夏の終わりの静かな風 10
店を出ると、彼がちょっと夜景でも見に行かないとか言い出して行くことになった。
男二人で夜景を見に行くのも妙なものだなとは思ったけれど、僕は自分の地元の町にそんな夜景を見ることのできる場所があるなんて知らなかったので興味をひかれた。
彼の言う、その夜景の見える場所というのは、車で三十分程狭い山道を登ったところにあるらしかった。もともとその山道は神社に行くためのものらしいのだけれど、その道の途中に少し開けた場所があって、そこから夜景を見ることができるのだという話だった。
僕たちはこんな狭い山道でもし対向車が来たらどうしようかとひやひやしながらクネクネと蛇行する山道を苦労して登っていった。そしてようやくのことで目的の場所にたどり着くと、道端の隅に車を駐車して、夜景の見える場所まで歩いていった。
山の上にいるせいか、夏だというのに、半袖ではかなり肌寒く感じられた。空気にはもう微かに秋の匂いが混ざっていた。その匂いを嗅いでいると、いよいよ夏ももう終わりかけているのだと感じて、なんとも言えず物悲しさを感じた。まるで一瞬心のなかに、秋の日の、透明な日の光がすうっと差し込んできたかのように心がしんとなった。
ちょっとした展望台のようなところがあって、そこから夜景を臨むことができた。小さな町なので、スケールが小さくて全然大したことはないのだけれど、それでもきれいなことはきれいだった。どちらかというと物静かな光の粒が重なり合ってささやかではあるけれど美しい輝きを放っていた。
「ほら、あそこに道路があっがね。」
と、僕が目の前の夜景に見とれていると、横から大久保が話しかけてきた。振り向いて彼の顔を見てみると、彼は目の前に広がる夜景を指差していた。それで僕が彼の指さしている方向に視線を戻すと、
「あそこに、道路と道路が交差するところがあがっね。」
と、彼は説明して言った。
「うん。」
と、僕は彼の科白にただ頷いた。
「あそこを中心にして町の光を見るとよ、ちょっとハートの形に見えるちゃが。」
と、彼はそう特意そうに言と、自分の言葉を冗談に紛らわせるように軽く微笑した。
見てみると、確かに彼の言うとおり、道路を照らす街灯の光が、町をハートの形に区切っているように見えなくもなかった。
「そんなの誰に教わったの?」
と、僕が彼の方を振り向いて冷やかすように尋ねると、彼はちょっと照れ臭そうに笑って、
「彼女やね。」
と、白状した。
「やっぱりか。」
と、僕は彼のちょっと照れたような表情が可笑しくて笑った。
大久保の説明してくれたところによると、彼には現在付き合って一年になる恋人がいるようだった。彼が現在付き合っているのは、高校時代の同級生で、彼女と付き合うようになったのは、大学の夏休みのときにばったり彼女と再会したのが切っ掛けらしかった。
そのとき大久保は地元の自動車学校に通うために帰省していたのだけれど、その自動車学校に彼女も通っていて、お互いに顔見知りだということもあって、それから彼らは親しく話すようになったようだった。とはいっても、すぐに付き合うようになったわけではないらしく(大久保は福岡の大学に通っていたけれど、彼女の方は宮崎の大学に通っていた。しかも、その当時の彼女にはもう既に決まった恋人がいた。大久保の方にしてみても、特に彼女を女性として意識していたわけではなかった)自動車学校を卒業してからのふたりの関係はただのメール友達としてのみ続いたみたいだった。
やがて、大久保が大学四年の半ば頃からアパートにひきこもるようになると、その関係すらも途絶えてしまったらしい。(ひきこもりの生活を送っていた大久保にとって、彼女とメールのやりとりを続けていくような気力は残されていなかった)しかし、そのあとで大久保が父親に半ば強引に説得されて宮崎に戻ると、次第に彼の心にもいくらか余裕が生まれるようになり、大久保はふとまた彼女のことが気になりだしたらしい。というのも、大久保は彼女とのメールのやりとりを一方的に終わらせてしまっていたので、そのことがずっと気がかりだったらしいのだ。それで、大久保がどうせ無駄だろうと思いつつも、音信不通にしていたことを謝罪するメールを久しぶりに彼女に送ってみると、意外にも彼女から返事が帰ってきた。
それから、大久保と彼女はメールのやりとりを再開させることになったようだった。
大久保はメールのやりとりをしていくなかで、まず自分が就職活動に挫折してひきこもりになってしまったことを正直に彼女に告げた。そのことを告げることで、あるいはもしかすると彼女に嫌われてしまうんじゃないかと大久保は恐れていたのだけれど、でも、そんな彼の心配をよそに、彼女は親身になって大久保の話に耳を傾けてくれ、必要に応じてアドバイスもしてくれた。
そのうちにふたりはファミレスや喫茶店等で直接会って話すようになり、いつの間にか大久保は彼女のことを女性として意識するようになっていった。(その頃には既に彼女は以前付き合っていた恋人とは別れてしまっていた。社会人になってお互いにすれ違うことが多くなり、話し合いの末に、別れることになったのだ、と、のちに彼女は大久保に語った。)
そして大久保は悩んだ末に、思い切って自分の気持ちを彼女に告げた。実を言うと、自分は佐藤さん(彼の恋人の名前は佐藤香苗という)のことが好きなのだけれど、もし良かったら自分と付き合ってもらえないだろうか、と。彼は、ひきもりの、無職の男の愛の告白なんて到底受け入れてもらえないんじゃないかと思っていたのだけれど、でも、嬉しい誤算というか、予想外なことに、彼女は彼の愛の告白を受け入れてくれた。
そのようにして、去年の今ぐらいの時期からふたりは交際をスタートさせたらしかった。
「なんだかドラマチックだね。」
と、僕は大久保の話を聞き終わると、微笑して感想を述べた。
「べつにドラマチックじゃないよ。」
と、彼は照れ臭いのか、僕の言葉を小さく笑って否定すると、それから、
「吉田は誰かおらんて?」
と、当然といえば当然だけれど、僕に恋人がいるかどうかを尋ねてきた。
「今のところいないかな。」
と、僕は曖昧に微笑して答えた。
「そっか。」
と、大久保は僕の返事を聞くと、どう言ったらいいのかわからない様子でただ頷いた。
「どこかにいいひとがいればいいんだけどね。」
と、僕は冗談めかして言いながら、何年か前に別れた恋人のことをふと少し、思い出した。もう彼女のことは忘れたつもりだったけれど、それとは違う感情が、まだ心のなかには残っていたみたいだった。
僕と大久保は少し間どちらも無言だった。沈黙のなかを夜の色素を含んだ冷たい風が流れ過ぎて行った。目の前に広がる町は淡く静かな光を淡々と放っていた。その静謐な光は網膜を通じて僕の心のなかに入り込むと、その箇所を微かに震わせていった。
「・・・そのひととさ。」
と、いくらか長い沈黙のあとで、僕は大久保の方を見て言った。大久保は振り向いて、いくらか怪訝そうに僕の顔を見た。
「佐藤さんだっけ?大久保はそのひとと結婚したいなとか思ってるの?」
と、僕はふと思いついて尋ねてみた。僕たちくらいの年齢になると、知り合いや友人の間でもポツポツと結婚する人間が出てくる。大久保ももしかしたら結婚とかを考えたりしているのかな、と、僕は気になったのだ。
僕の問に、大久保は、
「まあね。」
と、ちょっと照れ臭そうに微笑して頷いた。
それから彼はふいに真面目な表情を浮かべると、
「だから、そのためにももうちょっと頑張らんといかんなって思う。」
と、大久保は自分自身に言い聞かせるように静かな口調で言った。
「とりあえず、税理士の資格を取って、就職して。」
彼はそこで言葉を区切ると、
「でも、・・・そうなるためにはまだまだ時間がかかりそうやけどね。」
と、彼は付け足して言って、苦笑するように小さく笑った。
僕は彼のその苦笑に誘われるようにして口元を綻ばせると、
「お互い頑張らんといかんね。」
と、宮崎弁で言った。
「そうやね。」
と、大久保は頷いた。
それからしばらくの間僕と大久保は黙って目の前に広がる町の光を見ていた。その微かに青色の色素を含みながら白く輝く優しい光は、じっ見ていると、手を伸ばせばすぐ側に触れることができそうなくらい近くに存在するように思えた。
僕は試しに右手を前方の空間に向かってゆっくりと差し出してみた
でも、もちろん、手には何も触れなかった。手に触れることができたのは、夜の冷たい空気の流れだけだった。
光は、手の指先の、闇を超えていった、そのずっと遠くの向こう側にあった。
夏の終わりの静かな風 10