烏は空を飛ぶ
現実と非現実の倒錯。烏は空を飛ぶ。実のところ、それだけで十分なのではないか。
縦書きで読むことを想定して書かれています。
2012/12/9-2012/12/11
烏は空を飛ぶ
その日は大変寝坊をした。そうであるから、なんだか講義に出るのも馬鹿らしくて暫くは布団の中でごろ〳〵していた。私は元来真面目な性分で、その日の様にちょっとした講習であっても無断で欠席するのは初めてのことであった。
布団から出た時、部屋の掛け時計はちょうど十一時を指し示していた。その時計はおおよそ五分早かったが、私は大抵その時刻を鵜呑みにした。その思考は普段ごく自然に生じ、意識の中に姿を現すことは稀であったが、しかしその日は、ああ、十一時五分前か、とこれはこれで素直に思考した。
講義へはどう足掻いても間に合わない。起きて見てもやはり講義へ出る気にならない。だからといって家にいるのも頗る退屈である。そこで私は幾らかのテクストを肩掛けに入れ、図書館へ向かった。
何故という理由はない。単に良い行き先を心得ていなかったまでである。図書館ならば、学校へ行く途中であり、即ち定期の範囲内であった。駅前の喫茶店で軽い朝食を済ませ、まっすぐ図書館に入る。
貸し出しカウンターに座る役員に軽く会釈をして窓際に席を探すと、辛うじて一つの空席を見付けた。私は机の上にテクストを広げ、ぼんやりと窓の外を見つめる。そうして時折我に返ったようにテクストを見つめる。しかし、全くと云って良い程その日は捗らなかった。遅く出た所為もあってそうこうする内に正午を過ぎていた。
昼飯は売店で済まし、午後は悪足掻きをしないと決め、窓際の席へと戻る。再びぼんやりと外を見る。暫くすると、うと〳〵と少し眠っていたらしい。はっ、として目を見開くと、窓の外を二羽の烏が優雅に飛んで行った。
半分夢の中の様な心地でその烏を目で追う内に自由に空を翔るそれらが羨ましくなった。二羽は番いだろうか。それとも、仲の良い友人同士だろうか。何れにせよ私にはそれら、否、彼らが〝格好良い〟と思った。
烏ばかり見ていても仕方がないと、多少意識のはっきりとした私がテクストに視点を下ろせば、明らかな違和感を覚える。初めそれが何か全く見当も付かなかったが、ふと窓硝子に目をやりその表面に薄らと映る像に焦点を合わせて私は目を見開いた。
そこに映るのは一羽の烏だった。もっとも、烏は元より真ん丸の目をしているから、目を見開いたと云うのも私の意識の中に留まってしまったが、とにもかくにも私はこれ以上無いと云う程に驚愕した。慌ててあげた声はしゃがれた〝がぁ〟と云う鳴き声に変わり、周りの者達は皆一様に迷惑な表情をした。
そのうち、貸し出しカウンターに座っていた役員が箒を持って私の方へまっすぐに向かって来た。何をするかと思えば、彼はその箒を私の上へ振り下ろした。驚いて羽を広げて飛び退くと、私の体はふわりと浮いた。先刻よりも辺りが騒がしくなっていた。皆私を指差しては、何やら忙しなく言葉を発している。しかし、私はその時既にそれらの言葉を解さなかった。喧騒から逃れる様に私は出口へ飛んだ。
何しろ、それは唐突且つ瞬間の出来事であったので、私が即事実を認識出来なくても不思議はない。しかし外に出た私は既に、烏、であった。恐らく、その半分夢見心地が災いしたのだろう。
私は烏と云うとあまり良い印象を持たなかった。私の意識の中にいる烏は、ゴミやら食べかすをあさり、巣に近づく人間を無闇に襲った。恐ろしく思うよりも寧ろ、その姿は哀れで惨めに感じられた。しかし、今日見た二羽の烏は気高くあった。それであるから、憧れを抱いた。彼らは飛ぶことを当たり前に捉え、当たり前のことに誇りを持っていた。今の私であれば、それを全身で感ずることができる。私は羽を広げて大空へと羽ばたいた。
ぐっと力を込めれば、ふわりと宙に浮く。聳えるビルディングに沿う上昇気流を掴み、一気にその頂上まで駆け上る。ぱあっと視界が開けて遠くまで見渡すと、今度は急降下した。風を切る。私は喜びのあまりに歓声を上げた。やはりしゃがれた鳴き声だったが今はその声にすら誇りを感じ、己の発する声にまた酔いしれた。
空を飛ぶことを許された生き物は恐らく、地上に縛り付けられた他の生き物達をみて疑問を抱くであろう。〝彼らは何故ああして狭い世界で暮らすことを許容できるのか〟と。しかし私はそのどちらとも体験したにも拘らず、その答をまだ得なかった。
やがて、日が傾き出した。私は烏でいることにもう疑問を抱かなかった。屈託することなく、曲芸飛行の真似事をしていると、目の前を一羽の烏が過った。目を凝らすとその烏は大変な美貌を持つ雌烏であった。家へ帰る途中らしかったが彼女は空中をぐるりと回り再び私の前を過った。私は彼女の後を追いやはり空中をぐるりと回った。それから暫く、私達はひら〳〵と宙を舞っていた。それだけで充実した心地がした。しかし日が暮れてくると彼女はまた、ひらりと身を翻し、山へ帰って行った。
気温が幾らか下がった。私は遂に疲れと空腹を感じた。地上に近い電柱の先端に留まると、地上の人間共は珍しげに私を眺めて行った。この時ふと疑問を感じた。烏は夜何処へ帰るのか。烏は何を喰うのか。それらはそう間を置かずに不安へと転じた。そもそも烏は宿無しで一文無しではないのだろうか。昼間の誇りは何処へ行ってしまったのか、代わりに私は敗北感を得た。しかし、敗北感では空腹は収まらない。仕方なく街中を彷徨い、喰えそうなものを探した。
地に落ちた喰い物を嘴でつまみながら、思考の中で自身を頗る哀れで惨めな存在へと追いやった。烏に身を転じてしまった可哀想な人間へと。しかし、暫くそうやって思考しながら喰い物つまむ内に、別な思考が芽生え始めた。烏は空を飛ぶ。実のところ、それだけで充分なのではないか。如何に喰い物に苦労しようとも、豪邸を持たぬとも、その事実だけで充分なのではないか。と。
それが私の最終的な、最後の思考であった。私はもう一度、闇に染まった大空に向かって大きく羽ばたいた。烏はしゃがれた声で〝がぁ〟と云って、闇に紛れて行った。
烏は空を飛ぶ
2012/12/9-2012/12/11
ちゃーりー・けい