二重生活
1.
誰もいない部屋の片隅で、小さな少女が小さく蹲っている。部屋の中には人形やぬいぐるみが溢れていて、だけど、可哀相に泣いている。
「お兄ちゃん、触っちゃだめって言ったでしょ」
女の子が言った。まだ十歳にもならない女の子。真っ白な服を着ている。そこに、まだあどけない少年がいる。まだ小学生なのだろうか。彼は少女の横に寝そべっていて、胸を触ってくる。
「やめて、お兄ちゃん」
彼はさらに、少女の股に手をかける。そうして、服の中まで手を入れる。
「やめないなら、あたしもさわる」
そうして少女も、彼の股を触った。少女は笑っている。彼が言った。
「僕のこと好きか?」
女の子ははにかみながらうなづいた。そうして、彼は、こう言った。
「僕もだよ、"カエデ"」
それは、私の名前。その瞬間、私の視界は少女に入って、私の手は彼の下半身を触っていて、股の中へ彼の手が入っている。どうしてうごかない、私の身体。
いや、いやだよ、やめてよ、ねぇ
なのに私の体は意に反して、淫らに動き続ける。
ねぇ、なんだよこれ、なんであたし、触ってるの、なんであたし、
ワラッテルノ?
「いやああああああああああああっ」
――気づくと、もう時刻は朝になっていて、外は薄明るくなっていた。私は息切れを起こしていて、はぁ、はぁ、と過呼吸のように何度も繰り返していた。ベッドの隣、右側に出窓があって、そこに置いてある手鏡で何度も自分の顔を覗き込む。週に一度はそんな夢を見る。そうして、こんな夢を見た日には、決まって目の周りが濡れていて、気分が悪い。外は真っ暗で、寝静まった家の中を、静かに歩く。鏡の前で顔を洗い、自分の顔を見る。見るたびに憂鬱になる。男は決まって私を可愛い可愛いと、吐き気がするくらいに言うけれど、鏡に映る私の顔は、母親の顔にそっくりなのだ。眼鏡をかけて、右目の上をヘアピンで留め、セミロングの髪をゴムで一つ縛りにする。お弁当を作り、服を着替え、まだ暗い道を自転車で駆ける。二月のまだ薄暗い時間に電車に乗る。時刻は、まだ六時半。
電車は六時四十一分に出る。この路線の、三つしかない有人駅の一つ。毎日、同じ場所、同じ車両人で埋め尽くされた電車に乗る。私は決まって、先頭車両の一番前の、開かない方の扉へ身体を寄りかけ、徐に携帯を取り出す。電車の席は空いているが、座らない。そうして、何かをしているフリをする。そんなとき、周りの人たちが不思議になる。誰を見ても、携帯を手にして、画面を見ている。何をそんなに見ているのだろうか。六時四十八分、マスクをかけた、黒いコートに黒い手袋、黒いマフラーの男が向かいの扉に立ち、男がちらちら見てくる。知っている、私を見ているんだ。毎朝毎朝、同じことの繰り返し。だから私は一瞥をくれて、"わざと"嫌そうなふりをする。じろじろ見てくる男がいれば女は嫌がるものだろうから。
それから、三十分くらい、携帯電話に向かって、暇つぶしをする。手当たり次第、携帯小説の冒頭だけ読んでみるが、どれも面白くない。その繰り返し。だけど、勉強する気にはならない。頭がいいと思われるのがイヤなのだ。私が着ている制服は、この辺りでは進学校の目印だけれど、本当は大した学校ではない。国立大学に行ったくらいで凄い凄いと騒ぎ立てる。イカれてる。それでいいのなら、私は一秒だって勉強なんかしない。
誰も降りない無人駅を、二十分ばかり進むと、二つ目の有人駅に着く。時刻は、六時五十八分、私と同じ制服を着た女が電車に乗ってくる。
「おはよ」
前髪の右側をヘアピンで留めている女。名前は真穂。そうして、くだらない話を始める。
「ねえ、今日変な夢みたんだ」「あの担任、どうかと思わない?」「でさぁ、聞いてるの、ねえ」
頭はそんなにいいわけじゃない。いつも聞いてきて、私が教えてあげている。
「楓はいいよね、数学ができて」
だけど、私にとって、そんなことはどうでもいい。いや寧ろ、馬鹿に生まれたかった。そうだったら、どんなにか幸せだったことか。"だから"笑って私は言う。
「そんなことないよ」
頭がいいって言ったって、私は勉強なんて碌にしたことはない。限度がある。だけど私は、努力しているはずのこの子よりも成績だけはいい。
「それに、美人で素敵な彼氏もいるなんて、ほんと、いいなぁって思う」
美人じゃない。仮にそうだとしても、それが母親の顔に似ているからだ、などという理由ならば、嗚咽がするだけだ。それに彼氏は、もう数えて五人目だ。私は自分の顔が大嫌いだが、男はみんな私の顔目当てに寄ってくる。適当な理由を付け加えるにせよ、初めの理由はそれだ。
誰も私のことなんて見ていない。
なんて返事をしようか。私なんて美人じゃない、そう本音を言うとしかめ面をされるだけだから、仕方なく、
「真穂だって可愛いよ、それに、湊君とは付き合ってるわけじゃない、ただ彼が似てただけ」
そう言った。嘘ではなかった。美人とはいえなくても、十分可愛らしい面持ちなのは事実だった。真哺は私を不思議そうな顔で見る。何に似てるの、とでも言いたげに。私は続けて言った。
「それに、湊君、そんなに素敵かな」
すると真穂は、
「楓は贅沢すぎるよ、あんなカッコよくて優しくて頭もよくて、どこか不満なところでもあるの?」
でも湊君は優しすぎる。私を自由にしておけない。あの人はいつも、私を監視している。そんな気がする。
「そうだよね」
心にも無いことを繰り返した。だけどこの一連の会話、彼女と話すのは何度目だろう。どうして同じコトを何度もいって、言い飽きないのだろう。それでも不思議なことに、一度始めた会話は滅多に途切れない。ふと窓の外を見ると、駅の前の大きな川が見えた。電車の電光パネルに次の駅の名前が表示される。それが、私たちの降りる駅。
私は真っ先に駅を抜けようとする。込み合う自動開札が煩わしく、電車の先頭から真っ先に降りて、自動開札まで足早に行く。真穂はいつも、そんな私に遅れまいと少し小走りになりながらついてくる。自覚は無いが、私の歩みは速いらしい。
「ちょっと歩くの速すぎるよ、まるで逃げてるみたい」
ニゲテルミタイ?
何から――?
騒がしい世界から、一瞬、音が消えてなくなる。
「どうしたの?」
真穂の声に、はっとする。人々の歩く音、話している声、電車の走る音、車掌の鳴らす笛の音、いろんな音の中に私はいて、さっきのことを口に出そうとしたが、飲み込んだ。高校まで、歩いて十分くらいだった。その間、私は気が楽だ。私から何を言うまでもなく、真穂は私に一方的に話しかける。だから私は話すことを考えずに済む。だけど時々、答えにくい質問をされると、私は密かにたじろぐ。
「ねぇ、どう思う、クラスの人たち、模試で合計八割切ったくらいでサイアクだとかいってんだよ、そしたらうちはなんなのって」
私は苦労しなくてもそれくらい取れる。普通に学校で勉強していれば、難しいことじゃない。場所さえ選ばなければ、国立大学の医学部にも入れる、先生にはそう言われた。だから勉強しろ、そう言いたいのだろうが。だけど、そんなことを言うわけにもいかず、私は決まってただこう言う。
「程度は人それぞれだよ」
その言葉が何の解決にもならないと知りながら。そう言う度に、彼女が傷つくのを知っている。
そうして高校に着く。だいたいいつも七時三十分ごろ。それから、教室へ入る。私の席は入り口の直ぐ近く。だけどそれには理由がある。私が担任に頼んだのだ。"あの人たち"の近くはいやだと。学校での私の立場は微妙で、真穂のように私を(迷惑にも)尊敬する人もいれば、私のことを妬んだり、或いは話の合わない仲間はずれとして扱いたがる人もいる。テストのたびにわざとらしく、今日の調子はどう、と言ってくる人もいれば、着替えのたびに、スタイルいいね、と嫌味に言ってくる人もいる。授業の時にしろ同じだ。普段はそんなことはないのに、研究授業で英語をやったときには、わざとらしく当てられた。私なら間違えずに答えられるとでも思ったのだろうか。そんなに自分の見栄を張りたいのだろうか。私の横に座っていた馬鹿な男は、小声で「さすがだね」と言ってきた。あまりにも煩わしくて、優等生だと見られるのが嫌で、黒板には不正解を書いた。間違えやすい英訳問題らしかったが、典型的な誤りを書き殴った。教師は私がわざと間違えたことに気づいたのか気づかないのか、さっさと訂正して、すぐに私の回答は用済みとなった。
だけど基本的には、結局私は優等生としてしか見られていなくて、おかげで私の周りの"友人"達はとても質のいい人たちが自然と集まってきた。この人たちは、私を善人だと思っている。私にとっては友人なんてどうでもよかった。だけど、たった二つの理由のために、一切拒まなかった。一つは体裁。独りぼっちには慣れているけれど、だからそれが認められるわけじゃない。それを紛らわすためには、どうしても友人として確保しておく必要があった。もう一つは、自分で考えても馬鹿げた理由。お昼の教室の騒音に耐え切れなくて、私達三人は誰もいない学校の五階、最上階の階段の横に座り込んで食べることにしている。私と真穂と、可憐という女。可憐は事業の社長令嬢で、私よりも頭がよくて、東大を目指している。けれど、私の何十倍も勉強している。真穂もそのことを知っているから、可憐のことは妬まない。彼女達と話すのは楽しかった。どうせ教室にいても、男子は騒がしく笑い叫んでいて、女子はグループでまとまって誰かの悪口で盛り上げっている。だけど私も、余った男子を尻目に、女だという可笑しな特権で抜け出す私。こんなときだけ、女でよかった、そう思う。男だったら、三人で話しながら食べようなんて、そんな発想自体出てこないだろうから。
ねえ楓、ねえ、
「楓!」
その声で我に選った。私の悪い癖で、よくこうやって、白昼夢に陥ってしまう。いつも自分の目の前の風景を、自分でない誰かが見ているように感じてしまう。自分の体にすら違和感がある。私は言った。
「あ、ごめん、何」
可憐が言った。
「ねぇ、機嫌悪そうだけど、どうかしたの」
私は嘘をつく。
「いや、なんでもないよ」
可憐は、私の機嫌をさらに損ねることを言う。
「ねぇ、楓ってバイオリンまだ習ってるのよね」
「そうだけど?」
怪訝な面持ちで見つめ返すと、こう切り替えされた。
「この学校に弦楽同好会ってあるの知ってる? 私、そこでチェロやってるの」
「知ってるよ、でも入る気は無い」
「なんで? もったいないよ、楓すごく上手なんでしょ? それに、部活に入ってほしいんじゃなくて、今度の大会に参加してほしいの。弦が少し足りなくて、いるにはいるんだけどまだ始めたばかりであんまりうまく弾けないの」
私は望んでやっているわけじゃない。それに昔から、すごく嫌だった。
「でも持ってくるの面倒だし」
真穂があわてて会話に絡んでくる。
「そうだよね、吹奏楽にも自分で持ってくる人いるけど、トランペットの人とか、けっこう持ち運び大変そうだよ」
そうなのか? 私はよく知らないが。少なくとも真穂は、私の機嫌が悪くなるのを怖がっているようだった。事実私は必死だった。話題をそらしたかった。私は言った。
「ねぇ、吹奏楽ってどんなところが楽しいの?」
「えっ、やっぱり、みんなで音楽を作っていくからかな。そんな、何が楽しいなんて考えたことなかったよ」
みんな、か。
「そうなんだ」
"また"会話にいきづまる。私の気まずさを理解したのか、真穂が空気を断ち切って言った。
「ね、次の科目なんだっけ?」
可憐が言った。
「えっと、世界史か地理だけど」
私の次の科目は物理だった。彼女らは文系。私は理系。二人は文系の同じクラスだけれど、私は別。またあの中に混じって授業を受ける。憂鬱だ。私は物理なんて好きじゃない。できれば二人と同じ文系に進みたかった。私だって本当は――
「あたしだって」
そう言いかけると、頭の中で、去年の冬のことが生々と蘇った。
「ほんとにどうしたの、楓。なんかおかしいよ?」
真穂が私に話しかけている。可憐も私の方を見ている。
「ううん、なんでもない。それより、ごめん。ちょっと用事思い出しちゃった。だから先に抜けていい?」
返事も聞かずに、私はその場を立ち去って、トイレの個室へ行って、いつものように吐いた。
2.
放課後のクラスで男達の罵声。
「正直さぁ、企業の合同説明会なんかに来てる時点でもう駄目だろ」
「っていうか、たいして学歴もないから就職できないんだろ」
そうして、アハハハと笑い散らす。ここにいるだけで頭が痛くなる。私がこの学校に入ったのは、いままでと変わりたかったからだった。頭のいい集団に混じれば、きっと今までのような無駄な苦悩を感じることもないと思った。そんな幻想、一日で打ち砕かれた。実際には、頭がいいということだけで褒め散らされた、心の幼いお子様ばかり。一年前、まだ新品の制服に身を纏った私は、自分が世間知らずな子供に過ぎないと、唇をかみしめた。
「知ってる? 楓の行った高校って、変人の集まりって、うちらの高校だと言われてるんだよ」
加奈は笑いながら、そう言った。彼女は中学生のときの同級生。帰りの電車の中でたまたま会った。あれ、かえでだよね、ほら、うちだよ、かなだよ、そう口早に話しかけてきた。加奈は言った。
「でも久しぶりだよね、前にあったのいつだっけ」
「二ヶ月くらい前。だけど、話すのは一年ぶりくらいだよ」
「あっそうか。確か、楓がメール読んでて、『それ、誰の? ひょっとして彼氏から?』ってうちが言って、楓が、そうだって」
相変わらずの饒舌だった。
「でも、もう別れたんだ。それに、あたしが中学のころから彼氏を何人もつくってたの知ってるでしょ」
「うん、だけど、なんだかあのときの楓、いままでと違ったから」
えっ?
「違ったって?」
「いや、だって、うれしそうだったから」
意外だった。私は黙って彼女の話を聞いた。
「中学の時の楓はなんだか、いつもつまらなそうで、特に彼氏と一緒にいるときとか、傍から見てるとほんとに死んだような目をしてたのに」
「――あたし、そんな風に見えてたんだ」
私が辛そうな顔でもしたのか、加奈は突然、話題を変えて、笑いながら言った。
「知ってる? 楓の行った高校って、変人の集まりって、うちらの高校だと言われてるんだよ」
それで、彼女に前に会った時のことを鮮明に思い出した。
「それ、前会った時も言ってたよね」
私は言った。だけど、あのときはわからなかった。それがどういう意味なのか。今なら、彼女の言っていた意味は嫌なほどわかる。この毎日がイヤでイヤでたまらなくて――
「ごめん」
加奈が言った。
「えっ、なんで?」
「楓の顔、怖かったから」
私は、作り笑いをして言う。
「ううん、ちょっと思い出しちゃって、別に気にしないで」
加奈が言った。
「そう言えば、佐藤さんって人とはどうなの?」
「さとう?」
一瞬、誰のことかわからなかった。加奈が言った。
「なんか楓に本を渡してくれたって言ってた人だよ」
「あっ」
そういえば、そんな人がいたっけ。私は言った。
「別のクラスになっちゃって、それから話してないんだ」
「でも、仲良かった人なんでしょ?」
そういえばそうだったっけ。私は言った。
「加奈だって、今日あたしに会うまで、あたしのこと忘れてたでしょ。きっとそんなもんなんだよ」
「忘れないよ、だって、楓は羨ましいから」
すると、加奈の顔が暗くなる。
「どうしたの、加奈?」
「実はね、高校入ってから成績よくないんだ、この前だって、下から数えて十番とかでさ、どうしたらいいのかわからなくて、楓は頭いいからそんなことないんだろうけどさ」
「そんなこと――」
嘘だった。この前の試験は、上から九番だった。全く勉強してなかったのに。自分の存在自体が申し訳なく感じて、表情に出てしまったのか、今度は加奈が無理笑いする。
「なんて、ごめんね、別にうちが頭悪いなんて元々知ってるからさ」
かける言葉が思いつかなかった。だけど、私の苦しみを理解してほしいとは思えなかった。
家へ帰って、制服を着替えて下に行き、食事をする。
冷めたご飯が置いてあった。今には父が一人でいた。母がどうしているかなんて聞かなくてもわかる。どうせ自分の部屋でテレビでも見ているのだ。
私は机の上の食べ物をレンジに入れた。レンジが止まるまでの一分の間、私は父に聞いた。
「ねぇ、あの部屋、本当は誰のために作ったの、この家、十五年前に建てたんだよね」
父は言った。
「まぁ、色々あってね」
「私の弟のための部屋でしょ」
父は表情を険しくして言った。
「知っていたのか」
「はっきり覚えているよ、私が小さい頃お母さんのお腹には赤ちゃんがいたもの」
隠し切れないと思ったのだろうか。父は自白した。
「ああ、そうだよ。あの部屋は、流産したお前の弟のための部屋だったんだよ、でもお母さん、お前を産んでから子供を産めない体質になってしまってね」
やっぱりそうだったか。その言葉を聞いて、私の過去の全てに、明日からの全ての計画に、納得した。
途中で、母が言った。
「ねえ、あんたのじゃないジャージ入ってたよ」
洗濯物を干そうとした時に気づいたらしい。
「そんなバカな」
私はそう呟いて見に行くと、確かに私のジャージではなかった。名前は大島―― だけど、クラスの別の人、大島真実子のものだった。私に嫌味を言ってくる女たちの一人のものだった。間違えて入れたのか? だけど、私の席はクラスの入口、彼女の席はクラスの一番奥、どう考えても間違えようがない。なんだかいやな気持になりながら、私は仕方なくその人の家に電話をした。
「ただいま留守にしております――」
助かった、そう思って、私は何の感情も込めずに一方的に言った。
「大島楓です、真実子さんのジャージを間違えて持って帰ってしまったみたいですので、明日お返しします。すみませんでした」
受話器を置いて、一人舌を鳴らす。悔しい。そうして風呂に入った。夢うつつに、今日のことが蘇る。
――トイレから出た時、目の前に眼鏡をかけた馬面の女、三上が言った。前からこの女には嫌がらせをされていた。学校に入ってすぐ、一年生の四月から。だけど、今日のは特にひどかった。
「ねぇ、大島さん、あなたって"ぼっち"だよね、ほんとに」
「友達は、いるよ」
「真穂ちゃんとか可憐ちゃんのこと? あの人たちが友達だと思ってるんだぁ?」
「何がおかしい」
「知ってるんだよ、あんたってさぁ、友達と遊びに行ったことすらないんでしょ?」
「あるよ」
「たった三回でしょ、しかも"憐れみ"で入れてもらっただけってわかってんでしょ。そんなの友達っていうとでも思って――」
「誰に聞いた」
私は三上に掴みかかる。その時、手帳のことを思い出した。二か月前に失くした手帳、見つかりこそしたが、誰が見つけたのかも分からず、机の上に不気味に置いてあった。
「へぇ、力づくでわたしに勝てるだなんて思ってないよねぇ?」
「若林に聞いたのか」
手帳が盗まれるさらに前、私が少し用事に教室の外に出た時、はっとした。手帳を持っていなかった。それで教室に取りに戻ると、案の定、私の机の上で若林が見ていた。私の姿を見た瞬間に、机の下に手帳を落とし、知らないふりをした。だが三上は言う。
「は? そんなの知らねえよ」
そんなはずはない。だけど、こいつと若林には何の関係もないのも事実だった。
「じゃあ誰に聞いた」
「てかさぁ、うちに勝てるとか思うなよ、つーかさわんな、キモいんだよ」
私は三上の眼鏡を弾き飛ばした。私を一瞥してにやりと笑い、
「あーあ。ねぇ、うちの眼鏡、どうしてくれんの」
どうもなっていなかった。それに、仮に壊れていたとして、なんだという。
「誰に聞いた」
腕を思いっきり掴んでやった。彼女は薄気味悪く笑って、
「あんたさぁ、みんなからなんて言われてるか知ってんの? てかさぁ、キモいから、手、離してよ」
私は睨みつけてやった。三上は冷笑しながら、ただ一言。
「ウける」
ふと周りを見ると、みんな私を見ていて、私が目線を合わせたのに気づいて眼をそらした。知らないふり、か。そうして、三上が外へ出ると、何人かとにたにたと談笑して、歩き去って行った。
私は何度も心の中で繰り返した。
おまえなんか死ねばいい。
答えは、案外すぐに分かった。
昼間、早めに昼食を終えて、田中先生に呼ばれて音楽室の一室、先生が準備するための部屋に行った。用事は大体わかってた。さっき、楓が言っていたことだろう。女の先生で、音楽の先生を兼ねていて、可憐の部活の顧問をやっていた。
「ねえ、今度の総文祭でね、私の部活の子たちが出るんだけど、ちょっと応援してほしいのよ」
「つまり、弾け、ということですか」
「バイオリン、三歳のころから習ってるんなら得意でしょ?」
「先生が弾いたらいいじゃないですか。先生もお上手なんですから」
「私が生徒の大会に出るわけにいかないじゃない、それに私より楓ちゃん上手でしょ? 中学生から始めた私にとっては羨ましいくらい。それに、このあたりじゃあんまり弦をやってる人いないから――」
こんな特殊な楽器をやっているせいで奇異な目で見られるのがすごく嫌だった。
「……先生はピアノも弾けるじゃないですか」
それに、昔から、ピアノが弾ける人が羨ましくて羨ましくて、仕方がなかった。
「えっ?」
先生は驚いたように言った。というよりも、多分はっきりと聞き取れなかったのだろう。
「いえ、なんでもないです。とにかく、私はいやです」
「まあ、ゆっくり考えてよ」
「はぁ」
あきれたようにそう言って、頭を下げて、音楽室から出た。帰りの廊下で、ふと遠くを見てみた。一階の食堂に、三上がいた。佐藤もいっしょだった。もう一人知らない人がいて、テーブルにお互いの顔が見えるように、三人が座っていて、笑いながら話していた。
そうか、あいつが教えてたのか。
すべてのつじつまが自分の中で合った。
何、信じてたんだよ、人なんて信じるもんじゃないなんて、とっくにわかってたことじゃないか。だけどなんだか悲しくて、自分で自分のことを笑ってみた。
「ハハハハ……」
滑稽でしかなかった、こんな姿。こんなとき、いつも自分を外から見てるこの冷静さが憎らしく思う。こんな風に"見て"しまう自分が、嫌になる。いつからだろう、こんな癖がついたのは。
風呂から上がって、着替えてそのまま部屋へ行く。居間には戻らなくて、このまま朝まで部屋にいる。毎日そう。だけど今日は、白い服を探さなければならなかった。
ベージュ色のロングスカートと、同じ色のカーディガンを鞄に詰める。そうして、すぐに明かりを消した。さっさと明日になってほしかった。目を瞑って、ベッドの中で、何度も考えた。私、こんどこそ幸せになれるんだろうか。ありのままの私を受け入れてもらえれば、幸せになれるのだろうか。わからない。でも、やろう。そんなことを考えているうちに、世界は暗転した。
この闇が、一度でも自分の手にとれたら、あたしは何を望むのだろう――
3.
何の夢も見ずに、朝に目が覚めた。もう母が起きているらしかった。玄関には弁当箱が置いてあった。私は言った。
「自分でやるって言ったでしょ」
「これぐらい私にさせなさい」
「"だから"、いいって言ってるんでしょ」
母は答えなかった。私は黙って家を出た。
「おはよう」
いつもと同じように、明るい笑顔で真穂が言った。だけどこの日は、私にとってはいつもと違う日だった。私の左手には、白い手提げ鞄。真実子のジャージと、それから、ベージュ色の長いスカートと、赤いフード付きのカーディガンが入っている。
「真穂、なんだか嬉しそうだけど、どうしたの?」
「実はね、お母さんが退院できることになって」
表情が、私の顔から消えていくのがわかった。
「この前も話したけど、お母さんがこの前倒れて、病院に行ったら重度の貧血だって言われて、このままじゃ危ないって言われてたからうれしくて、この一カ月ずっと入院してたから」
真穂が私を見て言った。
「ねぇ、楓、大丈夫」
「何が」
とっさに聞き返した。
「だって、すごく深刻な顔してたよ」
我に返ると、私は真穂を見て、裏腹に言った。
「ああ、ちょっと気分が悪いの」
今、私が何を考えていたかわかるか。わたしは心の底から笑えない。嬉しいことがあれば、気分が高まるけれど、それと同時に一つの言葉が頭の中に響く。
ウマナケレバヨカッタ
激しい頭痛や気持ちの悪さも、この言葉と同時に私に襲い掛かってくる。誰にも言ったことはない。あの人たちの前では、私は優等生でしかない。
「ねぇ、それ、風邪とかじゃないの、大丈夫?」
「どうだろう?」
違うよ。
「まぁ、楓なら大丈夫だよ、何(なん)だってうちよりもできるんだし」
"できる"って、一体何のことだ。成績のことか。楽器のことか。私は今、ずっとお前に嫉妬していたんだ。そうやって何も考えずに笑えるお前を、母親のことで喜べるお前を、私が小さいころから欲しくて欲しくて堪らなかったものを初めから持っているお前を心の底から。
朝、学校に行くと、真実子はなぜか取りに来ない。担任に訪ねた。
「真実子はまだ来ませんか」
疑問に思った担任は何を察したのか、
「預かってやろうか」
そう言いだした。私は言葉に甘えた。そうして、この日もいつもと同じ一日。受けてるのか受けてないのかわからないような授業を受けて、三人で昼食を食べる。私は会話を遮るように言った。
「ねぇ、三上っていつもあんななの?」
あんななの、って言って、どういう反応をするのか見たかった。特に、三上と可憐は同じクラスだったから。可憐が言った。
「ああ、三上ね。まぁ、ああいう子いるよね、クラスに一人くらいはね」
私のことを知ってか知らずか、後ろめたそうに言った。
「あたし、たまに可憐が羨ましくなるんだ」
不思議そうに私を見た。
「だって可憐はさ、法学部目指してるんだよね」
「うん、そうだけど?」
「弁護士になりたいから、だよね」
「うん、だってそれが昔からの夢だから」
夢、か。
「あたしはさ、ないんだ、そういうの。高校だって、みんなに入れって言われて、気づいたらここにいた。そんなの変だよね」
言いながら、しまった、と思った。だから必死に口を笑わせて言った。作り笑い。だけど、可憐と真穂の顔も、口は笑っているのに目が死んでいる。きっと、私がそういう顔をしているのだ。
「ごめん、ちょっと用事があるから」
嘘だった。そう言って、私は一階の図書館へ行った。いや、また"逃げた"だけか。入口の近くに置いてある大きなテーブルの上に新聞が六つ置いてある。新聞の一面を流し読むと、記事はすべてバラバラ。昨日は大した事件がなかったのか。可愛そうな日だな。誰もが覚えている日もあれば、誰も覚えていない日もある。昔からつけてきた日記も、何も書いていない日がほとんど。何も書いていない日に私が何をしていたか、わからない。まるで私がその時間に存在していなかったかのように。その時私は何をしていたんだろう。やっぱり今のように、逃げるように生きてたんだろうか。
キンコンカンコーン
チャイムの音がした。あと五分で授業が始まる。しかたなく、授業をして、もう帰りの時刻。なんだか最近、一日が異常に速い。というよりは、きっと私が、死んだように生きているのだ。最後の授業が終わって、掃除から戻ると、教室の外から、騒がしい声々が聞こえてくる。馬鹿な男子たちと、嫌味な女子たちの笑い声であふれていて、気が狂いそうになる。男たちは男たちで、馬鹿騒ぎをしている。その中から、はっきりと聞こえた女の声。クラスメイトの若林優の声だった。
「せっかくあの子のジャージ盗んで大島の鞄に入れたのに、なんでバレたわけ?」
「担任が聞いたんじゃない、だって、大島が自分から言ったりしないでしょ」
「ちっ、あの担任、普段からウザいのに」
そこでドアを開けた。クラスの奥の方に座っていた彼女らは案の定私を一瞬ギョっとして見て、すぐに今までのことがなかったかのように会話を始めた。私は逃げるようにしてコートを羽織って鞄を背負って帰ろうとした。そのまますぐに、トイレに行った。個室の中に入って鍵をかけて、そのまま蓋のしまった便器に座り込んだ。はぁ、と深い息を吐く。なんでみんな、あんなところで生きていられるのだろう。近くの個室から水の音、だけど全部擬音。便器の右手の方に、音姫。これがマナー?これがエチケット? そうして、私はまた吐いてしまう。
「うぇっ」
そうして、自分の喘ぎ声が聞こえてくる。はぁ、はぁ、という息の中、私はやっとつぶやいた。
「ばからしい」
思わず、小声に出して言ってしまった。だけど、こんな世界、間違っている。毎日、一日が早く終わってほしい、そう願って生きている。いつからそんな人間になってしまったのか。今だってこんなところで隠れているなんて、惨めにしか見えない。だけど、彼女らにとって、私を辱めることは、そんなくだらない話と同じなのだ。あんなやつらに認められたいなんて思わない。だけど、なんだかやるせない。そうして私は何をするわけでもなく、階段を下って、図書館に行く。家に帰るのもいやで、だけど教室なんてまっぴらだから、図書館で暇をつぶした。いつもそう。できるだけ奥のほう、誰もいないところで、勉強していた。クラスの人たちに見られるのも嫌だったし、三上達に会うのはどうしても避けたかった。
――あんたさぁ、みんなからなんて言われてるか知ってんの?
だったらなんだ、何が悪い。私は私を貫いて生きている。お前たちみたいに、ころころ態度を変えるのは嫌いなんだ。左手に握ったペンを机に叩きつけた。シャーペンの先の芯が折れて、鈍い音とともに飛び散った。そうして、急になんだか身体が重くなって、眼を瞑った。いま目を瞑ったら眠ってしまう。でも、なんだかこの眠気が愛しくて、なんだか眠気に襲われるのは、恋に溺れるみたいだと思って、眼を閉じた。
4.
「じゃあ何で理系にしたんだ」
斜光の差す教室で、担任に言われた。この日は二者懇談だった。希望があれば親も含めて行うことになっていたが、私は何も伝えなかった。そして答えた。
「就職に有利かと思って。看護学科は理系ですよね」
親にそう言われたのだ。担任は質問を変えた。
「じゃあ、大島はどこの大学を考えているんだ」
私は一番最寄りの国立大学の名前を言った。すると、目を険しくして、私を見つめた、まるで私が何か悪い罪でも犯したかのように。
「あいにくですけど、先生、あたし、家から出られないんですよ。行けるのは県内の大学だけなんです」
「親御さんがそうおっしゃるのか」
「ええ、まぁ」
「いや、しかしなぁ――、じゃあなんでこの高校に入ったんだ」
どこに行こうが私の自由じゃないか。そう思ったが、私は目をそらした。担任は言った。
「とにかく、文理の選択の期限は来週までだから、それまでにもう一度考えなさい。俺はな、大島のことを考えて言ってるんだ」
結構です、という言葉を無理やり飲み込んだ。教室を出たとき、既に外は薄暗くなっていた。それから私は、図書館で待ち合わせをしていた、当時付き合っていた一学年上の男、武井先輩に相談した。頭がいつもぼさぼさの、碌に勉強したことがないと言っている人。私にどこか似ている人だった。初めて、一緒にいたいと思えた人だった。二人で何をするわけでもなかったけれど、普段から二人で図書館で静かに勉強していた。だけどこの日は、ひとり勉強する彼の元へ寄り、
「帰ろう」
と、そっと言った。二人で明るくて暖かい図書館を出て、彼と一緒に自転車置き場まで行った。歩きながら私は、彼に事情を簡単に話して、意見を求めた。
「――担任の先生には、来週まで待ってもらっているのだけど」
すると、彼は言った。確かに言った。
「そうか、可哀相に」
そう言って、彼は自転車を取りに言った。だけど、その瞬間に私の中で何かが変わった。
「可哀相?」
私は小声でつぶやいた。帰ってきた彼にこう尋ねた。
「ねぇ、さっきの、どういう意味」
「だって、楓は頭もいいし、なんだってしっかり出来るのに、県外の大学も駄目だし、文系にも進ませてもらえないんだろう。医学部でも目指したら――」
「イヤだ。――あたしは、それでもいいと思ってる。それに、勉強なんてしたくない」
彼は黙ってうなづいた。私はもう一言だけ付け加えた。
「先輩だって、あたしの気持ち、わかりますよね。先輩も塾の習熟クラスにいたんでしょう。でしたら、わかりますよね」
そうして、たった百メートルばかりしかない、二人の共通の帰り道を歩いていった。私は言った。
「クラスに佐藤さんって人がいて、小説あんまり読まないって言ったら、こんな本貸してくれたんです。ショートショートっていう種類らしいんですけど、まだ中見てなくて、あたしでも読めるんでしょうか。あたし、感情移入がまるでできなくて。それに、作り物って、話が出来すぎてて嫌ですから」
佐藤は目立たない子で、勉強もそんなにできるほうではなかった。それに、クラスに話し相手がいなかった私にはじめて話しかけてくれた人だった。
本を見せると、彼は言った。
「ああ、星新一か。だったら感情移入なんてできなくても読めるよ。俺でも読めたくらいだから」
「先輩はよく本を読んでますよね」
「違うよ、新書しか読まないんだよ」
「新書読んで楽しいんですか」
会話が行き詰まった。困って私は言った。
「あの、先輩、先輩は私のどこが好きなんですか」
私を一瞥して言った。
「自分の感情に正直じゃないところ」
「あたしは、イヤなんですよ」
やはり会話に息詰まる。なんで私はこうなってしまうのだろう。彼が私の手に触れようとした。
「やめて、あたしの手、冷たいから」
「俺の手も冷たいよ」
だけど、私の手に触れた彼の手は、暖かかった。
二人でよく、メールした。私は家に帰るとさっさと着替えて食事を済まし、できるだけ早く体を洗う。そうして、残った時間に勉強するふりをする。だいたいは絵を描いたりしていた。絵を描くのは得意だったし好きだった。親とは、特に母とは、会話したくなかった。
父に言った。
「ねぇ、お父さん、あたし、文系と理系、どっちにしたらいいと思う?」
「どっちでもいいよ、お前のやりたいことをやりな」
だけど母が言ってきた。
「迷うくらいなら理系にしなさい。やりたいことやって生きてけるほど甘くないんだよ」
父は言った。
「おい、そんな言いかたないだろう」
「あなただって医者でしょう。娘にそうなって欲しくないの?」
母は父を睨みつけながら、強い口調で言った。父の血の気が引くのがわかった。
だけどあの三カ月は、ずっと先輩とメールをしていた。ただの現実逃避でしかなかったけれど、楽しかった。そうして楽しくなれば、幸せになれると思っていたのに、私の中に湧き上がる感情は寧ろ真逆だった。だから私は打ち明けた。
嫌われるために。
『先輩は、あたしがリスカやったことあるって言ったら、ヒきますか?』
『気にしないよ、俺もあるから』
『あたし、よく吐いてしまうんです、そんな女嫌ですよね?』
『そんなの生理現象だから仕方ないことだよ』
『それだけじゃないんです、よく死にたくなるんです、自分が"汚く"思えて』
『俺も汚い人間だし、それに、俺に比べたらずっと綺麗だよ』
――さっさと嫌われてしまえば、楽になると思った。もうこの人のことを考えずに済むと。だからわざとそんなことばかり言ったのに、なのに先輩は、一度も私を否定してくれなかった。さっさと言ってほしかった、別れてくれ、と。なのに、そう言うどころか、私のことを受け入れようとしていた。こんな私に付き合わせて、申し訳ないとしか思えなかった。だから私は決めた。
十二月の寒い夜遅く、私は彼の携帯にメールを入れた。
『あたしと付き合っても幸せになれないから、ごめんなさい、別れてください』
そう送った。怖くなって、携帯の電源を切った。このメールを送るのも、もう何人目なのか。先輩でも駄目だった。
昔から、よく男から告白されてきた。小学生の時から数えて、多分五人はいたか。周りの人がどうなのかは知らないが、それくらい普通のことだと思ってきた。だけど、私から誰かを好きなったことは一度もなかった。初めて好きだと思えた人でも、やっぱり駄目だった。
先生に会いたくなくて、電話を入れた。わざと土曜日の真昼間に電話した。その時間、先生は部活へ行っていると知っていたから。案の定、機械音が聞こえてくる。
「ただいま留守にしております。ピーという発振音が鳴りましたらメッセージをお願いします」
私は言った。
「――大島です。理系に決めました、では」
翌朝、先生に会った。先生は満足げだったが、何も私に言っては来なかった。
5.
「起きろ、楓」
身体に誰かが触る、見ると、湊君だった。湊君は言った。
「もう図書館、閉まるぞ」
左手の腕時計を見る。六時五十分だった。まだ眠たい頭で、湊君について行く。湊君は言った。
「持つよ」
言われるがまま、鞄を持たれた。そのまま、暖かくて明るい図書館を出た。帰り道、湊君と歩いて帰った。港君は自転車で学校に来ているけれど、帰る方向は駅の方向で、それで私はいつも駅まで送ってもらっている。ほとんど無口で歩いている私たちも、二人で歩いている姿を後ろから見たら、恋人同士に見えるんだろうか。
「ねぇ、湊君、星綺麗だね」
空を見ると、星空だった。
「この辺り田舎だし暗いからね」
私は言った。
「ねぇ、神話に興味ない?」
まだ暗くなり切らない西の空に、白い星と赤い星が光っていた。
「でも、星あんまり見えないけど」
「あそこに、二つ星が見えるでしょ、あれ、金星と火星」
そうして私は続けて言った。
「金星は、美の女神アフロディテ、火星は、戦争の神マルス。その二人の子供の一人がキューピッドなの。ある国の王様に娘が三人いて、特に末娘のプシュケは綺麗な女性で、アフロディテより美しいって人々は言った。それでアフロディテは苛立って、誰もプシュケに本当の愛情を抱かないようにした。そうしたら、二人の姉は嫁いだのに、プシュケは、みんな、綺麗だとか美しいとか言っても、誰にも愛してもらえなかった」
踏切の音がする。私は口を閉じた。もう駅についてしまった。時計を見た。上りの電車が来るまで、あと数分だった。
「続き話すの、今度でいいかな」
湊君は言った。
「ねぇ、手、繋いでもいい」
「どうして?」
「そうしたいから」
私が黙って手を差し出すと、彼は私の手に触れた。彼の手は、一瞬痙攣したようになった。理由は知っている。
「あたしの手、冷たいでしょ」
私の心のように。
「だから、だよ」
何も言わない彼に、私は言った。
「ねぇ、湊君、今、幸せ?」
「それ、どういうこと」
「湊君、知ってるよね、あたしが今まで何人もの男と付き合ってきたってこと」
「ああ、それがどうかしたの」
「そんな女のどこを好きになったの」
カンカンカン、と、踏切が鳴る。湊君は言った。
「優しくて、話が合って、そういう理由じゃだめなのか」
それは、優しくて話が合う女なら、誰でも取り替えていいということなのか。会話をする間もなく、上り方面の電車はやって来た。
「ごめん、電車来たから。じゃあね」
そう言って、私は電車に乗り込んだ。そうやって彼から逃げだした。電車の一番前に乗って、塾の一番近くの駅で降りた。降りた駅のトイレの個室の中で着替えて、脱いだ制服は鞄に入れた。髪の一つ縛りのゴムをとって、右目の上のヘアピンをはずし、眼鏡をはずした。なぜだか昔から、こういう姿が好きで、学校では絶対に見せない。それから、何食わぬ顔をして、駅のコインロッカーへ制服の入った鞄ごと入れる。
それから私は塾へは向かわず、近くの本屋へ行った。塾へは行ったり行かなかったり、適当だった。私が最も心休まる場所だった。ここでは、誰も私が誰なのか知らない。私という名前を、レッテルを、剥がす唯一の方法。私と同じ学校の人は一人も見かけたことはなかったから、そう思っている。初めはこれで十分だった。けれど次第に、これっぽっちの自由だけでは物足りなくなった。そして今日、私は実行することにした。
一人で歩いている、茶髪の男がいた。決めた、あの男で実際にやってみることにした。周りには、誰も見えなかった。私は、男のほうに徐に歩いていき、わざとらしくぶつかって、男のほうに寄りかかって転んだ。案の定、男は聞いてきた
「おい、大丈夫かよ」
このときを待っていた。私は上目遣いで言った。
「あっ、すみません、あたし、ちょっとふらふらしちゃって」
男の顔が少し緩んだ、それを見計らっていった。
「あの、優しい人なんですね」
男は完全に油断した。そうして、私の掌の上を転がり始めた。男は言った。
「君、学生だよね、名前なんていうの」
私はとっさに、はっきりと言った。
「アヤノです、クドウアヤノ」
こうして私は、名前を二つ持った。
馬鹿そうな男だった。いかにもチャラい男といった面持ちで、目つきも悪い。だけど私はそれを見て、安心した。下手に物を考える男は嫌いだから。そうして私は、男の手首を握り、顔を近づけて、止めを刺した。
「ねぇ、もし時間があるなら、あたしに付き合ってくれません?」
そう言って、夜の街へと走った。気づいた時には、騒がしいゲームセンターの中の片隅に、私は男といた。男が私に饒舌に話しかけてくる。
この男は伸也と名乗った。二十四五歳の、どちらかといえばハンサムな男。
「なぁ、アヤノちゃんはいつもこんなことしてるわけ?」
私は黙っていた。
「あなたが初めてよ」
「てかさぁ、いまどきあんたみたいな言葉遣いする女がいるってのがまず驚き、ひょっとして、いいとこのお譲ちゃん」
私は黙っていた。男は続ける。
「あ、当たりかあ。どおりでお上品な言葉遣いなわけだ。どうせ弱っちいママなんだろ?」
「違う」
「だってちがわねぇ? 俺のばばあだって、脅せばだいたいごめんごめんって言い出すぜ?」
「そんなこと…」
考えたこともなかった。だって、母は、一度だって謝ってくれたことは無いのだから
「それに服だって地味だし、どういう生活してるわけ」
言いたいことはわかる。
「ああいうの、馬鹿みたく見えて、嫌いなの」
「でもそれじゃ、友達とかできなくねえの?」
友達、か。
「ねぇ、友達って、何が基準なの」
「え、そんなもん、たまに一緒にどっかいって遊んで、あと適当にメールするとか」
「じゃあ、伸也さんは携帯に何人登録してるの?」
「えーっと」
そういって携帯をちらっと見て言う。
「だいたい、200人くらいだろ」
「それ、みんな"友達"なの?」
言うと、機嫌を悪くした面持ちで吐き捨てるように言う。
「そんなこといちいち考えてねえよ」
伸也の目を見つめて、私は言った。
「でもあたしは、そういうひとの方が信じられる。…… あたしね、何人かで遊びに言ったことはあるけど、それって結局は数合わせでしかなくて、仲のいい友達はいるけど、二、三人で遊びに言ったことは一度もない」
「でも、俺みたいな男に逆ナンしちゃうんだ」
私は再び黙り込む。男は続けて言う。
「ぶっちゃけ、友達いないとかいって、男友達っつーか、彼氏とか何又もかけてるでしょ」
「それは、かけてない。だけど、付き合ってもどうせ直ぐに別れるから、同(おんな)じようなことかもね」
「じゃあ、又も何度も割ってるわけ?」
「だったら? どうせ、あたしは…」
初めから汚れてる。男は私をまるで嫌なものを見るように言った。
「正直さぁ、お前みたいな気難しい女嫌いなんだよ」
「でもきっと、あなたと同じくらいセックスには慣れてる、もしかしたらそれ以上かもね」
「なぁ、おまえ、初めて抱かれたのいつ?」
「九歳」
伸也は黙った。私は言った。
「ねぇ、今日、あたしの誕生日なんだけど」
「でも何買うわけ?」
「お金くれない? 三千円でいいから」
「何するんだよ」
「明日、あなたを驚かしてあげる」
そう言って、私はわざとらしく走り去って、近くのアクセサリー屋に言った。駅の中にあるのは知っていた。だけど入ったのは初めてだった。私は迷わず選んで無言で差し出した。ピアス用のバーベルとニードルだった。
私は、自分をアヤノにするために、決した。家に帰ると、真っ暗だった。今日は父親が帰らないらしかった。
リステインで口をゆすぎ、それから、手鏡を立てて、机に座った。
舌の裏にティッシュを詰め込み、ニードルに軟膏を塗りたくって、舌の下から上に思い切り刺した。鏡を見ながら、一気に刺した。ぶちぶち、という音がして、鏡の中の舌先から、ティッシュに大量の血がこぼれた。口の中に血の味が広がる。なのに痛みが全くなかった。途中でニードルが刺さらなくなり、力を入れてもう一度押した。
「ぅう」
自分の声を押し殺す。痛みの中で、やっと取り戻した現実感にひそかに安心した。ニードルを抜いて、すぐにバーベルを入れて、球を付けた。あまりにもあっさりと終わって、なんだか悲しくなった。この世に生まれる苦しみは、こんなものじゃない。こんな程度の痛みで、自分が変われるわけがない。わかってたことじゃないか、そんなこと。大量の血で染まったティッシュと舌の痛みだけが残って、知らず知らずのうちに一人、涙もなく喘ぎ泣いていた。
6.
朝、電車の中で真穂に会うと、いきなり不思議な顔をして、口を開いた。
「そのマスクは?」
「ああ、風邪予防」
表向きはね。そう思って、無理に笑おうとして、気づいた。私の口元は、誰にも見えないじゃないか。そう思うと、無性に気持ちが楽になった。私は勢いに任せて、真穂に言った。
「そういえば、真穂、思ったことない? 別の誰かになりたいって」
「なんで急にそんなこと?」
不思議そうな眼で私を見つめて、それから思い出すように目を上に向けて真穂は言った。
「どこか誰も知らないところに言ってしまいたいって思ったことはあるけど」
「そうじゃなくてさ、名前も家族も顔も、全部違う人間になってしまいたいって思ったことないの?」
あたしは何度だってあるんだよ
「そんなことないって、そう言えたらいいんだけどね、もしこう聞かれたら――、たとえば、誰かを羨ましいって思ったことがないかって言われたら、嘘だよ。うちは、楓が羨ましい。だって、美人だし、頭もいいし、"お金持ちだし"」
私ははっきりと言った。
「そんなこと、どうだって――」
きっと私の眼は、真穂を睨んでいる。
「どうだってじゃない。楓のお父さん医者でしょ? お金に困ったことなんてないでしょ?」
かなり強い口調でそう言うと、真穂はしまったという顔つきになって、言い過ぎたことを恥じたように、返って黙り込んでしまった。私は言った。
「確かにね。でも、あたしは、真穂がすごく羨ましい」
真穂は驚いたような顔で私を見た。
「え? うちのどこが?」
優しい母親がいて、家族思いの父がいて、きょうだいがいて…
「あたしが欲しいもの、初めから全部持ってるじゃない」
不思議そうな顔で彼女は私を見つめている。真穂は何もわかっていないのだろうか。わがままだ。言いたくないのに、わかれだなんて。すると、真穂は私に悲しそうな、というyろい、哀れんだような表情を見せて、言った。
「うちが楓のことを全部わかるのは、楓だけじゃなくて他の誰だとしても、そんなこと無理だよ。でもね、もし神様がもう一度生まれ変わらせてくれてもうちは、うち以外の、一瀬真穂以外の誰にもなりたくないよ。そう考えたらおかしい?」
そう言って、真穂は私を澱まない瞳でじっと見つめた。私はその視線が苦手に感じて、とっさに目をそらした。駅から学校まで、私と真穂は一緒に歩いたけれど、一言も話さなかった。
学校について、鞄を机に掛けると、私はトイレの洗面台に向かった。そっとマスクを剥いで、自分の顔を鏡に映して笑ってみた。目は死んだ魚のようで、ピエロが笑ったような笑み。気づくと、鏡の表面を自分の爪で掻いていて、鏡の上の、私の瞳が映っている場所に、白い傷がついていた。過呼吸になっていて、私は落ち着くために、水で顔を洗って、そのまま両手を顔につけたまま、息を吐いた。今日の私はなんだかおかしい。
とりあえず教室に戻ってみたが、もうホームルームの始まる時間だった。担任の望月先生が教室に入ってきて、なんだかいろいろ話している。望月先生の話は嫌い。先生の話が間違っているわけじゃない。正直、ほとんどすべて正しかった。望月先生はエリート。早稲田も慶應も受かって、本命の国立大学にもストレートで入った人。部活も小学生のころからサッカーをしていて、高校で引退するまでずっと打ち込んだ人。私なんかよりずっと頭はいいし、それ以上に、小さいころからずっと目標を持ちづつけて生きてきた人。私の気持ちなんて分かるはずかない。先生の話は、努力ができない私には、目標が持てない私には、ただ酷なだけだった。普段なら、別に意識して我慢しなくても、普段なら聞き流せる。けれど今日は酷い吐き気と頭痛がする。
私は目をじっと閉じて、机にうつ伏せになった。先生が私に気づいて言った。
「おい、大島、大丈夫か?」
授業の時はしょっちゅうだけれど、ホームルームで居眠りしたことはなかったから、気づいてしまったのか。いえ、大丈夫です、そう言いたかったけれど、限界だった。
「保健室行っていいですか」
聞こえたかどうかは分からなかったが、私は確かにそう言って、教室を出た。教室は三階、保健室は一階だった。階段の手すりにしがみついて、一階まで、ゆっくり、ゆっくり、降りて行った。保健室のドアをノックする余裕はなかった。ドアをいきなり開けて言った。
「すみません」
保険の先生が私に詰め寄って言った。
「ちょっと、大丈夫?」
「吐きそう……」
私がそう言うと、部屋の中の水道まで連れて行ってもらって、そこで吐いた。
「うぅ、」
口の中に苦い酸味がする。少しずつ落ち着いてきた私は、保険の先生に言った。
「ごめんなさい」
先生は静かな口調で私言った。
「謝ることないの、具合が悪いんだから仕方ないわ、とにかくベッドで休みなさい」
違う、具合が悪いからじゃない。もう昔からずっと、吐く癖ができてしまっているんだ。だけど私は、それを伝える勇気もない。ベッドに横になる前に、私は保健室の利用者名簿に名前を書き込んだ。『二年五組 大島楓』 その名前を書き込む。そうしていると、自分の中のもやもやとしたものが、少しずつはっきりしてきた。捨てたい。この名前を捨てたい、それ以上に、この学年、このクラス、この私自身、捨て去ってしまって、別の私になってしまいたい。私は全てをなくしていまいたい。全てを――。
7.
気づくと、ベッドの上で身体を横にしていた。気分はだいぶよくなっていた。今何時だろうか。すぐにはわからなかった。ベッドの周りには白いカーテンが引かれている。私は足元に自分の上履きを見つけて、それを履いてカーテンの外に出た。机に保険の先生が座っていた。
「目が覚めたのね。」
私に対して静かに笑みを浮かべながら、さらに言った。
「疲れてたのよ、私も一応学校の先生だからこんなこといっちゃいけないかもしれないけど、たまにはずる休みくらいしたっていいのよ」
「いえ、大丈夫です。嫌なことなんて誰にだってあるけど、みんな我慢して生活してるんですから」
「とにかく、今日は早く家に帰った方がいいわ。ちゃんと望月先生には伝えておくから、早退しなさい」
「それは、両親にも連絡しますよね? ――とにかく私は大丈夫ですから」
そう言って教室に戻った。途中で学校の時計を見た。もう十二時前になっていた。私は三時間以上も眠っていたのか。ちょうど休み時間だったらしく、廊下は生徒で溢れかえっていた。その中に、遠目に三上を見つけた。数人に取り囲まれ、笑みを浮かべている。きっと、似た者同士だろう。話声は周りの雑踏に打ち消されていてわからないが、誰かを馬鹿にしたかのようなあの目つきで笑い合っていた。楽しいのだろうか。わからないけれど、私はあんな友達なら、絶対にいらない。
教室に戻って、自分の席に座った。隣の席の女子が、大丈夫、と言ってきた。うん、とだけ答えて、私はいつも通りの生活のサイクルの中に戻った。昼食の時間も、いつもどおり、階段に三人で集まって食べた。結局私は、嫌だ嫌だと思っていながら、自分の足で戻ってきてしまった。ずっと同じ毎日の繰り返し、いつか終わりは来るのだろうけど、だけど私はもう何十年もの間、ここにいるかのような気分だった。そのとき、不意に昔のことを思い出した。そういえば、昔はよくお父さんに家から追い出されたっけ。最近、お父さん優しくなったのかなぁ。それとも私が、やっとお父さんの理想どおりになってきたのかなぁ。そう思うと、塾をサボっている自分が、とてつもなく悪く見えて、この罪悪感を少しでも取り払いたくなった。
その日は塾に行くことにした。塾は、学校までの乗り継ぎの駅近くにある。そこに私は、週三回通うことになっている。実際には週に一度か二度訪れるだけで、ひどいときは一カ月以上一度も行かない時さえあった。
英吾の授業の時、不意に先生が話をした。体に傷をつけることは、人が人であることを示そうとするためだ、という内容の英文を読んだ。それを受けて、先生は言った。
「たまに臍にピアスをつけてる人がいるけど、あれ痛くないのかって思うんだけどどうなんだろ」
授業が終わった後、私はその英語教師に、舌を出していった。
「ねぇ、センセー、さっきの話じゃないけどさ、あたし、」
そういって、舌を出して笑った。
英語教師は、一瞬驚いた顔をした。
「どう? 驚いたでしょ?」
私は、ピアスのついた舌先を見せながら言った。先生は言った。
「それ、いつつけたの?」
「最近」
先生は、私に対して驚いたのは、私自身に対してなのか、それとも、医学部を受験する優等生としての私に対してなのか、よくわからなかった。だから私は、少しだけ話した。
「誕生日プレゼントに、彼氏にピアス買ってもらったんです」
真っ赤の嘘。今付き合っている男なんていないし、まして湊君でさえない、別の男。
「つけた直後は痛かったけど、今はもう慣れてきて、そんなに痛まないんですよ」
唖然とした顔の教師をしり目に、ぺらぺらと動く私の口。なんで私の口はこんなに色々話すのだろう。普段はこんなこと、考えていないはずなのに。周りの空気がどよめく。わかっていた、そうなることは。しらじらしい目で私を見る人がいる。聞こえないように、私の陰口をたたき合っている人たちもいる。こうなるとわかっていたけれど、寧ろ、こうなって欲しかったから、私は言ってしまったのだろうか。授業が終わると、私は逃げ出すように塾を後にした。携帯でメールを打った。伸也にメールを送った。『今夜、暇ですか?』
この前会った場所の近くのファーストフード店で待ち合わせた。塾が終わってからしばらくしてそこに着いたが、伸也が来る気配はなかった。私は熱いコーヒーを注文して、ゆっくりと飲んでいた。二十分くらい経つと、やっと伸也は現れた。それまでにコーヒーはほとんど飲んでしまっていた。
「よー、アヤノちゃん、今日はどうしたの?」
「別に、ただ、なんだか誰かと一緒にいたかったから」
私はコーヒーの最後を飲み干した。
「そういえばアヤノちゃん、気になってたんだけど、名前の漢字は?」
と聞いてきた。とっさに、自分の携帯に、くどうあやの、と打ち込んで、変換した。そうして男に画面を突き出して、
「こう、書きます」
と言った。
画面には、久遠綾乃と書いてあった。
「ふーん、誕生日は?」
「二月十五日です」本当の誕生日は、四月二日。この早い誕生日が嫌いだった。
伸也が言った。
「なんだ、誕生日もう終わっちゃったのか、知ってれば何か買ってあげたんだけど」
「いいよ、伸也さん。だって絶対無理だから」
「ところでなんなの、欲しいものって」
「――あたしね、お兄ちゃんが欲しかった。もしあたしに兄弟がいたら、もっとまともな人間になってたのかなって、そんなわけないのにね、でもそんな風に思うようになったのは、よく覚えてないけど、隣に住んでたお兄ちゃんを好きだった、からかな」
「どんな人、そのお兄ちゃんって」
私のことを何も知らないから、だから私は、初めて誰かに話そうとした。
「お兄ちゃんのこと、絶対否定しないって約束してくれたら話す」
「わかった、絶対に否定しない」
その言葉を聞いて、私は安心"したかった"。そうして、言った。
「私の初めてをあげた人」
「中学生のとき?」
「小学生、九歳だった」
伸也は一瞬目を強張らせた。
「あたしのこと、勘違いしてない、あたしはね――」
口をあけて舌を出して、彼に見せつける。
「こういう女なの、わかる?」
笑いながら言った。
「金持ちの子供って、幸せだと思う?」
伸也の答えを待たずに、私は言った。
「あたしね、医者の一人娘なの。確かにみんな、あたしのこといいなって言うよ。確かに、うちは金持ちだよ。物ごころついた時には、バイオリンを持たされていた。あたしはそれが普通だと思っていたけど、色々あって、親に聞いたんだ、あたしのバイオリンと弓、幾らで買ったのって、そしたら百五十万だって」
言っちゃった。まだ会うの二回目なのに。このこと言ったら、どうせ差別されるってわかってるのに。
「馬鹿だよね、あたし」
心のどこかで、まだ誰かを信じようとしてる。
「で、かねはあってあたまもよくて、だけど自分は優等生じゃありませんってか?」
伸也はぶっきらぼうにそう言った。私は言った。
「昔テレビで見て、あこがれたんだ、それっておかしいの?」
私の肩の両側に彼は手を置いて、口を開き、私の目前に舌を見せた。中央に筋があり、舌は皺だらけのようだった。彼は無表情に言った。
「溝状舌って言うんだよ、知らねえんだろ、この知ったかぶりが」
だけど彼が怒っているのは明らかだった。
「医者の娘だか金持ちだか知らねえけど、おまえ、自分が特別だって思ってるだろ、自分が頭がいいって思ってるんだろ? で、馬鹿そうな俺を選んだのか? 俺だったら気づかないとでも思ったか? 見くびるんじゃねえよ」
頭の中が真っ白になる。
「おまえがどんだけ優秀だか知らねえけどさぁ、世の中から見たらただの使い捨ての駒なんだよ。この前だってそうだ、いきなり聞いてきたのが、誰かのことを笑うのって楽しいかって。そりゃあ変なことしてる奴がいたら笑いたくなるだろ、おかしいのかよ。お前笑われたことないのかよ、俺はあるぞ、だから笑ってやるんだよ、それが何か悪いのかよ」
「ふざけんなよ」
反射したように言った。伸也はかまわず言い続ける。
「なに、今更正義ぶってるんだよ。舌にピアスつけたくらいで何か変わるとでも思ったのかよ、九歳から身体売ってる奴が。それにお前、そんな性格でだれか友達いんのかよ」
頭の中で、何かが切れたような感触がした。
「今、何て言った」
「友達いねえだろっつったんだよ。どうせお前、友達いるとか言ったって、だれとも遊びに行ったことないんだろ、図星だろ?」
うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい
「そんなの普通は"友達"って言わねえんだよ」
男が言っている言葉が、記号になって、知らない言葉が男の口から飛び込んでくる。
「ああああああああああああああああああああ!!!!」
響き渡る私の声。両耳をふさいでその場にしゃがみ込んだ。周りの人が私を見た。男は、私をにらんで、どこかへ消えていった。みんな私を見てる。
なんでみんなみるの。
やめて、おねがいだから。
みないであたしを。
そんな目で―――
逃げなきゃ
はやく遠くに行かないと
走っている。あたしはどこかに走っている。耳を手で押さえたまま、どこかへ。
なにもわからない。
どこへ、ここはどこ、どこへ向かって走っているの
あたしは、ダレ?
落ち着いた時、息を切らした私は、駅の前の公園の薄暗い電灯の下でうずくまっていた。携帯を見ると、もう夜十時、なのに親からメールは来ない。
そうか、私は今、塾の帰りの電車に乗っている時間なのだった。こわくなって、なぜだか、メールを送ろうとした。
『あたし、なんにもわからない』
あて先が、なかった。武井先輩、それとも湊君か。どちらに送ろうか迷ってしまって、そのうちに送るのが怖くなって、だけどどうしようもなくて、送信ボタンを押した。誰に送ったのか、よく分からなかった。それとも両方に送ったのだろうか。返事がいやにすぐに帰ってきた。もう先輩のアドレスは存在しないらしかった。湊君には送ったのだろうか、わからない。だけど、わざとらしく私は言った。
「あはは、あたりまえか」
そのまま、人のまばらな駅の中を歩いていった。
電車の中で、大学生らしき人たちの集まりが入ってきた。十人ばかりが戯れて大声を上げる。
「彼氏の人数って付き合った人数、本当に好きになった人の?」
「うっわー、悲しい?、」
「ねえねえ、…やるのってさー、一ヶ月に一回?」
「さっきからキモイメールばっかくるんだけど」
ウルセエンダヨ
そう思いながら、一人の足が、私の組んだ脚の片方に当る。落ち着かない。身体の底から、不快感が沸いてくる。その中の一人が言った。
「最近、まじで毎日楽しいよなぁ」
私は心の奥底でつぶやいた、毎日楽しいなんて、毎日つまらないのと同じだ、と。そんな私に気づいたのか、私の方をちらちらと見て、何か話している。
「あの制服知ってる?」
「しらねえ、つーかリアルJK?」
「あ、オレ知ってる、あれ有名な進学校じゃね?」
居心地が大分悪くて、席を立とうとすると、一人の男が私の手を掴もうとした。男の手が私に触れた瞬間、突き飛ばすように私はその手を払いのけ、大声で叫んでいた。
「触るな!」
空気が静まり返って、この大学生達だけではなく、周りの乗客たち、酔っ払ったサラリーマンも、私服を着た女性も、ちらほらと見える塾帰りの子供達も、ちらちらと私の方を見ている。またおかしくなりそうで、自分が怖くなって、次の駅がどこかも確認しないまま電車を飛び降りた。
はぁ、はぁ、と、自分の息が切れている。はっとなってあたりを見渡すと、なぜだか見覚えのある風景だった。この駅には一度も降りたことはなかったのに、なぜだろう。そのまま駅の外に出ると、そこが祖母の家の近くだと気づいた。近くに駅があるだなんて知らなかった。遠くの方に、見慣れた集落があった。すごく遠いように感じたけれど、歩いてみるとすぐだった。真っ暗な道に、薄暗い電灯が灯っていて、どこからか、ふくろうの声がする。だけどこの道を、私は知っている。私がいつも、帰りに歩いた道。遠い過去が、今目の前に広がっていた。じゃあ、あの家はどこ。遠くが暗くてよく見えない。無心になって私は歩いていた。でもなぜかおばあちゃんの家はどこにもなかった。その場所に言ってみると、更地になっていた。唖然とする私は、後ろから懐中電灯に灯された。同時に中年の女性の声。
「何してるの」
びっくりして振り向くと、この女性は続けていった。
「あれ、ひょっとして楓ちゃん? まあ随分大きくなって」
「私を知っているんですか?」
「そりゃあそうよ、昔ここによく来てたじゃない」
「あなたは…?」
「覚えてないの? 私は近くに住んでた望月おばちゃんだよ、よくおばあちゃんの家に遊びにいったじゃない」
「そう、でしたっけ。ごめんなさい、よく覚えていなくて」
「まあいいのよ、それより、どうしてこんな時間に? こんな夜遅くにこんなところに来る人なんていつもいないから、泥棒かと思っちゃったよ」
私は黙っていて、答えられなかった。
「……何かいえない事情があるのね。いいわ、今夜は私の家に泊まっていきなさい」
「いいんですか?」
「もちろんよ、大島さんのお孫さんだもの」
この人は、私の知らない過去を知っているのだろうか、それよりも、どうして私は、覚えていないのだろうか。私のことなのに、途切れ途切れの記憶しかない。そんな自分が哀しくなった。
「でもいいんですか、望月さんのこと、あたしはよく知らないし、それに迷惑だろうし」
「どうせ今は独り暮らしだからいいのよ、家には私と、猫のミーちゃんしかいないのよ」
望月さんは自分の家のドアを開け、私を中に入れた。
「ご飯は食べたの?」
「まだですけど、コンビニで買ったものがあるから、食べないと腐っちゃうし」
「あったかいものを食べなきゃだめよ、今作ってあげるから」
「申し訳ないです。なんかもう、なにもかもイヤになってしまって、気づいたらここにいたんです」
望月さんは何も言わずに、カップにコーンポタージュを入れて差し出した。
「わたしだって見ず知らずの人にこんなことしないわよ、でも、楓ちゃんすごく自分に嘘つけない子だったから、今でもそうなのかなって思って――」
違う、そう言おうとしたけれど、何だか気持ちがこみ上げて、目から涙が零れて、口も痙攣して上手く話せない。おばちゃんは気づかずに部屋を出て行ってしまった。ずっと泣けなかったのに、今の私は、制服の裾で涙を拭いて、それでも涙は止まらず、できるだけ落ち着いた声で声を出した。
「ずっと、嘘、ついて、生きてきたんです、なにもかも」
途切れ途切れに、そう言った。
8.
「かえでちゃんはとくべつだから」
目の前に、小さな女の子がいた。まだ七歳くらいで、幼馴染だった。
「なんで」
私がびっくりして聞き返すと、言った。
「ママが言ってるよ、お医者さんのこどもだからって。普通の子供はバイオリンなんて習わないって」
否応なしに、私について回ったレッテルだった。そのシンボルは、バイオリンだった。父は県の医師会の会長だった。だからなのか、小さいころから家族そっちのけで、いつでも仕事していた。いつもは開業医として働いていて、病院が閉まる時間を過ぎてもまだ残って何かをしている。家に帰ってきても、毎日無言でお酒を飲んで、そのうちに眠ってしまう。私には、父が怖かった。何を考えているのかわからなかった。父は決して殴らなかったけれど、要領の悪い私を、よく家の外へ追い出した。家の外へ立たされて、鍵をかけられた。幼い私は泣きじゃくり、ごめんなさい、ごめんなさい、そう言って、ドアが開くまでひたすら耐えた。
だけど母はもっと嫌いだった。母は看護師だった。何一つ不自由させない母だった。だけど、母が優しかった頃のことは、ほとんど覚えていない。私がまだ三歳の頃、母のお腹には赤ちゃんがいた。検査をして、男の子だってわかっていた。母はすごく喜んでいた。父も一緒になって、自分の長男の誕生を待ち望んでいた。新築の家には子供部屋が二つあって、両親は生まれる前からもう私の弟の部屋を設計するように頼んでいたようだった。なんだか私は悲しくなって、自分なんていらないんだ、そう思った。母の膨らんだお腹を見るたびに、私があの赤ちゃんならって思った。だけど、そんなこと、叶うわけがないなんて、わかってた
食べながら、おばさんと私は話した。何の話をしているか覚えていない。けれど、確かにおばさんはこう言った。
「そんなに感謝なんてしなくていいんだよ、私はただ、あなたを泊めただけ。ご飯だってありあわせだし」
「いいえ、それだけじゃないです、あたしは、あなたのおかげで泣けたんです」
それからしばらく、会話は途切れた。けれどそれは気まずいわけではなかった。
「あの、おばさん、ここだけの話、聞いてくれませんか。この一週間、なんだかいろんなことがあって、なんというか、動揺しているんです。ずっと、自分は自分に殻を作って生きて来ていて、でもそれは、ただ自分が逃げていただけなんじゃないかって思って……。自分が甘いなんてわかってるんです。だけど、私、迷っていて」
「その時その時に、やるべきことをやればいいの。そういう努力の積み重ねが、人を一番成長させるんだよ」
「そうですよね…… おばさんも、そうなんですか」
「ちがうわ、私はそうできなかったから、みんなには、とくに若い子にはそう言ってるの。そうじゃないと、きっといつか後悔するから」
そう笑いながら言うおばさんの眼は、少しも笑っていなかった。
食事の後、私は準備をそそくさと済ませ、メールを打った。真穂に『ごめん、今日は分け合って、真穂が乗る駅より後で乗るから』と。同時に、両親からのメールに気づいた。
『今何してるんだ! すぐに返事をよこしなさい』
不在着信が3件入っていた。私は一言『ごめんなさい』と打って、返事を見るのが嫌で、携帯の電源をそのまま落とした。それから私は、おばさんの家を出た。
いつもよりだいぶ遅い時刻に電車に乗る。だけどこれは同じ車両の電車なのだ。なんだか変な感じがする。いつもは待っている私が、今日は真穂に待たれている。
7時13分、電車がホームに着いた。それに私は乗り込む。一番前の車両の一番前のドア。いつも私がいるべきばしょに、真穂は一人でいた。
「楓! 心配したよ、なんで……」
「その話、後でいいかな」
真穂の言葉を遮って、私は言った。でないと、自分が自分でなくなりそうで怖かった。どれくらいの間黙っていただろう、数分間か、数十分間か、落ち着いてきた私はゆっくりと言った。
「あのね、あたし、思ったんだ、あたしは今まで生きてきて、でもそれは合ってたのかって」
「何言ってるの?」
「あたしは、いつも代わりだったんだ。お母さんにはどうしても認めてもらいたくて、頑張ってきた。あたしは代わりじゃないって、認めて欲しかった。わかってたよ、お母さんも気づいてるんだ、私を弟の代わりとして育ってきたって、その罪滅ぼしをなんとかしてしようとしてるんだ。あたしが望んでいたことだよ、それは。なのに何にも変わらなくて、あたしは自分を安く売って、それでなんだかいろんなものを犠牲にしてきた気がして」
「詳しいことはうちには分からないけど、楓はきっと、もっと自分に素直にならなくちゃいけないんだと思う。楓は、自分に正直だって思ってるだろうけど、それは違う。だって、楓、なんだか悲しそうだから」
「ごめんね。あたし、真穂に嫉妬してたんだ、小さな頃から家族円満が当たり前だった真穂が、羨ましくて仕方なかった。自分がわがままなんて知ってるけどさ」
知らず知らずのついに、電車は着いていた。二人であわててとび下りて、いつものように学校まで歩いて行く。黙って二人で歩いていた。そして、真穂は言った。
「うちは、楓がわがままだとは思わないよ。」
私はなんて答えればいいのかわからなくて、聴こえないふりをしていた。
授業は二時間で終了して、そのあとはずっと卒業式の練習だった。式の全体を間抜けに通し切って、意味のわからない歌詞を歌って、そういう時に、またいつもの癖が出る。なんであたし、こんなところで歌ってるんだろうって。(未完)。だから、こう願ってしまった。
あの子、死ねばいいんだ
ある日、母は倒れた。病院の待ち受け室で、父と待っていた。父は、自分は医者だからといって、中へ入れろと大声を上げて言っていたけれど、断られていた。それから、手術室の扉が開いて、産科医出てきた。父の知り合いらしかった。父が産科医の目を見つめると、目を閉じたまま、小さく首を横に振って、それから父に小声で何かを言った。父はがっくりと肩をうずめた。馬鹿な私は父に聞いた。
「おかあさんだいじょうぶなの」
「わからない。それに――」
それから、担架に乗せられた、酸素マスクをした母が扉の中から運ばれてきた。びっくりした私を、父が見つめていた。そして、目を深く閉じながら、彼は首を横に振った。
それからしばらく、母は泣き続けた。
あのときから、私は私としてではなく、弟の代わりとして育てられた。
"私"は死んだ――
母は、自分の子供が産まれたら、女の子だったらピアノを、男の子だったらバイオリンを習わせようと決めていたらしい。そんな話を、まだ弟が死ぬ前に聞いた覚えがある。その弟の代わりに、私がバイオリンを習うことになった。先生のレッスンはそんなに苦ではなかった。一週間に一度、たった三十分、言われたとおりに弾けばよいのだから。だけど、家での練習は、地獄だった。一日に何時間練習したかわからなかった。母の前に立たされて、ひたすら弾き続ける。単調な音階にパッセージ、音程が少しでもずれると舌打ちされて、私が怖がってひるむなどということがあれば、手をぶたれる。
「なんであなたはこんなこともできないの」
あなたは―― そういう言葉の節々に、私は所詮"代わり"なのだ、という意識を強要されてきた。
小学生になって、母の手から逃れられる時間ができた。でも、私は学校でさえ、居場所がなかった。一年生の時、学校まで、近くの子供たちと一緒に班をつくっていきなさいと、先生たちに押しつけられた。いわゆる登校班、私にとって、そこは地獄だった。
「へぇ、かえでちゃんっておもしろいねぇ」
二年生のお姉さんが言ってくれた。うれしかった。その人は、いつも同じ二年生のお兄さんと話してた。そうして、一か月もしたときには、二人は私を泣かせた。
「かえでちゃんが泣くのかわいい」
そう言って、私の背中の真新しい真っ赤なランドセルは傷つけられ、中身は荒らされ、その上何度も、ひどいことを言われた。親には黙っていた。悲しませたくなかったから。だけど、ある日の放課後、先生にそっと呼ばれた。
「昨日、お父さんから電話があってね――」
それからすぐに、二人は私に謝った。私への嫌がらせはなくなった。だけど、いっそう私は孤立した。父には、「黙っていてごめんなさい。」そう言った。父は軽くうなづいて、私には何も言わなかった。
三年生に進級して、今度は担任と揉め事を起こした。目の前に、憤っていて、私の話を聞こうとしない、若い男がいる。この人が、先生。
「お前、馬鹿にしただろ?」
「なんのことですか」
「とぼけるな。自分はさっさとテスト終わるからって、時間がかかっている奴らの前で言ったんだろ、『なんでそんなに時間がかかるの』って」
「そんなこと――」
先生の目を見た。深く憤っていて、きっと私が、そんなこと言ってません、っていっても、信じてくれるはずもなかった。それに、言いはしなかったけど、そういう風に思ったことがないわけじゃなかった。だから、言った。
「ごめんなさい」
信じてもらえないことが悲しくて、泣いた。それを先生は、一言で済ませた。
「悪いと思ってるならいいよ。これからもうそういうこと言うなよ」
そう私は"あしらわれた"。
親に話したくなかった。心配かけたくなかったというのもあったけど、それ以上に、怖かった。きっと、前と同じで、私はもっと独りになってしまう。誰も信じられなかった。そのうちに、こんな想いが芽生えてきた。誰かに必要とされたい。
同じ頃、隣の家のお兄さんに勉強を教えてもらっていた。父は医者だから頭が良かったけれど、忙しくてあまり家にはいられなかった。それで、父がこのお兄さんにお願いしたらしかった。お兄さんは国立の中学校に通っていて、そこは有名な進学校だった。私はこの家の長男に、強姦された。私は気づかなかった。知らないうちに、私はこの人が大好きなのだと、信じ込まされていた。思いだそうとしても、よく覚えていない。だけど、ひとつ確かなことがあった。あの日、確かに私は言った。あたしのこと、好きにしていいんだよ、お兄ちゃんって。そういって私は、スカートの中へ、お兄ちゃんの手をとった。だけどお兄ちゃんは、拒んだ。
「いや、もういいんだ」
そうして私には、二度と笑いかけてくれなかった。
自分がされたことの意味は、すぐに理解する日がやってきた。
そのとき私には"嫌な癖"ができた。いつでも自分で自分を見てしまう、この感触。私はなんだか、ずっと夢うつつに生きていた気がする。そのまま今も、現実だとわかっていても、自分でない世界をずっと生きてきた。
それから、学校の帰りには家に帰らず、おばあちゃんの家に行くようになった。家からそう遠くないところにあって、毎日のように通っていた。おばあちゃんは厳しい人だった。礼儀、作法、マナーを守らないと厳しくしかられた。だけど同時に、私のことを愛してくれていると断言できるほど、優しいおばあちゃんだった。おばあちゃんの家には、星座の本が置いてあった。あるときふと見つけてたまたま開いて見てみたのだけれど、神話の話が沢山書いてある本で、その日から私のお気に入りになった。すごく分厚い本だったけれど、一年が経つ間に、全て読み切ってしまった。
「楓は勉強熱心だねえ」
「違うよおばあちゃん、勉強なんて嫌い。この本読んでると、色んなこと忘れられるから、それで」
「いいや、勉強さ。いいかい、どんなことでも、知識はあったほうがいいんだ、今すぐには役に立たなくても、もしかしたら必要になるときが来るかもしれない。その時のために、どんなことでもいいんだよ、たくさん本を読んで、勉強なさい」
次の年の春、おばあちゃんは死んだ。おばあちゃんの本は全部売られて、一万円くらいにしかならなかった。父は言った、「母さんの本は古すぎて売れないんだよ。」私のお気に入りの本も売られた。おばあちゃんが、たった一万円になってしまった。あの時私は、自分の全ての涙を流してしまったのかもしれない。それから私達も引っ越した。いままで大学病院の先生だった父が町医者になるために、そこへ引っ越すのだと母は言った。
逃げ場を失った私は自暴自棄になった。
「楓、つきあってくれないか」
そう、中学生の時言われた。十三の秋だった。小学生の時にも告白されたことは合った、でも全て断ってきた。でも、今度はもう断らなかった。私は初めて男の人とつきあった。だけど彼は、私を愛してくれなかった。自分の理想に私をあてはめようとした。私はただの友達だった。好きでもない人を、いつか好きになるんだと信じてた。だけど、初めてキスしたとき、違うんだ、そう気づいた。彼の顔が、気持ち悪い化け物にしか見えなくなった。だけど止められなかった。男の身体に触れるのが怖いのに、それでも自分を愛してくれる人がいるはずだと、気狂うように信じていた。だけど、最後は私の身体が欲しいだけなのだと気づいて、ずっとそれを繰り替えしていた。もう何度キスして、何度セックスしたかわからなかった。そうしていれば、いつかは自分の心の穴が埋まると、信じていた。
9.
眼が覚めると、薄暗い窓の向こうから鳥の声が聞こえてきた。周りを見渡すと、見慣れない光景。布団の上に横になっていて、隣には小さないびきをかいたおばさんが眠っている。昨日私は、この家で過ごしたのだ。自分の目の周りを指で触る。涙が乾いたようにかさばっていた。蛇口から音を立てないように水を出して、顔を洗う。台所へ行くと、まだ昨日の夕食の食器が
山積みになっていた。私はそれを洗って、ご飯を盛って、その辺りにあったインスタントのお味噌汁を作った。最中に、おばさんは起きてきた。おばさんが言葉を発する前に、私は言った。
「あ、おはようございます。あの、昨日は本当にありがとうございました。だから今朝の食事くらい私が作ります。作ると言っても、お味噌汁だけですけど……」
おばさんは口元を緩ませて、ありがとう、と言った。
「こんなになんでもしてもらってばかりで申し訳ないですから」
昨日のようにわたしを止めなかった。どうしてだろう。でも、それがとても心地よかった。食事を並べて、二人で言った。
「いただきます」
食べながら、おばさんと私は話した。何の話をしているか覚えていない。けれど、確かにおばさんはこう言った。
「そんなに感謝なんてしなくていいんだよ、私はただ、あなたを泊めただけ。ご飯だってありあわせだし」
「いいえ、それだけじゃないです、あたしは、あなたのおかげで泣けたんです」
それからしばらく、会話は途切れた。けれどそれは気まずいわけではなかった。
「あの、おばさん、ここだけの話、聞いてくれませんか。この一週間、なんだかいろんなことがあって、なんというか、動揺しているんです。ずっと、自分は自分に殻を作って生きて来ていて、でもそれは、ただ自分が逃げていただけなんじゃないかって思って……。自分が甘いなんてわかってるんです。だけど、私、迷っていて」
「その時その時に、やるべきことをやればいいの。そういう努力の積み重ねが、人を一番成長させるんだよ」
「そうですよね」
食事の後、私は準備をそそくさと済ませ、メールを打った。真穂に「ごめん、今日は分け合って、真穂が乗る駅より後で乗るから」と。
それから私は、おばさんの家を出た。
いつもよりだいぶ遅い時刻に電車に乗る。だけどこれは同じ車両の電車なのだ。なんだか変な感じがする。いつもは待っている私が、今日は真穂に待たれている。
7時13分、電車がホームに着いた。それに私は乗り込む。一番前の車両の一番前のドア。いつも私がいるべきばしょに、真穂は一人でいた。
「楓! 心配したよ、なんで……」
「その話、後でいいかな」
真穂の言葉を遮って、私は言った。でないと、自分が自分でなくなりそうで怖かった。どれくらいの間黙っていただろう、数分間か、数十分間か、落ち着いてきた私はゆっくりと言った。
「あのね、あたし、思ったんだ、あたしは今まで生きてきて、でもそれは合ってたのかって」
「何言ってるの?」
「あたしは、いつも代わりだったんだ。お母さんにはどうしても認めてもらいたくて、頑張ってきた。あたしは代わりじゃないって、認めて欲しかった。わかってたよ、お母さんも気づいてるんだ、私を弟の代わりとして育ってきたって、その罪滅ぼしをなんとかしてしようとしてるんだ。あたしが望んでいたことだよ、それは。なのに何にも変わらなくて、あたしは自分を安く売って、それでなんだかいろんなものを犠牲にしてきた気がして」
「詳しいことはうちには分からないけど、楓はきっと、もっと自分に素直にならなくちゃいけないんだと思う。楓は、自分に正直だって思ってるだろうけど、それは違う。だって、楓、なんだか悲しそうだから」
「ごめんね。あたし、真穂に嫉妬してたんだ、小さな頃から家族円満が当たり前だった真穂が、羨ましくて仕方なかった。自分がわがままなんて知ってるけどさ」
知らず知らずのついに、電車は着いていた。二人であわててとび下りて、いつものように学校まで歩いて行く。黙って二人で歩いていた。そして、真穂は言った。
「うちは、楓がわがままだとは思わないよ。」
私はなんて答えればいいのかわからなくて、聴こえないふりをしていた。
授業は二時間で終了して、そのあとはずっと卒業式の練習だった。式の全体を間抜けに通し切って、意味のわからない歌詞を歌って、そういう時に、またいつもの癖が出る。なんであたし、こんなところで歌ってるんだろうって。わけのわからない義務に対して、いつものように抱いた感情だけれど、普段はそれだけだ。今はなんだか、やらねばならないことをどこかに置き忘れているような気分だった。
「今日は式場の準備があるから、早く帰るように」
先生がそう言って、この日は午前中で授業が終わった。そのまま掃除。昼食にやっとありつけたのはその後になってからだった。いつものように三人で、五階へ行く。
可憐がふとつぶやいた。
「なんていうかさ、明日で本当にお別れなんだよね、先輩たちと」
私はそっけなく答える。
「別に。いままでだって、受験やらで三年生、ずっといなかったんだから、いまさら慣れっこだよ」
なんだか、自分の耳で聞いてもぶっきらぼうな言い方。真穂が言う。
「楓は、誰か知り合いとかいないの」
私は言う。
「いない、わけじゃない。けど、別にもう、会う必要もない人だし」
真穂が言った。
「そうなんだ――」
可憐が言う。
「私たちが受験生になるんだよね、これから」
私は言う。
「可憐はさ、どうしてそんなに東大に入りたいの?」
可憐は言った。
「私ね、一人の人が、一生に知ることができる量って限られてると思うんだ。どんなに頭のいい人だって、世界にある本をすべて読むことはできないでしょ。だけど、少なくとも大学に入って、今まで知らなかった世界を知って、勉強して、それから分かることってあると思うんだ。私はね、まだこれをやりたいって夢がないから、可能性をたくさん持ちたいんだ」
「えっ」
私はおもわず息をのみこんだ。そんな、それじゃあたしと何にも変わらない。それなのに、どうして私とあなたはこんなに違うんだろう。どうして私は、可憐のようになれないのだろう。
「楓」
真穂が言う。それから続けて言った。
「ねえ、今日、一緒に帰っていい? どうせ今日は部活ないし」
私は答える。
「いいよ」
学校の入口で、可憐と別れた後、二人で歩いた。私は、怖かった。いつあの話題が切り返されるかと思うと、怖くて堪らなかった。その時は、不意に来た。
「ねえ、うち、わかっちゃったよ。楓は」
「それ以上言わないで!」
そんなことを言うべきじゃなかった。私は、自分の口で、恐らくは弱々しく言った。
「そうじゃないの。私は――」
「どうしたらいいのかわからないんでしょ。違う?」
私は、答えることができなかった。
「うち、思うんだ。もし楓が本気になったら、なんでもできるんだろうなって。うちは、高校に入って、部活も勉強も一所懸命やってきた。バドミントンだったら学校の中の誰にも負けるとは思ってないし、勉強だってそこそこできてる方だと思う。だけどね、うち、悔しいけど思うんだ、もし楓が本気をだしたら、うちは勝てないって。」
「そんなこと」
「あるよ! 小さいころから頭いい頭いいって言われてて、絵だって上手で、バイオリンだってプロみたいに上手で、おまけに短距離だって学校の代表選手だったじゃない、速いからって、陸上部でもないのに試合に出ろって言われて、それで入賞して、楓は自分がどれだけ恵まれてるのかわからないの!」
「ごめん」
「ごめんじゃ許さない。許したくない。だけど……」
言いながら、真穂の眼から一筋の涙がこぼれるのが見えた。
「だけど、うちは楓の友達なんだよ、楓に幸せになって欲しいんだよ、そんなのおかしいかな。あなたのことが大嫌いだけど大好きなの。だって、楓は気づいてなくても、うちは何度も、楓に助けてもらったから。だから、うち、わかるよ。楓、まだやり残していることがあるんでしょ。きっと、武井先輩のことだよね? 何か言いたいことがあるんでしょ」
「でも、今更あたしなんて」
「そうかもしれないけど、楓はやらないで後悔したら、一生引きずっちゃうから。うち、わがままかもしれないけど、そんな楓は見たくない」
「……ごめん」
私は走った。逃げたかった。知ってたよ、そんなこと、だけど、たとえあなたを苦しめることになっても、たとえ私自身を苦しめることになるとしても、できないよ、私は弱い人間だから、それはあなたのわがままだよ、わかってよ……
カンカンカンとなる信号機を突っ切って、はるか遠くにいるであろう真穂を顧みることもせず、私は発射間近の電車に乗った。そうして、月曜日の朝、真穂に言われた言葉がよみがえる。
―マルデニゲテルミタイ―
なんであたし変われないんだろう、なんであたし、いつまでたっても同じ所で足踏みしたままなんだろう。私は家に帰った。
家に着くと、案の定、母親はヒステリックになっていた。
「昨日は何してたの!」
「……」
「答えなさいよ!」
「おばあちゃんの家に」
「そんなものとっくにないわ!」
「うるさい」
そう叫んで、私は部屋に閉じこもった。そのままベッドの上に言って、掛け布団を上にかぶせて、閉じこもってしまった。
気づいたら、辺りは真っ暗になっていて、携帯電話に、一通のメールが入っていた。父からだった。
『聞いたよ、おばあちゃんの家に行っていたんだってね。実は心当たりがあって、望月さんに電話をしたんだ。そしたら、楓が泊ったって聞いてね。でも、楓は望月さんのことは覚えてなかったって。だから、楓は本当におばあちゃんの家に行ったんだろう。だけどそこには何もなくて、望月さんにお世話になった。本当はお前を叱らなくちゃいけないのかも知れないけど、望月さんはお前のことを、本当にいい子だって言ってたよ。父さんは、楓が辛いのはよく分かってる。父さんだって気づいてたよ、楓がお母さんに、流産した弟に見立てられて育てられたって。だけど、お母さんももう反省して、お前をわかろうとしている。あとはお前次第なんだ。……』
知ってるよ、そんなこと。そんなのとっくに気づいてた。
眠れば世界が終わるような気がして、だけど眼をいくら閉じても眠ることもできず、結局私は夜半過ぎにベッドを立って、それから急に怖くなった。過去なんて関係ないって、何度思ったか。何度思っても、私の心の中に、ぽっかりと空いた穴がある。お母さんに愛してもらえなかったっていう、哀しみ。信頼してたお兄ちゃんにされた、性的暴行。知ってるよ、私がやっているのがただの言い訳探しだなんて。だけどそうでもしないと自分が駄目になりそうで怖くて、同時に、自分はそんな弱い人間なのだって気づきたくなくて、とっくに気づいているのに、それでも気づきたくなくて、わけわかんない矛盾をずっと繰り返してる。変わりたい、本当は私、変わってしまいたい。もっと自分がなりたいようになりたい。自分が生きたいように生きたい。そのためには、自分自身を変えるしかないんだ、でもどうやって? そう、果てのない自問自答は、永遠と続けられた。
10.
この日の朝も、こっそりと起きて、暗い中、颯爽(さっそう)と学校に行く。親は幸い起きなかった。今日は卒業式が合って半日だったから、お弁当はいらない。お腹がすいたらその辺のお店で買って食べればいい。そんなのは、お弁当を作らずに済む言い訳でしかなかった。作る物音で家族が起きるのは嫌だった。自分を騙すために作った言い訳なんだ。なんて卑怯な私。
いつもの電車に乗った。いつもの視姦男もいる。周りの乗客もいつも見慣れた人々ばかり。けれどなぜか真穂は乗ってこなかった。私がいやで時間をずらしたのだろうか。それとも、乗る車両を変えたのだろうか。思えば、私はこの電車に乗らなければ学校に時間までに着くことはできないけれど、真穂は別にこの電車の一番前のこの車両に乗る必要なんて全くなかった。いままで私のわがままに付き合っていただけ。なんだ、やっぱり私の方がわがままじゃないか。
学校に着くと、すぐにホームルーム。卒業式が始まる三十分前には体育館に着席していろとのことだった。私は言われたとおりに席について、ひとり考え込んでいて、けれど、時間はあっという間に過ぎてしまって、気づいた時には、アナウンスがかかった。
「卒業生の入場です」
みんな、ぱちぱちと手を叩き出す。私もしかたなく叩く。練習と本番との境が、なんだか私にはつかなかった。ずっと半ば焦点の合わない目のまま手をだらしなく叩いていると、武井先輩の姿が見えた。どうしよう、なぜだか、そんな気持ちになった。どうしようもなにも、私はこの場を立てないじゃないか。そんなことも一瞬忘れてしまって、手をたたくのもやめてしまっていた。隣の人が私をじろっと見ているのに気づいた。手を叩いていない人なんて、私しかいない。それから、武井先輩の座った場所を見失ってしまった。けれど、時間の流れはとても長く感じて、いつまでたっても式が終わらなくて、どんどんもどかしく感じてくる。式がやっと終わった頃には、なぜか私は自分が疲れきっているのに気づいた。
忘れてしまいたくて、私はそのまま何も考えず、湊君と帰った。部活に入っている人は先輩を送る会とやらをどこも開いていて、忙しそうだった。湊君はもう部活に入っていないから、私と一緒に帰ることができる。
湊君に、私は話した。
「この前の話、覚えてる? プシュケは誰にも愛してもらえなかったって話。あれね、続きがあって、プシュケの両親は、自分の娘に婚約者が現れないことを憂いて、アポロの神に訊ねに行くの、どうしたらいいかって。そしたら、山の頂上にプシュケを置き去りにして、『全世界を飛び回り神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人』と結婚させろって言われたの。みんなもちろん悲しんだけど、プシュケ本人だけはそれを受け入れて、山の頂上まで一人運ばれていった。」
「それで、プシュケはその恐ろしい悪人と結婚したんでしょ?」
「そのはずだったんだけどね、西風の神様ゼピュロスが、プシュケをこの世のものとも思えない豪華な宮殿に運んで、そこでは見えない声が、この世のものはすべてプシュケのものだと言って、食事も音楽も雑用も、なんでもしてもらえた。だけど肝心の夫は夜になって、やっと寝室に来るだけで、もう暗くなったあとだったから、プシュケにはその姿を見ることができなかった。そのうちプシュケは家族が恋しくなって、二人の姉を宮殿に招いた。プシュケの暮らしぶりに嫉妬した姉たちは、姿を見せない夫は本当は大蛇で、プシュケを太らせてから食べるつもりなのだと言った。そんなの嘘だったけど、不安だったプシュケには分からなかった。それを信じてプシュケは剃刀を持って、蝋燭を持って寝ている夫のところに近づいた。そこにいたのは、とても美しい神様クピドだった。解けたろうそくはプシュケの身体に落ちて、熱さで眼を覚ましたクピドは言ったんだ。『私は、姿を見られようと見られなかろうと構わない。だけど大事なのは、見てはいけないと言う、自分の言葉を信じてくれることだった。プシュケは、私の言葉より、誤った肉親の言葉を信じてしまった。それは、私よりも姉たちの方が大事ってことだ。だから、もう私は二度とプシュケには会えない。』」
湊君は悟ったように、「今まで、誰かを信じたことはある」
「そんなこと一度も……」私の口が固まった。湊君は続けて言った。
「楓がその話が好きなのは、自分に重ね合わせてるからでしょ、プシュケと楓を」
誰も信じたことなんてないと思っていた。両親はいるけれど、私はいつでも代わりで、厄介者だった。そんな私に、信じることを教えてくれた人がいた。
「今なら、まだいるかも知れないよ」
「でも……」
湊君は、私に対して、恐らく生まれて初めて、"キレた"。
「過去は変えられないだろ! おまえはいつまでも引きずって生きて行くのかよ、」
私は湊君に何も言えず、眼が合わせられなくて、ただ頭を一度下げて、そのまま学校まで走った。
走りながら、思っていた。
先輩は、こんな私を愛してくれた。どうして私は言えなかったんだろう。素直じゃなくてもいいんだよって言葉に、私はただ、素直になりたいんだって自分にわがまま言って、今までの男達とあなたを同じにして、どうせあなたも、私の顔が、私の身体が目当てなんだろうと決めつけて、違うって分かってたのに、嫌われるのが怖くて、あなたが好きになりすぎて、怖かった。別れを切り出されるのが怖くて、あなたに夢中になってゆく自分が怖くて、あなたの愛を踏みにじって、……
息を切らしながら、私が学校に着いた。もう、三年生の教室には誰もいなかった。ああ、やっぱり遅かったんだ。そう、自分に言い聞かせて、学校の玄関を出ようとしたとき、靴をはきかえようとしている私の隣を、歩いていた。私は彼を見て、うっかり唖然とした表情を隠せなくて、それを見て彼は言った。
「"大島さん"、久しぶり」
「お久しぶりです」
「どうしたの、今更」
「先輩が私をどう思っているかなんて分かっています。」
「まあ、楓はわがままな子だよ、今日だって」
「すみません。その、名前で呼んでもいいですから。その、たくさんご迷惑をかけて、本当にすみません」
もう、まともに顔が見れない。罵倒でも侮辱でもなにをされても構わなかった。私が悪いのだから。それに、本当に言いたいことはこんなことじゃなかった。私はただ、一言……
そのとき、私の頭がなでられて、見ると先輩は私の髪をなでていて、一言だけ言った。
「じゃあ、楓、元気でね」
ちがう! 私が一番言わなきゃいけないことは謝ることじゃない。私は……
帰りの電車に乗ろうと駅に着いた時、もう時刻は夕方になっていた。もう、卒業式が終わってから4時間以上経っていた。私は、結局自己満足だった。すみません、なんて、それは彼じゃなくて、私だけが救われる言葉でしかない。わかっていながらそれしか言えなかった。自分が嫌になって、目線がぼやけて、ぼうっとしていた。その時、電車が出る音がした。乗り遅れてしまったのだ。私は仕方なく、電車が出て、誰もいないはずのホームに座ろうと思った。ホームまで行くと、遠くに誰かがいた。近づきながら見てみると、真穂だった。真穂は私を見て、笑いながらこう言った。
「言いたいことは言えた」
私は、思わず涙が溢れそうになって、照れくさくて、彼女に見えないように抱きついた。真穂は驚き交じりに言った。
「どうしたの、楓」
泣き声にならないようにゆっくりと、やっと言えなかった言葉を言った。
「ありがとう」
二重生活
2011年5月26日作