薄暮に微笑む
「嫌いなの」
彼女は唐突に声をあげた。否定の声はひぐらしのそれに溶けた。ちょうどかき氷に砂糖蜜をかけたときのような、あんなあんばいで。
「毎年、今の時期が、嫌いなの」
浴衣から覗く白いうなじにはいくらかの雫が浮かんでいる。赤い空を背景に、暗い山にからすが身を隠す。彼女が川のせせらぎに涼を得ようと散歩に出るのはいつものことだった。
「私は、嫌いじゃないわ」
「そりゃあ、あなたと私は違う個体だもの」
「ううん。そういうんでなくて……」
あなたに会えるもの。さらりと一陣の風が吹き、唇からこぼれた答えはさらわれた。神様のため息のようなそれは私のセーラー服の裾を踊らせる。
からころからころ。軽快な音を鳴らしながら歩んでゆく彼女の背はひどく小さく見えた。
「ねえ、そろそろお帰りよ」
こちらを振り返って、彼女が言った。ひぐらしの鳴く声は止まない。求愛の言葉だというのに、あまりに貧相で哀愁が漂っている。私は悲しくなって、首を振る。
「いやよ、いや。どうしてそんなことを言うの。やっぱり私もこの日は嫌いだわ」
悲しげに眉尻を下げた彼女もまたひぐらしのようだ。
また、歩き出す。今度は私も足を踏み出す。彼女の小さな歩幅に合わせて隣に並んだ。ちょうど私の目線ほどまでしかない身長に、嫌でも歳の差というものを感じさせられた。
「私もいやだけれど、それでもやっぱりあなたは帰らないといけないわ」
「お願い、言わないで。私はあなたと一緒が良いの。ね、ね、私たち、お友達でしょ。私がお嫁に行くとき、約束したじゃない」
私はその細い腕にすがりついて駄々をこねる。それでも彼女は首を縦に振ってはくれない。
ひぐらしはずっと泣いている。私がここで足を滑らして、川に落ちて、そうしてぽっくり死んでしまった、あの日からずっと変わらずに。
ただ違うのは、私はあの日のまま、対して彼女は伴侶を得て子を成して孫を抱いて歳を重ねた、それだけだった。
「私が作ってやった牛は不満かしら」
「そうじゃないわ。そうじゃないの……」
首を振る。痩せた腕は頼りない。
どこからか漂う線香の匂いが、私を切なくさせる。すくわれることのない涙を誘うのだ。
「待たせてしまって申し訳ないけれど、私はまだ逝けない」
そう言って彼女は私の手を握ってくれる。重ねた歳の分だけしわの刻まれたやさしい手。感触などありはしないのに、不思議とあたたかいような心地がした。
いつのまにか、ひぐらしの声は聴こえなくなっていた。
薄暮に微笑む