さようなら

戦後のどさくさの中、戦争の傷を受けながらも懸命に生きた人たちを描いたものである。主人公の正志は幼くして叔父叔母のところに預けられる。正志は小学生のときに結核性小関節炎に罹り入院することになる。同じ病室にいた由美子という中学生と親しくなり、そこで退院の前日に死んでしまった由美子に言われた「正ちゃんにはやることがある。」との一言がその後ずっと正志を悩ませることになる。高校三年になった正志は受験勉強のために、祖母が避暑のために来ていた福島の沼尻温泉に行くことになった。正志はそこで由美子の声を聞く。大学生たちと山登りをした翌日、育ての親である健吉が倒れたことを知らされる。健吉は一度も意識を回復することもなく逝く。正志は進学するか健吉のあとをついで商売をするか悩む。模擬試験を受けるため祖母のいる東京に来た時、子猫が迷い込む。正志は眠れずにいらいらしながら子猫の鳴き声を聞いていたが、やがてはっと気づく。病院で由美子に言われた「正ちゃんにはやることがある。」とは、このことだったのかと。由美子や自分がそうであったように親のない子供たちのために生きていくことが自分に与えられた使命であることに気づくのであった。


 花に嵐の譬えもあるさ さよならだけが人生だ (井伏鱒二 訳詩)
 
さようなら

(一)
 実際のところ、山本健吉はいわゆる親孝行者であった。自分は新婚間もないのに母親と兄の子を引き取ったのである。兄伸介夫婦は子供を母親に預けたまま遁ずらしてしまっていた。母親加奈子は身体があまり丈夫ではなく、若い頃肺を患ったこともあった。伸介夫婦の子供はまだ幼く五歳であった。。時は昭和二十六年である。日本の誰もが貧しかった。

 健吉の嫁和子には顔に痣があった。そのせいかどうかは分からなかったが、健吉はしょっちゅう女を作っていた。あるとき、和子は生まれたばかりの子を抱いて「死んでやる。」といって家を出て行ったこともあった。健吉は半日探し回りやっとの思いで家に連れ帰った。それからはさすがに暫くはおとなしくしていたが半年もたたないうちにまたぞろ始まった。和子はおとなしい性格であった。そして自分の顔に痣があることにコンプレックスをもっていた。徐々に健吉の遊びをみてみぬふりをしはじめるようになっていった。夜中にそっと床を抜け出す健吉に一晩中泣き明かしたことが何度もあったが、わが子を抱きしめて辛抱した。そうしたつらい日々ではあったが、日常の健吉は和子に対してすこぶる優しかった。和子がかろうじて辛抱できたのは健吉のこの優しさがあったればこそであった。                                                                                     
加奈子は連れてきた伸介の子を異常なほど愛した。加奈子にしてみれば親のない孫がかわいそうでならなかったこともあり、また、自分が防波堤にならなければならないと思っていたこともありで、和子にはかわいがり方が足りない、とことあるごとに文句を言っていた。和子はそのことで健吉にたびたび愚痴をこぼしたが健吉はよくその愚痴を聞いてやった。ただ母親にそれをまともに言うことはなかった。どちらの味方をしても上手くいかないことを知っていたからである。

 伸介と健吉は六つほど歳が違う。加奈子が伸介を生んで四年ほどして夫の直之助は脊髄カリエスを患い半年ほどで死んでしまった。その後直之助の友人柿岡がなにくれとなく加奈子を助けていたが、そうこうするうち一年ほどして加奈子は健吉を孕んでしまった。柿岡は加奈子との結婚を望んだが、柿岡家は断固としてそれを許さなかった。加奈子はいったん水戸を離れ古河にいる姉のところに身を寄せた。健吉はそこで生まれた。二年ほどして加奈子が水戸に戻ったときには柿岡はすでに結婚していた。加奈子にしてみれば柿岡の裏切りは腹に据えかねたが、直之助の子伸介のことを考えるとそれでよかったのかもしれないと思うようになっていった。
 加奈子は直之助が残したわずかばかりの財産で雑貨屋をはじめた。加奈子はなんとしても二人の子供を自分ひとりで育てねばと意地になっていた。柿岡は実家に隠れて時々加奈子に会いにきたが、加奈子はその都度冷たくあしらった。健吉の養育費だけでも払わしてくれと言ってきたがきっぱりと断った。加奈子にしてみればずるずると関係を持ちたくなかったのである。加奈子の家は当時は没落してしまっていたが先祖は代々水戸家に仕えた武家であった。身体は弱っかたが気丈夫であった。それと、直之助が亡くなってから五年ほどして直之助の両親が相次いで亡くなったことから思わぬ遺産が加奈子に入った。そうしたこともあり柿岡はしだいに遠ざかるようになっていった。
 加奈子は女手一つで二人の子を育てあげた。伸介と健吉は、伸介が身体も弱く精神的にも優しいのに比べ健吉は所謂権太であった。学業は二人とも優秀であったが特に伸介は優れた。加奈子は伸介には学問を続けさせたほうがよいと思ったが、健吉は学問より商売に向いていると思い、思い切って尋常小学校を出るとすぐに東京へ丁稚奉公に出してしまったのであった。
(二)
 伸介は学業もできたこともあり,順調に進学していった。しかしながら、身体が弱く思ったところへの就職はままならなかった。世の中は戦争ムード一色となっており身体がすぐれない伸介は敬遠された。ここで伸介の人生を大きく変える出来事が起こった。徴兵検査不合格の通知が舞い込んだのである。世の中は男子たるもの軍隊に出てお国のために働くことが第一等と考えられていた時代である。伸介は落ち込んだ。自分が駄目人間と烙印を押されたような気持ちになった。一方加奈子は内心喜んだが世間体を考え内に篭った。伸介が徐々に変わっていったのはこうした雰囲気の中にあったからである。酒びたりの生活が続くようになり芸者遊びもはじめるようになっていった。そこで知り合ったのが、芸者に出て間もない幸子であった。幸子はまだ十八歳で初々しく、伸介は世の中にこんなかわいい生き物がいるのかと思うほど惚れ込んでしまった。加奈子は伸介のそうした遊びを見てみぬふりをした。伸介の内心の辛さを分かっていたからである。しかしながら、加奈子のそうした伸介に対する甘やかしがやがて悲劇を招くことになる。
 伸介は幸子を嫁にほしいと言い出した。加奈子は単なる遊びと思っていたのに、芸者と結婚と聞いて激怒した。以前の伸介であれば、母親に逆らうことなどしたこともなく、引き下がったであろうが「もしどうしても駄目だと言うなら家を出て行く」と言い張った。加奈子はしぶしぶ了解した。しかしながら、伸介はそのことがあってから母親に対して従順でなくなっていった。幸子をもらってからはしばらく雑貨屋の仕入れなどに精をだしたりしていたがやがて株に手を出すようになっていった。
  証券会社の人が頻繁に出入りするようになり、
 「山本さんは勘がいいねー。A社は急進してますよ。当分業績もいいし伸びそうですね。」
 「これからは紡績だと思っているがどうかな。」
 「そうですね、C社なんかどうでしょう。今はパッとしませんがこれから伸びるかも知れませよ。」  
 こうしたやり取りが頻繁に聞かれるようになっていった。
 加奈子は黙ってそのような会話を聞いていたが、内心不安でしかたがなかった。しかし伸介はすでに加奈子の言うことなど聞かなくなっていたのである。
「母ちゃんは俺のやることに何でも反対だからな」などと事あるごとに言うようになっていた。
 株の取引はおもしろいように儲かった。株についての情報や本などを読み漁り、独自の罫線を作ったりするまでなっていった。
(三)
 一方健吉の青春時代は悲惨であった。東京に丁稚奉公に出されたが、一所に長くいることが出来ず、しょっちゅう水戸に帰ってきた。
性格が直情径行型で気に入らないと誰とでも喧嘩をした。奉公先は30箇所以上も変えたであろうか。
「母ちゃんは兄貴ばっかりかわいがって俺はおもしろくねー」
帰ってくると決まって同じ台詞を加奈子にぶっつけた。
「だってお前は勉強がきらいだって言うからしょうがないじゃあないか。」
「きらいだけど、俺だってやりゃあ出来たんだ。」
「いまさらそんなことを言っても仕方ないじゃあないか。あのときはお前も納得したんだから。」
「ところで、兄貴は?」
「また株屋にでも行っているんだろうよ。」
「儲かってんの?」
「知りませんよ。家の手伝いもしないで、伸介はすっかり変わっちまった。」
「義姉さんとはどうなの?仲良くしてんの?」
「あの子が来てからですよ、伸介が変わっちまったのは。」
 加奈子は伸介が変わったのは幸子のせいと思い込んでいた。幸子の話になるとますます機嫌が悪くなってきた。
「さーて帰ろうかな、今日帰らないとまた辞めさせられるからな。」
「あんたもそろそろ長く勤めないとねー。」
「わかっているよ。金貯めて嫁でももらわんとね。」
 健吉に召集令状が来たのは、それから間もなくであった。
 
軍隊での生活は学歴の無さがそのままの形で出た。丁稚奉公に出ていた健吉は、そうした扱われかたに慣れてはいたものの何度か上官を殴る衝動にかられた。その度に仲間に抑えられた。
「もうすぐ終わるから我慢せい。終わったら、みんなであいつを思いっきり殴ってやろうぜ。」
 そうこうしているうちに、戦争は終わった。八月の暑い夏であった。玉音放送を聴き、戦争が終わったことを実感した。終わってみると、上官のことなどすっかり忘れ、仲間は三々五々自分の故郷に戻った。
(四)
 健吉は水戸に戻り商売を始めようと思った。
「母ちゃん、いつまで勤めても埒が明かないし商売を始めたいがな。少しばかり援助してくれ。」
「駅前に少しばかり土地があるからそこをお使い。ところで何をやるのかえ?」
「金もねえし、はじめは八百屋かな。」
「そうだねー。今はとにかく食べ物商売がいいね。ところで、お前に縁談が来ているんだがどうかね。」
「馬鹿な、所帯持つような金なんかねえよ。第一俺なんかに来てくれる女子なんかいるわけねー。」
「先方さんは乗り気なんだがね。なんでも学校の先生らしいよ。歳はお前より三つほど下らしい。ただ顔に目立たないけど痣があるらしい。嫌だったら断ってもいいけど、一度会ってみたらどうかね。」
「いまさら顔なんざあどうでもいいが、働き者かどうかだな。なんせこれから働いて働いて金ためにゃならんからな。学校の先生なんかしていちゃあまず無理だな。」
「お前の悪い癖だよ、そうやってなんでも決め付けるのは。まあ一度会ってごらんよ。」
「お見合いってやつか、あまり性にあわねえがなー。」
 健吉はこのとき少しばかり将来のことを考えていた。伸介には子供が一人できていたが、株で大損してから夫婦で家を出たまま所在がしれなくなっていた。母親加奈子はまだ60歳を過ぎたばかりであったが身体はあまり丈夫ではなくこのまま店をいつまで続けられるかしれなかった。どうせ断わられるにきまっている、思い切って、子持ちの母親付だがそれでもいいかと言ってみようと思った。健吉にはこういった非常識なところがあった。自分でこうときめると世間体などまったく気にならなくなるのである。これは生まれつきの性格もさることながら、自分の生の謂われがそうさせてきたのかもしれなかった。子供のころは喧嘩っ早く、気に入らないと相手かまわず喧嘩した。自分より何学年も上の子と喧嘩して大怪我をしたこともなんどかあった。しだいに「あいつは気違いだ。近寄るな。」などと言われるようになり子供たちから遠ざけられるようになっていった。伸介はそうした健吉をかわいがった。健吉も兄伸介にだけは素直であった。健吉にしてみると六つほど違う兄は父の代わりだったのかもしれない。兄貴の子、正志は健吉によく懐いていた。万が一兄貴夫婦が帰ってこないときは俺が育てると心にきめていた。
 見合いの席上健吉は「俺は学歴もねえし、今は金もねえ。しかし、働いてかならず大金持ちになる。一緒に働いてほしい。」と言った。そして、二人っきりになったとき「実は兄貴の子が母親といるが、引き取ることになるかもしれない。」と切り出した。和子は驚いたが、噂で聞いていたこともあり、黙って頷いた。和子にしてみれば、自分には顔に痣があり、会った瞬間断られると思っていたが、あれやこれやと自らのほうの欠点を言い、自分の決定的欠陥と思っていた顔の痣のあも出さない健吉に男らしさを感じてしまっていた。一方健吉は学校の先生と聞いていたので、インテリぶった嫌な女子だろうと高をくくっていたが、そのような素振りはなく意外におとなしく芯は強そうであったが、優しい性格であることにこれはと思う気になっていた。
 ほどなく、祝儀が行はれたが、伸介夫婦は来ず和子の側で大方宴席は埋まるものであった。
 加奈子はその晩、いままで辛抱していた糸が切れたように泣いた。自分があれほど愛しかわいがった伸介が弟の結婚式にも出てこれなくなるとは、人生の理不尽さをひしひしと感じるのであった。あどけない顔をして脇で寝ている正志を見て思わず声を上げて泣き崩れた。
 加奈子が身体を壊したのはそれから半年もしてからであった。健吉は店をたたんで自分のところへ来るように勧めた。加奈子は迷ったが正志のことを考え行くことにした。
 リヤカーに家財道具を乗せ四キロばかり離れた健吉の家に向かった。
「おばあちゃん。どこにいくの?」
「健吉伯父さんのところだよ。」
「お母ちゃん、お父ちゃんが帰ってこないから?」
「正志、おばあちゃんがいるから心配しなくていいよ。おばあちゃんがきっとお前のことは守るからね。」
正志はこのときの状況を大きくなってからも鮮明に覚えていた。暑い真夏の太陽が二人を容赦なく照らしていた。正志はリヤカーの後ろについて歩きながら、わけも分からず妙に悲しく、涙があとからあとから出てきた。
(五)  
 健吉夫婦は懸命になって働いた。一年のうち休みは正月二日だけで、来る日も来る日も朝早く仕入れた野菜や果物を売り、その金でまた仕入れて売る、その繰り返しであった。そうこうして三年ほどしてようやく多少の貯えが出来てきた。子供も女の子が生まれた。和子にはこの時が幸せの絶頂であったろう。健吉に女ができたのは、和子が産後二週間ばかり実家に帰っているときであった。

 和子の実家は農家であった。五人兄妹の三番目で上に兄と姉がおり、下に弟と妹がいた。富農というほどではないが暮らしは裕福であった。和子が自分の顔に気付いたのは小学三年のときである。友達が「和ちゃん顔に何かついてるよ」という、なにげない言葉が意識の始まりであった。その日家に帰ってから自分の部屋に入りしみじみと自分の顔を見た。、日に焼けた顔の左の頬に少しばかりではあるが色が濃くなっているところがあった。両親からも兄妹からもこのことを言われたことはなく、今はじめて気付いたのであった。この痣は生まれたときからあったわけではなく、ここ一年ほど前から少しづつ目立ち始めたのであった。目立つといっても真っ黒に日焼けした中にあって、気を付けて見なければわからなかった。和子が気付いてから三日ほどして母親が「和ちゃん前から気にになっていたんだが顔のシミがなかなかとれないねぇ、お医者さんに診てもらおうかねぇ。」と言い出した。
 それから一月ほど地元の医者を数箇所あたったがいい手立てはないとのことであった。
 和子が家に閉じこもりがちになったのはそれからであった。あれほど外で遊ぶのが好きだった子が学校から帰ると自分の部屋に入ったきり出てこなくなった。母親をはじめ兄妹も心配したがどうしようもなかった。ただ学校には真面目に行った。もともと学業は出来たが、それ以来驚くほど成績は伸びた。和子は勉強することで気を紛らわそうとした。いままで外で遊んでいた時間を勉強に代え、夢中で勉強をした。クラスでトップになり学年でもトップ争いをするまでになった。一方それにつれて友達は彼女を敬遠するようになり、ますます孤独感は増していった。
 やがて中学に入り、半年もした時、和子にとって一生忘れられない出来事が起こった。
 学年で評判の出来る子で、女子生徒憧れの子が和子に声をかけてきたのである。
「山田さん、いつも一人でいるようだけど僕と友達になってくれないかな。」
和子は最初、彼がふざけているのかと思った。和子は馬鹿にされていると思い顔を真っ赤にして「どういうこと?」と声を少し荒げて言った。
「いやかな、ときどき話し相手になってほしいんだけど。」
和子は彼が本気だと知って顔ばかりでなく身体中が真っ赤になった。下を向いたまま黙ってしまった。
「そうか、いや、ごめんなさい。」といって彼はばつ悪そうに去って行った。和子はしばらく呆然としてその場に立っていた。
 和子が男の子から誘われたのはこれが最初で最後であった。和子はそれ以来、内向的振る舞いこそ変わらなかったが心の窓に一筋の光が差し込んできたように明るくなった。
「和ちゃんこの頃明るくなったね。学校が楽しいみたいだね。」
「そんなことなけど。」と言いながら、和子は母親に心の中を見られたような気がして真っ赤になった。母親は他の兄妹がなんの心配もなく順調に育っているのに対し、和子だけが心配の種になっていた。和子が最近明るくなってきたことにも、年頃になり恋をしていると直感していた。それがまた気がかりでもあった。
 学業は少しばかり落ちてきたものの女の子ではトップクラスであった。高校は地元の女子高に入った。男子がいないぶん和子にとって気が楽であったが、友達が彼氏の話をするときにはいつも黙って聞き役にまわっていた。
 高校二年の夏休み、友達と近くの海へ遊びに行ったときの事であった。
「ねえ和ちゃん、あそこ見て、彼中学の時一緒だった岡田君じゃない。彼女なんか連れて。」和子が指さす方を見ると、中学の時和子に声をかけてきた彼が、彼女と思える子と楽しそうに話をしながら歩いていた。あれからもう五年も立っており、和子も遠い昔のように心の中で風化しようとしていたが、しかしながら、この時を境に和子は心の中でひそかに自分は一人で生きていこうと決めた。
 学校の先生になろうと決めたのも一人で生きていける職業と思ったからであった。
(六) 
 「母ちゃん、明日健吉が帰ってきたら久しぶりに三人でどこか行こうか。」
「そうだね。本当に久しぶりだねぇ」
「大洗当たりがいいかな。」 
「海水浴にはまだ少し早いけどその分人が少なくていいかもしれないね。」
 加奈子は大洗海岸には幼い頃を含め様々な思い出があった。まだ結婚する前、直之助と柿岡と三人で遊びに行ったときもあった。今思えばあの頃が一番楽しかった。なんの屈託もなく二人の男の子と遊べた。将来にたいする漠然とした不安があったが目の前の楽しさがそれをすっぽりと覆っていた。人はどうして子供のままでいられないのだろう。はるか昔になってしまったさまざまなことが一瞬のうちに蘇ってくる。
 突然時間が飛んで伸介と健吉と大洗海岸にいた。伸介と健吉がなにか話をしていた。
「兄ちゃんはいいな、頭はいいし顔だって俺なんかよりずっといい。」
「健、お前は身体が強い。兄ちゃんは身体が弱いからだめだ。」
「兄ちゃん、俺、金持ちになっから、そうしたら母ちゃんも兄ちゃんも世話すっから大丈夫だ。」と言う健吉の一際大きな声が聞こえた。
すると、いままで若者だった伸介が急に大人になり、丁寧に頭を下げ「健、よろしく頼む。」と言った後、加奈子の前へするするっと来て意外なことを言い始めた。
「母ちゃん、これまでありがとう。本当に海山の恩をうけながら何にも返せなかった。正志を頼みます。母ちゃんといつまでも一緒に暮らしたかった。それを思うと胸が張り裂けそうに悔しく何と言ってお詫びしていいかわからない。」と言って伸介は加奈子に深々と頭を下げたのだ。と、そのとき、すうっと姿が遠ざかり始め、一言「さようなら」と言う声が聞こえた。
 加奈子はそこではっと目が覚めた。身体中から冷や汗が出てきた。
 伸介夫婦が入水自殺したという知らせが届いたのは、その日の夕方近くであった。加奈子は目の前が真っ暗になった。どのくらい茫然としていただろう。
健吉が「兄貴が死んだ、兄貴が死んだ。」と言いながら大声で泣き叫んでいるのを傍らで聞いて、はっとわれに返った。加奈子は気丈なところがあった。正志がいる。正志がいる。正志だけはなんとしても守らにゃならぬ。その時の加奈子の形相は鬼と化していた。悲しみをすべて心の奥に仕舞い込み、毅然として立ち上がった。
「健吉、泣いてる場合でない。あとの始末はきちんとしなくてはいけない。」
 若い頃、加奈子は祖父に言われたことがあった。「女子はな、男が死んだ時が勝負なんじゃ。泣くのは全てを終えてからだ。それが武家に育った女子の心得じゃ、いいな。」当時は祖父の言ってることが時代がかっていてよくわからなかったが、正志がいる今、加奈子は祖父のこの言葉が気丈に振舞う唯一の拠り所になっていた。
 
(七) 
 「正志、どうした、足を引きずって。痛いのか?」
「ちょっとだけ」
「いつからだ」
「運動会の練習を始めてから」
「挫いたのかな、医者に診てもらおう」
「和子、正志を病院に連れて行く。店を頼む」
健吉は正志を自転車の後ろに乗せて協同病院に連れて行った。たいしたことはないだろうと思っていたが、医者の診断は思ったより長くかかった。
二時間ほどして「山本さん、おとうさんだけ入ってください。」と呼ばれた。
「どうでしょうか」
「結核性股関節炎です。すぐに入院してください。それにギブスをはめなければなりません。」
健吉は思いもかけない医者の言葉に一瞬頭の中が真っ白になった。
「どのくらいかかるのですか?」
「えっ、治療費のことですか?」
「あっ、いえ、治るまでにどくらい・・・」
「様子を見ないとはっきりしたことは言えませんが、半年以上は通常かかります。」
健吉は次の瞬間正志がびっこになるかもしれないことを恐れた。
「先生、それで足はどうなんでしょうか?元通りになるのでしょううか?」
「どのくらいかかるかによります。今はなんとも言えません。」  
 病院からの帰り道で「正志、入院しなくちゃならんらしい。まあ心配すんな。かならず治るから」と言いながら健吉は正志にわからないように涙を拭いた。なんということだ。兄貴に申し訳ない。立派に育てあげると心で約束したのに足が悪くなるとは。ひょっとしたらびっこになるかもしれない。医者に言われた一言が健吉の心に残った。「栄養不足です。特にカリシュウムが不足ぎみです。」言われてみて気付いたが、我が家の食事は貧しかった。お金に余裕が出てきてからも食事は以前のままであった。正志だけではなく家全体が粗食な生活であった。健吉は丁稚奉公に出されて以降食事とは粗食が当たり前と思っていたのである。
「どうでした」 
「大変な病気だ。ひょっとするとびっこになるかもしれない。」
「ええっ。」和子は絶句した。
「栄養不足だと言われた。」
「そんな、きちんと食べさせていたじゃないですか。」
「カリシュウムが足りないそうだ。」
和子はそれを聞いて内心やはりそうであったか、という思いがあった。嫁いで来て最初に感じたのが食事の貧しさであった。実家がそれなりに裕福な農家であったので食事で不満をおぼえたこたはなかったが、朝は卵と漬物、昼は漬物だけ、夜になってはじめて魚か肉が食べられたが、それもみんなで分けて食べるというものであった。
「明日から牛乳をとれ。それに小魚だ。」
「いつから入院できるのですか?」
「空き次第だそうだ。」
「お母さんに知らせないとねぇ。」和子はそう言って顔を曇らせた。加奈子に非難されるのが分かっていた。それは健吉も同じであった。
「仕方ない。俺が言う。少々文句をいわれるかもしれないが、なってしまったことは元にもどせない。」
 夕飯を終え、正志が寝てから健吉は加奈子に言った。
「母ちゃん、正志が入院しなくちゃぁならんようになった。今日病院に連れてったら医者に言われた。」
「やはり足かえ?少し気になっていたが。」
「結核だそうだ。」
「結核って、結核は胸の病気じゃないのかね。」
「まれに関接につくらしい。」
「それでどのくらいかかるのかえ?」
「半年はかかるらしい。」
 加奈子はとくに文句を言うことはなく、しばらく黙ったまま何かを考えているようであった。
「母ちゃん、申し訳ない。」といって健吉は頭を下げた。
「お前が謝ることはない。」加奈子は別のことを思っていた。伸介のことである。加奈子の怒りは伸介にあった。きっと天国で正志のことを見守っていてくれていると思ったのに、なんということか。それもこれも自分が悪かったか。もう既に死んでしまった者に責任はない。加奈子は混乱していた。
「母ちゃん、きっと治るから心配しなくていい。」健吉は自分に言い聞かせるようにボソッと言った。
「そうだね。きっと治る。だってなんにも悪いことしてないもの。」加奈子はうっすらと涙を浮かべて独り言のように言った。それにしても人生の理不尽さに加奈子はただ唖然とするばかりであった。
(八)
 共同病院は千波湖の近くにあった。千波湖から見ると右手にある。左手には偕楽園がある。正志には千波湖も偕楽園も遊び場であった。一日中外にいた。学校から帰ると、カバンを放り投げて飛び出すように家を出た。遊び相手がいなくても夕方になるまでは外にいた。正志には外で遊ぶことがそしてたとえ遊び相手がいなくとも一人でいることが安らぎであった。家には祖母がおり嫌な事はなかったが、正志は小学三年のころから叔父叔母に距離を感じるようになっていた。それは彼らが正志に嫌なことをしたわけではなく、むしろ自分の子供以上に気を遣ってくれていたが、正志にはそれがまた身の置き所のない心のやすまらない雰囲気を作り出していたのである。
 正志は五年生になった。年に一度の運動会がまじかに迫っていた。正志には楽しみがあった。五年生と六年生が運動会の最後にグランドを十周するマラソンである。正志は五年生であったが、マラソンには自信があった。千波湖は一周すると四キロほどあるが、正志は雨の日以外は毎日そこを駆けていた。駆けているときが正志にとって一番幸せなときであった。何にも考えない、考えても仕方ない、ただ前を向いて走るだけ、正志は毎日走った。例年マラソン大会では十周する間、校内放送で実況放送をする。「今何年生の誰々君がトップになりました。」などと放送するのである。正志は走りながら「五年生の山本君がなんと六年生を抑えてトップにたちました。」などと放送されることを想像し胸を弾ませながら練習をしていたのである。ところがあと一週間後に迫って、正志は左足に違和感を覚えた。走ろうとするとギクッとして足が前に出ない。関節が痛い。それでも最初のうちは無理をして走った。ところが痛みはだんだん酷くなるばかりであった。病院で診てもらった結果入院と聞いて正志は身体中の力が抜けていくのを感じた。正志にとってはすべてが終わってしまったのだ。しばらく呆然としていたが、正志はふと、この絶望感は二度目だ、かって同じような感じを味わったことがある。もう遠い昔になってしまったが、祖母が引くリヤカーの後ろで感じたものと一緒のものだ。あの時も無性に悲しかった。

 病院に行ってから丁度一週間後に入院した。病室は四人部屋であった。すでに二人入室しており病室の前に名札が掛かっていた。中年の女性が一人もう一人は中学一年の女の子がいた。名札には木下由美子とあった。正志はギブスを腰から左足全体に嵌められており、寝返りをするのがやっとの状態になっており付き添いが必要であった。加奈子が付き添い、あいてるベットに寝起きした。正志の生活は一変した。いままでじっとしていることなどなかったのに、一日中ベットに寝ていなくてはならない。人一倍運動が好きだった正志には耐えられなかった。入院して二週間が過ぎて正志はよからぬことを思いついた。なんとか動きたいという思いから夜中に病室を脱出する作戦をたてたのである。夜中に皆が寝静まった頃、ギブスをはずし、そっと病室を抜け出した。病院は夜中でも明るく定期的に見回りがまわっている。正志はその時間を覚えており、なんなく病院から出た。足はまだ痛い。遠くには行けない。びっこをひきながら病院の周りを歩った。一日中寝ている正志には外の空気がたまらなく心地よかった。
 ところが、そうしたひそかな楽しみも三日目に見つかってしまった。正志はひどく怒られた。怒られたが怒られて当たり前であることは分かっており、正志は平然としていた。加奈子は医者に何度も頭を下げて謝っていた。正志にはそのことが辛かった。正志にとって祖母はこの世の中で最愛の人であり、自分が存在できるのも祖母がいたればこそであった。
「ばあちゃん、ごめんなさい。もうしないから。」
「約束だよ。辛いだろうけど、早く治さないとね。辛抱だよ。」
 正志はそれ以来、来る日も来る日も天井と脇の壁だけを見る生活が続いた。ギブスも自分でははずせないようになり、わるさのしようもなくなった。同じ部屋の女の子由美子は無口で加奈子がいるときはほとんど口を利くことはなかった。たまたま二人っきりになったとき、
「正ちゃんはいいな、あんな優しいおばあさまがいて。」と話しかけてきた。正志はこの女の子は自分とは違う良いところのお嬢さんだろうと思っていたので次の言葉に驚いた。
「私は一人ぼっちなの。」
「お父ちゃん、お母ちゃんは?」
「いないの。」
「えっ。」
「私が小さい頃二人とも死んじゃったの。」
 正志は由美子がそう言いながら窓から空を見上げている横顔を見て、なんて綺麗な人だろうと思った。髪は少し長く伸ばしていた。黒目がきらきらしていた。透き通るような白い手がときどき髪を撫でる。
「僕もお父ちゃんもお母ちゃんもいないよ。」
「えっ。ときどき来る人はお父さんじゃないの?」
「ううん。伯父さん。」
「そうなの。」
 由美子は驚いたような顔をしたが、自分と同じ境遇と聞いて急に正志に親しみを覚えた。由美子の両親は幼いときに相次いで亡くなった。父親はサイパンで戦死した。その知らせを聞いてまもなく、水戸にも空襲がさかんになり、運悪く焼夷弾が家を直撃したのだ。そのとき母親がそれをうけ即死した。ほんのすこしばかり母親から離れていた由美子は奇跡的に助かった。その後、叔父や叔母の親戚のところに預けられたが、結局、孤児院に預けられることになった。由美子は母親に似てうまれつき心臓が悪かった。親戚中が、身体が弱い幼い由美子を嫌った。自分たちの生活で精一杯だったのである。
「お姉ちゃんのところにときどき来る人はお母ちゃんじゃないの?」
「あの人は施設の人よ。」
「施設?」
「そう、施設。私はね、孤児院にいるの。でも寂しくなんかない。みんな良い人だし、それに・・・」と言いかけて、由美子はそうかこの子も同じなんだ、と思った。
 しばらくそうこうしてるうち、正志の様子がおかしくなってきた。すると突然、
「お姉ちゃん、僕ウンチがしたくなちゃった。」正志は我慢していたが我慢できなくなって顔を真っ赤にして意を決して言った。ギブスをはめているため大小便はオマルと尿瓶でしていたのである。女の子は正志のベットの下に置いてあるオマルを取出し新聞紙をそこに敷いた。つぎに尿瓶も取り出し、ひょいっと正志の布団をめくった。正志は自分のものが少し興奮してか大きくなっているのを見られたと思い、恥ずかしさで思わず手をそこにもっていった。女の子はかまわず正志の腰の下にオマルを入れ、そして尿瓶を手で隠したところに置いて、またひょいっと布団をかけた。まもなく部屋中に匂いが立ち籠ろうとした時ドアが開いて中年の女性が帰ってきた。
「うっ、くさいっ。」と言って顔をしかめた。すると由美子はきっとした顔を彼女に向けて、「最中ですから。」と言った。女はわざと慌てるようにしてドアを閉めて出て行った。
「大嫌い。」由美子は怒ったように言った。やがてことが済むと由美子は再びひょいっと布団をめくり、オマルと尿瓶を取り出し、トイレに行った。正志は妙な気持ちになっていた。このようなことをしてくれるのはいままで祖母しか経験がなかった。いままで感じたことのない甘美さが正志を包んでいた。ただ、由美子に女性を感じるにはもう少し時が必要であった。
 すべてが終わったあと、
「正ちゃん、約束してくれる?今日のことはおばあさまに内緒にしてほしいの。」と由美子が言った。
「どうして?」
「どうしてって、うまくは言えないけど、正ちゃんとの秘密ということかな。」と言って由美子は笑った。正志は由美子が笑ったのを始めて見た。笑ってもどこか寂しげな顔であった。
どうしてそんなことを言ったのか、由美子にも自分の気持ちがよく分からなかったが、なぜかお礼を言われたくなかったのである。
「うん、わかった。約束するよ。」
「ありがとう。指きりね。」といって白い小指を正志のほうに差し出した。
 加奈子はまもなく帰ってきたが、何事もなかったように二人はふるまった。加奈子が病室を出たとたん、二人は顔を見合わせて大笑いした。たいしたことではないが、二人だけの秘密を持ったことが正志にも由美子にも愉快であった。
(九)
  由美子は相変わらず無口であったが、ふたりっきりになると良く話しかけてきた。
「正ちゃん、お姉ちゃんはね、もうすぐ天国に行くの。お父さんとお母さんがいるところに。」
「お姉ちゃん、それって死んじゃうってこと?」
「そう。」
「そんなの嫌だよ、死ぬなんて。死んだらもう会えなくなちゃうよ。」
「そうねー、会えなくなるわねー。でもいつでも会えるわ。私がいなくなっても正ちゃんの記憶の中にいつまでも置いておいて頂戴。そうしたら、正ちゃんが会いたくなったらいつでも会えるわ。」
「僕も死んじゃおうかな、死んだらお父ちゃんやお母ちゃんに会えるの?」
「正ちゃんはまだ早いわ。」
「早いって?」
「そう、まだ早いのよ。」
「なぜ?」
「正ちゃんはまだ一杯やることがあるから死んじゃだめなの。」
「お姉ちゃんはやることがないの?」
「あったんだけどもう失くなちゃったの。」由美子は寂しそうに言った。
「でもね、正ちゃんに会えてよかった。天国に行ったらお父さんとお母さんに正ちゃんのことお話できるもの」
 正志はそれ以上話が出来なくなった。正志にとって死とは、両親の死であり憎むべき出来事であった。これからの自分の運命がどうなるかはわからないが、少なくともいままでの人生が両親の死によって流されてきたことは間違いないことであり、そんな憎むべき死が由美子に訪れるとは、正志には信じられなかった。
「お姉ちゃんは大丈夫だよ。きっと治るよ。僕が神様にお願いするから。」
「ありがとう。正ちゃんはやさしいのね。」
 そんな会話があって数週間がたった。由美子に変わったことは何も起こらなかった。正志がそんな会話があったことを忘れかけようとしたとき、施設の人が来て
「明日、退院出来るそうだ。由美ちゃんよかったね。」という話し声が聞こえてきた。正志は、明日由美子が退院と聞いて急に悲しみが込み上げてきた。胸が締め付けられような気がすると同時に涙が溢れてきた。布団を被り出てくる涙を見せまいとした。
「由美子ちゃんよかったね。」と言う加奈子の声が聞こえる。「ありがとうございます。」と言う施設の人の声が聞こえたとき、
「おばあさま、私は正ちゃんといて楽しかったわ。おばあさまも私のこと忘れないでね。私はお二人のこと忘れないわ。どうもありがとう。」と言う由美子の声が聞こえた。あの無口な由美子が加奈子に挨拶をしたのだ。正志はそれを聞いてはっとした。あの会話が急に正志に蘇った。
「おばあさま、正ちゃん、さようなら。」。由美子の顔はいままでにみたこともない晴れやかな顔であった。
「じゃあ、明日の十時には友達も連れてくるから。」と言って施設の人は帰っていった。施設の人が帰ったあと、由美子は急に黙り込んでしまった。加奈子は別れるのが寂しいのだろうと思って、あえて言葉をかけることは憚った。
 その晩、由美子は眠るように亡くなった。心臓麻痺であった。

 正志は半年ほどで退院したがギブスはさらに半年つけたままであった。松葉杖をつきながら学校に通った。あれほど運動が好きであった正志は、性格が変わってしまったかと思うほど外に行かなくなってしまった。正志は由美子が言った「正ちゃんにはまだ一杯やることがある。」という言葉が心にずっと残っていた。僕にはやることがある。それを見つけなくてはならない。そのためにはどうしたらいいのか。正志は由美子の顔を浮かべながら考えた。しかし、いくら考えてもわからなかった。そうして悶々とすごしていたが、ある晩夢の中に由美子が出てきた。
「正ちゃん、それはね正ちゃんが大きくなるとわかることなの。今はいくら考えてもわからないわ。」と言ってにっこりと笑った。 
(十) 
 健吉は順調に商売を伸ばしていた。八百屋から総合食料品店へと形態を変え、店も三店舗に増やすまでになっていた。若い頃丁稚奉公をした経験が生かされて商売のセンスは抜群であった。
 健吉が丁稚奉公で学んだことは、こまめにノートがとられており、精神的なことから具体的方法論までノートにして十冊ほどになっていた。和子はそれを見て、この人は学歴こそないがなんて頭がいいんだろうと思った。精神論のはじめに商売の基本は誠実と勤勉にあり、とあった。長々と精神のありかたが述べられた後、方法論が書かれていた。商売の基本は第一に仕入れにあり。いかにいいものを安く仕入れるか、それには、人より早く仕入先に行き掛買いをせず現金を持って交渉にあたること、とあった。、健吉は成功してからもかなりの間これを実行していた。仕入れに行くときは、朝早く起き、現金をアルミの弁当箱に入れて出かけた。当時は掛買いが普通におこなわれていたが、現金払いによって少しでも安く仕入れようというものであった。次に情報は健吉が最も重要視していたことであった。まだ金がないときから情報誌を買って読んでいた。
健吉はこれからの食料品店はスーパーマーケット方式になることを予感していた。本格的にやるには東京に出て行かなければ駄目だと言うのが口癖になっていた。しかしながら加奈子は不安であった。加奈子には、もう十分に成功したからいいじゃないかという気持ちがあった。和子もまた拡張には消極的であった。ただ二人とも商売に関しては健吉にまかせるしかないと思っており、面と向かって反対とは言えなかった。
 やがて健吉は東京に進出することを決心した。。和子はもっぱら水戸の店舗をみて、東京は健吉にまかせるかたちになった。
 東京に行って、まずやることは場所の選定である。健吉は取りあえず丁稚奉公時代勤めた場所を隈なく歩いてみた。当時とはあまりにも変わっており、まったく見当もつかなくなっているところもあったが、そうしたなかで、浅草に比較的長く勤めた乾物店があった。店は建て直されており昔の面影はなかったが、たしかに健吉が働いていた店である。店先から中を覗いてみたが知らない人ばかりであった。代が代わったのであろう。健吉がいた頃は活気があったが今はひっそりとしている。昼過ぎでもあり時間帯にもよったかもしれない。健吉は多くのことをこの店で学んだ。ここの主人は大学出のいわゆるインテリーであった。しばらくサラリーマンをしていたが、父親が倒れたのを機にあとを継いだのである。健吉が勤めた多くの店主とは一味違っていた。何事にも理屈があった。四の五の言わずに、とにかくやれなどとは言わない。これこれこうだからやれ、と言うのである。健吉は直情径行型であったが、健吉の怒りはいつも頭ごなしの命令にあった。若かりし頃、ここで俺も店を持ち主人と言われる身分になってやる、と自分に言い聞かせながら働いた日々を思い出した。今こうして自分の店を持てるまでになったことは夢のような気がした。兄貴が生きていたらきっと喜んでくれただろうにと思うと胸が痛くなった。正志は兄貴に似て勉強が出来る。足は少々わるくなったが、きっと立派な人間になる。天国で見守ってくれ。健吉は空を見上げて呟いた。一号店は浅草に決めた。
 時代に乗るとはこのことであろうか。健吉の見込みはことごとく当たった。スーパーマーケット方式は店舗形式の最先端と話題になり次々と店舗を増やしていった。
 そうした一方で、健吉の女遊びは遊びを越えることになる。東京に二号を作ったのだ。和子の耳にやがてこのことが入ってきた。もうその頃は和子も諦めていたものの、人間の幸せは金持ちになることだけじゃない、とつくづく思うようになっていた。今考えると、無我夢中で働いていた結婚当初は幸せであった。貧しかったが、健吉と二人で明日はなにを仕入れて売ろうかなど話し合ったものである。心がひとつになっていた。それに比べると、お金は当時には予想もできないくらい貯まったが、いつのまにか健吉の心は自分から離れていってしまったように感じられた。相変わらず日常では健吉は何も変わったことはなかったが、和子はけっして今の自分が幸せとは思えなかった。世間からみれば羨ましい生活を送っていたが心が充たされない。しかし、和子はこの充たされない状態が自分の人生なんだと思うことに慣れてしまっていた。人生を振り返ると幸せなときが何度かあったような気がするが、それはいずれも、その真っ只中にいるときは幸せとは思っていないことばかりであった。人生はすべて思い出の中にあり、和子はいつしかそう思うようになっていた。
(十一)
 正志が高校に進学してまもなく、加奈子の体調がすぐれなくなった。すでに七十五歳になっており体力の衰えが目立ち始めていた。健吉は加奈子のために別荘を買おうとしたが、加奈子は静かな湯治場がいいと言い、結婚してまもなくの頃、直之助と行った福島の沼尻温泉に行きたいと言った。それから毎年夏になるとそこへ行くようになった。

 正志が高校三年になりいよいよ来年は大学受験となった夏、正志は健吉に、
「ばあちゃんのとこへ行っていいかな」と言い出した。 
「そうだな、あそこなら勉強も捗りそうだし、ばあちゃんも喜ぶだろう。行ってきなきな。」と言った。健吉は正志が来年受験するT大に受かってくれることを心待ちにしていた。兄伸介に正志を立派に育てると約束したことが果たせるという思いであった。

 沼尻温泉は安達太良山の麓にある閑静な温泉宿である。加奈子がいる宿以外は人家はない。人家を訪ねるには車で30分ほど下らねばならない。加奈子が直之助と行ったときの建物は取り壊されて新しくなっていたが、それもすでにかなり老朽化していた。すぐ隣に新館が建っていたが加奈子はあえて昔のなごりが感じられる旧館に居た。正志が着くとお伝いのせつが丁寧に挨拶をして「おばあさまがお待ちですよ。」と言って荷物を持って部屋へ案内した。正志の部屋は加奈子の隣になっていたが、真っ先に加奈子のところに行って挨拶をした。加奈子は伸介を駄目にしたのは自分が伸介を可愛がりすぎた為と思っており、正志には内心を押し隠し厳しく接するようにしていた。
「どのくらい居れるんだい?」
「長くて二週間かな、模擬試験もあるし。」
「ここは静かだし、しっかり勉強しなさい。」
「そうだね。でも思ったより暑いね。」
「ここも三時を過ぎないと暑いよ。でも空気がきれいだから気持ちはいい。」加奈子は団扇で扇ぎながら微笑んで言った。加奈子はこれまで随分と悲しい目に会ってきたが、今こうして伸介の子が自分の前にきちんと座り話をしているのを聞きながら、よかった、本当によかったと心から思うのであった。伸介や幸子にたいする恨みが加奈子を気丈にさせ、これまでやってきたが、正志の姿を見ているうち、幸子にたいしても、正志を生んでくれてありがとうという気持ちに変わってきていた。

 静かであった。耳を澄ますとシーンという音がする。それでも朝五時を過ぎると決まって蝉がいっせいに鳴きだす。正志はここへ来てから朝が早くなった。蝉に起こされるのである。来た当初は布団の中でうつらうつらしていたが、意を決して起きてみた。起きてみると意外に爽やかであった。宿の前には池があり鯉が十数匹ほど泳いでいる。皆まるまると太っている。錦鯉と普通の鯉が半々である。池の真ん中辺りに石が置いてあり、そこに亀が二匹いた。正志は庭のいすに座ってしばらくそれを見ていたが、ふとこの先はどうなっているのだろうと思った。一面雑草が正志の腰くらいまで伸びている。道らしい道はなかったが、よく見ると人一人がやっと通れる道があった。正志はそこを行ってみようと思った。
 しばらく曲がり道をくねくねと歩いていくと、視界が急に広がり、真っ青な空に周りの山々が稜線をくっきりと見せていた。なぜか夏だというのに赤トンボがやたらと飛んでいた。やはりこのあたりは涼しいのであろうと、妙な感心をしながら先へ進む。しばらく草原のようなところを進んで行くと崖になっていた。崖の下にはどうやら小川が流れているようであった。正志は下に降りる道がないか辺りを見回した。一本の松の木の脇にそれはあった。下へ降りはじめるとかすかに滝の音が聞こえる。それは道を曲がると急に大きくなった。それほど大きな滝ではないが静寂を破るに十分な音であった。下まで降りきると、東屋があり、長いすと小さなテーブルが置いてあった。滝の落水のしぶきが足元近くまで飛んで来る。さすがにここはひんやりと涼しい。正志は思いもかけず、これはいいところを見つけたと思った。
(十二) 
 ここへ来て一週間が過ぎようとしていた。当初思ったほど勉強は捗らなかった。昨日見た娘のことが妙に気になっていた。どこか由美子に似ていた。歳はおそらく自分と同じか少し若いようにもみえる。宿の庭のいすに座ってぼんやりとしていたら原田がやって来た。二日ほど前同じようにそのいすに座っていたら原田のほうから話しかけてきたのだ。簡単な自己紹介をしたあと取り留めのない話をした。慶応生で、ほとんど出来上がった卒論の仕上げに遊びがてら来たらしい。
「骨休めですか。それにしても受験は気が重い。」
「僕自身は一年くらい浪人してもいいかなとは思っているのですが、家族に期待されているのがどうにも・・・」
「まあ、誰でも進学しようと思う人は一度は通らなくちゃならない道だから仕方ないですよ。気晴らしでもどうかな。」そう言って原田は、続けた。
「この前卓球場で知り合った女の子がいるんだが、東京の短大生で夏休みで二人で遊びに来ているらしい。あの子等と山登りでもどうですか。あっけらかんとしていて気を遣わなくていい。君さえよければ彼女等に言ってみるけど、どお?」
「山登りですか。僕は足が悪いのでどうかな。」
「えっ。足が悪いの?気がつかなかった。普通に歩いているようだけど?」
「小学五年のとき悪くなったのですが、歩くぶんには不自由はありません。」
「山登りといってもハイキングみたいなものだし、無理にとは言わないが、僕が見た感じでは大丈夫だと思うけど、どうかな」
 正志はここのところ気が晴れず思うように勉強が手に付かなくなっていた。小考したあと、
「あまり自信はないけど行って見ますか。」と言った。
「じゃ明日七時半にここで待ってて。」
「彼女らに断らなくていいのですか?」
「大丈夫、君が一人増えるだけだし、三人より四人が良いにきまってますよ。」原田は自信たっぷりに言った。正志は原田が既に女の子達と三人で行くことを約束をしていたことに驚いたが、大学生になるとこういうことは珍しいことではないのかもしれないとも思った。
 翌朝正志は六時に起きて朝食を済ませ、例の散歩道に出かけた。歩きながら由美子に似ている子のことを考えていた。おそらく原田が誘った子等の一人は彼女だろう。原田が短大生と言っていた。由美子と同じ歳かも知れない。正志はこれまで女の子を見て由美子のことを思い浮かべたことはなかった。由美子が死んでもう六、七年になる。しかし正志は由美子の顔をも由美子に言われたこともはっきりと覚えていた。今でも由美子の声が聞こえる。「正ちゃんにはやることが一杯あるの。」「大きくなったら分かるわ。」この言葉は正志の脳裏から離れることはなかった。
 東屋まで来ていすに座ろうとしたとき、後ろにすっと人の気配がした。正志ははっきりと由美子が「お久しぶり。」と言ったのを聞いた。驚いて振り返ったが誰もいない。気のせいかと思ったが、今聞いた声は間違いなく由美子の声であった。正志は思わず「お姉ちゃん?」と呼んでいた。すると「正ちゃんがしなくちゃいけないことがもうすぐわかるわ。」という声が再び聞こえた。正志はおもわず目を瞑った。由美子の声をしっかりと聞こうと思ったからである。「もう私のことは忘れて頂戴。いままで覚えていてくれてありがとう。」という声を最後に何も聞こえなくなった。正志はしばらく呆然と立ち尽くしていた。気がつくと滝の音がザーッと聞こえてきた。
(十三)   
 正志は約束の十分前に戻るとすでに女の子が二人来ていた。一人の子はたしかに由美子に似ていた。ただ、由美子がいつも寂しげな様子であったのにたいし、明るくたえず微笑んでいた。身体は由美子と似て細く色も白い。いっっぽうの子は背格好は157,8センチで同じくらいであったがどちらかというと体育会系で若干逞しくみえた。由美子に似た子の名前は藤本直子、もう一人の子は新藤まみといった。原田が言ったように二人とも東京の短大生で、来年卒業なのであちこちの温泉巡りをしているという。正志が自己紹介をすると、
「あら、大変ねぇ、受験じゃぁ。でも一日くらい大丈夫よね。」と新藤が言った。
「一週間、いや一ヶ月位大丈夫です。」と正志が言うと、「たいした自信ねー。」と言って二人は顔を見合わせて笑った。
 原田は十分ほど遅れてきた。
「やあ、遅れてすまんすまん。」と言いながら小走りに走ってきた。
「ところで、みんなは山登りの経験はある?あっそうか山本君はなかったね。君たちは?」と言って二人の女の子のほうを見た。
「私はないけど、直ちゃんはどう、ある?」と新藤が直子に言った。
「高い山ではないけど子供の頃よくお父さんに連れて行かれたわ、あれは山登りとはいわないか。」と言って直子は笑った。
「いまから登るコースは比較的なだらかなところところなので初心者でも心配はないが注意事項を二、三言っておきます。」原田は山岳部ではないが大学に入ってからいろいろな山に登っていた。
「山は生き物でしかも変化が激しい。絶対に無理をしないこと。コースを外れないこと。それに一人にならないこと。なるべく全員で一緒に登るように心がけるが、これまでの経験では各自脚力が違うのでどうしても離れてしまうことがある。それで二人一組ということで、僕と新藤君、山本君と藤本君ということでお願いします。」原田は引率者みたいな口調で言った。原田は一応昨晩のうちにリスクについて考えてきた。一番危惧されるのが一人になり、コースを外れてしまうことである。おそらく山本は後半バテルだろう。藤本も見たところ体力はそうなさそうだ。どうするか。二人一組のアイデアはそのとき浮かんだものであった。
「それでは出発しますか。」原田の合図で四人は山にむかって歩き出した。原田の思ったとおり、三人はずんずん進んでいく。初心者にありがちなことである。原田は三人が前を行くのを見やりながらゆっくりと登っていた。ところが登り始めて一時間が過ぎる頃になって原田の予想通りまず藤本が遅れだした。それに付き添うように正志も遅れ始めた。
「急がなくてもいいから、マイペースで登るように。」原田が声をかけながら前を進んでいく。新藤は原田にしっかりとついて歩いていた。登り始めたときのわいわいとしたおしゃべりはもうなくなっていた。しばらくすると、いつの間にか原田、新藤組が見えなくなっていた。
「すこし休みたい。」と直子が正志に言った。正志も限界に近くなっていた。
「休みますか。」と言って自分もほっとした。
「思ったよりきついですねー。疲れた。」二人は腰掛のように突き出た岩に腰を下ろした。ときどき登山者のグループに出会ったがウィークデイということもありあまり人には出会わなかった。直子は本当に疲れたらしく少し顔が上気していた。
「それにしても彼等はタフだな。原田さんは別として進藤さんはよく付いていってますね。」
「彼女は陸上部だから。」
「陸上部ですか。それならわかる。」
 十分ほどして、そろそろ出発しようとしたとき、突然風が強くなってきた。西の空を見るとピカッと光った。
「藤本さん、来そうですよ。」と正志が言うと「怖いわ。」と言って直子はいまにも泣き出しそうな顔をした。
「とりあえず雨宿りができそうなところを探しましょう。」と言って周りを見渡した。高い木はないし、それに雷はむしろあぶない。困ったと思って先を急ぐとコースから少し左にはずれたところに岩が突き出たところがあった。みるみる真っ黒な雲が迫ってきてザーッと降り出した。と同時に雷が落ちたかと思うような光と雷鳴がなった。二人は突き出た岩の下に入ったが二人入るのがやっとの狭さであった。直子は正志の腕を掴んで、顔を肩に埋めてきた。掴まれた右腕が直子の乳房を感じた。再び一際大きな雷鳴とひかりが山を襲った。直子は小さく「きゃぁ。」と言ってさらに身体を正志に寄せてきた。そうして雷は十分ほど大きな音を立てていたが、雨が小降りになると急に小さくなり、空もスーと晴れてきた。いつの間にか二人は抱き合っていた。直子の女の子の匂いが正志を痺れさせていた。自然に二人は唇を合わせた。
 「おおーい、大丈夫か。」と言う原田の声がかすかに聞こえ、二人ははっとわれに帰った。急いで岩陰から出てコースに戻ると、原田と新藤が上から降りてくるのが見えた。
(十四)
 翌日、さすがに疲れて正志はぐっすりと眠った。せつの声で目を覚ました。
「お坊ちゃま、おばあさまがお呼びですよ。」
 正志は慌てて飛び起きた。時計を見ると九時を回っていた。小言を言われるのは覚悟していた。
「わかった。いますぐ行きます。」とこたえてから急いで顔を洗い、身なりを整えて加奈子の部屋に行った。加奈子は正座しており、正志を自分の前に座らせるとはっきりとした声で言った。
「大変なことが起こりました。健吉が昨日の夕刻倒れたと和子から連絡がありました。いまから帰らなければなりません。すぐ支度をしなさい。」
「ええっ、伯父さんが倒れたって?本当ですか?」正志は信じられなかった。あんなに元気な人が倒れるはずはないと思った。
「それで、容態はどうなんでしょう。」
「和子も慌てていて要領を得ないのではっきりとはわからない。国立病院に入院したそうだ。いずれにしてもすぐ帰らねばまりません。」加奈子は七十歳過ぎとは思えないしっかりとした態度で正志に言った。
 正志は支度を終えて正面玄関に降りていった。帰る前に原田と二人の女の子、とくに直子に挨拶をしたかったがすでにタクシーが待っていて、加奈子は乗っていた。正志は宿の人にメモを頼んだ。昨日のお礼と、急用が出来て急遽帰らなければならなくなったこと、それに、水戸の連絡先を書いたものである。三人によろしく伝えてくださいと言うのが精一杯であった。タクシーで郡山駅まで行き、そこで三十分ほど待って水郡線水戸行きの列車に乗った。加奈子はほとんど口を利くことはなかった。何かを考えているようであったが正志にはわからない。
 水戸に着くと和子の子京子が迎えに来ていた。荷物はせつに任せて、国立病院に直行した。
 病室に行くと和子がいた。和子は加奈子を見ると泣き出した。加奈子は和子の前に行き、はっきりとした口調で、
「お泣くでない、で容態はどうなんかえ。」と言った。和子は姑のその気迫に押され、泣くのをやめた。
「はい、お母さん、お医者さまが言うのには脳の出血で、蜘蛛膜下出血というようです。出血部分を手術することになるが出来るかどうかは、これから検討すると言われました。可能性は低いと言われました。」と言ってまた泣き出した。和子と京子はずっと泣いていたが、正志は健吉の顔をじっと見続けていた。健吉は普段の顔をしていた。眠っているのではないかと思えるような穏やかな顔をしていた。加奈子は医者のところにいくと行ってしばらく帰ってこなかった。やがて帰ってくると、
「ここ二三日が山のようです。」と言って、和子を別室に連れて行った。加奈子は医者に言われたとおりのことを和子に言って、「いいかえ、お前さんがしっかりしなくてはいけないよ。これからのことは正志、京子を入れて話し合わねばなりません。おまえさんがどうしたいのかよく考えておくように。」和子はただ頷くばかりであった。
 これまで商売のことは健吉が一人で切り盛りをしてきただけに山本家にとっては一大事であった。万が一の場合加奈子にはひとつの覚悟があった。沼尻からの帰り道そのことを考えていた。健吉には尋常小学校を出るとすぐ丁稚奉公に出した。この非情がいまの商売の成功になった。一方、伸介は身体が弱いということもあったが進学の道を選んで結果失敗した。当時と今では時代が違うが、加奈子にはこのことが頭から離れなかった。
 三日目の朝、健吉は一度も意識の回復はなく亡くなった。和子は自分がこれほど健吉を愛していたのかと思うほど悲しかった。その日は一晩中泣き明かした。
(十五)
 葬儀を終えてから、三日目、加奈子は家族会議を開いた。当面の問題は店をどうしていくかである。正志と京子はまだこの問題には口はだせない。水戸の店は和子がみており、問題は東京である。東京の店も三店舗になっており、水戸をみている和子がみるのは明らかに無理であった。そこで加奈子は驚くような提案をする。私が東京に行く、というものであった。正志は真っ先に「ばあちゃんそれは無理だ。そんなことしたらばあちゃんまで死じゃう。」と反対した。和子も「お母さんそればかりは止めてください。」と言った。加奈子は続けた。
「私は商売は出来ない。しかし店の経営は出来ると思っている。幸い、商売は一番番頭がいて任せられそうだ。しかし、わたしも歳だ。長くは続かないことはよーくわかている。」と言って正志の方をみた。
「正志、お前が高校を卒業したら、みなさい。」と言った。加奈子の言葉には威厳があった。しばらくは誰もこの加奈子の意外な提案に言葉を失った。しばらくして、ようやく和子が口を開いた。
「正ちゃん、それでいいの?」。和子は健吉が生前「俺は学校へ行けなかった。正志には俺の経験はさせたくない。それにあいつは兄貴に似て頭がいい。きっとT大に受かるだろう。兄貴も喜んでくれるだろう。」と事あるごとに言っていたのを思い出したからである。正志にはどうしていいかの判断が出来なかった。T大に進学して将来なにになろうという具体的な考えがあったわけではない。ただ単にT大に受かる学力があるというだけであった。それになによりも育ての親となった健吉がT大進学を望んでいた。また学校の仲間の間ではわけもなくT大の合格は人生での成功を意味していた。正志はそうした周囲の雰囲気に流されていただけであった。正志が黙っていると、加奈子は
「いまの時代だから命令するわけにはいかない。とりあえず、当面は私が東京に行く。いいね。」と言って自分の部屋に入ってしまった。
 正志はどうしていいかわからなかった。いままで頑張ってきたのは進学するためであった。しかしよく考えるとT大に受かれば仲間たちが言うように人生の成功者になれると漠然と考えていたに過ぎない。日本は学歴社会だと口癖のように健吉は言っていた。確かに大会社に入ることや官僚になるには学歴は必要であろう。それぐらいは正志にもわっかっていた。しかし、今の正志にはそういう身分になることは必ずしも魅力があるとは思えなかった。しかし、商売人になって金儲けに奔走するのも何か違うという気がした。
 正志は悩んだ。最愛の祖母の言葉は簡単には扱えない。といって、自分を殺して生きるわけにはいかない。悶々として半年が過ぎた。一方加奈子は自分が言ったとおりせつを連れて東京へ行ってしまっていた。
 加奈子の様子を伺いに正志は月に一度は東京の加奈子の住まいに行った。加奈子はあれ以来、正志の進学のことについて何も言わなかった。店の方は一番番頭がなにくれとなく加奈子を立てながらうまくやっていた。
 年も明け、いよいよ受験が迫ってきた。正志が最後の模擬試験を受けに東京へ行ったとき、加奈子の家に一匹の仔猫が舞いこんできた。どうやら床下に入り込んだらしい。手を尽くして捕まえようとしたが出てこない。あきらめて眠りにつく頃、仔猫は鳴き出した。眠れない。明日は試験がある。正志は腹立たしさに耐えていた。しばらくそうした状態にあって、正志ははっと気付いた。気付いて、思わず身体が震えた。あの仔猫はかっての自分だ。親に捨てられて鳴いている。今でこそそうした境遇を忘れる位置にいるが、自分の原点はあの仔猫と同じだ。そしてまた、はっとした。由美子の言葉が蘇ってきた。「正ちゃん、あなたにはやることが一杯あるの。」、「もうすぐわかるわ。」由美子の声が脳裏をかすめた。
 正志は確信した。そうだったのか。自分に与えられたやることとは床下に入った仔猫を救うことなのだ。そういう生き方をすることが自分に与えられたことなのだ。長年悩んできたことの解決の糸口が見つかったような気がした。ようやくここまで辿り着いた、という思いであった。仔猫の鳴き声を聞きながら何度も何度もそうだったのかと呟いた。、そう考えると、進学するか店を継ぐかは問題ではなくなった。それは枝葉の問題で、どちらに進もうが要するに生き方なのだ。
 翌朝、模擬試験場に向かいながら正志は昨晩気づいたことを由美子に「そういうことをお姉ちゃんは言いたかったんだよね。」と心の中で確かめていた。由美子がにっこりと微笑んでいるような気がした。(了)

さようなら

若干筋を追いすぎたか感は否めない。もう少し丁寧に書いたほうがよかったかもしれない。終わり方も自分としてはどうかなとおもっている。忌憚ないご意見をお願いします。

さようなら

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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