宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第十七話
まえがきに代えたこれまでのあらすじ及び登場人物紹介
金子あづみは教師を目指す大学生。だが自宅のある東京で教育実習先を見つけられず遠く離れた木花村(このはなむら)の中学校に行かざるを得なくなる。木花村は「女神に見初められた村」と呼ばれるのどかな山里。村人は信仰心が篤く、あづみが居候することになった天狼神社の「神使」が大いに慕われている。
普通神使というと神道では神に仕える動物を指すのだが、ここでは日本で唯一、人間が神使の役割を務める。あづみはその使命を負う「神の娘」嬬恋真耶と出会うのだが、当初清楚で可憐な女の子だと思っていた真耶の正体を知ってびっくり仰天するのだった。
金子あづみ…本作の語り手で、はるばる東京から木花村にやってきた教育実習生。自分が今まで経験してきたさまざまな常識がひっくり返る日々に振り回されつつも楽しんでいるようす。だったのだが…。
嬬恋真耶…あづみが居候している天狼神社に住まう、神様のお遣い=神使。一見清楚で可憐、おしゃれと料理が大好きな女の子だが、実はその身体には大きな秘密が…。なおフランス人の血が入っているので金髪碧眼。勉強は得意だが運動は大の苦手。
渡辺史菜…以前あづみの通う女子校で教育実習を行ったのが縁で、今度は教育実習の指導役としてあづみと関わることになった。真耶たちの担任および部活の顧問(家庭科部)だが実は真耶が幼い時天狼神社に滞在したことがある。担当科目は社会。サバサバした性格に見えて熱血な面もあり、自分の教え子が傷つけられることは絶対に許さない。無類の酒好きで何かというと飲みたがる。
(登場人物及び舞台はフィクションです)
1
白い廊下が続く。建物の中は暖かく、外の枯れ木との対比が感じられる。ここは埼玉県内のとある場所。私の尋ね人がいる。
「…やあ」
いつもながらここに顔を出す時は緊張する。これから会う相手には、本来人見知りなど必要ないというのに。
2
人が自らの思想とか主義主張を定める理由が、その人の経験とか利害だというのはあまり筋が良くないと思っている。公害のはびこる街に育ったから環境問題に関心を持つとか、身内が犯罪被害に遭ったからその厳罰化を望むとか、もちろんそういうのはあっていい。ただ少なくとも公的な職業、例えば私がしている教師という職業では、そういうのをいったん棚上げして、公の立場から広く人の幸せを希求する立場にも立てるようにするべきだと思う。「私はこういう経験をしたからこれに賛成する」ではなく「私はこれによって社会が良い方向に進むと思うから賛成する」というスタンスが常に求められる。
私が管理教育を嫌うのにはわけがある。それはもちろん生徒のために、ひいては世の中のためにならないという信念があるから、と言い切りたいところだが悲しいかな私はその意味では未熟なのだ。人を上から抑えこもうとする大人に対する憎悪は、私の経験に由来すると言って相違ない。恥ずかしながら人間がそこまで出来てはいない。
私の育ったところは保守的な土地柄で、学校もそれに合わせていた。ちょっと前までは中学の男子は全員丸刈りだった。部活動は運動部も文化部も勝利と結果が第一。体罰も日常茶飯事だったし、その顧問が授業を受け持つのだから勉強のようすも言わずもがなだった。
家庭もそういう気風に沿った教育をするところが多く、まして私の家はまがりなりにも旧家だったのでしつけは厳しかった。一応言っておくが、私も生徒のしつけにはうるさい自覚がある。もちろん怒鳴ったりはしないが、他人に迷惑をかけたり、他人をさげすんだり、そういった態度には厳しく接してきたつもりだ。それは自分が見てきた親たちの振る舞いが染み付いているということでもある。
私には弟が、いた。
弟は病弱で、気弱で、そういう子供はたいがいいじめの標的になる。規則や決まりでがんじがらめにしても、いやそうすればこそ、そういった悪事ははびこる。厳しい管理教育は、良い人格を作るのには全く役立たなかった。
弟を守るのは私の役目だった。誰かに命じられたわけではないが、親も教師も当てにならないのだから私がやるしか無いと思っていた。本来ならムラ社会で地主の息子をいじめるなどあり得ないと思われるが、末っ子で、大人たちの考える「男らしさ」からかけ離れている弟は家族からもひそかに疎んじられていたし、「やられたらやり返せ」が父の口癖で、それに応えられない弟はむしろ親たちにとっては恥ですらあったのだろう。年子の弟をいじめる奴には私と同学年や年上の者もいる。しかもたいがい複数だ。そこに対してひ弱な弟が腕力で立ち向かうなど、どだい無理な話。だが、親たちにはそれを理解する頭も意志も無かった。
だから、弟に危害を加える連中をコテンパンにやっつけるのが私の責務と思っていたし、実際そうしていた。向こうは向こうで女にやられるなど恥ずかしいこと、告げ口すれば反対に自分が怒られる。それは私にとっては幸いだった。だが学年が進むと男子に体格で負けてくる。私はそれを技でカバーしようとした。警察署の柔道場に通い、段を取った。
実家は本家という位置付けだったので、新年や盆などの節目には親族が集まるのが習わしだった。一見なごやかな風景だが、その実はやれ娘がコンクールで入賞しただの息子が偏差値学年トップだったのという自慢大会だった。そのなかで一人異質な人がいた。遠い親戚のおじさんだと言うが、大人は皆彼を避け、疎んじているようだった。
だが私はこの人と馬が合っていた。当時の田舎では、その年齢の大人の男が長髪にしているのもピアスに破れたジーンズというのも珍しく、それが他の大人の不興を買っているようだったが私にはどうでも良かったし、むしろおじさんの話は面白かった。世界をリュック一つとギター一本かついで旅し、路銀を稼いでは次の街へ。そんなおじさんの世界見聞録は、テレビや本では、ましてや学校の授業で習う世界のなんたらかんたらでは到底触れることの出来ない、魅力的な輝きを持っていた。何よりもその理由は、おじさんがその土地を愛し、その土地の過去と現在をよく見据えているからだった。まずその国の歴史を尊重すること、それが大事だという大きな考え方の支柱が見えていた。
でもそんな面白い話は、私が独り占めだった。大人は子供に有ること無いことおじさんの悪評を吹き込んでいたので、一人私だけがその包囲網をかいくぐっておじさんを独占できたのだ。こっそり二人して宴を抜けだしては屋根に登り、星を見ながら語り合った。その時おじさんはいつも風下に座っており、タバコの煙が子どもであった私にかからないように気を配っていた。そのへんは下でどんちゃん騒ぎをしている大人たちよりよっぽどまともで、田舎の宴会ときたら分煙もへったくれもない。「田舎の人は規律を守る純朴で優しい人だ」そんな都会の人達のイメージは嘘っぱちで、実は他人を傷つけて平気でいられる心の腐った人間たちの集まりだ、少なくともここはそうだと、私はすでに分かっていた。
おじさんの吸うタバコは毎回違っていた。フランスの青いパッケージの両切りタバコ。葉をそのままの形で巻いただけのインドのタバコ。沖縄でしか売ってないタバコのパッケージを見せてもらったこともある。タツノオトシゴの絵は古風だが銘柄名はローマ字で、なんだか格好良かった。
ただ残念なのは、弟は病弱なのを理由にその会にいつも出させてもらえなかったことだ。まあ新年会そのものは出なくて正解だが、おじさんの話が聞けなかったのは口惜しかったろうと思う。だから私が弟に全部聞かせてやっていた。以来、弟はしきりに海外で仕事をしたいと言うようになった。ひそかに語学を勉強し始めていたし、病弱でも海外で出来る仕事について色々調べていた。
やがて私も高校受験を試みる歳となる。できれば家から最寄りの高校に行きたかったが、女子はバスで通う距離の女子高に行くのが我が家の習わしだった。抵抗したかったが、金を出すのは親である以上強くは言えない。
遠い学校に通うのが嫌だったのは、ひとえに弟が心配だからだ。小中学校の時分は目が届く範囲に私がいたので、弟へのいじめは歯止めが聞いていたと思う。だが私が昼だけとはいえ、遠くへ行ってしまったら…。私は弟をいじめていた心当たりのある連中のもとへお願い参りを敢行した。どうか弟をいじめないでやってくれ、と。もちろん背後に自らの腕力を暗示させることは忘れなかった。
それは功を奏したように見えた。弟には毎日のようにいじめられていないかと問うたが、答えはいつも、
「大丈夫。みんな仲良くしてくれるよ」
微笑みながらのその答えに私は安心していた。だからやがてそんな質問も頻度が減っていった。
だから私は私で自分の高校生活を楽しんでいた。柔道部があったのでそこに入った。細かい校則や教師の傍若無人に腹をたてることもあったが、爆発しなかったのは弟の生活が平穏であることへの安堵感も関係していただろう。
しかし、事件は青天の霹靂のように私達を襲った。
武道場がメンテナンスに入ったため部活が休みとなった。珍しく私は明るいうちに、家のある集落へと帰ってきた。私の帰りが遅いせいで最近は弟と語らう機会も減っていた。でも今日はそれが出来る。どんな話をしようか。私の部活の話か、いや弟の学校生活について話そう。どんな楽しい学校生活を送っているだろう?
だが、弟と顔を合わせる機会はほどなく、そして予期せぬ形で現れた。
集落から外れた、地蔵堂の裏手の林。人家からも街道からも死角になった、少なくとも大人は通らない場所。私はバス停からの近道という理由で、そこを経由する小径を通るのが常だった。
そこに、弟が、いや、弟達がいた。
あまりにも、見慣れたシチュエーションで。
「ったく、うぜえんだよ。なよなよして。渡辺の息子だからっていい気になるなよ。だれも助けちゃくれないんだよ。お前のお姉さまはどうせ部活だろ?」
瞬間状況を把握した。弟が危ない。しかし、弟をいじめる常習犯だった奴が次に吐いたセリフが、助けようと踏み出した私の足を一瞬止めた。
「妾の子のくせしてよぉ」
すべて合点がいった。いくらなんでも親たちも他の大人たちも、弟に冷たすぎるとは思っていたが。その疑問が氷解し、同時に背中に冷水を浴びせられたような衝撃が走った。
それでも気を取り直した私は、弟に危害を加えている連中の前に躍り出るや否や、彼らをコテンパンに叩きのめした。あの時間にいるはずのない人間から不意撃ちを受けた彼らが、心身ともに大打撃を受けたのは間違いない。
だが私だって、それ相応の精神的ダメージを受けていた。
「…いじめられていないって、言ったじゃないか」
怒りの矛先は、明らかに弟に向けられていた。語調が荒くなっていたのは分かっていた。
「…だって…そう言わないと姉ちゃん心配するでしょ…」
その言葉を遮るように私はまくし立てた。
「…ばか! そういうの隠し立てされて、明るく振舞われる方が私にとっちゃ心配だよ! お願いだ、今度から何かされたら必ず私に言ってくれ。後生だから」
しかし饒舌でかつ興奮した私とは対照的に、弟は静かに首を振ると、
「うん。ごめんね」
と答えるだけだった。いつもの暖かなほほ笑みとともに。
そしてそれが、弟と交わした最後の会話となった。
一連の事件は、渡辺一族の知るところとなる。いじめグループの一人が密告したのだ。それを可能にしたのは彼らが手にした私と弟の秘密。それは私ですら知らされていなかったこと。
弟は、腹違いだった。
渡辺家に遠慮して皆表立っては言わなかったが、いわばそれは公然の秘密だった。そしてそういう噂話はある程度の年頃を迎えた子どもたちの間ではすぐ広まる。それを知ったいじめグループは利用しないわけがない。妾の子をいくらいじめても大した咎めは無い。そう踏んだ彼らの増長ぶりはいかばかりかと思う。そして再びターゲットになった弟の心中はいかばかりかと思う。
いや、弟はずっといじめられ続けていたのだろう。ただ私が気づいていなかっただけで。そして弟が明るく振る舞うことで、それは隠蔽され続けた。
私はそれが見抜けなかった。そのことへの自己嫌悪は徐々に私の心を攻撃していった。
ことの決着はすべての責任を弟に着せることで解決されようとしていた。所詮は遊びで抱いた女に産ませた子を仕方なく引き取っただけのこと。かけるべき愛情は無いし、旧家を任せられるだけの胆力もないくらい気弱で病弱なのも気に入らない、それが大人たちの一致した考えだった。
今回の件は、ひ弱な弟がそのひ弱さ故の自業自得でやられただけのこと。いやむしろ弟をいじめていたように見える彼らは弟を鍛えてくれたのかもしれないと判断され、事実いじめの当事者と思われた生徒たちも弟とは友達だとうそぶき、愛のムチだの教育的指導だのといった言い訳を連呼した。彼らとてそれなりの名家である(そういう家格とかと縁のない子達は我関せずだった)。ことが大きくなって処分が課されるとなればまずい、という大人同士の思惑もあった。
結局、いじめグループはお咎め無し。弟は彼らと遊んでいる最中に怪我をしたとされ、数日学校を休むよう告げられた。あまりにも理不尽な裁定だが、自分と弟以外のすべてが、その偽りの「事実」ですべてを塗りつぶしたので、私ですら何も言えなかった。
翌日。武道場のメンテナンスは続いていた。私は早く弟の顔が見たくて家路を急ぐ。実はあのあと顔を合わせていなかった。いじめに気づかなかった気まずさから距離を置いていたのだ。だがそれは良くない、やはり謝ろう、そう思って家路を急いだ。
だが、遅かった。あまりにも、遅すぎた。
「事故、ですな」
駐在の警官がそうつぶやく。でも、
「事故だろう?」
と先に言ったのは渡辺家の当主である私の父。警官とてそれにうなずくしかない程度の権力が、地方議員を務める父にはあった。
私が帰宅した時、弟の姿も、家人の姿も見えなかった。弟が部屋から消えていたことにお手伝いさんが気付き、家にいる者全員で捜索された。私に連絡が来なかったのには腹がたったが、私とてその程度の存在だったってことだ。しかし父は日が暮れてからのこのこやってきて、ガードレールの奥に横たわる水路の中から意識がない状態で発見された弟に会うことも、詳しい事情も話すこともなく、事故だと言い切ったのだ。
水路には、大人が飛び越えるのすら難しい柵、そう、自分からよじ登らなければ越えられない柵があったというのに。そして部屋には、明らかに弟の字で、こんな置き手紙があった。
「ごめんね」
分かっている。「格式ある」渡辺家の子どもがいじめを苦にして自殺を計った、そんなことが世間に知れては恥である。ましてや議員はもちろん、PTAや教育委員会にも顔が利く存在の父にとって、顔をつぶされることとなる。それを恐れた父は、弟が事故に遭ったということで片付けようとした。
自ら飛び込まなければ到達不可能な水路で、もがいた形跡もなく、あたかも眠ったまま落ちたかのように発見された弟。何らかの薬物を飲んでいたとも思われる嘔吐のあとすらあった。そして間違いなく本人の筆跡による「ごめんね」の文字。答はひとつしかあり得ないというのに。
そして弟をそこまで追い込んだのは、いじめた連中もそうだが、それ以上に、そのことを隠蔽し、すべての責任を弟に押し付けた父を始めとする大人たち。
多くの人数が集った時に使う畳の間。壁に一枚の写真が飾られていた。ある年の正月に町の写真館で家族全員の姿を撮影したものだがそこに弟はいない。病弱なので寒い時のお出かけはなるべく控えさせたいというのが表向きの理由だったが、私にはもうわかっていた。実のところは「他所の女に産ませた」弟の存在を残しておきたくなかったのだ。
そして今、その写真の下に家族が集い、宴も同然の食事に興じている。名目としてはここ数日病院や警察などの用事で走り回ったことへのねぎらい。その顔ぶれは写真の中にいるのと寸分たがわない。少なくもなければ、多くもない。
そう。弟だけが、ここには、いない。
写真は私の手の届く所に飾ってある。額縁から外して手に取る。先程から楽しそうな会話に花を咲かせていた家族たちはそれには気も留めず、この宴を楽しみ続けている。弟の不在などどうでもいいことかのように。否、弟など最初からいなかったかのように。
「な、何をする!」
父の叫び声が部屋にこだまし、それを合図に宴は終わりを告げた。
私は、手にとった写真を破っていた。弟が居ない家族団欒など私には意味が無いし、弟抜きで残された幸せな家族を演じる家族写真もただの虚飾でしかない。
「なんてことをするんだ! これは仲良い家族の象徴だぞ!」
そういう父に続いて家族の皆が私を責め立てたが、遅かった。私の手元からは、粉々になった写真がこぼれ落ちていた。
「ねえ謝りなさいよ、謝ったほうが、あなたの身のためよ?」
母はそうやって間に入ろうとする。しかし私を心配したように見せかけて、その実父の側について私を懐柔するという態度が余計に私の心を逆なでした。ストレートに罵倒の言葉や嫌味を吐く兄たちはその点正直ではあったが、私を精神的に追い詰めるものであることに変わりはなかった。しかし、
「まあ、よしとしよう。若いうちはちょっとした癇癪を起こすこともある。理由もなく、な。食事を続けよう、せっかくの美味い料理が冷めてしまう」
父の思いもかけぬ裁定により、私の行為は不問とされた。だがそれは、尚一層私の怒りを増幅させた。理由が無いはずが無い。弟への思いが生み出した怒りの表出。それをただの気まぐれであるかのように片付けてもらいたくなかった。
「!」
今思えば、高級木材で出来た重いテーブルを一瞬のうちに宙に舞わせる力がよく私の腕にあったと思う。割れた皿の破片が飛び、父の額から血が出たことはあとで知ったが、そんなものは相応の罰にすら遠く及ばないと思うのみだった。
私が食べ物を粗末にしたのは、その一度きりだ。
3
弟は一命を取り留めたものの、重い障がいが残った。手足は勿論のこと、全身が麻痺し、言葉も発せなかった。そして、太陽よりも眩しいあのほほ笑みは、二度と戻らない。
高校時代の最も辛い思い出を反芻していた私の前に、リハビリを終えた弟が現れた。無言だったが、額にうっすらとにじむ汗がその厳しさを物語っている。弟ときたら苦悶の表情だけはちゃんと出来るので、リハビリ中に訪れるのはあまりに辛い。終わった時間を狙ってくるのはいつものこと。こんな辛いリハビリをやっても現状維持がせいぜいで、希望の見えない仕打ちに耐えている弟は実は強い心を持っているのではないかと思う。
埼玉に来る用事があると必ずここに寄っていた。弟は地元の病院からほどなくこの病院に移された。同じレベルの病院が地元の県にもあることを考えれば、これは厄介払いだ。大学進学を理由に上京したのは、田舎の窮屈さから逃げるためと同時に、弟を見舞うチャンスをより多く得たかったからというのもある。
ただ弟はしょっちゅう私が来ると嫌な顔をする。分かっている。私が罪悪感からここに来ていることも、来れば私が尚更苦しむことも知っているのだ。だから私は基準を設けた。どこかに旅に行ったあと、そのみやげ話を聞かせに行く。もともと大学で歴史を専攻したのも、史料さがしと称して全国を旅できると踏んだからだ。もっとも授業はそっちのけでバイクを転がしてはあちらこちらに行っていたのだが、むしろ弟はそんな私のみやげ話を喜んでくれた。ただその最後には必ず悲しそうな顔をして私を見つめる。
弟には渡辺家のお手伝いから専門の介護役に回ったおばさんがずっと付き添っている。この人はあの狂ったような渡辺家の中で唯一良心を持っていた人で、いつも他人の目を盗んでは、私と弟にお菓子をくれたりしていた。もともと身寄りがなくて住み込みの仕事を始めたという経緯から家の中でも一段下に見られていたようだが、私達にとっては頼もしい存在だった。その人が、いつもこう言うのだ。
「この子は、史菜お嬢様に人生を楽しんで欲しいと思っているのです。自分のところにばかり縛られてほしくないんでしょう」
弟は、いつもそれを聞いてうなずく。
弟の顔から表情は消えていたが、澄んだ瞳は残っていた。私は金子とのことを誰かに洗いざらい話したかったが、今はやめた。顔も知らない、いち女子大生とのあれやこれやを聞かされても弟にとってはいい迷惑だろう。
だが、私が精神的に落ち込んでいることはすぐに察せられたようだ。確かに凹んだ時、彼の顔を見て元気を出すということは今までにもあったが、見てすぐ分かるような浮かない顔をしていたのかもしれない。
弟は机の上にある紙片と鉛筆をとる。指先の力などほとんど残っていないが、渾身の力を込めて書くことはいつも決まっていた。
「ねえちゃ たのしい ほく うねし ~」
姉ちゃんが楽しいと、僕も嬉しい。昔からの口癖だ。だから私はせいぜい自分の人生を楽しんできた。けれど今日はそれで終わらなかった。
「ねえちゃ わるし あい」
平仮名が完全に崩れているが、解読することは出来る。
「姉ちゃん 悪く 無い」
そうなのか? と聞くと、うなづく。麻痺しているはずの顔の筋肉が、微笑んだように見えた。
私は再びバイクにまたがっていた。
面会してから一定の時間が経つと、弟はいつもほとんど動かない手で必死に時計を指差す。早く帰れば、というサインだ。私にとってこの見舞いが苦行であることを知っているから、罪悪感にさいなまれながらやって来る私に対し、
「もうこれ以上苦しむことはないよ。姉ちゃんの顔が見られただけでも嬉しいよ」
そいういうサインを送るのだ。言葉が発せられるならば、そう言うに違いなかった。だから私はいつも、そこそこのタイミングであの場をあとにするのだった。
高速道路に乗ると、一層寒風がしみる。私は再び、昔のことを思い出していた。
4
私の大暴れはたちどころに村人の知るところとなったが、これまた父の圧力で実質的な緘口令が敷かれていた。
タクシーを拾い、繁華街に出る。クラブとバーとライブハウスが一緒くたになったような店で夜を明かした。酒に手を出す勇気は無かったが、未成年がこんなところにいれば必ず捕まるだろうと思っていた。
しかし何事も無く朝になり、閉店の合図とともに私は店を出る。今思えば渡辺の娘がどこそこに行くという話は大人たちの間で通っていたのだろう。私は制服を家から取ってくると何事もないように登校した。誰もゆうべのことに触れない。教師からも何の話もない。結局普通に授業を受け、帰宅する。弟は面会謝絶になっている。お手伝いさんが夕食を部屋に持ってきてくれ、同時に高校に近い市内にアパートを借りたと知らされる。通学が遠くて大変だろうという表向きの理由に何の説得力もなかったが、こんな家から離れていられるならと、それを聞き入れた。
そして私は普通に高校を卒業した。東京の大学に行きたいという願いもあっさり聞き入れられた。乱暴者がいなくなってくれれば良い厄介払い、との気持ちが家族皆にあったろう。ただし、大学に行くという選択肢は私にとっては降って湧いたようなものだから、何を学ぶとかいうことは考えていなかった。そのとき思い出したのが、あのおじさんだった。
新年会の時ごとに会っていた長髪のおじさんは、私が中学を卒業する年から顔を見せなくなる。風のうわさでは国外退去になったとか言うことだった。死んだとの報は届かなかったので、大人は居場所を把握していたのだろう。
私は大人になったら、そのおじさんの居場所を突き止め、弟と一緒にそのもとへ転がり込もうと決めていた。もちろん一匹狼のおじさんが私達を受け入れてくれるとは限らない。そのときには私と弟でおじさんよろしく世界放浪の旅に出る。
だがその夢は破れた。弟はもう病棟から離れられないし、おじさんは行方不明。将来の設計も何もあったものではなかった。とりあえず入学したあとで専攻を選べる大学に入った。
ところが、大学に入ってしばらくして、そのおじさんから突然便りが届いた。とある発展途上国で妻を見つけた、子どももいる、こっちは貧しくてそう簡単に日本への旅費が出せないが自給自足で元気に暮らしている、いつか遊びに行ける時が来ればいい、と。エアメールに同封された写真には、短く髪を切りそろえたおじさんと、力強く日焼けした女性と、元気そうな子どもが写っていた。嬉しくて近況を便箋からあふれるほど書いて送りたかったが、やめた。そうすればどうしても弟のことを書かなければならなくなる。おじさんに余計な心配はかけたくないし、それは弟も望まない。
「奥さんキレイじゃん、子ども可愛いじゃん」
とだけ葉書に書いて、送った。
そのかわり、私は歴史を専攻することに決めた。おじさんは旅好きであるとともに、その土地の歴史の話もよくしてくれた。そういう、その土地の歴史を尊重する姿勢があるからこそ、現地の女性と結婚できたのだと思う。おじさんみたくなるには、私も歴史を学ぼう。旅に関係ある学部学科はいくらでもある中、私の学科選びはそうやって決まった。
でもやがて、おじさんのことも私は気にかけなくなった。弟のことは頭にあったが、つとめて深く考えないようにしていたし弟もそれを望んでいた。大学生としての暮らしは忙しかったが、勉強熱心では断じて無かった。歴史を学ぶといっても机の上で本を読むだけの授業は私にとっては退屈で、それは教授の無味乾燥な講義もあいまって、入学前の期待をしぼませるものでしかなかった。
だから授業に出るよりも、アルバイトしていた時間のほうが多かったかもしれない。そのおかげもあって学費を除けば実家からの仕送りは意地を張ってほとんど手を付けず、弟のもとに送ることが出来た。自分はそのうち中退するだろう、そんなことを漠然と考えてはいたが、実現はしなかった。
今思い起こせば、なんだかんだで私は周囲に支えられていた。柔道部はあったが体験入部段階で体育会の上下関係が臭ってきたのでやめた。具体的には「俺の酒が飲めないのか」と迫るセクハラ先輩部員に対し、「ああ飲めねえよ! テメエみたいな人間のクズの酒なんか命が惜しくて飲めねえよ!」と言い返すと同時にそいつを巴投げで投げ飛ばした。もちろんチャラチャラしたサークルなど問題外。ゼミは必修なので入ったがめったに出席などしない。
それでもなぜか私のもとには、救いの手が差し伸べられていた。出た覚えのない授業に私が出席したことになっていることがよくあり、渡辺は先週声がかすれていたが風邪でも引いてたのだな? と担当教員はほくそ笑む。試験前に登校すると私がいつも座っている窓際の一番後ろの席にノートのコピーが置いてある。本番でもテキスト持ち込み可の試験では必ず隣に世話焼きの同級生が座り、右手で鉛筆を滑らせながら左手の人差し指が教科書に引かれた赤線を執拗に示してくる。
おかげで私は何とか留年もせず四年まで進級できた。ただ卒論はこれまでの試験とは段違いに高いハードルだ。こんどこそ断念することを覚悟したが、趣味としていたツーリング一人旅の途中立ち寄った(実際は路銀が尽きて助けてもらった)神社の家族と親しくなったのをきっかけに、神社とその村をテーマに卒論を書くことにした。
神社のしきたりはあまりに特異だった。二礼二拍一礼をはじめとする他の神社で行われている参拝の作法は存在しない。お守りなどは販売されず、かわりに神の娘と呼ばれる少女が直筆のお守りを必要とする村人にただで授ける。この神の娘は神使である。つまり普通は狐や鳥などの動物が務めるとされる神様のお使い役を人間の娘が担っている。しかもフタを開けてみれば彼女は「娘」ではない。神使になる条件を持って生まれてきたのが男子だったとしても女子として育てるのが習わしだからだ。
その村の変わったところは神社だけではない。外国出身者が人口の多くを占める村には西洋の習慣が入り込み、それは日本の伝統的な価値観を融合し独特の文化を作り出していた。そんな村のありかたは人の好奇心を呼び覚ますには十分だ。
大学で歴史を学ぼうとした動機がよみがえった。あの世界を飛び回っていたおじさんのようになりたい。それがこの村でなら実現できる。だってこの村こそが「世界」だからだ。
夏が終わり、いったんは木花村を離れた私だったが卒業に必要な単位を取る見込みを立てて戻ってきた。それは卒論をこの村で、この村の歴史を題材に書くことに決めたからだ。必要な史料には不自由しなかった。ここは図書館や資料館が小さい村にしては充実している。職員は知識が豊富で、たとえそこに無い史料でも「こんなものが欲しい」と訊けばどこにあるかを調べてくれる。私が求めていたものは村に唯一ある中学校にあるということだった。それを見られることになったのはありがたかったが、反面私としてはあまり居心地の良くない日々が始まった。史料は禁帯出なので、毎日学校に通ってそれを閲覧しなければいけなかったのだ。学校というところは私にとってはどうにも合わない場所だし、その窮屈さには学生時代を通じて辟易してきた。自分が中学生なわけではないが、決して学校という場所の雰囲気に馴染めるわけではなかった。
といっても、学校という場とその持ち物を借りている以上、一定の礼節は尽くさねばならない。授業や教務の合間に私の相手をしてくれたのは年配の社会科の先生だった。そもそも教師という職業の人間というだけで毛嫌いしていた私はあくまで事務的に接していたのだが、向こうはそうは思っていないらしく私に色々と世話を焼いてくる。このくずし字は筆者の癖が強いがこう読む、ここに書いてある場所はあそこの角の、等々。最初は正直鬱陶しかった。しかしそのあり方が親身であり、いつの間にか私もその人を頼るようになっていた。
先生のもとには、よく生徒がやってきていた。私が間借りしていたのは職員室の隣の相談室という部屋。自分の学生時代には、その名前の部屋は教師の説教部屋だったので、一番居心地の良くなかったところだ。しかしここの生徒たちはそんなこと気にも留めずに入ってくる。そもそも相談室が私の知るような機能を果たしておらず、それはとりもなおさず、そこの生徒たちが悪さをしないということだった。
彼らが来る理由は、授業の質問はもちろんだが、単に遊びに来ているだけの者もいる。とりとめのない話をしては帰っていく彼女たちに対し、失礼を承知で言えばオバサンを通り越しておばあちゃんといった風情の先生がうまく相槌をしながら聞き役をしつつ適当な箇所で反応する。思わず、見とれてしまった。
「…どうか、しましたか?」
そう問われて我に返った。
「…いえ、生徒がよく来るなあ、と…」
それだけで、私の疑問の意図は通じたようだ。
「まあ、珍しい光景でしょうね。教師と生徒がこう分け隔てなく存在するというのは、この中学校くらいのものでしょう」
私の学生時代、教師は生徒のはるか上に君臨し、抑圧を行なっていた。そんなイメージがあるから、教師が生徒と同じフィールドに立つことには意外な気持ちだった。なのにここには最初から垣根も何も無いという感じだ。ふと夢想してしまった。もし私が、ここの生徒だったら…と。
ただ一方で、心配もある。教師にしてみれば生徒が暴走したり、いうことを聞かなかったりして、手は焼かないのだろうか? だからつい、こんな質問をぶつけてしまった。
「…はぁ、すごいですね。でも、生徒を叱る必要もあるでしょう」
ただこれは、質問してから後悔した。自分の中に、そうやって好き勝手やっている子どもたちへの嫉妬心があることは否定できなかったからだ。しかし先生の答はをれを優しくもみほぐすかのようだった。
「もちろん、叱る時は叱りますよ。でもここの子どもたちは、悪いことは悪いとすぐ聞き分けてくれます」
しかしその答は理屈としては納得できなかった。あまり教師が手綱を緩くしていると、生徒は暴走しないだろうか? だがその疑問を察するように、先生は答えた。
「こちらがちゃんと理由をつけて説得すれば、子どもは必ず応えてくれます。むしろ厳しく押し付けるようにした時のほうが反発してしまうようですね」
そういうものかと思った。確かに子供の頃の私にもそういう傾向はあったかもしれない。押さえつけられ、管理され、その積み重ねが私を跳ねっ返りにした点は否定出来ないだろう。それよりも、何よりも。
生徒を厳しく「律して」きた私の母校の誰も、弟へのいじめを止められなかった。
「…ここの子達が、うらやましい…」
つい口をついた本音。それはかすれるような小声であったので、先生には聞こえていなかったかもしれない。先生は話を変えた。
「ところで、卒業後の進路は決まっているのですか? 教員免状の過程は取っていらっしゃる?」
文学部の就職は悪い。これが文系学部生の通説であり、そのリスクヘッジとして教員免状を取る学生も多くいる。実際は少子化などもあって教員採用とて狭き門なのだが、何も資格が無いよりは良いのだろう。といって教師嫌いで授業嫌いな私が単位をとる最低限意外に授業を受けるわけもなく、教職課程なんて自分とは違う世界の話だと思っていた。だからとりあえず私は答えた。
「…いろいろあって、教員にはならないつもりです」
教職課程を取っているかという問には答えていないのだから、嘘はついていない。ただはっきりノーといえる雰囲気ではないものをどこか感じて、歯切れの悪い対応せざるを得なかったのだ。
「…そうですか、残念です。私の後継者がいればと思っていたのですが」
思わずいぶかしげな雰囲気で聞き返した。
「…公立の学校って、辞令で配属が決まるのでは…」
公立学校の教員は自治体の一括採用。小中学校を公立の学校で育てば教員の異動という場面には必ずぶつかるから、常識的な知識だと思っていたのだが。いや、むしろそれより驚いたのは、話の流れから察するに。
私をその、後継者にしたいと?
「もうすぐ、私は定年なのです。その後は郷里に帰ろうと思っているのですが、この中学校の、いやこの村の精神を受け継ぎ、やっていける先生が出てきてくれたらと日々思っていたのですが」
先生は続けた。この中学校の特色、生徒との垣根がないというのは、教師にとって大変な面もあるらしい。
「ここの子どもたちは本当によく授業を聞いてくれます。余計なおしゃべりをしたり、授業の邪魔をしたりということはありません。そのかわり、こちらが手を抜いたり、間違ったことをすれば、生徒たちは必ず突っ込んできます。そうやって理屈で攻めてこられることに抵抗する先生方も多いようですね。生徒の問題行動はこの村、飛び抜けて少ないです。でもそのかわり、大変な部分は多いですよ」
生徒が自分で良いことと悪いことを峻別し、行動する。それはヨーロッパの規範意識が強まって子どもに適用されたのだろうと先生は言う。だがそれは、そういう慣習に慣れない教師には大変であるらしい。むしろ授業を聞かないで悪さをする生徒のほうがかえって与し易いという教師すらいるという。
「きちんと授業に向き合ってくれる生徒より、授業を聞いてくれなくてもいいから無難に済ませてくれる生徒のほうがいいと思うんでしょうね。そういう大変さがこの中学校への赴任を躊躇させる原因にはなっているようです。私などはもうすっかり慣れてしまいましたが、最初は随分面食らいましたよ」
もちろん、この村は比較的交通が不便だとか(少なくとも県の中心部からは非常に行きづらい。そして人口の多い県の中心部ほど大学生も多い。当たり前の理屈だ)、冬が寒いとかも影響はしているのだろう。ただいずれにせよ、言えることがひとつある。
「…後継者といっても、そう簡単に思いどおりの人が見つかるわけは…」
そう考えるのが自然だろうという思いが、私にこんな質問をさせた。しかし。
「自治体に雇われている立場なら辞令をそう簡単に拒否できません。でも希望を言うことはできます。仕事がやりやすそうな学校には人気が集まりますし、逆に赴任を希望する人が少ない学校というのもあります。交通が不便である場所が多いですね」
それはたった今私も思ったことだ。木花村は高原に開けた村で、駅からもバスが必要。決して便利とは言いがたい面がある。だが、それだけが理由ではないという認識でも、私達は一致していた。
「ほかとは違うスキルを、木花中の教員は求められます。それが敬遠される理由ではあるのでしょう。逆に言えば、ここを希望すればたいがい通ります、ここだけの話ですが。そして」
先生は、私をじっと見て言った。
「研究熱心で、木花村のことを知ろうという努力がすごい、あなたになら、ここの教師が務まるはずです」
百パーセントそのつもりが無かったと言い切れば嘘になる。理由は真耶の存在。彼女はあまりに利発であり、いずれこの中学校に進学してきたときに勉強を教えられたら面白いとは思う。ただ私は教員免許を持っていないし、居候という立場とはいえ家族のように接してきた真耶と師弟関係になるのは問題があるだろう。身内という感覚を教育の場に持ち込むのはどうなのだろう。
だがそれについては問題ないと先生は言う。もともと知り合っていた同士が師弟関係になることを禁じるような決まりはないし、公私のけじめをきちんとつければ問題無いという。そもそも私立の学校では生徒と教師が肉親なんてことはままある。それに、
「天狼神社はこの村の人々の支え。そしてそこの神使様は人々の憧れ。そんな彼女を見守ってあげられる人が必要なんです。天狼神社で彼女を見てきたあなたには適役だと思いますよ」
そうやって私を信頼してくれるのは嬉しい。でも生徒は真耶だけではないし、真耶以外の生徒を良い方へ導いていく自信はない。そもそも自分ひとりですらまともな道を歩めなかったのだ。先生は私の過去を知らない。こうやって史料とにらめっこしている私しか知らない。おそらく私の評価を誤っているのだが、ストレートに自分の昔を打ち明けるのには抵抗がある。だから、おそるおそる切り出した。
「…でも先生…私、そんな真面目な生徒ではないですよ。こうやって今は真剣に勉強している振りしていますが…」
「知ってますよ」
「でも、いろいろな経歴を持った大人が近くにいたほうが、子どもは視野が広がります。学校嫌いの先生というのもいていいじゃないですか?」
開いた口が塞がらない。私が不真面目な学生であることはお見通しだったとは。
「分かりますよ、一応何年も教師やってるんですから。随分と遊んで来られたのでしょう?」
頬杖をつけながら、ニコニコと話す先生。私の正体を見破って、意地悪っぽく振る舞いっているかのようだ。だが、
「でも、あなたからは辛いことを乗り越えて来た人の持つ優しさが感じられる。それに、天狼神社にずっといるのは居心地が良いからでしょう? それは、あなたが天狼神社に受け入れられる人の良さを持っているからです。それを見ぬいたのは神様であり、その意志を受け継いだ神使様です」
そんなに持ちあげなくても、と言おうとしたが、先生の言葉は止まらなかった。
「例えば、自分の大事な人は何が何でも守る。そんな気持ちをお持ちなのでしょう? だからあなたは、本当に悪いことはやってこなかったはずです」
はっとした。不意に、弟の笑顔が思い出された。自分がろくな人間だとも思っていないが、そう、確かに私は弟が傷付けられるのが嫌で、何が何でも守ってやりたいと思っていた。いじめっ子に制裁を加えたこともあるが、それとて自分は正しいと思ってやったことだ。だから先生の締めくくりの言葉に、ゆっくりと頷いていた。
「卒業したあとでも、教職の単位は取れますよ。やってみませんか?」
その後私は卒論を提出。教職課程は大学院でも取れるというので進学を決意し、何とか院試に合格、担当教授の後押しが裏であったことは後から知った。修士課程を終了し、教師になるわけだが、その後も問題児であることに変わり無かった。配属された学校でもトラブルばかり。二年の初任者研修期間が終わるとすぐさま選択を迫られた。辞めるか、閑職を自ら選ぶか。私は迷いなく答えた。
「木花中へ、行かせて下さい」
5
黒々とした秩父連山も、上部は雪を冠っている。高速道路の進行方向に聳える赤城山とその向こうに控える上州の山々は言わずもがなで、その向こうにはひときわ真っ白な山体を誇る浅間山が見える。
ヘルメットのスリットから入り込む冷風が目を刺激したのか、涙ぐんできた。そういうことにしておきたい。自分が教師を志したときのことを思い出して、ついおセンチな感情が湧き上がったとは、恥ずかしくて認めたくはない。
教師になれた私と、なれなかった金子。その違いはなんだろうか。真面目さでは金子のほうが明らかに優っている。しかしそれだけでは教師になれない。だいいちどんな職に就くにも選考というものがあり、それを通るしたたかさが必要だ。金子にはそれがなかった。というだけのことだ。
…馬鹿。私の馬鹿。そんな簡単に割り切れるわけがないだろう? あんなに熱心で生徒思いで、生徒と同じ目線に立てる金子あづみ。彼女が受からない選考のほうがおかしいのだ。そんなのだから、日本の教育はダメなのだ。
…。
違う。責任転嫁だ。
私の指導が良くなかった。そうに決まっている。私は賢く立ちまわるための戦略とか戦術なんてものを嫌い、それをあえて教えて来なかった。今思えばそれはいくらでも出来たというのに。自覚して避けていたのかって? そうではない。だが、そこに触れようとしなかったのだから同じ事。無意識のうちに自分のポリシーを優先し、眼の前にいる金子の幸せを考えてやれなかった。未必の故意みたいなものだ。そうに決まっている。
就職活動は自己責任。わかっている。そんなことはわかっている。でも、そうやって切り捨てられるのは赤の他人だけだ。私にとって金子あづみは、私が教壇から接した最初の生徒。その縁を台無しにした罪からは、どうやっても逃れられない。
木花中に戻って来ることが決まったあの日、私に教師という道を示してくれた先生に知らせようと思って筆を執った。返事は返ってきた。その筆跡は明らかに先生のものだった。史料を読み解くにあたって何度も教えを請うて、口で説明できない答を自分のノートに書いてもらっていたので間違いない。だがその筆致は明らかに勢いを無くしていた。ただ、
「ありがとう」
という文字だけは、大きく、力強かった。
数カ月後、先生の家族から便りが届き、私はその弱まった筆圧からこの結末を察することが出来なかったことを大いに悔やんだ。すぐさま旅支度をした。仏壇の前で手を合わせたあとに、先生は在職時から癌に冒され、転移を繰り返していたと聞かされた。私が初めて出会ったその頃には、もう自分が長くないことに気づいていたのだ、きっと。
私に教師という道を示してくれたあの先生。あのように私もなりたかった。でも、結局、なれなかった。それどころかそう思う自分のエゴで、ひとりの教員の卵を潰してしまった。
どう償うか? 分からない。自分では、どうすればいいのか分からない。混乱が自分の心を襲う。
サービスエリアにバイクを滑らせる。ヘルメットを脱ぐのももどかしく、携帯を手に取ると、電話した。ほどなくして相手が出た。いつもののんびりした声。それは私を安心させるものだったから、ひと呼吸すると、甘える子供のような口調で切り出した。涙声であることも分かっていた。
「…せっちゃん、助けてよ…」
6
金子家の夕餉は、皆が済ませた後に私だけ別にいただくのが慣例化していた。家族仲は良かったほうだと思うが、それが一気に崩壊したのは、私の対人拒絶があまりに唐突かつ極端で、誰もが戸惑っていたからだ。それだけ私の心の扉は固く閉ざされていたし、その傾向はますます強まっていた。渡辺先生には悪いことをしたと思うし、家族とも早く今まで通りに接したい。でも出来ない。変な面子もあるし、自分が負けたことを認めたくない。自分は実力のない、ダメな人間。就活一つまともに出来ない、社会人失格の人間。教員がダメなら、そしてそれが面接によるものなら、一般企業だって無理だ。無理に決まっている。
そんな自己嫌悪が私を繰り返し襲った。自分はできるという自信の反作用。それはあまりにも大きかった。結局は自分で自分を追い詰めているだけ。それは分かっている。でも出口がわからない。もう、どうしようもない。
「ピンポーン」
夜も更けてからの来客は、うちでは珍しい。町内会の集金とかそういうものだとは思う。いずれにせよ私には関係のないことだ。そう思っていた。だが。
明らかに聞き覚えのある。のんびりした口調。
「金子さ~ん、入るわよ~?」
7
あの子も、私と似ている。人に助けを求められない。
でもここは、私が勇気を出す番だ。
優れた教師もたくさんいる。でもそういう人ほど疲弊し、消耗し、使い捨てられる。
渡辺史菜は意地っ張りだ。ええかっこしいで、そのくせ何かのきっかけですぐ崩れるハッタリ女だ。だって結局、高原先生に頼ってしまった。まだまだ私は未熟だ。
けれど、自分のつまらないプライドのために生徒に迷惑をかけてはならない。どんなに恥ずかしくても他人を頼り、最善の結果を招くことこそプロの仕事。だから、これでいい。今更金子の就職をどうこうは出来ない。だが、自らのふがいなさを認め、最善の手段を知っている誰かにそれを託すことが、私に課せられた使命。
教師としてまるで至らないことだらけの私を、高原先生はいつも支えてくれる。今年私が一年生というきわめて大事な学年の担任を任されたときも、副担任を買って出てくれた。経験からすれば本当は私が副担任になるべきなのに、だ。しかして私よりずっとキャリアがあるのに、私にせっちゃんというニックネームで呼ぶことを求め、着任当時年齢が近い同性の同僚がいなかった私と、友達のように接してくれた。短気で跳ねっ返りな私の性格を咎めたことは一度も無い。むしろその私を信頼する気持ちに応えようという思いが沸き上がり、次第に私は丸くなっていった。上と衝突するクセはなかなか直らなかったが、せっちゃんはそれを責めたりしない。そのかわり肯定もしない。いつしか私はしたたかに敵を操縦する術を教わっていた。
金子は、私に似ている。自分で色々抱え込み、悩む。正義を愛するが、そのやり方が愚直で、しばしば失敗する。
金子あづみという、私に余りにも似た不器用な教師の卵を、せっちゃんなら必ず導いてくれる。それを信じることしか、私には出来なかった。
宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第十七話
重い話となっていますが、渡辺の昔話はいつか書かねばならないと思っておりました。これほどスチャラカな大人がなんで教師になったのかってのは説明が必要だと思っておりましたので。次回からあづみにスポットを当て直しての話が続きます。