恋鎖ボンベ

朝、起きたら息が苦しかった。喉に大きなビー玉でも詰まっているのではないかと疑ってしまうほどに呼吸が困難だった。昨夜からどうも寝苦しい夜だとは感じていたが、どうやら昨日の晩飯に作った自信作の親子丼が食道に取り残されているだとか、眠っている間にうっかり飲み込んでしまった十円玉が気道を塞いでいるだとか、そういうわけでは無さそうである。「げほん!」と女子力皆無の咳払いをひとつ噛ましてやったところで息苦しさは消えることなく、いつまでもあたしの喉元に居座っていた。
ついでに言ってしまえば、なんだか左胸の奥もずきずきと鈍く痛む気がする。「ああ、こりゃ大変だ、心臓まで怪我してる。」と普段使うことなど滅多にない埃を被った脳味噌が考える。息苦しくて、声も出ない。怪我した心臓が更なる追い討ちを仕掛けてくる。はてさて、如何にしてこのような事態になったのか。

「なにか怖い夢を見たか?」

自分自身に問い掛ける。否、あたしが見ていたのは良い夢だった。幸せで、現実味がなさすぎて、ふわふわした……そう、夢だ。あれは夢のような、夢だった。

「好きです、付き合ってください。」

汗ばんだ手でハンドルを握ったまま、助手席に座るあたしを見ることすら出来ずにあなたは言った。あたしは目を見開いてあなたを見つめる。でもあなたは恥ずかしいのか怖いのか、或いは両方だったのかもしれないけれど、俯いたままあたしの目を見てくれなかった。

「……はい」

あたしの声は震えていなかったかな。その答えを口にしたとき、あなたはようやく顔を上げてくれた。「ほんとに?」そう訪ねるあなたに小さく頷けば、突然力強く抱き締められる。「やった、やったあ!ありがとう、大好き!」あなたは子どものように喜んで、涙まで流していた。そうだ。そうやって、あたしたち二人の夢は始まったんだった。


(あ、やっぱり、心臓怪我してる。)


ぐりぐりと、親指の腹を心臓に押し付けられているみたい。血が出ているかな、かさぶたになっているかな、大変だ、絆創膏を貼っておかないといけない。呼吸がくるしい。目眩がする。


(夢を、見たい。)

(夢の中に入らないと、)


心臓も、呼吸も、止まってしまう。そんな気がした。


(ねえ。)


目を閉じて呼び掛ける。あなたの見慣れた後ろ姿が、一瞬だけ視界で揺れた気がした。けれどいくら強くまぶたを閉じてみても、その後は黒い世界に視界が支配されるだけ。


(ねえ、ねえ……)


心臓の怪我が広がっていく。ざくざくと蝕まれて、最後には握り潰されそうなか弱い心臓が痛くてたまらない。
まるで深海をさ迷っているようだ。ゆらゆらと揺れる暗い視界の中に、あなたを探している。


(夢みたいに一瞬だった。)

(夢みたいに幸せだった。)

(ねえ、もう一度だけでいいの。)

(あなたの夢が見たいよ。)


苦しい。痛い。だれか、あたしの肺に酸素をください。こんな暗い深海でも歩いていけるように、愛を吸引するためのボンベをください。


(お願い、お願い。)


チカチカと、あの日のメールが埃まみれの脳裏を過る。たった一行、ただそれだけ。それはこの世でいちばん冷たい言葉だと思った。



「友達に戻ろう。」



悲しい言葉だと、思った。

恋鎖ボンベ

失恋した女の子。
愛を失った男の子。

心臓を怪我した、という表現が使いたくて書きました。

恋鎖ボンベ

失恋、悲恋

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-05

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