本の虫で弱虫でアブラ虫のように摘み取られる
12月の淡い太陽の光が差し込む教室で、90分間の講義のなか学生達が睡魔と戦い始めるころ、津島は「ノルウェイの林」の上巻の三分の二あたりを読むという作業の中だった。
彼はブックカバーもつけずに古本屋で見つけたその文庫本のページ間の最初の行と最後の行の間に目を移動させては薄茶色のページを乾燥する親指でめくっていった。その中堅大学特有の静けさと気怠さの空気の中での作業だった。彼にとっては読書という活動は作業であった。
これと言って読書などと行った時代遅れな活動は好き好んでしていることではなかったし、文学とはあらゆる思想、世相、情報を集めるには21世紀ではインターネット、テレビなどにおいては劣等種と彼は思っていたからだ。
いつものように、講義を終えるチャイムがなると大型スーパーの文具専門店で見つけたありふれたプラスチックのペンケースとスマートフォンを先月号のファッション雑誌で見かけたキャンパス地のトートバッグにしまい教室を一人後にした。とくに友人がないということでもないが彼は一人だった。
冬の乾燥と底冷えする無機質な廊下を進み、食堂に向かった。これもまた、1970年代に建てられたと思われる鉄筋コンクリートの堂々たる無機質だった。かつては、明るく清潔でモダンな建築様式と言われたが今はその面影もない。
大学構内の一番南側にある食堂に入ると食堂独特の多少の湿気があり、あらゆる食べ物と食器用洗剤のにおいが鼻をくすぐり、その中に昼休みのわずかな自由な時を楽しむ学生達の声に包まれた。380円でチキンカツ定食を注文すると12月の淡く柔らかい日差しがあたる、白が日焼けた色の窓側の席に腰を下ろした。彼は一人だ。
食堂の風景を見渡すと5人組の男子学生と女子学生が自前の手の込んだお弁当を広げているのを見かけた。彼らのうち3人が明るいアッシュ系の色で染色された髪の毛をしていてで全員がこぎれいな装いだった。見た感じでは「今風の」という言葉が適切じゃないかと彼は思った。
アッシュ系の髪の毛から目をそらしたのとほぼ同時に「さっきは何を読んでたの?」とある女子学生に彼に問いかけた。
同じ学部の女子学生だった。
「本だよ。」と彼は答えた。
「なんの本を読んでたの?」外見的には清潔で透明感があり、笑顔が自然な彼女が笑ってその本を取り上げた。
「ふーん、村山春樹。」
その本に肯定や否定の意を述べるでもなく、彼女はその本を課長がお茶汲みOLにコピーを頼むかのように雑多に津島の目の前に戻した。
「なんだよ、どういう意味だよ」津島は彼女の態度からあたりまえのように感じる「不愉快」をそのままと問うた。
「なんでも。」と彼女は言って背を向け、津島が彼女の動機を考えるうちに食堂のドアをすり抜けて、冬の淡い太陽の中に消えていった。
午後の講義を終え、文学部の講義で主に使われる6号館の階段を下りながら、携帯電話の着信履歴から数少ない友人の一人の片桐に電話を入れた。彼は心理学部の学生だったが、1年生から所属している映像研究会で知り合った友人だった。3年生になってからはサークルにもほとんど顔を出さずに大学終わりに2人で市内をぶらぶらするのが日課だった。
去年の7月の上旬、2人があの場所にはじめ訪れた日であった。その場所とは喫茶店と言おうか珈琲屋と言うのか、それとも今はカフェと仏語で趣向を利かせていうものなのであろうか、とにかくそのようなモノだった。梅雨もあけたばかりの日、丁度午後の講義が休講になっての大学からの帰り道だった。第二次世界大戦時、空襲を受けることのなかったこの地方都市のもっとも寂れた地域の狭い路地にたまたま迷い込んで見つけたのだった。その場所を見つけたのは必然であったのか偶然であったのかは自分が一番知っている。はず。
別に都会と言うでもなく田舎というでもない町から出てきて大学の近くでの下宿生活にも変化がなくなって来た3回生の夏だ。いつものように片桐と2人で地元の鉄道会社が経営する市電に目的地もなくふらっと乗った。最近、叫ばれ始めたエコやら節電やらのためエアコンの気温設定が高く設定されていたし真夏の昼間の日差しを受け体感気温35℃以上になっているであろう車両に居心地が悪く逃げ出したくなり、下りたのがその3つ目の駅だった。iPodで最近流行の涼しげなポップソングを聴いたがまったく涼しくはなかった。
新しい土地に、特別期待というモノを膨らませていたわけではないが、どこかしら人間という生き物は良い方向に転ばないかという期待はしているものだ。僕も片桐も人間である以上そういう思考には至ったわけだった。
うだるような暑さの車両から解放されホームを出て無愛想な駅員に乗車券を渡す。改札を出るとすぐ駅の外に出た。このときこの駅で下車したのは2人だけだった。とにかく喉が渇いていたので清涼飲料水の自販機を探した。しかし全く見つからなかった。この地域の開発が進んだ時期には自販機というものは存在しなかったのだろうか。とかどうでもいいことを考えつつ店を探した。いっこうに見当たらない。閉じられたシャッターと白線が消えかけている駐車場だけがあった。そして、役目を果たしていない信号機だけが僕を見つめていた。その間にも真夏の太陽は何億光年後には自己が破滅することも知らずに2人を照らし続けた。
喫茶店を探そうとして歩みを進めたわけではないが、或る一軒の喫茶店を見つけた。何かを探しにこの街に来たわけだが、探そうとしてでなく見つけた。要するに探すでもなくたまたまでもなく見つけた喫茶店だった。実際、僕は喉が渇いたからとか友人と雑談がしたいからとかいって喫茶店に入るような古風で他人とは一風違った人間ではなかったし。片桐もそんなシャレの効いた人間ではないが黙ってついてきた。
店の外観や雰囲気などには気も触れず、乾いた喉を潤すためだけにドアノブを引いた。疲れていたからなのか、古く軋んでいたからなのかは覚えていないが、とにかくドアは重苦しく感じた。けれども、店のドアに古びれた革ひもできつく結ってあるドアベルの音とオアシスの様な涼しい空気にとてもこの世のものとは感じられないほどの心地よさを覚えた。僕自身も涼しい場所に来ただけで「この世のものとは思えないほど心地よい」と表現するのはおかしいとは分かってはいた。心地よいと感じたのはそれだけが理由ではなかったからなのだろう。
2人が店に入ると誰もいなかった。レトロな店内とは不釣り合いな10年ほど前のブラウン管のテレビがほこりをかぶってコーヒーの豆達と兄弟のようにおとなしく座っていた。お昼のワイドショーのキャスターの声だけが小さく聞こえる。「すいません」と乾いた喉で小さく言った。またキャスターが「・・・最近の・・・は駄目ですね・・・らわないと。」とかしゃべり始めた。自我のない子供の頃はテレビッ子だった僕も最近はテレビはあまり見ない、ほとんど見ない。片桐は根っからテレビっこだが。もっと楽しいことは世の中にたくさんあるから。ここだけは一風変わっているのかもしれない。「すいませんっ」と今度はちょっと大きめに叫んだ。高い天井に木造の室内に声は響いた。
CMが始まりあのキャスターの顔が見えなくなった時、「トンッ、トンッ、トンッ」と革靴で木造の階段を下りてくる音がした。
ー次回更新
本の虫で弱虫でアブラ虫のように摘み取られる