白と黒の隙間 第二章【帽子屋の時間】

白と黒の隙間 第二章【帽子屋の時間】

第二章 帽子屋の時計
 眠れない夜、俺は決まってテレビをつける。
深夜番組は賑々しいが、俺はそれに何の感慨を持つこともできない。よくよく注意して見ればそれらの情報の中には俺にとっても有益なものはあるのかもしれない。だけどそれをするだけの意欲も中々に湧かず、映像は俺の頭の中をするすると通り抜ける。
 まるで夜の魚だと思う。思考の流れを自由気ままに泳ぎ進んでいくけれど、俺はそれをただ茫然と見過すことしかできない。だから俺は諦めて目を瞑る。意識をその流れの中に開放するんだ。電子レンジやデジタルカメラ、乗馬マシンやバランスボールといった取り留めのない映像の中を悠々と泳ぎわたる。波の中には様々な色味を帯びた声が絡み合い、無秩序に響きあう。
「そして、次なる商品はこちらの腕時計です」
 俺の夢想はそこで途切れる。目を開けばデジタル時計が通販番組で取り上げられていた。テレビの中で男は声高々に、わざとらしく抑揚をつけながらその性能を語り、他製品との差別化を図っている。俺はそれを見て、薄い笑みがこぼれる。 
 時計が止まっていて、何が悪い。
 以前リンが俺の壊れた腕時計をみて、新しいものを買うよう言っていた。プレゼントをしようか、とも。だが俺は丁重にそれを断った。たとえブランドの時計をもらったとしても、俺は時間を六時にとめたままにするだろう。リンは一瞬悲しそうにしたが、すぐにそれもどうでもいいのだという表情をつくって去って行った。
 俺は紅茶をすすってクッキーを一口かじる。たとえウカレウサギや眠りネズミがいなくとも、時計が止まっているからこそこうしていつでもお茶会ができるのだ。ロビーの大時計は深夜の二時の鐘を鳴らしても、俺の時計はいつもお茶会の時間をさしている。眠る時間など気にせずカフェインを含む紅茶を飲むのはより俺を高揚した気分にさせる。
「俺にも甘いもんくれ」
 ウサギやネズミの代わりに、最近は弟がお茶会に出るようになった。よほどリンの手作り菓子がトラウマなのか、甘いお菓子ばかりを食べている。テレビを見ては健康器具の理解不能な動きとその怪しい効果を笑い、季節外れの冷凍蟹の特集を食い入るように見つめている。そういえば、昔からこいつは食い物に目がなかった。
 春希に弟を連れ出すように言ったのは父だった。秘密にしてね、とリン以外に言って。失われた記憶を刺激するためだろう、昔家族で聞いていたジャズのレコードを聞かせるよう仕向けた。事態が混乱する、という俺の反対など全く耳を貸さないで。おかげでリンは一人でパニックになり泣きそうな眼であちこちを探して回り、寧ろそれを宥めることの方がよほど大変だった。父は何も知らないふりして帰ってきた弟にペナルティを課し、家出息子と叱っていた。
 期待通り、弟は記憶を少しずつ取り戻しているようだった。
 それを手放しに喜べない自分はやはり兄として失格なのだと思う。
 記憶は自分で取り戻させようとする父の方針は変わらないようで、《アリス》と呼び続けて由紀という本当の名前を未だ教えずにいる。春希も常々言っているが、父は確かにサディステックな一面がある。
「何見てんだよ」
「口の端にクッキーの屑ついてるぞ」
 無意識に由紀に目を向けていたらしい。俺は屑をぬぐうふりをして由紀の口の端を手で払う。由紀は何も疑うことなく、にかっと笑った。ホテルのスローガンや、入寮の際のルールで小さな嘘をつくことを定められていることなど、由紀の頭には全くないようだった。
 《小さな嘘が世界を救う》という、馬鹿げたスローガンを掲げたのは勿論父だ。何度読み返しても全く意味がわからなかったし、尋ねても教えてくれない。自分で考えなさい、と父は笑っていた。あのサディスト。
 だから俺は俺の答えを見つけ、自分に納得させた。
「千鶴、どうした?」
「あ?」
「怖い顔している」
 由紀は怪訝そうに俺を覗きこむ。その近づく距離に俺は微かに戸惑う。
「何でもない」
 由紀はそう言っても未だ俺を見つめるが、テレビショッピングの特集が有名店のバームクーヘンになったことを告げるとすぐにそちらに意識をそらした。今にも涎をこぼすのではないかと思うほど、熱のこもった視線で画面を見つめている。
 俺はカップに残った紅茶を飲み干す。底に砂糖が溜まっていたらしく、やけにぬるくて甘い液体が喉を伝う。俺はその不快感に目を細めた。時間が過ぎれば紅茶は冷める。そんなことは当然だ。
 だが、どうすればこの楽しいお茶会をずっと続けられるのだろう。


 朝、俺と由紀はいつものように起きる。目覚ましが鳴る前にポチ――ホテルで飼っている黒猫、が俺に甘えるように起して、二階のベッドではリンに由紀がハリセンで叩かれている。最近では一回で起きなくなってきたので、往復ビンタならぬ往復ハリセンを由紀にかましている。由紀が実の弟であるという認識はリンにはないのだろうが、流石に可哀そうになってくる。勿論止めはしないが。
「珍しいのね、今日は春希も一緒だなんて」
「うん、今日これから出掛けるから早めにご飯食べようと思って」
 春希はクロワッサンをちぎってはそれをコーンスープに浸して食べている。
「今日はどこまでお出掛け?」
「吉祥寺。『不思議の国のアリス』の展覧会があるんだって」
「へぇ、おもしろそうじゃん、俺も行く」
 バーに連れられてから由紀は春希によく懐いていて、その外出に同行しようとする。でもその度にあの手この手でまかれて、しょげて帰ってくる。今回は、君は今日から大学でしょ、と言われている。弟よ、入学初日からのサボタージュは止めてくれ。
「私も一緒に行ってあげようか、入学式。保護者も参加していいんでしょ」
「誰が保護者だよ」
 ホテル『不思議の国』などというのは名ばかりでここは只の家族の居宅である、という真実を知っている者にしてみたら中々際どい会話をしていて、冷や汗ものだ。横目で父を盗み見るが、何食わぬ顔でうさぎりんごを食べている。狸め。
 どういうわけか、この居宅に住む者にはそれぞれ物語のキャラクターが役として割り振られている。父がハートの女王、執事である榊が白ウサギ、長男の俺がイカレ帽子屋、二男の春希がチェシャ猫、長女のリンがウカレウサギといったところ。そして先日大学入学にあたって上京してきた三男の由紀がアリスを名乗ってホテルで生活を始めた。傍から見れば、日常生活に物語を取り込むのなんて馬鹿馬鹿しいことかもしれない。だけど庭に植えられた無数の紅い薔薇も、鬱蒼と生い茂る樹木に覆われた館も、ホテルの何もかもが浮世離れしている。
 このホテルは確かに『不思議の国』なのだ。
「千鶴様、紅茶のお代わりはいかがですか?」
 そう言って榊がカップに琥珀色の液体を入れてくれる。このホテルでは住人の誰もがコーヒーより、ハーブティーよりも何より紅茶を好む。無論リンも例外でないが、俺は先日リンの水筒に榊がローズヒップティーを淹れているのをみた。交通事故の記憶に苛むリンと由紀のお茶会に紅いお茶とは、どいつもこいつも油断ならない。
「千鶴の今日の予定は?」
 父は尋ねる。父は女王と名乗るわりにはドレスではなくタキシードを身にまとい、顔には表情を隠す仮面が着けられている。由紀が陰でタキ○―ド仮面と言って揶揄していることを知っているのだろうか。
「俺はいつだって帽子作りだよ」
 それが、アンタが俺に与えた役なんだろう?


 本当は、とても不器用だった。
 小さい頃、学校の家庭科で裁縫の授業があった。でも針なんて持とうものならすぐに落とすわ、指に刺すわ、おおわらわだった。よく担任の先生を嘆かせていた。
 だから母さんにつきっきりで教えてもらった。母さんって言っても本当の母はずっと昔に亡くなっていて、リンの母親であり父の愛人だった人が後妻として家に来てくれた。その人も今はもういないけれど。とても良い匂いがして、いつも柔らかく笑っていて、俺は傍を離れなかった。
 母さんは針の持ち方から丁寧に教えてくれ、俺が失敗しても何度も何度も根気強く指導してくれた。中学に入るころには何とか自分の手で帽子が縫えるようになって、最初にできたものを母さんにプレゼントした。下手糞だったのに、すごく喜んでくれた。
亡くなったのはそのすぐ後。間に合ってよかったと、不謹慎にも思った事を覚えている。
「帽子屋さん、これちょうだい」
 いつの間に部屋に入ったのか、春希は部屋に落ちている帽子を拾い上げる。濃淡二色の紫の刺繍を入れた黒のテンガロンハットだ。
「猫にやる帽子はない。これはいつかどこかで売り物にするんだ」
「それっていつ?」
「いつか」
 ふぅん、と春希は納得したふりをする。俺も《ふり》に気がつかないふりをする。だってその方が物事は滑らかに動く。無謀な正直さで誰かを傷つけずに済む。
「で、それっていつ?」
 春希がこうやって俺の神経を逆なでするのは今に始まった事ではない。
「だってこの日差しじゃ熱中症になっちゃうよ」
「まだ6月だし、そう熱くないし、今日は曇りだ」
「ケチ」
 大の大人が頬を膨らませても、何も可愛げがない。
俺がこれ以上相手をする気がないのを見て取ったのか、作業をしているうちにいつの間にか春希は消えていた。するりと。あの男以上にチェシャ猫の役をこなす人間はいまい。
母さんが亡くなってからも俺は帽子を作り続けた。同級生がテレビゲームに熱中する意味がわからないくらい、俺は帽子作りに没頭した。技術はみるまに上がり、やがて専門学校での課程を終えた。ホテルには俺の作った帽子の保管部屋をつくってもらった。なんとか状態は保っているものの、どんどん放置されるそれらは堆い山をつくる一方だ。
だけど、俺は帽子作りをやめられない。


今夜も俺はベッドをこっそり抜け出す。
時折、血の海が頭の中でフラッシュバックして気分が悪い。
不謹慎だけど、事故の記憶を手放したリンと由紀が羨ましいくらいだ。それほど、血の色は鮮明で、その匂いまで鼻腔をくすぐるようだ。
交通事故は眼の前で起きた。道路の真ん中で転び、動けなくなってしまった由紀を助けようとリンが道路に戻った。そこにトラックが近づいているのに二人は気付かず、中々動こうとはしない。母さんが慌てて二人の元に駆け寄り、二人を突き飛ばす。
やがて激しく炎が立ち上り、救急車と消防車が呼ばれ、俺たちは安全なところへ事故現場から引き離された。まだあの中に母さんがいるのに、俺たちはそこから母さんをひっぱりだすことも、火を消す事も出来ずに呆然とすることしかできなかった。やがてリンは気を失い、頭を打って動かない由紀は病院に運ばれた。知らせを聞いて走ってきた父は黙って俺を抱きしめた。俺はその震える手と、俺の腕の中で動かないリンの重み支えられて、なんとか意識を現実に縫いとめる事が出来た。
由紀の運ばれた病院に着いてもリンは眼を覚まさなかった。看護婦さんが空いているベッドに寝かせてくれ、事故の数日後漸く目を覚ました。
リンの髪の色は失われていた。日の光を閉じ込めたように輝いていた金の髪は真っ白に変じていた。医者はその色はもう戻らないと言っていた。
でも何より俺たちが動転したのはリンが《アリス》という本当の名前を捨てた事だ。アリスとして幸せを謳歌するはずだった妹は、それを事故の記憶と共に呆気なく手放し、自らをリンと名乗った。リンとは母親の愛称。だけど何がどうしてそう名乗るようになったのか、妹の心に何が起こったのか、俺と春希には全くわからなかった。
「おはよう、リン」
 ただ父だけはリンの言葉に目を細めただけで、動じることなくそう答えた。リンは満足そうに笑って、また眠った。
俺はこの年になっても未だわからないでいる。リンの記憶障害をそのままにしてよかったのか。本当の名はアリスなのだと教えてその生を全うするよう説得すべきなのではないのか。この子の生き方はこの子が決める、という父の言葉は、小学校を卒業してもいない子供には厳しすぎるのではなかったのか。
 だけど俺にはその壁を超えられなかった。何度かこらえ切れなくなって《アリス》と呼んでみたけれど、その度にリンは眼に涙をため走り去っていく。追いかけてみると薔薇園の隅で膝を抱えてうずくまっている。声もあげずに、身じろぎひとつせずに泣いているのだ。それでいて何食わぬ顔で戻ってきては、普段通り、いやそれ以上に明るく笑っている。
 だから俺にできる事は帽子屋としての腕を磨くとともに、楽しいお茶会を続ける意思を持つ事だと思った。たとえ妹が《リン》になったとしても、その生を面白く生きられるように支えてやりたかった。
俺はベッドの二階で眠る弟を覗きこむ。
「もう《アリス》には会えないのだと思っていたんだがな」
 暢気な寝顔を俺は撫でる。由紀はくすぐったそうに顔を歪めた。


「僕の帽子をつくってくれないかな」
 ノックもなしに扉が開いたかと思えば、父がそこに立っていた。ドアの縁に手を置いて、こちらを見ている。
「アンタの?」
 父は頷く。もう暫く誰かの為に帽子をつくっていない。ただ技術を磨くためだけに針を進めてきたことは、父だって知っているはずだ。
「僕に似合う帽子を、君に見繕ってほしいんだ」
「それは女王陛下の命令か?」
「そうでなければ君は作ってくれないのかい?」
 淋しいな、と父は呟く。
 外の庭の笑い声はこの部屋にも届く。それぞれ学校から帰ってきたリンと由紀は噴水の傍で遊んでいる。最近また水を張るようになった噴水に金魚を放したそうで、その泳ぐ様見ては声をあげて笑っているようだった。
 勿論そんなことは『不思議の国のアリス』の物語にはない出来事だ。ウカレウサギとアリスが金魚を飼うだなんて物語があるはずない。生活の全てが物語の枠に収まるわけがない。
 でも、それとは違う感覚が俺の中に芽生えつつある。
 そもそも、物語の枠自体が壊れつつあるのではないか。読み継がれることで物語は永遠になるはずなのに、少しずつ、その効力は失われてはいないか。あの春の日からホテルに宿っていた、表面化はしないけれども確かに存在した物語の粒子は、常にベールのようにホテルを包んでいて物言わず俺たちを見守っていたのに。
「なんであの時、アンタはわざわざこんな芝居を言い出したんだ?」
「なんだい、やぶからぼうに」
「惚けるな。アンタが何の企みもなくあんなこと言い出すはずないんだ」
「ひどい言われようだな」
 このホテルを「不思議の国」にしようと言ったのは、由紀が遠方に住む祖父の元から離れて上京すると決まってすぐのことだった。由紀が《アリス》を名乗っているのは何となく気付いていたから、今まで由紀とリンが共に暮らすのは危ういという父の判断には反対しなかった。それなのに、なぜこのタイミングで由紀をホテルに受け入れ、しかも芝居を提案するのかわからなかった。
 このホテルは既に「不思議の国」が十二分に染みついているのに、今更何を求めるというのだ。
あの春の日から、この館は紛れもなく『不思議の国のアリス』の舞台だった。誰が何ということもなくそれぞれが役をこなし、劇中の距離感を保つ。だけど距離感はあっても、まるでごっこ遊びをしているような奇妙な繋がりを感じることができた。
ずっとそれが当たり前だったし、それ以上もそれ以下も必要ないと思ってきたのに。
あの時、俺も春希も父の意図が掴めず言葉を失い、うまく止める事は出来なかった。
 でも意外にも誰よりも早くその提案に反応したのはリンだった。パチンと手を合わせて、面白そうと言って笑っていた。私はウカレウサギがいいな、とどんどん話を進めようとする。オーナーは勿論ハートの女王でしょ、榊は見たまんまよね、ハートの女王に使える白ウサギよ。じゃあ僕はチェシャ猫でよろしく、と春希もやがて異常な関係に馴染んでいく。俺は一人置いてけぼり。
 わかっているだろう、千鶴。君はイカレ帽子屋だよ。
 女王の言葉に、あの時の俺は手を強く握りしめた。掌に爪がくいこむ。
「僕はただ、《アリス》を取り戻したいだけなんだ」
「それならそうとアイツに言ってやればいいだろう」
「それじゃあ意味がないんだよ。リンが自分でアリスに戻らないと、彼女は彼女のアイデンティティを取り戻せない」
「そこまでアイツは弱くない」
「その通り。だからきっとリンは自力で自身が誰なのかを思い出す」
 俺は苛立つ。
「それに、このお芝居は何もリンの為だけに始めたものではないんだ」
 俺は眼を見開かせる。どういうことだと詰め寄ろうと振り返ったが、そこにはもう父の姿はない。廊下を覗けば、帽子よろしく、と言って背中で手を振る父の姿があった。


 由紀が帰ってきて一番変わったのはご飯を食べる時だと思う。そりゃあ日中はそれぞれ学校に行ったり、働いたりと別行動だけど、誰もが朝食と夕食の時間には席に付けるよう努力しているようだった。それまで個人主義でなんだか乾燥していた空気が、俄然色味を帯びてきたよう。賑々しく騒々しいけれども、悪くない気分だった。1
「あ、これ渡し忘れていたんだけど、展覧会のお土産」
 放蕩癖のある春希でさえ最近はご飯時には帰ってくるようになったことが意外だった。渡されたのは数枚の絵ハガキで、深い森の中をさまようアリスや、帽子やとウカレウサギと眠りネズミとのお茶会、アリスが姉に起こされる様子がそれぞれに描かれていた。
「可愛い絵ね。これ、若手の作家さんの作品なんでしょう?」
「うん。美術館で大家の画家を見るのもいいけれど、若手の作品も斬新で面白いよ」
 でもこれはあまりに物語に忠実な構図ではないかと俺は思うが、あちこち渡り歩いている春希の言うことだ、そんなものなのかもしれない。
「アリス、学校はどうだい?授業は順調かい?新しい友達はできそうか?」
「当り前だろう、俺は天下のアリス様だぜ?」
「でも英語の宿題、早速私に泣きついてきたわよね」
「あ、それ言うなよ」
「なんで不定詞をわからないで大学入試を通れたのか不思議だわ」
「それは、アレだ、俺が天才アリス様だからだな」
「どこにいるの、そんなバカ者は」
 いい加減うるさいが、それでもリンは楽しげに笑っている。
 俺はロールキャベツを一口食べて、そしてまたこの様子を眺める。リンと由紀は相変わらずバカ騒ぎをしているし、春希と父は絵ハガキの感想を語り合っている。榊は空いたグラスに水を注いでくれて、よいご夕食ですね、と目元をほころばせて言う。
 全くだ、と俺も満足する。こんなにも過不足なく、安心感に包まれた食事は久しぶりだった。
「ああ、千鶴。僕の帽子の仕上がりはどう?順調かい?」
 俺は父と目を合わせる。にやりと口が自然に歪む。
「そりゃあ、女王陛下の御命令だからな。力作だぜ?」
 父はちょっと困ったように、大丈夫なのかい?と尋ねるが俺はもう食事に戻る。
 オーダーしたのはアンタなんだから、楽しみにしてろよ。


「うげ、何それ」
 由紀は俺の手元お覗くと、変な声を出して後ろに飛び退く。失敬な奴。
「帽子だが?」
「それ、帽子って言っていいのか?」
 俺は女王の命令通り帽子を縫っている。女王の命令に逆らってペナルティをくらうのはごめんだった。以前由紀に話したペナルティの数々――寝所に敷かれた薔薇の花、ネグリジェの強要、食事の代わりのお菓子攻め、は全てこれまでの俺の悪戯に対する父の仕返しだ。やんちゃだった自分も自分だが、父だっていい年こいてかなりのやんちゃだ。
 考えた末、俺は俺なりに思う最高なまでに女王に似合う最低の帽子をつくってやる事にした。たまに憂さを晴らすことくらい、許されるだろうと自分に言い聞かせて。
「アンタに帽子屋としてのプライドはないのか」
「さてな」
 手元の帽子の布地は黒を使う事にした。タキシードには黒が一番似合うだろうし、それに地色が黒だとそこに付ける装飾が一番映えるだろう。
 今縫い付けているのは比較的短めのクジャクの羽根。緑や青の光彩が鮮やかで、帽子をよりどぎついものへと導いている。他にも水色のサテンのリボンだとか、赤い薔薇のコサージュ、白のアンティークレースなど所狭しとその黒を彩っている。もはや男性用か女性用かわからない代物だが、元々が男女の差を曖昧にしているので気にしない事にした。
「女王が帽子を頼んだってのは聞いていたけど、ここまでくると悪意もいっそ清々しいのな」
「デザインは全て俺に一任されている。文句は言わせねぇ」
「アンタ、むちゃくちゃ性格悪いな」
 そう言うと由紀は一人掛けのソファに身を沈めて、先ほど春希からもらった絵ハガキを眺めては、くるくると弄び始めた。俺も視線を手元の帽子に戻し、針を進める。
ふと窓を見る。この部屋には時計がないから正確な時間などわからないけれど、月の傾いた角度から見ると遅い時間であることに間違いないだろう。
「おい、そろそろ寝なくていいのか。明日もリンは早いぞ」
「なぁ、俺さっき思ったんだけどさ、ここのスローガンて別の考え方もできるんじゃね?」
 会話は全くかみ合わないが、俺は珍しくまじめな顔をした由紀を興味深いと思う。
「俺も全部、何もかも正直にしちゃったらすごく窮屈で、大変だと思うよ。多少の嘘をついた方が物事はスムーズに動くし、誰かを守れることもあると思う。だけどさ、嘘って自分の為につく嘘とか、悪意でつく嘘とかもあるわけじゃん?これって結構危険な賭けだと思うよ。一歩間違えれば皆で傷付けあうだけになるかもしれないんだから。でもこのホテルはそうなってない。少なくとも今俺が見た限りでは、誰も誰かを傷つけようとしていない。ルールで嘘をつかなければならないって言っているのに、誰も傷ついていないって、これマジですげぇんじゃね?」
 由紀の言葉を聞きながら、俺は先ほどの夕食を思い出していた。皆の晴れやかな笑顔と注がれた水。父の仮面と穏やかな会話。
 違う、と俺は小さく声をこぼす。違う。誰もが傷を抱えながら、痛みに涙しながらあの空気を守ってきたのだ。幼いまでの必死さと頑固さで。このホテルを覆っていたのは物語の粒子なんかじゃない、もっと哀しい絆だ。
俺は手元の帽子を見る。私服にも、タキシードにも似合わない、ただの被りもの。ただの悪意。それまで注がれてきた愛情に一切目を向けないで生まれた、子供じみた感情。
「何しているの?」
 由紀は俺の手元を覗きこむ。
「作り直す」
「……俺、もう寝るんだけど」
「問題ない。談話室で作業をする」
 由紀をじっと俺の顔を見つめる。なんだかにやにや笑っていて、気持ち悪い。
「がんばってね、お兄ちゃん」
「黙れ、馬鹿弟」


「お裁縫というのはね、愛しい人を想って作るものよ」
 いつだったか、母さんは俺を膝に乗せて言っていた。いい加減背が伸びてきて、小柄な母さんの上に乗るにはいかにも育ちすぎていたが、それでも俺はその場所が大好きだった。
「何度だって失敗していいの。失敗するうちに技術は上達するわ。だけど一番早く上手になるにはね、どんな風に作ったら相手に似合うだろう、相手はどんな風に被ってくれるのだろうって考えながら作ることよ」
 俺は母さんが器用に刺繍をほどこしていく様をじっと見つめていた。それはまるで魔法の様で、真っ白だった布地があっという間に彩られていく。母さんの言葉を俺は眼を合わせずに聞いていたが、その針の魔法と母さんの言葉はうまい具合に溶けあって俺の頭に浸透していった。
 愛しい人。
「貴方は一体誰の為にお裁縫をしてあげるのかしらね、楽しみだわ」
 そりゃあ勿論母さんに決まっている。血の繋がりもなく、愛人だったという立場から肩身の狭い思いもしているにもかかわらず、俺たち兄弟に分け隔てなく愛情を注いでくれる母さんはまるで聖母様だ。いつか母さんの為に何か作ってあげたいと思った。今はうまく針を扱えないけれども、失敗すればいいんだ。
「ねぇ、お母さんにだけ教えて。千鶴は学校に好きな子がいるの?」
 悪戯っぽく聞いてきたけど、俺は何も答えなかった。学校には可愛い女の子たちがいるけれども、彼女らは勇ましく男の子たちを追いまわすか、密やかに、だけれどもあけっぴろげに噂を楽しんでいる。母さん以上に魅力があるとは思えない。
「内緒だよ」
 俺は笑いながらそれだけを言って、膝から降りた。アリスが呼んでいるのが聞こえたのだ。新しくできた可愛い妹を一人にはできない。
「行ってらっしゃい」
 母さんにはどんな帽子が良いかな。コサージュが似合う白の帽子か、大人っぽい黒の帽子か。色々考えよう。色んな事が出来るようになろう。時間はまだまだいっぱいあるのだから、とアリスの手を引きながら俺は頭を巡らせた。
 実際にはその数年後に事故が起こり、母さんは亡くなった。帽子はかろうじて間に合ったが、全然おしゃれじゃなかった。手渡す時、次はもっとかわいいのをつくるからね、と弁解した。でも母さんは、次はもっと千鶴を愛してくれる人に作ってあげなさいと言うのだった。約束だよ、と。
 俺はずっとその約束を破ってきた。誰の為でもない、ただ自分の為だけに帽子をいくらでも作った。どれだけ量を作っても、何かが渇いて仕方がなかった。出来上がった帽子を見ても、愛着は湧かずにすぐに保管庫行きになった。
 今、俺は一心不乱に手を動かし続けている。縫い代を決め、布を裁ち、糸を選ぶ。母さんの言葉を何度も思い出しては、また針を進めた。流石にここ暫く睡眠不足が続いていたのでいい加減視界がぼやける。だから随時、眼を閉じて休ませたり、仮眠をとったりした。無理を強いて良いものは作れない。自己満足になっても、相手は喜んでくれない。
 時間は深夜の三時半を指している。
 まだ、時間はある。


 父は自身のデスクに置かれた帽子を見て、眼を丸くする。
「これは?」
「帽子だ」
「だって、頼んでから二日しか経っていないよ?」
 実際にその帽子にかけた時間は一晩だけだ。由紀ではないが、俺の集中力万歳。
「これを僕に?」
 父は心底驚いたように、そして内から零れ出る喜びを隠そうともせず帽子を手に取る。その姿に母さんの影が重なる。やっと約束を果たせたと思うと、肩が軽くなった。
 帽子は茶色の布地を使ったごくシンプルなモノにした。前方のつばの辺りにゆとりを持たせたキャップだ。つばの根元には小さくハートの刺繍をいれた。やっぱりこれが父のシンボルマークだと思ったから。
 でもたとえハートの女王でも、タキシード姿にこのキャップは似合わない。あまりにカジュアルすぎる。その意味では俺は注文主の声を無視した形になるのだろう。でも、それでも父は怒らないと確信していた。
「それを被って、今度みんなで母さんの墓参りに行こう」
 それを被るとしたら、父は私服に着替えざるを得ない。ジーンズか綿パンか。シャツにジャケットとなど、世間一般の父親の格好に戻らなければならない。
 父は俺を見上げる。目を柔らかくほころばせたかと思うと、やがて立ち上がり、俺の頬に手を伸ばす。温かい体温が伝わった。
「もう少し待ってくれ」
 その答えに、俺はさして驚かない。寧ろその仮面をつけているのにその表情と感情の変化に気づけた事に驚く。一体俺はどれだけこの男から眼を背けてきたのだろう。
「もう少ししたらアリスは夢から覚めることを選ぶだろう。そうしたら、このお芝居もおしまいだよ」
「アリスは大丈夫なのか」
 溜息と共に言葉を漏らす。今の父の言葉から、妹は記憶を正しく有していることが分かった。本当は俺だって薄々気付いたけれど、妹がそうせざるを得なかった理由にずっと目を背けてきた。事故の前から、穏やかで幸せな家族だと信じて疑わなかった頃から、妹にずっと孤独を味あわせてきたという事実に気がつきたくなかったんだ。本当に駄目な兄だったと思う。
でも何より俺は心配だった。ここ最近の、異様なまでに無邪気に笑う妹の様子を思い出す。由紀が帰ってきてから妹は更に笑うようになった。コロコロと喉を鳴らし、快活に振る舞っている。だが、《アリス》を名乗る由紀が現れて、妹の心が揺るがないわけがない。
 でも父は鷹揚に構えているようだった。
「父さんは、なんでここを不思議の国にするだなんて言い出したんだ」
 俺はかねてからの疑問をぶつけてみる。
「理由はいくつかあるけれど、一つは願掛けかな」
「は?」
「『不思議の国のアリス』では、やがてアリスが目を覚ますと同時に、不思議の国の全てが現実に置き換わるだろう。例えばお茶会のかちゃかちゃという音が、山羊のベルのからんころんだったみたいにね。だから、このホテルに纏わりつく『不思議の国のアリス』の呪縛も物語とともに覚めてしまえばいいと思ったんだ。たとえその先がつまらない現実だとしてもね」
 賭けだったけれどね、と父は苦笑するのをみて、俺は唖然とした。その話のままだとしたらなんて危うい勝負に出たことだろう。下手したら物語に閉じこもる奴だって出てくるかもしれないのに。
「帽子屋の時間も動き出したんだ。アリスの時間も、尚更だろう」
 つくづく性格が悪いと思う。
 俺は頭をくしゃくしゃと掻いてみる。由紀の記憶、アリスの笑顔、春希のすっとぼけぶり。どれも俺を混乱させるのに十分だった。それぞれが腹の中で何を抱えているのかちっとも見せに来ないし、救難信号もださずに静かに涙を流している。はっきりいって、今の俺には手詰まりだ。
ならば、と俺は息をつく。俺は父の言葉を信じてみる事にした。馬鹿なふりをしてその都度家族中から冷たい――だけど微笑ましい笑いをかっている父だが、誰よりも家族の事を見ているのだと今ならわかる。危険な賭けに身を投じさせながらも、時には手を差しのべ、見守っている。ある意味では真正の馬鹿だが、確かに俺たちの父親なのだ。
「でしたら、お茶会でもいかがですか、女王陛下」
 俺はわざとおどけて父に手を差し伸べる。父もにやりと笑ってそれに応じた。内線で榊にお茶の用意を頼み、一緒に飲もうと誘っている。
 いいさ、もう少し、もう少しだけこの茶番に付き合ってやるさ。いずれ儚く散るこの舞台の結末を、俺も心して見届けてやるんだ。それが俺の役回りなら、カーテンコールが鳴りやむまで俺はそれを演じよう。
 それが兄としての務めならば。
「ああ、これ、似合うかな?」
 女王は俺のキャップを被って言う。あまりのちぐはぐさに俺は腹の底から笑ってしまった。
「鏡をよく見るんだな、ハートの女王」
 お茶会は愉しくなければ意味がない。

白と黒の隙間 第二章【帽子屋の時間】

白と黒の隙間 第二章【帽子屋の時間】

ホテル『不思議の国』に≪アリス≫が返ってきた中、≪イカレ帽子屋≫は物語と現実の狭間を見失う。 それは単なるごっこ遊びではなく、彼が、彼女がアイデンティティを取り戻す苦肉の策だった――。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-08-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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