わたしは幸せ

「羊は飛び跳ねて空は青く」の続きですが前作を読んでいなくても大丈夫です

たのしい夢ならどうか覚めないで


 「最近、調子はどう?」
 「どこも痛くありませんしよく眠れてます。ご飯も食べれてます。あ、そういえばこの間船に乗ったんですよ。春の小川を友達と。ゆっくり進んでって。水面におひさまの光と桜の花びらがひらひら散っていって、とてもきれいでした。何話してたかはあんまり覚えてないんですけど、楽しかったですよ」
 「そう。他には?なにかあった?」
 「ああ、あと友達の家に遊びにいったんです。その子マンション住みなんですけど、ホテルみたいに各階に売店があるんですよ。赤い絨毯が敷いてあって。果物がとてもおいしそうでした。桃が売ってあって」
 「そう、楽しかった?」
 そういって目の前の女の人は綺麗な顔でわたしに微笑みかける。知り合いだ。こんな美人さんが知り合いで、最近よく会ってこうしてお話しをしている。友人たちで会ってわいわい騒ぐのも楽しいけど、二人っきりでこうするのも悪くないと思うの。
 「そういえばそのワンピース、とても綺麗ね。新しく買ったの?」
 「うん。ひとめぼれしちゃって。この青がとても綺麗でしょう。夏だしよく似合うかな……なんて」
 少女の青いワンピースは確かによく似合う。そよそよと、揺れる。まるで盛夏の青空のような。
 「ええ、とても似合ってるわね。……最近なにかそれ以外になんかあった?」
 「ううん、最近よく遊んでるからそれでいっぱいいっぱいで。恥ずかしいんだけれど。帰ってきたらすぐ寝ちゃう」
 そう言った少女の青白い顔は無垢な笑顔を見せる。明るくて、それでいて壊れそうな。
 「そうか。じゃあ、もうちょっと元気になれるように、遊んでも疲れにくいようにお薬調整しておくからね」
 「ありがとう!すごく助かる!ねえ、次はいつ来ればいいの?」
 「また一週間後、会いましょう」
 「そうね、ありがとう。本当に」
 そう言った少女は私にばいばい、と小さく手を振って部屋を出る。さきほどから隣にいる彼女の夫には目もくれなかった。
 「……先生、妻は」
 「よくなってきていますよ。悪夢も見ていないようだしそれに伴うフラッシュバックも無くなったんでしょう」
 「ええ、確かに最近妻は暴れたり怯えたり……そういうのは確かになくなりました。おやつだけじゃなくご飯も食べてくれますし、たまに思い出したように僕とも結構長い時間世間話をしてくれます。けど、あれは……」
 「多分、一種の逃避行動でしょう。彼女が自分の心を守るために、なるべく辛いことは思い出さないように、楽しい思い出だけをくりかえし思い出している。言動も幾らか幼い。人が重大な心神喪失状態に陥った際に一種の幼児退行を起こすことがあります。彼女はそうやって逃げることで自分の事を守って、心を癒しているんです。今はそこから少し成長したのでしょう。ここから先、彼女はある程度回復したら次第に現実に帰ってきますよ、心配なさらず、長い目で見てあげてください」
 「でも、先生、彼女は、僕の妻は。夢で見たことを現実だと思っているんです。妻は、船になんか乗ったことがないんです、一度も。小さい頃から大きな水たまりなんかが苦手で、修学旅行でも一回も船に乗ったことがありませんし、ホテルみたいに売店があるマンションなんかありません。それに、やはり僕のことを『顔見知りの親切なお兄さん』そう、思っているんです」
 「焦る気持ちはわかります。けど、今の奥さんは、そうするしかないんです。幸せな夢を現実だと思って暮らして、心を癒しているんです。そうすることでしか、前に進めない。それが終わるまで、もう少しだけ、ゆっくり彼女を見守ってやってください」
 「ええ、いつまでも、そうするつもりでいます」
 ありがとうございます。そういって私に頭を下げる。この人は本当に強い人だと思う。いつ夢からさめるかもわからない思い人を待ち続けるなんてまるで童話みたいだ。できるならそれがハッピーエンドであってほしいものだが。
 診察室から彼を送り出して少し目をやると彼は自分の妻にコートを着せていた。妻は少しふしぎそうな顔をしたけど、コートを着せてもらったのが嬉しいのか、夫に無邪気な笑顔を見せる。
 私はお大事に、そう言って彼女の薬の処方箋を書く。ずいぶん寒くなってきたものだとヒーターの温度を二度上げると、外にはちらほら、と真っ白い雪が降っていた。

わたしは幸せ

わたしは幸せ

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-08

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