芋虫の祈り

入院中。亡き妻を思う男。

 八月四日。日曜日である。日曜日は、リハビリも、風呂やトイレといった小イベントも無い貴重な曜日である。だからいつもの日曜日の私は、前日服用した睡眠薬が齎す眠気に任せ、六時、十時と定められた導尿のタイミング以外はベッド上で起き上がろうともしない。だが、今日の私は違っていた。訳もなく体をベッドに起こしてみたり、殊勝に床上でも出来るリハビリの体操をしてみたりしている。先ほど大きな包みを持って部屋に入って来た母が訝しんでいる。どうやら、落ち着きを無くしている。
 八月四日。妻の一年目の命日なのである。本来であれば私が執り行う筈の一周忌は、妻の実家で執り行われている。妻の葬式当日に突然切り出され、半分押し切られた、と思い返すこともあった分骨の話も、私がこうなってしまっている現状を考えると、受けて良かったと思う。
 「お昼をお持ちしました。今日はカレーですよ~」
 看護師が昼食を運んできてくれる。私は食事を机の上に置いてもらい、看護師が完全に部屋から出ていったのを確認する。それから母に「出してもらっていい?」と聞いた。私の言葉に応じるように、母が机の上に物品を並べる。妻の位牌。妻の遺影。それから、妻の好きだったロースカツと小皿。私は位牌と遺影にそれぞれ手を合わせる。そして、カレーライスを少し小皿に載せ、その上にカツを一切れ。それを位牌と遺影に奉げているつもりなのだ。今頃は妻の実家で盛大に式が挙げられているのだろう。
 食事を終えると、位牌、遺影を母に片付けてもらった。午後は母の好きな『新婚さんいらっしゃい』を観てから、車椅子での散歩コースに出るのが恒例となっている。『新婚さんいらっしゃい』には、私と妻よりも年齢差の少ないカップルが「歳の差夫婦」と紹介されている。楽しそうな夫婦を見ていると、自然と妻との色んな出来事が思い出される。スウェーデンやフィンランドに旅行に連れて行かれたことなどを思い出していた。
 車椅子で病院の外に出る。空模様が怪しい事もあり、直射日光は当たらないが、それでも随分蒸し暑い。病室で半年以上過ごしている私には、外の気温というのはその時々で新鮮に感じられたが、今日の蒸し暑さはどこかで記憶にあるように感じられた。
 私はいつものコースを車椅子で回った。病院正面玄関を出るとまずは、今は使われていない、東側の閉められた入り口を目指し、そこでUターンする。そして林の中に続く脇道に入っていく。そこは舗装されており、車椅子でも侵入可能なのである。木陰の中一服した時に、母とする話はやはり今日の一周忌の話であった。林に植えられている芙蓉の花の白や赤に時折目をやりながら、何となくの話を母と続けながら、次の目的地へと向かう。
 次の目的地は、病院の西側に配置されているベンチである。この林からは結構遠く、この散歩道の中の一番の難所である。私は両手で乱暴に車椅子を漕ぎ、何となく急ぐ。単純に急いだ方が体力の消耗を避けられる気がしただけである。戻って来た病院正面玄関を無視し、目的地へと急ぐ。途中、甘い香りに少し気を取られる。スモモであろうか、大量に実を付け、落としている木がある事に気付く。母とその木についての感想を互いに交わして、目的地のベンチを目指す。
 目的地のベンチは空いていた。病院の西側の散歩道はベンチの配置が少ないため、結構埋まっている事が多いのであるが、今日は空いている。珍しいね、と母と言葉を交わしながら、私は別の事に気を取られていた。
 ベンチから更に続く緩い勾配の坂道の上、真っ白な猫がこちらをじっと見ているのである。これまでも毎週土日は散歩しているが、猫に出会ったのは初めてだった。猫がこちらを見ている。私も負けじと視線を猫に送る。猫も視線を返してくる。私は母に、あの猫を見ていると妻の事を思い出す、と、冗談半分に言った。すると母も同じことを考えていた、と返してきた。しばし沈黙する。
 沈黙を破ったのはやはり猫だった。猫が更にこちらに近づいて来たのであるが、その腹には新たな命が宿っているのが分かった。母が、にゃあ、と声を出して猫の気を惹こうとするが、猫は特段意を介するようでもなく近づいてくる。私はもちろん、妻が子供を欲しがっていたことを思い出している。
 頬に冷たい雫が当たるのが分かる。雨が降って来た。和君、行くよ、という母の掛け声を背に、私はまだ猫と見つめ合っていた。

芋虫の祈り

芋虫の祈り

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-06

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