法能通信
(一)
すっかり、煙草の量が増えました。
二十歳の頃、胃壁がボロボロになるほど焼酎を飲んだのと同じく、日にゴールデンバットを40本
吸っていました。あるときヤニ取りパイプをつけて10本ほど吸ったあとで、中をあけてみてびっく
りしました。フィルターにびっしり、焦茶色のヤニがこびり付いているのです。両切りを、平気でこ
れだけ吸っていたのですから、歯の裏といい、上の前歯の隙間が茶色く染まっても何の不思議も
ありません。朝起きてから学校へ行き、夜、布団に入って、寝煙草しますから、完全に眠りに落ち
るまで、40本を超えることはあっても減ることはなかったのです。
ところが、この半年、どうにも肺の辺りが痛く、医者で診てもらったところ、医者は僕の症状を聞くな
り、僕に煙草を日に10本以上吸うかどうか尋ねます。続けて、一日10本吸えば、年間3,650本吸
ってることになる。それだけでも食道なり肺の癌になる要因は充分あるので、10本以上吸っている
のならこのままお帰り下さいと言います。ロクに調べもしないで、ヤブ医者だ、とも思いましたが、そ
れからはひと箱(20本)まで減らしました。寝煙草もできるだけ控えました。夜中まで、寝転がりなが
ら手紙や駄文を書いていると、途中、良い言葉が見つからず、何本も立て続けに吸っていたので
す。
横浜にいたときは、それで済んでいたんです。しかし、僕はこの夏、あなたの住む山梨県都留市
(つるし)にある自動車教習所へ行き、同時に寮へ入ったのです。 寮は、教習所と目と鼻の先にあ
り、部屋に続くベランダで前の晩に洗ったシャツなどを干していると、送迎バスが教習所へ入ってく
るのが分かるのです。そして、その中に、あなたもいました。
8月19日の朝、横浜線で八王子へ出て、その先は中央線で高尾まで行きました。
ここで甲府行きへ乗り換えです。山梨の大月まで各駅停車で45分、同じ日に入校、入寮する人が
二人居り、その人たちと10時に大月の駅前に集合し、送迎バスに乗ることになっていたのです。あ
とから聞いた話ですが、他の二人は都内に住み、新宿からここまで特急に乗ってきたそうです。
そして、神奈川、相模湖を過ぎたあたりから、妙に僻地へきたものだと思ったそうですが、彼らが東
京に住んでいるにせよ、なあに、上野原から先の山梨県は愛すべきところではありませんか。二年
ほど前、僕の敬愛するある無頼派作家が、都留は都留でも南都留郡に位置する河口湖町、御坂(み
さか)峠のてっぺんにある天下茶屋という茶店・旅館に籠り、小説を書き、そこでの思い出を綴った小
説が、僕は何よりもお気に入りでした。そう、その御坂峠に文学散歩をしに行ったのです。大月から
富士急行線に乗りましたが、両側の車窓に広がる山並みを見て、僕は懐かしい気分さえしたのです。
僕の住まいは、横浜をイメージするには程遠く、海なんて2時間近くも電車やバスに揺られないと出
られない山の中に在るのです。20年前は陸の孤島と呼ばれたほどだったので、その景色を見てい
るようでした。
大月には9時半前に着いてしまいました。ちょうど、駅舎のテレビで高校野球を放送しており、待合の
人は食い入るように見ていました。今年は山梨県から一校、出場していたのです。けれども、もう勝負
はみえていたようでした。既に八回の裏、相手校の攻撃で、8対1。なおも相手のバットは、高い金属
音を次々にあげ、その都度、白いユニフォームがベースを駈け抜ける。
やがてゲームセットか、というところへ、送迎の車が来て、僕は他の二人とともに教習所へと向かいまし
た。途中、「ここより谷村(やむら)城下に入る」という案内がありましたが、谷村は母の実家のあったとこ
ろ。今は誰一人として住んでいませんが、僕はなんだか故郷へ帰った気分になったのです。
(二)
教習所の地番は、都留市法能(ほうのう)。
小太りの寮母さんに部屋を案内されて、我々は自分の入る5号室のベッドとロッカーを与えら
れました。どうやら一緒に入寮する人は、おおむね同じ部屋に入れられるようです。
二段ベッドが三つ、部屋には並べられてあり、テーブルがひとつ、ありました。壁の端と端に洗
濯用のロープが張られており、靴下や下着が干してありました。この部屋には既に二人、入っ
ているようです。僕は入口に近いベッドの下段を与えられ、その上の段が、今日、一緒に入寮
した石田君。
都立高校の3年生。もう一人は真野君。同じく東京のサラリーマン1年生でした。
僕はこの真野君とよく衝突しました。というのも、彼はよく言えばお洒落、悪く言えば妙に考え方
が派手なのです。派手と言っても、決してアナーキーなのではなく、妙に飾っているのです。この
世の中の、ほんのひと握りが、お洒落な恰好して、六本木で飲んだ。女の子を口説いた、うまく
行った。そこでその話を聞いた人が、同じことをして、同じようにうまく行った。さらに同じことをし
に、みな、六本木へ出かけて行った・・・そんな具合だったと思いますが、流行のようなものが出
来上がるんです。僕はこのようなお洒落を極端なまでに嫌っていました。それに、みんながみん
な、同じスーツを着て、同じタイをしめて、同じ靴だなんて、気持が悪いじゃないですか。そんな
の、我慢ならなかったのです。個性がありません。そのうち、顔かたちまで似てくるんじゃないかし
らと心配でした。お洒落できないのではなくて、したくないのです。いくらブランド着て、それに似合
うような街を歩いても、所詮は僕の能力に見合ってないのです。だいいち、お洒落したなら、それ
に見合うような言動をしなくちゃいけないようで、なんとも窮屈でした。
もし、そうだとしたら、僕には到底できやしません。何かとコムプレックスが多いので、飾ったりする
のが苦手なんです。神経を遣います。消耗します。
真野君と、もし、女の子を飲みに誘うのならどこがいいかね?という話になったとき、彼は真っ先
に六本木のなんとかというバーを挙げましたが、僕は渋谷の呑ん兵衛横丁をあげて彼に大笑い
されたのです。でも僕はムキになって、呑ん兵衛横丁を支持したのです。だいいち、そのようなと
ころのほうが、普段どおりしゃべれますからね。肩も凝りません。お洒落なところを否定する気は
ありませんが、酔うことさえ出来ないようなのは、面白くありません。田舎に住むコムプレックスも
あったでしょう。でも、雰囲気に酔うなんてことは、やはり僕にとっては不可能だと言いきれました。
さて、真野君と石田君とベッドを与えられて、まずはお昼です。
この教習所の近くに、昼は食堂、夜は飲み屋の長野屋という店があり、我々は、そこを案内されま
した。ここは、教習所といわばタイアップしていて、教習所で、ロッカーの鍵と一緒に渡された定期の
ようなものを見せたなら、一日二食、定食が食べられるのです。今日から3週間余り、お世話になる
旨を伝えて、席に着きました。
長野屋さんは、入口を入ったところに3つ4つのテーブルが並べられてあり、これまたすぐに座敷が
あって、そこには5つほどの長テーブルが並べられていました。ちょうど、お昼時で、たったいま教習
を終えてきたと思われる人が、立て続けに店に入ってきました。僕は大学最後の夏休みを利用して
きた訳ですが、他の人は大学の1年、2年生のようでした。
お昼を終えて、我々はトレーチャー(模擬運転室)へ行くように言われました。座席と、ハンドル、ブレ
ーキ、アクセル、クラッチ。
どれも初めての経験でした。ここへくる半月ほど前に大学の友人らとドライブへ行ったときに、僕だけ
が運転免許を持っておらず、地図も読めないからナビをやることもなく、運転を誰かが変わっても、
僕は同じ席に座ったままで、ぼんやりと煙草をふかしていました。そのときに、免許を取って2年は
経つ友人に、運転の要領を教わりましたが、オートマ車だったので、車はゴーカートと同じものだとば
かり考えていた僕は、トレーチャーにクラッチペダルがあって、いったいこれは何のためのものかと
不思議にさえ思ったのです。
トレーチャーを終えて、今度は車輌感覚を身につけるということで、我々はオートマ車に一時間ほど
乗りました。オートマ車というのは、ギアをドライブに入れたら、ブレーキを踏んでなければ、勝手に、
少しずつですが進んでしまう車です。大学の友人に、合宿免許に行くことを告げたら、ゴーカートと
同じだから至極簡単だよ、と言われてきたのに、むしろペダルを踏まないうちに進んでしまうこの車
が怖かったのです。教官に言われるがままに、アクセルとブレーキのあいだに足を挟みそうになりな
がら、軽く、きわめて軽く踏み、15kmくらいのスピードで僕の車は進み、教習所の内周をノロノロと
廻り始めました。
(三)
その晩、長野屋で夕食を終えた我々は、寮に戻り、前から入っている人に挨拶しました。この寮は二階
建てで、一階に二部屋、談話室、洗面所、トイレ、浴場があり、二階には部屋だけが五つ、ありました。
我々の部屋は階段を昇りきってすぐの5号室で、ここには7月の終わりからきている19歳の専門学校
生、大川君と一緒になりました。僕は、生来、臆病だったこともあり、どんな人と同じ部屋になるのか甚
だ不安だったのです。それが、同じ若い人ばかりということもあり、その晩は非常に楽しく過ごしました。
寮の周りには何もなく、それこそ夜はあまり灯りもありません。20分ほど真っ暗な道を歩いてコンビニへ
行き、ビールを買いましたが、今日から一緒の我々3人は少し飲めるにせよ、大川君は未成年である以
前に、ほとんど飲めないらしく、ついでに買ってきた甘辛団子を頬張りながら話したのです。
翌日も教習でした。日曜日なので教習所も休みで、寮生も一日ほったらかしで、部屋の中でゴロゴロして
いるものだとばかり思っていたところ、朝いちばん、8時半からの教習で僕は呼ばれました。寮の前に、
電柱があり、そこに道一本挟んだ教習所からの呼び出しを知らせるスピーカーが括りつけられているの
です。まさか、朝から車に乗るとは思ってもいなかったので、前日の緊張がほぐれたせいか、すっかり寝
坊し、朝ごはんはおろか、顔すらも洗っていない状態だったのです。
とにかく慌てて、前の日のくしゃくしゃのシャツを着て、バットを胸ポケットにねじり込んで、道いっぽん挟ん
だ教習所の受付へと走りました。この道が、路上教習のときにさんざ悩まされた難物で、昼夜を問わずト
ラックが慌しく走っているのです。教習所を出て、右に折れると一級河川の菅野(すげの)川があって、そ
れに沿ってしばらく走るのですが、対向車だけでなく、ノロノロ走っていたりすれば、後ろから大型トラック
のライトがパチッ、パチッとパッシングをするのです。
そんなときこそ飛ばせばいいものを、僕は恐ろしさから却ってスピードをぐんと落としてしまい、今度は続け
ざまにクラクションを鳴らされるのです。パッ、パーッという高音で、なおさらビクツとなってしまいます。
昨日、オートマ車で内周をわずかに走ったので、車輌の感覚は捉えられただろうということで、日曜の朝
は、いきなりマニュアル車でした。ロー、セカンド、サード、トップとギアがあって、始めはローで発進し、少
しスピードが出たらセカンドに換えるわけですが、これが、難しいのです。
右足で踏み込んでいたアクセルを一瞬、ゆるめて、瞬時に、左足でクラッチを踏み込むのです。そしてギア
を換えて、また左足を放す。エンストというのは、このクラッチの切り替えがうまく出来ないと起こるというの
をこのとき初めて知りました。しかもギアを変えるときに、どうにもそれを掴む左手が気になってしまい、つ
いつい手元を見てしまうのです。その為に前方の教習者にぶつかりそうになり、教官にブレーキを踏まれ
てばかりいました。3メートル進んでは、ブレーキをバタン!5メートル進んだかと思えば、またブレーキ。
ガタンガタンと車体が揺れて、もはやこれを楽しんでるとしか思えません。けれど、ハンドル握る僕は、しき
りに冷や汗をかいていました。
・・・こうして、惨憺たるマニュアル車の初日は終わったのです。
教官について、通っているあなたも教わったかと思いますが、僕には3人の教官が交替でついたのです。
どの教官も、甲州の訛りが強く、初めの頃はずいぶんと怖く聞こえました。寮へ入るときに、僕らが神奈川
と東京からきたと言うと、寮母さん、甲州の言葉は汚いからねえと言っていましたが、僕にはそれほど悪く
もなく聞こえました。ただ、教官の言葉の中で今もよく覚えているのは「頭めぐらせて考えるだ」でした。
頭をめぐらせるというのは、つまり頭を働かせるという意味でしょう。あるとき、車庫入れの練習をしていて、
ハンドルをまるっきり逆に切ったときに、そう言われたのです。2年ほど前に、河口湖畔から富士を見て以
来、山梨にとりつかれて、その言葉まで愛していた僕には、この「よく頭めぐらせて考えるだ」はずいぶん
沁みたような気がします。
とは言え、このときは、そう言われながらも頭の中ではまるっきり整理がつかず、ハンドルを何度も逆に切
り、叱られるのです。何をしても、「よく頭めぐらせて考えるだ」。あまりにもそればかりを言われるので、こ
れは免許を取るまで相当時間がかかりそうだなと思い、当時、下書きすら終えてなかった大学の卒業論文
を9月中に終える予定でいたことを考えると、すっかり気が滅入るのでした。
(四)
教習は一時限を50分ずつ区切ってあり、一日に2時限、車に乗るのと同時に、学科も日に5時限、
多いときは6時限、受けなければなりませんでした。ですからこれを詰め込む最初の1週間は、聴
いて乗って食べて寝る、という案外ハードな生活で、しかも夜は早く寝たいというのに、夜は宴会が
始まってしまうので、僕は身も心もボロボロになってしまいました。僕のいる5号室に、隣りの3号
室、その向こうの6号室、7号室からと、10数人が集まり、ヨナヨナ話したり呑んでは奇声をあげる
ので、僕はちっとも眠れなかったのです。眠りたくて仕方ないのに、こんなときに臆病な僕の中の社
交性が出て、そばに転がっている紙コップを持って、車座の中に飛び込み、ビールを数杯、たて続
けに飲むと今度は僕が大声で騒ぐ番でした。
それに、やはりこんなところで出逢ったのも何かの縁のように感じられて、聴き、語り、つまりは延々
と話し込み、結局は自分の睡眠時間を自分で削ってしまうのでした。そんな具合がアタマの10日く
らい続いたでしょう。日中、車に乗れば乗ったで、ハンドルの切り方が異常だと叱られ、嘆かれ、ヘ
トヘトになって寮に帰れば、食欲もなく、そのくせ、誰かの差し出した安酒で喉を湿らせては、コンビ
ニで買ったカップラーメン食べて、少し元気になっては部屋の宴会を心待ちにする・・・・そんな生活
を送っていました。
そんな絶不調のときに、大事件が起こりました。あなたが入校してきたのです。合宿免許を取りに来
た人は、おおかたが二十歳前後の青年ばかりで、団体生活をしたことのない僕にしてみれば、その
生活もまた面白くは思っていたのですが、そこは、やはり、男所帯・・・本能として、少しは色めいたこ
とがあってもいいと思うのは僕ばかりじゃなかったと思います。
あなたは都留市を流れる桂川沿いに住んでいて、朝の早いうちから教習所へ来て順番待ちをしてい
るのでした。この教習所は、合宿免許と、地元からの通う生徒の両方を受け入れていましたが、当然
ながら合宿免許の生徒を優先に乗せていたもので、どこでもそうであるように、一日に乗れる最大の
時間・・・2時間、乗りたくて早く来ても、寮生の合間を縫って予約を取るわけで、1時間も乗れればい
いほうでした。
電話による予約があったかどうか忘れてしまったけれど、受付で、「あー、今日も取れないのかあ」と
いうあなたを見て、可哀相な気もしていたのです。
そのころ、僕はずっと想っていた人がいて、けれども友人から意外の事実を打ち明けられて、すっかり
しょげていたのです。一緒になる気でさえいて、それでいて完全の一方通行だったのですから、おかし
いですね。この際ですから、すべてを打ちあけてしまいますが、僕はまるっきりのドン・ファンだったの
です。
大学に入って3日目、顔が好きな女の子がいて、4日目、悶々とし、5日目、図書館の隅で待ち伏せし
て想いを打ち明け、6日目を迎えずして、きっぱり断られた。7日目、安息日ならず。ほかの女の子に
想いを打ち明けるという具合に最低の男だったのです。結局は、どの人でもよかったのかも知れず、
いま思い出しても、自分のことながらゾッとします。さらに二十歳になってから、呑むことを覚え、酔っ
払ってはあちこちの女の子に迷惑かけました。そして、ある女の子に忠告されました。きみは、しばら
く誰も好きにならないほうがいいよ。少し、イヤ、だいぶ冷却装置が壊れてる。好きになっても打ち明け
ちゃダメ!、と言われ、返した言葉が、つきあって下さい!・・・完全の盲でした。
そんな自分にもやっと目が覚めて、本当に、あのとき、あの友達が言ったようにしようと思っていたとこ
ろへ、あなたが現れたから、大事件だったのです。
ことの起こりは、学科を受けているあいだのことです。教官が出席を取り、あなたの名前を呼んだので
す。ところが、それは僕の名前で、あなたは、何をボンヤリしていたのか大声で返事をしてしまったの
です。「井田 充造」と呼ばれて僕が返事をしようとしたところ、教室の少し離れたところであなたが
「ハイッ」と返事をしたので、教室中、大笑いでした。ジュウゾウだなんて名前の女の子がいるはずもあ
りません。本当は、それから、二、三人おいて、関根法子、あなたでした。
(五)
合宿免許は、一種の禁欲生活のようなものでした。こう書くと、ひどく厭らしく聴こえますが、
性的なものはもちろん、すべての個人的な欲求は、免許取得の目的の前に、すべて抑え
られてしまうのでした。教習所のパンフレットに釣られて、観光も少しはできるかな?なん
てつもりで来た人は、気がふれてしまうほどで、しかも団体生活になれていない人にとっ
ては、同じ部屋で5,6人の男が寝起きするというのは、実に苦しいことだったんじゃない
かと思います。
そんな禁欲生活の中で、また、僕のドン・ファンが出ました。
8月19日に入校して、一週間の教習を終える頃でしょうか、僕が2時間の実地教習を終え
て、サァ、次は緊張しない学科教習だと、教室のある建物へ行くと、一緒に入校した石田
君、真野君が楽しそうにあなたとおしゃべりしていました。受付の脇にある、小さな待合室。
それを見て、まったく関心ないフリして、階下の自動販売機で買った缶コーヒー飲みながら
も、あなたが多摩市の短大まで朝一番の富士急行に乗って通ってること、そうして、その短
大はミッション系で、英文科に籍を置いていることを、しっかり盗み聞きしたのでした。
まもなく学科が始まり、僕はその上階にある教室へ行きました。真野君には、彼のお洒
落の度合いには好感が持てなかったにしろ、年齢がいちばん近かったことから、共有する
話題も多く、寮生の中では仲のいい人でもありました。ですから、教室に着き、テキストを
机に置き、いま上がってきた彼に話しかけようとすると、彼はさっと教室を出て、教室に続く
ベランダへ行くのです。そしてそこには、たった今、階下の待合室で話していた面子が集ま
っていました。石田君、真野君、そして、前からいる大河君。おととい来たばかりの和田君
たちでした。和田君は、大学2年生。山梨県の入口、上野原町の人で、地元の教習所へ入
校を申し込んだところ、満員を理由に断られ、関連のあるこの教習所を紹介され、入寮し
ている人でした。
気がついたときには、僕はその仲間に加わっていました。誰だったでしょうか、井田くん、
大学4年生と紹介してくれて、僕ははじめてあなたを間近で見ました。ひとつ気になったの
が、あなたのおデコの広さで、みんな前髪をお洒落にキメたり、素直に隠してる女の子しか
しらなかったので、少し新鮮に思えました。
その晩のこと、山梨の女の子はいい子が多いね、なんて話が出て、れいの宴会はあなたの
話題で持ちきりでした。都会だとか田舎だとか、そういう比較は好きじゃありませんが、なん
というか、スレてなくて、それがとてもとても良かったのです。純粋とでもいうか、無垢という
か、そんな感じがしたのです。それは僕だけでなかったし、そこにいたみんなもそう感じて
いたのです。
ベランダで紹介されて、僕はもう一ぺん、あなたに向かって挨拶しました。そして、こんにち
は、というあなたの返事のトーンが、それからずっと耳に残って行ったような気がします。
(六)
8月25日の晩、僕はやっと1週間の学科教習が終わり、あとは1日に2時間、実地の時間に呼ば
れるのを待つだけになりました。そのころ、一緒に入校した石田君は抜群のセンスでもって、いよ
いよ路上教習かという段階までになり、真野君と僕は、場内の外周を廻り始めたばかりでした。
その晩のこと、彼らと和田君、大河君と風呂に入っていると、みんな、明日、大きなお祭りがあっ
て、それに、あなたを誘って行こうというと言ってるのでした。吉田の火祭りを観に行くつもりだった
のです。
彼らは、吉田の火祭りが、地元の祭りではなく、ここから30分も電車乗った先で行われることを知
らず、また、普通の屋台が立ち並ぶお祭りだと思っているようでもありました。
吉田の火祭りは、島田の帯祭り、愛知国府宮のはだか祭りとともに、日本三大奇祭に数えられる、
毎年8月26日に山梨県富士吉田市で行われるお祭りです。富士の神様を祀った神社として、よく
その名を聞く浅間(せんげん)神社。富士吉田には富士山の吉田登山口があり、その麓に建てら
れた北口本宮浅間神社の秋祭り、これが吉田の火祭りです。富士に棲むといわれる女性の神、
木花咲耶姫命(このはなさくやのびめ)が火の中で出産したという言い伝えに習い、夏の富士山の
安全登山のお礼、いわば山じまいのお祭りとして、また、この日以降から秋となるので、収穫を祈
って行われるものです。
僕のいた教習所の近く、赤坂駅から電車で30分。地方都市である富士吉田市の核となる富士
吉田駅から、浅間神社まで続く大通りに高さ3メートル、直径80センチはあろうかという松明が並
べられ、その火を持って木花咲耶姫命の霊を慰むるというところでしょうか。初めて見た人は、富
士吉田が大火に遭ってると思うかもしれません。また観光客の数も相当なもので、ふだんは5万
人の富士吉田市も、この日ばかりは20万人になり、数多くの旅館は軒並み満杯になる、それほ
ど盛大なお祭りでもあります。
祭りの当日、朝早くからきて、待合室で実地教習の空きを待っていたあなたに、火祭りへ行こうよ、
と声をかけたのは誰だったでしょう? きっぱり断られたのを見ていた僕は、あなたにその理由を
訊きました。数年前、河口湖畔や御坂峠で富士を見て以来、この富士五湖地方に魅せられてい
た僕は、その翌年にこの火祭りを見て、さらにのめりこんだ感じでした。そんな訳で、あんな素晴
らしいものを、なんで見に行かないの?と訊いたのです。
だって、つまらないじゃない? そう言われて、僕は少し悲しくなりました。大河君も、真野君も、
待合室にいるあなたに、火祭りへ行こうと誘い、これまた断られています。そっちのほうは不慣れ
だから案内して欲しい、なんて言っても、あなたはみんな断って、そんなところへ空きが出たのか、
関根さん、関根法子さん、と実地教習に呼ばれるなり、慌てて席を立ち、教習車に飛び乗るので
した。
夕方、僕は富士吉田駅まで電車に乗り、市内を徘徊しました。19の春、学校でよい人見つけて、
その人の実家が富士吉田だと知ったのです。そしてその夏に、河口湖から延々と坂道登った御
坂峠を目指したのは、表向き、この地に逗留したことのある太宰治の文学散歩であったけど、
実際は、その帰りに、富士吉田のあたりをウロついてみようか、そんなふうに思っていたのです。
そうしたら、ばったり出くわすかも知れない。バスの停留所で、僕が乗ろうとした途端、駆け込ん
で乗ってくるんじゃないかしら、あるいは少し道に迷って、もがいては歩き、もがいては走り、やっ
と出口だと思って駆けて行ったら、その人の家にたどり着いたりするんじゃないかしら、という気
がしていたのです。当然、彼女の実家の地番なんて知らないし、ただ、富士吉田だってことしか
分からなかったのだけれども、その年、あくる年も同じようなことをしていたような気がします。
でも、そのうち絶望してしまったのです。最初の頃は、逢えるだろうか、逢えないだろうか、花びら
一まい一まい捲ってみるような緊迫感があったのに、いい加減馬鹿らしくなったのです。その人に
対する想いは、そんなものだったのでしょう。しばらく富士吉田を旅することもありませんでしたが、
今年の春、友人から意外の事実を打ち明けられ、それで完全に諦めがついたはずでした。そうし
て、僕も大学卒業の年になり、機会があるとしても、この夏が最後であろうと思ったら、かえって想
い断ち切れなくなり、わずかの望みもって、富士吉田へ行くことにしました。吉田の火祭り・・・・20
万人もの人出の中で、その中にいれば、逢えるような気がしていたのです。そうして、万が一、逢
えたなら、あなたのことは、いっさい考えないつもりでいました。気にかかり始めていたし、何度も
二人だけで話したいなんて気持ちはあったのに。
その日の教習は運よく3時頃には終わり、いったん道路いっぽん隔てた寮へ戻り、小さなバッグに
煙草を5、6箱詰めて、おかげで入らなくなった折り畳み傘を脇に抱え、赤坂駅へと歩き出しました。
(七)
赤坂駅は、富士急行線にいくつかある無人駅のひとつで、車内で車掌から切符を買いました。これ
まで神奈川からこちらへくるときは、始点の大月駅で切符を買っていたので、車内で買うというのは
初めてのことでした。
富士急行は、車両の下がブルー、そして窓の高さにあたるところは水色。そしてその中間に白いス
トライプが入っており、岳麓を走るのにとても似合っている電車でした。
一駅ごとに浴衣姿の乗客が増え、何駅か行ったところではホームにあふれんばかりの人がいて、
一気に車内は混みました。富士吉田の二つ絵前の下吉田からは、まだ高校生くらいであろう若い
女の子の集団が、もひとつ先の月江寺からは、同じ子供でも、親と一緒の小さな子供たち。終点に
近づくに連れて踏み切りの数が増えるのか、盛んに電車は警笛を鳴らし、その音に慣れてない子
供たちは、うるさいね、といって耳をふさぐのでした。
富士吉田駅に着くと、もうかなり暗くなっていて、こちらの夕方は涼しいはずなのに、とても蒸し暑く、
火祭り見物の乗客がここでいっせいに降りたこともあって、ホームはごった返し、萎縮してる先へ進
めません。やっとの思いで改札を抜けると、やっと息ができたような気がして、少し深呼吸。
けれど、もうすでに松明の燃える臭いがこちらへ迫ってきます。 胸ポケットからホープを取り出し、
吸おうとしたら、なぜかライターがなく、仕方なく大通りに松明とともに並ぶ、井桁に組んだ松明の
破片から失敬して火をもらい、それから激しい交通規制の中、浅間神社を目指して歩き始めました。
(八)
二十歳の夏、僕はぶらりと、まるで近所を散歩するような恰好で山梨へと出発しました。中央本線
で甲府まで出て、30分ほど駅前をぶらぶらして、富士吉田駅ゆきのバスに乗ったのです。目的地
までは1時間半だそう。平地に感じられるのは初めの10分ほどで、あとは延々と坂道を登ります。
何かの本に、甲府はシルクハットをさかさまにして旗を立てたようなまち、とあったのを思い出し、
その旗からツバへと這い上がってゆくような感じがしたのです。まだ十にもならない頃に、初狩へ
行ったことがあるくらいで、実に十何年ぶりかの甲州でした。誰もがシャレたつもりで言うように、
山がなくてもヤマナシ県。甲斐の国の由来が、山に囲まれた様子を示す「山峡(やまかい)」から
きたのをすぐさま納得できる感じでした。とはいえ、甲府の駅前は、かなり華やかなところで、信
玄公の象などは二重橋の大楠公を思わせるほどでした。しかし、坂道もだいぶ登ると、期待を裏
切らないというか、両手に田畑が広がり、ぶどうの香りがしてきます。直売所が並んでいます。
日差しが強く、窓にかかったレースのカーテンをしめても、まだまぶしさは和らぎません。冷房もか
なりきいており、せっかく甲府でのどを潤してきたのに、また乾いてしまう感じです。
それからしばらく揺られて、もうそろそろかなあと思ったときに、トンネルを越えて着いたのが三つ
峠入口。降りて少し背伸びして、サ!こっから登るんだぞ、と歩き始めた途端、およそ登山客と思
えない恰好の人、しかも若い女の子がひとかたまりになって歩いてきます。ここで降りる人は、そ
れなりの理由があるのです。
あなたに聞いた話ですが、やはり作品の舞台ということもあって、中学校の国語の教科書には『富
嶽百景』が載ってるんだそうですね。ここからさらに一時間ほど、御坂峠なる坂道をうねうねと行け
ば、天下茶屋という二階建ての旅館があるのです。旅館と言っても、むしろドライブの途中で寄って
もらう色彩のほうが強く、寒さ厳しき折には、水道も凍ってしまうことからまったく開けることのできな
い場所です。そして、この天下茶屋こそ、僕の目的地でありました。
高校を出る頃でしょうか、ふと手に取った太宰治の小説。その中にここを舞台とした『富嶽百景』と
いう作品があり、いつかは彼の見た御坂峠からの富士を見たいと思っていました。生憎、その日は
曇り空で、天下茶屋の前から望めるはずの、河口湖に抱かれたような富士も見えませんでした。
さて、火祭りを見にきた僕は、その足で浅間神社のそばにあるお宅へお邪魔しました。先の天下茶
屋で働く人が、偶然にも僕のいた高校の先生の同級生ということもあって、そんな縁で、泊りがけで
呑みにおいでと誘われていたのです。あの晩は楽しかった。斃れるまで飲んだ気がします。そして
教習が遅々として進まないことを嘆いたような気も。
翌朝、その方はお仕事なので富士吉田駅まで車に乗せてもらい、僕は雨の中を寮まで帰ってきま
した。結局、昨日は火祭りの、いろんな屋台を覗いたりしたけど、結局はここに実家を持ち、夏休
み、帰郷しているであろう彼女の姿を見かけることもありませんでした。でも、これはもう彼女のこ
とは忘れなさいといわれてるような気がして、そして、今日からはあなたに一所懸命なるよう仕向
けられてるような気がしました。昨日限り、もうドン・ファンはおしまいです。もう、あとは急いで都留
へ帰るだけ、です。
(九)
あなたの魅力は、独特の感覚にありました。たぶん、返ってくる答えが面白かったりして、頭のいい人
なんだと感心していました。
火祭りを見て、その日は天下茶屋の番頭さんのお宅でお世話になって、翌朝、富士吉田の駅まで送って
もらいました。火祭りでは、小雨が降ったりやんだりで、夜半から大雨になり、明け方にもなお強い雨で、
駅から改札へゆくまでにびしょ濡れになりました。
午前6時半の富士急行には、昨夜の賑わいと違って乗客もほとんどなく、僕はただぼんやりと外を眺めて
いました。
停車する駅には雨粒のミルククラウンが見え、暗い朝でした。
8時までに教習所に戻る予定でいたのです。あさ一番の教習は8時半からなので、その時間に呼ばれても
いいように長野屋さんで朝食を済ませておこうと思ったのです。
教習所に近い赤坂駅で降りて、煙草がないことに気付きました。昨日の夜、何箱か買ったつもりだったん
ですが、番頭さんと遅くまで呑んでいるうちに、みんな吸ってしまったかもしれません。今では一日に2時間、
教習車に乗る以外はすることもなく、僕は煙草ばかりふかしていました。
思ったよりも体がだるく、結局、朝食はとらず、寮のベッドの上で横になっていました。さいわい、朝一番の教
習に呼ばれなかったので、まだしばらく寝ていられるなと思ったものの、何時に呼ばれるかもわからないのも
面倒なので、受付へ行ってみることにしました。
ここへくれば、その日の配車がすべて決まっているのです。受付に尋ねたところ、「井田さんは午後からで
す」と言われ、なおゆっくり帰ってくるべきだとも思いましたが、いや、一刻も早く帰ってきてよかったのです。
教習所というより、都留へ戻るべきだと思いました。
都留には、教習所があるからではなくて、都留はあなたのいるところだと。
あなたも僕と一緒で、まだ夏休みもしばらくあったので、朝早くから待合室にいて、予約を取りにきても、
なかなか車に乗れなかったりで、忙しい感じがありました。
富士吉田からの電車の中で、もしかしたらあなたが乗ってくるのでは?なんて想いに駆られました。
あなたの家に近いという三ツ峠の駅から、たまたま、ほんとに偶然に、同じ電車に乗ってきたりしたら、どうし
よう! ぼんやりと外を眺めていた僕は、ふと視線を車内にやったら、あなたが乗っていたりする、そんな瞬
間を待っていたのかもしれません。
しかし、偶然というのは、本当に、たまのたまにしか起こらないもので、二日酔いの僕を乗せた電車は
教習所のある駅に着き、僕は配車の確認にきたような顔をして、待合室を覗いてみたのです。
(十)
火祭が終わってからというものの、僕は妙にあなたに近づきにくくなりました。心配はいりません。こ
れは僕の問題なのです。寮のみんなと、あなた、そしてあなたの高校来の友達と、そろってボーリン
グに出かけたり、待合室でおしゃべりするたび、僕はあなたへの想いを強くしていましたが、たとい、
みんな、僕が、一緒に楽しんでいるように見えていたとしても、僕はちっとも楽しくなくなっていたの
です。
石田君や真野くんが、いつも先頭に立つ感じで、僕はあなたに声をかけようとしても、その瞬間に
彼らが面白い話題を出してきて、それがあなたを惹きつける。待合室では、いつもそんな感じでし
た。ふと見ると、真野くんがあなたやあなたの友達に囲まれてる。石田君が、何かの話題であなたと
盛り上がってる。僕はすっかり出遅れてしまうのです。早い話が、僕は妬いていました。そんなある
とき、手洗いで真野くんと一緒になり、彼はふと、いや、これまで黙っていたんだぞ、という顔をして、
井田くんは関根さんが好きなんだろう?と言われたのです。
どうやら真野君だけではなく、石田君、大河くん、いやいや寮の男性は僕をそんなふうに見ていた
ようです。恥ずかしくて死にたく、けれども自分が死んだもうあなたと話すこともできないから、むしろ
みんなの死を願ったほどでした。
真野君にそう聞かれて、僕は返す言葉がなく、そそくさと手を洗って寮へ戻ってしまいました。
あなたがまだ待合室にいて、教習の時間が来るのを待っているのが見えましたが、今日はあなたと
話したいなという思っていたのに、何もできない自分が悲しくなり、まったく視界に入ってないような
フリして寮まで駆けっていきました。
真野君は、またあなたと同じテーブルに戻り、それが最後に見えたけど、見えなかったつもりで。
すっかり悲しくなりました。
時代遅れの安っぽいメタルフレームのメガネかけて、前の晩にしっかり剃ったヒゲも、あなたが教習
所に着く頃にはもう黒々と生え、背が高いのに猫背で小走りの僕。きっとこの容姿も醜いのだと、自
信を失うよなことばかり思いついて、それが積み重なり、僕はつぶされてしまうような恐怖さえしまし
た。
絶望だ、ああ・・・絶望だ。そうやってどんどん悄気(しょげ)てゆくのでした。
何が絶望かね?あなたの気持ちも聞かないうちに何が絶望なのかね?・・・そんな声も聞こえてきそ
うでしたが、これまでの僕の経験からして、ダメなものはダメなのです。
ましてや僕は想いを打ち明けたりしたら、困るのは僕ではなくて、あなたなのだと思いました。
だって僕は断られても、いつしか横浜へ帰ってゆく身です。あなたは、地元で、思ってもみない男に想
われ、それを知って悲しいやら恥ずかしいやら、どこに隠れることもできず、途方に暮れるのではない
かと、あなたの気持ちばかり心配していました。
つい先日まで、教習所で一緒になった地元の短大生。そんなふうにしか思っていませんでした。
そう言っていればいいのだと思っていました。でも、そこにあなたがいると楽しいし、あなたといると
恥ずかしいし、あなたといるとこの時間がずっと続くことを祈らずにはいられなかったのです。
法能通信