泡沫のひかり

変化の兆しを求めるわたしの、迎えた朝の小話。

泡沫のひかり

 明け方まで降り続けていた雨も、目を覚ました頃にはすっかり上がってしまっていた。
 身を起して、そしてやけに物静かなことに気が付いた。誰もいない。ああ、そうか、祥ちゃんはまだ夜勤から帰ってきてないんだ。先日から、纏まった仕事が入ったせいか、帰宅が夜遅くなる事が多くなった。祥ちゃんは航空機器を製造する会社に勤めている。近年になって、新たに格安の航空会社が現れた影響もあり、作業は忙しいものとなっているのだ。残業として夜通し勤務する事もしばしばある。まだ慣れないせいか、こうして目が覚めた時、傍に人の温もりがないことに少し戸惑ってしまう自分がいる。長らく、そうした生活に陶酔していたらしい。
 もうそろそろ、彼が帰って来るだろう。
 朝食を作って、待っていてあげよう。
 微かに残る湿気を肌で感じつつ、カーテンを開けるとぴかっと陽気が差し込んだ。空はすっかり、晴れている。暖かい。季節の変わり目も過ぎ、景色は青々と茂り始めた。日中の気温も二十度を上回る日が増えた。薄いものを重ね着するだけで、十分快適──時たま暑いほどだ。
 ぐるっと部屋を見渡して、そして思う。窓辺付近の壁が変色し始めているのだ。ほんの数年前は真っ白だったのに。日焼けし始めているのだ。他の物件に比べ、家賃がやたらと安かったと思えば、こういうわけだ。材料費をケチって、安いものを使っているのだ。カーテンのレールの立付けは脆く、この間、自然と剥がれ落ちてきた。玄関の扉の下には隙間があり、隙間風はもちろん、虫が入ってくることもある。エアコンは古くて、運転すると室外機がガタガタと音を出す。メーカー名が改名する前、つまり一世代前のものだ。外見だけは綺麗に見える。けれど、すぐ廃れる。不動産屋の商売の手口みたいなものだ。ここを出て行く時、修繕費を支払うことを考慮すれば、もうワンランク上の物件を選んでいても損じゃなかったのかもしれない。
 正直な気持ちを祥ちゃんに打ち明けると、彼はそうでもないと言った。やっぱり、家賃が安いのが決め手らしい。
「でも、修繕費って四万八千円も出さなきゃならないのよ」
 不動産会社と契約した時に交わした書類の中に、そう記載されていたことを思い出した。
 ここを出ていく時がいつになるのかわからない。五年、十年。あるいはずっとここで暮らしていく場合だって考えられる。長い間住めば、傷のひとつやふたつ、必然的に付くものだ。
 ただ、わたしたちだって馬鹿じゃない。
 お金を払って借りている部屋だから、当然実家なんかより、うんと大切に管理している。滅多に汚したり、傷付けたりしない。それを素材の良し悪しで左右されるのは遺憾だ。
「向こうも、こうなることを承知の上で薦めたのかしら」
 まあ、家賃や立地場所的にここが一番だったわけだけれども。
 不平ばかり愚痴るわたしは、意味もなくザッピングを繰り返した。この時間帯は面白い番組がやってない。結局、ニュースに落ち着いた。
「誰だって考えることは同じだ」
 愛用のギターをぽろんぽろん弾きながら、彼は首を傾げた。弾いている曲はJohn Mayerの『Heartbreak Warfare』だ。アメリカのブルースロックミュージシャンで、音楽活動だけでなく、グラフィックデザイナーやコメディアンなどもこなしている。『Heartbreak Warfare』は昨昨年発売された『Battle Studies』というアルバムに収録されていたものだ。
 うーんと唸りながら、彼は訝しげそうに呟いた。
「やっぱり前より音が響かないな。見た感じ、錆びてる感じはしないんだけどな。そろそろ弦の張り替え時か」
「ねえ、どういうことなの」
「そこのさ、ベッドの壁面、見てみろよ」
 彼に言われたまま、微かに変色した壁を凝視してみた。
 すると程なく気付いた。
「あれ、こんな所に穴なんて空いてたかしら」
 わたしのちょうど目線辺りに、針で刺したような小さな穴を見つけた。ここに住んで幾分経つが、全然気が付かなかった。遠目だとまったく確認できないもの。
「それ、画鋲の痕だよ。多分、前住んでた人がカレンダーか何かを貼ってたんだろうな」
 手元に視線を落したまま、彼はさらに付けたした。PCデスク近くの壁だろう、冷蔵庫の裏側にもあったな。
 祥ちゃんが順々に述べていく箇所を、一つひとつ確認していく。信じ難いけれど、至る所に画鋲を付けていた痕跡が見受けられた。
「画鋲の痕って……駄目じゃなかったの。アパートで使ったら」
「そりゃそうだ。賃貸だからな」
「それなのに前の人は使ってたわけ?」
「ひとつやふたつの痕なんて、目を凝らさないと気付かないもんだ。現に美月だって、この数年間、一度も指摘しなかっただろう。そんなもんなんだよ。もっと探せば、傷とかあるんじゃないか」
 祥ちゃんはあっさり納得してしまったようだ。細かな事情より、今はギターの方が重要ならしい。音を確かめるように、同じフレーズを吟味するように繰り返している。彼には音の歪みがわかるようだ。音楽に疎いわたしにはさっぱりだ。全部同じ音に聞こえる。
 それにしても、どうも解せなかった。単純に前の人の無責任さに腹が立つ。なにより不正を隠し続けるということは、この先のまったく関係ない人に、自らの責任を転嫁するということではないか。それは大人として、どうだろう。
 誰だって考えることは同じ、か。
 わたしも、すでに見知らぬ人に責任を擦り付けられた身なのだが。だからと言って、その腹癒せ代わりに条件を遵守しないのはどうだろう。負の連鎖を続けていいわけがない。
「美月はさ、神経質なんだよ」
 返事に惑って、わたしは曖昧に唸った。
 神経質かあ。
 頭の中で反芻してみても、しっくりとこない。いまいち実感が湧かない。神経質。神経質ってどんなだろう?
「そうかな」
 自分のことなのに、ちっともわからないなんて、ちょっと不思議だ。
「きっと無意識なんだろうな。そういうのって、物心がつく頃には身体に染み付いているって言うし。俺はよく祖母ちゃんから落ち着きがないって言われてたよ」
「ああ、それはわかる。だって祥ちゃん、いっつも何かやってるもの。テレビ観てる時も、わたしが料理している時も、何かしらしてるよね。寝ている時くらいしか、じっとしていないんじゃないかしら」
「それ、褒めてるのか」
「ああ、待って。祥ちゃんは寝相がひどいわ」
「おいおい、勘弁してくれよ」
 ようやくストロークする腕を止めて、祥ちゃんが抗議してきた。
 わたしの知らない部分を祥ちゃんは知っていて、祥ちゃんの知らない部分をわたしは知っている。自分の盲点って見落としがちだ。だからこそ、大切にするべきなのだ。たとえそれが、擦れ違いの懸念となろうとも。交流をすることによって、初めて見えてくる自分の姿もきっとあると思う。
 自分を知ること。わたしはわたしだ。言ってしまえば、それで終わってしまう。けれど、明確な言葉で表せと問われたら、どうだろう。わたしはどんな人間で、どんなものなのか。胸を張って答えられる人がいるなら、一度聞いてみたい。あなたは、どんな人なのか、と。
 人を知ることは、自分を知ることだと大学の恩師に教わったことがある。多面的感情を養うには、個人の異質と対峙し、同一性に磨きを入れる。意味の半分も理解できなかった。教員の資格を取るに当たって、その恩師には頭が上がらなかったから、とにかく頷いてばかりいたっけ。
 結局、資格は取ったものの、教師の道へは進まなかった。いや、進むことには進んだ。わたしは国語の教師として三年間、高校に務めた。ただ、性に即さないという考えが強まり、自ら退職を申し出た。名残として、現在は塾のアルバイトをやっている。資格があると、優遇してもらえるのだ。
 祥ちゃんは続けておいた方がよかったんじゃないのか、といつも言う。美月は、子どもと相性がいいしさ。これもまた、自分では自覚してないことだ。どうも他人目線からすると、わたしは子どもと相性がよく見えるらしい。
「ごめんね。正規として続けて入れば、お金も安定して入ってたのに」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。ごめん。何て言うか、俺はさ、男だから、一度進んだ道は安価に引き返せないっていうか。美月も、せっかく大学で目指してたから、もったいないなって思ったんだ」
 祥ちゃんは優しい。わたしの夢を今でも応援してくれている。彼は口下手だけれど、わたしの心にちゃんと伝わった。
 ずるずると過去を引き摺りながら生活しているわたしは、確かに醜い。教師の道を捨てた今、わたしは何のために、地元を飛び出してきたのか。祥ちゃんと知り合わなければ、今頃わたしはどうしてただろう。教師を続けていただろうか。想像も付かない。
 ただ、後悔はしてないと思う。あのまま教師を続けていても、虚しくなるだけだ。ニュアンスが違ったというか。望むべき形態ではなかったというか。これを傲慢だと言えば、否定はしない。世の中には教師になりたくても、なれなかった人もいる。わたしは、そんな人たちの想いを踏みにじったのだから。うん、でも、それでも後悔はしてないと思う。
 何しろ、わたし自身で決めたことなのだから。
 寝起き独特のだるさを感じつつ、わたしは台所に立った。さて、何を拵えようか。朝から大層なものを作る気にはなれない。冷蔵庫の中を探って、厚揚げを見つけた。使い掛けの大根もある。ふむ。一品は決まった。これにご飯を合わせるとして、あと一品あると華やかだ。冷蔵庫の事情も考慮して、シンプルに味噌汁を作る事にした。
 ご飯はもちろん冷凍してあるやつだ。電子レンジで解凍をしながら、他の作業も同時進行させる。味噌汁は煮込むだけだから、すごく簡単だ。その間に、フライパンで厚揚げを焼く。おっと、大根を下ろしておかなくちゃ。長芋と違って、意外と力使うんだよね。焼き色の付いた厚揚げに、大根下ろしと練り生姜を添える。そこに麺つゆを掛けるか、ポン酢を掛けるべきか。悩んでいると、玄関の扉が開いた。
「お、朝から精が出るな」
 作業着姿の祥ちゃんが太陽みたいな笑顔を咲かせて帰ってきた。ああ、と思う。わたしが教師として、仕事を続けていれば、少なからず、生活の擦れ違いが生じていただろう。卑怯かもしれないが、辞めてよかったと改めて思う。彼のこの笑顔を迎えることができる。そうして、また一日が始まる。なんて素晴らしいことだろう。至福と言ってもいい。
「ねえ、祥ちゃん。麺つゆとポン酢、どっちがいいかな」
 わたしもまた、笑顔で彼に問い掛けた。
 やるべきこと、成すべきことはきっとある。その存在に、わたしはまだ気付いてないだけ。こうして彼と生活を積み重ねていく中で、見出せるものもあるはずだ。
 その間……仮に猶予とでも言っておこうか。今の生活は、裕福とは言えないものの、それ相応の幸せがある。迷いに迷った挙句、辿り着いた先だ。ただ、このままでいいとは思ってない。わたしも、そして祥ちゃんも。
 わたし自身、考えが纏まっていない部分もある。
 それはきっと、祥ちゃんも同じなのだろう。
 見つけられるだろうか。最善の道を。現状を打破する手立てを。
 戸惑いを隠しつつ、わたしは祥ちゃんの回答を待っていた。

泡沫のひかり

泡沫のひかり

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-05

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