少女はいびつな愛を謳う
小説家になろうさんの方へも投稿していますが、こちらにも投稿させていただきます。
稚拙ですがよろしくおねがいします。
一応、エンタメ向きに作りましたが若干癖があるかもです。
【プロローグ】
わたしは、この世界が悪意に満ちたものだと思っている。
だがこんな偏見に満ちた考えをしているのは、ひとえに巡り合わせということもあろう。ただ少なくとも、わたしにとっての人生の巡り会わせが悪かったのは事実だと思う。もっと年齢を重ねてきた人たちからすれば、わたしの人生観などというものはちっぽけなものなのかもしれないが、わたしが生きてきた十六年間というものは、とても悪意に満ちた――世の中そのものを偏った見方で見てしまうような体験であったことも間違いない。
わたしはその人生の中で、価値観を共有する友人を失い、その惨事の尻拭いをし、全てを終わらせる役目を引き受けた。いや、引き受けたというのは正確ではない。わたししかいなかったのだから。それを話したところで誰が理解を示してくれるわけでもないし、それを終わらせようと願うならそれしかなかったのだ。
だから、わたしは被害者であり、可哀想な人間なのだ。
……などと言うと、まず多く人の反感を買うだろうからそんなことは言わない。
ただそんな考えが浮かぶのも仕方ないという部分もあろう。なぜなら、半分は不可抗力だからだ。価値観を共有する友人を失い、その惨事の尻拭いができる人間というのはわたし以外に存在しなかったのだ。だから半分は被害者。だけど、もう半分はというと自分のせいというのも疑いようのない事実だ。
そう、わたしは愚かな人間だった。
あの一件があった後、その惨事の尻拭いをできる人間がわたしだけであろうとなかろうと――ただ、わたしは逃げればよかったのである。責任感がどうこうという問題ではなく。
責任というものは、それが解決できる見込みのある場合のみに適用されるものだと思う。たとえ、その問題をその人物が解決することができないのなら、それは放棄してもいいのだ。……まあこの考えが間違いだと思うなら、わたしのことを罵ってくれても構わない。わたしは、この世界が悪意に満ちたものだと思っている次第なので。
ただ――話を戻すが――わたしは自分からそれを解決することを引き受けてしまった。誰に頼まれたわけでもない。それを途中で放棄してしまってもよかった。なのに自分の責になるようなことを進んで引き受けて、今更になってこんな反省をしている。
だが、後悔はしていないつもりだ。あの時の自分だけは嘘にしたくないのだ。
もともと、わたしは責任感の強い人間だったのかもしれない。ただ、わたしにとっての倫理観というものは著しく欠けていたのは疑いようもないことだろう。
わたしは人を殺した。
そこにいかなる事情が介在しようとも、その事実だけは変えることはできない。
たぶん、わたしはこの世の中で異常者というものに分類されるのだろう。それは自己診断でしかないが、なんとなく人間社会における価値観がちょっとズレているということは認めなければならない。それが元からだったのか、もしくは誰かがそうさせてしまったのか――わたしは後者だと思うのだけど、それはちょっと被害者意識が強すぎだろうか?
まあいい。
わたしは、勝手にわたし自身の物語を語らせてもらおう。
これは、わたしという愚かな存在――坂下夕莉が破滅していくまでの物語。
01 : SHUT UP AND EXPLODE
1.
突如として信じられないような豪風が巻き起こった。
それは夕莉の全身にも吹き付けられ、彼女は空いた左手で顔面を隠した。身につけられた制服にも相当な突風が吹きつけているため、そのスカートの裾もかなりはためいたが、それは気にも留めなかった。ただ目を見開けるようにしたまま、彼女は深夜の住宅街を睨む。
「坂下、夕莉……! てんめぇっ!!」
その彼女と相対している人物――制服を着た少年が、ふと声を荒げて叫んだ。
少年の姿は異形だった。
その両手が人の手をしていない。まるで鬼か何かのような――少年の体格には似つかわしくない、皮膚の色も赤茶色になった、そして凶器にもなりそうな鋭い爪が備わった手である。ただそれ以外の部分には未だに人間としての特徴が残っており、少年の顔には憤怒にまみれた表情が浮かんでいる。
先ほど巻き起こった突風は、その少年の手が勢いよく振るわれたことで起こったものだった。
その少年の怒号を聞いた、夕莉の表情が動く。不敵な笑み。
「お前――俺を、殺す気か?」
先ほどとは打って変わって、少年は氷点下の問いを投げる。
「もちろん」
夕莉はこういう状況でもっとも似つかわしくない純粋すぎる笑顔を作っていた。
「あなたはすでに幻想に侵食されている。それはもう悪化するだけよ。一刻の猶予もない。よって、わたしが処理する。大丈夫、出来るだけ苦しまないように殺してあげるわ」
「……そうか。白ウサギから聞いてたがお前が――」
そう少年がぼそりと言った言葉は、だが夕莉の耳には届かなかった。その代わりに彼女が地を蹴って駆け寄って来るのを見て、少年はぎりっと歯を噛み締めた。
「やってみろよ!」
その時、少年の履いていたスニーカーが両足とも爆発するように消し飛んだ。代わってそこから現れたのは、やはり異形の足である。それは彼の両手と変わらない赤茶色をしていて、同じように鋭い爪が備わっている。
寂れた街頭のみが存在する深夜の住宅街――少年も勢いよく地を蹴った。
巻き上がる豪風の中。人と化け物が肉薄する。
明らかに常識を逸脱する速さで近寄ってくる少年に対して、夕莉はその右手に持っていた特殊警棒で殴りかかっていた。米国ASP社の特殊警棒は、世界最高の強度を誇る製品である。これで頭部を殴れば、それだけで頭蓋骨を陥没させることくらいは可能だ。
だがその一撃を、少年は異形化した右手の甲で受けた。その筋肉と硬質化した皮膚により骨折はしなかったが――受け止めた少年の表情が苦悶に歪む。
「野郎……っ!」
少年が、夕莉の体を引き裂くように空いた右手を振るう。しかしそれは虚空を掠めるのみ。
すでにそれを読んでいた夕莉は、一歩下がり、その攻撃の隙を突いて再び特殊警棒を突き込んでいた。狙ったのは腹部だ――少年の両足は異形化して見当がつかないため、まだ人間の部分を狙ってこそ致命的な効果が得られると踏んだのだ。
特殊警棒の先端が、少年の鳩尾に直撃した。ぐえっと声を上げて少年が背後に倒れた。
すぐさま起き上がろうとする少年だったが、それを阻止するように夕莉が再び特殊警棒で叩く。少年の脇腹に当たって、動こうとした少年が苦悶に身を折った。
「……無駄よ、飾磨恭二くん。諦めなさい」
「殺、す……! 殺、して、やる! この――!!」
苦しそうに悶えている少年のことを見下ろして、だが夕莉は艶やかに微笑んでみせる。
「残念ね。死ぬのはあなたよ」
そう言って――夕莉は勢いよく特殊警棒を振り下ろした。
めき、と不吉な音がして少年の頭部がへこんだ。いくら両手両足は化け物になったとはいっても、それ以外は人間と変わらない状態なのだ。少年がくぐもった声を最後に沈黙した。その四肢がぴくぴくと動いている。
白目を剥き、だらりとなった少年のことを見下ろして――そこで夕莉は特殊警棒を折りたたんだ。それとは代わって、右脚のスカート内部からは隠していたサバイバルナイフを引き抜いている。
「聞いているか分からないけど……ねえ、恭二くん? わたし、今日がとっても嬉しいのよ。理由は二つあるわ。今から言うからちゃんと聞いていてね」
そう言って、夕莉はつかつかと少年の横に回り込むとしゃがんだ。耳元で囁く。
「一つ目――恭二くんを殺せば、わたしの長かった仕事にようやく終わりが見えてくる。もう何人も追いかける必要なんてなくなるの。あとは最後の目標だけ……」
夕莉は手にしたサバイバルナイフの刃を、少年の首筋に持っていく。
「そして二つ目――あなたは単純にわたしの復讐の対象だった。運が悪かったわね。恨んではいたけど一般人のままなら殺そうとまでは思っていなかったのに。……でも化け物になった今なら話は別。みんなのためにも、わたしのためにも――今ここで死ね」
そして夕莉は躊躇することなく、その手のサバイバルナイフを滑らせた。
少年の頚動脈が断ち切られて、そこから盛大に血が噴出した。その生温かい血が辺りに撒き散らされて、それは夕莉の顔と制服に勢いよくかかる。
血。真っ赤な血――。
その飛沫をまともに浴びながら、夕莉は口元で仄暗い笑みを浮かべていた。つい小さく笑い声も出てしまう。ああ、やっぱり自分は心の底から他人の死を望んでいたのだと――そんな暗い事実を今更になって認識する。なんて気持ちいいのだろう、気に入らないものを殺して、この世から永遠に失くしてしまえるというのは。
きっと、これは誰しも人間に宿っている、本能的な、原初の衝動――暴力衝動。
それを自分の思うままに行使できる瞬間……それはもしかすると、人間にとって、最も幸福な瞬間ではないのだろうか?
どこからどう見ても自分は興奮しきっているというのに、脳裏のどこかでは冷静にそんなことを考えている――そのことが妙に可笑しくて、夕莉のこぼれ笑いも大きくなった。
よく現実でもフィクションでも、復讐は不毛であるとか、何も生まないとか、そんな綺麗ごとを吐いている人間はごまんといる。だが少なくとも、夕莉はそんなことはないと思っている。だって綺麗に噛み合っていたはずの歯車を狂わされたら、誰だって狂わせた本人を恨みたくなるのが筋ではないだろうか?
人間には、本質的に、因果応報を好むようなシステムな内蔵されているのだ。それに仕返しをして暗い情念を慰撫するのが、狂わされた人間が真っ先に望むことのはずのことではないか?
いや、分かっている。分かってはいるのだ。
それがどれだけ反社会的な行動なのかということは。だけど夕莉としては、歯車を狂わせた張本人が何事もなかったかのように日々を幸福そうに過ごしている、そのことが一番腹に立つのである。腸が煮えくり返りそうになる。
そんな輩は、みんな死んでしまえばいい――。
そんなどす黒い情念を胸中で吐き出した時、深夜の人通りもない住宅街のはずなのに――夕莉は、視界の端に何かが映ったような気がして、慌てて立ち上がった。
血に塗れた格好のままで、右手の甲で血飛沫を受けた頬を拭う。周辺を見回した。確かに何かが視界の端を掠めた気配があったのだが、気のせいだったのだろうか。だが、たとえ気のせいだったとしても、ここに長居していい理由にはならない。さっさと荷物をまとめて退散する必要がある――。
が、その声がかけられたのは、まさに夕莉が逃げる準備に取り掛かろうとしたその時だった。
「いい夜ですね、ユウリ」
夕莉はびくりと背筋を震わせ、それから声がかかった背後へとゆっくり視線を向けた。その気取ったような声には聞き覚えがあった。胸糞が悪くなるほどに。
「……あんた、白ウサギ」
夕莉は先ほど折りたたんだはずの特殊警棒を手にして、再び臨戦態勢へと移る。
白ウサギ――。
そう、それはその名の通り、白い毛色をした紛れもないウサギだった。だがその白ウサギが、ただの白ウサギではないと人目で分かるのは、彼が二足歩行をして人語を解しているから故である。さらに付け加えるならば、そのウサギは品のいいチョッキを身につけ、片眼鏡をかけ、古めかしい懐中時計をその手に握っていた。
まるで童話『不思議の国のアリス』から抜け出してきたかのような――不可思議なウサギ。
「ユウリ、私は別に殺し合いをするために現れたのではありません」
「なら何をしにきたのよ。頭のおかしい白ウサギ」
「別に――ただ見届けに来たのですよ。あなたがその者を殺すところをね」
「残念だけども」
夕莉はそう言って、右手の特殊警棒をぶんっと振ってみせる。
「こうしてこの場に現れた以上、あんたが殺し合いを望んでようとそうでなかろうと、わたしには何も関係がないわ。この場で全てを終わらせてやる、何もかもを」
夕莉がそう宣言した時、それを聞いていた白ウサギが蕩けるような嗜虐の笑みを浮かべた。まるで見るもの全てがぞっとするような笑みを。
「残念――それは無理ですね」
「そうかしら?」
「ええ、そうです。あなたに私は殺せない」
「……なら、試してみましょうか?」
夕莉はそう言った直後、一歩踏み出して特殊警棒を振るっていた。眼前で直立している白ウサギに、真横から殴りつけるような一撃を。
だが、それは白ウサギには当たらなかった。なぜ当たらなかったのかと言えば、白ウサギの姿が一瞬前に掻き消えていたからである。まさか、と信じられないような顔をして立ちすくんでいる夕莉に、再びその背後から白ウサギの声がかかった。
「言ったでしょう……あなたに私は殺せないと」
驚いて振り向いた夕莉の目の前に、先ほどと変わらぬ白ウサギの姿があった。夕莉の体がぶるりと震える。だが、それは恐怖や畏怖によって生まれたものでは決してない。
それは――激しい怒りによってもたらされた産物だった。
「殺してやる……」
低く呪詛をつぶやく夕莉に対して、白ウサギは不気味なにやにや笑いで応じる。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる……っ!! 絶対に、絶対にあんたみたいな化け物はこの世に存在していいわけがない! わたしが殺して、殺して、殺して殺しつくして――!!」
「そして、私を殺してあなたはどうするおつもりですか? ユウリ」
「五月蝿い、黙れッ!」
夕莉は怒りのまま特殊警棒を振るったが、しかしそれは白ウサギが後ろに跳躍したことによって躱された。手近な電柱の足場に着地した白ウサギが、ふてぶてしく笑う。
「ああ、今夜は本当にいい夜だ――さて、あなたをおちょくるという個人的な用事も終わりましたし、私はここらでお暇するとしましょうか」
「待ちなさいよ。まだわたしの用事は終わってない」
「そう確かに終わっていないのかもしれない……だけど、それに私が付き合う義理もない。そうは思わないでしょうか? ユウリ」
白ウサギが嘲笑うようにそう言って、憎しみに歯を軋ませる夕莉のほうへと背を向けた。手中の懐中時計をぱちんと閉じて、余裕に満ちた態度で、肩越しに振り向く。
「また今度、お会いしましょう。幸いにしてあなたは私のことを気に入ってくれているようですし……これから会う機会もより増えることでしょう」
「何を妄言を。わたしが、あんたのことを気に入る理由なんて――どこにもないわ」
そう夕莉が返したとき、白ウサギはくつくつと趣味の悪い笑い声を出した。
「……本当にそうでしょうか?」
「そうよ……何言ってるの、気持ち悪い。やっぱりあなたは頭がおかしいのね」
そこでまた白ウサギは不気味にくすくすと笑った。夕莉には全くわけが分からない。
「まあ、ここで長話をするのも難です……またいずれ、会おうではありませんか」
それはこっちも望むところよ、と夕莉は胸中でそうつぶやく。
そして、白ウサギもそれを悟ったのか、それ以上のことは何も言わなかった。癪に障るような笑みを湛えたまま、電柱の足場から先の見えない茂みの中へと飛び込んでいく。それを夕莉は追いかけることはせずに、ただ静かに見守った。
胸中ではどす黒い感情が渦巻いているのに、どこか違和感のようなものがあった。
だが、その違和感が一体何であるのか――それは夕莉にも分からない。
「……ふん」
ただ胸中に怒りと違和を覚えたまま、その白ウサギが去っていった方向を睨み続ける。その白ウサギが、夕莉にとって最後に殺すべき対象だということは、すでに決まりきった事実だった。
02 : ILLUSION IS MINE
2.
――極めて当然のことだが、
この世には両手両足が化け物のようになる人間や、二足歩行で歩き、ましてや人語を解すことのできる白ウサギなどというものが一般的に存在しているわけではない。言ってしまえば、あれは例外中の例外だ。そして、例外ゆえにそれは坂下夕莉という人間以外は決して知らない事実であり、世間も知る必要のないことであった。
あの化け物たちのことを、夕莉は勝手に『幻想人』と呼んでいた。
幻想人――つまり彼らは、幻想に魅入られた存在なのである。ちなみに付け加えておくと、元は人間である。彼らは理由は定かではないが――とにかく幻想という名の悪魔に取り付かれた。そして、その幻想は取り付いた人間の『願い』や『欲望』を糧に成長し、徐々にその人間の身体に影響を及ぼすようになる。
特にそれが顕著になるのは、肉体面での話である。
取り付かれた人間は、肉体面において人間ではない怪物に変わっていく。ただ肉体面が顕著であるというだけで、精神面でも徐々に進行していく。やがて幻想に魅入られた存在は、肉体、精神の両面から本当の怪物となり――間もなく罪もない人間を殺し始める。
幻想人は、物語の中にしか存在しないような化け物に酷似していることが多い。あの飾磨恭二を例に挙げれば、彼はフィクション上での鬼が一番近い存在であるし、あの白ウサギに至っては『不思議の国のアリス』が有力候補だろう。
彼らは化け物である以上――人間以上の身体能力を持っている。それを放置することによって、後々の人間社会にとって与えられる損失は莫大なものだろう。ただ先ほども言ったとおり、その事実を正確に知っているのは坂下夕莉だけだ。
だから、その解決を願うならば――夕莉は独り、たとえ誰一人味方などいない状況であろうとも、幻想人を殺すしかなかった。
その先に自身の幸福がなかろうと。破滅しかないと分かっていても。
それがこの事件の元凶に関わりながら、唯一生きながらえてしまった――。
愚かな人間の、愚かな選択なのだから。
03 : TRANSIENT HAPPINESS
3.
最後の幻想人、白ウサギをどうやって殺すべきなのか――。
翌日。夕莉は日頃から通っている高校に登校してからというもの、そのことばかりを考えていた。一年E組のクラスに入って、クラスメイトたちとは誰とも会話せずに自分の席に座る。それは夕莉にとっては、いつものことだから何の問題でもない。
自分が持ってきたスクールバッグの中から、小説の単行本を一冊取り出した。それ自体は何の変哲もないただの小説だが、夕莉は実際にそれを読むつもりで持ってきたわけではない。
ただ――延々と考え事をする上で、都合がいいかなと思って持ってきただけのことだ。
つまり、この小説自体に深い理由はなかった。
適当にページを繰って、適当に視線を落とし、適用に読んでいるふりをする。だが、実際に夕莉が頭の中で考えているのは、昨日の一件を終えてからの確認作業と――そして白ウサギをいかにして殺害するかという二点だけであった。
クラス朝会の時間になるまで、頭の中でそれらについての情報整理と今後のことを考えていた夕莉であったが、朝会直前の時間になったところで、ふいに彼女は話しかけられた。
「坂下さん、おはよ」
最初、夕莉は考え事に没頭しすぎて話しかけられたことに気付かなかった。
「ねえ、坂下さん? ……おーい」
その二回目の呼びかけで、夕莉はようやく自分が話しかけられていることに気付いた。ふと単行本から視線を上げて、声がかかった方へと視線を向ける。
その声は、ちょうど夕莉が座っている隣の席からかけられたものだった。
夕莉の隣の席に座っていて、それでいていつも静かに本を読んでいる彼女に話しかけてくれるような奇特な人物――そんな者を夕莉は一人しか知らない。
ついと視線を向けると、自分が無視されていないことに安心したのか、その人物は緊張を緩めるように微かに笑った。いつも夕莉の夕莉の隣の席に座っているクラスメイト、春日部薫子であった。眼鏡をかけて落ち着いた外見をしている彼女は、現代においてはちょっと珍しい、大和撫子を体現したような人物である。
「ああ、ごめんなさい……ちょっと読むのに集中してて」
夕莉は単行本に栞を挟んでぱたりと閉じると、俗に言う愛想笑いというものを浮かべる。
「おはよう、春日部さん」
「うん、おはよう――それにしても、なんだか坂下さんすごい集中してたね。集中してるところに話しかけちゃってごめん」
「ううん、大したことじゃないから気にしないで」
そう言いつつも、夕莉は自分が考えていたことが中断されて「まあ仕方ないか」と胸中で溜息を吐いた。そもそも学校において、こんなことを考えていること事態がどうかしているのだ。仕方ない、この件についてはもう一段落してから考えることにしよう。
夕莉は単行本をバッグの中に仕舞おうとして――そこで、まだ夕莉のことをじっと見ている薫子の視線に気付き、顔を上げた。
「……どうしたの?」
「ううん、大したことじゃないんだけど――坂下さんって何読んでるのかなって思ってね」
「ああ、読んでる本のこと? う~ん、気まぐれで選んだ本なんだけどね」
そう言って、夕莉は仕舞おうとした本を再び取り出す。
「んっと、わたしが今読んでる本はね……『ライ麦畑でつかまえて』っていうやつ」
「それって、結構有名な本じゃない? J.D.サリンジャー、だっけ?」
「そう、J.D.サリンジャー」
「偶然だね、わたしもその本読んだことあるよ! ちょっとわたしには合わなかったみたいだけどね。主人公にいまいち共感できなかったというか。なんだっけ、あの主人公の名前――」
「ホールデン・コールフィールド」
「そうそう! ホールデン・コールフィールド!」
薫子は嬉しそうに主人公の名前を口走ると、自分の席から体を乗り出して距離を縮めてきた。どうも夕莉に対して興味を持ったらしい。そういえば、薫子はよく放課後になると図書館に出入りしているという話を、どこかで小耳に挟んだことがあるような気がする。
まあ、そんなことは夕莉にとってどうでもいいことだ――。
しかし、そんな夕莉の心境には全く気付かず、薫子は明るい調子で話しかけてくる。
「ねえねえ、坂下さんって結構本って読むの?」
「……あんまり読まないかな。これを手に取ってのもちょっとした偶然だしね」
「そうなんだ、恋愛作品とかは好き?」
「う~ん、そこまでじゃないかな……」
「じゃあ、どういうジャンルが好きなの? わたし、ちょっと気になるなぁ」
と、そこまで言ってから、薫子は自分が質問攻めしていたことに気付いて、ちょっと反省するように苦笑してみせた。夕莉も当たり障りのない程度に微苦笑をする。
「薫子さんは、本が好きなんだね」
「本だけじゃないよ――物語が好き。なんだかすごく自分に合う物語と出会ったとき、時間を忘れて夢中になっちゃうし。それに作った人の考えとかが見えたりするのも面白いよね」
「なんだか、深いことを言うんだね」
「そうかな?」
薫子はちょっと小首を傾げて、自分が言ったことを反芻している。夕莉としてはそこまで深いことを考えて、これまで何らかの作品に触れてきたわけではなかったから、なんだかちょっと情熱溢れる薫子には付いていけないところがあった。
まあ夕莉としても物語は嫌いじゃないし――薫子の言っていることもよく分かる。
「あ、そうそう、話は変わるんだけどね」
「うん」
「なんか登校してくる時に、ちょっと小耳に挟んだんだけどさ」
「うん」
「夢見ヶ丘市でなんか事件か何か? が起こったみたいだね」
「へえ……何か起こったんだ?」
それを聞いたとき、夕莉は変なことを口走らないように、慎重に言葉を返していた。それがどういった事件なのか、それは当事者である夕莉には分かりきっていることだ。
「うん、なんかよく分かんないんだけど……もしかして殺人事件とかなのかな? なんかパトカーとか警察がすごい押し寄せてるみたいだよ。そういえば、わたしも今日はいつもに比べてよくパトカーと擦れ違った気がするなあ……」
「なんか物騒な感じだね……」
「うん……変なことじゃなかったらいいんだけど」
薫子が不安そうな顔をしていた。その台詞には夕莉も同意をしておいた。
こうして薫子が知らないということは、まだ情報は大きく広まってはいないのだろう。もっとも、それが知られるのも時間の問題だ。しかし、それにしても――これが殺人事件であり、しかもその殺害された人物が、この高校の生徒である飾磨恭二だと知ったら、生徒たちはどういった反応をするだろうか。
飾磨恭二は、この学校でも生徒会会計を務めていた人物で、そこそこの知名度がある人物だった。世間的には、性格は品性方正と言われていたけども……夕莉自身はそんな彼に対して、憎悪しか感じたことはない。
と、そんなことを考えていた時――ふいに教室のドアが開かれた。
様々な話題の飛び交っている1年E組のクラスが嘘のように静まり返り、初老の担任教師である宮地和雅が、妙に深刻そうな顔をして入ってくる。
「全員、ちょっと席に着け。少し話しておかなければいけないことがある」
担任教師は慌てて席に戻っていく生徒たちを眺めながら、厳かに教台に立った。どことなく疲労の色が濃い。それは信じたくないことが起こったとき、誰しもが浮かべる表情だった。
その尋常ならざる雰囲気だけで、夕莉は次語られるであろう話題を悟ってしまった。
ああ、これはきっと、昨日の一件についてのことだ――。
「みんな、いきなりで信じられないかもしれないが……」
静かになった教室で、担任はどう喋るか悩んだように慎重に台詞を選び、切り出す。
「今日の朝、うちの高校に通っていた一年A組の生徒、飾磨恭二くんが死体で見つかった」
04 : A FACT OF LIFE
4.
どうせ、こうなることは分かっていた。
あれからクラス朝会が終わると、すぐに学校は休校になった。担任の話によると、今日は家に帰ってあまり外に出ることはせず大人しくしていろとのことだった。学校側としては当然の配慮なのだろうが、もちろん夕莉はそれに従うつもりなどなかった。
休校になったのをいいことに、夕莉は学校の帰り道、いつも歩いている駅前の辺りをぶらぶらしていた。近くの本屋に入って適当に立ち読みをしたり、電気屋の街頭に設置されているテレビで番組をぼんやりと見たりした。
そのテレビでは、早速とばかりに町で起こった事件がニュースとして取り上げられていた。それを夕莉は当事者とは思えぬほど冷めた目つきで眺めた。
『今日の午前四時、夢見ヶ丘市で四肢が欠損している少年の死体が発見されました――少年は公立夢見ヶ丘高校に通っていた一年生の男子生徒で――死因は鈍器によって殴られた頭蓋骨陥没によるものと断定されており――』
夕莉はそこまでぼんやりと見てから、ふいに興味を失ったように現場を立ち去った。
特に気になるような情報は何もなかった。
どうやら、巷では「四肢欠損」という字面で猟奇殺人事件などと呼ばれているらしいが……さすがの夕莉も死体の四肢を切り落とすなどという気持ち悪い趣味はない。
夕莉に言わせてもらえば、死体の四肢がなくなったのはなるべくしてなったことだった。
幻想人は化け物だが、それと同様に『幻』でもあった。
要するに、彼らは本来であれば、この世には存在することができないはずのものなのである。そして、存在してはいけない存在であるが故――幻想人は死ぬと、この世界から消失する。
あの飾磨恭二はいい例だった。
彼は両手両足が化け物となったが、死体となって発見された今は、その両手両足が綺麗さっぱりなくなってしまっている。あれは切断されたのではなく、幻想人が死んだことによって変貌していた一部が消失したのだ。言葉通り。
逆説的に言うならば、完全に変貌してしまった幻想人は殺したところで、証拠は何も残らない。だが彼のような中途半端な幻想人は殺してしまうと――こういう事態になる。
そして、こんな風に不可解な猟奇殺人事件として扱われることになるわけだ。
「……まあ、そんなこと、わたしの知ったことじゃない」
この社会において、その事件がどう問題視されようが夕莉としては何の関係もないことだ。もっとも重要なのは、その為にすべきことを完璧に為したかどうかだ。そして、言うに及ばず、夕莉は飾磨恭二を殺害するということを完璧に成し遂げた。
この世には幻想人が存在していい理由など、どこにもない。これまでも彼女は、あの忌まわしき事態が起こってからの数年間――過たずに二人の幻想人を殺してきているのだ。
フランケンシュタインのように変貌した男、淀川将紀。
吸血鬼のように変貌して、一般人を二人巻き添えにした女、吾妻桃理。
そして、ちょうど昨日殺した飾磨恭二を含めれば、その数字は三人になる。
よくぞここまでの間、誰の手も借りずにやってきたものだ――夕莉は今更になってちょっとした感慨を覚えた。あとは、最後の目標である白ウサギを殺せばいいだけだ。
あの狂った白ウサギに変貌してしまった少女――来巳有栖のことを。
「来巳、有栖……」
その時、夕莉は街中で多くの人が行き交っている状況だというのにも関わらず、そう言葉を漏らしてしまっていた。堪えることができなかった。その人物の名前だけは。
即座に俯いて、ぎりっと歯をかみ締める。まるで自分の不甲斐なさを呪うように――。
その感情の発作がおさまるまで、しばらくの時間がかかった。人が流れ去っていき、その心が平静を取り戻すまでの間、彼女はじっと耐えるように俯いていた。
「有栖……」
無意識に握りこんでいた手の緊張を緩めて、その手の平に視線を落とす。そこに刻み込まれている皺を見つめる。だがその心の中は未だ絶叫したくなるような思いでいっぱいだった。
来巳有栖――それは彼女にとっては、特別な名前だった。
「……悔しいよ、有栖」
夕莉は目から溢れ出そうになる涙を堪えて、それが決して流れないように天を仰ぐ。
「有栖、わたしはすごく、悔しい――どうして、あなたは――」
だがその夕莉の痛切な慟哭は、絶えず人が行き交う駅前で誰に聞き届けられるわけでもなく、ただ一人――彼女の心の中でのみ空しく残響するだけだった。
05 : HYPER-BALLAD
5.
――その思い出は、果たしていつのことだったか。
まだ夕莉が小学校の三年生だった頃だから、今から七年ほど前になるだろうか。その頃、夕莉は小学校でいわゆるいじめというものの被害者だった。
そのいじめの主犯格は、飾磨恭二という少年だった。当時から彼は学校において学内政治に長けていて、そして夕莉によって殺される昨日まで、ずっと清く正しい優等生を演じてきた憎たらしい少年だった。夕莉はいつも、この何ともなさそうな顔をして――裏では他人を陥れているこの人物のことを、殺してやろうとばかり夢想していた。
だけど、実際の夕莉は――とても無力な存在だった。
だから表立って反抗することなど、到底できなかった。今思えば、あの当時、自分は暗い思いをこれでもかと思うほど叩きつけ、暴力的な手段に訴えればよかったと思うのだが、その頃はそんなことなど微塵も思いつかなかったのだ。
かくして夕莉は殺されてしまった――肉体ではなく心が。
あの当時、夕莉には誰も友達がいなかった。いや、友達だけではなく、その心境を理解してくれる者すらいなかった。生徒たちも、先生も、両親ですら理解してくれなかった。
夕莉はたった一人で、学校という誰も味方のいない場所で戦い続けた。
心に深い傷を負って――そこからどくどくと赤い血を流し続けながら。ただ生きていた。
死のうと思ったことも何度かあった。でもどうしてだか自分は生きていた。死ぬことすらも考えられなかったのではないかと思う。ただ機械のように、毎日の義務をこなすことだけを目標として、学校に通い続けた。
今になって思えば、本当に愚かなことだったと……そう思う。
だけど、そんな夕莉にも転機はあったのだ。
それが彼女にとっての唯一の救いで、そしてその後の人生そのものを決定的に狂わせてしまう重大な出会いだったということは、言うまでもない。
小学校三年生の秋になって、一人の転校生が編入してきた。
その転校生こそが夕莉にとっての転機――来巳有栖という少女との出会いだった。
来巳有栖は率直に言って、ちょっとおかしな少女だった。
誰に話しかけられてもふわふわとした返答をする。それだけ考えれば、クラス内でも新たないじめ被害者になりそうだったが、その笑顔が天使のように柔らかで、それでいて不思議と気が回る――彼女はクラス内でもいじめられっ子にはならなかった。
そして、有栖はなぜかいじめられっ子の夕莉にも話しかけてくれる稀有な人物だった。
「ねえ、夕莉ちゃん何を読んでるのー?」
有栖はよくそんな調子で夕莉に話しかけてきたものだ。
「……うん、『不思議の国のアリス』」
「わあ、すごい!」
その当時はなぜだか分からなかったが、有栖がとても嬉しそうに微笑んでいたことは覚えている。その時は、どうしてそんなに大げさに笑うのかよく分からなかった。だがそれほどまでに嬉しそうな顔をしていた理由を知ることになるのは――それからもう少し後のことだ。
「有栖もね、そのお話すごく好きだよ」
「……そうなんだ。でも、それってやっぱり、その……」
「うん?」
「名前が有栖……だからなのかなと思って」
夕莉が戸惑いながらもそう返すと、有栖は天使のようににっこりと笑った。
「……うん。ちょっと恥ずかしいけど、実はそうなんだ。それになんだか夢があるじゃない。わたし、どこでもない場所に行きたい……ちょっとそういう気持ちがあるから」
どこでもない場所。
その言葉は彼女にしたら何てことない表現だったのかもしれないが、夕莉には一つの驚きとなって訪れていた。まさかこの少女が、そのような空想的な願望を持ち合わせているとは思ってもいなかったのだ。ちょっと意外ですらあった。
それに何よりも、同じだと思ったのだ――その胸に秘められている願望のそれが。
「ねえ」
有栖がにっこりと微笑みながら言った。
「今日、有栖と夕莉ちゃんで遊ばない? あたし、いいところに案内してあげるよ」
「それって、変なところじゃないよね……」
夕莉はいつも子供特有の残酷さによる言葉のいじめを受けていたから、そういう提案も素直に受け取ることはできなかった。なんでもかんでも疑いから入ってしまう癖が付いていた。
「違うよ。変なところじゃないって、いいところ。空想のお話が好きなんでしょ? だったら絶対に気に入ってくれると思うんだけどなあ」
「う、うん……分かった」
「じゃあ、また放課後だよ!」
そう言って、有栖はまた嬉しそうに、元気よく夕莉の元から立ち去っていった。彼女の言ったいいところが一体どういうところなのか――その時はまだ夕莉は何も分からなかった。
有栖が言っていたいいところというのは、要するに廃屋のことらしかった。
小学校の帰り道、ランドセルを背負いながら少し歩いて、あまり人通りのない一区画にあった廃屋を発見すると、有栖は意気揚々とその敷地に踏み込んでいった。誰かの敷地に勝手に入っていいものなのか、夕莉は若干戸惑ったが大人しく付いていくことにした。
「ね、ねえ……来巳さん」
「ん? どしたの夕莉ちゃん」
「ここが、来巳さんの言っていたところなの?」
夕莉がそう聞き返すと、有栖は何ともなさげに「そうだよ」と言い切った。ずかずかと踏み込んでいって、彼女は躊躇う様子もなく入り口の引き戸に手をかける。
「どうして……ここなの?」
「秘密基地」
「えっ?」
「夕莉ちゃんと有栖、つまりあたしたちって同じ趣味を持っていると思うの。だからね、ここにあたしたちはあたしたちだけの国を造りましょうよ」
「わたしたちだけの、国?」
夕莉はその言葉がよく分からなくて、つい聞き返していた。
「あたしたちだけの国――幻想の『王国』だよ」
有栖はそう言ってから、夕莉の方へと向けてにっこりと笑いかけた。
木造の廃屋の入り口、その寂れた引き戸には鍵などかかっていなかった。つまりそれほどまでに誰も立ち入る価値のない場所なのだろう。古い臭気の充満する屋内には難なく侵入することができた。長い間、人が立ち入らなかった廃屋は内外ともにボロボロだった。
「ここを、有栖たちの『王国』にしようよ」
「い、いいのかな……?」
「いいの。誰に使ってないんだから興味もないんでしょ」
「そうなのかな……」
いまいちその発言には納得できなかったが、しかし有栖の言う『王国』とやらに惹かれているのも事実であった。その当時、夕莉は学校にも家にも居場所はなかった。だから、その秘密基地という単語に――夕莉は何かロマンめいたものを感じていたのである。
「今日から、ここは有栖と夕莉ちゃんの『王国』だよ」
そう言って、有栖はくすくすと笑ってみせる。
「そして、今日があたしたちにとっての、建国記念日」
それから、夕莉と有栖は、何か暇があるたびに『王国』に立ち寄るようになった。
初めは老朽化と放置によってろくに使い物にならないような状態になっていたが、彼女たちは少しずつ廃屋を掃除して、自分たちの居場所として作り変えていった。
落ちていたゴミを拾い集めて、床を拭き、綺麗にした。
居間に机を設置して、そこを集会所とすることに決定した。
たくさんのぬいぐるみを連れてきて、それを『王国』の住人として任命した。
彼女たちの好きなおとぎ話の本も、いっぱい本棚に敷き詰めた。
自分たちの家からお菓子を持ってきて、それを保存食にした。
初めは殺風景だった『王国』も、その頃には少し見栄えのする秘密基地のようなものへと変わっていった。少しずつ自分たちの居場所が変わっていくのが面白くて、夕莉と有栖は一緒になって話し合い、色々と手を加え――夢中になりながら『王国』を作り上げた。
彼女たちの『王国』には、少なからず規則もあった。
その規則の一つが――自分たちはあたかもおとぎ話の住人であるかのように振舞うことだ。
つまり、夕莉たちはいつも『王国』では、空想物の役柄を演じていたのだ。
来巳有栖は『王国』の中にいるとき、いつだってお姫様になることを好んだ。
それはいつだって手を差し伸べられる存在というものに憧れていたからだろう。白雪姫だって、シンデレラだって、ラプンツェルだって――いつもお姫様役というものは不幸な目に合いながらも、最終的には必ず王子様と結ばれることでエッピーエンドに辿り着くのだ。
彼女がお姫様役を好んだ理由は、夕莉にもなんとなく分かる。
誰だって女の子であれば、お姫様という立場には一度は憧れるものなんじゃないかと思う。
ある日、夕莉はちょっと有栖にこんなことを言ってみたことがある。
「ねえ、有栖。わたしも一度でいいから、お姫様役、やってみたいなぁ……」
いつも夕莉が『王国』の中で演じていたのは、王子様の役だった。
いつだってお姫様の手を取り、幸せにする存在――それが夕莉の役回りだったのだ。
「えー……」
だが普段は色々と取り計らってくれる有栖も、その時ばかりは渋面になったのをよく覚えている。そう、彼女はいつだってお姫様役を好んでいたのだ。
「駄目だよ。だって夕莉ちゃん、まだ王子様役の台詞、どもってすらすら言えないじゃない」
「うっ、確かにそうだけど……」
「完璧に言えるようになったら交代してあげる」
有栖はそう言って、ふふんと鼻を鳴らして意地悪そうに笑ってみせる。それを当時、夕莉はちょっと恨めしげな目をして見返した、ような気がする。
なぜそこまでして有栖はお姫様役にこだわったのか――だがそれは今となっては確認する術もない。
「あ、そうそう」
「ん? どうしたの有栖」
「今日はこれを持ってきたんだった。ずっと忘れてたよ」
有栖は突然、先ほどまでとは百八十度違った話題を切り出し始める。
今日、彼女はいつも学校に行く際に背負ってきているランドセルとはまた別に、手提げ袋のようなものを下げていた。それを今になって開けて、中から何かを取り出そうとする。
「これ」
「わあ、これって」
「そう、新しいぬいぐるみ!」
そう言って、有栖は手提げ袋の中から白ウサギのぬいぐるみを取り出していた。足を広げたポーズをしているそのぬいぐるみを、他の色々なぬいぐるみも並べられている場所に、そっと座らせる。そうして有栖はにっこりと微笑んだ。
「この白ウサギの子にはね、宰相役をしてもらおうと思って」
「サイショウ役?」
夕莉はよく分からずに首を捻ってしまう。
「宰相役っていうのはね、国の王様とか王女さまを補佐する人のことだよ。王様と王女様を抜けば、国の中では一番偉い人ってことになるのかな」
「なんとなく分かるような分からないような……」
「とにかく!」
と、有栖はこれまでのちょっとぐだぐだした流れを断ち切って、そう言った。
「この子のことを、あたしたちが『王国』にいない時の宰相役に任命しようと思ってるの! だって、よくよく考えたらちょっとおかしな話じゃない?」
「何が?」
「あたしたちはお姫様と王子様――言い換えれば、王様みたいなものだよ。なのに、あたしたちが学校に行ったら国には誰もいなくなるじゃない。本当に『王国』のためを思うなら、あたしたちがいなくなっても動かせるような構造にしないと」
「うーん、確かにそうなのかもね……」
夕莉には有栖が言ってることを節々まで理解することができなかったが、彼女が言いたいことはなんとなく分かった。要するに、国には実務をする人間が必要だということだ。
「でも、なんでその白ウサギの子なの?」
「特に深い理由はないよ。でもやっぱり宰相役って言ったら白ウサギかなって。『不思議の国のアリス』だって、白ウサギが宰相役をしていたじゃない」
「うん……確かにそうだったね」
「でしょ」
有栖は満足そうに頷いて、それから一度だけ白ウサギのぬいぐるみの頭を撫でた。
「うさぎさん、有栖たちの『王国』を任せるよ。だから、この国を――みんなが幸せになれるような素敵な国にしてあげてね。これは、有栖の命令だよ」
06 : LIVING DYING MESSAGE
6.
あの時は知る由はなかった。いや、誰がそんな結末になると分かるものか――。
まさかその無垢なる願いが、本当に実現してしまうなんて。
この世には思わず願ってしまうほど無意味な事象が溢れかえっている。それは認める。だがそれでも人は願ってしまうのだ。なぜならば、それがどれだけ低い確率であろうと、たとえ気の遠くなるほどの奇跡だとしても、その可能性は決して零ではないからだ。
だから、あれはたぶん――夕莉と有栖に起こった人生で最大の奇跡だったのだろう。
もっとも、それが必ずしも幸福に結びつくとは限らないのが人生だということを、夕莉はこの一件を通して学んでしまったのだけども。
なんて救いようのない話なんだろう――そう夕莉は思う。
あれからのことは、夕莉もできれば回想したくなかった。だけど、いやがおうにも頭からこびりついて離れないのも、それからの話の続きの部分だった。
「……やっぱり、この世には悪意しかないんだ」
夕莉は人の行き交う街中で、ただ誰にも理解されない思いをつぶやきにしていた。
ふいにその場から離れようと考えて、脚を動かし始めた。彼女は人の多い駅前から離れて、あまり人通りの多くない路地裏の方へと移動することにした。なぜだか、人の多い場所にいると自分の孤独心がより刺激されて、寂しい気持ちになってしまうのだ。
薄汚い路地裏に入ろうとした夕莉であったが、しかしその角を曲がっていったとき――彼女がこれまで浮かべていた孤独心は吹き飛んだ。
なぜならば、そこに見慣れた者の姿があったからだ。
「そう、あなたの言う通りですよ、ユウリ。この世界には悪意しか存在していない。ゆえに我々は強くあらねばならないのです。反逆者として」
「……白ウサギ」
その路地裏の真ん中に、昨日も垣間見た白ウサギが立っていた。珍妙な格好をして二足歩行で歩く白ウサギは、まるで紳士のような慇懃な一礼をしてみせる。
「こんにちは、ユウリ。今日もずいぶんと悩める少女といったご様子で」
「誰のせいだと思ってるのよ――全ての元凶がそんなことを言うなんて、滑稽だわ」
「ならば笑えばいいではありませんか。それに全ての元凶などという言い方は、少し癪ですね。何も私はあなたを不幸にするためだけに行動しているわけではありませんから」
「でも事実として、あなたはわたしを不幸にしている」
「それは結果論に過ぎません。不肖ながらこの白ウサギ、つまり私という存在は――誰よりも依り代となった来巳有栖の命令を遵守しているのです。彼女は今は亡き存在ではありますが、それを忠実に守り続けている私が悪く言われる筋合いはありません」
「抜かせ。その今は亡き存在にしてしまったのはどこの誰よ?」
夕莉は鬼のような憤怒の表情となって、その嫌みったらしい白ウサギに問いかけた。
白ウサギは気取るようにやれやれと肩をすくめて、言う。
「さあ。私だったか、それともあなただったか――怪しい部分ではありますね」
「まだ言うか、この――っ!!」
夕莉は傍らに下げていたスクールバックの中から、携帯していた特殊警棒を引き抜いていた。勢いよく振って打撃部分を伸張する。その先端を白ウサギに向けて突きつけた。
「全ての元凶はあんたじゃない、白ウサギ」
「そうでしょうか?」
白ウサギはそれ以上のことは何も言わなかった。ただせせら笑っただけだった。
「覚えていますか、ユウリ。あなたの言う彼女――来巳有栖が何を願っていたのかを。そして、その高じすぎた無垢なる願いが、私という存在をこの世界に呼び寄せたことを」
「……全部、知ってるわよ」
夕莉はまるで深淵から響くような低い声で、それに答えた。
「有栖はすごく物語に対して夢を見ている人間だった……そう、たぶんわたしなんかよりもずっと。だから、彼女はわたしに『王国』を作ろうなんて言ったんだもの。でも、わたしも有栖も本当のところは知っていた――いや、知っていたはずだったのよ」
夕莉はぎろりと白ウサギのことを睨み据えながら、言葉を紡いでいく。
「自分たちは現実逃避するために『王国』なんてものを作っていて、そしてこの『王国』というものは……永遠にはなり得ない場所だってことをね」
でも、と続けようとした夕莉であったが、そこに白ウサギの言葉が割り込んでくる。
「……でも、ありえないことに私のような存在が出現してしまった」
「そうよ」
夕莉が極大の敵意をぶつけるように、短く言った。
「あんたが有栖を依り代にしたことで、何もかもが狂った。わたしの友達だった来巳有栖という人間は死んだわ。それだけじゃない、加えてあんたは有栖の願望を汲むだとか何だとか言いながら、この町に色々とばら撒いたんじゃない――災厄の種を」
「……ええ、あれは『王国』を繁栄させるためには必要なプロセスでしたので」
そこで白ウサギは薄く微笑んでみせる。
「我々の『王国』はあまりにも小さすぎたのです。もっと繁栄させなければならなかった。……そう、国民についても、領土についても。それこそが彼女の望んだ願いでもあり、その管理を任された私にとっての責務だったのですから」
「国民――あんたが誑かした、あんな化け物をそう呼ぶのは反吐が出るわね」
「おやおや。酷いことを言いますね、ユウリ」
「あなたたちは恨みこそすれ、感謝することなど何一つ無いわ」
「ふうむ、それは結構。ですがユウリ、あなたはもっと自分がしていることについて考えるべきではないでしょうか? 私を殺そうというのはつまり――あなたの友人であった来巳有栖の尊い願いを、無に返すということに等しいのですよ」
「……何を今更。分かってるわよ、そんなこと」
そう言いつつも、夕莉は自らの心の奥底に矛盾した思いがあるのを自覚していた。
だが、その沸きあがった矛盾を、夕莉は胸の裡にて押し殺す。
「わたしは、もうすでに覚悟を決めてるもの。今更引き返すことなんてできやしないのよ」
「引き返す――確かに無理でしょうねえ。いくら化け物と言えど、幻想人は人でありますから。あなたはこれまでに|四名を殺してきているですから」
「|四名……?」
そこで夕莉は白ウサギの言ったことが理解できなくて、そう問い返す。
「何言ってるのよ、あなたを入れて四人じゃない。わたしはまだ三人しか殺してないわ。もっとも、三人も殺してれば一人くらいの違いはないかもしれないけれど――」
「いいえ、四人ですよ」
白ウサギはぴしゃりと封じ込めるように言った。夕莉の握る特殊警棒に力が込められる。
「……何言ってるの?」
「さあ。どうとでも受け取ってもらって結構ですよ、ユウリ」
白ウサギは嘲笑うかのように返してくる。
「……やっぱり、あなたは殺すしかないようね。馬鹿は死なないと直らないって言うし」
「いい返答です――そう、私はそれが聞きたかった。それがあなただから。しかし『馬鹿は死なないと直らない』という言葉はそっくりそのままお返しいたしましょう」
「――ふ」
夕莉は特殊警棒を握り締めながら、その感情を暴発させるように叫んでいた。
「ふざけるなッ!!」
「ああ、いくら路地裏とはいえ昼間に喚かないでください……人目が集まる。あなたは私の立場など察することもできないでしょうが、これでも私は繊細なのですから」
「何が――繊細よ!」
「言葉通りの意味でございますが。……ああ、早速、私たちの邪魔者が」
そう白ウサギが微笑みかけたとき、夕莉は怖気を感じて背後を振り返っていた。
通りの方から見知らぬ目撃者の男が、まるで変なものでも見たかのように夕莉の方へと視線を向けていた――そして、思わず夕莉と視線が合ってしまった瞬間、その顔が唐突に伏せられた。まるで見てはいけないものを見てしまったとばかりに。
目撃者の男は、そそくさとその場を後にしていった。
夕莉は右手に特殊警棒を握った、見るからに不審そうな格好のままで――ぐっと歯を噛み締める。見られてしまった。嫌な思いが脳裏を掠めていく。
「……でも、お前は殺してやる。白ウサギ。絶対に殺してやる」
そう言いながら、路地裏の方へと視線を戻した時、すでに白ウサギの姿は存在しなかった。
夕莉は慎重に辺りを見回してから、ぼそりと事実を口にした。
「逃げたか――」
だがそれに対する白ウサギの返答はあった。姿は見えなかったが声は聞こえた。
「また会いましょう、ユウリ。そうまでしてあなたが私の殺害を望むのであれば、それは結構なことです。でしたら、次こそ我々は殺し合うべきでしょう。三度目の正直とでも言いましょうか。……約束しましょう、近々あなたの前に現れると」
「……本当かしらね?」
夕莉が疑わしそうな顔になって言い返した。だが今度の返事はなかった。
「やれやれ……」
夕莉は特殊警棒を折りたたんで自らのスクールバッグの中へと戻す。すでに辺りから白ウサギの気配はなくなっている。軽く溜息を吐いて、そこで妙に頭が痛いことに気付く。
偏頭痛だろうか――なんだか少し気分が悪かった。
「……帰ろう」
夕莉は誰に言うでもなくそう言って、その街中の路地裏を後にしていく。頭だけではない。なんだか心の中も潮騒のようにざわついていた。
それが戦いの予感から来るものなのか、もしくは不安から来るものなのか。
それについては夕莉も判別することができなかった。
あれから家に帰った夕莉は、自室に引きこもって本を読んだ。
今日の学校で、薫子が嬉々として話していた『ライ麦畑でつかまえて』を読むためだった。ホールデン・コールフィールドという少年を通して語りかけてくるかのようなサリンジャーの文体、ホールデンの自己中心的だが臆病で、短絡的で、それでも自分自身の正義を貫こうと足掻いている姿は――同じく、この世に鬱屈した感情を抱いている夕莉にも、どこかしら感じるものがあった。
薫子が、あの主人公をあまり好きじゃないと言った理由もよく分かる。
けれども、夕莉はなぜかは分からないが、ホールデンのことを嫌いにはなれなかった。確かに彼は生粋の愚か者だと思う。それは間違いない。だが何ともなさげに語ってはいるものの、この物語には社会と自分に対する絶望が込められている気がした。
ともかく、それを読み終えた頃には、夜になっていた。
帰宅してからもなかなか落ち着かなかった胸のざわつきも、その頃には、なくなっていた。
07 : FAIRWAY
7.
翌日の学校に、夕莉はまた別の本を持っていった。
クラス朝会の前になって、いつもと同じように誰とも話さず自分の席に座って、そこで持ってきた単行本を広げる。その日、持ってきたのは『不思議の国のアリス』だった。
やはり、特に理由があったわけではない――ただ何となく読みたくなったから持ってきただけのことだった。この本は、夕莉も小さいころから比較的読み返している本だったが、ここ数年はめっきり読まなくなっていた。この本を見ると、色々と関連付けて辛いことを思い出してしまうからだ。
なのに、今日この本を読みたいと思ったのは――なぜなのだろう?
その心境の変化については、夕莉にもよく分からなかった。
「や、坂下さん、おはよう」
昨日と同じように単行本に目を落としていると、ちょっとして隣の席の春日部薫子も登校してきた。
夕莉も今日は聞き逃すことなく「おはよう」と返事をする。
「あっ、今日も読書してるんだ……って、今日は違う本を読んでるんだね?」
「ああ、うん。『ライ麦畑でつかまえて』は読み終わっちゃって」
「どうだった?」
薫子は自身のスクールバッグを、机の横にかけながらそう聞いてくる。夕莉は少し考え込むような仕草を取ってから、こうコメントを返した。
「面白かったよ。なんていうのかな――ちょっと考え込んじゃった。あの作品読んで」
「やっぱりホールデンについてのこと?」
「そう。なんていうか、彼はちょっと子供だなあって思った。けどさ、ああいう感情って意外とみんなあるんじゃないかな……わたしは結構共感できたよ」
「へえ、結構意外。坂下さんは割とホールデンに共感できたんだ?」
「うん、まあ……もちろん全部じゃないけどね」
夕莉はそう言って、薄く愛想笑いを浮かべてみせる。それと同時に、薫子が「意外」と言った部分が少しだけ気になった。自分はどういう人物だと思われていたのだろうか?
「坂下さん、今日は何読んでるの?」
「『不思議の国のアリス』……」
「へえ、これまた意外! 坂下さんってそういうのも読むんだねえ。なんか、さっきのホールデン云々よりもびっくりしちゃったよ」
「そんな意外かなあ……」
「うん、意外だよ」
薫子は一人で納得するように、威厳に満ちた顔でうんうんと頷いていた。
「坂下さんって、ちょっと現実主義者的に見えるというか――なんか結構クールな感じがするもん。だから、そういう童話とかはあんまり読まなそうだと思って」
「現実主義者だって童話は読むんじゃないかな?」
そう言いつつも、夕莉は自分が現実主義者じゃないという否定はしなかった。
確かに自分にはそのような傾向はあるような気はした。もちろん、理想的な平和だとかそういうものを望む気持ちもあるのだけど――どこかそこに現実性を探してしまうというか、実際はそんな上手くいかないだとか、そういうことばかり考えてしまうからだ。
だが、どちらかと言うと、スタンス的には悲観主義者の方が近いのかもしれない。
「確かにそうだ。変なこと言ったね、ごめん」
「いやいいよ……ところで、わたしもちょっと気になったから聞くけど、春日部さんは自分が現実主義者だと思ってる?」
「あたし? あたしは――結構、理想主義だと思ってる」
そう言って、薫子はちょっとだけ照れ隠しのように笑った。
「だって素敵じゃない、夢を見ている方が」
「……まあ、確かに」
「あれ、坂下さんはあんまりそうは思わない? やっぱりちょっと違うのかな」
「ううん、わたしもそう思うよ。夢を見てた方が素敵で幸せ――それはわたしも思う」
「なんか引っかかるなあ……」
「気のせいだよ」
夕莉は軽くあしらって、それから適当に話題を変えることにした。
「そういえば、昨日のあの事件のことなんだけどさ……進展したのかな? わたし、今日はニュース見るの忘れちゃって。あの猟奇殺人事件ってどうなったの?」
「ああ……あの事件のことね」
薫子は気の毒そうな顔をして、ちらりと辺りを流し見た。口元に手を当てて顔を近づけてくる。少し声を潜めて、夕莉に耳打ちするように言った。
「犯人、まだ見つかってないんだって。……なんか怖いよね、四肢切断だもん」
「物騒な事件だよね……」
「ちょっと普通の殺人事件って感じじゃないしね。坂下さんも気をつけた方がいいよ?」
「うん、そうする……」
もっとも、夕莉はそんなことを言ったけども、その忠告をまともに聞き入れようなどとは露ほども思っていなかった。犯人である自分がそんなことを気にするのは馬鹿馬鹿しい。
「ああ、そうそう。今日、恭二くんのお通夜があるんだって」
「お通夜……今日なんだ」
「坂下さんも行く?」
そう聞いてくるということは、薫子は出席するつもりなのだろう。
夕莉は少し考え込んでから、首を横へと振った。
「ごめん、たぶん行かないと思う。同じ学年の生徒が亡くなったんだから行くべきなのかもしれないけど……ちょっとね。申し訳ないとは思うけども」
「そっか。まあ色々と都合がある人もいるだろうしね」
薫子が空気を読んでか曖昧に微笑んだとき、ちょうどクラス朝会が始まる前のちょっとした喧騒も鳴り止んだ。クラスのドアを開けて初老の担任教師が入ってきたからだった。
「さあみんな席に着け、今日はいつも通りの日程なんだからな」
宮地和雅が、いつもと変わらない調子でそんなことを言っていた。もっとも、変わらないのは調子だけで、身にまとっている雰囲気は昨日のそれを引きずっている。
夕莉は薫子と顔を見合わせて、それから軽く肩をすくめると教卓の方へと向き直った。
「まずは出席を取るぞ、相澤――」
その担任の呼びかけに、クラスメイトたちが順々に応答していく。
また、これから何も変わらぬ日常が始まっていく――。
所詮は、みんな自分たちが属している学校の生徒が亡くなったって、それくらいの安い同情しか持ち得ないものだ。誰だって本質的には興味などないのだから。そこに何らかの感情を持っている者は、利害や共通するものがあった者たちだけだ。
飾磨恭二という生徒も、こうしてみんなの記憶から緩やかに忘れ去られていくのだろう。
「坂下」
「はい」
自分の番になって、夕莉はそう返事をした。
そして、何事もなかったかのように自分の番は過ぎ去っていった。
その日の授業は、まるで事故を起こしてしまった車が恐るおそるエンジンをかけて慎重に動き出していくような、妙にスローで気の抜けたものだった。
その刺激に欠けた一日を、夕莉は事もなげに何も考えず――やり過ごした。
08 : TIME IS RUNNING OUT
8.
終わりが近づいている――。
なぜかは分からないが、そんな予感がした。
あれから学校での一日を終えた夕莉は、自宅に帰ってきていた。
家族の誰とも会話せずに自室へと入っていく。誰も入れないように部屋に鍵をかけてから、夕莉は軽い溜息とともにスクールバッグをベッドの方へと放り投げた。自室にある全身鏡の前に立って、制服姿の自分のことを見返す。
「……嫌なやつ」
自分の顔を見返しながら、そんな風に独りごちる。
鏡に立っていた自分の顔は、この世に存在するどれよりも醜悪に見えた。別に不細工という意味ではない――ただその瞳に映っている生気のない瞳が、それなのに不気味に笑ってみせている口元が、まるで嫉妬と執念にまみれた汚らわしい自分を映しているかのように見えた。
しばし自分の顔をまじまじと見つめてから、夕莉はふいに鼻で嗤った。
身につけていた上着を脱ぎ、スカートを外し、いつもの部屋着へと着替える。あまりおしゃれには興味がなかったから、彼女はいつも部屋では飾り気のないシンプルな格好をしていた。
部屋着に着替えてから、窓の方へと近寄ってカーテンを閉める。
一切の光が消えた暗闇の自室で、夕莉は勉強机の横にあるライトスタンドの紐を引いた。
かちり、と音がして辺りが照らされる。
「…………」
夕莉は無言のまま、手近な場所にある本棚の小物入れ――そこに隠している小さな鍵を摘み上げていた。それを手にとって、勉強机の鍵穴へと差込んで、捻る。
ロックが外れる。夕莉はがらりと引き出しを開ける。
引き出しの中に隠されていたのは、武器だった。いつも愛用している護身用という名目の、だが彼女にとっては幻想人を殺すために必要となる各種の武器。
いつも所持している特殊警棒に加えて、トドメを刺す際のサバイバルナイフ、意表を突いて使用するためのスタンガン、暗闇を想定したフラッシュライト、催涙スプレー、催涙グレネード、ナックルダスター、ボウガン――そこには彼女にとって身近な武器類が保管されていた。
夕莉はそれらを静かに眺めて、それから何気なくスタンガンを手に取った。
つるりとした表面の、樹脂製の部分を握って――スイッチを入れる。
ばちん、と高圧電流が先端に流れた。彼女はそれをただ淡々と見下ろしていていた。そして、その脳裏では白ウサギを殺害する際のことを、思い描いている。
高圧電流に筋肉を引き攣らせ、身動きが取れなくなる白ウサギのことを――。
「……いや、違う」
だがその想像を、夕莉は途中で打ち切った。
「これじゃない、あいつを殺すために必要なのは……」
夕莉は手に取ったスタンガンを、静かに引き出しの中へと戻した。そして代わって手に取ったのはナックルダスターである。
ナックルダスターの鋼鉄製の表面を撫で、実際に指に嵌めたりしながら、やはり彼女は白ウサギを殺害する際のことを想像した。至近距離で白ウサギに向かって、ナックルダスターを嵌めた握りこぶしで殴りかかる姿を。何度も何度も振りかぶって白ウサギを殴打する姿を。
「……これでもない」
だが夕莉はまたも想像を打ち切って、ナックルダスターを引き出しの中に戻した。
それからボウガンに視線を向けたが、夕莉はやはり「違う」と言って、すぐに視線を逸らす。スタンガンも、ナックルダスターも、ボウガンも、ここにある武器は全て彼女が使用することを前提に集められたものだったが、それらを彼女は良しとしなかった。
やはり一番手に馴染むのは、最も使い慣れている武器だ――。
だから、夕莉はいつも身につけているASP社の特殊警棒を掴んでいた。それを握って無造作に腕を振る。打撃部分が三段階に伸張する。
「……やっぱり、これね」
そして、夕莉は同じように引き出しの中に入っているサバイバルナイフも掴んでいた。
なんでも、このナイフは米軍に最も納入実績のあるオンタリオ社の軍用物らしい。とにかく広告の煽り文を抜いても、その信頼性には特筆すべきものがある。
その二つの武器を手にして――夕莉は引き出しを閉めていた。
再び鍵をかけて、その鍵を本棚の小物入れへと戻す。そしてライトスタンドの紐を引いて光も消すと、夕莉は真っ暗な室内でゆっくりと深呼吸をするように、溜息を吐いた。
――行かなくちゃ。
なぜだか分からないが、自分の心の中でそのような言葉が生まれた。
「行かなくちゃ……『王国』に」
夕莉は部屋の電気をつけて、今手にしている特殊警防とサバイバルナイフをベッドの方に投げつけると、再び着替えをすることにした。
やはりこれらの武器を目立たず身につけるためには、学校の制服というものは便利だった。スカートには特殊警棒も、サバイバルナイフも隙なく隠すことができる。そのため、さっき着替えたばかりだというのに――夕莉は再び制服姿へと着替えていた。
両の太腿に目立たぬように特殊警棒とサバイバルナイフ用のホルスターを装着して、そこに二つの武器をぶら下げた。それから、もう一度だけ全身鏡の前に立った。
その鏡に映っている自分の姿は、相変わらず醜悪ではあったが――その目には先ほどまではなかった生気が戻ってきていた。
夕莉はにやりと笑みを浮かべてみせた。もう慣れ過ぎてしまった皮肉げな嗤いを。
「……行こう」
そして夕莉は今一度、武装をちゃんと身につけているかを確認してから、部屋を出た。
時刻にして夜の八時。世界は夜へと変貌しきっていた。
夕莉は家を抜け出して、暗く街頭しかない住宅街を抜けて、かつて有栖とともに作った『王国』が存在していた敷地――今はただの空き地となっている場所を目指した。
きっと今頃、薫子たちは飾磨恭二のお通夜にでも出席しているのだろう。だがそれは彼女にとっては何の関係もないことだった。
目的地には、すぐに辿り着いた。
なぜ今更になってここに来ようと思ったのか――それは自分にもよく分からなかった。ただ何者かが、自分に囁きかけてきたように思えたのだ。ここに来るべきだと。そして、その予感に近い囁きに従って、夕莉はここへと訪れただけのことだ。
かつて『王国』という名だった廃屋は、ちょうど一年前に壊されていてすでに跡形もなかった。今ここにあるのは、わずかな雑草が茂っている、ただの空き地だけだ。
「……もうなくなった『王国』」
夕莉は何もなくなった空き地で、ただ一人そうつぶやいていた。
辺りからは微かに緑の匂いがしていた。短く刈り揃えられた草地からは、虫たちの鳴き声がアンサンブルとなって聞こえている。そこにはもう何も存在していないというのに、心を穏やかにさせるような不思議な静寂が満ちていた。
深呼吸をするだけで、まるで別世界に来たかのような気さえする――。
「……有栖」
夕莉は静かに目を閉じて、それからゆっくりと息を吐き出すように言った。
「どれだけ世界が変わっても、ここだけはわたしたちだけの場所だよ」
ねえ、そうでしょう――?
夕莉は心の中で、今はもういない有栖に向かってそう話しかける。もちろん、その答えが返らないということは十分すぎるほど理解していたけれど。
「わたしは……清算しなきゃならないから」
過去を。因縁を。そして未だに捨て切れていない――自分自身の気持ちを。
「わたしは、全てを終わらせるよ」
まるで自分自身ではないかのように、その台詞がするりと口から出た。夕莉は閉じていた目をゆっくりと開いて、沈んでいた闇夜から浮上するように、静かに口を開く。
「そうすることで……ようやくわたしは、あなたの幻と決別することができるから」
そうして、そこで彼女はふいに頬を緩ませて笑った。仕方ないな、と笑ってみせるように。
「……悲しいね、本当に」
夕莉はただ一人、かつての思い出の地を踏みしめながら感傷に浸る。
別に思い出したかったわけではない。だって、あれはとても辛い思い出だったから。なのにその記憶は溢れ出さんばかりに湧き上がってきて、彼女はその思考の渦を止めることができなかった。思わずあの日の記憶――消さない過去の出来事を回想してしまっていた。
ゆるりゆるりと、自らの記憶の螺旋を辿っていくかのように――。
彼女は、過去へと落ちていった。
09 : FLASHBACK TRIP SYNDROME
9.
――そう、あの日、あの日のことだ。
あの日の記憶を、夕莉は生涯忘れることなどできないだろう。
『王国』を造ってからというもの、夕莉と有栖は学校帰りにいつもそこに立ち寄った。
特に何するというわけでもなかった――けれど、そこは彼女たちにとっての外敵がいない場所で、誰にも侵されることのない、最小にして最高の平和が保たれた空間だったのだ。だから、何かあるたびに彼女たちはそこで落ち合って、互いに落ち着いた時間を共有した。
だが、そんな『王国』での一時も長くは持たなかった。
その空想の王国は、彼女たちが予想していたよりも、ずっと、ずっと早く――崩壊を迎えることになってしまったのだから。
その始まりは、突然だった。
これまでは毎日のように顔を合わせていた有栖が、急に姿を見せなくなったのだ。それは二人だけの『王国』に限らず、外の世界である学校においてもそうだった。
始めのうちは、夕莉も何か風邪でも引いたのだろうと思っていた。だけど、その期間が三日から五日になり、五日から一週間になり、それが二週間目に突入したところで夕莉もただ事ではないということを理解した。
なぜだか、彼女は連絡の一つもくれずに――ただ学校を休み続けていた。
あれからというもの、有栖はあの『王国』にも来てくれなくなった。夕莉も彼女が来なくなってから、あの場所にはあまり行かなくなってしまった。あれは二人一緒だったからこそ楽しかった空間なのだ。夕莉がただ一人いたところで、そこは『王国』にはなり得ない。
古今東西のおとぎ話で、王子様とお姫様が常にセットで語られるように――あの場所は、夕莉と有栖がいなければ機能しえない場所だったのだ。
二人一緒でなければ、意味のない場所だったのだ。
でも、あの『王国』で待っていれば、いつか有栖が来てくれるような気もして、夕莉はときどき『王国』に出向いたりもした。結局、それで出会えた試しはなかったけれども。
「……どうしちゃったんだろう」
あの当時、夕莉はよくそんなことを考えていたものだ。
不安で仕方が無かった。学校でも、有栖の話題はクラスメイトの間でたびたび話されていたものの、誰も確証に近い情報を持っている者はいなかった。
夕莉は次第に落ち着かなくなってきて、連絡網を使って彼女の家に電話をかけた。
「……はい、来巳ですが」
「あのっ、わたし、同じ小学校のクラスに通っている坂下夕莉なんですけども――」
「ああ、夕莉ちゃん!」
その名前を聞いたとき、電話口の向こうにいる人物が笑った。
「なんか久々な気がするねえ……二週間ぶりかな? 有栖だよ。うん、ちょっと具合が悪くて最近学校にも『王国』にも行けなくてごめん……なんかあんまり良くないんだ」
夕莉は有栖の声が聞けただけでも嬉しかった。だけど、すぐに質問を繰り出していた。
「風邪、なの?」
「ううん、そういうんじゃないの――」
電話口での話を聞いている限り、夕莉には有栖がとても元気そうに思えた。だが彼女が具合が悪いと言っているのだから、事実としてそうだったのだろう。
「なんかね、ちょっと言いにくいんだけどね……あたし、最近ちょっとおかしいような気がしてるんだ。自分でもよく分かってないんだけど。なんか誰もいないはずなのに声が聞こえたりとか、見えるはずもないものが見えたりするの……それに体も動かなくなったりとか」
「大丈夫、なの? 病院に行ったりとか……」
「うん、病院にも行ったんだけどね」
有栖はちょっと寂しげにそう言った。
「お医者さんも優しいし、お父さんもお母さんもすごく心配してくれてるんだけど……全然良くならないんだ。なんかね、最近、自分の体が自分の体じゃないような気がするの」
「……うん、そっか。具合が悪いんだね」
それ以上のことを夕莉は何も言えなかった。
「ねえ、有栖。だったら、無理はしなくても大丈夫だよ。でも、元気になったらまた顔を見せて。わたし、今でもずっと『王国』に通ってるんだよ――わたし以外には誰もいないけど、それでも有栖と一緒に作ったあの場所が大好きだから、さ」
夕莉はちょっと嘘をついた。けれども、これが悪い嘘だとは到底思えなかった。
「……うん、頑張ってみる」
有栖がそう言ったのを聞いて、夕莉は彼女との会話を打ち切った。少なからず安心した部分もある。だけど、心の中では一部でより不安が強くなった部分もあった。
夕莉としては、有栖がいてくれさえすれば――『王国』なんてなくてもよかった。
別にあの場所が嫌いなわけではない。でも夕莉にとって、有栖はそれ以上に大切な存在だったのだ。自分にとっての同じ価値観を持っている、大切な友達だったのだ。
有栖との電話で嘘をついてしまった翌日から、夕莉はたった一人でも『王国』に通い続けることを決めた。何をするわけでもなかったけれど、有栖が元気になったら来てくれるということが、夕莉にとってのたった一つのモチベーションだったのだ。
ここ最近は足を踏み入れてなかったからか、『王国』内には少し埃がたまっていた。
それを夕莉は自分ひとりで掃除し、綺麗にして、あたかもこれまでのような有栖と夕莉だけの居場所を維持することに全力を費やした。
たまに寂しさが舞い降りてくるときもあったが――それはできるだけ我慢した。
でも、そうやって自分たちの居場所の手入れをしていると、夕莉はちょっとだけ不思議に思うこともあった。それは本当に何気ないことではあったのだけども。
「……ぬいぐるみが、何個かなくなってる」
このぬいぐるみは、夕莉と有栖が自分たちのものとして持ってきたものだった。それが何個かなくなっていたのである。有栖の白ウサギのぬいぐるみも、その一つだった。
夕莉がいない間に、もしや有栖もここに来ていたのだろうか――?
確かに、考えられないことではなかった。だけど、夕莉にはどうしても彼女が体調の件で嘘をついているようには思えなかった。何よりも友人のことを疑いたくなかった。
でも確かに、そのぬいぐるみたちはいくつかがなくなっているのだ。
数にして数えると、そのなくなったぬいぐるみは四つだった。そして、それらは白ウサギのそれを含めて、もともとは全て有栖が所有していたものだった。
「それとも……この『王国』にわたしたちとはまた別の人が?」
まさか、と夕莉は内心で思う。だがそれもあり得ないことではなかった。
結局、その日はそれ以上考えることを止めて――家に帰ることにした。あの電話をしてからはや三日、有栖はまだ『王国』に訪れてはくれなかった。
再びの電話をかけたのは、その翌日のことだ。
夕莉はいつもの学校を終えてから、すぐに有栖に対しての連絡を取った。
もちろん、それは『王国』に置いてあったぬいぐるみについてのことを聞くためでもあったし、有栖の体調がどうなっているのかを確認するためでもあった。そして、そこにわずかながら友人と触れ合える時間を求めていたのも、また事実であった。
有栖の家に電話をかけると、何度目かの呼び出しで受話器が取られた。
「もしもし、来巳ですけど」
「あの、夕莉……なんだけど。有栖だよね? 体調、どうなってる?」
「ああ、夕莉ちゃん……」
その日の有栖は、なんだか少し体調が悪そうだった。その雰囲気が、受話器を通じて夕莉の耳にも届いてきていた。これまで寝ていたのだろうか、なんとなく眠そうだった。
「……体調はね、あんまり良くないかな。ごめん、さっきまで眠ってたんだ――なんだか最近眠たくってさ。起きてると色々と不調もあるし、眠ってるときだけは何も起こらないから。ごめんね、せっかく『王国』に行く約束してたのに……」
「ううん、大丈夫。わたしは有栖が元気になってくれるのが一番嬉しいよ。……ところでちょっと聞きたいことがあるんだけど、時間は大丈夫かな?」
「ん、それくらい大丈夫だよ」
そう有栖が返してきたので、夕莉は満を持して昨日のことを話すことにした。
「うん、じゃあ話すけどさ……昨日行ったらね、わたしたちの『王国』に置いてあったぬいぐるみが、何個かなくなってたんだ。あのさ、もしかしてなんだけど――有栖、わたしがいない間に『王国』に来てたとかそういうことはないかなって」
「えっ、あたしが? それに、ぬいぐるみが?」
「うん、そう……ぬいぐるみが何個かなくなってるんだ」
そのなくなったぬいぐるみが全て有栖の所有していたものだということは、あえて言わなかった。それよりも有栖がどういう返答をするのかの方が気になった。
「あたし――行ってないよ? 朝も昼も夜も、最近はほとんど眠ってたから……」
「そっか。じゃあ有栖も分からないんだね」
「……うん」
有栖は小さく返事をして、それから夕莉に対してこう質問してきた。
「なくなったぬいぐるみは、何個なの?」
「四つだよ。しかも……こう言うと難なんだけど、全部、有栖が持ってきたやつなんだ。だから、てっきりわたしは有栖が来て持って帰ったものだと思ってたんだけど」
「違うよ……あたしじゃない」
そう有栖は眠そうな声音で、だがしっかりと否定して続ける。
「なくなったぬいぐるみって? どれがなくなったのか、夕莉ちゃん分かる?」
「ちょっと数が多いから全部は分からないんだけどね――あの有栖がサイショウ役にするって言ってた白ウサギのぬいぐるみは、とりあえずなくなってる。あれだけはわたしも覚えてたからさ……あの白ウサギのぬいぐるみは」
「そっかあ……あの子、いなくなっちゃったんだ」
その有栖の一言は、心の底から残念そうな響きを伴っていた。それまで夕莉は心の中で半分、有栖の仕業だったのではないかと疑っていたことを後悔した。
「あのさ、変なことを言うようなんだけど」
「……うん?」
「もしかして、わたしって有栖の迷惑になってるんじゃないかって――だから有栖は学校にも『王国』にも来てくれないんじゃないかって、ちょっと思ってるんだけど……そんなことはないかな? わたし、有栖にとって迷惑な存在とかになってない?」
「ちょ、ちょっと夕莉ちゃん……いきなりどうしちゃったの」
「……ごめん、変なこと言ったよね」
「ううん、いいよ。疑われても仕方ないかなって、ちょっと思ってた。でも本当なんだ。あたしも信じて欲しい……夕莉ちゃんのことが嫌いになったからじゃないよ。あたしは、失敗しちゃったみたいだから。本当はもっと平和でみんなが幸せになれるようにって考えてたのに、なんだか思い通りにはいかないみたいだね、あたしこそ夕莉ちゃんに迷惑をかけちゃいそうでちょっと怖――」
「……有栖?」
夕莉は、有栖が何を言っているのか分からなくなって反射的に聞き返していた。
「……ああ、ごめんごめん。あたしも変なこと言っちゃったみたいだね。最近、こういうの結構あるんだよね……あたしのはずなのにまるで誰かが喋ってるような感じ」
「大丈夫、なの……?」
「うん、元に戻った。誰かに言われると気が付くんだけどね。なんだか誰もいないところでも一人で喋ってたりとかするみたいで――はは、なんかおかしいよね、あたし」
「ううん、そんなことないよ……有栖がおかしかったら、わたしはもっとおかしいと思う」
「夕莉ちゃんはおかしくなんてないよ」
「夕莉ちゃん『は』じゃなくて、夕莉ちゃん『も』だよ。……ちゃんと自分も入れてあげて」
「ふふ、そうだね……そうだった」
有栖は依然として眠そうな声で、優しげに笑ってから言った。
「でも、いいな。こうして夕莉ちゃんと話してるの。なんだか、ずっと学校にも『王国』にも行けなかったのがちょっと寂しい気持ちになるよ……体調が良かったら、明日は『王国』だけでも行ってみようかな」
「うん、有栖が来てくれたらわたしも嬉しいよ。でも、無理はしないでよね?」
「しないよぉ……」
有栖はちょっと拗ねるようにそう言ってみせた。
「でも、絶対に行くから。あたし、夕莉ちゃんに会いたい。会って、お話したい」
「わたしもだよ。これまでみたいに、色々なおとぎ話のことを話したり、あの『王国』についてを一緒に考えたりしたい。やっぱり、有栖がいないと楽しさ半減なんだもん」
「……ごめんね、でも明日こそは行くから」
「うん、楽しみに待ってる」
そう言って、夕莉は有栖との電話を終えた。
明日になったら、有栖は本当に『王国』を訪れてくれるのだろうか――それは夕莉としても信じていい部分なのか、少し悩むところでもあった。しかし、それでも彼女が「『王国』に行きたい」と言ってくれたこと自体が嬉しかった。
まだその時は、仄かに残った一抹の希望でさえも、救いのように感じ取れていたのだ。
――この世界は悪意に満ちている。
と、まだその頃の自分は、そんな偏屈な思想を持っていたりはしなかった。
有栖が友達になってくれた時、二人で一緒に『王国』を造り上げた時、少なくとも夕莉はこれまでの不幸が、単なる巡り合わせの問題だったということを信じることができた。自分は不幸の最下層にいる人間ではないと、信じることができた。
そして、その儚いの想いをずっと信じていたかった。
でも、人生というものは起こったことしか起こりえないものだ。
それもまた非情な現実だった。
あの日――あの狂った白ウサギが『王国』に現れなければ、有栖の身に異変など起きていなければ、自分はもっと幸福で人並みの生活を送っていたのだろうか?
もしもの話が無意味だということはよく分かっている。
でも、今になってもふとした時に考えてしまうのだ――。
それはまるで自分たちが『王国』で願っていた、この世界が現実のものになればいいという空想的すぎる思いであったことは、十分理解していたけども。
夕莉に残った最後の一欠片――希望という名の概念は、翌日、粉々に砕け散った。
翌日の『王国』に、有栖は訪れてくれなかった。
そこに代わって訪れたのは、一風代わった外見をした白ウサギだった。品のいいチョッキを身につけて、片眼鏡をかけ、懐中時計を握った不可思議な幻想人――。
その白ウサギは、廃屋で腰を抜かしている夕莉の前で、自身のことをこう名乗った。
「あなたがユウリという少女ですね――私はこの通り、白ウサギです」
その日、『王国』でずっと有栖のことを待っていた夕莉は、その白ウサギの存在にひどく驚いた。生まれて初めてその珍妙な生き物を目にしたのだから。
「……おや、まるで信じられないといった顔をしていますね。まあそれも当然でしょう。私はこの世界にとっては本来ではありえない異物ですからね。……ああそれと。あなたの待っている有栖は残念ながら、もう二度とここを訪れることはないでしょう。なぜなら……有栖は亡くなってしまったからです。私をこの世界に呼び出したために。大変残念なことではありますが――これも現実です。致し方ないことです」
人の言葉を喋る白ウサギ――そんなものが、この世界に実在するものか。
では、だとしたら、今ここで自分に話しかけてきているこの生物は一体何だというのか? 自分は幻覚でも見てしまっているというのか?
「あなた――何者、なの?」
夕莉がわなわなと唇を震わせながら聞き返したとき、白ウサギはそこでようやくにやりと笑った。紳士のように慇懃な礼をしてみせて、それから質問に答える。
「私は、白ウサギの皮を被った来巳有栖――いや、来巳有栖という少女の成れ果てと表現したほうがいいのでしょうかね? ともかく、もう有栖という個人はこの世から消滅しています。今あるのは、彼女の成れ果てである私だけです」
「そんな……じゃあ、有栖は」
「ええ、その通り」
そう白ウサギは静かに微笑んだ。
「ですが、私は彼女の意志を引き継いだ存在でもあります。彼女が私に託した願い――この『王国』を永遠に不滅のものにしたい。その尊い願いを、私は叶えるつもりです。どうですか、ユウリ――あなたも私たちと一緒に」
と、そこまで言ったとき、白ウサギの表情がおやおやという風に変わった。
「……嘘……嘘だ、そんなこと嘘だ……絶対に信じない……あなたは嘘ついてる……」
夕莉は目の前にいる白ウサギが何者なのかという疑問より早く、その白ウサギが語った「彼女はもういない」という言葉に衝撃を受けていた。
冷静に考えれば、それは信じられない出来事であった。なのに、その言葉を易々と受け入れてしまったのは、夕莉自身どこかで有栖にはもう会えないと感じていたからかもしれない。
目からは自然と涙が溢れてきて、それが目前の景色を霞ませた。
「……嘘、つかないで」
「ああ、泣かないでください。それと残念ですが、嘘ではないのです」
「…………」
「泣いていても何も変わりませんよ? 確かに彼女が亡くなってしまったのは、残念なことでありますが我々は前に進まなくてはならない。彼女の意志を引き継いで――」
「無理……無理だよ」
夕莉は涙で景色をくしゃりと歪ませながら、そうしゃくり上げるように答えていた。
「有栖がいなくなった『王国』なんて――なんの意味もない場所だもん……!」
「なんと」
これまで大人しく耳を傾けていた白ウサギが、その時、仰々しい仕草で反応した。
「何の意味もないと。そう仰るのですか、あなたは!」
「……どういうこと」
「あなたはようやく作り上げた『王国』を――そんな放り投げるように無為に返すつもりなのですか? わたしは、彼女の意志を引き継ぐ存在なのですよ。そんな私のことまで拒絶すると? それがどれだけ残酷な発言であるのか、あなたは理解しているのですか」
「…………」
「ユウリ。あなたは……我々に手を貸してくれないと、そう言うのですか?」
白ウサギは深刻そうな態度で、そう夕莉に対して聞き返す。
その問いかけに、夕莉は答えなかった。
ただ頼りない足取りで立ち上がって、その『王国』の出入り口――外界へと繋がる廃屋を玄関の方へと向かって歩いていった。この場所から離れるためだった。なぜだか分からなかったが、もうこの場所にはいたくなかったのだ。
追従してきた白ウサギが、ちょうど背後から突きつけるように言い放った。
「あなたは――救いようのない愚か者だ」
だが夕莉は何も聞かなかったふりをして、そのまま、廃屋を後にした。
それから家に帰るまでの道のりは、まるで夢の中を歩いているかのようだった。
分からなかった。この溢れ出して来る感情をどこにぶつければいいのか。否、そもそもこの感情の奔流とは一体何なのだろうか? もしかすると、あの奇妙な白ウサギは自分自身が見ていた幻覚なのかもしれないのに、なぜだか有栖についての発言だけが、ずっと胸の奥に引っかかったまま離れなかった。
これまで胸中で抱え込んでいた不安や孤独感が、一気にぶちまけられたようだった。
「分からない、分からないよ――どうすればいいの、わたし、分からない……」
わんわんと泣きながら家に帰って、今日の出来事は嘘だったと思い込むことにした。
あんな白ウサギなど実際に存在するはずがないのだと。だから有栖も死んでいないのだと。今日、自分があの場所で見たのは全て幻覚であり、明日はきっと何事もなく有栖と連絡を取り合うこともできるはずだと。
そう思い込んで――その日は、泣き疲れて自室で泥のように眠ることにした。
それが夢であれば、どれだけ幸せだったことか。
――結果として、夕莉の儚い想いは嘘になってはくれなかった。
翌日の学校において、夕莉は朝一の担任の言葉によって、有栖が昨日から行方不明になっていることを知った。あの白ウサギが妄想の存在ではなかったことを、その時、改めて把握した。
有栖は次の日になっても、また一週間が経っても、一ヶ月が経っても、学期が終わって季節が移り変わっていっても――姿を見せることはなかった。
行方不明のままだった。連絡も取ってはみたが繋がらなかった。
あの日を境に、夕莉の唯一の希望は呆気なく潰えてしまった。
この世界には悪意が満ちている――そんな生意気なことを考えるようになったのは、有栖がいなくなっていつ頃のことだっただろうか。
有栖がいなくなってからの日々は、まるで肉体を失った亡霊のように空虚なものだった。
あの悪夢のような日々の思い出は、だが不思議なことに思い出すことができない。そこがあまりにも不毛な思い出だったからか、それとも純粋に思い出したくないからのか――とにかく脳裏に思い描くことができなかった。ぽっかりと消失してしまっていた。
なぜ、運命はこれほどまでに自分に辛く当たるのだろう?
苦しい。救われたい。
答えが欲しい。
なのに、その答えをくれる存在は、誰もいない。
誰も、いなかった。
10 : DISCOMMUNICATION
10.
「……なんか、嫌なことを思い出しちゃったな」
かつて『王国』が存在した跡地で、夕莉はただ一人、そのようなことを漏らした。
あの頃の記憶は、わずかに痛みこそ薄れたものの未だに鮮明さを失ってはいない。それほどまでに夕莉の根幹に根ざした思い出だったのだ。出来ることなら、忘れてしまいたい。今のあの頃の記憶は、じくじくと夕莉の心を蝕み続けているのだから。
でも、忘れることなどできないのだ。
何よりもあの一連のことを忘れてしまうということは、事件の当事者としてもっともしてはいけないことだと思っていた。そんなことをしでかした日には、この町には白ウサギの手によってより多くの被害がもたらされることになるだろう。
当事者であるからには、あの日起きたことにはしっかりと始末をつけなければならない。
絶対に、逃げてはいけないのだ――。
「でも、そこにわたしにとっての幸せは存在しない」
分かっている。分かってはいるのだ。
でも逃げることなどできない。逃げてはならない。それは不断の決意だ。たとえ自分が不幸になったとしても、名も知れぬ誰かが救われるのならば……それは意味のあることじゃないか。
否、そうとは言い切れない。言い切れないからこそ自分は悩み苦しんでいるのだ。
幸せになりたい――。
誰しもが考えるそのような願いを、一体誰が否定することなどできようか?
「……有栖」
空き地にわずかな微風が流れる。さわさわとした草地の上で、夕莉は一人こう呟く。
「わたしも叶うことなら……一度はお姫様になってみたかったよ」
あの『王国』で、夕莉と有栖によって演じられていた王子様とお姫様という役柄。だけどあそこで割り振られた役柄で、夕莉がお姫様役になれたことは一度もなかった。
叶わなかった願い――だけど夕莉は確かにお姫様役に憧れていて、それを望んでいたのだ。
でも、そんなの誰だってそうじゃないか?
この世に生を受けた以上、生きながらして自らの不幸を望むような人間が果たしているだろうか。誰だって幸福を望んでいる。そう誰だって。心のどこかでは、救いの手を差し伸べられるお姫様のような存在になりたがっている。
自分の境遇に――救いを求めている。
「……なんとも泣かせる告白です」
と、その時、夕莉の胸中を読んだかのように背後から聞きなれた声がかかった。
夕莉にはその声の主が誰であるのか、すでに分かりきっていた。
「……白ウサギ」
ゆっくりと振り返りながら、夕莉は静かにその幻想人のことを睨みつける。白ウサギはいつもと変わらぬ格好をして、その暗闇に沈んだ空き地に立っていた。
まるで英国紳士のように、白ウサギは典雅な一礼をしてみせる。
「決着をつけに参りました――何の決着であるかは、あなた自身ご存知でありましょう?」
「ええ、分かってるわ」
そう言って、夕莉は自らのスカート内に取り付けているホルスターから特殊警棒を引き抜いていた。それを一振りで伸張させて、目前にいる白ウサギのことを見据える。
「三度目の正直……だったわね?」
そんな台詞を投げると、白ウサギは軽く肩をすくめてみせた。
「そうです、三度目の正直――これが最後です」
「結構。さあ、決着を着けましょう」
そして、白ウサギが薄気味の悪い笑顔を浮かべてみせた束の間。
夕莉はそれ以上のことを何も語らず、ただ白ウサギに向けて一直線に突進していた。
闇を切り裂き、夕莉は因縁の相手である白ウサギに一気に接敵する。
白ウサギはそれを余裕に満ちた顔で、待ち受けていた。
「……以前にも言ったでしょう? ユウリ」
夕莉は目前で待ち受けている白ウサギに向けて、渾身の一撃を叩きつけていた。特殊警棒での一撃は、その白ウサギの小ぶりな体を弾き飛ばし、致命的な一撃を与える――はずだった。
だが、その肝心の白ウサギの体は、夕莉の振るった特殊警棒が当たる寸前で掻き消えていた。
夕莉は信じられないものでも目にしたかのように、目を見開いていた。
「あなたは私を殺せない……確かにそう言ったはずです」
代わって、白ウサギの声が聞こえてきたのは夕莉の背後からだった。彼女は慌てて背後を振り返って、そこに立っている白ウサギに対して特殊警棒を振るう。
また特殊警棒が触れる直前で――その白ウサギの体が掻き消えた。
再びの声が響いてきたのは、彼女の頭上からだった。
「なぜ殺せないのか」
白ウサギは地上から五メートルほどある高さの場所に、足場もなくただ立っていた。もはや物理法則を無視した状況である。夕莉に攻撃を加えるような手段は無い。
「そう、お考えになったことはありませんか?」
「失せろッ!!」
夕莉はスカート内からサバイバルナイフを引き抜いて、上空に浮遊している白ウサギに向けて投擲していた。鋭利な刃のついたサバイバルナイフは、しかしやはり白ウサギを串刺しにする直前で、掠りもせずに暗闇の空を突き抜けていく。
そして、わずか後に命中しなかったナイフが落下して、どすり、と草地に突き刺さった。
「あなたは――もっと考えるべきだった」
その白ウサギの声が聞こえてきたのは、夕莉の背後からだった。だが夕莉が反射的に振り返ったとき、すでにそこに宿敵である幻想人の姿は存在しなかった。
忌々しい声が聞こえてきたのは、今振り向いた方向とは全く逆方向からだった。
「そして、思い出さなくてはならない」
「――黙れッ!!」
そう叫んで、キッと振り向いた有利の視線に先に、だがやはり白ウサギの姿はない。夕莉は特殊警棒を握る手の力を強めながら、辺りに注意深く視線を投げる。
「何度でも言いましょう――あなたは私を殺せない、と」
再び声がした。声がしたほうへと夕莉は鋭い視線を投げる。
白ウサギの姿があった。夕莉の真正面に立って、その顔からはこれまで貼り付けていた笑みが消えていた。右手の懐中時計をパチンと閉じて、その幻想人はふっと小さく微笑んだ。
「なぜか。それはとても簡単なことです。なぜなら、あなたが見ている私は――」
夕莉の背筋に、ぞっと怖気が走る。
それがなぜなのかは分からない。だけど、全てが壊れてしまうような気がしたのだ。坂下夕莉という人間のちっぽけなプライドが、粉々になってしまうような気がしたのだ。
「――止めろッ!!」
夕莉は勢いよく地を蹴って、真正面にいる白ウサギに向かって肉薄する。
手中の特殊警棒を握り締めて、これまでにないほどの腕力で、まさに技巧も技術もへったくれもなく、力任せと表現するのに相応しい粗暴さで――衝動そのものをぶつけるように、白ウサギに向かって殴りかかる。
だがそれよりも、白ウサギの非情な一言が放たれる方が、早かった。
「――あなたが見ている私は、あなたの幻覚でしかないからだ」
ピキッ、と夕莉の心の中にある何かに、ヒビが入ったような気がした。
構わず衝動のままに殴りかかったが、しかしその一撃が白ウサギに届くことはなかった。何事もなかったかのように特殊警棒は白ウサギのことをすり抜けていき、そしてバランスを崩した夕莉は地面に向かって勢いよく転倒する。
そこは柔らかい草地だった。だから夕莉が負傷することはなかった。しかし、そんなことは今の彼女にとっては何の関係もないことだった。
白ウサギの非情な一言の方が――夕莉にとってはよっぽど重大だった。
「……ユウリ。あなたも薄々感づいていたのではありませんか?」
白ウサギは先ほどと何も変わらぬ余裕さで、夕莉のことを見下ろしていた。だが、そこにはやはりこれまでのような笑みは浮かんでいない。驚くほどに無表情だった。
「狂人はあなただ。そして、私はあなたの見ている幻覚であり、あなたの理性という半身だ」
「嘘、だ……」
夕莉は地面にひれ伏しながらそう漏らしたが、すぐに起き上がると、目前の白ウサギに向かって力任せに特殊警棒を振るっていた。が、その一撃は掠りもしない。
白ウサギという存在そのものを、存在しなかったかのようにすり抜けていくだけだった。
「嘘だ……」
「嘘ではありません。あなたは耐えられなくて逃げたのですよ」
「嘘だ! そんなのは、嘘だッ!!」
夕莉は絶叫しながら何度も特殊警棒で殴りつけたが、それが白ウサギに届くことは一度も無かった。白ウサギは相も変らぬ表情で、ただじっと夕莉のことを見返すだけだ。
「あなたは自責の念に耐えられなかった」
「……自責の念? 何の、自責の念から……?」
そこで白ウサギはおやおやというような呆れの態度を浮かべてみせた。
「あなたが――友人である来巳有栖を殺したという自責の念からです」
「嘘だ、殺してない……そんなことは……絶対にない。だって白ウサギ、あなたはこの世界において最後に残った幻想人じゃない。確かにわたしはこれまでに三人を殺してはきたけれど……でも、まだわたしはあなたを殺してなんか、いない」
「そう思い込んでいただけです……自分を守るために」
白ウサギは面白くもない事実を指摘するように、そんな風に言ってみせた。
「あなたはすでに四人を殺しているのですよ。あなたが言ってみせた三人――彼らを殺すよりもずっと前に、そう一番最初に、あなたは来巳有栖を殺していたのです。そして、自らの友人を手にかけてしまった日……あなたは壊れた。あなたは友人を殺してしまったという自責の念に耐えられなかった。ゆえに、私のような幻覚の存在を生み出すことにした。永遠に殺すことのできない復讐対象として――自分自身が生きていくための存在意義として。それが白ウサギ……つまり今ここにいる私なのです」
呆然と白ウサギの言葉に聞き入っている夕莉の顔は、すでに青ざめていた。
「だから、あなたに私は殺せない。私はあなたの妄想の存在でしかないのだから」
「止めろ……」
「ですが、あなたがこれまでに殺してきた四人――来巳有栖、淀川将紀、吾妻桃理、飾磨恭二は確かに実在した人物です。そして、それこそ妄想としか思えないような存在である幻想人もまた……確かに実在していた。ただ、今ここにいる私だけはあなたの生み出した妄想であり、そして決して辿り着いてはならない終着点だったのです」
「止めろ……!!」
「よくやった、とは言ってあげましょう。確かにあなたは目的を果たした。この世に出現した全ての幻想人を鏖殺し、この町にそれ以上の被害をもたらすことを阻止した。これは偉業ですよ。ただ――あなたにとっての幸福が存在しないだけで」
「止めて……もう、止めてよッ!!」
夕莉はそう絶叫して、目の前にいる白ウサギに向けて特殊警棒を投げつけていた。
だがそれも当然のように白ウサギには当たらず、特殊警棒は空き地の遥か先へと飛んでいき、生い茂っている草地の中に沈んでいった。
「止めてよ……もう……お願いだから……」
信じたくもない現実に、夕莉の目からは滂沱の涙が溢れ出ていた。
「分かってるよ……本当は、全部分かってた……だから消えてよ……お願いだから……」
夕莉は溢れてくる涙を拭いながら、白ウサギに向かってそんなか細い懇願を発する。
もう勝負や決着どころではなかった。すでに最初から結末は決まりきっていたのだから――この戦いに勝者はなく、ただ非情なまでの現実が鎮座しているだけだということを。
「消えて……消えてよッ!! わたしの目の前から!! わたしの世界から――消えてッ!!」
夕莉は今にも暴れだしそうな狂気を滲ませて、まるで破裂するかのようにわめき散らした。もはや今の彼女にはわめき散らすことしかできなかった。
だがそんな魂の叫びに対して、白ウサギの返答は――返っては来なかった。
しばしの沈黙の後――。
「……白、ウサギ?」
その段になって、夕莉はこれまでまともに見ようとしなかった白ウサギに、虚ろな視線を向けた。だがそこに先ほどまでいた白ウサギの姿は、跡形もなくなっていた。
ただそこにあるのは、誰もいない無人の――暗闇の中に沈んだ空き地だけだった。
「…………」
夕莉は呆然と辺りを見回すものの、やはり白ウサギの姿はどこにも見受けられない。
やがて長い時間の波が訪れたが、しかしどれだけ時が経っても、夕莉が何度呼びかけてみても……白ウサギは一向に姿を現したりはしなかった。
次第に風が出てき始め、夕莉が今も腰を下ろしている空き地に、しめやかな雨が降り始める。
生い茂っている野草に雨水がぶつかって、ぱたぱたと静かな音色が響き渡るった。
身につけている衣服が濡れて張り付き、髪もぐしゃぐしゃになった。両目から流れる涙は止まっていたが、それとは代わって世界そのものが雨に濡れ始めた。
やがて、夕莉はなぜ白ウサギがいなくなったのかという理由に思い至った。それまで止まっていた両目から、また静かに涙が溢れ出してきた。
「……そっか、そういうことなんだ」
夕莉はそれを自覚して、ふと雨粒の降ってくる天を仰ぎ見て――嗤った。
ひとしきり嗤っているうちに、またさらに深い悲しみが訪れてきて、嗤いながら泣いた。まさか自身の裡にこんな感情が秘められていようなんて、さすがの夕莉も気付かなかった。
あれほどまでに白ウサギのことを憎んでいたというのに。
あれほどまでに白ウサギが消えてしまうことを望んでいたというのに。
実際にいなくなってしまってから、心のどこかで寂しさのようなものを感じてしまっている自分がそこにはいた。まるで喜劇のようだった。実際に失ってから、その失ったものの価値を初めて知るのだから。これを愚か者と言わずして何と言うのか?
白ウサギがいなくなって、夕莉が真っ先に感じたものは――空虚感だった。
今までの自分は果たしてなんだったのか。自分がやらなければいけなかったこと、自分がやるべきだったこと、自分がしたかったこと――それが全て無為に還った気がした。
これから自分はどうすればいいのか。
だがそれに答えてくれる存在は、誰もいない。
深い孤独と絶望を感じた。その気の遠くなるような感情の果てに、夕莉は初めて『死』というものを意識した。思考は否応なく「生きていてもしょうがない」と結論を出していた。
「そうだ、生きていてもしょうがない――」
夕莉はここに赴くとき、自分が持ってきた武器の中にサバイバルナイフがあったことを思い出した。それを手に取るため脚に力を込めて、立ち上がった。
まるで幽鬼のようにふらふらとした足取りで、だが十歩も歩かないうちに地に突き立っているサバイバルナイフを見つけると、夕莉はそれを緩慢な動作で引き抜く。
刃に付着している土を払い、その刀身に映る自分のことを見返す。
魂の抜けきった自分の顔が映り込んでいた。生きる意味を失った――世捨て人の顔が。
そこで夕莉は自嘲するように、一度だけ笑った。
そして、夕莉はサバイバルナイフの刃を、自らの頚動脈の部分に押し当てる。
11 : INSOMNIA
11.
――まるで、悪夢のようだ。
夕莉は死の間際に至って、胸中でそんなことを漏らしていた。
こんなときに思い返されるのは、自らの底に封じ込めていたはずの、あの日の記憶だった。
胸の中に去来するそれは、彼女にとって永遠に消し去ることのできない飛びっきりの汚点。ずっと目を逸らし続けてきた記憶が、今の今になって……まるで昨日のことのようにぶり返してきていた。
そうだ、と夕莉は胸の中でつぶやいていた。
あの日――わたしは来巳有栖の名残を殺した。
それはいつかの夏の日のことだった。茹だるような熱気に満ちた日で、その暑さは否応なくこれまで夕莉と有栖が入り浸っていた『王国』にも入り込んできていた。
有栖が白ウサギになった日から、どれだけの月日が過ぎていただろうか。実際にはそれほどの期間は要さなかったような気がする。ただあの衝撃的な事件から、夕莉が白ウサギを殺すまでにはいくつかの変遷があった。そして、それこそが夕莉が殺人に及んだ一番の理由であった。
白ウサギは、初めて夕莉の前に姿を現した日――確かに彼女に向かってこう言った。
『この王国を永遠に不滅のものにしたい』
それがどういう意味だったのか、あの日の夕莉には判断することができなかった。それに、有栖が亡くなったという衝撃の方がよほど大きかったから、夕莉には白ウサギが言った本当の意味が分からなかったのだ。
だけど、時間をかけて思い返してみて――ようやく理解したのだ。あの頃の夕莉は。
「国家の三要素」
それは国家というものが成り立つために必要な三つの要素のことだ。
領域。主権。人民。これらのうち一つでも欠けてしまえば、それは国家と呼ぶことはできない。夕莉と有栖によって作られた『王国』は、小さいながらにそれら全ての要素を持ち合わせていたが、しかしそれは白ウサギにとっては物足りないものだったらしい。
なぜならば、白ウサギは『王国』の発展を望んでいたから。
「そして」
白ウサギの言った発展。その上で最も必要だったのが、そのうちの人民だった。国というものは民がなければ発展することはありえない。数は力なのだ。民がいなければ、最悪、国というものは衰退して滅亡してしまう。
では、どうすれば人民を増やせるか。
白ウサギのとった手段――それは幻想人を増やすことだった。
「あいつは、関係のなかった人たちまで巻き込んだ」
どういう手段を用いて幻想人を増やしたのかは定かではないが、そうやって幻想人と化していく人間を、夕莉は何人か目にした。彼女が何よりも許せなかったのはそれだ。その人間たちはしだいに狂って化け物になっていったのだ。白ウサギはそうやって『王国』の民を増やし、この世に磐石の体制を築こうとしたのだ。
まるで馬鹿げた話だとは思うのだが――それは事実だった。
夕莉は、有栖の意識を引き継ぐだとか何だとか言っておきながら、次第にやりたい放題になっていく白ウサギのことが許せなかった。そのお題目はどうあれ。そして、その白ウサギの馬鹿げた行いを知っている者は、夕莉しかいなかった。だからどうしても解決しようと思うなら、自分自身が動き出すしかなかったのだ。
「白ウサギを殺そう」
そう考えてはいたものの、それを行動に移したのはしばらく経ってからのことだった。
その日、夕莉は自宅にある包丁を持ち出すことに決めた。すでに夏休みに入って学校もなくなった日のことだった。夕莉は包丁を隠し持って、あの『王国』の下へと訪れた。
そこが白ウサギの拠点であることは、すでに夕莉も把握しきっていた。
夕莉は『王国』の中で、熱気に苦しめられながらも、じっと白ウサギの帰りを待った。白ウサギが現れたのは、空が薄暗くなって夕闇が生じるようになった頃だった。
「ん、誰かが立ち入ったような形跡がありますね……」
白ウサギは『王国』に戻ってきてすぐ、いつもの場所に変化があることに気付いた。誰かが立ち入ったという匂いか。それとも本能による気配の察知か――それは夕莉の知るところではないが、とにかく白ウサギは何か異変があることを嗅ぎつけた。
だがその時には、すでに夕莉は押さえ込んでいた気配を発露させて、飛び掛っていた。
包丁で背後から白ウサギのことを突き刺していた――。
「ぎ……ッ!!」
予想外の事態に、白ウサギは声を上げて前のめりに倒れこんだ。それに夕莉は覆いかぶさるような体位を取って、突き刺さった包丁から一度、手を離した。
改めて、逆手になるように包丁を握り締める。
そして、手にした包丁を憎しみのままに白ウサギに突き立てていた――何度も。そう何度も。
穴だらけになった白ウサギの背中から、シャワーのように血が噴き出していた。その時、彼女は初めて幻想人にも赤色の血が流れていることを知った。その血は夕莉にもかかって、身につけていた衣服と顔とを等しく濡らした。
高じすぎた憎しみというものは――意外にも蕩けるように甘美だった。飲み干せないほど黒くどろりとしているのに、なぜか癖になるチョコレートのように甘いのだ。
やがて白ウサギは動かなくなった。それを夕莉は立ち上がって見下ろした。
「…………」
その時、夕莉が感じたのは全ての元凶を殺したという達成感であったと思う。が、次いで湧き上がってきたのは、これからどうすればいいのかという不安であった。白ウサギを殺したのだから、その死体は適切に処理しなければならない。このまま放っておくことによって生じる弊害は、いずれ夕莉自身が起こした事態を大衆の前に曝け出してしまうだろう。
白ウサギの死体を、処理する必要があった。
そのために、夕莉は白ウサギの死体をバラバラにすることにした。その体を包丁によってバラバラに解体して、そこらへんの土の中にでも埋めてしまおう。そうすれば誰の目にも触れることはないではないか。
夕莉は早速、それに取り掛かることにした。
手にした包丁で、白ウサギの腕の付け根に狙いを定めて、そのまま力任せに振り下ろした。一撃では切断できなかった。骨を砕いて部位を切り落とすというのは酷く難儀な作業であった。だが、それを夕莉は炎天下の熱気がこもる『王国』にて、確実に遂行していった。溢れ出した血が床を汚し、かつての場所は見るも無残な解体現場と化していたが、そんなことは意識の埒外であった。
その最後に、夕莉は白ウサギの頭が付いている首下へと刃を叩きつけた。白ウサギの頭部がまるでスイカか何かのようにごろりと転がった。
「は、はは……ははは……」
死体を解体し終えて、そこで夕莉はバラバラになった残骸を目にして、ようやくへたりと腰を下ろした。顔中が汗やら返り血やらに塗れていた。それを腕で拭った。
「……一体、何をやってるんだ、わたしは」
先ほどまでの極限状態による興奮は冷め始めていた。冷静な自意識が戻ってきていた。白ウサギの残骸を目にして、なぜか急に虚しい気持ちになった。重要なことを一つ片付けたというのに。なのに、胸に充満している違和感だけは消えなかった。
その殺人の実感は、すぐには得ることはできなかった。
自分によって作り上げられた惨状を正しく認識できなかったとでも言うのだろうか。だが初めこそ実感は湧かなかったが、それは時間が経つにつれて、じわりじわりと感慨をもたらし――そして夕莉の心を蝕んでいった。
「白ウサギは化け物であって、かつての友人ではない」
そう思い込もうとした時期もあった。だけど、それは半分当たっていて、その半分は外れているのである。幻想人というものは、その者の内面を顕した存在であるのだから、姿かたちは別物であっても、その人物がこの世界に残した形見のようなものであることには、違いないのである。
その人自身が死してなお残した――理想のようなもの。あるいは願い。意志。
そういったものを、夕莉は自らの正しさに乗っ取って粉砕したのだ。消滅させたのである。ということは、この世界に存在していた有栖のなけなしの精神性、最後の一かけらまで完全に壊してしまったということになる。
肉体に死があるというのならば、精神にも死というものは存在するのではないかと思う。そして、夕莉は友人であった者の、まさにその精神の部分を殺したのだ。
バラバラに引き裂いたのである。
その稀有な体験は、夕莉の心の歯車を徐々に軋ませていった。そして、いつの日か重圧となっていた罪悪感に耐えられなくなった時、彼女は幻覚を見るようになっていた。
白ウサギの幻覚――それはつまり、坂下夕莉が行き場のない感情をぶつけるための拠り所として。終わることのない目的の終着点として。また話し相手として。
夕莉は狂うことにしたのだった。
人間という物は、耐えられないストレスを受けたとき、最後の最後では必ず狂ってしまう。でなければ、自分を守ることができないからだ。それは人間の防衛本能なのだ。人間とはかくも弱い存在であり、わずかな逃げ場さえも存在しなければいずれは壊れてしまう。
そして、坂下夕莉にはそれがなかった。だから全ては必然の結果だった。
そう、全ては必然でしかない――。
目的の全てを果たしたとき、自分が『死』を選択するということも。どこにも解釈の余地など存在しない。夕莉は自ら不幸になる道を選び、そしてそれを正確に歩んできただけなのだ。自らの幸福を一番否定していたのが自分自身だったということを、夕莉は今の今になってようやく理解していた。
白ウサギはいなくなった。
ならば、もう現実に帰らなければならない頃合だ――。
「…………」
雨の降りしきる人目のない空き地。
そこで夕莉は無言のまま、首下にサバイバルナイフを突きつけたまま、静かに深呼吸をした。致命傷を負って意識が消えるまでは数秒ほどしかかからない。苦しんでのた打ち回った挙句に死ぬようなことはない。それだけは安心できる。
そして、覚悟を決めて首下でサバイバルナイフを滑らせる――。
「駄目っ……!!」
否。
滑らせようとしたその時だった――突如、意識の外から何者かに叫び声をぶつけられた。ぴたりと動きを止める。聞き覚えのある声だった。だが先ほどまでいた白ウサギのものではない。また自分自身のものでもない。
それは確かに実在している者の声だった。
「駄目だよ……死んじゃったら駄目!!」
夕莉はゆっくりと視線を向けた。その声がクラスメイトである春日部薫子のものであると気付いたとき、彼女は思わず目を見開いてしまっていた。
薫子はこんな夜遅くだというのに、まだ学校の制服を身につけていた。空き地横の道路に傘を持って佇んでいる。そこでようやく思い出す。今日の夜は、飾磨恭二のお通夜だったということに。たぶん、彼女は今その帰りにちょうどここを通りがかってしまったのだろう。
なんて不運――夕莉は心の中でそんな呟きを漏らした。
この世界は、好きなときに自死することさえも認めさせてくれないのか。これでもまだ生きろというのか。やっぱり悪意に満ちている。反吐が出そうになる――。
「い、今ここを通りがかっただけだし、何がなんだか分かんないし、どういう理由でそんなことしてるのかもわかんないけど――坂下さん、早まっちゃ駄目! 今、わたしが行くから……だからじっとしてて! 動かないでよ!?」
「こ、来ないで」
だが歩み寄って来ようとする薫子に向けて、夕莉は震えた声でそう答えていた。首下に突きつけていたサバイバルナイフを、今度は薫子の方へと向けてしまう。
薫子の歩みが、そこで止まった。
「……どうして、そんなこと」
夕莉に向けられたその声は、まるでがらんどうような響きを伴っていた。
「『どうして』……?」
それに夕莉は静かに目を伏せて、それから今一度、薫子の方へと視線を戻して、言う。
「そんなの、急に死にたくなったからに決まってるじゃん」
12 : WORLD'S END SUPERNOVA
12.
「止めないで――薫子さん、わたしは死ぬことにしたんだ。特に理由がないわけじゃないけど、でもわたしが死ねば全てが綺麗に終わるんだ。一件落着(いっけんらくちゃく)。そう、一件落着なんだよ。全部が全部。だから、お願いだから……邪魔はしないでよ」
「そ、そんなことできるわけないじゃん!」
薫子は必死の形相で言い返していた。そりゃそうか、と夕莉は心の奥底でつぶやく。こんな部分で根負けしたら先ほどまでの論理は全て破綻する。
「どうして、そう思うの? わたしが選んだことだよ」
「そんなこと言われても――でもおかしいじゃない。自殺なんて。嫌だよ、わたし……クラスメイトの人が自殺しちゃうなんて……」
「薫子さん、やっぱりあなたは優しい人なんだね」
「あ、ありがとう……でも今はそんなことどうだっていいの。とにかく自殺なんてしないでよ。ほら、そのナイフも引っ込めて。今からわたしが行くんだから。そんな馬鹿なことはやめて」
「それはできない、かな」
夕莉は薫子の言葉をあっさりと拒否した。
「……別に薫子さんを傷つける気はないけどさ、これはわたしの選んだ結末なんだ。誰にもそこに文句をつけることなんてできない。でもわたしが死ぬのを目の前で見るのも不快だろうからさ、今のことは綺麗さっぱり忘れて帰った方がいいと思うよ」
「嫌だよ……そんなことできない」
「わたしは、薫子さんに心の傷を作ってほしくないだけなんだよ?」
「……もし仮に、わたしが今いなくなって――それで坂下さんが自殺したって、わたしが幸せになることなんてないよ。あとであなたが死んだ時のことを思い出したら、たぶん後悔しちゃう。わたしは助けられなかったんだって。だから嫌、首を縦に振るわけにはいかない」
「こう言っちゃなんだけどさ」
夕莉はちょっとだけ毒を込めて、目の前の薫子に向かって言い返した。
「薫子さんって……結構強情だよね」
「……何を言うかと思えば、そんなこと」
「うん。失礼なこと言ったと思う。でも悪気はなかったんだ、ごめん」
「別に不愉快になったわけじゃないよ。……でも、それを言うなら強情なのはお互い様じゃないかな? わたしもいつも思ってたけどさ――坂下さんって悪い意味で人の話を聞かないもの。まるで自分の世界が絶対的とでも言いたい感じ」
「……結構、心にぐさりと来ることを言うね」
「うん。そうかもしれない。でもこればかりは前々から思ってた」
そう言って、それから薫子は静かに溜息を吐いた。なんでこんなところでこんな話をしているんだろうとでも言いたげな感じで。少々、夕莉との会話にも疲れてきたのかもしれない。
「――ねえ、坂下さん。何か辛いことでもあったの?」
「ああ、うん……まあね」
「それがどういうことなのか、わたしに話してみる気はない?」
「それは、好奇心から聞くのかな? もし好奇心からだとしたら――聞かない方がいいと思うよ。きっと胸糞悪くなる。わたしにも聞き終えたときの薫子さんの反応は、なんとなく分かるからね。喋ってすっきりしたい気持ちもあるけど、これは言えない」
「……そう。じゃあ無理には聞かない」
そう言って、薫子は少しだけ顔を伏せたが、すぐにまた元の位置に戻した。
「でも、坂下さんが死んだら、わたしは悲しいな……」
「優しい言葉だね。けど、それって社交辞令みたいなものだよね。わたし、そういう言葉はあんまり好きじゃないんだ」
夕莉がそう返すと、薫子は気分を害したらしく顔を真っ赤にした。
「だ、だったら――勝手にすればいいと思うよ!」
「うん、まさにその通りだと思うんだけどね。けれど、そうやって突き放してもらっても、わたしは意識を改めて生きようなんては思えないんだ。それと付け加えておくけど、あなたはこのまま帰ったら後悔すると思うよ。悪いけども。だって、薫子さんは優しい人だもの」
「……結局、坂下さんはどうしたいのかな? 分からないな、わたしには」
「どうしたいってのは?」
夕莉が静かにそう問い返すと、薫子はゆっくりと口元を動かしてこう言った。
「生きたいの――それとも死にたいの?」
「死にたい」
夕莉はそう即答していた。
「……さっきまでは、そう思ってた。だけど、今はちょっとよく分からなくなった。なぜかは分からないけど、あなたと会話してたら少し決意が薄れてきちゃったのかもしれない。どうすればいいんだろう、実はわたしにもよく分からないや」
「生きてみたら。無責任でぶしつけな結論だけど……それが一番楽だよ」
「生きることは、苦痛だよ」
「確かに」
「でも世間は、薫子さんは死ぬべきではないとわたしに言う。わたしはたまに分からなくなるんだ。生きることが正しいことだってのはよく分かる。それが世間一般で認められる正当な価値観だってことも。でもさ、おかしいよね? いつもは誰もわたしのことなんて気にかけてくれない――それとなく否定され、利用され、いなかったものとして扱われる。なのにようやく決意した時にはタイミング良く現れて、死ぬなだとか生きろだとか言う。本心から言ってくれてるのならすごく嬉しい。だけど、わたしは同じくらい欺瞞ってものが嫌いなんだ。体のいい言葉や、言ってるだけで善人になれるような言葉が、反吐が出るくらいね」
「……うん」
「でもね、なんでだろう――薫子さんのことは嫌いじゃないんだ。素直に嬉しいよ。面倒くさいやつだよね。結局、わたしは寂しくて構ってほしい迷惑な人間なのかもね」
「……わたしも坂下さんのことは嫌じゃないよ。さっきはちょっと怒ったけど」
「迷惑なやつだとは思ってる?」
そう問い返すと、薫子の表情は微妙なものになった。
「ねえ、坂下さん……わたし思うんだけど、あなたは世の中に白黒を付けすぎているんじゃないかな。この世の中はそんなにお花畑みたいなところだとは言わないし、生きてて楽しくないこともいっぱいあると思う。けどさ、同じようにここは地獄じゃないんだよ。ここは簡単には答えを導き出すことができない――灰色の世界なんだよ。たぶんね」
「それは曖昧な言葉で濁せばいいってことなのかな?」
「そうじゃない、とは思うけども……でも答えは単一であっても見方まではそうじゃないと思う。もっと多面的な見方があって然るべきなんだよ。解釈の違いってやつ」
「それはわたしも同意するよ」
夕莉はゆっくりと頷いて、薫子の意見を肯定する。
「けど、わたしには結論が欲しいんだ。即物的であってもいい。解釈の違いはこっちで考える。だから結論が欲しいんだ。……さっきの問いかけの答えが」
「なら、あえて言わせてもらうけど――わたしは坂下さんには、確かに迷惑というか面倒な一面は覚えたよ。けれど、わたしはあなたが嫌いじゃない。むしろ好いているとさえ言えるかもしれない。だって、そうじゃない? 嫌いな人に向かって生きて欲しいなんて思う? ……結論なんてものは、いつもこんなものだよ」
「だったら……もう一つだけ聞かせてくれないかな」
「何?」
そう聞き返してくる薫子に、夕莉はゆっくりと問いかけを口にした。
「あなたがわたしを助けたいと思ったのは――どうして?」
「理由なんて、ないよ」
「嘘だ。そんなわけがない。理由がないはずがないんだ」
「なら、こう答えるしかないね。わたしがそうしたかったから。だって、それ以外に説明できることがある? わたしは極めて個人的な感情に基づいて、あなたには死んでほしくなかった。そこにわたしが不快になりたくないという考えはあったのかもしれないけど、少なくともわたし自身はそう思っていた」
薫子はふぅと溜息を吐いて、それからさっと自らの髪を後ろに流した。
「……もう、終わりにしましょうよ」
「実は」
「……うん?」
「実はね、ずっとその言葉を聞きたかったんだ。最初に謝るよ……面倒くさいやつだって。でも、わたしはその言葉がずっと聞きたかった。その言葉はね、利己的で、もしかすると世間ではすごく印象の悪い言葉なのかもしれないけど――でもそこにはあらゆる論理をねじ伏せる力があって、それでいてその人自身の感情が一番こもってる言葉だから。そうしたかったから。その言葉には、建前も欺瞞もどこにもないから」
「…………」
「……ごめんね、変なこと言って。でも、ありがとう」
そこで夕莉は手からサバイバルナイフを離した。それは重力に従って地に落ちて、空き地の茂みの中に埋没した。夕莉が立ち上がったとき、薫子は訳が分からないような顔をしていた。
「坂下さんって……変わってる」
「そうかもね」
夕莉は平然とそんな言葉を返していた。薫子が少し心配そうな顔になる。
「ねえ……本当に、本当にもう死ぬ気じゃないの?」
「ないよ。なんとなく――本当になんとなくなんだけど、さっきの言葉で生きてみようかなって思った。別に薫子さんのためって言い切るつもりはないよ。でも少なくとも、今のあなたを不快な気持ちにさせたり落ち込ませたりはしたくないって……そう思ったんだ」
「……うん、そっか」
薫子は静かにそう納得するような素振りをみせて、それから再び口を開いた。
「あのさ、坂下さん……別に押し付けるつもりはないんだけどさ。いつか、今日あなたが死のうとしたときのお話を聞かせてくれないかな。なんていうのかな――あなたは自分自身でこれまでのことを解決してみせたけど、やっぱりわたしにはちょっと納得できないところがあるから。だからさ……すぐにとは言わないし、時間がかかってもいいから、いつの日か聞かせて欲しいんだ。あなたがこれまで生きてきた、時間についてのお話を」
「……うん」
夕莉は少し考え込んでしまったが、顔を上げてしっかりと薫子のことを見返しながら言った。
「そうだね、約束するよ。いつの日か、ちゃんと話したいと思ってる」
薫子は先ほどの提案がすんなりと通ってしまったことに逆に驚いているようだった。
「提案したわたしが言うのも難だけどさ……そんな簡単に承諾しちゃっていいの? あんまり人に聞かせたくない話だったんでしょう?」
「……薫子さんは、わたしがナイフを持ってたのに恐れることなく話しかけてくれた。すごく面倒くさいことを言ったのに、それにちゃんと付き合ってくれた。わたしは感謝してるよ。あなたは、わたしにとっての命の恩人だ――だからだよ」
「なんだか……ちょっと照れくさいよ」
「ううん、わたしは本気で言ってるんだよ?」
夕莉は雨に濡れた格好のままで、真面目に薫子のことを見返した。薫子がわずかに気恥ずかしそうに目を逸らしたところで、ふっと薄く微笑みを浮かべてみせる。
「……ありがとう、わたしは家に帰ることにするよ。なんか、今日はすごい疲れちゃった。また明日、学校で会おうよ。いつもどおりの感じでさ」
そう言って、夕莉は薫子の横を通り過ぎていって背中を向けた。
あっ、と夕莉はそこで一つ言い忘れたことを思い出して、呆けたように突っ立っている薫子の方へと振り返る。ちょっとだけ照れくさそうに鼻の頭を人差し指で掻く。
「でも、今日の出来事は――夢だったことにしてくれると嬉しいかな。なんとなく」
「うん、そうする……でも、約束は守ってくれるんでしょ?」
それに夕莉は静かに頷いて、しっかりと返答をした。
「守るよ。いつか絶対に話す――これまでわたしが誰にも打ち明けなかったわたし自身のお話を。もしかしたら作り話のように聞こえるかもしれないけど、でも、やっぱり聞いて欲しいから。これはいつか誰かには聞いてもらわなきゃならない話だと思ってたから」
そう言って、夕莉はもう一度だけ頬を緩めて笑んだ。
これまでになかった晴れやかな表情で。
「少なくとも、わたしは薫子さんという存在に救われたんだ。だから――今日はありがとう」
「……うん、わたしもね」
薫子はちょっと照れくさそうに視線を逸らしていたが、ふいに小さく頷いた。
「なんだか――ちょっとだけ、救われたような気がする」
【エピローグ】
これがわたしの物語だ。
愚直で、捻くれていて、悲観的で、過去に捕らわれていた――わたしだけの物語。
あの話の流れからいけば、わたしはあれからの薫子さんとのことを語るべきなのだろうけれど、そこはあえて後に取っておくことにしよう。
とにかく、わたしは彼女によって自殺を未遂に終わらせて、自らの命を繋ぎ止めることにした。わたしは、自身のことを死んで全てを終わらせた方がいいような破滅的な人間だということを今も疑ってはいないけども、あえて生き恥を曝すのも悪くはないかなという判断を下したのだった。
あの日から、わたしの目の前に白ウサギが現れることはなくなった。
白ウサギはわたし自身が望んだ幻覚であり、わたしが望めばまた姿を現すという可能性もあったのだけど、不思議なことに二度と姿を現したりはしなかった。それは、きっとわたしが後ろ向きながらも少しは前向きな物の考え方をするようになったからかもしれない。
あの日――わたしはたった一つのものを除いて、全てのものを失った。
けれども、あの日を境にして、わたしの目の前から消えていったものも何一つない。まるでおとぎ話のように、わたしの周囲は平穏そのものの環境となった。
ただ――周囲が平穏になったからといって、わたし自身の心境もそうだったわけではない。
薫子さんの望みどおり、わたしは日々を生き続けることに心血を注いでいたけれど、生きることが楽だった日はあまりなかった。わたしはこれまで自分が行ってきた罪の意識に苛まれ、日々を生きるうえで常に葛藤と戦っていた。
どうして、あれほどまで非情なことをしでかした自分がまだ生きているのか――。
否、自分は生きていていいのかと。
別に不思議な話ではないと思う。だって、わたしはこれまでに四人もの人間を殺してきているのだし、順当に考えれば死んでもおかしくない人間だ。これでさっぱり命を終わらせれば、わたしはこの日々の葛藤からも解放されるし、きっとあの世で恨んでいるだろう者たちにも救われる部分はあるだろう。実に理にかなっている。
と、わたしはそう思っているのだけど――自殺に踏み切らないのはひとえに薫子さんのことが気がかりでもあるからだった。きっと彼女は悲しむだろうと分かっていたからだ。それにわたしはまだ約束を果たしてはいなかった。裏切りたくなかったのだ。
……有栖は、わたしのことをどう思っているのだろうか?
もっとも、そんなことを考えたところでどうしようもないのは分かっている。彼女はすでにこの世にはいないのだし、そんなもしやの話は想像したところで無駄だ。わたしはこれまで自分が行ってきた罪を背負い続けることしかできないのかもしれない。
ただ、いつの日かは忘れたけれど、わたしの夢の中に有栖が出てきたことがある。
「あなたは、幸せになるために生きているんだよ」
有栖はわたしが全てを終わらせたことを祝福しつつも、とても悲しそうな顔でそんなことを言っていた。わたしもとても悲しい気分になった。これが現実であれば嬉しい出来事だったのに、それはわたしの脳内で繰り広げられた現象でしかないのだから。
その日は一日中、わたしの人生って何だったんだろうとずっと考えていたような気がする。
結局のところ、救いというものは一時的なものでしかないのかもしれない。
誰かがどん底から引き上げてくれたところで、それからの人生を歩むのは自分自身でしかないのだから。結局のところ何も解決はしていないし、わたしはどうすればいいのかも分からなかった。生きろと言われてもこれからの人生は長すぎる。
でも――そんな状況下でも、薫子さんは学校でわたしに話しかけ続けてくれた。
わたしは薫子さんが良い人だということを微塵も疑ってはいなかったけれど、わたしが過去の話を喋ったらどういう態度を取るだろうかと何度も考えたりした。
一転して罵倒してくるだろうか。それとも引いてしまうだろうか?
わたしたちの友情は、壊れてしまうだろうか。
わたしの覚悟がようやく決まったのは――すでに高校生活も終わりかけた頃のことだった。
「ねえ、薫子さん」
わたしは放課後の誰もいなくなった校舎屋上で、そんな風に彼女に向かって話を切り出した。木枯らしが出始めた秋の日のことだった。
「あの約束の件……すごく今更なんだけど、話しておこうと思って」
そう言って、わたしは驚いたような顔をする彼女に対して、訥々と過去のことを話し始めた。それは長い話で、わたしの小学校時代に有栖という少女がいたところから話さなければならなかったけれど……でもそんな長話にも、彼女はじっと静かに耳を傾けて聴いてくれた。
「……そっか、そういうことだったんだね」
わたしが長話を終えたとき、薫子さんはそう言って静かに鼻をすすっていた。
「薫子さん……?」
「辛かったよね――ずっと誰にも言えなくて、一人で戦ってきて……」
「そんな……違うよ。わたしは自分がしなきゃいけないことをしただけで……それに、それにわたしは色々とやっちゃいけないことをしちゃったんだ。わたしは悪人なんだよ。同情なんて……」
「……ううん、坂下さん、あなたは可哀相(かわいそう)な人だ」
薫子さんはそう言って、今度は自らの目から溢れ出して来た涙を拭っていた。
「確かにあなたはやっちゃいけないことをしたかもしれない。でも、あなたにだって同じくらい人間的な部分がある。わたしはそこに同情せずにはいられないんだよ……だって、あなたはみんなのため、みんなのためだって全てをやってのけたけれど、あなたが幸せになれないんじゃ、それに何の意味があるって言うの? あなただけの幸福が約束されてないなんて、そんなの酷すぎるよ。辛くないわけがないんだ……誰にも感謝されないなんて」
わたしは薫子さんの言っていることが痛いほど分かってはいたけれど、だからといってそう易々と首肯するわけにはいかなかった。
だって、わたしは紛うことなき罪人で――幸せになってはいけない人間なのだから。
「……でも、わたしが望んでやったことだよ」
そう俯きながら答えたとき、薫子さんは横から強い語調で言葉を割り込ませていた。
「違うよ! それは違う……」
その言葉にわたしはびっくりして、驚いて薫子さんのことを見返していた。
「あなたは、幸せになるために生きているんだよ!? 違う? そうじゃない? だって……みんなそうなんだよ。みんな、その結末はどうあれ幸せに向かって生きてたんだよ! だから、せめてその時の自分を受け入れてあげてよ。認めてあげてよ」
薫子さんは両目から涙を流しながら、わたしに向かってそう訴えていた。
「物事の合理性しか測れなくなったら――それはもう人間じゃないんだよ。人間である必要がないんだよ。確かにわたしたちは理性だとか論理性に重きを置いて暮らしているのかもしれない。けれど、そんなものは所詮は道具でしかないんだよ? その根底にある感情まで否定しちゃったら……それはもう人間である必要なんてどこにもないんだ」
「…………」
「わたしたちは人間だよ。そして、わたしたちには等しく幸せになる権利がある。たとえ幸せでなくても、幸せになるために足掻き続けられる権利が」
「……ねえ、薫子さん」
強く断言する彼女に向かって、わたしはそんな風に力ない声で呼びかけていた。
なぜだか急に目頭の辺りが熱くなるのを感じた。これまでずっと心の中で塞き止めていたはずの何かが、決壊してしまったような気がした。涙が溢れてくる――そう思って顔を伏せようと思ったときには、すでにわたしの顔からは熱い何かが零れ落ちてしまっていた。
それでも、わたしは言葉を紡がねばならなかった。
「わたしは……わたしは、幸せになってもいいのかな?」
まるで幼き日の頃のように、わたしはみっともなく感情を露にして、泣いてしまっていた。
先ほどまで泣いていた薫子が、目を赤くしながら、でもふいに目元を拭って、笑う。
「いいんだよ――幸せになっても」
*
この物語を語り終える前に、最後に一つだけ付け加えておこう。
結局のところ、救いというものは一時的なものでしかない――のかもしれない。
誰かがどん底から引き上げてくれたところで、それからの人生を歩むのは自分自身でしかないのだから当然のことだ。けれども、わたしはその日を境に少しだけ認識を改めることにした。この世界には絶望と等しく救いというものが存在している。そして、救いというものは、たぶん人と触れ合うことでしか手に入れることのできない、そんな尊いものだということを。
人は誰かに愛を分け与えることで――少しだけ誰かから愛を分け与えて貰っている。
自分自身の罪を許すことができるのは、神でも他者でも何でもなく、最終的には自分自身だけなのかもしれない。けれど……それを成し遂げるためには、たぶん同じくらい誰かの愛というものが必要なのではないだろうか。
結局、人というものはどこかで他者による承認を求めているのだろう。だから、たぶん人という生き物は一人では生きられない。そういうことなんじゃないかと思う。
では、わたしはこの物語を語り終えることにしよう。
これがわたしの物語――。
そう、これがわたしの生きてきた時間の、物語。
(完)
少女はいびつな愛を謳う
元はもっとライトな作風で書くはずの作品だったのですが、紆余屈折あってこのような重め作品になってしまいました。
読んでくださった方は本当にありがとうございます。