無の揺らぎ

無の揺らぎ 


一、  死

小林正二の東洋史の仕事は、しばしば「天才的」と評された。  
伝統的な領域区分にとらわれない広い視野もさることながら、小林はユーラシアの当代語、古言語に通じ、多角的な根本資料の比較に基づく彼の論文、著作は、内外の研究者たちから頻繁に引用されていた。   
二次資料、三次資料となる現代語資料の継ぎはぎが当たり前のようになっている当今の日本の学界においては、異色といえた。
異色とは学界で一言をもつある学閥がいい始めたことで、そこから嫉妬を除けば出色ということであり、やはり小林は、天才的といってよかった。  
ひとことでいうと、小林の天才性は仕事のスピードにあった。
速さの背景には、並はずれた記憶力があった。
古今の多言語に通じているということは、比例して、扱う文献もそれだけ膨大になるわけであるが、小林は、研究室に山積みした資料を驚くべきペースで読みこなし、精査していった。  
さらに大切なことが一つ。
小林は、孤独と疲れに耐え、投げ出しそうになる自分をよく抑えることができた。
そして、そういう内面の労苦を周囲の者に気づかせることもなかったようだ。
世間で天才と呼ばれていることの本質は、多く、そんなところにあるのかもしれない。  
ところが。
そんな小林が、ある時期からまったく別人のように凡庸な学者になる。
そして。
自ら学界の中央を去り、日陰に逼塞した。
少なくとも世間の目にはそう映った。  
それから時を経て。
今年七月のある日、小林は旅先のモンゴルで、忽然(こつぜん)と消息を絶ったのである。  
かつては学会の泰斗と仰がれ、叙勲まで受けた学者の最後は、地方の女子大の客員教授という、なんとも解せないものだった。
小林の失踪は、当初それと気づかれず、ウランバートルを発ってから一週間後、ロシアと中国の国境を流れるオノン河水源域のケンテイ山中で発見された。
遺体である。
その場所は、かのチンギス・カーンが眠るモンゴル帝国の聖地であった。
学界の一部から、「唯蒙史観の小林」などと揶揄された小林が、そんな場所で死んだことについて、象徴的とか、暗示的という言葉を使うものもいた。
享年六十二歳。
穏やかな死に顔であったという。
しかし、不可解な死だった。
だが、結局事件性を疑われることはなく、遭難死として処理された。  
ただし。
一点、気にかかることがあった。
小林を途中まで案内したモンゴル人ガイドの証言である。
「小林先生は山に入るとき、首に何か吊り下げておられました」  
襟元から、黒革のストラップがのぞいていたというのである。  
しかし検死時、それらしいものは発見されなかった。  
小林正二の死は、
「トレッキングの日本人、遭難死」
と、ウランバートルの新聞がかなり大きく取り上げた。
が、人々の記憶からはすぐに消えた。
同紙は、その前日のこととして、同じケンテイ山中で小規模地震が発生したことを報じていた。
地震直後、その一帯で電波障害が生じたのである。
奇しくもそれは、小林正二の死亡推定時間帯と一致した。
だが、人のほとんど住まない地域のことでもあり、世間はそのニュースを看過した。  
しかし……。
一部の専門家は首をひねっていた。
その最大の理由は、観測から得られた震源が地表だったことにある。
しかも、すべての観測点で、P波に比してS波が異常に小さい。
地表波ばかりの地震である。
つまり、
「自然地震ではないのではないか……」  
という疑いである。  
しかし、当該の時刻。
周辺で発破を伴うような土木工事はなく、もちろん軍事関連の演習や実験も行われていない。
つまりは、原因の判らない、
「謎の地震……」
である。
しかし、その後特別な調査がなされることもなく、謎は、
「計器の誤作動」
として、次第に忘れ去られていったのである。




二、 遺族   

軒先に紫陽花が汚く枯れ残っていた。
「結局、低体温症だったんだけどね、ほら、中高年の人が、ときどき山で死ぬじゃない、あれよ。でもね、お腹を開いたら、癌だったのよ。すい臓ガン。もう切除できない段階だったって。末期も末期……、どっちみちだったのよ」
良子はすずしく語る。  
通常、そこまで病状が進行していれば、激しい痛みを生じ、
「普通の生活はできないはずなんですがねえ……」  
解剖に当たった医師も不思議がっていたという。  
麻薬パッチなどの処方を受けていた形跡もない。いったいどうやって痛みを抑えていたのか、
「ちょっと常識では考えられないんですって」
「母さん、ぜんぜん知らなかったの?」  
輝明が訊くと、
「知らないわよそんなこと、お父さん、何もいわないし……」
「のん気ねえ、ほんとに」  
知美は呆れた顔をした。
「のん気でも何でも、いわないんだからしょうがないじゃない」  
落ち着いたものである。  
親子がこうして京都の家にそろうのは、久しぶりだった。
正二は故人となってしまったが、生きていたときも、家族が顔を合わせるのは、正二を除いた三人だけということが多かった。  
今も、庭に面した縁側で、茶を飲みながら話す三人の表情に、一家の主を欠いた翳(かげ)りのようなものはない。
「紫陽花が汚いなあ」  
ぼそりと輝明がいうと、
「あら。まだ残ってたのねえ」  
良子は、気づいてもいない。  
茶色くなった紫陽花の最後は、いつも正二が切り落としていた。
家内のことに淡白な正二が、なぜか庭の世話だけはこまめにしていた。  
姉弟二人の子供が、結婚、就職と家を出てからは、家族四人がそろったのは、おそらく親類の慶弔のときくらいではなかったろうか。
良子だけは猫のようにいつも家にいたが、盆正月でも、皆が顔を合わせることは珍しかった。
書斎にこもっていることの多い正二は、たとえ家にいても、いないのと同じことで、誰も気にとめもしなかった。
家庭人として、小林正二は淡い存在だった。
はたして家庭人だったのか。 
こうして残った家族が正二の死について話す空気も、どこかからっとしていて、亡くなったばかりの肉親のことを話しているようには聞こえない。   
また、正二は病気のことを、妻にも二人の子供にも話さないまま、一人この世を去ったわけだが、三人とも、そこにひっかかっているふうもなかった。  
知美も輝明も幼いころ、正二から抱きしめられたという記憶がない。
小林は人間(じんかん)のことに関心を持たず、いつも文献資料に埋もれ彼方を見つめていた。
同じ家に暮らしながら、何日も父親の姿を見ないということの珍しくない日常だった。
二人の子供は、それを当たり前と思って成長したわけで、それで父親を恨む気持ちもなかったが、父が死んだ今、胸が湿ることもないらしい。
知美の結納の日の朝。
玄関でごそごそ音がする。良子が行ってみると、正二がいつものように大学へ出勤しようとしている。
「あなた、どこへいらっしゃるの。仲人の細田さんがいらっしゃるんですよ、今日は」
 良子がいうと、正二は、
「ん? あ、そうだったな」
と、また上がり框に腰を下ろし、靴を脱ぎ始めた。
まったく忘れていたというわけでもないようだが、ちゃんと覚えていたようでもない。
正二はときどき、とんちんかんなことをした。
「ふふふ……」
いつもになく良子は、笑いを声に出したものだ。
良子は、夫を普通だとは思わなかった。
かといって、不足を感じるでもなかった。
父親としての在り方に、不満を持ったこともない。
ただ、女としてはどうだったか。
良子の父親も、学者だった。
良子が、結婚生活におおむね苦しまなかったのは、ひとつには、数学者だった父と正二が似ていたからではないだろうか。
世間一般ではない人種への免疫がそなわっているのかもしれない。
良子は、子供のころ、父と遊んだ記憶がほとんどない。
学芸会や運動会などの学校行事にも、父が姿を見せることはなかった。
父親参観日も、代わりに母がやって来たが、良子はむしろそれが嬉しかった。
母は若くて美人だったので、クラスメートに自慢する気持ちが、少女の胸をくすぐった。
それにひきかえ父は、子供の目にもくすぶって老人めいていた。
小学校の音楽室の壁に貼ってあるリストの肖像を見るたびに、良子はいつも父を思い出したものだ。
リストは長髪の変な髪型をして、黒い神父服のようなものを着ていた。
顔の造作は似ていないのに、なぜか父と重なった。
見ないようにしても、結局目がいってしまう。
大昔に死んで歴史になった人なのに、教科書の頼朝や信長とは違っていて、印刷の眼光が妙に生々しく、今にも尖ったあごが動き出して、何か話しかけてきそうに感じることもあった。
父を見られたくなかった。
「あれ、良っちゃんのお父さん? もしかして、おじいちゃん?」
などとからかわれるところを想像すると、良子の胸は、ぎゅっと恐怖にわしづかみされるのだった。
父親参観日のお知らせを母に手渡すとき、
「お父さん、今度は来てくれる?」
と、声を偽ったが、
「忙しいからね、お父さん……」
と母がいうと、ぱっと嬉しさが胸に広がったが、良子はそれを気づかれないように一生懸命こらえて、
「もう、またあ」
と鼻声を出し、ふくれっ面を作ったものだ。
ほんの小娘でも女は女だと、良子は当時を思い出す。
「七月に入ってすぐだったわねえ。午前の講義に現れないから、学校の人がね、心配して電話してきたのよ、ここに。寮は時間どおりに出たのにね。ほら、なんていったかしら、お父さんの女子大……。あなた、覚えてない」
良子は娘を見た。
「私が知るわけないじゃない」
知美は、細面の端整な顔をしかめた。
三十五で、子供を二人産んでいるが、若く見える。母に似て色白で、卵型の顔には小皺ひとつない。
良子は、夫が七年勤めた大学の名をはっきり覚えていなかった。
ときどき何かの拍子に思い出すこともあったが、人に話すときは、岡山の女子大といっていた。
それでことは足りたし、夫の新しい勤め先に関心もなかった。
知美も母から、岡山の女子大としか聞いていない。
どうせ隠居がてら勤めたのだろうと、良子は軽く考えていた。
良子の実家筋もそう思っていた。都落ちではなく、気まぐれだと信じていた。
まだ五十五なのに、いきなり夫が京都を離れると切り出してきたときは、さすがに良子も、はっと胸を固くした。
が、単身赴任だと聞くと、気持ちの動揺はすぐに治まった。
それまでの仕事の成果として、今後の生活に経済的な心配はなかったし、どうせ二、三年もすれば夫は帰ってくるだろうと、良子は高をくくっていた。
帰って来ないとしても、それはそれでよかった。
良子の気持ちは、正二その人に依存してはいなかった。
夫のあるなしにかかわらず、北白川の小林家は、
「偉い学者さんの家……」
として、小春の日だまりのようにそこに在り続けるだろう。
良子に大事なのは、慣れ親しんだ穏やかな風景であり、それが変化しないことだった。
打ち水をした庭が、ひんやりと静かだ。
良子は掛け簾の陰で、心地よさそうに目を細めていた。
「学校の人は、警察に届けますか、なんてゆったんだけど、子供じゃないし、ほら、年だから、急に具合が悪くなってどっかでへたりこむことだってあるじゃない。で、しばらく待ってみましょうということにしたのよ。そしたら、夜、お父さんから電話があって」
「なんだって」
輝明が訊いた。
輝明は知美の三つ下だが、年上に見える。
脂気のない痩身で、もう白髪が目立っている。目ばかりがぎょろぎょろしていた。
商社勤めで揉まれたせいかもしれないが、父親に似てきたせいかもしれないと、良子は息子の顔を観察した。
「すまん、すまんて」
「それだけ?」
拍子抜けしたように、知美がいった。
「なんか、ばったり誰かに会って講義に遅れたみたいなことをいってたわねえ。それから、夏の間、モンゴルに行ってくるから、こっちへは帰らないって」
モンゴル、中国、ロシア、トルコ……。よくあることだった。なんの不審もない。
若い頃から正二は、可能なかぎり、研究に関連した現地を訪れた。
小林は、風を嗅ぎ、土をじかに踏みしめることでイメージを作った。
指先ほどの小さな骨片化石から、太古に滅び去った恐竜の全体像を描いていくように、歴史は、
「ピースの足らないジグソーパズルだよ。手元にある数少ないピースも事実を伝えているとはかぎらない。結局、最後のところは、あからさまでない創作だよ」
小林が師事した斎藤和巳の口癖だった。
どう解釈するか、そこが創造力なのだと、斎藤は学生たちに語った。
事実はどうだったのか。
「そんなこと誰にもわからないよ。タイムマシンでもなきゃね」
その証拠に学界では、歴々たる学者たちが我こそはと、相反する持論を掲げて冷たく牽制し合っているではないか。中には学問を離れた牽制のための牽制さえある。
醜い。が、現実である。
要は、どう人を納得させるかということだ。ひいては、自分がどう納得するかということである。
それは小林のスタンスでもあった。
「優れた歴史は、科学というよりもむしろ芸術に近いものだ。歴史研究に携わるものは、人間をよく知らないといけない」
と、斎藤はいった。
小林はタバコを買いにいくように日本を離れ、いつ帰ってきたのか、気がつくと、また二階の書斎に明かりが点っている。
子供たちには、季節の移ろいほどのことだった。
もしかすると、小林の死さえ、その程度のことだったかもしれない。
「で、びっくりしたのはね、最後に、永く会ってないけど知美と輝明は変わりないかって」
「えっ、父さんが」
知美はきれいな眉をひそめた。
輝明もちょっと驚いたらしく、納まりの悪い表情で、
「らしくないなあ」
「でしょう。病気で人が変ったのかしらねえ」
良子は、まるで人ごとのように口元に笑みを浮かべている。
開け放した板の間を、気持ちのよい風が通り抜けていった。
納戸のほうから、
「ちりりーん」
と、風鈴のすずしげな音が響いた。




三、 恩師 

本葬を済ませた翌々日の午後。
良子と知美は台所で向かい合い、女同士、とりとめのない話をしていた。
輝明は、
「週末にまた来るよ」
といって、昨日の朝、一家四人、東京へ帰って行った。
知美は葬儀が終わると、夫と子供たちを藤沢へ帰し、自分だけ京都の母のところに残っている。
今朝は早くから電話で出勤前の夫をつかまえ、ときどき鼻を鳴らしながら、何やらしきりに釘をさしていた。
夫の原田は勤務医で、知美がいない間、鎌倉の義母が二人の子供を見てくれることになっている。が、
「おばあちゃんは甘やかすから、二、三日で子供がわがままになるのよねえ」
今も良子にこぼしていたところだ。
週末は、親子三人で、正二が暮らしていた岡山の職員寮へ後始末をしに行くことになっている。
初め良子は、知美と二人で行くつもりだったが、どういう風の吹き回しか、輝明が、
「おれも行くよ」
急にいい出して、三人で行くことになった。
良子は輝明の勤めに気兼ねしていたのだが、男手があれば、それに越したことはない。
玄関のチャイムが鳴った。
「来たみたいね。どっこいしょ」
良子は腰を上げた。
来客は昨日電話のあった人で、長野の佐藤と名乗っていた。
「明日、焼香に伺いたいのですが……」
電話の声は、腰が低く、柔らかな物いいだったが、要点をはずさないしっかりした話しぶりだった。
「私なんか、電話切ってから、要件を思い出したりするのにね。大したもんね」
そんなことをいって、昨夜、良子は知美と笑っていた。
玄関に現れたのは、声の感じより高齢の男性だった。
息子らしい男に肘を抱えられ、やっと立っている。
二人は面立ちが似ていると思ったが、後でやはり同居している長男だとわかった。
「長野の加藤です」
と客が名乗ったとき、
「まあ」
このとき、良子は相手の名を聞き違いしていたことに、初めて気づいた。
(加藤なら知っている)
すぐに良子は、夫宛ての年賀状を思い出した。
それは極太の万年筆で几帳面に書かれたはがきで、良子が嫁いでからずっと、必ず元旦に届いている。
加藤は、正二の高校の恩師である。
右手で杖をつき、息子にすがってはいるが、きりりと背筋の伸びた風采は、年賀状の書面と同じ印象だった。
加藤は線香をあげ、お疲れのところを押しかけて申し訳ないといって、膝に手をつき丁寧に頭を下げた。
同じ日に、長野のほうでも葬式があったのだという。 
「重なるもんですなあ。向こうも私の生徒です。まったく……」
最後は咎めるようにいった。
生き残っている自分を責めているようにも聞こえたが、もしかすると、泉下の教え子に話しかけたのかもしれない。
「来年で傘寿です。ときどき昼飯を食ったかどうかわからなくなる始末で……」
などと笑っていたが、頭も口も、足腰よりははるかにしっかりしていた。
正二の昔話などして、加藤は小一時間ほどで帰っていったが、その中にちょっと意外な話があり、良子は、
「へええ」
と、何度か驚きの声を漏らしたものだ。
「小林くんの数学は、ちょっと普通じゃなかったです。微分幾何でしたか、彼のお兄さんの手引きらしんですが、やってることが高校生の域を超えていましてね、数学の教師は授業を嫌がってましたよ。物理もそんな感じでしたなあ」
と、加藤は意外なことを語ったのだ。
夫は文系オンリーだと、ずっと良子は思いこんでいた。
しかし、こうして加藤の話を聞いてみると、実は、少し思い当たることもあった。

正二の兄小林啓太郎は、正二より十三上で、高校で物理学を教えていた。
啓太郎は、小さい頃から誰もが認める秀才で、理数に限らずどの学科もよくできた。
絵や作文も、応募すれば市や県のコンクールで賞をとることが多く、全校朝礼で賞状の授与があるときは、たいてい啓太郎の名が呼ばれたものだ。
啓太郎がもらう副賞の文房具類を、級友たちは、いつも羨ましそうに眺めていた。
また啓太郎は、当時の男の子には珍しく、ピアノを上手に弾いた。
中学の音楽教師をしている母親の美智子が教えたのだ。
美智子は、正二には教えなかった。
啓太郎は高校で理系に進んだが、文系科目が嫌いだったわけではなく、むしろ文学青年だったかもしれない。
王朝文学に深く傾倒する一方で、当時はやっていた太宰なども好み、若い仲間たちと、今から思えば、井戸の中から天下を睥睨(へいげい)するような、
「浅薄な議論に酔っていた……」
時期もある。
大学は物理学科に進み、量子力学を専攻した。
「文学部に進もうか……」
と、多少迷いもしたが、結局、
「独学しにくい方を大学で学ぼう」
という効率的な判断をしたのだった。
だから、学生時代は、学外で同人誌などに関わってもいた。
また、物理学を記述する言語として、数学は相当に研鑽したらしい。好きでもあったのだろう。
正二に、いわゆる英才教育をほどこしたのは、この年の離れた兄啓太郎である。
正二は何かにつけ、両親よりも兄についた。
啓太郎は、自分の部屋で、数学や物理の専門書をぺらぺらめくって遊んでいる正二を見て、初めは面白半分に、年齢不相応の数学を教え始めたのだが、やがて弟のただならぬ素質に気づくと、徐々に本格的な手ほどきをするようになっていった。
何よりも啓太郎を驚かせたのは、正二の記憶力だった。
尋常ではなかった。
正二は意味もわからないまま、兄の本で見た様々の数式を正確に覚えていた。
一度見たものは忘れないようだった。
ふとのぞきこむと、正二は、新聞広告の裏に、読み方も知らないギリシア文字の定理を書いて遊んでいる。
小学校に上がる前からそういう調子だったのである。
啓太郎が家にいるときは、正二は兄の部屋に入りたがった。
部屋に入れてもらったときは、たいてい兄の数学書に手を伸ばした。
両親が絵本などを買い与えなかったわけではないが、父も母も、自分で読んでやることはなかった。
また正二もどうしたわけか、児童書などよりも、奇妙な活字の並んだ数学書の方を好んでいた。
そんな正二が、啓太郎が気晴らしにピアノを弾いているときだけは本を閉じ、うっとりと目を細め、兄の演奏に聴き入っていた。
音楽は数式以上に、幼い正二の心を惹きつけていたようである。
啓太郎は小さな弟が不憫だった。
だからという訳でもないだろうが、啓太郎は、正二の好きなように書棚の専門書をいじらせていた。
啓太郎は両親の自慢の子だった。とにかく可愛がられて育った。
一方、年がいってからできた正二は、世間の目を過剰に意識したのか、人目に触れるところでは遠ざけられるようなところがあり、自然、正二も両親、特に美智子にはなじまなかった。
会社一辺倒の父親康之は、元々、子供との間合いが遠かった。
なじまなければ、美智子の目には小面が憎いこともあったにちがいない。
成長に比例するように、正二は親から離れ、その分、啓太郎を慕うようになっていった。
中学に上がるころ。
正二は、難問といわれる大学入試レベルの微積分の問題を楽に解いていたというから、やはり兄の見抜いた通りの才能があったのだ。
しかし兄とは違い、正二は数学を別にすれば、両親からも教師からも、優秀な生徒と見られてはいなかった。
(みんな、正二をちゃんと見てないな)
と、啓太郎は思ったが、
(ひょっとすると……。正二は故意に、自分の才能を隠しているのではないだろうか)
と、啓太郎は弟の中にある翳りを危ぶんだ。
思い当たることがあった。
啓太郎は常々、正二の記憶力には舌を巻いていたが、ある日、
「ほら、正二、今日はこれを覚えてごらん」
と、幼い弟に三十桁ほどの円周率を書いた紙片を渡し、また机に向かった。
「さて」
と啓太郎が鉛筆を持ち、ノートの続きに目を戻したとき、正二が背中をつついた。
振り向くと、今渡したばかりの紙片を突き出している。
「嫌なのか?」
正二は首を横に振る。
(どうしたんだろう)
啓太郎は、じっと弟の顔を見つめていたが、
(まさか!)
しかし、十秒とは経過していない。
「もう覚えたのか?」
正二はうなずいた。
「いってごらん」
声がうわずっていた。
そして。
正二は三十桁あまりの円周率をよどみなく最後まで暗唱したのだった。
「ここまでとは……」
驚きの下から、嫉妬さえ湧き上ってくる。
が、それはやがて感動に変わり、
「お母さんやお父さんをびっくりさせてやるか、な」
啓太郎は誰かと共有したかった。
だが正二はにわかに顔を曇らせ、黙り込んでしまった。
「晩ごはんのときに、な?」
ぴくりとも動かない正二。
啓太郎もそれ以上は言えない。
何ごとつけ、正二は注目の集まることを嫌がっていた。
(屈折している)
しかし責める気にはなれない。
むしろ不憫だった。
啓太郎には、負い目のようなもがあった。
正二は両親から愛されなかった。
(おれのせいだ。母さんも父さんもおれと比べたんだ)
だが、それで胸を痛めるというほどではなく、小さな心配は、生来の鷹揚さの中に溶けて行った。
啓太郎には、たっぷりと愛されて育った者特有ののん気さがあった。
成長とともに正二の才能は鋭利なものになった。これはもう、
(世間でいう神童だな)
そう啓太郎は感じ始めていた。
将来は数学者として飯を食っていけるのではないか、そんな空想もした。
しかし……。
正二の学校の成績は実に平凡だった。
(考えられない……)
ことだった。

「小林くんはね、途中経過を書かないんですよ」
と加藤はいった。
「普通の生徒が何十行もかかるような証明問題を、小林くんはほんの数行で終わらせてしまうんです。計算の跡とか、消しゴムを使った跡とか、そういうのもないんです。初め数学の担当は、要所だけ丸暗記して答案を書いているんだと思ったようです。ははは。それから、試験でも宿題なんかでも、やたら空欄が多いんですよ。ばかばかしく見えたのかもしれませんな、そのレベルが。ま、他の生徒たちは四苦八苦しているわけですが。そんなこと、教師は知らないわけで……。だいぶ心象を悪くしていました」
高一の冬。
やっと教師たちは気づいた。
数学の時間だった。
正二は名前を呼ばれて気づかなかった。
教師はもう一度呼んだ。
正二は気づかない。
みんな正二のほうを見た。
別に居眠りしているわけではない。
正二は一心不乱に何かを書いていた。
三度目に呼ばれたときも正二は気づかなかった。
さすがに教師の顔色が変わった。
くすくすざわめいていた教室が、ぴたりと静まった。
「小林くん」
教師は正二の傍らに立っていた。
正二はやっと顔を上げた。
目が合う。
(先生は、どうしてここに立っているのだろう)
まず正二は思った。
だが怒りに震える顔。
すぐに状況を飲み込んだ。
そして慌ててノートを閉じたが、教師は正二の両手の下から、ひったくるようにそれを取り上げてしまった。
放課後、正二は職員室に呼びつけられた。
数学の教師は正二と向かい合い、
「小林くん、ぼくの授業はつまらんですか」
と、まずいった。
「はい」
とはいえない。
正二はうつむいていた。
まだ三十前の若い教師である。
冷たい感じの顔立ちが映画俳優のようだと、女生徒のうけはよかったが、ストレートでない物言いが、男子の間では不評だった。
「ま、それは良しとしましょう。だけど、名前を呼ばれたら返事をするのが礼儀でしょう。違いますか」
いっていることの割に声は弱い。
「すみません、気づきませんでした」
「三回呼ばれて、気づかない?」
「すみませんでした」
「ふん……」
きつく叱られるだろうと正二は覚悟していた。
だが、思いのほか、若い教師は静かだった。
正二は、家に連絡されることを恐れていた。
父と母にはどう叱られても平気だったが、兄に知られるのは嫌だった。
啓太郎は、正二を咎めなければならないとき、とても苦しそうな顔をした。
正二は兄の傷ついた顔を見るのがいやだった。
啓太郎は数年前に結婚し、家を出ていたが、新居は同じ町内にあった。
新家を構えてからも週に一、二度は正二の顔を見に来ていた。
「これのせいですか?」
教師は正二から取り上げたノートをテーブルの上に置いた。
正二は顔を上げない。
「これは全部、君が書いたのか?」
「はい」
教師は一枚一枚確かめるようにページをめくってゆき、
「今日君が夢中になってたこれは何かね?」
「ただの思いつきです」
「思いつき……。でも君、この証明は……、これは、ミルナーの定理じゃないのかね?」
大きな声を出しているわけでもないのに、教師の声は悲痛な叫びのようだった。
ジョン・ウィラード・ミルナーはその年、フィールズ賞を受賞したアメリカの数学者である。
昼休みの職員室。
数学科を教える教師たちが、正二のノートに集まった。
「ほほう……、これを小林が……」
一人、専門誌に掲載されたその定理をうろ覚えしている者がいた。
なんといってもミルナーは時の人であり、その年、多くの誌面が彼の仕事を掲載していた。
「はい。でも、美しくなかったので……、元のやつは」
「美しくない?」
若い教師は、あんぐりと正二の顔を見つめていたが、やがて大きなため息を漏らし、一瞬、泣き出しそうに顔が歪んだ。
ノートの内容はほとんどこの教師の理解を超えていたが、それを書いたのが十六歳の少年であることの意味は、この平凡な数学教師にも痛いほどわかっていた。
「要するに……」
教師は言葉を詰まらせた。声を震わせ、
「要するに、……平等じゃないということか……」
教師はあらぬ空間を見つめ、独り言のようにいった。
「神は……」
と続けたような気もする。
「もういい、行ってよろしい」
「あのう、家に連絡するんでしょうか」
正二は、さぐるように教師を見た。
教師は驚いたように正二を見つめ、
「今度から気をつけなさい」
押し出すようにいった。

「まあ」
と、良子はいった。
笑っていた。
「そういう風に眺めてみますとね、色々合点のいくことがあるんです。彼の答案はどの教科も空欄が目立つんですが、書いてある個所はみんな簡潔で正鵠を射てるんですよ。いい成績をとって周りに感心してもらうとか……、普通の子にはモチベーションになることが、彼にはどうでもいいとゆか……。少し変ってましたねえ。それにしても、ま、この齢になって分るんですが、十六、七であそこまで子供でいられないとゆうのも、ちょっと孤独なことでしょうなあ」
(孤独?)
なるほど正二は大人しく、静かな男だったが……。
どうしても良子は別人の話を聞いているような気がしてならなかった。
「私の世界史なんかね、小林くん、ぜんぜん興味がないようで、赤点をとったこともありましたです。なんというか、分からんもんですなあ」
「まあ」
これは知美も意外だったようで、申し訳なさそうに笑っていた。
加藤は柔らかなまなざしで、
「赤点といっても、彼の場合は分からないんじゃなくて、書かないんですよ。年号とか、単純な穴埋め式の問題は特に……。もったいないような気がしましてね、いつだったか問いただしたことがあるんですよ。そしたら彼、『先生、教科書に載ってることを、そのまま、答案用紙に書き写して何になるんですか』って、逆に訊き返されましたです。ははは。それがテストだろっていいますとね、『じゃ、数学も歴史も物理も古典も、みんな暗記力のテストじゃないですか。それなら何日もかけないで、一枚きりでいいんじゃないですか』っていうんですね。ははは、今でも忘れられません。ま、予備校化した高校への皮肉でしょうが、あのときは教師をやってて情けなかったですなあ。彼のいう通りですからね。生徒たちが大学入試にある程度前向きな意識を持ってて、あと、ま、並みの学力があれば、本当は教科の教師なんて要らないですよ。高校でやってるのはその程度のことなんです。もし教師が要るとしたら、それは、システムと秩序を維持管理する要員であって、もう教師とは呼べないですな」
自分が半生を捧げた教職とは、いったい何だったろうと、来し方を振り返るとき、加藤の胸は、何ともいいようのない侘しさにふさがるのだった。
勉強を教えることだけが教師の仕事じゃない、という便利な言い訳がある。
しかし、それは、裏返せば、まず勉強を教えることが教師の仕事だということではないか。
加藤は、人としての道や、人生の真理を教えるために高校教師になったのではない。
礼儀作法を教えるためでもない。
(豊かな人間関係? 言葉にはできない大切な何か?)
ロマンチックではあるが、言い訳めいている。
未成年者を預かる以上、躾という大人としての役割を免れることはできない。
しかし教師の職責ではない。
高校教師のプロフェッショナリティーは、あくまでも専門学科の教授にあるのではないか。
学問を通しての切磋琢磨こそ、自分が真に望んでいたものではなかったか。
しかし、
(あれはあれで仕方なかった)
社会がそれを要求していたのだ。
教師も、学校も、時代の要請の外で存続することはできない。
そんなことを考えていると、加藤には、律儀に生きてきたつもりの人生が、ビニール袋に詰め込まれた可燃ごみのように思われてくるのだった。
かさのわりに目方がない。
ただ処分を待っている。焼却炉に投げ込まれれば、あっという間に燃え尽きて灰になる。
どこかに運ばれて埋められ、結局、何の役にも立たない。
「まあ、そんな生意気なことを……」
良子は慰めるようにいった。
人は年齢とともに変わってゆくものだろうが、それでも良子の知っている正二を若返らせ、縮小していっても、加藤の話とはちょっと重なりにくい気がした。
「私はあの子が好きだったんですよ。寡黙で……、目から鼻に抜けるような感じを、他の連中は避けてましたがね、私はなんだか憎めなくて。ま、犬や猫も同じですが、敵味方はすぐにわかるもので、だから彼も、私に遠慮なくものがいえたんじゃないかと思うんです。ショックも受けましたが、私も、そんなやり取りが嬉しかったですし……。あっ、こりゃちょっと失礼なことをいいましたな」
そんな小林少年が、歴史に興味を持ち始めたのは、
「高三になってからでしたが……」
加藤は続けた。
「こういってはなんですが、きっかけがちょっと面白いんですよ」
加藤は、知美が換えたばかりの茶をすすり、
「その年の五月に、私、事故で足を骨折しましてね、ひと月ばかり学校を休んだんですが……」
と、加藤はいった。
加藤の休職中、正二のクラスの世界史を、中村という非常勤講師が受け持った。
「若くてね、美人の先生でした。生徒たちはだいぶ喜んでいたようです。私、やっと歩けるようになって、復職しますと、教室の戸を開けたとたん、生徒たちのため息が聞えましたからなあ。ははは。感動の再会を期待しとったとは申しませんが、や、現金なもんです、子供は」

昭和三十九年のその日。中村は最後の授業を早めに切り上げ、わら半紙のプリントを配った。
そこには、見たこともない文字がびっしり並んでいた。
どの字も画数が多く、漢字のようにも見えた。
「これは西夏文字です。今日の授業で触れましたね。手書きで読みにくいかもしれませんが。ある人の運命について書きました」
「先生。ある人というのは誰ですか?」
一人の生徒が訊いた。
「これを読むことになる人です」
中村はいたずらっぽく笑った。
生徒たちも笑った。
この四週間、中村が醸してきた空気だった。
「西夏文字とはこういうものです。みなさんのうち三十七人にとっては単なる参考資料です。でも、残りの一人にとっては運命の書です。なーんちゃって。あはははは。それでは短い間でしたが……」
生徒たちの歓声に押されるように、中村は教室を去った。
その話を生徒たちから聞いた時、加藤にはひっかかるものがあった。
西夏文字の研究が本格的な端緒についたのは、やっと二十世紀初頭のことで、ロシアのコズロフがカラホト遺跡を発見し、西夏の膨大な遺物を発掘してからのことである。
カラホトというのは「黒い城」という意味で、魔物の住む廃墟として、五百年以上の間恐れられてきた。
明による殲滅が生み出した心象だろう。
その後、西夏文字の研究を飛躍的に前進させたのは日本の西田龍雄であるが、彼が『西夏文字の分析並びに西夏語文法の研究』を世に出したのが、一九六二年のことである。
その時点でも、西夏文字は完全に解読されていたわけではない。
中村が非常勤講師として、正二の高校にやってきたのが一九六四年の五月。
微妙な時間である。
それだけではない。
一介の高校教師に、
(西夏語を操ることができるのか……)
うら若い女性教師が、研究者の孤独の中へ沈潜していくことができたのだろうか。
(いや……)
加藤は否定的だった。
しかし……。
もし仮に。
あのプリントが冗談や悪ふざけでなく、中村のいったとおりだとしたら……。
中村は、
(いったい何者だろうか)
少なくとも、一介の高校教師ではないことになる。
当初はそんなことを考えていた加藤も、次第にプリントのことも中村のことも忘れていった。
小さな事件があった。
二学期になり、高三生に対し、二回目の志望校調査がなされた。
なんとそこで、理数系の正二が、京都の大学の文学部史学科を第一志望として書いたのである。
これには加藤だけでなく、高三の教師団一同、皆、唖然とした。
そのとき加藤は、あの忘れていた西夏文字のプリントのことを思い出したのだった。

「本人は、はっきりいわなかったですが、私はあれのせいだと確信しました。私の力ではプリントの内容の真偽はわかりませんが、ま、罪のないいたずらというところでしょうか……。私らは、小林くんは大学で数学をやるものと決めてかかっておりましたから……、ま、本人もそうだったかもしれませんが、あのときは本当にびっくりしました」
と、加藤はいった。
「数学界は一人の逸材を失うことになるんでしょうかねえ、なんて芝居じみたことをいう職員もいましたよ。ま、その代わり、歴史において歴史的な貢献をしましたがね、小林くんは……」
客が帰ってからも知美は、
「あのお父さんが数学の人だったなんてねえ」
と、まだ余韻の中にいたが、良子は、
「頭のいい人は何やってもおんなじなのよ」
話には乗らず、いつの間にか膝の上に時刻表を広げており、指で押さえた先を目を細めて眺めていた。
「あなた、老眼鏡をみなかった?」
「もういやねえ。手にもってるじゃない」
良子は臙脂の眼鏡ケースを左手の下に押さえていた。
「あら、やだ。年かしらねえ、ふふふ」
と、笑いながら眼鏡をかけた。
他人の年寄り臭さを嫌うわりに、良子はよくこんなことをいう。
だが本気で気にしているようでもなく、良子はしばらく時刻表をめくっていたが、
「まあ、ローカル線は本数が少ないのねえ。何か読むものを持っていかなきゃねえ」
という声が意外に弾んでいる。
もう気持ちが岡山旅行を向いている。



四、 牛窓 

寮の高台から、ちょうど真下に牛窓港を見下ろせた。
鉄筋三階建ての白い建物は、ロータリーを囲むように、ゆらゆらとソテツの櫛の葉がそよいでおり、南国の小さな観光ホテルという感じもする。
生活臭のしない港だった。
その辺りだけ見ていると外国のリゾート地のようにも見えるが、街全体としては、リゾート地というほどの照り映えはない。
聞くと、昔の漁師の家はほとんど会社勤めになり、今はただ趣味のように漁を続けているらしい。
専業の漁師も残ってはいるが、やせ細った海産資源によりかかっている現状では、青息吐息の生活を余儀なくされているようだ。
目立つのはプレジャーボートやヨットばかりで、どこに漁船があるのかよく分らない。
白く輝く船はいわば水上のオブジェで、所有者は月に一、二回、様子を見に来る程度だという。
「豊かなのか、わびしいのか、よく分からないわねえ」
と良子はいった。
海は沖の方でぼんやり霞んでいる。
窓を開けると、潮風が入って来た。
「海の匂いがきついわねえ」
良子が顔をしかめていると、
「いつも京都にいるからよ」
と、知美がいった。
「あなた感じないの」
「感じるけど気にならないのよ」
知美が嫁いだ藤沢の家は海に近い。
「そんなもんかしらねえ」
といって、良子はぴしゃりと窓を閉めた。
「輝明はどうなの」
「何が?」
「海の匂いよ」
「そんなの気がつかなかったよ」
「輝明はお父さん似ね」
「何だよ、それ」
そのときノックの音がして、管理人が顔をのぞけた。
「運送会社の方がいらっしゃいましたよ。上がってもらいましょうかね」
「はい、お願いします」
輝明が段ボール箱の間から立ち上がり、戸口へ走った。
「済みましたか?」
「ええ、あらかた。もっとあるかと思ってたんですが……」
「そしたら業者さん、上がってきてもらいますね」
「はい」
輝明がドアを閉めるなり、
「きれいな人ねえ。八千草薫そっくり」
と良子はいった。
管理人のことである。
きのう初めて会った後にも、良子は同じことをいった。
輝明は八千草薫がぴんと来ない。
管理人は山田という名で、近くの自宅から、車で通っているのだという。
元は大学病院の看護士で、ここは二年になるそうだ。
「お母さんと同じくらいかしら」
と、知美がいうと、
「私より五つ六つ上ね」
「そんなには見えないけど」
「きれいだと若く見えるのよ」
良子は自信ありげにいった。
六十前後の年齢で、どうして五、六歳の違いがわかるのかと、輝明は不思議な気がした。
「羨ましい」
と知美がいうと、
「あんただって若く見えるじゃない。うちの血筋は、女はみんな若く見えるのよ」
(確かにそうかもしれないが……)
輝明は苦笑いしながら、若白髪の目立つ頭をなでつけた。
若く見られることは、やはり女には人生の一大事なのだろうか。
実は輝明は、内心、女たち以上に管理人に惹かれていた。
少しでも長く山田を見ていたいような、声を聞いていたいような、そんな抑えがたい欲求がこみ上げてくるのだ。
要は、目にも耳にも心地いい。
山田の声が聞こえた瞬間、玄関に走り寄ったのは、そのせいだったかもしれない。
相手は、おそらく母より年上なのに。
だから、
「あの管理人さんは河鹿ガエルみたいにいい声ね。ずっと聞いていたくなるわ」
と良子がいったときには、輝明は腹を見透かされていたかと思い、どきりとした。
良子は変に勘のいいところがある。
寮は二階と三階に三部屋ずつあった。
一階は研修施設になっており、普段は使わない食堂や大きな風呂もあるらしい。
正二が暮らしていたのは三階の西南角で、いわゆる3LDKの間取りだが、
「うちのマンションよりずっといいよ」 
と輝明が感心した通り、玄関や水回り、ベランダなどが驚くほどゆったりと造ってあった。
鉄筋が相当厚いらしく、よその排水音などまったく聞こえない。
サッシも二重にしてある。
防音にこだわった設計は、研究者への配慮なのかもしれない。
三階建てなのにエレベーターまで備えている。
裏にはプールや芝のテニスコートもあった。
輝明はしきりに羨ましがった。
良子たち親子三人は、輝明の車で昨日の午後三時ごろ牛窓に到着し、昨夜は、正二が使っていたこの部屋に泊まった。
もう一泊し、明日引きあげる予定である。
良子はJRを使うつもりでいたが、
「たぶん新幹線……」
といっていた輝明が京都まで車でやって来たので、そのまま岡山まで足を延ばしてもらうことにした。
輝明は車の運転が好きで、ハンドルを握っているときは普段より饒舌になった。
女たちは、
「新幹線に乗れば、楽なのにね」
と、わざわざ遠路車でやって来る男の心理が分らないようだった。
岡山ではホテルに宿泊するつもりでいたが、こちらの予定を大学側に知らせたとき、
「どうぞ寮にお泊りください」
と、先方が勧めてくれた。
厚かましいようで良子には遠慮があったのだが、輝明が、
「そうしようよ」
とせがむようにいうので、先方の好意に甘えることにしたのだった。
輝明は父が死んでから、にわかに父に関心を持ち始めたようなところが見られる。
岡山に向かう車中、父の結婚当初の様子などを尋ね、良子を閉口させた。
寝具などがきちんと人数分そろっていたのは、おそらく山田が用意してくれたのだろう。
和室には姿見も入れてあった。
小林がこんなものを使う男ではなかった。
山田の細かい配慮にちがいない。
今朝は輝明が最初に起き出し、良子が最後まで寝ていた。
亡くなった夫の後始末に来て、良子は粛然とした気分になることもないようだ。
良子が洗面所に立って行く寝間着姿を見送りながら、輝明は、自分が死んだらどうだろうと、東京の香織の顔を思い浮かべた。
部屋の後始末は本当に簡単だった。
家具や家電品のほとんどは備えつけのもので、荷造りといっても、わずかばかりの衣類と書籍だけである。
その書籍類も、京都にいたころを思えば、驚くほど少ない。
ダンボール箱に五つばかりで、
「これ、量だけだと高校生以下だね、父さんほんとにここで仕事してたのかなあ」
と、輝明は首をかしげた。
「京都で十分働いたから、骨休めに来たのよ。空気はいいし、部屋は快適だし、それでお給料もらえるんだから最高じゃない。ねえ、お母さん」
と、知美はいった。
良子はそれには答えず、
「洗濯やアイロン、あの山田さんがやってくれたのかしら」
と、独り言のようにいった。
「自分でやってたんじゃないの」
と、輝明がいった。
なるほど旅の多かった正二は、なんでも一人でできた。
しかし、タンスの中の様子を見れば、女の手が入っていることはすぐに分かる。
もちろん知美にも分かったはずだ。
男の輝明はそんなことには気づかなかったが、気づいた良子も、そこに拘泥しているということではないようだった。
運送屋に荷を渡したあと、三人は昼食に出た。
港沿いに歩いていると、
「地元の人にもわりと人気があるんですよ。海鮮を今風に仕立ててましてね」
と、山田が薦めてくれたレストランはすぐに見つかった。
ビルの三階だった。
案内された窓辺のテーブルに着くと足元が海で、沖に白い一文字が、滑走路のように遠く延びていた。
その向うにいくつか小島が見えた。遥か彼方にも青白い島影が浮かんでいた。
雲間に高山の稜線がほの見えているかと見まがうほど遠方は霞んでいた。
店内は大方が女性客で、輝明は落ち着かなかった。
そういう目で見ると、インテリアもメニューも女好みという感じがした。
「こうソースやドレッシングがからまってると、魚の味がわからないねえ」
と輝明がいうと、
「だからいいんじゃない。おいしい。ねえ」
と知美は良子にいった。
「私はどっちでもいいけど、ねえ、あの人来るの、三時だったわよねえ?」
あの人というのは小林が勤めていた女子大の理事で、小林とは高校で同窓だった吉川喜一のことである。
京都の告別式で名刺をもらい、夕べも電話で話したばかりなのに、良子は名前を覚えていない。
「吉川さん?」
と、知美が助けてやると、
「そうそう吉川さん。あの小日向文世に似てる人」
良子は、ちらと見た人の顔の特徴や服装などは、細かく思い出すことができた。
大学側の窓口になり、寮に泊まるように勧めてくれたのは吉川だった。
「何の話かしら?」
「ちょっと挨拶に伺いますってゆうんだから、挨拶じゃないの」
良子がまたのん気なことをいっているので、輝明が口をはさんだ。
「勤め人が死ねば、いろいろあるよ、書類上のことが。母さん、印鑑持ってきてるよね」
「持ってるけど、万年筆はないわよ」
「万年筆なんかいらないよ、調印式じゃあるまいし。ボールペンがいいんだよ、書類は」
「人間は死んだあとも面倒ねえ」
良子は達筆だったが、書類の枠の中に字を書くのは嫌いだった。
他人の前で老眼鏡をかけるのもいやがった。
「いいよ、書くのはおれがやるから」
食事を終え、三人は牛窓の古い町並みをぶらぶらと、日陰を選び選び寮まで帰って来た。
こんもりとした丘の上に寺の塔が見え、その下の白い洋館が、朝鮮通信使資料館というこぢんまりとした看板を上げていた。
はるばる新将軍の襲職を慶賀するために海を渡ってきた通信使。
その一行を見物した当時の人々は、海外にまで及んだ徳川幕府の威光を改めて畏れかしこんだというが、当の使節団は、日本を華の外にある蕃国として見下していたらしい。
資料館の展示品の中に飴色の船箪笥を見つけたとき、輝明は妙に懐かしい気がした。
「ねえ母さん、京都の家にこんなのあったっけ」
と良子に訊くと、
「馬鹿ねえ、あるわけないじゃない、そんなの」
と、良子は輝明の相手にならず、木造の舟と船形だんじりを展示してある半地下に、すたすたと下りていった。
寮の玄関で輝明は二人と別れ、駐車場にまわった。
一人でドライブに出るのだが、輝明が誘ったとき、良子は、
「私は畳の上で横になりたいからいいわ」
といい、知美は、
「私もシャワー浴びたいからやめとく。朝のうちは涼しかったのにね」
と、ハンカチで額の汗を押さえた。
それから、
「ねえ、お母さん、お茶菓子がいるんじゃない、吉川さん」
と話をそらしてしまい、結局、ドライブのことをいい出した輝明が一人で車に乗ることになったのだった。
女たちの時間の過ごし方は、どうも輝明のリズムに合わなかった。
吉川が来るまでの二時間何をするかというのが輝明の発想で、家の中で何をするでもなく時間をつぶすのは輝明には苦痛だった。
しかし、知美などの目から見れば、
「勤め人はじっとしていられないのよ。うちのもおんなじ。温泉行ったってじっとしていられないんだから。プライベートでもリラックスできないのは日本人の病気だって、誰かがテレビでいってたわ。オンオフのスイッチがないんだって、日本の男は。いつも緊張してて、糸が切れたときは自殺だって」
「若いのよ、輝明は。のんびり手足を伸ばして、ごろごろしてるのが一番幸せなのにね。いずれそうなるわよ、あの子も」
良子はタオルケットを敷いた上に横になり、胸をはだけて、気持ちよさそうに目をつむっていた。

前方に、
「スイカ農家直販」
という手書きの立て看板が見えた。
大きな白地の看板は大人の背丈ほどもあった。
拙い文字も大きく、白ペンキの地塗りもむらが目立ったが、夏の畑中に溶け込んで自然だった。
そういえば今年は、
(一度も西瓜を食べてないなあ)
そんなことを輝明が思っていると、立て看板のはすかいに山へ登っていく舗装道路が見えた。
深くかぶさった濃い緑が道の入口を隠していて、かえって輝明はそこに分け入ってみたくなった。
(どうせ何にもなくってがっかりするんだろうな)
とは思う反面、何かわくわくしながら輝明はハンドルを切った。
くねくねと、見通しのきかない山腹の道を登っているといきなり眺望が開け、そこがピークらしく、道は、今度は海に向って下っていた。
下り道の前方が急カーブして消えたように見える先に青い海が広がっていて、輝明は、このまま走ると、滝のようにまっさかさまに落下してしまうような恐怖感に襲われた。
輝明は路肩に停車し、車を降りた。
輝明は光る海を見るのが好きだった。
八月の強い光を照り返して、無数のきらめきは何かをささやいているようだ。
瀬戸内の景色はどこか白くにじんでいる。
輝明の立っている路肩は、足下は、三歩先は灌木の茂った崖だったが、道路をはさんだ奥は台地状に造成されていて、派手な色の家が四、五軒ある。
別荘らしいが、どの建物も屋敷まわりがすっきりし過ぎていて、風景になじんでいない。
まるでモデルハウスの展示会場のようだ。
車に戻ろうと後ろを向くと、森を背にしてもう一軒家があった。
輝明は、思わず、
「ほう」
と声を出した。
白い漆喰が目に涼しい。
こげ茶を基調にした洋風の建築がしっとり落ち着いている。
周囲の木立もよく手入れされていて、常時、人がすんでいる家の気持ちよさだった。
家のすぐ横に、あわあわと白い花をいっぱいに咲かせた木が、すらりと立っている。
近づいてみると、サルスベリの老木だった。
息苦しい炎昼に、その家とサルスベリの辺りだけ、高原の涼やかな風が薫っている気がした。
蝉がやかましく鳴いているが、シャン、シャン、シャンというクマゼミの鳴き声がいちばん耳につく。
ふと輝明は、
「あの管理人さんは河鹿ガエルみたいにいい声ね」
と良子がいったのを思い出した。
河鹿ガエルはどんな声だったかと考えていると、なぜだか蜩の鳴き声ばかりが浮かんできて、頭の芯にまとわりついて離れなくなった。
耳の奥で、蜩が鳴き続けている。
夕闇のたちこめた庭に、つくねんと立っている父の姿が見えた。
影絵のような後姿だった。
(知美と輝明は変わりないか……。あの父さんが……)
ぼんやりと、輝明がサルスベリの花を見上げていると、間近から、
「お暑うございます」
と声がいった。
ぼうっとしていたので、輝明は跳び上がりそうになった。
振り返ると、ぬらりと、老人が立っていた。
野良着に麦わら帽子。
棒っきれのような体つきで、スーパーの袋をずっしりとぶらさげている。
はちきれそうな袋から赤く熟したトマトがこぼれ落ちそうだ。
よく日に焼けた細い顔はうなぎに似ている。
「よう照りますなあ」
「こんにちは」
輝明も挨拶を返した。
その輝明の顔を、老人は丸い小さな目でくい入るように見つめていたが、おちょぼ口で、
「声も似とられますなあ」
と懐かしそうにいって、
「ひょっとしたら、小林先生の息子さんですかな?」
「はい」
「やっぱり。横顔がそうじゃねえかと思おとったんです。ほんまによう似とられますなあ」
そういって人懐っこく笑ったが、歯の白さが目立つほど色が黒い。
しかし、
(いい笑いだ)
と、輝明は思った。
近年、人の笑い顔を見て、感動を覚えたことなどあっただろうか。
「父をご存知ですか」
「ご存知ゆうか、よう散歩に来とられましたからなあ、先生は。その先に鹿(か)忍(しの)神社があるんですけどな、登り口の石段によう坐っとられました。神社のまん前がうちの畑じゃけえ、まあ、ぼちぼち話もするようになって。それにしても、どうもご愁傷様なことで」
「はあ、どうもご丁寧に」
意外なところで父の知り合いに会った。
「亡くなられたゆうてあさちゃんから聞いたときにゃあ、わしもびっくりしました」
「あさちゃん?」
老人は目の前の家をあごでしゃくって、
「こけえ住んどるんじゃけど、山田あさみさんゆうて、小林先生のおられた寮の管理人をしとる人ですけどなあ」
「えっ、ここはあの山田さんのお宅ですか」
「あさちゃんを知っとられる?」
「ええ。父の部屋の後始末に来まして、実は昨日からその寮でお世話になってるんです」
「ほう、そうかな」
「ええ、こまごまご配慮いただいて……。それにしても、ここが山田さんの家とは……。ぶらぶらドライブしてたんですけど。立派なお住まいですねえ」
「ご主人は早うに亡くなられとんじゃけど、実家が高梁(たかはし)のほうの分限者じゃからなあ」
「はあ……」
輝明は分限者という言葉の意味が分からず、曖昧にうなづいた。
「葬式は京都でされたんですかな?」
「はい」
「わしもあさちゃんも、できりゃあ顔を出したかったんじゃけど……。すみませんでしたなあ」
「とんでもございません」
輝明は丁寧に頭を下げた。
「最後に先生を見たんが、七夕でしたからなあ。元気そうにしとられて……。ほんまに今でも信じられんのじゃけど……」
「七夕の日に……、父に会われたんですか?」
輝明は、良子の話を思い出していた。大学の講義に穴を開けたというあの日、もしかすると、
(父さんがばったり出会ったというのは、この老人だったのだろうか)
「いや、それがなあ、畑から見ただけなんじゃけど……」
朝の七時過ぎ、
「朝飯のおかずにしょお思おて、キュウリをちぎりに来とったんじゃ。そしたら……」
南の海側の小路から正二が上がって来たのだ、と老人はいった。
「今日もお参りかな。帰りにキュウリをあげらあ」
と老人が大声でいうのへ、正二は片手を上げ、鳥居をくぐっていった。
「大学へ行かれる日は、たいてい十分か、十五分ばあで下りて来られるんじゃけどなあ……」
その日は、いくら待っても正二は神社から下りて来ず、
「暑(あち)いからなあ、ひょっとして倒れとったらいけん思おて……」
老人は心配になり、境内に上がってみた。
「そしたら、あんた……」
正二は、境内の隅で若い女性と二人、何やら仔細ありげに話をしていたのである。
それにしても。
相手の女性は、いったいどこから現れたのだろうか。
老人は、正二の他に人影が通るのを見ていない。
「よそ行きのきれーな服を着た人でなあ」
老人は自分の胸を指差し、
「こけー、花を付けとったわ」
女性の顔は見ていない、と老人はいったが、
「大方べっぴんさんじゃあ。じゃましたらいけん思おてなあ……」
老人はキュウリの袋を提げたまま、そっと石段を下りてきたのだという。
(まちがいない)
「すまん、すまん……」
と、正二が京都の良子に電話してきたのは、
(その日だ)
と、輝明は思った。
しかし。
大学の授業をすっぽかしてまで、
(あの律義な父さんが……)
その女性は何者だろうか。
何を話していたのだろうか。
もしかすると、
(モンゴル行きと何か関係があるのだろうか)
それにしても。
通りすがりの老人から、こんな話を聞くことになるとは……。
輝明は重なる偶然に驚いたが、一方で、もしかすると、これは偶然ではないのかもしれないという気もしてきた。
山田あさみも、彼女の住まいも、ここへ上がってくる坂道も、得体の知れぬ、
(強い引力を持っていた……)
ような気がする。
そう思い始めると妙なもので、目の前の老人までが同じ引力を持っているように感じられてくる。
目尻に深いしわを刻んだうなぎのような顔も、乾いた土で紺地のほとんど見えなくなった地下足袋も、何もかも、
(素朴で力強い)
この濃厚な生命感は、まるで大家の描いた油絵のようではないか。
それは輝明の見慣れた東京の、どこか映像めいた日常とは明らかに違っていた。
しばらく立ち話をしたが、老人は輝明ともっと話をしていたいそぶりだったので、
「あのう、その神社はすぐわかりますか?」 
というと、案の定、
「ふん、すぐそこじゃけど。いっしょに行ったげらあ」
と、誘い水にのってきた。
輝明の方も、こちらでの父の暮らしぶりをもっと聞きたいという気持ちがあった。
老人が語る父の姿はなんとも新鮮だった。
そして、父のことを知りたがっている自分は、さらに新鮮だった。
山田あさみの家から青草の生えた道を少し登り、同じくらい下ると、もう鳥居の前に出た。
人の気配に驚いて、小さなバッタが足元をかすめて飛んだ。
自分からズボンにぶつかってくるのもいた。
鳥居を見上げると、石の扁額に、
「五社大明神」
と刻んである。
たぶん五柱の神が祀られているということなのだろう。
老人も並んで鳥居を見上げ、
「昔はわしらあのとこにも、お宮があったんですけどな、明治の末に、ここいらのお社を全部ここにまとめんたんですわ。今でも杜だきゃあ少し残っとんですけどな。うちの親父(おやじ)やこ、神さんを移してからも、空き地になった杜へお参りに行っとりましたわ。とっくに死にましたけどなあ」
と、さみしそうに笑った。
すると五箇村の社を合祀したということか……。
鳥居の前が、道をはさんで、広々とした西瓜畑で、
「今年はなあ、わりえー、ええのができたんよ。もう終わりじゃけどなあ。後でちぎったげるから持って帰られえ、車じゃろう。甘(あめ)えよ」
と老人はいった。
(会って二十分と経っていないのに……)
輝明は、人を包むこの岬の上の空気に、都会にはない濃度を感じた。
草いきれにむせながら石段を上まで登ると、体じゅうから汗が噴き出していた。
振り返ると山門の杜を乗り越えそうに海が迫っている。
「あれが小豆(しょうど)島じゃ」
と、老人は指さしながら教えてくれた。
小豆島はとても大きく青白く、左の端は神社の緑の林に隠れていた。
陸続きの半島を遠望しているような感じだ。
「四国はちょっと見えんなあ。まあ、めったに見えんけど」
海は、遠ざかるほど白くぼんやりしていた。
輝明は、今日初めて見るこの景色を知っているような気がした。
一度来たことがあるという感覚ではなく、遠い昔、毎日目にしていたという感じがした。
蝉が鳴きこめている境内に立つと、頭が割れるようだ。
堂の柱に、木肌と同じような色の小さな蝉が、ぽつんと止まっている。
作り物のようにじっと動かない蝉は、すぐそこに迫っている死をすでに受け入れているようにも見えた。
本堂を左にまわると、境内と森の境に、軽自動車くらいの大きさの岩が見えた。
その岩を指差し、
「先生がべっぴんさんと話をされとったんは、あそこですわ」
と、老人はいった。
牛の舌のような形をした岩は輝明の胸元ほどの高さで、大きな岩盤の一部が頭を突き出しているという感じだったが、長方形に研磨された正面に三文字、奇妙な文字が刻まれている。見たこともない文字だ。なのに、これも、輝明はよく知っている気がした。
「中国のほうの古い字らしいですわ。ええと、なんとか文字ゆうたんじゃけど……、小林先生に聞いたんじゃけど、忘れてしもうたなあ、はははは」
(西夏文字だ)
輝明は直感した。
(父さんの人生を変えた文字……)
話は知美から聞いていた。
「どういう意味なんですか?」
「それも先生に聞いたんじゃけど、忘れてしもうたなあ、はははは。あさちゃんとこのおなごの子がおったら分るんじゃけどなあ。後で聞いてみてあぎょうか? 夏休みじゃからなあ、ひょっとしたら家へおるかもしれんわ」
「山田さんのところの?」
「ふん、あさちゃんの孫のおなごの子じゃ。テレビに出たらええようなべっぴんさんじゃあ。西大寺の高校へ行きょんじゃけどなあ。まあ元気のええ子じゃわ。こっから自転車で通よんじゃからな。学校までゆうたら、あんた、二十キロ近うあるよ。この山も自転車へ乗ったまま上ってくるんじゃからなあ。まあ、でえれえもんじゃ」
「あの坂を……、自転車で登るんですか?」
輝明は目をみはった。
輝明は急カーブで何度か、セカンドにシフトダウンしながら上がってきた。
体育会系の若者がそれなりの自転車に乗れば、
(たぶん登れるだろう)
しかしそれは、例えば、自転車愛好者が天気のよい日曜日に、少し力んでトライしてみるようなことである。
それを、
(高校生の女の子が……) 
通学という日常の中で、さりげなく繰り返すことではない。
輝明の胸に、何か咀嚼(そしゃく)し切れないかたまりがつっかえた。
老人は、輝明が驚いているようなので嬉しくなったらしい。
「木登りも上手でなあ……」
「木登り……、ですか?」
輝明は懐かしい言葉を聞いた、と思った。
が、これも思春期の娘にはふさわしくない。
「ふん。あそけえ杉の木があるじゃろう」
本堂の脇に大きな杉がそびえている。
幹回りは大人で優にふた抱えはあるだろう。
「あれをなあ、するする、するする、サルみたいに登っていくんよ」
「はあ?」
太い幹は、拝殿の屋根くらいまで何のとっかかりもない。
「あれをどうやって登るんですか?」
「せえがなあ、柔道の帯みてえな平紐を木の胴へ回してなあ、するする、するする、あっという間に登るんよ。体の目方が全然ねえみたいじゃわ。まあ、おもしれえ子じゃわ」
輝明は、枝打ちの職人が杉に登るのをテレビで見たことがある。
あれも確か手足のロープ以外、特別な道具立ては用意していなかったが、似たようなことなのだろうかと想像してみた。
それにしても、
(女子高生が……)
いったいどんな娘(こ)なのだろうと、輝明は興味がふくらんだ。
輝明は、あるテレビタレントを思い出した。
その娘はコミカルな太い眉を書き、セーラー服を着て、ジャングルを走り回っていた。
(あんな感じだろうか……)
と、輝明はほくそえんだ。
「父はその娘(こ)とは?」
岩に刻まれた文字のことは当然父が教えたのだろと、輝明は考えていた。
「先生、ときどきあさちゃんの家へ来てなあ、マリちゃんと一緒に勉強さりょおったんよ」
「家庭教師のようなことですか」
父はその娘(こ)の勉強をみてやっていたのだろうと、輝明は思った。
高校生の家庭教師をするなど、輝明の知っている父からは想像しにくいことではあったが。
それはもう新鮮というより、別人の話を聞いているような気がした。
(父さんに……)
何が起こったのだろうか。
「ふん、そんなことじゃろうけどなあ。じゃけど、先生、自分の方が歴史を教えてもらいに来とるんじゃゆうて、真顔でゆうとられたわ」
「教えてもらう? あのう……、父が教えてもらってたということですか、その子から」
老人は真顔で、
「ふん。いつじゃったか先生、そういわれとったよ。マリちゃんはよう勉強しますかな、ゆうてわしが訊いたら、ぼくの方が生徒ですからゆうていわれたなあ。ま、わしを笑かそう思うてゆうたんじゃろうけどなあ」
(いや……)
そうではない気がした。
父はそういう冗談をいうタイプではない。
もっと直截な人だ。
水戸黄門が、
「わたしはただの爺ですよ」
というような、人の悪さもない。
父がそういったのなら、
(その通りなのではないだろうか)
と、輝明には思われるのだ。
しかし、
(だとすると……)
それは驚くべきことではないか。
いやしくも小林正二は、戦後の一時代を画した歴史学者である。
その父が高校生から歴史を学ぶとは、いったいどういうことだろか。
車のところまで、輝明は老人といっしょに戻って来た。
老人の畑に寄り、輝明は両手に大きな西瓜を抱えていた。
西瓜の生温かさは、未知の生物の巨大な卵を抱いているようで、輝明は手と腹に、不気味な脈動が伝わってくるのではないかと恐れた。
老人は山田あさみの家の前で立ち止まり、
「おったらええんじゃけどなあ」
といいながら、門柱のインタフォンを押した。
応答はない。
「おらんのかのう」
老人は、今度は門の中へ向かって、
「マリちゃん。マリちゃん」
と、大きな声で呼んだが、家はしんとして動かない。
やはり留守のようだ。
そうなると、輝明はかえってマリという娘に会ってみたい気がした。
日に焼けた小猿のような少女を想像していた。
「おうおう、今年も百合がぼっこう咲いとるなあ」
と老人がいったので、輝明が老人の肩越しに庭を覗き込でみると、母屋とテッセンを絡めた透垣の間に、子供の背丈ほどに白い百合がいっぱい咲いていた。
花壇ではなく、散った種子を自生させているという感じだった。
まだ二人が門の前で立ち話していると、自転車に乗って少年がやってきた。
風のような軽やかさは、海を滑るヨットだった。
(この子も、あの坂道を自転車で上がってきたに違いない)
と輝明は思った。
少年は、
「こんにちは」
と、はきはきした声で輝明たちに挨拶した。
老人とは顔見知りらしい。
「ケンちゃん、今、マリちゃんはおらんぞ。留守じゃあ」
と老人がいうと、
「あ、はい、知ってます。今日は岡山のジムの日ですから」
「じむ?」
「はい、壁のぼりの……」
少年は、両手で何かをつかむような仕草をした。
「ああ、ああ、そうかな」
「でも、もうすぐ帰ってくると思います。待ち合わせしてるんです」
「そうかな。デートかな、今日は。ええなあ」
老人は目を細めて笑った。
「そうじゃ、ケンちゃん、トマト、やろうか?」
老人は手に提げた袋を、少年のほうに少し持ち上げて見せた。
「はい、いただきます。母さんも喜びます。おっちゃんのトマトのファンですから」
「ほんならあっち向かれえ、入れたげらあ」
老人は、少年の背中のバックパックにぷりぷりした真っ赤なトマトを五つ、六つ無造作に放り込んだ。
「ありがとうございます。明日、父さんと前島に行くんで、チヌ釣れたら、持って行きます」
「夜中から行くんかな?」
「はい」
「渡船?」
「はい、いわつばめです」
「そうかな。そしたら楽しみに待っとらあ」
「はい。それじゃ、失礼します。ありがとうごさいました」
少年は輝明にもお辞儀し、自転車を押して神社の方へ歩いていった。
片手を軽く添えただけの自転車は、質量のない影のように、少年に寄り添っていた。
「中村くんゆうてな、マリちゃんのカレシじゃ」
と、老人は教えてくれた。
これから彼は、石段の木陰に座り、潮風に吹かれ、
(何を考えながら……)
少女を待つのだろうか。
夏の岬に吹き上げて来る潮風のような少年だった。
しかし、輝明は、中村という少年の名をこの場で忘れた。

吉川は輝明のいった通りいくつかの書類を携えていた。
「後で郵送していただければいいと思っていたんですが、印鑑をお持ちでしたら……」
と吉川は、茶封筒からいくつかの書類を取り出して広げ、輝明がてきぱきと記入押印していった。
横で良子は、
「やっぱり勤め人は速いわねえ」
と、輝明の手の速さに感心していたが、夜、床に入ってから思い出したように、
「輝明も、ちょっとお稽古すれば、もっといい字が書けるのにねえ。筋はいいんだから……」
と、隣りで横になっている知美にいった。
知美は今でも書の稽古を続けていたが、輝明は中学のとき、バスケ部が忙しいからといって止めた。
子供のときは、輝明の方がいい字を書いていたので、輝明の事務的に固まった字を見て、良子は当時の残念さを思い出したのかもしれない。
吉川は笑った顔がいちばん小日向文世に似ていたが、
「髪の毛は吉川さんのほうが、少し多いんじゃない」
と知美がいうと、良子は、
「似たようなもんよ」
などと、吉川が帰った後で、二人は笑い合っていた。
知美が、父の高校時代のことを持ち出した。
先日、長野の加藤から聞いた話が、心に残っていたらしい。
しかし、吉川は、正二の「天才」については何も知らなかった。
「実は高校のときは、話をしたこともないんです。顔は知っているというぐらいで……。一緒のクラスになったことがないですから……」
吉川にとっても、正二は、やはり目立たない生徒だったらしい。
輝明も、新たに若い頃の父の様子を聞けるかもしれないと期待していたので、吉川の反応は物足りなかった。
昨日、牛窓に来る車で、加藤が母と姉に話したことをつぶさに聞き、輝明は、もうこの世にいない肉親から今さらの好奇心をそそられていた。
(あの父が数学を……)
輝明にとっても意外な驚きだった。
長野の加藤は、県立高校を定年退職した後も、乞われて私立で教鞭をとったのだが、半世紀近くの間に、
「秀才といわれる子供もたくさん見てきましたが、小林くんは白眉でした」
と、母たちに語ったという。
「学会で顔を合わせるようになってからですね。つきあいというか、接点ができたのは」
吉川は、イスラム貿易史が専門だといった。
「ですから、主に大航海時代以前です、ぼくの守備範囲は。時代的には、小林とは重複しています」
正二が大学の部屋に置いていた書籍類は、吉川が京都へ送ってくれた。
「大学のほうは、ぼくがやっときますから……」
と、吉川から申し出てくれたのだった。
無論、実際の作業は学生がやったのだろう。
「女子大生にご飯かなんかおごっていい気持ちになれるんだから、いいんじゃない」
 と良子は、京都からの車中、知美と輝明に見透かしたようなことをいっていたが、
「すみません。本当にありがとうございました」
今はしおしおと頭を下げ、知美と輝明も母にならった。
「それしても、あれっ、てゆうぐらい少なかったですなあ、本もノートも。ちょっと意外でした」
吉川も、輝明と同じことを感じている。
(父さんは……)
と、輝明は考えた。
正二は、地方の女子大の一般教養的な講義に必要な最低限のもの以外は、あえて置かなかったのではないか。
少なくとも、寮と大学で正二が使っていた二つの部屋は、そう語っている。
使うかもしれないもの、必要になるかもしれないもの、無駄になるかもしれないが研究者にとっては必須であるはずの大小の道具立てが、まったく見当たらないのは、そのせいではないか。
(でも、どうして……)
死ぬことがわかっていたからか。
(いや。父さんがこっちの女子大に来たのが七年前……。進行すい臓ガン……。あり得ないな)
正二が自分の余命を知ったのは、最近のことにちがいない。
それでは、なぜ正二は、突然、研究者であることを止め、アーカイブス放送のような、過去を切り売りするただの先生になったのだろうか。
「小林は、岡山に来てから一行の著述もしてませんな。依頼や打診はあったんですよ、ほうぼうから。なにしろ天下の小林ですからね。出版やら校訂やら、講演とかもね。でも、全部断ってましたねえ、彼は……」
と、吉川は首をひねりながらいった。
どう考えても不自然な断絶である。
「あのう、吉川先生」
と、輝明はいった。
「はい?」
「父はどうして……、岡山に引っ込む気になったんでしょうか? あ、すみません、失礼ないい方で」
「いやいや、いいですよ。ぼくもずっと同じこと考えてましたから。彼のような第一級の学者が、うちのような田舎の女子大に来るなんて、ちょっと常識では考えられないことですからね。もし仮りに、京都を辞めないといけない理由があったとしても、彼ならどこでも好きなところを選べたはずですからね。国内だけじゃないですよ。アメリカもヨーロッパもロシアも中国も……、みんな彼を欲しがりますよ、破格の待遇でね」
「まさかそこまで……」
知美は目をみはった。
吉川はいたわるように笑い、
「家族の方というのは、どうしても灯台下暗しというか、世間の視線とは違うんでしょうなあ。ですがね、もし歴史学にノーベル賞があったら、彼はとっくに受賞してますよ。間違いありません。誰が見ても彼はそういうレベルです。だから、最初小林が、うちで使ってくれないかっていってきたときはね、正直、からかわれてるのかと思いましたよ。でも話していくうちに、どうやら真剣ですし、ぼくの方も、だんだんすけべ心が出てきましてね、これでも、一応、大学の理事ですからな。小林正二がうちに来てくれたら、こりゃもう、美空ひばりが健康ランドのステージで歌ってくれるようなもんですから、宣伝効果は絶大です。経営の端くれとしは、なぜ、どうしてなんて気持ちは二の次になりましたねえ」
「まあ、あの人が美空ひばりですか」
良子は変なところに感心した。
良子は、美空ひばりのファンというわけでもなかったが、代表曲の歌詞は、ほとんど諳んじることができる。
それほどに、美空ひばりの歌声は、ある世代の日本人の細胞に浸透しており、流行歌などあまり聞かない良子にも、音楽史を越えて、戦後昭和の大看板であったと意識されるのだった。
「それでも何度か訊いたことはあるんですよ、飲みに行ったときなんかね。ですが彼、ま、いいじゃないかってそれだけですよ。ただ……、これはぼくの憶測なんですがね、……」
「ええ」
吉川の改まった声に、輝明は思わずひざを乗り出した。
「小林は……、勤め先なんかはどこでもよくって、本当のところは、岡山に来ること自体が目的だったんじゃないかって気がするんです。とくにこの牛窓の辺りに」
「といいますと?」
輝明は、さらに身を乗り出した。
「七年前、うちに来てもらうことになったとき、単身だっていうから、職員寮の話をしたんですよ。ここじゃなくて、大学の近くにあるやつですが。そしたら小林、牛窓の寮にしてくれっていうんですよ。ここは寮というより、なんというか、役員とか、上級職員の保養施設のような場所で、大学でも一部のものしか知らないんですけど、それをどこでどう調べたのか、彼の方から切り出してきたんですね。ちょっと驚きましたけど。ま、常時、半分は空き室状態ですから、小林正二がうちに来てくれるんなら、私どもに否やはないわけで、彼の希望どおりにしたんです。それで、何かこの土地に、特別なこだわりでもあったのかなあと思ったんですが……」
「なるほど……」
輝明は腕を組み、二つ三つ、小さく頷いた。
「近辺に、ご親戚とか、お知り合いがおられるとか……」
「いいえ」
といって、輝明は良子の顔を見た。
「いないわねえ。隠れて女をつくるような人でもないし……」
良子は、けろりと、そんなことをいった。
これには、さすがに輝明も驚いたが、うなぎの老人から聞いた話が、ちらと頭をかすめた。
知美は、きっ、と良子を睨んでいた。
「ははあ、小林に女はいなかったでしょうなあ」
なぜか吉川のほうが狼狽しながらいった。
すぐに間の悪さをとりなすように、
「そうそう、忘れるところでした」 
と、カバンから白い封筒を取り出した。
上書のない和紙の封筒だったが、黄色く日焼けしているのは、相当古いものらしい。
「小林のデスクの中にあったんですが、これだけは持ってきました。封もしてなかったですし、手紙ではないようだったので、中身、拝見しました。写真です」
吉川は、良子の前へ封筒を置いた。
良子が封筒から取り出した写真を、左右から、知美と輝明がのぞきこんだ。
すると女二人は声をそろえて、
「まあ」
と感嘆した。
輝明は、写真を見つめたまま、ごくりと唾をのんだ。
「小林が高三のときです」
と吉川がいうと、良子と知美はまた、
「まあ」
といった。
二人とも、正二だと分からなかったらしい。
確かに、どうしてそんな写りになったのか、その写真の少年は、まったく別人のように見えた。
最初の「まあ」は、いっしょに写っている女性に驚いたのだった。
輝明だけは、すぐに父だと気づいていた。
「きれいな人」
と、知美がいうと、
「怖くなるわね」
写真を置きながら良子はいった。
「外国人?」
独り言のように輝明がつぶやくと、
「ハーフらしですよ。代用教員ですよ、世界史の。当時、ぼくらを受け持っていた先生が、事故か何かで入院されましてね、しばらく彼女に教えてもらったんです。もう名前も忘れてしまいましたが」
「中村先生ですね」
と、知美がいった。
まだ写真から目を離さずにいる。
「そうそう、そんな名前でした。ご存知でしたか」
声が少し驚いていた。
「ええ」
知美はようやく顔を上げ、長野の加藤が北白川の家を訪ねて来たことを説明した。
「加藤先生が京都へ……。そうでしたか」
吉川の声は何の抑揚もなく、旧師を懐かしがるふうもなかった。
輝明は、西夏文字のプリントのことを聞いてみたが、
「ぼくらのクラスでは、そういうことはなかったですねえ」
すげない声だ。
吉川が、学者としての反応をまったく見せなかったのは、多分、若い教師のたわいない遊びぐらいにしか取らなかったのだろう。
「あのう……、西夏文字というのは、誰でも読めるものなんですかねえ。もちろん、専門家ならということですけど」
「だいぶ研究が進みましたからねえ、読めると思いますよ、ちゃんとした資料が手元にあれば。百パーセントというわけにはいかんでしょうが、おおよその意味をとることはできるでしょうな。相当な根気はいるでしょうがね。しかし、先ほどいわれたプリントのように、西夏文字でオリジナルの文章を作文するってことになると、ちょっと難しい気がしますねえ。文法的な破綻がなく、それをやれる学者がいるでしょうかねえ。私には分りませんが、いたとしても片手で足りるでしょうなあ、世界中で」
ましてや、
(代用教員など……)
論外だと、吉川はいいたいのかもしれない。
西夏文字でつづられた運命の書。
(それを、父さんは解読した)
そして、そこに書かれていたことは、文字通り正二の運命を左右したのではないか。
輝明は、中村という代用教員の写真を見て、そう信じたくなっていた。
それほどに、色褪せた写真の中から、中村は何かを発していた。
輝明はそれとなく、中村の消息を尋ねてみた。
「さあ、その後のことはちょっと……。特に仲良くなったわけでもなかったですし……、短い間でしたからねえ」
吉川のいいようはそっけなく、輝明の耳には古い写真に嫉妬しているようにも聞えた。
吉川が帰っていくとすぐに、知美は、
「ちょっとお母さんやめてよ。女をつくるとかなんとか、ひやひやするじゃない」
「わざといったのよ。あの人が昼間っから下品な匂いさせてるから……」
良子は、氷が解け切ってぬるく薄まった麦茶を二口、三口飲むと、テーブルの上を片付け始めた。
知美も手伝いながら、
「何よ、下品な匂いって」
「シャネルよ」
「シャネル? そんな匂いした、輝明?」
「輝明に聞いたってだめよ、お父さん似なんだから」
「何だよ、またかよ」
輝明はぶすっとした声でいったが、父に似ているといわれるのは、嫌ではなかった。
「でも、どうしてシャネルが下品なのよ。お母さんだって持ってるじゃない」
「あの人の服から匂ってくるから下品なのよ。明るいうちから……」
「犬みたいな鼻ね。でもそういう意地悪って、お母さんらしくないわよ」
「そうかしらね」
良子は気にしているふうもない。
「そうよ。変よ、なんだか」
「変ていえば変なのよ。なんだかショックで……」
良子は胸に手を当てて、娘の前で急にしおらしい声になった。知美は、母がときどき見せるそういう少女のような素直さが好きだった。
「ショックって何?」
「昨日は山田さんで、今日は中村さんの写真……。こんなの生まれて初めてよ」
「?」
知美はきょとんとしていたが、輝明には良子のいいたいことが分るような気がした。
「かなわないなって感じるのは、やっぱりショックよ、女として。あなた、何も感じないの? あの人のそばに二も……。お父さんが岡山に来たのは、案外そのせいかもね、もしかすると」
「なにいってるのよ、脈絡のない。お母さん、もしかして、お父さん疑ってる?」
「ばかねえ。あの人は、女をつくったりしないわ。でもね、恋はするわよ。美は問答無用なんだから」
どこかおかしみのある台詞だったが、日ごろ人文書など手にすることのない良子がいうと、輝明はかえって、ぎくりとするものを感じた。
また輝明は、うなぎの老人が話したことを思い起こしていた。
「きれいな人なら、毎日、テレビに出てるじゃない、いっぱい」
「あなたはまだ女を見る目がないのよ」
良子は、鼻に抜けるような声でいった。
女が女を見る目は、偏りのない公平な目ではないような気がしたが、このとき輝明には、母が妙に女に見えた。
そして、二人のやり取りを聞きながら、
(本当に、母さんのいうとおりだったのかもしれないな)
と、思い始めていた。
二重サッシで気づかなかったが、輝明がふと窓の外を見ると、いつの間に降り始めたのか、夕立の太い雨脚が、白く牛窓の景色をふさいでいた。 
輝明は立って行って、ベランダのサッシを開けた。
ざあーっという激しい雨音が飛び込んできて、乾いた土の匂いがした。
「あら、降ってたのねえ。涼しくなっていいわ」
輝明の横に並んで、知美がいった。
「ゆうべは赤い空が、なかなか暮れなかったのにねえ」
昨日良子は、夕焼けの空がきれいだといって、いつまでもカーテンを閉められずにいた。そんな母を、
「子供みたい」
と、知美は笑った。
輝明が、心あてに鹿忍神社の方角を眺めていると、白くけぶる雨の中に、父のうしろ姿が浮かび上がってきた。
(……)
輝明は、気持ちの奥に何かがひっかかっているのを感じた。
しかし、どうしてもそれを、判然とした形にできないのがもどかしかった。
翌朝、三人は岡山を発った。



五、 謙吾の夢

牛窓から目黒に帰ってきた日の夜。
七歳の謙吾が変な夢を見た。
あくる日は火曜だったが、輝明は、その日まで有給をとっていた。
香織は、小学校が夏休みに入ってからも、普段どおりに謙吾を起こしていたので、謙吾は広くもないマンションの中を早朝から、ぺたぺた走り回るのだった。
輝明は、謙吾の足音と、幼い子供特有のかん高い声が頭の芯にこたえ、しぶしぶベッドから引っぱり出されたかっこうだ。
学校が夏休みの間、休日はいつもこうなる。
輝明は香織に、休みで自分が寝ているときぐらい謙吾を静かにさせておけないのかという不満があった。
しかし、香織は香織で夫に対し、家にいる日ぐらい謙吾の相手をしてやってくれれば助かるのにという思いがあり、三歳の奈津美からは目を離せず、夫が家にいるとかえって気ぜわしい一日の始まりに、朝から追い立てられているのだった。
とはいえ、二人ともお互いの腹の中はわかっており、そんな気持ちをあえて口にするでもなく、
「おはよう」
といい合えるのは、おおむね、幸福な夫婦といえるのかもしれない。
輝明がダイニングテーブルで新聞を広げていると、
「はい」
と、香織がコーヒーを置いた。
カチャリと茶碗の鳴る音は、休日の朝の音だった。
平日は朝食もそこそこに、追われるように玄関を飛び出して行く。
香織のスカートの後ろから、謙吾がもじもじ顔を出した。
「パパに見てもらうんでしょ」
謙吾は、手に画帳を持っている。
何かを話そうとする出鼻でもじもじするのは、
(自分に似たのかもしれない)
と、輝明は思う。
「おじいちゃんを描いたんだって」
香織が助け船を出す。
わが子ながらじれったい。
「おやじ?」
「そう。昨夜ね、おじいちゃんが夢に出てきたんだって」
「珍しいなあ」
謙吾はよく絵を描いたが、このごろは鉄道の絵ばかり描いている。
謙吾が輝明の隣に座ると香織は向うへ行き、すぐに掃除機のうなり声が聞こえてきた。
輝明が起きるのを待っていたらしい。
謙吾の絵は、画面の中央に三人の人間が、それぞれ、四本足の動物にまたがっていた。
人間の性別はよく分からない。
「どれがおじいちゃん?」
「これ」
「みんな男?」
「うん」
「馬に乗ってるんだ?」
「うん」
円い顔といい、三角形の耳といい、人を乗せた動物はどう見てもひげのない猫だったが、輝明は子供の気持ちをくじくようなことはいわない。
馬の周囲は緑のクレヨンで塗りつぶしてある。
草原らしい。
おじいちゃんだけ、手に金色の板きれのようなものを提げている。
「これ何?」
謙吾は、困ったような顔をして、
「おじいちゃんが持ってた」
と、小さな声でいった。
「金色だった?」
「金色だった」
七歳の子がこれほど夢の細部を覚えているものかと、輝明はちょっと感心したが、金色だから覚えているのかもしれない、と思った。
それにしても、
(どうして謙吾は、おやじの夢なんか見たんだろう)
そこが不思議だった。
義父ならともかく、生前、正二が孫を抱いたり、遊んでやったりする姿は見たことがない。
第一、二人は、数えるほどしか顔を合わせていない。
「謙吾。これ、京都のおじいちゃん?」
「うん」
(ひょっとすると……)
と思ったが、間違いないようだ。
正二とは対照的に、義父の山本育三は、娘が産んだ二人の孫を、それこそ目に入れ、なめまわすようにかわいがっていた。
なんだかんだと理由をつけては、育三は、はるばる富山から目黒の娘夫婦の住まいを訪れていた。
(皮肉なもんだ。義父(おとう)さんが知ったら、嫉妬するかもな)
と、輝明は笑った。
謙吾が掃除機の方へ走って行くと、すぐに、
「ちょっと、そこどいて」
香織のヒステリックな声が聞こえた。
朝からあんな声を出さなければならないのも、
(大変なことだ)
と、輝明は思う。
新聞に目を戻し、コーヒーを半分ほど飲んだころには、輝明は布団の中の不機嫌さなどすっかり忘れており、
(結局、おれは殿様だな)
と、認めるのだった。
自分が家にいるだけで、香織の家事の負担は増える。
が、いつも思うだけで、頭も体もそこから先へは一歩も動かない。
翌日。
輝明は名古屋支社へ出張し、遅く帰って来た。
玄関を開けと、飛びつくように香織が、
「ねえ、謙吾がまた義父(おとう)さんの夢を見たのよ」
「えええ、また?」
「そうなのよ」
ずいぶん上気している。
謙吾はもう寝ていたが、輝明が着替えてくると、テーブルの上に画帳が広げてあり、その横に、塩茹でした枝豆が青々と皿に盛ってあった。
旬には少し早いような気がするが、
(冷凍物だろうか) 
そう思って見ると青い肌が艶やかすぎる感じで、大きさも揃いすぎている気もするが、どっちでも輝明にこだわりはない。
輝明はビールを飲みながら、
「二人増えたなあ」
今度の絵は、五人が船に乗っていた。
性別が分からないのは同じだったが、
「ぜんぶ男よ」
と、香織が教えてくれた。
「謙吾はね」
女の唇は赤く塗り、男は茶系を使うのだそうだ。
(ふっ……)
こんなところで輝明は、子供へのスタンスの違いを思い知らされる。
ふと、自分の会社には育児休暇の制度はあっただろうかと思った。
(きっとあるだろう)
しかし、あっても、今頃こうやって、何かの連想に思い出す程度のものなのだ。
それを誰かが利用したという話は聞いたことがない。
自分の会社に限らず、それが広く日本の一般という気がする。
輝明は、しらじらと笑うしかなかった。
船の周りをすべて青い波線でうずめているのは、川ではなく海らしい。
「どれがおやじだろうねえ?」
「これ」
香織は、いちばん舳よりの男を指差した。
「ふうん」
その男は、首に何か吊るしていた。
「なんだろう、これ?」
「黒い石のペンダントだって」
「黒い石? どうしてそんなものぶら下げてるんだろう?」
「さあ……。夢だから仕方ないじゃない、理由なんてないわよ」
「ま、そりゃそうだろうけど……」
死んだ正二がケンテイ山に入るとき、首に何かを吊り下げていたというガイドの証言を、輝明たち遺族は知らされていない。
「なんか怖いわねえ」
そういいながら香織の目はうれしそうに輝いている。
「何が」
「だって二日も続けて……」
「おれが岡山から、なんか霊気のようなものをくっつけて来たのかもね」
「やめてよ、気味が悪い。でも、案外そうかもしれないわねえ」
(しまった)
と、輝明は思った。
香織の目は輝きを増している。
香織は、心霊現象などを扱ったテレビ番組が好きだった。
息を止め、ときどき両手で顔を覆ったりしながら、決してチャンネルを変えようとはしない。
占いなども好きだった。
輝明は、その手の番組で、くどい化粧をした女がもったいぶったことをいい始めると、すぐにトイレに立ったり、パソコンを開いたりする。
できればチャンネルを変えたいのだが、なかなかそうもいかない茶の間の力関係もある。
「きゃっ」
いきなり香織が叫んだ。
輝明はぎくりとした。
「なんだよ、いきなり」
香織は掌を口に当て、もう一方の手でカーテンを指さしている。
白いレースのカーテンといっしょに大きな黄色い染みが揺れている。
蛾だった。
「でか」
大人の掌ほどある。
さすがにこれほど大きいと、男の輝明でもぎょっとする。
二つの翅に目の玉のような紋がある。
それは本来、蛾が天敵を威嚇するための備えなのだから、女の香織が悲鳴を上げるのは、自然の理にかなっているといえるかもしれない。
しかし、
(たかが蛾じゃないか)
今の輝明は、気持ちが冷めている。
正直なところ、香織の過剰な反応が少しうっとうしい。
今日のように疲れていると、輝明は気持ちの弾力を失う。
(結局、優しくないんだな、おれは……)
が、つき合ってやれない自分を変えようとは思わない。
輝明は、のっそりと立ち上がった。
カーテンの腰下を外につかみ出し、ベランダの向うの暗闇に蛾をはたき落とした。
「都会にもいるんだねえ、あんなでっかいのが……」
「ああびっくりした。まだどきどきしてる」
香織の胸は、掌の下で大きく波打っている。
香織は田舎育ちのわりに虫全般が苦手だった。
カナブンが飛んで来ても、きゃあきゃあ騒ぎ立てる。
謙吾や奈津美は、カナブンでもカメムシでも、すぐに手で捕まえようとする。
香織は、
「止めなさい、汚い!」
と、鋭い声を出す。
輝明も昆虫が好きなほうではないが、カナブンを汚いと思ったことはない。
こんなとき輝明は、香織は自分とは別の人種ではないかと疑う。
「ねえ、もしかしたら義父(おとう)さんの霊がいるんじゃない、その辺に」
「さあねえ」
霊なんてことを自分からいい出したのはやはり失敗だったと、輝明は後悔した。
「だってさっきの蛾だって……」
「蛾と霊は関係ないだろ」
「でも、じっとこっちを見てたじゃない」
輝明は面倒くさくて仕方ない。
「あれ目じゃないよ。翅の模様だよ」
「本当の目じゃなくてもいいのよ、霊なんだから」
香織の論理には翼が生えている。
「今晩も謙吾がおやじの夢見たら、おれもお前の意見に賛成するよ」
「今晩は見ないわよ」
香織は自信ありげにいった。
「なんで?」
「だって、あなたさっきはたき出したじゃない」
「おいおい、ちょっと勘弁してくれよ」
香織がどこまで本気なのかわからない。
輝明はそそくさとビールを空け、風呂に入ることにした。
次の日。
輝明は早く帰ってきた。
下の公園で親子が花火をしていた。
輝明は立ち止まり、その光景に懐かしさを感じない自分を見つめていた。
十年も過ぎれば、今度は親の視点で、懐かしさを感じるようになるのかもしれない。
夜が涼しくなると、花火の匂いは移り行く季節の寂しさを感じさせる。
リビングで謙吾が床に画帳を広げていた。
奈津美も同じように腹ばいになり、画帳を覗き込んでいる。
奈津美はぽかんと口をあけて、固まったようにじっとしているが、目だけはきらきらと、謙吾の手の動きを追っている。
嫌な予感がした。
実は、会社を出てからずっと気になっていたのだ。
(もし三日続いたら……)
ちょっと異常なことではないか。
しかし、どこかで異常なことを期待していた。
日常への倦みだろうか。
「今日は何描いてる?」
恐る恐る謙吾の手元を覗き込むと、謙吾は両手で画面を隠してから、ぱっと輝明の鼻先に画帳を突き出し、
「しんかんせん」
と、元気のいい声でいった。
追っかけるように、
「ちんかんしぇん」
奈津美が真似した。
「そうか、鉄道シリーズに戻ったか」
ほっとしたのか、がっかりしたのか分からなかった。
流しに立っていた香織が、
「がっかりしたあ?」
と、背を向けたままいった。
輝明はサッシを閉めようと窓辺に立ったが、ふと手を止め、耳を澄ました。
夜の底で、何かが低くうなっていた。



六、 四十九日 

十月に入ってすぐ、小林家の親族がまた京都に集まった。
九月はずっと、だらだら夏をひきずっていたが、さすがにこのごろは、朝夕は肌寒い日もあり、北白川の辺りでも金木犀が香っていた。
初七日は葬儀のときに済ませ、四十九日は再度集まろうと、近親の者で申し合わせておいた。
昨今は法要もずいぶん簡略化されてきているが、良子などは、
「昔みたいに、一族郎党がみんな同じ土地に住んでるわけじゃないんだから、仕方ないんじゃない。しきたりどおりやってたら、生きてる方が参るわよ」
と、この点では、習俗の崩れを歓迎しているように見える。
業者のホールにさっと集まり、さっと散っていく。
金も衣装も帰りの荷物も、結婚式よりはるかに手軽である。
世話焼きや物知りの年長者が活躍する場もない。
実に味気ないが、畳に座り慣れてない輝明などの世代は、この方がありがたいようだ。
何より、催主側の苦労が少ない。
催主の仕事といえば、ふところと相談し、パンフレットの中からコースを選択することくらいである。
鰻重の松竹梅を決めるようなものだ。
今回は知美も輝明も日帰りで、法要の後は、姉弟の二家族が京都駅から同じ新幹線に乗った。
謙吾はホームで、駅に入ってくる列車を、何々系の何々と、すべていい当てていた。
大人たちが感心してやると、得意顔に鼻を膨らませていた。
輝明夫婦は知美夫婦と向かい合って座り、子供たちは、輝明の背中側の席に四人でかたまった。
三歳の奈津美だけは、香織にまつわりついたり離れたり、そっちとこっちを、ちょこまかと行き来していた。
知美のところの子は、十一歳と七歳で、下の智久が輝明のところの上の謙吾と同い年だった。
知美はひところ、智久という名が「山P」と同じだといって喜んでいた。
いい年をしてそんなところがある。
いつだったか、
「ジャニーズって年でもないだろう」
と輝明がいうと、知美は、
「何いってるのよ。山Pや亀を支えてるのは私たちの世代よ。あんたも一回コンサートに行ってごらんなさい。私のいってることがわかるから」
分かりたくもなかったが、コンサートツアーでいわゆる「追っかけ」ができるのは、金と時間に余裕のある「おばさん軍団」なのだと、知美は胸を張っていた。
軍団の中には、アイドルグループと一緒に日本縦断をしているものもあるという。
なるほど、中学生や高校生にはそんな真似はできまい。
恐ろしい話だ。
それを許している亭主の心理も測りがたい。
「姉さんもそんなことしてんの?」
「ばかいわなでよ。私は箱根は越えないわよ」
知美はしれっとした顔でいった。
上の美穂はフィギュアスケートを習っており、すらりと手足が長い。
長い髪を浅田真央と同じようにひっつめ団子にまとめてた。
「真央ちゃん好きなんだ?」
と輝明がいうと、美穂は、
「キム・ヨナが好き」
といった。
思い込みが外れて、輝明が具合の悪い笑いを浮かべていると、
「お父さんは、真央ちゃんのファンよ」
と、美穂は付け足した。
子供にいたわってもらったようで、ばつが悪かった。
そういえば女子の選手はみんな、そういう髪型だったような気もする。
知美がこっちを見て笑っていた。
列車が米原を過ぎるころには、知美の夫原田はカーテンの上にもたれていびきをかいていた。
それにつられたのか、輝明もだんだん女たちとの会話から遠ざかり、うつらうつらとし始めていた。
「男の人はいいわよねえ、どこでもかしこでも……」
と、知美がいった。
「ですよねえ、化粧ははげないし、好きな格好して、人の目も洋服のしわも気にしないし……」
と香織がいっているあたりまでは、輝明も聞こえていた。
それから間もなく、すとんと意識が落ちたと思ったら、知美の頓狂な笑い声が聞こえた。
しばらく眠り込んでいたらしい。
「……ベイカの煮付けをね、お弁当に入れたのよ。それを病院の先輩が見たんだって。ほう、愛妻弁当かって、ね。で、ベイカの目玉をとってあるのを見て、料理の何気ない細やかさは愛情の現われだって感心したんだって、その先輩。はははは」
知美は、また大きな声で笑いながら、
「愛情とかそういう問題じゃなくって、ああゆうのって単に習慣じゃない。喧嘩してたって、手は勝手に動くわよ、ねえ。ロマンチストが多いのよね、男の人って」
香織もつられてくすくす笑っていた。
(そんなものなのか……)
輝明がぼんやりした頭で感心していると、後ろの席で美穂が大きな声を出した。
「まじ! ほんとに金色だった?」
「うん、金色」
「うっそ、あり得ないし。全部あたしの夢とおんなじじゃん」
(!)
輝明は跳ね起きた。

輝明が風呂からあがると、謙吾はソファで新しいゲームをしていた。
京都で、富山の義父からもらったのだ。
会館のロビーで、義父が謙吾の耳元に何やらささやいていたのは、どうも二人の間には予め、輝明や香織の知らない密約があったらしい。
奈津美には、ハローキティーのぬいぐるみをもらった。
子供たちは、義父に会えば、必ず何かもらえると思っている。
新しいおもちゃが増えると、古いものを粗末にする
「困るわあ……」
香織は今日もこぼしていたが、結局、
「年寄りの楽しみを奪うわけにもいかないだろう」
と、夫婦は自分たちを納得させている。
豊かすぎるということも、我慢を強いられる。
奈津美が見えないので和室をのぞくと、もう寝ていた。
法要のときも寝ていたし、新幹線でも寝ていた。
よくこんなに眠れるものだと感心しながら、輝明は奈津美の寝顔をのぞき込んだ。
小さな寝息が健やかで、心地いい。
かわいらしい唇は指先で柔らかさを確かめたくなる。
その唇が、まるで聞こえない言葉をしゃべっているように、ときどき動いた。
「ふふふ」
夢でも見ているのだろうか。
ふと輝明は、今、奈津実は死んだ正二と話しているのではないかという気がした。
「ふう」
疲れていた。
何をした訳でもない。
京都に行き、挨拶を交わし、世間話をし、帰ってきただけだ。
新幹線の移動など、出張で慣れているはずなにの、プライベートだと、どうしてこう疲れるのだろうか。
仕事の緊張感がないと、かえって疲れるのだろうか。
ダイニングに腰を下ろすと、香織がビールを運んできた。
輝明は、びんビールをコップに注いで飲むのが好きだった。
夏でも冬でも、一年中ビールを飲んでいる。
他のアルコールに比べると、ビールが一番高くつくが、輝明の晩酌については、香織は何もいわない。
「美穂ちゃんも同じ夢を見てたなんてねえ……」
「だなあ」
しかも、
(謙吾と同じ日に……)
「おじいちゃん、馬に乗ってたよ。すっごい大草原」
と、美穂はいった。
石の建物のあるところで、
「おじいちゃんね、怖い顔した番人みたいな人にね……」
金色の細長い板のようなものをかざして見せていたのだという。
「きっとあれモンゴルよ」
と、美穂はいった。
美穂は、正二がモンゴルで死んだことを知っている。
それに六年生なら、テレビや資料教材で、モンゴルステップを見たことくらいあるだろう。
しかし美穂は、海の夢は見ていなかった。
船に乗った五人の男。
黒い石のペンダント。
(どうしてだろうか……)
「私より輝明の方に、たくさんお父さんの霊が憑いてたのよ」
新幹線の中で、知美は笑いながら、そんなことをいっていた。
(なぜ、謙吾と美穂だけなんだろう)
良子も見てはいなかった。
そもそも、なぜと問うこと自体、
(無理があるよな、夢なんだから……)
それは、輝明にも分かっていた。
しかし、どうにも気になって仕方がなかったので、輝明は目黒のマンションに着いてから、京都の良子に電話してみたのだった。
「夢なんか長いこと見てないわねえ。そんなことで、わさわざ電話してきたの?」
良子は呆れていた。
美穂と謙吾の夢のことを話すと、
「まあ、不思議なことがあるわねえ」
と良子はいったが、言葉ほどに驚いているようでもなく、かえって輝明は、興奮ぎみの自分がなんだか年甲斐もないように思われてきた。
「あれよ、生前、家族や孫とあんまり話もしないで死んじゃったから、夢で愛想して回ってるのよ、お父さん」
「美穂と謙吾だけって、変だろ」
「そのうち、あんたや知美のところへも行くわよ」
良子はからっと話し、電話を切った。
良子ほどではないが、からっとした感じは知美も香織もそうだった。
最初は二人とも、
「嘘でしょお」
「ひゃああ、やっぱり霊のしわざかしら、義父(おとう)さんの……」
などと、近くの乗客が振り向くほどの奇声をあげていたのに、列車が名古屋に近づくころには、どこからそうなったのか手荒れの話をしていて、香織は知美から聞いたハンドクリームの商品名を、ケータイに打ち込んでメモしていた。
そんな様子を見ていると、香織にとって知美は、鬼千匹にむかう、ということもないようだが、それは男の目にそう見えるだけで、たまにしか会わない和やかさなのだろうか。
原田はその間、おおむね、いびきをかいていた。
昨夜は午前一時を過ぎて帰ってきたのだと、知美はいっていた。
原田は、内科の勤務医である。
不景気でも病院は忙しいらしい。
新型インフルエンザが影響しているのかもしれない。
医師や看護士の過酷な勤務状況のことはよく耳にするが、それでも、去年から極端に残業手当の減った輝明の目には、いびきをかく原田の姿が、羨ましくもあった。
このごろは輝明は、仕事でくたくたになって帰宅するということが少ない。
ベッドに倒れこんだまま、泥のように眠っていたころが懐かしい。
人知の及ばぬ摩訶不思議はある、と女は頭から信じているにちがいない。
輝明は、空いた皿をかたづけている香織の後姿を見た。
信じるから受け入れる。
男のように抵抗したりはしない。
だから、いつまでも引きずったりもしない。
(便利だよな)
輝明は、女たちのようにからっとしてはいられなかった。
「輝明はお父さん似だから……」
という良子の声が聞こえてくるような気がした。
法要には、長野から、正二の兄小林啓太郎が来ていた。
先の本葬にも息子が代わりに出席したぐらいだったので、
「今度も無理なんじゃない」
と良子はいっていた。
七十五の啓太郎は、昨今は、よほどのことがなければ外出しなくなっている。
特にどこがどうというのではなく、たいてい、なんとなく具合が悪い。
頭ははっきりしているのだが、一人では歩けなくなっている。
啓太郎は、妻の雅子が押す車椅子から良子に、葬儀に顔を出せなかったわびを述べ、
「春からどうもぱっとしなくてねえ、今年は夏を越されんかと思ったけど、わりあい涼しかったから、まあ、何とかもちました。それでもまあ、来年あたりは、私の番でしょう。正二とは順序が逆になりましたけど……。その時は長野までご足労かけますが、よろしくお願いします」
屈託のない笑顔でそんなことをいった。
小柄な雅子は、連れ合いの言葉に表情を動かすでもなく、ひっそりと、夫の背に隠れるように立っていた。
啓太郎は、会う人ごとにこんなことをいっているのかもしれない。
輝明は良子の後ろから、思わず、
「承知しました」
と、口を挟みたくなる。
啓太郎伯父の明朗さは、死んだ父にはないものだった。
同じ血を分けた兄弟でこうも違うものかと、輝明は改めて驚かされる。
輝明は、小さい頃から、この伯父が好きだった。
「まあ。来年なんていわないで、十年くらい先に延ばしたらどうですか、義兄(おにい)さん」
良子がいうと、
「それがねえ、良子さん。生きる欲が湧かんのですよ。こう気がゆるんじゃあ、もう一つ夏は越せませんわ。そろそろかなあって感じるんですよ。不思議なもんです。太古の獣のDNAがどこかに残ってて、死期を知らせてるのかもしれませんねえ。それでもねえ、冬は越しますよ。もういっぺん箱根駅伝を見てから逝くことにします。はははは」
乾いた笑い声だった。
だが、明るい。
やがてやって来るものを受け入れた明るさだった。
箱根駅伝を見たいという欲も、本当はないのかもしれない。
若いころは、何度か正月の箱根まで足を運んだこともあるらしいが……。
後で知美が、
「叔父さん、相変わらずねえ」
 いった時、良子は、
「教員て、先に足腰の弱る人が多いのかしらねえ」
ぼそり、といった。
長野の加藤のことが頭に残っていたようだ。
「先にぼけるよりいいんじゃない」
と、知美がいうと、
「猫みたいに厄介かけずに死ねたらいいんだけどね。だめね、人間は」
と、良子はいった。
正二の死は、介護も入院もないきれいな死だったが、遺体が京都に戻るまでは、それこそ厄介どころではなかった。
法要が終わって、良子たちは控えの間でひと息ついていた。
車が来るまで、少し時間がある。
その車も典礼業者が、方角ごと、手配してくれたものだ。
まったく上げ膳据え膳である。
啓太郎夫妻も残っていた。
南禅寺近くのなんとかいう店で、湯豆腐を食べて帰るのだという。
「こんな遠出も最後だろうから……。冥土のみやげですよ」
と、啓太郎は、からから笑っていた。
輝明はコーヒー茶碗を持ったまま、ガラス越しに庭をながめていた。
同じ風景が、八月のときより大分くっきりしてきた気がする。
空気が冴えてきたのだろう。
ロータリーに礼服の男が一人、ケータイを耳に当てて立っている。
ときどき、はじけたように笑う。
笑い声は聞こえないが、やっと解放された嬉しが、体からにじみ出ている。
建物の中では決して許されないプライベートだ。
今、自分たちを縛っているしめやかな結界はどのあたりにあるのだろうか、と輝明は思った。
男の長い影の上を、落ち葉が転がっていった。
今年は秋が早かったが、冬も早いのだろうか。
と、いきなり、
「ばさっ」
と、ガラス越しに前栽が揺れた。
輝明は、はっと息を飲んだ。
矢のような影は小鳥だった。
顔の真ん前の枝に、目白が止まったのだった。
ガラスがなければ、輝明の吐く息が触れるほどの距離だ。
輝明はこんな間近で小鳥を見たことはない。
が。
少年のようになった気持ちを落ち着かせようと、輝明がコーヒーをすすり、再び目を上げたときにはもう目白の姿はなかった。
目の隅に、飛び去ったうぐいす色の軌跡が、かすかに残っていた。
小枝が小さく揺れていた。
輝明は、大切なものをいきなり紛失してしまったように落胆した。
子供のころ、食べかけのアイスを地面に落してしまった時のような、懐かしい喪失感だった。
そのときである。
「正二は数学を続けていましたよ。独学でね」
という啓太郎の声に、
「えっ!」
輝明は、思わず後ろを振り返った。
「ずっと?」
知美が訊いている。
「少なくとも、二〇〇二年の夏まではね。暑中見舞いにね、まだサーストンの幾何化予想に取り組んでるって書いてあったよ。いい方向に行ってますってね」
「伯父さん、よくそんなに細かに覚えてるわね」
「ああ、小柴先生が、ノーベル物理学賞を受賞した年だからね」
啓太郎は高校で物理を教えていたせいか、定年後もその方面には関心を持っていたようだ。
そういえば、その年は謙吾が生まれた年だったと、輝明は気づいた。
「サーストンの何っていいました?」
輝明は会話に割り込んだ。
「幾何化予想」
「何ですか、それ?」
「ポアンカレ予想ということかな、結局。数学界百年の難問だよ。ま、われわれ凡人には無縁の世界だけどね」
数学の世界には、莫大な懸賞金のかかったいくつかの難問がある。
とりつかれた天才たちが、日夜、精魂をすり減らしながら解決を試みているのだという。
その一つがポアンカレ予想といわれるもので、一九〇四年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレによって提出されて以来、多くの天才たちの挑戦を拒み、ほぼ一世紀のあいだ未解決だった。
内容を啓太郎はかみくだいて説明してくれたのだが、知美も輝明もお手上げだった。
「その難問をね、ロシアのペレリマンていゆう数学者が解決したんだよ。二〇〇二年の秋から二〇〇三年かけてね。論文がネットで公開されたんだよ。ところがね、この論文が難しすぎて、本当にペレリマンが解決に成功したのかどうか、なかなか分からなかったんだ」
啓太郎は、また乾いた笑い声を漏らした。
「おまけにね、ペレリマンは質(たち)が悪いくらい省略が多くてね。自明のことは書かないとゆうか……、まったく正二と同じだな。私も昔、正二の省略に苦しめられたけど。はははは。ま、ペレリマンのレベルならそれでいいかもしれないけど、論文を検証する方は、こりゃ大変だよ。でね、いくつかのチームがその作業に取り組んだんだけど、どうやらペレリマンは本当にポアンカレ予想を解決したらしいとわかったのが、やっと二〇〇六年だよ」
「で、父さんはどうしたんですか?」
と、輝明は気がせいていた。
「止めた、と書いてあったね、翌年の年賀状に。わざわざそんなこと知らせて来なくてもいいのにねえ」
それをあえてそうしたのは、数学を兄との絆のように考えていたからかもしれない。
正二にとって兄啓太郎は、両親以上の存在だった。
というより、両親は兄以下でしかなかった。
もちろん啓太郎にも分っていた。
啓太郎は、弟の律儀さがいじらしかった。
「止めた……、証明を?」
輝明は、叔父が空になった茶碗を弄んでいたので、テーブルに戻してやった。
「数学をやめたんだよ、そのとき」
あの時、何かが切れた。
決別のはがきだったのかもしれない、と啓太郎は思う。
「えっ! ペレリマンに先を越されたのがショックで?」
知美がいった。
「さあ、どうだろうか。ショックがないということはないんだろうけど……。うーん、正二がどこまでアプローチしてたかにもよるなあ。案外いいところまで行ってたのかもなあ、正二なら。多分、トポロジーじゃなく、ペレリマンと同じように微分幾何を駆使して。でも、正二は初登頂至上主義なんてタイプじゃないし。名声を欲しがる性格でもないし。未解決の難問は他にいくつもあるわけだし……。想像は色々できるけど……。どうだろうなあ。その年じゃなかったか、正二が岡山へ行ったのは。ねえ、良子さん」
「ええと、今年が七年目だったから、そうだわねえ、そうなるわねえ」
良子は、指を折っていた。
「そうなんだあ。へええ、ちょっとミステリィかも……」
知美は面白がっている。
(もしかすると父さんは……)
その時、数学だけでなく、表稼業の歴史研究まで止めたのではないか、と輝明は思った。
吉川の話では、岡山に移ってからの正二は、歴史学者としては、過去の慣性だけで生きていたようなものである。
「ねえねえ、お母さん、知ってた?」
知美が訊いた。
「何を?」
「お父さんが数学やってたって?」
「いわれれば、そんなノートもあったような気がするわねえ」
「何だよ、それ」
「のん気ねえ、いつごろから?」
「結婚してからずっとよ」
「うっそう。お母さん、お父さんのこと変だと思わなかった?」
「何で?」
「だって変じゃない、歴史学者が数学やるって」
「数学だか歴史だか分かんないわよ、私には。でも、いいじゃない、別に。こっそり麻薬に手を出してるわけじゃないんだから。頭のいい人は色々やるものよ」
今年は麻薬問題で芸能界が揺れた。
テレビなどあまり見ない良子は、美容院の女性雑誌で、その手の情報を仕入れているようだ。
「なんつうか……」
「ほんと、のん気ねえ」
口ではそういいながら、実は、知美は母が羨ましかった。
「のん気じゃないわよ。気にしなくていいことは、気にしなくていいんだから」
と、良子は簡単に片づけてしまうが、知美など、夫婦のことになると、母のようにさばさばといかないこともあるのだった。
「いや、なかなかですよ、良子さんは」
啓太郎は笑っていた。
めずらしく雅子まで、夫の背で笑っていた。

いつのまにか十一時を回っていた。
日曜のせいか、246を走る車の数が少ない。
深夜の秋を、大型トラックが、キーンと、ジェット機のような音を出して遠ざかって行く。
そんな音も、慣れてしまえばそれほど不快でもない。
香織は、子供たちといっしょにもう寝ている。
(明日にでも、牛窓の山田あさみに電話してみよう)
と、輝明は思った。
京都の良子に聞けば、電話番号はわかるだろう。
しかし、輝明はマリという娘と話したいわけで、それを山田あさみに切り出すのは、少し気おくれを感じた。
牛窓にいたときにそうしておけば、軽くすんだのにと、輝明は後悔した。
しかし、あの時は、後でこれほど気になるとは思っていなかった。
正二がよく散歩に出かけたという鹿忍神社。
岩に刻まれていた三つの文字は、西夏文字にまちがいない。
ネットで検索したサンプルテキストと同じだった。
父の人生には西夏文字がついてまわっている。
(父さんが、高三のときもらったプリントは……)
やはり、
「運命の書」
だったのではないだろうか。
どうしてもそこに戻ってしまう。
西夏文字で作文できるものなど世界中に何人もいないだろう、と吉川はいった。
専門家がそういうのだから、そのとおりなのだろう。
しかし、それでも輝明は、中村のプリントは、単なる遊びではないような気がした。
根拠はない。
しかし、写真で見た中村の聡明な目は、そういう軽薄さとはどうしても結びつかないのだった。
七年前、父の人生は劇的に変わった。
というより。父は、長年かけて築いてきたすべてを捨てたようにさへ見える。
やはりそこには、何かそれなりのきっかけがあったのではないか。
しかし一方で、その程度の変化など、世間ではありふれたことではないか、という気もしている。
輝明の会社の先輩にも、本社の部長職から居酒屋のおやじになった者がいる。
研究者としては捨てカットのような日々であっても、最も美しいBGMが流れていたと考えれば、別の価値があったのかもしれない。
「あさちゃんとこのおなごの子がおったら分るんじゃけどなあ」
と、あの老人はいった。
「ぼくの方が生徒ですから……」
と、父はいったらしい。
マリという少女から、正二はいったいどのような「歴史」を学んでいたのだろう。
(やはり電話してみよう)
と輝明は決めた。
山田あさみの声を聞きたかった。




七、 夢 

奇妙な夢だった。
ドアを入った時、輝明は、ほの暗さに匂いを感じた。
しかし、どんな匂いだったか思い出せない。
奥に向かって、
「こんにちは」
と、声をかけた。
しんとした静寂はぴくりとも動かない。
もう一度、
「こんにちは」
今度は思い切って声を張り上げた。
しばらく待ってみたが、ことりとも音がしない。
やはり誰もいないらしい。
いないらしいと分かると……。
輝明は、体の中に、妖しいさざめきを聞いた。
にわかに、尻の筋肉が弛緩していくのがわかった。
輝明が立っている土間は、頭の上は吹抜けになっており、右手は、壁面全体がスライド式の扉になっている。
実は玄関を入ってまず、
(この扉の向こうには何があるのだろう)
と、気にかかっていた。
その扉に手をかけ、そっと音をたてないように滑らせた。
と、同時に。
暗がりは自動点灯し、正面と左右の棚に、女ものの靴ばかり、ずらりと浮かび上がった。
ウォークイン式のシューズクロゼットだったのだ。
大きな素焼きの壺があり、傘たてに使っていた。
五、六本、すべて細身で、女持ちの柄だ。
狭い空間は革の匂いで充満している。
その匂いを鼻から深く吸い込んでいると、子供のころ買ってもらった野球グローブの真新しい匂いを思い出し、輝明は急に便意を催してきた。
(やばい)
が、耐えられなくはない。
棚には下駄や登山靴まで並んでいる。
その中で、輝明は、胸の高さに揃えてある赤い靴に目を留めた。
夕日に染まったほおずきのような赤である。
片方を手に取ってみると、羽毛のように軽い。
底は、タイヤのような感触のラバーだ。
これを履けば、空を飛べる気がした。
(小さな足だな)
マリの靴に違いない。
しばらく、うっとりと見つめていたが、輝明は一度背後を窺い、手にしていた靴をそのままズボンのポケットに突っ込んだ。
焦って引っかかるのを無理やり押し込んだ。
とたんに、輝明は、酔うような罪悪感に浸された。
目の奥が熱い。
鼻がつんとして、悲しい名画を見たような感動だった。
クロゼットを出て、輝明は靴を脱ぎ、上にあがった。
三足、スリッパが揃えて置いてあったが、履かなかった。
(ソックス裸足の方が足音がしなくていい)
そんなことを考えていると、輝明は、いよいよ自分が犯罪者になったような気がしてきた。
どろりとした興奮で目がぎらぎらしていた。
尻はひくひく痙攣した。
口の中が渇いて張り付いく。
ズボンの右ポケットが突っ張って歩きにくい。
板敷はつやつやと光り、奥の薄暗がりに続いていた。
上ってすぐ右のドアの前に立ち、ノブに手をかけようとした時、中から話し声が聞えた。
「!」
じっと動かず、耳を澄ませる。
緊張で息がつまりそうだ。
そのとき。
きゅるきゅると下腹がなった。
(くそ、こんな時に……)
ポケットの中身に気づかれたらもう言い訳できない。
輝明は盗んだことを後悔したが、元の場所に返そうという気は起らなかった。
靴をしっかり押し込んでから、
「すみません」
ぼそい声でドアの向こうへ呼びかけた。
何の気配もない。
(……?)
恐る恐る輝明がドアを開けると。
畳の部屋には誰もおらず、テレビだけがしゃべっている。
ということは……。
(今の今まで、ここに誰かいた……)
輝明は座卓の上のリモコンを取り上げ、テレビを消した。
「ふっ」
ほっとすると、自分が可笑しかった。
(おれはいったい何をしているのだろう)
輝明はある泥棒の話を思い出した。
そいつは、空き巣に入った先で流しの洗いものをしていてつかまった。
(なんで洗いものなんかしていたのだろう?)
一秒一秒に自分の運命がかかっているときに……。
しかし今、輝明は、そいつの行動を笑えなかった。
むしろ、なぜそいつが、いわばその後の人生をかけて、危険きわまりない食器洗いを始めたのか、その秘密を知りたくて仕方がなかった。
(やつは、何かを隠しているにちがいない)
廊下に出ると。
向かいの部屋は引き戸を開け放ってある。
ここも和室だったが、家具らしいものがないのは、普段は使っていない部屋らしい。
中に入ると、床の間に白い百合の花が活けてあった。
これから客でもあるのだろうか。
しかし、室内に花の香りがしないのはどうしてだろうか。
(造花だろうか……)
輝明は、鼻先が黄色い花粉に触れるほど顔を近づけてみた。
(本物だ)
が、やはり匂いはない。
輝明は首をかしげた。
花器の外に、水滴が、三つ四つ、こぼれている。
今し方、活けたばかりなのだろう。
カーテンの白いレースが揺れていた。
揺れてひるがえるたび、ちらちらと、庭の花の黄色が見える。
柔らかな日差。
泣きたくなるほど、うららかな情景だった。
かすかに風が流れて、輝明の頬をなでた。
その風は何かの香りを運んでいた。
が、やはり思い出せない。
と、そのとき。
畳の上を、さっと、小さな影が走った。
ぎょっとして、輝明は、あやうく声を出しそうになった。
しかし、それは、庭木の枝に百舌が飛んできたのだと分かった。
「うっ!」
びっくりしたせいか、下腹が刺すように痛んだ。
なんとかやり過ごすと、今度は波長の長い重たい痛みが寄せては引いて行く。
輝明はくの字に体を折り、切れ切れに呼吸しながら、部屋から出た。
薄暗い廊下が、輝明の歩調に合わせて自動点灯していく。
中ほどまで来て輝明は立ち止まった。
右手に二階へ上がる階段がある。
階段は、何もなかった壁面に突然出現したような気もした。
輝明はそろっと首を突っこみ、上の様子を窺(うかが)った。
階段は踊場で切返しになっていて、それより先は見えない。
しかし、この上にマリの部屋があるような気がした。
「ぐ、うん」
輝明の鼻から、情けない声が漏れた。
今度は波長の短いずしんとした痛みだ。
さまざまに変化する下腹の苦痛は、まるで人生そのもののような気がした。
腹をなだめるようにそっと両手を当て、肛門にぐっと引き締め、輝明は左奥のドアの前に立った。
じっとりと、あぶら汗がにじみ出していた。
ノブに手をかけたが、ふと思い直してノックしてみた。
今さらノックしても、不法侵入者であることが帳消しになる訳でもなかったが、もし中から何か応答があれば、
(なんとか顔だけは見られずに、家の外に逃げることができるだろう)
と、輝明は考えた。
とすると、
(靴を脱いだのは失敗だったかもしれない)
と舌打ちした。
 しかし。そんなことよりも、
(もう限界が近づいている)
これではどっみち逃げられないかもしれない。
輝明は、大便をひりながら走っている自分の姿を想像した。
そんな姿を、
(朱美が見たら……)
どんな顔をするだろうか。
同じ課の部下である。
入社三年目の朱美は、男だけで飲みにいったとき、一番話題に上る女子社員だった。
幼げな顔立ちをしていて、黒目が大きい。
体が細いわりに胸が豊かで、朱美自身も、形のよい自分の乳房に、男たちの視線が注がれるのをちゃんと意識している。
会社で朱美が視界の中にいることは、輝明にとって秘かな楽しみだった。
振り返ると、左の壁面にドアが三つ並んでいる。
場所といい、ドアのシンプルさといい、サニタリーにちがいない。
ドアとドアの間隔がかなり狭いのも、明らかに普通の部屋ではないという希望だった。
輝明は前かがみの情けないかっこうで、よちよちと、一番手前のドアを目指した。
「よちよち、よちよち……」
と、輝明は自分に囁きかけていた。
なんでもいいから気を紛らわさないと危ない。
ほんの数メートルが永遠だった。
神にすがるような哀切きわまりない表情を浮かべ、輝明は、初めて歩けるようになった幼児の距離感とはこうしものだろうか、と絶望的な観察をしていた。
尻を痙攣させながら最初のドアにたどり着いた。
仏を拝むような気持ちで取っ手を引くと……。
目に飛び込んできたのは、クリーム色の便器だった。
「ぬあああ……」
輝明は、感動のうめき声を発した。
便器を見てこんなに嬉しかったことなど、これまでの人生で一度もなかった。
ベルトを外す手が震えてもどかしい。
輝明はズボンと下着をいっしょに引き下ろすや、ガチャンと便座に尻を落し、同時に放出した。
「あああああ」
(危なかった)
それにしても、生き返る思いだ。
目頭が熱くなった。
輝明は身じろぎもせず、ひんやりとした便器の至福に浸り、
「ふううう」
ゆっくりと息を吐いき、また、吸った。
額のあたりの冷えた汗を、トイレットペーパーでゆっくりとぬぐった。
ついさっきまでとは明らかに違う時間が流れている。
(大きな加速度の中にいるのだ)
と、輝明は思った。
戸を閉めた瞬間から、トイレは輝明を乗せ、
(超高速の旅を始めたのかもしれない)
「ぬあああ……」
広い湯船に、のびのびと浸かっているようなうめき声を発し、
(これって、安らぎだよな……)
しみじみ感じ入る輝明だった。
文学的な邂逅と宗教的な解放を一度に体験したようなこの気分は、選ばれた億分の一の幸福ではなかろうか。
それにしても、
(おれは何をしにここへ来たんだっけ?)
気持ちが落ち着くと、間の抜けた疑問が湧いて来た。
一方、今、家人が現れたら、
(どうしよう)
とも思ったが、今や、家の中には自分以外には誰もいないという確信の方がはるかに強くなっていた。
下半身を露出して便座に座ったまま、輝明の気持ちは妙に落ち着いてきた。
トイレという狭小な空間が持つ不思議な力だった。
(追い詰められたときは、トイレに座ればいいのに……)
どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろうと、輝明はこれまでの自分を情けなく思うのだった。
ふと輝明は、
(もしかするとこの気分は……)
あの皿を洗っていた空き巣の秘密と何か関係があるのかもしれない、とひらめいた。
輝明はトランクスを上げ、ズボンを上げた。
だが。
そんなとをしている自分が、輝明は不思議だった。
ベルトを締めていた両手を顔のまん前に広げ、じっと見つめた。
(なぜ人は……)
平和と幸福を、自ら捨て去るようなことをするのだろうか。
(いつまでも、ここに座っていればいいのに……)
しかし、トイレを出た瞬間、そんな疑問は跡形もなく消えていて、
「腹が減ったな」
輝明は、ぼそりとつぶやいた。
トイレの次のドアは風呂と洗面所で、三つ目を開けると、洗濯機と乾燥機が据えてあった。
まだ洗剤の匂いが強く残っているのは、今し方、洗濯を終えたばかりという感じである。
輝明は洗濯機のふたを開けて、中をのぞいた。
ドラムの底に、小さな赤いものが残っている。
輝明の目が光った。
つまみ上げてみるとソックスだった。
まだ湿っていて、鼻を近づけると草原の匂いがした。
満足そうな笑みを浮かべ、輝明は膨れあがった右のポケットに、それも突っこんだ。
太ももにソックスの冷たさが伝わり、輝明いよいよ犯罪者であることを自覚した。
突き当たりはダイニングキッチンらしい。
ドアの上半分がガラス格子で、内側の様子が多少分る。
中に入るとすぐ、輝明は冷蔵庫を捜した。
出すものを出して下腹が軽くなり、気分も軽くなると、あさましいほどの空腹を感じていた。
ところが。
その冷蔵庫がなかなか見つからなかった。
普通、冷蔵庫は台所で一番目立つアイテムではないか。
なのに、どこにも見あたらない。
そのうち苛立ちを通り越し、理不尽な怒りがこみ上げて来るのを感じた。
「どうゆうことだよ!」
輝明は悪態をつきながら、あちこち引っかき回した。
もう一度廊下に出たり、勝手口の戸を開けて、外を調べたりもした。
しかし、
(ない)
そうして十分ほども、輝明は檻の中のサルのように、うろうろと台所を歩きまわっていただろうか。
結局、冷蔵庫は流し台のすぐ隣りにあった。
発見したといったほうがいい。
「馬鹿にしやがって」
輝明は、冷蔵庫に毒づいた。
というのは、なんと大型の冷蔵庫は、木調の壁面と一体にはめ込まれていたのだ。
なんの凸凹もなく、よく見ると、引き出しや取っ手の溝に気づくという造りだ。
まるで擬態である。
輝明は感心するより、呆れてしまった。
わめき散らしながら探し回ったのでますます腹が減った。
輝明は冷蔵庫から生ハムとチーズを引っぱり出し、テーブルに運んだ。
食パンを焼き、マーガリンを塗った。
そんなことをしているうちに次第に気持ちも落ち着いてきた。
輝明の体は知らず知らず、まるでこの家の主婦のようにリラックスし、動きもリズミカルになっていた。
鼻歌を歌いながら、サニーレタスをちぎり、くまなくフレンチドレッシングをかけ回す。
卵を三つ割ってスクランブルエッグを作った。
理想的な半熟になった。
マヨネーズをかけまわし、醤油を数滴落とす。
最後に、パック入りの絹豆腐を半分切り、わけぎと生姜を添えて冷奴にした。
(やれやれ、終わった)
幸福だった。
広々と並べた皿の前にどかっと座り、
「ふう」
と、ひと仕事した充足感を味わうように、大きな息を吐き出してから、胸の前に両手を合わせ、
「いただきます」
といった。
そんな形を守らなければ、苦労して始めたことが、突然、消えてしまうような気がした。
輝明はむしゃむしゃと、わき目も振らずに食べ続けた。
を運ぶ合間に、空いた手で、紙パックの日本酒をラッパ飲みに、のどに流しこんだ。
普段したこともない行儀の悪いことをあえてした。
この酒は冷蔵庫を探しているときに見つけたのだが、みりんやサラダ油といっしょにあったのは調理用にちがいない。
輝明は飲んでいた一升パックを、どんと、わざと乱暴に置き、向かいの席に置きっ放しにされているマグカップをじろりと睨んだ。
「ふん」
触ると、カップはまだいくらか温かい。
中には七分がた、コーヒーが残っていた。
輝明はここに入って来た時、すぐにそのマグカップに気づいた。
その時はまだ湯気が立ちのぼっていた。
今の今まで、誰かがそこに座っていたように見える。
しかし……。
(それだけのことさ)
もう輝明はびくつかなかった。
気配はあっても、結局誰もいない。
それがこの家のスタイルなのだ。
「ふん。脅したってだめだよ。おれは出て行かないよ」
輝明は、マグカップに話しかけた。
しかし、このままここにいて、
(おれは何をするのだろう?)
いつの間にか、パックは空になっており、次にとるべき行動が思い浮かばなかった。
(おれは、マリという娘に会いに来たんじゃなかったか)
しかし、
(何のために?)
そこのところが、どうしても思い出せない。
だが、もうどうでもいいではないか。
どうせ誰もいないのだから……。
輝明は、食い散らかしたテーブルの上を片付け始めた。
酒の紙パックは中をすすいでから平らにつぶしし、使った食器は流しに運んで丁寧に洗った。
「ふん。何をやってんだ、おれは」
しかし、結局、
(これが、おれなんだ)
輝明には分っていた。
(ラッパ飲みがせいぜいだな、おれは)
本当は気が小さくて臆病なのに。
自分しかいない家の中で、いったい誰に強がっているのだろう。
それとも人間は、自分自身の目を意識して、このように滑稽になれるものなのだろうか。
(おれも、この家も……)
馬鹿げている。
それともすでに、
(おれはこの家の一部なのだろうか……。この家のほうがおれの一部だってこともあり得る)
輝明は、ゆらり、と立ち上がった。
(とにかく二階へ行ってみよう)
マリの部屋に入れば、
(何かわかるかもしれない)
と、輝明は思った。
本気で何かを期待していたわけではないが、他にすることもなかったし、じっとしていると眠ってしまいそうだった。
輝明はふらふらと、危なっかしい足取りで、さっきの階段を上がった。足の指先まで酔っている。
二階にあがると、五つのドアと引き戸が一つあった。
輝明は、廊下をぐるっと一巡りしてから、一つのドアの前に立った。
マリの部屋は、
(ここにちがいない)
輝明は確信していた。
そこは建物の東南角に位置する部屋で、ベランダに出るにはいちばん近い部屋だったからだ。
玄関の上に張り出した、白く大きなベランダから、
(山田マリは、大空に舞い上がるにちがいない)
と、輝明は推理していた。
窓の外には、一本、背の高い木が立っている。
屋根よりも高い。
よく目にする葉の形で、樹形にもなじみがあったが、輝明はその木の名前を知らなかった。
が、マリは空から舞い下りるとき、
(この木を目印にするにちがいない)
マリを見つけたら、
(あの木の名前を訊かなくちゃな)
と、輝明は思いついた。
少なくともこれで、マリに会う理由ができた。
それが他人の家に居座っていることを正当化してくれるわけでもないのに、輝明は気が大きくなっていく自分がうれしかった。
輝明はもちろんノックもせず、いきなりノブに手をかけた。
が、
「ん?」
内から鍵がかかっている。
「!」
中に誰かいる。
「ふん」
輝明の目が青白く光った。
(どうするか……)
ゆっくり考えればいい。
(どうせ飛ぶことはできないさ。靴の片方は、おれが持ってるからな……)
おまけに赤いソックスも、片方だけだが手に入れた。
(もうおれは、怯える側じゃない)
輝明はポケットの膨らみを確かめて、にやりと笑った。
まるでこの家の主であるかのように、輝明はゆったりと階段を降り、家の外に出た。
庭からマリの部屋を見上げると、南の窓は閉まっている。
カーテンも閉まっている。ロックしてあるのかどうかわからない。
東面の窓も閉まっている。
「逃げられやしないさ」
ねっとりと、輝明はつぶやいた。
ふらつきながら母屋の西側に回ると、独立した車庫の後ろにプレハブの物置が見える。
(兼用脚立くらいあるかもしれない)
輝明はなんだかわくわくしてきた。
物置はプレハブといっても間近で見ると、なかなかりっぱな造作だ。
鍵も会社のロッカーなどについているような安っぽいものではなく、玄関ドアと同じようにしっかりしている。
(アンバランスじゃないか……)
輝明は嫌な感じがした。
アンバランスは、誰かが苦しむということだ。
引き戸を引いてみた。
「くそっ」
びくともしない。
ガチャガチャ、力任せに揺らしたが、無駄だった。
輝明はその場にへたりこみたいような、重たい疲れを感じた。
「ちぇ、おれかよ」
輝明は高揚していた気分をぺしゃんこにされ、むかむかと腹が立って来た。
母屋の玄関は開けっ放しなのに、どうして物置には鍵がかかっているのか。
「逆だろう、普通……」
ガシャンと、力任せに物置を蹴とばした。
物置の中をごちゃごちゃといじりまわし、
(宝物を発見したかったのに……)
幼児帰りしている。
「ちぇ」
体の向きを変え、母屋の方へ引き返そうと歩き始めたとたん、輝明は目を丸くして立ち止った。
そして、
「ふっ、ふふふ。あはははは」
あごが外れるほど笑った。
笑いすぎて涙がこぼれた。
なんと鼻先に脚立があるではないか。
輝明の身長より高いアルミの脚立が、きちんと足を閉じ、車庫の壁面にもたれかかっている。
「あほらしい」
輝明は涙目をぬぐいもせず、脚立を両手で撫でさすった。
頬ずりをしてにおいを嗅いだ。
「へへへ……。こいつ、おれを待ってたんだ」
輝明は、脚立を見てこんなに嬉しかったことはない。
さっきの便器といい、脚立といい、そんなものでこれほど幸福になれるのなら、なにも毎日毎日、あくせく働く必要はないではないか。
(神崎に教えてやらないとな……)
輝明は脚立を担ぎ、うきうきと窓の下までもどって来た。
一瞬のうちに酒が抜けたような軽やかな足取りだった。
脚立は一直線に開き、梯子になった。
(こんなのが、うちにもあったらいいなあ)
マンション住まいでは用もないだろうに、輝明は同じものを買いたい気持ちになっていた。
「でも、香織がな……」
脚立を一直線に開き、二階のマリの部屋に向って立てかけると、なんとか窓枠に届く。
気持ちはますます浮き立ってきた。
ところが。
実際に登り始めてみると、脚立は思っていた以上に揺れた。
中ほどまで来ると、体重でアルミの骨格が大きくしなった。
これではたとえ窓が開いていたとしても、中に入るどころではない。
もう一段上がるのさえ難しい。
それでも輝明が、こわごわともう上へ足をかけたとき、
「あぶねえよ」
下から声がかかった。
輝明は、そろりと首を回した。
黒い顔がこちらを見上げている。
後ろ手を組んだ棒っ切れのような体。
まぎれもなく、あのうなぎの老人である。
しかし、輝明はもう驚かなかった。
「マリちゃんの部屋はなあ、そっからは入れんよ。その窓はなあ、山へ行く窓じゃ。マリちゃんの部屋へ入るんは別の入口があるから教えてあげるわ。まあ、降りて来られえ」
と、老人は変なことをいった。
が、輝明はそれを変だとも思わない。
老人は、今日は野良着の上に医者のような白衣を着ていた。
相変わらず、麦わら帽子をかぶっている。
老人は輝明の先にたち、まるでわが家(うち)のように、すたすたと玄関を入っていく。
輝明は黙って後に従った。
老人は、輝明の知らないルールを知っているにちがいない。
(ルールには従がわないとな……)
階段のところで一度立ち止まり、
「あそこがな、あさちゃんの部屋じゃ」
老人が指差したのは、さきほど強烈な便意に襲われて、ついに輝明が開けなかったドアだ。
「あのドアは開くんですか?」
「開かんよ。大事なものがあるからなあ」
と、老人は答えた。
大事なものとは何だろうと、輝明は問い返したいような気もしたが、老人はもう階段を上がり始めている。
二階に上がると、老人は右手に回った。
マリの部屋のドアは左なのに。
そんな輝明の気持ちを見透かしたように、
「あっちの戸はなあ、わしらには開けれんのよ」
と、老人はいった。
「こっちじゃ。ついて来られえ」
結局老人が開けたドアは、ちょうどダイニングキッチンの入口の真上あたりだろうか。
「ここがな、もうマリちゃんの部屋なんよ。向うの戸は、別なとけぇへ行くんよ」
老人は物知り顔にいう。
別なところとはどこだろう、とも輝明は思わない。
二人が入ったのは、建物の南から北に突き抜けた広い部屋だった。
マリの部屋には入口が二つあったのだ。
輝明たちが入ったのは北側のスペースで、ここは、ホテルの部屋のように独立したバス・トイレがあり、寝室になっていた。
テレビや冷蔵庫もある。
制服のブレザーとスカートが、一つハンガーに吊るしてある。
部屋に入ったときすぐに、輝明は花の匂いがするのに気づいた。
それはよく知っている匂いだったが、どうしても思い出せない。
老人はマリの制服をじっと眺めていたが、
「弱ったのう。おなごの子が着るワイシャツがねえのう」
と、思案顔である。
輝明は老人にはかまわず、一人で部屋の南側へ向かった。
そこは勉強部屋で、机の背後には、ソファを囲むようにオーディオシステムやCDラックがある。
南北の中間が廊下状にくびれていて、片側がウォークインクロゼット、もう一方は吹き抜けになっている。
下をのぞくと、真下に、さっき輝明が食事をしたダイニングテーブルが見える。
テーブルの上には、ぽつんとマグカップが取り残されている。
「ふん」
輝明はソファに倒れ込むように体を落とした。
目を閉じると、吸い込まれるような眠魔に襲われた。
老人は寝室で、何やらごそごそやっている。
(結局誰もいないじゃないか。ふん……)
もうどうでもよかった。
眠ろう、と輝明は思った。
柔らかなソファは、凪いだ夜の海のようで、輝明は花びらのようにひらひらと、ゆっくりと沈んでいった。
「ありゃ、寝たんかな?」
重たいまぶたをやっと持ち上げて、輝明は、ぎょっとした。
老人が、風呂敷包みをぶら下げて立っている。
包みからは白衣がのぞいていた。
だが、
「どうしたんですか、その格好は?」
なんと老人は、マリの制服を着ているのだ。
「けぇつを探しょおったからなあ。待たせてしもうたなあ」
ごそごそやっていたのは、マリのブラウスを探していたらしい。
紺色のソックスをはき、学校のロゴの入った赤いネクタイまで締めている。
念の入ったことだ。
おそらくタンスの中を引っかき回したのだろう。
(ひょっとして、この爺さん下着も……)
と想像して、輝明は身震いした。
スカートをめくりあげて確かめてみたい気もしたが、恐ろしさが先に立つ。
顔や手はうなぎのようにまっ黒に日焼けしているのに、短いスカートからのぞいている湾曲した足は、肉が削げ落ち、驚くほど色が白い。
相変わらず、麦わら帽子はかぶったままである。
なんとも異様な姿だ。
(それにしても……)
いくら老人が小柄で痩せているといっても、マリの制服によく体が納まったものだと輝明は不思議だったが、よく見ると、老人の体はさっきより、ひとまわり縮んでいるようだ。
そんな器用な変身ができるのかと、輝明は不気味さを通り越して感心してしまった。
「今日はマリちゃんがおらんからなあ、わしがマリちゃんの代わりをしてあげらあ。何か聞きてえことがあったんじゃろう、ゆうてみられえ」
そういうと、老人は勉強机の椅子に坐った。
ソファの輝明の目の高さからだと、短いスカートをはいた老人の股ぐらが真正面に見える。
たまらず輝明は立ちあがった。
「遠慮せんでええよ。ゆうてごらん」
輝明は気持ちがげっそりと萎えていくのを感じたが、年寄りなら草木のことは詳しいかもしれないと思い直し、南のカーテンを開けた。
(あの木の名前を尋ねてみよう)
と思ったのだが、
「……?」
ない。
「木が……」
立てかけたままにしておいた脚立もない。
それどころか……。窓の外には、びょうびょうとした大雪原が広がっているではないか。
(秋の瀬戸内はどこに消えたのか……)
果てもない雪原のところどころがいびつなクレーターのように窪んでいるのは、大小の湖が凍結しているらしい。
遥か彼方には、雪を吹き払われた大岩峰が黒々と聳えている。
まるで並行世界をのぞいているようだ。
しかし、
「あの山は何という山ですか?」
という輝明の声は、初めからそれを訊ねようとしていたかのような落ち着きようである。
「あの山かな。ありゃあマリちゃんが今登りに行っとる山じゃけど、さあ、名前はわからんなあ。困ったのう」
老人は、塩をふられた青菜のようにしょんぼりと肩を落とした。
輝明は、鋭く天を突く岩峰を見つめた。
黒く焼けただれた剣のようなその姿は、生命を侵食する妖気のようなもを漂わせていた。
あそこには魔物が棲んでいるにちがいない。
マリがあれを登っているとしたら……。
彼女は、
(靴がなくても飛べるのか……)
と、輝明は驚いた。
逃げられたのかもしれないと、絶望感がよぎった。
「やっぱりわしじゃあ、マリちゃんの代わりにゃあならんなあ。そしたら、わしゃあ帰るから、あんたはマリちゃんが帰ってくるまで待っとられえ、な。眠てえんなら、向こうのマリちゃんの蒲団で寝とったらええが。ほんならわしゃあ帰るよ」
申し訳なさそうにそういうと、老人は風呂敷包みを提げ、マリの制服を着たまま部屋を出ていった。
輝明は窓辺に立って、ずっと玄関の方を見ていたのだが、ついに老人の姿は現れなかった。
「出てくるわけねえよな」
老人が帰って行くのは、
(この雪原の世界ではないのだから……)
輝明は自分の間抜けさを笑った。
それにしても、マリの制服を持って行かれたのまずかったと、今ごろになって輝明は気づいた。
マリのスカートやブレザーは、靴やソックスなど比較にならないほどの大きな力を秘めているにちがいない。
(ちぇ……)
落胆が重い疲れになった。
輝明は寝室に向った。どうしようもなく眠たい。
マリのベッドの脇に立ち、淡いピンクの布団を見つめた。
かすかな甘い香りは、マリの体臭だろうか。
さざ波立つ心の音が聞えた。
が、すぐに、その音は消えた。

輝明は、何かに飲み込まれて目が覚めた。
ゴォーという音が近づいてきて嵐の中にいるのだと思ったが、何かの体内に入ったのだとわかった。
闇を透かしても何も見えないが、凍りつくように寒いのは、あの岩峰に棲む魔物に飲み込まれたのだと思った。
(もうすぐ死ぬんだな……)
輝明は覚悟した。
体がどんどん落下していく。
「あああ……」

「キェーン、キェーン……」
幼い声が呼んでいる。
いや、鳥の鳴き声かもしれない。
「キェーン、キェーン……」
日暮れの校庭に木魂するような寂しさだ。
遠くで遊んでいる犬でも呼んでいるのだろうか。
はぐれて、誰かを捜しているのだろうか。
もの悲しい響きだ。
(助けに行ってやらないと……)
と、輝明は思った。
が、体が動かない。
というより、体を感じない。
まるで幽体になったようだ。
ぺたぺたという足音が近づいてきて、また、ぺたぺたと離れていった。
突然、まぶしい光が見えた。
目を開けると、白い天井だった。
寝室だ。
九時を回っている。
「けーん、けーん」
奈津美の声だ。
謙吾を追いかけているらしい。
いつもの日曜だ。
輝明は布団の中で、じっとしていた。
余韻に縛られて動けない。
動きたくなかった。
胸をしめつけるような寂しさが残っていた。
妙な夢だった。
こんな夢をみたのは、あの透明な声のせいにちがいない、と輝明は思った。
じくじく迷ったあげく、やっと輝明が牛窓の山田あさみに電話したのは、昨夜のことだ。
「今ごろ、わざわざ電話するのも恥ずかしいような要件なんですが……」
と、輝明が鹿忍神社でうなぎの老人と話したことを説明しながら、電話の趣旨を伝えると、
「まあ、いくさんとそんな話をされたんですか、ふふふふ」
山田あさみが気さくに笑ってくれたので、輝明はいくらか後を続けやすくなった。
うなぎに似た老人は、森田郁夫という名だった。
鹿忍神社の岩に刻まれた西夏文字については、
「はあはあ、鹿忍神社の……。とにかく今晩、そちらへ電話させますから、マリに直接訊いてみてください」
そういって、山田あさみは輝明のマンションの電話番号を控えた。
しかし、正二はマリから歴史を学んでいたらしいと、輝明がいうと、
「小林先生は冗談をいわれたんだと思いますよ。ええ、うちへはよく来られましたよ。もう家族といいますかねえ、本当のおじいちゃんのように思っていたんだと思います、マリは。おじいちゃんコンプレックスなんですよ、あの子は。すみません、失礼なことをいって。赤ん坊のときに祖父が亡くなりましてね。私の主人ですけど。マリと歴史の話をしていたのはその通りですけど……。マリが教えるなんてとんでもないですよ。小林先生に歴史を教えられる高校生なんかいませんよ」
と、また笑った。
美しい声で山田あさみにそういわれると、輝明にも、事実のありようとしては、それが常識的なところだろう、と思われてくるのだった。
「先生には可愛がっていただいて、私も感謝しております。本当にありがとうございました。こっちのほうへいらっしゃる機会がありましたら、ぜひお立ち寄りください」
そう結んで、山田あさみは電話を切った。
初めて聞く話だった。
もっとも、牛窓で会ったときは、親しく話をするタイミングもなかった。
そして昨夜。
電話をとったのは香織だった。
電話がかかってくることは前もって告げておいたのだが。
「あなた」
と輝明に取り次ぐとき、香織は奇妙な顔をしていた。
「山田さんのマリちゃんだろ?」
「ええ……」
といって、香織は小首をかしげている。
何だろうと思いながら、
「もしもし」
と受話器をとった輝明に、
「山田マリです」
と、先方が答えた。
その一言を聞いて、輝明は香織の表情の意味を理解した。
それは不思議なくらい透き通った声だった。
レモンの黄色ほどの温度があった。
(いったいどんな娘なのだろう、この子は……)
さっきの香織の顔は、
(そういうことだったんだ)
と、輝明は納得した。
岩の西夏文字は、
「フビライに仕えていた人の名です」
とマリはいった。
フビライとは、いうまでもなく、チンギス・カーンの孫で、モンゴル帝国の第五代大カーンである。
意外だった。
輝明は、まさかあれが人の名前だとは思っていなかった。
それにしても、
「なぜ……」
フビライの家臣の名が、岡山の小さな神社に残っているのだろう。
「Long story」
と、マリは答えた。
わずか二つの単語だが、明らかにそれはネイティヴの発音だった。
輝明があっけにとられていると、
「すみません。とっさにいい日本語が思い浮かびませんでした。でも、どうしても知りたいんなら、郷土史に詳しい人が、ちょうど今、東京にいます」
とマリはいった。
そして今晩、輝明はその人物と会うことになったのだった。




八、 酒井明憲 

あま川に、輝明は午後六時ごろ到着した。
道元坂を一筋入ったところにある居酒屋である。
居酒屋といってもカウンター席以外はすべて小座敷で、掘りごたつ式で足が楽なので、輝明は取引関係の用談に何度か利用したことがある。
プライベートではそれ以上に足を運んでいる。
場所がら若い客も少なくないのだが、みな、店の空気をわきまえて静かに飲んでいる。
料亭というほどの堅さはなく、腰をすえた話をするにはちょうどいいだろうと、輝明は昨晩予約を入れておいた。
自分の方が迎える立場であり、輝明は六時半の約束より充分早く来たつもりだったのに、受付で予約した名を告げると、
「お連れの方、もういらっしゃってますよ」
といわれ、会う前から少し気持ちがうわずってしまった。
電話で挨拶は済んでいたが、座敷に向かい合って改めて名乗り合ったとき、輝明の声はかなり恐縮していた。
マリから郷土史家と聞いていたので、輝明は亡くなった父のような文系の学者タイプの男を想像していた。
そのことを話すと、酒井明憲は笑いながら、
「マリちゃん、郷土史家だといいましたか、私のことを。まあ、否定はしませんがね、私は坊主ですよ、天台宗の」
そういわれてみると最初の違和感は消え、酒井の坊主頭も、年齢の分かりにくい精神的な顔立ちも、どこか凜とした空気も、すべて、
(なるほど……)
と思われてくる。
酒井の顔立ちは三十代だといわれれば、そう見えたし、六十代だといわれれば、またそう見えるような不思議な顔立ちだった。
実は、背広を着た酒井を初めて見たとき、輝明は、
(武道の指導者みたいだなあ)
と感じた。
「もちろん歴史は研究しますがね。さあ、郷土史家なんていえるかどうか。第一私は京都の人間ですからね。岡山の郷土史家を名乗る資格はないかもしれません」
「京都ですか。ぼくも京都の出身なんです」
「ええ、知ってます。実は私、あなたのお父さんのファンでしてね、先生の著作は全部拝読しました」
「恐れ入ります」
酒井は、寺の集まりで東京に来ているのだといった。
「寺もね、ある程度の規模になりますと、民間企業と似たようなところがありましてね。
本来の宗教的な仕事より、組織それ自体の維持存続に関した仕事の方が多いんですよ。
ま、本来の宗教なんてことをいえば、六世紀に輸入した当初から、少しおかしかったんですけどね。
そもそも仏教がはたして厳密に宗教なのか、そこも疑問ですし。
大陸を旅している間にだいぶ変質してしまいましたから。
お釈迦さんが説いたのは、解脱の方法なんです。
これは、イチローが、大リーグで二百本安打を継続している工夫を説いているようなもので、凡人が聞いても、どうこうできるものでもないんです。
変質せざるを得なかった理由の一つは、そこいらにもあります。
今回はね、私ども、坊主の福利厚生を話し合うために全国から集まってるんです。
笑えませんな。坊主はね、仏ではなく宗教法人に仕えているですよ、昨今は。
今回東京に集まってる連中は、ほとんど団体の役員です。
まあ、だからどいつもこいつも、てかてかした顔をしてます。
金の集め方は政治家以下ですからね。
政治家なら票がありますからね、腰もかがめるし、頭も下げにゃなりません。
が、坊主のやってることはほとんど収奪ですよ。
もしお釈迦さんが布施や戒名のことを知ったら、悟りを忘れるくらい腰を抜かすでしょうなあ。
それと、修行をしませんからね、日常的に。
イチローや石川遼の方がよっぽどいい目をしています。
乞食と坊主の違いは血糖値ぐらいですよ。
あ、それと坊主はありがとうをいいませんな。
つまり、檀家をお客さまだと思っていない。
商売人としても三流です。
坊主として合格点をクリヤしているのは、ごくわずかです」
酒井はにこにこ笑いながら、ざっくりとしたことをいう。
「仏教団体というのはね、横のつながりが薄いというか、大きなまとまりがほとんどないんですよ。
国際的にも、国内でもばらばらです。
そういう意味では今回の集まりは画期的です。
それでも、啓示宗教系の大手さんから見れば、お笑いでしょうがね。
しかし啓示がない分、われわれは気楽ではあります。
二十一世紀になっても古典のまま生きていられる。
何百年間も同じ装束を身に着けて、同じお経を唱えていれば金になる。
その点、キリスト教やイスラムは大変だと思います。真面目な人にとってはね。
時代の変化が速いですからね。
少なくとも三十年に一度ぐらいは、預言者が現れてくれないと、ちょっとやりずらいでしょうなあ。
聖典の語彙は、生活用語はほとんどが死語です。
預言者もホームページを開設して、同時代の言葉で神の言葉を伝えてくれないと……。
もっとも預言者が現れないのは神の怠慢ですが……。
いや、失礼。
話が変な方へいきましたな」
この男はほんとうに坊さんなのだろうかと輝明は疑ったが、父親の葬儀のときの坊さんのように尊大で脂ぎったところがない。
さらさらした感じは、金に縛られて生きていないからなのだろうかと、好感が持てた。
きっと酒井は、
(合格点をクリヤしているのだろう)
と、輝明は思った。
「失礼ですが、山田さんとはどうゆうお知り合いなんですか?」
輝明は、気になっていたことを訊いた。
「私の師匠と山田さんの家とは古くから、ちょっと縁がありましてね。
どちらも先祖が岡山の高梁(たかはし)なんです。
江戸時代から関わりがあったらしです。
山田さんの先祖は、土地の大庄屋ですよ。
私は、師匠の使いっ走りで山田さんの家に出入りするようになったんですがね」
「ははあ」
酒井は軽く話しているが、相当親密な間柄にちがいない。
でなければ、山田からの電話一本で、見ず知らずの男の好奇心に答えるために、わざわざ夜の渋谷に出てきたりはしないだろう。
初め輝明は、親戚ではないかと思っていた。
まさか坊さんが現れるとは思っていなかったので、酒を勧めてもいいものだろうかと遠慮がちに訊くと、
「飲みますよ」
あっさりと、酒井はいった。
あまりにもあっさりとした声だったので、輝明はなんだか馬鹿なことを訊いてしまったような気がして心の内で赤面した。
あま川の常設メニューは、魚の干物と豆腐と漬物だけである。そこに季節ごと、旬の品が彩りとボリュームを構成している。
干物と漬物も時季により少しずつ変化するが、いつ何をたのんでも、これは外れだと感じたことは一度もない。
一方、酒のメニューは豊富で、輝明は岡山の米焼酎をロックで、酒井は福島の純米酒をぬる燗で飲んでいる。
酒井は湯豆腐を一口食べ、
「ほう。これは……」
と驚いた様子で輝明の顔を見、
「懐かしい味がしますなあ。こんな豆腐をこしらえるところがまだあるんですなあ」
しみじみ感心している。
輝明は、山田マリの声のことに触れた。
「電話で話しただけですが、あんな声もあるんですねえ。人の声にあんなに感動したのは初めてです」
「ははあ、マリちゃんの声。私なんかは、ベッツィ・アンド・クリスを思い出しますが、小林さんは知らんでしょうね?」
「はあ、ちょっと」
「オフコースや荒井由美が世に出るちょっと前ですから、小林さんはまだ生まれてませんね。
ハワイの白人デュオでしたが、すぐに消えてしまいました。
声の質が多少似てましたよ、マリちゃんと。
こう見えて私、若いころは、フォークソングにはまってましてね。
長髪にして、ギターなんかも弾いて、いろいろコピーしてました。
ところが私、話にならない音痴でして、それが二階の部屋で大声張り上げているわけですから、『浴衣の君はススキのかんざし……』なんてね。
今から考えると、家族はよく我慢していたと思います。
まったくの自己満足でしたが、そうゆうことが流行っていて、猫も杓子もという時代でしたから。
こりゃ失礼。
話がそれましたねえ」
酒井はくだけた話で場をなごませようとしているらしい。
輝明が引きずっていた気持ちの引け目のようなものを、酒井は感じ取っているようだ。
敏い男だ。
輝明は裸にされているようで恥ずかしかった。
うなぎの老人から聞いた木登りのことを話すと、酒井は、
「ははあ、マリちゃんが木登りをねえ……」
と、あごを撫でながら含み笑いをもらしていたが、驚いている様子はない。
驚かないということは、マリならそれぐらいのことはやるだろう、と考えているようにも見える。
ならばそのへんのことを何か話してくれるだろうかと、輝明は期待しながら酒井の口元を見つめていたが、結局、酒井は笑っているだけだった。
その笑いは、やはり何かを知っているように思われた。
酒井は、まるでお茶を飲むように酒を飲んでいた。
しかし、舌がもつれるようなこともなく、トイレに立つ足元も、いつまで経ってもしっかりしたもので、無造作に流し込む酒は、細身の体のいったいどこに入っていくのだろうかと、輝明は不思議な気がした。
酒井の話に時間を忘れ、気がつくと十時半だった。
結局二人は、あま川に四時間以上腰を据えていたことになる。
山田に頼まれたからなのか、そういう性分なのか、酒井の説明はとても行きとどいたもので、素人の輝明を面倒くさがるような気振りも見せなかった。
しかも面白い。
ところが最後は、ぶっつり断ち切られるように終わった。
輝明が渋谷駅で酒井と別れたのは、十一時近くだった。
「明日もくだらん会議があります」
と疲れた様子も見せず、酒井は、宿舎になっている都心のホテルに帰って行った。
はっきりとはいわなかったが、どうやら酒井は、会議を運営する側の人間らしい。
そうゆう中、長々と、輝明のために忙しい時間を割いてくれたことになる。
輝明は申し訳なく思うのと同時に、改めて、山田と酒井の間にはただならなぬ繋がりがあるような気がした。
輝明のマンションは渋谷からひと駅だが、地下鉄に下りるのが億劫で、タクシーに乗った。
気持がひどく疲れていた。
輝明はシートに深く身体をあずけ、酒井の話を反芻した。
今夜は、駅前の金融会社の電飾がぼうっとにじんで見えたが、車が氷川神社を過ぎるころ、
「降ってきましたねえ」
と運転手にいわれて、あれは雨の前触れだったかと気づいた。
あの西夏文字は、
「ニコラス、と書いてあります」
と、酒井はいった。 
「正確にいうと、ニコラスを漢字に音訳したものを、さらに西夏文字の音に移してあるということですが」
「ニコラス?」
「ええ、ニコラスです。ありふれた名前です」
「はあ。でも、東洋系の名前じゃないですよね。なんてゆうか、マリさんから、フビライの家来だと聞きましたから……」
「ええ。
モンゴルは、なんといってもユーラシアをつないだ世界帝国でしたからねえ。
フビライのころも、帝国は分裂していたといわれていますが、実は、人や物の流れは活発でした。
陸路も海路も。
大都は、今の北京の前身ですけどね、内陸都市なのに港を持っていました。
運河を掘削しましてね、直沽(ちょっこ)という海港とつながっていました。
現在の天津ですよ。大都が完成するのは、少し後のことですが、元の宮廷にはいろいろな地域の人種が集まっていたはずです。
ニコラスはいわゆる色目人(しきもくじん)でしょうが、支配者側の一員と見ればモンゴルと呼んだ方がいいかもしれません。
階層ピラミッドは、後世のわれわれが考えるほど単純ではなかったようです」
元は、治下の人々を四つの身分に分けた。
上から、モンゴル人、色目人、漢人、南人。
モンゴル人は、いうまでもなく支配階級である。
漢人は、かつて金に支配された華北の人々であるが、契丹人、女真人、高麗人、渤海人などもここに含まれる。
南人というのは南宋の遺民であり、最後まで元に抵抗していたため、様々に冷遇された。
以上の三グループ以外が色目人ということになるが、多くの種族がここに分類される。
主体は中央アジアのウイグル人、チベット人、さらにその西方に暮すイスラム教徒たちである。
彼らは、財務官僚として重用されている。
またヨーロッパからやって来たキリスト教関係者なども色目人と呼ばれた。
「小林さん、ウィリアム・ルブルクはご存じでしょうか? われわれは、ルブルクのギヨームと呼んでいますが」
「はあ、なんとか……」
輝明は、世界史の教科書に載っていたその名をおぼろげに記憶している。
ルブルクのギヨームは、フランシスコ会の修道士である。
1253年、フランス国王ルイ9世の命を受け、草原の道を旅し、翌年、カラコルムでモンケに謁見した。
第四代大カーン・モンケはフビライの兄である。
時は第六(七)回十字軍直後の時代で、ルイ9世はその遠征において、アイユーブ朝のサーリフに敗れて捕虜となり、莫大な賠償金を払って釈放されるという屈辱をなめている。
ウィリアムは、政治的には、イスラム挟撃の可能性を探るためにモンゴルに派遣されたのである。
「派遣といっても正式なものではありません。
ウィリアムの旅は自発的なものですから……。
ルイ九世は、まあ、追認したというところでしようか。
フランシスコ会は、モンゴルでの伝道の許可を得たいと強く願っていたわけですが、なんせ旅には金がかかります。フランシスコ会からすれば、ルイはパトロンです。
宗教はいつの時代も、政治権力と抱き合わせです。
小林さんも覚えておられるでしょう、エフェソスの公会議で異端になったネストリウス派のキリスト教。
あそこなどは早くからペルシアや中央アジアで信者を獲得していました。
まあ、異端とされたわけですから、東やアフリカ方面に展開するしかなかったんでしょうが。
フビライを産んだソルカクタニ・ベキのケレイト族など、部族をあげてネストリウス派を受け入れていました。
実際、彼女もキリスト教徒でした。
当然、ローマなどは危機感を持っていたでしょうなあ。
で、ウィリアム修道士がコンスタティノープルを発ったのが、1253年の6月なんですがね」
酒井は続けた。
ウィリアムは旅に先立ち、コンスタンティノープルで一人の少年奴隷を買い入れている。
「その少年の名がニコラスなんです。鹿忍神社に残っているのは彼の名です」
「奴隷の……少年ですか?」
どうも腑に落ちない。
それに、コンスタンティノープルとはまたずいぶん遠い。
鹿(か)忍(しの)神社の石碑から大層な話になってきた気がする。
「ええ。
子供は、食が細くてフットワークがいいですからね。
それに体が小さいですから、テント泊などで、面積の占有率が小さいわけです。
現代風にいえば、燃費がよくてコンパクト、回転半径が小さく軽快な動き。
そんなところです。
長旅にはもってこいですな。
おそらく、スラヴ系かゲルマン系。もしかすると、トルコ系か……。
有史以来、人間は、話す道具として取引されてきました。
商品ですよ。
当時、特にイスラム圏では、それが盛んでした。
労働力だったり、傭兵だったり、時には、性的な愛玩具として、用途は様々です。
道具として価値の大小はありますが、人格はありません。
消耗品です。
それを悪だと考えるようになったのは、歴史的にはごく最近のことです」
「その少年が、フビライの家来になるわけですか?」
「そうです。
官の要路に立っていたという意味ではありませんが、重要な部下になります。
股肱といっていいと思います。
けれども、モンゴル関係の史料に、彼の名はまったく出てきません。
漢文史料にも、ペルシア語史料にも」
「ペルシア語ですか?」
輝明には、モンゴルとペルシア語は結びつきにくい気がした。
「『集史』というペルシア語史料がありましてね。モンゴル史を研究する上で最も重要な文献ですが。小林さんは、高校でイル汗国とゆうのを習いましたでしょう?」
「ええ」
「今の研究者は、あまりそういういい方をしませんが。
フビライの弟のフレグが、およそペルシア帝国の版図に創った国です。
ただし、北アフリカを得ることはできませんでしたが。
イル汗国で、フレグから数えて七代目のガザンが、ラシードゥッディーンに命じて編纂させたのが『集史』です。
モンゴル帝国史と周辺の世界史が記されています。
写本はあちこちにあるんですが、わたしのような素人にも読めるような完訳はまだありません」
「はあ」
「結局のところ、ニコラスの名が歴史に登場するのは、ウィリアム修道士がアッコンで書いた報告書だけです。
現在はアッコと呼ばれています。
イスラエルの都市です。
ユネスコの文化遺産にも登録されていますが、白い石造の遺跡というのは、こう、海や空の青によく映えますねえ。ギリシアの遺跡などもそうですが、実に美しい。
いや、テレビで見ただけですがね」
「はあ」
しかし……。
それでは、ウィリアムの従者だったニコラスと鹿忍神社のニコラスを結びつける材料は、何もないではないか。
フビライの重要な部下になったなどと、どうしてわかるのか。
「こういうことなんです」
と酒井はいった。
そのタイミングは、まるで輝明の心の声が聞こえているようだった。
「本流の歴史とは別に、世間一般には知られていない毛細血管のような歴史というのがあるんですよ。
紅白に出る歌手もいれば、場末のクラブで歌う歌手もいる。
歴史も似たようなことです。
私のようなものが扱う小さな郷土史の中にね、ごく稀に、面白いかけらが落ちていたりするんです」
「はあ」
輝明は目で先を問うた。
「鹿忍神社の氏子に、阿比留(あびる)さんという家がありましてね」
「あびる? 変わった姓ですねえ」
「そうですねえ。
元は九州、間違いなく対馬の出だと思います。
阿比留というのは、対馬の地侍のトップの姓なんですよ。
十二世紀に、宗氏という在庁官人が台頭してくる前のね。
宗氏は、その後、秀吉の文禄・慶長の役の先鋒として活躍していますし、江戸期には、対馬藩主として、朝鮮通信使の接待役を務めました。
宗氏は、大名としは小振りですが、家格としては、鎌倉から廃藩置県まで続いた筋目です。
阿比留氏の方は、その陰で廃れてゆきました」



九、 阿比留 

明治25年。
秋の陽は、早くも防波堤の向こうの岬に落ちかかっていた。
香枝が、むしろの上に干しておいた小魚を、竹ざるに取り込んでいると、
「おかあ」
一郎が、門先から上気した声で香枝を呼んだ。
近所の子供たちと浜で遊んでいたはずだが、振り向くと、一郎は、後ろに見知らぬ老人を伴っている。
お坊さんだった。
香枝は、墨染衣に自然と腰をかがめていた。
「こちらは、阿比留信茂さんですか」
と、老僧はいった。
皮膚と同じように、水分の少ないしわがれた声である。
「へえ。阿比留はうちじゃけど……」
香枝は、上目遣いに相手を見た。
一郎は役目を終えたように、大人たちを後に残し、家の中に駆け込んでいった。
老僧は、比叡山から来たといった。
「へえ、そんな遠方から……」
当時、京都から岡山への移動は、時間的にも体力的にも、今のヨーロッパ旅行などよりも、はるかに大層な旅だったにちがいない。
なにせ、岡山駅が開業したのが、やっと明治24年のことである。
当初は国営ではなく、私鉄山陽鉄道の駅だった。
ちなみに、この山陽鉄道は、新撰組局長近藤勇の息子(養子)が勤めていた会社である。
地方の田舎には、江戸時代がまだ色濃く残っており、現代のように、駅前にタクシーが待機しているような時代ではない。
庶民の移動手段は、文字通り、己の足腰のみである。
岡山駅、あるいは三石駅から鹿忍までたどりつくのは、一日仕事だった。
同様に、比叡山から京都駅に下りるのも、大仕事だったろう。
香枝は驚きながら、とにかく遠来の客を家に入れ、棟続きの店へ、夫の信茂を呼びに人をやった。
座敷に上げ、茶菓など用意させたものの、来意を計りかねている信茂に、老僧は、
「僧形坐像を見せていただきに参りました」
と、いった。
僧形坐像というのは、阿比留の家に代々伝わる古い仏像である。
阿比留信茂の家は、鹿(か)忍(しの)の網元であるが、かたわらで海産物の卸業を営んでいる。
数代、堅実な商売を積み重ね、今では土地の素封家として近傍に聞こえるまでになっている。
この土地に住み着いたのは、信茂の曽祖父のときである。
阿比留家の古文書によると、文化年間(1804~1817)のことだというから、ちょうどロシアのレザノフが長崎に現れ、幕府に通商を迫ったころのことである。
それまでは、福岡で海運業に携わっていたらしい。
なんでも、鹿忍で後継ぎのなかった遠縁の家を、次男の曽祖父が養子に入り、そっくり相続したということである。
僧形坐像は、高さ六十センチほどの木像で、大変古いものだといい伝えられていたが、実際のところ、どれくらい古いものなのか、信茂はもちろん、父も、死んだ祖父も知らなかった。
その坐像は、阿比留家の守り神のように、大きな仏壇の中にずっと安置されており、信茂がもの心ついたときにも、やはりそこにあった。
地元では、だれもが知っている仏像だったが、それにしても、はるばる比叡山から、そんなものを目当てに、
(偉えお坊さんが来るたあなあ)
慮外のことだった。
信茂は門徒だったが、比叡山と聞いただけで、客を偉い僧だと決めつけていた。
いったいどこで、こんな片田舎のうわさを聞きつけたのだろうか。
信茂は、老僧を仏間に案内した。
「これですがな」
老僧は、ひたと坐像に視線を据え、しばらく無言で見つめていたが、信茂を振り返ると、
「仏像を、あそこから出していただけませんかな」
と、いった。
かさかさした、か細い声だったが、有無をいわせぬ力があった。
信茂は、いわれたとおりにした。
信茂が香枝と二人がかりで、仏壇から像を引っぱり出している間に、いったい何事かと、家じゅうのものが仏間に集まっていた。
老僧は、阿比留の家人に見守られる中、おもむろに仏像をひっくり返して膝に抱き、懐から、ひょう鉤のようなものを取り出した。
その道具の柄で、何やら確かめるように、コツコツと、仏像の基部を叩いていたが、
「開けますぞ」
一点を見つめたまま、老僧はいった。
それは、家人の承諾を求めるというより、仏像に話しかけているように見えた。
皆、ぽかんとして何のことやら分らず、信茂も返事できずにいたが、老僧は、
「ふん」
と、叩きつけるように、鋭い鉄の先端を像の座部に打ち込み、
「えい」
一気に、手前にえぐった。
「像の内部に、細い空洞がありましてね、巻文と、和紙の拓本が入っていました」
と、酒井はいった。
仏像の内部に経典や仏舎利容器、ミニチュア仏像などを納めるという話は、輝明もどこかで聞いたことがある。
「まず、和紙の拓本のほうですが……」
写されていたのは、牌子(パイザ)だった。
「フビライが発行したものです」
酒井は淡々と話しているが、それは大変なことではないか。
素人の輝明にもそれくらいわかる。
牌子(パイザ)とは、大カーン、またはカーンが発行する通行許可証兼IDカードである。
長楕円や円形の金属板であるが、牌子は、帝国の版図内において、天下御免のフリーパスだった。
材質は、金・銀・銅・鉄とあるが、金製の牌子の格がいちばん高い。
木製のものもあったようだ。
水戸のご老公の印籠のようなものである。
帝国が分裂していた、といわれるフビライの時代でも、実は、日本海・東シナ海から東ヨーロッパにいたる全ユーラシアで、牌子(パイザ)は、絶大な効力を持っていた。
旅人にとって、それは、あらゆる便宜とプライオリティーの保証だった。 
「巻文のほうですが……、前半が漢文でしてね」
おおよそ、次のようなことが記されていた。

私は、ルブルクのウィリアム修道士の下僕にして、十の言葉と予知の力で大ハーンに仕えたニコラスである。
私は、間もなく当地で死ぬが、共に封印した黄金の牌子を費えにして、備前国牛窓の地に、私の墓碑を造ってもらいたい。
文永6年2月この像を対馬島民に託す。

「あっ!」
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもありません」
このとき輝明は、謙吾の夢のことを思い出したのだった。
(父さんが手に持っていたのは、今、酒井が話した黄金の牌子ではないだろうか)
と思ったのだが、すぐに思い直した。
色の符合だけでそんなことを考えるのは、あまりに短絡過ぎる。
なんといっても、一方は、十歳の子供が見た夢の話である。
そこに不思議な因果を求めるのは、女性誌の占いをありがたがっている香織と大差ないように思われた。
「で、指示されていた墓碑銘が、例の西夏文字です。文永六年というのは、西暦の1269年で、文永の役の五年前です」
「蒙古襲来ですか」
「ええ、一回目のね。巻文の後半はすべて西夏文字の文章です。全部で333文字。私はその内容を知りません」
昭和39年、中村が最後の授業でクラスに配ったプリントにも同数の西夏文字が書かれていた。しかし、輝明は文字数のことまでは知らない。
「ニコラスは、フビライが日本に派遣した使節団の一員だったと考えられます。もし、牌子の原物が残っていたとしたら、間違いなく国宝でしょうなあ。日本においても、モンゴルにおいても。残念です」
というわりには、酒井のいいようはさらりとしている。
「ニコラスは、その使節団の正使というか、その、リーダー的な人物だったんでしょうか?」
「いいえ、ちがいます。国信使は黒的(こくてき)という人物です。
一回目の派遣にも、彼は加わっていますが、海峡の怒涛に度肝をぬかれましてね、すごずご、引き返しています。
ニコラスは単なる随員です。
しかし、そのニコラスが、フビライの牌子を持っていたことに大きな意味があります。おそらく、使節団の他のメンバーは、そのことを知らなかったと思います」
「どんな意味でしょうか?」
「正使でもないニコラスが、黄金の牌子など持っていても、それを使う局面がないということです。
たとえ正使であっても、同じことですが。
日本では、牌子は、金属としての価値以外、なんの意味もありません。
有効範囲の外ですからね」
「は? それじゃどうして……」
「これは私の推測ですが。ニコラスは、使節団の任務とは無関係に、しかも、日常的に牌子を持っていたんじゃないか、ということです。つまり……」
「はあ」
「ニコラスは、帝国内を頻繁に旅していなければならないような仕事をしていた。
具体的にどのようなことか、今のわれわれにはわかりませんが、フビライが、黄金の牌子を与えていたのですから、重要な任務であったことは確かだと思います」
「あのう、引っかかることがあるんですが」
「なんでしょう?」
「ニコラス少年は、奴隷だったわけですよねえ。そんな境遇の子供が、いくつもの言葉を話せるようになって、皇帝の側近になるなんてことがあり得るんでしょうか」
「十三世紀当時の状況では、あり得ないことです。
個別指導の語学塾なんてないですからね。
奇跡的なことです。
ただ、十の言葉と予知というのは、本人がそういってるだけで、実際どうだったのか、それは分りません。
私は信じたいですけどね」
「それじゃあ、ウィリアム修道士の下僕のニコラスだったというのも、本人がそういってるだけで、本当は違うかもしれませんよね」
「違うかもしれません。しかし、九分九厘、まちがいはないでしょう」
「どうしてでしょうか?」
「嘘だとすると、何のための嘘かということです。
コンスタンティノープルで、ウィリアム修道士に買われた奴隷だったと宣言しても、なんのメリットもありません。自分の出自に関して嘘をつくんなら、たいてい逆でしょう。
日本史では、馬の骨ような輩(やから)まで、源平藤橘を名乗っています」
「それはそうですが……」
「それともうひとつ。
こちらの方が、決め手になると思うんですが。1269年現在で、その16年前に、ウィリアム修道士が、コンスタンティノープルで買った少年奴隷の名を記憶しているものが、全世界に何人いたか、ということです」
「……」
「私は、二人だと確信しています。
つまり、ウィリアム修道士とニコラス本人です。
ウィリアム修道士の旅は、三人の連れがいました。
イタリア人で、フランチェスコ会修道士クレモナのバルトロメーオ。
カーンへの進物をたずさえた国王秘書官ゴセット。
ガイド兼通訳のシチリア人オモデオです。
この三人は、旅が終わった瞬間に、ニコラスという名を忘れたと思います。
他人が所有する奴隷の名など、覚えないのが普通なんです。
現代でいえば、備品の道具に貼ってある番号シールのようなものですからね。
16年が経過していればなおさらです。
それから、ウィリアム修道士が、ルイ九世あてに書いた旅の報告書ですが……。
これが活字になるのは、ずっと後世のことです。
数年前に、同じくモンゴルに派遣されたプラノ・カルピニの場合は、こちらは、ローマ教皇の正式の使節でしたから、彼の報告書はそれなりの扱いを受けて、広くに世に知られましたが、ウィリアムの報告書は、いわばプライベートな記録ですから、ほとんど黙殺状態です。
現在のわれわれの目から見ると、資料的な価値は、ウィリアムが残したもののほうが、圧倒的に高いんですがね。
いずれにせよ、長大な報告書に、一度しか現れない少年奴隷の名など、誰も記憶にとどめなかったでしょう」
「なるほど」
「ニコラスが残したメッセージで、最も興味ぶかいのは、墓碑建造の地として、備前国牛窓(うしまど)を指定していることです。
日本の地理を非常によく知っている。
牛窓は、遣隋使・遣唐使の時代からの要港でしたから、大陸で、その地名に接することもできたでしょうが……」
「対馬に来てから、日本人の誰かから聞いた、ということではないでしょうか」
「違います。
というのは、あの坐像は、形式的に見て、高麗で作られたものです。
牌子と巻文は、日本に来る前に像の体内に封印されています。
使節団の一行は、文永五(1268)12月4日に、高麗の江都を出発し、対馬に到着したのは、翌年の2月16日です。しかし、彼らはそこで足止めをくっています。
当時、島のトップは宗資(すけ)国(くに)でしたが、彼は鎌倉の時宗から、前もって指令を受けていたんですな。
幕府はモンゴルに対し、力のバランスを考えると、信じられないような強硬路線をとっていました。
で、結局本土への入国を許されないまま、一行は、2月24日には対馬を発っています。
時間的にみても、日本での作業ではありません。
当局の監視も厳しかったはずです。
そうするとですね、必然的に、ニコラスは日本に来る前に、自分が日本で死ぬことを知っていたということになります。わずか一週間あまりの対馬滞在の間にね」
「ニコラスは、対馬で死んだんですか?」
「わかりません。記録がないんです。墓はありますがね、鹿忍に。しかし、もし対馬で死んでいたとしたら……」
「ニコラスは、予知能力を持っていた」
「そういう力があったか、あるいは覚悟の自殺を遂げたか……」
「……」
「それにしても、なぜ牛窓かということです。
しかも西夏文字。
ニコラスが生きていた当時としても、かなり特殊な文字です。
読まれることを拒んでいるようにも見えますし、特定のものだけに読ませたがっているようにも見えます」
「なぜでしょうか?」
「わかりません。歴史家としてはそういうしかありません。ただ、ニコラスの遺志は、結果的に実現しています。6百年以上を経てね」
「すると、鹿忍神社のあの石碑は……」
「阿比留信茂が刻ませたものです。
明治25年か、その翌年のことだと思います。
信茂は責任を感じたんでしょう。
正直な人物でしたから。
信茂の先祖の誰かが、坐像の中に納められていた牌子の黄金をかすめとっています。
言葉は悪いですが、明らかに約束を果たしていませんからね。
それでも、牌子の拓本を残し、ニコラスが書いた巻文を廃棄しないだけの良心は持っていた」
「それにしても、ものすごい偶然ですよねえ、ニコラスが坐像を託した阿比留氏の子孫が、鹿忍へ移住することなになるなんて」
「まったく奇跡的です。
筋目の家なら、私のような素人学者にだって、8百年前の祖先をたどることはできます。
しかし、その逆は神の業です。
もしニコラスが、自分でいってるように、予知の力を持っていたとしたら、話は別かもしれませんが……。
ちょっと物語じみてますかな」
「……」
「ただね、予知とかいうこととは別に、ニコラスが阿比留氏を選んだのは、なんというか、実に絶妙です」
「それはどういう……」
「ニコラスは、坐像の秘密を隠したまま、相手に渡しています。
渡された方が、いつ、その秘密に気づくかは分からない。
もし早い段階で気づいた場合、それを体制側、つまり宗氏や執権政府に報告されてしうこともあり得る。
それでは困るわけです。
だとすると、坐像を託すのに、阿比留氏以上の適任者はない、ということになります。
阿比留氏には、宗氏に叩きつぶされた恨みがありますからね。
ま、そうなると、予知というよりは、歴史の分析力ということになるのかもしれませんが……」
「酒井さん」
「はい」
「明治25年に、鹿忍の阿比留家を訪ねた老僧というのは?」
「私の師匠筋にあたる方です。何代も前のね」
(やはり……)
話に比叡山の老僧が出たとき、輝明はすぐに、酒井と何か関わりがあるのでは、と感じた。
しかし、そういうことになると、酒井が今話していることは、歴史というよりも、一門、あるいは身内の過去ではないか。郷土史というより、りっぱな世界史ではないか。
しかも、酒井は、その発見を世に公表していないらしい。
(この男は、いったい何者だろう)
輝明の胸に、初めて疑念が生じた。
「あのう、酒井さん。その師匠筋の方は、どうして坐像の秘密を知っていたんですか?」
「さあ、そこです」
酒井はまた、お茶を飲むように、酒をのどに流し込んだ。
「ある人にね、教えてもらったんです」
「はあ」
「森アサノいう人です。マリちゃんのご先祖ですよ。五代前になりまりす。小林さんは、山田あさみさんには会ってますよね、牛窓で」
「はい」
「森というのは、山田あさみさんの実家の姓です。岡山県高梁(たかはし)市です。巨(こ)瀬(せ)という村の大庄屋の血筋です」
霧のように広がっていた疑問が、一点に集束されていくような気がした。
が、問題は解決していない。
森アサノは、なぜ坐像の秘密を知っていたのか。
「森アサノさんもね、またある人物から教えてもらったんですが……」
「ある人物というのは?」
「残念ですが、今、それを申し上げることはできません。私は知っていることをすべてあなたにお話しできるわけではありません。私の話はこれで終わりです」
「えっ」
唐突だった。
「さあ、そろそろ腰をあげましょう」
酒井は立ち上がった。
とりつく島もない。
酒井はもう靴をはき始めていた。
ある人物というのは、おそらく歴史研究者か、あるいは寺に関係した者なのだろうと、輝明は想像した。
いずれにせよ、大昔の、縁もゆかりもない人物の名など聞いても仕方ないといえば仕方ない。
が、申し上げられませんといわれると、かえって気になった。
口に運びかけたステーキの、最後の一切れを床に落してしまったような歯がゆさが、輝明の胸に残った。
しかし、酒井はもう出口の方へ歩き始めている。
 
タクシーを降りて、輝明は、傘がないことに気づいた。
冷たい雨だった。
シャッターを下ろした商店街を歩きながら、
(申し上げることはできません、か……)
また、輝明は考え始めていた。
鹿忍の阿比留家に、老僧が現れたのが明治二十五年。
今から百二十年近く前のことである。
坐像の秘密を知っていたある人物は、当然、今、生きているはずもない。
その人物の名を、
(なぜ告げることができないのか)
坐像の秘密を知る過程で、非合法な、何か犯罪めいたことでもあったのだろうか。
そうだとしても、
(百二十年も前のことじゃないか)
その人物の子孫の名誉を、今さら傷つけることもないだろうに。
「そんなの考えたってしようがないじゃない」
という良子の声が聞えた。
(だよな)
輝明は、笑いにならない笑いを浮かべた。
「そんな大昔の、知らない人の名前を聞いたって、仕方ないじゃない」
(そりゃそうだけど……)
輝明は、胸底に溜まっていくもやついた気持ちをもてあました。
「やっぱりお父さん似ね。そうやってこだわるところは……」
(ふん)
雨がやんだなと思ったら、いつのまにかアーケードの下を歩いていた。
スナックのネオンが、ぱちぱちと花火のようにはじけている。
「あっ」
それを見ていて、にわかに、輝明の胸に、一つの記憶がよみがえった。
(線香花火だ)
幼い自分が父と二人、川端にしゃがんでいる。
細い竹ひごの先から、菌糸のようにはじけては消える赤い花に見入っている。
終わりそうになると、父が、新しい花火に火種を移してくれた。
(あれは、夏の花火ではなかった)
今晩のように寒かった気がする。
どこか田舎の川だった。
田舎だとすると、父の実家の長野だったのかもしれない。
花火なら夜だろうに、透明なせせらぎの中に、ときどき水中から、魚の銀鱗(うろこ)が光って見えた。
(どうしてそんな時に、花火なんかしたんだっけ……)
「そんなの考えたって仕方ねえよな」
輝明は、そこにいない良子に話しかけた。
一つ情景の中に、父と自分を一緒に思い出したことなど、これまで一度もなかった気がする。
探せば、そういう思い出は他にもあるのかもしれない。
(もしかすると、おれは……)
父のいる風景を無意識に、記憶の暗がりに追いやってきたのだろうか。
そう考えると、輝明は、もうこの世にいない父に対して、何か後ろめたさのようなものを感じた。
父は我が子を顧みなかったが、
「おれも、似たようなもんか……」
少なくとも、自分と姉と母の日だまりに、父が入って来ないことを、子供の輝明はどこかで望んでいたような気がする。
(子供だって、ずるいんだ)
幼いから純真、とばかりもいっていられない。
輝明の顔の筋肉が、奇妙な笑いを作った。
何者かにへつらうようなその笑いは、ずっと暗闇に隠されていた心奥の歪みが、片時、照らし出されたかのようであった。
輝明は頭を振った。
そういえば別れ際、
「小林さん、健康診断は受けていますか」
と、酒井は妙なことをいった。
「ええまあ、会社で……。それが何か……」
「いえ、ちょっと伺ってみただけです。
東京に出てきたついでにね、私、知り合いの病院で人間ドッグに入るんですがね……。
なんといいますか、大切なことだと分ってはいるんですがね、どうも億劫になりますなあ。
バリウムとか、尻に指を突っ込まれたりとか……。
あ、それから、すべて解決しますよ、そのうち。
お休みなさい」
そういって酒井は車に乗った。
なんだったのだろう、あれは……。
「ふん、どうでもいいよな。そうだろう、母さん」
頭に靄がかかっている。
つい過ごしてしまった。
「ベッツィ・アンドなんだっけ……」
CDでも探してみようか、と輝明は思いついた。
(それにしても、山田マリの声は……)
いったいどんな少女なのだろうか。
声と同じように、透明な妖精のように美しい娘なのかもしれないと、輝明は思った。
だが、ちょっと声を聞いたくらいで、赤の他人の娘を好き勝手に想像しているのは、男の生理の横暴さであるような気もした。
二股の分かれ道にうずくまるように、温かな灯りが見えた。
ラーメンの屋台だ。
右の坂道を高台に上ると、輝明のマンションがある。
輝明は、急に寒さに耐え切れなくなった。
「小腹がすいたなあ」
輝明は、闇に幻のように黄色く浮かび上がったテントへ、吸い寄せられるように歩みよっていった。



十、 呼ぶ声

その日の朝、小林正二は、寮から乗ってきた自転車をヨットハーバーに置き、海側から鹿(か)忍(しの)神社に登った。
亡くなる二年前の夏のことである。
うっそうとした木立の下をくぐってゆく小路は、薮に埋もれた廃屋などもあり、地元の者がたまに通るくらいで、忘れ去られたもの寂しい道だったが、中腹からは急に森が途切れて海の眺めがよい。
正二はこの道が好きだった。
今日も朝から雲一つなく、もうすぐ九月になるというのに、夏の勢いはなかなか衰えそうにもない。
四年前にこちらに越して来てからというもの、正二は、暇のあるときは、たいてい鹿忍神社に登っている。
出勤前の早朝のこともあるが、夕方がいちばん多い。
海を照らす光が、その時刻、いちばん美しいからだ。
四年あまりの間、神社の立つ岬の上の風景に、ほとんど変化はなかったが、最近、一軒の家が新築された。
背後の森によく映えた、すがすがしい家である。
どんな人が住んでいるのか、正二は家の前を通るたび、ちらちら
様子を窺っているが、まだ家人の姿を見たことはない。
鳥居のところまで来て、正二は立ち止まった。
ここから本殿までは、もうひとかた石段を登らねばならない。
いつもここで、一息ついている。
(今日は、いくさんはいないな)
正二は、鳥居の南に広がっている畑を眺めわたした。
ついこの間まで、西瓜の黄緑色の蔓が畑一面を覆っていたのに、今度は何を植えるのか、今はもう、黄色い土は耕されて、ほっこりとふくらんでいた。
その畑で、いくさんは、年がら年中、野良仕事をしている。
いつも飴色になった麦わら帽子をかぶっている。
冬でもかぶっている。
会えば、立ち話をする。
いつも、いくさんが畑の中から正二を見つけ、こちらへやって来て、
「ごっけんは、どうかな?」
という。
きりきりと動き回る姿は、とても七十を越しているようには見えない。
正二が感心するたびに、
「しゃきしゃき畑をせんと、おおけえほうが出んようになるからなあ」
と、いくさんは口癖のようにいう。
初め、正二は何をいっているのか分らなかったが、つまりは、便通が悪くなるということである。
いくさんを見ていると、きっと、子供のころと同じように、飯がうまいにちがいないと、正二は羨ましくもあった。
そのいくさんに感化されたわけではないが、夏場は正二も、京都から持ってきたパナマ帽を止めて、つばの広い麦わら帽子をかぶるようになった。
田舎の雑貨屋でしか買えないような、なんの装飾もない、縫製の粗い麦わら帽子だったが、それが、なんだか実によく似合っていて、日陰に腰を下ろしている姿など、すっかり地元の人間という感じである。
外をよく歩くせいで、肌にも、以前のような頼りない青白さはない。
京都時代の正二を知る者がこれを見たら、驚くにちがいない。
妻の良子でも、自分の夫だとは気づかないかもしれない。
(誰からも気づかれない存在、などというものがあるのだろうか)
できるものなら、そうありたい。
ときどき、正二は思う。
(たわいもないことを……)
と思う一方で、こんなたわいなさは、京都時代にはなかったことだと、正二は、岡山に来てからの自分の変化を見つめる。
常に注目される京都時代だった。
芸能人ではないから、街を歩くのに不都合はなかったが、著述は、一字一句評価の対象だった。
一般読者の好意的な声などは、めったに届かない。
一方、研究者同士が冷たく論難しあうさまは、異常を通り越していた。
が、耐えられないことではなかった。
(どんな世界もそんなものだろう)
正二は冷めた目で見ていた。
気持ちの持ちよう次第で、自分に向けられる邪気を力に変えることもできた。
麦わら帽子を石段の上に置き、正二は、腰に下げていたタオルで、額から首筋の汗をぬぐった。
ぬぐった後から、また汗が流れ出る。
だが、嫌ではなかった。
(ここには……)
生きる実感があった。
生まれて死ぬ間に、いくさんのように五風十雨に感謝する以上のことがあるだろうか、と正二は思う。
空も海も、四国のあるあたりは白く霞んでいる。
年がら年中ここへ来て、こうして瀬戸内の海を眺めていても、一年のうち、はっきりと四国の山々が見えたのは、片手で数えられるほどではあるまいか。
別にそれを期待しているわけではないし、四国が見えたからどうということもないのだが、まれに、四国山地のシルエットが、白い空にぼんやり浮かび上がると、それだけのことが、なんだか嬉しいのである。
たわいもないことだった。
だが、人生だった。
ゆっくりと石段を上がりながら、
(今度会ったときに、いくさんにあの家のことを聞いてみるか)
と、正二は思いついた。
地元の人というのは、どこから仕入れるのか、驚くほどそういう消息に詳しい。
こちらに越して来て、初めていくさんに会ったときも、いきなり、
「本町の寮に来られた大学の先生ですかな?」
と、正二は話しかけられたのだった。
初対面の老人からそのように声をかけられて、正二は、驚く以上に呆れてしまったものだ。
いくさんなら、おそらく、新来の住人のことを何か知っているだろう。
正二は、岬の上で起きた初めての変化が気にかかった。
というより、ずっと変化を待っていた。
上まで登り切ると、正二は本殿を素通りして、まっすぐ西夏文字の墓碑に向かう。
この神社に三日にあげず通っていて、正二は、これまで一度も拝殿にぬかづいたことがない。
それは、何も鹿(か)忍(しの)神社に限ったことではない。
実は、成人してからというもの、正二は神社で手を合わせ、何かを願ったことは一度もなかった。
かといって、かたくなな無神論者というわけでもない。
正二も、心の中で神だのみすることは間々あるのだが、神社でご利益を願うという、日本人にとってごく一般的な習俗が、どうも性に合わないのだった。
もっとあからさまにいえば、社殿の奥に、人間の手前勝手な望みを叶えてくれる何者かがいる、とは思えないのだった。
人が縄張りした神々の家には、ただ人々の願いだけが、空しく満ちあふれているように感じられた。
「小林くんの神さまはどこにいるの?」
と、一恵は訊いた。
学生時代のことである。
そういうとき一恵は、大きな黒い瞳をそらさず、真っすぐにこちらを見つめてくる。
正二の性格なら、耐え切れなくて目を伏せてしまいそうなものだが、一恵に見つめられても、不思議とそうはならなかった。
正二の生涯で、見つめられて平気だったのは、一恵と高校の恩師、加藤の二人だけである。
その不思議さが、人間嫌いの正二が、一恵を受け入れることになる要因だったのではないか。
一恵は、皆が拝礼するのを一人だけ離れて見ている正二が気にかかった。
高知でゼミ合宿をした際に、近くの神社を訪れたときのことだ。
そのときから、一恵は、正二に興味を持つようになった。
正二の神は、決して人が近づくことのできない場所にいた。
しかし、それは、遥か天上界でもなく、水平線の彼方でもない。
「じゃ、どこなの?」
「よくわからない」
が、敢えて言葉にするなら、
(並行時空かもしれない)
と、正二は思うのだった。
そして、その神は、聖域の中のみでぬかずく人々の姿よりも、日々の暮らしのあり様を凝視しているような気がした。神の前に、何ごとも隠し立てができないとしたら、一瞬一瞬が裁きであり、祈りではないか。
「へえ、小林くんて、あの小林くん? ま、顔立ちは端整だけど、目立たないっていうか、ちょっと地味じゃない」
と、一恵の女友だちは、意外な顔をした。
当時、一恵は、そこそこに、若い男たちの目を引く存在だったからである。
しかし、正二への一恵の興味は、関心へと変わっていった。
そして、正二のことをつぶさに観察するようになると、一恵は、すぐに、正二が平凡な学生でないことに気づき始めた。
正二は、歴史の合間に、
「ちょっと気分転換。休憩だよ」
といっては、数学をやっていた。
「数学の問題を解いていると、頭がすっきりしてくるから」
何でもないことのように正二はいうのだが、正二が広げている数学書は、一恵の目にも、高度な専門書だと判った。
難解な数学が、どうして休憩になるのか。
一恵には理解できなかったが、
「無駄のない簡潔な論理は美しいよ」
日本の伝統美に通じるものがある、と正二はいった。
大仰な感じがして、一恵が笑うと、
「名人が作った絣(かすり)の着物みたいなものだよ」
と、正二はいった。
一見、素朴に見える美は、実は、緻密な計算によって生み出されているのだ、という。
「シニカルだよね」
と、正二は笑った。
一恵は、正二が結婚前につきあった唯一の女性だった。
(唯一でよかった)
と、正二は思う。
できるなら、皆無であったほうがよかったのだ。
自分のようなものが結婚し、子供をもうけたことさえ間違いではなかったか、と感じることもある。
同棲するようになり、一恵は正二の天才を知った。
一恵は感嘆し、尊敬した。
が、男の懐内に入ってみると、そこは乾いた孤独な世界だった。
若い娘が期待する甘やかさなどどこにもない。
色彩も湿度もない空間に自分を閉じ込め、正二は、ひたすら何かに向かって突き進んでいた。
わき目もふらない正二の日常が、ときどき、修行僧のように見えることもあった。
一恵は、生まれて初めて、本当の孤独を知った。
(この人は、いったい何のために生きているのだろう)
正二の鬼気迫る研究姿勢は、明らかに、確固とした目的意識の表れにちがいない。
しかし、少なくともそれは、
(私のためじゃない……)
自分が入っていく余地などどこにもない、と一恵は感じるのだった。
一つ部屋で暮らしながら、一恵は、砂漠の真ん中で方向を失うような恐怖感を覚えたものだ。
遠くから見る天才は、富士のように荘厳だった。
しかし、実際に登山道を歩いてみると、そこは、荒涼とした火山岩の荒野だった。
正二が一心不乱に机に向かっているとき、一恵は所在なかった。
(この人は……)
きっと、学者としては大成するにちがいない。
だが、
(一生を共にする人じゃない)
と、一恵は感じ始めた。
正二の魂は、いつも遠い世界にあった。
気まぐれにこちらに戻って来て、一恵を見つめた。
優しいまなざしだった。
しかし、一恵は嬉しいというより、寂びしかった。
二人の生活は二年あまりで終わった。
正二は大学院生になっており、一恵は、京都市内の高校で歴史を教えていた。
その日の夕方、一恵はいつものようにスーパーの袋を提げ、アパートに帰って来た。
階段の下に立ち止まって鉄のステップを見上げたとき、さっと風が吹き降ろし、落ち葉が一枚、かさかさと音を立てて、ペンキのはげた階段を転がり落ちてきた。
(何が待っているのだろう……)
暗い部屋の寂しさを想った。
灯りをともしても、正二が帰宅しても、その寂しさは消えない。
一恵は、一歩が踏み出せなくなっていた。
(どうしたんだろう……)
突然、じんわりと涙がこみ上げてきた。
一恵は買い物の袋を足元に置き、夕闇の街をどこへともなく歩き始めた。

(何百回、こうしてこの墓碑をながめたことか)
正二は、来し方を振り返る。
正二が初めて鹿忍神社を訪れたのは、昭和四十三年の夏のことである。
当時、正二は大学三年生で、京都のアパートで一人暮らしをしていた。
金を出したのはもちろん両親だったが、正二と一緒に京都まで足を運び、不動産屋を訪ね歩き、引越しの面倒一切をみたのは、兄の啓太郎だった。
大学に入学するとすぐに、正二は西夏文字の研究を始めた。
当時、東洋史に玉木良太郎という教授がおり、何かと正二の力になってくれた。
玉木は、学部生の段階で、しかも独学で西夏文字に取り組もうという変わった学生に興味を惹かれたようである。
大学の図書館というのは、一般の学部生には手を触れることのできない秘蔵の書籍をたくさん埋蔵しているのだが、玉木を通して、正二は、そういうものを自由に読むことができた。
また玉木は、西夏文字に関する学会情報なども知らせてくれ、当時、オーバードクターで西夏文字を研究していた相沢裕二という先輩を紹介してくれたりもした。
この相沢を通して、正二は、暗中模索の独学に方向性を得ることができた。
さらに。
正二は西夏文字に関する海外の研究論文を読むために、中国語やロシア語の勉強も始めた。
優れた研究成果は、何語であろうとも、ぜひ読んでおきたかった。
後に、古今十数ヶ国語を思いのままに操るといわれた小林正二の第一歩は、このころ始まったのである。
これらのことを、正二は、大学での履修科目とは別に行っていた。
自然、正二の学生生活からは、余暇というものがなくなっていく。
正二は、他の学生たちのようにサークル活動もしなかったし、週末、若者らしい遊興に心身をほぐすということも、ほとんどなかった。
眠る時間を削り、まさに刻苦勉励の日々を送っていた。
それまでの人生で、正二は、このように本気で何かに取り組んだことはなかった。
今初めて正二は、持てる能力をすべて解放したといえる。
そのように自分を追い込むことができたのは、前年の五月、
「待ってるから」
と、中村がいったからだ。
中村が学校を去る日の放課後。
正二のクラスのほぼ半数が、校門の近くで中村を待っていた。
最後の「お別れ」をするためだ。
正二もその中にいた。
しばらく待っていると、事務棟の玄関に、白いブラウスにすみれ色のスーツを着た中村の姿が現れた。
左の胸に赤いコサージュを着けているのは、職員室での贈り物だろうか。
校舎に正対した中村は姿勢を正し、一つ、深々とお辞儀をした。
いつもくだけた雰囲気の中村が、遠くからも凛として見えた。
歩き始めるとすぐに正二たちに気づき、小走りにやって来くると、
「どうしたの? 見送り、私の?」
「はい」
「まあ、こんなに大勢で……」
感激している中村に、生徒たちは口々に別れの言葉を告げた。
涙ぐんでいる女子生徒もいた。
中村は、ひとつひとつ、嬉しそうにうなずいていた。
寄せ書きの色紙が手渡された。
個人で、手紙や記念の品を渡す者もいた。
正二は、かたまりの後ろのほうで、ひっそりとその様子を眺めていた。
コサージュは、生花の赤いバラだった。
「先生」
と、誰かが訊いた。
「あの西夏文字のプリントは、ジョークですか?」
「ううん、真実よ」
「先生、いつかまた会えますか?」
女子生徒が、涙声でいった。
「また会えるわ。あのプリントを読んだ人とはね、ふふふ」
「先生、写真を一枚」
男子生徒が、中村に向かってカメラを構えた。
「待って。誰か一緒に写りましょう」
「はい、はい、はい、はい……」
男子も女子も、中村の横に立とうと押し合いへし合いした。
「仕方ないわねえ。じゃあ、問題。答えられた人が代表よ」
中村はいたずらっぽく笑い、
「私が、今日みんなに配ったあのプリントには、なん文字の西夏文字が書いてあったでしょう?」
「えええ」
「うっそう」
「そんなの数えてるやついねえし……」
生徒たちは一様に、失望の声を上げた。
ところが、そんな中、
「333文字です」
と、声をあげた者がある。
皆、一斉に、声のほうを振り返った。
正二だった。
数秒、その場を妙な沈黙がおおった。
「正解です。さ、小林くん」
中村は小さくうなづき、正二を招いた。
皆、あっけにとられてぽかんとしていたが、中村だけは、まったく驚いた様子もない。
男子の一人が、
「うっそ、小林、お前、すっげえ暇人」
といったとき初めて、皆、我にかえったように、どっと笑った。
「信じられない」
「ほんと暇人」
まだ、くすくす、笑い声が聞こえた。
しかし……。
そうではなかった。
正二は、プリントの文字数を数えたりしてはいない。
しばらく見つめ、折りたたんでノートに挟んだ。
それだけだった。
実は。
たった今、正二は頭の中に思い浮かべたプリントの文字数を数えたのだ。
クラスメートたちにとって正二は、大人しくあまり特徴のない生徒にすぎなかった。
ワン・オブ・ゼムである。
そして、このときも、生徒たちは、自分たちがたった今笑い飛ばしたものが、実は恐るべき才能の漏洩だったということに、誰一人気づいてはいなかった。
正二は、遠慮がちに中村の横に並んだ。
ところが、中村は正二の背に手わ回し、ぴたりと抱き寄せた。
正二の心臓は早鐘を打った。
腕に触れた中村の指先から、かすかに、中村の鼓動と体温が伝わってくるような気がして、正二は、体じゅうが燃え上がってくるのを感じた。
二人を見つめる羨望の視線。
その熱で、正二はますます顔のあたりがほてるのだった。
中村は美しく、花の匂いが漂っていた。
バラの香りではない。
気が遠くなりそうな中村の肌の匂いに魂をあずけていると、輝明は、数学のどんな難問も解けるような気がした。
それは幼いころ、こっそり隠れ聴いていた母のピアノの旋律と同じだった。
美しい調べは、まるで素粒子のように、複雑に絡まった難問を透過していく。
そして、金属の塊りのように見えていたもつれが、一気にときほぐれ、簡潔な秩序の中に再配列されていくのだった。
撮影が終わって離れ際、中村は正二の耳元に、
「待ってるから」
と、ささやいた。
(えっ!)
問い返す間もない。
すぐにまた、中村は生徒たちに囲まれ、もみくちゃにされていた。
気がつくと、正二はもう集団の端っこにいた。
また遠くから見つめているしかなかった。
やがて、中村は皆に見送られ、校門を出た。
数歩歩いてから立ち止まり、もう一度、中村はこちらを振り返った。
小さく片手を上げた。
(ぼくを見たんだ)
とっさに正二は思った。
中村の瞳は正二を見つめ、確かに、何かを語りかけていた。
中村のくちびるは、閉じられたままだった。
しかし、あの刹那、正二の五感は、何かに感応した。
その日の中村の姿は、決して忘れることのできない一幅の絵となり、正二の胸の奥底に凍結した。
長野を離れる前、正二は、高校に、担任だった加藤を訪ねた。
正二は、教師たちの中で唯一、加藤が好きだった。
ずいぶん手を焼かせたにちがいない。
京都に行く前に、
(ちゃんと挨拶をしておこう)
と、決めていた。
それに……。
中村の連絡先を知りたかった。
「できれば今後、暑中見舞いや年賀状を書きたいと思います」
というと、加藤は、
「美人の先生は得だなあ」
と、片目をつぶってみせた。
「あの、もちろん先生にも書きます」
「いいよ、気にしなくて」
加藤はにこにこ笑いながら、中村の住所を教えてくれた。
ところが。
翌日。
正二が教えてもらった松本市内の住所を訪ねてみると、驚いたことに、目当ての家は門を閉ざし、草莽(もう)に埋もれていたのである。
正二は、狐につままれたような気がした。
(いったいどういうことだろうか?) 
正二は通りかかった初老の男性を呼び止めた。
「誰も住んでないよ」
と、その人はいった。
橋本という年金暮らしの夫婦が住んでいたが、大阪の娘の嫁ぎ先に引っ越したのだという。
「三、四年になるかなあ」
以後、まったくの空き家だと、その人はいった。
正二は愕然と、その場に立ち尽くした。
以来。
正二の目標は、あの333文字の西夏文字を読むことに定まったのである。
なんとしても中村に会いたかった。
そして。
大学の三年生になるころ。
正二は、プリントのほぼ全文を解読していた。
驚嘆すべきことである。
しかし、驚嘆したのは正二の方だった。
333文字の西夏文字は、破綻のない完璧な文章だった。
専門の研究者であっても、果たして同じことができるかどうか。
(中村先生は何者だろう)
そこである。
空き家のことといい、正二は、深まる謎に翻弄された。
疲れた体をベッドに横たえたとき、中村は、
(本当に、この世に実在する人間なのだろうか……)
などと疑い始めると、あの高三のひと月間、世界史を教わったことさえ、
(夢ではなかったか……)
と、思われてくるのだった。
そして、謎が深まるほどに、中村の幻は美しさを増し、正二は、逃げ水のような幻影に強く焦がれるのだった。
正二が読解したプリントには、ウィリアム・ルブルクの下僕ニコラスの生涯が記されていた。
「これを読むことになる人の運命が書いてある」
と、中村がいった西夏文字のプリントを、とうとう、正二は読みきった。
そして。
自分以外にそれができたものは、
(いるはずはない)
と、正二は確信している。
ならば、ニコラスの運命は正二の運命、そういうことになるではないか。
(からかわれているのだろうか)
プリントによると、ニコラスは元朝成立前のフビライに仕え、1269年、日本で死んでいる。
世は、執権北条氏の時代である。
そして、ニコラスの墓碑が、備前国鹿忍(岡山県瀬戸内市)にあるという。
(ばかな……)
半信半疑で岡山を訪ねた正二だったが、ニコラスの墓碑は確かに、鹿忍神社の境内の隅に実在していた。
プリントに書いてあった通りだ。
しかし、どうして、
(奴隷のニコラスがフビライに使えるまでになり、使節団の一員として海を渡り、対馬で死んだのか。しかも、その墓は岡山の小さな神社の境内にある……)
物語としはおもしろい。
だが、歴史としては信じがたいことだ。
それにしても、
(いつ、誰が、何のために……)
正二は大学の休みを利用しては、岡山へ通った。
諸方から資料を集め、現地で聞き取りを行い、そして、とうとう、学部生のうちに阿比留家にたどり着いたのだった。
それが翌年、つまり昭和四十四年の夏のことである。
阿比留家は、まだ鹿忍に残っており、四十四歳になる広司が家を継いでいた。
広司は、明治二十五年に老僧を迎えた信茂のひ孫にあたる。
今は家業をたたみ、広司は役所勤めをしていた。
「あの石碑を作らせたんは、うちのひいじいさんです。どうゆういきさつじゃったんか知りませんけどな」
と、広司は、学生の正二に話した。
また、仏壇の僧形坐像を示し、
「先祖が福岡から持ってきたんじゃゆうことです。中になあ、なんか入っとって、それをどこやらの、えれえ坊さんが持って行ったんじゃゆうて、わしが子供の時分に、おやじがゆうとったけど……。おやじも、もう呆けてしもうてなあ……」
このごろは、息子の顔もわからないのだと、広司はいった。
今日でいう認知症である。
その老僧がどこから来たのか。
僧形坐像の中から何を持ち去ったのか。
究明できぬまま、謎は残された。
はっきりいえることは、阿比留家が鹿忍にやって来たのが文化年間であるから、僧形坐像はそれより古いものだということ。
専門家が鑑定すれば、大まかな制作年代は分るにちがいない。
もう一つ。
僧形坐像の中には、ニコラスを意味する西夏文字の記された何かが入っていたということ。
そうでなければ、明治二十五(1892)年前後、あの石碑を刻むことはできない。
なぜなら当時、件の西夏文字を知るものは、地球上に一人もいなかったからである。
あの三つの文字は、二十世紀初頭、コズロフによってカラホトが発掘されるまで、五世紀以上の間、砂漠の地下に埋もれていたのだ。
ということは、その何かは、西夏文字がまだ使用されていた十四世紀ころまでに書かれたということになる。
坐像も同時期のものとみるのが妥当かもしれないが、後代のものということも考えらなくもない。
しかし、正二は、そこから先に進むことができなかった。
手繰り寄せる糸はぷっつり切れており、焦っても、もがいても、両手は空をつかむばかりだった。 
だが、
「待ってるから」
と、中村はいった。
ならば、
(必ず待っている)
そう正二は信じていた。
しかし、
(いったいどこで待っているというのか)
なす術もないまま、空しく歳月は流れ去った。

その文字が誤字だとわかったのは、2002年、正二が岡山に移ることになる前年の秋のことだった。
ニコラスを表す三つの西夏文字。
その一文字目である。
現在知られている西夏文字は六千を超えるが、その一つ一つに、研究者によって通し番号がふられている。
件の文字は、次番の文字の書き間違いであると、判断されたのである。
膨大な発掘文書に、その文字は、たった一回しか使用例がなく、同じような文脈で次番の文字が使われている用例が、複数発見されたからだ。
誤字のほうが画数が一つ少ない、それだけの違いである。
発表したのは、中国の大学の研究者グループである。
各国の学会もおおむね、それを是とした。
正二が、大学の研究室でその論文を読んだとき、全身を激しい電流のような衝撃が貫いた。
なぜなら。
中村のプリントでも、鹿忍神社の墓碑においても、ニコラスの表記に、その同じ誤字が使用されている。
脱落している一画も、まったく同じ箇所である。
現代人の中村が、誤字と知らずにあの文字を使う、それはあり得る。
当時は、誤字とは考えられていなかったからだ。
しかし、十四世紀以前、まだ西夏文字が使用されていた時代に、まったく同じ誤字を書くなどという偶然があるだろうか。
問題の文字の画数は十五。
誤字の画数が十四である。
数学的に誤字のパタンを数えれば、一画脱落が十五通り。
二画脱落なら二百十通り。
画数が増える誤字だってあり得る。
形や向き、止め撥ねを間違える場合もある。
れらを組み合わせれば……。
誤脱字のパタンは等比級数的に膨らむ。
(あり得ないな)
と、正二は思う。
確率的にである。
だが、それは現実に起こっている。
ニコラスを名乗る人物は、三文字の西夏文字を含む何かを、阿比留氏に託している。
阿比留氏は、体制側に葬られた一族である。
ということは、おそらく秘密裏に、その人物は、後世あるいは誰かに、何かを伝えようとしたのではないか。
緊迫した状況である。
ならば、
(何度も点検するはずではないか)
もしあの坐像もその人物が用意したものなら、そう考えるのが妥当だが、穿たれた空洞の容積からみて、中に納められていたのは長大な文章ではない。
簡単なメッセージ程度のものだろう。
ますます書き損じを見逃すとは考えにくい。
考えにくいが、実際に、鹿忍神社の岩には、その同じ誤字が刻まれている。
(墓碑を依頼された石工が、たった三文字を彫り間違えたのか。いや……)
それはもっと考えにくい。
仕事にミスがあれば、納品はかなわない。
だとすると、
(残る可能性は……)
ニコラスを名乗るその人物は、
(故意に、誤字を書いたのではないだろうか)
ということである。
しかし、何のために。
しかも、なぜ、中村の書いた誤字と一致しているのか。
疑問が疑問を生じ、混沌の渦の中で、正二は悶々とした日々を過ごしていた。
十二月に入り。
その日は夜になって、冷たい雨がみぞれに変わった。
そのみぞれの中を、一人の男が、北白川の家に正二を訪ねてきた。
見知らぬ男である。
「酒井と申します」
と、その男は名乗った。
そして、招じ入れた玄関で、
「比叡山から来ました」
といいながら、札入れから名刺を差し出した。
酒井明憲である。
(比叡山!)
正二の目が鋭く光った。
すぐに、阿比留の僧形坐像のことが、脳裏をかすめたのである。
三十八年前。
坐像の中に隠されていた巻文を持ち去ったのは、
「どこやらのえれえ坊さん」
だと、阿比留広司がいったときのことを、正二は、昨日のことのように、はっきりと覚えている。
正二は、応接間ではなく書斎に男を通した。
良子がコーヒーを置いて下がるとすぐに、
「どういうご用件で?」
と正二は切り出した。
すると、酒井は、
「私は、中村さんの依頼で、これを届けに参りました」
思ってもいなかった答えが返ってきた。
とっさに思考がまとまらず、正二が次の言葉を探していると、酒井は、懐から紫の袱紗を取り出した。
留めを解くと、中から白い封筒が現れた。
「手紙です。中村さんから小林先生に」
訳が分らない。
が、正二は封筒を手に取った。
表も裏も何も書かれていない。
「中村さんというのは?」
正二は探るように酒井を見た。
「小林先生が高校三年のとき、西夏文字のプリントをもらった中村さんです」
(まさか……)
とは思っていた。
が、
(この男は中村先生を知っている。遠い昔の教室の出来事まで……。いったい何者なのか)
いぶかる正二に、
「私は名刺に書いてある通りの者です。坊主です。私の寺は、中村さんの母方の家系と古くから関わりがあります」
正二は、じっと酒井を見た。
酒井も目をそらさない。
瞳の光に、
(嘘はないようだ)
と、正二は感じた。
「中村先生はお元気でいらっしゃるんでしょうか?」
正二は、やや警戒を解いた。
「元気です。小林先生に会いたがっています」
正二も会いたかった。
この四十年近くの間、ずっと再会を望んでいた。
はずだった。
「今はどちらに?」
「フランスで暮らしています」
「フランス?」
これも意外なことだった。
中村は今、六十を過ぎているはずである。
その年齢の日本人女性が外国にいるとしたら、
「向うへ行かれたのは、結婚か何かを契機に?」
「ええ、ま、そんなところですが、きっかけは家族の方の結婚です」
「はあ、そうですか」
正二はそれ以上触れないことにした。
酒井の顔色は、そう要求しているように見えた。
「小林先生」
と話しかける酒井の声が、少し改まった。
「はい?」
「実は、その手紙は、中村さんから三十八年前に預かったものです」
「三十八年前?」
三十八年前といえば、忘れようもないあの年である。
中村と別れた日の光景が甦る。
「そうです。そして中村さんは、本年本月、それを小林先生に手渡すよう委託されました」
「あなたに、ですか」
「いいえ、寺にです。当時私は、まだ、ほんの子供です。私どもの寺は、古くからそういう仕事をしています」
広い世間にはそんな生業も存在するのだろうか。
もしそうだとしたら、歴史的に安定した宗教団体は最適の組織かもしれない。しかし、そうだとしても、中村は、
「なぜ、そんな……」
(時限郵便を……)
しかも、三十八年という時間は、どう考えても尋常ではない。
「私には何ともお答えできません。中村さんに直接お聞きになってください」
「会えるんですか、中村先生に」
奇妙なことだが、このとき、正二は何かを恐れた。
「そのための手紙です、それは」
(そこまで……)
分かっているとすると、酒井の寺と中村との関わりは、相当に親密なものに違いない。
「ただ、フランスには行かないでください」
「どうしてです」
「中村さんは、それを望んでいません」
「酒井さん」
正二は、身を乗り出した。
「はい」
「もし私が、フランスの中村先生の住所を教えて欲しいといったら……」
酒井は表情ひとつ変えず、
「お教えします。そう中村さんからいわれています」
「でも、中村先生は望んでおられない?」
「はい、フランスでの再会は望んでいません。それに、たとえフランスで中村さんにお会いになっても、答えは得られません」
「答え?」
「誤字の謎も、ニコラスの謎も解けません」
(この男は……)
すべて知っている。
さっきから驚かされることばかりだ。
もしかすると、
「酒井さんは、その答えを知っておられる?」
「はい、知っています。しかし、今ここで私がお話ししても、小林先生は、それを信じることができないでしょう」
「?」
「結局、小林先生は、手紙を読み、中村さんを待つしかありません。それ以外に先生が納得できる方法はないと思います」
「フランスの中村先生から得られないものが、手紙の指示に従えば得られると……」
「そうです」
「いったい、どういうことでしょうか」
「それも、今ここで私がお話ししても、やはり、小林先生は信じることができないでしょう。お待ちください、中村さんを」
雲をつかむような話だった。
「酒井さん。もし私が押してお願いすれば、あなたは答えを教えてくれますか」
「ええ、お話しします」
あっさりと、酒井はいった。
意外だった。
そして。
正二は酒井に三つの質問をした。
誤字とニコラスの謎。
そして、フランスで中村に会っても、
「なぜ、それらの答えがえられないんでしょうか?」
と。
酒井は、一つ一つ、正二の問いに答え、また、みぞれの中を帰っていった。
だが。
結果は、酒井のいったとおりになった。
正二は酒井の言葉を信じることができなかった。
それどころか、
(この男は狂っている……)
とさえ思った。
中村の手紙を開けると、罫のない便箋に、ただ一言、
 
鹿忍神社

と、書いてあった。
正二は机に向かったまま、まんじりともせず朝を迎えた。
そして。
空が白み始めたころ、岡山行きを決意した。
牛窓に移ってから、正二は何度も酒井の名刺を取り出した。
何度か電話を握った。
(訊けば、フランスの中村の住所はわかる)
が、結局、酒井に連絡を取ることはなかった。
三十八年の歳月が、何かを変質させていた。
今日、大学は午後からの授業である。
正二は寮に帰ってから、のんびり、準備をするつもりでいる。
準備といっても、昔のノートに付箋紙を挟む程度の作業である。
正二は立ち去る前に、子供の頭をなでるように、墓碑の岩肌をさすった。
その冷たい感触は、一恵の涙のようだった。
正二は、一恵が泣いているところを見たことがない。
一恵は、正二の前では涙を見せなかった。
しかし、明らかに、
(さっきまで泣いていたな……)
と気づくことは何度かあった。
そういうとき正二は、一恵を行き先の違う船に乗せてしまったような罪悪感を感じたものだ。
一恵には、船の向かう先は分からなかった。
だが、正二には、分かっていたのではなかったか。
一恵の涙は、目に見えぬ冷たい涙だった。
「どうしたんだ?」
と、声をかけてやれば、それが優しさだったのかもしれない、と正二は思う。
しかし、そこから先、
(どうしてやることもできないとわかっているのに……)
それは白々しい偽善ではないか。
嘘でも一恵は喜んだだろうか。
演歌の歌詞のように、そんな虚構の積み重ねからでも、男と女は何かを生み出せるものなのだろうか。
(一恵はあの写真を見たんだ)
正二は石段を降りながら、ふと、そんなことを思った。
今ごろ、三十年以上も昔のことを考えている人間の心の仕組みが奇妙でもあった。
(中村先生を最後に見たあの日……)
二人で写った写真を、正二は封筒に入れ、机の奥にしまっていた。
封筒の上には、ノートや書類を幾重にも積み重ねておいたのだから、隠しておいたといった方がいいのかもしれない。
少なくとも一恵はそうとったのではないだろうか。
(だから、一恵は出て行ったんだ)
中村の美しさは、そういう力を持っているように、今の正二には思われるのだ。
そのころ。
一恵との同棲生活も長くは続かないだろうと、正二は感じていた。
一恵が望んでいるささやかなものを、
(ぼくは与えていない)
と、分っていた。
一恵は、何も難しいことを要求していたのではない。
一恵が飢え渇えていたのは、どこにでもある、ありふれた日常だった。
(私のせいだった)
遠からず、
(一恵は、私に愛想を尽かしていただろう。一恵は、あんな衝動的なことをする女ではなかったのに……)
一恵は、けなげにも、男との希望のない暮らしに耐えていた。
危ない均衡の上に立っていた。
その背中をひと押したのは、やはりあの写真だったのだ。
(見たにちがいない。だとしたら……)
一恵は、正二が写真を隠していたことに傷ついたのではない。
写真を隠すことによって、正二が本当に隠そうとしていたものに気づいたのだ。
そして、それは、一恵の胸を深くえぐった。だから、
(何もいわずに出て行ったんだ。一恵はそういう女だ)
正二は立ち止まって、空を見上げた。
今日も暑くなりそうだ。
蝉もこのごろは、法師蝉ばかりが、夏を惜しむように鳴いているが、秋はまだまだ遠いようだ。
正二は晩秋の寒い朝、身を縮め、白い息を吐きながら、この辺りを歩いている自分の姿を思い描いた。
年々、暑さを厭う気持ちが強くなってくる。
(さあ……)
再び正二が石段を下り始めたとき、前方の山門の暗がりから黒いアゲハ蝶が現れ、ゆらゆらと、音もなく正二の顔をかすめていった。
と、そのとき、
「小林先生」
背後から、女の声が正二を呼んだ。
振り返ると、石段の一番上に少女が立っていた。
短いスカートからすらっと伸びた白い足がまぶしい。
白いブラウスの袖を二つ、三つ折り返し、赤いネクタイをルーズに結んでいる。
高校生らしい。
(女子高生の知り合いなどいないが……)
問いかけるように少女を見ていた正二の表情が、みるみる青ざめた。
「君は……」
言葉を失う正二に、少女は微笑みながら近づいてきた。



十一、 旅
 
2009年夏。モンゴル、ケンテイ山中。
 
正二は、暗い森をさ迷っていた。
枯枝を踏む自分の足音が木霊し、四方八方から、得体の知れぬ何かが迫ってくるような気配を感じた。
頭の上からいきなり、
「ばさっ、ばさっ」
と、大きな羽音が降ってきた。
正二は思わず頭を抱えて、その場にしゃがみこんだ。
「ギャッ、ギャッ」
闇が震えた。
不気味な鳴き声だ。
断末魔の叫びのようにも聞こえる。
そろりと上を仰いでみたが、闇ばかりである。
(今のは……)
冥界の怪鳥だろうか。
それとも、どこかで残忍な処刑がなされているのだろうか。
さっきから、同じところをぐるぐる回っているような気がする。
戻ろうにも、
(どっちから来たのか……)
それさえ判らない。
気持ちとは裏腹に、歩くほどに、正二は森の迷宮の奥深く吸い込まれていくのだった。
人のささやき声が聞こえたような気がして、あたりを見回した。
怯えた心がそんな幻聴を引き起こすのだと分っていても、暗闇のささやきは、どこまでも正二を追ってくる。
すぐ耳元から聞こえることもある。
魔物たちが、自分を値踏みしているのかもしれない。
(もうすぐ連れていかれる)
正二は両手で耳をふさぎ、突然走り出した。
まるで奈落の底へ落ちていくようだった。
疲れはて、正二は、大木の幹にへたりこんでいた。
後にも先にも行かぬ状態である。
重い体が、湿った地面に沈みこんでいくように感じたものだ。
ふと上げた視線が、彼方に弱い灯りを捉えた。
(人がいるのか、それとも鬼火か……)
嬉しいというより、妖しげだった。
かといって抗うこともできず、正二は、つんのめるように灯りに近づいていった。
危険が待ち受けているのかもしれない。
しかし、灯りを無視して行き過ぎることなど、できようはずもない。
炎に誘われる蛾のようである。
次第に歩調をゆるめ、恐るおそる近づいてみると、灯りの正体はモンゴル風のパオだった。
(こんな森の奥深くに……)
一つだけぽつんと……。
それも奇妙なことである。
怪しみながら、そっと入口に立ち止まり、息を止めるようにして聞き耳を立てていると、やにわに、
「入れよ」
と、中から声がいった。
ロシア語である。
正二は、逆髪立つほどぎょっとした。
しかし、声に害意はないようだ。
どっちみち、逃げ出す元気も残っていなかった。
動悸を鎮めながらテントを押し潜ると……。
中の空気は生暖かく、梁から吊るされたランプが、ちろちろと黄色く燃えていた。
揺らめく火影の下に円いテーブル。
男が一人、椅子にかけている。
強いアルコールの匂いがするのは、男が手を添えているグラスだろう。
「座れよ」
と、男はいった。
ランプの炎で赤く照らし出された男を見ると、
「あっ、ペレリマン……」
男の顔は、なんと、あの天才数学者ペレリマンそっくりなのである。
もちろん、正二は、ペレリマンに会ったことはない。
が、男の顔立ちは、テレビや雑誌で見た彼と瓜二つなのだ。
正二はあんぐりとして、男の向かいに腰掛けたものの、手足の措き所もない。
「あんたも飲んだらどうだい、小林先生」
いつのまにか、正二の手元にもグラスがある。
まるで手品だ。
しかし、そんなことより、
「君は、どうして私の名前を知っているんだ」
気持が怯んでいる割にしっかりとした声を出せたことが、自分でも嬉しかった。
が、男は小ばかにしたように、正二に横顔を見せ、グラスを弄んでいる。
視線を合わせず、十分に自分を観察させる男の余裕に、正二は気おされた。
男は、正二の小さな虚勢を見透かしたように、透明な酒を、まるで水を飲むように喉に流し込み、
「名前だけじゃないさ。何でも知ってるよ」
笑ってもいないのに、男の冷たい笑い声が聞こえるような気がした。
「君は何者だ」
「おれは、おれだよ。だが、この顔は知っているだろ」
男はやっと、正二のほうを向いた。
「君はペレリマンじゃない。ペレリマンが、こんなところにいるはずはない」
「そんなことはいってない。
この顔は、先生の趣味に合わせただけさ。
おれは、誰にだってなれるよ。
それにしても、陳腐なことをいうねえ。
じゃ、こんなところにいるはずの者ってだれかね。
先生自身は、ここにいるはずの人間なのかい。
それに、いったい、ここをどこだと思ってるんだい、先生」
「ケンテイ山だろう」
「ふん、そういうことにしておいてもいい」
「違うのか」
「違うとはいってない」
「じゃ、どこなんだ」
「森だよ」
「森はわかっている。いやというほど歩いてきた」
「ここは、人間が名づけた地名はない。ケンテイ山がいいのなら、たった今からケンテイ山さ」
「どういうことだ」
「まだ、人類は誕生していないんだよ。
ここは、今から約四百万年後、オルドバイ渓谷と呼ばれることになる。
猿が初めて、二足歩行を始めた場所だよ。
先生にふさわしい場所を用意したのさ。
もし猿どもの足跡の化石と一緒に、先生の靴の跡が発見されたら、学者たちはどんな顔をするか、見ものだねえ」
「からかっているのか」
「からかう? おれは、いつだって真面目だよ、先生。先生の故国は、これから大陸と離れたり、つながったりだよ」
男は一息に、グラスを飲み干した。
が、テーブルに置いた瞬間、もう、グラスは満たされいる。
夢でも見ているのだろうか。
「夢も、現実も大差ないさ。夢まぼろしの方が、真理に近いことだってある。夢のお告げで成功したやつもいれば、偉い経済学者の言葉に従って、会社を倒産させたやつだっている。夢だって、妄想だって人生の一部さ」
男は、にやりと笑った。
「君は……」
「声に出そうが出すまいが、会話はできるよ」
やはり、心を読まれている。
「君は……こんなところで何をしている」
「待っていたのさ、先生を」
「待っていた?」
「そう。おれの仕事だからね」
「君の仕事?」
「先生が首にぶら下げている、その石を預かりに来たのさ」
「これを君に渡すわけにはいかない」
思わず正二は、シャツの上から石を握りしめた。
「心配するなよ、先生。荒っぽいことをするつもりはない。その石は、先生が静かに眠ってからいただくさ。永い、永い眠りにね」
「君は……」
「知ってるよ、何でも。そういったじゃないか。進行性すい臓ガンだろ。もうすぐタイムリミットだ」
「これは、盗賊がわざわざ興味を示すような石じゃない。ありふれた隕石のかけらだ」
「盗賊かね、おれは。まあ、なんと呼ばれたってかまわないがね。ほんのしばらく預かるだけだぜ、先生のためにね。そのかけらの本体のことは、聞いただろ。比叡山の坊主から」
酒井のことも知っている。
本体というのは、山田あさみの家にある犬の頭ほどの黒っぽい石のことだ。
正二が首から吊るしているのは、そのかけらである。
「炭素質コンドライト。太陽と組成がよく似ている」
気持ちは抗っているのに、勝手に口が動く。
正二は、自分でも不思議だった。
「そう、そのとおり。たいして珍しくもない隕石だ」
「しかし、問題は……」
「何かね?」
男は、にやりと笑った。
その笑いは、明らかに、正二がいおうとしていることを、もう知っている。
「問題は、内部に正四面体の空洞があることだ」
また、口が勝手に動く。
「そう、一辺約二十七ミリ」
やはり。
思ったとおりだ。
「それじゃ、何が問題なのか聞こうじゃないか、小林先生。おれが解決してやれるかもしれない」
相変わらず、人をくったいい方だが、この男は、
(きっと答えを知っているに違いない)
正二は、気持ちをそそられている自分に気づいていた。
「問題は、石には切り割られたり、穴を穿(うが)たれたりした痕跡がないということだ。つまり……」
「人類の科学技術では不可能ってことだろ。京都の大学の元同僚に分析させたんだよな。先生は、それがどうにも不思議でしようがない。だがね、先生、簡単な話じゃないか」
「君は知っているのか?」
「もちろん、知っているさ」
正二は息を詰めて、男の唇のあたりを見つめた。
「あの正四面体は、人類以外のもののしわざだよ。それでいいんじゃないかい、先生」
「……」
「おや、渋い顔だねえ、先生。
人類以外ってのが、気に入らないのかい。
せっかく、親切で助けてやったのに。
ふん、それにしても、人間というのは変な生き物だねえ。
一方で、全能の神とやらを祭り上げてるくせに、かたや、偏狭な科学の枠からはみ出したものは受け入れられない。じゃ、いっそのこと、科学の手に余ることはみんな、神のしわざということにしたらどうだい」
「根拠はあるのか」
「ないね、科学的根拠というやつは。
科学の物差は、先生が思ってるよりはるかに短いぜ。
三歳児の語彙で、シェイクスピアは演れないんだよ。
だが、もう一つ、教えてやるよ。
先生は、隕石の中にどうやって正四面体を穿ったんだろうと、不思議がってるがね、そうじゃない。
順序が逆なんだよ、先生。
正四面体の方が先にあったのさ。
意図された正四面体の真空だよ。
その周りに宇宙の塵が集まり、小惑星を形成したということだ。
正四面体は、この宇宙の年齢よりも古いのさ」
「ばかな。この世に、138億年より以前のものなど存在しない」
「138億歳というのは、〈われわれの宇宙〉の話だろう。
そんなものは芥子粒だよ。
神の手になる真の宇宙は、無限の無だよ」
「神は、大いなる虚構だ」
「ほう。なかなか、ゆうじゃないか。そして、人間の限界は神に遺伝している。人のまさに死せんとするとき、その言うや善し、か。鳥でなくてよかったな、先生」
「あの正四面体は空だ。中に物質は存在しない」
「そのとおり空だよ。真空といっていい。しかし、永遠の無ということではない。総和がゼロということだよ」
正二は目をみはった。
「それは、ダークエネルギーを含んでいるのか」
こんな状況でも好奇心が顔を出すのは、研究者の性(さが)だろうかと、正二は、自分が滑稽に見えた。
「歴史学者らしくないことをいうじゃないか、先生。
だが、ダークエネルギーというのは笑えるねえ。
その呼称は、科学が何かを把握したということではなく、つまりは、宇宙のほとんどを理解していないということの表明じゃないのかね、先生」
「そうかもしれない。しかし、真空の年齢を計ることはできない」
「変化という意味でいってるのならそうだ。放射性同位体の崩壊率、それが人類の時計だろ。正四面体の中にはどんな素粒子も恒常的には存在しない」
「ならば君のいっていることは合理的じゃない」
「今度は合理的か。
ふん、まいったねえ。
ちっぽけな科学を振り下ろして、宇宙以上を切り捨てるわけにはいかないぜ、先生。
この宇宙についてさえ、人間が知っていることなんて、せいぜい、電磁放射の解析じゃないか。
ニュートリノや、重力波の観測技術さえ確立していない。
正四面体は、時空が誕生する母体だよ。
あの小娘は正四面体の恩恵を受けている。
おれもそういうそういう存在だよ。
もうじき、先生もそいつのお世話になるのさ」
「何のことだ」
「その顔は、知らなかったようだな。
そのちっこい石の中にも、正四面体が誕生しているのさ。
もっとも、人間には、そのちっぽけな石の価値すら判らない。
一方で、こんな粘土のがらくたに、何億でも払おうとする」
男が指先で弄んでいるのは、いつのまにか、古びた茶碗だった。
しかも、それは、正二も実物を見たことはないが、おそらく……。
「そう、井戸さ。
茶に狂った一人の商人がいいといえば、貧乏人の飯茶わんだって国宝になる。
耳かきのような竹細工が、二三人の茶器フェチの手を経ると、国を動かすほどの力を持つ。
茶は茶、酒は酒だよ。
下に道をくっつける必要はない。
先生が生まれ育った師承の国の価値基準は、まったくジョークだな。
利休がその石っころの力を知ったら、何ていうかねえ。
先生はね、そいつの力を借りて旅することになるんだがね」
「私はまもなく死ぬ」
「だな。先生の体はまもなく死ぬ。だが、旅するのは先生の本質だよ。そのポンコツになった体じゃない」
「霊魂のことをいっているのか」
「霊魂とは、ずいぶん叙情的なことをいうじゃないか、先生。
おれがいってるのは、そういう怪しげなものじゃない。
情報だよ、先生の本質というのは。
先生の頭の中にある約千億個のニューロンが保持しているライブラリのことさ」
「記憶は、すべて、死とともに失われる」
「ほう、何かの本にでも書いてあったかね。
先生は、まだ、そのちっこい正四面体の力がわかっていないようだな。
無は無限を抱合する。
人類が有する十の十五乗ビットの情報も、すっぽり収まる。
そいつは、人間流にいえば、神の意志なのさ。
つまり、宇宙を生みだす領域ということだよ。
インフレーションを引き起こす膨大なエネルギーを秘めている」
「インフレーション……、ばかな」
「そうだよ、先生。神の気まぐれは、いつもばかげている。無から、無限のエネルギーが発生する。究極の省エネだよ」
男はからからと笑い、
「さあ、そろそろ、そいつを渡してもらおうか」
「だめだ、渡さない」
正二は身がまえた。
「契約なんだよ」
「契約?」
「そう。先生自身が望み、ききとどけられた」
(誰に……)
と、訊こう正二は思った。
手元のグラスをとり、ぐいと、流し込んだ。
ウォッカだと思い込んでいたから、力んであおったのに、透明な酒は、赤ワインのようなまったりとした味がした。
「ねえ」
女の声だ。
視線を戻すと、向かいに座っているのは、一恵だった。
別れたときの若い姿である。
(男はどこに消えたのか)
はっとして、正二は胸を押さえた。
石はある。
「何、それ?」
一恵が訊いた。
「ん、何でもないよ」
どぎまぎしている自分が妙だった。
マリからもらった石を、一恵に隠しだてしている後ろめたさだろうか。
一恵が出ていったのは、写真に写った中村の美しさのせいだと、正二は思い込んでいた。
(ひょっとして……)
一恵はマリの秘密を知っているのだろうか。
「ねえ、生まれ変わったら何をしたい? やっぱり、歴史から離れられない?」
正二の狼狽を見咎めず、さりげなく話題を変えてゆく。
いつも、一恵はそうだった。
不幸にした女から、自分が与えなかったものを逆に与えられて、それでも、懐かしい声に気持ちが和んでいくのは、もうすぐ死んでゆく者の心の麻痺だろうか。
死の床にある者は、過去の罪を許され、受けてはならぬ寛容を与えられるのだろうかと、正二は思った。
「たぶん、来世も研究者ね」
「いや……」
「違う?」
「ピアノを弾きたい」
「ピアノを……、あなたが?」
「ソリストが無理なら、教室で子供たちに教えてもいい」
「ふふふふ」
懐かしい笑い声だった。
「無理か、やっぱり」
「どうかしらね」
たんぽぽの綿毛が風に舞うような押し引きをする。
一恵は、そういう女だった。
「聞かないの? あのときのこと……」
「……」
「今さら、よね。ごめんなさい」
「……」
「今日は、いいお天気よ」
正二が歩いてきた森は、不気味な暗闇だったのに……。
「空が青いわ……」
そういって、一恵は泣いている。
初めて見る一恵の涙だった。
三月の冷たい雨が降っていたら、一恵は涙をこらえただろうか。
(一恵も、私がもうすぐ死ぬことを知っているのか……)
そうに違いない。
自分のために、誰かが泣いている。
正二には、そういう経験がない。
京都のホテルで正二の叙勲を祝った日。
老母は風邪をひき、長野で大事をとっていた。
シャンパンのグラスを打ち合わせ、
「これが兄さんだったら、母さんの具合もよくなっただろうね」
と正二がいうと、啓太郎は、
「まだ、母さんを憎んでいるのか?」
「いいや。おれも、母さんからピアノを習いたかっただけだよ」
胸の奥にずっとしまっておいた秘密だった。
啓太郎は、意外なことを聞いたという顔をしたが、深い意味も感じなかったようで、すぐに鷹揚に笑った。
まっすぐな屈託のない笑いだった。
その笑いは、母から愛されなかった幼い弟の心の屈折を、未だに分かりきれずにいる笑いだったが、その曇りのない明るさを見ていると、
(変らないな、兄さんは)
と、輝明の気持ちは、ほっと安らいだものだ。
後日、啓太郎からこのピアノの話を聞いたとき、八十九歳の母は、声を出さずに泣いたという。
その涙は、どういう涙だったのだろうか。
いつのまにか、そこは、北白川の家の台所だった。
「父さんは?」
輝明が知美に訊いている。
「また旅行だって」
「ふうん。一人で?」
「父さんはいつも一人よ」
「今度はどこ?」
「モンゴルだって」
「長いの?」
急須にお湯を注いでいた良子が、
「二週間ぐらいっていってたから、そろそろ帰ってくるんじゃないかしら」
良子は、正二が告げた帰国予定日を、はっきりと覚えていないらしい。
いつものことだ。
「帰ることはできないんだ」
と、正二は伝えようとした。
が、口はぱくぱく動くだけで、声がでない。
ばかりか、妻と子供たちには、目の前にいる正二の姿も見えていないらしい。
それでも必死に声を出そうともがくうちに、三人の姿は小さく遠ざかっていき、あっという間に、光の点になった。
しかし、もしかすると、遠ざかっていたのは、正二のほうだったのかもしれない。
光の点は、漆黒の闇に、しばらく星のようにきらめいていが、やがて、その小さなきらめきも闇にのまれて消えた。
(もう光速を超えたのかもしれない)
と、正二は思った。
追ってもむだだ。
彼らは、450億光年の彼方、粒子的地平の向こう側へ旅立ったのだ。
そして、彼らの航跡から、新しい過去と古い未来が、同時に生まれるのだ。

正二は、激しい痛みに襲われた気がして目覚めた。
自分の呻き声で目覚めたのかもしれない。
薄く消えかけていた感覚が最初にとらえたものは、草の匂いだった。
朝露の匂いかもしれない。
遠い、遥かな匂いだった。
果てしない紺碧の広がり。
(空だろうか……)
黒い小さな影が、ひとつ。
青の中をゆったりと旋回している。
マリの瞳のような青は、母のピアノの教本の青だ。
瀬戸内の青のように白くにじんではいない。
濃く、それでいて透きとおるような青だ。
正二は瞬きをした。
消えない。
(鳥か……)
痛みは錯覚だったらしい。
どころか、体というものを感じなかった。
手も、足も、呼吸をしている感覚さえない。
肉も、血も……、いっさいが消え、ただ意識だけが、大地に融けたように残り、地平全体で空を見上げているような……、不思議な感覚だった。
(これが、死ということだろか……)
やがて、まぶたの重さに耐えきれず、正二は静かに目を閉じた。
風の渡る音が聞こえる。
「……森だ……」
白く消えていく意識の中で、正二の唇が微かに動き、止まった。
刹那、何かが揺らいだ。




十二、 予言

憲宗九(1259)年八月。
フビライは一人、早暁の河畔に立っていた。
静寂は川風に揺られ、ぬるんだ水の匂いがした。
ここは汝南。
淮河の支流汝水を臨む。
フビライは、南宋遠征の左翼軍を指揮している。
遊牧騎馬民族伝統の三軍団編成。
中央軍は大カーン・モンケ。
目指すは顎州。
今日の湖北省武漢。
長江中流の水陸交通の要衝である。
雲南から北上するウリャンカダイ率いる左翼軍との挟撃作戦をとる。
東の地平線からこぼれ出す朝日とともに、薄闇から草原の緑がにじみ出してくる。
「気持ちが透明になっていく……」
静謐のときだった。
少年のころフビライは、これと同じ暁の中に、偉大な祖父と二人で立ったことがある。
そのとき、
「賢い狼は、日が昇り始めてから昇りきるまでのわずかな時間に獲物をとらえる」
と、祖父チンギス・カーンがいったのを、フビライは今でもはっきりと覚えている。
そのとき、生きとし生けるものの虚が生じるのだ。
祖父は、自分が聖なる斑の狼の子孫であると信じていた。
己の意思は、天の意思である。
ためらいなく殺し、死に対する怯みもなかった。
生きるということは、すなわち屠ることである。
咬み裂き、従える。
それが狼の末裔の使命であった。
フビライは、凡庸な人の子にすぎない、と自身を見ている。
選ばれた非凡さは、兄モンケと弟アリク・ブガの中にあった。
しかし、
「余に足りぬものは何か、それが分っておればよい」
と近侍に語るフビライの笑みは、虚勢のない身の丈ほどの笑みであった。
「この草原を、自分の足で駆ける必要はない」
要は、駿馬を見分け、それを乗りこなせればよいのだ。
フビライの革新的な性格は、非遊牧民の人材を多く登用した。
一つは、モンケの命じた東方経営を円滑に進めるためには、漢人の力を生かすことが合理的だったからであるが、
「能力に人種は関係あるまい」
若いころから、フビライはものごとをリアルに眺めた。
そのため、保守的なアリク・ブガとは反りが合わなかった。
既得権益を維持したいモンケの廷臣たちに囲まれて育ったのだから、アリク・ブガがそうなったのも自然なことなのであるが、稀有の才能に恵まれながら、
「生かしきれぬやつよ」
と、フビライの目には映じた。
力とは総和である。
指揮者個人の比較ではない、とフビライはわきまえる。
己を知るという意味において、今はシリアに遠征中のもう一人の弟フレグも含め、フビライは四兄弟の中で、もっとも賢明な男ではなかったろうか。
兄モンケは才に溢れ、そのためにかえって自分を誇大視するところがあった。
結果、統治政策にも軋みが生じた。
衆に優れたものは、
(人から学び、人に任せることが不得手なのかもしれない)
フビライは、冷静に兄を観察し、反面教師とした。
昨夜は、これまで生きてきた中でいちばん長い夜だった。
(今となっては……)
大カーンの座を勝ち獲るためには、即刻作戦を中止し、モンゴルにとって返すのが上策ではないか。
そして、一刻も早くクリルタイでの多数派工作を進めるべきではないのか。
アリク・ブガはカラ・コルムで、おそらく策動を開始している。
思いがけず転がり込んだ人生最大のチャンスだった。
(賢い狼になれるか……)
十年前の境遇では、想像だにできなかったこの日である。
兆し始めた光明に、気持は焦る。
しかし、焦慮に駆られるまま北還すれば、現在、手元にある兵まで散らしてしまうことになるかもしれない。
大義名分はアリク・ブガにある。
ならば、フビライは兵の力で対抗するしかないではないか。
(南進しよう。天に勝つにはそれしかあるまい)
金色の朝の輝きを浴び、ついにフビライは気持ちを固めた。
ニコラスの予言に賭けることにしたのだ。
「なすことをなさず戻るわけにはいきますまい」
と、バートルもいった。
バートルはジャライル族のムカリ国王の孫にあたり、幾たびも死地を潜り抜けてきた歴戦の宿老である。
右翼軍の副官であるこの男を、フビライは誰よりも信頼している。
実は、バートルの妻テムルンは、フビライの正后チャブイの姉である。
一定の土地に定住しない遊牧騎馬民族にって、一族の紐帯は重要である。
いつだったか、
「生き残る秘訣は何か?」
フビライが下問したとき、バートルはにやりと笑い、
「ござらん」
と、そっけなく答えた。
「そちが今日まで生き永らえたのは、運であるか」
バートルはまたにやりと笑い、
「敵の矢に当たらなかったからでござる」
人を食ったいい様にも聞こえる。
無論、バートルにそのつもりはない。
バートルは、フビライに足りぬものを持っていた。
軍を集める力である。
つまりは、人を集める。
人はときとして義に集まり、また利に集まる。
この武骨な男は、その機微を嗅ぎ分ける本能のようなものを備えていた。
バートルは、負け戦をしない男だった。
必ず生きて帰る。
兵士たちの間で、今や神話に近い。
それ故、
(人は名に集まる)
こともある、と、フビライはバートルを理解している。
兄モンケが崩御し、南宋遠征作戦が空中分解した途端、各将は兵を率い、めいめいの所領へと引き上げを開始している。
今、兵を集めるのは、
「義でござるよ」
と、バートルはいった。
帝国が大カーン・モンケを失ったこのとき、あえてその遺命を全うしようというのだ。
大方は、フビライが北還することを予期しているだろう。
そこをあえて長江を渡り、愕州に向かおうというのだ。
「南進すれば、タガチャルは我らになびきましょうぞ。やつめは、フビライ様に与するきっかけを待っておるはずです」
モンケ急逝のことを知っていれば、である。
いずれにせよ、数日中には知ることになる。
タガチャルは左翼の別動隊を指揮しており、靡下には東方三王家の精鋭を擁している。
これを味方につければ、
「どっちつかずの者どもが、雪崩を打って我が方へ参集してきましょうぞ」
バートルの口元が笑っている。
面白くないときの癖である。
タガチャルが好きではない。
が、味方に引き込まねばならない。
「北帰したのではきっかけにならぬか?」
「見え透いておりますな」
「欲か」
「さよう」
「義か……。なるほどのう。青いタガチャルの好みそうなところじゃな」
遠くシリアに侵攻中の次弟フレグは、この際問題にならない。
モンケの息子たちはいまだ若年。
となると、ライバルは、モンゴル本土にいる末弟アリク・ブガだけである。
やはり、鍵をにぎるのは、
「タガチャルか……」
もし賭けに敗れれば、
(アリク・ブガは我ら一族も、我らに与した諸王諸将たちも生かしてはおかぬだろう)
だが、これまでニコラスの予言が外れたことはない。
「あくる年、開平府とカラ・コルムに二人の大カーンが並び立ちます」
と、ニコラスはいった。
「余とアリク・ブガであるか」
「はい。大カーンが一人になるのは、四年の後です」
「それは余であるか」
「はい」
ニコラスは言明した。
ならば、そうなるのだ。
(引くことはなるまい)
アリク・ブガは兄モンケに似ていた。
蒼い剣のように冴えわたった思慮。
だが、
(酷薄な男よ。あやつが大カーンになれば……)
恐らく、兄以上の専制君主になるだろう。
目に見えていた。
チンギス・カーンの正后ボルテは、四人の男子をもうけた。
ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイである。
第三代大カーン・グユクはオゴデイの子である。
そのグユクが1248年に崩じると、妃オグル・カイミシュは、グユクの甥シムレンを次の大カーンに立てようとした。
一方、ジョチ家のバトゥは、トルイの未亡人ソルカクタニ・ベキと結び、その長子モンケを次の大カーンに推した。
モンケの同母弟がフビライ、フレグ、アリク・ブガである。
シムレン対モンケというグユクの後継争いは、大きな構図を見れば、チャガタイ家・オゴデイ家連合とジョチ家・トルイ家連合の主導権争いということになる。
勝ったのはモンケ側である。
1251年、モンケ即位。
帝位はオゴデイ家からトルイ家に移動した。
これによってフビライら三人の弟たちも、世界史の表舞台でスポットを浴びることになる。
モンケは大カーンの位についた後、恐るべき粛清を行っている。
オゴデイ家、チャガタイ家の中で、モンケ即位に反対したものは、あるいは処刑され、あるいは配流の憂き目に遭い、両家の所領は細分され、多くを没収されたのである。
さて。
南宋遠征軍の中央軍本営は、四川の釣魚山にあった。
昨日の日没前。
釣魚山から汝南のフビライの宿営に、大カーン・モンケ急逝の報が届いた。
幕舎を衝撃が奔った。
知らせたのはモゲの配下。
フビライの息がかかっている。
モゲの母親は、フビライの父トルイの側室である。
正室ソルカクタニ・ベキがフビライを生むと、彼女はその乳母となったのであるが、前後して、彼女はモゲを生んだ。
彼女はフビライとモゲの二人を、一つ幕舎の中で、まさにわが子として成年まで育て上げた。
ちなみに、壮健な男子は、今日の中学生ほどの年齢で、一人前の戦士と見なされる。
フビライとモゲは乳兄弟である。
二人の結びつきは非常に強い、といってよい。
そのモゲがモンケ本隊に従軍していたのは、情報収集上、フビライにとっては好都合なことだった。
だが、実はフビライは……。
モンケ急死のことを、密使到着の三日前にすでに知っていた。
それを告げたのは、側近の一人ニコラスである。
ニコラスはまだ十九歳の青年だったが、白面書生めいたところはなく、深い思慮をたたえたまなざしといい、立ち居振舞いの落ち着きといい、年齢不相応の寂滅の風韻を帯していた。
白い肌と青い瞳。
明らかにコーカソイドの血が流れている。
ニコラスは帝国内外の多言語に通じ、面妖な数理計量に長けていた。
面妖というのは、フビライに近侍する学識者たちのいい様だが、つまり彼らは、ニコラスが不可解な方法で描いた構築物の設計図面の正確さに感嘆しながらも、どのようにしてその寸法が割り出されたのか、まったく理解することができなかったのだ。
そんなことより。
若年のニコラスがフビライの側近たり得たのは、彼がある特異な能力をもっていたことによる。
その能力とは、モンケ急逝のことを事前に知り得た力のことである。
もちろん、それは極秘事項であった。
ただ、フビライに近侍するごく一部のものたちの間で、ニコラスは、
「明日のことが見えるのではないか」
と、噂されていた。
実際はどうであったのか、フビライのみが知るところであるが、分からぬだけに人々はニコラスを畏れた。
ニコラスを見出し、彼をフビライのケシクに入れたのは廉希憲だった。
廉はフビライの側近中の側近であり、フビライを第五代大カーンに即位させたフィクサーである。
ケシクというのは、もともとはカーンの親衛隊だったが、元朝のころには幹部人材バンクのような色調を帯びていた。
二年前の夏。
マハムというウイグル商人が、廉希憲のもとに一人の白人青年を連行してきた。
廉自身もウイグル人であるが、早く父親の代に故地を離れている。
廉希憲は、帝国内をくまなく旅するウイグル商人たちを庇護しながらある種の繋がりを維持していた。
つまり、マハムは廉希憲が帝国各地に放っていたスパイの一人だったのである。
マハムは、連行してきた男を振り返り、
「この者は、砂漠を全裸で歩いておりました。大地が震えた日です」
ビシュバリク近郊でのことである。
一日、その近辺で地震が発生した。
ビシュバリクは、天山山脈の東北麓に位置するオアシス都市であり、現在の新疆ウイグル自治区に属する。
「全裸で?」
廉希憲は眉をひそめた。
砂漠で全裸、即、死を意味する。
「靴も履いておりません。ただ、首に黒い石を吊り下げておりました。親指の爪ほどの大きさです」
「玉の類か?」
「いいえ。野に転がっているようなただの石です。成形も研磨もされておりません。今もこの者の首にかかっております。ごらんになりますか?」
「いや」
廉希憲は目顔で先を促した。
「お前は何者か、と問いました。ウイグル語です。すると、この者もウイグル語で答えました。キリスト教徒のような面立ちをしているのに、われわれの言葉が話せるのは怪しいと思いました」
「なるほど……。で?」
「どうして裸なのか、お前は足が要らないのかと、今度はペルシア語で問いました。すると、ペルシア語で答えました。この者は、多くの言葉を知っています」
廉希憲は、ニコラスに目を移した。
左右を衛士に固められているのに、臆した様子もない。
心の平静が、廉希憲にも伝わってくる。
いえば、殺生与奪はこちらが握っている、
(この状況で……)
ただものではない。
視線を外さぬ青い瞳は、
(秀麗である)
しかも曇りがない。
直ちに配下に加えることに決めた。
(役に立つ)
直感である。
「お前は、私のために働く気があるか」
廉希憲は、モンゴル語で問うた。
「そのために参りました」
ニコラスもモンゴル語で応じた。
否と言えば、その場で首を刎ねるつもりであった。

1259年9月末。
フビライはついに長江を渡った。
この瞬間から、ユーラシア東半の歴史は、わずか十年前まで歴史の闇の中でその姿形さえ定かでなかった一人の男を軸に、新たな展開を始めるのである。
そして……。
顎州を包囲するフビライのもとに、モンゴル本国にある正后チャブイから、風雲急を告げる密使が到着した。
「チャブイ様からの手紙が届いたときに……」
と、ニコラスが献言したその時が来たのである。
十二月下旬。
ただちに。
フビライは後事すべてをバートルに託し、モンゴル高原を目指し一路矢のような北転を開始したのである。




十三、 フィダーイー

1269年。
あの運命の決断。
フビライが長江を渡ってから、すでに十年が経過していた。
帝位を争った末弟アリク・ブガが薨じて三年。
やっとフビライ政権が確立したといえる時期だろうか。
しかし、フビライの前に問題はなお山積していた。
なんといっても、今、帝国最大の課題は南宋攻略のことである。
昨年秋から、漢水中流の要衝、襄陽・樊(はん)城の攻囲作戦が開始されている。
しかし。
南部中国は、地理的にも気候的にも、モンゴルにとってはやっかいな戦場だった。
この長期作戦がやっと終了するのが1276年。
世界史は1279年を南宋滅亡の年としているが、実質的には臨安陥落の時点で南宋の命脈は尽きている。
三年の誤差は、モンゴル側から見れば戦後処理である。
この間に、第一回日本遠征軍(文永の役・1274)が北九州を侵している。
その五年前、1269年の秋。
ニコラスは高麗に向け、上都(開平)を発つことになった。
大カーン・フビライが日本に派遣した国信使の一行と合流するためである。
これは、実は十年前、かの汝南の地において、ニコラスが望みフビライが許可した最後の約束なのである。
そもそも。
ニコラスがフビライに直属するようになった当初から、二人の間には何か重大な、
「密約があるのではないか……」
と、噂された。
人を遠ざけた二人だけの会談が、あまりにも頻繁だったからである。
かたや、ブレインの一人であるにもかかわらず、ニコラスは、長期間にわたってフビライの元を離れることしばしばであった。
他の側近たちには、この距離感が理解できなかった。
近すぎるし、また遠すぎる。
ニコラスについては疑心暗鬼がさまざまな噂を生んだ。
「大カーン特命の暗殺者ではないか……」
と疑うものさえいた。
さて。
ニコラス出立の少し前、ある事件が起きた。
フビライの正后チャブイの幕舎のすぐ近くで男が殺されていたのである。
というより、朝になると死体はそこにあった。
左の胸には短剣が刺さったままである。
心臓を適確に貫いた細身の剣は、黒く艶消しされていた。
モンゴルにそんな剣はない。
暗所での使用に特化したものと考えれば、不気味である。
もちろん当夜も、選りすぐりの衛兵たちが夜を徹し、水も漏らさぬ警護に当たっていた。
はずである。
にもかかわらず、夜が明けるまで誰一人として、異変に気づく者がなかった。
そこで殺されたのか、死体になってからそこに運ばれたのか、それすら分らない。
不思議なことがもう一つ。
殺されていた男の身元である。
男が身に着けていた装備は、皇室を警護する親衛隊のものであった。
上背は並み。
血の乾いた着衣を剥ぐと、鍛え上げられた鋼のような体は尋常の者ではないとわかる。
くっきりとした目鼻立ちはイラン系か、と見えた。
ただちに、親衛隊の指揮官が全員召集され、死体を実見した。
が、誰もその顔に見覚えがない。
ということは、親衛隊でないものが親衛隊を装っていたことになる。
しかも皇室の鼻先で。
事件は波紋をよんだ。
場所が場所である。
当然のことながら捜査は峻烈を極め、警護関係者は累がわが身に及ぶことを恐れた。
しかし。
結局、男の正体は、杳(よう)として知れなかったのである。
捜査を指揮したのはアフマドというフビライの側近だが、実は、彼は財政を担当する文官であった。
異例のことである。
通例、この種の事件は軽重に応じ、当該地域を警護していた兵の上官、つまりは、武官が縦の系列で取り仕切る。
にもかかわらず、
「これは、お前が調べよ」
と、フビライは直々に、畑違いのアフマドに命じたのである。
当然、そこにはそれだけの、
(意図がある)
と、アフマドにもわかる。
不安がよぎった。
アフマドは、アラル海に注ぐシル河流域、現在のウズベキスタンの出身である。
ここにも、フビライの人事の国際性が表れている。
アフマドはもともとはチャブイの家臣であったが、フビライに経理の才を認められ、1270年には臨時に設けられた尚書省の長官となり、フビライの側近として仕えるようになった。
ニコラスを見出したかの廉希憲とは犬猿の仲で、廉の在職中は常に頭を押さえられていた。
「徹底的に調べさせよ。だが、真相究明がならずとも、処分には及ぶまい」
フビライは細い目をさらに細め、微笑むようにいった。
これも異例のことである。
皇室の近くに異変が起これば、四辺を守る警護担当者は厳しい処断を免れない。
取りようによっては、フビライはあえて真実を明らかにする必要はないといっているようにも聞こえる。
「そちは、……」 
フビライは、ここで言葉をきった。
そしてアフマドを見据え、
「余に必要な者である」
と、続けた。
柔らかな表情にはいささかの変化もない。
が、アフマドはかっと目を見開いた。
その後に続く言葉。
フビライがあえていわなかった言葉を、今やアフマドははっきりと悟ったのである。
アフマドのこめかみのあたりを、つつと冷たい汗が伝った。
「ニコラスに手を出してはならぬ。そう伝えるがよい」
やはり、フビライは微笑んでいる。
アフマドの顔からすっと血が引いた。
「誰に……、でございましょうか」
やっと搾り出した。
「陛下はいたく頼みにされているようですが、敵に回せばやっかいな男です。ニコラスが大カーンのもとを離れるときは、迷わず殺すべきです」
フビライの正后チャブイにそう進言したのはアフマド自身である。
ニコラスは、
(商鞅になる危険がある)
アフマドはそう見ていた。
フビライ政権にとって禍根の可能性は、それがどんなに小さな芽であっても、
(すべて摘み取っておかねばならない)
アフマド自身と一門の運命だからである。
しかし、暗殺は失敗に終わった。
ニコラスに危険危険を感じたアフマドは、鋭い本能を持っていたといえる。
なればこそ、その後の彼の栄達もある。
政権に重用されるには、実務能力や忠誠心ではない何かを備えもっていなければならない。
ときには、その何かだけで人臣を極める者もいる。
フビライの目は、どこを見ているのか分らなかった。
(こちらを見ているような、いないような……)
目じりから深く切れ上がったいく筋かのしわ以外に、フビライの温顔には鋭さというものがない。
だが、アフマドは顔を上げることができなかった。
「それを口にする訳にはいくまい、のう、アフマド。
声にすれば、必ず聞くものがいる。
名をいえば、罰を与えねばならぬ。
そうであろう。
ニコラスに手を出してはならぬ。
ニコラスのためにゆうておるのではない。
そちも、うすうす気づいておろう」
フビライは笑みをたたえたまま静かに語る。
どこからどう眺めても、騎馬民族の統領の風貌ではない。
印象はむしろ南宋の文人である。
この顔は、もしかすると、膨張した帝国の変質そのものを表していたのかもしれない。
フビライは心のひだをよく理解する。
しかし、感情に動かされる人間ではない。
「分れば、下がってよい」
しかしアフマドは、すぐには動くことができなかった。
血の気の失せた彼の顔は、今や、錦糸の敷物に触れんばかりになっている。
いいようのない恐怖に押さえつけられていた。
翌日。
アフマドは、チャブイに召し出された。
人払いをするや、チャブイは身を乗り出し、
「あれは、フィダーイーであるか?」
いつもの権高な余裕がない。
「左様にございます」
ひざまずいたまま、アフマドは答えた。
「あれは、おのが短剣か?」
「はい。柄に日食の紋章がありました」
密かにチャブイが命じて作らせ与えたものである。
「短剣を使う者が、おのが短剣でのう……」
チャブイの口もとが冷たく笑った。
謎の死体のことである。
フィダーイーとは、「犠牲を厭わぬ者」を意味する。
イスマーイール派の暗殺者の呼称である。
フランス語のアサシン(暗殺者)という言葉は彼らに由来するともいわれている。
イスマーイール派はイスラムの少数派シーア派の一派であるが、彼らは十一世紀末からイラン北部アルボルズ山などの岩砦に拠り、セルジューク朝や十字軍の弾圧に対し、フィダーイーを送り込み、要人を暗殺することで報復を重ねた。
以来イスマーイール派は、闇に包まれた邪悪な教団として広く東西にその名を知られ、恐れられていた。
しかし、1256年。
フレグ西征軍の掃討に遭い、イスマーイール派は壊滅した。
生き残ったものたちも翌年、モンケによって皆殺しにされている。
しかし、シリアや西北インドに、からくも生き延びたのもがいると伝えられていたが……。
まさに、いたのである。
そして、その残党を密かに庇護する勢力があった。
フンギラトである。
フンギラトはチャブイの出身部族であり、左翼(帝国東方)を統率する部族であるジャライルと並ぶモンゴル軍の中核である。
ジャライルのバートルは、先に述べたように、チャブイの姉テムルンの夫である。
いわば、チャブイは要の釘のように、ジャライル、フンギラトなどの有力部族とフビライ政権をまとめあげる位置にいた。
少し後のことだが。
元朝(1271から)において、中書省(民政)を統轄していた右丞相(主席長官)アントン(バートルの長子)はチャブイの甥であり、枢密院においてはチャブイの次男チンキムが軍政を統監していた。
また、尚書省(財政)の平章政事(長官)アフマドは、元はチャブイの家臣である。
つまり、チャブイ=フンギラトは、帝国組織の要所を隠然と押えていたことになる。
そのフンギラトが、極秘裏にフィダーイーを飼っていたのは、いうまでもなく政敵を除き、自派の繁栄の妨げになる可能性を潰していく陰の仕事を担わせるためであったが、
「ふん、山の老人と恐れられた者の末がとんだ名折れじゃ。黙して死んだのがせめてもの救いじゃわ。今度は毒蛇の使徒を使うてみるか」
チャブイの目が、ほの暗く燃えている。
「皇后さま」
「なんじゃ?」
「陛下はすべてご存知です」
チャブイの頬が、ぴくり、と痙攣した。
鼻から荒い息を漏らし、ぎろり、とアフマドを睨み据えた。
「ニコラスには手を出すな、と仰せです」
「なんじゃと!」
チャブイは切りつけるようにいった。
半身が、わなわなと震えている。
「陛下が……、陛下が私の名を出したのか」
「御名は出しませぬ。出しませぬが……、ご存知です」
アフマドは、昨日のフビライとの会談の模様をありのままチャブイに告げた。
現体制は、チャブイの出身部族であるフンギラトが支えている。
それはフビライ自身、よくわきまえているところである。
そうであればこそ、チャブイの名を出さなかった。
しかし、いよいよとなれば、
「容赦はせぬ」
そうならぬようにせよと、フビライは暗にアフマドを通じチャブイに釘をさしたのである。
話を聞き終えたチャブイは、虚空を見つめたまま無言であったが、やにわに立ち上がると、
「おのれ、ニコラスめ」
獣の唸り声に似ていた。
唇をかみしめたチャブイの顔は蒼白である。
(また誰かの首が刎ねられる)
と、アフマドは思った。
些細な過失を咎めだて、侍女や召使をむごたらしく殺す。
アフマドは、そういう陰惨な現場を一度ならず目にしている。
よだれを垂らし、泣きわめき、失禁しながら命乞いをする哀れな者たちの姿を見て、チャブイは酔ったような目で笑う。
病んでいた。 
チャブイがのニコラスに対する憎しみは異常だった。
そもそも十余年前。
ニコラスがフビライの前に現れた当初からそれは始まっていた。
ニコラスの言動に何か問題があったわけではない。
むしろニコラスは重用されいている割に、
「控え目な男」
だった。 
周囲にはチャブイの憎しみが分からない。
が、
「あの目が我慢ならぬのじゃ」
チャブイ唾棄するようにいったものだ。
いいがかりといえる。
ニコラスは、チャブイの前に、いつもすっくと立っていた。
(怯えておらぬ)
それが我慢ならなかったのである。
ひれ伏さぬものを決して許さない女だった。   
「皇后さま」
「なんじゃ」
「陛下の仰せは、皇后さまの身を案じてのことにございます」
アフマドには思い当たることがある。
「どういうことか」
チャブイは、わが身に危害を加えられるものがこの世にいようなどとはつゆ考えていない。
「フィダーイーをあのような返り討ちにしたのは、おそらく、陛下の手の者ではありません」
「では、誰がニコラスを護衛していたのか」
「誰も護衛などしてはおりません」
「なんじゃと!」
チャブイは目を見開いた。
「それは確かです。あの者を殺した相手は、無手であの者に向かい、短剣を奪い取り、一撃で仕留めたのです。
信じがたいことです。あのフィダーイーは、闇夜に七頭の狼の喉を裂き、かすり傷ひとつ負わなかった男です。
何人も気配さえ感知できぬはず。その男を……。とても人間わざとは思えません」
「では、何者のしわざか」
「わかりません」
と答えたが、アフマドはニコラスの顔を思い浮かべていた。
ニコラスが直接手を下したのか……。
そこは分からない。
いや、おそらく、
(あの蒲柳のような男は、恐ろしい殺人の技など持ってはいまい)
権謀術数を巡らすタイプでもない。
澄んだ青い瞳。
(血とは無縁の目だ)
しかし、どういう関わりようをしているのかは分からないが、まちがいなく、
(あのフィダーイーは、ニコラスのために死んだのだ)
と、アフマドは感じている。
もしこの帝国内に、人間わざでないことをなし得る者がいるとすれば、
(ニコラス以外には考えられない……)
本能で感じるのだ。
「人の子は、ニコラスに触れることはかなわぬよ」
と、あの時も、確かにフビライの目は語っていた。
帝位を争ったアリク・ブガが薨じたころのことである。
珍しく酒を過ごしたフビライが、アフマドに漏らし聞かせた話である。
ニコラスについてである。
「顎州に陣を張っておったときのことじゃ」
フビライは上機嫌に語った。

深更。
防備線の外から人影が近づいてきた。
「止まれ!」
見張りの兵が誰何した。
たちまち、十名を超える兵が影を取り囲んだ。
皆、剣を抜いている。
しかし、影に抵抗の気配はない。
松明がともされた。
照らし出された顔を見て、指揮官は、
「あっ」
と、驚きの声をあげた。
人影の正体はなんとニコラスだったのである。
この百人隊長はニコラスを見知っていた。
「なぜこのようなところを?」
急に丁重になった。
が、不審に変わりはない。
ニコラスのように大カーンのそば近くに仕える者の幕舎は、ここから遠い。
時刻も時刻である。
百人隊長が何かいおうとしているのへ、
「気にしなくてよい」
ニコラスは笑みで相手を制した。
この青い目の貴人からそういわれると、百人隊長も本当に、
(気にしなくていいような……)
気になってくる。
不審などもうどこにもない。
不思議なことだった。
「さて、ここからは夜警の目もうるさかろう。また見咎められるのも面倒だ。送ってもらおうか」
「はっ」
相手は大カーンの股肱。
従うのみである。
が、それ以上に、百人隊長は、ニコラスから命令されることが何やら嬉しいのである。
結局、ニコラスのために馬が用意され、騎乗の十人隊が前後を固め、ニコラスを陣の後方へ送り届けたのである。
兵たちの軽やかな足取りは、まるで酒宴にでも向かうようであった。
翌朝。
珍妙な報告がフビライの耳に入った。
早朝。
陣の外縁を見回っていた小隊が、敵兵の死体を発見したのである。
死体は全部で七体。
やや離れた疎林の中に、七頭の馬が繋がれていた。
ということは、皆殺しである。
装備、顔立ちから南宋の斥候隊と知れた。
しかし、誰が彼らを殺したのか、まったく分らないのである。
もっと分らないのは、死兵たちが略奪を受けていないことである。
装備も馬もそのまま。
何者が殺したにせよ、当時の常識ではまったく考えられないことである。
顎州の役では、戦闘らしい戦闘はほとんど行われていない。
モンゴル軍は顎州を包囲していたものの、それ以上踏み込んだ作戦行動はあえてとらず、ただ、来る日も来る日もにらみ合っていた。
はなから、フビライには戦闘の意志はなかった。
むやみに戦端を開けば、相手も必死になる。
ことに攻城戦においては、短期決着はありえない。
当時、弟アリク・ブガと大カーンの座を争っていたフビライにとっては、長期戦はもっとも避けたいところである。
ありていにいえば、顎州包囲は、東方三王家を擁するタガチャル軍や、総司令官モンケの死後、ばらばらに散り始めた軍団を呼び戻すための一大デモンストレーションであった。
そして、もくろみは成功した。
その時点で、フビライはもうこの地に用はない。
しかし、偵察行動となると、これは両陣営とも頻繁に行なっていた。
特に、モンゴルにとってはお家芸である。
顎州戦では、フビライは包囲したまま北からの便りを待ち、南宋は首をすくめて城壁の内に籠ったまま、目だけをきょろきょろさせて震えていた。
双方ともに戦意は高くない。
したがって偵察隊の任務は、相手の変化の有無を確認する程度のもので、敵陣に深入りすることはまずない。
であれば、偵察隊が敵と遭遇し一戦を交えるなど、偶然の出会い頭を除けば、まずあり得ないことだったのである。
そういう意味で、南宋の偵察兵七名が、前線からかなり遠い、いわば緩衝地帯で殺されていたのは、この戦においては非常に珍しいことといえた。
しかも、皆殺しに遭っている。
しかし、それだけではなかった。
七名の兵の死にようである。
士官の報告を聞いたバートルは、憮然として、
「奇怪である」
一言いったのみで、詳細を問いただそうともしない。
別に不機嫌なわけではない。
これが、この宿老の日常なのである。
バートルは、やにわに立ち上がると、フビライの副官ともあろうものが、自身で現場に足を運んでいった。
それほどに「奇怪」だったといえる。
七つの死体は、まるで何かを取り囲むかのように、円を描いて倒れていた。
バートルはその様子を馬の上から眺め下ろし、
「奇怪である」
また、同じことをいった。
七名の死体は皆、自分の剣を抜いている。
そして七名とも、左の頸動脈を断たれて息絶えている。
それ以外に傷はない。
あたりの地面に、入り乱れた戦闘の痕跡はまったく見られない。
つまりは、七名の兵は皆、自刃して果てたようにしか見えないのである。
バートルは円の中心をじっと睨んでいたが、への字に結んでいた口もとがにわかに緩み、
「やはり、お前であったか」
と、野太い声で話しかけたものだ。
姿のない何かに向かってである。
それわ見ていた従者たちは、ごくり、と生唾を飲んだ。
バートルは、にやりと笑った。
不機嫌なのだ。
フビライは、常時、笑みを浮かべている。
ために、喜怒哀楽がよくわからない。
最高指揮官たるものの資質であるともいえる。
だが、その下に隠されているものを、側近たちは怖いほど知っている。
「そちはどう見るか」
フビライは、戻ってきたバートルに問うた。
「七つの骸(むくろ)は、何かを取り囲んでおり申した。囲みながら、己の剣で己の首を刎ねた……。そういうことでござる」
「はて。宋兵どもが囲んだのは魔物であるか」
「さて。魔物なら取り囲む先に、皆、逃げ散じておりましょうぞ。やれると思ったから囲んだのでござろう」
「なるほど。魔物でなければ、何者であるか」
バートルは馬乳酒を飲み干し、濡れた口ひげを手の甲でぬぐった。
幾多の修羅場をくぐり抜けてきた老雄であるが、その表情には意外なほど猛々しさといものがない。
風雪を耐えてきた厳しい肌ではある。
が、目の光にも凝った凄みというものはなく、はるかな遠方を眺めているような眼差しは、むしろ柔らかである。
「昨夜あの近くにいたのは、色目(しきもく)だけでござる」
色目とはニコラスのことである。
バートルはニコラスを嫌っている。
能力や人間を疑っているということではない。
そこに偏見を持ち込むバートルではない。
それは、戦において敵軍の力を過不足なく見極めるごとくである。
ただ、ニコラスを同胞と見ていない。
「ほう、そちの耳にも届いておったか。
川風にあたりにいったのであろうよ。
ニコラスは、透明な水の流れる川辺で生まれたと申しておった。
水中を泳ぐ魚の姿が見えたそうである。
で、そちは何がいいたいのか」
「それ以上、何もござらん。川の風は、さぞやよい心地でござったろう」
バートルはにやりと笑った。
「ニコラスを糾問せよと?」
「さてさて。大カーンへのものいいは、気をつけねばなりますまい」
「宋兵どもの珍妙な死によう、そちは知りとうないのか」
「知らぬほうがよいこともござれば……」
「それは長生きの秘訣であるか」
「さよう」
「相変わらず食えぬやつよのう」
フビライは褒めている。
「陛下ほどではござらん」
バートルは憮然と応じた。
機嫌がいいのである。
話はここで終わった。
バートルはものもいわずに、のっそり立ち上がると、饗卓から馬乳酒の革袋をつかみ取り、悠然と大カーンの幕舎を出て行った。
 
アフマドが話し終えたとき、チャブイは赤子のように両のこぶしを握りしめており、
「むうん……」
幕舎を沈黙が満たした。
アフマドはじっと待った。
遠くで馬のいななきが聞こえた。
「あやつは、天魔であるか」
やっとチャブイは口を開いたが、声がかすれている。
認めたくない気持ちのせいだ。
これはチャブイ自身にも意外なことだったようで、咳払いをし、窺うようにアフマドを見た。
「ニコラスの性質(たち)では、魔の所業はできますまい。しかし、あの男を害そうとすれば……」
「フィダーイーや宋兵のようになると申すか」
声が震えている。
アフマドは、このようなチャブイを初めて見た。
「いかがなさいます」
チャブイは座所にうなだれている。
「皇后さま」
「高麗でも、日本でも、好きなところに行かせればよかろう」
チャブイは投げ捨てるようにいった。
屈したのである。
(チャブイ様が怯えている)
アフマドにはチャブイの心の動きが手に取るように分かった。
生まれながらの貴人は、感情の露出は子供のように明白だった。
しかし、色に出してはならない。
それは死を意味する。
「下がってよい」
背筋を伸ばした。
なお威を繕おうとする様子は、アフマドの目にも痛々しい。 
アフマドは、この日初めて、チャブイの生地を見た。

三日後、ニコラスは上都を出立した。



十四、 マリ

輝明は何度もあま川に来ているが、カウンター席に座るのは今夜が初めてだった。
実は。
先ほどまで神崎という同僚と小座敷で飲んでいた。
消費者サービス事業部の同期だが、小一時間ほど過ぎたころ、神崎は、携帯で呼び出されて店を出ていってしまった。
女である。
神崎は、
「悪い」
といって、右手の小指を立てて見せ、まばゆい夜の街に飛ぶように出ていった。
どうやら、女はすぐ近くまで来ているらしい。
女に逢うことがそんなに嬉しいのか、女を待たせるのが怖いのか、
(何だろう、あの勢いは……)
と、輝明は神崎の後姿を見送った。 
独身になって金回りもいいのか、
「今日はかみさんに、甘いものでも買って帰ったほうがいいかもよ」
と、にやにや笑いながら、ぽんと一万円札を置いていった。
神崎はいわゆるバツ一で、妻のほうから切り出した離婚だった。
どちらかに過誤があったということではなく、傍から見れば、よくわからない離婚だった。
「なんとなくね……」
と、神崎はいった。
なんとなく結婚する者もいるのだから、なんとなく別れる者がいてもいいのかもしれないと、すんなり納得できる自分に輝明は少し驚いた。
時代の病だろうか、と自分を疑った。
二人の間に子供はなく、神崎は、離婚後の義務を何ら負っていない。
だから、どんな女と交際しようが何の問題もないわけだが、今、神崎が付き合っている女は、亭主持ちである。
女はまだ三十前で、こちらは、小学校に通う女児が一人いると聞いている。
別れてからずっと、女たちの間を浅瀬渡りしていた神崎なのに、今度は思わぬ深みかもしれなかった。
輝明は、大の大人に意見めいたことをいう気もないが、
(ややこしいことにならなければいいが……)
と、多少の危惧はないでもない。
その程度の友人ではある。
しかし、当の神崎は、危険な刺激を楽しんでいるようなところが見受けられる。
ときどき、夫の留守宅に上がりこんだりもしているらしい。
輝明は内心あきれてしまったが、女も女だという気がする。
何も知らない夫が哀れである。
それとも、夫は夫で遊んでいるのだろか。
神崎と女が危険な関係を楽しみ、女の夫まで妻に秘密を持っているとしたら、輝明は、人間というものが、なんだか哀しい気がした。
玄関のチャイムが鳴ったり、女の携帯が鳴ったりすると、
「心臓が飛び出しそうになるよ」
と、いつだったか神崎は輝明に秘密を明かしたことがある。
にもかかわらず、続ける。
(病気だな)
と、そのとき輝明は思ったが、何日かして一時の驚きがなくなると、神崎の気持ちが理解できるというのではないが、少なくとも神崎にたいして、倫理的な嫌悪感のようなものはまったく感じていない自分に気づくのだった。
また、
(そういう闇は……)
自分の中にはない、とはいい切れない気もする。
(香織だってそうかもしれない)
健やかな家庭環境など、いつ、何をきっかけに崩れるか知れたものではない。
そうなったとき、意識下からどのような魔物が頭をもたげてくるのか、想像すれば空恐ろしいばかりである。
輝明は、マリの家に侵入した夢のことを思い出していた。
夢の中で、
(おれは……)
神崎が輝明に女との秘密を明かしたときのように、怪しげな笑みを浮かべていたのではなかったろうか。
「あの写真、何?」
となりで飲んでいた五十年配の男が、白い筒袖を着た若い店員に訊いている。
輝明は、このひょろりとした五分刈りの店員が、カウンターの外にいるのを見たことがない。
もしかすると、あま川には、きっちりとした職掌分担のようなものがあるのかもしれない。
だとすると、カウンターの差配を任されているこの店員は、
(どこか頼りなげに見えるが……)
店での地位は、意外に高いのかもしれない。
「尋ね人ですよ。
常連さんにプロのカメラマンがいましてね、頼まれて貼ってるんですけど……。
偶然写した娘(こ)を捜してるんですよ。
これ、去年、すごく話題になった写真なんですよ」
店員は、照れたように笑っている。
まるで常連のカメラマンとやらを投入しているようだ。
詳しい事情は分らないが、
(そいつだって……)
行きつけの飲み屋にまで、写真なぞ貼らせて、
(普通じゃない。もしかすると、神崎のような男かもしれないな)
と、輝明は思った。
「美人だねえ。しかしアンバランスというか、すごいねえ……。彼女、まだ若いんじゃない」
「高校生くらいじゃないですかねえ」
「外人?」
「さあ、どうでしょうか」
「でも、危ないだろ、これ」
「穂高だそうです」
美人という言葉にひっぱられて、輝明は視線だけ、そちらに振った。
若い店員の背後の壁面全体が食器棚になっていて、そのガラス戸にA3サイズの写真が二枚、留めてある。
一枚は、ロッククライミングである。
黒くぬれぬれとした岩肌に、短パンにタンクトップ姿の娘が取り付いている。
白く長い手足が蜘蛛のようだ。
よほど関節が柔らかいのだろう。
この写真では顔はよくわからない。が、
(おやっ)
と、輝明が思ったのは、背中のザックである。
なんと娘は、赤いザックに白い百合の花束をくくりつけているのだ。
断崖絶壁を攀(よ)じる若い娘。
白い百合。
なるほどアンバランスである。
プラス、この娘が目の覚めるような美人なら、そのカメラマンは、いい稼ぎになったにちがいない。
それにしても、何のための花束だろう。
(誰かの弔いだろうか……)
我知らず興味をそそられる。
もう一枚の写真は、店員の陰になっていてよく見えない。
きっと、そちらが顔のアップなのだろう。
「ザイルとか、まったくないでしょう。それって、山やってる人から見ると、信じられないことらしいですよ」
「ふうん、そうなんだ」
「なんか、ちょっと足滑らせたら、何百メートルも真っ逆さまってところらしいです」
自分では見たこともない現場にさも恐ろしげな声を作っているのは、この店員の頭の幼さかもしれないが、聞いている輝明のほうが恥ずかしくなってくる。
客の注文を聞くときなどの歯切れのよい硬質さに輝明は好感を持っていたが、職場を一歩出れば、
(これが、この男の地なのかもしれない)
「なんでかねえ、こんなかわいいおねえちゃんが……」
「そうですねえ。でも趣味は、人それぞれですから……」
「そりゃそうだろうけど、命がけってのもねえ……。落っこちて死んだら、もったいないじゃん」
(何がもったいないのだろう……)
と、輝明は思った。
美人の死は、醜い女の死より重いのだろうか。
人をモノとして見れば、
(そうかもしれない)
少なくとも、美が力をもっていることは確かだ。
偶然、このカウンターで飲み、美しい少女の写真を見たために、穂高への郷愁を呼び起こされ、実際に山歩きに出かけた客だって、一人や二人はいるにちがいない。
(叙勲を受けた歴史学者の死は、一介のサラリーマンの死より重いのだろうか。だが……)
小林正二の死は、輝明にとっては、単に父の死だった。
しかも、生前の父の存在は影絵芝居のように現実感がなく、父の死は胸に突き刺さるような悲しみではなかった。
決して心に空洞を生むような出来事ではなかった。
(……はずだった)
「私も同じこといったんですよ、その人にね。
そしたら、この娘(こ)が本物の上級者なら命がけじゃないよって。
実は私、ゴルフやるんですけど、君がコースで落雷に遭って死ぬ可能性のほうが高いかもよっていわれました。
はははは」
店員の笑い声を聞きながら、ふと輝明は、神崎が女との情事の現場を押えられ、逆上した亭主に殺される可能性はどうだろうかと考えてみた。
わざわざ旦那の留守宅で密通を繰り返していれば、いつかはそんなことになるのではないか。
しかし、多少の修羅場はあったとしも、それが刃傷にまで至るということは、まずないだろうという気もする。
濡れ雑巾のような女のために、その後の人生を司直の手に委ねるのは、どう見てもばかげている。
ならば、
(写真の娘が滑落死する可能性と、神崎が殺される可能性はどちらが高いだろうか……)
輝明は、酔った頭の想像とはいえ、同僚の死にこだわっているような自分を変だとも感じていなかった。
「お客さん、お代わり、作りましょうか」
輝明は、声をかけられたことに気づかなかった。
父のことを考えていたのだ。
(やっぱり、父さんは、死ぬためにモンゴルに行ったんだ)
そう思われて仕方ない。
しかし、孤独ではなかったのだろうか。
怖くはなかったのか。
(もしおれが、末期ガンを宣告されたら……)
父のように、香織や謙吾や奈津美に何も知らせず、一人で死ぬことができるだろうか。
(無理だな)
もちろん父と自分では、子供とのスタンスがまるで違う。
淡いつながりの父だった。
しかしそれは、すでにして、それだけ父は孤独だったということではないのか。
(そこへ余命の宣告なんかされたら……。おれなら……)
一日だって、それまでどおりの日常を維持することはできないだろう。
それとも。
父にとっては、もともと氷点下だった気温が、もう一、二度下がっただけのことか。
学界の嫉妬を買うほどに鋭利な学究は、日常的な情緒を鈍磨させるのだろうか。
「お作りしますか?」
「あ、うん、そうしようか」
店員は空のグラスを下げながら、
「同じものでいいですか」
「ああ、そうだな……」
輝明は焼酎を飲んでいたが、あま川は、焼酎だけでも何十という銘柄をそろえている。
輝明はまたメニューを開くのが面倒だった。
店員が引っ込んだので、輝明は食器棚のほうに目をやった。
今度は二枚ともよく見える。
思ったとおり、さっき店員の陰になっていたのが顔のアップだった。
かなりの距離から撮影したものらしい。
ややうつむき加減の横顔だが、日本人離れした少女の顔立ちがはっきり写っている。
さすがにプロだ。
隣りの男のいったとおり、美人である。
が……。
見る間に、輝明の顔色が変わっていった。
ひと目見た瞬間から、誰かに似ていると思っていたのだが……。
「こ、これは!」
どうしてすぐに気づかなかったのだろう。
輝明は水を一口飲んだ。
コップを持つ手が震えている。
ゆっくり深呼吸をし、まぶたの上から、指先で両目を揉んだ。
目を開け、再び写真の少女の顔を凝視した。
(まちがいない。これは……)
牛窓で見た写真の中村に生き写しなのである。
こちらの少女は、たぶん店員のいった通り高校生くらいか。
牛窓で見た写真の中村はおそらく二十代の後半。
年齢差ほどの違いはあるが、瓜二つといっていい。
一度見ただけだが、あの中村の顔は、輝明の脳裏に鮮明に焼きついている。
中村は、今、生きていれば七十歳前後ということになる。
だから、同一人物ということは絶対にあり得ないが……。
(もしかすると、この娘(こ)は中村の親類縁者だろうか)
しかし、いくらなんでも似過ぎている。
夏に牛窓を訪れてからずっと、目に見えない不思議の糸が、
(こんなところにまで……)
繋がっているような気がした。
「お待たせしました。連合艦隊のオンザロックです」
五分刈りの店員が、新しいグラスを置いた。
キンと、鋭く氷がはじけた。
輝連合艦隊というのは岡山の米焼酎で、輝明は独特のすっきりとした飲み口が気に入っている。
どうも輝明は、牛窓以来、岡山づいている。
これまで見向きもしなかった父の著作を読み始めた。
父の仕事が天才的と評されていることは、輝明も知っていた。
その父でも、そこに至るまでには、さまざまな苦しみをなめ通したのだろうか。
歴史の著述からは艱難辛苦は感じられなかったが、行間には学者の孤高がほの見えた。
父の魂に感染したように、輝明は震えた。
震えながら輝明は、それまで父を生身の人間として見ていなかったことに気づいた。
「ねえ、君」
「はい?」
「あの写真だけど……」
隣りの男が、ちらと輝明を見た。
「はい」
「あれいつ撮ったの?」
「去年の夏です」
「あ、そう」
「何か?」
「いや何でもないんだけど。美人だねえ」
店員は、自分のガールフレンドをほめられたように、照れ笑いを浮かべた。
おもしろい男だ。
「ええ、なんとかいう週刊誌に掲載されて、だいぶ話題になったそうですよ」
「ふうん。ま、あれだけかわいいとねえ……。いや、どうもありがとう」
店員は、また隣りの男と話し始めた。
今夜は、珍しく店の中がすいている。
カウンター席は二人だけである。
店員の視線が、こちらをケアしているのが分った。
輝明は、適度に放っておいてもらいたかった。
今日、輝明は朝から胸騒ぎがした。
ベッドから出たときぞくぞくするので、香織に体温計を持ってこさせた。
しかし、測ってみると熱はない。
がっかりしている自分に、輝明は苦笑した。
とすると、ぞくぞくしているのは気持ちのほうなのだろうか。
輝明は肉体と気分の境目がわからないような自分を妙だと思いながら出社した。
会社でそのことを神崎に話すと、
「そりゃお前、胸騒ぎってやつだよ。今晩はまっすぐ帰らないほうがいいかもよ」
「何でだよ」
「玄関でかみさんが、殺気むんむんで待ってるかもしれないじゃん。どうよ。なんか心当たりがあるんじゃないの」
「お前と一緒にするなよ」
輝明はあほらしくなった。
あま川が松茸の土瓶蒸をやっているころだから、久しぶりに一緒に行ってみないかと神崎から誘われると、輝明は松茸はどうでもよかったが、なんとなく、夜の繁華街に埋没してしまいたいような気分になった。
背広を着たサラリーマンなのだから、もう十分、東京に埋没しているはずなのに、ことさらそんな気分になったのは、死んだ父にまつわるこのとろの異常な見聞のせいかもしれなかった。
輝明の頭の中は、美と不可思議がぐちゃぐちゃになり、風邪をひいたように茫々としていた。
埋没すれば、何かが麻痺し、普段に戻れるような気がした。
(朝の胸騒ぎは、まさか、これとは関係ないだろうが……)
飽きもせず、輝明は少女の写真を眺めていた。
グラスをなめては眺め、置いては眺め、魅入られてしまったように、写真の少女から、片時も目を離すことができなかった。
グラスが空きかけており、輝明は、それが何杯目だったかもう分らなかった。
酔ったというより、考えることが面倒くさくなっていた。
(そろそろ腰を上げるかな)
立ち上がることさえ面倒くさかったが、時間を見ようと輝明がポケットのケータイを探ったとき、入口のほうから、
「いらっしゃいませ」
元気のいい声が響きわたった。
輝明がそちらに目をやると、入ってきたのは若い女性だった。
一人である。
 ちらっと見ただけだが、
(かっこいい娘(こ)だな)
と、輝明は思った。
クラッシュジーンズにワイン色のフリース。
野球帽をかぶっていて、首から音楽用のヘッドセットを垂らしている。
デイパックを背負った様子は、街でよく見かける若者たちのふにゃりとした感じではなく、シャープさがあった。
娘から森の風が吹いてくるようで、ゆっくりと一呼吸する間に、もやもやと考えていた胸のつかえが、さっと吹き払われていくような気がした。
(近くの席に座ってくれないかなあ……)
輝明がすけべ心を出していると、本当に、娘は輝明のほうに近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から五分刈りの店員がいった。
声がはずんでいる。
「お好きな席へどうぞ」
ところが。
女性客はまっすぐ輝明の脇までやってきて、突っ立っている。
間近からの視線を感じ、さすがにどうしたことかとそっちを振り向いた。
娘はじっと輝明を見ている。
(なんだよ、これ……。もしかして……)
輝明が、けしからぬ期待を抱き始めたとき、娘は、
「こんばんは。小林さんですよね」
と、話しかけてきたではないか。
「えっ!」
「そっくりですね、先生に」
(訳が分らない……)
が、すぐに、はっと気づいた。
娘の声である。
不思議なほど透明感のある声。
まぎれもなく、
(この声は……)
輝明が口を開く前に、
「山田マリです」
娘は野球帽を脱ぎながら、ぺこりとお辞儀した。
「あっ!」
あらわになった娘の顔を見て、輝明は息が止まった。
カウンターの中の店員も、となりで飲んでいた男も、ぽかんと口をあけて娘を見つめている。
「君が山田マリ……」
青い瞳で少女はうなずいた。
「そんな……」
目の前に立っている少女は、輝明が今の今までずっと眺めていた、
(写真の少女!)
にまぎれもない。
それにしても、
(なぜ……)



十五、 花火

すれ違う人々が、二人を振り返った。
マリの美しさを振り返っているに違いないが、
(おれが不釣合いなのかもしれないな……)
輝明はうす笑いを浮かべた。
マリは、ヤンキースのロゴの入った野球帽を後ろ前にかぶっているので、今は顔がよく見える。
皆、一瞬わが目を疑うようだった。
たった今、通り過ぎていった少女は、目の錯覚か幻ではなかったかと、網膜がとどめた残像を確認しているようでもあった。
輝明はマリと並んで歩き、年甲斐もなくどきどきしていた。
(高二なら、まだ子供じゃないか)
と、自分にいいきかせながら、動揺をマリに悟られまいと、落ち着きを装っていた。
少女の美しさは、強い引力と同時に強い斥力があり、輝明は、人ごみの風圧に押されてやっと均衡をたもっているのだった。
輝明はなかなかマリのほうを見ることができず、視線を遠くに据えていたが、ひしめく人々の向こうにも、その頭の向こうにも、無数の人波がうねっていた。
(こいつら、いったい何をしているのだろう)
いつも通りの渋谷の眺めなのに、今夜ことさらそれをうるさく感じるのは、マリを無防備に人目に晒している苛立ちだろうか。
誰しも、美しいものは自分のものにしたいと思うに違いない。
そういう想いが、目に見えない糸のように無数にマリの体に絡まり、輝明からマリを引き剥がし、どこかに連れ去ろうとしている。
輝明は、無意識に、そんなことを恐れていたのかもしれない。
が、輝明は嬉しかった。
マリの若さに誘われて、自分も少年になったような気分があった。
マリが美しいことで、自分の何かが高められたような気もしていた。
一方で、通行人の中には、そんな年甲斐のなさを見抜いた者もいるかもしれないと思うと、すれ違う人々の目つきを観察せずにはいられない。
(父さんは……)
マリを初めて見たとき、何を感じたのだろう。
輝明は今夜ほど驚いたことはない。
が、
(父さんは、それどころではなかっただろう)
父の中では、中村は別れたときの姿のまま、変化しなかったはずである。
引き出しの奥にしまったあの写真を、ときどき、
(大切な蝶の標本を眺めるように……)
時を忘れてながめていたに違いない。
そんな中村に生き写しの少女が、ある日、
(いきなり目の前に現れたら……)
輝明は思わず身震いした。
もしかすると、父にとってマリは、中村以上に中村だったのではないだろうか。
引き出しの底で、中村の姿は凍結し、時間の風化を免れていたという以上に、父の中の中村は純化され、究極ともいえる美に昇華していたのではないだろうか。
高三の夏に別れてから四十数年の間、父がずっと追い求めていたのは、もはや中村ではなく、
(この娘だったのだ)
と、初めてマリに会ったとき、父は気づかされたのではなかったろうか。
少なくとも父は、高齢者となった現実の中村との再会を望んではいなかったはずである。
輝明だって、二十年ぶりの同窓会で、密かに想いを寄せていた少女に再会するのは、
(怖い……)
気がする。
「あそこで、おじいちゃんが落ちたんです」
歩きながら、マリはいった。
「わたし、まだ赤ん坊だったんですけど……」
あま川に貼ってあった写真のことである。
倉敷で中学の教員をしていたマリの祖父山田俊二は、穂高のあの場所で滑落死したのである。
当時、生まれたばかりのマリは両親とともにフランスのシャモニにいた。
シャモニは、人口一万人ほどの小さな町で、アルプス観光、および登山の基地である。
標高1000メートル余、アルプス最高峰モンブランとアルブ川を臨む美しい町である。
マリの父親パトリック・ロベールは、フランス人クライマーである。
彼は、マリの母裕美が通う岡山の大学で三年間、語学講師を務めていた。
大学で裕美は、スポーツクライミング部に所属しており、パトリックは大学から依嘱され、そのサークルの技術コーチをしていたのである。
裕美が、
「結婚する」
と、父に告げたのは、大学四年の秋のことだった。
もちろん、相手はパトリックである。
俊二にとっては寝耳に水だった。
しかも、このとき裕美は妊娠していた。
結婚と妊娠のことを同時に聞かされ、俊二は初めて、娘に手を上げた。
その夜、裕美は、着の身着のままで家を出ていったのである。
俊二は、教職員は社会の範たれ、という古き良き倫理意識を持っていた。
しかし、一方で。
そんな意識は、身近な人間関係をこわばったものにしていた。
結局、裕美はそのまま家には戻らず、翌年三月。
卒業と同時に、パトリックと二人、駆落ち同然に日本を離れたのである。
社会人になった娘の姿を色々に想い描いていた俊二の落胆は大きかった。
とりわけ、裕美は教員採用試験に合格していたのだから、当然自分と同じ教職の道を歩むものと期待していた。
俊二は、裏切られたような気がしていた。
裕美は、
(おれの後姿を目標にしていた……)
のだと、俊二は男親の感傷に傾いた思い込みをしていたのかもしれない。
実際は、親の方が子の成長の足音に背中を押してもらっていたのではなかったろうか。
しかし裕美は、父親の知らない世界で、すでに一人の女として生きていた。
期待というが、気づけば、俊二のほうが一方的に、子に依存していたのだ。
「採用試験はとりあえず受けただけだから……」
と、裕美はいった。
「とりあえず……」
その言葉を聞いたとき、俊二の中で何かが切断された。
裕美が日本を発つ日。
母親の山田あさみは成田に出向き、二人を見送ったが、俊二は一人、倉敷にとどまった。
自分を否定しきれなかったのだ。
昼から酒をあおったが、なんとも味気ない酒だった。
「なんで成田へ行ってやれんかったんじゃろう……」
今さらそんなことを悔やんでいる自分も、情けなかった。
社会が教職というものに抱いている誤解がなければ、
「おれは……」
父親としても、つまらない男にすぎないのではないか。
そんな思いに、俊二は打ちのめされていた。
世間の温和な勘違いの中で、寸分も己を疑うことができないまま生きてきた。
(愚かな……)
自分を正視することは、五十を超えた身にはこたえた。
いつまでも酔えない酒は、ただただ胸のうろに重たく沈殿していくようで、俊二の魂は、光のささぬ水底でもがき続けていたのだった。
裕美は、渡仏後まもない五月、マリを出産した。
そして、その年の八月。
俊二は、つにい裕美と和解できぬまま、穂高で死んだ。
十七年前のことである。
永く遠ざかっていた登山を再び始めたのは、歩み寄り、許しを請うための心の準備だったのかもしれないが……。
マリが、リヨンの日本人学校から岡山の県立高校の一年に編入してきたのが去年の九月。
マリは十六歳まで、フランスで暮らしていたのだ。
(なるほどな……)
輝明は、電話でマリがとっさに口にした、
「Long story」
を思い出していた。
マリは日本語以外に、フランス語と英語が話せ、
「日常会話程度なら……」
ドイツ語とイタリア語も大丈夫だといった。
「おじいちゃん、百合の花が好きだったそうなんです」
今年も八月。
やはりマリは、白百合の花をザックにくくりつけ、あの絶壁を降りていったのだという。
写真の絶壁を思い出し、輝明は平地を歩いていながら足が震えるようだった。
(こんなに華奢(きゃしゃ)に見える娘(こ)が……)
洋服の下には、いったいどのような肉体が隠されているのだろう。
「怖くないの?」
マリは、すぐには尋ねられていることの意味がわからないといった様子で、小首をかしげたが、
「怖いと思ったことはないです。宙に浮かんでる感じは、何ていうか、最高です」
その言葉に、今度は輝明の方が首をかしげたものだ。
「登山は長いの?」
「はい。歩けるようになるとすぐ登り始めていたそうです。シャモニの家に人工壁があって……、私は覚えていないんですけど」
「人工壁?」
「はい。父がフリークライミングやってて。高校の教師なんですけど……」
マリの父親パトリック・ロベールは、若いころから、クライマーの世界では広くその名を知られていた。
その父に連れられ、マリも十歳になる前から、世界じゅうの岩峰に取り付いていたのだという。
十四歳のときには、大人たちに混じって、ヨーロッパの大会で優勝した経験もあるという。
「へええ。じゃ、神社の杉の木なんか楽勝だね」
「え?」
「いや、いくさんから聞いたんだけど」
「ああ、森田のおじいちゃん。朝のトレーニングなんです」
マリは笑った。
その笑みは朝の光のようで、輝明はかすかな目まいを覚えた。
沈丁花の匂いがした。
(こんな季節にどうして……)
と、輝明は不思議に思った。
歩いても歩いても、花の香が離れないのは、
(これは……)
マリの匂いだと、やっと気づいた。
途端に、先日見た夢の光景が閃き、
(あのとき嗅いだのは、この匂いだったかもしれない)
と、輝明は、嬉しいことを思い出したように感じたが、実際は夢の匂いなど覚えていないのだから、そう思いたかっただけなのかもしれない。
京都の北白川の家の庭にも、沈丁花があった。
死んだ父が植えたものだ。
もしかすると、
(中村の肌も、沈丁花の匂いがしたのではないだろうか)
ふと、輝明は思った。
だから、父は、忘れえぬ記憶を撚り合わせ、ひとすじのよすがを紡ぐように、自宅の庭で沈丁花を育てていたのではなかったろうか。
沈丁花の香りが秘めている切なさは、決してつかみ得ぬものへの悲しい祈りのようにも思われた。
マリと並んで歩きながら輝明は、あま川にマリの写真を貼らせたカメラマンは、
(決して執拗とはいえない)
と、思い始めていた。
「美は問答無用なんだから」
と、良子がいったように、異常な性格の偏執ではなく、ごく普通の人間をそう駆り立てずにはおかない美の力というものがあるような気がした。
それが、肌の匂いがわかるほどの近くにマリがいることの実感だった。
(こんな少女といっしょにいたら……)
自分がいつ犯罪者になっても、
(おかしくない)
中村の美しさが、父にもたらした功罪は、
(どちらが大きいのか)
美に囚われ追いすがる者は、決して己の宿命に疑問を抱いたりしないだろう。
だが、傍から見れば、それは、
(幸福な人生なのだろうか……)
五分刈りの店員は今頃、厨房の隅で電話しているだろうか。
押し留めようとする店員を振り払うようにあま川を出てきた輝明たちだったが、今夜のことを知らされたとき、例のカメラマンはどうするだろうか。
狂わんばかりに、
(おれを捜すだろうか)
あの若い店員は、輝明の顔を覚え知っている。
もうあま川には行けない。
(新しい店を開拓しなくちゃな)
と、輝明は思った。
神崎にも事情を話しておいたほうがいいかもしれない。
しかし、それでもカメラマンは追跡をやめないだろう。
マリを追うことは、彼にとって、今や、生きるということと同義なのではないか。
今夜のことは、彼にとっては一時の失望だろうが、初めてマリを見てから今日までの暗闇に比べれば、わずかな光明がさした分、明日からの毎日は少しましになるだろう。
(まるで父さんみだいだ)
カメラマンは、これからも永く飢(かつ)えた人生を生きていくことだろう。
魔は、カメラマンの中にあるのか、マリの中にあるのか。
それとも、高みから人を弄んでいるのか。
輝明は会ったこともない男に親しみを覚え、これからの身の上を案じた。
(もう、姉さんを笑うことはできないな)
ふと、輝明は思った。
若いアイドルを追っかけている姉知美のことである。
それにしても。
どのようにしてマリは、輝明があま川にいることを知ったのか。
またどういう目的で輝明に会い来たのか。
それは、先ほどあま川でも尋ねかけたのだが、
「お宅に電話しました」
歩きながらマリはいった。
輝明は、香織には今晩は渋谷で飲んで帰ると知らせてある。
しかし、店の名までは告げていない。
「で、酒井さんに電話したら、渋谷で飲んでるんなら、あま川ってところかもしれないよって」
しかし……。
(たったそれだけで……。この娘(こ)は……)
渋谷にはいったいどれほどの飲み屋があるのか、分かっているのだろうか。
それを、あの酒井という坊さんの一言で、十七歳の少女がたった一人、東京の紅灯緑酒の中に入ってくるとは、
(なんて無謀な……)
輝明は呆れた。
マリの話を聞いてみれば、こうして自分と会えたのは運がよかったというより、奇蹟ではないか。
酒井も酒井である。
電話でもマリの置かれている状況はわかっただろうに……。
(この娘(こ)のことが心配じゃなかったのか)
牛窓の山田あさみは、このことを知っているのだろうか。
解せないことばかりだ。
しかし、マリの様子には、苦労して輝明にたどり着いたという感じはまったく見られない。
それどころか、あらかじめ輝明の居場所を知っており、すっと一直線にあま川にやって来たという印象さえ受ける。
「でも、あま川だけでよく店の場所がわかったねえ」
と輝明がいうと、マリはジーンズの尻ポケットからスマホを取り出し、青い瞳の前で振って見せた。
「何かぼくに用事でもあったの?」
未成年のマリが、輝明を捜して夜の酒場にまでやって来るのは、よほどのことと思われた。
しかし、
「近くに来てたんで、なんとなく……」
ぼやけた返答である。
マリのイメージにそぐわない。
「もしかして修学旅行とか?」
「いいえ。プライベートでちょっと……。こっちに友達がいて……。アメリカ人のお姉さん。クライマーなんですけど……」
嘘をついているようには見えないが、どうも要領を得ない。
今日は金曜だから、明日あさっては学校は休みだろうが、それにしてもここは東京である。
岡山の高校生が、
「なんとなく……」
やってくる距離ではない。
「さっきの話だけど」
「はい?」
「酒井さんからあま川のこと聞いて、それで来たって」
「はい」
「あれって、ほんとに本当?」
「どうしてですか?」
「どうしてってこともないんだけど、うーん、ちょっとミラクルだから」
輝明はミスターの真似をした。
マリは少し笑った。
少女らしくない母性的な笑みは、泣いているようにも見えた。
輝明には、その笑いの意味がわからなかった。
しかし、心地よかった。
「私ね、けっこう勘がいいんですよ。ほんとは秘密なんですけど。小林さん、1から9までで、好きな数字を一つ思い浮かべてください。私、当ててみせます」
「え、まじで?」
「はい。一つ選んで」
「うーん。じゃあ……」
「いいですか」
「いいよ」
ゆうやいなや、
「5です」
マリは前を向いたまま、さらりと答えた。
「当たったでしょ」
「うん、どんぴしゃ。驚いたねえ」
本当に輝明は驚いた。
が、怪しみはしなかった。
「ほら、ね」
マリは笑った。
今度は十七歳の笑いだった。
まぶしくて見ていられなかったが、その笑いから、高原の風が流れてきた。
輝明は、去年、家族で訪れた上高地の情景を思い出していた。
朝食前、一人、梓川の川原に降り立ったときの、あの身震いするような夏の冷気と同じだった。
真夏なのに厚手のフリースを着て、それでもガタガタ震えるほど寒い朝。
輝明は、体の芯から、得たいの知れぬ感動が湧き上がって来るのを感じたものだ。
寒さは、生きるものが本来持っている野生を刺激するようだった。
映画スクリーンのように巨大なショーウインドウに、鮮やかな山の紅葉が映っていた。
マネキンの女が白い毛皮のコートを着て、燃えるようなナナカマドの中から輝明たちを見下ろしている。
「もう一回やってもいい?」
マリの視線に触れ、輝明は少年のようにときめいた。
「ダメです。これは一回だけなんです」
「どうして?」
「九分の一なら、すごいじゃん、で済みますけど、八十一分の一だとちょっと笑っていられなくなるでしょ。秘密の力は、秘密にしとかないと……」
「なるほど……」
おもしろい子だと輝明は思った。
「マリちゃん」
「はい?」
「きみ、中村先生って知ってる?」
マリは首を傾けて輝明を見た。
吸い込まれそうな瞳は青い銀河のようだ。
危険な輝きだった。
「あ、ごめん。父さんが高校生のとき、世界史を教わった先生なんだけど、マリちゃんにそっくりなんだよ。知ってるわけないよね。ばかなこと訊いちゃって、ごめん」
本当に馬鹿なことをいってしまったと、輝明は自分でも驚いた。
発作的にそんなことを訊いてしまったのは、酔いのせいかもしれないと思ったが、朝からの体の不調と何か関係があるような気もした。
マリはただ笑っていた。
また母親のような笑みだった。
今度もその意味がわからなかったが、やはり心地よく、もう中村のことからは離れよう、と輝明は思った。
「わたし、将来、教員になりたいと思ってます。たぶん、歴史の……」
ぽつり、とマリはいった。
「そうなんだ」
輝明は聞き流した。
穂高で亡くなったという祖父が社会科の教員であったことの影響だろうし、また死んだ父正二にその影を求めたことも同じ流れであったろうと、思われた。
輝明は、公園通りの喫茶店に向かっていた。
その店は、ノートパソコンを持ち込めば、無料でインターネットに接続できるので、時々、輝明は利用している。
経営者の趣味なのか、いつもジャズのスタンダードナンバーが流れている。
ジャズのテンポはパソコンの操作と相性がいいように感じられた。
煙ったようなジャズの旋律は、疲れた頭と体をしっとり、くるんでくれた。
その喫茶店が入っているビルが見えてきたとき、輝明は左手に軽いしびれを感じた。
あま川で飲んでいるときも一度、焼酎のグラスを落しそうになった。
(疲れているのかなあ)
と思ったぐらいで、その時はあまり気にも留めなかったが、今は、少し目がかすむようだ。
歩道の端に、小さな男の子と父親らしい男がしゃがんでいる。
そこはガードレールの途切れた場所で、二人は車道のほうを向いて、仲良くしゃがんでいる。
男の子は、道路に突き出すように手花火を持っている。
(まさかこんなところで……)
と思ったとおり、もっと近づいてみると、男の子が持っているのはスティックタイプのキャンディーだった。
ところがよく見ると、先端の丸いキャンディーからぱちぱちと、何かの結晶のような赤い火花が散っている。
とても微かな閃光だが、ぱちぱちはじける様子は確かに花火である。
目の錯覚だろうか、それとも、あんなキャンディーのような花火があるのだろうか。
輝明は、きょろきょろ周りを見回した。
誰も花火には気づいていないようだ。
怪しみながら、輝明は通り過ぎた。
その父子のすぐ先が目的のビルなのである。
喫茶店は二階にあり、歩道からゆったりとした鉄の螺旋階段が店のテラスにつながっている。
階段の両側には一段ごと、円いプランターが置いてあり、ロゼット状に赤い花が咲いている。
輝明が階段に足をかけようとすると、マリは輝明の肘をつかまえ、
「エレベーターで上がりませんか」
と、いった。
輝明は公園通りを上下に見渡せるこの階段が好きだったが、
「いいよ」
そういって、マリと一緒にエレベーターホールの方へ入っていった。
自然に笑っていたと思う。
顧客を前にしたときのように。
が、何か違和感というか、意外な感じがするのだった。
マリが階段を避けたことが、である。
そんな輝明の気持ちが伝わったのか、
「なんだか疲れちゃって」
と、マリは言い訳するようにいった。
これも、輝明には妙な感じがした。
ここまで一緒に歩いてきて、マリに疲れた様子はなかったし、なんといってもあの鹿忍の急な山坂道を、毎日自転車で登り下りする娘ではないか。
それにマリは、日々トレーニングを欠かさない一流のクライマーである。
わずかな階段を厭う理由はない。
それなら、
(なぜ……)
さっきからマリらしくないことばかりだ。
輝明は、今夜初めてマリに会ったのだから、そんな言い方はおかしいかもしれないが、やはり、
(らしくない)
と思われるのだった。
エレベーターは三階に停まっていた。
表の方を見ると、さっきの親子は、まだ同じ場所にしゃがんでいる。
ここからは、彼らの手元は見えないが、
(まだ花火をしているのだろうか)
それとも、線香花火のようにはじけていたあの光は錯覚だったのだろうか。
一方で、もしかすると、今、自分が眺めている親子の後ろ姿は、父と自分の遠いシルエットなのかもしれない、と輝明は感じ始めていた。
今夜、山田マリという美しい少女と一緒にいることが現実なら、そうじゃないとはいい切れないのではないか。
しかし、無辺の闇の底に幻のようにうずくまった渋谷の灯火を眺めていると、すべては、何者かが創った大いなる幻影の一部分にすぎないのかも知れないという気がした。
(あの子は、おれにちがいない)
輝明は指先でこめかみのあたりを押さえた。
先ほどから頭痛がひどい。
どこからともなく、
「ギイィ、ギイィ、……」
という音が聞こえてきた。
水の匂いもする。
舟をこぐ艪の音のようだが……。
もう一度表の方を見ると、しゃがんでる父子の頭の向こうを、まぶしい明かりを点灯し、たくさんの舟が行き交っている。
(やっぱり川だったんだ)
川面はひたひたと、すぐ足もとにあった。
線香花火のはじけた火花は水に落ちても消えず、そのまま夜光虫のような球体になり、ゆっくりと水中に沈んでいった。
エレベーターホールから見えるはずのないものがこうして見えるのは、
(やっぱりあの少年はおれだったんだ)
輝明は理解できたことがうれしかった。
暗い水中をまるで雪のように、青白く色を変えた光の粒が、ゆらゆら降っていく。
輝明も、淡い光を放つ雪片といっしょに落ちていった。
深い深い淵に沈んでいくさまは、始めも終わりもない永遠のようだったが、ふと気づくと、一切の光子はもう届いていなかった。
輝明を呑んだ漆黒の闇は音もなく、膨張しすぎた孤独な宇宙のようでもあった。
突然、輝明は恐ろしい不安に襲われ、隣りにしゃがんでいる父の手を握りしめた。
「マリちゃん、赤い靴持ってる? すごい軽いやつ、トウシューズみたいな……」
幻に吸い込まれてしまいそうで、
(何かしゃべらなければ……)
と、輝明は急き立てられたのだが、また妙なことを訊いてしまったと後悔した。
さっき見た赤い花の連想だったのだ。
マリの家に侵入したあの変な夢のことはとても話せない。
「はい、持ってます。クライミングシューズですけど……」
「大切な靴?」
「うーん、フリークライミングとかいっても、あれだけはどうしても必要です。あとはまあ、難易度にもよりますけど、靴さえあれば裸でも登れます。今は片方しかありまんけど……」
「えっ!」
輝明は思わず、目をそらした。
(まさか……)
いや、あり得ない。
輝明は、一瞬馬鹿な想像をした自分を笑った。
今日はどうかしている。
エレベーターが、二階まで下りてきていた。
扉の上の電光数字を見つていた輝明の顔が、微笑むように和んでいった。
そのとき。
輝明の頭の血管を、無数の針が流れるような鋭い痛みが走った。
瞬間、視界が暗転し、輝明の体は、支えを失った丸太のようにゆっくりと傾いていった。
輝明は意識の端で、
「あああ……」
という自分の声を聞いた。
どこまでも、どこまでも落下していった。
やがて輝明の頬は、やわらかな温もりの中に抱き取られるのを感じた。



十六、 呼ぶ声

二日後。
輝明は意識を回復した。
目覚めたとき、香織が覗き込むように腰掛けていた。
目が合って輝明はどきりとした。
香織は真剣な面持ちで、疲労の浮いた顔は、見知らぬ他人に見えたのだ。
「よかった」
といって微笑むと、いつもの香織の顔になった。
輝明もほっとした。
もうどこも何ともなかった。
頭もすっきりしていたし、前後の記憶も明瞭である。
「謙吾と奈津美は?」
「中野の姉さんのところ」
言うや、香織は堰が切れたように泣き出した。
輝明は驚き、もてあました。
そのときは、意識のない夫を二日間、一人看病していた女の不安と孤独に思いがいたらなかった。
担当医師は、
「TIAかもしれません」
といった。
一過性脳虚血発作である。
しかし、自信なさげだった。
「原因はわかりません」
という代わりに専門用語を発したのではないか。
医師の声にはそういうくぐもりがあった。
「念のために……」
と勧められるまま、輝明は三日間病院にとどまり、さまざまな検査を受けたのだが、やはり何の痕跡も発見されなかった。
「おれ、ずっと眠ってた?」
香織に訊いた。
「そうよ」
香織はまた泣き出しそうだった。
医師にも同じことを訊いたのだが、
「ええ。まるまる二日間、まったく意識がありませんでしたよ」
と、恰幅のいい医師は、四角いあごで事務的に答えた。
看護婦にも、同じことを三度たずねた。
さすがに若い看護婦は、輝明のしつこさを気味悪く感じている様子だった。
それでも輝明は、
(そんなはずはない)
と、思うのだった。
二度目覚めた。
はずである。
確かに記憶がある。
最初に目覚めたとき、ドアのところに父が立っていた。
見たこともない異国の白い服を着ており、
「大丈夫か?」
と、はにかむようにいった。
父は死んだのだから、
(夢を見てるんだ)
と思ったが、
「父さんの数学は天才的だったんだってね。知らなかったよ」
と、ちぐはぐなことをしゃべっていた。
正二はぎこちなく笑い、
「微分だよ」
といった。
病室に響く自分の声も、父の抑揚の少ない話しようも、夢とは思えないほどリアルだった。
「微分て数学じゃないの」
輝明もぎこちなかった。
世間の親子はこんなときどんな会話をするのだろうかと、息苦しかった。
「過去との接空間を求めるんだ」
正二の声は、研究者の落ち着きを取り戻していた。
「何か解った?」
「思っていたとおりだったよ」
「どういうこと?」
「目をあけてごらん。答えがあるから……」
(だって、もう目を開けているじゃないか)
と輝明は思ったが、さらに目を開けようとして一所懸命もがいた。
自分でも滑稽な気がしたが、刹那、何かが揺らぎ、気がつくと父は消えていた。
次に目覚めたとき、沈丁花の香りの中にマリがいた。
今度は、本当に目が覚めたんだと分かった。
横向きに寝ている輝明の顔の前に、ワイン色のフリースを着たマリの胸のふくらみがあり、
(あのとき頬が感じたのは……)
マリの胸の柔らかさだったのかと気づいた。
父と向かい合っているときは、病室に寝かされていることさえ意識しなかったのに、マリの美しい顔を見上げているうに、
(ひょっとしておれは……)
過酷な運命に捉えられたのだろうかと不安がよぎり、マリの胸のふくらみを見つめながら、年端のいかない子供のように母親の乳房に顔を埋めて泣きじゃくりたいような不安に呑まれていた。
マリは、片方の手を輝明の頭の上にかざしていた。
ほの暗い静寂を侵して、その手が白い微光を発している。
光に熱はなく、輝明は次第に恍惚とまどろんでいた。

輝明は、岡山駅で借りたレンタカーを鳥居わきの路肩に止め、鹿忍神社の石段を登った。
十一月らしい木枯らしの冷たさだったが、長い階段を上まで登りきると、うっすらと汗ばんでいた。
再び訪れた山の景色は、そこはかとなく愛おしかった。
このあたりをおおっている光と風を、輝明はずっと以前から知っているような気がするのも不思議だった。
森の息吹は、夏来たときより薄まっていたが、秋の匂いは、ところどころ残っていた。
どこかで落ち葉が乾いた音を立てて転がり、風を誘っている。
岡山を訪ねたのは、マリに礼をいうためである。
救急車を呼び、香織に連絡をとってくれたのはマリだった。
退院してすぐに輝明は、山田宛に礼状を書いたが、それだけで済ませられることではない。
お礼の品を携え、今日、こうして鹿忍までやって来たのであるが、結局マリには会えなかった。
「今日はね、高校で模試なんですよ。もう帰ってきてもいいころなんですけど……。ゆっくりしていってください」
と、山田あさみは、例の心地よい声で勧めてくれた。
しかし輝明は、マリに会いたい気持ちが強いためにかえって素直になれず、
「マリさんにもよろしくお伝えください」
と、山田家を辞したのだった。
今日来ることは、あらかじめ知らせておいた。
輝明は、当然マリ本人に会えるものと思い込んでいた。
だから、マリがいないとわかったとき落胆は大きかった。
(でも……)
自然に微笑んでいたと思う。
会社勤めで身についた一種の条件反射のようなものだ。
「お前、ほんと役者だよなあ」
と、神崎は感心する。
だが、そんなに大層なことじゃなかった。
(あの笑い方は…)
確かに、仕事のツールだ。
しかし、感情の抑揚が顔に出ないのは、もともとそうだったのだ。
(それだけのことだ。父さんに似てるんだな、おれは)
と、今は思う。
車に乗ってからも輝明は、今にもマリは帰ってきはしまいかと、きょろきょろしていた。
門のところで腰をかがめてこちらを見ている山田あさみに片手を上げながら、
(もう一度引き止めてくれないかなあ)
とぐずぐずしていた。
赤い靴のことをマリに訊ねたかった。
しかし。
たとえマリに会ったところで、
「十四の春にかえるすべなし、か……」
あの夜。
マリは、血相を変えて駆けつけてきた香織を迎え、輝明が卒倒し、病院に運び込まれるまでの経緯を伝えてから帰っていったという。
しかしマリは、
(いったいどこへ帰ったのだろう)
と、輝明は思った。
深夜である。
もちろん新幹線など動いていない。
香織は気持ちが動転しており、そんなことにも気づかず、病院の廊下で、
「それではお大事に……」
というマリを、そのまま行かせたのだという。
(ばかな)
輝明は怒りがこみ上げてきたが、今さら香織を叱るわけにもいかなかった。
しかし一方で、
「あの娘なら……」
どんな状況にでも対応できるだろと、輝明は思った。
根拠はないが、マリには、普通の未成年者に対するような心配はいらないような気がするのだった。
現に、結果はそうなっている。
輝明が、
「一緒に岡山に行く?」
というと、
「あんなきれいな子だとは思わなかった」
香織はこっちを見ずにいった。
「マリちゃんのおばあちゃんもすっげえ美人だよ。ええと、何とかって女優にそっくりだって母さんがいってたけど……。子供たちも連れて行ってみるか」
「いやよ」
あまりにもきっぱりとした香織の声に、輝明は面食らってしまった。
香織自身、自分にびっくりしたらしく頬を赤らめていた。
マリの美しさに、香織は傷ついたのだろうか。
それとも、
(おれが……)
マリの胸の中に落ちていくところを想像したのだろうか。
(ひょっとすると……)
あの夜マリと一緒にいたことに、女の疑いを持ったのだろうか。
とにかく、
(香織を叱らなくてよかった)
と輝明は、胸をなでおろした。
結婚して間もないころ。
喧嘩というのではないが、香織が口を利かなくなったことがあった。
香織は目を合わせようとせず、まるまる三日間、輝明を避けた。
原因は、輝明の思いもよらぬことだった。
京都の母良子が輝明のところに一泊した。
東京の病院に入院している高校時代からの友人を見舞いに来たのだった。
その夜、良子が作った肉じゃがを、輝明が何気なくお代わりした。
それが香織の癇に障ったらしい。
別においしいといって母の料理を褒めたわけでもない。
懐かしい味付けでほのぼのした気分になり、お代わりしたのも無意識だった。
ところが香織の言い分は、
「いつも私の肉じゃが、あんまり食べないじゃない。好きじゃないんだと思ってた。あんなに嬉しそうな顔して……」
輝明にしてみれば言いがかりだし、つまらない嫉妬である。
他人が聞けば、川柳のネタになりそうな話である。
だが、それが自分の現実になってみると、しんねりとした女の抗議に、輝明は数日の間、家に帰っても仕事以上に疲れる苦い経験をしたのだった。
夏、ここに来たとき。
畑のひと所に、大きなハート形の葉が、青々と広がっていた。
大人の胸元ほどの丈に力強く伸び出したつややかな緑の肌は、まるで観葉植物のようで、きつい陽射しを喜んでいるように見えたものだ。
「ありゃあな、里芋じゃあ」
と、いくさんが教えてくれた。
輝明は里芋の葉を初めて見た。
それどころか、輝明は調理される前の里芋の姿さえよくわからない。
里芋の緑の上に、キラキラと宝石のような輝きがあった。
誘われて近づいてみると、葉脈を集めた窪みに、銀色の朝露が、ころころと夏の光を照り返していたのだった。
輝明は畑の畦に立ち、
(父さんも、これを見ていたのだろうか)
と、感傷に浸った。
蝉の鳴き声が喧しくまとわりついてくる中、静けさが凝縮し、無垢を封じ込めたようなあの美しい水滴は、生命の雫のようでもあり、もしかするとあそこには、
(おれに何かを伝えようとして……)
その一瞬、父の魂が宿っていたのではないかと疑われた。
遠ざかってしまうと、猛暑の日々も懐かしかった。
輝明は、ニコラスの墓碑の前に立った。
落葉の積もった森は、ときどき小鳥が枝を鳴らすだけで、怖いほど静かだ。
ここは一日中ほとんど日が差さないらしく、赤黒く湿ったような墓石は、気温より冷たい感じがした。
縦に三つ並んだ西夏文字を見つめながら、
「普通、縁もゆかりもない土地に墓なんてつくらないよな……」
輝明はニコラスの気持ちが理解できなかった。
(おれが死んだら……)
やはり彼岸には、香織や子供たちに墓参りに来て欲しいと、生きているときには思う。
それが普通ではないか。
(ならば、どうしてニコラスはわざわざ……)
何か意味があったにちがいない。
輝明は本堂の前に戻り、木立の間から白い瀬戸内海を眺めた。 
と、一瞬立ちくらみがし、海が真っ赤に染まって見えた。
過ぎ去った山の紅葉が海に下りたように海面が燃えていた。 
輝明はかぶりを振った。
渋谷で倒れたときの不安が蘇ったが、目を戻すと、海は元どおり白くにじんだ瀬戸内の海だった。
マリが香織と入れ替わりに病院を去ったとすると、
(ベッドの横に座っていたマリも夢だったのだろうか……)
マリの掌が白い光を発していたことを思うと、そう考えたほうがいいのかもしれない。
しかし輝明は、はっきりと沈丁花の匂いを覚えていた。
それならばマリは現実で、白い光が錯覚だったのだろうか。
だがあれは……。
まるで月の光に触れているようで、確かに、
(おれは癒されていた)
ひょっとすとあの娘は、
(おれを助けるためにあま川に来たのではないか)
そう考えると、あの夜のマリらしくない言動がいちいち腑に落ちる。
だが。
そのためにあま川に現れたとすると、マリは、あの夜輝明が倒れることを前もって知っていたことになるではないか。
これはもう一桁の数をいい当てるなどという次元ではない。
そうだとしたら、
(まるでニコラスだな)
輝明は苦笑いした。
(ひょっとしてマリは……)
本当は五桁だろうが十桁だろうが関係ないのではないか。
冗談のように、
「秘密の力は、秘密にしとかないと……」
とマリはいったが、あれは、まさに言葉どおりだったのではないか。
「ふん」
大の大人が、
「どうかしてる……」
輝明も心の底では分っていた。
しかしそれでも、突拍子もないことを想像したくなる。
「山田マリ……」
香織の占い好きを、輝明は思慮の幼さのように見ていたが、ふと気づけば自分も、
(おれも似たようんじゃないか)
平生、何を隠し、何を表に出しているか。
違いがあるとすれば、それだけのことだ。
(この木から始まったんだ)
輝明は、杉の大木を見上げた。
太い幹には、本当に何の取っ掛かりもない。
マリは、今でも、この木を登っているのだろうか。
父が死んでから不思議なことだらけだった。
すべては偶然の連鎖なのだろうか。
計り知れぬ一本の因果で繋がっているのだろうか。
輝明はまた老杉の梢を見上げた。
マリの幻を求めるように。
わざわざ岡山までやって来たのはそのためだったか。
夜の公園通りを、マリと並んで歩いたのは、つい一週間前のことである。
(なのに……)
遠い昔のような気がした。
北風が神社の杜を抜けていく音は、いいようのない寂寞感だった。
「さあ」
輝明は歩き始めた。
山門を下へくぐると、晩秋の陽だまりの中で、木立の影がそよいでいた。
石段を中ほどまで下りたとき、頭の上で百舌の高鳴きが響き渡った。
立ち止り、空を仰いだ。
枯れ葉をわずかに残した桜の枝の向こうに、クリームを溶かしたような青が広がっている。
その中をゆったり旋回しているのは鳶だろうか。
同じ光景をどこかで見たような気がする。
鳥居からさっと、冷たい風が吹き上げてきた。
(もうすぐ……)
冬が立つ。
再び輝明が石段を降りようとした瞬間、何かが揺らいだ。
そのとき、
「小林さん」
後ろから、女の声が輝明を呼んだ。
透き通るような声。
すぐに、
(マリだ)
と、輝明は思った。
振り返ると、山門の下に女の影があった。
大人の女だ。
落胆したのが分かった。
それにしても、
(どこから現れたのだろう)
山門に区切られた方形の中の女のシルエットは、まるで事象の地平に立っているようでもあった。
女はゆっくりと、輝明に近づいてきた。
そして。
その女の顔が明らかになったとき、
「ばかな……」
輝明はその場に立ちつくした。

無の揺らぎ

無の揺らぎ

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted