ふたりきり
「先輩、もうその席、捨てましょ」
飽き教室に置かれていた、机の一つを優しく撫で続ける彼に私は諭すように言った。
「嫌だ」
そう返されるのはわかっていた。
先輩は私のことなど目もくれず、死んだ彼女の机を撫で続ける。
「ばかみたい」
ばかみたい、ばかみたい。それ、彼女じゃないじゃん、ただの机じゃん。
油断している先輩に向かって、助走をつけて思い切りぶつかった。
彼女の机を愛でることに夢中で、私のことなんて気にもとめていなかった先輩はあっけなく私に吹っ飛ばされて床に尻餅をつく。
私はそんな先輩の上に跨って、襟元を掴んで、顔を近づけて言う。
「もう、いません。ハルさんは、死にました。駅のホームで、誰かに押されて、落ちて死にました。
身体はバラバラになって、肉の破片しか残りませんでした。
もう一回言います。ハルさんは、死にました。ここにあるのは、ただの机…」
言いかけたところで、先輩に思い切り両肩を押されて、次は私が尻餅をつく。
むくりと上半身だけ起き上がった先輩は、顔を真っ赤にして私を睨みながらも、必死で怒りに耐えているようだった。
本当は今すぐ私に飛びかかって殴りつけたい衝動にかられながらも、拳を握って、必死に。
「うるさい、もう、お前出てけよ
……二人っきりにしてくれよ」
最後の言葉は、まるで悲願するようだった。
目頭を手で抑えて、俯いて、それから啜り泣く声が聞こえてきた。
「二人っきりになんか、なれません。
先輩、もう捨てましょ。もう捨てましょうよ。全部。
この教室には私と先輩で二人っきりなんですよ、他に人なんて、もう、いないんですよ」
わかってるでしょ、ねえ、わかってるでしょ。
懇願するように言った。目頭が熱くなって、ボロボロと涙が零れてくる。
「いない人ばかり、見るのはやめてください
先輩の近くにいるのは、私なんですよ。ハルさんじゃないんですよ」
「ごめん、無理だ、ダメだ。捨てられない、ハルは、捨てられない」
真っ赤な目で、先輩は私を見た。いつもの切れ長でかっこいい瞳から、情けなく涙をこぼしながら。
私は悟った。彼の気持ちがハルさんから離れることがないこと、そして、彼の気持ちが私に向くことがないことを。
「……わかりました。じゃあ、もう私、帰ります。
二人っきりにします」
すっかり日の暮れたその日の夜。
駅のホームのベンチで、私は待ち続けていた。
ハルさんを捨てられない先輩を、ずっと。
その時ようやく、帰宅ラッシュで大勢の会社帰りのサラリーマンやOLの溢れかえったホームの中に、目尻を赤くした先輩がやってきた。
長いこと座り続けていて、すっかり温まったベンチから腰をあげた私は、呑気に電車を待つ彼の背中に近づいた。
そしてその背中をトンと、押した。
点字ブロックの向こう側、電車の近づく線路の上に、バランスの崩した先輩の身体が落ちて行く。
ゴーッと電車が通る音、OLの叫ぶ声、パニックになる駅のホーム。
その中で一人、私は呟いた。
「これで二人きりですね」
ふたりきり