に染まった一人の鬼。
彼の悲劇とも呼べる終焉への舞台は、ここから始まる。
第一章
戦乱の世は遥か遠くに過ぎ去り、平穏な幕府政治が何百年と続いてきた島国、日帝国。
その第二の都である泰京(かなじり)の宮城近くにある、陰陽警察「千聖軍」の屯所。
全国から優れた陰陽師を集め、泰京こと通称京を守護させている軍の創設者は、天皇より政権を預かり、国の第一の都である陽都(やと)に城を構える本郷将軍一族である。
「それで? お前が今日から零番隊の隊長になる小僧か」
その屯所の中で、随分と荒々しい口調の青年が問うた。
彼がいるのは屯所の中でも、隊長格以下の者が立ち入りを禁止された区域。立ち入れるのは軍の総長と副長、参謀役に各隊長達だけという、幹部の会議室である。
そして彼の身分は上から二番目に位置する副長だった。
「お初にお目にかかります。本日付で幕府直轄陰陽警察・千聖軍の零番隊々長となります玉依奏炎(たまよりそうえん)と申します」
そんな副長に、下座に座る少年が頭を垂れる。きちんとした所作が、少年がそれなりの出自である事を物語っていた。
「若いな」
独り言に近い小さな声で、副長が少年をそう評した。確かに、二十歳前後といった風体の彼から見れば、まだ十五の少年は幼く見えるだろう。そしてもう一つ、少年には気になるところがあった。
「お前、今までは何処に住んでいた?」
「ここ泰京です。生まれは陽都ですが、三年程前からこちらに移り住みました」
「京にいた? その貌で?」
驚愕の表情で青年が更に問う。
何故かと言うと、副長の目の前にいる少年は、人並み外れた美貌を有していたのだ。白皙の肌に映える碧玉の瞳、薄く形の良い唇、細く綺麗な弧を描く眉、どれも理想の場所に配置されている。むしろ完璧過ぎて、妖が人に化けている様にさえ見える程だ。
そして何より存在感があるのが、碧玉の瞳と対を成すかの様な、蒼の髪。
陰陽師の軍隊に入籍するのだから、当然少年こと奏炎は陰陽道に帰依している。そして、陰陽道や神道と言ったものに属する者は、皆惣髪なのが常である。それが災いして、蒼の髪は切られる事なく背中あたりまで、その絹糸の様な光沢を放っていた。
これ程の美麗さと、目を引いて放さぬ神秘的な色合いを身に持ってしまえば、雅に目敏い京の町ではすぐに噂になった筈だ。なのに、こんな少年の話は今まで一度も耳にした事がない。
「これでも一応、陰陽師の端くれですから。自分が目立たぬ様にする術をかけた上で、市中を歩いていました」
副長の疑問を感じ取った奏炎が、苦笑しながらそう答えた。
「そうか。遅くなったが、俺は千聖軍総長補佐役にして副長の真田(さなだ)響一朗(きょういちろう)だ。とりあえずお前の直属の上司は俺になる。何かあれば俺に言え。そして、俺の命令には基本、絶対服従してもらう。いいな」
「解りました」
千聖軍の陰陽師は、他の一般的な武士の軍隊とは違って、十二の部隊のうち前半の六部隊は副長の、後半の六部隊は参謀役の直属の部下となる仕組みが取られている。
だが、その十二の隊の中に、奏炎が所属する零番隊は含まれていない。
「お前ら零番隊は非公式な部隊だ。他の隊に比べて任務は少ないが、その危険性は極めて高くなるし、責任も重大になるだろう。頼んだぞ」
そう、零番隊は軍の中でも隊長格以上の者でなければ知る事の出来ない、極秘裏に作られた…隠密の如き部隊。国でたった二つしかない陰陽警察の一つとして有名な千聖軍。しかし人々の心に、零番隊の名が刻まれる事は永遠にないだろう。
「危険性が高いなんて、望んでもいない事です。お任せを、真田副長」
微笑みながら頷く奏炎に、響一朗はどこか違和感を覚えた。その笑顔が余りにも挑戦的で、そして危険さに歓喜している様に見えたからだ。
「おお、君が玉依君か! 本郷利匡(ほんごうとしまさ)公直々の推薦を受けたからな、期待しているぞ」
不審そうに少年を見ていた響一朗の隣に、いきなり大柄な男性が現れる。それが誰か確認した途端、響一朗は慌てて上座を譲った。
熊みたいに大きな体躯に、こちらも獣の様な強面、更に強い光を宿す瞳を持ち、千聖軍の隊服である墨染の狩衣を着ているのは、紛れも無い千聖軍の頂点に立つ総長だった。
「俺は総長の宮本弦砕(みやもとげんさい)だ。響一朗は少し口が過ぎる事もあるが、上司としても陰陽師としても有能だ。まあ、愛想を尽かさずに気楽にやってくれ」
そういって豪快に笑う弦砕に、奏炎は僅かに眉を上げた。あまり表情が出ない彼にとって、この反応は心底驚いている証拠である。
「総長、余計な事を言わないでおいてくれませんか。それに、気楽にやってどうするんです。ここは子供の遊び場じゃなくてれっきとした、京を守る組織なんですよ」
「だーかーら、そんなに固くなってはいかんと言っているんだ。響一朗」
再び笑い声を上げながら、弦砕は部下の背中をばしばしと叩く。かなりの力が入ったそれに、響一朗は少し顔を顰めた。だが、そんな反応をされても、弦砕は暫くその行動を慎まなかった。
そんな光景を唖然として見ていた新入りの奏炎に、背後から声がかかる。
「…あまり気にしない方が良い。というより慣れた方が得だ。あれが、これから君にとっても日常茶飯事になるんだからな」
「!」
少しばかり想像したくない未来を想いながら、少年は後ろを振り返る。そこには、濃い灰色の髪、つまりは墨色の癖の強い髪と、同じ墨色の瞳を持つ陰陽師がいた。どこか薄幸そうな顔立ちが、儚げな印象を与える。
「申し遅れた。俺は一番隊々長の砥上(とがみ)息吹(いぶき)。歳は君より一つ上の十六だ」
「どうも」
互いに感情があまり感じられない声音で挨拶を交わすと、奏炎は響一朗に向き直った。
「早速なのですが、一つ、ご報告したき事があります。真田副長」
「何だ、言ってみろ」
「今京で騒がれている、叨埜一族が殺害されている事件についてなのですが…」
「なっ」
奏炎の言葉に、響一朗は僅かながら腰を浮かせた。
「叨埜一族だと? 何故それをお前が知っている」
「その前に、こちらではどこまでその件について掴んでいるのか、お教え願えませんか」
上司の命令に、少年は冷静に返す。それに少し苛立ちながらも、響一朗は口を開いた。
叨埜一族とは、日帝国でもそれなりに名の知れた呪術師の一族である。
呪術師とはその名の通り、誰かの依頼で人を呪う事で、依頼者への利益を与える事を生業とした人々の事だ。世間体としてはあまり誇れない職だが、彼らを必要とする者は財を持つ者にほど多い。
そんな叨埜一族の者が、ここ最近連続して不審な死を遂げていた。
始めは第二分家の者が、次に第一分家の二男が、そしてその長男が、更に一昨日、本家の四男が変死して見つかった。
だが、どの遺体にも目に見えた損傷は無く、誰かに斬られたり殴られたりという痕は一切無かったらしい。そしてまた、医師の判断によれば毒殺でもない。
「現実的に言って有り得ない話だ。だから、そういった厄介事の専門である千聖軍に、この事件の捜査をするよう、幕命が下された」
忌々しそうに話す響一朗の表情には、少なからず幕府への嫌悪感が現れていた。それも致し方の無い事で、千聖軍は幕府が作った組織でありながら、その存在意義を感じられないからと蔑ろにされている代表格なのだ。
厄介払いされるかの如く将軍のお膝元である陽都から遠ざけられ、よりにもよって天皇のお膝元である泰京に送られて、何か面倒事が起これば押し付けられる。
完全な「捨て駒」としての扱いに、憤りを感じるなと言う方が無理があった。
「幕命?」
しかし奏炎は、そう言った響一朗の私情とは違う所に反応した。
「たかが呪術師の一族の変死事件に、わざわざ幕府が命を下したと?」
それは確かに異常な事。
本来、幕命が下される対象となるのは、国の危急となる案件にだけだ。それを、国の政治とは表舞台上、一切の関係が無い呪術師の一族の為だけに振るうとは考え難い。
何か裏がある。そう考えるのは当然の流れだった。
「ああ。きな臭い話だ。だが立場上、とてもじゃないが逆らえないんでな、今の所は監察および一番隊が調べをしている」
幸い、事件が起きているのは全て泰京で、である。
「そうですか。では、その四人の遺体が発見された場所に、いつも一人の青年がいる事には気付いていますか? 千聖軍よりも早く、唯一人、確実に現場に辿り着ける人物がいる事に」
「…何だと」
驚愕の台詞に、響一朗も弦砕も、そして息吹も息を呑んだ。
「馬鹿な、そんな奴がいたら、まず俺の部下が報告する筈だ。第一、どうしてそんな男の存在を、お前が知っている?」
信じられないとばかりに、息吹が呻く。自分が指揮する一番隊が、そんな重大な事を見逃していたとしたら、と考えると背筋が冷える思いなのだろう。
「常に彼は、千聖軍が辿り着く前に姿を消しています。存在に気付けないのも仕方が無いでしょう。そして俺は昔から、厄介事に巻き込まれるのだけは天性の才があるんです」
つまり偶然だと言いたい奏炎に、響一朗は言い切った。
「そんな事はどうでも良い。とにかく、少なくともお前はその男とやらの貌を見ているんだな? どんな奴だ」
「背は副長と同じくらいでしたね。髪色は錆色、瞳も同色だったかと。ただ、とんでもなく肌が白く、中性的な顔立ちをしていました。年齢も副長と同じ、あるいは少し若いくらいでしょう」
適格に質問に答える奏炎に、弦砕が頷いた。
「成程。それだけ解れば、君の部下も動きやすいな? 息吹君」
「はい」
「新人にしちゃ、出だしから役に立ちそうだな」
響一朗もまた、満足げに頷いていた
「裏が取れました。確かに玉依隊長の言う男は、全ての事件現場に姿を現していた様です」
そんな息吹の報告が上がったのは、奏炎が入隊して二日後だった。
「お前からの報告という事は、裏を取ったのは監察の坂上か。とすると、情報は確かだろうな…どうします総長」
「ふむ。一応今まで、この件を追っていたのは一番隊だ…だが、幕府からの『密命』の担当として最適なのは、一番隊よりも…」
弦砕が言わんとしている事を察し、響一朗も考え込んだ。
そう、今回の謎の変死事件の調査は、幕命と言えども「密命」なのだ。とすると、世間的にそれなりの知名度を持つ一番隊よりも、折角作られた非公式の部隊である零番隊に任せた方が良い。
それが、弦砕の考えなのだろう。だが、零番隊の隊長は二日前に就任したばかり。当然、まだ一つも任務をこなしていない。そんな未熟な隊士の双肩に任せられる程、幕命の名は軽くないのだ。
「どうしたもんか…」
呻く響一朗に、それまで黙っていた息吹が口を開いた。
「迷っておられるのでしたら、玉依隊長に任せてはいかがでしょう?」
「何だと」
「無謀な事を言っているのは解っております。ですが、不思議な事に任せても大丈夫だと思えてしまうのです。あの、危険な任務という言葉を喜んでいたかの様な、表情を思い出すと…」
少し言葉を濁す様に、息吹は理由を告げる。その心境は、響一朗にも弦砕にも、察する事が出来た。
当然だ。自分と歳も変わらない少年が、初めての任務に危険さが伴うと聞かされ、それに躊躇うなり緊張するなりの反応をしない方がどうかしている。隊士達を仕切る立場である弦砕や響一朗でさえ、今までそんな隊士に会った事がない。
あんなにも自信に満ち溢れた・・・否、どこか狂気じみている人物には。
「確かに、あいつはどこか異常だ。望んでもいない事だ、って事も無げに言っていたな」
「はい。少々気になります。ですが、だからこそ任せてみても良いのではと」
思った次第です、と息吹はそこで言葉を切った。
「良いだろう。この件の捜査主権を零番隊の与えてみる事にしよう。それで構わないですね? 総長」
相変わらず総長にだけは丁寧な口調を利く副長が、そう確認を取る。勿論弦砕は反論せず、ただ大きく頷いた。
「それなら息吹。ここに奏炎を呼べ」
「は」
暫くして現れた奏炎は、何もかもを見透かした様な顔をしていた。
「俺に、例の事件を任せて下さる…という事で、宜しいのでしょうか?」
「全部御見通しってか? つくづく食えない野郎だな、お前は」
「お褒めに預かり光栄です」
にこりと笑って皮肉をかわされた響一朗は、かなり嫌そうな表情を浮かべる。だが何も言わず、奏炎に桐の箱を投げ渡した。
「っと…これは?」
いきなりの行動に少し冷や汗をかきながら、箱を受け止めた奏炎が問う。
「狩衣だ。今後、任務の際はそれを常に着用してもらう。千聖軍(うち)の隊服だからな」
「了解しました」
「ああ、言い忘れていたな。今の所零番隊所属の隊士は、お前だけだ」
「…は?」
さらりと言われた内容に、奏炎の反応が実に三秒遅れた。弦砕は気まずそうに視線を明後日に向け、息吹も息吹で奏炎と同じく驚愕の表情を浮かべる。
「真田副長、何を言っておられるのですか?」
「だから、今の所零番隊は一人編成だと言ったんだ」
「…無茶苦茶でしょう!」
きちんと状況を理解し、息吹は声を荒げた。
「たった一人で、この幕命さえ下される大事件に挑めと? いくらなんでもそれは無理です!」
「お前が零番隊に任せたらと言ったんだろうが」
「たった一人だと知っていたなら、あんな事は申し上げません!」
いきなり口喧嘩へと発展しそうな二人を、奏炎は唖然として見詰めていた。だが暫くして、この状況を打開する簡単な策を見出し、仲裁に入ろうろする。
「大丈夫です。砥上隊長。一人でもどうとでもなります」
「馬鹿を言うな、いくら一個隊の人数が少ないと言えども、俺には十人の部下がいる。一人もいない君に任せられる程、俺は非情じゃない!」
無口な印象だったのに、意外と血の気が多かったらしいな、と奏炎は思った。己の身を案じてくれている人物に対し、それはいささか冷静過ぎる視点でもあるが。
「一人でもどうとでもなる、か。その自信は一体どこから来る? 奏炎」
だが、響一朗は奏炎の発言を見逃さなかった。そしてそんな副長の指摘に、息吹もはっと息を呑む。
「別に、根拠のあるものではありません。ただ俺には、師から授かった陰陽術と、何があっても信頼出来る者が一人、いますから」
「師? お前の陰陽術はやはり何処かの流派のものか?」
論点が多少ずれつあるが、響一朗はそこに食いついた。
陰陽師にとって、自分が持つ陰陽術とは違う流派の陰陽師は、貴重な情報源でもあるのだ。この謎めいた少年が操る陰陽術が、一体どれ程のものなのか、響一朗は始めから気になっていた。
「流派ではありません。いえ、流派と言っても過言では無いのかも知れませんが…俺の師は、どこかの流派に所属している人ではありませんでした」
「はぐれ陰陽師か?」
奏炎の答えに、響一朗の顔が興醒めした様なものに変わった。
はぐれ陰陽師とは、陰陽術を修めながらも、それを活用出来る立場に居られず、陰陽師を名乗らず暮らしている者の事だ。当然、一介の陰陽師よりもその実力は劣る。
「はぐれではありません」
しかし奏炎は、即刻それを否定した。その表情が少し怒りを含んでいて、響一朗は驚いた。まるで、師をはぐれ陰陽師と称された事に、ひどく憤慨している様に見えたからだ。
(そりゃ、弟子が師を尊敬すんのは当然の流れだが…こいつがこんな反応をするとはな)
どこか冷めて、表情も滅多に変わらない奏炎の事だから、無表情に軽く否定するだけかと思っていたのだが。
そんな事を考え、更に彼の師について探ろうとした時。相手が不意にあらぬ方へ視線を遣った。
「…どうかしたの?」
小さな小さな声で、奏炎が空を見詰め呟いた。その声音は、普段からは想像出来ない程に柔らかく優しいもの。
「?」
突然の事に、三人が状況を掴めず顔を見合わせる。しかしそんな事はお構いなしに、奏炎は何もない所を見詰め続けた。
「ああ、ああ…解った、鈴波(すずなみ)小路(こうじ)だね?」
「鈴波小路? 鈴波小路がどうかしたのか」
意味不明な現状に耐えられず、少しばかり声を荒げ響一朗が問う。すると、奏炎は碧色の瞳に濡れた様な影を纏い、ゆっくりと三人に向き直った。
その表情に、三人の背中に悪寒が走る。
「鈴波小路へ行きましょう。そこに、新しい犠牲者と…例の男がいる筈です」
「何だ、これは…」
目の前の光景に、響一朗は茫然とした声を漏らした。彼と息吹、そして奏炎の前には、大勢の人々に囲まれた、一人の男の身体がある。まだ温もりを持った身体。しかし、最早生きる為の動きは一切していなかった。
「何故だ。何故、解った? 奏炎…」
泰京中に潜む千聖軍の監察から、こんな報告は上がっていない。何より、まだ温かい遺体が、この命がつい先程まで生きていた事を示している。そんな事に、どうしてたかが一人の陰陽師が気付けたのか。
使える、とか使えないという問題ではない。これは異常だ。どう考えても、常人の成せる技ではない。
「さ、真田副長。あれを」
かなり動揺した様子で、息吹が響一朗の視線を遺体からある一点へ移させた。
「どうした、いぶ―――っ!」
息吹の指差した方向を辿った副長は、息を呑んで硬直した。そこに、男がいたからだ。
茶色に赤をほんの少し混ぜた様な、錆色の髪は短く切られている。切り揃えられた前髪の下にあるのは、いくらか赤味が強くなった錆色の双眸。纏うのは普通の葡萄色の着物で、ただ見ただけでは普通の一般人にしか見えない。
だが、陰陽師である彼らには判った。男は、何かが「違う」と。
「あれか、奏炎。お前の言っていた男とやらは」
問いながら、響一朗は答えなど求めていなかった。それを知っていたから、奏炎も無言のままその問いを受け流す。
暫く三人は男を見詰め続けていた。しかしそのままどうしたら良いか解らず、誰も動かない。すると、男は突然に踵を返してしまう。
すぐ目の前に人の死を見ながら、男は終始無表情だったのが奏炎にはひどく気にかかった。それ故、二人の同行者に無断で男を追い始めた。
「おい、奏炎っ?」
突然の部下の行動に、副長が驚きながらも止める期を逸してしまう。その間にも、奏炎と男の姿は人並みに呑まれてしまった。
「追いますか、真田副長」
「いや、良い。あいつは俺達が心配する様な柄じゃないだろうからな。それよりも俺達がすべき事は、この男の身元調査と…」
そこで言葉を切り、彼は鬱陶しげに人並みを見た。傷も何もない身体に、幸いまだ誰も死体だとは気付いていない。だが、それも時間の問題だろう。
「この場をどう切り抜けるか、ですね」
察した様に、有能な一番隊々長は言を継いだ。
そんな彼らを背後に、奏炎は必死で男を追っていた。
長身であるものの、細身で女じみた面影のある青年は、その見かけに反してとんでもない速さで小路を歩いて行く。それを見せつけるかの様に、青年の着物の裾が空を裂いている。
「待て!」
とうとう追いかけるのに飽き、奏炎は声を張り上げた。幸い、辺りに人は殆どいない。
そして更に、青年は大人しく奏炎の要求に従ってくれた。
ゆるやかな風の吹く中、髪を靡かせながら男が振り返る。無表情のままの貌は病的に白く、その美しさは奏炎に通じるものがある。
つまり、異形じみた美しさが。
「驚いたな…そこまで完璧に人型を取れる妖は、初めて見た」
いきなり核心を突いた発言をした奏炎に、青年は少し目を瞠った。それから暫く黙り込んだ後、その薄い唇に笑みを刷く。
「私が妖だと気付くお前もまた、私と『同じ』だと、自ら言っているのを理解しているのか?」
柔らかく、どこにも感情が見られない声が問う。
「お前は、何だ。何故いつも、殺された叨埜家の者の傍にいる」
問われた内容に答えず、奏炎は詰問した。しかしその碧色の瞳は、ほんの少し不安気に揺れている。それに気付かぬふりをして、青年は再び口を開いた。
「私の名は刹那。殺された叨埜一族の傍に何故いるのか? それは私の方が知りたい」
「つまり、お前が殺したのではないと?」
陰陽師の疑り深い様子に、刹那と名乗った青年は微笑した。
「そうだ。私が殺したのではない」
「それをどう証明する?」
「証明? そんな事をする義理がない」
ふ、と嘲笑う様に息を吐く刹那に、奏炎は歩み寄った。
「人が幾人も殺されているというのにか」
「何か間違えていないか? もし私がお前の言う者達を殺していたとして、妖である私にそれを償う謂れはない」
初歩的な事だろう、と表情で訴えてきた青年。その身から発せられる、凄絶な雰囲気。
それは、妖が持つ妖力が具現化したものだ。大きな妖力を持つ妖ほど、身に纏う空気は絶大な力を秘めていく。
古くから陰陽師達が暮らし、幾重にも結界が張り巡らされた泰京に入れる妖は、大抵は雑鬼と呼ばれる低級な妖か、その結界さえ破る事の出来る強大な妖のどちらか。
刹那は、紛れも無い後者だった。
「なら質問を変えよう。お前ほどの妖が、泰京に一体何の用だ」
「それもまた、答える謂れが無いものだ」
即刻拒否してきた刹那に、奏炎は眉根を寄せた。
「唯一つ教えてやろう。叨埜一族は、殺されてもおかしくない大罪を犯した一族だ」
「何っ?」
意味深げな台詞を残すと、刹那はさっさと踵を返してしまう。そしてそのまま、まるで煙の様に陰陽師の視界から逃れてしまった。
「例の男、刹那は恐らく、犯人ではありません。本人がそう言っていました」
一人小路に立ち尽くす奏炎に追いついた息吹に、彼はそう呟いた。前触れもなく発せられた言葉に、一番隊々長は片眉を上げる。
「その男が、自分が殺したのではないと言った、それだけで犯人が別にいると思うのは、どう考えても安易過ぎるんじゃないか?」
冷静に忠告する息吹に、奏炎は首を振る。そこに確固とした意志を見て、尚更息吹は首を傾げた。やはりこの新入り隊士は、常人には理解できない思考回路の持ち主なのかも知れない。
「あの男は妖です。けれど、普通の妖とは違う…もっとずっと、清らかで純粋で。そう、まるで人に悪意を抱いていないんです。そんな妖を、砥上隊長は見た事がありますか」
「無いな。と言うより、そんな妖が存在する事さえ、聞いた事がない。君の考えを疑う訳ではないが、確かなのか?」
「確かです。俺には解るんです。彼は、刹那は、ただの悪鬼と決めつけて良い存在じゃない…そう、『彼』が言ってるんです」
「彼?」
一瞬、表情が柔らかく愛おしげなものになった少年に、息吹は驚いた。そして、陰陽師として戦場に立っていた故の勘のお蔭なのか、その「彼」が、奏炎と話していたと思われる「何か」なのだと思い立った。
「俺の、誰よりも大切な…兄弟、です」
少しの間を置いて、奏炎が「彼」との関係を明かす。それに息吹は微笑んだ。
「家族か。君の家族という事は、やはり陰陽師なのか?」
「いえ。妖祓いをしている事に、変わりはありませんが。陰陽師ではありません」
「そうか」
彼の答えに、それ以上の追及を拒む気配を感じ、息吹はそこで口を閉じた。
「とりあえず、屯所へ戻ろう。きっと真田副長が、ひどくご立腹だ」
くすりと笑みを浮かべる一番隊の長は、屯所で苛々としながら奏炎を叱りつける言葉を考えているだろう上司の姿を思い浮かべ、内心、目の前の少年を哀れに思った。
しかし。
「随分と遅いご到着だな」
屯所で二人を迎え入れたのは、皮肉気な台詞を言うものの、息吹の予想よりは落ち着いた響一朗だった。
「急いで副長室に来い」
「何かあったのですか」
思いもかけない命令に、息吹が訝しげな顔をする。
「何があったも何も、とんでもない奴が俺の所に来たんだよ。この事件の真相を解明するのに、最も重要な人物がな」
その言葉に、二人は咄嗟に刹那を思い浮かべた。だが、その考えは的を射ていなかった。
「叨埜一族の、それも本家の三男坊が来たんだよ」
「叨埜一族が? そんな馬鹿な」
「ああ、俺も最初は信じられなかったよ。だがなぁ、そいつがこんなもの持ってちゃ、もう疑えないだろ」
そう吐き捨てて響一朗が懐から取り出したのは、小さな懐剣だった。それも、ただの小刀ではない。棕櫚(しゅろ)の家紋が刻まれたそれは、紛れも無い叨埜家直系の者しか持てないものだ。
「本物…の様ですね」
「だから厄介なんだよ」
呪術師である叨埜一族は、己の立場に誇りを持っている。当然、正反対の立場にある陰陽師を快く思っている筈がない。そんな彼らが、素直に陰陽師の軍隊である千聖軍の助けを借りる筈が無い。
そう思って、響一朗および弦砕は、叨埜家に捜査の協力を申し出なかったのだ。協力すると言ってもそれは叨埜家の為なのだから、彼らは陰陽師から恩を売られるのだと思い、頑なに断るのは容易に想像出来た。
そんな相手が、しかも本家の男子が、直々に屯所まで赴くとは。はっきり言って、ありがたいより先に面倒くさい、という感想が来る。
「本家の男。だけど三男。帯に短し襷に長しとはこの事だな」
もしもこれが分家なら、本家の圧力が利かない下っ端が不安になって駆け込んだのだと思える。だが、本家。しかも男。
しかし三男というのは、家を背負う立場には遠い。本当に叨埜一族の総意を背負っているとも考え難い。
「とにかく、お前が会ってみろ、奏炎」
「…はい」
響一朗が、自室の障子を勢いよく開け放つ。そして現れたのは、突然空いた障子に驚愕し、目を見開いている青年だった。
少し癖の強い髪は、奏炎達と同じく惣髪。黒よりも僅かに明るい、蒼黒い髪が、その身に霊力を持っている事を示していた。髪色や瞳色の色素の如何で、霊力の強さは解る。
その色が人間離れしていればいる程、霊力が大きい証なのだ。
「初めまして。俺は零番隊々長の玉依奏炎です。失礼ながら、あなたは」
「叨埜(とうの)真(まさ)臣(おみ)です」
丁寧に頭を下げた青年は、三人の陰陽師に萎縮している様に見える。そんな彼に、奏炎は実に直接的な質問をかけた。
「あなたに訊きたい事は一つです。あなた達一族が犯した過去の罪とは、一体何ですか」
刹那が言い残した言葉について。
だが、それを知らない二人は怪訝な表情を浮かべざるを得ない。
「何で、それを…」
しかし、そんな響一朗達よりも驚いたのは真臣だった。瞳を動揺に揺らし、震えた声で理由を問う。その様子は、不躾な質問よりも、その内容に驚いている様にしか見えない。
「ある人物から、聞いたんです」
「ある人物…?」
「それを言う事は出来ません。俺が求めている答えを、あなたは知っていますか?」
どこか上から目線の奏炎に、真臣は更に縮こまる。それでも恐る恐ると言った体で、口を開いた。
「心当たりなら、あります。でもそれは…僕の一存で明かす訳には」
その発言で、陰陽師達は彼が一族の総意でここに来たのではないと悟る。
「その所為で更に犠牲者が出ても良いのか」
渋る青年に、響一朗が冷徹な言葉を浴びせた。真臣の身体がびくりと反応する。
「貴様がここでその話をしなかった所為で、貴様の兄や親が殺されても良いのか」
「それは…!」
「嫌なら、素直に話す事だ」
高圧的な副長の声音に、小心者に見える真臣が逆らえる筈が無かった。かなりの間唇を噛み締めた後。
「解りました。それで一族を助けられるなら、話します」
奏炎がいると、方向性は全く間違っていないとは言え、どんどん話が飛んでいく。その事に、響一朗は苦虫を噛み潰した様な顔をした。有能過ぎる部下というのは使い勝手が悪いものだと、初めて知った。
「僕達一族が犯した罪。それは、僕が知る限りでは、十年前の『あの事件』しか有り得ません」
「あの、事件?」
「はい。僕の祖父にあたる、当時の一族の長であった叨埜汪唎(とうのおうり)が下した命により、叨埜一族は、ある妖の一族を、滅ぼしたんです…」
悔しげに、小刻みに身体を震わせながら、真臣は声を絞り出した。その内容に、その場の全員が驚きを隠し得ない。
「妖を、滅ぼしただと?」
「そうです。十年前の、秋の直前でした…」
瞠目しながら響一朗が問うと、青年は肯定した。
「それで? その妖とは、何の妖ですか!」
焦燥の表情で奏炎が迫る。その顔が切羽詰っている様に見えて、息吹は違和感を覚えた。
「何の…って、どうしてですか」
「どうしても何も無い! 良いから、答えて下さい」
乱暴な語調になりながら、奏炎は尚も問い詰める。しかし、一族を救う為と敵陣とも言える場所に乗り込んでくる真臣にも、意地というものがある。
彼が行動するのは一族の利益の為なのだから、不利益になるかも知れない質問の答えを、易々と教える訳にはいかなかった。
「理由を、教えて下さい。僕は僕の一族を助けたい。その為に必要な事なら―――」
「生き残りがいるかも知れないからだ、その滅ぼした妖の中に!」
真臣の発言を遮る様にしてとうとう怒鳴ってしまい、奏炎ははっとして口許を抑えた。
「生き、残り…?」
「あ、ああ」
茫然として繰り返す相手に、刹那を思い浮かべながら首を縦に振る。
「なんだ…亡霊じゃ、無かったのか…あれは」
「え?」
「解りました。教えます…記録によると、僕たち一族が十年前攻め入ったのは、絶海の孤島、桔梗(ききょう)島(じま)です」
真臣の答えは、奏炎にとって最後まで聞く必要のないものだった。
「まさか、そこは」
「やはり知っていらっしゃいましたか」
「それは絶対の禁忌だぞ! 人が絶対に犯してはならない大罪だ。何故、そんな事を!」
愕然としながらも、奏炎は叨埜一族を断罪する言葉を叫んだ。
「祖父は、求めていたんです。不老不死の妙薬を…」
哀しげに、恥ずかしげに、真臣はその断罪を受けた。十年前と言えば、目の前の青年はまだほんの子供。責任などある筈もない。
だから、奏炎も何とか、それ以上は言うまいと己を抑え込んだ。
第二章
奏炎が刹那と真臣と対峙してから三日が経っていた。
先日変死したのは叨埜家の分家の人間だったらしく、既に本家の人間が殺されてしまっていた叨埜家では、大した騒動は起こらなかったと言う。
「おい奏炎! いい加減に教えろ、何なんだ、桔梗島に住む妖ってのは!」
今朝もまた響いた副長の怒鳴り声に、息吹は溜息をついた。
かれこれ三日、あの問いは叫ばれている。
「それくらいの知識、陰陽師なら誰でも知っているでしょう」
「おまっ…要するに俺は陰陽師としての知識もままならない人間だと言いたいのかっ!」
「そこまでは言ってません。調べればすぐに解ると言っているんです」
「そんな事に時間をかけてられないから訊いているんだろうが」
「『そんな事』なら気にする必要ないじゃないですか」
こんな延々と続く掛け合いを耳にするのも、息吹はいい加減に飽きていた。
毎日毎日、よくもまあ、同じ口競り合いが出来るものだ。変わり映えのない内容を怒鳴れる副長もだが、それに毎回付き合っている奏炎も凄いと思う。
「とにかく! 俺はこれから巡察に行ってきますので。それまで少しは蔵書室にでも籠って調べて下さい」
「それが副長に対する口の利き方か?」
青筋を浮かべる響一朗に構わず、さっさと奏炎は狩衣を纏う。そのまま市中へ出て行こうとするので、慌てて息吹も後に続いた。
零番隊の存在を知られない為に、奏炎の隊士としての単独行動は基本許されていない。なるべくどこかの隊と共に巡察する様にと、総長から命令が下されていた。
今日は一番隊が巡察する日ではないが、周りに他の隊長がいない今、息吹一人でも付いて行った方が良いだろう。
「奏炎、何故そうも桔梗島の妖について語りたがらないんだ?」
出逢ってから数日、息吹は奏炎の事を名前で呼ぶ様になっていた。勿論、奏炎も。
「別に。師から授けられた知識を、簡単に他人に晒したくないだけだ。君も不満なのか? 息吹」
憮然として答える彼の様子から、本当に意地の悪い考えから情報を伏せているのでは無いと解る。それは響一朗も同じだろう。ただ、教えないのは自分達を信用していないからではないのかと、不安になってしまう副長の心情もまた、息吹には理解出来た。
「真田副長は、基本的にお優しい方だ。それを表に出したりはなさらないが。だから、部下に頼られない事を何よりも気にかけてしまわれる。解ってやってくれないか」
「…知ってる」
ぶっきらぼうに答える奏炎の表情に、少し照れた様な、嬉しそうな表情を見付け、息吹は微笑んだ。彼も、新しい環境に戸惑っているだけなのだと察せられるから。そしてそれを、彼は温かい気持ちで見守る事が出来た。
まるで、弟を見詰める気持ちみたいに、温かい気持ちで。
「奏炎には、兄はいたのか?」
「…いや。長男だし、弟もいない。姉妹はいたらしいが」
「いた『らしい』?」
不自然な言い方に、息吹は眉を顰めた。何かが引っかかったのだ。
「俺の家は、少し特殊で。姉には数回会った事があった。けど、妹には会った事がない。名前すら…知らない」
「名前も知らない? まさかお前の家は…」
かなりの家柄だったのかも知れない。そして、或いは奏炎は、正妻の子では無い。
そう考えると、姉妹と会った事が無いのも納得がいく。
(だが、長男…男兄弟がいないと言う事は、一人息子か?)
たとえ妾の子でも、たった一人の男児なら、それなりに扱われる筈だ。男尊女卑がこの国の常識なのだから、正妻の娘でも、家督を継ぐかも知れない長男と会わせられない謂れは見つからない。
(いや待て。第一この間は兄弟がいると…)
生じた矛盾に息吹は首を傾げた。こうなると、奏炎の言う「特殊」の意味が気にかかる。
そう、息吹が物思いに耽りかけた時だった。
「息吹っ!」
奏炎の怒鳴り声が響く。はっとして彼の方を向くと、焦った様にこちらを見る奏炎の顔が目に入った。それと同時に、背後に冷たい気配を感じる。
「妖か…っ!」
振り返りざま懐から呪符を取り出す。それを呪文の詠唱と共に相手に投げつけた。
「な、に?」
だが、背後には何の姿も無かった。自分が放った炎を纏う呪符は、ただ土に突き刺さる。
「帰命し奉る(ナウマクサマンダボダナン)…我が身に依りし神狐よ、そが纏いし炎を我に貸し給え!」
それでも諦めず、息吹は更に詠唱を続ける。
彼が得意とする炎の陰陽術で、自分の身の回りに炎の陣を描く。すると。
炎から逃れる様に、一つの赤い光が真っ直ぐに奏炎の方向へと駆けて行った。
「奏炎!」
息吹が叫ぶ。だが、奏炎は焦った様子もなく、ただ光を真正面から見詰めた。
「…凍れ」
ただ一言、彼が呟く。呪文の詠唱も何もない、ただの「言葉」。
しかし、赤い光の目の前に瞬時に氷の壁が築かれた。
「『言霊使い』だったのか…!」
茫然と息吹が言葉を漏らす。言葉そのものに霊力を乗せ、望んだ事を表す言葉だけで術を形成する陰陽師。それを「言霊使い」と言う。
だが、一つの言霊に大量の霊力を消費する為、莫大な力をその身に宿す者にしか、その能力は扱えない。
「これはまた、とんでもない切り札だったな…」
きっとこの事を報告すれば、響一朗は驚愕するだろう。言霊使いなど、この世で知られている陰陽師ではたった一人しかいない、伝説中の伝説とされる存在だ。
そんな存在を千聖軍が手に入れていたと知ったら。
「いや、解っていたから利匡公は推薦したのか」
将軍弟、本郷利匡。幕府のあらゆる重臣を押しのけ、自他共に認める国の「頭脳」となった名宰相。彼の「推薦」の意味を、もう少し重く取るべきだった。
そんな、余裕に溢れた気持ちになったのだが。
ぱりん。
綺麗な音を立てて、赤い光が氷を破った。粉々に砕け散った厚い氷の壁は、きらきらと輝きながら地に落ちる。
奏炎の顔に、焦燥が浮かんだ。
まずいと思った時にはもう遅かった。ここからでは、息吹の呪符は届かない。自身の術が破られた奏炎にも、もう一度「言霊」を使う程の時間がない。
「奏炎―――!」
名前を叫んだ相手が、真紅の炎に包まれた。
全力で彼の許へと走り寄った息吹。そのすぐ鼻先を、赤い光が駆け抜けた。それを目で追おうとして、彼は必死に奏炎の方向へ視線を戻した。そして、目を瞠った。目の前に二つの人影が見えたからである。
「…刹那」
自分のすぐ脇に立ち、赤い光に赤い炎で以て対抗した相手の名を、奏炎が呟いた。
「何を、しているんだ」
茫然とする奏炎へと、刹那がゆっくりと視線を向ける。緩慢な動きが、余計に彼を異質に見せる。
「それは私の台詞だ。どうしてこうも、お前は私の近くに現れる?」
「別に、お前を尾行していた訳じゃない。只の巡察だ」
「だろうな。意図して私の近くにいたのなら、こんな失態をおかす筈がない」
冷静で無感情な声は、相変わらず乾いた響きを紡ぎ出していた。
「お前、炎を司る妖なのか?」
黙り込んだ奏炎の代わりに、今度は息吹が刹那に問いかけた。
「それがどうかしたのか?」
「何故、今、奏炎を助ける様な真似をした?」
一言ずつ、噛んで含める様な言い方で尋ねる相手に、妖は実に簡単に答えを出す。
「助けた訳ではない。何故かあの光は、いつも俺に纏わりつくからな」
「奏炎を助けたのではなく、あの光に攻撃を加えただけだ、と」
「そうだ。第一、私に陰陽師を助ける謂れなどない」
伏しがちな錆色の瞳が、真っ直ぐに息吹を見据えた。それだけで、言い表しようのない圧力が、息吹の霊力に加えられる。
その感覚に、息吹は全く免疫が無かった。
「何だこの妖力は…お前は、一体何なんだ!」
強大過ぎる相手に向かって、悲鳴じみた叫びを上げる人間に、刹那は冷めた表情を浮かべる。そして、息吹と違って自分の正体に気付いている奏炎に話を振った。
「私が何者か、仲間に教えてやらないのか?」
「自分から正体を晒せと言う妖は、お前が初めてだ」
にべもなく言い切った奏炎の様子から、息吹も刹那も、彼が刹那の正体を語る気が無いのを悟った。
「風変わりな人間だな、お前は。いや、人間『もどき』だ」
言い直され、瞬時に奏炎の気配が冷たくなる。その反応に、殺気を向けられた張本人は面白そうに笑んだ。だが、息吹は状況に全くついていけない。
「待て、待ってくれ奏炎。一体何の話をしているんだ? 人間もどきとは、どういう…」
仲間からの問いに、奏炎はひどく寂しげな微笑を浮かべた。何故か、見た者を哀しくさせる様な微笑み。
「君は気にしなくて良い、息吹」
「奏炎…?」
相手の反応で、少なくとも彼が自分の質問に傷付いた事が理解出来た。だが、その理由が解らない。
「刹那。話がある。来い」
戸惑う息吹の前で、奏炎は刹那の袂を掴むと強引に引っ張り、どこぞへと歩を強めた。反射的に付いて行こうとした息吹に、ただ首を振るだけで意志を伝える。
付いて来るなと身振りだけで言われた息吹は、それに従わざるを得なかった。そうしなければならない気がしたのだ。
そのまま、すぐ近くの角を曲がり消えてしまった二人の背中に、息吹は一言呟いた。
刹那という名の妖に向けてではなく、出逢ったばかりの仲間に向けて。
「お前は何者なんだ…」
「失うのが、恐ろしいんだな」
息吹と離れた直後、美貌の妖はそう言った。
「仲間に畏怖されるのが恐ろしい。蔑視されるのが怖い。お前の心の中は、そんな感情で一杯だ」
強引に腕を引いている奏炎は、そんな言葉を浴びせられながらも、立ち止まったりはしなかった。だが。
「しかしそれよりも強いのが…『彼』を手放したくない、という想いか」
「黙れ!」
ぴしゃりと叫ぶ相手に、刹那はただ片眉を上げた。
「何故隠す? 私に知られる事が、そんなにも不快か? 心配しなくとも、お前の仲間にわざわざお前の秘密を暴露する気など無い」
「そんな事は知っている! お前は、そういう類の妖じゃないからな」
自分よりも少し背の高い相手を、陰陽師は睨み上げる。
「勝手に俺の心を読むな。例え誰であろうと、『彼』の事を語る事は許さん」
「大切な兄弟だからか? いいや違うな。第一あれ(・・)は、兄弟と呼べる存在では無い筈だ」
「いい加減にしろっ!」
ざわりと空気が揺れ、一気に冷気が二人を取り囲んだ。奏炎の霊力が、彼の怒りに反応した結果である。
「怒りに身を任せ、力を振るうか。嫌いじゃない、そういう力の使い方」
そこで初めて、妖は微笑を浮かべた。笑っているかもわからない程度だが、初めて見せる表情らしい表情。
「悪鬼の発言だぞ、それは」
それにつられてなのか、奏炎も思わず語調が柔らかくなった。それ故、場の空気が一瞬和むが、すぐに優しい雰囲気は消え失せた。
「叨埜家の人間に聞いた。お前の一族は、彼らによって殺されたらしいな」
突如切り替えられた話。言われた内容に、刹那はただ瞑目した。
『ちょっと刹那! あなたはどうして毎回、私を置いて人の島へ行くの? 私だって人間の暮らしを見てみたいわ』
少し怒った、鈴を転がす様な声。刹那にとってそれは、目を閉じればいつでも脳裏に蘇る、何よりも大切な思い出だ。
『人の国が危ない? 大丈夫よ、いざとなれば私達の妖力でどうとでもなるわ』
渋る自分が、今ではどうしようもなく憎い。
彼女の言う通り、多少の危険を憚らずに連れて行けば。彼女だけでも、救えたのに。
「私の所為だ。私が人という生き物を甘く見過ぎた故に、彼女達は殺された」
静かに声を絞り出す相手を、奏炎は痛ましげに見た。
「大切な存在、だったんだな」
「ああ。何よりも。この世で何よりも大切な存在だった…」
そう答えてから、刹那はふと黙り込んだ。まじまじと奏炎を見詰める。
何度か考え込む素振りをした後、その瞳が懐かしげに細められた。
「お前は、少し朱里に似ている」
言って、刹那の指が奏炎の前髪に触れた。少し長めに伸ばされた蒼い髪。触れられた奏炎は、擽ったそうに目を伏せる。
「朱里も、髪に触れるとお前の様な反応をしていた」
ふ、と笑う妖の手を間近に見て、奏炎は不思議な感覚になった。
人のそれより白濁した爪、陶器の様に白く冷たい指。人ではないと物語るそれが、『彼』のものに酷似して見えた。
「朱里というのが誰か知らないが。俺にとってもお前は、『彼』に似ているかも知れないな」
何を意図して呟いた訳でもない内容。漠然と思ったから漏れ出た言葉だ。
「その者の名を、言うつもりはないか」
「…ああ。『彼』を、他人に会わせる気も無いからな」
「倖せだろうな」
「しあ、わせ?」
「他人に会わせる気がない。それはつまり、利用する気がないという事だろう? 唯一人、その者の力を利用出来る立場にありながら。それは、倖せな事だ。それだけ愛されているという証だからな」
そこまで言うと、刹那は寂しけな、愛おしげな目を奏炎に向けた。
「すべての人間が、お前の様なら良かったな…」
彼の表情は、とても切ないもので。
「そうすれば私は、人を憎まずにすんだだろうに」
「―――今からでも遅くない」
何の事情も知らないというのに、奏炎はそう口走っていた。
ただ、やめて欲しかった。先程までの、淡い微笑に戻って欲しかったのだ。
目の前の、人を愛そうとし、結局憎まずにはいられない…憎んでしまう自分を嫌悪している妖を、救ってやりたかった。
「お前が人を憎むのは仕方が無い。同胞を殺されたんだ。当たり前だろう…! それでも憎んだ事を後悔しているのなら、今からでも―――」
「いいや。もう遅い」
だが、奏炎の説得に刹那は是とは言わなかった。
完全な拒絶の回答に、奏炎の口も動きを止めざるを得ない。
「何故だ。どうして始めから諦める…?」
こんな事になるつもりではなかった。元はと言えば、『彼』の事について安易に探ろうとする彼を叱責する為に、「彼」の正体を息吹に知られない為に、連れ出した筈なのに。
気付けば、彼をどうにか励まそうと必死になっている。そんな自分が滑稽に思えるのに、それでも刹那の事が気になってたまらない。
「私の故郷が燃えたのは、十年前の秋になる一歩手前だった」
突然、妖が昔語りをし始めた。脈絡のない切り出しに戸惑いながらも、奏炎はただ黙って続きを促した。
「その日、私は丁度この国への旅を終え、島へ帰ってきた。だがそれは夕刻の事…里に火がつけられたのは、少なくとも昼頃だったのだろう。既に、里の殆どが焼け焦げていた」
焦点の定まらない錆色の瞳が、そう遠くない忌まわしい過去を辿る。目の前でそれを見守る陰陽師は、己でも知らず知らず、相手の肩に手を置いていた。
「生きている者などほんの一握りしかいなかった。だがその者達も、既に死は免れない状態だった。私は真っ先に、まだ息のある者の傍に駆け寄った…そして、目を疑った。最後の生き残りが…彼女だった」
ぎり、と音を立てて刹那が歯を食いしばる。奏炎の触れている肩が、怒りでなのか悲しみでなのか、小刻みに震え始めた。奏炎はただ、手に力を籠める。
「朱里。私が生まれた時から共にいた、気の遠くなる時を共に過ごした相手だ。彼女が、島で最後まで生きていた者だった。彼女は、私の姿を認めてすぐに、立つ事も出来なくなった」
語る彼の腕に、あの時倒れ込んで来た朱里の重さが蘇る。それと同時に、腕に纏わりついた暖かな感触も。
目には見えなくても、あの血の跡は、まだこの腕に在る様な気がしてならない。
「私の腕の中で、彼女はこう言った。『どうか憎しみなど覚えないで』と。だが私はその直後、数多の人間を殺した。仇共と、解ったから…」
「!」
奏炎は目を瞠った。
言い遺された言葉と正反対を行っている刹那にではなく、そんな残酷な言葉を遺した朱里に。
もし『彼』が人に殺されて、自分にそんな言葉を遺したとしたら。想像するだけでもぞっとする。とても、耐えられない。
たとえ『彼』の最後の望みだとしても、叶えてなんかやれない。自分の命を投げ打ってでも、仇を殺そうとするだろう。
だがそれも、所詮は想像だ。実際に言われた刹那の痛みを、自分が理解してやれる訳がない。だから、それ以上を語れない刹那の肩を、ただ強く掴んだ。
どうかその心に刻まれた深すぎる傷が、少しでも癒える様にと、願いながら。
「お前の傷を癒せるのは、その朱里という人だけなんだろうな。せめてお前が、桔梗島の妖じゃなければ、まだ…」
これ程、自分の無力さを味わうのは初めてだった。
「せめてお前自身が、赤鬼じゃなければ!」
そしてとうとう、奏炎はその名を叫んだ。刹那はそれを、瞑目して聞いた。
人と妖の狭間に立つ『鬼』。、色を名に戴く鬼達の中、「赤鬼」は他のどの鬼よりも人に友好的な事で有名だ。人の間で語り継がれるくらいに。
「赤鬼」はどの妖よりも人を愛し、庇護した一族。それと同時に、「治癒」を司る珍しい妖でもあった。
「どうして、赤鬼は赤鬼を癒せないんだろうな?」
やり切れなさを漂わせる奏炎の言葉に、刹那は僅かに微笑んだ。
「不死身の存在など、この世には要らないからだろう」
「なら! ならせめて、心の傷を癒す術くらい…!」
「充分だ」
納得がいかないとばかりに言い募ろうとした少年の頭に、鬼は手を乗せた。そのまま、幼子をあやす様に柔らかく撫でる。辛い過去を語っていた所為か、少年の掌の熱が肩から伝わる事に、ひどく安心感を覚えた。
「刹那…?」
「お前がそう言ってくれるだけで、充分だ」
そう告げると。橙と紅を織り交ぜた様な色彩の光を残し、刹那は陽炎の如く消え去った。まるで幻覚だったかの様な去り方に、奏炎は思わず自らの髪に触れた。
そこに、僅かながら刹那の温もりを見付けた気がして、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
最後の言葉は、人への復讐を止めるという意味なのかは解らない。だが、違う気がした。それよりももっと、決意の色を秘めていて、嫌な予感がしたのだ。
「お前を救う事は、出来ないのか? 俺には…」
呟きながら、目を開ける。丁度、最後の光が地に触れ消えるところだった。
橙の混ざった赤い光。それはまるで、秋に散る紅葉の様だと、何故か考えた。
「確かにお前は零番隊に相応しい野郎だ。ったく、ここまで自由行動をされるとは思わなかった。まさか息吹すら振り切るとはな」
屯所に戻るやいなや、奏炎を迎えたのは憤りを含んだ響一朗の言葉だった。
その後ろには当然、息吹が控えていて、怒り心頭な副長を不安気に見詰めている。
「刹那とかいう例の男と何を話していた?」
「…別に、特に報告するべき事は何も」
ふい、とそっぽを向こうとする奏炎の首襟を、響一朗が引いた。
「今日ばかりはきっちり吐いてもらうぞ、奏炎。お前が隠してる刹那の正体も、お前自身の正体も!」
「真田副長っ」
焦った様に叫び声を上げる部下を、副長は視線で黙らせた。
「初めてお前に会った時から、何かがおかしいと思っていた。その原因が息吹の話と、この間刹那に会った事でようやく解った。お前の霊力には、僅かに妖の気配が混じっているんだ」
確信を持って、青年は疑惑を吐いた。
静謐で涼やかな奏炎の霊力。言霊の術で氷の壁を築いたのだから、属性は水に近いのだろう。そんな清らかな気配の中に、一筋混じる炎の如き凄烈な力。
例えるなら、澄み渡る蒼の中に一本、血の赤が混じった様な気配。
「お前の個人的な事にまで口出しをするつもりは無い。だが、これは別だ。お前にだって解るだろう? ここは、陰陽師の組織なんだよ」
感情に任せて怒鳴る訳でもない。強い感情を含んだ声と瞳が、真っ直ぐに奏炎を射た。常よりも更に真摯な態度に、奏炎も負けを認めざるを得ない。かなりの間渋った後、仕方が無いとばかりに口を開いた。
「俺を信用出来ないと言うなら、それでも結構。ですが、真田さんが俺に抱いている疑問が単なる過ぎた懸念だという事だけは、証明出来ます」
「…ほぅ」
不愉快そうに反応する上司に、異質の少年はきっぱりと宣言した。
「あなたは俺が妖と通じているんじゃないかと思っているんでしょう? ですがそんな事、俺の師である土御門慶(つちみかどよし)継(つぐ)が見逃す筈がないんです」
その途端。
響一朗の深緑色の瞳が限界まで見開かれ、彼の動きの全てが停止した。
「なん…だ、と。土御門、慶継? あの伝説の陰陽師が、お前の師だと、言うのか?」
震える声で何とか言葉を紡ぎ出す響一朗。その後ろの息吹もまた、呆けた様に口を開けて固まっていた。
土御門慶継。その名を知らぬ者は、この日帝国のどこにもいない。
陰陽師と言えばまず最初に彼の名が人々の口に上がる。千聖軍よりも何よりも先に。
何百年という昔から、有能な陰陽師を輩出してきた土御門家の子孫であり、現当主。稀代の大陰陽師として天皇の信頼篤く、千聖軍と名を連ねるもう一つの陰陽警察の長でもある。
そして、奏炎の使う「言霊」の術を完成させた張本人。
奏炎が少し前に「流派に属していると言えるか解らない」と己の師を称した理由を、二人はやっと理解した。
確かに「言霊」の術は、流派と言える程に多くの術者を持ってはいない。その術を扱う為の条件が多すぎるのだ。世の中は土御門慶継一人だと思っているし、実際問題でも弟子である奏炎を含め、たった二人しか「言霊」を武器とする事は出来ない。
だから、「言霊」は流派ではない。だが、土御門慶継ははぐれ陰陽師などではない。
「確かに、そうだな。もしお前の言う事が本当で、お前の師が土御門慶継だと言うのなら、お前は信用するに値する…な」
少し動揺が落ち着いた響一朗が、乾いた笑いを零しながら言った。
「朝廷にでも土御門一族にでも、確認してもらって結構ですよ」
平然と言ってのける少年の様子から、彼の言葉は疑うべくもないものだと、誰もが理解できた。
「だが、それならお前に纏わりつくその妖力の気配は何なんだ?」
しかしどんなに血の気が多く短気でも、響一朗は千聖軍という一つの軍隊を率いる副長だった。
戻された話に、奏炎はぐっと唇を引き結ぶ。
「それだけは言えません。申し訳ありません…」
うなだれる部下の様子に、響一朗は怯んだ。この生意気な少年が、欠片でもこんな反応をするとは思わなかったからである。
「…解った。もう、訊かないでおく」
意外にも簡単に口から出てきた言葉に、響一朗自身が驚いていた。
「ありがとうございます」
一言礼を言うと、奏炎はそのまま零番隊の隊室へと去って行く。その後ろ姿に、陽炎の様な影が付いて行った気がして、響一朗は目を擦った。しかし擦った後、何かが見えた訳ではなかった。
ひやりとした風が自分の髪を撫でて行くのを、奏炎は静かに感じた。そのまま、聞こえる筈の声がするのを待つ。
『ふん。勘だけは良い様だな、あの男』
耳に心地よい声が、随分と苛立った様子で奏炎の頭に直接流れ込む。
「あの男って、真田副長の事か?」
『そうだ。あと少しでも俺の事を探ろうものなら、それ相応の挨拶をしてやろうと思ったんだが。すんでの所で留まりやがって』
奏炎の周りには、誰の姿も無い。もし誰かいたとしても、奏炎が独り言を呟いている様にしか見えない状況。つまり、奏炎と話している声の主は、どこにも見当たらない。
「物騒な事はしないでくれ。ここは一応、これからの僕らの居場所になるんだ」
響一朗や息吹に向けたものとは違う一人称を用いつつ、奏炎は苦笑した。
『解ってるさ。お前が望むなら、何もしない。第一、何かすると言ってもせいぜい死なない程度に毒を盛る程度だ』
「それは物騒な事に充分入るんだけど」
眉を顰めながら奏炎が言うと、声の主は一瞬答えに詰まった。
『じゃあ本当に何もするなと?』
不満そうな回答が返される。
「真田副長がした事は、あの人の立場上当然の事だ。僕らがあの人に隠し事をしている以上、余程の事が無い限り、君は手を出しちゃ駄目だ。あの人は、悪い人じゃない。解ってるんだろう?」
優しく奏炎が問うと、声は溜息とともにこんな返答をする。
『どうだか。お前は冷静な様でいて、すぐに騙されるからな』
「酷いな。僕は結構、人を信じない類の人間だと自負していたんだけど?」
『そう思っているのはお前だけだ。慶継も、お前は見かけによらず単純だと言っていた』
いつの間に師とそんな話をしていたのか。と言うより、かなり酷い話を交わしているのだな、と奏炎は内心しみじみと思った。
「師(せんせい)もそんな事を仰っていたのか? 二人揃って冷たいじゃないか」
『反対だ。俺も慶継も、お前の為を想って言っているんだ』
奏炎の冗談めかした言葉に、憮然として声が反論する。その性急な反応に、思わず奏炎が笑い声を漏らした。
『…笑える様なら、良かった』
すると、そんな奏炎の様子に、声が安堵の息を吐く。そこで奏炎は、声が自分を心配してくれていたのだと気付いた。
「もしかして、僕が刹那の事を引き摺っているとでも思ったの?」
『…悪いか』
率直な疑問に、声の返答が一瞬遅れた。それだけで、見えない相手が赤面しているだろう事が容易に窺え、奏炎は更に表情を緩める。
「ありがとう、僕は大丈夫だよ。だって君は、朱里という鬼と違って、ちゃんと僕の傍にいるじゃないか」
『だがお前は、泣きそうだった。あの時』
「!」
自分の全てを見透かし、理解し、共感してくれる声の主。彼には本当に何もかも筒抜けなのだな、と奏炎は苦笑いを浮かべる。だが、刹那に心を読まれた時の様な不快感は一切起こらない。
当然だ。何せ『彼』は、自分にとって唯一無二の―――
「心配いらない。僕は刹那の事でどうこう悩むつもりも、彼に感情移入するつもりもないよ。調祇(みつぎ)」
ふわりと笑ってみせる。その表情を相手が見ているかは解らないが、その微笑は一種の自分への暗示でもあった。自分の発言を、自分自身に言い聞かせる為の。
『…過ぎる』
声の主が、とてつもなく小さな音で、何事かを呟いた。
「なに?」
聞き返した奏炎に、しかし声は質問の答えを言わなかった。
『何でも無い』
それを最後に、その日、声が奏炎に応える事は二度と無かった。
同日、叨埜一族本邸の離れ。
どす黒い焔が、ゆらゆらと揺れて室内を照らしている。それを怯えた目で見詰める人影があった。
「まだ、そこにいるんですか、あなたは…」
かたかたと身を震わせながら、声の持ち主―――叨埜真臣は焔を見詰め続ける。
本能的に嫌悪と畏怖を感じる焔の正体を、真臣は知っていた。
「あなたの所為で、もう何人の同胞が殺されたか解っているんですか? あなたの孫も一人、殺されたんですよ」
僅かに責め立てる空気が室内に漂った瞬間、焔が大きく揺らいだ。まるで、己を責める真臣に怒った様に。
否、「様に」ではなく、実際にそうなのだ。何故なら、この焔は生きている。
「あなたが世の中の道理を曲げてまで『生』を欲したが故に、無益な死を幾つも招いているんです。それなのに、あなたはまだ現世に執着するんですか? お祖父様」
瞳に完全な恐怖の色を浮かべながらも、真臣はそう焔に向かい言い切った。
祖父の魂なのか、霊力の残滓なのかは解らない。けれども、いつからか離れに居座るこの焔が叨埜汪唎である事に、真臣は気付いていた。
それは確たる証拠があるものでも、またそれを証明出来るものでもなかったから、この事は一族の誰にも言っていない。だが本当は、言いたくて言いたくて仕方が無かった。
一人で抱えるには、この問題は恐ろしく、そして大きすぎた。
脳裏に蘇るのは、死の縁でも手段を選ばず生を求めた祖父の醜い姿。そして、以前門扉に立っていた、赤い髪をした異形の青年の、凛とした立ち姿。
恐ろしく整った美貌の中、人には持ち得ないものがあった。黒光りする、鬼の角。
一目で判った。その妖が、祖父が手にかけた「赤鬼」と言う異形だという事は。そして、不思議に思った。記録では絶滅した筈の妖が、どうして存在し得るのかと。
まさか祖父と同じ様な、亡霊に似た類のものかと思った。だが違ったらしい。
「あなたは亡霊の方が良かったですか? それとも生きていてくれて嬉しかったですか? あなたが求めた『角鬼』だけを取り逃がしていたなんて、あなたにとって恥にはならないのですか?」
答えなど一切返ってこない問いを、幾つも幾つも真臣は紡ぎだす。
そんな中、ふと一人の陰陽師を思い出す。
自分が一族に内密に救援を要請した、千聖軍の少年。あの鬼と似通った美しい姿形の陰陽師。彼に話せば、この焔を何とかしてくれるだろうか。
不思議な自信と霊力を持つあの陰陽師なら、何とかしてくれるかも知れない。そう、希望に似た感情が芽生えた瞬間、それは見事に萎んでいった。
「駄目か…この邸に、陰陽師なんて入れられる筈がないもんな」
がくりと肩を落とし、真臣はもう一度視線を焔に戻した。そこで、ある事を思い付く。
もし、この焔ごと持ち出せる事が出来たら?
実物を目の前に見せ、これが叨埜汪唎の魂か何かだからどうにかしてくれ、と奏炎に頼めば。
光が差し込んだ様に心の内が明るくなる。だが、世の中そう簡単に何もかもが上手くいくわけではなかった。すぐに、運び出す事の危険性が胸をよぎる。
正体不明の焔を離れから持ち出し、自分が襲われたら。そう考えると、このまま何も知らぬ顔をして放っておくのが、最良の選択肢ではとさえ思えてくる。
呪術師の一族に生まれ付いたにしては彼の正義感は強く、しかしそれを貫くには精神が弱すぎた。
「どうすれば良いんだ…」
真臣はその場で頭を抱えて蹲った。そんな真臣を前に、黒い焔が一際大きく揺れ動いた。
・・・ヲ、寄越セ・・・
何か音が聞こえた様な気がして、真臣が顔を上げた時、彼の顔の目の前で真っ黒い焔が煌々と燃えていた。おどろおどろしい声を放ちながら。
・・・真臣ヨ、貴様ノ肉体ヲ寄越セ・・・!
第三章
秋が近付き、風が乾いている季節でも、千聖軍の隊務は当然変わらない。
「ほら起きろお前達っ! いつまで寝てやがるつもりだ!」
ぱんっと小気味良い音と共に開け放たれた障子。そこから流れ込むひやりとした冷気に、布団にくるまっていた隊士達が悲鳴を上げた。
「さっ寒いっ」
「もう秋なんですから勘弁して下さい、副長ぉっ」
悲鳴を上げる隊士達に、彼らを強引に起こす為障子を開け放った響一朗が怒鳴る。
「ふざけるな! もうとっくに陽は昇ってるんだよ、いつまでも寝られると思うな」
部下を叱責しながら次々に障子を開け放っていく副長の姿を、奏炎は内心「母親みたいだ」などと思った。
当然、奏炎と息吹、そして息吹率いる一番隊の隊士達は、副長に起こされるなどという失態をおかしてはいない。きっちり自分で起きた。
「そうだ、奏炎。今日は確か叨埜家に行くんだったな?」
悲痛な叫びを上げる隊士達と、それを叱りつける響一朗をぼんやりと眺めながら息吹が問うた。
「ああ。叨埜真臣から正式に招かれたからな」
鷹揚に頷くと、奏炎はゆっくりと叨埜家があるだろう方向を見詰めた。
「息吹、君も一緒に来るか?」
「…どうしたんだいきなり」
不意に誘ってきた相手に、息吹は瞠目した。基本的に一匹狼で、息吹が巡察について来る事さえもあまり良しとはしていない奏炎が、まさか自分から同行を許すとは。
「特に理由は無いが」
あっさりと返された答えに、少々気落ちしなかった訳では無いが、それでも一番隊々長は嬉しげに頷いた。
「…解った。付いて行ってやる」
その言い方に、相手はすぐさま反論してきた。
「俺は付いて来てくれとは言っていないぞ。ただ、一緒に行くかと言っただけで―――」
「解った解った」
少し必死にも見える程に言い募ってきた奏炎に、両手を上げて「降参」を示す。そんな微笑ましい光景を見付けた響一朗の怒鳴り声が二人を襲った。
「お前達もそこで何、じゃれあってんだ? 隊長なんだからしっかりしろ、それと奏炎。 そろそろこの馬鹿共の意識がはっきりしてくる。さっさと叨埜家にでも何にでも行け!」
「…そうでした」
忘れていたとばかりに手を打ち、奏炎はそそくさとその場を離れて行く。
そう、奏炎の存在を知って良いのは隊長格以上の人間と、一番隊の隊士だけという取り決めなのだ。目を覚ました二番隊以降の隊士達に見付かったら、流石にまずい。
「しかしさっきの状況で俺に気付かないというのも凄いな」
しみじみと呟く奏炎に、息吹も同感だった。
「何故かうちの隊士達は、皆朝に弱いんだ。隊長格も同じでな。隊務通りに起きれるのは、真田副長と参謀役、俺と五番隊の隊長くらいだ」
総長ですらも、朝は響一朗に叩き起こされる始末なのである。
驚愕の事実に、奏炎は歩きながら頭を抱えた。歩いていなければその場で膝をついていたかも知れないな、と息吹は思った。
「そんな反応をするくらいだから、お前は朝に強いんだな」
「眠らないからな」
ごく普通に返された内容に、息吹は目を瞬いた。
「眠らない?」
「そうだ。夜は基本、眠らない」
「はぁっ?」
理解の出来ない発言に、思いっ切り顰め面をした相手に、奏炎はもう一度繰り返した。
「だから、眠らないんだ。俺は何故か、夜は眠れない性質でな」
「そんな事があるのか…? じゃあいつ寝てるんだ」
呆れ果てた様な表情で問うと、奏炎は一瞬考え込む。
「大抵は、昼、だな」
「まるで妖怪じゃないか」
思わず返してから、息吹はしまったと口を抑えた。この間あんな事があったばかりなのに、この文句は禁句だったかも知れない。だが、その懸念虚しく、奏炎は何も気にしていない様子だった。
「ん? 昼? 昼って事はお前…会議室で寝ているのか!」
陰陽師が必要とされるのは、妖怪が出没し易い夜中だ。つまり夜に激務が集中している訳で、その代わり昼の幹部の仕事は、会議室で延々と行われる作戦会議だけだ。
そしてその会議は限りなくゆっくりと進む。進むが。
「会議で寝てるなんて真田副長に知られたら、呪い殺されるぞ」
「やれるものなら、やってもらいたいね」
苦笑まじりの忠告をされても、奏炎に懲りた様子は無い。むしろ不敵に笑んでみせた。
「まったく、言っても無駄とい……」
息吹の諦めの言葉が、途中で不自然に途切れる。違和感を感じた奏炎も、その一瞬後には驚愕に目を見開いた。
「奏炎、ここが叨埜家の邸で、間違いないんだな…?」
「当たり前だ。間違える訳がないだろう」
叨埜家の周りには、一切の民家がない。山の麓とは言え、そこまでの土地を買い占められるものが、叨埜一族以外にいる筈がなかった。
だが。
「いくら呪術師一族の本邸だからと言って、これは、これはないだろう…」
二人の目の前にある屋敷には、目に見えるまでに具現化した、黒い妖力が渦巻いていた。そこで二人が取った行動は、実に情けないものだった。
「それで引き返して来る奴があるか!」
「「ここにいますが」」
二人で声を揃えた優秀な部下達に、響一朗の額に青筋が立った。
そう、叨埜家の屋敷に何か得体の知れないものの気配を感じた二人は、そのまま一も二もなく屯所へ帰還したのだ。
そして見て来た全てを副長の話した途端、怒鳴られたのである。
「あのなぁ…せめて原因を探るとか、やばそうな状況でも屋敷に足を踏み入れる位の事は出来なかったのか? お前ら一応陰陽師だろうが」
「陰陽師だと出来なければならない問題ではないかと」
「ならばご自身で行かれてはどうです?」
またしても速攻で返答をする二人。いつの間にこんなにも息が合う様になってしまったのか、と響一朗は嘆息した。
「もう良い。とりあえず、監察を何人か向かわせる。お前らなんかよりはずっと、ずっっと、まともな状況報告をしてくれるだろうよ」
厭味じみた、というより最早厭味としか受け取れない言い方をすると、響一朗は奏炎に向き直った。
「おい、お前本当に何も解らなかったのか? 何も解らないから引き返してきたのか?」
「何故そんな事を訊かれるんですか」
念を押す様な質問に、部屋から出て行こうとしていた奏炎は、怪訝そうな表情で応える。
「お前が解らない事を、そのまま放っておく様な野郎には見えないからだ」
「俺はあなたの中でどれだけふてぶてしい印象なんでしょうね」
はぁ、と嘆かわしげに吐息をつく奏炎に、当然響一朗の怒りは頂点に達しつつある。それを見た目だけで見抜いた息吹は、そっと奏炎の背中を小突いた。
「解りましたよ。言えば良いんでしょう、言えば」
「って事はやっぱり何かしら掴んでたんだな?」
舌打ちしつつ、響一朗が身を乗り出す。何だかんだ言って、奏炎の話には興味があるらしい。
「叨埜家に今入り込むのは非常に危険ですよ。あそこまで妖気に包まれて、それに誰も対応していないとなれば、俺を招いたのも叨埜真臣かどうか怪しいところです。まあ、彼の事ですから異常な状況に怯えて俺を呼んだのかも知れませんが。もしかしたら、何者かに占拠されているのかも知れない」
「誰だ、それは」
座り直した部下の言葉に、響一朗が食い付く。しかし、それが解っていれば奏炎が屯所に戻る筈が無いのも、周知の事実だった。
「知りませんよ。俺は陰陽師であって予言者じゃないんです。どうせなら、占術の得意な隊士に頼んで…そう言えば息吹、君の属性は炎だったな」
唐突に話を振られた事に驚きながらも息吹が頷くと、奏炎はぱっと顔を輝かせた。
「なら話は簡単だ。君の占術を使えば良い!」
その言葉に、占術など行った事のない炎の陰陽師は、きょとんとして首を傾けた。彼はこの時知らなかった。「協力してくれるな?」と可愛らしく首を傾げる奏炎に頷く事が、どれ程愚かな行為であるのか。
さわさわと軽い音を立てる紅葉林の中、一際太い幹を持つ銀杏にもたれかかる影があった。まだ葉が落ちるまでには色付いていない木の下、橙色の光をぼんやりと見詰める影。
刹那は、緩慢な仕草で木の幹から身を起こす。すると、それに伴い緩やかな風が吹いた。もしも今、彼の傍に奏炎や息吹がいたら目を疑うだろう。人がいない事を良い事に、刹那は妖としての本当の姿を晒していた。
出来る限り妖力を抑え、威圧的な雰囲気を出さぬ様にするには、それなりの体力を使う。その抑えを外しているが故の解放感に、刹那はかなりの間、同じ場所に佇んでいる。
時々微睡みさえしながら、ただ時が流れるのを待っていた。
この国の人間は、まるで生き急ぐ様に毎日毎日の時間を惜しみながら暮らしているが、妖の、それも大妖である鬼の刹那にとって、時間は有り余る程にある。生きる事が苦痛になるくらいに。
だから望んでいたのだ。その長すぎる時が、穢れを段々と落として行く水の様に、この心から黒い感情を洗ってくれるのを。だが、それは過ぎた望だったらしい。
時を過ごせば過ごす程、黒い感情を凝り固まり、確かな形を成していってしまった。
吐き気さえする憎悪は、決して抱きたいものではない。そう思うと、どうしようもない嫌悪が身体全体を支配する。気持ち悪さに口許を抑えた時だった。
『また無意味にぼうっとしてるのね? 駄目よ、そんなんじゃ。人間よりもずっとずっと長い寿命があったって、死なない訳じゃないのよ』
柔らかく明るい声がした。
瞬時に辺りを見回した刹那の視界に、一人の女性の姿が入る。
「しゅ、り…」
信じられない光景に、彼は思わず目を擦っていた。もう一度女性を見るが、その姿はやはり消えない。
「生きて、いたのか?」
『何を馬鹿な事言ってるの? ああ、まだ寝惚けてるのね、あなた』
くすくすと鈴の笑い声が響く。真紅の髪の女性は、刹那と同じ真っ白な肌に映える黄色の瞳を和ませた。
何よりも愛しいその笑顔に、自分でも知らず知らず手を伸ばしていた。まるで色の無い、雪像の如く白い手が朱里に触れようとした瞬間、赤い光が散る。
細かい光となって消え失せた朱里の姿に、刹那は暫しの間身動きが出来なかった。だが、やがて現状を理解すると、乾いた笑いを零し始めた。
未だに過去も受け入れられない自分への、冷たい嗤笑。
「は…私はどこまで愚かなんだか…朱里はとうの昔に、死んだというのに」
十年も経ったのに、その姿を求めて幻覚まで見るなんて。
だが、忘れられない。
毎日、朱里が、その弟の千草が、父や母や弟妹達が微笑みかけてきてくれた、輝かしいあの日々を。人間を愛おしいと思えていられた(・・・・・・・・・・・・・・・)、十年前までの思い出を、捨て切れない。
『―――今ならまだ間に合う』
彼の言葉を聞いてから、もしかしたら、という希望じみた考えを持つようになってしまった。人を殺した自分に後戻りなんて出来ないし、何より殺された同胞を思えば、人を許そうなんて気にはなれない。
だが、面と向かって彼にそう言えなかった。
自分は人を憎んでいるから、恨んでいるから、そしてその気持ちを消す事は出来ないから、お前の提案を受け入れる事は出来ないと。きっぱり言い切る事が出来なかった。
何故かは解らない。もしかしたら、彼の行動の端々が朱里に似ていたからかも知れない。
(いや、違う…)
心の中で自分の考えを打ち消す。
たとえどんなに似ていても、朱里は女、彼は男だ。幾ら何でも重ね合わせるなんて事は出来ない。では、何が。
「妖と似た存在なのに、人を愛しているからか?」
朱里ではなく、かつての自分に重ね合わせているのだろうか。それとも、人を愛せる事に羨望でも感じているのか。
(羨望…? それを言うなら、憐憫だろう)
人を信じても、最後はどうせ裏切られる。それを自分は身を以て味わった。ならば、昔の自分の様に人を愛する妖に対して抱く感情は、憐れみの筈だ。
自分で自分が考えている事に矛盾を感じる。どんどん訳が解らなくなってくる。抜け出せない疑問と憎悪の世界は、まるで迷宮だ。先が見えず、何が正しいのかもあやふやになっていく。
そして、疲れた様に刹那が大きく息を吐いた時だった。
どんっ・・・
重苦しい音が一つ、地を伝わってきた。その振動と共に幾つかの人の悲鳴を見付け、刹那は振動の源を追った。そこで、身体を強張らせた。
「遠野の里か」
今は叨埜一族が支配する土地。そこは、かつて自分達が住んでいた里だ。
「内輪揉めでも起こったか?」
冷めた声で呟く。何しろ彼らは、身内を次々に殺されて疑心暗鬼になっている。
そう、「殺されて」いるのだ。
「あの光は、一体何者なんだ…」
奏炎ですらも知らない叨埜一族の死の正体。
恐らく真の殺人犯はあの「赤い光」だ。刹那の目の前で、いつもあの光は死体の傍から離れて行く。だが、刹那に危害は加えない。
二人の陰陽師には、あの光が自分に纏わりついていると言ったが、それは嘘だ。自分があの光を追っている。常に自分の邪魔をするあの光を。
何故かあの光は、自分が殺そうと考えていた叨埜一族の人間を、ほんの少し先に手にかける。それが、堪らなく頭に来た。
「…ふん。砥上息吹も、まぁまぁ使える様だな」
突然、刹那の背後で声がした。反射的に振り返った刹那は、一瞬眩しそうに目を瞑る。日没が近い今、声を発した人物の背後から差す陽の光は、最後の力を振り絞ってこれでもかと輝いていたからだ。
その紅の太陽に照らされた髪が、見た事もない美しい色に輝いていた。
「こんな所でお前は何をやっている? 仇である叨埜の連中を、全員他の奴に殺されても良いのか?」
「誰だ、貴様」
聞いた事がある気もする声音。明らかに自分の事情を知り尽くしていると言う態度に、刹那は警戒を露わにした。
「これはまた、随分と冷たいな。ついこの間話したばかりの仲だろうに」
全く悲しんでいない声が、大げさに哀しげな台詞を紡ぐ。その声の人物の容貌が、傾き始めた太陽によってはっきりと照らし出される。
「お前は…!」
驚愕した赤鬼に対して、相手はその血色の瞳を細め、そして笑んだ。
「俺に付いて来い。刹那」
短く命ずると、紅の瞳を持つ人物は踵を返す。その足取りは早く、夕陽の溢れんばかりの光も相まって、追わねばすぐにでも姿を見失ってしまいそうだった。
身勝手とも言える態度に内心舌打ちしながらも、刹那は大人しく相手に従った。
相手は振り返る事も話しかける事もなく、ただ黙々と紅葉林を歩き、そこを抜けると今度は市中を無言で進んで行く。
「お前の名を、訊いても?」
無音の状態に気分が悪くなり、刹那は突如、そう切り出した。すると相手は少しだけ歩を緩め、刹那との間を狭める。
「『あいつ』は何て言っていたんだ?」
「…教えられない、と」
不敵な笑みで問う相手に真意を知り、刹那は苦笑した。
「お前達はどこまでも相手を尊重するんだな」
少々の呆れが混じった感想に、相手は満足げに微笑んだ。
「当然だ。この世でたった一人の相手なんだからな」
速攻で返してきた相手と、彼の言う「たった一人の相手」との違いに、妖は口の端を吊り上げる。
「普通の人間であるあいつが、全ての殺人現場に誰よりも早く辿りつけたのは、お前のお蔭か」
「そうだ。異界からは、妖力や霊力の動きは実に見通しやすいからな」
「異界…」
あっさりと口にされた言葉に、刹那は戸惑った。
「それは一体どういう―――」
「遅ぇんだよ、今まで何やってたお前っ!」
突然の怒鳴り声に、刹那は柄にもなく飛び上がった。
「息吹に炎で何やら妙な術やらせたかと思いきや、突然飛び出して行きやがって、少しは集団行動というものを―――って、なっお前、刹那?」
驚いた事に、刹那が立っているのは千聖軍の屯所の門扉だった。秋も近く夜は冷え込むというのに、響一朗は外で待っていたのである。奏炎の帰りを。
そして人の気配がしたと思い、考えもせず奏炎相手だと決め付け怒鳴ってしまったのである。だが、間違った相手が意外過ぎて、響一朗はそれ以上何も言えなかった。
ただ、情けなく口をぱくぱくと動かし、茫然と刹那を指差したまま。いつの間にか刹那をここに連れてきた張本人の姿はない。
二人がお互いにどう反応すれば解らず固まっていると、不意に屯所の奥から声がかかった。
「何をしているんですか真田副長。ああ、刹那、君はこっちへ来てくれ」
中庭の方から歩いてきたのは奏炎。
帰りを待っていた響一朗としては驚愕の現実に、彼は目を剥いた。
「奏炎っ? お前いつの前に屯所に帰ったんだ!」
「ついさっきですよ。それより、今の季節、夜は冷えますよ。早く内へお入りになった方が良いんじゃないですか?」
「何の為に俺が外にいたと思ってやがる!」
「何の為です?」
わざと馬鹿正直に問い返され、響一朗は言葉に詰まった。まさか「お前を怒鳴り散らす為だ」とは言えない。言ったとしても何の役にも立たない。
「話は終わりですね? 刹那、俺の部屋へ来てくれ」
「あ、ああ…」
誰がどう見ても、それこそ妖であり、人の身分立場などよく解っていない刹那にさえ判る程に上司を無下に扱うと、奏炎はよりにもよって鬼を自室へ手招いた。
鬼とは知らないものの、妖怪であるとは知っている響一朗が蒼褪める。
例えどんな事情があろうとも、陰陽警察の中枢に妖を招き入れるなど言語道断。幕府に対する背信行為にもなり兼ねない所業だ。
「お前何考えていやがるんだ? そいつは妖だろう」
何とか冷静を保ちながら忠告すると、奏炎は少し考え込む素振りを見せた。だが。
「でも、叨埜一族からこれ以上の犠牲者を出さない為には必要な事ですから」
そう告げると、もう言う事はないとばかりに部屋へと歩き出す。人間に気遣いなどしなくて良い刹那の方が、奏炎より余程躊躇いを見せていた。
「この…生意気な餓鬼がっ!」
どかっ・・・
冷静沈着、無表情で冷酷な毒舌家として有名な筈の千聖軍副長は、とりあえず門扉を蹴り飛ばす事で鬱憤を晴らした。
そんな彼の様子を横目で見遣りながら、刹那は戸惑いつつも奏炎に問うた。
「良かったのか? あの男は仮にもお前の上司だろう」
「仕方ないだろ。あの人に付き合っていたらいつまで経っても本題に進めない」
うんざりした様子で返す奏炎は、自分の部屋に辿り着くとその扉を開け放った。
まだ入隊したばかりで、部屋の仲は殺伐としている。あるのは元から置かれていた文机と、一本の長刀だけ。
「本題、か。それが私に関係する事なんだな」
蝋燭の小さな灯りだけで照らされた室内に腰を下ろし、刹那が確認を取る。彼は既に、自分をここに連れて来たのが「誰」なのか判っていた。
「流石に話が早いな。その通りだ」
「で? その本題とは」
「一緒に叨埜家を守ってくれないか」
「……は?」
真剣な碧色の瞳が、真っ直ぐに刹那を見据えていた。
だが刹那としては、予想外過ぎるその内容には当然、驚かざるを得ない。
「正気か? お前」
思わず、そう訊いていた。
「本気だよ、俺は。お前がいれば、俺は叨埜家を守り切れると考えている」
「そういう事を訊いているんじゃない。私は言った筈だ。私は叨埜家に一族を殺され、彼らを憎んでいると」
「知っている。だが、殺していないんだろう?」
「殺したくなくて殺さなかったんじゃない!」
怒鳴り声で反論したが、奏炎は素知らぬ顔で首を振った。
「お前には殺せないさ。何しろお前の一族に直接手を下した者は、もうこの世にはいない。今叨埜一族にいるのは、そんな先祖達の罪を理不尽に贖わされている彼らの子供達だ」
はっと、刹那が息を呑む音が響いた。
十年前に、刹那はその場にいた人間達を皆殺しにしたのだろう。だとすれば、容易に想像出来る現実でもある。
だが、憎悪というものは現実を見えなくさせるものだ。
「それがどうした。たとえ私の一族を殺した者ではなかったとしてもだ。殺す理由はなくとも、助ける理由もまたない」
きっぱりと拒絶した刹那を、奏炎は睨み付ける様な視線で眺めた。
碧玉が妖しい光を帯びた様に見え、相手がたじろく。
「叨埜一族が、叨埜汪唎に殺されそうになっていてもか?」
「おうり? 誰だ、それは」
「桔梗島の遠征を命令した張本人。不死を求めた当時の当主」
「な…っ」
ざわり、と空気が揺れた。瞬く間に刹那を取り込んだ凄烈な妖力に、奏炎は苦笑した。
「自分の真の仇の名すら、知らなかったのか」
「どういう事だ!」
詰め寄り、今にも胸倉を掴み上げそうな勢いに鬼に、陰陽師は事も無げに言った。
「息吹に占術をさせた。と言っても彼は占いは初心者だったからな、俺が彼の霊力を借りてやった様なものだ。その占術で、今の叨埜家の実情とお前の居場所を特定した」
だが、その占術の結果を息吹は知らない、と付け足した奏炎。
彼の自室に、問題の息吹が飛び込んで来た。
「奏炎! いい加減にさっきの占術の結果を教えてく―――っ?」
勢いよく襖を開けて入室した息吹は、そこで響一朗と全く同じ反応を見せる。
部屋の中に居る筈のない妖に向けて指を差し、茫然と硬直するだけ。
「君は本当に真田副長と息が合っているな」
副長は副長で、息吹は奏炎と息が合いすぎていると思っているとは知らず、そう感心した様に奏炎は言う。
「何のつもりだお前っ! そ、そいつは妖だろう」
「真田副長も全く同じ事を仰っていたな」
うん、と感嘆と共に頷くと、息吹は「ふざけるな」と言いたげに顔を顰めた。
「お前には陰陽師としての自覚があるのか?」
いつにも増して濁りの無い追及の色に、奏炎は溜息と共に目を閉じた。
「ここに座ってくれ、息吹」
自分のすぐ隣を軽く叩くと、は彼部屋の隅から火鉢を持って来た。それを、自分の隣に座った息吹の目の前の押しやる。
「さっきもやった、占術だ」
叨埜家から帰還した後すぐに二人で行った占術。それをもう一度奏炎がやろうとしているのだと察し、息吹は更に眉間に皺を寄せた。
何故なら。
「あの奇天烈な踊りをもう一度やれと言うのかっ!」
そう、炎を用いての占術は、非常に恥辱的な行為を伴うものなのだ。
「事件解決の為だ。頼む、息吹。この通りだ」
言うと、奏炎は顔の前で両掌を合わせる。俗に言う「お願い」の姿勢に、息吹は瞠目し、そして頭を抱えた。この行為が果たして悪意を伴ったものなのか判断出来ないのだ。
「…解った」
渋々ながらも頷くと、息吹は火桶の上に手をかざす。すると、見る間に火桶の炭から赤い火の粉があがった。
その火の粉は宙で膨れ上がり、やがて一つの炎となる。その炎を掌に左掌に浮かべたまま、彼は立ち上がった。
「悪いが奏炎。俺は一度や二度の説明であの奇天烈な踊りを覚えられる程、出来た頭を持っていないんだ」
告げると、奏炎は心得た様に頷いた。
「まず、左足を引いて。次に右腕を前から横に勢いよく振って、次に左足を戻す。それから―――」
丁寧に一つ一つの動作を奏炎が口で導き、それに息吹が従う。細かい動きは、奏炎の言葉を無視して息吹の動作だけを見ていれば、それはそれは奇妙な踊りに見えた。
だが、実はちゃんと神へ捧げる為に作られた動作だけで成された、立派な術式なのだ。
「息吹、動きだけに囚われては駄目だ。きちんと炎の先に見透かしたい内容を思い浮かべてくれ」
己がしている踊りを意識したくない余り、ぼんやりと奏炎の指示に従っている息吹を、占術を教えた本人が叱責した。
「思い浮かべるって、占うのは何だ?」
「今の叨埜家本邸の中の様子だ」
「それは先程も占っただろう。何故もう一度?」
「今度は君や刹那にも結果が見える様にするからだ」
納得出来る内容に頷くと、息吹はそのまま術に集中する。一方、刹那は意味の解らぬ状況に、何度も何度も目を瞬いている。
やがて最後の動作を終え、息吹の掌の上で炎の塊が一段とその勢いを増す。それを見て、奏炎が立ち上がった。
「息吹、炎をこっちに」
言われ、反射的に息吹が炎を相手に投げ渡す。その渡し方に息吹が「まずい」と思った時には、奏炎は躊躇も見せず炎を掴み取っていた。
そして彼の手に触れた途端、炎は赤から蒼へと色を変え、その大きさを更に増幅させた。
「うわっ…」
溢れた眩しい光に、思わず息吹が目を手で覆う。しかし、指の隙間から見えた光景に、彼は炎とは別のものに驚いた。
蒼い炎に照らされた時の奏炎の髪が、蒼ではなく紫色に見えたのだ。だがそれは一瞬の事で、顔から手を放した時には、髪色は元の蒼いものに戻っていた。
(見間違いか…?)
内心首を傾げてみるが、そんな疑問もすぐに吹き飛ばされてしまった。
『お、おやめ下さい真臣様っ 一体何故この様な事を…!』
『一体どうしたって言うんだ、真臣。昨日からおかしいぞ、おま―――うわあぁっ』
奏炎の手の上で膨れ上がった炎は、まるで鏡の様に平らになっており、その中に掠れた景色が映っていた。そして、その景色の中で悲鳴を上げる数多の人間達。
見た事の無い屋敷の中だが、映っている人物達の髪色が皆漆黒ではない事と、『真臣』という名で、景色が叨埜家の内部だという事はすぐに判断出来た。
逃げ惑う人々は、しきりに窓や扉を叩いている。その様子から、それらが開かず、屋敷の中から逃げられないのだと息吹は理解した。そして、そんな人達が恐れている一人の人物。
「叨埜真臣、だよな?」
炎の中に見える一人の青年を指差して、息吹は奏炎に問うた。
そう訊いてしまうのも無理はない。炎の中に映る真臣は、唯一度顔を合わせただけとはいえ、同一人物とは思えぬ表情を浮かべていた。
何もかもを見下した様な冷たい瞳と、嘲り笑いを張り付けた顔。そして、真っ赤な血に染まった紫紺の袴。あの気弱そうな青年とは、とても思えない。
「ああ。身体だけはな」
「身体『だけ』?」
妙な言い表し方に、息吹は眉根を寄せた。すると、その答えを刹那が返す。
「何者かが憑依しているんだろう」
「その通りだ。憑依しているのは恐らく、叨埜汪唎だろうな」
奏炎の憶測に、部屋の空気が冷えた。
「ちょっと待て。叨埜汪唎はもう既に亡くなっているのではなかったか?」
「魂…いや、霊力の残滓と強すぎる意志が相まって、この世に残る事は有り得る」
「では叨埜汪唎は力の切れ端のみとはいえ、生きていると」
「あくまで可能性だ。だが、一番考え易い筋道でもある。不死を求めて人としての禁忌を犯す程の人物だ。生きたいという欲望が、この世に留まる力となってもおかしくない」
説得力のある話を聞いた刹那が、錆色の瞳を怒りに染めた。
「どうする? 刹那。生き残っている最後の仇を、討ちたくはないか?」
まるで誘惑の様な誘い文句。それに、刹那は無言を貫いた。それが答えだった。
「決まりだな。息吹、真田副長に伝えておいてくれ」
「…何を」
盛大に嫌な予感がした息吹は、唸り声にも似た声音で訊ねた。
「今夜、零番隊々長は任務遂行の為、屯所を抜け出します、とね」
第四章
闇という真っ暗な空間は、人が思う程恐ろしくは無い。
「何も見えない」というのは、確かに得体の知れない何かがいるかも知れないが、だが何かが「ある」かも知れない。
〈一番怖いのは、真っ白だ。〉
そう、少年は考えていた。
辺りは光に包まれて、明るい。光に満ち溢れている。けれども、真っ白。「何もない」。見えないでもなく、ただ本当に無いのだ。
無。
それが、少年にとっては一番の恐怖だった。そして少年は、生まれてより、常にそんな空間に生き続ける事を強要されていた。だから―――
だから、ここに来た。
「六道の辻に、鬼は来る…」
それは、彼の家の言い伝え。
「暗き淵には冥府の門や、いざ現れん。人を喰ろうて育ちし闇の、化生は門を通りて此処へ。鬼との逢瀬はいざ六道の辻へ…」
澄んでいながら、どこか虚ろな声で、少年は呟いた。彼がいるのは、六道の辻。それも、人々が言う火葬場への道である「六道の辻」ではなく、真に鬼の住む六道へと通じる道。
淀んだ荒野の中、少年の声だけが、唯一の確かな線となってその場を駆ける。
それでも、少年の望む結果は、その場に現れない。
「…」
しかし、少年は別にそれに対して文句の一つも呟かなかった。ただ、瞼を伏せ、その白く美しい顔に諦めの表情を浮かべる。
「俺を喚んだのに、目的を果たさずに帰るつもりか?」
その場に、少年のものではない声が響いた。
「お前は…?」
少年が、僅かに驚きを伴った声音で、突然に現れた相手に問いかけた。けれども、問いかける必要も無かった事を、相手の顔を見て悟る。
「お前は、もしかして」
質問に、相手はその秀麗で美しい・・・少年と同じ顔(・・・・・・)を、陰った笑みで彩った。
「俺はお前。そして、お前は俺だ。俺たちは二人で一つ。だが、永遠に逢う事は許されない筈だった。それを、お前は超えて来てくれた。俺を喚んでくれた。さぁ、お前の望みを言え。何でも叶えてやる。お前は俺なのだから。俺の半身」
優しく、優しく、少年に彼は語りかける。
柔らかな声で、和やかな気配しか感じさせない口調で、どこか禍々しく荘厳な気配を持つ、少年と同じ顔を持つ者。彼は、黙り込んでしまった少年の口から自分の質問への答えが紡がれるのを待つ。辛抱強く。
そして、少年は不意にその願いを口にした。
「僕の願いは・・・」
その答えに、少年と同じ顔を持つ者は、目を瞠る。少し開かれた瞳孔と共に、彼の瞳が美しい赤色だという事に、ようやく少年は気付いた。
「それが、お前の一番の望みなのか? それが」
茫然と、赤色の瞳の持ち主は少年に訪ねた。
「そうだ。叶えてくれるのか、『僕の半身』」
少年の声が、どこか縋る様にその場に響いた。
少年が詠唱したのは、鬼を呼ぶ詞(うた)。
「奏炎、奏炎っ」
何度も名前を呼んでも反応しない相手に、息吹は痺れを切らした様に声を荒げた。
「あ…何だ? 息吹」
完全に自分の世界に入り込んでいた奏炎が、きょとんとして問い返すと、息吹は苛立たしげに溜息を吐いた。
「こんな真夜中に叨埜家へ行くのは良いとして、何故それを真田副長に申し上げるのは駄目なんだ?」
屯所を抜け出すが、何処へ行くかは言うな。それが奏炎の意思だった。
「あの人が知ったら一も二もなく部隊を動かして、叨埜家の屋敷を取り囲もうとするだろう。それが迷惑なだけだ」
「何で迷惑なんだ?」
「朝もろくに起きられない連中が、霊力だけで生き残るなんて化け物じみた敵相手に、まともな対応が出来るとは思えない」
つまりは足手まといになるだろうから、と言いたい奏炎に、息吹は呆れた。
はっきり言って、奏炎の考えは的外れにも程があった。
確かに朝は起きられない者達だが、それでも陰陽師としての腕は一流。奏炎には敵わないながらも、伊達に「千聖軍」の名を背負っている訳ではない。
一部隊十人の彼らが援護すれば、自分達はずっと楽に行動出来る筈だった。
しかしそう考える息吹も、結局は上司である響一朗に何も言わずに屯所を抜け出してしまった。何しろ、上司に報告に行っている間くらい待っていてくれる程、奏炎はお人好しではないのだ。
「…まあ良い。じゃあ次だ」
「まだあるのか?」
少し鬱陶しげに奏炎が呟く。彼としては、これから叨埜家へどうやって入り込むか、それだけに意識を集中させたいのだ。
「仲間である千聖軍の援護を必要としないなら、どうして妖怪には協力を頼むんだ」
それが、息吹にとって一番の不満だった。
元々、奏炎が今夜叨埜家へ赴く際の連れに息吹は含まれていなかった。含まれていたのは唯一人、刹那という妖だけ。
仲間でない上に、陰陽師の敵とも言える妖という分際の刹那の方が、自分よりも頼りにされている様にしか見えず、息吹は柄にもなく拗ねていたのだ。
「叨埜家と何の関わりのある妖か知らないが、連れて行って叨埜家の人間を殺されたら一巻の終わりだぞ! お前自身の責任問題になる」
これも本心。
刹那の正体が強大な力を持つ妖だという事だけは判る。そんな妖怪を、只事ではない状態の叨埜家に連れて行って、何かされそうになっても、自分には止められる自信がなかった。だが、その事で奏炎に責任を問われる事態も、避けたいところだ。
「お前がそこまで刹那を信用する理由は何だ…っ」
語尾が僅かに震えたのが、自分でも解った。そして、息吹の心情を読み取ったのだろう、奏炎が驚いた様にこちらを向く。
「そう、だよな。君から見れば、妖を信じるなんて行為、陰陽師として愚行以外の何物でもないんだろうな」
「当たり前だ。倒すべき敵だぞ」
「俺はそう思っていない」
きっぱりとした否定の言葉に、息吹は一瞬何を言われたのか解らなかった。
そう思っていない。思わない。何を。
(妖を、敵と思っていない、だと…?)
信じ難い発言に、彼は頭の中で奏炎の言葉を何度も何度も反芻した。
「馬鹿じゃないかっ?」
「え、そういう反応になるか? 普通」
予想外に素っ頓狂な驚きの声に、奏炎の方が拍子抜けした。もっと深刻な顔をされると思っていたのに。
「お前が常識で測れない奴だと言うのは、とっくの昔に知っている。今の発言は、ぎりぎり許容範囲内だ」
疲れた様に肩を落とす相手を、奏炎はまじまじと見詰めていた。すると不意に、くすりと笑う音が響いた。
「…そこで何で笑う?」
不満げに息吹が顔を上げると、奏炎は、本当に嬉しそうに微笑していた。
その微笑が年相応に見えて、息吹の頬に朱が散る。
「―――がとう」
奏炎が何事か呟いたのが、口の動きで解った。けれど、その言葉をはっきりとは聞き取れず、息吹は首を傾げる。
その動作に奏炎がもう一度口を開こうとした時だった。
「奏炎、ここか?」
刹那が一つの屋敷の前で足を止めた。見ると、そこには確かに叨埜家の屋敷があった。
「そうだ」
頷くと、刹那は何の躊躇も無く門扉に手をかけ、鈍い音と共に扉を開けてしまう。
「おい!」
勝手な事を、と非難の目を向けようとして、二人の陰陽師はお互いの顔を見合わせた。
「…これは本格的に、やばいんじゃないのか?」
「かも、知れないな」
普通、家の門は他者が勝手に入れぬ様に錠がかかっているものだ。それが外されているというのは、明らかにおかしい。誘われているのかも知れない。
そして更なる衝撃が二人を待っていた。
「刹那、少しは待ってくれ」
すたすたと性急な足取りで屋敷へと向かっていく鬼に、奏炎は不安気に声をかけた。
「何故?」
簡潔に問いながら、刹那は屋敷の中へと、容易に足を踏み入れた。
「え……?」
奏炎と息吹、二人の目が限界まで瞠られる。
息吹の占術の中で、叨埜家の人間と思われる者達は、皆屋敷の外へ出ようとしても出られずにいた。それが、外からは簡単に人を入れる。
それはつまり、入れば外に出るのは困難という事だ。
「刹那―――っ」
思わず叫んで、奏炎は彼の手を掴み外に引き戻そうとした。その奏炎を、息吹が連れ戻そうとする。それが間違いだった。
「うわっ…」
短い悲鳴と共に、奏炎の身体が屋敷の中に引きずり込まれる。それにつられて、息吹もまた、まんまと屋敷の中に閉じ込められてしまった。
当然、外に出られぬものかと、二人は扉の外へ歩み出そうと試みた。だが、外に出たかと思えば、広がる景色は真っ暗な屋敷の中だけ。先程までの月明かりや星の光は、どこにも見えない。
二人同時に、己の情けなさと不甲斐なさを呪って膝をついた。
「やられた…」
その状態のまま憎々しげに、奏炎が呻いた。
「だから、刹那を連れてきて良いのかと訊いたんだ」
息吹もまた、今更言ってもどうにもならない事を呟く。
「そうだ、刹那はっ?」
もう一人の同行者の存在を思い出し、彼は辺りを見渡す。真っ暗闇の中でも、妖気を辿れば見付けられると思ったのだ。だが、どこにも妖の姿は見つからない。
「何処に行ったんだ?」
そう言葉を零した奏炎の背後で、息吹がふらりと立ち上がった。
「息吹、刹那がどこにもいないん―――」
現状を伝えようと振り返った奏炎を、橙色の炎が襲った。
混濁する意識の中で、叨埜真臣は新たな屋敷への侵入者の存在に息を呑んだ。
もう、この屋敷に住む一族の者は全て帰還した筈なのに、どうして更に人が入ってくるのだろう。
(やめてくれ…)
心の中で、彼は悲鳴を上げた。
今自分の身体は、真臣の意志に関係無く屋敷を徘徊している。逃げ隠れしている一族の者を探す為だ。己の意志で動かしている訳ではないのに、自分の身に纏わりつく血の生暖かさと、それが熱を失い代わりに持つ冷たさは、鮮明に伝わってきた。
恐らくこの身体は、一族全員を殺すまで止まりはしないだろう。だから祖父は不死を望んだのにそれを叶えられなかった、己の一族をも恨んでいる。せめて、一族以外の犠牲者を出したくはなかったのに。
そう考えてから、覚えのある霊力に戸惑った。
(この、霊気…まさか、あの陰陽師?)
自分より年下なのに、千聖軍の非公式部隊の指揮を任されていた美貌の少年。
確か名前は、玉依奏炎。
(彼がどうしてここに)
茫然とすると共に、希望にも似た感情が心に芽生えた。そうだ。数日前に祖父の目を盗んで、彼に助けを求める手紙を送ったのだ。きっとそれが届いたのだろう。
「随分と、嬉しそうだな。真臣?」
冷やかな自分の声が、何もかもを見透かした様に語りかけてきた。
「お前が期待しているのは…ああ、この霊力の持ち主か」
ふん、とせせら笑う声がしたかと思えば、突如、真臣の身体が自由を取り戻した。不意の出来事に、身体を支える意志を持たずにいた真臣が膝を崩す。
「何で急に…」
現実が信じられず、自分の言う事をきく両手を握っては開いてを繰り返した。しかし自由な時間はすぐに終わりを告げる。
「叨埜汪唎…!」
膝をついて茫然とする真臣の視界に、白衣の裾が閃いた。そして一瞬後。
だんっ・・・
凄まじい音を立てた己の背中と、そこに当たる壁。息苦しいのは、尋常ではない力で喉を掴まれ壁に押し付けられているからだ。
片手だけで人一人を掴み上げた相手を見て、真臣の瞳が驚愕に見開かれた。
「あな、たは…」
咳き込みながら、憎悪で瞳を輝かせた青年を見遣る。少し前に、この屋敷の前で見た相手に、間違い無かった。
あの時も、恐れるべき相手だとすぐに解った。『赤鬼』だと判る証・・・真紅の髪と、琥珀色の瞳。そして、紅色の間から顔を覗かせる黒い角。
その身に纏うのは、白を基調とした異装だった。見た事も無い型だが、その恰好が何よりも妖らしさを示している。
「十年…この時を、ずっと待っていた…っ!」
怒りで燃える瞳に、自分は叨埜汪唎ではないと伝える事さえ、出来なくなった。
自分の腕に倒れ込んできた少年の身体を、汪唎はいとも簡単に拘束した。
眩しい程の蒼色の髪が、相当な霊力を持つ事を物語る陰陽師。あの気弱な孫が、一族に内密に千聖軍を頼っているとは意外だった。
だが、所詮は小童。こんなにも華奢な身体で、何が出来るという訳でもない。現に、たかが仲間の不意打ち如きで敵の手に落ちてしまうのだ。
自分が憑依し炎を放たせた陰陽師の攻撃に、彼は完全に無防備だった。それでも、瞬時に防衛の為の氷の壁を作ってみせた。あそこまで反応の早い術式は聞いた事が無い。
「少し、気を付けた方が良いか?」
思案する声は、他ならぬ砥上息吹のもの。動きを封じた奏炎を抱き上げ、適当な部屋へと放り込む。その扉に呪符を張り、部屋への出入りが出来ぬ様にする。
そこで考え直し、やはり息の根を止めるべきかと呪符を剥がそうとしたところ、ずしりと身体が重くなった。思う様に動けなくなる。
「やはり陰陽師は対抗を作るのが早いか」
予想以上に早くきた拒絶反応に、汪唎は舌打ちした。霊力はあっても意志が弱く、更には血縁関係と言う事もあり、真臣には簡単に憑依出来たし、拒絶もされなかった。
だが、この陰陽師は明らかに戦士として妖との戦場に立ってきた、屈強な魂を持つ者だ。しかも当然、血縁関係などない。
「…まあ、良いか」
どうせ閉じ込めた事には変わらない。むしろ、呪符を剥がす前に拒絶反応が来て助かったというところだろう。
そう思い、汪唎は陰陽師の身体から抜け出た。だが、その身体をそのままにはせず、己の張った結界の外へと飛ばす。ついでに、外から来る者は受け入れるが、中からは出さぬ弁の様な形にしていた結界を、何者も拒絶するそれへと術をかけなおした。
そうすれば、あの陰陽師が救援を呼んだとしても無駄足にしかならない。
蒼い髪の少年は、全ての一族の粛清が終わった後にでも、真臣の身体で殺せば問題ない。そんな、すぐ近くの未来を想像し、汪唎という名の黒い焔は、くつくつと笑かの如く震えた。そしてそのまま、灯りの一切ない屋敷の奥へと消える。
そんな焔の背後、扉の奥。
「たかが死んだ人間如きが…奏炎に手ぇ出すとはな」
恨めしげな声が、怒りを露わに吐き捨てた。それから声の主はしゃがみ込むと、奏炎の手足に巻かれた縄に手を添える。固い縄は、触れられた所から嫌な音を立てて焦げ切れた。
息吹の炎を防御したとは言え、衝撃で気を失ってしまった奏炎の頬に、相手はそっと手を触れた。何の反応もしない、この世で唯一人、守りたいと思える存在。
「勝手に人前に出たら、お前を怒らせる事になるだろうが…勘弁してくれよ、奏炎」
先に謝罪の言葉を紡ぐと、相手はゆっくりと奏炎に身を寄せた。まるで抱き締める様にその細い体を包み込んだ時、部屋の中は蒼い炎に包まれ、二人の姿は忽然と消え失せた。
だが、そんな屋敷の中の様子を知らない息吹は、必死に結界に穴が無いか探っていた。
その顔は完全に冷静さを欠き、彼の取り柄とも言える判断力を失っていた。それは当然と言えば当然の事だった。
憑依されたとは言え、真臣と同じく彼は己の行った事の全てを知っていたし、その感覚だけは直接味わった。だから仲間に術をかけた自分が許せなかったし、彼が何処に囚われているかも知っているのに何も出来ない自分が憎らしくて仕方なかった。
最早彼の頭には、姿を消した妖の存在など無い。ただ、未だ屋敷の中にいる奏炎の身だけが彼の精神を支配していた。
必死になって探すものの、見付かる気配すらない入口に、やがて息吹の頭も冷えてきた。
(もうこれは…真田副長を頼るしかないか)
自分よりも優れた陰陽師である上司なら、奏炎を助ける事が出来るかも知れない。
そう考え、踵を返した息吹の目の前に立ち塞がる人物があった。
「正直に答えろ、砥上一番隊々長。上司である俺に黙って、隊務を破った理由は何だ?」
「真田副長…っ!」
深緑色の髪を後頭部の高い位置で結い上げ、完全な戦闘態勢を整えた響一朗。その後ろには一番隊の面々もいる事に気付き、息吹は一気に安堵が身体を駆けて行くのを感じた。
「どうしてここが?」
だが安堵の次に来るのはやはり疑問だ。
「どうして、だと? お前らが何やらこそこそ屯所を出て行った時点で、目的地がここである事くらい予想は付いた」
「! 見ていたんですか?」
「盗み見していたみたいに言うな! 偶然だ、偶然っ」
ばつが悪そうに怒鳴る響一朗の様子から、自分達の行動を見守ってくれていたのだろうと考えが及んだ息吹は、少しだけ笑った。それから、表情を引き締め屋敷を指差す。
「内に、零番隊々長がいます」
「で、中には入られないんだろ」
「ええ、その通りで―――何で知ってるんですか」
「お前がちょろちょろ屋敷の周りを駆け回っていたからな」
「…っ、何で盗み見するんですか」
かなり恥ずかしいところを見られたいたと知り、息吹の口元が引き攣る。それに、響一朗は実に意地の悪い笑みを浮かべた。それだけで、彼に内密に行動していた自分への仕返しだと気付く。
だが、納得がいかないのは副長の後ろで一番隊員達が笑いを堪えている所だ。
彼らとしては、いつも冷静沈着で寡黙な隊長の意外な一面を見て、笑うなと言う方が無理だと言いたい心境なのだが、隊長としては矜持を傷つけられた気がしてならない。
「文句は後だ。とりあえず、結界を破るぞ」
「御意」
真面目な顔つきになった響一朗に、息吹も一切の私情を取り払った。一瞬で切り替えられた空気に、隊員達の肩にも力が入る。
袂から呪符を取り出し構える二人の陰陽師は、先程までの会話が嘘の様に冷静・・・否、冷徹と言う方が相応しい表情を浮かべている。
緑と灰色の瞳が、鋭く見えない結界を見据えた。そのまま、二人が呪符を振り上げた時。
隊士達の背後で、絶大な妖力が爆発した。
「「な――――ッ!」」
響一朗と息吹が同時に振り返り、予定とは異なる場所へと呪符を飛ばす。呪符は見事に隊士達を避け、違う事無く妖力を放つ「もの」へと張り付こうとした。
「馬鹿か! 相手の顔くらい見てから攻撃をしろ、阿呆共がっ」
抗議の声と共に、二枚の呪符が蒼い炎に灼かれていく。
あっさりと防がれた隊長達の攻撃に、隊士達が一斉に攻撃態勢を取る。炎と夜闇の所為ではっきりしなかった妖の顔が、弱まった妖自身の炎によって照らし出される。
その顔を見た全員の動きが止まった。
「そ、奏炎、なのか?」
愕然として息吹が問う。
「お前の目はどうなっている? 俺が奏炎な訳がないだろうが」
苛立たしげに答えた桔梗色の髪と、血色の瞳を持つ妖の顔。
それは確かに、奏炎のそれと酷似していた。
彼の陰陽師の少年と違うのは、髪と瞳の色、そして。
「その翼。まさか、お前…鵺か」
恐る恐ると言った体で呟いた響一朗の言葉に、妖は薄い唇を笑みの形に吊り上げた。奏炎では絶対に浮かべない、自信に満ち溢れた意地の悪い表情。
「まあまあ勉強してあるみたいだな。桔梗島の妖を知らなかったにしては、上出来だ。真田響一朗」
傲岸不遜なその妖怪の正体は、鵺。
その姿を見れば死の世界へ招かれるとまで言われる、最強にして最凶の妖。鴉羽の様な漆黒の翼を背に持つ鵺は、奏炎と同じ貌でにやりと笑った。
「どうせ陰陽術程度で結界を破れるんじゃないか、なんて馬鹿な事を考えているだろうと思ってな。呪符の無駄遣いをさせない為にも、わざわざ結界を破ってきてやったんだが…」
そこまで言ってから言葉を切り、鵺は自分が燃やした呪符の燃えかすを見遣った。
「自分達で無駄遣いをするとは思わなかった。どこまで抜けているんだ」
呆れ混じりに言われ、響一朗の額に青筋が立つ。
「妖にそんな事言われる筋合いは無い! 大体、陰陽師の前にいきなり現れて攻撃されないと思ってる方がどうかしてるだろうが」
「だから馬鹿だと言っているんだ」
「何だと?」
「お前達は敵でも利用価値のある者は利用する、という賢いやり方に未だに気付けないのか? 愚かにも程があるな」
はっ、と嘲笑する鵺。それに当然、切れやすい響一朗の怒りは膨らむばかりである。
「真田副長、堪えて」
さりげなく肩を叩いてくれた息吹に、副長は心底感謝した。おかげで怒りを何とか収める事が出来そうだ。だが、あの生意気な奏炎と同じ貌で、奏炎よりも更に質の悪い言葉を吐きまくる妖には、とても良い感情は抱けない。
「とりあえず、お前の名前は何だ」
「知るか」
「ふざけるな、妖とて名前はあるだろう」
「教える気はない」
さらりと切り捨てられた問い。もういい加減に響一朗も限界だった。
「ああそうか、だったらお前の事は妖怪、妖怪と呼ぶからな」
鵺と呼べば良いものを、と息吹は副長の大人気の無さに少し呆れた。それは妖も同意見らしく、響一朗が定めた呼び方に、心底嫌そうな表情を浮かべていた。だが、そうなっても名前を言う気は無いらしい。舌打ちするに留まった。
それが息吹にとっては決定打になる。
(彼が、奏炎の『大切な兄弟』か)
奏炎が頑なに正体を、名を言おうとしなかった人物。そう思えば、刹那の不可思議な発言の辻褄も合うというものだ。人間もどきと言うのは、兄弟が妖だからという意味なのだろう。
鵺という妖が人そっくりな容姿というのは初耳だったが、とりあえず息吹の中からは、一切の疑問が消えた。
「言っておくが、心を読まずとも考えている事が丸解りだぞ、砥上息吹」
余程満足気に微笑んでいたのだろう、いつの間にか目の前に立っていた鵺に、呆れた様にそう言われてしまう。
「お前達『兄弟』は、本当にお互いを想い合っているんだな」
思ったままの事を言ってみる。すると、鵺は驚いた様に目を瞬かせた。
「あの鬼と同じ事を言うんだな」
「刹那が?」
「ああ。お前と全く同じ事を言っていたぞ。妖と思考回路が同じとは、陰陽師として感想はどうだ?」
完全に面白がっている相手に、息吹は彼の予想を裏切るだろう反応をしてみせた。
「奏炎があんなに隠したがっていた刹那の正体を、よくぞ教えてくれたな」
妖が「しまった」と口を抑えたのは、当然の反応だった。
「何をごちゃごちゃ話してるんだ! さっさと踏み込むぞ、奏炎を放っておく訳にはいかないだろうが」
「……はぁ?」
響一朗の怒鳴り声に、鵺が心底呆れかえった声を発する。
「何だその反応は? お前は奏炎の味方ではないのか」
鋭く詰問する相手に、鵺はふんと鼻を鳴らした。
「奏炎以外の誰の味方だと言うつもりだ」
「叨埜汪唎」
「一遍殺してやろうか?」
淀みなく答えてくれた響一朗に、妖はどこからか取り出した刀を突き付けた。突然の事に一瞬身を強張らせた息吹は、その刀身が透き通っている事に気付いた。
「何だこれは」
恐る恐る刃に触れてみると、それは冷たい石の様だった。
「硝子だ。この刃は硝子で作られ、霊力が通りやすくなっている」
意外にも丁寧に鵺が説明してくれる。
「がらす…それは何だ?」
「知らないのか? 西洋から伝わったものだ」
「西洋…これで何かを斬るなんて芸当が出来るのか?」
峰ではなく刃に触れているのに、皮膚が切れるどころか傷さえついていない。こんなものが武器になるとは到底考えられなかった。
「これは、こうやって使うんだ」
言葉と共に、僅かに蒼く輝く透明な刀身に、一気に妖力が纏わりつく。それと同時に、硝子の剣は蒼白い炎の層を持った、光り輝く刃を持つものに変わった。
「こうした状態で、相手を斬る。そうすれば、物理的には何の傷も無いが、妖や異形といった魑魅魍魎だけを始末する事が出来る」
「退魔の剣か」
かなり驚いた様子で副長が呟く。
退魔の剣とは名の通り、妖怪を退治する為だけに作られた剣の事だ。だがそれを作るのは普通の刀鍛冶には不可能な事で、故に退魔の剣の希少価値は高い。長い歴史を持つ陰陽師の一族や、神道の一家の家宝となる程だ。
「どこから盗んだ?」
そんなものを妖が持っている筈もない。どこぞから拝借してきたものだろうと思い、不躾にそう訊ねた響一朗の首元に、硝子が突き付けられた。
「言っておくが、この剣は霊力も傷付ける。霊傷を負いたくなければ、その過ぎた口を閉じるんだな」
つまりは陰陽師の力の源である霊力を削る、と言っている妖に、響一朗は苦々しげに顔を歪める。その反応を見ると、鵺は腹の虫がおさまったのか、剣を鞘に納めた。
「心配しなくても、この剣は元々奏炎のもので、それを本人の許可を得て借りているだけだ」
「奏炎の?」
これはこれで予想外の答えに、息吹が眉を跳ね上げる。
「そうだ。それがどうかしたのか?」
「玉依家っていうのは、そんな名家なのか?」
「人間社会の身分なんざよく知らん」
にべもなく言い切ると、鵺はふいとそっぽを向いた。その様子は、これ以上玉依家について触れられたくない様に見え、息吹は仕方ないと首を振り、屋敷に向き直った。
「とにかく何よりも、今は奏炎の救出が先か」
「…まあ、そうだな」
相手の反応が遅れた事に、違和感を感じる。だが、そのまま何も言わず、妖が破いたという結界の中へと踏み込んだ。
一方、屋敷の中。
抵抗もせず、大人しく憎しみと怒りの矛先を受けようとしていた真臣の身体は、汪唎の帰還によって突如動きを取り戻した。
「まさかそなたの方から来てくれるとは思わなんだ。歓迎せず申し訳なかったな、桔梗島の角鬼殿」
突然表情が一変し、あっという間に自分を突き飛ばした相手を、刹那は茫然と見詰めた。
「我が生を永らえさせる為、よくぞ来てくれた。ようこそ、我が屋敷へ」
腕を広げて笑う青年。その脆弱そうな身体から放たれる気が、先程までとは打って変わって禍々しいものとなっている。自分に首を絞められながらも澄んだままだった瞳には、今や醜く濁った色が浮かんでいる。
口の端は吊り上げられ、まるで異形の笑みを浮かべている人間。
「貴様が、叨埜汪唎か」
目の前の人間の変貌ぶりが気にならない訳ではないが、刹那にとってそんな事は些細な問題。それよりも、同胞達を殺した張本人を殺す事の方が先決である。
「儂の名を知っていてくれたか。これは実に光栄だな」
くつくつと笑う声は、老人のものに聞こえなくもない。
「一度だけ、訊く。何故殺した」
上機嫌な汪唎に向かって、鬼は率直に本題を投げかける。すると汪唎はその顔から笑みを消さずに答えた。
「それは実に簡単な質問だよ、角鬼殿。儂が永遠を欲したからだ」
「…何だと」
「人の人生は短い!」
歌う様に、朗々たる声音で汪唎は切り出した。
「人は天から何の生物よりも優れた知性を授かりながら、その寿命はとても知性の量に相応しいだけのものを与えられていない。長く生きれば解る筈の事も、天命により命尽きる事で、その人物が掴みそうだった真実は闇に葬られてしまう。儂にはそれが許せない」
身振り手振りで大袈裟に言葉を表そうとしながら、生に執着する魂は訴え続ける。
「儂はの、人生の終わりで世の理を覆すかも知れぬ呪術を見付け出せそうになった。だが、そんな希望が湧いた次の日、儂は病で倒れた。おかしいと思うだろう?」
「……」
独壇場を続ける汪唎に、刹那は無言だった。ただ、相手の言葉を聞くだけ。
「天は人に幸福を与える為に知性を与えたのではない。絶望を与える為に知性を与えたのだと、儂は気付いた。ならば、そんな身勝手な神には逆らうしかあるまい」
「だから、私の同胞を殺したのか」
神などという不可思議な存在よりもずっと、更に身勝手な人間を前に、刹那は呻いた。
「そなたの同胞を殺すつもりはなかった。儂はただ、不死の妙薬となる鬼の角を持つ角鬼…つまりはそなたを探し出せればそれで良かったのだからな」
「では、何故…ッ!」
頭の奥が熱くなるのを感じながら、鬼はなお真実を追い求める。すると老人は興醒めしたかの如く、冷めた声音であっさりと言ってのけた。
「仕方なかろう。そなたの仲間達が『長を売る訳にはいかぬ』と儂らからそなたを庇ったのだから」
「……!」
どくん、と、一つの鼓動が大きく刹那の耳に響いた。
まるで走馬灯の様に、温かい同胞達の笑顔が脳裏を突き抜ける。自分を長と慕ってくれた島の仲間達、弟妹達、そして・・・最愛の朱里。
「貴様ぁあああっ!」
絶叫と共に、刹那と汪唎のいる屋敷の一角が、真紅の炎で包まれた。普通の妖には起こし得ない、膨大な妖力により作り出された炎に、汪唎の瞳が歓喜に染まる。
「よくも、私の同胞を! 殺してくれたな…! 許さない、絶対に、貴様は許さん!」
妖特有の身体能力で一気に詰め寄り、刹那は至近距離で汪唎への怨嗟の言葉を吐いた。怒りで爛々と燃えた琥珀の瞳を見て、真臣の瞳、つまりは汪唎の目が輝く。
「これだ、これだよ角鬼殿…そなたのこの凄絶な妖力。こんな力を持つそなたの角があれば、儂はもっと生きる事、が―――」
恍惚とした言葉が、途中でくぐもり、そして止んだ。
「かはっ…」
ごぼりと嫌な音を立てて、真臣の血が吐き出される。突然の事に、憑依している汪唎は何が起きたのか理解できなかった。だが、支配している真臣の神経を通して激痛を感じ、それが伝わってくる場所へと、ゆっくりと視線を移す。
右の脇腹に、銀色の何かが突き刺さっていた。それはずぶずぶと思い音を立てながら、遅くも早くもない速度で引き抜かれた。
「三叉剣か…」
憑依していても、身体自体は真臣のもの。どんなに汪唎が望もうとも、真臣の体力に限界がくれば、身体を動かす事は出来なくなる。傾いでいく視界の中、目の前に現れた武器の名を、汪唎は呟いた。
刹那の手に握られた、三つに刃が分かれた武器。べっとりと血に濡れたそれは、自分を刺したものだ。
「ち…だが、儂にはまだまだ手段がある!」
傲慢に叫ぶと、汪唎が真臣の身体から抜け出る。身体を支えようという微かな意志さえなくなった瀕死の身体は、あっさりと床に頽れた。
そして、拠り所のなくなった焔は、真っ直ぐに刹那へと向かっていく。
「な、に…?」
想像だにしていなかった行動に、刹那の瞳が見開かれる。だが、冷静に飛びかかってきた炎を弾き飛ばした。
『ああ、そうだそうだ。言い忘れていたな。儂の得意とする術は「憑依」でな。時間を問わぬのなら、憑依出来ぬ物質は無いに等しい』
「だからどうした」
『気にならぬのか? 仮にも大妖の部類に入る赤鬼一族を、たかが人間の呪術師数名で、どうやって滅ぼしたのか』
面白がる耳障りな声を発しながら、焔は鬼の周りを飛び回る。
『儂はな、島に下りると同時にある女鬼に取り憑いたのよ。実はこれが正解でなぁ、その女鬼、島の中ではかなりの力を持つ妖だったらしい。妖力を少し借りて操るだけで、簡単に他の鬼達を殺す事が出来た』
その言葉に、刹那の動きが止まった。
女鬼。かなりの力を持つ、女鬼。それはまさか。
『その女鬼に殺される鬼達の表情も見ものだったが、一番楽しませてくれたのは、やはり殺している時の女鬼の心の叫びだな』
「やめろ…」
『確か、「逃げて」だの、「もうやめて」だの、さんざん喚いていたな。それから…』
「やめろと言っている」
『ああそうそう、こうも言っていたな。「助けて刹那」と。鬼にも愛情はあるらしい』
「やめろ!」
これは何なのだ。この非情な生き物は。
人に危害を加えず、ただひっそりと暮らしていた鬼達を、鬼の手で殺させて。しかもそれを楽しむ、この冷酷な生き物は何だ。
(朱里……!)
どうしてこんな下種に、彼女が辱められなければならなかったのだ。
あんなにも仲間想いで心優しかった彼女が、同胞を殺したという重すぎる罪悪感の中で死んでいった? そんな事がどうして許されるのか。
「貴様は本当に人間か…?」
気付けば、そんな問いをしていた。問わずにはいられなかった。
何故なら彼にとっての「人間」とは、もっと愛すべき存在で。人を何人も殺したと言ったのに、その過去も、彼の想いも全て解ろうとしてくれた、あの少年の様な・・・
「刹那!」
飛び込んで来た声に、耳を疑った。
屋敷に入って直後、千聖軍の隊士達の前から、鵺の姿は消えていた。
代わりに現れたのは、今まさに探しに行こうとしていた少年本人である。何故か少し怒った様な表情を浮かべている。
「奏炎、無事だったのか!」
唖然とする隊士達の前で、息吹だけは感極まった様に相手に抱き着いた。いきなり緩く首を絞められた奏炎も、苦笑と共に息吹の背中を数度叩く。
「おい、妖怪はどこ行った?」
顔を顰めて他の隊士達に問う響一朗に、彼の望む答えを返せる者などいない。奏炎も、無言のままである。恐らくどんなに問い詰めても口を割らないだろう。
意味不明な展開に再び副長が頭を抱えそうになった時だった。
「ふ、副長っ、隊長方っあれを!」
一人の隊士が、切羽詰まった様子で一方向を指差した。見ると、中庭越しに見える屋敷の一角に、真紅の炎が溢れ返っている。息吹のそれとは色も大きさも異なる、言うなれば地獄の業火。
「まさか、刹那?」
呟いた一瞬後には駆けだしてしまう奏炎を、慌てて息吹が追う。それを見て隊士達も動こうとしたが、それを響一朗が止めた。
「あっちは、あいつらに任せれば良い。それよりも俺達は、まだ生きてる奴がいないか探すぞ」
「御意!」
落ち着いた状況判断故の命令に、隊士達は見事に揃った返事を出した。
その声を背中に、息吹はひたすら奏炎の後姿を追う。追いかけるのに必死になり、少しよそ見をした途端、追いかけていた筈の背中にぶつかった。
「おい?」
突然、予告もなしに立ち止まった奏炎。その目の前に在るものを見て、彼は硬直した。
赤い光だった。
以前、鈴波小路にて自分達を襲い、奏炎の「言霊」をあっさりと破ってみせた謎の物体。あの時同様、唐突な登場に、二人の反応は戸惑いの一色である。
「まさかこの光…」
だが、不意に何を思ったか、奏炎は赤い光に自ら近付いて行った。
「なっ、何をやって―――」
無防備な行動に、息吹が目を剥く。だが奏炎は立ち止まらず、真っ直ぐに赤い光にてを伸ばした。不思議と、光は以前の様に襲いかかったりはしなかった。
「やはりそうか……おいで」
優しげな声で、奏炎は光へと手を伸ばした。光はふるふると、まるでか弱そうに震えると、恐る恐るといった体で奏炎の指先に触れた。
「…そう。そんな事があったの…」
常より柔らかい語調は、あの鵺を相手にしている時のものに似ている。もしかして奏炎は、異形のもの相手にはあの口調になるんだろうか。
妖異じみた美貌を痛ましげに歪め、奏炎は光との会話を続ける。その顔が光への同情と、何者かへの憎悪を染まっていくのを見て、息吹はぞっとした。何か、空恐ろしいものを感じるのだ。
やがて、光がふらふらと奏炎から離れ、そして消えた。
「奏炎…悪いがお前には付いて行けそうにない…」
「突然だな」
はぁあ、と溜息を吐く息吹を間違っていると、誰が言えたものか。奏炎は常人が理解するには行動が異常すぎるし、言葉が少なすぎるのだ。説明もなく何でもかんでも行動されては、振り回される相手の疲労は倍増する。
「で? あの光は何なんだ」
「魂だよ」
「はぁ?」
珍妙な答えに、思わず間抜けな声が出てしまう。
「だから、魂。叨埜汪唎と同じ様に、力の残滓だけでこの世に留まっている存在だ」
「それじゃあ」
やはり何かに執着している邪悪なものなのでは、と考えた息吹に、奏炎は首を振った。
「執着しているものがあるのは確かだけど、それは違う。彼女は邪悪なんかじゃないよ」
「彼女?」
性別を特定した言い方に首を傾げる。だが奏炎はその疑問への答えを言ってはくれなかった。ふと、風に流れて焦げた臭いがした。
「あそこだ」
指摘する奏炎の声に、緊張が混ざる。先程までは小さく見えていた赤い色が、すぐ目の前でごうごうと燃え盛っている。その中に何やら人影を見付け、奏炎は歩調を速めた。
「刹那!」
炎に囲まれた部屋を覗きざま叫ばれた名に、部屋の中にいた一人の青年が、振り返った。
だがその容姿に、息吹は目を疑わざるを得なかった。
あの落ち着いた錆色とは違う、鮮血の色にも似た真紅色の髪。琥珀色の瞳。そこだけで、いくら顔立ちが同じでも別人に見えるのに、その額からは黒い角が一本、生えている。更にその身に纏うのは葡萄色の着物ではなく、白を基調とした、見た事もない装束。
胸のあたりで煌めく紅玉が、彼の正体を、「鬼」について良く知らない息吹にも悟らせた。
「『赤鬼』だったのか」
茫然とした呟きに、奏炎が軽く頷く。肯定されてしまった自身の予想に、息吹は俯く。
赤鬼。どの妖よりも人を愛し、人に安住の地を与え、今もどこからか見守っていると伝えられる、穏やかな気性の友好的な大妖。姿こそ見られた事がないものの、彼らが己の住処を人に明け渡したというのは、陰陽師の間では有名な話だった。
「待て、確か赤鬼達が人に譲った土地は…」
昔に聞いた話を思い出し、彼は蒼褪めた。その心中を察した様に瞑目すると、奏炎がその言葉を継ぐ。
「遠野の里。他ならぬ、ここ…叨埜一族の里だ」
刹那が受けた裏切りは、何よりも罪深く、そして何よりも赤鬼の心を抉るものだったのだと、息吹は初めて知った。
一方刹那としては、突然乱入してきたかと思えば仲間と話し込んでいる奏炎に、どう対応して良いか解らず立ち尽くしていた。
「…そこにいるのは、叨埜真臣っ?」
突如、息吹が血溜まりに倒れる青年の姿に気付く。ひゅんひゅんと飛び回る焔には目もくれず、彼は重傷の真臣を抱き起こした。
「おい、しっかりしろ!」
そう言いながら陰陽術で応急処置を施して行く仲間を目端に、奏炎は刹那と向かい合った。
「彼のあの傷。やったのは君か?」
「…ああ」
「叨埜真臣自身に、罪が無いと知らなかったのではないだろう」
非難めいた発言に、鬼はただ黙り込む。
そんな中、焔が急に旋回するのをやめた。黒い影は段々と膨らみ、やがて人の形となる。
『…そなた、どうやってあの結界から出た?』
確かに閉じ込めた筈の少年の姿に、汪唎としても驚きを隠せなかった様だ。
「生憎俺には、あんな結界をものともしない、最強の相棒がいるんでね」
残念だったな、とばかりに不敵に笑った少年に、人の形をした焔が酢を飲んだ様な表情を浮かべる。
「奏炎、どけ。俺はその男を殺すまで、死んでも死にきれない」
焔を睨めつけながら、刹那が奏炎を退かせようとする。だが奏炎は応じず、むしろ必死に刹那を汪唎から遠ざけようとしていた。
「何故邪魔をする、奏炎!」
とうとう我慢ならなくなった鬼が、苛立ちを露わに叫ぶ。すると、奏炎も刹那に向かって怒鳴った。
「お前が人を殺そうとすれば、彼女は余計に傷付く!」
「彼女、とは?」
「お前が愛した。朱里殿だ」
琥珀色の双眸が、限界まで瞠られた。妖の視界で少年の顔が波紋の様に歪み、やがてかつての彼女のそれに代わった。
「何を馬鹿な事を言っている。朱里は死んだ」
「ああそうだ、死んだ。だが、そこにいる叨埜汪唎と同じ様な状態で生きている!」
闇色の焔となって醜く生き続ける老人を、奏炎は指差した。だがそれを、相手は一向に信じようとしない。
「お前が私を止めたいと思っているのはよくわかった。だが、私も引く訳にはいかない」
決然として言うと、刹那は手の中の三叉剣を握り直す。そのまま勢いよく駆け出し汪唎に突き立てようとした時。
『やめて、刹那』
たおやかな声が、優しく刹那を諌めた。
「……朱里」
からん、と金属質な音を立てて、三叉剣が床に落とされる。炎の赤とは違う、少し桜色の混じった柔らかい赤い光が、室内を照らす。
『お願い。もうこれ以上、人を手にかけようと考えるのはやめて。もう、人を憎もうと努力するのはやめて』
そう切実と願う光で形作られた女性の名は、朱里。かつて刹那と共に桔梗島に暮らし、十年前に殺された鬼。
彼女が、奏炎の追うべき「連続殺人犯」であった。
朱里は、常に復讐の為に叨埜家の者の命を狙う刹那の先回りをしては、彼の手が汚れぬ様に自分で始末してきたのだ。かつては自分もされた「憑依」という術を使って、臓器の動きを止めるだけ。
だから、死体はいつもどこにも外傷が無かった。
だが、刹那と同様に赤鬼である朱里にとって、人の命を奪うという事は容易な事ではなかった。その心の痛苦を、奏炎は先程聞いたばかり。
「朱里、朱里…!」
唯一つの名だけを呼んで、刹那は赤い光で象られた女性を抱き締めた。叶わない筈だった逢瀬。少しくらいは、その時間が続いてもおかしくないと息吹は思った。だが。
『…舐めた真似をしてくれるな。只の死んだ妖が、儂の玩具達を殺しただと?』
地を這う声が、今まで身動きすらしなかった汪唎の焔から発せられた。
『一族の長たる儂の願いすら叶えられなかった愚か者達は、この手で全て殺そうと思っていたというのに、よくも余計な事をしてくれたな!』
怒鳴られ睨み付けられた朱里が、僅かに身を竦ませる。それを見て刹那が再び殺気立った。だが、彼よりも先に汪唎を殴り飛ばす影があった。
「舐めた真似をしているのはてめぇだ」
奏炎のよりも荒くなった語調。よく聞いてみれば奏炎と同じなのに、全く別人のものに聞こえる艶やかな声。炎に煽られる、紫色の髪。
『な、何奴!』
いきなり現れた見た事もない妖に、汪唎が悲鳴を上げる。しかし、息吹は見てしまった。
鵺の髪色が、毛先の方だけ僅かに蒼色を残していた事を。左の瞳が、まだ碧色を宿していた事を。それはすぐに紫と赤に染められ飲み込まれてしまったものの、確かに息吹の眼裏に灼き付いた。
確かにこの妖は、「奏炎の姿」から「鵺の姿」へと変化していた。
「俺の事を知らないか。呪術師のクセに、無知にも程がある」
せせら笑う鵺は、殴り飛ばした相手に例の剣を押し当てた。
「人間の欲望なんざ、俺の知るところじゃないがな。お前の所為で、少なからず奏炎は苦しんだ。その礼、きっちりさせてもらうぞ」
血色の瞳が冷酷に煌めく。そのまま刀を振り上げるものの、鵺はそれを相手に突き刺しはしなかった。無造作に、刹那へと投げ渡す。
「三叉剣を捨てて、その剣でこいつを斬れ、刹那」
命令にも似た提案に、刹那は少しばかり驚いた。奏炎ならまだしも、この妖が自分に協力しようとするとは思わなかったのだ。朱里を遠ざけ一つ頷くものの、刀は鵺へ投げ返す。
「わざわざその刀を使わずとも、そこにいる男は最早霊力の残滓だけの存在。斬っても、人を殺した事にはならない」
「…言われてみれば、そうだったな」
にぃ、と笑う鵺に、刹那もまた微笑した。それは友情にも似た暖かな感情からきたものだが、汪唎にとっては恐ろしい以外の何物でもない。
『…ひぃっ…』
情けない悲鳴を上げる相手を、二人の妖は冷たく一瞥した。そして。
「まったく調祇の奴、また勝手に『出て』きやがって…それくらい憤っていたんだろうけど。とにかく行くぞ、刹那」
一瞬で奏炎に「戻った」相手に唖然としつつも、刹那は首を大きく縦に振った。
「貴様は永遠に…地獄の縁で彷徨っていろ」
陰陽師と妖怪、本来なら相反する二つの存在が、同時に共通の敵に刃を振りかざす。
そして氷と炎が、闇を一閃した。
『おのれ、貴様らああああああぁぁっ』
姿形も心も醜く歪み切った老人の断末魔が、夜の静寂を破り空へと突き抜ける。
刹那が身に宿す紅い炎は蛇の如くとぐろを巻き、逃げる様に屋根を貫き天高くへと飛んでゆく黒い焔を、何処までも追って行く。
奏炎が放った、蒼い炎を纏う氷もまた、鋭く汪唎の気配を尾けて行った。
「終わった、な」
ほぅ、と奏炎が空を見上げながら息を吐いた。
「ああ。そうだな…」
刹那もまた、どこか気の抜けた様な声で頷いた。その横に、朱里が恐る恐る近付く。
「奏炎、息吹、無事か!」
かなり近くから聞こえた声に、陰陽師二人が反応する。
「ここです、真田副長」
息吹が呼応する事で、大勢の隊士達が、どかどかと足音を立てて屋根の突き破られた部屋に侵入してきた。
「おう、無事だったか…って、お前あの妖か?」
信じられない程の変貌を遂げている刹那に、響一朗はぎょっとしたものの、次いで視線を遣った息吹の腕の中に真臣の姿を見て、表情を真剣なそれへと変えた。
「おい息吹、そいつ大丈夫なのか?」
胡乱気な目付きで問われ、息吹は何事かと真臣を見た。そこで、蒼褪める。
「な、何でこんなに出血して…っ」
息吹の墨染の狩衣さえ、多すぎる血の量で変色している様に見えた。
自分の陰陽術で、多少なりとはいえ傷口を封じた筈の身体に、彼は茫然とする。自分の霊力と刹那の妖力とでは、そんなにも差があったのか。
「おいおい、これは俺でもどうにもなりそうにないぞ」
響一朗は乱暴な手付きて頭を掻き毟るが、その額には冷や汗が浮かんでいた。
「心配いらん」
慌てふためく陰陽師達の間に、刹那が割り込んだ。白濁した爪を持つ手が、ゆっくりと傷口に添えられる。すると、僅かに鬼の手が輝いたかの様に見えた。
「私が付けてしまった傷だ。私が治す」
はっきりと言い切り、刹那は瞑目し、自身の妖力を掌に集める為に黙り込んだ。
そんな彼の様子を見て、奏炎の口元が綻ぶ。
今の刹那こそが、彼の本来の姿だ。仲間を想い、人を想い、人の為に妖としての能力を振るう・・・それこそが、彼の求めた自身の姿だったと思う。
その証拠に、少し離れたところで刹那を見守る朱里の顔にも、これ以上ない嬉しそうな表情が浮かべられている。
これで良かったのだ、と、奏炎は心の内で考えた。
刹那の憎悪が消えたなんて、とても思えない。それでも、真臣の傷を癒す彼の横顔は、見た事もい程に穏やかだ。
やがて息吹に支えられていた青年の顔に、血の気が戻っていく。もう大丈夫だと言わんばかりに刹那が手を放すと、真臣が瞼を震わせた。
「う…」
呻きながら身を起こした彼は、目の前に膝を付く鬼の姿に茫然とした。
「…すまなかった」
悲鳴をあげそうになった真臣は、突然の謝罪に目を点にした。
「え?」
「その傷。それと、乱暴な真似をした事」
本気ですまなそうに言う相手に、真臣は勢いよく首を振った。
「い、いいえっ!」
叫んでしまい、腹部の痛みに声を詰まらせる。それでも必死に口を開いた。
「あなたの怒りは、当然の事です。祖父はそれだけの罪を犯した。そんなあの人の孫である僕もまた…」
「肉親だからと言って、その罪咎はお前が背負うべきものではない」
恥じ入る様に俯いた人間に、刹那は優しく言い聞かせた。微笑しながら。
慈悲深く柔らかな微笑。奏炎の笑顔を見た息吹すらも見惚れさせる表情に、朱里の瞳から涙が零れ落ちた。
『良かった…本当に、良かった…!』
泣き崩れる彼女に、刹那が歩み寄る。
「泣くな、朱里」
溢れる雫をすくおうと手を伸ばして、彼は切なげに苦笑した。
どんなに触れたいと願っても、それは無理な話。だから少しでも虚しさを味わわない為に、寸前で手を引く。
「笑っていてくれ、お前にはそれが一番だ」
憂いを秘めた琥珀の双眸の中で、朱里は笑った。哀しげでも、無理矢理にでもない、心からの笑みだった。
それと同時に、彼女を形作る光が崩れ始める。
「…え…?」
手の届きそうな距離で薄れてゆく、最愛の鬼の姿。目の前の出来事に、刹那は凍えるかの様な錯覚に陥った。
『そんな表情をしないで。ほら、あなたも笑って?』
取り残される幼子の様な、寂しげな顔をする彼に、朱里はもう一度笑いかけた。
仕方の無い事だ。汪唎の様に滅せられなくとも、この世に執着した理由が消えれば、必然的に彼女の存在は消える。そして朱里の心残りは唯一つ、刹那の心の行く末だった。
憎悪を覚えてしまった彼が、このまま茨の道を歩むのは耐えられない。そう思い、彼の未来を見届けようと強く願った末、こうして世に留まったのだ。
けれど、人にあんな優しい態度を取れるのだから、もう心配はない。
『もう二度と、人を憎んでは駄目。心穏やかに、私の大好きなあなたのまま生きて頂戴。お願いよ、ね?』
段々と、けれど着実に消えてゆく身体を前に、朱里は急く事なく最後の言葉を紡いでいく。それが何よりも現実を知らしめて、刹那は固く目を瞑った。その肩に、いつかの如く一つの手が乗せられる。
『あの時は、訳もなく襲ったりしてごめんなさい。刹那を尾けているんだと誤解してしまったの。許して?』
「そんな事、わざわざ言われなくても解ってる」
謝罪された奏炎が、痛みを堪える為に唇を引き結ぶ。
『ありがとう。刹那の事、解ってくれて。私の痛みを、聞いてくれて……さようなら』
別れの言葉と共に、朱里の姿が急速に消えてゆこうとした。二度目の彼女の死に際に、刹那はただ茫然とするだけ。
しかし別の手が、彼女へと伸ばされた。
「あんたが死ぬまでに、少しだけ余裕を作ってやった。それまでは―――特別処置だ」
艶やかな声が、不遜に言い放った。
「俺は鵺。鵺は、黄泉の門を守護する妖だ。この事…閻魔の爺には黙っておけよ」
そう告げて、奏炎の姿の異形が朱里から手を放す。そのまま、立ち尽くす刹那の方向へと彼女を突き飛ばした。
「朱里!」
名前を叫んで、彼女を支えようと刹那の腕が伸ばされる。本来なら触れられない筈の二人の身体は、微かな温もりを伴ってぶつかった。
「どうして…」
確かに触れ合える相手に、二人の鬼は目を瞬いた。また、完全に蚊帳の外の陰陽師達も、目前で起こった奇跡に硬直するばかり。
そんな彼らの前で、鵺が奏炎の身体から「抜け」出た。
「一体何をした、奏炎!」
蒼の髪に戻った部下に、すかさず響一朗が問い詰める。
「黄泉から、彼女の肉体を持ってきてもらったんです。そこにいる―――調祇に」
自分とそっくりの顔立ちの妖怪・・・調祇を示し、状況を説明する奏炎。その発言の意味をゆっくりと把握し、響一朗は顎が外れんばかりに驚いた。
「はああっ?」
怒鳴り慣れた声が上げる大音声に、息吹が顔を顰め、耳に手を当てる。
「黄泉って、おま、持って来たっ? な、第一それは死体って事に…いやでも動いてるし、
ああああっ!」
混乱が限界値に達し、冷静沈着な筈の副長は、文脈のなっていない発言と、意味不明な叫び声を上げた。しかしそれを、隊士達は素直に笑えなかった。
「…真田副長、とにかく落ち着いて下さい」
「何でお前はそんなに冷静なんだよ!」
「俺はあなたよりは、奏炎の常識外れさに免疫があります」
「あれは常識外れなんてもんじゃないだろ」
わなわなと震えながら、響一朗が瓜二つな陰陽師と妖を指差す。ちょっとした恐慌状態に陥りつつある上司を、息吹はこれ以上なく憐れに思った。
尊敬する冷徹な副長や何処に、と本気で叫びたい気分である。
「その鵺…ああ、やっぱり。あなたはその妖が理由で、泰京にいるのですね」
しかし冷静に現実を見る人物もいた。叨埜真臣である。
「やっぱり? 貴様何か知っているのか」
ぎろりと睨んできた陰陽師に、当然ながら震えあがる真臣。しかし助けてもらった恩があるからなのか、恐る恐る質問に答えた。
「あの人の名前は玉依奏炎でしたよね?」
「あ? ああ、そうだが」
基本的な事から始まった発言に、響一朗は眉根を寄せる。
「初めて会った時から不思議に思っていたんです。どうして神道の名家である玉依の人が、泰京に、しかも陰陽師として居るんだろうって。玉依家は陽都に本邸を構える、将軍家とも裏で繋がりがあるとされる家柄なのに」
「「……え」」
二人の陰陽師が同時に声を漏らす。真臣はそれを気にせず続けた。
「だけど今やっと解りました。そうですよね、『堕天』を陽都に置いておけば、玉依家の名に傷が付いてしまいますし」
「陰陽師より、呪術師の方が『そっち方面』には詳しいと思っていたが、まさかそこまで知ってるとはな」
頭上から聞こえた声に、三人が顔を上げる。月を背にした鵺が、傲岸不遜に笑んでいた。
「その通り。玉依の奴らは格式だの伝統だのと、古い事に囚われすぎる頭の固い人間共でな。幼い頃に俺と出逢った奏炎を『堕天』と呼んで、祓えを行おうとした」
堕天。それは、神道は勿論、陰陽道でも禁忌とされる存在である。
何をもって堕天と呼ぶかはあまり定かでないが、そう呼ばれる者の共通点は唯一つ。その身に妖を宿している事だ。
相反する存在ではあるものの、神道も陰陽道も、その目的は「妖を祓う事」。その真逆である行為を犯した者は、堕天の烙印を押され追放されるのが常だ。
「だがな、そもそも奏炎を堕天させたのは、他ならぬ玉依家の奴らだ」
憎々しげに事実を明かす調祇に、奏炎が蒼褪めた。
「調祇っ」
慌てて止めようとする様子に、誰よりも相手を尊重している調祇は口を閉ざす。しかし、それはもう遅い対応だった。
「玉依家は巫(めかんなぎ)の家系。この世の中で唯一、男を軽んじ女を重んずる一族でしたね」
思い出した様に真臣が呟いたからだ。
「そうか、玉依って、あの神道二大名家の一つの玉依家か!」
「国一の巫女は全て玉依家が輩出しているとも言われる、あの(・・)玉依…」
真臣のお蔭で、玉依家についての全てを思い出してしまった響一朗と息吹。その二人を見て、奏炎と調祇が恨めしげに元凶を見た。
「だから、お前は姉妹と会った事がなかったんだな、奏炎」
「…ああ。そういう事だ」
頷かれた息吹が、奏炎の過去を想って表情を翳らせる。しかし、息吹の想像は現実に追いついていないだろうと、調祇は考えた。
玉依家での奏炎の待遇は、本当に酷いものだった。
神道の名家であり女を尊重する玉依家には、当然妾などいない。奏炎も、その姉妹も、皆母親は同じだった。だが、奏炎だけは本邸の中でも離れに移され、親の愛情を受けずに育てられた。
人の愛を教えなかったのは親だけでなく、親戚や玉依家に仕える者も同じ。巫の家系にとって男など必要のないものとされていたからだ。
そしてもう一つ。
奏炎は、母親の腹の中にいる時から、その絶大な霊力を感じさせる子供だった。だから、性別を知らぬ時の一族連中は皆、大きな力を持って生まれるだろう新たな命にこれ以上ない期待をかけた。
それ故、男であると解った時の失望のしようと言ったらなかったという。だがそれも、奏炎にしてみれば勝手に期待され勝手に絶望されただけで、何の罪もない事。自身には何の責も無いのに愛情をかけられず、幼心に自分を愛してくれる存在を求めるのは、当然の流れだった。
そして、禁忌でもある堕天をする・・・つまり、調祇と出逢う事は、奏炎の霊力を持ってすれば容易な事でもあった。
今でも脳裏に蘇る。黄泉と現実とを繋ぐ異形の道、六道。その六道の辻に突如現れた、自分の半身の存在。
鵺という生き物は、この世に存在する人間の数だけいる。人間が生まれるからこそ鵺は生まれられるのだ。だから鵺は本能的に半身である相手を愛し、想い続ける。半身が傷を負えば己も傷を負うし、半身が命を落とせば自らも絶命する。
まさに運命を共有する存在なのだ。
だが、殆どの鵺が半身と出逢わぬまま生涯を終える。鵺自身は、半身がどの様な人生を歩むのか、異界、つまりは黄泉から眺める事が出来る。しかし、自分の存在を半身に伝える事は出来ない。
自分はここにいる、ずっと、いつでも君を想っている。
そう伝えられず苦しむ同胞を、調祇は何人も見た事があった。そして自分も、そうやって生を終えるのだと思っていた。五年前までは。
いつもずっと遠くに感じる奏炎の気配が、すぐそこまで近付いている。それに気付いたら、六道の辻へ駆け出すのに意志は必要なかった。
全速力で、背の翼を使って駆け付けた先に、奏炎の姿を認めた時の言い様の無い嬉しさ。
自分と同じ貌をしているのに、髪も瞳も、ずっと清らかで美しい色だった。身に纏うのも禍々しい妖力ではなく、清純な霊力。
彼が自分の半身である事に、誇りすら感じた。だからこそ、その表情がひどく気になった。碧玉の瞳が虚ろなのが、どうしようもなく残念に思えた。
だから、こう言った。
「お前の望みを言え。何でも叶えてやる。お前は俺なのだから。俺の半身」
本当は、もっと優しく問いかけたかった。でも、最愛の存在を前に柄にもなく緊張していて、出てきたのはこんな口調だった。
「僕の願いは…」
突然の問いに、奏炎は長い間無言だった。それでも待ちに待って暫く。ようやく彼は、そう切り出した。
「傍に、いてくれ」
たった一言。
「僕の傍にいてくれ。何もしなくて良い、ただ傍に。僕が呼べば答えてくれ…それ以外は、何も望みはしないから」
奏炎にとっては、いくら考えてもそれしか出てこなかった、という答え。調祇にとっては意外過ぎる、そして欲の無さすぎる答え。
「それがお前の望みなのか? それが」
だから、思わずそう訊き返してしまった。
「そうだ。叶えてくれるのか、『僕の半身』」
奏炎が自分を半身だと言ってくれた瞬間、調祇に生きる道は決まった。
彼が望めばいつでも答え、彼が傍にと望むのなら、世の理を破ってでも傍に行こう。出逢う事など許されない、手を取り合う事など許されない人と鵺。
この関係を誰が罵倒しても、自分は絶対に奏炎の手を放さない。彼がそれを望まない限り。
すぐに障害はやって来た。長男の異常に気付いた玉依家が、いつの間にか堕天してしまった息子をどうにかしようと、祓えの儀式をしようとしたのだ。
それをされてしまえば、折角結ばれた二人の縁は切られる。それ故、奏炎は家を出た。そうして土御門慶継と出逢い、今ここにいるのだ。
思えばあれから、随分と時が過ぎたものだと考えてから、調祇は寄り添う二人の鬼に視線を移した。
「言っておくが、お前に残された時間は永遠じゃない。と言うか、そう長く保つものじゃない…」
語尾が、少し歯切れの悪いものとなる。明らかに言い難い、と言った様子の鵺に、朱里は微笑した。
「充分よ。ちゃんと、別れを言えるのだから」
彼女は明るくそう言うが、朱里の言を聞いた刹那は表情を暗くした。こういう時、本当に女は強い、と調祇はしみじみ思った。だが、そんな余裕も、一瞬後には消えてしまう。
(…ちっ)
内心舌打ちする彼は、自分のかかる重圧に耐え切れず崩れ落ちた。
それを目の端に捕らえた奏炎が、慌てた様子でこちらへ駆け寄って来る。
「調祇! 無理をし過ぎだ、そろそろ戻らないと…!」
鵺とその半身は、お互いに同じ空間に存在する事を許されない。それが世の理だからだ。そんな条理を破る事は、絶大な妖力を持つ調祇にも不可能な事で、今二人が同時に存在しているのは、調祇が妖力だけを人間の世界に移しているからだ。
つまり奏炎達の目の前にいる調祇は、調祇本人というより、彼の魂を伴った妖力の塊とも言える。それでも、世の中はそう甘くない。
理を破っている側である調祇に、代償が求められる。いつもはこの代償を最小限に留める為にと、奏炎が身体を貸してくれる。だが、霊力を持つ奏炎の身体にとって、妖力を伴追う調祇の魂は毒にも等しい。
千聖軍の面々に奏炎と自分を正体を知らしめる為にも、今日はあえて彼の身体を借りなかった。
「だい、じょうぶだ。これくらい」
心配させまいと笑ってみせるが、奏炎もそこまで馬鹿ではない。
「駄目だ、早く戻って! だから僕の身体を使えば良いと…!」
悲鳴をあげる奏炎を前に、調祇は静かに目を閉じた。
ようやく己が在るべき所へ戻ってくれた調祇に、奏炎はほっと肩の力を抜く。その背後に立つ影があった。
「成程な。鵺ってのは堕天した結果に得られる存在だった訳だ」
「…真田副長」
今までに見た事がない、冷酷な光を宿した緑の瞳が碧玉の瞳を見据える。
「何故黙っていた? 自分が堕天だということ、知らなかったとは言わないだろう」
「……」
無言を貫き通す奏炎に、響一朗の瞳が細められる。
「堕天は、神道だけでなく陰陽道にとっても禁忌中の禁忌だ。当然、陰陽警察の面目を考えれば…」
「除名処分にしたければ、どうぞなさって下さい」
「何を言ってるんだ、そうえ―――」
「黙っていろ砥上一番隊々長」
覚悟した上だと言わんばかりの奏炎に、息吹が冷や汗を浮かべる。だが、副長の怒鳴り声に怯み、口を閉じた。響一朗が息吹を一番隊々長と呼ぶ時は、誰も彼に敵わない。
「除名処分にしろ、と」
「ええ。その方が千聖軍の為にも、良いでしょう?」
無表情な二人の間で、長い時間が過ぎた。やがて、溜息を一つ吐いて口を開いた。
自然、奏炎と息吹が緊張に喉を鳴らす。そして。
「ふざけるな。少なくとも今回の隊務違反の反省文を提出するまでは、退役は許さん」
その言葉が表す意味は。
「真田副長…」
呆けた様に奏炎が呟く。それに、ようやく響一朗は表情を緩めた。
「阿呆が! そもそも零番隊は非公式な部隊だ。少しくらい異常な奴がいたって、何の問題も無いだろ」
「いや、少しで済む問題では…」
「もし幕府が文句言ってきたらこう返してやるさ。お前を推薦したのは他ならぬ将軍様の弟さんだ、ってな」
にやりとふてぶてしく笑う響一朗に、息吹は唖然とした。だが、それが彼の愛情の示し方である事を、彼は既に知っている。そして奏炎もまた、突き放す形の響一朗の想いに気付いたのだろう、段々と凍った碧玉を溶かしていった。
「その代わり、きっちり書いてもらうからな、反省文」
「参りましたね…この分じゃ除隊して逃げた方が楽そうだ」
「何だとこの野郎」
軽口を叩く奏炎に、響一朗も笑いながらその肩を小突いた。
その傍らで、刹那は一人、ある覚悟を決めたのだった。
終章
夏も大分遠くに過ぎ去り、完全に秋となった頃。
雅やかな泰京の市中に、とある噂が席巻していた。それは誰が語り出したか解らないもので、その内容も実に非現実的であったが、ひどく美しい物語じみたものであった為、麗しきを愛する京で、見事に広められていったのである。
それと全く同じ内容の話が今まさに、とある茶屋で語られている最中だった。
「ほら、東山の麓にある、叨埜家の屋敷がある里があるだろう?」
語り上手で騒ぎ好きと思われる男が、人の興味を惹く身振りと口調で語り始める。
「そこは、昔は妖が住んでいたともされる、不思議の土地でね…叨埜一族が住む前までは、秋にはそりゃあ見事な紅葉林が目立って、まるで燃える様な風景が広がっていたらしいんだよ」
そこで男は暫く間を開ける。それは聞き手に情景を想像させるに充分な時間で、京人たちは各々思い浮かべた紅葉林に、ほぅと感嘆を吐いた。
「でも妖達が去り、叨埜一族が住む様になってから、紅葉は一向に葉をつけなくなっちまって、ついには枯れた林だけが残されたんだ」
語り部自身が哀しげな顔をする事で、聴衆も無念そうに眉を顰めた。
茶屋中が語り手に続きを求める中、男は手に持つ扇を横に振り薙ぐ。
「それがどうだ、今年の秋、つい七日程前に奇跡が起こった!」
少し声を張り上げる事で、今まで話を聞き流していた他の客さえをも引き込んだ男は、そのまま続けた。
「紅葉林の一番手前、一番山から離れた所の大銀杏。そこに二人の男女が立っていたのさ。その二人はひどく変わった格好をしていてね、暫く銀杏を眺めていた。それを見た里の奴らは、ちょっとした観光人だと思ったらしい。それがどうだい」
ついに核心に迫りつつある内容に、聞き手は男に向かって身を乗り出す。
「その二人が手を取り合ったかと思うと、二人から突然真っ赤な光が溢れだしたのさ。それは真紅の中に少しの橙を零した、まるで黄昏の一瞬の様な色だったそうだ…そうさ、まるで紅葉の色そっくりだったらしい。
二人の姿はそのまま、その紅葉色の光に包まれ、やがて消えていく…それを見ていた奴がこう言ったのさ。その二人はまるで、秋の精霊の様に美しい笑みを浮かべながら、その身を光に変えたってね。そんで次の瞬間には、その紅葉林の木々には僅かながらも葉が戻ったらしい」
幻想的な光景を心の目に映し、茶屋の客の殆どが溜息を吐く。それを見て、語り手も満足気に微笑んだ。
「紅葉が消えた叨埜の紅葉林。そこに現れた秋の精霊の如き二人…その身が紅葉の様な光となって散ったとありゃあ、そいつらの正体は決まってるだろうなァ」
この京で語られている内容にはない事を、語り部は付け足す。それに、話は終わったとばかりに、余韻を肴に茶を楽しもうとしていた客達が振り返った。
「それじゃあんたは、その二人の正体は何だと思っているんだい」
一人の女性が興味津々といった様子で問う。すると男は、得意げにこう言った。
「妖が去って紅葉は消え、その二人が現れて紅葉が戻った。そうなりゃ答えは一つだ。その二人は秋の精霊なんかじゃないさ…秋の妖とされた、昔あそこに住んでた妖怪だよ」
肩をすくめた語り手の男に、茶屋中の人間が笑い声をあげた。
だがそれは賞賛の笑みでも何でもない、少しの呆れが混じったものだ。
「妖がそんな風に綺麗に散るもんかい」
「お前さん、語り手として奇抜な発想は必須だが、的を射ない想像は全く必要とされない能力だよ」
「精霊と妖怪を一緒にしちゃあ、そのうち神様の天罰が下るよ」
口々にそう言われ、語り手の男は口を尖らせた。
「何だい、そんなにおかしいってのか」
おかしいとも、と数人の聴衆が肯定する。しかし、二人の少年は違った。
「いや、この場で誰よりも現実を解っているのはお前だ」
「その語り、泰京一だと俺達が認める」
そう言って茶屋を出て行こうとする二人に、皆が驚いた。それは、二人の容貌が人並み外れて美しかったからだけではなく、その身に纏うのが墨染の狩衣だったからだ。
「妖にだって、美しく最期を飾る奴はいるんだ」
言いつつ、蒼い髪の少年が茶屋の暖簾を避けつつ店を出て行く。それに、墨色の髪を持つ少年も続く。
二人が出て行ってから数秒の後。
「ははは! 千聖軍のお墨付きとなっては、否定出来ないかも知れんなぁ!」
「ほんとほんと、笑って悪かったね、あんた」
妖についてはまず千聖軍を頼れ、と言われる陰陽師達の言葉で、語り手に対する目が一気に変わる。あっという間に賑やかになった茶屋を出た息吹は、目の前を無言で歩く奏炎を見詰めた。
「まさか、こんな事になるとはな」
「……」
自分の呟きにも、奏炎は反応しない。無視している訳ではないそれを見て、息吹はどうしたものかと悩んだ。
零番隊初の任務を終えてから、もう十日になる。あれ以来どこかへと消えた刹那と朱里を、千聖軍は放っておいた。元々彼らは妖だし、事情が事情なのでそっとしておくべきだと考えられたのだ。
それから三日後だった。先程の様な噂が流れ始めたのは。
あれを最初に聞いた時の、奏炎の茫然とした表情。信じたくないと首を何度も振っていた彼を思い出すと、あの茶屋に連れ込んだ自分を呪いたくなる。
あんなにも苦労して救った二人の魂。朱里は既に死んでいる身だから、近い内に命尽きてしまうのは仕方がないと思える。けれど、刹那は。
「俺は、間違っていたのか…?」
不意に、奏炎が小さな呟きを漏らす。
「何だって?」
「俺は間違っていたのか? 彼女に時を与えず、現実を見るべきだと刹那を説得するべきだったのか?」
立ち止まり、彼は己の掌を見詰める。その手で救いだしたつもりだったのに、結局は両方とも失ってしまった、妖の命が見えるのかも知れない。
「ふざけた事を言うな。お前は刹那の心を救った。もしあの場で朱里殿が消えていたら、刹那の心は壊れていたかも知れない」
「でも、生きてはいた」
「それで倖せか?」
打てば響く様に、奏炎の言葉を否定していく。それが息吹に出来る唯一の事だった。
奏炎がした事に、何の間違いもなかった。朱里の死までの時を長くする事で、刹那は心の整理をつける事が出来ただろう。朱里も、後悔を一切残さずあの世へ逝けた事だろう。
「もしもの話だ。もし、お前の目の前で調祇が死んでしまうとして、目の前で話す暇もなく消えてしまい、自分は生きなければならないのと、共に死を選ぶまでの時間があるのと…どちらが倖せだ?」
この例えは、何よりも奏炎に現実を見詰めさせた。彼の整った顔が一気に蒼褪める。再び黙り込んでしまった彼に、息吹は答えを求めた。
「どうなんだ? 二択なのだから簡単だろう」
どこか有無を言わせぬ問い方に、奏炎は震える唇で答えを言った。
「共に、死を選ぶ方が、良い…」
その答えを望んでいたにも関わらず、死を選ぶという奏炎にやり場のない怒りが湧く。それが今、奏炎の中に燻っている物なのだと漠然と考えつつ、息吹は「だろう」と頷いた。
「なら、お前は間違ってなんかいない」
「……解っている。そんな事、解って…でも、それでも俺は…」
「刹那に生きていてほしかったのは、俺も同じだ」
往来で立ち止まるのはどうかと思い、息吹は奏炎を支えて、とりあえず落ち着ける場所へと歩き出す。
「お前が悲しむのは解る。けれどな、刹那は倖せなまま死ねた。それを、喜んでやれ」
今でもまだ信じられない。あの鬼が死んだ、などと。
それでも現実を受け止めざるを得ない程に例の噂は世間を膾炙し、これまでに嫌と言う程、刹那と朱里の死は耳に入ってきた。
息吹にとっても、刹那の存在は大きなものとなりつつあった。初めて見た、人を想う妖。彼のお蔭で、息吹の妖に対する観点は変わったのだ。
「せめて、何か言い遺してくれれば良かったのにな…」
秋になり、日が沈むのが早くなった空を見上げる。雲一つない碧空に、段々と朱が差し始める。息吹が黙って空を見ているのに気付き、奏炎もただぼんやりと上空を見詰めた。
やがて朱が濃くなり、ついには太陽の断末魔の如き血色が輝く。
「黄昏の色。まるで刹那の髪と、調祇の瞳みたいだ」
何を考えるでもなく、そう奏炎が呟いた。それに頷こうとした息吹の前に。
「ならばお前の瞳は、黄昏に染まる前の碧空だな」
あまり抑揚のない、感情を感じ辛い声が、響いた。
「……え」
背後からした声に、奏炎は碧玉の瞳を限界まで見開いた。そして、ゆっくりと、恐る恐る振り返る。
「せ、つ…な?」
人通りの少ない河原へと辿り着いていた二人の後ろで、白衣が閃く。太陽の最後の光を受けて、その人物の胸元の紅玉が煌めいた。
「久方ぶりだ」
穏やかに笑う鬼は、そう挨拶して奏炎へと近付く。そんな刹那の歩みの倍の速さで、奏炎は彼に抱き着いた。
「刹那! 刹那、刹那…っ」
何度も何度も名を呼び、苦しいくらいに抱き着いてくる奏炎に、表情の乏しい筈の刹那は酢を飲んだ様な表情をした。
「どうしたんだ、奏炎…」
冷静な顔しか見た事がない奏炎の意外な反応に、刹那は驚くしか出来ない。
「嬉しいんだよ。お前が生きていてくれて」
だから、息吹が答えを教えてやった。
「生きて…?」
何を言っているのだ、と首を傾げる刹那に、息吹は例の噂を放してやる。すると、刹那は顔を顰めた。
「確かに私は朱里と共に紅葉林に行った。だが…」
こうして生きているぞ、と言う刹那は、未だにくっ付いて離れない奏炎に弱り切った。
「奏炎、きっと今までずっと、心の中で泣いていた筈だ」
苦笑しながら知らせると、その内容に奏炎が反応する。
「息吹、俺は泣いてなんか―――」
しかし反論し終わる前に、その頭を刹那が撫でた。幼い子供を宥めすかす時みたく、幾度も優しく。
「死んだりなどするものか。いや、一度はそれも考えたが―――やめた。そんな事をすれば、朱里とお前に怒鳴られる」
何せお前達は本当に似ているからな、と苦笑する鬼の目の前で、今の空そのまま、碧玉の瞳が紅に染まった。
「まったくだ。本当に死んでいたら黄泉でお前を嫌と言う程いたぶってやろうと思っていんだがな」
頭を撫でていた刹那の手が止まる。いつもながら突然に登場する調祇に、息吹の口元も引き攣った。
「だが…よく生きる道を選んだな」
自分よりもずっと永い時を生きている相手に、調祇は人の悪い笑みを浮かべた。けれどもその血色の眼は確かに暖かくて、刹那も柔らかな笑みを浮かべた。
「って、調祇っ? お前、回復していたんならどうして言ってくれないんだ!」
あっという間に蒼い髪に戻った少年が、自分の半身へと問いかける。けれどもその答えは返ってこない。無理して人間界へ来てから十日、応えがないのは相当疲弊しているからだと考えていたのだが、違ったらしい。
「答えろってば、調祇―――っ!」
いくら怒鳴っても調祇の許へ届く声量は変わらないのに、奏炎は叫ぶ。
そんな穏やかな光景に、息吹はただ微笑んだ。
千聖軍零番隊々長、玉依奏炎。
人よりも妖との絆を重んじる、異端の陰陽師の伝説は、まだ始まったばかりである。
氷炎二重奏―刹那の紅に碧空は染まる―