神を見た

真っ暗闇の中にいる。何も見えない。ひどく不安だ。光が無いから見えていないのか、目が見えなくなったのか。どちらに進んでいいのか。止まっているべきなのか。何が何だかわからない。どう行動するべきか想像もできず、叫び出したくなる。
そこに一条の光。教えてくれる。いや、状況を推測する手掛かりになる。進むべき道。置かれている場所。ここで満足しなければならない事。
新聞で、事件、事故、天災の記事を読むのが好きだ。中でもより悲惨なのがいい。交通事故で死んだとか、それを起こした人間にまつわる話だとか。残された者と、加害者のその後の人生を考える。強盗、殺人、被害者の人生、加害者の人生に思い巡らす。自殺した人間について考えるのも良い。
他人の不幸が楽しいのではない。感情は動かない。
普段の生活にそのようなものが無い。無くて当たり前だ。日常にありふれていれば、新聞に載る事は無い。だから、それらがこの世に存在しないような気になる。しかし、記事を読み、無事である事が当たり前ではないと気付き、自分が事件、事故、地震に遭わなかった事に気付くのだ。そしてその幸運に感謝するのだ。いや、したいのだ。
何も無い事を願い、そして何も無かった。しかし、良い事も何もない。四十も半ばを過ぎて、人生の終盤にいると自覚している。日常に楽しみは無く、妻も子も無く、将来に何か目標があるわけでもない。労働の対価として金は得ている。たまっていくが、これを自分で使う事は無いし、受け継ぐ子孫もいない。労働の対価として何の楽しみも得ないので、その点では奴隷と結果としては変わりない。他人に束縛されているわけではないが、自由動き回る気力が無いので、結果として自由の無い奴隷と変わりがない。
 生きている実感が無いまま、時間だけが高速で過ぎ去っていく。食い止める術は無い。時間を食い止める術などあるはずもない。すべての事が遠い世界の出来事のように現実感が無い。夢の中の出来事のように、別に何がどうなってもいい。ただ、高い所から飛び降りれば、怪我はするし、それに痛みが伴う事も理解はしている。
芸能人になるだとか、高校野球で甲子園に行くだとか、昔は事件だったはずだ。が、長く生きると、そんな人間が数多くいる事に気付いて、一瞬の晴れ姿と気付いて、輝く未来への切符ではない事に気付いて、幻想が消えた。栄光の後は一般人と同じ、平凡な日常が延々と続くのだ。悲しい事件にも、昔は憤っていたが、今は何も感じない。欲しかった物が、自分の手元にある。自分が買った事は自覚できるが、なぜこんなものが手元にあるのかと不思議だったりする。買ってうれしいとか自分が所有した事における感情が無い。痛みも悲しみも喜びも感じていないようだ。
今は、重要で無い、すぐに消えてなくなる、記憶に残らない時間の連続だ。この時が思い出に残ることは無い。思い起こされることも無い。
欲より面倒が勝ち、何もする気が起こらない。欲が無いと言えば聞こえはいいが、自分のやりたい事が無い。自分の欲望が無いというのは生きていないのと同じ事だ。あの詩人は若くして、こんな境地に達していたのか。
車の運転に慣れて来ると、気付いたら目的地に着いていたという事がある。初心者なら道中を逐一覚えている。物語がある。人生に慣れてしまった。感動は年々薄れ、今は何にも心を動かされる事は無い。それは自分が望んだ境地だ。平穏に、ただ平穏に時間をやり過ごしたい。それが生きていない事と同じとしても。習慣を繰り返すだけが目的であり、望みだ。

陽の射さない曇天。濁った空気。
仕事が終わり、無表情な車列に追い越され続けながら、原動機付き自転車でトロトロと走る。早く家に帰っても、やりたい事は無い。真冬なので、モコモコしている。ある程度の寒さはしのげるが、長く外にいると、身体が冷える。しかし速度を出して、風を切るのも辛い。冬は嫌いだ。それでも早く春が来れば良いとは思わない。
大通りを走る。ゆっくりと。ゆっくり走るから見えたのかもしれない。自分にしか見えないのかもしれない。
交差点で神を見た。ひげを蓄え、長い髪を風になびかせる。中年だが、ひどく痩せて、そしてひどく男前だ。交差点の角に立ち、流れる車を歩道から身を乗り出すように眺めている。どちらの信号が青になっても横断歩道を渡る気配は無い。車は、神の横を通る時、誰も速度を緩めない。神もよける素振りを見せない。神は、真冬だというのに半袖に薄いズボンを穿いている。上は白一色、下は黒一色だ。それはどこにも売っていない。売り物になるはずもない、自分で作ったかのような、もんぺのように見えるズボンだ。車が珍しいようでもある。苦行のようにも見える。下界に下りて、人間の活動を見守っているようでもある。
私の人生は祝福されている。自分にしか見えない。神が。
神を見た自分は、見えない他人に対して圧倒的かつ完全な勝利を収めた。永遠の祝福を得たのだ。かつて権力者も金持ちも、どんなに望んで、その権力を駆使しても、どんなに金を積んでも得られなかったものを、私は得た。何もしていない自分が、それを得たのは、私が神に選ばれるべき特別な人間で、絶対の勝利者である証拠だ。
その日から、毎日同じ時刻に見るようになった。私が、同じ時刻にそこを通るという事でもある。
見ない日もあったようだ。実は、あまり気にしていなかったのだ。神を見たにも関わらず、次の信号までにはその事実を忘れていた。喜ぶべき事実なのに、感情は動かない。家に帰って思い起こされる事は無い。次の日に再び神を見て、昨日もいた事を思い出しただけだ。私は何故、この日常の中で神を見たのか。神は感じるものであり、見るものではない。見えるはずのないものを見たのは、見たいという願望のせいだ。虫は神を見立てたりはしない。
秋の収穫祭は、種が食糧に変化するという奇跡を目の当たりにして、神の存在を感じ、神を畏怖し、感謝を捧げるためのものだ。しかし、それが始まってから時間が経った現在、多くの人間は、神の存在を感じたりはしない。奇跡は奇跡ではなくなり、科学的に説明される。実りの無い冬が来ても、誰も恐れない。神の力より確かな保存技術を持っている。祭りは人が楽しむために行われる。露店での買い食いが目的でも神は構わない。神が人間の幸せを願うなら、幸せそうで楽しげな人間を見て、神は満足するだろう。

ある日、いつもは直進する交差点を左に曲がり、北上していると、神がいた。肘を直角に曲げ、腕を振り、握り拳を作っている。その動作は走っているという主張をしているが、歩くより遅い。ひどく苦しそうに。足元はふらついていた。どたどたとしたぎこちない動き。運動神経が鈍いようだ。あるいは栄養が足らずに衰弱しているのかもしれない。南下している。もうすぐあの交差点で、日課である、下界の見守りを始めるのだろう。
神は、突然に交差点に現れるから神なのであるが、目的地まで走っている姿を見ても、なお神だと信じた。いや疑う訳にはいかない。自分が神を見たかったから、そう見えた。自分は何を望んでいるのか。日常のほんの暇つぶしか。あるいは生活の劇的な変化か。私には、自己陶酔が必要なのだ。なのに、それを拒否するような事実を知った。動揺した。考え事をしていたという事だ。ただ漠然と。最後尾から先頭に躍り出る秘策を。神を見たにも関わらず、生活は変わらない。変化を望んでいないので、神がその望みを叶えたともいえる。周りの空気がおかしい事に気付いた。警笛がけたたましく鳴る。辺りを見回す。正面を見たのが、最後だった。信号は赤だった。後は何も見えていない。事故の心配と警察に捕まる心配を同時にした。しかし、恐怖は感じない。奇跡的に無事に渡り切ったようだ。気付いたら家に着いていた。神の存在を感じる。それは彼の威光か。もしくは本物の神が天上から守ったのか。

何も変わらず日常は続く。それはひどい幸運であるという事は理解出来る。大けがをしていたいり、死んでいてもおかしくはない。それでも生きている実感が無い。感謝の念も無い。思い出して、恐怖を覚える事も無い。何をどうすれば、感情が蘇るのか知らない。感謝が足りないと神の不興を買い、神を怒らせ、ひどい災いが私を襲うかもしれない。その事が気になってしょうがない。ひどく滑稽だと思う。秋の収穫祭はいいのだ。感謝が足りなくても、来年も実が実る。実らない場合は科学的に検証される。

雲一つ無く、晴れているのに空が青くない。年に一度ある鮮やかな青空の記憶を、本当の青空と認識してしまっているせいで、空が不完全だと感じる、ある土曜日。
変化の無い一日を過ごし、いつも通りに後悔をし始めるが、何をどうしていいのか分からない、午後四時。
いつもと違う場所で、知った顔を見る事は、別に珍しい事ではない。例え、それが赤の他人でも。
神を見た。今度は決定的だ。納得した。神は、いつもの格好で新聞配達をしている。しかも走って。まるで新聞少年ではないか。ここで仕事を終え、走って南下して、交差点で休んでいるのだ。時間がぴたりと合う。服装は単に動きやすいように。ただどこに売っているのかは不明だ。この一点から、まだ彼が神であるような気がした。下界で売られていない服を着ているのだ。そして人間の生活を体験しているのだ。しかし、別にどうでもいい。人生の勝利も含めて。

数か月後、すっかり忘れていた。だから、懐かしいという感情すら起こった。本物の神を見たならば、そのような感情は起こらない。古い新聞配達用の自転車で交差点に向かう神を見た。どこか自信に満ちた得意気な表情だ。最近自転車に乗れるようになったに違いない。
今度の週末は自転車で夕刊を配達する神を見る。それは予感だ。そして間違いなく当たるような気がする。その事実に意味は無く、当ったという事実がうれしいのだ。
いや、予感ではない。その姿を見たいという願望があり、それを神が叶えているのだ。何しろ私は神を目撃した特別な人間なのだ。
初めて夕刊配達をする神を目撃したのは偶然だ。しかし代わり映えしない休日を過ごす自分は、やはり土曜日、同じ時刻に同じ場所を通ったようだ。無意識に。
古い新聞配達用の自転車で夕刊を配る神を見た。待ち伏せしていたわけではない。またすっかり忘れていた。
想像通り、勤務先の自転車で家に帰る。もう古いし、自転車で新聞配達をする人間もいないので、販売店からもらったのかもしれない。通勤に使う事を許されたのかもしれない。
下界で神に一番近い場所は精神病院だ。だから彼は精神病院から退院して、社会復帰の第一歩なのだ。そして着々と進化し、身体を動かし、走れるようになり、自転車に乗れるまでになった。
下界で神に一番近い姿は、乞食だ。だから彼は、数か月前まで乞食だったのかもしれない。
神の働く姿を、しばらく眺めた。虫は、神を見立てたりはしない。植物も神を必要としない。それを必要とする人間が滅びれば神は消える。顔をよく見ると、ひどく醜い。あるいは神でなくなって、急速に醜くなったのかもしれない。
朝刊は配っていないのだろうか、と漠然と考えた。配っていても、早朝に外に出る習慣の無い自分は、遭遇する事は無い。
仕事を終えた彼は、家に帰る。窓から入る夕風に吹かれて、ごろんと横になる。寝ころびながら、テレビを見る。悩みは無く、宿題も無いので、気楽だ。子供の時の、理想の大人像だ。人間は、上に行こうとして不幸になるのだ。当座の生活費しかなくても、それに困らなければ金銭で悩む事は無い。溜まり出してしまうと、将来も金があるのかと心配になる。不安になる。元々なければ、将来の計画も立たず、悩みようがない。そんな生活を送れる大人は、貧乏でも、心が平穏ならば幸福だ。
神は、食う、働く、休むを繰り返し、人の手本となっている。

神を見た

神を見た

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-06

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